![](https://static.wixstatic.com/media/ee5d76_678b8fe272e444a9b0ff3870c9297ff5~mv2.jpg/v1/fill/w_418,h_243,al_c,q_80,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/ee5d76_678b8fe272e444a9b0ff3870c9297ff5~mv2.jpg)
ヨコアナ
男神くんと鳴平
渾身の力で背負った身体を投げ飛ばす。
ずどんと音が立ち、強かに背中を打った相手の呻き声が聞こえた。
「ってぇぇ……鈴介、やるんなら先に言えよ」
「あ、ごめん」
立ち上がった狼の顔した相手は、俺を見て呆れた顔をする。
つい出てしまった力に俺は顔を逸らした。
「……ははーん、そういう事か」
「なんだよ」
「何って、ほら」
にやにやした顔が示す方に視線を向けると、満面の笑みで俺を見る犬人が居た。
「鈴せんぱーい」
尻尾をぶんぶん振り回すその姿に俺はちょっとだけ頬を緩める。
「奥さんが居るもんな」
「だ、誰が奥さんだ!」
「照れんな照れんな。大体男神を入部させたのはお前だろ?」
そう言われて俺は押し黙る。
「男神の前では格好いいとこ見せたいもんなー」
「だ、だから」
「ほら、行ってやれよ。俺は休憩入るからな」
背中を押されて、男神の前に押し出される。仕方なく俺も休憩を取る事にした。
「先輩、どうぞ」
「ああ、ありがと」
男神が差し出したボトルを受け取ってから、一度外に出る。
胴着を少し緩めると汗ばんだ身体が風に撫でられて目を細める。
男神から渡された飲み物を一口飲んでから、傍にあった水道の蛇口を捻る。
じめじめとした梅雨が明けて、初夏を匂わせる様な暑さの今は、蛇口から飛び出す水が何か別の物に見えた。
両手を揃えて水を溜めると、勢い良く顔に掛けて流れた汗を流し、火照った頭を冷やした。
顔を洗っていると足音が聞こえる。
見なくても、それが誰なのか俺は知っていた。
「先輩」
水を止めて、声のした方へ手を伸ばすとタオルを掴み取りそれで濡れた顔を包む。
「悪いな男神、いつも雑用ばかりで」
「そんな事ないですよ。俺、とっても楽しいです」
顔を上げて、改めてその姿を見つめる。
お世辞じゃないかと思ったけど、男神は変わらずににこにこしてやがる。
それに俺は安堵しつつ、やっぱり申し訳ないなと思った。
男神が俺の居る柔道部に来たのは、二月程前だった。
春になって、高校一年から二年に俺がなった様に、新しい一年が増える。
当然、柔道部にも新入部員が増える事になる。
その日も俺は部室で形稽古をしていた。
技を掛け合って、一息吐いた頃入口に見慣れない人物が立っている事に気づく。
「ん、どうしたの鈴介」
「……誰か居る」
「へ?」
稽古相手の狼と揃って改めて見つめると、やっぱり見慣れない犬人が居た。
「あー、あれじゃね? 新入部員。でも今部長居ないんだよなー、どうしよ」
辺りを見ても、犬人に気づいている奴も居ないみたいで俺は軽く息を吐く。
「ちょっと行ってくる」
「あーそう? んじゃ俺休んでるから」
さっさと休憩を決め込む狼を置いて、俺は入口に向かう。
俺の姿を見て、犬人は戸惑った様だった。
「入部希望者か?」
「え、あの」
「悪いな、今は部長が居ないから少し待っててくれ」
そう言って中に入る様に促すが、犬人は動かない。
「なんだ?」
「俺……駄目なんです」
「は? 入部希望じゃないのか?」
「……入りたいです。でも、駄目なんです」
言葉に俺は首を傾げる。
けれど、入部希望者という事は間違いない様で、結局無理矢理部室に入れるとそのまま隅の方に犬人を座らせた。
「まあ、よくわからんが見学は自由だ。お前と同じ一年も居るから、適当に見ていればいいさ」
俺の言葉に、小さく頷く。
それで俺も形稽古に戻る。
「ん、もういいの?」
「ああ」
「そんじゃ次俺からね」
稽古をしながら、時々あの犬人へ視線を送る。
あちらこちらを物珍しそうに見つめながらも、その視線が最後には俺に向かう。
「おーい、真面目にやれよぉ」
俺の様子の違いに気づいた相手から文句が飛ぶ。
技を仕掛けようとしてるのに、俺がちっとも動かないから不満そうに俺を見ていた。
「……ごめん」
「ま、気になるのはわかるけど」
そうやって程々に稽古を続けて、再び休憩時間になりさっきの犬人の元へ行くと、その傍に居る巨体の熊に気づく。
「部長」
熊人の部長は俺を見ると、難しそうな顔をした。
「鳴平……お前か? 男神を入れたのは」
そう言って部長は男神と呼んだ犬人を見つめる。
「ええ、まあ。見学は自由ですからね」
「そうなんだが、なあ」
「えっと……その男神が、どうかしたんですか?」
そういえば、さっきも入りたいけど駄目なんて訳の分からない事を言ってたな。
気になって俺は訊いてみる。
それに、部長にしてみたら新入部員は歓迎するべきもので、渋る様子を見せる部長の事も今は気になった。
「いやな、どうも身体が弱いみたいで、激しい運動は禁じられているそうなんだ」
なるほど、道理であんな変な言い方してた訳か。
部長の言葉に納得して改めて男神を見る。
寂しそうに俯くその手には、さっきは隠していたのか入部届けの紙が強く握られて皺を作っていた。
「俺もさっき先生から聞いた事なんだがな。運動部の部長には連絡が回っているそうだ。
何かあってからじゃ遅いってな」
「はあ」
結構な大事に、俺はただ相槌を打つ。
この様子じゃ本当に運動は駄目なんだろうな。
「他の、運動部以外じゃ駄目なのか?」
部長が優しげに男神へ語りかける。男神は、変わらずに俯いたままだった。
その様子にさっきまでの男神を思い出す。
怯えた様な顔をしながらも、それでも羨ましそうに部員達を、何より俺を見ていた。
「……いいんじゃないですか。入部させても」
「鳴平」
部長が俺を少し睨む様に見て声を上げる。
「二年の俺が言っても仕方ないですけど、男神自身は入りたいって言ってましたよ。
といっても、他の連中みたいな稽古はつけられませんし、できる事は雑用ぐらいだと思いますが」
「……それでも入りたいです」
無言を貫いていた男神がぽつりと言葉を零した。
それに、部長は俺に対する睨みを更に強い物にする。
「まともに練習もできないで、独りになるかも知れない。誰が面倒を見るんだ」
部長の性格を考えたら、男神が入る事自体が嫌というよりは、その後男神が一人ぼっちになるのが嫌なのだろう。
何より、こうした話になるって事は男神の両親からも何かと小言を言われるのかも知れない。
「俺はもう三年だ」
言外に、何かあっても力になれないのだという意味が籠められていた。
「俺が面倒見ますよ。男神をここに入れたのは、俺なんですから」
「いいのか」
正直なところ、面倒事がごめんなのは確かで。
でも、なんとなく寂しそうな男神を見ていたら、俺はその面倒を受け持つ事を志願していた。
「ええ。その前に、男神の両親や、学校にも話をつけないとですが」
俺の言葉に部長は盛大に溜め息を吐く。
「……学校には俺から話しておく。男神、親の説得は自分でしろよ。駄目だったら、諦めろ」
俯いていた男神が顔を上げる。
「あ、ありがとうございます! 頑張ります!」
その尻尾が急に激しく振られる。
今まで垂れ下がっていたままだったから、ちっとも存在感が無かったそれに少し驚く。
その後、白紙のままだった入部届けを書き上げて部長に預けるとそれでその日は終わった。
帰り際、男神は初めて会った時とは正反対の笑顔を見せていた。
それから今の今まで、男神は柔道部に仮入部するという形で在籍している。
両親にはかなり反対されたみたいだが、それでも男神がどうしてもと言うと渋々承諾してくれたらしい。
肝心の部長も、学校側からかなり強く言われたのかちょっとげんなりした表情をしながらも、
それでもどうにか許可だけは取ってきてくれたのか、喜ぶ男神を見て口元を緩ませていた。
拭き終わった後のタオルを男神へ手渡す。
入部したとはいえ、最初に言った通り男神のできる事はただの雑用だった。
他の一年も最初は雑用が多いが、男神はそれに輪を掛けて雑用全般を押し付けられる。
特にうちの柔道部はマネージャーを兼任している部員が居るので、その手伝いのできる男神はやたらと重宝されていた。
身体的に辛い物は除くが、態々柔道着を着込むのにする事が雑用だけというのが俺にとっては不憫だった。
それで、何か事がある度に俺は男神に大丈夫なのかと声を掛けるが、男神はいつも笑顔で頷く。
「よし、来てみろ……男神」
「はい」
そんな男神に俺ができる事と言えば、たった一つ。
他の部員が帰って静まりかえった部室で、一人男神の稽古をつけてやる事だった。
とはいえ、やっぱり激しい運動はできないから軽い技の掛け方を教えてやる程度ではあるんだが。
一度技を掛けたら一休み。それを繰り返していく。
「鈴先輩、俺、あれやりたいです!」
「あれ?」
「さっき鈴先輩がしてた、えっと」
「一本背負投?」
当たっているのか、男神の顔がぱぁっと輝く。
心配しながらも、仕方なく俺は投げ方を手取り足取り教えていく。
「……いきます!」
そう言って、男神は素早く俺の懐に飛び込み背を向け、俺の腕と肩をそれぞれ掴み軽々と身体を持ち上げる。
なんて事はなく、男神の虚しい唸り声だけが部室に響き渡る。
というか、俺がそうさせない様にしていた。
男神と俺の体格差を考えたら、持ち上げたら多分力尽きて潰れる。
例外もあるが、虎人である俺の身体は無駄にでかい。
男神もそのぐらいはわかっているだろうに、それでも一生懸命だった。
何度か投げようと力を入れて、次第に力が弱まるとその腕を掴む。
「先輩……」
「休憩だ男神」
荒く息を吐いた男神が一度離れると、ゆっくりと頷く。
その身体がふらついて、俺の方へと倒れてくる。
「男神!」
大声に我に返った男神が、慌てて手を上げて俺の胸に当てる。
「すみません、鈴先輩……」
元に戻ろうとするが、力が入らないのか男神は動かなかった。
その身体を引いて、俺はその場に座り込む。
「しっかりしろ。……ごめん、少し無理だったか」
休憩を挟んでいたとはいえ、今日は少し練習量が多かった。
男神の身体の事を俺自身がまだ理解できていないせいもあるのだろう。
反省しつつ、男神の身体を預かり背中を何度も撫で、楽な様にする。
胸の中で、時折男神は魘された様に謝罪をぽつりぽつりと零しては、俺の胴着を悔しそうに掴んでいた。
「今日はここまでだ。落ち着いたら、着替えて帰るぞ」
しばらくはこの稽古も休みにして、男神の様子を見た方がいいだろう。
考え事に耽っていると、男神が俺をじっと見つめている事に気づく。
「どうした、立てるか?」
「あ、はい」
男神が視線を逸らして、俺から慌てて離れる。
「一応、様子を見たいから明日の稽古は無しだ。いいな」
「はい……」
沈みきった男神の声。
声だけじゃない。その全身が感情を如実に表して、俺はどうにも居心地が悪くなってしまう。
やれやれと思いながら、手を伸ばすとその頭を撫で回す。
「まあ、頑張った方だな」
褒めるよりは慰める様な扱い方に、地雷を踏んでやいないかと心配するも、
撫で続けていると胴着からはみ出した男神の尻尾が次第に振られていく。
着替えを済ませると、その日はそれで男神とは別れた。
次の日から、だったのだろうか。
それから男神の俺に対する態度は、どうにも余所余所しくなった。
避けられている訳ではないのだが、以前は笑顔で俺の後をついてきた男神が、
今は少し遠くから寂しそうに俺を見ているだけになった。
突然の態度の変化に俺は戸惑うばかりで、結局それきり男神との稽古もしなくなる。
そんな日々が一週間程続いた頃だった。
「鈴先輩!」
部活動を終え、着替えを済ませて外に出ると男神に声を掛けられる。
「どうした、男神」
突然声を掛けられて俺は戸惑う。
余所余所しく振る舞われて、最近では俺の方が男神と顔を合わせるのが気まずくなっていた。
とはいえ、入部を勧めて面倒を見る事を引き受けたのは俺なのだから、まったく話をしない訳でもなかったが。
「今日、お邪魔してもいいですか?」
「俺の家か? ……いいけど」
内心、ちょっと驚いていた。
この間無理をさせ過ぎて、俺の事が嫌になったのかも知れないとずっと思っていたんだ。
当たり前の事だが、俺は男神のすべてを理解してやれない。
男神が俺を嫌だと言うのなら、それも仕方のない事だと、そう諦めていた。
校門でそんな事を考えながら、着替えを済ませて出てきた男神と揃って帰路に着く。
「お邪魔します」
家に上げると、男神は家の中を見渡した。
「今日は誰も居ないからな」
「そうなんですか」
それぞれに用事があって、今日の俺は一人だった。
男神にとってはどちらでも構わないのだろうが、俺の言葉で男神は少し息を呑んだ様な仕草をする。
部屋に案内すると、殺風景な室内に鞄を放り投げる。
物に執着が無いせいか、俺の部屋は自分でも驚く程何も無い。
ベッドと机と箪笥、あとは買い換えて不要になり俺の所に来た小さめのテレビが置いてあるだけだ。
そのテレビの前に置いてあるゲーム機は男神の物で、運動を制限される男神はこういった物はよく買い与えられるのか、
時折俺の部屋に遊びに来た時に一緒に遊べる様にこうして置きっ放しにしてあった。
「どうぞ」
部屋に待たせていた男神に飲み物を届ける。
男神はそれを受け取り、軽く尻尾を振っていた。
お互いに無言のまま時間だけが過ぎていく。
「今日は……どうかしたのか?」
うまい話が見つからなくて、俺は空になったコップを机に戻して問い掛ける。
同じ様にコップを置いた男神が、俺を見つめた。
「えっと、その」
目が合うと、露骨に視線を逸らされる。
何が言いたいのかわからない俺は、仕方なく同じ様に視線を泳がせて、ふとゲーム機の存在に気づく。
「ああ、ゲームなら返すぞ」
もし男神が俺の事を嫌いになって、縁を切りたいのならそういう事だろうと思い気を利かせて俺は先に言う。
「ち、違います。そうじゃなくて」
「じゃあ、なんだ?」
男神の言葉にちょっとだけ安心する。少なくとも、完全に嫌われてはいないみたいだ。
そして俺は再度問い掛ける。
「その……」
俯いた男神の声はどんどん小さくなる。
聞き逃さない様に、俺は身を乗り出した。
「せっ、整体させてくれませんか」
「え?」
突然の事に俺は口を開けて固まるが、数秒後に元に戻る。
「俺、運動は駄目だからどうにか役に立てないかなって、それで……ちょっと勉強したんです」
もしかして、それのせいで最近付き合いが悪かったのだろうか。
勝手に男神の事を決めつけていた自分に、反省をしながらも俺は嬉しくなった。
よかった。嫌われてなかった。
「ああ、それなら頼む男神。服は脱いだ方がいいか?」
男神が、ゆっくりと頷く。
それで、上半身裸になった俺は半裸のままベッドにうつ伏せになる。
「失礼します」
男神がゆっくりと俺の上に跨る。
横からだとどうにもばらつくし、壁際にベッドがあるからと俺は納得して男神の様子を見守っていた。
「まだ慣れていないので、指で押すだけにしますね」
「ああ」
男神の掌が俺の身体を弄る様に動く。
僅かな刺激に、くすぐったくて俺は身を震わせる。
獣毛を掻き分けて進む掌は、時に優しく、それでも探る時は擦りつける様に俺を撫ぜる。
「先にシャワー浴びといた方がよかったか? 汗臭いよな……」
「大丈夫です。鈴先輩なら」
男神の掌が引くと、次に指が当てられてゆっくりと押してくる。
「……ん…………」
固まっている所がわかるのか、心地好くて思わず俺は声を漏らす。
「痛いですか?」
「いや、平気……なんか、気持ちいい」
背中から始まった手の動きは、少しずつ動いて投げ出した俺の四肢に移っていく。
時折少しだけ痛く、それでもやっぱり心地好いその感触に俺は微睡んだ。
「終わりました」
眠りかけていた頃、男神の声が聞こえて我に返る。
起き上がろうとすると男神が慌ててベッドから下りる。
身体を起こすと、重みから解放されたベッドが文句を言う様に軋んだ。
「結構違うもんなんだな」
腕を伸ばして身体の調子を探る。
文字通り夢の様な時間だった。もう少し続いていたら寝てたかも知れない。
「また頼む」
すっきりして俺は笑い掛けるが、男神の顔を見て笑顔が凍りつく。
さっきまでと変わらず俯いていた男神の頬に、今は涙が伝っていた。
「ど、どうした? 男神」
「ごめんなさい、鈴先輩」
「気持ちよかったぞ?」
何か失敗でもしたのかと、もう一度身体の状態を確かめるがどこも悪い所はなかった。
むしろ、少し軽くなった様な気さえする。
俺の言葉を聞いても、男神の涙は止まらなかった。
「……好きなんです」
どうしたらいいのかわからなくて戸惑うばかりの俺の耳に、男神の声が届く。
「男神?」
「好きなんです、俺……鈴先輩が」
「え? 好き?」
突然の事に間抜けな声を上げてから、たっぷり十数秒俺は思考に耽る。
冗談じゃないかと男神を見つめるが、涙を流しながら俺の事を寂しげに見るその表情はちっとも嘘っぽくなんかなかった。
そのまま数分立ち尽くした後、男神はまた謝ると帰っていった。
震える男神の身体を抱き締めるのは、きっと簡単な事だっただろう。だけど、俺はそうする事ができなかった。
男神の事を好きなのか、俺自身よくわからなかった。
一人になって、ベッドに乱暴に身を投げ出して考える。
男同士で好き合う奴も居る事は当然知ってたが、いざ目の当たりにすると言葉が出なかった。
男神を嫌いじゃない事だけは確かだった。嫌われていないのだとわかった時、俺は嬉しかったのだから。
きっと好きなんだろう。けれど、それは後輩としての意味だ。
男神の態度を見れば、そんな程度の気持ちじゃない事は理解できた。
「男神……」
身体を横に向けて腕を投げ出す。
軽くなった身体が、今一人になった俺にさっきまで男神が居てくれた事を嫌って程伝えてくれた。
柔道部に男神が来なくなって数日が過ぎた。
一年の部員に訊いてみたが、学校には来ているみたいで、避けられてるのがよくわかった。
部長は独りになった俺を見ても、何も言わない。
部長だけじゃない。皆、何も言わなかった。
それで思い知ったんだ。男神との繋がりは、俺があって初めて皆と繋がっていた事に。
俺の行動の結果で、男神は今までここに居てくれたんだ。
けれど、だからと言って告白をされてそれをそのまま受けたくはなかった。
男神みたいな優しい奴には、その場で繕えてもいつか知られて、もっと大きな傷をつけてしまいそうだったから。
だったら今の内に突き放した方が良かった。
その方が、良かったんだ。そう思う事にした。
でも、何故だろうか。男神が居てくれた時間は短かったのに、それが無くなって俺は釈然としない気持ちを抱えていた。
稽古を終えて、顔を洗う。
夏の暑さは徐々に姿を現しはじめて、こうして何度も濡らさないと辛い物があった。
水を止めて頭を上げると、乱暴に腕で顔を拭う。
傾いた夕陽が眩しい夏の午後だった。
一頻り、猫が顔を洗うみたいに水を拭ってから俺は溜め息を吐く。
「あ……」
声が聞こえて振り向いた。
数日顔を合わせていなかった男神が、夕陽の中に立っていた。
青空の色をした男神が夕陽に照らされていると、なんだか妙な気分になる。
「男神!」
無言のまま見つめていると、何を思ったのか男神は走って逃げ出してしまう。
逃げる男神を呼んで、俺は慌ててそれを追った。
追いつくのは簡単だった。男神の身体を考えたら、長距離を走る事なんてできやしない。
それより、俺が追うのを止めた方がいいのかも知れなかった。そうすれば、男神は走らずに済むのだから。
わかっていても、俺は足を止められなかった。
腕を掴んで振り向かせる。目尻にあるのは、やっぱり涙。
勢いに逆らう様に引いたせいで、男神は俺の胸へと倒れる。
あの時と同じ様に息を荒らげた男神が、あの時とは違って必死に俺から離れようとする。
暴れるために突き出された腕も掴んで男神を押さえると、その顔色を窺った。
「男神」
怯えた瞳をした男神を抱き締めて、落ち着ける様に背中を撫でる。
「……離してください」
消え入りそうな程、弱々しい男神の声が聞こえた。
「逃げないならな」
男神は何も言わない。
「男神……もう、柔道部には来てくれないのか」
抱き締めた身体が跳ねて、胴着を強く握り締める。
遠くで部活動に勤しむ誰かの声が聞こえた。
「鈴先輩は俺の事……嫌じゃ、ないんですか」
「……わからない」
本当にわからなかった。俺は、男神をどうしたいのたろうか。
「俺、嬉しかったんです。鈴先輩が、俺を柔道部に入れてくれた事。
嬉しくて、嬉しくて……最初は、それだけだったのに」
男神が顔を伏せる。表情が隠れても、零れ落ちる涙だけは見えた。
「鈴先輩は優しくて、俺の事を……ちゃんと、後輩として見てくれて、それだけでよかったのに。
……我慢しなくちゃ、いけない事なのに」
すすり泣く様な男神の声が聞こえる。
ともすれば、遠くにある誰かの声よりも小さく聞こえるはずのこの声が、今は耳に一番響いていた。
「好きなんです、先輩。ごめんなさい。……ごめんなさい」
壊れた様に男神は謝り続けていた。
俺が溜め息を吐くと、またその身体が跳ねる。
「男神……俺には、お前の気持ちはわからない」
男神は頷く。
「お前に告白されたって、俺は、お前を後輩として見続けたまんまだ」
「……それでいいんです。我儘言ってるのは、俺なんですから。俺が、我慢できなくなっただけです」
「だから、男神」
言葉を切って俺はじっくりと思い出す。男神が見えたら、言おうとしていた事。
「お前が俺の事を好きなら、俺が、お前を好きになれる様にしてくれないか」
「……え?」
顔を上げて見えた男神の表情は、目を見開いていて、何を言っているのかわからないと言われた様な気がした。
「さっきも言った通り、わからないんだ。お前に告白されたのは……その、嫌じゃなかった。
でも、好きなのかって訊かれると、やっぱりわからない。きっと、お前が俺に想ってる様な気持ちは無いんだろう」
段々としどろもどろになる俺の言葉。
「でもな……お前が来てくれないと、なんだか寂しいんだ。すごく、寂しい」
ずっと胸の中にあった物、それは、寂しさだった。
どうしてそう思うのか。それもわからなくて、男神が居ない事がただ寂しかった。
「ごめん、半端なのは俺の方だな。お前は、一生懸命告白してくれたのにな」
抵抗する事のなくなった男神の身体を、今度はしっかりと抱き寄せる。
「男神……一緒に、居てくれないか」
男神は何度も頷いてくれた。
男神を連れて、自分の家へと戻ってきた。
用事があるとは聞いてなかったけれど、今日も家には誰も居なかった。
部屋に招き入れた男神と、ベッドの上で互いに上着を脱いで半裸のまま抱き合う。
「キス……した方が、いいのか」
俺の言葉に、男神は照れた様に視線を逸らしてしまう。
それでもその尻尾は、いつも笑っていた時の様に暴れていた。
「男神」
呼ぶと、ゆっくりと男神は顔を向ける。
目を閉じて、そっと顔を寄せると軽く触れるだけの口づけをした。
一度唇が触れ合うと、男神は積極的に俺に身体を擦りつけてくる。
俺が男神の事を好きになれる様に、男神の掌が俺の身体を撫ぜる。
触れて貰うのはくすぐったくて、でも嫌じゃなかった。
「鈴先輩……」
男神が俺のズボン越しに触れてくる。
軽い刺激を少しずつ加えられて、徐々に俺の物が硬くなっていく。
互いにズボンも脱ぐと、勃起しているのがパンツ越しでもわかって俺は恥ずかしくなる。
「み、見ないでくれ男神」
俺自身、目を瞑って男神を見ない様にしながら必死に声を絞り出す。
「大丈夫です、鈴先輩」
俺を安心させる様に男神の優しげな声が聞こえる。
「あっ」
突然の刺激に、俺は声を上げ驚いて目を開く。
男神の掌が布越しに触れて、俺の物を擦っていた。
男神の行動に俺は完全に混乱してしまう。こんな風に男神と触れ合うなんて、思ってもみなかった。
助けを求める様に男神を見つめると、男神の物も微かに震えているのが見えた。
咄嗟に俺はそれに手を伸ばす。
「うぁっ、先輩……」
声を上げた男神が、力を強める。
そうやって少しずつ、互いの手に籠める力が増していく。
息を弾ませる頃には、染みができていて俺達は見つめ合っていた。
「うわぁ……鈴先輩の、すごい……」
パンツを脱がされ、晒された俺自身を見て、男神はそう言う。
「見ないでくれ……」
恥ずかしくて、恥ずかしくて。俺はただ頼み込む様に言葉を口にする。
「俺も脱ぎますから、先輩」
そう言って、男神も裸になる。
男神のは、俺と違ってまだ皮を被っていて、ピンク色の物が僅かに見えるだけだった。
男神が手を伸ばして俺の物に触れる。
「あっ、男神っ、だっ、駄目だっ、あぁっ」
情けない声を上げながら、俺の物から白い液体が飛び出す。
男神の手の中に次から次へと吐き出して、溢れた物がぽたぽたと音を立てて布団を汚した。
普段はあまりしないし、ここ最近は男神の事でそんな気分でもなかったから、我慢なんてできなかった。
格好悪い俺を見てほしくなくて、いつの間にか浮かんでいた涙が零れる。
「先輩、俺のも……してくれますか」
息も絶え絶えの俺に男神が声を掛けてくる。
既に思考もぼやけていた俺は、ただ頷いてそっと男神の物に触れた。
指先に、ぬるっとした感触が届くと男神が気持ち良さそうに呻く。
俺に興奮しているんだと思うと、やっぱり恥ずかしくなった。
にこりと笑ってから、男神は手を動かす。
「あぁぁっ、男神!」
一度吐き出したのに、べとべとの男神の手が触れるだけで俺はまた大きくなっていた。
直接触れられる強い刺激に声を上げる。
「鈴先輩!」
力の調節が利かなくて乱暴に男神の物を扱くと、男神も似た様な声を上げる。
「男神、男神ぃ……」
与えられる快感に声を上げながら、もっと欲しくて男神を呼ぶ。
「鈴先輩、俺の名前呼んでください。先輩……」
「優……もっと、したい」
強く扱ける様に身体を擦りつけ合い、乱暴に愛撫する。
「優! 俺、もう……うぅっ」
「先輩、鈴介先輩……」
男神が顔を寄せてくる。
キスの合図だと受け取ると、俺は我武者羅に顔を押し付けた。
唇を塞いで呻き声だけになると、水音だけが聞こえて更に興奮を煽る。
「んっ、んんっ」
くぐもった声を漏らして、ほとんど同時に射精をする。
俺の手は男神で、男神の手は俺の吐き出した物で白く汚れていく。
勢いが治まるまで、苦しくなっても唇を合わせたまま俺達は身を寄せ合っていた。
汚れを拭き取ると、服を着てから一緒に横になる。
「大丈夫ですか? 鈴先輩」
「ん……なんとか」
「ごめんなさい。俺、我慢できなくて」
しゅんとしてしまった男神の頭を、いつもの様に撫でる。
「大丈夫だ。……また、しような」
そう言うと、男神はやっと笑ってくれた。
早朝の清々しい空気の中、息を弾ませて俺は振り返った。
早起きの蝉の鳴く声が、一つ二つ聞こえる。
「男神、大丈夫か」
「は、はい!」
夏休みに入ると、俺は男神を早朝のトレーニングに誘っていた。
うだる様な暑さもこの時間なら大分和らぎ、男神の体力をつけるのにも丁度良かった。
勿論、男神の身体の事はそんな簡単にどうにかなる様なもんじゃない。
それでも最低限の体力くらいはつけてもらおうと思った。
男神の家まで走って迎えに行き、合流すると今度は少し速度を落としてジョギングをする。
「もう少ししたら合宿もある。それまでに、少しは体力つけないとな」
立ち寄った公園で一休みしながら話をする。
男神は参加しなくてもいいんだが、本人の性格からして参加したがるだろう。
俺の考えを理解している男神は、辛そうにしながらも一生懸命俺についてきた。
「鈴先輩……ありがとうございます」
不意に、男神がそんな事を言った。
「なんだ、藪から棒に」
「色々です。柔道部に入れてくれた事、俺と一緒に居てくれる事……」
首から下げたタオルで汗を拭きながら、男神は俺をじっと見つめる。
「今まで、俺は身体の事もあって仲間はずれにされてばかりでした。
自分でも仕方ない事だって思ってました。鈴先輩だけが、俺の事を受け入れてくれたんです」
「……男神」
仕方ない。そう言われたら、確かにそうだった。
何かあってからではすべてが遅いんだ。
俺がしている事も正しいのか、本当はわからなかった。
「俺が鈴先輩の事を好きになったのは、きっとそれがあったからなんです。
鈴先輩にしてみたら、迷惑な話ですが」
「迷惑じゃない。俺は、迷惑だと思った事はないぞ」
「……やっぱり鈴先輩、素敵ですね」
真顔で言われて、俺は今更照れが込み上げてくる。
「き、休憩はもう終わりだからな。行くぞ」
「はい」
照れ隠しは、きっとバレバレだったんだろう。男神の笑い声が聞こえた。
どうにも気恥かしくて、俺は走り出してしまう。
「先輩、待ってくださいよー」
息を弾ませた男神が俺を呼ぶ。
それでやっと俺は立ち止まった。
少しふらついた男神が俺の元へやってくる。やっぱり、まだちょっと辛いみたいだ。
戻ろうと足を踏み出すと、男神の身体が道路の真ん中でがくんと崩れ落ちる。
それとほぼ同じ瞬間に、不意にけたたましいエンジン音が聞こえた。
「男神!」
聞き間違えていなければ、男神の方からだ。
俺は慌てて走り出して、男神の前に躍り出した。
音のする方を見れば、こちらに向かってくるトラックが瞳に飛び込んできた。
「鈴先輩……鈴先輩!」
一瞬で景色が切り変わり、気づくと俺は男神に見下ろされていた。
「鈴先輩……」
男神がぼろぼろと涙を流しながら俺を呼ぶ。
いつもの様に手を伸ばそうとして、腕が上がらない事に気づいた。
腕だけじゃなかった。身体が、やけに熱い。
「……男神…………」
どうにか開く口で、男神を呼んだ。
何が起こったのか理解できず、だけど、泣いている男神が嫌で俺は何度も男神を呼ぶ。
「先輩、俺……人呼んできます。救急車、呼ばなくちゃ」
男神が立ち上がろうとする。
動かなかった俺の腕が動いた。
男神の服を掴むと、必死に手繰り寄せようとする。
今、男神に行ってほしくなかった。
熱が徐々に痛みに変わっていく。
痛くて、痛くて、助けてほしくて。
でも、もう駄目なんだって。そう思ったら、男神にどこにも行ってほしくなかったんだ。
俺の必死の行動に、男神は動く事を止める。
一生懸命手を伸ばして頬に触れた。
男神の頬が、俺に触れられて汚れる。
「先輩……死なないで。俺を独りにしないで。先輩……鈴先輩……」
「男神……」
辛いのは、俺だけじゃないんだ。男神だって、きっと辛い。
これから、男神はまた一人ぼっちになっちまうんだ。
「……ごめんな……男神、ごめん……」
遠くからざわめきが聞こえる。
男神の悲鳴を聞きつけて誰かが来たんだろう。
蝉の声がざわめきに混じって消える。
男神の声も、その内ざわめきになって俺から遠く離れていった。