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3.箱入りの恋

 空に浮かんだ月が、建物で隠れていた。
 この辺りは背の低いチビの建物ばかりで、いつもは月が我が物顔をしている。
 そんな中で、見上げた屋敷だけは唯一俺の視線が月に届く事を阻害していた。
「でけーな」
 それぐらい、大きい屋敷だった。
 こういう屋敷のお隣だと陽が当たらないのかなと思ったけど、影の出る部分までしっかり敷地の様で問題なさそうだった。
 館の少し前で身嗜みを整える俺の服装は、お世辞にもこれから屋敷に行く者の格好とは言えなかった。
 だって、こんな屋敷に着ていく礼服なんてないんだもん。
 仕事用の黒コートにしようかと思ったけど、季節柄仕事以外ではあんまり身につけたくなかった。
 ロイガはどんな服を着て来たのかと、ちょっと考える。
 まあ、ロイガは仕事としてここに来たのだからあんまり拘らなくてもいいのか。
 そんな訳で、家の中をひっくり返してできるだけしっかりした服を選んで来ていた。
 家に居たロイガも誘ってみたけれど、誘われたのはお前だとつっけんどんに言われたので今回は一人。
 やっぱりまだ妬いてるのかも。
 屋敷の前の道を歩いていると、大きな門が見えてくる。
 さすが、屋敷もでかけりゃ門もでかい。
 その門の前に、背の低い女の子がぽつんと立っていた。
 俺の姿を認めると、その顔がぱぁっと輝く。
「いらしてくださったんですね」
「あ、はい。来ました」
「突然の事で申し訳ありません。でも、名前も何もお聞きする事ができなくて……。
どうしようかと思っていたところに、あの護衛の方が」
 そう言いながら、にこにこする女の子。
 花が咲いた様に、そんな使い古された言葉がぴったりだった。
 伸ばした髪は腰の辺りまで続いているのか、月光に淡く光り神秘的な雰囲気を醸し出している。
 月明かりの下にある白い肌も、何か別の物に俺には見えた。
 なんて事を暢気に考えていると、突然女の子が小さく声を上げる。
「……申し訳ございません、こんな所で立ち話なんて。
おこしくださったのに、失礼ですよね」
「いえいえ、お気になさらず」
「中へどうぞ、あまり大したお持て成しはできませんが」
「失礼します」
 女の子の謙った言い方に、ちょっと怯みながらも屋敷の門を潜った。

 屋敷の中へ通されると、入口に控えていたメイドが頭を下げた。
 うわぁ、どこの国だよここ。
 思わず頭を下げると、ちょっと意外そうな顔をされる。
 多分、招かれた奴はこんな態度じゃいけないのだろう。
「こちらで、履物をお召しになってください」
 土足は厳禁なのか、先に上がった女の子はさっと俺の分の履物を出してくれる。
「ありがとう、えっと……」
「サキと申します」
 サキは、俺の目をまっすぐに見つめて軽く頭を下げた。
「俺は、ラスト」
「ラスト様ですね」
 さ、様って。
 それはちょっとどうかな、と思いながらも無理に訂正させるのもやぼなのかなとただ頷く。
「こちらへ、お父様もお待ちです」
「お、お父様?」
「先日の事で、ラスト様にお礼がしたいと私が言ったら自分も同席させろと聞かないものでして」
 なんか大分大事になってきてる気がした。
 とはいえ、今更とんずら決める訳にもいかないので黙ってついていく。
 前を歩くサキは嬉しさを隠せないといった感じで、足取りも軽やかだった。
 なるほど、ロイガが俺を止めた理由が解る。
 純粋無垢なお嬢様、という言葉がピッタリである。
 でもって、大抵そういうお嬢様には厳格な父親が付き物で。
「お父様、ご紹介します。ラスト様です」
 扉を開けられて向こう側に居たのは、ああやっぱりって感じの老年の人間の男。
 そりゃそうだよね、チンピラから助けたからって助けた方もチンピラに見えるだろうし。
「お初にお目に掛かります、ラストと申します」
 とりあえず、上辺だけでも繕ってみる。
「この度は、娘を助けてくれたとか。礼を言おうラスト君。
私は、この屋敷の当主のゴウドウという者だ」
 強そうなお名前ですね。
 いつものノリで言おうとして、慌てて俺は言葉を呑み込んだ。
 席に案内されると、反対側にゴウドウとサキが座る。
 二対一ですか。
 やっぱりロイガ連れてきた方がよかったかなとぼんやり考える。
 部屋の扉が開かれると、給仕が入ってきて三人分の料理を置いていく。
 うーん、普段ならとても食べられない様な料理ばかりだ。
 なんて言う料理なんだろう、訊いてみたいけど、多分失礼になる。
「どうぞ、召し上がってください」
 そう言うサキとその隣のゴウドウは、既に食べはじめていて、
俺も軽く頭を下げてから前菜に手を付ける。
 不思議な味がした、美味しいには美味しいけれど、食べた事のない味だ。
 多分特別なハーブや香辛料を使っているんだろう。
 前菜が食べ終わった頃に、スープが出される。
 所謂、フルコースって奴なんだろう。
 スプーンでスープをすくい取ると、直角に傾けて口の中に流し込む。
 マズルが長いから油断していると、零れてしまいそうなのでこういう食べ方は嫌いだった。
 もっとこう、お椀みたいに持って口つけてずーずーしたい。
 でもって口を離してぷはーっと。
 ただ、それは俺を態々招いてくれたサキに恥をかかせる行為なのがわかっているので我慢した。
 料理自体は美味しいし。
「いかがでしたか? この様なお持て成しで良いのか、私は迷ってしまったのですが……」
 順調に料理が運ばれて、最後の珈琲が出された頃にサキが口を開く。
「あ、ええ。とても美味しかったです、はい」
 珈琲の味に気を取られていた俺は、慌てて返事をする。
 マスターの淹れた珈琲と比べると、香りやらは落ちるけれどいいものを使っているのかやっぱり美味しかった。
「サキ、少し話したい事があるから席を外してくれるか」
「はい、お父様。それではラスト様、また後で」
 席を立ったサキが一礼して部屋から出ていく。
 食事中、サキは少し話しかけてきたけれどゴウドウはまったく喋らなかったので、
多分こうなるだろうなと予想はしていた。

「さて、ラスト君」
「はい」
 給仕が食器を片づけて、テーブルの上に何も無くなった頃にゴウドウが口を開く。
「何が望みだね?」
「……はい?」
 突然の事に、俺はちょっと目を大きくして首を傾げる。
 それを見て、ゴウドウが意地が悪そうに笑った。
「そうか、なるほどな」
「あの……」
「いや、すまない。サキを襲った連中と同類が来たのかと思ったが、君はそうではない様だな」
 なるほど、警戒されていた訳か。
 そりゃまあ、確かに若い男、しかも狼人の男を娘が連れてきたら警戒もするだろう。
 文字通り狼に食べられちゃうんじゃないかなと心配にもなる。
「礼もまだだったな、サキを助けてくれて感謝する。ありがとう」
 ゴウドウが頭を下げるのを見て、俺も一度頭を下げた。
「しかし、そうなると君は本当にただ娘に誘われてきただけなのかね?」
「ええ、まあ」
「私はてっきり、何でも屋がこれを機に娘に取り入ろうとしているのかと思った」
 何でも屋、という言葉に俺は僅かに視線を鋭くする。
 護り屋であるロイガに仕事を依頼したのだから、俺の名を知っていても不思議ではない。
 知りながら屋敷に上げた、というところが引っ掛かるだけだ。
「いい目をしている」
 ゴウドウは、俺の考えている事もある程度理解しているのだろう。
「ご心配なく、俺はサキさんをどうこうしようなんて考えていません。
獣人と付き合わせる気が無い事は解ってますから」
「君もなかなか読みが深い」
 屋敷の中に、獣人は一人たりとも居なかった。
 それが、ゴウドウという人間を端的に表している。
「この屋敷の当主は代々人間だ。君なら、この意味も解るだろう?」
 獣人と人間の間でも、子供はできる。
 ただ、大抵は親である獣人の遺伝子が強すぎて、産まれるのもまた獣人である事が多い。
 その上、人の遺伝子が本当に入っているのかと疑いたくなる程人間には似ずに、獣人のクローンな様な子が産まれる。
 稀に、人の血が勝り人間が産まれたり、更に奇跡的に獣人と人間の特徴が混じったものが産まれると聞いた事があるけれど、
単なる噂話程度に止まっていた。
 獣頭人身だったら、境目はどうなってるんだろうと真面目な考察の横で考える。
 人頭獣身だったら、なにそれこわい。
 とかく、人と獣の間での関係はトラブルの多いものだった。
「サキさんの事を、大事になされているのですね」
「そう見えるかね」
 例えば、サキが俺を本当に好きになっているとしたら、ゴウドウの考えはサキにとって煩わしいものになるだろう。
「サキは、人間の男と結婚させる」
 そして、ゴウドウはサキを獣人と結婚させる気が無い。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
 ゴウドウは俺の瞳を見て、黙って頷く。
「ゴウドウさんの想いを、サキさんはよく解っていると思います。
それでも、サキさんが反発したら、その時はよく考えてあげてください」
「それは、説教のつもりか?」
「いいえ、経験談です」
 そう言って薄く笑うと、ゴウドウも瞳を閉じて低い声で笑った。
「肝に銘じておこう。それにしても面白い男だな君は、人間だったら、婿でもよかったかもしれん」
「恐れ入ります」
「……もう話す事はない、サキとの会話も許そう。適当に時間が経ったら帰ってくれ」
 席を立つと、ゴウドウにもう一度会釈をしてから俺は部屋を出た。

 一度屋敷の外に出てから、門に向かわずに俺は道を逸れた。
 細い道が続いた先に歩を進めると、屋敷で隠れていた月が顔を出す。
 広いゴウドウの屋敷だけあって、その庭もまた豪華なものだった。
 庭の中央には噴水まである、この屋敷だけを切り取ると別世界みたいだ。
 その別世界の噴水の前で、月光に照らされたサキは静かに水の流れに視線を落としていた。
「ここに居たのか」
 背中に声を掛けると、サキが振り返る。
「ラスト様」
「夏でも、夜はまだちょっと冷えるから気を付けた方がいいよ。サキちゃん」
 俺の言葉に、サキが目を見開く。
 あれ、なんか悪い事言ったかな。
 俺が続けてそう言うと、サキは慌てて両手を振っていた。
「いえ、違うんです。その……サキちゃんって言われるのは、初めてでして」
「ああ。えっと、サキ様?」
「そ、そんな言い方はとても。ラスト様のおっしゃりたい様になさってください」
「そう、じゃあサキちゃんで。俺の事も好きに呼んでいいよ」
「それでは……その、ラストさんとお呼びしてもよろしいでしょうか……?」
 答える代わりににっこり笑うとサキが顔を真っ赤にする。
 からかうのってよくないけど、ちょっと楽しい。
 噴水の縁に腰掛けると、サキも遠慮がちに隣へやってくる。
「サキちゃんは、お父さんの事どう思ってるの?」
 さっきゴウドウとした話の事が気になって、そんな事を口にしてみる。
 俺の言葉に、サキは僅かに身体を震わせた。
 あ、地雷踏んだ。
「父が失礼な事を言いませんでしたか?」
「いやぁ、特には」
「……私の婚約相手の事を、言ったんでしょうね」
「やっぱわかるの?」
「二人で話したい事があると言われましたから、ラストさんにくぎを刺すつもりなのは解っていました。
すみません、きっとご不快になられる様な事を言われたと思います」
「そうかな。俺は、ゴウドウさんがサキちゃんを大事にしてるなって思ったけど」
 もし、ゴウドウが本当に自分の考えだけを押し通し、獣人を突っぱねる様な人物なら俺はここに居ない。
 それより先に、ロイガがゴウドウに雇われる事すらなかったはずだ。
 その辺りの事を振り返ると、ゴウドウが頭からすべてを否定する性格でない事は想像できる。
 今日の事も、複雑に思いながらもサキの希望を叶えてくれたのだろう。
「それは、私もよく解ります……小さい頃は、忙しくてあまり構ってくれませんでしたが、
最近は何かと気に掛けてくれて、優しい父だなって思うんですよ」
 はにかみながら父親を自慢するサキは、本当に子供の様だった。
「父の考えは、よく解るんです。私も、小さい頃からそういう風に育てられてきましたからね」
 そういう風、というのがどういう風なのか、俺はぼんやりと考える。
 まあ、大体は獣人があんなことやこんなことになってる話だからもういいや。
「でも、私は……獣人さんの事を、ただ野蛮なだけだとは思いたくないんです」
 獣人さんって言い方ちょっと可愛いな。
「ラストさんが、私を助けてくれました。だから、どんな種族にも、優しい人が居るんだなって思えたんです」
「そりゃ、どうも」
 箱入り娘として育てられてきただろうサキの言葉には、嘘は微塵も感じられない。
 サキのこの考えた方が俺は好きだけど、それがサキを縛りつける事になるんだろうと思った。
 ゴウドウの言葉が頭の中で甦る。
「私は、獣人さんの事をもっと知りたいんです。触った事も、ありませんでしたから」
 もしかしてこの間逃げるために手を握ったのが初めてだったのか。
 ゴウドウが本当にサキに虫が近づかない様にしてるんだなと、ちょっと複雑になる。
「だったら、さ」
「はい?」
「触って見る?」
 顔を差し出すと、サキの頬がまた朱に染まる。
 面白いなと思いつつも、今度はからかっているつもりはない。
 じっとしていると、サキがおずおずと手を伸ばして俺の頬に触れる。
 一頻り頬を撫でてから、顎を通って首を撫でたり、今度は上って耳を優しく掴む。
「すごく、ほわほわしてます……」
「狼だからね」
 目を閉じて、サキの手の感触を味わう。
 初めは遠慮がちだったその柔らかな指先が、今は獣毛に覆われた身体でも充分に感じられるぐらいに
強く当てられていた。
 やがて満足したのか、少し名残惜しげに撫でてからその手が離れる。
「……生きているんですよね」
「きぐるみみたいに思ってた?」
「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ、ただ、その……今まで、まるで絵に描いた物の様な気がして」
 触る事から初めてなのだから、まあそんなもんなのだろう。
 俺にはよくわからないが、サキは俺に触る事ができて満足そうに微笑んでいた。
「ラストさん……父は、やっぱり獣人との恋なんて許してくれないでしょうか」
「少なくとも、俺じゃ駄目みたいだったね」
 人間だったら、ゴウドウは確かにそう言った。
 つまり、今の俺じゃ駄目なんだろう。
 サキが黙ったまま唇を噛み締めている。
「それに、俺みたいなチンピラ風情じゃちょっとね」
「……ラストさんは、本当はどこか立派な家柄の方であらせられるのでは?
お食事の時も、とてもしっかりとした作法をなされていました。
もしそうなら、きっと父もラストさんの事を」
「サキちゃん」
 サキの言葉を遮る様に、俺は名前を呼んだ。
 視線を交わらせると首を左右に振る。
「俺は、サキちゃんと釣り合える様な奴じゃないよ」
 ゴウドウの娘で居続ける限りは、という言葉を呑み込む。
 連れ出すのはきっと容易で、だけど連れ出した先に幸せが待っているとは限らない。
 だから俺は何も言わなかった。
 それに、今の俺では本当に釣り合わないと思った。
 サキは俯くと、それ以上強く俺に言う事はなかった。
「すみません、突然こんな……会ったばかりですし、ご迷惑ですよね」
 一度、深く頭を下げられた。
 可哀想だけれど、これで俺の事は諦めてもらえると思う。
 獣人である俺が、獣人を快く思わないゴウドウの味方をするんだからおかしな話だった。
「……そろそろ帰るよ、俺」
 家では、多分ロイガが黙って番をしてくれているだろう。
 そろそろ帰って機嫌を直してもらわなければ。
「また、来ていただけますか?」
「うーん、どうかな。ゴウドウさんの事もあるし、あんまり来ちゃうのはよくないと思う」
「そうですよね、父も心配します」
 すっかり沈み込んでしまったサキを見て、俺は頭をぼりぼりと掻く。
 このまま帰るのはちょっと可哀想かな。
「サキちゃん、携帯ある?」
「え、携帯ですか?」
 ちょっと驚いた仕草の後、サキは服をごそごそして携帯を取り出す。
 よかった、お嬢様だから持ってなかったり知らなかったりするのかと思ってた。
「電話は、ちょっと時間が合わないから無理だけど……メールくらいならさ、時間のある時にするよ」
 俺が懐からプライベート用の携帯を取り出すと、サキの顔が少し明るくなる。
 しばらく電子音だけがその場に響いて、登録を済ませると俺は縁から立ち上がる。
「それじゃ、またねサキちゃん」
 さよならとは言わずに、わざとらしく深く一礼すると俺はその場から走り出す。
 引き止める暇など与えなかった。
 屋敷の正面まで戻ってくると、一度屋敷の扉を開いてから傍に居たメイドに帰る事を告げて門から外に出る。
 屋敷から離れると、すぐに大きな月が顔を出した。
 その月を見つめながらとぼとぼと歩いた。
 サキの純粋な想いは、嬉しかった。
 けれど、俺は今それに応える事はできそうにない。
 男に捨てられて傷心中な奴が、何を返したところでいずれサキを傷つけるだけだ。
 携帯を弄ると、登録したばかりのサキの名前の下に、見飽きたあの名前。
 本当に、どうしよもうない男だ俺は。
 携帯をしまって溜め息を吐いていると、前方の影がにゅっと伸びる。
 何事かと目を凝らすと、月光に照らされた金色の毛皮が目に跳び込んできた。
「ロイガ」
「話は、終わったのか」
「……なんでいるの?」
「ゴウドウに、迎えに来いと言われた」
 つまり、俺が居座った時の保険という意味も込めて呼んだのだろう。
 苦笑いを零すと、ロイガの胸に拳を当てて先に道を歩いた。
 何も言わないで、ロイガは俺をじっと見つめる。
「サキちゃんを振ってきた」
「そうか」
「俺には勿体ないくらいの女の子だよな、ああいうの」
「…………」
「なんだよ、そこはそうかって言わないのかよ」
「お前は、優しいんだな」
 顔を上げた。
 ロイガは、やっぱりいつもと変わらない。
「そんなんじゃねえよ、そんなんじゃ……」
 未練がましいだけの、嫌な奴だ。
 突き放す事も、傍に寄らせる事も上手くできやしない。
「ロイガ、ありがとうな。俺にサキちゃんの手紙渡してくれて」
「そうしないと、またゴウドウに仕事を貰えなくなりそうだからな」
「またまた、照れちゃってぇ」
 ロイガの頭に背伸びして手を届かせると、うりうりしてやる。
 ロイガは目を瞑って、されるがままだった。
 時折動く小さな耳がなんだか可愛らしい。
 虎の手触りを堪能してから、俺は手を離す。
「そういや、ちゃんと飯食ったのか?」
「……まだ」
「なんだよ、だったらやっぱお前も連れてくればよかったな。
まあいいや、機嫌がいいから今日も作ってやるよ」
「今日は味付け間違えないよな?」
「う、うるせえ! 昨日のはちょっとミスっただけだろ!!」
 じゃれあいながら、俺達はアパートへ続く道を歩いた。
 小さな蟠りを抱えて。



 追い詰めた相手を、俺はにやりと笑って見つめる。
「へへっ、もう逃げられねえぜ」
「いやっ、やめて……」
「なんだよ、初めてなのかい? 丁度いいや、俺が貰ってやるよ!」
「い、いや! 初めてはあの人って決めてるの、お願い!」
 懇願するその台詞に、更に口元を俺は緩ませる。
「うるせえ! 初めても二回目も変わらねえんだよ、私の心は初めてですとかなんとか言っておけ!」
 そう言って俺は手を伸ばす。
「いやー!!」
 甲高い声が、辺りに響いた。
「……何してるんだ?」
「えっ」
 驚いて振り返った俺の視線の先に、ロイガが居る。
「仕事じゃなかったの?」
 外では、雀の囀りが今の時刻が朝だという事を伝えていた。
「ベランダで洗濯物を干してただけだ」
「あー……」
 見られちゃった。
 そんな事考えてる俺の手にあるのは、フライパンと卵。
「それで、何してるんだ」
「ガス台洗いたてだと汚れるの気になるから、あえて汚してるところ」
「………………」
「あ、なんだよその顔は!」
 ロイガは何も言わず、いつもの定位置に戻るとそのままテレビをつける。
 仕方なく俺は朝食作りを再開する。
「うう、初めては揚げ物さんって決めてたのに……」
「いいじゃねえか、俺の油汚れでもよぉぉぉぉ」
 一度ロイガに聞かれてしまったので、もう気にしないでガス台汚しをはじめる。
 フライパンの上のハムが、パチパチ音を立てて油を跳ねさせていた。
 その上に卵を落として火を通す。
 やっぱり朝は目玉焼きだよな。
「いただきます」
 できあがった料理の前で、手を合わせた俺を見てロイガも軽く頭を下げる。
「そういえば最近よく家に居るな、仕事ないの?」
 手近にあった醤油さしを取ると、ハムエッグにちょいちょい掛けながら俺は口を開く。
「……ああ」
 ロイガは黙々とハムエッグをつつく。
「使う?」
 醤油を傍に置いてやると、ロイガも醤油を掛ける。
 この間は塩胡椒で食べてたので、多分勧められた味付けでも平気なタイプなんだろう。
 あ、俺は醤油派。
「元々、そう忙しい仕事ではないからな。護衛を雇う時は専用の機関を通して多めに採るものだ」
 所属が定かではない、所謂烏合の衆で形成した集団では連携も取れず穴もある。
 そうなると、大勢に護衛させたい時はそれ専用のところに依頼は行くのだと言う。
 ロイガの様なフリーの護り屋は、あまり目立ちたくはないが護衛は欲しいというタイプの客が好むのだろう。
「安心しろ、金はまだある」
「いや、別にそういう事を言ってる訳じゃないけれど」
 お互いに怪我は治ったし、ロイガはもうここを出るのかも知れないと思ったけれどそんな事はなくて、
俺も別にロイガが居て困る事もないから、そのまま何も言わずに一緒に暮らしていた。
 家事やってくれるのは割と助かるし。
 生活費に関してもロイガは別に金を出してくれる、最初の依頼で貰った金で充分なのでそれは貯金に回した。
 いつか、ここを出る時があれば返そうと思う。
「さてと、それじゃ俺はそろそろ行かなくちゃな。片づけよろしく」
「ああ」
 身嗜みを整えて準備を済ませると、玄関で靴を履く。
 カフェに行く時は、普通の靴を履く。
 マスターに見つかったら困るし。
「気を付けてな」
「へ? ああ、うん」
 ロイガの言葉に後ろ手に手を振ると、扉を開けて外に出た。
「気をつけろ、ねえ」
 ロイガがそんな風に言うのも、珍しいものだ。
 ちょっとは打ち解けられたんだろうか。
 普段は無口で、たまに口を開いても皮肉が多かったりするもんだから今一考えが読み取れない。
 無表情だし。
 ロイガの言葉を反芻しながら、俺は朝の道を歩き出した。

 かんかんと照りつける太陽の下をカフェに向かって歩き続けた。
「うわぁ……あっちぃな、こりゃ」
 これから本格的に夏が来るのを知らせる様な暑さだ。
 直接光に照らされた個所が一気に熱を持って、このままだと干物になっちゃいそう。
 早くカフェに行って涼まなければ。
「おはようございまーす」
「おはよう、ラスト君」
 準備中の札が掛けられた扉を開けると、涼風に包まれて思わず尻尾が歓喜する。
 こう暑いと開店と同時に冷房をつけても涼しくならないから、早めにつけてるんだろう。
 俺の様子を見たマスターが上品に笑っていた。
「今日は暑いですね」
「そうだね。これからどんどん暑くなるだろうし、夏休みになれば若いお客さんも増えるね」
「若いお客さんですかぁ」
 変に騒ぐような奴が来ないといいなあ。
「ラスト君は若い方が嬉しいんじゃないかい?」
「いえ、そうでもないですよ。俺は落ち着いたお客さんの方が楽ですから」
 仕事の上ではその方が有難い。
 俺の言葉にマスターはおかしそうに含み笑いをすると、獅子人の鬣も合わせる様に軽く揺れる。
 それが本当に優雅だと思った。百獣の王なんてよく言うけど、マスターはまさにそんな感じ。
 それでいて喧嘩が苦手なのがまたよかった、護ってあげたいタイプである。
 開店の準備を済ませて店を開けると店内にそれなりに客が入ってくる。
 みんな暑さにうんざりした様な顔で、かなり辛かったのだろう。
 単に避暑地代わりに使われている気がするけど、マスターは特に気にせず応対していた。
「ラスト君、アイス五つ」
「はい」
 いつもの珈琲じゃなくて、出るのはやっぱりアイスコーヒー。
 暑いもんね、仕方ないよね。
 やってきた客は、冷房の効く店内でアイスコーヒーを飲んで大分生き返った様な表情をしていた。
 それがまた、外の通りを死にそうになって歩いてる人には天国に見えるのだろう。
 ちょっと迷った仕草の後におずおずとカフェの扉が開かれるのも一度や二度じゃなかった。
 それをマスターが丁寧に出迎える。
 マスターが外に出ているので、代わりに俺はできる限り急いで注文をこなしていく。
 うーん、客の人数的に二人では厳しい気がしてきた。
 そういえば他に雇ってる人って見た事ないな。
 初めて来た時は、まだこの店も開いたばかりであまり客足が伸びなかったからだろう。
「大丈夫かい? ラスト君」
「俺は平気です」
 途中で戻ってきたマスターは、ちょっと疲れた様だった。
「それにしても暑いね」
 そう言うとマスターはシャツのボタンを外して胸を開ける。
「うわっ」
 小声で思わず俺は声を出してしまった。
 鬣の下にある引き締った身体に鬣と同じ色の胸毛があって、それが腹の方まで続いている。
 見えないけど、多分股間まで一直線にそれが生えているのだろう。
 やばい、すごいエロい。
「冷房効かせたいけれど、寒がりの人も居るかもしれないし……ラスト君も少し着崩してくれても構わないよ」
「は、はひ」
 腕捲りを始めるマスター。
 やめて、それ以上誘惑しないで。
 俺とおんなじ気分なのか、遠くに居る奥様の群れもマスターを見て黄色い声を上げている。
「あ、あの。マスター」
「なんだい?」
「今度は俺が接客に出ますよ、動き回って暑いでしょうし」
「そうかい? それじゃお願いしようかな」
 マスターは自分がどういう目で見られているのか、まったく解ってないのだろう。
 突然の提案に不思議そうな顔をしていて、それがまたグッと来る。
 こんなマスターを接客に出すのは不味い。
 咄嗟にそう思った俺は代わりに接客をする事にした。
「おまたせしました」
 奥様方の所に行くと残念そうな顔をされる。
「駄目ですよぉ、マスターをあんなに見つめちゃ」
「もうっ、ラスト君ったら焦らし上手ねえ」
 茶化す様に言うと、うふふと笑いが生まれた。

 昼も過ぎて、やっとこ休憩時間になるとカウンターの中でマスターと揃って一息吐く。
 客はまだ居るけれど、必要ならそのまますぐに出られる状態という事で勘弁してもらおう。
「今日は忙しかったですね」
「そうだね」
 マスターはしかめっ面をして、うんうん唸っている。
「どうしたんですか?」
「ん、いや……これから夏休みに入るだろう? そうなると今日みたいに人が多く来るだろうと思ってね。
短期のバイトを募集してみたんだけど、これがなかなかね」
「そうなんですか」
「そうなんです。なんてね」
 相変わらず服を開けたまま冗談を言うマスター。やっぱエロい。
 反応している下半身に気づいて、慌ててアイスコーヒーを飲んで誤魔化した。
「こういう時、何でも屋さんがいたらな」
 ぶふぉっ。
 思わず俺が咽る。
 マスターは俺を見て、慌ててタオルを取り出すと口に当ててくれた。
「大丈夫かい?」
「す、すみませんつい」
 まさかマスターの口からその言葉が出るとは思ってなかったので、かなり驚いた。
「ああ、でも……バイトを雇う程度のお金じゃ、こういう人はついてくれないよねきっと」
 いやいや、マスターが身体を差し出してくれたらいくらでも。
 マスターの艶めかしい姿を想像しながら、預かったタオルで掃除を済ませる。
「そうですか、バイト……うーん」
「ラスト君の知り合いで、短期で探している子はいないかい?」
「うーん」
 正直なところ俺の知り合いは多くない。
 昼はカフェ、夜は何でも屋と割と不定期に用事が入るので遊びに行ったりはしないのだ。
 唯一あるとすれば、それはあいつとの逢瀬の時のみだった。
 うん、だった。
 そんな俺が思い当たる人物といえば。
「紹介します、ロイガです」
 そんな訳で、次の日にはロイガをマスターの元へ連れてきた。
「あれ、君は確か」
「よく来てくれてましたよね、それでちょっと話をして友達になったんです。
マスターの珈琲が好きで、バイトでどうかって誘ってみたら乗り気になってくれて」
 大体合ってる、大体ね。
 黙ったままのロイガの隣で、俺はべらべらと説明を始める。
 最近暇だというロイガに家で提案してみた所、短期という事ならと了承は得られたので連れてきたけれど、
この無口っぷりである、代弁してやらなければ。
「そうか、嬉しいなあそんな風に人が来てくれるなんて」
 マスターがにっこり微笑む。
 なんという破壊力、鼻血出そう。
 マスターに見えない様に、ロイガの足を俺は蹴り飛ばした。
「……ロイガです、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
 にこにこしてるマスターと、完全に仏頂面のロイガ。
 連れてきてなんだけど正反対な組み合わせだ。
「見ての通り、ちょっと人見知りするタイプなので中でお願いします」
「そっか、それじゃ早速珈琲と料理の作り方でも。
焦らなくてもいいからね、少しずつ教えるよ」
 マスターはロイガが緊張をしてこんなに無口なんだろうと思ったのか、とても穏やかな口調で説明を始める。
 並んで料理を作るマスターとロイガはなんというか結構似合ってる気がした。
 どっちもいい身体してるのがまた。
「手際がいいね、前に経験があるのかい?」
「特には」
「それなのにこんなに上手なのか。すごいなロイガ君は」
 マスターが早くもロイガを気に入りはじめた気配を俺は感じ取る。
 そういえば、ロイガはやたらと家事が上手いんだよな。
 おかげで俺は楽チンなんだけど、カフェでの俺の居場所がなくなっちゃいそうかも。
 そんな風にいじけはじめた俺の所に、またいいタイミングで勘定を済ませようと客が来る。
「ありがとうございましたー」
「本当に筋がいいな君は、お店がもっと繁盛したらずっと雇いたいくらいだよ」
 お、俺の居場所が。
 二人の輪に加わりたかったけれど、入れ替わる様に今度は新しい客がやってきて結局俺は蚊帳の外のままその日の仕事を終えた。
 仕事が終わった帰り道、耳も尻尾もだらんとさせて俺は歩いていた。
「元気がないな」
「だって、まさかマスターがあんなにロイガの事気に入るなんて」
 まあでも、仕方ないのかな。
 ロイガは朴念仁だけど、なんでも上手くできるタイプで、
反対に俺は結構ドジばっかやってる。
 愛想だけでは渡っていけない世の中である。
 実際、仕事をするのならロイガの方がマスターは楽なんだろうな。
「なんか、ロイガに居場所とられちゃいそうだなあ」
 自分で紹介しといてこんな風に言うのはずるいなと思いながらも、すっかりいじけモードの俺はそうやって独り言つ。
「安心しろ、お前の居場所はとらない」
「何を根拠にそんなことを」
「……とらない」
 俺の恨めしそうな視線に気づいていたのか、ロイガはそう強調する。
 それに、ちょっとむず痒い気持ちを覚えた。

 家に着くと、俺は無言でソファーに座る。
 向かい側のソファーにロイガ。
 お互いに言葉が出てこなくて、なんだか喧嘩でもしたみたいだった。
 別に、そんな事はないんだけど。
「はぁー」
 溜め息を吐いてからソファーに横になる。
 しばらく無言で時間が過ぎると、静かな部屋に突然携帯の電子音が鳴る。
「おっと」
 慌てて起き上ると携帯を取り出した。
 仕事用の携帯が鳴らしている音なのだ、無視する訳にもいかない。
「はい、こちらなんでもするけど子守りと殺しはお断り、略してナココ屋です」
 物凄い適当に電話に出る、俺。
 丁度今の気持ちをそのまんま表した感じだった。
「はい、そうですか……すみません、少々お待ちください」
 相手の話を聞いて俺は眉根を寄せる。
 ソファーから立ち上がるとロイガを置いて寝室へ入り扉を閉めた。
「先程は大変失礼しました、改めてご用件をお伺いいたします」
「引き受けてくれますか?」
 電話の向こうから、しわがれた老人の声が聞こえてくる。
「それは、提示される情報次第で私が決める事になります。
無理だと判断した場合は、申し訳ありませんが」
「それで構いません、他に頼めそうな人も私は存じませんので」
 話の解る老人だった。
 ここで変にゴネる奴だと電話を切りたくなる。
 あんまり来ない仕事の依頼なのでそんな事しないけど。
 老人の話にしばらく聞き入る。
「なるほど、大体の話はわかりました」
 一通りの話を聞いてから、俺は軽く咳をする。
「それで、引き受けていただけますか?」
「……もう一度訊きますが、本当に盗まれたものなんですね?」
「はい、それはもちろん。私の、いや……私達の大切なものだったんです……」
 今にも消え入りそうなその声に、携帯電話を握る手に力が籠もる。
「お引き受けしましょう、私一人でどこまでできるかはわかりませんが」
「本当ですか? よかった、断られたらと思うとどうしようかと」
「細かい打ち合わせをしたいのですが、場所の指定はどうしましょう?」
「それなら私の家に、裏口からお願いします。場所は」
 住所を聞くと、俺は電話を切る。
 久々の依頼だ。
 といっても、雑用系の仕事はそこそこ入ってるんだけど。
 受けた順番としては今回を後回しにするべきだけど、急ぎの仕事だったので優先決定。
 てきぱきと準備を済ませると寝室から出る。
「仕事か?」
「ああ、留守番よろしくな」
 仕事モードの俺の口調はいつもとちょっとだけ違って、ロイガにも命令口調になる。
 意識してる訳じゃないんだけど、どうにも緊張してそうなってしまう。
 ロイガが立ち上がると、俺の前に来てちょっと服装を直してくれる。
「なんだよ、そういうのやめろよ」
「依頼人の前で恥を掻きたくないだろう」
 どうも気になる所があるのか、襟に手を突っ込んだりしてロイガが微調整を加える。
「……気をつけてな」
「お前が言うと不吉だな」
 普段無口な癖に、と続けると僅かにロイガの口元が緩む。
「心配してやってるのに、愛想の無いやつだ」
「愛想のまったくない奴が何言ってんだか」
 ツボったのか、ロイガがまた低く笑う。
「じゃ、行ってくるよ」
 最後に見たロイガの顔は、少し寂しそうな表情をしていた。

 闇夜の中、それと同化しそうな程暗い色のコートを纏って俺は目標の建物を見つめた。
 依頼されたのは、有り体に言ってしまえば盗みだ。
 ただし盗まれた物の盗み、いわゆる奪還。
 元の持ち主の所へ返すのだから何も悪い事ではない。
 と、俺は勝手に思ってこの仕事を引き受けている。
 一応本当に盗まれたのかどうかを何度も依頼人には尋ね、自分で軽く調べても見たが、
今回盗み出す品が元々は依頼人の物で、盗まれた物だというのは間違いがないみたいだった。
 というか、数年前にニュースを見た事がある。
 得てして最初の情報だけを伝えて、続報を伝えないニュースに俺は忘れていたのだけれど、
依頼人の家に行ってその時のニュースを思い出した。
 盗まれたのは著名な画家の描いた絵だ。
 依頼人はその価値が惜しいというのではなく、それが亡くなった奥さんと自分を巡り合わせてくれた物だから、
盗まれた時途方に暮れたのだと言う。
 その絵が手元に戻らぬ内に、最愛の妻もまた帰らぬ人となってしまった。
 ニュースにもなったのだから、警察も捜査に動いたのだが相手が裏社会に精通しているキナ臭い連中だと知った途端に
手を引かれてしまったのだという。
 どうにか自力で絵の場所を調べ出したのだが、取り合ってももらえずその絵は買い手がつき次第裏で流される事が既に決定しているんだとか。
 まあ、盗んだ相手が来てすみませんでしたと返す様な奴らだったら警察もすぐに絵を取り返してくれただろう。
 そこで俺の出番という訳だった。
「しっかし……いい話だなー」
 奥さんとの馴れ初めを話す老人の顔が脳裏に浮かぶ。
 出会い、共に齢を重ねて、死ぬまで添い遂げようと決めた相手。
 その相手と一緒に見続けていた絵。
 駄目だ、いい話過ぎるだろ。
 熱くなる目頭をちょっと押さえて顔を振ると俺は気合いを入れる。
 正直なところかなり危険な依頼だった。
 引き受けるのも迷った、下手すれば簀巻きにされて海に投げ捨てられかねない様な仕事だ。
 それでも俺は引き受けてしまった。
 引き受けた以上は依頼人が嘘を吐かない限りはやり遂げるのがプロだ。

 館の前で俺は立ち止まる。
 事前に下見した感じでは、絵の保管してある離れまでは割と近かった。
 普段は大量のガードが居るらしいけれど、それがここ数日は居ないんだとか。
 多分、決められた期間で護衛を頼んだ奴らが期日を過ぎて引き返したのだろう。
 都合がつかなかったのか、代わりの奴らがすぐには来ないんだとか。
 だから今しかなかった。
 その内また新しい奴らが来たら、俺一人の力ではどうしようもなくなる。
 とはいえ、いくらなんでも無人という事はありえない。
 当然次のガードが来るまでの間、短期間のガードを少しは雇うだろう。
 予想通り建物の前にはいかつい男が二人佇んでいた。
 さっき通行人の振りをして前を通った感じ、二人とも屈強で腕力に物を言わせるような感じだった。
 仕事じゃなかったらもうちょっとじっくり見ていたかった、捕まりそうだけど。
「さてと、それじゃいきますか」
 コートに腕を突っ込んで、秘密兵器を取り出す。
 ごほん。
「まめでっぽー」
 そんじょそこらの豆鉄砲とは格が違う、しっかりと拳銃の容をとった特別製である。
 というかこれじゃ豆鉄砲というよりは木製の拳銃だ。
 細かい事は気にせずに、取り出した豆鉄砲に弾を込めて宙に向ける。
 向き良し、角度良し。
 パンッと発射音がして撃ちだした弾が宙に弧を描く。
「うおっ!?」
 遠くで男の声が聞こえる、狙い通り当たったみたいだ。
「なんだ、どうした?」
「なんか飛んできて……なんだ、こりゃ……」
 その内男の声から力が抜けてきて、どさりと音がする。
「お、おい!」
 倒れた奴に駆け寄った牛男の姿を認めると、脱兎の如く駆け出し近づく。
 男が俺に気づいて声を上げるよりも先に用意していたハンカチをその口に当てた。
 男の目が見開かれた後、とろんとした顔になる。ちょっとそそるかも。
 俺の腕の中で眠りに落ちた身体を受け止めてやる。
 ちょっと痙攣してるのは、眠り薬と痺れ薬を混ぜた奴を嗅がせたせいだった。
 こういう世界だと、結構一種類の毒には耐性のできる奴も珍しくない。
 そんな訳で、薬物で攻撃する時は大抵自分で調合した二種類以上の毒を使っていた。
 もちろん下手したら毒を盛られた相手が死ぬので、かなり弱めの薬である。
 弱めではあるが、複数の症状に侵されると意識が保っていられなくなるので使い勝手のいい薬だった。
 調合中のうっかり事故で自分が寝込んだりしない限りは。
 向こう側で倒れている男も、薬を紙に丸めた弾が当たったせいで同じ様に眠っている。
「おやすみなさーい」
 路地に男二人を連れ込んで寝かせる。
 面白そうなので、ついでに抱き合わせてみる。
「いけない二人の恋!? 仕事中なのに、俺達……」
 副題をつけて、かっかっかと笑いながら俺は館の敷地内へと侵入した。
 顔だけを覗かせて辺りを見渡す。
 見張りは表だけなのだろうか、人気がなかった。
 正面の館も使っていないのだろう、離れをこっそりと絵の保管庫に使っている様だった。
 まあ、その方が目立たなくていいんだろう。
 造られた道の上を堂々と歩く。
 こういう建物って、横の芝生を歩くと変なのが仕掛けられてて却って見つかりやすいんだよね。
 その点、ガードが歩きそうな場所には小難しい仕掛けはまず設置されていない。
 専属のガードならばそういう仕掛けと組み合わせて強力な防衛効果を発揮するんだろうけれど、
ここのガードマンが入れ代わり立ち代わりなのはわかっている。
 そうそう複雑なシステムは入れられないだろう。
 ただ、そうなると今度は逆に心配な事もある。
 機械で複雑な護りができないのならば、当然しっかりした用心棒を用意するしかない訳で。
 新しいガードマンが来るまでの繋ぎとはいえ、それなりの奴は居るだろう。
 それこそ表の奴らなんてただの子供騙しなくらいの奴が。
 道を曲がって、離れの建物を見つけるとその前に男が立っていた。
 気づかれぬ様に一度下がろうとして、俺を目を見開いた。
「……マジかよ」
 口元を緩ませるが、それは嬉しさからではなかった。
「隠れてないで、出てきたらどうだ」
 静かな声が聞こえる。
 あの声だ。
「ロイガ」
 物陰から跳び出した俺は、佇む虎人の男を見上げた。
 ロイガは表情を崩さずただ俺の全身を見つめる。
「どうしてお前が」
「……一応、俺の台詞でもあるんだが」
 それで俺は事態を呑み込んだ。
 警備が手薄になったから、今の内にと仕事を頼まれた俺。
 警備が手薄になったから、代わりが来るまでと仕事を頼まれたであろうロイガ。
 そういう事だった。
 眩暈を覚えながらも、ロイガと顔を合わせる。
「俺は、絵に用がある」
「ここにある物を護れと言われただけだ」
 あ、やっぱ駄目なのね。
「ここにある絵は、盗まれたものなんだぞロイガ」
「だから?」
 言葉に、俺はロイガを睨みつける。
「……引く気はねえってか」
「プロなら、一度受けた仕事はやり遂げるものだ」
 交渉決裂。
 まあ、ロイガならそう言うだろうなと思ってたから今更驚く事もない。
 視線をそらさずに俺はコートを脱ぎはじめる。
 ロイガみたいなタイプには小細工はまず通じない。
 とすると肉弾戦になる訳で、ひらひらした服ではちょっとやりにくい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

「お前は引いてくれないのか」
「悪いな、俺はそういう訳にはいかないんだよ」
「そうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 短い返事をしてロイガが構える。
 その手にあるゴツい武器に、俺は息を呑んだ。
 ナックルダスターを使うロイガだが、その手にあるのはどちらかと言えばガントレットに形状は近い。
 ただ、指の部分はしっかりとした金属で覆われていて殴る事に特化した造りなのだろう。
 あんなので殴られたら一発で昇天しそう。
 しばしの静寂の後、互いが動いた。
 まずロイガに接近した俺が脱いだコートを投げる。
 宙で広がったコートがロイガに被さると同時に、滑り込む様に懐に入ると両手をお祈りのポーズにしてから勢い良く肘を腹にぶち込む。
 腹から伝わる感触に、思わず舌打ちをした。
 ロイガの身体が動くのに気づくと、慌てて離脱する。
 さっきまで居た場所を鉄拳が通り過ぎた。
 空を切る音に冷や汗が出る。
 かわすために離れた勢いで、そのまま回転すると後ろ回し蹴りを繰り出す。
 ガラ空きの脇腹に足が減り込むが、今度は逃げる暇もなく足が掴まれた。
 身体を持ち上げられると、そのまま放り投げられる。
 受け身を取って着地してから素早く立ちあがると、再度構えた。
 コートを取り払ったロイガが、変わらずに黙って俺を見つめていた。
「……打撃が効いたって顔はしてねえな」
 さすがに護り屋であるロイガのガードは固い。
 服の下にプロテクターを入れてあるのだろう、硬い感触がしたし、まともに食らったら
大抵の奴はまず立ってられない攻撃をしたつもりだった。
 対する俺は、足の痛みに少し表情を崩す。
 ちょっと掴まれただけなのに、骨が潰されるかと思った。
「痛むのか」
 心配した様な口を叩かれる。
 今は、それが無性に腹立つ。
「お前がやったんだろ」
「仕方ないだろう。お前が引けば済む話だ」
「だから引かないって」
 とはいえ、目眩ましのコートはもう無い。
 実はあのコートには薬品の類が入れてあったので、ちょっと細工をしてから被せるとそれだけで毒を被る事になるんだけど、
その辺りは俺の家に居たロイガは知っているから、ほとんど変化は見られなかった。
 コートを被っている間はずっと呼吸を止めていたのだろう、もっと強い毒なら皮膚に触れさせるだけで効果の出る物もあるけれど、
調合時に危険なので今のところ使う予定はなし。
 やっぱり小細工は通じないのだと結論付けると、俺は決意を固めてロイガに跳びかかった。

 自分の呼吸音が鬱陶しかった。
 息切れを起こした俺を、軽く息を吐いたロイガが冷たく見下ろす。
「……何故本気を出さない?」
「は? 出してんだろが」
 おかげでもう身体中汗まみれだよまったく。
「刃物があるだろう?」
 ロイガの言葉に俺は押し黙る。
 どんな攻撃を仕掛けても、鉄壁の守りであるロイガ相手では俺の力は到底足りない。
 ロイガの装備ははっきり言って弱点がなかった。
 対する俺は盗みやすい様に、動きを制限するプロテクターやらは何一つつけていない。
 足払いをしようにも、しっかりと力を籠めた上にプロテクターをつけた脛に蹴りを入れたら俺の方が被害を受ける。
 他の場所もほとんど同じだった。
 唯一保護されていないとしたら、それは頭部。
 ただ、ロイガも当然それは心得ているから簡単には攻撃させてくれない。
 ナイフを使えば、それを突破できるかも知れない。
 特に投げナイフに関してはよくやってるから当てる自信はあった。
 でも、相手はあのロイガなのだ、頭部になんの躊躇いもなくナイフを投げつけるなんてできなかった。
「甘ったれだなお前は。俺は、手加減はしないぞ」
「うるせえよ」
 ロイガの言い方は挑発を含んでいた。
 ロイガにとっては、俺がナイフを使わない方が好都合のはずだ。
 それが何を意味しているのか、束の間考えた。
「もう帰れ、ラスト。全力を出さない癖に引きもしない。お前らしくないぞ」
 その言葉に、俺の中で何かが切れる音がした。
 懐から鞘に収まったナイフを取り出す。
 それを見てロイガが薄く笑った。
「それでいい」
 言葉を返さず、俺は飛び込んだ。
 芸の無い蹴りを食らわせる。
 ロイガの腕がそれを防ぐと足に痛みが走った。
 こんな状態で勝てると思っていたのが馬鹿だった。
 離れると同時に、隠し持っていた煙幕を足元に投げつける。
 目眩まし専用の攻撃には向かない物だ。
 それでも今までと違った攻撃に僅かにロイガが怯む。
 その間に素早く後ろに周り、煙の中から出てきたロイガの頭部に向けて俺は攻撃を放った。
 防がれずに到達したそれを見届けると、更に横に走って位置をずらしてからまた飛び込む。
 晴れてきた煙幕が、ロイガの姿を映し出した。
 次の瞬間、熱が俺を襲った。
 それが痛みだったのかも解らなかった。
 腹から、異常な熱がただ込み上げてくると感じただけだ。
 ロイガの拳が俺の身体を捉えていた。
「ぐ……ぁっ……」
 距離を取るが、痛みに崩れ落ち呻く。
 大声は出さない、新手が来たらもうどうしようもない。
 それでも腹の中から突き上げてくる衝撃に俺は嘔吐した。
「げっ、おえぇっ……はっ、はぁっ……」
 口から溢れ出した吐瀉物がびちゃびちゃと音を立てる。
 生理的な涙がぼろぼろ零れ落ちた。
 耐え難い臭いに、赤い物が混じっていない事だけを確認すると痛む身体を引き摺って更にその場から退いた。
「ラスト」
 がくがくと震える俺の元にロイガがやってくる。
 立ち上がろうとしたけど、既に全身に力が入らない。
 たった一発貰っただけでこの様だった。
「こんな物で俺をどうにかできると思ったのか」
 足元にナイフの鞘が転がる。
 投げたのは、ただの鞘だ。
 ちょっとでも硬直してくれたら、頭を殴ってどうにかできないかと思ったけれど甘かった。
 鞘を抜いたナイフは、邪魔になるから少し後ろの方に投げ捨ててある。
「……どうして、そこまでするんだ?」
 ロイガの静かな声と、俺の苦しい息遣いの音がしていた。
 声を出そうとして何度も咳き込む。
 内臓や骨を破壊しない様にかなり手加減してくれたみたいだけど、それでも辛かった。
 本気で殴られたら多分血を吐きながら気絶したのかも知れないけれど。
「あの絵は、取り返さないとならねえんだよ……」
「赤の他人の絵だろう?」
「そんな事関係ねえよ。俺が取り返そうと決めたんだ、それだけだ」
 震える身体を叱咤してどうにか立ち上がろうとする。
 まだだ、まだ諦めてはいけない。
 そう思っても足は前に進んでくれそうにもなかった。
 倒れそうになる身体をロイガが抱き止めてくれる。
「すまないな」
 何度も苦しげに呼吸する俺を見てロイガは謝る。
 それを見て、全身から力が抜けた。
「やっぱり、駄目だな俺……お前に、何一つ勝てそうにないや」
 本当に、何を取ってもロイガには敵わない。
 身体の震えを止める様にロイガは優しく俺を抱き締めてくれる。
 その顔が俺の前に来ると唇が合わせられた。
 それで、俺は限界まで保っていた意識を手放した。

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