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2.それは勇者の名前

 青白い光が、視界を埋め尽くした。それと同時に、身体の溶ける様な感覚。熱に浮かされて、ふと気づく。身体に対しての刺激で、今の自分がどうなってしまったのか。球体だった。頭だとか、手だとか、足だとか。ほんの少し
前まで知っていたはずの箇所からの感覚を、今熱を受けている俺自身が、感じていない。思わず混乱に陥る俺を更に貶めるかの様に、青い光が強くなった。強くなって、広がったそれは、俺を取り囲む様に降ってくる。
 どうする事も出来ずにそれを見守っていると、不意に今度は失ったはずの身体の感覚が、急激に戻りはじめた。それと同時に、激烈な熱が、津波の様に襲いかかる。思わず呻き声を上げた。
 既に、視界は光が近すぎる事もあって、真っ白な物へと変わっていた。それ以外の何も、見えはしない。その代り、今度は聞こえなかった音が、耳に届いた。球体だった身体に四肢の感覚が戻った様に、聴覚も戻った様で、
それは不安気なざわめきを一番に。次に困惑を。最後には驚愕を俺に届けていた。
 感覚が、足元まで戻った。そこで光は止み、今度は暗闇が視界を覆う。同時に、ふわふわと浮いていた身体は途端に重力に従う様に頽れた。思わず体勢を立て直そうとするが、膝は俺の意思に反してぐにゃりと折れ、
成す術も無くその場に放り出される。
 何度か、呻いた。呻く度に、周りの音が大きくなる。それでも、次は強烈な睡魔に襲われて、結局俺はそのまま意識を手放した。最後の最後まで、周りの声は止まなかった。

 ふわりとした感触。
 静かに目を開けて、最初に気づいたのは、それだった。硬い床の上で意識を失ったからだろうか。身を預けているのは、白いベッドだった。質感は、ちょっと悪い。それでも、硬い床よりはずっと良かった。
 腕を立てて、身体を起こしてから、自分が今居る場所を確かめる様に俺は周りを見渡した。白いベッド、白い毛布、白い壁、白いカーテン替わりの布、カーテンの奥は、壁をそのまま切り取っているのか、風が起こるとそれに
煽られてゆらゆらと布が揺れていた。そうして、部屋の入口と思しき場所にも、やっぱり白い布が。多分、扉代わりなのだろう。
 何もかも、白い部屋だった。重度の精神病患者の部屋は、白で統一されている。そんな噂話をちょっと思い出す様な部屋だった。
 ベッドから、抜け出そうとする。そこで、ようやく気付いた。俺の身体も、白かった。正確には、また倒れないか心配で壁に手をつこうとして上げた腕が、白かった。丁度、部屋が白いから、俺も白くなっておくと丁度良いの
では、なんていう都合で白くされてしまった様に、白い。一瞬、我が目を疑う。矯めつ眇めつ観察して、やがてそれは間違いである事にやがて気づく。
 白色ではない、銀色だ。部屋が白かったから、思わずそれと同じなのではと、勘違いをしていたのだ。
「いや。それは、どっちでもいいんじゃないかな」
 思わず呟く。それにも驚いた。声が、変わっていた。なんというか、いつもよりも高い感じだ。それから今度は口の異変に気付く。寧ろ、何故今まで気づかなかったのだろう。自分の鼻が、見えている。しかも、人の鼻では
なかった。咄嗟に手を伸ばす。この位置に見えているなら、恐らくは。俺の予想を裏切らず、自分が憶えているはずの距離よりもずっと先のところで、俺の指先は、俺の鼻を、それから口を捉える。
 鼻が、黒かった。ちょっと突いてみて、湿っている事に気づく。ちょっと、擦ってみた。むずむずする。それで、反射的に口が開いて、舌が飛び出した。舌は異様に伸びて、更に曲がって、俺が今興味本位で触れていた部分へ
到達すると何度か撫で上げて、湿り気を補充している。
 鼻を弄るのはやめて、そのまま顔の真横へ手を誘導して、触れる。耳に、触れなかった。それでも何か、微かに触れる物がある。もう、驚くのはやめた。少し手を上げればいいのも、わかっている。人の耳とは違うけれど、
やっぱり耳があった。ああ、自分の耳は、レトリーバー系などに多いたれ耳ではないんだな、なんて暢気な事を考える。しっかりと立ち上がった耳は、触れると自分の意思に反して、ぴくぴくと動いた。こちらも、反射的に
動いてしまう様だった。 いつだったか、リヨクの顔をあちこちぺたぺた触っていた事を思い出した。ちょっと嫌がりながらも、尻尾を振っていたリヨク。確かにこんな風に触られるのは、嫌だったろう。ちょっと、申し訳ない
気分になる。
「……はあ」
 なんとなく、自分がどういう事になっているのかは、わかった。多分、もっと驚くべきところなのかもしれない。それでも、俺はそれ以上驚く事はなかった。どちらかというと、自分がどういう風に変化してしまったのか、という方に
興味が湧いていた。それは、気を失う前のあの光のせいなのかも知れない。確かにあの時、俺の身体は溶け崩れる様な衝撃を受けて、その後、言ってはなんだけど、俺の外側だけを新しい顔よとでも言いたげに
取り換えてしまったのだった。
 銀の被毛の、犬。多分、今の俺の姿はそれだ。もしくは、狼。
 ベッドに座ったまま、今度は身体に意識を向ける。やっぱり、あった。俺の腰の下から、後ろに伸びるそれが。もう、何も言わない。長くて、しなやかなそれ。なるほど、巻き尻尾ではない様だ。
 それから、ちょっと変態丸出しの仕草だったけれど、手を伸ばして、身体に触れる。そういえば、何も身に着けていなかった。今はそれに構わずに、身体を弄る。思っていたより、少し細い。
 前の俺は、もう少し太かった。いや、太りかけだった。社会の荒波に、ボロ船に身を預けて乗り出した俺は、日々のストレスをリヨクと触れ合う事以外では、食事で発散するしかなく、お腹が気になりはじめていたところ
だった。気になっていた腹は、今はすらっとしている。あの熱で、焼き切れてしまったかの様だった。
 そっと、視線を下ろす。股間には、露出しきった、人間のそれもなかった。犬のそれだ。リヨクも、確かこんな感じだった。
 全てを見分すると、立ち上がる。床に足を着いて、足の裏と床の間にある物体に気づいた。多分、肉球。思わず掌に視線を戻す。掌には、それはなかった。二足方向で歩くから、それに合わせて身体が変化した。そう
捉える事にした。
 それ以上は深く考える事をやめた。自分の身体がどうなったのかは、よくわかった。次は、ここがどこなのか。それから、どうして俺が寝かされているのか、だった。裸なのは、多分最初からそうだったんだろう。
 ベッドから離れて、部屋を出ようとする。丁度、その時だった。運が良いのか、悪いのか。扉代わりの布が退かされて、人が入ってきた。
「えっ」
 相手から、声が漏れる。見えたのは、グレーの毛色に、白い質素な、ローブと言ったら的確なのだろうか。そんな物を着た、二足歩行の犬だった。変なの、と考えようとして、慌ててその考えを否定する。残念だけど、俺も
今は同じ状態だった。裸である事を除けば。
「わっ、わわわわ……」
 相手はきっと、俺が寝たきりだと思っていたのだろう。口を開けて声を上げ、一歩後ろに下がり、大き目の黒い瞳を更に大きくさせ、一度視線を逸らそうとして、それでもそれには失敗して再び俺を見つめる。何一つ身に
纏っていない俺の姿を、じっと。俺はその視線を黙って受けていた。羞恥心という物が無い訳ではないのだけど、今の身体が自分の物ではないから、なんとなく、服を着ているところを見られているのと、然程変わらない様な
感じがするのだった。
「あ、えっと……せ、先生! 先生!」
 俺と目が合うと、その犬は我に返ったのか、大慌てでその場を後にする。ぱさりと閉じられた、布の扉。それを追いかけるか、束の間俺は迷ってから、すごすごとベッドに戻り、それから下半身を毛布で隠す。
 あの様子だと、その内犬は誰かを連れて戻ってくるだろう。少なくとも、相手にそういうところを気にする素振りがあるのだから露出は控えようと、こんな際だけど、俺は大人しくする事に決めたのだった。
 大体、数分が経った頃だろうか。足音が、二つ聞こえて、敏感に耳が震える。さっきは、そうは動かなかったなと思った。身体が、徐々に犬の持つ機能を発揮しはじめている様だった。
 俺の考えを他所に、布は持ち上がる。入ってきたのは、さっきの犬ではなく、別の犬だった。ちょっとくすんだ、それでも白い毛皮の、犬人間。俺は黙ったまま、それを見遣る。こちらは背が高くて、それから生地の
上等そうな黒いローブをしっかりと着込んでいた。
「おや。本当に、もう起きているのですね」
「だから、そう言ったじゃないですか」
 さっきのグレーの犬の声がする。こちらからは見えないが、廊下と思われる部分に控えている様だった。
「失礼。てっきり、まだ悪戯のつもりなのかと」
「こんな時に、そんな事言いません!」
「あの」
 声を掛ける。それで、二人のやり取りが止んだ。視線が、俺へと集中する。部屋に白い犬が入ると、入口から僅かにグレーの犬の顔が飛び出していた。二人は黙って、俺を見つめていた。続けて俺が何を言うのか。それを、
気にしているのか。それならばと、俺は一呼吸置いてから、続ける。
「ここは、どこの世界なのでしょうか」

 澄み切った、朝の空気。目に映るのは、木で造られた質素な机と、向かい側に座る白い犬の男。犬の顔から年齢は察する事は今の俺にはできそうにないけれど、背はこの場に居る誰よりも高く、肉付きは程良く。
それでいて、柔らかな物腰から、それなりに歳は行ってそうな感じがする。その隣に、グレーの犬の少年。背はこの場に居る誰よりも低く、痩せている様には見えるけれども、子供として見るなら妥当なところだろうか。
大き目の瞳が、落ち着かなさげにうろうろと揺れている。二人とも、顔の形はぼんやりと想像する現実の犬のそれであり、ただ現実においての犬種、というものが何か一つでも当てはまる様な感じではなかった。雑種と
言えば、正確なのかも知れないが、口にするのは良くないだろう。
 匂うのは、机の上に乗った、紅茶と思しき物の香りだった。悪くない匂いだ。でも、ちょっときついというか。さっきから鼻がすんすんする。紅茶に鼻を近づけた訳でもないのに、はっきりと匂いがわかるのだ。鼻が、犬の
それになっているのだろうか。
 二人と向かい合って、俺は今、一枚の布の服を纏って椅子に座っていた。RPG脳が、初期装備然とした物を与えられたなとぼんやり考える。
「さて、どこから話しましょうか……。いえ、その前に、自己紹介からが適切でしょうかね。私は、ハンスタムと申します。ハンスと、お呼びください」
「僕は、ササンと言います」
 二人分の自己紹介を受け取る。思っていたより名前がファンタジーしていた。ちょっと驚いた。
「あなたのお名前は……?」
「え、っと……」
 言いよどむ。どうしよう。本名を名乗ってもいいのだろうか。なんか、不釣り合いだなって思ってしまう。RPGを購入して主人公に自分の本名をつけたら、周りがカタカナだらけで、その時はいいけれど後でまた起動した時に、
あまりのシュールさに噴き出しそうになる。あんな感じ。そう、あんな感じになりそうだ。
 束の間、割と真剣に俺は悩む。どうしようか。どうしようか。
「ふむ。まだ、警戒されている様ですかね。それも、仕方がないといえば、そうですが」
「あ、いえ。そういう訳ではないんです。ただ、本名が、その」
 漢字なので。不釣り合いな気がして。とは言えなくて。というより、漢字と言って通じるのだろうか。
「よくはわかりませんが……では、あなたが呼ばれたい名前にしては、如何でしょうか。私達も、いつまでもあなたを、あなたと言っていたくはないので」
 あ、それでいいんだ。いや、でも。それはそれで、今度はまた困る。残念だけどゲームで架空の名前を決める時には最低十分は掛かる方だ。
「……ゼオロ」
「ゼオロ、ですか。では、今はそうお呼びしましょう、ゼオロさん」
「よろしくお願いします、ゼオロさん」
「……よろしくお願いします」
 うんうん唸って、咄嗟に口から飛び出した三文字は、思い出の名前だった。幼い頃、タカヤと二人で一緒にRPGを進める時に、主人公に名前がつけられたら、つけていた名前。最近ではそれを用いる事も無くなって
きたけれど、あの頃は本当に、この名前が多用されていた。ある意味では、俺とタカヤの合言葉の様な物だった。その名前がどこから来たのかは、実のところ、もう覚えていない。それでも様々なゲームの中で名乗られた
その名前の持ち主は、大体は不幸に見舞われ、波乱万丈な生き方をしたり、なんか高い所から落っこちたりもしたけれど、幾度となく世界を救った、勇者の名前だった。なんか、ご利益ありそうだなって思って、つい口に
出してしまった。もう、いいや。それで。ゼオロにしよう。なんだか、オンラインゲームでもプレイしている様な気分だなって思う。そういうゲームだと、自分は架空の名前を名乗り、相手もまた、その名を呼んで、交流を深めるの
だった。丁度、そんな感じがした。ゲームにしては、ありとあらゆる質感がはっきりとしていて、ゲームだという事は完全に否定されているのだが。
「さて、ゼオロさん。本題に入りましょうか。あなたの質問に答える前に、一つだけ私から確認をしたいのですが……あなたは、やはり、この世界の人ではありませんね?」
「そう、ですね。少なくとも私の居た所では、頭が犬だったりなんだったりは、居ませんでしたし」
「えっ。ゼオロさん。狼なのに?」
「あ、狼なんですか、これ。犬かと思ってました。自分の顔が、見えないので」
「ええ。ご立派な、狼ですよ。それよりも……なるほど、では、やはりあなたはあの時に、呼び出されてしまったのですね」
 呼び出された。その言葉を聞いて、俺はちょっと驚きながらも。それでも、ある程度は納得してしまう。仮に俺が元居た世界だったとしたら、どこへ呼び出されたとしても。少なくとも俺の姿は傍から見て狼に見えるという
状態にはなっていないだろうし。
「呼び出された? もしかして、私が最初に、倒れた場所の事でしょうか」
「そこは、憶えていらっしゃるのですね。ええ、そうです。申し上げるのは心苦しいのですが……あれは、事故だったんです」
「事故?」
 首を傾げる。そういえば、確かに周りがざわついていた。あれは、事故が起こった事に慌てていたのだろうか。
「ええ。ここに居る、ササン」
 瞬間的に、ハンスの目が鋭くなる。睨まれたササンは悲鳴を上げ、縮こまっていた。
「それから、複数人の生徒達。……ああ、生徒と言われても、わかりませんよね。要は、魔法使いの卵達です。彼らが、私や他の者の目を盗んで、魔法陣から呼び出そうとしたのです。使い魔をね」
「使い魔、ですか」
 なんとなく、意味はわかる。ゲームやファンタジーな小説では、ありがちな存在である。ハンスは俺の様子を見て、話をきちんと理解している事に少し意外な顔をしていたが、頷くと続ける。
「あなたが現れたのは、魔法陣の上でした。つまり、使い魔が現れるべき場所。本来ならば、そこに現れるのは、きちんとした犬の姿をした、それでも魔導によって導かれた、ある程度力を持つ者のはずでした。しかし、実際に
現れたのは、何故か我々に近い姿をした、あなただったのです」
「それは……大混乱になったでしょうね」
「ええ。本当に。人ひとり呼び出してしまって。しかも口振りからして、異世界の人を。ごめんなさいで済む物ではありませんよ。本当に」
 ハンスの隣に居るササンが、更に縮こまる。瞳には涙が浮かび、今にも泣き出してしまいそうだ。
「その上、返す術もわからない」
「わからないのですか?」
「本来は、使い魔というものは戻る時は自分の意思で戻ってゆく物なんです。しかしそれは、己が使い魔だという理解を伴っているからこそできる物。その上で、あなたはどうやら、特別な異邦人だ。異界に続く扉なんて、
そんな簡単に開ける物じゃありません。失礼ですが、ゼオロさん。あなた、何か魔術は扱えるのですか」
「すみません。私の世界ではそういう物はただの空想の産物で、誰一人扱えないと思います」
「……じ、じゃあ、やっぱり」
 ササンの瞳から、涙が零れる。俺はそれを、少し冷ややかに見つめていた。どうしてこんなに泣きそうにしているのだろう。
「ご、ごめんなさい! 僕、こんな事になるなんて……どうお詫びしたらいいか。ゼオロさん、元の世界に戻れないなんて……本当に、ごめんなさい……」
 泣き出す事を堪えて、ササンが震えながら謝罪をする。ああ、そうか。そういう事か。自分達が呼んだから、俺はここに居て、その上で戻れそうにないから、気に病んでいるのか。
「気にしないでください、ササン……君」
 さん付けしようとして、この名前にはそれがなんだか付けにくかったので、慌てて呼び方を変える。
「私、この世界でも、構いませんよ」
「え?」
 二人分の、声が揃う。ハンスも、ササンも。俺の言葉に、面食らっている。正しい反応、だと思う。けれど俺の心はもう、とっくに決まっているのだった。大嫌いな世界から飛び出して、別のどこかへ、今やってきた。ここが
どんな世界なのかは、わからないし、なんだかよくわからない狼面にもなっているし。それでも、やっぱり構わないと思った。
「私、ここに居たいです。いけない事でしょうか?」
 続けて、言った。二人は、言葉を失った様だった。

 陽は中天から僅かに動き、さっきまでよりも窓から差し込む光が強くなる。そんな中で、俺は同じ様に、ハンスと向かい合っていた。違うところがあるとすれば、ササンの方は先に帰されたという事だろうか。俺が案外と今の
状態を受け入れてしまった事で、とりあえずササンに対する説教は棚上げという形になった様だった。
「さて、ササンは帰しました。あなたが元の世界に帰りたいと願うのであれば、ササンや、それ以外の者達にもそれなりの責任を果たしてもらおうかとは思っていましたが……」
 残ったハンスは、腕を組むと、ぷすーっと鼻を鳴らす。その仕草で、俺は少しだけ笑みを浮かべてしまう。物腰は柔らかく、如何にも大人の男と言った風体なのに。その頭についている犬顔は可愛らしいし、犬らしい仕草も
付いてくるとなれば、どうしてもちょっと和んでしまう。あんまり和み過ぎると、もう少し真面目になれと怒られてしまいそうだが。
「そんなに簡単に、戻せるものなのですか?」
「いいえ。実を言うと、どうしたらいいのか。そんな状態です。どうしてあなたが、ここへ来てしまったのかも……私ですら、はっきりとは説明できません」
「そういえば、ハンスさんは先生と呼ばれてましたね」
「ええ。私は、このミサナトの街の学園で教師をしていましてね。魔導を専門とした所です」
「そうなんですか。……すみません。話を始める前に、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「勿論。私も、あなたに訊きたい事は山ほどありますが、まずはあなたの言葉を聞きましょう」
「今こうして、私はハンスさんと普通に話していますけれど、どうしてなのでしょうか」
 今、互いに口にしている言葉。これは日本語ではなかった。それは、自分でもある程度理解はしている。理解はしていても、自分の耳にはきちんとそれに近い物として受け取る事ができるのだった。咄嗟に何かを口に
しても、自然と口からは相手に伝わる言葉となってそれが出てきている。翻訳された映画を見ている様な、そんな気分だった。そういう時、向こうの言葉でのジョークの類をどういう風に訳しているのかと気になったりは
したものだけど、今の状態もそれは適当な言葉に置き換えられていたりするのだろうか。
「私の推測で申し訳ないのですが……。恐らくは、使い魔を呼び出すための力を、あなたが受けたから。それが有力と言えましょう。彼らは呼び出される際に、私達の言葉を理解できなければなりませんからね。それが
そのまま、あなたに作用した。都合良く見れば、そうなるのかも知れません。或いは、あなたは元はそういう姿でもなかったのでしょうから、姿が作り替えられる瞬間に、一瞬にして全てを学習してしまったのか。それは
ちょっと、非現実的な気もしますが」
 今の状態も充分に非現実的では、と言おうとして、慌てて口をつぐむ。この辺りの認識の差を態々取り上げても、仕方がない事だった。魔導が当たり前に存在する世界に、今は立っているのだから。
「ゼオロさん。この地図に、見覚えはありませんか?」
 ササンを返した後に用意したのか、ハンスが一枚の羊皮紙を取り出す。その上に広げられたのは、ありきたりな地図の様だった。それを覗き見て、俺は首を傾げる。広がっていたのは、大陸と言える程の陸地だった。ただ、
実際の大きさがわからないので、島といえば、島なのかも知れない。外周部はほとんどが海で囲われており、唯一、南西の位置からは陸続きになっており、そしてその途中で地図は切られていた。そこで切られている
という事は、これは世界地図の一片でしかないのだろう。どこを見ても、俺の知識の中にある地図とは一致しない。それで、答えとしては充分だったのだろう、ハンスが何度か頷いてみせる。
「やはり、あなたは別の世界から来た人。そう見るべきなのでしょうね。もしかしたら、外の人なのかとも、思いましたが」
「外の人、ですか?」
「この地図に記された、全て。それが、今我々の住む世界です。そして、今私達が居るところは、ここですね」
 ハンスの白い指先が、地図の上を滑る。全体から見れば、かなり西の方だった。ここから南に向かえば、あの千切れた箇所にも届きそうだと見ていて思う。それで、俺はまた首を傾げた。この男は今、この地図の上だけが、
自分達の住む世界だと言い放ったのだった。だとすれば、この南西の区切りは、そのまま直角に大地が区切られていて、実際はどこへも繋がってはいないという事になってしまうのだろうか。
「あの、ここの南西から先には、何も無いのでしょうか」
「それも、おわかりにならない。やはり、異世界からの方ですね。いえ、失礼しました。先程も言いましたが、この地図の上だけが、今私達が住む世界なのです」
「陸続きなのは、そこまで。そういう事でしょうか」
「いえ、あるにはあるのです。しかし私達は、そこへ踏み入る事ができません。普段は目に見えない、強固な結界が、我々をこの地図に記された大地の上に、縛り付けているのですよ。そして、如何なる手段を用いても、
この結界は破る事ができないのです」
「結界、ですか」
 聞き慣れない、しかし見慣れた言葉。ハイファンタジー物の書物を開けば、まず一度は確実に遭遇するであろう言葉が飛び出す。
「ええ。ですから私は、あなたを最初に見た時に、この結界の外側からやってきた人なのかも知れないと思ったのです。なんらかの手段で、あの結界を通り抜けてきたのかと。しかし、そうではないのですね。いえ、ある
意味では、そうではあるのですが。外の世界ではなく、異界からいらした、という点が違うだけであって」
「私は、結界を通り抜けてきたのでしょうか?」
「わかりません。異界との道を繋いで、あの結界を無視できるのかは。使い魔などを呼び出すという行為は、厳密には私達と同じ世界から呼び出している状態ですからね。そう簡単に、別の世界へ通じる扉なんて物が
開ける訳ではありません。しかしあなたは、こことは違う世界の知識。元の世界の知識を持っている。少しお話をした程度ですが、あなたの居た世界が、こことはまるで違っているのは、わかります。それが、あなたが結界を、
なんらかの手段を用いて抜けてきた事の、傍証となるのでしょう。もしくは、本当に異界の扉を開けば、無視できるのかも知れませんね」
「そうなんですか。特に、何かをしたという訳ではないのですが」
 直前の自分の状態を振り返る。少なくとも、結界を打ち破る様な真似はしていない。そもそも元の世界では、魔導だの、魔法だの。そんな物は全て空想の、夢物語でしかないのだ。いくらファンタジー小説漬けで、一人の
時はリヨクを撫で終わったら、そういう物にどっぷりと浸かっていたとはいえ、おかしな実験だのなんだのにまでは流石に手を出してはいない。
「そうなると、少し心配ですね。あなたの身体自体が、特殊な物なのかも知れません。まあ、こんな所に、こんな風に現れた時点で、充分に特殊なのですが。ゼオロさん。あなたがここでは別の所から来た人だという事は、
できれば内緒にしておく必要があるみたいですね」
「そういうのって、やっぱり知られると、不味いのでしょうか」
「そうですね。先程も言いましたが……」
 ハンスが、再度地図を指差す。今は、まだ俺が居ると言われている、西の部分を示しているだけだ。
「簡単に、説明しましょう。まず、この地図全体を示して、我々はこれを、涙の跡地。そう呼んでいます」
「涙の、跡地。ですか」
「はい。何故そう呼ばれるのかと言うと、先程申し上げたあの結界は、私達が直接通る事を決して許しません。しかし風や雨、日光などは問題なく通すという状態なのです。それは今、外が明るい事からも、すぐに
わかりますね。もし本当にあの結界が、全てを遮断するという状態ならば、少なくともこの結界の中は、常夜の様にならなくてはなりません」
「そうですね。確かに」
「誰が、なんのためにあの結界を張ったのか、それすらわからぬまま、私達は閉じ込められてはいますが……。温かな日差しも、恵みの雨も、あの結界は通してくれます。それを我々は、結界を張った者の、一片の慈悲。
或いは、我々を憐れんで流した涙が、雨として降り注いでいるからだと捉えています。だからこそ、この世界。少なくとも、この大地の上の事を、涙の跡地と言うのです。ここまでは、大丈夫ですか」
「はい、なんとか」
 憶えられない情報量ではなかった。というよりも、実際に頭に叩き込む必要がある事は、それほど多くはない。なんか結界があって、でも出られなくて。だけど自分達がとりあえず生きる分には不自由しない親切設計で、
そうしてその大地が涙の跡地と呼ばれている。とりあえず、それだけわかれば良いだろう。
「今我々が居る国は、獣の国、ラヴーワ連合国と言います。この地図でいうと、中央から西寄り。西側の大部分を占めるのが、ラヴーワ連合国です。そして、中央の中立地帯を隔てて、東側の大部分を占めるのが。竜の国、
ランデュスです。国と言えるのは、この二つ。しかしそこまでには至らずとも、無数の少数部族が存在しています。その中でも大規模な物が、ここ。北の山脈を住処とする、翼族(よくぞく)です。名前の通り、翼を持った者達が
集まる場所で、小さな国と言っても差し支えないでしょう。国を名乗っている訳ではないので、名などはありませんがね。それから、この大地を包んでいる海。そこに住むのが、水族(すいぞく)です。彼らもまた、国という物は
持ちませんが、海の上は彼らの物と言っても過言ではないでしょう」
 すらすらと、ハンスが指を動かしながら説明をしてゆく。その手際の良さは、流石に教師を務めているだけはあって、わかりやすかった。西がラヴーワ、東がランデュス。とりあえず、それを憶えておけば良いだろうと、何度も
頷きながら、説明を耳に入れる。
「さて、ここまで説明すればおわかりいただけると思いますが……我々はこの大地の上で、それほどの間隔を置かずに、密集している訳ですね。はっきり言って、領土が足りていない訳です」
「鮨詰め状態なのは、わかりました」
「すしづめ?」
「あ。いえ。あんまり余裕が無い、という事はわかりました」
「そういう事です。そして、狭い領土を目当てに争う形で、このラヴーワ連合国も生まれました。それについては、また後で時間があった時にでもお話したいので、割愛しますが。つまり、結界の中に居る我々は、どうにかして
この結界を壊したい。壊せぬまでも、通り抜けたいと思っているのです。そこに現れたのが、ゼオロさん。あなたの存在です。正直なところ、心配ですね。あなたの事が」
「利用される、という事でしょうか」
「それで済むのなら、まだといったところでしょうか。あなたを捕らえて、その全てを調べようとする様な輩も、出ないとは限りません。この事は、決して他言せぬ様に」
 少し、不安になった。見知らぬ場所に身一つで来た俺が狙われたとして、とても自分の身を守る事などできはしないだろう。その上でもっとも厄介なのは、そもそも俺に何かしら秘密があったとして、俺自身は特に思い
当たらぬという点だった。教えてあげられたら、少なくとも俺の身の安全は保障されるのかも知れないが、そもそも知らない事は教えられない。拷問にでも掛けられでもしたら、一巻の終わりもいいところだ。
「知られなければ、大丈夫なんですよね?」
「それは、そうですが。しかしできれば、自衛の手段を持つ事を強く勧めますよ。口止めはしておきましたが……それでも、あなたの出現を見たのは、生徒達ですから。どこから、どの様に噂が立ったとしても、不思議は
ありません。できるだけ、静かに。それでいて私の手で握り潰せる範囲内での行動はしておきましたが」
「なんだか、随分ご迷惑をおかけしてしまったみたいで」
「とんでもない。生徒達が妙な真似をしなければ、そもそもあなたがここに来ることも無かったのかも知れません。その上で、あなたはここに居ても良いとまで仰る。そういう意味では、私の頭痛の種は随分と軽減
されましたよ。生徒達にあなたを無事に元の世界へ返す様に、なんて言っても、まるで見当もつかない事ですし。そもそも私にだって、まったくわからない事ですから」
「やっぱり、魔法を教える先生でも、おいそれとはできない事なのでしょうか」
「そうですねぇ。そもそも私は専門外ですから。もっと詳しい人に話を聞けば、或いは。しかしそうして手を広げると、あなたの存在が公に広まってしまうから、やはりあなたにとっても困った事になってしまうでしょう。それが、
あなたは帰らなくても良いと言ってくれたのですから。そういう心配は、しなくても良い訳ですね。とはいえ、こうなったらこうなったで、今度はあなたがこの世界で生きてゆく事を考えねばなりません」
「この世界で、生きてゆく……」
 ぽつりと零すと、ハンスが苦笑した。自分で口にしながら、ハンスもまた妙な言い方をしているという自覚はあるのだろう。
「別の世界から人が来て、自分の居る世界を案内する。まったく、初めてだらけで、困ってしまいますね。もっとも、一番困って、大変なのはあなたなのですから、そんな弱音は吐いたりしませんが」
「私に、そんなに簡単にこの世界で生きてゆく事ができるでしょうか」
「厳しい言い方になりますが、できないのであれば、もう全てを諦めるしかありませんよ。元の世界に戻る、という事はしたくないのでしょう?」
「はい」
 元の世界。自分の居た世界を、束の間振り返る。疲れた身体、疲れた顔、疲れた心。全部を抱えて、電車に揺られて。家に帰れば、こそこそと自室へ戻る。唯一心を開いていた親友とは音信不通になり、
残っているのは子供の頃から一緒だった愛犬だけ。疲れて、眠って。疲れたまま、目覚める。溜め息で終わった一日が、溜め息でまた始まる。その繰り返し。一週間続いて、一月続いて、数カ月続いた、あの日々。
「もう、戻りたくありません」
 絶対に、戻りたくはなかった。誰に頼まれ様が、断固として。だったら、この世界で、今すぐ放り出されて、その辺で野垂れ死にした方がずっとましだった。少なくとも、死ぬまでは自由を味わっていられる。
 ハンスは俺の瞳をまっすぐに見つめて、何度も頷いた。俺の強い決心を、読み取っているかの様だった。
「よろしい。では、しばらくあなたの身柄は、私が引き受けましょう」
「良いのですか。突然、押しかけている様な状態で」
「仕方がないですよ、そこは。生徒達に面倒を見ろ、なんて言えないし。それこそ噂の種になる。少なくとも、今は私の手元から離れるべきではない。この世界で生きてゆくにしたって、まずはあなたはこの世界の事を、
知らなくてはならない。三歳児よりも、知っている事が少ないあなたを放りだすのは、流石に憚られます。知らなければ、何も始められない。ゼオロさん。あなたは、何かしたい事ってありますか?」
「えっと……」
 そう言われても。と、口をもごもごさせて、何も言えない状態になる。そうだ。俺はこの世界を、何も知らないのだった。魔法が使えたらな、なんて漠然と思っても、実際にどう使うのかもわからないし、身の上が身の上だ。
下手に他人と会話をする事は、危険なのかも知れなかった。
「そう。知らなければ、何も始められない。あなたの身を危険に晒すだけになってしまう。ですから、まずはあなたに、色々と私が教えましょう。その上で、あなたは身を守る手段も身につけなければならない。いつまでも自分の
秘密を、秘密にしておけるとは思わない事です。それ程に、この涙の跡地を覆う結界という物は、皆から疎まれている物でもあるのです。それは、当然の話ですがね。もっと世界が広ければ、ランデュスとの戦争も
起こらなかったし、各々が好きに世界を歩く事もできた。いつかまた同じ様な問題に当たる事もあるかも知れませんが、それはずっと先の話、という事にもできたのですから」
「戦争、ですか」
 中立地帯、という言葉が出た時点で、なんとなく察していたけれども、やっぱりそういう流れになってしまうのか。ちょっと、身体を震わせる。戦争なんて、自分にとってはもはや歴史で学ぶ出来事であって、身の回りに
ある出来事という訳ではないのだった。テレビやパソコンの向こう側で起こっている出来事を、お茶でも飲みながら、興味も無く見つめているだけ。その程度の印象しか持ってはいない。
「とりあえず、今日のところはこの辺りで。お疲れでしょう。それから、大変申し訳ないのですが、私も突然の事で仕事を放ってしまいました。今、食事だけご用意しますので、食べ終えたら今日のところはお休みください。
水浴びは、すみませんが明日と言う事で」
「わかりました。何から何まで、ありがとうございます」
「そういう事は、言わなくても良いのですよ。私とて、生徒のした事に責任を感じていない訳ではないのですから。ただ、私がいつまでもあなたのお世話をできるのかというと、それはわかりません。あなたの存在が
知れ渡ったら、あなたを狙う輩が出るやも知れませんから。それだけは、努々お忘れなきよう」
「はい」
 話を切り上げると、ハンスは食事を用意してくれる。外の様子から察するに、今はまだ昼頃だろうか。部屋を見渡すと、壁に時計が掛かっている事にようやく気付いた。時計は、自分の居た世界と、それほどの違いは
見受けられず、指し示している時刻も、昼を少し過ぎた程度だった。それをじっと見つめていると、不意に鼻腔を突く良い匂いが部屋に漂う。ハンスが持ってきたのは、ごく有り触れた野菜を煮込んで作ったシチューと、
パンだった。特別食欲をそそる様な物ではないのに、その匂いを嗅いだ途端に、俺はどうしようもない空腹感を覚える。どれくらい意識を失っていたのかが定かではないから、はっきりとは言えないけれど、最後に取った
食事はコンビニの惣菜パンだったから、この温かな食事は俺の胃袋を程よく刺激してくれていた。何よりも、その匂いが堪らない。狼の鼻と、人間の鼻では大分その機能に差があるのか、ハンスが台所と思われる場所から、
鍋に入ったそれを持ってくるよりも前から俺の鼻はその存在を嗅ぎ取る事により感じており、口内には唾液が溢れてきていた。そんな俺の様子を見て、白い犬のハンスは柔らかに微笑む。それから後の事は、夢中で
ほとんど記憶に残っていなかった。木造りの、底の深い皿に装われた一杯をさっさと食べ終えて、そわそわしているとお代わりを勧められて。恐らく、四杯は軽く平らげてしまった気がする。味も良かった。必要以上の
味付けはしないものの、それも今の自分の舌には合っている様だ。そういえば、リヨクに餌を上げる時も、人の食べる物をそのままあげるのはよろしくないと、犬の飼育の本には書かれていたっけか。多少はなら問題ない
だろうけれど、今の身体は確かに、前よりも動物に近くなった事もあって、食生活に関しては変化がありそうだなと、膨れたお腹を撫でながらぼんやりと考える。すらっとしていた身体に、不釣り合いに腹が少し膨れていて、
ちょっとみっともない。これは、気を付けないとまた前の自分の様な、太りかけ一直線になりかねなかった。
「では、申し訳ございませんが、私はまだ仕事が残っていますので」
 食事を済ませると、元の部屋へと通される。真白い、こじんまりとした部屋。清潔感に溢れているそれは、これからここに住むのだと思うと、ちょっと物寂しい雰囲気も同時に感じられた。
「この部屋は、全部が白いのですね。家具も」
 こじんまりとした部屋にある、こじんまりとした棚。ベッド。机。それらもまた、ほとんどが白くなっていた。気になってハンスに尋ねてみる。
「ああ。ここは来客用のお部屋でしてね。普段はこうして、余計な物は置かないし、色もつけていないのですよ」
「色をつけない……。塗装ができるんですか?」
「ええ。魔法でね。あとで、あなたの好きな色に染めてくださっても構いませんよ。でも、今はすみませんが。もう時間がなくて」
 言い終えると、慌てた様子でハンスは部屋を出てゆく。本当にギリギリの所まで、俺に時間を割いてくれていた様で、ちょっと申し訳ない気分になる。
「ああ、そうだ。お腹が空いたら、まださっきのシチューは残っていますから。食べてしまっても構いませんよ。多めに作っておきましたからね」
「い、いえ。流石にもう」
「そうでしょうね。でも、寝て、起きたらまたきっとお腹が空いていますよ」
「私、こんなに食べる方ではないと思っていたのですが……」
 正直、今はちょっと苦しい。この細い身体のどこにあんなに入ったのかと思う程、夢中で食べていたのだ。
「それも、身体が変わった事に対する一時的な症状かもしれませんね。あなたの身体は、とても細いし」
 そこまで言うと、ハンスは手を振って姿を消す。一人きりになった俺は、まずはさっきまで自分が眠っていたベッドに腰かけて、さてどうするかと思案に耽る。
 外を見れば、ようやく陽が傾きかけて、空が茜色に染まる頃合いだろうか。眠るにはまだ早く、しかし睡魔は少しずつ俺を包み込みはじめていた。満腹の上に、ベッドに座っていれば、尚更だ。
 家の中を探検しようかと思ったけれど、それは流石にハンスに悪い。せめて、ハンスが在宅中にするべきだろう。突然現れた俺を引き受けただけでも、それなりの覚悟が必要で。その上で、胡乱な俺が家探しなんて
していたら、流石に心象が悪いし、出ていけと言われても、不思議ではない。
 仕方なく部屋をまた見渡す。相変わらず、何も変わらない。ただ、一つ気づいた物があった。鏡。壁に掛けられた、それほど大きくはない鏡が目に入る。白い部屋だから、正面以外からその鏡を見ても、映っているのは
やっぱり白い部屋で、だから今まで気づかなかったんだ。立ち上がると、思わず駆け寄る。顔。まだ、一度も見ていない。どうなっているのかは、わかっている。でも、見てはいない。
「……うわぁー……」
 鏡の前に立って、思わず声を漏らす。見事な狼の顔。銀の被毛が、薄っすらと鈍く輝いている。身体を洗ったら、もっとぴかぴかしそうだなとか、思わず口を開けて、牙の具合を確かめたりする。平常時でぼんやりと
していると、人間だった頃とそれほどの違いという物を感じないけれど、こうして鏡で見て、自分に訪れた変化を確かめる様に百面相をしていると、流石に自分の顔が大きく変わった事にも実感が湧いてくる。それでも、
ほとんどが慣れの問題で片付きそうではあった。現に、両目の間にある、長いマズルのせいで若干塞がれている真下への視界については、もう慣れてきた部分がある。ただ、気を付けないと真下にある物を見逃してしまう
かもしれないが。そっと、顔を下げる。胸の辺りは、マズルが邪魔で少し見えない。まあ、そのくらいか。視線を鏡へと戻す。鏡に映る銀の狼が、俺をじっと見つめている。向こうが声を掛けてきたら、別人に声を掛けられたかと
思うかも知れない。しかし今は、これが俺の顔なのだった。凛々しいはずのその顔は、なんだかちょっと頼りなく思える。自分の顔だから、だろうか。眉に当たる部分の毛が幾分ふっさりとしていて、後ろの方で少し
垂れている様に見えるからだろうか。
 しばらく鏡の前であれやこれやをして、それも済ませると、ベッドへ豪快にダイブする。固定されているのか、ベッドが動く気配はない。俺の身体が、軽いせいもあるかも知れないが。そういえば、身体が幼くなった気がする。
人間の時はとっくに成人して、社会人として働いていた俺だったのに、今の姿はなんというか、十代も半ば。丁度、そのくらいだろうか。もっとも、顔から歳を推測するのが難しいので、身体つきなどから判断するしかないのだが。背は、少し低くなったはずだ。全体的に、今のこの身体は華奢なのだろう。ハンスにも、身体が細いと言われたし、ハンスは俺よりも背が高く、幾分か肉も付いて、立派な成人男性と言った風体だった。それと比べると、俺の
身体はずっと細い。ちょっとしか会わなかったが、あの学園の生徒だという、ササンというグレーの犬の少年の方が、まだ近いくらいだ。ササンは、俺よりも更に背が低く見えたけれど。
 考える事を考えるだけ考えて、それにも飽きて、ごろんと仰向けになる。白い部屋は夕陽に照らされて、今は黄金色に輝いていた。物音は、ほとんどしない。確かハンスは、ここを街だと言っていた。それでも、この家は
人込みからは離れた場所にあるのだろう。ベッドから窓を見上げると、夕焼けの空だけがそこには広がっており、雑多な家々などは勿論の事、都会の背の高いビルとも無縁の状態だった。
「異世界、かぁ」
 正直なところ、あんまり実感はない。そっと、手を上げた。視界に飛び込む、銀の被毛に覆われた腕。指を一本立てる。三本立てる。五本立てて、パーにする。ピースする。グーにする。
 俺の腕だった。疑いようもなく、それは俺の意思によって、動いている。それでも、誰か、他人の手を見ている様だった。剛毛を遥かに通り越して、モサモサしているんだから、仕方ないけれど。
 今居る部屋も、吸っている空気も、それほどの違いは感じない。空気は綺麗になったかもしれないが。そういうところで、異世界という印象は、あまり感じない。それでも、俺自身に訪れた変化が、どうしようもなく今までとは
違うのだという事を、物語っていた。
 本を読んで、好きになっていた世界。それでも実際にこうして訪れてみると、少し不安が募る。自分では何も決められず、周りに流されていた俺が、こんな所でやっていけるのだろうか。
 ごろん。また一つ、寝返りを打つ。段々と、眠気が強まってくる。眠ろう。今は、眠ってしまおう。そうしようとして、足りない物がある事に、気づかされた。
「リヨク……」
 大好きな愛犬のリヨクは、ここには居ない。そんな事はわかっていたのに。もうずっと長い間、俺が眠る時は、リヨクが居てくれたのだった。駄目な俺をいつも励ましてくれていた愛犬は、今は居ない。そして、大好きだった
親友のタカヤも、ここには居ない。そう思うと、途端に心細くなる。
「元気にしていると、いいな」
 それでも俺は、帰りたいとは、思わなかった。どうせ、帰れない事もわかっているのだから。
 何も決められなかった。今まで、ずっと。自分の生き方を、本当に決めてはこなかった。
 今、初めて決めたのだ。そう思った。

 穏やかな朝の光が、部屋に射しこんでいる。夕方に寝たのに、これとは。最初に思ったのは、それだった。たらふく食べて、爆睡して。これでは狼じゃなくて、牛になるだろうなと考える。
 遠くで、声が聞こえた。なんの声だろうかと、身体を起こす。誰かと、誰かの話し声。出ていこうかと思って、思わず身を硬くする。昨日のハンスの言葉が、脳裏に甦る。俺が異世界から来た事は、他人には知られては
いけない。今、不用意に見知らぬ人物と会うのは、危ないのではないか。軽率なのではないか。そう思って、部屋から出る事ができないでいる。
 こういう時は。そう思い立って、耳を震わせた。ぴんと立てた耳が、前を向く。耳が動く、というのも、新鮮な事だった。先祖返りだか何かで、人間であっても耳が動く人がいるそうだが、だからといってここまで器用に
動かせる訳ではない。耳を向かせる事で、対象の方角にある音を効率良く集め、また必要が無い時は畳んで、音の収集を抑えたりもする。しばらく耳を動かす事に悪戦苦闘しながら、部屋から廊下に耳だけをそっと出して、
音を拾おうと苦心する。丁度、会話をしている二人の声が大きくなるところだったので、それでどうにか話が聞けそうだった。
「だからさぁ、なんで今日、家入れねーの? ハンスちゃんよ」
「先程から言っているでしょう? 授業で必要な物を仕入れたから、今は誰も家に入れたくはないのです。あなたとの約束を破った事は謝ります。本当に、申し訳ないと思っています。ですが、家に上げる事は、できません」
「んな事いきなり言われてもねぇ……」
 話し声。昨日の、ササンという少年がまた来たのかと思ったけれど、どうやら違う様だ。もっと声は野太いし、それに口調も随分違う。なんというか、横柄で、我儘な印象を受ける。不良とか、悪ガキとか。そんな感じの話し方だ。
「ちぇっ。しょうがねぇなぁ。せっかく予定を空けて、会いに来たってのに。もっと俺に優しくしてくれよな」
「あなたに優しくするのは、あなたと付き合っていた間だけですよ」
「あれ。もう別れた事になってんの? 俺とあんた」
「あなたは気が多すぎます。もう少し、身を固めた方がよろしいですよ」
「やなこった。そんなのは女だけで充分なんだって。いつも言ってるだろ? 男だったら外野が煩く言わないから、生を謳歌する様に、恋を謳歌してるんじゃあないか。まあ、そんな訳で。俺の胸は今でも空いてるぜ。
その気があったら、声を掛けてくれよな」
「はいはい。私はもう時間なんですから、さっさと帰ってくださいよ」
「……へへへ、毎度」
 少しの間を置いて、笑い声を上げながら、知らない声が遠ざかってゆく。家の中にハンスが戻ってくるタイミングで、俺は部屋から飛び出す。
「おや、ゼオロさん。おはようございます」
「あ。お、おはよう、ございます」
「……もしかして、聞いていました?」
「す、すみません。起きたら、声が聞こえて……」
「いえ、いいんですよ。ちょっと大きな声で、言い合いもしてしまいましたし。しかし、お恥ずかしいところを聞かれてしまった」
「今の方は……?」
 尋ねると、ハンスは少し気まずそうに、困った顔をする。俺は慌てて両手を軽く上げる。
「あ。ごめんなさい。こんな風に訊いたら、いけませんよね」
「いえ。構いません。あの人は、そうですねぇ……ちょっとした、問題児ですかね。さて、お会いしたばかりでなんですが、私はまた仕事があるので、行かないと。朝食は、用意してありますので」
 名残惜しそうな顔をして、ハンスはまた家を出てゆく。どうやら、俺は相当眠っていた様だ。これでは、次にハンスが戻ってくるまで家で大人しくしているしかなさそうだった。引き留めて、色々聞きたかったけれど、居候の
身でその手を煩わせる訳にはいかない。昼になれば、恐らくまた戻ってくるし、夜には必ず帰ってくる。今度は眠らずに、待っていようと思った。とりあえず、ひっくり返したままだった毛布を畳もうと、部屋へと戻る。
「いよーぅ!」
 部屋に入って俺を出迎えた、陽気な声。驚いて、俺は目を見開いたまま、その場に制止する。正面には、ベッドに座り、長い脚を組んだ、豹の男の姿があった。
「へへっ。あんたがハンスの言ってた、授業で必要な物ってか? こりゃまた、へったくそな言い訳してったもんだなぁ!」
 そう言って、豹の男は口角を吊り上げた。鋭利な白い牙が、朝日を受けて輝いていた。

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