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11.いつか要らなくなるもの

 渇きを覚えてディマロスは目を覚ました。
 焼けつく様な感覚に襲われる。
 血を飲んだからだと、ぼんやりとした頭で考えた。
 竜人の父と、食人の母の間にディマロスは産まれた。
 幼い頃から口にするものは竜人の食べるそれと同じものを与えられていたのだ。
 それ故に、人の生血を大量に摂る事すら初めてのことだった。
 血を失ったディマロスは、逃げるためにどうしても誰かの血を必要としたのだ。
 だから、咄嗟に感じていた弱い魔力の持ち主へと走っていた。
 喉を通すと、瞬く間に力が漲り身体が喜びに震えていた。
 逃げられるのだという安堵をディマロスは感じた。
 それと同時に、やはり自分は食人なのだという微かな絶望も。
 気を失った子供を抱いて、できるだけ目立たぬ様に逃げた。
 この町に来た時に拠点にすると決めた、今は誰も使わなくなった廃屋に辿り着くと、
普段は自分が使っている粗悪な毛布の上にそっとその身体を下ろし、
自らは壁際にある、忘れ去られた荷物の上に座り眠った。
 唾を何度か飲み思考に耽る。
 形としては、人攫いだ。
 自分を討つのに充分な名目を与えてしまったのだろう。
 しかしそれよりも、ディマロスは対峙した相手の強さに驚いていた。
 特に、剣を持ったあの狼の男。
 ほとんど手を出してこなかったが、最後の最後に狙っていたのは首だった。
 虎の相手をするために魔力が腕に集まっていたからよかったものの、そうでなければ
身代わりとして差し出した右腕は切断されていただろう。
 攫ってきた相手を見つめる。
 まだ、起きてはくれない。
 応急処置としての魔法はできるだけ施したが、それでも大量の血はすぐには戻らないのだろう。
 それ以上の魔力を渡す事は、相手をただ不幸にするだけだった。
 竜人程ではないが、食人もやはり常人とは違う性質の魔力を持っている。
 加えて自分には竜人の血も流れているのだから。
 今はただ、起きるまで待った。



 心配顔のアスタを見て、ヘイスは迷っていた。
 逃げなくていいのかとその顔は語る。
 肌に感じる魔力だけで、どれ程の相手が来ているのかは解っていたのだ。
 ディストに言われた通り、すぐに逃げればよかった。
 その内に、黒色の男がこちらへやってきて自分を守ろうとしたアスタを跳ね飛ばした。
 その後の記憶がヘイスにはほとんどない。
 思い返した出来事が終わると同時に、ヘイスは起き上った。
 途端に強烈な眩暈に苛まれる。
 思わず呻き、片手を床に付き余った手で顔を覆った。
 そのまま数秒耐えたが、崩れ落ちて最初の様に横になってしまう。
 足音が聞こえた。
 動かぬ身体に、せめて顔だけでもとヘイスは必死に首を動かした。
 薄暗いこの場所で見えたその姿は、竜人そのものだった。
「ラートムさん……?」
 ラートムが助けてくれたのだろうかと、名前を呼ぶ。
 溜め息の音が遅れて聞こえた。
「悪いな、俺はラートムさんじゃねえよ」
 声を聞いてはっとする。
 聞き慣れない声だが、聞き覚えのある声だ。
 アスタを地に伏せた者の声なのだと気づくと、慌てて起き上ろうとするものの、
投げ出された四肢が自分の期待に応えてくれる事はなかった。
 動かぬ身体の代わりに目まぐるしく思考を巡らせる。
 目の前に居るのは間違いなく、食人と人に言われる者だ。
 その傍に今自分が居る事に、ヘイスはやはり恐怖を感じる。
 下手をすれば喰われるのだ。
「随分元気じゃねーか」
 不意に、微かな笑い声がした。
 蔑む様なものではなく、ただ無邪気に笑う声。
 子供の様な仕草に、ヘイスは毒気を抜かれる。

 黒の手が伸びてくる。
 身体は強張ったが、逃げる事の叶わぬヘイスはそのまま腕に抱かれた。
 ほとんど力を籠めていないのだろう、痛みは感じなかったが、
血が足りない事で痛覚が麻痺したりしているのだろうかと、ヘイスは若干不安になった。
 仰向けにされ、座り込んだ食人の膝の上に上半身を置かれる。
 一回転した世界に、また眩暈がした。
「悪い」
 思わず呻いた事に謝られる。
 なにか言いたかったが、やはり言葉は出なかった。
「水だ」
 目の前に液体の入ったコップを差し出される。
 口元に宛がわれると、ひんやりとした水が流し込まれた。
 喉を通して胃に収まると水は一瞬にして体内に吸収される。
 渇きを覚えていた事に気づくと、水を求めて舌を出す。
 その途端に食人はコップを遠ざけてしまう。
 口の端から溢れた水を零しながら、ヘイスは物欲しそうに食人を見つめた。
「一気に飲むと身体に悪ぃだろ?」
 口元を布で拭いながら食人は注意をする。
 そう言われて、仕方なくヘイスは腹を撫でて我慢をする。
 しばらくすればまたコップが宛がわれ、それが離されるまで夢中で水を飲んだ。
 ある程度水を飲んだ後に、今度はパンを食人は食べさせようとする。
 一口で食べられる様に千切ったパンを、何度も懸命に咀嚼してから飲み込んだ。
 飲み込むと同時に水を飲まされ、その次に腹を撫でられる。
 微かな魔力を感じるのは、身体が拒絶しない様にしているためだろう。
 その手が振れると、何故か心地よくてヘイスは声を漏らした。
 残りの水を飲み干すと、またゆっくりと横にさせられる。
 視線だけを向けると、食人はこちらに掌を向けて治療をしていた。
 途端に眠気が差して、再びヘイスは眠りについた。


 あの日からどれ程の時が過ぎたのだろう。
 ヘイスの体調は漸く快方に向かってきていた。
 半分食べるのが精いっぱいだったパンも、今では一枚二枚と自分の手で食べる事ができた。
 忘れ去られた荷物に背を預けて、口を動かす。
 最初は咀嚼するために顎を動かす事が辛かったが、それも元通りになった。
 それでも、攫われた状況には特に変化が無い。
 食事をする自分を眺めるディマロスを見つめる。
「もっといるか?」
 そう言って、すぐにディマロスは新しい食べ物を用意してくれる。
 攫われたという状況の割には随分と悠長な光景である。
「あ、ありがとうディマロス」
 礼を言って受け取る事も、今では慣れてしまったやり取りだ。
「気にすんな、攫ったのは俺だからな」
 口元を緩めてディマロスは言う。
 食人は、ディマロスはヘイスが当初想像していたものとは大分違っていた。
 人であり、しかし魔物と変わらぬ扱いを受ける者。
 ラートムやディストの話は聞いたものの、それでも人を食う生物に警戒心を抱いていたのだ。
 しかし、実際に接触をしたディマロスは随分と気安く話をする人物だった。
 張りつめていた空気が和らぐ程に、仕草も性格も明るい。
 人と話す事に慣れていなくて、いつも照れた様に遠慮をする虎の顔を思い出した。
 ボルクには悪いが、話しやすさでは上である。
 表情と動きだけでただまっすぐに自分を好きだという気持ちが伝わってくるので、
決して嫌いな訳ではなかったし、寧ろ嬉しい部分もあったのは確かだが、
真摯な行為を、利用する様に受ける事はしたくなった。
「考え事か?」
 黙り込んでいると、見透かされた様に問い掛けられる。
「みんな大丈夫かなって」
 自分が居ない間の仕事は大丈夫なのだろうか。
 自分の代わりに、誰か一人はギルドに残らなくてはならないのだろう。
 それがバーツやラートムなら問題ないのだが、
いつも依頼の整理で残っているディストだったのなら、食事が心配だった。
 また消し炭の様なものを作ってはいないだろうか。
「ちゃんと食べてるかな」
「そりゃ、お前が今思われてる事だと思うぞ?
なんせ食人に攫われたんだからな」
 自重気味に笑って、ディマロスは肉を食い千切る。
 それを見て、ヘイスは僅かに身体を震わせた。
「人の肉に見えるか?」
 からかう様に言う、という事は人のものではないのだろう。
「安心しろ、俺は人は喰わねぇよ」
「……そうなんだ」
「純血の食人なら話は別だがな、俺は竜の血もあるからこういったものも割と食えるんだ」
 肉を頬張るディマロスの容姿は、やはり竜そのものであった。
 ただ、体色が空の色を持つラートムと比べると黒く、
そして胸や腹の部分は対照的に白かった。
 ラートム同様着る服には困っているのだろう、肌は隅々まで監察する事ができる。
 唯一ラートムの容姿とはっきり違うと思ったのは、口元が嘴の様に少しだけ尖っている事だった。


 人質の様に攫ったヘイスは従順だった。
 食人の血を引く自分を恐れて最初はそうしているのだろうと思っていたのだが、
こちらから話しかけると、すぐに心を開いて楽しげに返事までしてくれていた。
 ディマロス自身が戸惑う程の打ち解けやすさである。
 立てる様になると、今度はヘイスが腕の傷を治そうとしてくれていた。
「痛くない?」
「このくらいは慣れてる」
 追われて過ごしてきた人生だ、傷を受ける事も多かった。
 止血のためとはいえ、焦ったまま魔法で焼いた腕は酷い有様だった。
 もちろん治療はしていたがやはり治りは遅く、そして醜い傷痕がある。
 ヘイスの掌に光が灯り、それが腕に添えられる。
 意外な程に強い魔力を感じた。
 攫った時は、子供のものだと感じていたはずなのに。
「嫌じゃねぇか?」
「え?」
「……こんな傷、見たくないだろ」
 本当は、食人と居るのは嫌ではないのかと訊きたかった。
 口に出そうとした瞬間に慌てて言葉を別の物にしていた。
 人に避けられる人生を送ってきた癖に、目の前に居るヘイスからの答えが今は怖い。
「酷い傷はあんまり見ないけど……でも、ディスト達もよく怪我はしてたからね」
 掌の光は優しく痛みを取り去ってくれる。
「それに、やっぱり僕はこういう事でしかみんなの役に立てないから」
 寂しそうな響きを含んだ声だった。
 ディマロスには、ヘイスのその気持ちを上手く汲み取る事ができない。
 誰かの役に立つ、そんな事すら自分には許されないのだ。
 血を啜り、その匂いを覚えたディマロスはヘイスの事を知りたいと思っている自分に気づいた。
 相手の境遇を知り、その気持ちを知りたいと考える。
 人と人とが触れ合った時の、極有り触れた動きだった。

 唾を飲み込んでからディマロスは微かに呻いた。
 その声に、治療のために魔力を使い傍でうとうととしていたヘイスが顔を上げる。
「具合、悪いの?」
 心配そうに見つめてくるヘイスに黙って首を横に振った。
 本当は蹲ってしまいたい気分だったが、それはヘイスを不安にさせるだけだ。
 決して人を喰うなと母に言われた事を思い出した。
 幼かったディマロスは、人を襲えば自分が討たれるからだと単純に考えていたのだがそうではなかったようだ。
 異常なほどの食欲と性欲。
 身体が火照っていた。
 原因はやはり、血を飲んだ事だ。
 ぐらつく視界の中に自分を見つめるその顔を収める。
 柔らかそうな肌に、可愛らしい耳と円らな瞳。
 暫く食事を取れなかったせいで、余計に線が強く出た華奢な身体。
 その身体の血を啜ったディマロスには、どれもただ扇情的で更には食欲を煽るものだった。
「大丈夫だ、ちょっと疲れただけだ」
 口ではそんな事を言いながら、目の前に居るヘイスをただの獲物だと捉えている自分に驚いた。
 腹を割いてしまいたい気分に駆られる。
 やはり自分も食人なのだと、目尻に涙が溢れた。
 食人の血を引き継ぎながら、竜の血も混じった自分の事を、
何処かで純血の食人とは違うと言い聞かせていたはずだったのに。
 身体を落ち着かせようと掌に光を灯して、胸に当てる。
 ヘイスも慌てて治療をしようと近づいてくる。
「近づくな!!」
 思わず叫んでいた。
 短い悲鳴が聞こえる。
 荒く呼吸を繰り返しながら、ディマロスは滲んだ視界でヘイスを睨む。
 先程までとは完全に身体が別物へと変わっていた。
 今近づかれたら取り返しのつかない事をしてしまいそうだった。
 食欲も性欲も満たしたかった。
 ぼやけた視界に映る相手は動かなかったが、それでいいと思った。
 そう思っていたが、次の瞬間にその姿が近づいてくる。
 掌に優しい光を灯しながら、近づいてくる。
 目の前に屈んでヘイスは治療をしていた。
「喰うぞ」
 最後の警告をディマロスは発した。
 僅かにその身体が震えたが、やはりヘイスは動かなかった。
 ヘイスの腕を力強く掴み、逃げられぬ様に引き寄せる。
 肩の付け根にディマロスは噛みついた。
 本当は首筋にしてしまいたかったが、下手をすればそれで死ぬと直前でどうにか目標を逸らしていた。
 ヘイスの身体が硬直して震える。
 声はほとんど出さなかった。
 それでも、僅かに視界に映るその表情は苦痛を訴えて涙を流していた。
 口内に血の匂いが広がると、少し遅れて待ち焦がれていた血の味がした。
 ヘイスがか細い声で啼く。
 傷口を、ディマロスの舌が蹂躙していた。
 抉る様に舌が振れる度に細かく声を漏らしては、涙は頬を伝っていた。
 警告したはずだった、だからディマロスはそれを当然だという様に見つめる。
 ふと、肩に掌が乗せられている事に気づいた。
 小さな犬人の手だ。
 倒れ込まぬ様に耐えているのだと理解した瞬間、ディマロスは自分が何をしているのか漸く悟った。
 口を離すと、唾液で薄まった血液が溢れて身体を汚す。
「ヘイス……」
 腕の中で、それでも自分に身体を預けずに居るその小さな身体を見つめる。
 視線が絡むと、ヘイスが僅かに微笑んだ。



 ヘイスの傷は浅かった。
 本心から人を喰おうとしていなかったのだと、ヘイスはそう言っていたが、
ディマロスにはそれがよくわからなかった。
 欲に駆られて襲った事も、襲う時に反射的に急所を避けた事もただの事実だと考える事にした。
 傷は、暫くの間ディマロスがゆっくりと治療するだけで塞がった。
 最初に噛みついた事で皮膚は破れたが、後は舌で軽く弄っただけなのだ。
 ただ失った血だけはどうしようもなかった、食人の血を分ける訳にはいかないのだ。
 失った血は少量だが、元々足りていない。
 その点ではヘイスはまた臥せる事になったといえる。
 それを隠す様にヘイスは殊更に明るく振る舞っていた。
 それに乗せられる形でディマロスも話をした。
 逃げなかったヘイスに、自分ができる事はなんでもしてやりたかった。
 食人についての話も聞かせた。
 そして、自分の出生についての話もした。
 ディマロスの父は美しい純白の竜人で、心優しい性格だった。
 色として表れる事の多い魔力を、多種多様な種族から吸収した食人の肌は基本的には暗い色をしている。
 自分の体色の白い部分は、その集まった魔力と交わらなかった父の色だ。
 その父が、旅が終わるまでの命だった食人の母と心を通わせた。
 ディマロスの前では、母は決して人を喰う姿を見せなかった。
 必死に耐えていたのだと思う、旅が続き徐々に食人が人を口にする事ができなくなった頃にディマロスは母から離された。
 父はただ、寂しそうにしながら自分を抱き締めてくれた。
 その頃の母は恐らく、ヘイスを襲った自分の様に見境が付かなくなっていたのだろう。
 初めて人の味を知ったディマロスとは違い、今まで慣れ親しんでいたものだ。
 旅を続け、魔物の被害が治まるにつれ当然人の被害は少なく小さいものになる。
 理性を失ってゆく母の姿を、父は見せたくなかったのだった。
 そして旅の終わりの日に、父の手で母は命を絶たれた。
 命を絶つ役目の竜人は他に居たが、父はそれを断固として譲らなかったらしい。
 実際にその現場をディマロスは見た訳ではない。
 ただ、食人の始末を終えた後自分を逃がそうと外へ連れ出した父は涙を隠しもせず瞳は虚ろだった。
 別れ際に、父は何度も抱き締めながら謝り自分を送り出した。
 同行する事は禁じられていた。
 その後、父がどうなったのかディマロスは知らない。
 優しく、そして脆い心を持っていた父だった。
「なんで俺がこんな話をするか、わかるか?」
 話を終えて、口元に笑みを浮かべてディマロスは尋ねた。
 ヘイスは暫く考えていた。
「お前は竜人でも食人でもない、言わば赤の他人だ」
 本来なら、竜人にも食人にも関わる事の無い身のはずだろう。
 それが何故ここに居るのか、巡り合わせだとディマロスは思った。
「ラートムさんから竜人の話を聞いたんだろ、だから俺は食人の話を聞いてもらいたかったんだ」
 竜人の側と、食人の側。
 端的に言うのなら、殺した者と殺された者の話だ。
 ただ、あまり悲観的にならずに淡々とディマロスは話をしていた。
 ラートムもまた同じ様に話した事は予想がつく、そうでなければヘイスは自分を受け入れる事もしなかっただろう。
「竜人と食人の話をそれぞれ聞いた、なんの関係の無いお前がだ。
どちらが悪いか、そんな事を判断してもらいたい訳じゃねぇんだ。
なにがあったのか、俺はそれを知ってほしい」
 ヘイスはまた考え込む。
 今では竜人も食人も邪険にされる存在だ。
 ヘイスにだけは、そうなってほしくなかったのだった。
 ただ、やはり返事は聞かなかった。
 それを聞くのを恐れていた。
 恐らくは、ラートムも。
 考えに耽っていたヘイスも、察したのかそれについてはなにも言わなかった。
 ディマロスは窓から外を見た。
 ヘイスと一緒にここに居る様になってから、十日程は経ったのだろうか。
 ラートムと話をするつもりでこの町に来て、予定は狂ってしまったがそれはもうどうでもよかった。
 予定した以上のものと、出逢えたのだ。
 雨音に気づいたのは、窓の外を見た後だった。

 雨は叩きつける様に降っていた。
 窓の近くに居ると煩くて集中できない程だ。
 書類を整理する途中、ディストは外を眺めた。
 食人とヘイスについての情報は今のところなにもなかった。
 深手を負わせたから、そう遠くへ行ってはいないという見当はついている。
 一応の捜索願と、自ら町に出向いて暫く歩き回ったもののこれといった成果は上がらなかった。
 結局は動きがあるまで静観する形に落ち着く。
 先行して食人と対したバーツが、その内に帰ってきた。
 傷はほとんど負っていなかったが、やはり食人の力にしてやられたのだろう。
 なにも言わず迎えて、暫く家事を押し付けてから今は軽い依頼を任せていた。
 ヘイスが居なくなっても、ギルドの運営は続けなくてはならない。
 こういう時に滞らせれば積み上げてきた信用は崩れて、一気にロアのところに客足は向かうのだろう。
 なにより、命令を無視したヘイスが陥った事態だった。
 それ以上の事を今ディストはする気が無かった。
 とはいえ、ヘイスを探しに行きたいのは本心だ。
 バーツに依頼を任せた代わりに、家事に関してはラートムを使っていた。
 この二人は、恐らく食人に対する備えにはならない。
 二人を置いていても、自分自身でしなくてはならない事がいくつもあった。
 ディストが心配していたのは、ボルクの動向だった。
 思い詰めれば自分の命令に聞く耳を持たずに単身でヘイスを探しに行き食人と戦う危険があったが、
今のところ、ボルクはなにも言わずに待機していた。
 内心では自分が未熟だったからヘイスが攫われたのだと、また自責の念に駆られているのだろう。
 それに対しても、やはりディストは言葉を掛けなかった。
 見え透いた慰めの言葉で奮い立つのは、アスタぐらいなものだ。
 そのアスタは、ラートムの治療を受けて元に戻ると一人で町に飛び出してヘイスを探しに行っていた。
 ある意味ではボルク以上に命令を聞かないが、幼いアスタになら食人が深く手を出す事はないだろうと心配はしていなかった。
 アスタに危機感を抱いていたのなら、ヘイスを攫った時にもっと痛めつけていたはずだった。

 情報を反芻して、整理し終えるとディストは息を吐いて立ち上がった。
 愛用の剣を持って部屋から出る。
 食人を斬った感触はまだ掌に残っていた。
 それよりも、ただの人と同じ赤い血を流していた事の方が記憶には焼きついていた。
 食人の事は知っていたし、扱い方も心得ていた。
 それでも、本来自分が守るはずの人と何一つ変わらない赤い血を流していたのだ。
 傷口から血を飛び散らせた時、束の間そんな事を考えて怯んだ。
 ヘイスは命令を無視したから攫われた。
 そう考えたが、怯んだ自分が食人を取り逃がした事もまた事実だった。
 壁に凭れかかってまた息を吐く。
「らしくねぇな……」
 廊下を歩き出した。
 日課の、町の見回りに行かなくてはならない。
 ヘイスが居なくなったあの日からしている事だった。



 篠を突く様な雨の音に、ヘイスは苛立ちを見せていた。
 建物の構造上、強かに降る雨の音は広い部屋中に響いて安眠を脅かす。
 普段は困った顔で誤魔化しているヘイスも、流石に眠っている時に雨音に起こされた時は不機嫌さを隠そうとはしなかった。
「外にいかない?」
 雨のあがった翌日に、晴々とした空を見てヘイスがそう言った。
 降り続いた雨に鬱憤の溜まっていたヘイスは外の景色に我慢ができなくなったのだろう。
 なにより、攫ってきてから一度たりとも外には出させていなかった。
 水の供給はまだされたままで、飲み水と身体を洗うという最低限の事は許していたものの、
身体の具合も良くなった今は、やはり会話だけでは退屈なのか、
物欲しそうな顔でこちらを見つめていた。
「外ねぇ」
 言われて、窓から眺めてみる。
 あれだけ降っていた雨が嘘の様に今は陽の光が眩しい。
 それでも、大地には所々に大きな水溜りがありあの雨が嘘ではない事を伝えていた。
「そろそろ食べ物も無くなってきたから、買い出しにいくんでしょ?」
 時折外に出ては、主にヘイスのための食糧を買い足す。
 力のあり余っているディマロスは魔力を当てるだけで軽い空腹は誤魔化せるが、
ほとんど病人の扱いであるヘイスは、そういう訳にはいかなかった。
「だからさ、僕も一緒に」
「そんな事言って、逃げるつもりじゃねーだろな」
 訝しげにヘイスを見つめる。
 もっとも、ディマロスはヘイスが逃げるとは思ってはいなかった。
 そんな性格でない事は当に見抜いていて、単にからかっているだけだった。
「に、逃げないよ……多分」
 ヘイスはヘイスで冗談めいた様に微笑む。
 結局根負けして、ディマロスは建物の扉に施していた魔法を解いた。
 魔法で封をしているこの建物の中では、外に魔力が漏れない。
 外からの感知を防ぐと同時に、ラートムを呼ばないための対策だった。
 食糧を買うにはヘイスの金を拝借しなければならない。
 最初の内は旅をしながら少しずつ集めていた金でやりくりしていたが、それも底をついてしまい、
仕方なくヘイスが偶々持っていた金を借りていた。
 ディマロス自体はその辺に居る動物を生のまま食せる程逞しかったが、
町で育ったヘイスにはやはり無理な事で、どうしても先立つものが必要だったのだ。
「お前の分を買ったらすぐに帰るからな」
 そう伝えてもヘイスは嬉しそうな表情を崩さなかった。

 扉を開けると、腕に温かな光が当たる。
 それと同時にディマロスは外套を深く被って肌を隠した。
 町中では、体毛の無い黒い色の自分は目立ってしまう。
 食人だと知れたら、こんな所で悠々とはしていられないだろう。
 後ろから来たヘイスは、対照的に外に飛び出すと陽の光を浴びて大きく伸びをしていた。
 そんな事をされると、ディマロスもしてみたくなってしまうのだが、
少なからず通りには人も居て、とても実行には移せなかった。
「せっかく気持ちいい太陽なのに、勿体ないね」
 ヘイスも事情を知っているから残念そうに呟く。
 それに、薄く笑みを返した。
「まぁ、町の連中に追われてもいいなら脱いじまってもいいけどな」
 そう言って、腰に穿いている衣服に手を掛ける。
「そっちじゃなくて……」
「大丈夫だ。収納型だ俺は」
「そういう問題じゃないんだけど」
 恥ずかしそうに視線を逸らされる。
 こんな風に軽口を叩くやり取りも、慣れたものだった。
 それだけ自分がヘイスに気を許しているのに気づくと、ディマロスは僅かな間狼狽した。
「さっさと買って帰るぞ」
 誤魔化す様に、人混みの中へと繰り出す。



 市場にヘイスは足を踏み入れた。
 連日続いた大雨のせいで流通が止まっていたのだろう。
 その反動でいつも以上に人が集まっていた。
 背後に居るはずのディマロスが遠くなっていて、足を止める。
「大丈夫?」
 人混みを掻き分けてやってきたディマロスを迎える。
「悪い、こんなに人が多いのは初めてでちょっとな」
 思わず怯んでしまったのだろう、ただでさえ背の高いディマロスは極力目立つ事を避けようとする。
 そうするとどうしても小柄なヘイスの様に先へは進めない。
「こういう時は、あれだな」
 得意げな顔をしながらディマロスは言う。
「あれ?」
「ああ、しっかり調べたぞ」
 首を傾げると、にこりと微笑まれて手を掴まれた。

 満足そうな様子のディマロスと、手を繋いで市場を行く。
 大男のディマロスと手を繋いでいる様は傍から見ると親子にでも見えるのだろうかとヘイスは考える。
 少しだけ顔が熱くなったが、はぐれる方が困ってしまうので握る手に力を籠めた。
 体毛もないからか、その掌はごつごつとして硬い。
 吸いこまれそうな暗い色に純白が混じった体色は、陽に照らされると美しかった。
 人里に寄らず放浪をしていた身体は、時折見るギルドの誰の身体よりも更に締まっていて、
純粋に見惚れてしまいそうになる。
 ほとんど食べずに居る事も多いのだろう、出会ってからの食事は外で適当に獲物を探している様だった。
「料理作りたいな」
 市場にある食材を眺めてヘイスは呟く。
 色取り取りの野菜も、新鮮な魚も、脂の乗った肉も並んで見える。
 攫われてからは質素なもので済ます事が多かったのでどうしてもそれらに視線は向いてしまう。
「俺も、家政婦さんの料理が喰いたいもんだ」
 町の生活に興味を示したディマロスに話す事は、大抵は自分の仕事の事だ。
 よくある悩みは、やはりその日の献立だった。
 料理の作り方を話しているとディマロスはいつも関心を示し、味を想像してはこんな味なのだろうと感想も述べてくれていた。
「生憎あそこにゃそういうもんがねーからな」
 物置としてのみ使われていたあの建物では、とても料理はできそうになかった。
 最低限の器具を買い、火は魔法で済ませる事も可能だが、
その最低限の器具を買えば、食糧はなにも買えなくなってしまう。
「僕も生肉食べられたらよかったんだけど」
「やめとけって、大体病み上がりであんなもん食ったらまた起き上がれなくなるだろ」
 窘める様に言われ、残念そうに耳を下げるとディマロスに笑われる。
 なんとなく人を喰ったその態度がディストに似ていた。
「それにお前の分を買いに来たんだぞ?」
「でも、ディマロスもあんまり食べてないし」
 臥せっていた頃は、自分に付きそうためにほとんどなにも食べていなかったはずだった。
 それなのにここまで気丈に振る舞っていられるその精神力には驚くばかりである。
「食人は蓄えてきた人々の強い魔力があるからな、ちっとの絶食なんてもんは平気だしよくあることだ」
 町に入れないから、と暗にディマロスは語る。
 そんなディマロスのためにもなにかを作りたかったのだが、手持ちが無ければどうしようもなかった。
 ギルドへ帰れば工面もできるが、一応は人質であるからして流石にそれは許してもらえないだろう。
 自分を攫ってきた時のディマロスの傷を思い出す。
 魔法の腕は凄まじいもので、傷は無くなっていたものの、
あの傷をつけたのがディストだという事はよく解った。
 今不用意にディマロスをあの場へ連れて行く事はできないし、かといって自分一人ではディマロスは首を縦には振らないだろう。
 帰らない事でディストやボルクが飢えていないかどうかが心配だったが、やはり今はまだ帰る訳にはいかなかった。
 必要な食糧を選びながら歩いていると、ディマロスが立ち止まっている事にヘイスは気づく。
 その顔はある一点をじっと見つめており、視線の先に目を向ければ武装した男達が険しい表情で歩いている姿があった。
「どうしたの?」
「……戻るぞ、ヘイス」
 買い物もそこそこに、手を取られて市場から抜け出す。
 急に踵を返した事で男達もなにかを感じ取ったのか、こちらへと近づいてきていた。
「食人狩りの奴らだ」
 早足のままでディマロスは説明をする。
「振り向くな」
 相手を再度確認しようとするよりも先に、ディマロスの注意が飛ぶ。
 腕を引かれて人混みから抜け出すと矢継ぎ早に路地へと入る。
 入ると同時に、ディマロスは一度足を止めた。
 不思議に思いその顔を覗き込むと、心配させないためかいつもの様に笑われる。
 突然ディマロスに腕を引かれると、ヘイスは倒れ込む。
 視界が回転して、気づけばその胸に収まっていた。
 次に、背中と膝の裏から身体を支えられる。
「わりぃな、ちっとの間だけお姫様になっててくれよ」
 言われてから漸く、自分がどういう体勢になっているのかヘイスは気づいた。
 恥ずかしそうに視線を逸らすと、確認する様に支える手に軽く押される。
「荷物、落とすなよ?」
 言葉に手に下げていた荷物をしっかりと抱える。
 それを見るとディマロスは駆けた。
 腕の中で揺られると、多少酔いそうになるがなんとか堪える。
 病み上がりの身体では満足に走る事などできはしないのだから。
 ディマロスの足音を追う様に、後ろからも幾人もの音が聞こえた。
 魔力を感じて見上げると、ディマロスの身体が淡く光っているのに気づく。
 全身に魔力を纏ったのだろう、支える両腕からは心地良さが広がる。
 犬の血の部分が身体に働きかけているのだろうと、ディマロスが教えてくれた事だった。
 魔力を纏ったディマロスは、まるで跳ぶ様に走っていた。
 多少の障害物などは高く跳ぶだけで超えてしまうのだ、追っている相手からは飛翔している様にすら見えるだろう。
 通路に置かれた荷物や荷台を、跳び越えると同時に蹴り倒して行くので後続の男達との差は見る見る内に広がってゆく。
 頬に、雫が落ちた。
 外套から覗くその顔には汗が浮かんでいた。
 消耗が激しいのだと理解すると、抱き抱えられながらもヘイスは持っている魔力を解放する。
 ディマロスはそれに気づくと、その腕から魔力が一度引く。
 魔力の移動は容易いが、そのままだとこちらに食人の魔力が来てしまうのだろう。
 視線だけを合わせて頷き合う。
 その身体が今までとは違う光に包まれた様にヘイスには見えた。


 一頻り駆けた後に、ディマロスはゆっくりと足を止めてくれた。
 抱えられているヘイスは、頭だけをどうにか出して後方を確認するがそれらしい姿は見当たらない。
 足を支える腕がゆっくりと下がる。
 足先が大地につくと、今度は背中を持ち上げられヘイスは漸く一人で立てる様になった。
「悪かったな、いきなり持っちまって」
 逃げる途中で何人かに抱き抱えられている姿を見られており、その事を謝られるがヘイスは気にしてはいなかった。
「飯はちゃんと買えたか?」
「うん、大丈夫」
 金を払った直後だったのが、幸いだった。
 下手をすれば人攫いの上に窃盗の罪まで重ねる事になる。
 拉致と比べれば軽いものだろうが、これ以上ディマロスに罪が着せられるのがヘイスは嫌だった。
「ごめん、早く帰ろう」
 もたもたしていたから人につけられたのだと反省して、隠れ家へ帰ろうとすると、
方角の見当をつけて歩き出したヘイスは目を見開いた。
 こちらを見つめる人の姿。
 久しぶりに見た、熊人の姿だった。
「バーツ」
 呟くと、透かさずディマロスが自分の前へと出る。
 守るためではないという事に、自分は人質の様なものだという事を思い出した。
 ディマロスと向き合ったバーツは苦笑を零して、困った顔をしていた。
「ヘイス、迎えにきたよ」
 暫く間を置いてから漸くバーツは口を開いた。
 辺りにはディストやボルクも居ない様だった。
 自分を迎えに来たとバーツは言うが、それは不可能だとヘイスは思った。
 ディマロスの食人としての力と、バーツの力の相性は最悪としか言いようがない。
 それで一度バーツを負かせた事はディマロスから聞いていた。
 目立った外傷なども見当たらず、ディマロスがなにもしなかった事にだけ安堵した。
「悪いが、今はまだ帰してやれねぇな」
 対峙する二人の身体から魔力が溢れる。
 思わずヘイスは息を呑んだ。
 どちらの魔力も、自分に向けられたら立っていられない気がした。
 こうして一歩下がったところから見ているだけで、蹲りそうになる。
「バーツ」
 蹲りたい衝動を懸命に堪えてヘイスは足を踏み出した。
 ディマロスの隣に立って自分を迎えに来た相手を見つめる。
 近づいて初めて、バーツが汗を掻いているのに気づいた。
 勝算の無い相手と全力でやり合う事を覚悟していたのだろうか。
 そんな無謀な事をする様な性格だとは思っていなかったから、それを内心意外に感じる。
「ごめん、今はまだ戻れないよ」
 そう言ってもバーツの表情は変わらなかった。
 落ち着いている自分を見てなんとなく察していたのかも知れない。
「それはヘイスの意志?」
 静かな声だった。
 見つめるその瞳は澄んでいて、それでも微かに哀れみの色をしていた。
 言葉にヘイスは頷く。
 それで納得したのか、バーツの身体から魔力が引いてゆく。
 隣にある恐ろしい力もそれで止んだ。
 端から二人とも闘う気は無かった様だった。
 魔力が消えると、いつもの様にバーツは笑った。
「相変わらず首を突っ込むのが好きだね」
「ご、ごめん」
 バーツが首を振る。
「ううん、きっとみんなヘイスのそういうところが好きで……辛いんだろうね」
 辛い、という言葉に僅かに引っ掛かりを覚える。
 心配ばかり掛けているのだろうかと束の間ヘイスは俯いた。
 バーツの瞳が暫く閉じられてから、静かに開けられる。
「そろそろ逃げた方がいいよ。人が来る」
 ディマロスを見ると、同様に頷いていた。
 逃げるために食人の力を使ったのがやはり悪かった。
 バーツの様な魔力に敏感な相手には、易々と知られてしまう様だった。
「行くぞ」
 ディマロスに促される。
 最後に一度だけ視線を送ると、バーツは見慣れた笑顔で手を振ってくれていた。

 息を殺して気配を探る。
 言われた通り、確かに何人か追う者の力を感じた。
 立ち去ろうとすると、熊の男が頭を下げた。
 先程までヘイスに向けて居た様な人の良い顔はしていない。
「なんだ?」
 声を掛けると、ヘイスが足を止めたので手で払い先に行く様に伝える。
 逃げる意思が無いのならば、見張る必要の無いヘイスを追われる自分の傍に置くのは却って危険という事もあった。
 戸惑いながらもヘイスはそれを了承して歩き出す。
「無礼をお許しください」
 熊が口を開く。
 話し方も違うこの相手の事を僅かに警戒したが、魔力は出しておらず必要以上に構える事はできなかった。
「あの事は気にしてない、寧ろ俺の方がやっちまったようなもんだ」
 最後には足に軽い攻撃を食らわせて、動けなくしてから放置した。
 並の使い手以上だったから、深追いを避けたのだった。
「謝っているのは先日の事ではありません、あれは間違ってやったことだとは思っていません。
現に、こんな事になってますから」
 微笑まれてそんな風に言われると、妙に納得してしまう。
 確かに自分は今なんの疑いようもなく人攫いである。
「僕は、森の民の者です」
 その言葉にディマロスははっとする。
 魔物を粗方殲滅し終えた後、今度は自らの力が疎まれる事を悟った竜人達は各地へ散っていった。
 食人に死を与えた後、竜人もまた生きながらの死を自ら歩んだのだ。
 森の民は、竜の旅を終えた竜人を迎える数少ない者達だった。
 一般には既に伝説やおとぎ話の様なものとしてしか語り継がれぬ竜の話も、そこではしっかりと伝えられているという。
「気にするな、竜人を受け入れる事すら外の者に煩く言われたんだろ。
それに竜人の中にも俺みたいな半端者を警戒する奴もいたからな。
簡単に受け入れられるもんじゃなかったはずだ」
「それは解っています、村の者も食人を受け入れてはならないという思想の者が多かった程ですから」
「ならば何故謝る?」
 俺の神経を逆撫でするつもりかと言いそうになり、慌てて口を強く閉じる。
「竜の旅を終えた者は手厚く持て成せと幼少の頃より言われております。
分け隔てなく、僕はそうするべきだと思っているだけです」
 言葉を聞きながら、ディマロスは今まで歩いた道を振り返っていた。
 人里はできるだけ避けるのだから、当然森の集落にすら寄ってはいない。
 寄ったとしても、歓迎される状態ではないのだろう。
「申し訳ありません。僕は……森の民は、貴方の居場所を作る事ができなかった」
 もう一度、熊は深々と頭を下げる。
「もういい」
 今更言われても、どうしようもなかった。
 こんな風に謝られたところで心が乱れるだけだ。
 自分にできるのは、歩んだ道が誤りではなかったと必死に言い聞かせる事だけだった。
 頭を下げたままの姿に、その思いも掻き乱される。
「あの時代の人と、今の人は違います。
良くなったところも、悪くなったところもあるのでしょう」
 熊の言葉を、無心でディマロスは聞き入る。
「貴方を恐れる人ばかりではないと、一言だけ言いたかったんです」
 熊の視線が遠くに向けられる。
 その先に誰が居るのか、追わずともディマロスは知っていた。



 隠れ家へ戻ると、ディマロスは漸く全身から力を抜いた。
 やはり不用意にヘイスを外に出すのは無謀だった様だ。
 それでも思い返せば、二人で歩く町は楽しかった。
 一人では、人に気づかれる事を恐れるばかりでその景色も、音も、匂いすら楽しむ余裕が無い。
 人から恐れられている自分自身が、人を恐れていた。
「はい、ディマロス」
 ヘイスがなにかを差し出す。
 薄暗いので僅かに戸惑ったが、よく見れば見慣れたパンだった。
 いつもと違い二枚に重ねているその間に別の物が挟んである。
「なんだこれ?」
「火を使ったりできないから、挟むだけでいいものにしてみたんだ。
調味料は頼んだら少しだけ分けてもらえたよ」
 そう言うヘイスの手にも同じ物ができあがっていた。
「俺はいい、お前が喰え」
「でも……お腹空いてるよね? ディマロス」
 まるで見透かされた様に言われるが、実はかなり空腹だった。
 魔力を充分に纏っていれば何程の事もないが、逃走のためにそれを使っていたし、
逃げる事で身体をかなり動かしたので体力の消耗が激しかった。
 充分に食事を取らなければ、やはり誤魔化す程度の事しかできない。
 ヘイスも自分が魔力でそれを補っているという説明を覚えていたのだろう。
 一歩も引かないところを見ると、突き返す事は早々に諦めた。
 受け取り、一口食べて見る。
「……美味いな」
 今までに食べた事のない味だった。
 簡素な作りではあるものの、味わった事のない調味料もあってか不思議な気分になる。
 いつもの様に明るく話すつもりが、本音を小さく溢すだけになってしまった。
 視線を送ると、ヘイスも尻尾をばたつかせながらパンを食べていた。
 自分で料理した物を本心では食べたかったのだろう、出来合いのつまらない物ばかりを買ってきていた自分が少し恥ずかしくなった。
 いきなり連れ去られた挙句、下手をすれば自分自身が喰われる危険な相手と二人きり。
 満足な食事も与えられていないのだ。
 それなのに、こんな風に相手を気遣う事ができる。
 人と触れ合った経験の乏しいディマロスでも、こういう性格を持った者があまり居ないのはよく解った。
 ヘイスのそういうところが好きなのだと言った、熊の男を思い出す。
 ヘイスを待っている者が居るのだと、漸く気づいた。

 夜が深くなる。
 丸まって眠りにつくヘイスは、頼りない月明かりのせいか普段より幼く見えた。
 自分が一人で歩き出したのも、丁度このぐらいだっただろうか。
 涙を流す父に見送られ旅の群れから飛び出した。
 本当は父と母、三人で共に行きたかった。
 竜人と食人、そしてその間に生まれた自分の魔力。
 三人分の魔力はあまりにも強く、そして感知されやすかった。
 加えて、子供の自分はただの足手纏いで、
考えた挙句自分を逃がす事だけを二人とも優先したのだった。
 今日起こった出来事を思えば、それは正しい判断だったのかも知れない。
 それでも、歩き出したあの日からそれは胸に痞え続けていた。
 身動ぎの音が聞こえる。
 寝つきがいいのか、こうして物思いに耽って魔力を抑えなくてもヘイスは静かに眠っている。
 その顔を覗き込むと、無性に惹きつけられる。
 純粋に好きな上に、血を啜ったのだ。
 身体の中がざわついて熱くなる。
 こんな気持ちになるのは初めてかも知れない。
 一人になったばかりの頃は、寂しさに嫌気が差して空を見ては誰かに逢いたいと思っていたものだ。
 その癖実際に人と触れ合うのは避け続けた。
 誰かに逢いたいと願う癖に、その誰かは誰でも良い訳ではないのだから勝手な話だった。
 縦しんば誰かに逢えても、寿命の長さが違う。
 食人は竜人と同じくらい長く生きる事ができる。
 共に歩む者が居ても、人に追われいずれは自分よりもずっと早く先に死ぬのだ。
 そんな生を甘んじて受け入れてくれる者がどれ程居るのだろうか。
 歩く内に、いつしかディマロスは寂しさを忘れた。
 思い出さなければ、なにかに願う事も、誰かが去る事も、誰かを失う事もない。
 そう思っていたはずなのに、気づけば今胸にあるのはあの時と同じものだった。
 ヘイスだったら、もしかしたら。
 そんな風に考えてしまう。
 あの時と違うのは、なにかに誰かとの邂逅を求めているのではないという事だった。
 自分の目の前に居るヘイスに、ただ目の前に居続けてほしいと願う事ができる。
 それがこの先何度も与えられる機会だとは思えなかった。
 今この時がどれほど大切なものなのか、気づいた時ディマロスは震えていた。
 今を逃したらどうなるのか。
 忘れかけた気持ちを胸に残したまま、再び独りの道に放り出されたら。
 長い時を生きてきた癖に、重ねたのは齢だけなのだと思い知らされる。
 縋る様な気持ちでその寝顔を見つめた。
 人の気も知らぬまま、ヘイスは穏やかに眠っていた。
「……」
 不思議と落ち着いて、深呼吸ができる様になる。
 自分が今抱く不安を、誰かも抱いているのだろうかという考えがふと胸を過ぎった。
 逃れる事に必死だったがヘイスを人質に取った時の相手の表情はまだ微かに覚えている。
 明確に殺意を宿した眼光。
 裏を返せば、それだけ大切な相手なのだろう。
 自分が感じているこの痛みを、相手に必死に投げつけているだけだった。
「どうすりゃいいんだよぉ……」
 消え入りそうな声でディマロスは呟く。
 こんな風に声を出したのは初めてかも知れなかった。
 独りの時は、音に出す事もない。
 ヘイスの前で屈んで頬を撫でる。
 きっと、ヘイスも帰りたいはずだ。
 帰さなければならない。
 言葉にならない呻きが聞こえた。
 目の前の犬人は、静かに眠ったままだった。

 ディマロスは道を歩いていた。
 見慣れてはいないが、見覚えのある道。
 ここがどこなのか逡巡してから思い出した。
 あの日、独りで歩き出したあの道だった。
 声を掛けられて、振り返る。
 見慣れた姿がそこにあった。

 寝覚めは悪くなかった。
「夢か」
 夢だと気づけば、それ以上見ていたいとも思わなかった。
 寝ても覚めても変わらぬものだけが、今はただ欲しい。
 だからヘイスの夢を見たいと、眠ったはずだった。
「ヘイス……?」
 そのヘイスも見当たらなかった。
 跳び起きて部屋の中を見渡す。
 見渡すよりも早く、感じる魔力だけで居ない事が解るのが嫌だった。
 扉へと歩み、確かめると魔法で掛けた鍵は開いていた。
 それで漸く昨日魔法を掛け忘れていた事に気づく。
 それ程に動揺していたのだろう。
 ヘイスは逃げ出したのか。
 微かな寂しさを覚えながらもその存在を探る。
 ヘイスの魔力はすぐに見つかった。
 そう遠くない場所にその力がある事に違和感を覚える。
 もし自分の元から逃げ出したのならば、当然あのギルドにまっすぐ帰るだろう。
 それが最も安全なはずだ。
 ならば、逃げ出した訳ではない。
 安堵に包まれ、罪悪感に苛まれながら、身繕いをしてディマロスは扉を開けた。


 明けたばかりの町は霧に包まれていた。
 少し歩いて振り向けば自分の使っている隠れ家も見えなくなっていた。
 何度も歩いた道のはずなのに、初めての様に感じられて、
、 ディマロスはただヘイスの魔力だけを頼りに歩いた。
 それだけが今の自分を導いてくれる。
 ヘイスの魔力が近づいてきた頃、不意に前方に人影が現れる。
 その足元にヘイスは放られていた。
 死んでいるのかと、そう思ったが息が無ければ余程強い魔力でなければ感じられない事を思い出す。
 傍に買い物袋が転がっていて、大方出来るだけ安い物を求めて朝市にでも行きたかったのだろうと見当をつける。
 魔法の臭いがした。
 いつの間にか左右からもそれが感じられて、囲まれているのだと気づく。
 自分を殺しにきたのだろう。
 一様に、勝ち誇ってはいるが怯えを滲ませた顔をしていた。
 一斉に魔法が放たれる。
 素早く構えてから、左右から来た魔法にディマロスは手を伸ばした。
 腕に激痛が走る。
 左からの魔法は上手く読み取りまったく同じ軌道で返したが、残りは力で無理矢理はじき返す事が限界だった。
 正面からも魔法がやってくる。
 両手を広げた体勢はすぐには戻せない。
 だから、ディマロスは咆哮を上げた。
 腹の底から声を上げ、魔法の先に居る相手を睨み殺す様に見つめた。
 腹の中に渦巻いていた黒い怒りは自分でも量り難いほどのものだったのだろう、
眼前に迫っていた魔法は破裂し、その向こうの相手の顔がはっきりと見えた。
 相手は顔を恐怖に染めてから、気を失ったのかその場に倒れた。
 それで終わりだった、残りの二人も返した魔法を避けられなかったのか大地に伏せたまま動く事はなかった。
 刺激臭を放って倒れている男を無視して、その傍に倒れているヘイスの元へ行く。
 屈んで様子を見てみたが単に気絶させられているだけの様で、
これといった外傷は見当たらず一安心する。
 抱き上げようとして、伸ばした腕が血に染まっている事に気づくと、
身に着けていた外套の一部を裂いて、傷口を軽く拭ってから魔法で傷を塞いだ。
 怒りのあまりに傷を負っていた事も忘れていた。
 止血を済ませると、今度こそヘイスを抱き上げて
再度倒れている相手を避けてゆっくりと道を戻る。
 倒れている男を見ると、少し前までの自分を見ている気分になった。
 それが今はヘイスを取り戻そうと躍起になっていたのだ。
 ギルドに居る連中と自分が感じている事は変わらないのだと思った。
 自分が抱えたこの怒りも、随分前に味わわせたのだろう。
 ヘイスを抱えながら、ディマロスは想いに耽って霧中へと消えた。


 隠れ家へ戻ると、慣れた様にヘイスを元の場所へと寝かせた。
 考えてみればこうして眠るヘイスの看病をするのも慣れたものだった。
 慣れる様になった原因は自分にあるのだから、思わず苦笑いを零す。
 そのまま自分も座って時間を潰していると程無くしてヘイスが目を覚ます。
 起き上ったヘイスは暫くは困った顔をして首を傾げていたが、
その内に自分になにが起きたのかを理解したのか浮かない顔になっていた。
「なんだよ、辛気臭ぇなぁその顔。
ただでさえここじめじめしてて暗いんだからもっと明るくやろうぜ」
 笑顔でヘイスを迎えた。
 こんな風に軽口を叩いていられる相手と過ごす時間がディマロスは一番好きだった。
 一人の寂しさを紛らわすためだけについた様な惨めな性格だが、呆れながらも
ヘイスが微笑んでくれるのに気づいてからは自分のこの性格が好きになれた。
 それでも流石のヘイスも今度ばかりは顔を曇らせたままこちらを見ていた。
「……ごめん、ディマロス」
「あ? なんだよいきなり」
 突然の謝罪に、ディマロスは戸惑う。
 訪ねてもヘイスはその続きを口にはしなかった。
 だんまりを決め込まれてしまうとディマロスは困ってしまう。
 からかう様な言い方は、相手が反応しないと話しにくかった。
 仕方なく言葉の代わりに、盛大な溜め息を吐き出してから立ち上がる。
「わっ」
 ヘイスの元へと向かうとその身体を抱き寄せる。
 こんな風にしても強く抵抗する事のないヘイスを、誘っているのかと勘繰った事もあったが、
眉を顰めた困り顔をされて見つめられると、人に強く逆らう事ができない性分なのだという事が分かった。
 腰の辺りを掌で擦ると、服の間から手を突っ込み直に身体を撫でる。
 その際意地悪をする様に犬の力を籠めてやった。
 そうすると身体が敏感に反応するのか、小刻みに震えながらヘイスは声を出すのを我慢する。
「やっぱいいよなぁ、体毛があると」
 意地悪をしながら、その柔らかな体毛を堪能してはディマロスは満足げに呟く。
 擽られているヘイスが段々と我慢できなくなり暴れはじめたところで、力を入れるのをやめてやる。
「酷い……」
 恨めしそうに見つめられると、つい顔がにやけてしまう。
「悪い悪い。でもな、本当に羨ましいんだよ」
 何度も体毛の感触を確かめながらヘイスの顔を見つめる。
 極有り触れた犬人の顔だ。
「今までこんな風には思わなかったし、思っちまったら負けだと思ってたよ。
でもよ、やっぱり……俺もお前みたいになりたかったなぁ。
ご先祖様に申し訳ねぇかな?」
 食人としての誇りとか、そういったものをディマロスは持った事がなかった。
 それでもこんな風に言われては流石に父や母も怒るのだろうかと束の間考える。
 暴れていたヘイスは、また動きを止めてされるがままになっていた。
「……さっきの人達、すごく怖かったんだ」
 ぽつりと零す様に、漸くヘイスは喋りはじめる。
「俺の魔力のせいだろうな」
 何度も治療をしたせいでヘイスにも微量ながら食人の力がついていたのだろう。
 食人の手掛かりになるかもしれないとヘイスを攫ったに違いなかった。
 今はまだディマロスの力で抜きとれるものだが、これが完全にヘイスの物になればどうなるか。
 それも充分に味わったところだった。
「食人がどんな種族なのか、話を聞いて僕はもう知ってるよ。
けれど、あんな事までしなくちゃいけないものなのかな?
ディマロスはそんなんじゃないのに」
 悪事を行わない食人は罰してはならないというのは、一部の者にとっては建前だ。
 純血に近ければ近い程人を欲するのだから、結局は食人を恐れているのだろう。
「……よく言えたもんだなそんな風に。
血取られて攫われたのはどこのどいつだよ。
おまけにちょっと齧っちゃったぞ」
 攫ったのは自分なのだが、呆れ顔でつい言ってしまった。
 呆れながらも、無性に抱きしめたくなった。
「なぁヘイス、こんな風に俺が言うのもなんだけどよぉ……俺が追われるのは、仕方ない事だと思うぜ?
良い食人、悪い食人なんてそんな一発で見分けつくはずねぇんだからな」
 大体、悪い食人と言われても食人は元々人が主食だ。
 人の主観で悪人だと決めつけられても、生きてゆくには仕方のない事だ。
 自分が竜人だったらどうしたか、前にも考えたはずだ。
 間違いなく食人を根絶やしにしただろう。
 野に放たれた自分が踏みしめた道を振り返ると、その思いは強くなるだけだった。
 今となっては過ぎた事で、それで竜人を責める気もない。
 竜人もまた、食人ほどではないが恐れられ孤独に生きる事になったのだから。
「うん……わかってる。でも、それでも」
 いつの間にか完全に身体を預けていたヘイスは、鼻声になっていた。
「理解できても、納得はできねぇか」
「……うん」
 弄るための腰に回していた手を、背中に移動させて今度はあやす様に優しく撫でる。
 しゃくり泣かぬ様に何度も撫でては時折軽く叩いてやった。
 追われている食人の自分が、追われるのは仕方ないと説いているのは滑稽だ。
 そう思っても、ヘイスのために語ろうと思えば言葉は溢れてくる。
 もっと、気持ちを伝えたかった。
「俺はそれでいいと思うぜ。
お前は俺が言いたい事も、ラートムさんが言いたい事も、人が言いたい事もしっかり解ってくれてる。
その上でまだ俺の事を気遣ってくれるんだ、それで満足さ」
 食人を人として扱おうとする思想を持つ者も居る。
 その内どれほどの者が今の状況に陥って、それでも手を差し伸べようとするのだろうか。
 目の前のヘイスの気持ちだけでディマロスは幸福だった。
「理解していれば、納得はいつかついてくるもんだ。
お前が俺にしてくれた事だけは、俺はずっと覚えてる」
 手を引いて、ディマロスはヘイスの顔をもう一度しっかりと見つめた。
「だからヘイス、俺はこの町を出るよ」
 気がつけば、迷っていた言葉をはっきりと口にしていた。



 風が強かった。
 町から出て少し歩いたところに今ディマロスは居る。
「ちょっと時間掛かっちまったな」
 傍に居るヘイスと顔を合わせた。
 いつもの様に外套を深く被ったは良いものの、風が強く吹き飛ばされそうになり、
町から出るのに手間取ってしまった。
 ここまで来れば顔を出しても大丈夫の様で、ディマロスは漸く陽の下に素顔を晒す。
 遠目には小さくなった町と、予め呼び出しておいたギルドの者が居た。
 ヘイスを迎えに来たのだろう。
 遠目からでも自分に深手を負わせた相手が居るのは解った。
「でもよ、別にここまで一緒に来なくてもよかったんだぞ?」
「そうだけど、もう少し話したい事もあったから」
 この場合、話したい事があるのはディマロスの方だった。
 なんとなくヘイスはそれを察していたのだろう、なにも言わずディマロスはヘイスの頭を撫で回す。
「おっと、忘れちゃいけねぇな」
 屈んで目線を合わせると、ヘイスの身体に触れて力を吸い取る。
 掌に集まるのは食人の力だった。
「これでもう大丈夫だろ」
 手を下げてから注意深くヘイスを見つめるが、食人の魔力は感じられなかった。
 これでヘイスが追われる心配は無くなったはずだ。
 細かいところで支障が出るのかも知れないが、ギルドの連中がついているのなら後は上手くやってくれるだろう。
「悪かったな、色々やっちまって」
 本当に色々あったと、そんな言葉が出る。
 短い期間でこんなにも人と触れ合ったのは初めてだった。
「ううん、楽しかったよ」
「そう言えるのがすげぇよな……」
 ギルドの連中もこの性格に手を焼いている事も多いのだろうと気の毒になる。
 一度話した森の住人の男も、そんな事を言っていた気がする。
「そういえば、ラートムさんとは話さなくてもいいの?」
 揃って振り向けば、迎えの中にラートムの姿はあった。
 元々ラートムと会うためにここまで来たのだが、話し合いという程の言葉を交わしてはいない。
「最初はそのつもりだったけどよぉ……なんかもう、いいや」
 そう言ってディマロスは笑い声を上げた。
 遠くに居るラートム達にも聞こえる様に。
「ラートムさんが言いたい事はお前が教えてくれたしな」
 それ以上の事も、ヘイスには教えてもらった。
 当初の予定と大分違う事になってしまったが、ディマロスは満足していた。
「もう、会えないのかな……」
「おいおい、食人なんか引き止めたっていい事ねぇぞ」
 寂しそうな顔で言われてしまうと心が揺らぐ。
 それでもディマロスは笑顔を崩さなかった。
 今回はヘイスを攫ってしまったから一緒に居られたが、本来なら魔物討伐をしているギルドの者が食人と
通じているのはやはり良くなかった。
「ディマロスだって、人なのに」
 そう言われて束の間ディマロスは息を呑んだ。
 言葉に詰まって無言の時間が過ぎる。
「ありがとなヘイス、でもよ……俺がここにいたら、きっとラートムさんも辛くなっちまうんだ」
 今、ただでさえ強い力を持つが故に恐れられている竜人の傍にかつての主従関係である食人が居たらどうなるのか。
 妙な勘繰りを受けてしまえば、各地へ散り今漸く見つけた竜人の居場所すら失くしてしまうだろう。
「……それだけはしたくねぇんだよ」
 自分と同じ様な道を歩いたのだという事は解っていた。
 村で受け入れられたとはいえ、それでもただ事務的に世話をされていた事が多かっただろう。
 だからこそ今ラートムはあの場所に居るはずだ。
「けど、もう会えないって事はねぇさ。
また来るよ、俺もいいところを見つけて落ち着いたらな」
 ヘイスの様な人が、どのくらいいるのだろうか。
 解らなかった。
 それでもヘイスが居るから、他の誰かにも今は期待する気持ちが湧いていた。
「……うん、わかった。そうだよね」
 また会えるのだと思い直したのか、尻尾を振ってヘイスも頷く。
 また会えるのだから、今の別れにも我慢ができて次に会うのが楽しみになる。
 ディマロスはそう思った。
 そう思わなければならなかった。
「ヘイス、最後に一つだけ……魔力出してもらってもいいか?」
 突然の事にヘイスは戸惑うが、それでも言った通りに念じて力を集めてくれる。
 掌を差し出されると、その上に小さな光が出ていた。
 その前にディマロスが掌を差し出すと、ヘイスがそっと光を置く。
 掌を閉じて、暫くしてから開くと光は無くなっていた。
「俺からお前に力は上げられないけどよ、逆なら別にいいよな」
 身体の中に入ってきた力が、自分の物と混ざらない様に気をつける。
 擽ったい様なそんな感覚に思わず頬が緩んだ。
「それじゃあもう行くぜ。
ヘイス、お前と一緒に居られた短い時間が、俺は一番楽しかったよ」
「ディマロス」
 ヘイスが何度も頷いている。
 頬が濡れているのに遅れて気づいた。
 上手く言葉が出ないのに、懸命に返事をしようとしてくれていた。
「またな」
 もう一度頷くヘイスを見てから、ディマロスは背を向けて歩き出した。
 上手く笑っていられただろうか。
「情けねぇな」
 歩きながら、洟を啜った。


 去ってゆく食人の背中をディストは見つめていた。
 同じ様に見ていたヘイスも、こちらへ歩いてくる。
 腕で顔を乱暴に拭って、歩いてくる。
 それでも自分の前に達する頃には、腕を下ろしてしっかりと顔を上げていた。
「ただいま」
「……ああ」
 潤んだ瞳に見つめられて、思わず怯んだ。
「ディスト、ごめんなさい」
 今更指示を聞かずに食人に捕まった事を謝られる。
「もういい、みんな待ってるぞ」
「うん、今日は美味しいご飯作るよ」
 そう言って漸く微笑んだヘイスに合わせる様に、ディストも口元を緩ませた。
 隣に居るラートムにも挨拶をしてから、ヘイスは二人の間を通った。
「なぁラートム」
 ヘイスに声が届かなくなった頃ディストは呟く。
 隣に居るラートムから、身動ぎの音が帰ってくる。
「俺は、これでよかったのか?」
 食人の姿が小さくなってゆく。
 再び独りになったはずなのに、足取りはしっかりとしていた。
 かつては人のために竜と共に戦っていた者だ。
 それなのに、自分は剣を抜いた。
 竜人と会わせる訳にはいかないと、食人を切った。
 食人と自分自身が重なる。
 魔物の被害を減らし続ければ、いずれはギルドも要らないものだと言われるだろう。
 数を減らした魔物を保護しようとする動きさえ起こるのかも知れない。
 そうなった時、自分の様な者は竜人や食人と同じ道を辿るのだろう。
 だからヘイスを戦いに深入りされたくなかった。
 だからこそ、剣を抜いたのだ。
 二人のためを思ってやった事のはずなのに、気づけば自分がしたのは恐れるばかりの人がやってきた事と同じだった。
「俺は」
「ディスト」
 言葉が遮られた。
「ありがとう」
 滲んだ視界では、食人の背中は見えなかった。

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