
ヨコアナ
1.詩歌いの受難
風に遊ばれて、白色の頭髪が宙を舞う。腕の皮毛の一本一本が風に弄ばれる様を、男はしばらく黙然と見つめていた。
乱れた髪を指で梳き吐いた溜め息は、同じく吹いた風に掻き消され虚空に消えてゆく。
頭上では風に乗った鳥達が、ぐずぐずしている自分を置いて遠くの空へ羽撃いてゆくのが見えた。
自分に翼があったら。と、叶いもしない願いを胸で呟く。
「おい、ちんたら歩いてんじゃねーぞ」
「分かってますよぅ……」
悄然としていたところで声が掛けられる。再度盛大な溜め息を吐く虎人の表情は絶望に包まれていた。顔を上げれば、
こちらをねめつける様に見ている蜥蜴人の姿が見える。緑と黄土色の肌に、少し緩めの、深緑色をしたズボン。それとは対照的に、身体の線がくっきりと
見えるシャツ。更に上着を羽織った、若々しい男だった。
体躯は逞しく、自分よりも背が高い。剥きだしの腕には隆々と筋肉が張り、しかし同時にしなやかさも持っていた。戦いの中で
生きてきた事を、言葉よりも雄弁にその肉体は語っていた。
しかし何よりも人目を引くのは、頭頂部から生えた赤髪である。長く美しい、深紅の髪。それは先程風で遊ばれていた
自分の皮毛と同じ様に風を受けると、乱されて、広がる。赤い羽を持つ鳥の様にしばらく揺れてから、そっと翼を休めて大人しくなった。
その優雅な髪の動きとは裏腹に、その瞳は傲岸さと酷薄な色を滲ませてこちらを見つめている。
「リュウメイさん、少し休みませんか?」
「なんだ、またかお前」
「し、仕方ないじゃないですか。私はあなたと違うんですよ、身体の出来が」
リュウメイと呼んだ相手が舌打ちをする。心の底から呆れた様な顔をされて、思わず虎人は言い返してしまう。
「しゃあねぇなぁ。もう少し歩いたら宿場があるそうだから、そこまで我慢しろ」
リュウメイの言葉に、虎はほっとする。空を見上げて、昇る太陽を見つめた。
「早くしろ、ガルジア」
急かされて、白虎の青年、ガルジアは早足でリュウメイの後を追う。
宿場に着くと、ガルジアは大きく伸びをし、それから乾いた喉を潤すために注文を済ませる。
耳を欹てて辺りに気を配り、自分と同じ様に寛ぐ客をそわそわと見つめた。
忙しなく注文を運ぶ給仕の様子をしげしげと観察しては、その動作の一つ一つに感嘆する。
「さっきまで死にそうだった癖に、現金な奴だなおめーは」
「それはそれ、これはこれ。ですよ」
リュウメイからの指摘に、少し恥らいながらも咳払いを一つしてガルジアは一蹴する。
外を知らない自分にとって、こうした景色の一つ一つが新鮮なのだ。それを隠せと言われても、
好奇心には勝てずに居た。しばらくそうしてから気が済むと、ガルジアはそっと、卓の向かい側で
寡黙にこちらを見つめているリュウメイの視線に気づいて、居心地の悪さを覚える。
「……あの、リュウメイさん」
「なんだよ」
注文が届くまでの間、無言の時が過ぎる。耐えられなくなったのはガルジアの方で、視線が合うと黙ったまま
肘をついて、そっぽを向いていたリュウメイに声を掛ける。
金色の瞳に見つめられて、ガルジアは思わず身を硬くする。こうして見つめられるだけで、怖いと思う。鍛え上げられた
肉体もそうだが、人相の悪い男である。その人相の悪さが、リュウメイの迫力に拍車を掛けては、こうして穏やかに話を
しようとするガルジアを邪魔していた。冷や汗が流れるのを感じて、なるたけ笑顔を貼り付けてガルジアは切り出す。
「借金の件についてなんですが」
「ああ、金貨百枚な」
「……もうちょっと、負けてくれません?」
「あぁ?」
ガルジアの言葉を聞いた途端、リュウメイの瞳が鈍く輝き鋭さを増す。逆立つ様に生えた赤の頭髪が
一層大きく見え、思わずガルジアは小さく悲鳴を漏らす。旅をして様々な人を見はしたものの、ここまで眼光の鋭い男は初めてだった。
人相の悪さも相当だが、付随している赤髪や、自分とは違って皮毛の少ないその肌もまた、ガルジアを怯えさせる原因になっている。
それでも食って掛かろうと、勇気を振り絞って握り拳を作ってガルジアは上半身を前のめりにする。
「だ、だって。いくらなんでも高すぎます。私は金貨一枚しか使ってな……」
「それは助けてやった分の上乗せだ。あのまま売り飛ばされちまった方が良かったのかよ? 修道士さんよぉ」
「それは、そうですけど……」
リュウメイに威圧されて、ガルジアは更に身体を縮こめる。このやり取りも、既に何度か繰り返した事だ。
事の発端は、七日程前だった。
修道士であるガルジアは、修道院から修道院、または教会へ渡り手荷物や言伝を運ぶ仕事をしていた。
随分と遠くまで来て、ようやく勤めを果たし元居た修道院へ帰ろうとした時に、事件は起きた。
路銀は充分に余っていたから、少しだけと、いつもは手が出ない高級宿に泊まったのだった。
普段の宿と比べると、外観からして造りは凝っていたし、建物の大きさもいつものとそれの二周りは大きかった。
調度品の一つ一つを見てはうっとりとし、そんな高級宿で心行くまで接待を受け、
満足気に眠りについたその夜に盗人の被害に遭い、代金を払う前に全財産を盗まれてしまったのである。
また盗人の手口が巧妙で、部屋を全く荒らさずに宿泊客の中からガルジアの金だけを盗んでいったせいで、
盗まれたと言っても信用してもらえず、身の上を案じていたところに、この蜥蜴人の男、リュウメイが現れたのだ。
リュウメイはガルジアの代金を肩代わりする見返りに、その身柄を引き取ったのである。
当初ガルジアは見ず知らずの自分を助けてくれたリュウメイに、大きな感動と感謝をもって接していた。
あのままでは、リュウメイの言う通りどこへ売り飛ばされていたのか、見当もつかなかったのだから。
しかしその尊敬の眼差しも、一日行動を共にすれば軽蔑へと変わっていた。
有り体に言えば、リュウメイは血も涙もない男なのであった。
助けられたガルジアが、修道院に戻った際は立て替えてくれた分を払いたいと告げると、助けたのだから百倍払えと言い、
更には払えない間は自分が行きたい場所を通ると、修道院に向かう事さえ許してはくれなかった。
これでは、ガルジアに返済の目処は立ちようも無かった。
それで、今は渋々とリュウメイに付いて回っているところだった。幸い届け物は済ませたから、多少外出が
長引こうが問題はなかったが、不安だった。
「それで、一日の返済なんですが」
いくらなんでもあんまりだ、と言ったのはつい昨日の事で。
そう言ったガルジアに不敵な笑みを浮かべたリュウメイは、奉仕してくれた分だけ借金から減らすと言い放ったのだ。
正直に言えば、ガルジアは逃げ出したかった。しかし端くれとはいえ修道士であり、神を信仰する者である。
そんな事をして修道院に帰る訳にもいかなかった。事実だけを拾い上げれば、リュウメイは紛れもなく恩人なのである。
「今、私は一日いくら払っている状況なんですか?」
「銅貨一枚」
「どっ、銅貨一枚ぃ!?」
思わず叫んでしまったガルジアに、周囲から奇異の目が注がれる。慌てて四方八方に頭を下げると、俯く。
頭の中では銅貨一枚が駆け巡り、すっかり混乱していた。
「リュウメイさん、銅貨一枚って……本気なんですか?」
「ああ、本気だ」
「銅貨十五枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚なんですよ?」
「餓鬼じゃあるめぇ、知ってるわんなもん」
「銅貨一枚って、子供がおつかいするだけでもあと一枚くらい貰えると思いますよ?」
「だがてめぇの働きは銅貨一枚だ」
「そ、そんなっ!」
恥も外聞も捨てて、ガルジアは卓の上に両手を立てて身を乗り出す。そんな自分の様子を、
リュウメイはただ愉快そうに見つめ、口の端を吊り上げて卑しく笑っていた。素行の悪い者特有の、不快感を覚える不適な笑みだった。
「よーく考えてみろ、ガルジア。お前、俺の後付いて回っては疲れただの休みたいだの言ってるだけだろ」
「それはそうですけど。に、荷物持ちくらいはっ」
「持たせたら歩くのがおせーから大して持ってねーじゃねーか」
「で、でもっ……銅貨一枚だなんて、そんなのあんまりです」
「てめぇの食費に、街や宿場に寄ったら宿代。それらを俺が全部負担してやってるのに、銅貨一枚恵んでもらってるのは不服か?
注文下げるか? その分上乗せてやってもいいんだぜ? なんならそこら辺で狩りでもしてみるか? 修道院暮らしの
箱入りちゃんだと、新鮮な臭ぇ肉なんて食ったら吐いちまうかもなぁ?」
「……い、いえ。遠慮します」
「最初からそうしろよ」
止めの言葉に、ガルジアの目尻に涙が浮かぶ。こんなのは、酷いと思う。
しかし逃げ出す事はやはり躊躇われた。実際の貸しは金貨一枚とはいえ、貸しは貸しだった。
一日銅貨一枚。借金は金貨百枚。生きている間には払えそうにもなかった。せめて金貨一枚でもと思うが、それでも結構な時が掛かるのだった。
そんなガルジアの様子を見て、リュウメイが笑い声を上げる。。蜥蜴の裂け目の広い口は、それだけで獲物を狙う狩人の様だった。
「もっとも、他の返済方法が無いとは言わねぇ」
笑い声が止むと同時に、その瞳が妖しく光り、言葉が続いた。
「ほ、本当ですか?」
「ああ、本当だ」
そう言うとリュウメイは卓に身を乗り出していたガルジアの肩を掴み、舌なめずりをしながら見つめてくる。
「そうだな、お前が昼だけじゃなくて、夜のお供もしてくれるんなら、弾んでもいいぜ」
「夜?」
リュウメイの言葉に、しばしガルジアは考え込む。意図を理解すると、慌てて身を引いて、席を立った。
「なっ……あ、あなた、まさか。お、男を……」
「じゃなかったらお前みたいな間抜け、引き取る訳ねーだろ。なんの取り得も無さそうだしな」
全身から血の気が引く。握り締めた拳がぶるぶると震える。思わず怒鳴りそうになって、しかしまだ
宿場に居るのだと気づきガルジアは必死に自分を抑える。
脂汗を掻きながら口をぱくぱくとさせていると、またリュウメイが笑った。
「ご注文お待たせしました」
丁度その時になって注文が届けられ、仕方なくガルジアも席に戻り飲み物を喉に通す。歩き通しだった身体に水分が
浸潤してゆく。冷たい液体の通る快い刺激に、心地良く息を吐き出した。やはりこれを下げるという選択をする事は
出来そうにない。一頻り喉を潤し、思考を廻らせてからガルジアはリュウメイに顔を寄せる。
「リュウメイさん。私は、その……偏見はありませんが、それでも神を信仰する身です。
同性愛というのは、ちょっと。そんな……男同士でだなんて」
「あん? そういう慰み者になる奴が居るんじゃねぇのか、修道院って所は」
「ち、違いますよ! なんて事言うんですか!」
仰天しながらも、返事をするガルジアの声は潜められていた。流石に、こんな話を公に聞こえる様にする程自分を見失ってはいない。
「あんな女っ気の無いムサい所で、マジで無いとでも思ってんのかお前?」
「少なくとも私は知りませんっ! 他の人だって、そんな事しないはずです」
「まあ、それはいい。そうだな、てめぇの身体なら……反応次第だが」
そう言って再びじろじろとリュウメイが見つめてくる。恥ずかしくなって、ガルジアは思わず腕で身体を隠そうとする。
こういう視線は初めてではなかった。旅先で出会った者の中にも、今のリュウメイの様に品定めをするかの様な瞳で
自分を見る者は居たのである。しかし、リュウメイの様に直接的な態度で来た者は、初めてだった。
怯えている心に反応して知らずに溢れてきた涙を湛えながらリュウメイを見つめると、リュウメイが
舌なめずりをしているのに気づいて、ただ顔を逸らした。
「一晩金貨一枚だな」
「えっ、そんなに?」
あまりの金額に、思わず顔を上げてしまう。待ってましたと言わんばかりに、好色そうな顔がそれを迎える。
「お、やる気か」
「……嫌です。痛そうだし」
一度で済むのなら、或いはガルジアも考えないでもなかったが、一晩で金貨一枚では百夜はその相手をしなければならない。
自分にそれだけの価値がある事に驚きはしたが、とても現実的ではなかった。
「まあいい。気が向いたらいつでも相手してやるよ。そろそろ行くぞ」
「えっ、もうですか? というより、今日はここまでにしません?」
提案と同時に、リュウメイの鋭い視線が飛んでくる。それに耐えて、ガルジアは必死に腕を上げて少し離れた建物を指し示す。
「ほら、ここは宿場ですから、宿もある事ですし。ここの二階だって、そうみたいですよ」
「てめぇ、まだ陽が傾いてもいねえんだぞ」
足が痛い、とは流石にガルジアも言えなかった。ここ七日程はリュウメイに連れられて、歩き通しなのである。
旅に慣れているリュウメイは何事も無いのだろうが、自分にとっては死活問題だった。起床して最初に床に足を着けた
時に走る激痛が、ガルジアには憂鬱だった。
「ははぁ、それともあれか」
急に嫌らしい声をリュウメイは上げる。瞳を細めると、残った僅かな金色の面積が鈍く光る。
「早速金貨一枚取りに来たって事か」
「えっ」
「いいぜ。お前がそうしたいんなら、今日は宿に泊まろうじゃねぇか。飯も良いもん頼んでやる、奢りでな。
身体も綺麗にしないといけねぇから、一番良い宿に」
「ご心配お掛けしました、もう大丈夫です。先を急ぎましょう!」
慌てて立ち上がると、ガルジアは駆け足で店を飛び出す。会計を済ませたリュウメイが遅れてやってきた。
「そんなに嫌がらなくてもいいだろ。別に取って食いやしねぇよ」
「……信用できません」
思い返せば、自分が身体を洗おうとするとよくリュウメイが傍に寄ってきた気がする。
自分が逃げないために監視しているのだろうと当初は思っていたのだが、リュウメイの狙いを聞いた今となっては気味が悪かった。
純白に、やや薄い縞の模様で彩られた尻尾を小刻みに震わせ、皮毛を逆立てながらガルジアは必死に距離を取る。
それを見たリュウメイは面白がってやたらとくっついてくるのだから、ガルジアは神経をすり減らしながら歩き続ける他なかった。
遠くの景色に霞が掛かる。それを見てガルジアは眉間に皺を寄せていた。
振り返っても似たような景色が広がっている。今歩いてきたはずの道なのに、とてもそうだとは思えない程だった。
「リュウメイさん、道は大丈夫なのでしょうか」
足元すら既にぼやけて見えるのに気づき、不安そうにガルジアは声を上げる。
先程まで執拗に絡んではからかってきていたリュウメイも、今は霧を見て考える様な表情をしていた。
纏わりつく様な霧は、手で払っても晴れる事はなく、一層ガルジアを包み込もうと濃くなっている様な気がした。
「お前、何か感じるか」
「え? すみません、私は生憎霊感は」
「魔力の方だ」
いきなり振られたので、てっきり霊の事かとガルジアは思ったが、リュウメイが聞きたいのはそうではない様で、
言われて目を閉じると辺りに気を配る。遠くで僅かに震える様な気配がちらついた。しかし、それ以上の事は分からない。
「ぼんやりと。でも、酷く弱いですねこれは」
普段ならば気にも留めない様な力の流れだった。それこそ、修道院に居た頃自分が目にしていた物と比べれば、
取るに足らない程の力である。
「このくらいなら私はよく……リュウメイさん?」
目を開くと、視界からリュウメイの姿は消え去っていた。それどころか、先程よりも更に霧が濃くなっている。
慌てて足元を確認しようとするが、足元どころか、自分の胴体ですら上手く見えない程の濃霧に変化していた。
思わずぞくりとした感覚が背中を走る。白色に包まれた幻想的な世界で、自分は今一人なのである。
「りゅ、リュウメイさん!」
声を上げるが、それに返事はない。途端に言い知れぬ恐怖にガルジアは包まれた。
街道沿いに歩いていたとはいえ、今はその道すら視認するのが困難な状況だ。
こんな場所で、ただ一人。霧が晴れるまで立ち竦む事が、自分に出来るのだろうか。
遠くから僅かな物音が聞こえてびくりと身を振るわせる。野犬でも居るのだろうか。道の前後の把握も困難となった今
となっては、平時なら恐れる必要のないものですら、脅威になる。視覚を奪われたガルジアとは違って、野生の血が
濃い者達は、その嗅覚と聴覚をもって、獲物を見つけ出す事は容易いのだから。
そう思っていた矢先に突然腕を掴まれ、ぐいと引っ張られる。思わずガルジアは悲鳴を上げた。
体勢を崩しそうになりながらもどうにか均衡を保ち、その腕が導く方へ足を運ぶ。踏み締めた感触から、道を外れ草の上を歩いている事が分かる。
やがて、霧が薄っすらと晴れてくる。そうすると、自分の腕を引く人物の姿も見えてきた。
「お前、なんて顔してんだ」
こちらを振り返ったリュウメイが、僅かに驚いた後に、呆れた顔を見せる。自分では気づいてはいなかったが、相当情けない顔をしていた様だ。
「だ、だって。いきなり返事もしなくなるから」
「ちょっとばかし考えて事してただけだ。それより、見ろよあれ」
促され、リュウメイと揃って先程歩いていた街道に顔を向ける。今はよりはっきりと濃霧が見て取れた。
不可思議なのは、濃霧は道に被さる様に発生していて、こちら側はそれと比べれば視界がある程度確保されているという事だった。
まるで見えない壁でもそこには隔てられているかの様に、霧はそこに留まり、自分達を睨みつける様に居座っている。
「なんなんでしょう、あれ」
「さあな。とりあえず、今あの道に戻るのは得策じゃないってのは確かだ」
「えっ。でも」
反対側にガルジアは顔を向ける。見えるのは、生い茂った木々の数々だった。鬱蒼と生い茂ったその中から、
木々を掻き分けて羽撃く鳥の物音が悪趣味に聞こえる。
言葉通りに受け取るのなら、これからあそこに入ってゆくという事だ。
不安を隠しもせずに、縋る様にガルジアはリュウメイを見上げる。
「戻りたいか? あの道」
「いえ」
「霧が晴れるまでここに居たいか?」
「出来ればその方が」
「短い間だったけど、お前の事はその内忘れると思うぜ」
「ごめんなさい、お供します。置いていかないでください。怖いです」
こんな得体の知れない場所に、たった一人取り残されるのだけは避けたかった。そんな自分の思いも、リュウメイは見抜いているのだろう。
意地悪な男だと思いながらも、ガルジアは付いてゆく事を余儀無くされた。
「おい、手」
いつの間にか、自分の方からリュウメイの腕を握っていた。
じんわりと伝わってくる体温が今は信じられない程に自分を安堵させる。今はまだ、放したくはなかった。
「森に入れば霧が晴れると思います。そこまで、繋いでいても構いませんか?」
「なんだよ。近づくだけで嫌がってた癖に、急に可愛くなっちまって」
「可愛いという言葉は、ぜひ女性に対して言っていただきたいですね」
「やっぱ可愛くねーわお前」
そんな事を言い合いながら、二人の影が森の中へと消えてゆく。
森に入ってしばらくすると、薄っすらと辺りに漂うだけだった霧は、夜明けを前にした闇の様に静かに消え去った。やはりあの道に
なんらかの原因があったのだろう。
霧は消えたが、木々により視界は変わらず悪く、ガルジアは心細さに苛まれていた。
陽光は生い茂る木の葉に遮られ、まだ昼間だというのに、この薄暗さで時間の感覚が狂わされそうになる。
湿り気が皮毛に纏わり付く。一歩踏み出す度に、柔らかな大地がガルジアの神経を脅かす。
苔の生えた大地の独特の感触には、しばらく慣れそうにもない。
「リュウメイさん……」
「うるせーなてめーは。玉ついてんのかそれで」
「すみません。けれど、私こういう所は本当に来た事もなくて」
ガルジアは、修道院の中で育てられた身だった。それこそ、出歩いた事があるのは、修道院近くにある村くらいのものだった。身の
危険というものとは、凡そ無縁なのである。
成長し、院内にある教会に出てその仕事を手伝う様になって、ようやく外界に出られたばかりの自分は、子供よりも頼りないのだとガルジアは思う。
「ご立派な剣は持ってる癖に、情けねぇ」
そう言って、リュウメイはガルジアが腰に佩いている剣を見遣ってくる。細身ながらも装飾は見事で、これ一本を質に
入れるだけでも相当な額にはなる様な代物だった。慌ててガルジアがリュウメイの視線から剣を庇う。リュウメイに
見咎められて、剣についての話題が出るのも一度や二度ではなかった。金目の物には反応し易い男だが、それに輪を掛けて、
剣についても興味を示しているのである。両方を兼ね揃えたガルジアの剣がリュウメイの興味を惹くのも無理はなかった。
「これはただの護身用です。本当は持ちたくはありませんが、丸腰も心許無くて。こんなご時世ですから」
「使った事は?」
「修道騎士団に入っていた訳ではないので、とりあえず持つ事が出来るだけです」
「随分と高貴なお生まれの様で」
「そういう言い方は止めて下さい。意地悪な人ですね、あなたは」
本当はこんな物、持ちたくはなかった。世が世なら、楽器の一つでも持ち歩きたいと思う。
今は護身用の剣と、リュウメイから預かった荷物を持つだけで手一杯なのだ。旅をする以上は
軽装で済ます必要があり、仕方のない事ではあるのだが。
「それにしてもリュウメイさん、待っていなくて良かったのですか?」
道無き道。先導をするリュウメイの後を追いながらガルジアは口を開く。
道など無いはずなのに、リュウメイは行く先が分かっているかの様にどんどんと歩を進めていて、
それに付いてゆくのでガルジアは精一杯だった。伸び放題の草や、横たわり腐敗の進む樹木。泥濘になった土。それらを
まるで何事も無かったかの様に身軽に行く様は、やはり旅慣れた者にしか出来ない芸当であった。ガルジアはただ、
転ばぬ様に足先に力を入れて、慎重に歩を進める。そのせいで元々万全の状態でもなかった足からは、悲鳴が上がる。
それらを忘れたくて、つい話題を振っていた。
「なんの話だ」
「知り合いを待ってるって、確かそんな事を言ってましたよね。前の街で」
「ありゃあ知り合いじゃねぇ、勝手に付いてきてるだけだ。あいつにその気があるのなら、その内追い着くさ」
ガルジアとしては、その相手を待っていたかった。態々こんな危険な所をたった二人で歩いて、魔物でも出てきたらと思うと背筋が寒くなる。
今の時代、昼間なら街道を通れば遭遇する確率はかなり低いが、今は道から逸れた森に居るのだ。
いつ木々の間から魔物が飛び出してきても不思議ではなかった。一応リュウメイは獣道のある場所を避けてくれている
様だが、それでも安全とは言い切れないし、それはそれで、ガルジアの体力を消耗するのには一役買っていた。
「それにしても、暑い……」
陽光が遮られ、直射日光に期待出来ない湿気た森の中ではべたつく毛衣が鬱陶しかった。
流れる汗がじっとりと身体に纏わりつき、不快に思う。こんな状態で既に結構な距離を歩いていた。
靴の中が蒸れて、足を踏み出す度に払う注意の回数も増える。
「きりきり歩け。野宿になったら身体も洗えねーぞ」
「ああ、どうして私がこんな目に」
リュウメイと行動を共にしてから、何度口にしたのかも分からぬ言葉を口にする。
あそこで金さえ盗まれていなければ。過ぎた事を反芻しては、ガルジアは涙を浮かべる。
引き返してきたリュウメイに小突かれて渋々進むガルジアだが、不意にその表情が明るくなる。
木々の間から、僅かに注がれる陽光を照り返す光が見える。仄暗い闇の中に目印の様に輝く
それが、湖だと気づいた途端、ガルジアは顔を跳ね上げた。
「リュウメイさん! 見てください、湖が!」
先程までの疲労はどこへやら、ガルジアは飛び跳ねて湖まで一直線に走る。足の痛みも気だるさも、今だけは忘れられた。
駆けつけると同時に屈み、水質を確かめる。両手で湖水を掬い上げて一口啜ってみるが、澄み切った味が口腔に広がった。身体を
ぴくぴくと震わせて、自然の優しい恵みを享受した喜びを身体全体で表現する。
「無用心な奴だな。勝手に進みやがって」
「平気ですよ。こんなに澄んだ湖です。悪い魔物は少ないって事ですよ」
後ろで呆れているリュウメイの様子も目に留めず、靴を脱いで、足先をそっと浸す。冷たさに
思わず足を震わせて、ガルジアは子供の様に足をばたつかせて水飛沫を上げる。
跳ねた飛沫が身体に掛かり、ひんやりとした感覚に思わず失笑する。
「どうせなら、ここで身体洗うか」
「えっ?」
「じめじめして嫌なんだろ?」
「それは、そうですけど」
手を浸しながら、ガルジアは心配そうにリュウメイを見る。やっぱりリュウメイの行動は気になっていた。
「まあ、お前が入らなくても俺は入るけどな。昨日も野宿で、満足に洗っちゃいねぇし」
ガルジアの持っていた物より二周り以上は大きい剣を傍の木に立掛け、荷物も下ろすとリュウメイは服に手を掛ける。
現れた、贅肉一つ無いリュウメイの体躯にガルジアは思わず息を呑む。本当に、自分とは身体つきからして違っていた。
さっさと全裸になると、リュウメイは湖に飛び込む。頭から水を被り、実に気持ち良さそうに鼻歌まで歌って沐浴に興じている。
水気を吸った赤い長髪がだらりと垂れ下がる。そうしていると、挑発的に跳ねている普段とは違って、神聖な様子を湛えている様に見えた。
細長い蜥蜴の尻尾は水面から出ては潜る事を繰り返し、時折水を跳ね上げる。水浴びを楽しむリュウメイに羨望の
眼差しを送っていたガルジアは、その内に我慢出来なくなり、飲み水だけ先に確保してから、荷物を置くとおずおずと自らも服を脱ぎはじめる。
リュウメイの居る場所からは少し距離を取り、きちんと脱いだ服を畳むとなるたけ汚れない様に下生えの上に置いておく。
靴を脱ぐと、そろそろと足先から湖に入る。普段なら少し冷たいと思う程の水温だったが、汗塗れの今は格別だった。
白い体毛が水を吸い込み、体格を露にしてゆく。リュウメイと比べると肉はついているが、肥満体という訳ではない、はずである。
「私が虎人だからですよね、うんうん」
勝手な言い訳をしながら、どぼんと湖に身体を浸した。思ったよりも湖面が波打ったのは、見なかった事にしておく。
汗ばんだ身体が清水に触れて、心地良さに思わず声を漏らす。体毛が水を吸い、引っ張られる。このまま沈んで
しまいたい欲求に駆られて、慌てて水底に足を着いて、浅い方へと戻った。
一度潜ると顔を濡らし、ついでに頭髪を指先で梳きながら汚れを落としてゆく。
一頻りそうしてから、満足気にガルジアは浅瀬に戻ると、そのまま下半身を浸して森を見上げる。
ぽたぽたと、水気で固められたいくつのも毛の先から雫が落ちては、水面に小さな波を立てて広がり消えてゆく。
「ここだけ見たら、楽園みたいな場所なんですが」
いつかはこんな場所の近くに家を建てて住んでみたいなと夢想に耽る。
現実は借金塗れで身柄を押さえられているから、こうでもしないと押し潰されてしまいそうだった。
水音が聞こえる。隣にリュウメイが来た様だ。慌ててガルジアは少し深く潜り、見えない様にする。
「生娘かてめーは」
「羞恥心を持つのは人としてとても大切な事ですよ」
「随分言う様になったじゃねぇか。拾った頃は禄に返事もしなかった癖によ」
「当たり前じゃないですか。助けてもらった事には感謝してますけれど、リュウメイさんは行儀が悪過ぎます」
せめてもう少し品行方正なら、自分も喜んで付いてゆくのに。そう思いながらガルジアは隣に来たリュウメイを見遣る。
当のリュウメイは自分とは違い前を隠す事もせずに、寧ろ挑発的に身体を傾け、自らの肉体を惜しげもなく晒していた。水でしなだれた
赤い髪が、身体の起伏に沿って絡み付き、その先から落ちる雫が胸から腹へ、腹から更に下へと、まるで視線の移動を促すかの様に
流れてゆく。とはいえ蜥蜴人であるからして、自分の様に露出している訳ではないのだが。沐浴を済ませた蜥蜴の肌は、
薄暗いこの森の緑の中に混じりそうで、しかし黄土色の部分がそれを拒み、更にその上を赤髪が走るのである。いやが上にも
その男は目立ったし、またガルジアの視線を充分に奪っていた。
戦いに明け暮れた者の、雄渾な肉体だった。贅肉というものとは無縁で、所々に痛々しい傷痕が見える。剣戟を交えて出来た
ものもあれば、明らかに刃ではなく、動物の鋭利な爪や牙にでも付けられた傷もあった。自分の様に体毛があれば、
それらを傍目にはある程度隠し通す事も出来たのかも知れないが、体毛の無いリュウメイはそれも叶わず、歴戦の証をただ見せ付けている。
言葉よりもその身体が雄弁に物語っていた。この男の今までが、過酷なものであったと。ガルジアは束の間言葉を失い、そして哀れんだ。
こんな身体になるまで旅をしなければならない身の上ならば、この男には一体どの様な理由で、今まで生きてきたのだろうか。
「リュウメイさんは、どうして旅をしているんですか?」
気になって、ガルジアは問い掛けてみる。ただ旅をするのなら、もっと安全なやり方もあった。一人で行動をするのは何かと物騒なのである。
リュウメイと出会うまで、ガルジアは街道を行き来する団体の中に身を寄せている事が多かった。修道士であるガルジアならば、
その輪の中に加わるのは、決して難しい事ではないのだ。何人かは、ガルジアを違った目で見る者も居たのだが。
「まあ、色々見て回りたくてな。食い扶持も稼ぎたいから、その場その場で俺の腕を買ってくれる奴の手助けをしているだけだ」
「でしたら、私をすぐに修道院に連れていっていただければそれなりの報酬はお支払いするのですが」
「それは駄目だ」
「ええっ……そんな……」
「大体金貨百枚はどの道払えねぇだろ」
「それは、そうですけど」
こんなやり取りももう慣れた物だった。何故か、リュウメイは頑なに自分を修道院に導く事はしない。
例え金貨百枚に届かなくとも、ガルジア自身の財に加えて、無理を通せば、修道院の金も多少は期待出来る。
そこまで伝えても、リュウメイは承諾してはくれなかった。自分の行きたい場所に行く、というよりは、修道院へ向かう事を避けている
様な印象をガルジアは受ける。しかしそれを口にはしなかった。話を聞く限り、リュウメイは傭兵という表現をするのが適当な
人物である。傭兵は金で動くし、金にならないと見れば、あっさりと殺しもする。どういう思惑があるのかは分からないが、
リュウメイに逆らう事は、なるたけしない様にと自分に言い聞かせていた。それでも時々、愚痴は零すのだが。
「仕方ないですね。それなら、もうしばらくは厄介になりますよ。それと……」
腕を伸ばして、腰に当てられていたリュウメイの手を掴み取る。
「お話しているんですから、セクハラしないでください」
「なんだよガルちゃん。そんな固い事あだだだだ」
強く握り締めると、わざとらしく痛がる素振りをリュウメイは見せる。このお調子者の扱いにも大分慣れてきた。
少なくとも、逆らう者を容赦なく手に掛ける。そういった冷血漢ではない様だ。
大袈裟な仕草で手を引いたリュウメイの顔を呆れながら見つめていると、不意に、そのリュウメイの表情が
厳しくなりそのまま飛沫を上げて立ち上がる。突然の所作に、ガルジアはびくりと身を震わせた。
「どうしました!?」
魔物が来たのかと、ガルジアも同様に立ち上がり辺りに気を配る。
丸腰だが、背後に自分の剣は置いてある。リュウメイの剣は遠いが、自分の物を貸せばどうにか対処出来るだろう。
正面の木立を見つめる。どこに何が居るのか。心臓が煩く鳴っては、警戒する様に促してくる。
「……?」
しかしそれきり魔物どころか、それらしい者は何一つとして現れる気配はなく、辺りも静まり返っていた。
二人の身体から湖に向けて落ちる水滴の音と、風に吹かれた木々の葉音が聞こえる。枝に止まる名も知らぬ鳥も鳴いていた。
「リュウメイさん、一体……」
戸惑う様にリュウメイを見たガルジアは凍りつく。リュウメイはにやついた表情で、こちらの身体を眺めていた。
「いやぁ、随分立派な剣をお持ちで」
リュウメイの首を掴んで湖に叩きつける。派手に上がった水音に驚いた鳥達が、羽撃いた。
森の中を、眉を顰めたガルジアは進む。
湖から上がると気をつけながら火を起こし、充分に身体を乾かしていたので結構な時間が経っていた。
頭髪以外に毛衣の無いリュウメイが、尻尾の付け根を乾かそうと焚き火と格闘しているガルジアを、置いてゆこうとするのを必死で止めてからの出発である。
先を歩くリュウメイは先程叩きつけた時に鼻先でも打ったのか、時折摩りながら恨めしそうにこちらを見ていた。
「前見て歩いてください」
「乱暴な奴だよお前は」
「あなたがそうさせたんじゃないですか」
今も、ガルジアの事をまるで獲物を狙うかの様な瞳で見ている。
双眸は、蠱惑的だった。見つめていると、自分の方が可笑しな気分にさせられる。心を乱す様な光を、金色の瞳は時折覗かせていた。
その瞳が前を向くと、黙ったままリュウメイは剣の柄に手を掛ける。
「ガルジア」
「なんですか、もう騙されませんよ?」
しかし、今度は前方から草を掻き分ける音がする。それも複数だ。
冗談ではないのだと気づいて、ガルジアも剣を取り出そうとして気づく。下手に抜けない様にと紐で封をしたままだった事に。
慌てて紐を解き、ゆっくりと剣を引き抜いた。持つ手が微かに震えているのは、気にしていられなかった。
リュウメイが微かにこちらを見ていた。遅れて、リュウメイが見ているのは自分の持つ剣だと気づく。
「随分変わった剣だな。穴開き包丁かそりゃ」
「違います。断じて、違います。歌聖剣という、ちゃんとした剣です」
リュウメイが訝るのも仕方がないのかも知れなかった。ガルジアの持つ歌聖剣は細身で、
その刀身に小さな穴がいくつも空いているのだ。剣士ならば強度が下がるのではと忌み嫌う様な造形である。
微かに森を流れる風を受け、時折その空けられた穴から僅かに音が響く。風に乗ったそれは、物悲しい声を上げて虚空へと帰ってゆく。
「修道騎士団と区別するために、詩を歌う者が持つ剣です。古書に記されていた作り方を再現したって聞きました。
この穴は……音を出せるそうなのですが」
試しにその場で何度か無造作に振ってみるが、時折僅かに音が上がるだけでそれ以上の音を響かせる事はない。
音を出せるのは良いのだが、扱いが非常に難しい剣だった。普段剣を持つ事の無いガルジアでは扱えないし、
これを上手く扱っている者も、また見た事がなかった。
「随分暢気なもんだな、修道士って奴らは。そういうお遊戯が流行ってんのか」
むっとしてガルジアは言い返そうとするが、会話はそこで途切れる。音がすぐそこまで来ているのだ。
「リュウメイさん」
不安になってリュウメイを呼ぶ。リュウメイも、剣を抜いたところだった。
前方を見遣ると、犬型の魔物が数匹涎を垂らしながら唸り声を上げて茂みから飛び出してくる。大方、野犬が魔物に変化したものだろう。
剥き出しの牙から垂れ落ちた涎と、細身の身体が、飢えに苦しむ様子を如実に伝えていた。ガルジアは身を震わせ、既に汗まみれの
手で改めて歌聖剣を握る。
「ガルジア、歌えるか」
「……お一人で頑張ってくれませんか」
「なんだよ。まだ拗ねてるのかよ」
言葉に、僅かにガルジアは視線を逸らす。この男と出会ってから今まで、ずっと茶化されてばかりである。
「言っただろ。役に立てば報酬をくれてやる。手伝え」
「仕方ないですね」
「おーおー、本当に現金な奴だよお前」
「誰のせいですか、誰の」
溜め息を一つ吐き、後方へ跳ぶ。着地すると、荷物を置き剣を大地に突き刺す。
本当は鞘に収めたかったのだが、それすら不慣れなためこうする他無かった。後で練習しようと心で誓う。
「景気付けになる様なもん頼むぜ」
左手を胸に当て、少し顔を上げる。必要な動作ではなかったが、詩に集中するのに自分には必要だった。
すっと息を吸い、歌いはじめる。身体の中から、詩が溢れ出る。
ガルジアが歌ったのは、軍兵の詩だった。馬を駆り、武器を振るう。千の野を越え、万の人を殺す。
振り返る事はない。振り返るのは、命尽きるその時だけで良い。今はただ、戦友の亡骸を越え、敵の屍を踏み締めろ。
虚空に手を伸ばす。つと景色が歪み、そこから赤黒い炎を纏った異形の者が現れると、
ガルジアは歌いながら手招きをする。ゆるゆるとやってきたそれは、一度ガルジアの手に触れた後その背後に回り、
そして合わせる様に異形も歌う。ガルジアの声に合わせて、一際大きく声を上げる。その声が響き渡ると同時に、
リュウメイは走り出していた。先程までのふざけた様子が何かの間違いだったかの様に、一振りで
魔物の首を跳ね飛ばしてゆく。屍に変わる者を燃やせ。ガルジアが告げると、一際大きく異形は鳴く。リュウメイが
切り捨てた魔物の切り口から火が上がる。業火は魔物を灰燼に帰し、しかし周囲を焦がす事はなく、消えてゆく。
リュウメイから哄笑が上がる。笑いながら、リュウメイは敵を切り捨て、切り捨てられた魔物から燃えてゆく。
火が焚かれていた。一つ一つが、命と引き換えに燃え盛っている。やがて燃料となっていた者が息絶えて、
火も消えてゆくと、後には焦げ臭さと、肉の焼ける異臭が混ざり合って残っていた。ガルジアは顔を顰めて、ただ俯いた。
「気に入ったぜガルジア、てめぇの詩は最高だなおい!」
切った瞬間に燃え上がる。返り血すら即座に蒸発し、リュウメイの清められたばかりの身体が汚れる事もない。流れない血の代わりに、
リュウメイの動きに合わせて跳ねる赤髪が、血渋きの様に宙を躍る。
殺戮に悦楽を見出した様に暴れるリュウメイを、冷めた目で見つめながら、ガルジアは手元に下りてきた異形の者を撫でる。
炎を纏ってはいるが、今の自分には不思議と熱さは感じられない。火傷をする様子もなかった。この異形が、
自分を受け入れているのだろうと思う。これがガルジアの力だった。詩を歌い、それに導かれてきた者の力を借りる。
やがて魔物が全て灰になった頃、歌うのを止め、手に留まっていたそれを宙へ帰す。一声鳴いたそれはどこかへ消え去った。
「なんだぁ、もう終わりか?」
「しっかりしてください、リュウメイさん」
闘争心を燃やし、運動能力を飛躍的に上昇させる詩だったが、少々血の気も多くなってしまうのが欠点といえば欠点だった。
肩で息をし、切りたくて仕方なさそうなリュウメイを溜め息を着きながら押さえる。やがて落ち着いたのか、
平時のリュウメイが戻ってくるが、珍しく、少し戸惑う様な表情を隠しもせずに自分を見つめていた。
「こえーな、お前の詩は」
感心した様にリュウメイが言う。事前にどういう効果があるのかは説明したが、やはり実際に受けるとまた違う感想を持った様だった。
出来れば、ガルジアはこういう詩は歌いたくはなかった。行使している以上、その効果は充分に理解している。しかし、命を殺める
ための詩である。修道士である自分が、本来なら歌うべき詩ではなかった。時世が悪い。その一言で片付けて済ますには、
ガルジアの心はまだ幼かく、また純粋だった。しかしやがては振り切る様に、その考えを追い出した。リュウメイ共にしている以上、慣れなければならない事だ。
「それでリュウメイさん」
「なんだよ」
気分を変える様に、にっこりと子供らしい笑みを浮かべながら、ガルジアはリュウメイにずいと顔を寄せる。
「今のでおいくらになりますか?」
「この守銭奴が」
その日、銅貨十枚がガルジアの借金から引かれた。