
ヨコアナ
26.亡国の跫音
がたん、と一つ、大きな揺れが起こる。それに、ガルジアは内心ちょっとだけ驚きながら、照れた様子を見せる。
規則的な揺れに、規則的な音。時折大きな石にでもぶつかった時に起こるその揺れには、どうにも慣れずにいた。
「いやぁ。本当に、助かりましたよ。お二人とも」
「いえ、そんな」
目の前では、ふくよかな体系で、如何にも金持ち然とした煌びやかな格好の黒豚の男が、ほとんど瞳を閉じた状態で満面の笑みを浮かべていた。大きな揺れが起こる度に、その顔や身体に付いたでっぷりとした脂肪が波の様に揺れるのがなんだか面白くて、
揺れる度、ガルジアは少し視線を逸らそうとさっきから努力をしている。それも、相手から声を掛けられるまでの間でしかないが。
「人助けをするのは当然の事です。ね、リュウメイさん」
「で、いくら出すんだ」
隣に居たリュウメイに、にこやかに話を繋げようとしたガルジアの努力は、そこに自分と同じ様にして座る当人、蜥蜴の男に散々に打ち砕かれる。
「それはですね……こ、今回の分は、どうかこのぐらいで」
リュウメイの鋭い声に威圧された豚の男は困り顔で、しかし慣れた手付きで硬貨の詰まった袋を差し出してくる。思わずガルジアはそれをリュウメイが取らない様に押し返そうとしたが、それよりも素早くリュウメイは袋を掠め取っていた。中身を確認した
リュウメイが、少しの間を置いて微かに頷く。
「……まあ、いいだろう」
「ちょっと、リュウメイさん! それじゃ私達盗賊と変わらないじゃないですか!」
「何言ってんだ。賊だったら首まで持ってかれたかも知れねぇんだ。これぐらい当然なんだよ。俺が言う前に出すくらいでな」
「まったくその通りで、気づきませなんだ。どうかご無礼をお許しください」
「ああ、もう……ごめんなさい、こんな人で」
「いえいえ、構いません。私も命を覚悟しておりましたところですれば」
一応は納得の様子を見せたリュウメイに肩の荷が下りたのか、豚の男の様子も元に戻り、また人を持ち上げる表情を浮かべている。
蜥蜴のリュウメイ、そして、白虎のガルジア。二人は今、旅の途中で賊に襲われていた隊商を助け、それを率いる主に招かれて、共に馬車の中で主と対面をしていた。終わり滝を後にし、さてどこへ行こうか。そう悩んだ末に、二人は南東へ向かった
のである。元々、終わり滝から北東がヘラー及びサーモスト修道院、南西がラライト修道院である。バインの仕掛けた、ヨルゼアへと連なる壮大な奸計を打ち破ったとはいえ、それほど日が流れたとは言えない。今は、ラライトとサーモストには近づく訳には
いかなかった。そうなると向かう方角は限られてくるし、寒い所は嫌だとリュウメイが駄々を捏ねるものだから、進路は南東へ取らざるを得なかった。最初の内、リュウメイはバインの復讐を恐れて充分な警戒をしていたのだが、その気配は微塵も感じられず、
結局それからは何事も起きずに旅は順調に進んでいた。途中、リュウメイと出会うよりも更に前、ガルジアが一人で修道院を巡っていた特に歩いていた道へと繋がり、そこからはガルジアにとっては非常に珍しい、一度歩いた場所を歩く事となって、ガルジアは
なんとも不思議な気分に陥っていた。
ともあれ、そうした微かに見覚えのある道を過ぎ、ガルジアが引き返そうとした地点も抜けて、ようやくガルジアは、再びのまったく見知らぬ地へと足を踏み入れたのだった。当然、その隣には蜥蜴の剣士であるリュウメイの姿があった。
リュウメイとの関係は、相も変わらずと言ったところだった。酔えば絡んでくるし、それを自分は程々に往なして、旅は続いている。
「それにしても、ガルジアさんは本当に生き生きとした方ですね」
豚の商人、マーノンは、あからさまな態度でもってガルジアを褒め称える。ガルジアは少し照れた返事をするだけに留まり、それ以上は何も返さない。
「わたくしはこれこの通り、商人でございますから、白虎についての話もよっく心得ております。だというのに、そのたおやかさ、心清さ。被毛の美しさ。感嘆するばかりですとも、ええ。さぞお育ちもよろしい事でしょう」
「い、いえ、そんな」
修道士である事を公言するのを、今のガルジアは慎んでいた。身形ももう、修道士である事をわかりやすく示すローブではなく、地味ながらも動きやすい半そでと短いズボン。無論それだけでは心許無いので、旅をしている間はマントで全身を包んでいた。ディヴァリア
に居た時にリュウメイに言われた事を今更の様に改めたのである。白虎である事は、もはや隠しようもない。ならば、修道士である事だけは。既に、戻る地も無い身である。今更修道士である事を人に伝えても、厄介毎を持ち込むだけなのはわかりきっていた。それに、
供に旅をするのも、今はリュウメイだけである。その実力を疑う余地はないが、そのリュウメイも病み上がりなのは確かである。旅をするのに支障はないが、以前の万全だった頃と比べれば、時折辛そうな仕草をしている事を、ガルジアは知っていた。それも、ここ最近
ではようやく落ち着いてきたところである。
つと、リュウメイが鞘を一度、床へと打ちつけた。マーノンが実に豚らしい悲鳴を上げる。
「マーノン、だったか」
「は、はい」
「白虎について知ってるんなら、気安くそいつに触れて良いと思うんじゃねえぞ」
「……申し訳ございません。確かに、仰る通りでございます」
しゅんとしたマーノンに、幾分同情の視線をガルジアは向ける。しかし、リュウメイが危惧している事を、既にガルジアも充分に理解していた。白虎は、金になるのである。商人の目に見咎められぬはずがないのだ。ともすればマーノンはガルジアを籠絡せんと
する可能性も、否定はできない。それを察したかの様に、マーノンは居住まいを正し、こちらへと向き直る。
「こんな事を言っても、とても信じてはいただけないでしょうが……私は商売人ではありますが、きちんと筋は通したい性でございます。今回賊に襲われていたのも、結局は賊に勝手に定めた法外な通行料を易々と払わなかったが故。どうか、そこのところは。一つだけ、
お訊ねしてもよろしいでしょうか、お二方。あなた方は、この後は、どちらへ?」
「さて、それは決めてねぇな」
「やはり、わたくしには」
「あ、いえ。そうではないんです。ただ私達は、当てもなく旅をしている様なものでして」
愛想の無いリュウメイの返事に、更に項垂れたマーノンを見て慌ててガルジアは取り成した。隣から舌打ちが聞こえたが、今は気にしない様にする。甘い顔を見せるなと、そう言いたいのだろうが。それでも流石に、ガルジアはマーノンが気の毒になって
しまったのだった。ガルジアが取り成す事で、マーノンも僅かに相好を崩す。
「左様でございますか。それならば、ささやかながらご忠告を。リュウメイ様の様な方ならば、今更な事と一笑に付すのやも知れませぬが。わたくしの隊商が向かうのは、もうそれほどの日を跨ぐ事もなく着く、大都市グレンヴォールでございます」
「ええ、私達も、行ってみようかなって思ってて」
「おい」
「いいじゃないですか。この辺りで大きな街っていったら、当然グレンヴォールが候補に挙がるんですから。この辺りで旅人が居たとしたら、それはどうせ、グレンヴォールに向かう人か、そこから出てくる人がほとんどなんでしょう?」
「まあ、そうだけどよ」
「それに……」
それに、大都市と呼ばれるグレンヴォールに、ガルジアはずっと行ってみたかったのである。生まれて初めて修道院を飛び出し、教会と修道院を巡った大冒険は、グレンヴォール行きの道の手前で終わりを告げてしまった。これは、グレンヴォールは大都市で
ありながら、修道院、及び教会が存在していない事が主な理由である。ディヴァリアでさえ申し訳程度に設えられたそれが、グレンヴォールには無い。それを残念に思いながらも、またどんな都市なのかと、ガルジアは想いを馳せて帰路に着いたのである。もっとも、
その途中でリュウメイという男と出会い、同道し、長い旅が始まったのだが。
そう思えば、今のこの旅をしている自分も、不思議な事の連続による結果なのだった。あの時リュウメイと出会わなければ、自分はきっとラライト修道院に居たままだろう。そして、白虎を求めていたバイン、或いはサーモスト修道院長ローの手にでも
落ちていたのかも知れない。運命とは、つくづく数奇であり。時折本の中から覗く事のできる世界よりも、もう少しだけ物珍しい進路を取る物だった。
「その、グレンヴォールの街のすぐ近くに、別の町があるのをご存知でしょうか?」
「え? そんな町、あるんですか? 以前地図で拝見した時には、無かった様な」
「ヌベツィアか」
抜け目無く、リュウメイが呟いた。それを聞いて、マーノンは何度も頷く。
「そう、そうなのでございます! あの吹き溜まりの町、ヌペツの性悪共。実は、先程の者達も、恐らくはヌベツィアの悪漢達と思われます。どうか、お気をつけください。大都市であるグレンヴォールは、確かに商業が栄えた、非常に大きな街。しかし、ヌベツィアは……
そこには居られなかった者達の、成れの果て。グレンヴォールが街として大きくなる代わりに、不要となった物。不要とされた者。そんな者達の、溜まり場でございます」
「そんな町があったのですね」
「まあ、俺は嫌いじゃねえけどな」
「……さっきから聞いていれば、リュウメイさん。ヌベツィアには行った事があるんですか」
「当たり前だろ。つか、俺みたいな奴は寧ろそっちの方が居心地が良いのさ。グレンでやらかして、ヌベツィアに身を寄せる。そんな奴はごまんと居るぜ。あそこはディヴァリアや、サーモストの裏。それに、アイラスともまた違う。もっと小汚くて、後ろ暗い奴らの楽園さ」
「そこまで知っているのならば、私からは何も注意する必要は無いみたいですね。くれぐれも、ヌベツィアには立ち入らぬ様に。特に、ガルジアさん。あなたの様な方は」
「……わかっています。ご忠告、感謝します」
栄華を極めた街の近くには、退廃を孕んだ街がある。少し背筋を寒くしながらも、ガルジアはリュウメイへと視線を向けた。今までの道中ですら、自らの白虎という特性で様々な厄介事に巻き込まれたのである。それだというのに、その様な目を付けてくる
者達の本拠地とでも言って良い場所がそこにあるというのは、ガルジアにとっては中々に恐ろしい事でもあった。
ガルジアの視線を受けて、リュウメイは薄く笑う。安心させる様な笑い方ではないなと思う。
「心配すんな。今はヌベツィアには用はねぇよ。俺もグレンヴォールに行きてぇくらいだ。大分時間も経ったしな」
「大分……時間も経った?」
「まあ、こっちの話だ」
「あなた、また良からぬ事を」
「何を今更。俺は良からぬ事しかしてないぜ」
呆れて、ガルジアはそれ以上の言葉を続けられない。そんな自分を勝ち誇った様子で見ているリュウメイが、また憎らしい。
「まあ、ヌベツィアに行かないとすれば、何よりです。グレンヴォールは非常に大きな街。初めてであるのならば、存分に楽しめる事でしょう。……そういえば、もう一つ。剣士であらせられるリュウメイ様にお耳に入れていただきたい事が」
「なんだ、儲け話か」
「残念ながら。ですが、必要なら私の隊商の護衛としての席もご用意できますが」
「悪くねぇな。まあ、今は遠慮しとくぜ」
「左様でございますか。それで、お耳に入れていただきたい事なのですが……どうも、最近この辺りに、魔剣と言われる代物があるのだとか」
「魔剣……ですか?」
聞き慣れぬ言葉に、リュウメイよりも、寧ろガルジアが反応を示す。当のリュウメイは、軽く首を振り、僅かに赤髪を乱れさせたに過ぎない。そうして黙って、見事な深紅の髪を靡かせていると、リュウメイはまた違った印象を相手に与える。もっとも、それ以外の剣士然と
した所作と、大体の外道な振る舞いのせいで、そんな印象は早々に木っ端微塵に砕けるのだが。
「なんでも、持つだけで素晴らしい剣の技を扱えるのだとか。しかし、そこは魔剣と呼ばれる物。それを手に取った者は、正体を失くして暴れ回ってしまう代物だとか……。もしかしたら、旅をする上でその剣と出会ってしまう事があるやも知れません。努々、お気をつけ
くださいますよう」
「面白ぇな。ガルジア、ちょっと持ってみるか。そんで、俺と打ち合ってみようぜ」
「い、嫌ですよ! そんなの! そんな事するくらいなら、歌います!」
「お、歌って俺とやってくれるのか。それはそれで、楽しみだな」
「……言葉のあやです。あなたと戦うなんて、嫌ですよ、私は」
「つれねぇなぁ」
「その剣ですが、どうも北の方から流れてきた物だとか。その剣の装飾が、丁度今は亡き国の物に似ているという話です」
冗談を言い合っていたリュウメイの瞳が、急に鋭くなる。射抜かれて、マーノンはまた、悲鳴を上げた。
「北の方、か」
「……リュウメイさん?」
「マーノン。今馬車はどの辺りなんだ」
「え?」
鋭い眼光に腰を抜かしかけていたマーノンが、慌てて体勢を戻す。でぶでぶの腹が揺れ、その指に嵌めていたごつい指輪の宝石が、きらきらと輝いた。リュウメイに問われて、マーノンは一度馬車の窓から外を見て、しばらくするとまた席へと戻る。
「丁度、グレンヴォールとヌベツィアの分かれ道といったところでしょうか。もっとも、ヌベツィア行きの道なんてありませんから、そこの茂みをしばらく通った先でございますが……リュウメイ様。まさか、あなた」
「詮索はするな。俺は賊じゃねぇが、余計な事を口にするとやる事は賊と変わらなくなる。俺は、ここで降りさせてもらうぜ」
「……畏まりました」
マーノンは不服そうだったが、それ以上は何も言わずに御者に声を掛け、馬車を止めさせる。手早く荷物を纏めたリュウメイが馬車から出ていこうとするのを、ガルジアは慌てて後を追おうとする。
「ガルジアさんも、行かれるのですか?」
「はい。マーノンさん、お世話になりました。あなたのご忠告は、無駄にはしません」
にこりと笑いかけて、ガルジアも馬車を降りる。最初、マーノンは迷った様子を見せたが。ガルジアが一歩も引かぬ様子を見せると、お気を付けてとだけ言い。多少の間を置いて、マーノンの隊商はそのまま道なりに。グレンヴォールへと姿を消した。
二人きりになったところで、ガルジアは盛大に溜め息を吐く。リュウメイが、まったく話もせずに降りるというものだから。自分もそれに、釣られてしまった。こんな風に決断するリュウメイは、きっと止められないだろうと思って。また、事実止まらないのだが。
それでも、説明は欲しくてガルジアはリュウメイへと向き直る。当のリュウメイは、消えた馬車の事すら既に頭から抜け出てしまったのか。茂みの奥にあるという、ヌベツィアの方角の空を黙って見上げていた。赤い髪が、風に吹かれてはさわさわと揺れて。それは
まだ見ぬ吹き溜まりの町に、妙に似合っているなとガルジアは勝手な事を思ったのだった。
「リュウメイさん、どうしたんですか。急に、馬車を降りて」
「悪ぃな。勝手に降りちまって。その剣が、気になってな」
「グレンヴォールではなく、ヌベツィアに行かれるのですね?」
「そのつもりだ。てめぇは……まあ、馬車から降りちまったが。今からでも、グレンヴォールに行ってもいいぜ。しばらく留守番をしてもらうかも知れねえがな」
「いえ、私もお供します」
「怖くはねぇのか」
「……怖いです。けれど、あなたが居ますから。それに、私はあなたが物に執着する様には見えません。だから、その魔剣を気に掛けている事が、少し気になって」
「そうか」
「話しては、いただけませんか」
「聞かない方が身のためさ」
そういって、リュウメイが歩を進める。ガルジアはグレンヴォールへ続く道をしばらく見つめてから、慌ててその後を追った。
ここまで、リュウメイと旅をしてきて、この男が執着を見せるのは本当に珍しい事だった。風の様に流れては、己の欲求を満たそうとするだけの男。自分と出会い、そして終わり滝での運命を決するかの様な死闘も、結局はこの男には何も恩恵は
無かったのである。ただ、己が気の向くままに全てを受け入れ、そして流れてゆく。
ガルジアは、リュウメイを知りたいのだった。何が好きで、何が嫌いか。そんな事なら、少しはわかってきた。少なくともガルシア自身の、性格はあんまり好きではないのだろうなとか、そんな事も。それでも、リュウメイという男を本当には理解していないという
気がしてしまう。そして、リュウメイが何かを求めるというのなら、その手伝いもしたかった。一連の、召導書を巡る騒動から自分を救い出したこの男は、しかし今までと態度を何一つ変えずに、ただいつも通り自分に接するだけなのである。受けた恩の一つすら、
返してもいない。
ヌベツィアに向けて、獣道を歩む。本当の獣道ではない。少し歩けば、人馬の通った後がはっきりと見て取れる。その先にある。吹き溜まりの町。
ガルジアは、斜め前を歩くリュウメイの顔を盗み見た。その表情は、今までと何一つ変わらない。
遠くに、空に立ち昇る煙が微かに見えた。あれが、ヌベツィアだろう。
無機質な壁を、そのまま切り取ったかの様な入口だった。
ところどころ塗装は禿げ、街の名を知らせる看板とてありはしない。高い壁はその奥にある物を隠しており、さながらそれは、外からだと小さな砦の様に見えた。日に焼けたそれは、廃墟の様で。しかしそこには確かに、生命の息遣いがあった。
ヌベツィアを眺めて、ガルジアは呆然と立ち竦む。中に入らずとも、この街が今まで訪れたどの街とも、或いはどの村とも様相を異にしている事は明らかだった。大きな街なら、入口に屯する人が見えたであろうし、寒村であったとしても、長閑な雰囲気が
ガルジアを優しく包んでくれただろう。しかし、目の前のこの街から感じるのは、不気味さを孕んだ静けさであり、あまり人気という物を感じない。しかし本当にそこに人が居ないのだとは、間違っても思いはしなかっただろう。無人の不気味さと、有人の不気味さとは、
かくも異なるものなのかと、世間知らずの、しかし最近では多少は物を知る様になったガルジアを震撼させた。無人の怖さとは、言ってしまえば、ただ怖いだけだった。しかし悪意を孕んだ生物の牙は、容易くそれを見ている者を噛み砕く。
振り返ったリュウメイは、黙ったままこちらを見つめて、いつものあの、嫌らしい笑みを浮かべている。言葉を口にせずとも、何を言いたいかがガルジアにはよくわかった。ここから先は、今までの街とは違う。無法の世界だ。
そしてそれはリュウメイにとっては肌に馴染んだ物だが、ガルジアには、まったくもって未知の物なのだった。それが、普段は散々碌でもないと思っているガルジアのリュウメイへの評価に多少の変化を及ぼす。自分が格別世間知らずであるという自覚を、
充分にガルジアは持っていたが。そんな自分とまるで釣り合いを取るかの様に。この蜥蜴の男は何もかもを知り尽くしているのだった。勿論、この街の事についてもだ。
「ここが、ヌベツィア……面倒な奴は、ヌペツって呼んでる。そこに住んでる、くだらねぇ連中の事を指して言ったりもするな。気をつけろよ。ここはもう、表とは違う。グレンヴォールのありとあらゆる汚ねぇ部分を全部詰め込んだ様な街だ」
「リュウメイさん……」
ここまでリュウメイに従っていたガルジアも、流石にこの街を見ていると、不安になってリュウメイを呼ぶ。リュウメイは、ガルジアの気持ちをよくよく理解している様だった。僅かに、目を逸らす。
「今からでも、グレンヴォールに向かっても良いんだぜ。お前には、そこで待っていてもらうが」
「そんなつもりはありません。でも、一つだけ。リュウメイさんの求める物は、グレンヴォールでは、探せない物なのでしょうか?」
「探せる。金に糸目を付けなければな」
路銀は、充分に持っていた。行く先々で、不本意ながらリュウメイは剣の腕を振るい、そしてガルジアは、嬉々として詩を歌う。見世物になっているという事実には目を瞑らなければならないが、それで金の心配は無かった。ガルジアは今更になってようやく、
自分の白虎としての価値、そして、その白虎が詩を歌う事のできる価値を思い知らされる。どの街で歌っても歓迎は当然の事であり、拒絶されるという事態はありえなかった。これで、おまけにガルジアは修道士なのであるのだが、それだけは隠した。既に先の
二つの事柄だけで自分に注目が集まっている事は、リュウメイと初めて出会った時から知り尽くしている。そしてまた、そうすればするほど、身の危険が及ぶ事になるのだ。金になるといっても、リュウメイも決して、立ち寄った街々でみだりにガルジアを
歌わせる様な真似はさせなかった。貸した金を返せという。その癖、そういうところでは、自分を守ろうとするのだった。だからガルジアは、終わり滝の件が片付いても、結局はこうして、リュウメイを旅に出る事を望んだのだった。或いは、クロムと共に行った
方が良かったかと。たまに酒を飲んでは羽目を外すリュウメイを見ていると、つい思ってしまう事もあるのだが。
あとは、身体を求めてくるところが無ければ、言う事はないのになと、思わずには居られない。
「糸目を……ですか。私は、そのう、どうにも世間知らずですから知った様な口を利けませんが、やっぱり、情報を集めたりするのもお金がかかるんですよね?」
「特に、グレンヴォールみてぇな金がすべての所ではな。ただ、金さえ積めば、大抵の事はできる。持ち金すべてを出せば、ガルジア、お前一人をしばらく預かってくれる所もあるだろうさ」
「いいえ。私も、一緒に行きます。それに、もうヌベツィアに来てしまいましたね」
ゆっくりと、無骨な入口へと足を踏み入れる。その先で僅かに人の気配がしたが、いざそこへ行ってみると、辺りにはもはや誰も居らず、遠目に人だかりが見えるだけだった。流石に、街という態は成している。誰も彼もが姿を見せないという訳では
なかった。正面の広場から続く、幾重もの細道は、そのまま街の奥へ奥へと続いている様に見えた。その道の両側には、雑多に床に襤褸切れを広げ、その上に商品を乗せた者達が商いをしているという、ちょっと、ディヴァリアの貴石通りを思い起こさせる
光景だった。とはいえ、貴石とは名ばかりとはいえ見た目だけは相応の物と、雑多な品物の数々が並ぶこことは、雲泥の差があったのだが。
道を行く者も、荒くれと形容する以外に無い者が多かった。男は上半身が裸というのは珍しくもなかったし、物々しい武器も携帯している。或いはそうやって、凶暴さを見せつける事で襲われる事態を避けようとしているかの様だった。女は女で、これは男とは
正反対だった。その身体を惜しげも無く晒し、今夜の、或いはしばらくの夜を共にしてくれる男を求める女こそ、磨きあげた自らの肢体を見せつけ、身体には何かしらの塗料を塗り、各々が自慢としている尻尾をくねらせ、時には耳を下げ、如何にもしおらしいと
いった様子を見せる者が居たし、そうした女の中に、まったく同じ種類の生物として、時たま男も混じっているのが酷く印象的だったのだが、それ以外の、男を取る気の無かったり。或いは相応に歳を取った女というのは、大体が魔道士の様にローブを
被ったりして、如何にも自分にはなんの魅力も無い、薄汚れた、貧相な女でしかない事を強調する様な服を態々選んでいるかの様だった。
夜のディヴァリアと似たそれは、しかし昼間であっても、ヌベツィアでは当然の光景として広がっていた。それに、物々しい武器の数々が見えるところを考えれば、ディヴァリアよりももっと治安は悪い。通りから少し外れた先には、質素な建物が、恐らくは
宿として建てられたと思わしき物が窺える。そこへ消えてゆく、二人一組の、或いは、もっと大人数の人影は、どうみてもただ一夜の休息を求めて入っている様にはガルジアには見えなかった。
一言で言えば、ヌベツィアというのは退廃と同じぐらい、危険を孕んだ街だった。危険という点においては、ディヴァリアや、かのアイラスとは比べ物にならないだろう。幼い子供の姿も、散見されていた。見場の良い子供は、必ず屈強そうな男か、如何にも金を
持っていそうな女主人といった様子の者に、貴人に従う小姓の様に連れられ先程の宿へ向かうところであったし、見場が悪い子供は、これはもう路傍に座り込んでいた。ディヴァリアで心を痛めた風景が、ここでは日常のそれとして、既に何度もガルジアの心に
蟠りを残している。
「なんだか……落ち着かない街ですね」
「俺は落ち着くがな。いつもなら、だが」
「いつもなら?」
「もう忘れちまったのか。さっきあの豚野郎のマーノンが言ってただろ。ヌペツの性悪共が、金を払わなかったから襲ってきたってな。この辺りの街道には、この街の奴らがよく出る。俺達はそれをさっき、追い払っちまったんだぜ。当然、今もどこかで俺達を
見てるだろうさ。街に入る前から監視してたみたいだしな」
「街に入る前から? そんな。どうして、言ってくれなかったんですか」
「せっかく入ると決めたお前を、怯えさせても仕方ねえだろ」
確かに、そう言われると、そうなのである。今更ガルジアはグレンヴォールに向かう気はなかったし、街の外で既に見張られているのなら、このままグレンヴォールに向かうというのも、決して安全な一手とは言い難い。
また結局のところ、ガルジアが一番に安心するのは、リュウメイの傍に居るという事なのだった。見知らぬグレンヴォールの街に、たった一人残されてしまうというのは、如何に安全とはいえ、安心とは程遠い状態だった。金を積めば良いという話だが、より大きな
金の動きの中にややもすれば踏み込んでしまそうになるし、いざそうなったのならば、どの様な結果が待ち受けているのかも、定かではない。
「それで、当てはあるのですか? その、あなたが求めている物に。魔剣、でしたっけ」
「軽々しく口にするのはやめておけ。それがどんな物なのか、まだはっきりとしてねぇが、ここではそういう言葉も、命取りになる」
「そんなに、危険な街なんですか」
「ガルジア。一つだけ、教えてやる。こういう街で賢く生きてぇなら、自分の欲しい物を軽々しく相手には伝えねぇ事だ。弱味を見せれば、ここの連中は遠慮なくそこを突いてくる。興味の無い振りをして情報を集めるのが、一番賢いやり方だ」
「わかりました。リュウメイさん、全部、あなたにお任せしますね」
「それから、絶対にこの街では歌うなよ」
「それは、言われずとも」
普段旅をしている時でさえ、大衆に無闇に詩を披露する事をリュウメイは快く思ってはいない。こんな所でその姿を見せれば、どうなるかなど、ガルジアにも充分に想像できる事だった。
「まずは、そうだな。酒場に行くか。昔馴染みの所がある」
「昔馴染み……あなたって、本当にこういう場所に住んでいたんですね」
「俺は寧ろ、こっちの方が長いくらいさ」
軽口を叩くだけで、リュウメイはさっさと歩き出す。普段のおふざけなどは、まるで鳴りを潜めていた。慌ててガルジアはそれを追い、そしてなるたけ自然な態度で辺りに目を配る。既に、いくつかの視線を感じていた。
「ガルジア。できるだけ、俺からは離れるなよ」
「離れろって言われても、離れませんよ」
「それでいい。ここには、人買いも紛れこんでる。お前みたいなのは、攫われたら最後、三日後には遠くの街で叩き売られてるだろうよ」
びくりとして、ガルジアは辺りをそっと見渡す。そうしなくても、どうなっているのかはわかっている、何人かはガルジアへと露骨な視線を向けていた。中には、リュウメイにそれを向ける者も居たかも知れない。こういう時、少しでも珍しい種族というのは、分が
悪かった。人込みに紛れて逃げても、逃げた先の誰かに見咎められるのがわかりきっているのだ。
恐ろしくなって、ガルジアはそっとリュウメイの隣へ。それから、おずおずとその腕に触れた。
「……こうしていても、構いませんか?」
「歓迎するぜ。この方が、お前が一人だって見られねえだろうしな。まあ、他の奴からしたら、あの白虎は今夜、あの男に抱かれるんだろうなぁって感じだろうがな」
「やめてください、そういう事を言うのは」
「だが、効果的だぜ。お前みたいな奴が、ここで安全を手にするにはな、強い奴の所有物だと、相手に知らせてやる事だ」
「……まったく。なんていう街なんですか、ここは」
そうして、二人揃って、雑多なヌベツィアの街を歩く。人気は充分にある。しかし、活気には欠けていた。それが、ガルジアには何よりも不気味に感じられる。有人の不気味さ。それは今目の前に広がっているのだった。ねっとり、絡みつく様な視線をいくつも
感じたし、それを感じて視線を動かすと、相手も視線を外し、それは人込みの中に巧妙に隠れてしまう。そして、顔を伏せれば、待っていましたとばかりに再びそれはガルジアへと注がれるのだった。泥濘の上を、歩くかの様だった。歩く事に慣れはしても、決して
油断をする事はできず。そうして、歩き続ける内に疲労は溜まってゆく。
沼の中に潜む怪物達は、ただ相手が足を滑らせて転ぶ様を待っているかの様だった。
「恐ろしい街ですね、ここは。まだ、入ったばかりなのに。少しくらい良い部分があるのかと思っていたのが、間違いでした」
「お前みたいに箱入りには、そうだろうな。慣れちまえば、気楽なもんさ」
「……どうして、こんな街が野放しにされているのでしょう? 人買いだなんて。勿論、他の街でも無いとは言いませんが、この街では公然とされているのでしょう? 少しくらい、それが糺されたって」
「それがこの街、ヌベツィアってもんさ。法なんて、何もねぇ。外の奴らは、自分達に害が無ければ、見て見ぬ振りさ」
「でも、少しくらいはなんとかしようって思わないんですか」
「潰すのは、簡単だぜガルジア。だが、完全に無くすってのは、難しい話だ。結局のところ、人買いだのなんだのがあるっていうのは、それが必要だからだ。だったら、それを無闇に追い払って、自分の知らねえ所でやられるより、自分達からある程度
見える所でやってもらった方が都合が良いんだよ。グレンヴォールの奴らはヌベツィアを煙たがってるが、必要としている奴も居る。連中の考えは、概ね、そんなところだろうな」
「そうなんですか……」
ガルジアが思うのは、自分と同じ白虎が、この街にはきっと居るのだろうという事だった。
それらは一人の漏れもなく、人買いの手に渡っているだろう。そういう者をなんとかしたいという気持ちが、殊の外強かった。しかし、どうする事もできない。そして、どうにかしようとしても、リュウメイの言葉通り、見えない所へ逃げられるだけの話なのだろう。
自分の瞳に映らぬ様にして、安心を得たい訳では、少なくともガルジアはなかった。
「あの店だ」
どうにかできないのかと考えていたガルジアの耳に、不意にリュウメイの言葉が飛び込む。弾かれた様に上げた視線の先には、小さな安酒場といった風体の建物が立っていた。雑多な物売りの道から少し外れたそこは、あまり人気がある様には
見えなかったし、街の入口と同じく、看板が律義に掛けられている訳でもなかった。窓はただ壁を四角く切りぬいただけの簡素な造りで、硝子が嵌め込まれている様子も無い。この辺りは、サーモストの建物を彷彿とさせた。扉も、その代わりになっている布が
垂らしてあるだけである。
怯む様子も見せず、ほとんど慣れ切った仕草でリュウメイは布を手で跳ね、中へ入る。腕を解いて、同じ様に入ったガルジアは、中に潜む暗闇にしばし視界を奪われる。その内に、ぼんやりとした薄明かりが見えてきた。
「リュウメイ!」
だが、そんな事を気にしている暇は無かった。それよりも聞こえた言葉に、ガルジアは敏感に耳を震わせる。いつの間にか、リュウメイの傍に走り寄ってきたそれに視線を向けた。まだ、人影としてしか視界に映らぬそれは、しかしリュウメイに抱きついて
いるのだという事だけはわかる。
「久しぶりだな、フェル」
やがて、視界が鮮明になってゆく。そうして改めて目を凝らしたガルジアは、仰天して言葉を失った。
リュウメイの傍に居る、長い髪の犬の者。その髪はリュウメイよりも長く、ガルジアには見えた。本当はリュウメイの方が長いのかも知れないが、リュウメイの髪は多少癖毛の性質を孕んでいるために、水分を含まない限りは、まるで本人の性格を
そのまま露わしたかの様に真っ直ぐになりはしない。対して今リュウメイに抱きついている、リュウメイがフェルと呼んだ相手の髪は、これはもう見事な物ですらりと長く伸び、持ち主の機敏な動きにつられてふわりと宙に舞った後は、ただ重力に従い主の身体の上を
流れていた。
「リュウメイさん、その人は……?」
リュウメイが振り返る。その口がガルジアに返事をするよりも早く、素早くリュウメイに抱きついていた相手が口を開いた。
「僕はこの店の者です。フェルノーと申します。よろしくお願いしますね」
そう言って、優雅に髪を垂らした相手はにこやかに挨拶をする。束の間ガルジアはそれに見惚れてから、声の違和感に気づいて瞠目した。目の前のフェルノーから受ける印象というのは、声を除けば女のそれなのである。
「も、もしかして、あなた……男の人、なんですか?」
思わず、礼儀も平常心もかなぐり捨ててガルジアが問い掛けると、リュウメイが盛大に噴き出した。隣のフェルノーは、そう言われているのに余程慣れているのか、その微笑を微塵も崩そうとはしなかった。
フェルノーの酒場に、ガルジアとリュウメイはすっかり腰を落ち着けていた。実際にこの酒場を仕切っているのはフェルノーではない様だが、看板も立てぬこの店は、確かに周囲の者からはフェルノーの酒場と呼ばれている様だった。また実際、初対面で
ガルジアが仰天した様に、当のフェルノーの印象はとても強い物だったので、ガルジアもここがフェルノーの酒場と呼ばれている事に、異議を差し挟む事もしない。
その酒場の奥、表からは見えぬ場所に、何も言わずにフェルノーはガルジア達を案内したのだった。外から見えぬ位置である事に、ガルジアは安堵した。或いは、顔馴染みであるリュウメイの奔放さを充分に理解して、どうせ今回も何か厄介事に
巻き込まれているのだろうという事をフェルノーは察したのかも知れない。実際、巻き込まれているのだから、それが今は有難かった。
フェルノーの酒場は、表から受ける印象とは対照的に整った酒場だった。薄暗い室内は細かく区切られて、客同士の諍いを避けようとするかの様に作られていたし、天井に目を向ければ、大きな光石が照明のためにそこにあるのだろう。しかし光石の光を
調節するためにその回りには籠の様に壁が造られ、光石の輝きは上にだけ及んでいた。そして天井にはこれまた、角度を予め計算した様に小さな光石と、硝子とが配され、自らに向けられた大光石の光を程良く反射し、それがようやく室内全体へと
行き渡るのだった。一目見ただけで、それが相当に金と時間を掛けて設えられた照明機具だという事は疑いようも無かった。ここが酒場であり、また退廃しきった街中であるというのに、ガルジアは不覚にもしばらくそれに目を釘付けにされてしまう。
くすくすと、小さく笑い声が聞こえて、ガルジアはようやく視線を下げた。自分の様子を見て、フェルノーが艶然と微笑んでいた。そうして見ていると、やっぱりフェルノーは女にしか見えなかった。といって、胸の膨らみが存在している訳ではなかったが。
間にリュウメイを置いて、今は三人揃って、長くてふかふかとした椅子に腰かけている。リュウメイは既にそこが自分の家ででもあるかの様に、背を凭れさせては尊大に構えていた。それに少し、ガルジアは呆れた視線を短い時間向ける。
「そんなに、珍しいのですか? あの大光石が」
「え、ええ。そうですね」
少しだけ、焦った様子でガルジアは苦笑しながら頷いた。実際には、ガルジアとてそれなりに旅をして、各地を巡った身である。産まれたと同時に与えられた地位と場所を忠実に守る者なら、生まれ故郷から外へも碌碌出ずに人生を終える者も居る
だろうし、そういう手合いも、珍しいという程ではない。特に先祖代々の土地を受け継いだ者ともなると、そうするのは当たり前の話だった。それらと比べれば、外の世界を知ったのがついこの間の事とはいえ、今のガルジアは充分に経験を積んだと言っても良い。特に
リュウメイとクロムが、自分をからかうのを一番の目的としてそういった場所に案内をするのはもはや慣れっこであったので、結局のところガルジアが今こうして酒場の天井を珍しく見ているのは、外から受けた印象とは全然違うという、例えればゴミ捨て場に
新品の家具が置いてあったとか、銅貨の山の中に金貨が一枚あっただとか、そういった、その場にそぐわぬ異質な物が存在するという状態であるからというだけの話で、もしフェルノーや、店の者が知ったらとても良い顔をするとは思えない理由から来た物だった。
「へえ、そうだったんですか。僕はまた、リュウメイが連れてきた人ですから。一体どんな海千山千の男の人かと思っていたのですが」
「こいつはそんな玉じゃねえよ。根っからの、箱入りだ」
「そんな言い方はやめてください」
リュウメイの物言いに、ガルジアは強く抗議をする。とはいえ、リュウメイのその主張は真に正しいと言わざるを得なかった。
各地を巡り、見るべき物は見たとはいえ、それでもほんの短い期間の出来事だ。結局のところ、ガルジアは未だ世間の一般常識という物を知っているとは、到底言い難い物があった。それをリュウメイにやり玉に挙げられ、からかわれる事は、今のガルジアには
どうにも落ち着かない行為だった。また、リュウメイも自分が嫌がる事を積極的に仕掛けてくるので、こんな初対面の相手の前でまでしなくて良いではないかと、ガルジアが憤慨するのも仕方が無かった。
そんなガルジアの様子を、少しフェルノーは興味深そうに見つめている。そうして見つめられると、ガルジアはちょっと、初めてこのフェルノーの姿を見た時の奇妙な感覚に囚われる。フェルノーという人物は実際、髪は艶やかで長く、細い身体に沿う様に流れて
いたのだから、それがとても男の姿とは思えなかったし、男だとはっきりと言えるのは、平たい胸と、少し低い声。それから、これは性別による物だから仕方ない事だが、腰回りの骨格は完全に男の物だった。その三つの点にさえ目を瞑れば、確かに
フェルノーは完璧な女だと思った。僅かにくすんだ白色の被毛は、髪と同様にさらさらとしていたし、腕や足はごつごつとしている事もない、もはや疑う余地も無く、女のそれであった。黙って目の前に居れば、ガルジアも相当にどきどきして、長い旅の間まったく
女っ気が無かった憂さを晴らすために、修道士という立場もかなぐり捨てて、満喫したいくらいだった。
今こそガルジアは、声を大にして言いたかったのだった。男色のライシン。更にそこに好色まで備わった、恐ろしいリュウメイ。そこまで行かずとも、保護者的な立場とはいえ、割と踏み込んでくるクロム。そしてこれはもう性的な物を見せられたらガルジアが
気絶しかねない、リーマアルダフレイ。そういう、言ってしまえば魑魅魍魎が集結した団体の中で、唯一なんとか普通だったのは自分だと、召術士のリーマしか居なかった中で、叫びたかったのだ。
自分は女が好きなのだ、と。実際、それを言ったらリュウメイからの嫌がらせの数々は苛烈を極めかねなかったので、ずっと我慢していたのだが。リュウメイという男は結局、ガルジアが困った顔をすればする程楽しいという、本当にどうしようもなく駄目な
男なのだった。そして、非常に残念な事にガルジアの目の前にようやく現れた美しい容貌を持つフェルノーは、男なのであった。結局は、ガルジアの安らぎの場などというのは瞳に映った様で、蜃気楼の様に掻き消えてしまったのだった。
「ところでさ、リュウメイ」
一頻り、ガルジアの様子を見て楽しんだのか、不意にがらりとフェルノーは様子を変える。それを見て、ガルジアは息を呑んだ。先程までも、綺麗な人だなどと勝手な事を考えていたのだが、僅かに目を細め、微笑を浮かべた途端に、一気に艶やかさが
倍増したのだった。その様な仕草に免疫が無いので、思わずガルジアは僅かに視線を逸らして。しかし逸らしきる事もできずにいた。
フェルノーの、灰色の瞳はまっすぐに、そして一心にリュウメイを見つめていた。目だけが猛々しく、その女人に近い風体には不釣り合いな様にガルジアには思えた。
「今日は、どうしてここに……というより、この街に来たの? それとも、僕を迎えに来てくれたの? とても、そんな風には見えないけれど。ガルジアさんみたいな、可愛い人まで連れてこられたら」
「残念だが、そんなつもりで来た訳じゃねえよ。フェル」
一瞬、ガルジアは可愛いと言われた事も抗議をしようかと思ったが、すかさずリュウメイの返答が入り押し黙る。リュウメイの言葉に、フェルノーの瞳は爛々と輝いている。
「今日は、探し物があって来たんだ」
「情報か。まあ、そんな気はしてたよ。僕の所にリュウメイが来るのなんて、本当にそれだけだものね」
「拗ねるなよ」
「リュウメイだけなら、きっと僕、拗ねたりしなかったよ。でも、今日は」
そう言ってまたこちらを見たフェルノーに、ガルジアは今度は全身を凍りつかせる。先程までの、柔和な表情などというものは、どこにもありはしなかった。結局のところ、フェルノーもまたこの街の住人である以上、如何に女らしい格好で、男を誘う仕草をしていても、
その本質のところではヌベツィアの、ヌペツの気性を備えていたのだった。ガルジアは居心地が悪くなって、耳を垂らして、申し訳なく感じて瞳を逸らしてしまう。
「ねえ。ガルジアさんとは、もうしたの?」
「いいや。こいつ、こんな顔して強情な上に、そういうのは男と女がするものだって言ってるからな。それに、こいつは男が好きな性分でもない」
「へえ。意外だな。リュウメイが、そんな人を連れてるなんて。昔のリュウメイだったら……きっと、鬱陶しがっただろうにな。随分、変わったんだね? それに、ガルジアさんも……そんな風に言うって事は、他の白虎とは違うんだねぇ」
「他の白虎と、違う……?」
思わずガルジアが口にした言葉に、しかし笑みを浮かべたままフェルノーはそれ以上の反応を示さない。
「じゃあそれが本当なら、僕にもまだ割り込む余地があるって事かな?」
フェルノーが、すっと身を滑らせる様に動かし、両足を広げて傲岸に座っていたリュウメイの、太股の上へと移動する。そうして、つと腕を上げ、人差し指をリュウメイの胸へ立てた。思わず、ガルジアはその動きに目を釘付けにされてしまう。
「ああ、凄い。昔よりも、もっと逞しくなってる! それに、傷も増えてる。リュウメイ、また、格好良くなったんだね。リュウメイの身体を見ていると、僕は本当にどきどきしちゃうんだ。こんなに逞しくて。こんなに男らしくて」
視線を、ガルジアは二人から逸らそうとした。見てはいけない物を見ている気分になる。しかし、どうにも外せない。
リュウメイは何をしているのかと束の間考えた。こんなに易々と触れられて、不機嫌になってもおかしくはない。事実、ライシンが居た時は、ライシンの熱烈な接触は尽く怒りを顕わにして追い払っていたのだ。ライシンが懲りる様子はまったく無かったが。
今、リュウメイはただ為されるがまま、フェルノーを受け入れていた。腿に乗ったフェルノーの身体も、そのままにしていた。もっとも、もしライシンが同じ事をしたら、そのまま支えるのは難しいので、まったく別の怒りがリュウメイを動かしていたのは想像に
難くなかったのだが。
胸に当てられた指が、僅かに動きを見せる。恍惚とした表情で、フェルノーはリュウメイを見つめていた。ややもすれば、口から涎が垂れてもおかしくない程にその表情はのぼせあがっていたし、指先は僅かに震えてもいた。その被毛とは対照的な黒い爪先が、
リュウメイの隆々とした筋肉の詰まった胸に僅かに減り込んでいる。そうしながら、ふとフェルノーはガルジアを見ていた。先程までの微かな剣呑さも、今は感じられはしない。ただ、妖しく笑う一人の男がそこに居た。
「ガルジアさん、本当に男は駄目なの? 女好きだって言っても、こんなに逞しい身体があったら、少しくらい、感じ入るのは不思議な事じゃないよ。そうは、思わない?」
「そ、それは。勿論、リュウメイさんのそういう部分は、素直に凄いなって思いますけれど。でも、それと、恋愛感情とか、そういうのはまた別の問題です」
「そうなんだ。やっぱり、普通の男の人って、そうなんだ。なんだか、可哀想だね。こんなに立派な身体がここにあるのに。それに、見てよ。この身体の傷。それとも、見飽きちゃってるのかな? なんてね。この身体と、剣一つでリュウメイはずっと
生きてきたんだよ。僕は、見た目がこんなもんだから、本当に憧れているんだ。腕だって、こんなに太い。腰回りは、僕より少し太いくらいで、寧ろすっきりとしているのにね。戦いに出るから、剣を振るうから、それで腕はこんなに太いんだ。こんなに逞しくて、
力強い腕に抱かれたらって、僕はいっつも考えてるよ。実際に抱きしめられたら……ああ! きっともう、何も考えられなくなるんだろうな。黙って、リュウメイのしたい事を、なんでもさせてあげたくなっちゃう。そうしたらきっと、今度は腕だけじゃない。
分厚い胸板と、この深紅の美しい髪が包んでくれる。そうして。そうして、それでね……」
張りのある筋肉を弄びながら、少しずつフェルノーの指が下へと移動する。目を、逸らさなければ。そう思った。思うだけだった。そこにフェルノーの指が及んでも、ガルジアはまだ、視線を動かせなかった。そしてまた、リュウメイも黙ったままだ。
「ここも。ああ、ちっとも膨らんでないや。酷いな、リュウメイ。僕がこんな事をしたら、大抵のお客さんはもう、僕の思い通りなのに。しまってあるのって、実際、ずるいもんだよね! どんな大きさなのか、外からじゃちっともわからない。それに、リュウメイはこういった、
僕のやり方じゃちっとも反応してくれない。想像するだけで、僕の方はもう、我慢できないくらいなのに」
「その辺にしとけ、フェル」
熱気が満ちていた場に投げ込まれたリュウメイの言葉の効果は、凄まじい物だった。ガルジアははっとして、顔を上げる。リュウメイはまるで何事も無かったかの様に穏やかな表情をして、フェルノーは悔しそうに身を引いていた。そして、ちらりとこちらを一瞥する。
「ガルジアさん。そんな顔しちゃ、駄目だよ。まるで、興味があるみたいじゃない? もっと、嫌がってくれなくちゃ。これじゃ僕、あなたとリュウメイをくっつける役割になっちゃう。実際、リュウメイは僕にはちっとも手を出してくれないしね」
「ちっとも……?」
とてもそうは思えなくて、ガルジアは思わず口にしてしまう。それに、ちょっと寂しそうにフェルノーは頷いた。そうして寂しさを滲ませた顔は、これまた別の美しさがあった。人懐こい笑みを浮かべていた先程とはまた違う、この男の魅力なのだろう。それに、
ガルジアの方がちょっと胸の鼓動が早くなるのを感じる。男だとわかっていても、フェルノーには他の男を確かに惹きつける力が備わっているのだった。
「そう。ちっとも。こんな事を目の前でやって、ごめんね。でもやっぱり、今回も駄目だったな。リュウメイに会えない間、僕はずっと自分の身体を一所懸命磨いているし、いつだって一番可愛くなる様にしてるんだけど。全然駄目なんだよね」
「いい加減、諦めなフェル。お前なら、他の男なんて選び放題だろ。大体、さっきから他の席の奴らも耳を澄まして、お前が騒いでいるのをじっと聞いてるんだぞ。後でそういうのに絡まれる俺の身にもなれ」
「いいもん。僕を振ったリュウメイが悪いんだから。……なんていうのは身勝手だね。まあ、襲わない様には言い含めておくよ。リュウメイの傷が増えるのは嬉しいけれど、卑怯な手でそれが増えるのは、嫌だからね。正々堂々戦ってくれるのなら、それはそれで、
僕もちょっと考えるけれどね」
「結局襲ってくるじゃねぇか」
「そんな気概のある奴、流石にもう居ないよ。昔散々リュウメイに追い返されたじゃないか。……さて、そろそろ、この話も終わりにしようか」
ふわりと立ち上がると、フェルノーはそのまま髪を靡かせて、卓の向かい側へと移動してから、淑やかな仕草で座り込む。
「待たせたね。ここからは、リュウメイの話を聞くよ」
「ようやくその気になったのか。実際、堪んねぇな。会う度、一々こんな事しやがって」
「そんな言い方しないでよ。だったら、他の情報屋を探せばいいじゃない」
「お前目当ての奴らをぶっ飛ばしてたら、他の酒場が入れなくなっちまったんだよ。情報どころじゃねぇや」
「あらそう。お気の毒だね」
一度、リュウメイが呆れた様に溜め息を吐いた。フェルノーはにこにことそれを見つめている。こういうやり取りでは、フェルノーの方がこの街に揉まれている分、上手の様だった。
「良いじゃない。その分、リュウメイにあげる情報は、全部タダなんだから」
「金払うから前半部分を省略させろ」
「酷い。大抵の男はあんな事したら僕の事押し倒しちゃうくらい興奮してくれるのに。それに、それは絶対駄目だよ。もしかしたらリュウメイがすっごく興奮している時なら、僕にもちょっとくらい機会があるかも知れないんだから」
「ねえよ」
「本当? じゃ、今度とびっきりの惚れ薬とか、仕入れてお酒に入れて、二人っきりになってみようね?」
「ふざけんな」
既にその場で交わされるやり取りは、その中身に目を瞑れば、友人同士のたわい無い会話といった状態だった。ガルジアはそれよりも、惚れ薬という言葉に、ディヴァリアでの苦い一夜を思い起こして苦笑してしまったのだが。
リュウメイが、一度出されていた酒を煽る。それを見て、ガルジアは居住まいを正した。
「話ってのは……まあ、察しの通り、情報だフェル。お前、魔剣の事を最近聞いちゃいねぇか?」
「リュウメイさん。そんないきなり、言ってしまって良いのですか? さっき、目的を知られない様にしろって」
「フェルは別だ。いくら重大な情報でもタダだからな」
「む。そんな事言うと……なんてね。勿論、タダだよ。僕の知っている情報に限るけれどね。それで、なんだって? 魔剣? ……ふうん。この辺りに居なかった割に、随分耳が早いんだね?」
「どうしてこの辺りに居なかったって、わかるんですか?」
「当たり前じゃない。こんな目立つ格好良い剣士が歩いていたら、噂にならない訳がないよ!」
格好良いかは別として、確かにリュウメイという男がかなり目立つのは、ガルジアも頷かない訳にはいかなかった。
いつもガルジアに、厄介事になるから目立つのは控えろとリュウメイは言うが、実際、注目の半分くらいはリュウメイが受け持っているのではないかと内心思っているのだ。口にすれば怒られそうなので、黙っているが。
「その口振りだと、知ってるみてぇだな」
「まあね。そういった怪しい品物はグレンよりも、ヌベツィアの管轄になりやすいし。持ったら危ないっていうじゃない? 聖法や邪法が単に掛かっているというよりは、呪いに近い。もし実在して、売りに出されていたら。どちらかと言えばこの街の方が扱いやすい
品ではあるのだろうし、手に取りやすいかも知れないね」
「どこにあるのかは、わからねぇのか?」
「ふうん。リュウメイ、その剣に興味があるんだ。その腰の剣は凄く立派だし、昔からそれを使っているから、大層良い物かと思っていたのに。流石に、限界が来たのかな?」
「つまらん詮索をするんなら、俺は帰るぞ」
「ああ、待ってよ。ちゃんと話すから。といっても、僕もそれについては、まだ噂話程度の事しか知らないよ。その話がこのヌベツィアで広がったのも、つい最近だからね。でも、個人的なお節介から言わせてもらえば、そういうのにはあんまり手を出さない方が良いと
思うな。いくらリュウメイが剣の腕が立っても、呪いのかかった剣は、また別だよ。呪いに抵抗するなら、聖法を極めて浄化するか、邪法を凝らして調伏するか……結局は、法術の才能が必要になる」
「有難いお言葉だな。案外、お前なら楽に持てたりするんじゃねぇのか、フェル」
「とんでもない。そりゃ、僕だって多少は心得はあるけれどね」
そういって、卓に備え付けられた爪楊枝を一本弄ぶ様に手に取ったフェルノーは、ちょっと力を入れたのか、爪楊枝はその手を離れて宙に浮かぶ。ガルジアが驚いてそれを見つめている目の前で、爪楊枝に火が点いて、次第にそれは黒い針へと変貌してゆく。
「フェルノーさんは、邪法が使えるんですね」
「ちょっとしたお遊びだけどね。僕はほら、身体を鍛えるって訳にはいかないからね。女の子の服、全部入らなくなっちゃうし、客足にも、情報を集めるのにだって響くし」
「いいんじゃねぇか。いっそ、そのひらひらした服がはち切れそうになるくらい鍛えちまえば」
「それで、リュウメイから愛してもらえるなら、喜んで僕は変わってあげるけどね。僕だって、男の子だもん。……ともかく、リュウメイが手を出すのは、心配だな。そちらのガルジアさんも、特別魔力の様な物は感じないし。剣は一応持ってるみたいだけど……なんだか、
お綺麗って言っちゃ悪いけれど、剣の腕が立つ様な感じでもないな」
「ええ、お恥ずかしい話ですが」
「それでも、探すつもりなんだね。そうでないなら、僕の所まで来ないだろうしね。でも、これ以上の情報は今の所無いんだ。ごめんね。そうだな、あと数日もすれば今外に出ている連中が、各々品物を持って帰ってくると思うよ。そうしたらまた情報は
新しくなる。その中に魔剣が無くても、行った場所の話を聞くだけで、少なくともそこに魔剣が無い可能性は高くなる。だから、また来てもらえるかな? 僕の方でも、今までは小耳に挟むだけで、深く踏み込まなかった事だから、もう少しやれる事もあると
思うし。どうかな、リュウメイ。それで良いかな?」
「ああ。俺も久しぶりにこの街に来た。少し、色々見ておきたい」
「そう。でも、裏の市場にはあまり行かない様にしてね。リュウメイはもう有名人だし……その隣のガルジアさんは、白虎だし。まあ、リュウメイを憶えている人が居たら、絶対手を出そうだなんて思わないだろうけれど」
「だが、既にこの街に魔剣があるとしたら、どうせ闇市にしかねぇんだろ」
「そうだけどね。でも、もしそうだとしたら、これはよくよく用心しないといけないよリュウメイ。もし魔剣が既にこのヌベツィアにあるのなら、もっと情報はあって然るべきだよ。でも、僕はそれを知らない。情報屋も知らないって事は、巧妙に隠匿したまま、この街に
運び込んだって事になる。そしてそうやって運び込んだって事は、それなりの力を持っている奴の手にそれはあるって事だよ。如何にリュウメイが百人力だと言っても、それは剣の話。法術士だのなんだので大量に囲まれたらどうしようもない。特に今回は物が
物だけに、法術に詳しい奴は必ず用意されているだろうしね。そいつらが向かってこないとも、限らないんだよ。リュウメイ」
「ご忠告、痛み入るぜフェル」
「またそんな事を言う。まあ、リュウメイが僕の忠告を聞いてくれた事なんて一度も無いけどさ」
そこまで言い終えると、フェルノーはまるめていた背を伸ばし、軽く息を吐く。話は、それで全部の様だ。
「これから、どうするのリュウメイ?」
「とりあえず、しばらくはこの街に居るつもりだ。魔剣の行方にもよるがな。まずは、宿だな」
「うちで紹介しようか?」
「やめとくぜ。お前の紹介ってのは、結局お前にお熱な連中の伝手が大半なんだろ。行くぞ、ガルジア」
「あ、はい。フェルノーさん。ありがとうございました」
「こちらこそ。また、来てくださいね。ガルジアさん」
立ち上がったフェルノーは、淑やかに、貴婦人めかしてスカートの裾を手に持ち、片膝を折り頭を垂れる。リュウメイよりは低いとはいえ、自分とは同じぐらいで、決して背は低くないフェルノーがそうすると、少しだけまた違和感をガルジアは覚える。
リュウメイと揃ってフェルノーの酒場を抜け出すと、再び、あの通りへと戻ってきた。途端に感じる視線に、ガルジアはまたぴたりとリュウメイに寄り添う。街の中というのは、本来なら安心できる場所であって然るべきだというのにと、ガルジアは思わざるを
得ない。この街の中で安心できる場所があるとは、とても思えなかった。
「リュウメイさん。宿を探すのでしたよね」
「そうだな」
「な、なるべく穏やかな場所をお願いしますね。こういう街ですから、私はもうなんの力にもなれそうにないですし。綺麗な場所だとか、そんな贅沢言いません。とにかく、落ち着ける場所で」
「そうすっと、もう少し裏通りの方かもな。安全だっていうのなら、そこら辺でおっぱじめてる奴らの中で部屋を取るのが一番いいんだが」
「ええっ!? ぜ、絶対嫌です! というか、なんでそんな所が安全なんですか!」
「そりゃあ、おめぇ」
ここにきて、リュウメイは街に入る前に見せた物と同じ、嫌らしくガルジアを見つめるとびっきりの笑みを浮かべる。
「周りに居る奴らの目的は、そうやって部屋に入って、狙った奴とやってる事だってはっきりするからな。逆に、静かな場所ってのは、周りの目的がわからねぇ。それに、俺達みたいに、何かしら事情持ちも多くなる。俺達……つーか、お前を目当てにした奴も、
そうでないがやばい奴も、とにかく集まりやすいってこった」
「えっと、では、その辺りのお店の方が安全なのですか?」
「ああ。安全だ。そりゃまあ、うるせぇ事はうるせぇがな。あとはお前や俺みたいなのは、一緒に混ざらねえかって誘いもあるだろうな。良いじゃねえか、ついでに童貞貰ってもらえば」
「嫌です! 絶対に、嫌です! 奥に行きましょう!」
「あーあ。これだから貞操が大事だとかなんだとか時代遅れの事言ってる奴は嫌なんだよ。それなりの歳になったら、男も女も、それなりにむらむらしちまうもんなのにな。てめぇだって、そうやって潔癖症な顔はしても、たまに不安でも一人になってやる事済まして」
「リュウメイさん!」
今度の声は、流石に大きかった。リュウメイは舌打ちをして、今度ははっきりと浴びた視線を追い払う様に歩を進める。ガルジアも慌ててそれに続いた。大変不服な事だが、周りからの視線は冷やかしの籠った物が多かった。大方、この意地悪な蜥蜴男の
相手をするのが自分だとでも思っているのだろう。そんな事は断じてないのだと、ガルジアは叫んでしまいたかった。先程の、酒場でのフェルノーとリュウメイのやり取りを。リュウメイの鍛え抜かれた身体を今更の様に認識してしまった事も、それで全て
忘れ去ってしまいたかったのだった。
人込みの中で、赤髪が揺れる。時折それを見つめる者の中に、目を見開く者を見咎める。それが、自分ではなく、リュウメイを。昔からリュウメイを知っている者なのかも知れないと、ガルジアは注意深く見つめていた。そういう者達も、即座に目を背ける。
視界の端に、虚ろな目をした者が微かに見えた。みすぼらしいその姿。買われた人だと気づくのに、時間もかからない。ガルジアは思わずリュウメイの腕を引き、懇願する様に見上げた。リュウメイはただ、ガルジアがどうしてその様な行動に出たのかだけを
束の間調べ、把握すると、その内に何も言わずにまた歩を進める。酒場に入る前の言葉を、ガルジアは思い出した。
二人の姿が、やがてヌベツィアの、ヌペツの中へと埋れてゆく。