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8.母親代わり

 熱い吐息が口から零れた。
 一度で終わる事無く、それが何度も自分の口から吐き出されるのをディストは感じていた。
「ディスト……」
 目の前にあるヘイスの表情は不安げで、それに向かって笑い掛ける。
 ヘイスの腕が、首元に回された。
 そのまま、元々あまり無かった二人の距離が更に短くなった。

「やっぱり無茶だよ」
 額に額を合わせてヘイスが口にした言葉だった。
 距離を取るとその顔が再び視界に映る。
 それを見ながら、ディストは咳をしていた。
「ラートムさん、どうですか?」
 その隣に居るラートムは、薬を持って考え込んでいた。
「暫くは安静に、だろう」
 適当な薬を選ぶと、それを渡される。
水も容易せずに薬をディストは呑み込んだ。
「平気だ、それより今日は依頼が」
 途中まで言いかけて再び咳が飛び出る。
 自分の意思とは無関係に出たのを理解すると、舌打ちをした。
 ディストの肩に手を置いてヘイスは困った顔をしながら、ラートムに視線を送る。
 小さく溜め息の様なものをラートムが零した。
「私が行こう」
 ヘイスの視線を受けて決めたのか、テーブルの上にある依頼書を引っ手繰ってラートムは食堂の入口に立った。
「ラートム……」
 後姿を、掠れた声でディストが呼び止めようとする。
「少しは安静にしているんだな」
 一度振り返ると、口元だけを緩ませてそう言ってからラートムは部屋を後にした。


 布団の上に乱暴に腕を投げ出した。
 視線の先には、自分のその様子を見たヘイスの苦笑いがあった。
 不機嫌なのは、バーツとボルクが出払っている時に漸く自分に仕事が回ってきたのに風邪を引いたからだった。
「しっかり休まないと駄目だよ」
 声を掛けながらヘイスが歩み寄る。
 その手にはできたての粥を持っていて、態々作ってくれたのだろう。
 傍のテーブルに置くと、横に置いてあった水の入った桶にタオルを浸してから水を切る。
そっと額の上に置かれると、冷たい感触が心地良かった。
「つらくない?」
「平気だ」
 そう言った直後に咳が出て、視線を逸らしたが数秒後に再びヘイスの目を見た。
「早く部屋から出ろ、他にも仕事があるだろ」
「そうだけど」
 朝から付きっ切りでヘイスは傍に居たので、仕事はほとんど終わっていないのだ。
 注意されてヘイスが俯くが、それよりも風邪の事を気にしているのだろう。
 それでも少しすると立ち上がっいた。
「ごめん、駄目だよねこんなんじゃ」
 再度苦笑いを零してから、肩を落としてヘイスは部屋を後にした。
 扉が閉められると同時にディストが盛大な溜め息を吐いた。
 厳しい物言いだった気もするが、あまり自分の傍に居られるとヘイスにも風邪がうつってしまう。
 それが心配でどうにか部屋から出そうとしたのだが、ぼやけた思考では今の台詞が限界だった。
 ゆっくり起き上がると、額に乗せてあったタオルが肩に落ちて今度はそこから冷たさを感じた。

 荒い息遣いが耳に聞こえて、ディストは目を覚ました。
 自分の息遣いだった。
 視線の先にはやはりというか、ヘイスが居て、
眠る前に平らげた粥の食器を片付けているところだった。
 枕元に落ちていたタオルを取ろうとして漸く、ヘイスはディストが起きている事に気づく。
「あ、おはよう」
 それになにかを言いたかったが、唾を飲み込むと喉に熱さが残って上手く言葉が出せなかった。
 冷たい水を滲み込ませたタオルがまた額の上に置かれる。
「風邪……うつるぞ」
 先程よりも酷くなった状態で、精一杯の言葉を発した。
 それを聞くと、額に乗せたタオルの上からヘイスが何度か額を軽く叩く。
「皆の世話をするのが僕の仕事だよ」
 他の仕事をしている間に反撃の台詞でも考えていたのだろうか。
 間を置かずにそう返されてしまう。
 一度断ってからヘイスは布団を捲る。
 ディストの服を前から肌蹴させると、別のタオルを取り出して汗を拭きはじめた。
 大量の汗を掻いていたのか、胸から腹に掛けてゆっくりと拭われるのが気持ちいい。
 熱のせいで険しい表情が和らぐのを感じた。
 ある程度汗を拭き取ると、服と布団を元に戻して自分の顔をヘイスは覗き込んでいた。
「大丈夫だよね? ディスト……」
 朝よりも更に悪化しているのは見ればわかるのか、心配そうに呟いていた。
 熱に浮かされているディストはなにも反応を返さなかったが、
覗き込んでいたヘイスの腕を、突然に引いた。
 短い悲鳴の後、ディストの腕の中にヘイスが収まる。
 身体を重ねると熱が籠る。
 ヘイスの胸に何度も荒い息を吐き出し、服を引っ張っては縋る様にディストは抱き締める。
 ヘイスは何も言わず、背中に腕を回して抱き締める力が弱まるまで優しく撫で続けてくれた。



 扉をラートムは開いた。
 閉めると同時に深く息を吐く。
 仕事が終わり、丁度帰ってきたところだった。
 内容自体は然程苦労するものでもなかったのだが、出迎えた相手はディストが来るものだとばかり思っていた様で、
自分を見た途端に顔が引き攣るのを見てしまってから、浮かない気分で仕事を進めていたのだ。
 着ている服を、緩い力で握り締めた。
 もう一度息を吐いてから歩き出す。
 それと同時に、廊下の向こうからヘイスが現れた。
「あ、ラートムさんおかえりなさい」
 自分を見て嬉しそうな顔をするのは、ヘイスとバーツくらいのものだった。
 その嬉しそうな顔が目の前までやってくる。
「ディストはどうだ?」
「今は寝てますよ」
 ふと、ラートムは様子の違いを感じた。
 手には新品のタオル持っていて、これからディストの部屋に行くつもりなのだろう。
 気づいた違和感はそれではなかった。
 不意に手を伸ばすと、その身体を引き寄せる。
 先程までしっかり床に立っていたはずのその身体があっさりと倒れ込んだ。
「無理はするな」
 隠していたのが知られたからか、床にタオルの落ちた音がした後途端にヘイスの呼吸が荒くなる。
 恐らくディストの風邪がうつったか、元々二人が風邪を引いていたのだろう。
 首筋を撫でると確かに普通の人が持つ体温より高かった。
 腕の中のヘイスは何度か頭を振ると顔を上げた。
 その顔が、遠い昔に見たあの顔と似ていた。
 ラートムの持つ魔力を目当てにやってくる者とは違った、自分の世話をしてくれていた顔だった。
 澄んだ瞳が虚ろになっているのも、その少年とただ一度だけ過ごした夜に見た顔と重なった。
「ディストには……言わないでください」
 考えに耽っていると、ヘイスの口が開かれる。
 笑って頭の中の淡い思い出を隅に追いやると片腕に光を灯し背中に触れる。
「お前はまだ引きはじめだ、この程度なら私がなんとかしよう」
 今朝見た時には気づかなかった程なのだ、それほど酷いものでもないだろう。
 魔力がヘイスの身体に溶けて染み渡る、暫くして顔を上げたヘイスは元に戻っていた。
「……ありがとう、ラートムさん」
「服の礼のひとつだ」
 例え状態が悪くても、ヘイスはディストの看病に向かおうとしていたのだろう。
 そう考えると、あまり好きではなかった自分の力も好きになれそうな気がした。

 ヘイスの身体が離れる。
 そのまま、タオルを拾い上げて歩き出そうとするその腕を掴んだ。
「少しは休んだ方がいい、魔法と言えども万能ではない」
 再び仕事に戻る気なのはわかっていて、そう引き止めた。
 視線が絡み合うが、その内ヘイスが微笑むとゆっくりと掴んでいる手を余った手で外される。
「ありがとうございます……でも、行かないと」
 心配をしているのが伝わったのか、また礼を言われた。
 それでも自分を止める気はないのだろう。
 ラートムが軽く息を吐いた。
「どうしてそう、無理ばかりをするんだ?」
 長くヘイスを見た訳ではないのだが、その仕事振りを見ればわかった。
 どんなに疲れ果てて、ディスト達が手を差し出しても決して全てを任せようとはしないのだ。
 頑固な部分があるのだと思うが、それでも少し意地になっている気がした。
 そう言われると途端にヘイスの表情は曇ってしまう。
「だって、皆は……」
 短い沈黙を置いて言葉が発せられる。
「皆は、いつも危ない目に遭っているのに僕は」
 どこかで、ヘイスはずっと引き摺っていたのだろう。
 自分の仕事は皆の世話をすることだ。
 そう言い聞かせても、全員が出払って自分ひとりだけが部屋に残るとどうしても想いが過ぎってしまう。
 その言葉と、表情からラートムはヘイスの抱く負い目を見た気がした。
 なにを言えばいいのか暫くの間考えていたのだが、
曇った表情が不意に、柔らかくなった。
「だから、今やらないと駄目なんです」
 せめて、今任されるこの仕事はしっかりとやり遂げたい。
 だから引く気はない、はっきりとそれが伝わってきた。
 表情はまたいつか見たものになっていて、
歩き出すヘイスの身体を見守っていたのだが、ゆっくりと近づくとその隣につく。
「手伝おう、容態は私が看たほうがいいだろう」
「……お願いします」
 また少し、ヘイスは負い目を感じたのかも知れない。
 それでもディストの世話をするのに確かにラートムの方が適任で、思い直したのかそう返事をしていた。
 どちらかといえばラートムはヘイスの容態が悪化した時の事を考えているのだが、
なにも言わずに、今は見守っていようと思った。



 何度目かの溜め息が聞こえた。
 それを聞いて、ヘイスは苦笑いを浮かべる。
 見つめる先に居るディストは憮然とした様子でテレビを見ていた。
「そんな顔しないでよ、せっかく元気になったんだから」
 看病を続けている内にディストは快方に向かっていった。
 それは良いことだったが、全快したディストは漸く仕事に出られると思っていたのだが、
自分が行くべき依頼は既にラートムが済ませており、新しい依頼も来ていなかった。
 それで結局、こうして拗ねてしまっているのだ。
「身体動かさないとなまっちまうんだよ」
 切実な問題だった。
 ギルドを取り仕切る者として、ディストは所属する者の管理をするのが主な仕事なのだが、
それよりも本人は暴れる方が好きな性格なので、欲求不満なのだろう。
 もう一度溜め息を吐くと、不機嫌な空気を感じ取ったのかヘイスが出来立ての昼食を傍に置いた。
「でもディストが居てくれると嬉しいな、僕はこうして仕事ができるから」
 素直に言うと、照れたように視線を逸らされた。
「それじゃ僕掃除行ってくるからね」
 食堂を出る間際にそう言って、ヘイスは廊下に出た。

 扉が、薄気味悪い声を上げて開いた。
 それと同時に煙が舞い上がってヘイスは軽く咳をする。
 目の前に広がるのは普段はあまり用の無い物置だった。
「掃除するのすっかり忘れてた……」
 廊下や食堂を掃除する事は多いのだが、それ以外の部屋は
そこに住んでいる者が自分でしてしまうため、こういった部屋の掃除も頭から抜けきっていたのだ。
 掃除用具を一度両手で持ち大きく頷いてから、ヘイスは格闘に向かった。


 大きな咳をした。
 風邪がぶり返した訳ではなく、埃のせいだった。
 一頻り咳をしてから今度は溜め息を吐く。
 投げ出したい気持ちもあるのだが、それでもこれは自分の仕事だと言い聞かせると再び手を上げた。
「終わったらお風呂入らなくちゃ」  尻尾の先まで埃塗れなのはわかっていて呟く。
 時折床を引きずる尻尾の先がどうなってるのかは、確認したくなかった。
 丁度その時、埃が外に出ない様にと閉めていた扉がまた高い音を立てて開く。
 扉から入ってきた足音が徐々に近づいてきていた。
「ディスト? なにか用?」
 振り返らずに言葉を発するのだが、暫く待っても返事はやってこなかった。
 不思議に思い振り返ると、
今までに見たこの建物の人物の誰でもない、ひとりの子供がそこに立っていた。

 扉が、また不気味な音を上げた。
 やってきた子供が扉を閉めていた。
 その姿をまじまじと見つめる。
 種族はヘイスと同じ犬人の様で、歳はヘイスよりも更に若いのだろう。
 こちらを訝しげに見つめていた。
「あんた、誰?」
 短い言葉を子供が発する。
「えっ」
 それにヘイスは言葉を詰まらせてしまう。
 そもそも、目の前に居るこの子供は誰なのだろうか。
 いくら考えても答えは浮かばなかった。
「僕は、ここで働いてるんだよ」
 結局、今唯一明確に答えられる子供が要求する返事をする。
 それを聞いて目の前の犬人の顔が更に変化する。
 澄んだその瞳がヘイスを見ていた。
「こんなに弱そうなのに?」
 次には、ヘイスが一番気にしている事をあっさり口にしていた。
 ヘイスの身体が僅かに震えた後、俯く。
 俯いた後も追い討ちを掛ける様に好き勝手な言葉が子供の口から発せられる。
 なにも言い返せなくなった頃、突然短い悲鳴が聞こえた。
 何事かと下げていた顔を上げると、自分が俯いていた様に子供が頭を下げていた。
 その上には、子供の頭に肘を落としてヘイスを心配そうに見つめるディストが居た。

「よう、糞餓鬼」
 落とした肘を左右に捻り痛みを加えながらディストが口を開く。
「……なにすんだよディスト!!!」
 黙って頭を下げていた子供が勢い良く頭に当てられている肘を振り払う。
 上げた顔は、先程までのヘイスを蔑む表情とは違っていて、
目尻に涙を浮かべていて、年相応の顔になっていた。
「ディスト、この子は?」
 説明が欲しくて、ディストに尋ねる。
「ああ悪い、なんにも言ってなかったな……挨拶しろ」
 途中で子供の方を向いてから、ディストが命令口調で言う。
 それに不機嫌そうな顔をしていたが、ディストの方がここでは立場が上なのか、
「……アスタ」
ヘイスを見て、子供はアスタと短く名乗った。
「こいつが五人目だ、補欠だけどな」
「補欠って言うな!」
 ディストの言葉にアスタは噛み付く。
「補欠?」
 補欠なんてものがここにあったのかと、首を傾げる。
「預かってんだよこいつを、でメンバーとしては力不足だから補欠な」
「弱くないよ! 少なくともこいつより!」
 ヘイスを指差しながらアスタが叫ぶ。
 年下にこいつ呼ばわりされた挙句、弱いとまで言われて流石にヘイスも少し怒った顔をするが、
再度頭を、今度は掌で押さえてディストに頭を下げさせられる。
「失礼なこと言うな、大体ヘイスは世話係としてここに居るんだから、
戦闘員としてはお前が最下位なのは変わらねーよ」
 頭を押さえられながらアスタは呻く。
 気にしているのだろうか、また暴れていた。
「大体どうしたんだこの帰りの遅さは? 仮にもうちの一員としての自覚があるのか?」
 ヘイスがここで働きはじめてから、既に数ヶ月は経過していた。
 ラートムは仕事で遠くに行っていたためなのだろうが、アスタはそうではないのか
ディストがその顔を意地悪そうに覗き込んでいた。
「それは……お母さんが泊まっていけって」
「へぇ、それで無断でずっと家に居たってか」
 言い返す言葉が無いのか、アスタが黙り込む。
「ディスト、もういいよ……ありがとう」
 ディストが執拗に責めるのは、ヘイスの悪口を言われたからなのだろう。
 それがわかっているヘイスは礼を言ってディストを止めた。
 そう言うのならとディストは押さえていた手を退けてまっすぐ立つ。
 開放されたアスタはヘイスを見上げていた。
「とにかくだ、ある意味でヘイスはここの誰よりも偉いんだから、
妙な口利くなよ? お前の師匠にも怒られるぞ、特に」
「し、師匠よりも偉いの!?」
「当たり前だ、大体俺が一番偉いんだっつの」
 途中から天井を見つめるとディストの言葉は愚痴になってゆく。
 それをヘイスは苦笑いで見つめていた。



 物置の掃除が済むと、ヘイスは次に向かう。
 ディストは愚痴を零しながらも書類の整理があるのかそのまま部屋に戻っていった。
 ヘイスは部屋の掃除を黙々とこなしてゆく。
 その様子を、傍に寄ってアスタが見ていた。
 ヘイスはいつも通りの掃除をしていたのだが、
隣で自分の様子を見守るアスタが気になってしまい、何度も顔を合わせる。
「どうしたの?」
 なにも無いのならそれもいいが、やはり視界にちらつかれると困ってしまう。
「ヘイス……さんは、どんな仕事してるの?」
 誰よりも偉いというのは理解したのか、今度はしっかり名前と敬称をつけて呼ばれる。
「そうだね、こういうお掃除や、みんなのご飯を作らないと」
「お母さんみたいなもの?」
「……そうかな、そう言われるとそうだね」
 あまり言われた事が無いから、ヘイスもその言い方に戸惑ってしまうが、
言われてみるとそうだとも思った。
 先程まで悪口を言い、貶す様な瞳をしていたアスタは、
それを聞いてなにか別の印象を持ったのか、今は子供らしい顔でヘイスを見上げていた。
「本当はね、アスタ君みたいに僕も戦えたらいいなって思うんだけど」
 屈み込んでヘイスが目の高さを合わせる。
「多分足手纏いになっちゃうから、なんにもできなくて」
 多分もなにも、既に何度か足を引っ張っただろうと、
頭の中で冷たい部分が囁いていた。
 心で読み上げると表情が曇るが、それでも次には微笑んでみる。
「だからこうして、他の事でみんなの役に立たないとね」
 最近になって漸く見つけられた、ヘイスの答えだった。
 それでもまだ戦闘で役に立ちたい気持ちは捨てていないのだが。
 言いながらアスタの頭を何度か撫でる。
 その尻尾が、微かに揺れた。
「アスタ君もなにか用事があったら言ってね、ここの一員なんだから」
「……うん」
 立ち上がるともう一度顔を見つめる。
 最初に見た表情は、どこにも見当たらなかった。



 アスタを傍に置きながら、ヘイスは掃除を続けていた。
 時々アスタが手伝う様になり効率は良くなる。
 今日中に掃除するべき部屋を粗方終えた頃、ギルドの玄関が開かれた。
 それに顔を上げた後、アスタは何度も耳を振るわせた。
「アスタ君?」
「……師匠!!」
 足音だけで誰が来たのかわかるのか、後片付けの途中だというのにアスタは走り出した。
 アスタの放り出した掃除用具を拾い、それを元の場所に戻してからヘイスもゆっくりとその後を追う。
 廊下に出ると遠くにアスタの姿を見つける。
 それに纏わりつかれているのはボルクだった。
「師匠ってボルクの事だったんだ」
 傍に歩み寄りながらヘイスは口を開く。
 ヘイスが来たことに気づくとボルクは一度微笑んでいた。
「ああ、話してなかったな。どうしてもって頼まれて」
「師匠が笑ってる……」
 ボルクが笑っているところなど見たことがなかったのか、
アスタはそれに心底驚いて、ヘイスを尊敬の眼差しで見つめていた。
 笑っている事を言われて、ボルクが慌てた様子を見せる。
 弟子のアスタに厳しくしているのは、性格からわかった。
「ボルク疲れたでしょ、今夕食作るからね」
 それでもヘイスがそう言って案内をすると、またボルクの顔が綻ぶ。
 アスタの頭の中では、完全にヘイスが一番偉いという事に決まったのだろう。
 ヘイスが歩こうとすると慌てて道を開けていた。
「そういえば、ボルクの弟子って事はアスタ君も武器は槍なの?」
 歩きながらヘイスが問い掛ける。
「いや、アスタは槍じゃなくて棒を使うんだ」
「棒?」
 戦い方としてはそれ程違わないのだろうが、槍を使わない事に疑問を覚える。
「お母さんが、子供だから刃の付いた物は駄目だって……」
 ボルクの隣で、アスタは残念そうに呟く。
 なんとなく微笑ましい気分になった。

「はい、これ!」
 アスタが腕を伸ばした。
 手には、一枚の皿が握られている。
 それを受け取ってヘイスは微笑んだ。
「ありがとうアスタ君」
 そう言われて、アスタが尻尾を何度も揺らした。
「兄弟みたいだな」
 少し離れて椅子に座っていたボルクが呟く。
「というよりアスタが子供過ぎて、ヘイスが大人に見えるな俺には」
 ボルクと同じ仕草でディストが言う。
 ヘイスが一番偉いというのを認識してから、アスタのヘイスに対する態度は随分違うものへと変わっていた。
 偉いという他に、ヘイスを母親のようなものだと思っているのもあるのだろう。
 今は積極的にヘイスの手伝いをしては、褒められて尻尾を振る事に夢中になっている様だった。
「ヘイスと子供か……」
 遠くを見ながらボルクが物思いに耽ると、
それをディストは冷めた眼で見ていた。
「おまたせ」
 二人の間にヘイスが料理を置く。
 その後ろでは次に置く料理をアスタが持って待ち構えていた。
 素早く振り返りそれを受け取ると、テーブルに掛かる重さが次にはまた増える。
 程なくして作っていた全ての料理が並んだ。

「そういえばさ……」
 挨拶を交わして食事が始まった数分後。
 遅れてきたバーツが席について料理を一口頬張った頃、言葉を発した。
 なにか自分に言うことがあるのかと、ヘイスは食べる手を休める。
「ヘイスってお休みないの?」
 それを聞いて、ヘイスの耳が立ってから目が少し大きくなった。
「おやすみ?」
 少し、不思議そうな顔をする。
 それにバーツは頷いていた。
「僕、ヘイスが休みの日って見たことなかったから」
「……そういえばそうだな」
 ヘイスの料理に舌鼓を打っていたボルクも、途中で顔を上げると今度は相槌を打つ。
 アスタは食べる事に夢中になっているのか、ただ音だけを出していた。
 バーツが視線を向けると、二人もそちらを見る。
 視線の集まる先にディストが居た。
「あ、いや、休みはだな」
「考えてなかったでしょ」
 迷っている顔を見て鋭くバーツは見抜く。
 直後にディストの鈍い声が上がっていた。
 それから、暫く料理の代わりにバーツの説教をディストは食らう破目になった。



 席に着いて一息吐く。
 結局、その後のバーツとボルクの提案でヘイスは休みを貰うことになった。
 ディストも申し訳ないとは思っているのだろう、咎める事はしなかった。
 菓子の盛られた皿を、ボルクはヘイスの目の前に置いた。
「……どうぞ……」
 無表情のまま菓子を進める。
 バーツにヘイスを持て成せと言われたものの、
どういった言葉を掛ければ良いのかがわからず、不器用な言葉だけを吐き出していた。
「別にそこまでしてくれなくても」
 苦笑いで、それでも礼を言いながらヘイスは菓子をひとつ口に入れる。
 ボルクにすれば、感謝の気持ちを伝えられる数少ない機会だった。
 幾ら感謝しても、し足りない。
 それでも言葉にしてしまえば恥ずかしくて碌に顔も合わせられないのだろう。
 だから、行動のひとつひとつでヘイスに伝えたかった。
「おかし貰い!」
 どこから見ていたのか、アスタが素早く走り寄って菓子入れに手を伸ばす。
 ヘイスはそれに気づきつつも、特に阻もうとはしていなかった。
 あと少しという距離になったところでボルクがその手を叩き落す。
 それで驚いたのは、ヘイスだった。
「……すまん」
 反射的に、つい叩き落してしまった。
 ヘイスに食べさせたいのだと、無意識で身体が動いてしまうのだ。
「師匠厳しい……」
 続いてアスタからも攻撃が続くが、それ以上言わせないように
今度はボルクが菓子を取り出して渡した。

 身体の中に魔力が渡る。
 頬の辺りから始まり、身体に触れられる感触が続いてゆく。
 直接身体を撫でられている訳ではなかった。
 それでも皮膚の上を伝い、覆いきった場所から身体に染み込む魔力は
 感想を言うのなら撫でられているという言葉が適当だった。
 心地好さに思わず短く声が出る。
「やっぱり相当無茶してたんだねヘイス……」
 気持ち良さに閉じていた瞼を開くと、バーツが心配そうに顔を見上げていた。
 ボルクとアスタ、三人で話しているとバーツがやってきて、
治療をしたいからとそのまま今度はその部屋に来ていた。
 淡く光る両手で肩に触れられると、そこから魔力の動きが始まり、
身体の中に大量に吸い込まれてゆくのを感じる。
「別に疲れたとは思ってなかったんだけど……」
 疲れて眠る事はあっても、起きたら大抵は気力が漲っていた。
 だから自分が疲れているとか、無茶をしているとはあまり思っていなかったのだ。
「ヘイスが若いからだよ、ここのところ無茶ばかりしてるでしょ?」
 そう言われて考えると確かに、怪我を治せる程の力が備わったのだからと、
ディストが怪我をした時はよくその治療をしていた。
「魔力の量が減ってるよ、じっくり休む前に何度も無理して使うとこうなる」
 次第に意識も保てなくなると注意される。
 この間、ボルクの元ですぐに眠ってしまったのもそのせいなのだろう。
「わかった、気をつける」
 意識が保てなくなるのは困るので、ヘイスは頷いた。
 治療ができなくなると考えていると、顔に出たのかバーツに頭を撫でられる。
「本当に優しい子だね、ヘイスは」
 そんなことを言われてヘイスは思わずバーツの顔を見ようとするが、
見るよりも先に何度も毛並みを乱す様に撫でられる。
 それにヘイスは慌てて自らも手を伸ばした。
 ヘイスに捕まるより先にバーツが手を引く。
「必要になったら僕かラートムさんに言ってよ、こういう事してくれるからさ。
それに、そうやって治療を続けるのも良い特訓になるしね」
 乱された毛並みをヘイスが慌てて指で梳いていた頃に、バーツが立ち上がって顔を覗き込む。
 それにも頷くと、身体を押されてそのまま座っていた布団の上に横になった。
 不思議と、それで意識が遠退いてゆく。
「それじゃ、少し眠りやすくしておいたから。僕はお仕事に行くね」
 そう言って布団を掛けるとバーツは背を向けていた。
 掛けられた魔法はあまり強いものではなかったが、途端に眠気に襲われる。
 それだけ疲れていたのだと自覚すると、今度はからはよく休むようにしようと、
薄れる意識の中でヘイスは考えていた。



 バーツが部屋から出ていき数時間が経った頃。
 身体に重みを感じ、呻いてからヘイスは目を開く。
 気だるい身体を懸命に動かして首を横に向けると、椅子に座って本を読むディストを見つけた。
 物音で気づいたのか、ディストがこちらを見る。
「なんだ、もう起きたのか?」
 そう言われて、それほど長く眠ってはいなかったのだろうかと考えるのだが、
自分を優しそうに見つめる狼の後ろにある窓からは、夕焼けの紅い色が覗いていた。
 それに気づくと慌てて身体を起こそうとするのだが、
少し身体を浮かせたところで、また呻き声が漏れてそれ以上身体が持ち上がらなかった。
「馬鹿、まだ動くなよ」
 本を放り出してディストが駆け寄る。
 当のヘイスは混乱した顔をしていた。
 眠る前までは、元気に身体を動かしていたのだから当然だった。
 説明を求めると、ディストが一度頷く。
「バーツにも言われたろ? 魔力の量が減ってるって」
 それに再度頷くと、ディストが表情を変えずに更に続ける。
「治療のおかげでそれはなんとかなるけどな、今お前の身体は無くなった魔力を必死に取り戻そうとしてるんだ。
身体機能よりも優先してな。だから無理に動くなよ」
 予めヘイスが回復するのを見守る役をバーツが決めていたのだろう。
 いつもはすぐに世間話を始めるディストも、今はしっかりと見張る姿勢を決め込んでいた。
「……ごめん……ご飯が」
 横になってから口を開くが、言葉すら上手く発する事ができないことに驚く。
 驚きながらも、それよりも仕事ができない事がヘイスの心配事だった。
「飯なんて俺が作るから、気にすんなよ」
 その言葉を聞いて、顔が固まる。
「そんなに嫌か」
 バーツと村に行った帰り、ギルドでディストとボルク二人が餓死寸前になっていたのはまだ新しい記憶だったので、
ヘイスはディストの料理の腕がどの程度のものなのか把握しているのだ。
 加えて、頼りになるバーツも今は仕事で出掛けていた。
 頭の中で考えを整理すると、次には背中を見せて顔だけこちらに向けているディストに苦笑いを送った。
 その身体がこちらに向けられると、不意にディストの表情が暗くなった。
「ごめんな……休ませられなくて」
 それを聞いて、ヘイスは目を見開く。
 最初はなにを言っているのかが理解できていなかったのだが、それでも数秒経つと慌てて首を横に振っていた。
「みんなが手伝ってくれたから……お休み無くても、平気だよ」
 声が出せる様に何度か軽く発声してから、そう話しはじめる。
 ヘイス一人に全てを任せるのはいけないと、暇な者は大体はその手伝いもしていた。
 だから、日常ではそれほど負担は掛かっていないのだ。
 それよりも本当に負担になっているのは、自分が無理をして他者の怪我を我先に治そうと手を出すせいなのだろう。
 それはヘイスが判断しているのだから自業自得とも言えるのだが、自分の下に居る者の体調管理も仕事だと思っているのだろう、
ディストは申し訳なさそうな顔をしていた。
「無理ばかりさせちまったな」
 それに、ヘイスは薄く笑って大丈夫だと答えていたのだが、
ディストの身体が立ち上がると、傍へと来てからゆっくりと下りてくる。
 距離が近づくにつれ、ヘイスは手を伸ばしてその動きを止めようとするのだが、
今は腕ひとつ満足に動かせないことに気づき、その間に更に距離は狭まっていた。

 ヘイスが目を瞑っていた。
 それを見て、一度身体の動きを止めてから自分を受け入れているのかとディストは考えるのだが、
次には、抵抗する事もできない状態だということを思い出すとその身体を注意深く見つめた。
 僅かに、身体が小刻みに震えていて、
それが怯えを如実に伝えてくれていた。
 急にディストが身体を落とすと、二人が重なる。
 悲鳴の様な声が漏れた。
「悪いな、また無理させた」
 耳元で呟くと、身体をすぐに浮かせる。
「外で待ってる、バーツの話では陽が沈む頃には起き上がれるくらいにはなってるそうだ」
 眼を合わせずにそう言うと素早く歩いてディストは部屋の外に出る。
 閉めたばかりの扉に身体を凭れさせると、深く息を吐いた。



 薄暗い廊下に、人影が揺れた。
 昼に出掛けたバーツも既に仕事を終えて帰ってきており、
前に実行した時には居なかったラートムとアスタも今は居る事から、
もう一度肝試しをしようという話になっていた。
 ヘイスの休暇も兼ねて、との事だったが、
当のヘイスは明かりの下から動くことすら躊躇っていた。
「それじゃ、前回とは別のメンバーになるようにしたからね」
 そう言うバーツの後ろにはディストとラートムが、
ヘイスの隣にはボルクとアスタが居た。
 軽く挨拶をすると先に行くと言い、ヘイス達が歩きだす。
 いつもならヘイスの様子を囃し立てるディストもこちらを一瞥するだけで
 そのまま、姿は見えなくなった。
 少し居た堪れない気分に襲われながらも、一度大きく深呼吸をヘイスはした。
 今は、肝試しを純粋に楽しむべきだと思った。
 もっとも、とても楽しめる様なものではないのだが。
「ヘイス、もう平気なのか?」
 考え事に耽っていると心配した様にボルクが問い掛ける。
 その隣でアスタも、ヘイスが無理をしていた事を聞かされたのか似た様な表情をしていた。
「平気だよ。ごめんね、ご飯作れなくて」
 苦笑いでヘイスが答える。
 バーツが帰るよりも先に夕食の時間になってしまい、
期待のできない二人が再び調理に出向こうとした瞬間に、ラートムが二人を止めて一人で調理をしていた。
 ラートムに料理の腕があるのだろうかと全員が疑問を持ったのだが、出された料理は充分な出来で、
流石に百年以上生きただけあって知識は豊富な様だった。
「……行こう」
 ゆっくり休んで少しは戻ったヘイスの魔力を感じたボルクは、
足もしっかり床に着いている事を確認してから先を促した。

 歩き出すと、すぐにヘイスは身体を震わせはじめた。
 本当は幽霊の噂の立つ館の時の様に、ボルクの傍に居たいのだろうが、
今はアスタが居る手前、甘えられないと必死に虚勢を張っていた。
「アスタ君、平気?」
「うん!」
 ヘイスとは対照的にアスタは楽しんでいるのか、
逐一遠くでなにかがあるなどと言っていて、それが余計にヘイスを追い詰めていた。
「アスタ、ヘイスは病みあがりだからあまり驚かすな」
 それにアスタが素早く振り返ると、大きく首を縦に振った。
 ボルクの言う事には逆らえないのだろう。
 ヘイスから恨めしい視線が届いているのにボルクは気づいたが、今は気にしない事にした。
 面子を潰されたくなくて無理をしていたのだろう。
 それでもボルクにはヘイスの体調の方が心配で、嫌われる程度で済むのならとヘイスの健康を取った。
 ヘイスも心配されているのはわかっているのか、本気で怒りはしないのだが、
それでもアスタに弱いところは見せたくない様だった。
 もっとも、数秒後に床の軋む音に短い悲鳴を上げてしまって、
とてもアスタに頼られる様な人物にはなれないと落ち込むのだが。

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