ヨコアナ
10.食人種の男
滅茶苦茶になっている部屋の入口でヘイスは立ち尽くしていた。
「これって……」
泥棒にでも入られた様で辺りを警戒するが、人気は見られない。
「と、とにかくみんなに」
「待て」
被害を知らせに行こうとしたヘイスをラートムは呼び止める。
怪訝そうな顔を竜人に向けた。
「ヘイス、すまないがしばらくこの事は黙っていてくれないか」
「え? どうしてですか?」
今すぐにでもディスト達に報告して、犯人を捜し出すのが当たり前だと思った。
被害が広がってからでは遅いのだ。
「少し心当たりがあるんだ。なに、もう被害は起きないだろうから頼む」
どこにそんな確信があるのか、ヘイスは疑問を持ったが、
そこまで言うのならと、一度頷いて裁縫道具を廊下に置くと、仕事を荒らされた部屋の片づけに変えた。
使い物にならなくなった家具を選別して、それを部屋の隅に纏める。
廊下に出してもいいが、目立つような事は避けたくてラートムがそう提案した。
「よかった、服は無事みたいです」
流石に大きな箪笥は簡単には倒れなかったらしく、中の服を確認してヘイスは安堵の息を吐いていた。
片づけで時間は無くなってしまうのだから、これで服も無かったらまた下着一枚でラートムが動き回る事になるのだろう。
もっとも、ラートムにとっては特にそうなっても不都合はないのだが。
ヘイスがまともに顔を合わせてくれなくなるのが、唯一欠点といえばそうだった。
粗方片づけ終わると、ソファーに座り一息吐く。
その間にヘイスは大きな袋を持ってきて、それに捨てる物を入れていた。
「後で捨てておく」
他の者に気取られぬ様に素早く運ぶのは、ヘイスでは難しいだろうと思いそれ以上の作業をラートムは止めさせる。
休憩している二人に向かって、快い風が吹いた。
「窓の硝子も無くなっちゃいましたね」
綺麗に硝子が抜けている様は一層清々しいものだった。
これの調達は少し面倒な事になるとヘイスは考えていたが、
それを無視して立ち上がり窓の前に立つと言葉をラートムは紡ぎ出す。
程無くして、窓から見える景色が少し淡くなった。
「これでいいだろう、硝子の代わりにはなる」
魔力で作った壁だが、半透明で光を通すそれは確かに硝子と然程変わらない物だった。
念じれば遮光を更に強める事もできるし風も通せるので、利便性を考えるのならもっと上だろう。
完成したばかりの魔法を、ヘイスは感心した様に見つめていた。
それからラートムは少しだけ無口になった。
というよりはなにかを深く考えている様で、話をする事を忘れていたという方が正確だった。
結局、誰にもラートムの部屋が荒らされた事を話してはいない。
流石に他の誰かの部屋が荒らされたら誤魔化せないだろうと、ラートムに話したが、
ラートムの言葉通り、被害が続く事はなかった。
ギルドまでの帰路をヘイスは行く。
尻尾を揺らしながら歩く様は、やはり他人から見ればまだまだ若く見られるのだろう。
ぶら下げた買い物袋には食材が詰め込まれていた。
「今日はなににしようかな……野菜余ってたから、先に使わなくちゃ」
主夫染みた言葉を最初は恥じていたが、今となってはそれも昔の話で、
そんな事を気にするよりも、栄養のある献立を考える事が第一の仕事だった。
「ただいまー」
敷地内に入ると、声を出す。
裏庭へと続く道から、アスタが走ってきた。
アスタを伴ってもよかったが、今日はそれ程多く物を買う予定が無かった事と、
ボルクに稽古を付けてもらうそうだったので、一人で買い物へ出ていた。
尻尾を振り回しながら纏わりつくアスタを制して、果物を一つ手渡す。
そうしていると、遅れたボルクがゆっくりと歩いてきた。
じゃれているアスタを下げさせて向かい合う。
「ただいま、ボルク」
「……おかえりなさい」
ボルクとは、あの後も適度に言葉を交わしているが相変わらず深いところへは触れずに居た。
気持ちを知ってもどうすればいいのかヘイスには解らなかったし、
ボルクも、決してそれを求めようとはしなかった。
はっきり言える事は、自分がまだここに居たいという事だけだ。
視線が痛いのか、ボルクは何度か咳払いをする。
「そういえば、客が来ていた」
「え、お客さん?」
依頼人と聞いてヘイスは目を丸くする。
ギルドに直接来る客というのは珍しかった。
当たり前の事だが、魔物が現れる場所はギルドから離れた現地で、
まずはそこに向かって話を進めてから仕事が始まる。
大抵はポストに依頼を簡潔に記した物が入っているのだ。
態々出向いてくるという事は、余程の緊急事態なのだろうか。
とりあえずヘイスは礼を言うと慌てて建物へと入る。
まずは食堂へ向かうと、比較的涼しい場所に買い物袋を置いた。
そのまま薬缶を取り出すと水を入れ、火を点けてから次に応接室へと向かった。
応接室といっても、単に入口から近く散らかっていない部屋をそのまま使っているだけなのだが。
扉の前で聞き耳を一度立てると、確かに知らぬ男とディストの声が中から聞こえた。
ディストの口調がいつもと違い丁寧なところを見ても、やはり客人なのだろう。
それを理解すると、再び食堂にヘイスは戻っていった。
依頼書を見つめて、ディストは唸っていた。
控え目な大きさの机を挟んだ向こうには客の男が居て、こちらを見ていた。
身体付きは、激しい運動を繰り返しているここの者と比べると貧相なものだ。
ヘイスが少し近いのかも知れない。
それがごく普通に暮らす人の体躯なのだと、そんな事を思った。
報酬として提示された額は破格のものだった。
普段ならば飛付くところなのだろうが、問題はその依頼の内容だった。
余程の事なのかもしれないが、男の顔は縋るものではなくただ諦念を覗かせていた。
口を開き言葉を発しかけた時、不意に部屋の扉が叩かれて揃って顔を向ける。
一拍置いて扉が開かれると、盆に茶を載せたヘイスが一度軽く礼をしてこちらを見ていた。
自分が聞いて良い話なのかどうか測りかねているのだろう。
頷くと、微笑んでからこちらへ歩み寄ってくる。
「どうぞ」
緩慢な動きでヘイスは茶と、菓子を置いてゆく。
当然の様に受け取ると早速啜った。
程良い熱さの湯が喉を通り胃に収まると、そこから温かさが染みわたり心地良さを覚える。
気持ちを整理すると再び依頼内容を頭に叩き込んだ。
依頼書を見ていると、別の場所から視線を感じてそちらを見る。
手持無沙汰になっていたヘイスと目が合った。
「あ……ごめんなさい」
ほとんど無意識でヘイスも見ていたのだろう、慌てて数歩下がっていた。
「いえ、構いませんよ」
依頼人の男がそう言ったので、おずおずとヘイスはまた近寄ってくる。
それを特に制する事はなかった。
丁度自分も思い悩んでいたのだ。
ヘイスが依頼書の内容を頭に入れている束の間、また茶を喉に通した。
「……食人?」
記載されていた中から疑問に思った事を、ヘイスが口にした。
「意味がわかるか?」
尋ねると、ヘイスは静かに左右に首を振った。
「人を喰う、人の事だ」
ヘイスの身体が僅かに震えた。
なにも知らない者の反応としては、当たり前といったところか。
「その食人種の男が現れたのです」
沈みきった声が部屋に響く。
それを退治してほしいというのが、今回の依頼だった。
「食人が危険なのは確かに承知していますが、具体的な被害が出ないとこちら側からは動けません」
諭す様に静かに言葉を口にする。
食人、と言われているがそちらも人に変わりはない生き物である。
確かにそこに生きていて、意思もある。
ただ無作為に人を襲う魔物とは違っていた。
「被害は出てないの?」
「なんとも言えないな。モンスターのした事を食人のせいだと噂される事も多いし、その反対もある」
魔物ではない、しかし本人の行いによっては魔物と変わらぬ扱いをしなければならない。
微妙なところだった。
「とにかく、今日のところはお引き取りください。こちらでも調べてみますので」
その場での結論を出すと、男はただ静かに頷いた。
食人の問題は時折耳にする、それを引き受けて討伐した事で非難されてしまう事もまた耳にした事がある。
恐らくは大抵の場所で依頼は断られたのだろう。
ロアの所ならどうしただろうかと、背中を見せた男を見つめながらディストは考えた。
「さて、どうするか」
ヘイスと二人だけになってから、ディストは考え込む。
相変わらずヘイスは困った顔をしながらこちらを見ていた。
「食人ってのはな、昔は竜人と共に生きていた種族なんだとよ」
「え?」
「それこそ街なんてものがほとんど無かったくらい、モンスターが多かった時代の頃の事だ。
竜ってのは元々蔓延ったモンスターを片っ端から始末してきた種族でな、そのお供が食人だったって話だ」
自分が生まれるよりも、もっと昔の事だ。
人のために戦った竜と、その付き人の両方が今は人から畏れ疎ましがられるのだから皮肉な話だ。
「詳しくは俺も知らないが、うちにはラートムも居るからな」
いずれその耳にも入る事だろう。
ラートムがこれをどう受け取るのか、それもディストの悩みの種だった。
「ラートムさん……」
ソファーで寛ぐラートムをヘイスは見下ろした。
少し気だるそうな様子をしているのは、この間の被害で買い替えを余儀なくされた
家具を新しく探してきたせいなのだろう。
呼ぶと、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
「どうした、ヘイス」
双眸に映る顔は不安げだった。
察したのかラートムはできるだけ優しい声を掛けてくる。
「その、お客さんが来て、それで」
自分から話す事は、事前にディストに伝えてあった。
言葉を聞いてもディストはなにも言わなかったが、止めようとする素振りも見せなかった。
「食人種か?」
無表情のまま、ラートムが先に言った。
それに思わずヘイスは驚き声を失う。
こちらを見つめながら、ラートムは一度溜め息を吐いた。
「この間、私の部屋が荒らされていただろう?」
「えっ、あ……はい」
ラートムが右手を差し出して、魔力を込めた。
なにをするのかと見ていると、遅れて傍にあった家具のひとつが浮き上がりその掌の上へとやってくる。
驚きながらもヘイスはそれがなんなのかを知っていた。
ラートム程の魔法の使い手になれば、物に魔力を宿すのは容易い事だ。
常に魔力で覆う事により、保存状態を良好にできるのだという。
それが時たま勝手に動き、ここの心霊現象になっていた。
苦い思い出が出てきて、それを頭から追い出す。
「あの時、この部屋のほとんどの物から私の魔力が消えていた」
命じたのか、ラートムが腕を収めると家具も元の場所へと戻る。
「何者かが、家具に掛けていた魔力を弾けさせたのだろう」
浮いた家具が、それぞれ飛びまわる様はなんとなく滑稽だと思ったが、
それでもほとんどの家具に動いた形跡があったのだから、末恐ろしいものだった。
「それが、食人の人ってことですか?」
「そうだな。竜人の魔力を直接弄る事ができるのは同じ竜か、それに近い力を持った者だけだ」
「それって……」
嫌な予感がして、ヘイスは顔を顰める。
ラートムが頷いた。
「その食人は私に用があるのだろう」
自分の部屋を荒らした事が、なによりの証拠だった。
そして、相手の用というものは決して穏やかなものでない事もわかっている。
「でも、昔は一緒に戦った仲間なんですよね? だったら」
ヘイスのその言葉に、首を横に振った。
「互いに助け合った、それは事実だ……しかしな」
一度溜め息を吐いた。
束の間、ヘイスに話していいものか悩んだ。
余計な事を言うなとディストには何度も釘を刺されている。
それがただの話ならまだしも、竜人に関わる事全ては厄介事だとディストは思っているのだろう。
ラートム自身もまた、それを否定するつもりはなかった。
身体を重ねるだけでも、相手の身体を強くして長く生きながらえさせる事ができるのだ。
有り触れた日常が、瞬時にして変わってしまう。
それを、ラートムは生と切り離す事だと考えていた。
「ラートムさん」
考え事に耽っていたのが知れたのか、ヘイスが名前を口にする。
頭に響く事が今は煩わしく感じられた。
「僕、知りたいです」
次には、そんな事を言われて少し驚いた。
今まであまりはっきりとは口にしなかった事だ。
それに口元を緩ませる。
ヘイスが知りたい、そう言うのなら躊躇はしなかった。
呼吸を整える。
ヘイスに伝えるべき言葉を頭で整理した。
終わると同時に自然と口が開きラートムは語りはじめる。
「最初に断っておくが、食人という呼び方は単なる蔑称に過ぎない。
私もそれを快くは思っていないが、説明のためにあえて口にする事を理解してほしい」
ヘイスが頷く。
蔑称であるが、彼らに対するそれ以外の適当な呼び方をラートムもまた知らないでいた。
「竜人と、彼ら食人が遠い昔旅をしていた事はもう知っているだろう」
「はい、ディストが教えてくれたので」
いつも間の抜けた印象を相手に与えるが、流石に知るべきところをディストは知っていた。
「元々竜人と彼らは容姿が似ていてな、生物としては随分近いところがあった。
力の差は確かにあったが、それ以外では皮膚の色と人を食べるかどうか、その程度の違いだったんだ」
ヘイスにとって、人を食べるか否かはかなり大きな違いなのだろうと言いながら思う。
魔物が跋扈し、狩る側と狩られる側でしか区別のなかったあの頃の感覚を知っているラートムにとっては、
あまり深く考える事のない問題だった。
「その頃のモンスターの被害は今の比ではなかった、それこそ人という存在が絶滅してしまう程だったと言っていい」
ラートム自身も、その戦いに加わったのはかなり後の方だった。
実際にその竜の旅がどれ程続いていたのか、今となっては知る術はない。
「事態を重く見た竜人がまず立ち上がった。
次いで、竜にほとんど忠誠に誓い態度をとっていた彼ら食人もだ」
聞き入っているヘイスの表情は、期待と不安が絡み合っていた。
考えて見れば、武勇伝そのものの様な言い方だ。
内心、ラートムは呆れた様に笑った。
「旅に出る前に、ひとつだけ竜人と彼らは誓いを立てた」
「誓い……?」
「食人は、人を主食にする生き物だ。
モンスターの被害が大きかった頃は、主に襲われた人の死体を食べる事が多かった。
直接人を仕留める事もできたが、彼らも人の心を持っていたからな」
知能が高い生き物を殺める事を、人は躊躇する。
彼らも、それに苦しんでいると聞いた事があった。
「彼らが竜人に従ったのは、モンスターの手が彼らにも伸びていたからだ。
竜人以外の種族はしばしば被害に遭っていた」
元々街という物もほとんど無く、それぞれがまだ各地に少数で散らばっていた時代なのだ。
一人で対抗できる力を持つ者は、やはり竜人以外には無かった。
「モンスターを滅ぼせば被害は減る、それはつまり人が死ぬ事もなくなるという事だ。
彼らは次第に飢えを覚える事にもなる。
そして、竜人は人を滅ぼす者を看過する事はできなかった。
だから竜人は食人を旅の共にすると決めた時に、誓いを立てたんだ」
自分に向けられる表情が、曇りはじめている事に気づく。
「まだ、聞きたいか?」
聞いて気持ちの良い話ではない、それは充分に伝わっただろう。
ヘイスは刹那悩み、それでもしっかりと頷いた。
視界を閉ざしてから、誓いをラートムは口にする。
「旅を終えた時。即ち人が自らの力で生きていけると竜人が確信した時。
竜人は人のために最後の敵を排除する。それは、他ならぬ食人だ」
空気の震えが伝わった。
瞼を閉じているのに、ヘイスがどんな顔をして、自分を見てなにを考えているのかラートムには解った気がした。
ラートムの言葉を愕然と聞いていた。
用済みになれば食人は始末される。
簡潔に言えば、そういう事だ。
「……どうして、食人の人達はそれでも竜の旅を続けたんですか?」
酷いと思った。
それがそのまま言えたらどんなに胸の痞えがとれただろう。
それでも言えなかった。
竜人達自身には、竜の旅をする事で得られるものなどなにも無かったからだ。
すべてが人のためだった、最後に決断を下す事さえも。
それを酷いと口にすれば、目の前の竜人をただ傷つけるだけだ。
知り合ってから日は浅いが、その心が脆い事ぐらいヘイスは解っていた。
「彼らが人の心を持っていたからだ、モンスターの被害にすら心を痛めていた。
どの道、誓いを立てるまでもなく旅に同行する事を決めた時から彼らは滅ぶ事を受け入れていたのだろう」
胸が締め付けられた気がした。
そうして旅立った竜人と食人は今、数を減らして人から疎まれている。
「……続きをお願いします」
最後まで、聞こうと思った。
ラートムはもう止めようとはしなかった。
「旅は順調だった。竜人だけでも戦力としては充分だったが、
食人が死ぬ事を恐れずに奮闘してくれた事が多かったという」
生き残っても、どうせ死ぬ事になる。
せめて力の限り戦いたいという者が多かったのだとヘイスは思った。
「長い戦いの後、竜の旅は終わった。
そして、誓いを違う事なく竜は彼らを手に掛けた」
「……ラートムさんは」
殺したんですか。
その言葉が言えなくてヘイスは口籠る。
「いや、手を汚したのは竜人の代表数名だ」
心の強い者を選んだという。
情けを掛けて時が過ぎれば食人が苦しむだけだと、迷わない者を。
「手を掛ける竜人は涙を流しながら一人ずつ礼を言い命をとったそうだ。
食人も、泣きながら、それでも笑って死んでいった」
言葉を口にするラートムの表情は、今一つ読み取れなかった。
悩みながら、それでも死んでいった食人を冒涜しない様に言葉を選んでいるのだろう。
「旅を終えてすぐに、竜人達も各々が一人で生きていく事になった。
モンスターの数が減った世界で、次に恐れられるのは群れをなしている竜だったからな」
今の世がそれを如実に物語っていた。
たった一人のラートムにすら奇異の目が注がれているのだ。
昔話は、それで終わった。
頬が濡れている事にヘイスは漸く気づく。
ゆっくりとラートムが腕を上げて、指の腹で涙を拭ってくれた。
「泣いてくれるんだな」
それきり、ラートムは喋らなかった。
涙が引くのを待ってから、ヘイスは考えを整理した。
「でも、ラートムさん、今の話だと食人の人ってもう誰も居ないって事になるんじゃないですか?」
一つ疑問が浮かんで、問い掛けてみる。
「そうだな、独りでいた食人も確かに居ただろうがそれも本当に僅かな数だっただろう。
だが、今回の食人はその者達ではない」
「それじゃ、どうしてこんなことに」
それ以外の食人は、竜の旅の後に全員が手に掛けられたはずだ。
説明を認める視線を受けてラートムが頷いた。
「竜人は、確かに食人を手に掛けた……だが、手に掛けられなかった者も居たんだ」
「手に掛けられなかった者?」
「彼らの、子供だ」
旅をする途中で生まれた命だと、ラートムは言う。
「確かに誓いは立てた、だがそれは最初に旅をすると決めた時のものだ。
彼らの子供にそれを背負わせる事だけは、どうしてもできなかった。
言い争いも起きたが、その子供達だけは見逃すことになった」
気持ちはわかる気がしたが、微妙なところだった。
幼い子供の居る親でも、やはり手に掛けなくてはならないのだろう。
放り出された子供の大半は死んでいったはずだ。
竜人の自己満足と言われればそうなのかも知れない。
ただ、生き残った竜人もまた人に疎まれ独り生きてゆく道を辿る事を覚悟していたのだ。
ヘイスはただ、どちらの道も歩きたくはないと素直に思うだけだった。
「今回の件は、その生き残りだと思う。それも、竜人と食人の間に生まれた子だ」
「竜人と、食人の間……ですか?」
ラートムに返せる言葉は、どうしても疑問符がついてしまう。
それでもラートムは一から話してくれた。
「子を生す事はできるんだ。私の、竜の魔力を乱してくれた、これは竜の力だろう。
しかし微かに部屋に残っていた力からは食人のものも確かに感じ取れた」
竜人と食人、両方の力を持っているのだとラートムは言う。
それは確かに、竜の旅で見逃した子供の内の誰かなのだろう。
ヘイスは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
その時の見逃された子供が、竜人の一人であるラートムに怨みを持っていると考えるのは自然な事だ。
「大丈夫だ」
心配そうに見つめていたのを察したのか、ラートムが言う。
「本当に私を手に掛けたいのなら、挨拶代わりの真似なんてせずに不意を衝くだろう」
それならば、なにか用事があるのだろうか。
しかしそれにしても派手な挨拶ではあった。
「とにかく、この話はこれで終わりだ。
長話に付き合ってくれた事は礼を言おう」
話を終わりにされると、新調されたばかりの時計を見てヘイスは立ち上がる。
そろそろ仕事に戻らないといけなかった。
「それじゃラートムさん……また、なにかあったら」
部屋を出る間際にヘイスは言う。
ラートムが、言葉に少し目を見開いた。
「ああ、ありがとう」
扉を閉めて、廊下を歩きながらヘイスは考え込む。
結局、部屋を荒らした相手がラートムになにを求めているのか測りかねていた。
命を狙っている可能性も捨てきれず、心配をしながらもヘイスは足を踏み出した。
遠ざかってゆく足音をラートムは見守っていた。
早くなっていた鼓動を少しずつ落ち着かせる。
あんな話を聞いて、ヘイスはなにも態度を変えずに居る。
それは、やはり自分にとって驚嘆に値するものだった。
相手をただ受け入れてくれる。
優しさとはまた別なものだった。
あの時、竜人にもその考えがあったのなら食人を殺さずに済んだのだろうか。
刹那思考に耽ったが、すぐに首を振って考えを追い払った。
過ぎた事だ。
自分に嫌気が差すだけだった。
虚空を裂く音がした。
絶える事なく何度か続いた後に、アスタは深呼吸をする。
「どうした、もう終わりか?」
声が掛けられる。
自分の師である男の声だ。
「もう少し……」
「そうか」
師のボルクの言葉は、いつも短かった。
それきりボルクもまた素振りを始める。
握りしめているそれは愛用している槍の倍以上の重さがある。
これに慣れたら、自分の武器を使う時は前よりずっと長く戦っていられると言われた。
短気決戦の場では今持っている重さの武器でも問題は無いのだが、
相手は人ならざる魔物で、長期戦になれば持久力ではどうしても劣ってしまう。
それを少しでも補うためだという。
試しにアスタも、少し重い棒を暫く振り回してみたのだが、
確かに以前よりも軽く感じて扱いも容易だった。
ボルクが棒を振り回す度に大気が震えた気がして思わず圧倒される。
初めて会った時も、その動きに見惚れたものだ。
家を抜け出して師事を願ったアスタにボルクは困った様子を見せていたが、
ディストと相談し、一度家に帰り許可を貰ったらそれを許すと言われその日は帰された。
後日、改めて訪うとギルドの一員としての席と、
ボルクを師と仰ぐ事が認められたのだった。
一度得物を収めたボルクの身体から、汗が零れ落ちる。
既に上着は脱ぎ互いに半裸の状態で、その逞しい身体が見えた。
いつもその隆起した筋肉を羨ましく思っていた。
所々にある、急所を避けるために付いた消えない傷もアスタには憧れだった。
「見てないで、俺に打ち込んでみろ」
怠けていたのが伝わったのか、ボルクが再び棒を構えてこちらを見据えた。
一礼してアスタも構える。
「いきます」
渾身の力で大地を蹴って跳び込んだ。
軽く払う様に棒を振るうと、すかさずボルクはそれを受け止める。
そのまま素早く引くと、今度は突きを繰り出した。
軽い攻撃ならば、こうして攻め方を変える事も容易だ。
ボルクもそれを感じたのだろう、二撃目は身体を僅かにずらして避けられた。
先程ボルクがやっていた鍛錬をものにすれば、一撃目も比較的重いままでフェイントを悟られにくくする事もできるのだろう。
こうして直に手合わせをしてみると、日頃の鍛錬の大切さが伝わってきた。
なにより、散々棒を振り回したボルクは息こそ乱しているものの動きが鈍ったとはとても思えない状態なのだ。
「返すぞ」
はっとして、アスタは身構える。
突き出したままの棒が跳ね上げられ、そのまま今度はボルクが突っ込んでくる。
一歩跳び去り守りの体勢をとるのと、容赦なくボルクの一撃が決まるのはほとんど同時だった。
真上から振り下ろされた衝撃にアスタは呻く。
受け止めた両腕から全身に痺れが走った。
骨に響いている、耐えきれなくなり左にそれを受け流した。
倒れそうになる身体を棒で支えて呼吸を整える。
たった一撃、攻撃を受け流しただけで恐ろしい程の体力が消耗されていた。
興味が無さそうにこちらを見つめるその表情が、憎しみすら覚えさせる。
三度、大きく呼吸を繰り返してからアスタは渾身の力を籠めて水平に棒を払った。
易々とボルクはそれを後方に跳んで避ける。
それを見計らって、棒を返して大地を払った。
棒の先には僅かに魔力が籠めてあって、土が舞い上がる。
飛ばした土から眼を守るためにボルクが腕で顔を隠した事を確認してから、声を上げてアスタは跳びかかった。
ボルクが受け止めきれなかった時の事など既に頭から消え去っていた。
全力で振り下ろしたが、あと少しというところで不意に身体が離される。
余った片腕から放たれたボルクの魔法が、腹に当たっていた。
痛みはほとんどなかったが、身体の軽い自分の勢いはそれでほとんど殺される。
魔法の弾けた場所をボルクは素早く読み取ったのか、当たるはずだった棒がその手に握られる。
「う、うわっ!?」
そのまま、散々振り回されてから地面に叩きつけられた。
僅かに声を上げた後、アスタは動かなくなる。
ボルクから与えられた痛みは僅かなものだが、体力は使い果たしていた。
こちらを、精悍な虎の顔が見つめる。
腕を上げると目尻を何度も擦った。
悔しくて涙が出ている事だけは知られたくなかった。
「視界を奪って攻撃するのなら、声を上げるのはやめておけ。
それと、お前はまず小細工無しで俺を押すぐらいになれ」
短い言葉で、指摘をされる。
「そろそろ上がるぞ、立てるか」
「……はい!」
ぼやけていた思考が急に晴れて、慌てて立ち上がる。
ここで立ち上がれなければ、ボルクはやり過ぎたと反省をして次からは手緩くなる。
弟子をとった事のないボルクはそうして自分を見極めているのだろう。
期待外れの弟子だとは、誰にも思われたくなかった。
「頑張ったな」
そんな事を言われて、アスタは思わず照れて尻尾を振り回す。
昔のボルクなら無言で立ち去ったのだろうが、ヘイスと触れ合ってなにかが変わったのだろう。
それが堪らなくアスタは羨ましかった。
ボルクとの稽古を切り上げると揃って建物へと入る。
「……なんだ?」
歩くその姿を見つめていると、居心地悪そうな顔をされる。
人と接する事自体が苦手だという事がその仕草だけでもよく解った。
「僕も、師匠みたいに立派な身体になれたらいいなぁって」
それを聞いて立ち止まって、ボルクは暫く考え込む。
逞しい体躯と比べれば自分などまだまだ未熟だった。
軽い身体だからこそ、先程持ち上げられてしまった。
「そうだな、こればかりは先天的な物だからな。
とりあえずは沢山食べておく事だ」
骨格だけはやはりどうしようもない問題だった。
犬人であるアスタの体躯は、どちらかと言えばしなやかなものなのだ。
そういう意味では、師事する相手はボルクではなくディストの方が合っていた。
それでも無理を通してボルクに教えを乞うていた。
そしてそれを間違った事だとは思っていなかった。
恐らくディストは誤魔化してまともに相手にしてくれないであろうし、
半端な者を戦いに巻き込む事を極端に嫌っている節があった。
ヘイスがその事で時折強く叱責を受ける事がある。
表情は怒りに染まっているが、内心は自分を責めているのだろう。
時折、酷く心配そうにヘイスを見つめている事をアスタは知っていた。
そういう事もあり、細かいところを気にせずただ鍛え上げてくれる相手が必要だったのだ。
ボルクは一度鍛えると決めたら、途中で迷う事はなかった。
「あとはそうだな、魔法も少しは勉強しておくといい」
魔法の才は、実はそれなりに光る物を持っていた。
ただ、アスタが欲しいのは魔法の才ではなく雄々しく戦える力だった。
ボルクが言うのならばとヘイスと共にバーツに教えてもらった事もあるが、
そのバーツが、アスタは少しだけ苦手だった。
一番なにを考えているのかがわからないのだ。
悪い人物ではなかった、もしそうならディストが傍に居る事を許すはずがないのだ。
それでも、あの笑顔に見つめられるとどうにも委縮してしまう自分が居た。
最近では、バーツに教えてもらった事を実践しているヘイスを見て自分も真似をする事が多かった。
食堂の前を通りかかって、ボルクの足が止まった。
食堂の椅子に座って考え事をしているヘイスが居て、アスタもそれを視界に収める。
その瞳がこちらを認めると、慌ててヘイスは立ち上がった。
「二人ともお疲れ様、お風呂沸かしておいたからね」
「ああ、ありがとう」
ヘイスの言葉に返事をするボルクは、やはり優しげな瞳をしていた。
そんな風にボルクを変えてしまう事が信じられなくて、いつも何者なのかという気持ちでヘイスを見てしまう。
それでも、初対面の時に散々罵詈雑言で責め立てた自分の事を今は優しく迎えてくれているのだから、
度量の深さというものなのだとアスタは考えていた。
「それにしてもアスタ君」
ボルクと談笑していたヘイスが不意にこちらに来てしゃがみ込んだ。
「ボルクがしっかり鍛えてるから、すごいね」
なんの事かと疑問に思っていると、ヘイスが手を伸ばして身体に触れてくる。
何度か擦った後に自らの服を捲りあげて、今度は自分を触っていた。
家政婦としての仕事を第一とするヘイスはあまり強い鍛錬を許されてはいない。
だから、ヘイスからするとアスタの身体もまた羨ましいものなのだろう。
「ヘイス兄ちゃん、そんなにぺたぺたしないでよ」
「あ、ごめん」
ヘイスに邪な考えはまったくないのだが、冷静に考えると男の身体を撫で回しているのだと理解したのか、
申し訳なさそうな顔をして慌てて離れていた。
「それじゃ、おやつの用意しておくから」
そのまま、ヘイスは台所へと姿を消した。
なにを作ってくれるのかと楽しみにしていたアスタは、視線を感じて振り返る。
他の誰でもないボルクと目が合うのだが、その瞬間に背筋が凍りついた。
表情はいつもと変わらないはずなのに無言の圧力を感じる。
先程対峙した以上のものだ。
大分手加減してくれていたのだと思い返しながらも、今の状況が状況なので深くは考えられなかった。
「し、師匠?」
汗が噴きだす。
暫くその状態が続いた後に、ボルクが視線を逸らした。
見つめる先にはヘイスの消えた台所があった。
「……ぺたぺた……」
「……」
「……風呂、いくぞ」
ボルクが廊下を歩きだした。
アスタがそれに続いたのは、大分遅れてからだった。
宙に布が舞った。
風が吹いているのではない。
走る身体が、地に向かう事を許さなかっただけだ。
初めは町中の有り触れた人混みだった景色も、徐々になにも無い平坦なものへと変わっていた。
静かな場所だったが、時折轟く魔法がそれを台無しにする。
すぐ後ろを、男が追ってくる。
動きが鈍そうだと思ったから走ったのだが、意外にも相手はしっかりとついてきていた。
おかげで町中を抜けてしまい、却って隠れにくくなってしまった。
いい加減に諦めてはくれないかと一度相手を視界に収めるが、
新しい魔法を唱えているのが見えて、やはり無理な事なのだと悟る。
相手の男は、自分が食人だという事に気づいている様だった。
正確には竜人と食人の間に生まれたのだから、純血の食人ではなかったが、
そんな事は、相手にはどうでもいい事なのだろう。
食人を狩る者は幾らでも居た。
いつもならすぐに逃げ出す事にしていたが、今日は外せない用事があった。
その途中で見つかってしまったのが運の尽きだった。
立ち去ればなにもしないと言われたものの、生憎とそれを受け入れる気は無かった。
そうして今の事態に陥っている。
爆音が聞こえて、目を向けると炎が躍り出してこちらへ来ていた。
それが自分に届く寸前に、掌を向けて軽く念じるとそれは消滅する。
追われてはいるものの劣勢という訳ではなかった。
代々人を喰ってきた血が流れるこの身体は、様々な種族の魔力を宿している。
魔法が近づくだけで、該当する種族の血が騒ぐのだ。
魔法は詠唱者の想いを強く汲まれて動く代物だ。
自分に向かう魔法を受け止めて、血が命ずるまま魔法に籠められた想いを弄るのが食人の主な能力だった。
想いを消せば魔法はその場で消滅し、書き換えて返せば暴発したり標的を本来の詠唱者にする事もできる。
食人、と不名誉な呼ばれ方をするものの自分のこの能力はやはり食人の能力と言わざるを得なかった。
食人の身体は、常に多種多様な生物の魔力が入り混じっていてそれを感知した魔法使いに目をつけられる事が多いが、
その魔法使いの魔法を封じるこの力のおかげで今まで生き残ってこられたのだ。
だから、今自分を追っている男も歯痒い気持ちに陥っている事だろう。
炎の次には雷が飛んできたが、それも同様の手段で瞬時に無に帰した。
時々警告のつもりでその魔法を返すが、やはり諦めようとはしていなかった。
再び魔法が背中に届こうとする。
それを返そうとして、ふと違和感を覚えて慌てて腕に魔力を籠めて払い落した。
感じられる魔力が、別の種へと変わっていた。
新手かと思ったが、追ってくるのはやはり一人だけだった。
「なにか使ったのか」
後方に居るためによくは見えないが、道具を使って魔法の性質を変えているのだろう。
一度に複数の種の魔法を返す事が難しい、というのが食人の欠点といえば欠点だった。
複数種族からの一斉攻撃には耐えられない。
食人の弱点と特性をよく知っているのだろう、やはり油断のできない相手だった。
駆けるのを止めた。
身体の動きが止まったと思ったのか、その瞬間に一斉に魔力が飛び出してくる。
一人で多種に及ぶ魔法の詠唱だった。
狙いが自分でなければ、褒め言葉でも口にしたかも知れない。
黙ったまま、掌に光を灯した。
できるだけ人目を避けて町を歩いた。
それでも戦いでボロ雑巾の様になった外套は目立つのだろう、時折視線が注がれた。
正体を曝け出すよりはまだいいだろうと足早に道を行く。
程無くして、目的の建物を見つけた。
堂々と表から入ろうとすると物陰から人の姿が現れる。
探していた竜人の男だった。
感じられる、思わず圧倒されそうな魔力が肌に痛い。
「ディマロスか」
相手の竜人が声を発した。
最後に聞いたのは、五十年以上も前の事で、
声では個人の特定はできそうもなかった。
「久しぶりだな、ラートムさん」
感じる魔力で、ディマロスは竜人の名前を当てて見せた。
「俺の名前覚えてたんだな」
竜人の癖に、という言葉を呑み込む。
「あの時、野に放たれた子の中で生き残る事ができそうな程齢を重ねた者は、
お前くらいのものだったからな」
他にも十数人の子供が居た。
それらがどうなったのか、ディマロスでさえ詳しく知る事はない。
所詮は子供で、飢え死にしたか人を襲ってそのまま返り討ちに遭った者が大半を占めただろう。
竜の旅が終わるまでに、両親から力と知恵の両方を授かったディマロスだから今日まで生きてこられたのだ。
「バーツはどうした?」
話題を切り替えようとラートムが別の事を訊いてくる。
「バーツ? ああ、あの魔法使いか。安心しな、黙らせただけだ」
魔法使いの弱点は、やはり接近戦だった。
例に漏れずその魔法使いも近づくと距離を離そうとしたので、
逃げられない様に素早く魔法を唱えて、そのまま動けなくしてから足早にその場を去っていた。
接近戦も心得てはいるが、血塗れのまま町中に入るのを避けた事が相手には幸いだったのだろう。
「さて、今度は俺の用件だ」
にっこり笑ってから静かに歩み寄る。
上っ面だけの表情だという事は伝わっているのだろう、ラートムは悲壮感を滲ませた表情をしていた。
それが余計に腹立たしく感じられる。
決して竜人を怨むなと、旅立つ前に言われた事を思い出した。
そんな事は解っていた、仮に自分が竜人の立場ならば食人を子孫も含めて根絶やしにしていただろう。
実際に野に放たれた食人を、散った後の竜人が何人か追いかけていた事も知っている。
それすら自分にはどうでもいい事だ。
それよりもラートムと話してみたいと思ったから、ディマロスはここに来た。
更に足を踏み出そうとした時、
不意に殺気を感じて、ディマロスは跳び去った。
見慣れない狼人の男が、竜人の傍に立っていた。
ヘイスが棒を振り下ろす様を、ディストはつまらなさそうに見つめていた。
視線を受けて、ヘイスも時折こちらを見て苦笑いを返してくる。
「まだ飽きないのか」
「……も、もう少しだけ」
ボルクに教えを受けるアスタを見て、ヘイスもその気になってしまったのか、
態々教えてほしいとこちらに来てから既に一時間は過ぎていた。
断れば夜中に一人で強行に及ぶ事は予想できたので、それに付き合っていた。
どうせ、庭に居るか部屋に居るかの違いでしかないのだ。
隣ではボルクが心配そうにヘイスを見つめていて、
そのまた隣ではアスタが不満そうにボルクを見つめていた。
さっきまでこの二人で稽古をしていたのに、ヘイスを心配してボルクがなにもしなくなった事がアスタは嫌なのだろう。
恋敵、という状態ではあるものの特にボルクとの接し方は変わらなかった。
絡んだ方が場の空気が良いと思えば特になにも考えずに絡んだし、
ボルクも、その事で態度は変えなかった。
なにより対立すればヘイスが落ち込む事は互いによく解っていたのだ。
我慢をしているというよりは、ただ望んで今の状態を維持していると表現した方が正しかった。
「ディスト、どうかな?」
汗を拭ったヘイスがやってくる。
若干小突き倒したい気分に陥るが、隣に妄信者が居る事もあって堪えた。
一度溜め息を吐く。
「……そうだな、まず振り下ろす時に瞼を閉じるのは直せ」
ヘイスが力をつける事を避けていた自分が、今は力を授けようとしているのだからなんとも皮肉な話だった。
普段飄々としてまともに話さないからか、人に教えている事をアスタが興味深そうに見つめている事もまた苛立ちが走る。
一番戦いに巻き込みたくない二人だった。
それでも傍に居る事を許したのもまた自分だ。
結局、己のせいだと自重気味に笑った。
「戦っている時、常に相手の動きは頭に叩き込まなくちゃならない。
それなのに攻撃をしたり、受けたりする時に下手に瞼を閉じるのは自殺行為だ」
例えば、目の前に拳が飛び込んできたら大半の者は瞼を閉じるだろう。
それをできるだけ我慢して、どう避けるかを考え実際に避けられれば上出来だった。
「殺し合いってのはシンプルだからな、怯えた方が死ぬだけだ」
怯えるのは、戦いに出る前だけで良かった。
勝負の最中での怯えは死に繋がる。
だから、普段は臆病な格好ばかりを取っていた。
本当に臆病なのだろうと、時々思う。
「殺し合い……」
はっとして、顔を上げた。
ヘイスの前では禁句だった。
それでも、この程度で尻込みをするヘイスにはやはり戦いに出てほしくはなかった。
戦いに出る自分とは人間性が違う。
そして、これから先必要になるのはそういう人物のはずだ。
「よし、それじゃ」
考えていると、ヘイスが棒を持ってボルクを見つめる。
「ごめん、ボルク!」
そのままヘイスが勢い良く棒を掲げて振り下ろす。
ボルクに届く寸前にその動きが止まる。
当のボルクは、瞼をしっかりと閉じていた。
「……あれ」
その上まったく動く気配も無いのだから、ヘイスが間抜けな声を上げる。
「おい、避けろよ」
呆れた顔で声を掛ける。
耳まで伏せていたボルクは、打たれる事を受け入れる体勢を取っていたのだろう。
大丈夫なのだと確認すると元に戻っていた。
「……ヘイスがそうしたいのなら」
「変態か」
「いや、そういう意味ではないんだが」
借りがあるから、殴られても気にしないという事なのだろうか。
度量の深さを見せつけてくれるのは結構な事だが、先程までの指摘の意味が薄れてしまっていた。
「とにかくだ、しばらくはアスタと遊んでるのが丁度いいだろ」
アスタが嫌そうな顔をしていたが、無視した。
万が一ヘイスに怪我でもさせたら、その後ボルクになにを言われるかと考えているのだろう。
「俺はもう戻るぞ」
壁に立てかけていた剣を持つ。
鞘に収めたままヘイスと向き合おうかと思ったが、その必要はなかった様だ。
ヘイスも仕方なく稽古を途中で切り上げようとしていた。
角を曲がって、ギルドの入り口へ差し掛かろうとした時だった。
ディストは足を止める。
「どうしたの?」
後ろを歩くヘイスが尋ねてくる。
そのまま自分を追い越そうとしたヘイスの腕を全力で掴み引き寄せた。
悲鳴を上げる事は予想していて、口に掌は当ててある。
突然どうしたのかとヘイスは目を見開いていたが、こちらの表情を見てなにかを感じ取ったのだろう。
すぐに大人しくなった。
汗が噴いていた。
感じているのは魔力だったが、それ以上に身体に纏わりつく気持ちの悪いものだった。
「ディスト」
同じく気配を感じ取ったのだろう、ボルクも槍を持って走ってきた。
互いの表情を確認する。
勘違いではない事は、それですぐに解った。
「アスタ、ヘイスを連れて下がっててくれ」
更に遅れてきたアスタに、ボルクがヘイスを託す。
「お前がヘイスを守るんだ」
念を押す様に言うと、アスタも黙ったまま頷いた。
そのまま、腕の中に居るヘイスを解放する。
「五分で戻らなければ裏からここを出ろ、明日まで戻ってくるな」
それだけ言うと、ディストは表へ出た。
視界の中に居たのは、陽の光を照り返す黒い肌の竜の男だった。
剣を持つ手に力が籠もる。
相手も気づいたのか、こちらを見て目を細めた。
「ディスト」
ラートムが声を掛けてくる。
「こいつが食人なのか?」
「……ああ」
訊かなくとも解っていたが、それでもディストは言葉を吐き出していた。
生きている食人を見るのは初めてだった。
「俺はラートムさんと話をしにきただけなんだがなぁ」
食人が豪く軽い様子で声を掛けてくる。
他意は無いと言いたげだが、それに聞く耳を持つ気がディストには無かった。
「悪いが、竜人と食人は下手には会わせられなくてな」
ただでさえ竜人のラートムは周囲からの目に気を配らなくてはならない。
そこに、嘗て手駒として使っていた食人が合わされば、
ラートムの立場も危うくなってしまう。
なにより、場合によっては始末の対象である食人と接点を持つ事など、
このギルドに属する者の誰ひとり許されるものではなかった。
「そうか、まあ予想はしていたが」
このまま立ち去ってほしかったが、やはり食人はそのつもりではないようで、
品定めする様にこちらを見た後その身体中に禍々しい力が漲る。
「話が終わるまで黙っててもらおうか」
それに溜め息を吐きながらも、ディストも剣を抜いた。
向かい合っては見たものの、やはり攻め方に迷う相手だった。
人の計算し尽くされた動きと、魔物の無作為さの両方を持ち合わせている様なものだ。
とりあえずは出方を伺おうと決めると、食人が跳び込んでくる。
「ディマロス!」
傍に居たラートムが、珍しく怒鳴る様な声を出した。
目の前に居た食人の動きが僅かに鈍ると、攻撃を止めて距離を取られる。
遅れて、後からきたボルクの攻撃が大地に入る。
狙い澄ました様だったが、ラートムの声で捉え損ねたのだろう。
槍は大地の深くまで抉る様に突き立っていた。
無言でボルクはそれを取ると隣へやってくる。
「ディスト」
名前だけを口にして虎の顔がこちらを見る。
表情は僅かに戸惑っている様だった。
ボルクに食人の事は話していなかった。
相手が自分を襲っていたから助けただけで、敵と捉えて良いのか決め兼ねているのだろう。
「まだ殺すな」
「……そうか」
特になんの質問もせず、ボルクは再び構える。
その実直さが今は有難かった。
そのまま今度はボルクが前に向かった。
ボルクと食人の戦いを暫くは見守っていた。
槍を振り回すボルクの傍に居る事は、動きを制限するだけなので、
共闘という訳にもいかなかった。
岩すら貫く突きが繰り出される。
何度か避け、避けきれない時食人は掌に魔力を宿らせ手刀にして槍を叩きその軌道を僅かにずらす。
肉体を動かす事に関してはボルクが勝っていたが、それを補う強い魔力が食人にはあった。
大きく軌道をずらされた事でボルクが体勢を崩す。
そこに、食人は手を伸ばす。
既の所でボルクは下がったが、体勢を崩したまま下がった事で槍は片手で軽く持ったままだった。
口元に笑みを浮かべて食人は槍を掴もうとする。
武器が奪われようしたその瞬間に、ボルクが片手で槍を横に回転させる。
予め魔力で細工を施していたのか、尋常ではない速度で回る槍に食人は武器を奪う事を諦める。
得物を用いて人に対する場合、恐ろしいのはその得物を取りあげられる事だ。
それについての考えもあったのだろう、そのまま互いに一度引いた。
「大丈夫か?」
帰ってきたボルクに言葉を掛ける。
頷いていたが、身体中から汗が流れていた。
流石に体力の消耗は激しかった。
ボルクだからこそ保っていられる動きだった。
対する食人も息を切らしていたが、武器を扱うボルク程ではなく
槍の先が掠めた部分から血が流れていたが、それも魔法で治していた。
「もう一度頼む」
その言葉に、ボルクは呼吸を整え終えると無言で再度跳び出した。
駒の様に使うこの状況を、ヘイスが見たらよくは思わないのだろうと考えながら、
観戦気分だった先程とは違い、柄を握る手に力を籠める。
戦い自体は同じ事の繰り返しだった。
ボルクの攻撃を逸らし、受け流し、体勢を崩したボルクに食人は直接攻撃をしようとする。
破壊力のある魔法を唱える隙をボルクはまったく与えていなかった。
ボルクが体勢を崩す。
それと同時にディストは大地を蹴ってその場から消える。
陽光に晒された刀身が光を照り返す。
白銀の剣が、赤く染まった。
手応えはあった。
体勢を崩したボルクを気にして高く振り上げた剣は、食人の腕に深く食い込んで骨の感触を最後に知らせ動きを止めた。
刹那時が止まる。
腕を切断しようとしたが、それ以上剣が奥に進まず舌打ちをしてディストは下がった。
舌打ちで状況を理解したボルクも同じ動作で隣へ戻る。
食人の腕にできた傷口から、血が溢れ出す。
流石に表情は焦りを形作っていた。
無言で食人が片手に光を灯すと、それが傷口に当てられる。
黒い煙と、吐き気を催す臭いがした。
傷口を焼いているのだろう、続けて別の光を灯して痛みを和らげていた。
「……最近の人間は随分強いな、こんな子供に追い詰められるなんて」
表情が、元に戻った。
嫌な予感がした。
「今日はここまでだ」
食人が走る。
その方向を見て身体を跳ね上げ、後を追った。
ただ逃げるのならそれでよかった。
向かった先は、ヘイス達が居る裏口だった。
姿が消えて数秒後に、魔法の音と誰かの悲鳴が聞こえた。
駆けつけると、大地に伏せるアスタと、
食人に抱き寄せられているヘイスが居た。
二度目の舌打ちをする。
まだ逃げていなかったのか。
声に出そうとして、止めた。
人質を手に入れた食人は、口元に笑みを作る。
「大分血が出ちまったからな、どうせ俺を逃がす気なんて無いんだろ?」
勝ち誇った顔をして食人は言う。
「ヘイス!」
ボルクが叫んだ。
当のヘイスは、アスタの事を心配しているのだろう。
涙を浮かべているが、それでもあまり怯えてはいなかった。
「アスタ君が」
言葉を遮る様に、食人がヘイスを自分の方へ向かせる。
それと同時に唇を合わせていた。
何事かと目を見張るが、ヘイスの瞳から光が消えるのを認めるとディストは剣を振るって向かった。
見計らう様に食人は塀の上まで跳ぶ。
唇を離した食人の口から、赤い液体が零れていた。
血を奪ったのだろう、血を失くしたヘイスは気を失っていた。
「悪いがしばらく預かる、殺しはしないさ」
食人が、その場から姿を消した。
ラートムが食人の名を呼ぶ声だけが、その場に残っていた。