ヨコアナ
7.彼の足跡
獣が威嚇する様な男達の声が、室内に響く。
建物内に反響する音に、さっきからなんとなく感づいてたけどどこかの倉庫なのかなとぼんやりと考えていた。
「ラストさん、ロイガさんが」
「ああ、知ってる」
俺の言葉が言い終わらない内に叫び声が聞こえる。
鈍い音が一緒だったから、まず一人潰したのだろう。
「アセクト、余裕見て俺の縄解ける?」
「あ、はい……やってみます」
足しか縛られていないアセクトは、監視さえ居なければ簡単に自由になれる。
まず状況だけでも把握するために目隠しが外されると、ようやく光が視界に戻ってきた。
音のする方向を素早く見ると、案の定虎の大男が暴れている。
気絶する前にポケットに忍ばせていた携帯からコールしたのが合図で、探しに来てくれたのだろう。
ただその表情は、やっぱりあの時と同じ様に恐ろしかった。
「見たくなかったな……」
勝手にロイガを置いていって、勝手に助けを求めたのは俺。
すべて俺のせいだというのに、こんな事を今また言ってしまう。
それでも、そのぐらいロイガは別人になっていた。
俺とやり合った時の様に装備で身を固め、ついでに人質まで取って暴れている。
人質を取るなんてやり方は汚いけれど、銃弾相手には生き物の盾は都合が良かった。
仲間意識が強ければまず頭部や胴体を狙われたりはしない。
大体、人質って言うなら俺達が既にそんな感じなのでこれで五分五分だろう。
「解けました」
「あんがとさん」
立ち上がると口元を軽く拭う。
「うわっ、すっごい量」
「ごめんなさい……」
「まあ、まだ固まってないからいいよ」
これで固まってたら本当に酷い事になってただろう。
精液を拭いつつ、最後にちょっと摘まんでから俺も戦闘態勢に入る。
まず傍に居た二名にかかと落としと回し蹴りをそれぞれ決めて、人質の確保。
ロイガが派手に暴れてくれているのが助かった、もし俺が自由になるより先に俺達を盾にされたらロイガもどうしようもない。
あとは傍観しているだけでよかった、ロイガの鉄拳の前では生身の体なんて紙くずの様なものだ。
俺に加減をした様な扱いはしないから、一度でも攻撃を食らったら相手はまったく動かなくなるし、血溜まりが量産される。
「……ちょっとやりすぎだな」
何人か殺してしまいかねない。
相手の戦意も既に感じられないし、仕方なくアセクトを安全な場所に移してから俺はロイガの前に躍り出た。
「ロイガ」
俺の言葉にその動きが止まる。
銃撃されないか注意を払っているけれど、ロイガの圧倒的な力の前ではそんな気配も感じられなかった。
血走った目が俺を睨む。
「もう、いい」
「駄目だ」
あの時の様に声を掛けるけれど、ロイガは俺を拒否する。
「ロイガ!」
制止を振り切りロイガの暴力は再開される。
血反吐が武器に飛び散り、ロイガの頬と腕を濡らす。
ロイガは、どうしてしまったのだろうか。
そんな疑問を浮かべて、俺は今更の様に答えを見つける。
俺が危険だったからだ。
あの時も、今も、共通するのはそれだけ。
加えて、相手はあの時よりもずっと危険だった。
乗り込んだ先で銃を突きつけられた俺を見て、何かが切れたとしか思えなかった。
その腕を掴もうとして、振り払われる。
尻持ちをついてもロイガは振り返ろうとしなかった。
自分の後ろに居るのだから安全だと、そう思っているのかも知れない。
「ラストさん」
傍に来たアセクトが、ロイガの事を怯えた瞳で見ている。
「……そんな目であいつを見ないでくれ」
「え?」
「俺のせいなんだ」
ゆっくり立ち上がって、ロイガを見つめる。
口元は僅かに微笑んでいる様にすら見えた。
これが、ロイガの本性なのかも知れないと束の間考える。
だとしたら、あの時の様には止められないかも知れない。
でも、引く訳にはいかなかった。こんなロイガを見たくなかったから。
「ロイガ!」
拳を振り上げたロイガの懐に飛び込む。
さすがに俺を殴り飛ばす訳にはいかないのか、今度はしっかりと止まってくれた。
「退け」
短く、威圧する様な言葉。
俺はただ首を左右に振った。
背後からは震える息遣いが聞こえる。
「駄目だロイガ、殺人犯にでもなりたいのか」
「こんな奴ら殺したところで問題ないだろう」
その言葉に、絶句する。
「お前は殺されるところだったんだぞ」
続けて飛び出すその言葉。
正当防衛も成り立つと言いたいのだろうか。
ゆっくりと辺りを見渡す。
ロイガの歩いた分だけ、血の跡が続いていた。
そして、血塗れのロイガの姿。
「駄目だよロイガ……俺は、お前にそんな風になってほしくないんだ」
「だったら、黙ってお前が殺されるのを見てればいいのか?」
「そうじゃないよ、でも」
言葉が上手く伝えられない。
それでも、どうにかしないとこのままでは死人が出る。
それだけは避けたかったし、避けなければならなかった。
そうなったら、もうロイガと一緒には居られないのだから。
懸命に言葉を選んでいた俺の背中に不意に熱を感じる。
遅れて少し冷たい感覚と、痛み。
背中から腰に掛けて、白刃が俺を切り裂いていた。
アセクトの悲鳴に近い声が聞こえる。
それで、大分自分の身体が切られているのだと理解した。
溢れだした血が流れて、体内に未だ存在する冷たい刃を温めながら身体を伝う。
「ラスト」
叫ぶ様なロイガの声。
珍しいな。何があったって、いつも静かなのに。
膝を突きそうになってロイガに支えられる。
ゆっくり顔を上げて見えたロイガの顔は、今まで見たどの顔とも違っていて、
ただ悲壮感を漂わせていた。
「……ロイガ」
名前を口にしたつもりだったけれど、音としてはほとんど出なかった。
ロイガの瞳が、更に紅くなった。
座り込んだアセクトに身体を抱かれて俺はロイガを見つめていた。
「ラストさん、大丈夫ですか?」
「平気だよ」
溢れた血がまた新しい軌道で身体から落ちていく。
温くて、でも通り過ぎたら今度はひんやりと冷たい。
「寒いな」
「しっかりしてください」
涙を拭いもせずに、アセクトは服を脱ぎ俺の腰を覆ってきつく当ててくる。
痛みを感じて声を上げるけれど、少しでも出血を減らすためだから仕方ない。
アセクトの身体に両手をついて、必死に顔を動かす。
「動いちゃ駄目です」
どうにか顔を上げると、視界から外れていたロイガを見つけた。
「ロイガ」
弱々しく呟いた声は届かない。
俺が流した血の分を奪い取るかの様に、無表情に一人一人を始末していくその男。
紅く染まるその姿。
「アセクト、傷口を少しきつく縛ってくれ」
「はい」
袖の部分を引っ張り、腹の前に結び目ができあがる。
アセクトの大事な制服が血に染まるけれど、今の俺では色の区別も上手くできなかった。
しっかりと縛られた事を理解すると、俺は力を入れて立ち上がる。
「ラストさん駄目です!」
アセクトの腕を擦り抜けて、最後の力を振り絞って走った。
一歩踏み出す度に、ロイガの殺気に当てられるその度に、傷口からは血が流れていく。
俺の身体から少しずつ命が流れていく。
足を止める訳にはいかなかった。
その腕を掴んで俺は寄り添う。
振り返りもしない癖に、身体の動きをロイガは止める。
「ごめんな、もういいよ」
「……俺がお前を護るんだ」
ロイガの瞳がこちらを見る。
「離れていろ」
何も言わずに俺は首を横に振る。
それが限界だった、足元から身体が崩れ落ちる。
ロイガが俺の身体を支えた。
血塗れの腕なのに、やっぱり安心できるロイガの腕の中。
ロイガの攻撃が止んだと同時に、低い声の周りに居た男達がこちらに向けて構える。
「やめておけ」
低い声が呟いた。
「死ぬだけだ」
その言葉を聞いて、俺は口元に笑みを浮かべる。
これ以上何かあっても俺はもうロイガを止められないのだ。
気を失う間際に見た低い声の男は、獅子人の姿をしていた。
清潔な香りが鼻を突いた。
清潔な香り。なんて漠然としてるけれど、鼻の良い俺にとってはそれが丁度当てはまる言葉だ。
薄らと瞼を開くと白い天井が見える。
もしかしなくても、病院である。
薄暗い室内に微かに射し込んだ陽の色が、まもなく夜の帳が下りる事を教えてくれた。
「なんかこういうの多いな俺……」
ここ最近多発するこの自体に苦笑いを零す。
ロイガが来てから、なんだかんだで結構大変だったからな。
右手をそっと伸ばして腰の辺りを探ると、激痛が走り思わず喘ぐ。
丁度その時、部屋の扉が開かれた。
「ラスト」
「……よう、ロイガ」
トイレにでも行ってたのか、少し驚いた顔をしてからロイガは慌てて歩み寄ってくる。
「具合はどうだ?」
「うーん、今起きたところだしよくは……ここ、病院だよな? 運んでくれたの?」
俺の問いに、ロイガは順序良く説明をしてくれる。
結局、連中を見逃すという事で事態は一応の決着を見せていた。
アセクトが無理に捕まえる事もできたけれど、俺の身体を優先してくれたみたいだ。
再び現場に戻った時に居たのは、虫の息だった数名だけ。
多分、そいつらは下っ端って事もあるんだろうけど、それ以上に死にかけていたから、
あえて置いていったのだろう。
血で染まった部屋に、それ以外の物は何も残っていなかったという。
「……マスターは?」
「白だ。どうやら、あの辺りに何か別の用事があったらしい。それは本人に聞いた」
「聞いたって……マスターに話したのかよ」
「何でも屋の事は話していないが、お前はこんな有り様だ。しばらく休息は必要だろう。
あれから二日も経っているんだぞ」
二日って、随分長い間寝てたんだな俺。
「医者はなんて?」
「出血が酷かったくらいで、命に別状はないそうだが二週間はベッドの上だ」
「に、二週間……」
治療費どれだけ吹っ飛ぶんだ。
いやいや、マスターの身の潔白が証明できたのだしこのくらいは。
ああでもこのままだとクビにされそうだ。
「やっぱクビだよなー……ここ最近も酷かったけど、最低二週間は出られないんじゃ」
そもそも二週間経って起き上がれる様になったからって、そのまま仕事に行ける訳ではない。
接客もしないといけないのに、痛みで顔が引き攣ってたら話にならないだろう。
「いや、そこは大丈夫だ。俺が出る」
「それは嬉しいけどさ、でも俺自身はやっぱ駄目な気がする」
「……仔細を聞いたマスターはそう言っていた」
どこまで話したのやら。
何でも屋の事は出さなかったみたいだし、色々齟齬も生まれるだろうに。
まあ、マスターも俺が何かしてるのは知っているからそこを忖度してくれたのだろう。
「マスターには俺から一度話しておくよ。ありがとなロイガ、迷惑ばっかり掛けちゃって、ごめん」
本当に、ロイガには面倒を掛けている。
そう思って口にした言葉なのにロイガは途端に表情を曇らせた。
「……俺は、お前を護れなかった」
「何言ってんだよ、俺が勝手に飛び出してっただけだろ。
間に合っただけでも充分だって」
下手したらあの世に行ってたし、ロイガの助けが無かったらどうなっていたのやら。
「すまない」
「どうしたんだよ、ロイガ」
いつもみたいに皮肉でも言ってくれたらいいのに。
俺を寂しげに見つめるその瞳が、傷よりも痛く感じた。
「俺は、またお前を怖がらせた」
「それは俺を護るためだろ。まあ……殺しちゃわないか、心配だったけどな」
ほとんどの奴は重傷だったけど、死人は出なかったと聞かされ俺は安堵する。
「ああいう相手だから多少の事は仕方ないけどさ、やっぱり……殺すのは嫌だよ俺」
「そうか」
「ロイガは……嫌じゃないのか?」
俺の問いに、ロイガは答えない。
それが俺とロイガの違いの様なものだった。
ぬるま湯で生きてきた俺なんかとは、ロイガは違う。
「俺は……お前の嫌がる事は、したくない」
「なんだそりゃ」
思わず笑みが零れる。
笑った拍子に身体が痛んで、思わず呻き声が出た。
身体を震わせていると不意にロイガが俺を抱き締めてくる。
「ここじゃ駄目だからな」
「俺がそんなに節操の無い男に見えるのか」
痛みを感じながらも、それでまた俺は笑う。
よかった。いつものロイガだ。
「結構ケダモノだろー? 黙ってれば綺麗な体毛の虎なのになあ」
「お前だって、いい声で啼いてよがってるだろ」
「ば、バカ!」
顔を熱くしながら喚くけど、ロイガの言葉は間違いじゃない。
何も知らなかった俺は、あいつに散々仕込まれたせいでそっち方面に目覚めてしまったから快楽に弱い。
加えて、最近はロイガにされているものだからすっかり流されやすくなってしまった。
「……お前にさせてばっかじゃ、駄目だよな」
「お前がしたくなったらでいいさ。今は回復に専念しろ」
いつもの様に頭を撫でられて、俺は控えめに布団の中を尻尾を振る。
傷の痛みは酷いものだけど、今は我慢できそうだった。
服に手を掛けると、俺は素肌を晒す。
感じる視線に僅かに身体を固くしつつも、今は耐えた。
「これが傷だ」
「また、随分大きいのを貰ったな」
俺の傷を見て、ガロがふむと考え込む。
「ごめん、これじゃもうモデルなんてできないよな」
腰の少し上から、尻の手前まで斜めに入った傷。
体毛で誤魔化せるけれど消えはしないし、表面に僅かに違和感が残る。
私生活で問題はなくとも、絵のモデルにはなれはしないだろう。
そう言ってガロを見ると俺は頭を下げた。
一応は依頼人で、これからはその依頼を受ける事ができなくなる。
申し訳なくて頭を下げる他無かった。
「……勘違いしてもらっては困るんだが」
「へ? 何が?」
「俺は、お前をモデルにするのをやめるつもりはない」
表情を崩さずにガロは言う。
「で、でも」
「顔に傷がついた訳でもないだろう? 今までと何も変わらない」
「背中見せる時もあるじゃん、時々だけど」
「それは、そうだが」
簡易椅子に座っていたジャガーの身体が立ち上がる。
画家の癖に無駄に逞しいのは、やっぱり自分の身体にうっとりしちゃうタイプなのかなと余計な事が頭を過ぎる。
俺の前までやってくると、その顔が不敵に笑う。
獲物を狩る獣の様な瞳。
「傷のついたお前も俺は好物だ」
「悪趣味……」
「綺麗だと、汚したくなるだろ?」
「そう言われるとちょっと気持ちわかるけど」
ガス台の前で繰り広げられる俺の一人芝居なんかが、まさにそれだった。
「せっかくだ、傷がまだ生々しい内に描くか」
「もうちょっと俺を労わってくれよ」
「金で労わってやる。それとも身体がいいのか?」
「脱ぎます。脱げばいいんだろ、もう」
腕の所で止めていた残りの服を取り払って、傍にぱさりと置く。
「立ったままでも平気か? その方が、よく見える」
「うん、大丈夫」
二週間入院して、退院してから更に一週間は経過したのだ。
痛みは完全に消えていないけれど、走り回ったりしなければ問題ないくらいまで回復していた。
「首だけ向けてくれ」
注文に、無理の無い程度に首をガロの方へ向ける。
丁度振り向く様なその体勢のまま、俺はガロを切なげに見つめた。
「いいぞ。かなりそそる」
傷を曝け出して、見られたくないのに見られているのを憂える顔。
多分そんな事でも考えているのだろう。
その股間がびくんと跳ね上がってるのがここからでもよくわかる。
「タオル被せろよ……表情が崩れる」
「すまん」
なんかいつもより元気そうなのは気のせいだろうか。
見た感じサディストっぽいしなガロは、仕方ないのかな。
準備を済ませたガロが筆を取ろうとしたその時、アトリエの扉が開かれる。
「やあガロ、相変わらずここは解り難いところにある……」
聞き覚えのある穏やかな声が途中で切れて、俺は思わず顔を向ける。
「……ラスト君?」
半裸で傷を晒す俺の姿を見ていたのは、マスターだった。
「マスター、どうしてここに」
疑問を口にしながらも、頭の中では俺は答えを見つけていた。
マスターの親しげな言葉を考えれば、ガロと知り合いなんだろう。
マスターの視線が俺ではなく、俺の腰に注がれているのに気づくと慌てて姿勢を正した。
「なんだ、知り合いか?」
傷を見て息を呑むマスターの耳に、ガロの間抜けな声が届いた。
マスターの憐憫に染まった眼差しを浴びて、俺は何も言えずに俯いた。
「ロイガ君から話は聞いたよ。私の無実を証明しようとしてくれたんだって」
責める様なその言葉に、俺は沈黙する。
「どうしてこんな事を……」
「……俺が勝手にした事です」
そう言うしかなかった。
マスターは頼んでもいないし、結局は何の関係も無かった。
俺が勝手に事を起こした果ての自爆。
その事で、マスターを傷つけたくなかった。
そう思っていた俺の頭に、マスターの拳骨が落ちる。
予期せぬ攻撃に思わず俺は呻いた。
「私が訊いているのはそんな事じゃない! どうして無茶をしたんだ、君はただの一般人じゃないか!」
癇癪を起したマスターを見るのは初めてだった。
どんなに仕事で失敗したって、何でも屋のせいで仕事を休んだって決して声を荒らげたりはしなかった。
そのマスターが、今は牙を剥き出しにして吠えている。
「答えなさい!」
声に、俺は身体を震わせた。
しどろもどろになって、涙を浮かべて必死に言葉を考える。
「俺……マスターが悪い人かも知れないって聞いて、居ても立っても居られなかったんです。
マスターは、俺の恩人なんです。だから……」
続きを言いたかったけれど、上手く言葉になってくれない。
初めて怒鳴られて、初めて拳骨を貰った今の状況では、いつもの様に饒舌にはなれなかった。
「ごめんなさい」
最後にそれだけはどうにか口にして、俺は涙を流した。
涙を流しながら、これでマスターとの関係は終わるのだと思った。
どれだけ迷惑を掛けたのだろうか。
そう思うと、俺の口から謝罪の言葉が断続的に零れた。
涙に濡れた視界が暗くなる。
逞しい腕が俺の背中に回されていた。
気づくと、真上からマスターの嗚咽が聞こえる。
「無事でよかった。本当に」
がくがくと震えるマスターの身体が、膝を着く。
崩れ落ちそうなのは俺じゃなくてマスターだった。
互いに落ち着いてから、室内のソファーに俺とマスターは座った。
描画を邪魔されたガロは、しかし何も言わずに俺達を見守ってくれていた。
「身体はもういいのかい? 痛んだりしない?」
「ちょっと痛みますが、歩いたりするのは大丈夫です」
「そうか……やっぱり、傷は残るのかな」
「……はい」
マスターの表情が曇る。
こんな顔を見たくなかったから起こした事のはずだったのに、結局俺はこの結果を招いていた。
「えっと、マスター……ガロとはお知り合いなんですか?」
居た堪れなくなって俺は話題を変えようとする。
それとは別に気になってもいた、今までここには何度も来たけれどマスターと会った事は無いし、
カフェでマスターと居てもガロの事が話題に上る事もなかったのだから。
「ガロ? ああ、古い友人でね。店を始めた頃はよくうちで珈琲を飲んでくれていたのだけど、
最近は忙しいみたいだから、私がこうして珈琲を届けに来ているんだよ」
そう言って揃ってガロに視線を向けると、受け取ったばかりの挽いた珈琲粉をご機嫌な様子で見つめている。
「それじゃ、この辺りでマスターがよく目撃されていたっていうのは」
「ちょっと入り組んでてどうにも苦手で……よく迷ってしまうんだ」
なるほど、マスターはガロに会うためにこの辺りをうろうろしていたのか。
漸くすべての謎が解けてすっきりした気がした。
「ラスト君は、モデルのバイトかい?」
「あ、ええ、まあ、そんなところです」
「バイトというか、俺が依頼した事だがな」
乾いた笑いを浮かべて慌てて繕う。
直後に余計な事を口走ったガロを俺は睨みつけた。
それに少し戸惑った顔をした後、マスターに知られたくないという事に気づいたのかにやりと笑ってガロは頷く。
「ガロはちょっと変わっているから、ラスト君みたいな子は気をつけないと駄目だよ」
「本人の前で言うか」
「できれば言いたくないけれど、生傷を負った人をモデルにしている所を見てしまったからね」
ちょっと強い口調でマスターはガロを見つめる。
「古傷は後でいくらでも描ける。今しか描けない物だから描きたいだけだ」
「その情熱は大いに結構だけど、その股間では説得力が無いんだよガロ」
ガロの股間は、相変わらず元気に主張を続けている。
たった今感動シーンまであったっていうのにこいつときたら。
「おあずけを食らったからな」
悪びれた様子も無いガロは、続けて俺を狙う様に見つめる。
「悪い奴ではないんだけど……ラスト君気を付けてね」
「はい、わかってます」
そこまで話すと、挨拶をしてマスターは帰っていった。
傷が完治するまでは店に来てはいけない、とはっきりと言われてしまった。
しばらくはロイガの世話になるしかなさそうだった。
その後は、ガロに詫びてからアトリエを去る事になる。
本当はモデルを続けたいところだったけれど、元々傷を見せるだけだったのと、
マスターの乱入のせいで、時間が無くなっていた。
「それなりに養生しろ。傷が開くと醜いからな」
別れ際に言われた微妙な言葉が、ガロらしくて俺はちょっと笑ってしまう。
マスターが来たという事はカフェはもう閉めてあるのだろう、ロイガの待つアパートへ帰ろうとした時だった。
「ラストさん」
声に振り向くと、警察官姿のアセクトが俺を見ていた。
そういえばアセクトはこの辺の管轄なんだよな。
「傷は大丈夫ですか?」
「ああ、平気平気」
負った傷の深さもそれなりだから、最近はこれに関しての事ばかり訊かれる様になった。
大丈夫だからここに居るんだ、なんてちょっとぶっきらぼうに言いたくなるくらい訊かれるので俺は手を振って軽く答える。
立ち話もなんだし、公園が近くだったのでベンチに並んで座るとちょっと話をする。
結局、あの低い声とその取り巻きの行方はわからないらしい。
俺がそれについて詫びると、とんでもないとアセクトは畏まった。
「ラストさん、すみませんでした……こんな事になってしまって」
一頻り話を終えると、俯いたアセクトが言葉を紡ぐ。
「何言ってんだよ。俺は依頼を受けてそれを遂行したまで、お前は気にしなくていいんだよ」
基本的に、受けた依頼で傷を受けてもそれは自己責任。
裏稼業なのだ。受ける前にしっかりと確認をして、受けた以上は何があっても文句は言わない。
死ぬ危険があっても、それを覚悟して臨むと俺は決めていた。
もちろん、そんなに危険な依頼はあんまり受けたくないのだけど。
「それに、自分はあの時……」
アセクトの表情がどんよりと曇りはじめる。
俺に咥えさせた事を思い出しているのだろう。
快楽に負けて、無理矢理俺の頭を押さえつけたあの時の事を。
「気にすんなって、ああしなかったら危なかったんだからさ」
「それは、わかってるんです……充分過ぎるくらい。でも」
立ち上がったアセクトが、俺の前で深く頭を下げる。
「ラストさん、自分はラストさんの事が好きでした……でも、今の自分では力不足みたいです。
ご迷惑ばかりおかけして、本当にすみません」
「アセクト……」
「……もっと強くなって、ラストさんのお役に立てる様に頑張ります!」
そう言って、アセクトは敬礼をした。
「ただいまー」
疲れ切った表情で俺は扉を開く。
今日は色々あったな。病院でのんびりするのに慣れた後だったからちょっと辛い。
「……おかえり」
夕食の準備をしていたロイガが俺を見つめる。
「今日のご飯は?」
「唐揚げだ」
「わーい」
例によって例の如く、ひもじい栄養食しか口にできなかったので嬉しい限りである。
その前に傷口が痛くて食欲も出なかったんだけどね。
退院して、いつもの生活と食欲がやっと戻ってきたという感じだった。
「もたれるぞ」
手洗いうがいを済ませて唐揚げにがっついていると、ロイガが窘める様に俺を見つめる。
「平気平気、若いんだからさ」
本当は結構きつかったりもするけれど、ずっと肉が食いたかったので構わず俺は唐揚げを頬張る。
何しろ帰ってきたばかりはまだ早いとロイガに質素な食事を強要されていたのだ。
三週間もおあずけを食らった俺はもう我慢の限界だった。
たらふく食って、就寝の準備を済ませて寝室へ足を運ぶとロイガと揃ってベッドに横になる。
さすがに慣れたのか、前みたいに入っていいかとロイガが訊いてくる事も無くなった。
「お前も図々しくなったな」
俺が呟いた言葉に、ロイガは薄く笑う。
「居候から始まって、俺にこんな事までするんだから大したもんだよほんと」
そんな風に言いながらも、別に嫌じゃない自分に気づいて俺はちょっと狼狽する。
あいつが好きだったはずなのに。
その言葉が過ぎって、横たえた身体を丸めた。
大きな手が俺に触れると、ロイガが身体を寄せて俺を抱き締める。
「ちょ、ちょっと待った」
慌てて抗議してから身体を起こすとその顔を見つめる。
「今日はその、ちょっと」
「溜まってるんだろう?」
「うーん、そうだけど」
入院漬けで抜く事もできなかったから、正直なところ俺の息子は既に戦闘態勢に入りかけてる。
抜こうと思って手を伸ばしたら激痛が走るもんだから、ずっと慰めてやれなかったのだ。
家に帰ってからも相変わらず痛みがあって、やっとそれが収まってきたところだった。
「なんというかその、そういう気分じゃないっていうか」
「そうか」
ロイガは多分俺の様子の違いに気づいてそれをサインだと勘違いしたんだろう。
俺からロイガに、奉仕を求めるサイン。
それははっきり決めた物じゃないから、いつも違っていて、
少し甘えた声を出したり、熱っぽく見つめたり、やんわりとロイガに触れたりする事が多かった。
そんな風にロイガを利用してはいけないのだと言い聞かせても、いつもそうやって俺達の行為は始まる。
大きな掌が、俺の後頭部を優しく包んで抱き寄せる。
顔が接近するとロイガが唇を合わせてきた。
咄嗟の事に反応が遅れる俺を尻目に、遠慮もせずに突き出されたロイガの長い舌が口内に侵入する。
舌と舌を絡めて、吐息が零れて守りを崩した俺の口を強引に開いて歯列をなぞる。
開いた口からだらだらと唾液が流れて口元を濡らしていく。
「だっ、駄目だって……」
息苦しくなった頃、俺は両手をロイガの双肩に当てて離れる。
ロイガは一度呼吸を整えると、俺の手を退けて再び接吻をしてくる。
上げていた片方の掌が、俺よりも大きな虎の掌に繋がれる。
後頭部に当てられたもう片方が、俺の耳の下を擽る。
「ふぁぁっ」
ロイガに奉仕をさせ続けたのは失敗だった。
俺の感じる所を既に熟知したその攻撃に、俺は耐える事ができない。
顔を逸らせば喉元を撫で上げる様に舐められ、逃げる事を止めればまた口内への愛撫が始まる。
観念した俺がやけくそ気味に顔を寄せると、顔を傾けた虎の顔が飛び込んでくる。
捕食される獲物の恐怖を僅かに覚えながらも俺は逃げずに受け止めた。
「はぁっ……駄目って、言ったのに……」
口だけで施された愛撫が漸く終わると、俺は息も絶え絶えに抗議する。
ぼたぼた零れた唾液は、今は俺の胸元を汚していた。
それを見て、その先にある俺自身が痛い程勃起しているのもわかっている。
「したい気分になっただろう?」
「バカ……駄目なもんは、駄目だ」
このままロイガの思い通りになるのも、ちょっと釈然としないからそう言ってやる。
本当は、このまま事に及ぶのなら受け入れるつもりだ。
ロイガの手が伸びて、俺の上着を脱がす。
「え?」
半裸になった俺の身体をロイガはうつ伏せにする。
「するんじゃないの?」
「今日はやめておく」
そんな、あれだけやっといて。
というか勃起した状態でうつ伏せはちょっときつい。
俺の物欲しそうな眼差しにちょっと微笑んだ後、ロイガは俺の身体に跨ると顔を落として耳を咥える。
「んっ」
生温かい口内の感覚に、俺はびくりと震える。
そのまま舌が僅かに生える毛をなぞるもんだから、痙攣でもしたみたいに身体がびくついた。
ちろちろとロイガの舌が動いて、俺の耳を丹念に愛撫する。
「ず、ずるいぞ! やめとくって言った癖に、こんなっあぁぁっ」
抗議の途中で耳の奥まで舌が差し込まれて素っ頓狂な声が出る。
起き上がろうとするけど、重い身体に圧し掛かられている状態じゃ無理そうだった。
第一、そんな事したら傷口に障る。
耳が解放されて、少しずつ下へ下へと刺激が移動していく。
それが、ある一点で止まった。
「……それが、狙いか」
「ああ」
俺の身体に刻まれた、刃物傷。
ロイガに見せるのは避け続けてきた。
俺のせいだと言い張り謝罪を繰り返すロイガ。
ロイガに見せる事が、その心を抉るのだと思った。
舌先が、傷口に触れる。
「ふっ……う、ぐっ」
「痛むか?」
「ざらざらしてるから、ちょっと」
ざらついた虎の舌では痛みが走る。
本気で舐め上げられたら、多分傷口が開く。
だから、ロイガは舌先で軽く触れながら傷口をなぞっていく。
獣が傷を癒すその行動に、痛みを感じながら俺は呻いた。
一度なぞり終わると、ゆっくりとロイガが離れる。
必要以上に弄れば開くのはわかっているんだろう。
「……すまない」
「もう、やめろよ。それ言うの……俺がやった事なんだから」
この話を持ち出される度に、俺も胸が痛む。
「それに、お前だって俺を護って傷が残ったりしてるだろ?」
俺の自爆でついた傷だから、正直なところその重みはまるで違うんだけど、
ロイガを納得させるために俺はそう言った。
「俺の傷はいいんだ」
「……なんだよそれ、お前は傷ついてもいいっていうのかよ」
「ああ」
起き上がった俺は、寂しそうにその顔を見つめる。
ロイガも少し気まずそうだった。
自分が何を言っているのか、それを理解できない程ロイガは間抜けじゃない。
「お前は……俺みたいな、代わりじゃないんだ」
「え?」
言葉の意味が理解できなくて、俺は思わず疑問符を浮かべてしまった。
ロイガは何も言わず、それで横になると背を向けてしまう。
何度か声を掛けてみたけれど反応が無くて、仕方なく俺も脱がされた上着を着てから横になった。
丸まったロイガの背を見つめる。
大きな身体のはずなのに、今の俺には小さく見えた。
雀の囀る音が聞こえた。
それに耳を傾けていると、不意に目覚まし時計がけたたましい電子音を上げる。
「うぅー」
あまりの煩さに、呻いて俺は腕を振り上げる。
「必殺寝起きヤモトチョップ」
華麗に手刀に変形した右手を叩き落とすと、目覚ましのスイッチにクリーンヒットさせる。
それでお亡くなりになった目覚ましに満足してから、起き上がって伸びをした。
「……あれ」
隣をそっと見るけれど、ロイガの姿はない。
もう起きたんだろうかと考えていた俺の視界に、時計の時刻が飛び込んでくる。
「えっ、お昼過ぎ?」
おかしいな。こんな時間に目覚ましをセットした覚えはないのに。
そこまで考えて、ロイガの仕業なのだと理解して俺は溜め息を吐く。
俺の代わりにカフェに出ていて、起きる必要の無い俺に気を遣ってこんな事をしたのだろう。
「怪我人は寝てろってかー?」
ありがたいけれど、申し訳ない。
今の季節カフェが忙しいからロイガを紹介したというのがそもそもの話だ。
週末はかなり忙しいだろうに、肝心の俺はこんな有り様。
「……ごめんなさい、マスター」
本人の前で何度もした様に俺は懺悔を口にする。
しばらくどんよりしてから、それを吹き飛ばす様に飛び起きるとリビングに向かう。
食べてくださいと言わんばかりに、テーブルの上にラップに掛けられたご飯と卵焼きとウィンナーが置いてある。
オーソドックスな朝食にちょっと尻尾を振りながら、電子レンジに入れて温めている間にそっと腰に触れてみる。
僅かな痛みに顔を顰めた。
「こりゃ、完治しても響くかもな」
今の内に覚悟をした。
ロイガの目の前では、そんな素振りを見せてはいけない。
それがどれだけロイガを縛るのか、昨日の事でよく解っていたから。
「代わりじゃない、か」
お前は俺みたいな代わりじゃない。確かに、ロイガはそう言った。
その事を本当は今日聞きたかったのに、気づけば居なくなってしまった。
本当は、俺と顔を合わせるのを避けて目覚ましを弄ったのかも知れない。
ロイガの言葉を反芻する。
この言い方じゃ、まるでロイガは何かの代わりみたいじゃないか。
「あ……」
そこで、俺は気づいた。
俺はロイガの事を、あいつの代わりにしているんだ。
捨てられた一人ぼっちの寂しさをロイガで埋めて、性欲の処理までさせる。
そんな俺の煮え切らない態度を見て、そう言ったのだとしたら。
「ロイガ……」
胸中に罪悪感が溢れる。
今更気づいた。
俺、ロイガの事何にも考えていなかったんだ。
自責の念に駆られて我を失っていた俺の耳に、電子レンジの温め完了の音が届く。
それで正気に戻ると、料理を取り出してテーブルの上へ運んだ。
ロイガの作ってくれた朝食を口にする。
いつもは美味しいはずなのに、今日は味がわからなかった。
朝食、というか昼食を済ませて一息吐くと着替えを済ませて俺は外に出る。
特に何か目的がある訳ではない。
とはいえ大分身体も良くなってきた訳だし、入院漬けですっかり失ってしまった体力をつけたかった。
立ち仕事が基本なカフェだから、長時間外でぶらぶらするだけでもそれなりのリハビリになる。
冷蔵庫の中が空っぽだったから、帰る時にスーパーにでも寄ろうかな。
歩きながら、溜まった考え事を片付けていく。
「……はぁ」
最後に行き着くのはやっぱりロイガの事な訳で。
俺のせいであんな事を口走ったのだとしたら、この関係にも決着をつけなければならない。
いい加減な俺の態度で自暴自棄になって、傷つく事も厭わないのだとしたら。
「やっぱり、最低だな俺」
こんな俺の事を優しいのだとロイガは言う。優しいのはどう考えてもお前だよ。
短くなった歩幅でとぼとぼと歩いていると、いつのまにか街の北区に出る。
丁度ガロのアトリエが近かった。
昨日はおあずけを食らわせてしまったし、今は居ないのかなと携帯を取り出して電話を掛けてみるけれど、
留守にしているのか、ジャガーの男にそれが繋がる事は無かった。
すっかり手持無沙汰になってしまった俺は、もう考える事も放棄してただ歩く。
本当はロイガに会いたいけれど、カフェに押し掛けても話ができる訳じゃない。
ロイガ、無愛想だからキッチンだし。
でもそんな無愛想なところもそれはそれで奥様受けはいいのか、最近はロイガ目当ての奥様も居るんだとか。
本当に女嫌いらしく、ロイガはちょっと怯えているのが滑稽だったりする。
歩いていると、ふと視界にこじんまりとした建物が飛び込む。
見上げてよく見れば交番で。
よくよく見てみれば、その中で警察犬が大きな身体を丸めて机に向かっていた。
「助けて警察犬さん! 暴漢がー!」
「ど、どうしました!?」
裏声で話しかけると、その身体がびくついてアセクトが顔を跳ねあげる。
俺と目を合わせると、身体をぶるぶると震わせていた。
「ラストさん、冗談はやめてください! というか警察犬も駄目です!」
「ごめんごめん」
遅れて突っ込んでくるアセクトの反応が楽しくて、俺はつい笑ってしまう。
「お邪魔します」
そう言って、交番の中へずかずかと入る。
本当は警察関連の場所になんか寄りつきたくないけれど、アセクトならまあ俺をどうにかしようなんて思わないだろう。
俺の侵入に、アセクトは慌てて椅子を取り出したり、お茶を淹れようとする。
「お客さんじゃないんだからいいって」
「い、いえ、その」
もじもじしたその仕草に、俺は口元を緩ませる。
「そっか、アセクト俺の事好きなんだもんな」
「そ、それはぁ」
大慌てでこちらを見た警察犬が、しどろもどろになって目尻に涙を浮かべる。
「なんだよ、お前から告白したんだから別にいいだろ?」
「そうなんですけど……」
アセクトがじーっと俺の瞳を見つめる。
捨てられた仔犬みたいなその愛らしさも、ある意味やばい破壊力があった。
「お前の気持ちは嬉しいよ。でも、今は駄目だ」
俺の言葉にアセクトはしゅんとしてしまう。
それを見て俺は思わずたじろぐ。
いつもの調子でからかって、慣れていたはずのその仕草が今は罪悪感となって俺に圧し掛かってくる。
ロイガの事で沈んでいたからだろうか。いつもの様にアセクトを見る事ができない。
「ラストさんは、ロイガさんと付き合ってるんですか?」
「いや、違う」
「だったら」
「……駄目だよアセクト」
俺とロイガの関係は、未だに平行線を辿ったままだ。
交わらずに、時折俺の気が向いた時だけそっと寄り添う。
「俺はロイガの気持ちにも上手く答えられない様な最低な奴だ。
お前には俺は勿体ないくらいなんだよ」
「俺は、ラストさんが好きです。ラストさんだけが」
「……ごめんな…………」
俺よりも背の高くて、大きな身体のアセクトの頭部に腕を伸ばして抱き寄せる。
耳を倒して懇願する様に潤ませた瞳に見つめられると、胸が痛い。
「お前も、ロイガも、本当は俺なんかが一緒に居ていい奴じゃないんだよ。
優しくて一途で、昔を忘れられない俺は釣り合えないんだ」
「……好きです」
「ごめん、ごめんなアセクト」
俺の背にやんわりとアセクトの腕が回る。
傷に障らぬ様に、それでも俺が逃げられない様にしっかりと。
いつの間にか、俺の視界がぼやけていた。
俺が泣きやむまで、アセクトはそのまま抱き続けてくれた。
「いや、本当にごめん」
落ち着いてから離れて、それからが大変だった。
アセクトは俺を抱き締めていた事を今更の様に理解して謝り続けてくるし、
それでもどうにか俺と付き合えないかと、しどろもどろになって終いにはまた涙目になるし。
「それにしても、ロイガといい、アセクトといい……俺ってそんないいの?」
こういうの、アセクトに訊くのはどうかなと思ったのだけど他に話せる相手も居ないので訊いてみる。
サキだったりデリオスだったり、男女問わずにやたらと一目惚れみたいな事になってる気がする。
モテて悪い気はしないのだけど、あいつの存在に絡め取られた今俺自身に向けられる気持ちが、辛く感じる時もあった。
「自分は、ラストさんに助けられましたから」
元に戻ったアセクトが、はっきりと物を言う。
「む、そんな風に言われると……」
俺の言葉にアセクトの顔がぱぁっと輝く。
「な訳ないでしょ」
「……ですよね」
そして、しゅんとなる。本当に面白いなアセクトは。
でも本当は、アセクトのそうやってはっきり言い切ってしまう部分は好きだった。
あの時だって、からかわれるのがわかってるはずなのに俺の事を好きだと宣言したのだ。
「まあ、この話はこの辺で」
「はい、すみませんでした」
「いやいや俺の方こそ。それで、俺も話があるんだけど」
紆余曲折を経たけれど、漸く俺は本題に入る。
「アセクト、ロイガの事って何か知らない?」
「え、ロイガさんですか?」
アセクトが少し困った様な顔をする。
そりゃまあ、アパートにアセクトが来た時ロイガとは初対面みたいだったし、当たり前の反応。
「もちろんどんな性格してるとか、そういう事じゃないんだ。
アセクト言ってたよな? 俺に依頼する時、俺の情報も集めたって」
「ええ、まあ。仕事仲間に話を聞いたりもしましたけれど、それ以外に資料もありますので」
その資料にどれだけ俺の事が書いてあったのか、ちょっと聞きたいけれどここは堪える。
「俺が聞きたいのは、ロイガ……つまり、護り屋のロイガの事なんだ」
「護り屋のロイガさん、ですか」
「話くらい聞いた事あるだろ?」
俺の言葉に、アセクトは暫し沈黙する。
本当に今更だけど、俺はロイガの事を何も知らない。
年齢と、好きな物と嫌いな物と、無愛想なのと、滅茶苦茶強いのと、むっつりスケベなのと、デカチンな事ぐらいしか知らない。
なんだ結構知ってるじゃないか。
ロイガは、俺に自分の事を話さない。
護り屋をしていて、あれだけの腕を持っているのだから当然俺よりもキャリアは長いはずだ。
それについて尋ねた事もあるけれど、ほとんど生返事をされただけだった。
生い立ちも、知らない。
「知らない事はないですが……ラストさん以外にも、他に人がいないか調べましたし。
そこにロイガさんの事も確かにありました」
「へぇ、それじゃ俺はアセクトのお眼鏡に適ったって事か」
「すみません、こんな選ぶ真似」
「まあちょっと複雑だけど、俺に害は無さそうって事だったんだろ?」
「はい。自分の依頼を受けてくれる、何でも屋、護り屋の方を探してました。
その中で大丈夫だと思ったのが、ラストさんなんです」
なるほど、確かにキナ臭い場所を調査したり、時には乗り込むなら頼むのは俺か、ロイガみたいな奴になる。
「で、ロイガを止めて俺にした理由もあるんだろ?」
「それは」
そこまで言って、アセクトが口籠る。
世間話の様に会話しながらも、いつの間にか俺の誘導で何故ロイガに依頼を頼まなかったのかという
話題にすり替えられて慌てているんだろう。
まあ、単に俺の方が弱そうで楽そうって思ったのかも知れないんだけど。
「ラストさん、あの時……自分がロイガさんを怖がったのは、暴れるロイガさんを見たから、という訳ではないんです」
観念したアセクトは、一度口外しないでくださいと言った後に話を続ける。
「何もかもが、自分が見た資料に書いてあった事と同じだったから……だから、怖かったんです」
「殺人歴は?」
「ありません。でも、警護を主とする護り屋さんの中では、群を抜いて暴力的だったんです」
暴力的。
その片鱗は、垣間見たばかりだ。
けれど、それは俺が危険になった時だけ。普段のロイガは、そんな事をする様な奴じゃなかった。
「ただ、今年の梅雨明けくらいからは何かあったのか、大人しくなった様でした。
取り沙汰される様な事は書いてありませんでしたから」
それは、俺とロイガが出会った頃だ。
俺の目の前ではそんな行動を取らない様にしているんだろう。
俺がロイガを変えたのか、ロイガがただ自分を偽っているのか。
束の間迷って、前者であってほしいと願った。
「ラストさんは今、ロイガさんと……?」
「ああ。元々ロイガは俺の依頼人だったんだけど、その、惚れられちゃったのかな?
仕事で被る時もあって、それは困るから、今は俺を護るって事で一緒に居るんだ」
詰まるところ、専属契約みたいなもの。
「他にわかる事ない?」
「すみません、これといって。元々、裏稼業の人を詳しく調べる事はできません」
下手すりゃ報復されるんだから、まあそこは仕方ないか。
「家族とか」
「それもちょっと。ただ、この街に居る間はずっと一人暮らしだったみたいです。
記録されてあるだけでも、十年近くは」
ロイガの歳と逆算すると、十年前のロイガは未成年になる。
「訳あり、かな?」
「かも知れません」
それで、ロイガの話は終わった。
本人に黙って調べている事に後ろめたさが無い訳ではないけれど、結局深い所は何もわからなかった。
残りは俺が直接ロイガに問い質すしかないだろう。
「ラストさん、これ」
アセクトに礼を言って帰ろうとした時、不意に分厚い封筒を取り出される。
「受け取れないよ」
「でも、ラストさん怪我をして入院まで……」
「アセクトからの報酬は最初の話通り受け取ったし、それ以上はしなくていい」
「赤字になってませんか」
赤字です。赤字まっしぐらです。
とは言えなくて、俺はにっこり微笑む。
「バカだな、そう思うんならまた俺に何か依頼すればいいんだよ。
俺に金を渡せるし、また俺が来るんだからチャンスがあるじゃーないか」
「チャンスにしてくれるんですか?」
「う、うーん」
思わず出ちゃった唸りにアセクトはちょっと残念そうな顔をする。
そうだよな、俺が受け入れなくちゃチャンスだなんて言えないよな。
「……ロイガさんが、羨ましいです」
「え?」
「ラストさんにこんなに想ってもらえるんですから」
「そ、そうかな。俺、いつもロイガに迷惑掛けてばかりだよ」
思い返せば囚われのお姫様状態だったり、怪我をしてすっかりカフェ店員に仕立て上げたり、
かなりえげつない事になっている気がした。
「それでも好き。そういう事なんじゃないですかね」
ちょっと悔しそうな警察犬の表情。
「ありがとな、アセクト」
「いいえ。お役に立てたら幸いです」
そういえば、ロイガはいつだって俺が迷惑を掛けた事で不満を口にしたりはしない。
アセクトの言葉で、ロイガの気持ちを知る。
態々敵に塩を送る様な真似までして、それでも俺のためを思ってくれるアセクトの気持ちも同時に理解した。
別れ際、アセクトは笑顔で俺を見送ってくれた。
いつも笑顔と一緒に振られていた尻尾が、その時はだらんと垂れ下がっていた。
「うーん、どれにするかな」
アセクトと別れた後は、予定通りスーパーに寄って買い物を済ませる。
ロイガに任せると、遠慮癖がついてるのか割と自分の分は適当なんだよな。
俺への振る舞い方は段々砕けてきているのに、根っこの部分は初めの頃と変わらない。
「とりあえず豚肉豚肉と」
献立を考えると手早く必要な物を揃えて会計へ向かう。
「おっと、これも」
レジに向かう途中、棚に置かれた缶ビールにも手を伸ばす。
俺は相変わらず缶チューハイでいいんだけど、ロイガは物足りないみたいだからこういうのもないとな。
本当は好きな癖に、俺に合わせるせいかやっぱり買ってこないんだよな。
もっと強いのでも平気みたいだけど、あんまり酒臭いと一緒に寝るのが辛いのでまあこのくらいで。
そのままレジを通ると、夕暮れの街を早足で通り過ぎる。
もうすぐロイガは帰ってくるだろうから、急いで支度をしなければ。
アパートに着くと、とりあえず冷蔵庫に入りそうな物をすべて入れてから早速調理開始。
「はーい、本日の献立はお酒のおつまみに最適。野菜の豚肉巻きでございます」
料理番組よろしくな掛け声を上げてから調理に取り掛かる。
とりあえず肉巻きの中身は牛蒡と長ネギとアスパラがあればいいだろう。
何かハズレでもつけようかなと思ったけど、デコピンを食らいそうなので止めておく。
褒める時のなでなでと、叱る時のデコピンがロイガの俺に対する武器である。
なんか犬の躾みたい。なんて考えながらせっせと肉巻きを作成していく俺。
誤魔化せる範囲でからしも入れてみようかと悪巧みをしながら、ロイガの顔を浮かべる。
「……ほんと、こんな状況なのに付き合ってないなんて……意地悪だよな」
俺の元に戻ってきてくれたロイガを迎えて、作った料理を頬張るロイガを眺めて、
一緒にテレビを見たり話をしながらその表情を窺って、ロイガと手を合わせながら静かに眠りに落ちる。
あいつから掛かってこないかと期待して見つめていた鳴らない携帯も、今は気にする事もなくなった。
寂しさも、ほとんど感じなくなった。
俺の満たされない気持ちをロイガはすべて埋めてくれたんだ。
あいつの代わりなんかじゃないんだ。そう言いたかった。
「早く帰ってこないかな……」
時計を見上げて呟く。
意識したら、途端に恋しくなる。会いたくなる。
早く、帰ってきてくれよ。
窓に雨粒が当たる音で、俺は目を覚ました。
「あ……」
準備を済ませて、あとは焼くだけだったからソファーに座ってロイガを待っていたんだった。
置き上がって、腰の違和感に顔を顰める。
やっぱ、ソファーで横になると腰に結構来るよな。
「……あれ?」
反省しつつ、次には自分の身体に掛けられていた毛布に気づく。
「ロイガ?」
アパートの鍵は掛けていたのだから、俺が夢遊病でも患ってない限りはロイガが戻ってきて毛布を掛けてくれた事になる。
慌てて部屋を見渡したけれど、しんとした室内に人気は感じられない。
寝室、風呂場、ベランダも覗いてみるけれど、ロイガは見つけられない。
どこかに出かけてしまったのだろうか。
「なんだよ、ご飯ももうできてるってのに」
もしかしたら護衛の仕事でも受けたのかと思ったけれど、ベランダを見た時にボディアーマーが干されたままだったので、
その可能性を捨てて俺は悪態を吐く。
洗濯物を取り込みながら数分待っても何も起きないから、仕方なく携帯を取り出す。
部屋でもカフェでもベッドでも顔を合わせるから滅多に電話なんてしないけれど、今は別。
登録したまま、番号も憶えていないロイガの携帯へ電話を掛ける。
焦らす様にたっぷりコール音が鳴った後、電話が繋がった。
「……ラストか」
「そうだよ、ラストさんだよ」
電話の向こうから聞こえたいつも通りのその声に、俺は溜め息を吐いて応える。
「お前な、帰ってきたら声掛けろよな。せっかく飯作って待ってたのに……それとも、なんか用事?」
俺の問いにロイガの返事はない。
その代わりに雨音が聞こえた。
たった今降り出したらしいここと違って、向こうは強く雨が降ってるみたいだった。
そういえば、天気予報で夕方辺りから降るって言ってたっけな。
「ロイガ?」
雨音だけが続いて、不安になって名前を呼ぶ。
「……ラスト」
雨音に混じったロイガの声が弱々しく聞こえる。
「どこに居るんだよ。カフェ、もう終わったんだろ?」
時計をもう一度見ると、とっくにロイガの入る時間は過ぎている。
マスターは後片付けがあるからもう暫く残るんだろうけれど、俺やロイガはまず帰されているはずだった。
返事を待っていると、不意に通話の切れる音がする。
「あ、おい!」
既に切れているのについそんな言葉が出てしまう。
慌てて掛け直しても、虚しくコール音が響くだけでロイガはもう電話を取ってくれなかった。
「なんなんだよ……」
立ち上がって窓から空を見上げる。
本降りになってきたのか、叩きつける様に雨は降っていた。
聞きたい事も、話したい事もあったのに。
無口な癖に、あいつは言いたい事は言うんだよな。
対照的に、俺は饒舌な癖に伝えたい事は伝えられない。
「……帰ってくるよな?」
振り返って、部屋の隅に置いてあるトランクを見つめる。
ロイガの私物は置いたままだ。
それでも不安を拭いきれない。
一度頷くと、俺は着替えを済ませて部屋を飛び出した。
あいつを、ロイガを捜すために。
傘を差して土砂降りの中を彷徨う。
ロイガの居る場所の見当なんてついていないから、とりあえずはカフェまでの道を向かってみたけれど、
歩く度に雨の強さは増して、今は激しい雨音が耳に纏わりついていた。
時折吹く風が、横殴りの雨となって俺の身体を濡らす。
歩いている最中にもう一度だけロイガに電話を掛けてみたけれど、やっぱり繋がらなかった。
こんな雨の中、どこに行くのだろう。
既に閉まったカフェの前に辿りついて、見上げながら俺は考える。
こんな事になるのなら、ロイガがカフェに居る間に押しかければよかった。
手掛かりも無くなって俺は途方に暮れる。
ロイガが行きそうな場所、何かあっただろうか。
前のアパートは全焼してしまったから、取る物は無かったみたいだし、
そうなると俺にはもうわからなかった。
毎日顔を合わせるから、時折どこかに出掛けても詮索を避けていたというのもあるだろう。
お互いに一人になりたい時くらいはあるだろうし。
今も、もしかしたら一人になりたいのかも知れない。
会いたいからと捜すのは迷惑だろうか。
徐々に覚束なくなる歩みに俺は気づく。
「……会いたいよ、ロイガ」
結局諦めきれなくてまた足を踏み出す。どこに行けばいいのかもわからずに。
だから、退屈凌ぎも兼ねてロイガと初めて会った時からの事をなぞっていた。
ロイガと歩いてきた道。
そういえば、いつもロイガは俺の事をじっと見てたっけな。
どこを歩いても、俺を見つめるロイガの顔ばかりが浮かんでくる。
ロイガの顔が浮かぶって事は、俺もまたロイガを見ていたんだろう。
本当に、今更気づいた。
人気の無い空き地が見える。
その空き地の前に佇む看板と、人影。
歩む速度を上げもせずに俺はそこに辿り着いた。
看板と仲良く並んでいる男の頭上に、そっと傘を差す。
途端に今まで避けていた雨が身体に降りかかって、僅かに身を震わせた。
自らに降り注ぐ雨が遮られた事に気づいたのか、男は振り返る。
ずぶ濡れのロイガは、金色の瞳を俺に向けた。
「風邪引くよ」
そっと寄り添って、俺も傘の中へ入る。
一つの傘に身体を詰め合っても仕方ないけれど、この土砂降りのせいでこうしないと互いの声が聞き取れない。
雨に打たれてしっとりと濡れた肩が冷たい。
それに気づいたロイガは、相変わらず何も言わなかったけれど、俺の手を掴んで傘をこちらに傾けた。
濡れて冷たくなった手に、俺は顔を顰める。
「……ずっとここに居たのか?」
「ああ」
漸くロイガの声が耳に入る。
電話越しじゃないその声に僅かに喜びが込み上げるけれど、今は尻尾を振る気分にもならない。
その尻尾も、今は濡れて水を滴らせているんだろう。
「お前と初めて会った場所だ」
「え?」
初めて会ったのは、カフェだったはずなんだけど。
「……お前が、初めて俺を見てくれた」
そういう意味か。
カフェに来たロイガをちらちら見たりはしたものの、ちゃんと顔を合わせたりはしなかったし。
「その前に頭突きしたりしたけどね」
俺が突っ込むと、ロイガは口元を緩ませる。
それに俺も合わせる様に微笑んでから、話を始める。
「ロイガ……お前はあいつの代わりなんかじゃないよ」
俺の言葉に、ロイガは僅かに眉を顰める。
「そりゃ、確かに別れたばっかだったし、お前にさせてきた事考えたらこんな事言っても伝わらないかも知れないけど……」
心にぽっかりと開いた穴に、確かにロイガは収まってくれた。
「俺は、ロイガと居たい。……駄目かなこういうの」
虫がいいと言われたら、本当にそうだから俺は少し俯く。
「ロイガ、俺」
「違うんだ」
言葉が遮られる。
顔を上げてもう一度ロイガを見つめた。
吸い込まれそうな金色の中に、不安げな俺が見える。
「違うんだ。ラスト……違う」
ロイガの腕が伸びて、俺の身体を抱き締める。
濡れ鼠だったロイガとぶつかり合って、体温が奪われた。
それでも、次第にその身体から温もりが伝わってくる。
そっとその身体に片腕を回すと、背中を何度も撫でる。
「教えてくれよロイガ。……言ってくれなくちゃ、わからないよ」
耳元で微かに声が聞こえる。
「俺の母親は、人間だった」
「……それって」
「俺は、虎人の父親と人間の間に産まれたんだ」
その告白に俺は息を呑む。
ずっと、ロイガは純潔の虎人なんだと思ってた。
あんなに綺麗な体毛をしているのだから。
「俺は、父さんにそっくりだった」
いつか熟考した事が頭の中に甦る。
獣人と人間の間に産まれた者は、大抵は獣人の遺伝子が強くて獣人の親と瓜二つなのだと。
「これは俺の身体じゃない。父さんの身体なんだ」
「ロイガ……」
ロイガに投げかけた言葉を反芻する。
綺麗な体毛だと。立派な体躯だと。
そのすべてはロイガに突き刺さっていたのだろうか。
「ロイガは、ロイガだよ」
それでも俺はそう言った。
俺の事を想って、いつも助けてくれるのは他の誰でもないロイガだ。
こればかりは、例え父親といえども同じなんかじゃない。
「……母さんは、そうじゃなかった」
「え?」
ロイガの言葉の意味を理解できなくて、俺はまた声を上げる。
「父さんが死んで、母さんは独りだったんだ。
元々、獣人と人間の夫婦なんていい顔はされない。俺も、そういう目で見られていた。
父さんだけが、母さんの支えだったのに」
ロイガはそこで言葉を切る。
大きな身体が小刻みに震えていた。
「母さんは……俺を、父さんの代わりにしようとしたんだ」
言葉に絶句して俺も僅かに身震いをする。
最愛の人が居なくなった寂しさを、姿の同じロイガで埋めようとしたのだろう。
その気持ちが理解できる自分が嫌だった。
「俺は家を飛び出した……母さんを残して。父さんの代わりにもなれずに、逃げ出したんだ」
段々と声に抑揚がついてくる。
「逃げた。逃げたんだ俺は。逃げた。母さんが辛いのを知っていたのに。俺は。俺は」
抱き締めるロイガの力が強くなる。
苦しくて、でも俺は暴れる事もできなかった。
「ロイガ……ロイガのせいじゃないよ」
「ラスト……」
ロイガの瞳から雫が落ちる。
雨を遮っているのに頬に水が伝う。
呼吸を荒らげていたロイガが落ち着くまで、何も言わずに抱かれる。
力を籠められ、水気に晒された傷口が痛むけれど構っていられなかった。
こんな傷より、目の前にもっと傷ついたロイガが居るのだから。
「お前と会って、一緒に居て、漸く俺は落ち着けた。それまでは、自暴自棄になっていたんだ。
護り屋なんていうのは、体裁良く暴れられるからやっていただけだ」
それが、アセクトの教えてくれたロイガの姿だった。
「ラスト。俺は、お前が俺を代わりだと見ていても構わないんだ。
父さんの代わりにもなれなかった俺が、好きになったお前が望むものになれるのなら、それでよかった」
ロイガの言葉が胸に染み入る。
辛い事ばかりだった癖に、どうして今俺に優しくできるんだよ。
歯痒くて、俺は唇を噛んだ。
「でも、やっぱり……俺は代わりになれなかったんだな。すまない」
目を見開く。
「なんだよそれ。どうしてそういう言い方ばかりするんだよ!」
無理に暴れて、ロイガを突き飛ばす。
「ラスト、すまない」
雨の中に放り出されたロイガは謝罪を続ける。
「すまない」
新しく浮かんだ涙は、しかし再び雨に晒された事でもう確認する事なんてできなかった。
突き飛ばした俺も、拍子に傘を落として同じ状態になる。
「代わりとかそうじゃないとか、もういいんだよ! 俺はお前に居てほしいだけだ!」
目一杯の大声で叫ぶ。
豪雨に掻き消されない様に、泣き声混じりの癖に、負けない様に必死に声を上げる。
「俺の傍に居てくれよ! ロイガ!!」
金色が俺の姿を映す。
動かずに居るロイガの胸に飛び込んで、縋る様に抱きつく。
震えたロイガの口元が微かに動いた。
「……いいんだよ。お前がいいんだ」
ロイガの表情が崩れる。
それ以上俺達は言葉を交わさなかった。
雨音はまだ続いていて、変わらず耳に煩かった。