ヨコアナ
9.アスタの戦い
くぐもった声が聞こえた。
それを聞いてボルクが溜め息を吐いてから振り返る。
ヘイスがそこに居て、自分に助けを求める様な顔をしていた。
「ヘイス、体調が悪いなら俺の隣に居ろ」
本当は、体調が悪い訳ではなかった。
アスタに怖がっているのをできるだけ見せない様に、声が出そうな瞬間に口に手を当てて必死に誤魔化しているのだった。
助けてほしいが助けてほしくない、という想いが伝わってきて、
ボルクもどうしたらいいのか考えていた。
「ヘイス兄ちゃん、大丈夫?」
流石にアスタはもう完全に見抜いているのか、
ヘイスをからかいもせずに心配していた。
それに気づくと慌ててヘイスは手を下ろして頷く。
微笑ましい様子にボルクが小さく笑い声を出した。
「ヘイス兄ちゃんってすごいね」
不意に、アスタがそう言葉を吐き出した。
それにヘイスは首を傾げる。
「だって僕、師匠がこんなに笑ってるところ見たの初めてだよ」
アスタの素直な物言いに、ヘイスは目を丸くする。
ボルクは目を見開いて慌てた。
確かにヘイスと出会ってからの自分は、変わった気がしていたが、
今まではそれを取りあげる相手がいなかった。
それが、今はそれを取り上げるアスタが居るのだからボルクは慌てた。
慌てるという事自体が前の自分ならば有り得ないことなのだが。
目を丸くしていたヘイスが、微笑んでアスタの頭を撫でる。
「そっか、よかったな」
背を向けているため、ボルクはその表情を見ることができないのだが、
振り返ると、自分にも微笑まれた。
「なんだか家族みたいで、嬉しいな」
寂しがりのヘイスには、ボルクが打ち解けてくれた事が嬉しいのだろう。
ヘイスの想いはやはり自分とは違うものだと思ったが、
それだけでも、ボルクは嬉しかった。
暗い廊下を歩き続けて数十分。
話が弾むと、暗闇も恐れずにヘイスは歩く事ができた。
行く先に光が見える。
それが、いつも皆の集まる食堂でこの肝試しの集合場所だった。
アスタがそれを見て嬉しそうに走り出す。
ヘイスもそれに続いて部屋に入ると棚に手を伸ばして準備を始めた。
後続のバーツ達が着いた時に、揃って談笑をするためなのだろう。
傍にやってきたアスタは取り出された菓子に目を奪われていた。
「ボルク、先にお茶飲んでおく?」
少し遅れてボルクが追い付いてくるのだと思ったヘイスは声を出すが、
返事がされなくて、不思議に思い振り返る。
準備を放り出して廊下から顔を出して見るが、どこにもボルクの姿は見当たらなかった。
様子の違いに気づいたのか、アスタも困った様にヘイスを見つめる。
それで、ヘイスは暫く考え込んだ。
「アスタ君、ここで留守番しててね。捜してくるよ」
本当はこの暗い廊下を独りで歩くことなど、絶対に断りたいのが本音だったのだが、
バーツ達が来た時に誰も居なくては困ってしまうだろうし、アスタを一人で行かせる気も無かった。
ヘイスの言う事にアスタは黙って頷く。
「お菓子、全部食べちゃ駄目だよ」
出る間際に笑いかけて、ヘイスは再び暗闇に身を投じた。
足を踏み出すと、床が軋んだ。
相当古い建物なのは知っていて、だからだと自身に言い聞かせてもやはり恐怖はついてきた。
灯りは、時折壁についているランプからのものと外から射し込む淡い月光だけで、
心細さに拍車を掛けるだけだった。
すっかり尻尾も縮みあがった頃、微かに声が聞こえた。
最初はそれがなにか得体の知れない音に聞こえてヘイスは身体を震わせたが、
その声が、いつも自分が聞いているディストの声だとわかると笑顔になった。
声のする方向へ歩くと、合わせて聞こえる言葉も大きくなる。
角を曲がろうとした時だった。
「俺は……」
今度は、捜していたボルクの声がした。
食堂に入ったヘイスを追いかけていた。
あとは、全員が揃えば肝試しも終わりだと思いかけた頃、
食堂の入口よりも更に向こう側に、ディストの姿が突然現れてボルクは足を止める。
視線を逸らさずにボルクの事を見つめていて、
自分達よりも早く来たのかと思っていたのだが、身体が後ろを向くと同時にその腕がこちらに来いと合図をしていた。
それになにも言わずボルクもディストのもとへ向かう。
部屋の前を通った時、中では楽しそうにアスタと雑談をするヘイスの姿があった。
名残惜しそうに見つめた後、暫く無言のまま建物の中を歩く。
途中で振り返りもせずに歩き続けるディストは、ただボルクの足音だけを聞いているのだろう。
角を曲がった灯りの下で、ディストは立ち止まった。
ボルクの足音が止むと同時に振り返られ、視線が絡む。
「……なんの用だ」
なんとなく、ディストがなにを言おうとしているのかボルクには予想がついた。
それでも敢えてそれを訪ねてみる。
「ヘイスのことだ」
ディストも似た様な気持ちなのだろう、無表情でそう返した。
いつか、こうして話す日が来ると思っていた。
ディストがヘイスを好きなのは見ていればわかる事だし、それは自分も同じで、
同じ相手を想うのだ、衝突するのは避けられなかった。
「俺はあいつが好きだ、だからお前には身を引いてほしいと思ってる」
考え事に耽っていると先にディストが言葉を発した。
「お前は、どうなんだ?」
まっすぐに見つめられる。
ディストは、この話をするのを随分躊躇っていたのだろう。
表情は少しだけ悲しんでいる様にも見て取れた。
下手をすれば、ボルクがここを抜ける事も有り得るのだから仕方のないことだった。
しかし、それでも退く気は無いようだった。
視線を受けとめて、ボルクは軽く頷く。
「俺は……好きだ、ヘイスのことが」
素直な気持ちで答えてみた。
言うと同時に心が穏やかになり、口元が緩みそうになる。
自分をこんな風にしてくれるのだと、またヘイスが好きになった。
「でも……俺は、ヘイスの隣がお前でも構わない、ディスト」
遅れて続きの言葉を発する。
その台詞にディストは驚いた顔をしていた。
ボルクが考えているのは、ヘイスの事だけだった。
ヘイス以外に関心はなく、その無関心の中には自分自身も入っていて、
ヘイスがディストを選ぶのなら、それで満足だった。
好きになった相手が、目の前に居るのだ。
あとは、相手が誰を選ぶかに任せたかった。
「ただ、もしヘイスがお前を選んでもお前が妙な真似をしたら、俺は許さない」
微笑みながらボルクが言う。
ディストは、少し汗を掻いている様だった。
心臓の音が、耳に煩く聞こえた。
鼓動を幾つか数えた頃に漸くヘイスは溜め込んでいた息を吐き出す。
ボルクから発せられた言葉に、思考が停止していたのだ。
自分が想われているのだとは、なんとなくわかっていた事だ。
それでも実際に口に出されると身体は固まってしまっていた。
家族の様だと言った時もボルクは別の事を考えていたのだろうかと思考に耽る。
深く考えを巡らせ様とした頃に、耳に僅かに聞こえていた話し声が止まり慌てて様子を探った。
どうやら話が終ったらしく、ここに居ては知られてしまうと、
そのままヘイスはその場を後にした。
後ろの様子よりも、自分の顔が熱くなっている事がいつまでも気になっていた。
二人の話を盗み聞きしてから数日が経った。
あの後、部屋に戻ったヘイスは後から出たバーツ達に迎えられてその相手をしていた。
暫くすると話を終えたディストも戻って来るのだが、後ろにボルクの姿は見当たらず、
どこか独りで居られる場所に居るのだろうと、そんな事を考えながら努めて明るくディストを迎えた。
ディストは自分の顔を見てなにかを考えていたのだが、
ディストも思うところがあるのか、出発前とは違いいつもの様な調子に戻るとヘイスを笑わせていた。
「はぁ……」
食堂でヘイスが吐いた溜め息だった。
あの場所での二人の言葉を聞いてから、こんな風に考え込んでしまう日々が続いていた。
ディストはまだ表面を明るくしてくれているから問題ないが、
ボルクとはあれから一度も会ってはいない。
そのボルクが、あと少しで帰ってくる。
顔を合わせる事を無意識に避けていたが、今日はそうすることはできないだろう。
数時間後に訪れるその時間が、来てほしくないものの様に感じられた。
「ヘイス兄ちゃん」
アスタの声がして、食堂の入口に視線を向ける。
顔だけを出して、アスタが恨めしそうにこちらを見ていた。
「まだ?」
「え? あ……買い物行くんだっけ」
アスタの登場で、自分が買い物に行く直前だったことを思い出した。
ギルドの補欠として入っているアスタは、今はヘイスの護衛の様なものを受け持っているのか、
買い物に行くと聞くと大慌てで支度をしていたのだ。
すっかり忘れ去られていたアスタに何度も謝ると、ヘイスは立ち上がり一緒に外へと出る。
とりあえず暫くの間は、抱え込んでいる悩みを忘れる事ができるだろう。
そう考えると、いつも通りアスタと話をしながら歩き出した。
視界に、色取り取りの絹が並んでいた。
最初に贈った服をラートムが気に入って着ているところを見て、次の服をまた幾つか作ろうと思案しているところだった。
選んでいる途中で、ボルクに作るという約束もふと思い出す。
「どうしようかな」
作業自体に抵抗はないものの、ディストとボルクの二人の好意をはっきり知ってしまった今では、
ボルクだけに服を作る事には抵抗があった。
「ディストの分……」
作ったところで着るのかはわからなかったが、それでも二人に似合う柄の絹布をついでに漁りはじめる。
それと同時に、隣に居るアスタの溜め息が耳に飛び込んできた。
正気に戻り視線を向ければ退屈そうに店の柱に身体を預けていて、
年頃のアスタには合わない場所なのだろう、ヘイスも年頃ではあるのだが。
掌には、愛用している棒が握られている。
ディストやボルクと行く時は、買い物に行くだけなのに刃物を持つ訳にはいかないといつも置いてきてもらうのだが、
刃のついていないアスタは、なにも言わず武器を持ってヘイスを守る様に辺りを見ていた。
必要な物を手早く集めて会計を済ませると、アスタの前へと歩み寄る。
「アスタ君も服欲しい?」
なんとなく拗ねている空気が漂っていたので、ヘイスは訪ねてみた。
なにも言わずにアスタはヘイスの荷物を引っ手繰って歩き出す。
慌ててその隣へと走った。
「僕のはいいからちゃんと休んでよ、バーツとラートムさんが困ってたよ」
顔を合わせずにアスタは言った。
本心では欲しいのかも知れないが、我慢をしているのだろう。
無理を重ねるヘイスの事をボルクから聞いたのか、漸く合わせてくれた顔は子供に似合わない悲しそうな表情をしていた。
「ご、ごめん……帰ったら休むよ」
アスタにまで心配されては、流石にヘイスもそう返すしか無いのか、
申し訳なさそうに謝罪を繰り返していた。
それでも数秒後にはにっこりと笑いはじめる。
「でもありがとう、心配してくれて」
そう言うと、今度はアスタが困った顔をしていた。
「早く買い物終わらせようよ」
再び拗ねた顔になったアスタが荷物を振り回して走る出す。
それを窘める様にヘイスも慌てて後を追った。
両手に袋を抱えてヘイスは唸った。
荷物の重さに時折足取りが覚束無くなるが、頼りのアスタは自分よりも更に多くの荷物を持って目の前を歩いていた。
全員がギルドに揃った今、買い足す食材の量も随分と増えてしまい、
先程買った服の材料と合わせると、二人がかりでも苦労を強いられる量になっていた。
「アスタ君、ちょっとそこで」
人込みが疎らになってきた頃に、ヘイスが遠くを見て言う。
それにアスタも弱弱しく答えた。
その場所に向かおうとした時、向かい側からの通行人にヘイスはぶつかる。
「す、すみません」
慌ててヘイスが謝ると、ぶつかった男は特に何も言わずに去っていった。
そのまま人込みを抜け出すと先に出ていたアスタと合流する。
地面に荷物を置くと何度も深呼吸をした。
「アスタ君、おつりある?」
とにかく買い足す物が多かったため、分担して買い物をしていてアスタに渡った釣銭の事をヘイスが尋ねる。
荷物を下ろして一息吐いていたアスタは、すぐに服に手を突っ込むとそこから小銭を取り出した。
それに礼を言い、受け取る代わりに買ったばかりの果物を渡す。
受け取ったアスタは尻尾を振ると、新鮮な果物をそのまま齧っていた。
微笑みながら見守ると、ヘイスは財布を取り出そうとする。
「……あれ?」
財布を掴もうとした手がなにも掴めず、思わずそんな声がヘイスの口から出た。
果物に夢中になっていたアスタが口元に汁をつけながらヘイスに視線を送る。
当のヘイスは大慌てで服の中を漁ったり、辺りを見渡す事を繰り返しては困惑した声を上げていた。
「落としたの?」
やがてヘイスの動きが止まり俯きかけた頃に、最後の一口を食べ終えたアスタが問い掛ける。
その一言にヘイスの身体がわかりやすく震えた。
「おかしいな、お店出る時はあったのにな」
もう一度同じ場所をヘイスは捜しはじめるのだが、アスタはそれを見ることを止めて先程まで居た人込みを睨みつける。
「ヘイス兄ちゃん、さっきぶつかった奴誰?」
「え?」
顔を上げたヘイスが見たのか、時々見るディストの険しい表情と同じアスタだった。
見つめる先とアスタの言葉で、ヘイスは盗まれた可能性があるという事に漸く気づくと慌てて振り返り人込みを見つめる。
こちらに向かってくる人を意識しない様に暫く眺めると、先程自分にぶつかったと思わしき男の姿が見えた。
「あの人……かな?」
核心は持てなかったが、ぶつかったばかりの相手なので姿は憶えていた。
それで、示された男にアスタは走りだした。
軽く棒を払い、感触を確かめながらアスタは走る。
注意深く観察すれば、時々人込みの隙間から見える男の手元には確かにヘイスの財布が握られていた。
「あの野郎……」
睨みながら呟く言葉は、既に仲間に向けて言う口調とは違っていた。
鬼の形相で棒を持ちながら走るアスタに人込みはなにかを察したのか道を開け、間もなく男の元へとアスタは辿り着いた。
「盗んだ財布を返せ!!」
開口一番にアスタはそう叫んだ。
距離を取っていた人込みはそれで男に視線を向け、容易く逃げ場を失わせる事ができた。
四方八方から視線を浴び、アスタの登場を果たしても盗みを働いた男は慌てた様子を見せることは無かった。
「なんだ、もう気づいたのか」
その一言だけで大人しく返す気が無いという事が充分にわかり、アスタは棒を構えた。
いつでも打ち込む体勢を見せたが、それでも男は動じず、
一度大きく踏み込んでから胴体に向けて武器を払った。
間一髪のところで男は後退して避けたが、感心した様に口笛を吹いていた。
それが、余計にアスタの神経を逆撫でる。
「随分怖いお子さんだな」
男の言葉に耳を貸さず再びアスタは踏み込む。
「でもよ、もうちょっと周りに気を配れよ」
男の言葉と同時に、腹に激痛が走った。
身体が宙に数秒浮いてから、アスタは地面に叩き付けられる。
「アスタ君!!」
漸く追いついたヘイスが、自分を見て悲鳴に近い声を上げた。
走り出したアスタを止めようとした。
止めるよりも先にアスタは人込みに消えてしまい、
そのすぐ後に怒鳴り声が聞こえて、ヘイスは荷物も置いたまま走り出した。
人込みを潜り抜けて見た景色は、盗んだ男に仲間が居たのか、
襲い掛かろうとしたアスタに、外野から突如飛び出した他の男が勢い良く蹴りを入れていた。
地面に横たわるアスタにヘイスは走りよる。
「アスタ君!」
もう一度アスタの名前を呼んだ。
腕の中のアスタは何度も咳をしていて、見ている自分の血の気が引いてゆくのが感じられた。
急いで眼を瞑り集中してから、両手に魔力を集めると、
いつもよりも強い光が掌に生まれて、それをアスタに渡した。
「ごめん、ヘイス兄ちゃん……」
「喋っちゃ駄目だよ」
まだ修行の身のアスタではやはり無理があったのだ。
自分が駆けつけるのが遅かったと自責の念が押し寄せる。
「アスタ君、借りるよ」
アスタの手に握られていた棒を、ヘイスは手に取る。
蹴り飛ばされても決して武器は手放さなかった。
それだけで、アスタは戦士なのだと思った。
アスタは制止しようとするが、すぐに痛みによってその動きは止められる。
大丈夫だと言うかの様に微笑むとヘイスは立ち上がり、振り返ると二人の男に視線を送った。
次に辺りを見渡すがこれ以上仲間らしき人物は見当たらず、不意撃ちの心配をまずは消し去る。
「兄ちゃん、今度はあんたが相手するってのか?」
アスタより年上とは言え、迫力のあるアスタとは違い、
争いを好まないヘイスは他人から見ても強そうには見えないのだろう、男も少し拍子抜けした表情をしていた。
それでも、なにも言わずにアスタの武器を構える。
不意撃ちをしてきた男が、こちらへ歩き出した。
その後ろでもう一人が牽制する様に存在を主張する。
二人同時に来られては、不味い事になると考える。
数秒考えを巡らせてから、アスタの様にヘイスは飛び込んだ。
男に攻撃を仕掛ける瞬間に一度止まってから真横の地面に魔法を放つ。
「うおっ!?」
牽制をしていた男はそれに驚き、足を止めた。
目前に居る男もその声に気を取られている事は容易に想像できて、その男に向けて左斜め上から武器を振り下ろした。
当たれば、なかなかの致命傷だったのかも知れないが、
その攻撃はあと少しというところで男の手に止められた。
慌てて棒を引こうとするが、しっかりと掴まれていて取り返す事はできなかった。
「お前、戦うの苦手なんだろ。全然力が入ってねぇ」
今まで喋らなかった男の声が、聞こえた。
「煩い!」
掌から魔力を解放すると、一瞬にして光が溢れ出す。
ただの目くらましだが不意を突かれて棒を握る男の力は弱まっていて、そのまま引きはがすと数歩下がった。
数秒しか続かない光が止むと益々絶望的な状況になる。
アスタの傍まで下がるとまた様子を見た。
呼吸は荒いが、急いで治療を施せば問題は無さそうで、
あとはどうにかしてこの状況を打破するだけだった。
周りに居た人影は、既に知らぬ振りを決め込んで散りはじめていた。
関わり合いになれば危険だと判断したのだろう、微かな失望を覚えた。
「いい顔してんな……俺に付き合ってくれるんなら、今は見逃してやってもいいぜ」
止んだ光から飛び出した男の凶相が、そう言う。
「おいおい、お前男もイケる口なのかよ?」
「両方だ」
こちらを品定めするかの様に視線を向けながら、男達は勝手な話を進める。
僅かな間、ヘイスは迷った。
アスタを最優先で助けるには悪くないかも知れないと思ってしまったからだ。
それでも、男が手を伸ばしてくると同時に身体は自然と下がっていた。
無意識に動いていた事に気づくが、既に遅い。
「……仕方ねぇな、ちっと痛むが無理矢理連れてくぞ」
残念そうな表情の後、男が拳を振り上げる。
振り降ろされれば、次に視界が広がった時自分はどうなっているのだろうとヘイスは考えていた。
拳は振り降ろされなかった。
その代りに、いつの間にか目の前には布が舞っていた。
同時に、男達の側だけに砂埃も勢い良く舞い上がっており男の声が聞こえる。
布の隙間から見えたのは、敵をただ見据える偉丈夫の狼で、
舞っていた布は中身の無い服の袖だった。
現れた片腕の男は、鞘の部分で静かに相手の腹を打った。
たったそれだけで今の今まで苦戦していた男は、軽く呻いた後に倒れてしまう。
残ったもう一人の男へと狼が向かおうとした時、二人は不思議な光景を見た。
「……あれは」
片腕の狼が呟く。
一瞬にして仲間がやられた事に驚く男の腹に、なにか丸い物が存在していた。
存在しているそれは、透明で向こう側が透けていたが時折その景色は酷くねじ曲がっていて、
その玉に触れた男は、そのまま消え去る様な勢いで後ろに飛ばされ豆粒程の大きさになった頃に動かなくなった。
透明な玉は無くなっていたが、通った後には凄まじい魔力が音を立てて存在を主張していた。
「平気か、ヘイス」
後ろから声がした。
魔力の主がやってきたのだ。
「……本当に声が伝わるんですね、ラートムさん」
顔を上げれば、掌に集まった濃い魔力を払い消しているラートムと目が合った。
「ああ、だが次はもう少しだけ早く私を呼べ。危機は知れてもすぐには駆けつけられない」
全力で駆け付けたのか、珍しく大きく呼吸をしながら注意された。
アスタが倒れて治療を行う際に、神頼みのつもりでラートムの名前を小声で呟いたのだ。
竜人の耳にそれは素早く届きラートムを走らせる切っ掛けになった。
竜人を想いその名前を口にすれば本人に届くという事を、ヘイスは忘れずにいた。
「それより、アスタの容態は」
ラートムの言葉に、ヘイスは慌ててアスタに近づき抱き寄せる。
腕に抱かれているアスタをラートムも見つめた。
「この様子なら致命傷ではないな、力を貸せ」
短い時間で判断するとラートムは治療を始める。
眼を瞑るだけでその身体の周りに怪しい光が現れ、それが身体中を巡っていた。
竜人の魔力に当てられてヘイスは気が遠くなるのを感じる。
そのヘイスの腕に、ラートムが触れるとそこから魔力が伝わり段々と正気に戻ってゆく。
ヘイスの回復を確認すると、二人合わせてアスタの治療を再開した。
二人がかりの治療で一瞬にしてアスタの傷は癒えるがまだ暫くの間は安静が必要で、ラートムは静かに小さな身体を抱き上げた。
「……ロアか」
ラートムが立ち上がると、丁度見える場所に居るのは片腕のロアの姿で、
声を掛けられるとロアはなにも言わずに静かに頭を下げた。
「お知り合いですか?」
「昔、少しな」
それにラートムは口元だけで笑みを浮かべる。
「それより、少しの間その坊主を休ませるんだろう? 俺の家を使ってくれ」
ロアの治めるギルドは近くにあるのか、助けを差し伸べられる。
その好意をヘイスは有難く受け取る事にした。
今は、アスタの身体が心配なのだ。
立ち去る間際に、ロアは振り返り倒れた二人の男を一瞥する。
「街を守るために戦う奴を住民が襲う、か。皮肉なもんだな」
ロアの独り言を、ヘイスだけは聞いていて、
黙ったままアスタの武器を握り締めた。
「ただいま!」
ギルドの扉を開けて、アスタが元気良く叫んだ。
それを見てヘイスは心底嬉しそうに笑う。
ロアのギルドでアスタが回復するまで厄介になった後、礼もそこそこに帰ってきたのだ。
買い物の荷物がまだ残っていたのと、ラートムとロアの奇妙な空気が少し怪しく感じられたからというのもあった。
仲が悪い訳ではないのだが、不思議とラートムの前では豪快なロアが物静かになるのだ。
それでも礼がしたいからとディストのギルドへロアを誘ってみたのだが、苦笑いで断られてしまった。
ボルクと直接会うのを避けているのだろうが、代わりに今のボルクの様子を教えてほしいとせがまれ、
それを聞くだけで、ロアは満足そうに笑っていた。
二人の溝が無くなった様な気がして、それに合わせてヘイスも微笑んでいた。
考え事に耽っていると、手に持っていた買い物袋をアスタが預かりに走ってくる。
「アスタ君、本当にもういいの?」
「うん、今すごく元気いっぱいだよ!」
そう言うアスタは、尻尾を振り回しながら目を輝かせていて、
本当に先程までのアスタなのかとヘイスは首を傾げた。
「少し、力を入れ過ぎたかも知れない」
後ろに控えていたラートムが言葉を口にした。
それに、顔を向けて耳を傾ける。
「竜人の力が入り過ぎた、ヘイスも今は身体に魔力が溢れているだろう?」
言われて、確かに戦いとアスタの治療で魔力を使ったのだから疲れているはずなのだが、
それどころか魔力はいつも以上に身体に集まっていた。
「だが、今はあのくらいでいいのかも知れないな」
ヘイスを守るためにアスタは出たのに、結果的にヘイスに守られる形になってしまった。
普通なら落ち込んでいるのだろうが、ラートムは大丈夫だと頷いていた。
「それよりヘイス、少々腹が空いたからお願いできるかな」
「あ、はいすぐに!」
買い物に随分時間が掛かってしまっていたせいで、既に日も暮れていた。
買い物袋を持って走り出したアスタの後をヘイスは追いかける。
二人が建物の奥へ消えるのを見終えてから、ラートムは廊下に上がろうとしてふと服の変化に気づいた。
全速力でヘイスの元へ駆け付けたからか、作られたばかりの服が少し破れていて深い溜め息を吐いた。
「面倒なものだな……竜人は」
他人に影響を及ぼす癖に、服ひとつ直せない事に少しだけ失望するものの、
これを口実にまたヘイスに服を強請れると考えなおすと、機嫌が直ったのか明るい様子で二人の後に続いた。
そんな事を口実にしなくても、ヘイスの持っていた買い物袋の中身を見たのだから結果は解っているのだが。
食事を済ませてから、今日の出来事が話し合われた。
二人が襲われた事についてラートムが説明すると、ディストとボルクの顔つきが変わる。
当のヘイスが今ここに居ないのが好都合だった。
最初は険しい顔をしていた二人だったが、それも長くは続かなかった。
心配していたヘイスは先程まで笑顔で料理を振舞っていたのだ。
おかしなところがあれば、誰か一人は必ずその動きで察する事が出来る。
なにより、ラートムが診た後にそんな事が起こりうるはずがないという確信を全員が持っていた。
「お風呂上がったよ」
話題の主役のヘイスが、もう一人の主役アスタと共に部屋に現れる。
全員の視線が注がれてヘイスは少し固まるが、背中を向けるとアスタの頭を丁寧にタオルで拭いていた。
「ヘイスと風呂……」
艶っぽい今のヘイスから慌てて視線を逸らし、小声でボルクが呟く。
想像したのか、ディストはアスタを睨んだ後不貞腐れた様に机に突っ伏していた。
「みんな素直になったねぇ」
笑いながらバーツがそれぞれの反応を楽しんでいて、
どうやら不穏な空気になってはいないのだと、視線の意味はわからないもののヘイスは安堵していた。
「今度みんなで入ろうね、きっと楽しいよ」
不貞腐れているディストを気遣ったのか、ヘイスが言うとディストは顔を跳ね上げて首を縦に振っていた。
「お、俺は遠慮しておく……」
想像だけで既に危うい状態のボルクは、どうにか断りの返事をしていた。
ヘイスの言葉通り楽しそうだと思う残りの三人は、その後も上の空の二人を残してヘイスと談笑に耽っていた。
身体から力を抜いてボルクは身を沈めた。
沈む身体に代わって湯が上り、浴槽から溢れ出ると
大きな息を一つ吐いた。
数秒経ってから考えるのは、仕事とヘイスの事だった。
ラートムが戻ってきた事により一人一人の負担は大分減ったし、
心配していたヘイスも、最近は魔法の使い方が板についてきたのか、
前の様に無理をする事も少なくなった。
すべて順調、頭にはその言葉が浮かんだが、
ディストとの問題もあるのだと思い出すと、少し残念な気持ちになる。
「……ヘイスが決めてくれればな」
ただ、それをヘイスに求める事はディストも自分もする事は無い。
求めればヘイスの性格だ、決して本心は語らなくなるのだろう。
誰も傷つけたくない、誰にも嫌われたくない、そんな性格をしているのだから。
出来るのは待つ事だけだった。
「そういう意味では順調ってことか」
取り急ぎしなくてはならない事は無いという事だ。
だったら、今ぐらいは湯に浸かって心身の休息を取る事も許されるだろう。
そう思って、また大きく息を吐いた。
浴室の扉が開かれる音がした。
「あ、ボルク居たんだ」
声を聞いて、ボルクの呼吸が止まる。
聞き間違いでなければ間違いなくヘイスの声がした。
立ち上る湯気の向こうにその顔が見えると、慌てて視線を逸らす。
腰にタオルを巻いてくれていたのが幸いだった、なにもつけていなかったら視線を逸らす事も難しかったかも知れない。
「今日バーツがご飯作るみたいで、先にお風呂入りなよって」
確実にあいつの策略だ。
ヘイスを見つめそうになる自分を必死に抑えて、ボルクは頭の隅で満面の笑みを浮かべているであろう熊を恨んだ。
「そ、そう……か」
「大丈夫?」
ヘイスからは、無理に首を曲げて苦しそうな声を上げている様にしか見えないのだろう。
それはそれで不自然ではないかと、心の中で自分自身が囁く。
自分もヘイスも男で、場所は風呂場。
裸の付き合いと言えばなんの問題もないだろう。
仕方なくその声に乗って顔を向けると、ヘイスの裸の上半身が見えた。
今は備え付けの椅子に座り身体を洗いはじめていて、幽霊屋敷で見た頃よりも
ギルドの家事に慣れたせいか、筋肉がついて身体の形をはっきりと伝えてくれていた。
加えてヘイスの歳を考えればこれからまたもう少し身体がしっかりとしてくるのだろう。
今のヘイスも勿論好きだが、これから強くなってゆくヘイスというのも興味があった。
「結構筋肉ついたでしょ」
ヘイスも、自分の身体の変化には気づいているのか、
そんな事を言うとボルクの方を向いて、嬉しそうに笑った。
ボルクと比べれば差は歴然としているのだが、ボルクはヘイスのそのしなやかな体躯も綺麗だと思った。
身体を洗い終えるとヘイスは湯船に浸かろうとするが、
反射的にまた視線を逸らしてしまい、なにも隠す物がなくなってもヘイスの身体のすべては見られなかった。
その身体が隣にやってきて、思わず息を呑む。
「……そういえば、ロアさんに会ったよ」
話題を必死に探しているとヘイスが先に言葉を切り出した。
ロアの名を聞くと、途端に気持ちが落ち着くのを感じる。
アスタの治療のために世話になったと続け様に言われた。
「ボルクが元気って聞いて、嬉しそうにしてた」
「そうか」
自分は許されたのだろうか。
考えても解らない事を、考えてみる。
ヘイスには、まだ話していない事だ。
「それでね、ロアさんが」
「ヘイス」
すぐ隣で楽しそうに話しているヘイスの言葉を遮った。
「……ロアの事、話してもいいか」
続きを話したそうな顔をしていたが、それでもボルクの言葉を聞くと素直にヘイスは頷いた。
口内に溜まった唾を呑んでから、代わりに言葉を吐き出しはじめる。
浴室にボルクの声が響き渡る。
邪魔をするのは、時折天井から落ちる水滴の立てる音くらいのものだった。
だから、ヘイスはすべての真実を吸い込む様に理解してくれる。
それがいいことなのか、ボルクには解らなかった。
ヘイスにこの話をいつかする。
そのいつかが今来たのだ、そう思ってただ話した。
自分が逃げた事も、それで今ここに居る事も。
話していて情けないと何度も思ったが、ヘイスは黙って聞いていてくれた。
「俺は、ロアに憎まれていると思っていた」
最後にそう付け加えて、話は終わった。
ヘイスの話を聞く限りではそんな風には見えなかったのだ。
「そっか、色々あったんだね二人とも」
湯船の湯を両手で掬ってそれを見つめながらヘイスは呟く。
次には手を開くと、湯は元あった場所へと流れた。
「ヘイス、お前は……どう、思う?」
沈黙が嫌で、思わずボルクは訊いてみた。
嫌われたのかも知れない、軽蔑されても仕方のない事だ。
逃げた事も変わらない、今更なにをしてもロアの失った腕は戻りはしないのだから。
ヘイスがこちらを見た。
ロアに見つめられるより、心を乱され落ち着きを失くす自分が居た。
「僕だったら、逃げない」
その言葉に、身体に震えが走る。
まるで失望されたかの様な言い草だ。
やはり、自分とヘイスでは違うのだと思い知らされて項垂れた。
アスタの件でもヘイスは逃げなかった。
だから、自分は逃げてもヘイスは逃げない事がはっきりとしていた。
やっぱり、ヘイスと自分では釣り合うなんて無理な話だ。
そう思った、ヘイスに謝らないといけない。
こんな自分が触れたり、面倒を掛けたのだから。
そう口を開こうとした時だった。
「でも、助けられないよ」
意外な言葉がヘイスから放たれると、ボルクはヘイスを凝視した。
「僕は確かに逃げないよ。でも……僕の力じゃ、助けられなかった」
残念そうに微笑んで、ヘイスは息を吐く。
「ボルクは逃げたのかも知れないけれど、その後にロアさんを助けたんだよね?
だったら、僕はボルクの方がずっとすごいと思うな」
羨む様な顔をしてヘイスが囁いてくる。
軽蔑などしていなかった。
いつも自分はヘイスの考えを勝手に決め付けては、心を乱している気がした。
「それに、今のボルクなら……逃げないよね?」
乱されて波打つ心に、更に言葉が投げ入れられる。
それで、ボルクの心はヘイスで染まった。
ボルクがそれに気づいたのは、距離を詰めてそのままヘイスと唇を合わせてからだった。
絶対にヘイスに手を出してはいけない。
ずっとそれだけを誓ってきたのに、身体は勝手に動いていた。
ヘイスは驚いたのか何度も身体を跳ね上げていたが、背にあるのは浴槽で、
前から自分が覆い被さる様にして、唇を奪い肩に手を掛けているのだから逃げ場は無かった。
濡れてくっきりとしたその身体も、驚いて震える動きも、目を瞑り耐えているかの様なその表情も、
全て情欲を煽って仕方のないものだった。
差し入れた舌は遠慮知らずで、動かす度にヘイスの身体が震える。
それでも苦しいのか声が上がると漸く唇を離した。
「好きだ、ヘイス」
抱き締めて、首に顔を埋めながら呟いた。
合わせた胸からは煩い鼓動が伝わってくる。
戦いに慣れた身体が、口付けをしただけで呼吸が荒くなっていて違和感を覚えた。
敏感に反応した熱は、湯の中で主張していてヘイスもそれに気づいている様だった。
「……ボルク」
何度か荒く呼吸をしてから、ヘイスが名前を呼んでくれた。
「重い」
「えっ、あ……悪い」
唐突な言葉に慌ててボルクは離れる。
顔を見る事を躊躇っていたはずなのに、ヘイスのその言葉で簡単に身体は離れて顔を合わせる事ができた。
いつの間にか火照っていた熱も冷めていて、先程までの抑えられない気持ちも弱くなった。
自分が元に戻ったのをヘイスも感じているのか、ほっとした様な顔をされる。
「ごめん、ぼーっとしてきたから先に上がるね」
短く言うとヘイスは浴槽から上がる。
最初の様に、また顔を逸らした。
「ご飯そろそろできるから、ボルクも早く来なよ」
全裸のままだと顔を合わせないとヘイスも分かっているのか、すぐにタオルを腰に巻いてから喋り出す。
「またね、ボルク」
最後に見た顔は、いつもと変わらなかった。
まるでなにも無かったかの様な、そんな表情だった。
ヘイスの朝は早い。
夜の明けきらぬ内、誰よりも早く目を覚まし食堂にて朝食を作る。
その内に起きてきた誰かに前菜を出し、会話を弾ませながら続きを作る。
食事を作り終える頃には、その日ギルド内に居る全員がほとんど集う事になっている。
にこやかに挨拶を交わしながら朝食を出し、それが済むと自分は食べずに洗濯物へと向かう。
魔物を相手にする以上、服の汚れはやはり多いもので、
毎日小まめに洗わなければほとんど汚れが落ちないのだ。
洗濯機に纏めて入れてから、皆が半分程食べ終わっているところへ合流する。
食事をしながらも、その日の予定を全員に訊く。
何時までには帰るとか、今日の夕食は必要ないとか、今日はこんなものが食べたいとか、
全てを聞いて可能な限りそれを実現するために、その後の時間も使うのだ。
ディスト達が出掛ける時間になれば、それを送り出すために玄関まで足を運ぶ。
まだ食事が途中なのだからと何度か諌められるが、それでもこれが大事な事なのだと言う。
見送った後、漸くゆっくりと朝食を取る事ができる。
その後も、まだまだ一日の予定はあった。
以上が、ヘイスが頭の中で描く家政婦としての働きだった。
実際に行われているのは精々その半分といったところだ。
「ヘイス、洗濯物はこれでいいのか?」
朝食を慌ただしく作っているところへ洗濯籠を持ったラートムがやってくる。
誰よりも早く起きる、というのはラートムが来てから早くも失敗に終わった。
ラートムは朝が早い、というよりは昼寝をよくするせいかこんな時間でも起きている事が多かった。
それを歳のせいだとからかったディストが数秒後床に沈んだのは記憶に新しかった。
「ラートムさん、ありがとうございます」
目標としては前述の通りだが、こんな風に誰かが手伝いに来る事が多く、
結局それに頼ってしまう部分は多かった。
人が増えてヘイス一人では辛くなっているのは誰もが知っているのだろう。
自分よりも年下であるアスタでさえ、時々簡単な仕事を手伝ってくれるのは有難いことだった。
「……焦げてるぞ」
ラートムへ礼を言おうと歩み寄ったのが不味かったのか、
香ばしい臭いを嗅ぎ取ったラートムがそれを指摘し、気づくと慌ててヘイスは持ち場へと戻る。
それほど酷い事にはなっていない事を確認すると、ほっとした様子で苦笑いを零した。
「そういえばラートムさん、服は大丈夫ですか?」
焦がさぬ様に、今度は目の前のフライパンと睨み合いながらヘイスは声だけをラートムに向ける。
「服?」
「はい、前に一度作ってからそんなに間も空いてないですけれど……所々解れてますよね」
それ以降にも作ったが、ディスト達の分を同時に作っていたのでラートムのところにはあまり服は来なかった。
気にした様にヘイスは尋ね、皿に料理を乗せるとラートムを一瞥する。
見つめられてラートムも自分の服を見るが、確かに所々解れていて傍から見ると少し情けない格好なのだろうかと考える。
竜の着られる服はほとんど売っておらず、暑さ寒さは纏う魔力のせいでほとんど気になりもしないのだ。
専ら半裸か、種族による差の無い外套を好んで纏う者が仲間も多かった気がする。
「ご飯が終わったら、直しましょうか」
「そうだな、そうしてくれると有難い」
仕事を任され依頼人と顔合わせをする時に、みすぼらしい格好のまま会う訳にもいかない。
自由気ままに生きるのが好きなラートムも流石にそのくらいは弁えているのか、ヘイスの提案に頷いた。
「洗濯物のお礼です」
次の材料を用意しながら、ヘイスが微笑む。
それで、籠を持ったままなのを思い出すとラートムは一声掛けてからその場を後にした。
食事の準備が終わり、ヘイスが一息吐く。
既に食堂には全員が集まって思い思いに食事が始まっていた。
今日はバーツが居るので、起きた後に態々起こしに回ってくれたのだろう。
そんな小さな気づかいが有難い。
なにより、できたばかりの料理を口に運んでもらえる事が嬉しかった。
「それで、魔法の調子はどうだ?」
廊下を歩きながら、隣に付くヘイスへとラートムが問い掛ける。
食事が済むと早速二人揃ってラートムの部屋へと向かっていた。
ヘイスにはまだ洗い物があったのだが、非番のボルクにアスタが稽古をつけてほしいと懇願したところ、
皿を洗ったら考えなくもない、となんとも思わせ振りな言葉をボルクが発したせいで、
今はアスタが洗い物と奮闘しているのだろう。
何枚か皿を割ってはいないかとヘイスは気が気でない様子だったが、
ボルクも言いつけた手前見張ってくれるらしく、有難くラートムの仕事へ掛かっていた。
歩きながらヘイスが掌に光を灯してみせると、それを見てラートムは少しだけ口元を緩ませた。
「扱いが上手くなったな」
「バーツやラートムさん程じゃないですけど」
それでも褒められた事が嬉しいのか、尻尾のばたつく音が耳に届く。
こんな風に尻尾で感情を表現できるのが、ボルクと同じくあまり表面に感情の現れないラートムには羨ましかった。
自分の太い尻尾はそんな風に細かく動かないし、なにより少し重い。
精々腰掛ける時に体勢を保つために便利な程度だ。
それも、大地や床といった比較的広い部分でないと意味を成さない。
椅子に座る時に下手に動かせば、却って体勢を崩す原因にさえなってしまう。
いつか切ろうかと思ったりした事もあるが、蜥蜴と同じくまた生える様でその内に尻尾の事は諦めた。
そんな事を考えながら角を曲がったところでラートムは歩みを止める。
「ラートムさん?」
前に飛び出したヘイスが、振り向いて顔を見上げる。
「少しここで待っててくれ」
そう言ってから、ラートムは早足で歩き出した。
いつも自分の部屋に満たしていた魔力が、今は塵一つとして感じられない。
ヘイスはまだ気づいてもいなかったのが幸いだった、魔法の享受を深く受けさせたのなら恐らく気づいたのだろう。
あまり構いすぎるのも良くないかもしれないと、暢気に考えながらもラートムは自室の前まで来ると勢い良く扉を開いた。
部屋の状態を見て、ラートムは暫く考える。
「ラートムさん、もういいですか?」
少し遠くから声を出すヘイスは、事態は呑み込めていないものの忠実にラートムの指示を守っていた。
「ああ」
ヘイスの足音が近づいて、部屋の前で止まる。
足音が終わる代わりにヘイスの短い悲鳴が無音の空間に響いた。
「だが、仕事はさせてやれそうにないな」
眼前には、まるで一度逆さまにしてから元に戻したかの様に滅茶苦茶になった部屋が見えた。