ヨコアナ
1.A
夕闇に染まる空を、歩きながら俺はぼうっと見上げる。
窓の向こう。天を穿つ様に並び立ったビルの隙間から僅かに見える空の姿は、都会人がよく口にする、都会の空は狭い、という月並みな言い回しがぴったりと当てはまっていて、ちょっと苦笑してしまう。
ビルの間に、まるで張り付けられた様に僅かに見える青紫の空には、夜が来る事を悟ってか、住処へ戻ろうと羽ばたく烏の姿がいくつも見えた。都会の生ごみを上手く漁る事で人間の世界に適応した彼らの、朝夕に
よく見られる姿だ。
心の中で、ちょっと応援をする。人にいくら世界を作り替えられても、ああして逞しく生きている生き物の姿を見ると、なんとなく自分も頑張らなくては、という気がするのだ。もっとも今は、ただ羨む様な気持ちが強く
残っているだけなのだが。
窓から見えるそんな世界を一人堪能していた頃、つと声を掛けられて、俺は振り返る。
「先輩」
「こんな所に居たのか。さっきは、大変だったな。大丈夫か?」
俺よりも背の高い、グレーのスーツに身を包んだ先輩が、少し沈んだ顔をして声を掛けてくる。俺の声を聞くと、その表情が安堵と、それから俺を気遣う様にと僅かに和らいだ。
「大丈夫ですよ。それに、いつもの事ですから」
「そうかも知れないけど。でも、あんなに言う事、ないと思うんだよなぁ」
先輩の言葉に現実に引き戻された俺は、さっきまで散々に上司に怒鳴りちらされていた事を思い出す。
そうしてふらふらと会社の廊下なんぞで、ふと見上げた窓の外の光景に釘付けになり、正体を失くしていたのだった。
そんな俺の様子を先輩は気にしていたのだろう。きっちりと切り揃えた髪は、それから僅かな時間を置かれて少し伸び、真面目さは損なわず、しかしほんの少しオシャレな雰囲気を漂わせている様でもあった。要は、
先輩は結構恰好良いのだった。
そろそろ名指しで注意されそうな程に伸びてきた髪をいい加減に梳いているだけの俺とは、あまりにも対照的である。
肌色も、趣味はアウトドア・スポーツ全般だと豪語するだけあって、程よく日焼けした先輩は、人受けが良いと評判だった。所謂スポーツマンという奴である。
なまっちろいと言われる事もある自分とは、やっぱり大違いである。
「先輩。いつも、ありがとうございます。本当は、先輩だって俺に言いたい事、あるんでしょうに」
「そんな事言うなよ。大体あれだけ言われた後に、俺までなんか言ったら、我慢できる奴なんて居ないよ」
そうは言っても、先輩は俺が入社してからの付き合いだ。俺の教育係を担当したのが先輩で、つまるところ、俺が何か一つミスをして、それが他に響く様な事態になったら、小言を言われるのは先輩だった。そして、
そんな状況は割とあって。だから先輩だって、俺に何かしら小言の一つを零したところで、それはまったく妥当という物だった。そうしないのは、先輩が優しいからなのだろう。この会社で今まで俺がどうにかやってこられた
のも、ひとえに先輩のおかげだ。先輩が居なかったら、俺はとっくに何もかも諦めていただろうな。
「ごめんな。あんまり、庇ってやれなくて。こんな所で呼び止めて、こんな風に謝るのも、狡いんだろうけど」
「そういう事をはっきりと言えるのが、先輩の凄いところですね」
俺には、とても言えそうにない。
「でも、大丈夫です。心配しないでください。俺もよくよく怒られ慣れてきましたから」
「本当に、大丈夫か? それ」
「はい。それに、ちょっと勇気を貰いましたから」
それで、先輩との会話は終わりだった。残りの仕事を適当に片づけて、ようやく解放されると、帰りの電車に揺られる。その途中で、また空を。既に陽は完全に沈み切っていて、闇夜が広がっていた。その中に煌々と月が
優しげな光を纏って、控えめに存在を主張している。その柔らかな光も、照明に溢れた電車の中では、よくはわからないだろう。流れてゆく景色の中、俺は鞄に手を突っ込み、スマホを取り出しながら自分の周りに居る
人達を確認する。誰もが、一様に疲れた顔をしていた。当然か。みんなそれぞれ頑張って生きて、そうして今は、自分の家に向けて。疲れた身体を揺らせているのだから。俺だって、きっと彼らとそんなに違わないだろう。
スマホへと視線を戻す。特にメールが来ているとか、そういう事はなかった。元々、人付き合いは苦手な性質で。でも、そうしていると、履歴の所に見たくはない名前が、まだ残っていた。
「タカヤ」
声には出さず、唇だけを僅かに動かして、俺はその名を口にする。それほど親しい訳でもない友人とのやり取りに追いやられて、履歴の下の方にあるタカヤの名前。最後に言葉を交わしたのは、もう半月は前だろうか。
子供の頃から一緒だった。つまるところ、幼馴染という間柄の俺とタカヤは、どこへ行くのも一緒だった。タカヤの両親が元々転勤族で、友達を作る事もままならなかったらしいが、丁度俺の住んでいる地域へ来た時に腰を
落ち着けたらしく、その時知り合って以来の仲だ。
タカヤは最初、友達になる事にほんの少しだけ抵抗を見せていた気がするのを、今でも憶えている。両親の転勤に合わせては、出会いと別れの繰り返しを強制され続けたタカヤは、いつしか自分から友達を作る事を
諦めては、放棄していたのだった。怯えていた、幼いタカヤの顔も、俺は今でも忘れてはいない。それが徐々に明るくなって。それからずっと、季節が巡って、身体が大きくなって。互いが互いに思い悩む事があっても、俺と
タカヤは友達だった。所謂、親友といっても差し支えない程に。
「好きなんだ、お前が」
思い出巡りをしていた俺の耳に如実に響く、いつぞやの幻聴。
最初にそう言われた時、俺が思ったのは、親友だと思っていた相手に告白された事に対する驚きではなかった。
どうして、俺なんかを。
たった、それだけだった。タカヤは成長するにつれ、友人である俺から見ても魅力的な男に育っていった。それは男が男を恋愛対象として見る上でのそれではなくて。ただ、そう。一人の人間として、好ましい感情を抱く。
そういう物だった。
文武両道という言葉がぴったりで、それでいて、元々は明るい性格だったのだろう。誰からも好かれる様な振る舞いができて、それでも独りぼっちだった時期もあったから、相手の孤独や、触れてほしくないところ。そういう
所も、絶妙に読み取る事ができる。気遣いのできる男。
どこを歩いても、タカヤは人気者だった。隣を歩く俺はというと、初めてタカヤと出会った時の積極性は、どこへいったのやら。消極的で、キモいと陰口を言われている様な、そうしてそれに腹を立てるどころか、まあ
そうだろうなと思ってしまう様な。言ってしまえば、タカヤの腰巾着。金魚の糞の様な存在だった。
劣等感が無かったといえば嘘になる。けれど、小さな頃から見ているタカヤが、どんどんと成長して、魅力的に、誰からも好かれる様に変身してゆくのを見ていると、なんていうか、仕方がないな、と思ってしまうのだった。
これが赤の他人だったら、妬みや嫉みもあったかも知れないが、俺はタカヤの努力を知っているのだから。タカヤがそんな風に、周りから愛される様になるまでに、どれ程の勇気を振り絞ったのかを。
そして、そんなタカヤからの、突然の告白。社会人になって、流石に学生の頃の様には会えなくなって。会っても精々、どこかの居酒屋で愚痴を言い合いながらの、軽い付き合い。その程度だった。丁度、そんな時だった
気がする。一件目の飲み屋から出て、二件目に行こうかな。それとも、家飲みにしようかなと、暢気な事を俺が言いながら笑っていた頃。タカヤが告白してきた。
「ごめん。俺は、タカヤの事、そんな風には見られないよ」
悲しく俯いて、俺がそう返した。タカヤは何かを言いたげな顔をしていて、それでも何も言わず。その日は別れた。
それから、それきり。
タカヤからの連絡はあったけれど、俺はどうにも気まずくて。取る事もせず、スマホがその内に鳴り止むのをただ見守っていた。
タカヤの事が、嫌いな訳ではなかった。寧ろ、好ましいと思う。こんな俺に、たまたま、幼い頃に声を掛けただけの俺に、ずっと良くしてくれる。
それでも俺は、タカヤの手を取る事はできなかったのだった。そんな風には、恋愛対象としては。とても、タカヤを見ていられなかった。
人が、苦手だった。幼い頃からちりちりと胸にあった小さな想いは、俺が成長し、人の悪意に接触するにつけ、着実に俺が無視できない物へと変じては、俺を追い込んでいた。社会人になった今、それはまさに待ちに待った
ピークを迎えて、俺がぼけっと空を見て、はばたく鳥を眺めたりする原因にもなっていたりする。
それでも、タカヤの事は人として、友達として。愛しているといっても差し支えない程には好きでもあった。だから、タカヤが俺を好きな事に嫌悪感などはまるでないし、寧ろ相手が俺でなかったら、俺は親友が幸せになる事を
全力で応援していただろう。しかし、大変残念な事に、相手は俺なのだった。他の奴だったら、男でも女でも、誰からも愛される様なタカヤの告白を、喜んで引き受ける事ができただろうに。
ほんの少しの差で、幸せになれるはずの人間は、幸せになれなくなってしまうのだな、とどこか他人事の様に考える。
タカヤが俺以外を好きになっていたら。俺が、タカヤの気持ちに応えられる様な人間だったら。きっと、そのどちらかが現実の物になってさえいれば、タカヤが辛い目に遭う事もなかったのだろう。その点は、本当に申し訳ない
事をしたと思っている。それでもその気持ちと、タカヤに応えるかは、別の話だった。
タカヤについて考え込んでいると、いつの間にか目的の駅に着いていて、俺は慌てて席を立って電車から降りる。暗い夜道を歩く。夏の夜は、じめじめとしていて、丁度怪談話で盛り上がる事ができそうな雰囲気を醸し
出していたが、生憎俺にはそういった物を好む気持ちもない。それよりも、どこかから聞こえる虫達の大合唱の方が、楽しみだった。夜空に広がる星々と、闇に広がる虫の声。暗がりに、自分が一人だけであったとしても、
本当に独りになったとは思えないその快さ。
わからない人には、一生理解しえないだろうその気持ち。暗闇が、ただ怖いというだけの人。
本当に怖いのは、その暗闇から突然に飛び出してくる、悪意を持った人間でしかないというのに。こんなにも夜は気持ち良くて、優しくて。心を安らがせもすれば、わくわくさせたりもしてくれるのに。暗闇もいい迷惑である。
虫の声に軽くなった足取りのまま、俺は自分の家へと着く。灯りのついた、こじんまりとした大きさの家。両親とは、まだ同居をしたままである。鍵を開けて家に入ると、居間の方からは素っ頓狂な声と、それに続く笑い声が
上がる。テレビの音声だと理解するのに、それ程の時間は掛からなかった。
今日一日ですっかり疲れ切っていた俺は、居間に顔を出す事もせず、自分の部屋へ向かおうとする。出ていけとも言われないからいまだに親と一緒に住んではいるものの、関係はあまり良好とはいえない。原因は、俺の
人嫌いである。
特に、母だった。結婚をして、子供を授かった親ならば、孫の顔を見たいといつかは夢見るのは自然な事で。一人っ子である俺は、その期待を昔から多分に背負わされてきていた。しかしながら、幼い頃は俺もそれに
応えようと必死だったものの、成長をすれば、この様である。
母が俺に失望しているのは、言葉に出されずともよくよくわかっていた。その上、タカヤの事もある。幼い頃からの付き合いともなれば、当然母とタカヤは面識もある。大人になるにつれ、そうして子供でなくなるにつれ、
人との接触を息苦しいと思う様になった俺が、それでも他人との接点として持っていたのが、タカヤだったのだ。そのタカヤともついに付き合いが途絶えたのだと、当然俺からは口にはしていないものの、薄々感づいては
居るのだろう。
俺に対する扱いが、更に冷え切った物になった、様な気がする。今ではすっかり、家庭内別居の様な状態だ。
部屋へ向かおうとした俺の足元に、背の低い生き物が突進してくる。うっかりそれに足を取られそうになって、俺は慌てて壁に手を付いた。
「ただいま、リヨク」
名前を呼ぶと、それは一層嬉しそうに、俺の足へと首筋を擦り付けてくる。しゃがみ込んで、俺はその頭を何度も撫ぜた。
「偉いな、リヨク」
大きな尻尾を振るそれ。リヨク。それが、この、雄のジャーマン・シェパード・ドッグの名前である。
スーツに毛が付くので、相手もそこそこに俺は階段を上る。馬鹿笑いを響かせるテレビの騒音が、遠くなる。代わりに、俺について階段を健気に駆け上がるリヨクの足音と、息遣いが大きくなった。自分の部屋へ辿り着くと、
俺は手早くスーツとシャツを脱ぎ、ぶん投げて、下着になったところでどっかと床に座り込んだ。待ってましたと言わんばんりに、リヨクが突進してくる。笑いながら、こら、と叱り付ける。リヨクはちょっと不満そうに身を引いたが、
俺が本当に怒ってはいない事を確認すると、今度は控えめに進んで、俺が股を開いた間に入り込んでから、俺の顔や首筋を丁寧に舐める。きっと、汗臭いだろうなと思いつつも、犬は臭いが好きだから、多分平気なのだろう。
俺はリヨクを抱き寄せる様にして、そのもふもふした被毛を堪能する。
ああ、やっぱり、犬っていいな。
こうして俺が触っていても、嫌がる様子はない。寧ろ、もっと触ってほしいのだと言いたげに、身体を擦り付けてくる。
リヨクを拾ったのは、もう五年程前の事になるだろうか。当時はまだ俺の家庭内での評価も悪くはなく、そして俺が一人っ子だった事もあり、丁度家族会議で何かペットが欲しいという議題が上ったところだったのだ。リヨクを
見つけたのは、丁度その話をした、翌日だった。
川に掛けた、橋の下。そんな定番の場所に、小汚いダンボール箱に入れられて、捨てられていた仔犬。それが、リヨクだった。
どうせペットを飼うのなら、ペットショップではなく、保健所を見てはどうか。確か、家族会議の最後に話した事がそれだった気がする。
だから、放っておけばその場で死ぬか、保健所に行く事になるその仔犬を、俺は拾ったのだった。犬種を調べて、それが大きくなるのだと知った時は、再度家族会議が開かれた。犬を飼ったことも無いのに、それはいくら
なんでも、ハードルが高いのではないか、というのが主な不安だった。
俺は粘り強く説得を重ね、両親をどうにか納得させて、リヨクを飼う事をついには承諾させたのだった。今でも、あの時の行動力は評価したいと、リヨクを見つめていると思ったりする。
そうして家族の一員になったリヨクは、これまた不安を払拭するには充分な程、従順だった。本人、いや本犬の性格のせいもあるのだろう。好奇心はあるけれど、何よりも穏やかで。接している相手の様子をよく見ている。
それはたった今、俺が怒った様で、実は怒ってはいない事をすぐさま察して、さっさとモフらせてくれているところからも、よくわかる。上手く躾をしないと大きな犬は大変な事になる、という話に脅かされていたのが、嘘の様だった。
「リヨク」
耳元で、名前を呼ぶ。そうすると、リヨクの尖った耳は活きのいい魚みたいにぱたぱたと動き、鼻をすぴすぴさせながら、甘えた声を上げる。
全身で俺がここに居る事の喜びを表してくれるリヨク。その仕草の一つ一つが、俺には可愛くて。愛おしくて、仕方がない。
俺が家を出て行かないのは、一つにはリヨクの存在もあった。飼い主は一応、俺である。しかし家族に見放されている俺とは違い、リヨクは両親にもよくよく愛されているので、俺が家を出ようとして、リヨクを連れていこうと
すると、これはまた大問題に発展しかねなかった。仮にリヨクを連れて家を出られたとしても、男の一人暮らしで、仕事に忙殺されている俺では、満足にリヨクの世話はできそうにない。大型犬は、一日に一時間の散歩を
二回はさせないと、ストレスが溜まってしまうというし。とはいえさすがに二時間も散歩に連れ出せる余裕は家族全員であっても中々に取れないので、精々が一時間ではあるのだが、俺一人となると、その一時間すら
捻出できるかが怪しくなってしまう。その上、俺が仕事に出ている間、リヨクはずっと一人ぼっちで、家に居なければならない。それは、あんまりにも可哀想だ。犬だって、生きているのだから。
そう考えると、あまりにも不憫で。俺は少なくともリヨクが居る間は、実家を出る事はしないでおこうと決めていたのだった。リヨクを諦めて出ていく、というのも絶対にしたくはなかったし。
「お前と、タカヤ。二人が居たから、俺、今まで生きてこられたんだなぁ」
俺が唯一心を許した二人。もとい、一人と一匹。けれど今、その一人とは、音信不通である。大体が、俺のせいで。
勿論告白をしてきたタカヤに問題が無かったとは言わない。しかし、関係を一方的に切ったのは、俺だった。それは一つには、非常に身勝手な言い分だけど、そうした方がタカヤは幸せになるのではないだろうか、という
気持ちもあった。好きな相手に告白して、断られて。所謂、いいお友達でいましょう。なんて言われた後、生殺しの様にずっと一緒に居るのは、きっとタカヤのためにはならないだろう。
そういえば聞こえはいいかもしれない。しかし結局は俺も、タカヤと一緒に居るのを、避けたかったのだった。あまりにも突然の事で、混乱していて。それが、半月経った今でも、やっぱり混乱したままで。それでも会えない
寂しさだけは募ってゆく。思えば、あどけない子供の頃に知り合って、それからずっと、タカヤと一緒に居たのだ。辛い事も、悲しい事も、楽しい事も。全部共有して生きてきた。それが自然な形で、傍から見ればちょっと異質に
見えても、俺達には当然で。だから、自然な形でなくなってしまった今が、しんどいと思ってしまう。
考えに耽っていると、リヨクがまた顔を動かして、舌を伸ばす。今度は、俺の耳だ。くすぐったくて、笑い声を上げてしまう。一頻り笑った後、リヨクの舌が、俺の頬に当てられた。丹念に頬を、そこから上へ移動して、目尻へ。
そこでようやく、リヨクが俺の涙を舐め取っている事に気づいた。
「ごめんな、リヨク。駄目な飼い主で」
リヨクの身体を、ぎゅっと抱き締める。犬の骨格を考えると、ちょっと苦しいだろう。それでもリヨクは、嫌がりもせず、されるがままにさせてくれる。
いつの頃からだろうか。辛い事があって、一人で泣いていると、リヨクは俺の下へと飛んでくる様になっていた。それはまるで、超能力の様に。俺が辛い時、リヨクは傍に居てくれるのだった。散歩に連れ出されている時で
あろうと、俺が一人泣いていると、リヨクはあれだけ散歩にはしゃいでいたはずなのに、家に帰りたがるのだという。そうして、リードを離された途端に、いつもだったら足を綺麗にしてから家に上がる様にきちんと躾られて
いるのに、階段を汚しに汚して、泣いている俺へと辿り着く。
堪えきれなくなって、俺はうめき声を上げた。大泣きする事だけは避けて、それでも涙は止まらずに溢れてくる。ああ、本当に情けない。飼い主が、飼い犬に、こんなにも心配されて、面倒を見てもらっているのが、
恰好悪いと思った。
「ごめん……リヨク。ごめん……」
俺の傍に、今は唯一残っている味方。本当はもう一人居たはずなのに、俺が突き放したせいで、残ったのは、リヨクだけだった。
申し訳なくて。何もかもに、申し訳なくて。俺は切れ切れの言葉のまま、謝り続けた。呻きが、嗚咽になって。ごめんが、ごめんなさいになって。頬を伝う水が、伝うどころの話ではなくなっても、俺はまだ謝り続けていた。親の
希望を裏切った子供に生まれてしまった事。上司や先輩の期待を裏切ってしまった事。小さな頃から一緒だった親友の気持ちを、裏切ってしまった事。いつもいつも、懸命に励ましてくれるリヨクの努力を、裏切ってしまって
いる事。どうしようもない程に、俺は裏切り者だった。何よりも嫌なのが、それを申し訳ないと思って、こうして懺悔している癖に、期待に副える様になろうとはしないし、またできないでいる自分の心だった。本当に、大嫌いだった。
幾度の夜を、何度この気持ちを抱いて過ごしてきただろう。腕の中で、今でも俺を気遣ってくれるリヨクだって、本当は嫌で仕方がないかも知れない。嫌なら、嫌だと、そう言ってくれたら良かった。リヨクは犬だから、言葉が
かわせなくて、それを言う事もできないのだけど。リヨクの優しさが嬉しくて、それでも同時に、俺の心を刺す痛みにもなっていた。優しい先輩の言葉が浮かぶ。優しい言葉。俺を気遣ってくれる言葉。それがまた、辛かった。
一層、突き放してほしかった。誰からも突き放されれば、もう何もかも諦めて、それで終わり。そういう気分にもなれたのだから。期待に応える事もできないでいる俺にかけられる優しさは、いつも俺を持ち上げては、硬い
地面に叩き落とす事を繰り返して、気づけばまた涙を流す俺に繋がるだけだった。
朝が来るまで、泣き続けられそうな気がして。それでも、その内に涙は治まる。荒れていた呼吸も、徐々に静かになる。リヨクが舌で掬えなかった涙だけが、リヨクの首や顎を濡らしていた。俺が泣き止んだ事を知ると、
リヨクはまた、身体を預けてくる。心臓の鼓動が、伝わってくる。生きているのだな、と思った。
俺の鼓動も、リヨクには聞こえているのだろうか。最後はいつも、そうだ。涙が枯れた頃、まだ俺の傍に居てくれるリヨクの存在に、改めて気づく。
ああ、生きてるんだなぁって思う。ちっぽけな俺も、それを頑張って励ましてくれるリヨクも。なんだか、楽しくなる。それで、泣くのは終わりだった。
リヨクに距離を取らせて、起き上がる。ずっと同じ体勢だったから、身体が痺れていた。リヨクは多分、もっと辛い。それでも不平は言わないし、俺が復活するまで、ずっと寄り添ってくれている。本当に、これはただの
犬なのだろうかと、たまに考える。まさかと思いますが、俺の想像上のペットなのでは。なんて言われても、多分納得するくらいの完璧さでもって、リヨクは存在しているのだった。
俺は一度一階へ戻ると、リヨクのペットフードを取り出して、それから居間へ。なるたけ両親とは顔を合わせない様にして、適当な晩御飯を用意すると、すごすごと部屋へと戻る。リヨクにペットフードを与えて、俺はそれを
見ながら、飯を口に入れて。こういう時も、リヨクは俺が食べるまでは、じっと待っていたりする。俺の帰りが遅くて両親がリヨクに餌を与えても、両親の機嫌を取るかの様に少し食べるくらいで、あとはじっと待っているのだった。
「本当に凄いな、お前は」
タカヤが居なくなって、俺の心に空いた大きな穴を埋めるかの様に、今のリヨクは以前にも増して、俺に構ってくれる様になった。飼い主が、飼い犬に構ってもらうなんて、情けない話ではあるのだが。
食事を済ませて、スマホで好きなサイトでも見ようかと思ったけれど、それもやめて、またリヨクに触れる。今度は、さっきまでとは違う。リヨクの首元を掻いてあげたり、犬ではどうしようもない肩の部分を揉んでマッサージして
あげたり。そうしている内に、一日も終わりそうになって、今度は風呂場へ向かう。
リヨクとは、そのまま一緒に浴室に入るくらいの付き合いだった。とはいえ、さすがに浴槽には入れない。浴槽に蓋をしている間に俺は身体を洗い、
それからリヨクを洗って、全て終えると先にリヨクを脱衣所に出してから、少し湯船に浸かるのだった。あんまり待たせるとリヨクが可哀想なので、
風呂はいつも短い。早々に切り上げると、脱衣所で待っていたリヨクの身体を拭いて、ドライヤーを掛けて。それから俺も身体を拭くと、就寝の準備をして、また揃って部屋へと戻る。本当に、犬だという事を除けば、仲の良い
兄弟の様な。いや、もっと行き過ぎた様な状態になっている気もした。それも、リヨクだから。の一言で片付いてしまうのだが。
残された僅かな時間で、今度は読書に興ずる。購入したのは良かった物の、忙殺されていたせいで読めなかった本が俺の部屋には積まれていて、最近になってようやくそれを消化しようと努めているのだった。本を手に
取りながら、俺は床に座り、ベッドを背凭れ替わりにする。だらしがなく足を伸ばした俺の下へ歩み寄ったリヨクは、隣に座ると俺の膝の上にその頭を満足そうに乗せていた。俺は片手で本を読みながら、リヨクの頭を気が
向いた時に撫でる。あんまり放置していると、時々リヨクは顔を浮かせて催促するので、程々に。昔、まだリヨクが小さかった頃は、俺の膝の上に全身が乗っても平気だったのに、大きくなれば、そういう訳にもいかず。
あの頃は顔の前で適当に指を遊ばせているだけで良かったのに、今は時折手を伸ばして、リヨクの身体を撫ぜる必要もあった。そうしながら、俺は本を黙々と読み進める。本屋で興味を引かれて手にとって、そのまま
買い取った小説。中身はありきたりな、ハイファンタジー物だった。こてこてのそれは、今までいくつも読み終えたそれらとそれほどの代わり映えがする事もなく。、ある意味で期待通り、予想通りの様相を呈して淡々と
並べられた文字が、俺の目の下で踊っていた。
こういう話を読むのが、俺は小さい頃から、堪らなく好きなのだった。当てもなく、ただ目の前に開かれた、広い世界。多種多様な種族の成り立ちと、軋轢。守りたくて、守れなかった約束。命を懸けた大冒険。悲しいだけ
ではなく、嬉しい時にも涙する、所謂、感極まったという場面。冷淡な男に、ふと芽吹いてしまった優しい心。それが故に、身を亡ぼす未来を招いては、それでも決して後悔をしていない生き様。活字の上で繰り広げられる
世界は、いつも情熱的で、ドラマチックで。いつ読んでも、溜め息が出てくる。感嘆の、そうして自分を振り返っての、悲しい溜め息だった。
何故それを羨ましいと感じてしまうのか。答えは、明白だった。自分の命を、自分が一番使いたい事に、使っているからだった。
お粗末な作り話。都合の良い展開。リアリティが無いと言われる心の動き。確かに、そうなのかも知れない。でも、本当はそうではないのかも知れない。
少なくとも、俺はそう思っても、次には自嘲気味の笑みが出てしまうのだった。自分がそうできないから、生き生きとしている相手を、妬んでいるだけなんだって。
そう思わせられる程、今手に持っている本の世界は、そうして、今まで読んできた本の世界は、ともすれば直視するのが辛いと思える程に、きらきらと輝いていたのだった。
リヨクが、頭を動かす。我に返って、リヨクを撫でながら時計を確認する。今日はもう、寝なければ。明日も早いのだ。
「おやすみ、リヨク」
疲れた身体をベッドに倒れ込ませると、リヨクはベッドのすぐ隣。専用のクッションの上に丸まって眠ろうとする。俺の声に、小さくわんと鳴いて。
この感覚だけは、今も昔も変わらなかった。家に居る間は、リヨクが傍に居てくれる。外に居る間は、昔はタカヤが居てくれた。それも、社会人になって疎らになり、この間の事があって、完全に途絶えてしまった。それでも
俺は、まだ頑張ろうと思った。まだ、リヨクが居てくれるから。今日もまた、頑張れるのだと。
「おやすみ」
もう一度、言った。今度は、リヨクは鳴かなかった。代わりに、尻尾で床を叩く音が、とんとんと聞こえた。
ああ、それでも俺の頑張りは、やっぱり長くは続かなかった。
その内に俺は、大好きな物語と、大嫌いな世界を、踏み台にした。