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10.白虎、独り

 夕焼けの空が自分を見下ろしている。
 茜に染まった空には、夜を控えて森へ帰ろとする鳥の姿がいくつも見えた。それらを送り出す風は快い。
 しかし今のガルジアに、それらに心を動かす余裕はなかった。
 痛む足を引き摺る様に、ガルジアは懸命に一歩を踏み出した。踵が大地を踏む度に激痛が走り、呻き声を上げる。しかし同時に
その痛みこそが、途切れそうな自分の意識を懸命に繋ぎ止める鎖の役目をも果たしていた。しゃくりあげる自身を叱咤して、また足を伸ばす。
 喉の奥が焼け付く様だった。ひゅうと息を吸い、唾液を必死に口内で生成するとそれを飲み下す。すぐに呼吸を再開する。
 振り返る。遠くでは宵闇が迫っていたが、その闇を追い払う様に赤々とした光は上っていた。夕焼けとは、また違う色の赤である。
 林道を歩いていたガルジアの瞳には、木々に邪魔され灯りと、そこから立ち上る黒煙しか見る事が出来ない。
「……どうして……」
 涙を流しながらそれを見つめる。あそこには、修道院があった。
 握り締めた剣を見つめる。歌聖剣。今の自分にあるのは、この一振りだけだった。この剣が今のガルジアの支えだった。
 ほとんど使われた事のないそれは、沈黙を守りガルジアの視線を受けていた。今の自分ではもどの様にも扱えはしない剣。
 馬蹄の響き。耳を震わせ、咄嗟にガルジアは道を外れる様に身を投げ出した。
 強かに全身を打ちつけ、そのまま転がる。元々道の左右は坂道だったから、身体の勢いは坂の下まで止まらなかった。
 痛みと回転により立つ事も出来ずに居るガルジアの真上に、蹄の音が轟く。胸が張り裂けそうだったが、そのまま音は通り過ぎていった。
 馬が遠退き、辺りはしんとする。代わりに飛び込んでくる虫の声だけが、やけに煩く感じる。堪えていた息を吐き出した。
 何度も呼吸をするが、立つ気力は既に無かった。土に塗れた身体は外見だけではなく、その中も疲れきっている。
「どうして、こんな事に……」
 蹲りながら、嘆きを零す。昨日まで、あんなに平和な日々を送っていたはずだったのに。
 夜の闇が迫ってくる。このまま、消えてしまいたかった。闇に融ける様に、ゆっくりと呼吸を整える。
 眠くなってきた。楽になれるのだろうか。
「リュウメイさん……」
 ガルジアは、リュウメイを呼んだ。

 パチパチと小気味好い音がした。それと同時に、温かさを覚える。闇夜となった今は、それが沁みる。
 薄っすらと目を開け、ガルジアは息を吐いた。身体はまだ痛む。それに気を配るよりも、自分の置かれている状況を把握する事に専念した。
 辺りには炎に照らされた木々が、別物の様に照らされている。拘束を受けている様子は無い。それで、安全だと確信した。
 捕まっていたら、こんな状態で居る事はないだろう。さっさと馬に乗せられるか、檻にでも入れられている。
 炎が揺れる。新しく枯れ枝がくべられて、喜んでいるかの様だった。せっせと火の面倒を見るその人物をガルジアはそっと見上げる。
「気がついたか」
 炎に照らされた相手は、ガルジアの様子を見て声を掛けてくる。落ち着いた、少々低すぎて聞き取りにくい声だが、
なんとなく、優しい声だとガルジアは思う。
「……あなたは」
 鬣犬の顔をした男はこちらをじっと見つめていた。
 軽そうな革の鎧に、錆びついた首飾りをしている以外は平凡な格好のその男。鬣犬という外見とは不釣合いな程柔和な表情と、
口元に僅かに笑みを湛えている様は、ガルジアを安堵させるには充分な物があった。頭頂部には、鬣犬特有の鬣が遠慮がちに見えている。
 西の大陸で山賊と対峙していた時に助けてくれた男だった。
 ガルジアは起き上がると居住まいを正す。感じた痛みは、顔には出さなかった。
「あなたが、私を助けてくれたのですか?」
「そういう事になるのかな」
 男が一際強く笑みを浮かべる。そうすると、口角が持ち上がり鋭利な牙が飛び出して、ちょっとだけ胡散臭い鬣犬の雰囲気がようやく現れる。
「二度も助けていただけるだなんて、なんとお礼を言っていいのか。本当にありがとうございます」
「いや、私も盗賊が暴れていると聞いてそれを追っていたからね。ただ、逃げられてしまった」
「……そうだ、修道院の皆は」
 はっとして、焚き火を避けて男に詰め寄る。男は黙ったまま首を振った。
「すまない。私が来た時には、修道院はもう燃えていたよ。近くの村の者も来ていたから、そちらは任せて賊を追ったんだ。
そうしたら、君が倒れていてね」
「そうですか……では、私は陽が昇ったら修道院に」
 ガルジアの言葉に、男は僅かに顔を顰める。愁眉を見せては、声を詰まらせる。
「……それは止めておいた方がいい。賊が狙っているのは、君の様だからね。
君が戻ったと知れば、賊も再び現れるだろう」
「そんな」
 俯いて瞼を閉じる。また、白虎だ。
「それに、言わない方が良いのかも知れないが、生存者が期待出来る様には見えなかった。
よくはわからないが、一度大きな爆発がしたそうだからね」
「爆発……そう、ですか」
 涙が浮かぶ。しかしガルジアはそれを拭って、深呼吸をした。許されるのならば、ここで声を上げて泣き出したい。
 しかし辺りにはまだ賊が潜んでいる可能性が高いし、二度目の接触とはいえ、ほとんど知らぬ男の手前でもある。必死に自分を抑えた。
「お名前を、教えていただけませんか。二度も助けてもらって、名も知らぬとあっては申し訳なく思います」
 まっすぐに男を見つめる。背の高い、すらりとした男で、下生えの上で身を乗り出しているガルジアにとっては見上げる形になった。
 詰め寄られて、男は僅かに躊躇いの様子を見せる。
「……クロムだ」
「クロム様ですね。私は、ガルジアと申します」
「何もそこまで畏まらなくてもいい。寧ろ、修道院の者なら私が敬意を払うべきだろう」
「わかりました、クロムさん。しかし、申し訳ございません。二度も助けていただいたのに、私はなんのお返しも出来ません」
「状況が状況だから、仕方ないだろう。それに、聖職者を助ける事は名誉な事だ。
私にはそれだけで充分な事なのだよ」
「そ、そんな……有難うございます。なんとお礼を言ったらいいのか」
 思わずじんとしてしまう。リュウメイ達に連れ回されたせいだろうか、慎み深いその対応にガルジアは申し訳なく思う。
 傭兵ならば、それこそリュウメイの様に金や、相手によっては身体を要求するのは当たり前の事なのだ、という事を、ガルジアはリュウメイとの
旅を通してよくよく味わっていた。もっとも、身体を張っているのだから、そのぐらいの見返りは当たり前だと、いつかリュウメイは言い放っていたのだが。
「朝が来たら、ここも離れよう。長く居ては危険だろう」
「私と一緒だと、ご迷惑では?」
「何、私は盗賊狩りも生業の一つだからね。寧ろ有難いところだ」
 言われて、クロムが賊と一戦交えていた時の事を思い出す。確かにリュウメイと同じ様に、人とは思えぬ動きだった。
 重ねて礼を言いながら、ガルジアは再度眠りにつき、空が白みはじめると、身を起こして林を抜け必死に丘を昇る。
 丘の上では、自分の居た修道院がよく見えた。それを逸早く視界に収めたかったのである。
 実際に見た途端、ガルジアは目を伏せ、息を吐いた。そこにあるのは、馴染み深いラライト修道院ではなかった。クロムの
言葉通り爆発が起きたのか、建物は崩壊し、未だ消えやらぬ黒煙がもうもうと立ち上っていた。遠くてよくは見えないが、少なくとも
その周りを含めて、大勢の人数が居る様には見えない。賊もまた、どこかへ去ったのだろうか。
「大丈夫かい」
「……はい」
 自然と涙が流れる。背後で待っていたクロムが、気遣う様に声を掛けてくる。
「……皆、私を逃がすために死んだのですね」
「そんな事は」
「いえ、そうなんです。賊が来た時、私はどうして賊が来るのか、よくわかっていました。旅の間、ずっと、そうでしたから。
見た事も無い数の賊でした。戦うだけ、無駄にしか思えなかった。それなのに、院長様も、他の修道士も、私を逃がす事を優先させたんです。
……私が、自分が行けば済む話だと言っても」
 頑なにガルジアの意思は拒まれていた。とにかく逃げろ。それだけを言い、修道院に居る全員が賊を迎え撃とうとした。
「私には、皆が命を賭けて守る。そんな価値はありません。どうして、皆は」
 風を確かめる。修道院に向かって吹いている事を確認して、静かにガルジアは詩を口ずさむ。
 あの場所へ届くだろうか。自分のために死んでいった者達に出来る事は、今はこれだけだった。
 自分が戻る訳には行かない事はクロムに説明されたばかりだ。今戻れば、下手をすれば村の者まで巻き込む。
 言の葉を風に乗せる。風が運んでくれる事を願って。静かに歌う。
 一頻り歌い、落涙を払う。振り返ると、鬣犬の目にも涙が浮かんでいた。それを、少し意外そうに見つめてから、ガルジアはまた涙を流し胸に手を当てた。
「あなたも泣いてくれるのですね」
 クロムは黙ったまま涙を拭っていた。
「先を急ごう。今の詩は、快かった。しかし賊の耳にも届いたかも知れない」
「はい」
 振り返らずに、ガルジアは歩き出した。
 もう、自分の居場所はどこにも無くなったのだと胸で呟く。

 真新しい服にガルジアは袖を通す。腕や足が露出していて、少しの羞恥心に耳を下げた。丁度、
ディヴァリアでリュウメイが見立ててくれた服と似ている。その服も、持ち出す事は叶わずラライト修道院と一緒に燃えたのだろう。
「一先ずはこれで大丈夫だろう」
 こちらの格好を見たクロムが頷く。
 修道院から急ぎ足で逃げたために、ガルジアはまた修道士のローブを見に纏っていて、
まずはそれをどうにかする必要があった。賊がどこに居るかがわからないために、村の中に入る事も躊躇われ、
結局クロムが一人村に行き、適当に服を見繕ってきてくれていた。
「あ、あの。ちょっとズボンの丈が短くありませんか」
「少年らしくていいんじゃないか?」
「もうそんな歳じゃありません」
「まあまあ。その方が聖職者に見えなくて良いじゃないか」
 言葉巧みに丸め込まれる。前にもこんな光景があった気がした。場所が場所なら頭から黒いローブでも被るのだが、何分都会とは勝手が違い、
そんな格好をしていれば白虎とは感づかれはしないだろうが、怪しい人物として結局話題になるだけだった。
 周囲を警戒しながら近くの小村に入る。修道院を抜け出してから数日が経っていた。満足な食糧をクロムが持っていた訳でもない。
 旅慣れた者なら平気だろうが、修道士であるガルジアにはやはり辛い物があった。リュウメイ達の旅で大分鍛えられたとはいえ、
やはり長年修道士として生きてきた身体は、そう簡単には丈夫にはなってくれない。
 疲れた様子を微塵も感じさせていないクロムは、黙ってガルジアを宿へと案内してくれた。
 宿の食堂で念願だった食事にありつく。しつこいぐらいにクロムには礼を言った。当然、金など持ってはいない。
「落ち着いたかな」
 一頻り食事をしてから、最後に水を飲んだ頃にクロムが口を開く。ガルジアは我に返り、はにかむ様に俯いた。
「す、すみません。元々あまり食べていなかったもので」
 リュウメイとの旅を終えて、まだ十日余り。ガルジアの精神もようやく持ち直し食欲が出てきた矢先の事件だった。申し訳ないとは
思うし、気持ち的には暢気に食べている場合ではなかったのだが、身体はどうしようもなくそれを求めていた。
「いや、いい食べっぷりだった」
 からかわないでください。そう言いたかったが、代金を肩代わりしてもらった手前ガルジアは耳を下げる他なかった。
「ところで、前に会った時に居た人は居ないのかね」
「ああ……」
 リュウメイの事をクロムが言っているのだろうと、ガルジアはすぐに理解する。思い返せばあの時ライシンは居なかったのだ。
「彼は、その……また旅に」
「そうか、今の君は一人なんだね」
「はい。申し訳ない事です。助けてもらったのに、私に出来る事は、何も」
「それは構わないさ。事情が事情だ」
 その返答に、本当に出来た男だとガルジアは思う。リュウメイとは大違いである。
「今日はもう休んだ方がいい。疲れただろう」
 食事を終えると、クロムはそう言って宿も取ってくれる。何から何まで、ガルジアは申し訳なくなってしまった。
 リュウメイだったら、今頃は恩着せがましくにやつきながら自分に構っているのだろうと思う。それを思い返して、ガルジアは複雑な気持ちになる。
 リュウメイがそんな扱いをするものだから、自分もつい口が出てしまっていたのだ。そんな日々の連続が、楽しかった。今更、そう気づいた。
 部屋に案内されると、早々に床に着く。クロムは気を利かせてくれたのか、何も言わずに隣の寝床に居る。
 しばらくしてからゆっくりとガルジアは起き上がる。目が闇に慣れた頃、床に足を立てる。
 そういえば、リュウメイもこんな風に夜になると起き上がっていた気がする。
 思わずガルジアは笑った。何かあれば、あの男の事ばかりである。それだけ、リュウメイの一挙一動がガルジアにとっては新鮮なものだった。
 きっと、他を探してもあんな偏屈な人はそういないし、これから出会う事も、ないのだろう。
 物音を立てない様にして、身支度をして宿の外に出る。少し歩いた所で立ち止まり、空を見る。昇った月は丸く、ガルジアの身体を輝かせる。
 しばらく、それをぼうっと見つめる。旅をしていた頃は野宿をしていたから、よく見ていた光景ではあった。
「寝付けないのかね」
 声が聞こえて、慌てて振り返る。自分の動きを察していたのか、宿の入口にクロムが佇んでいた。
「クロムさん」
「夜は冷える。動くなら、朝の方を勧めるがね」
 出て行こうとするのを見通しているのだろう。ガルジアは一度俯いた。
「ごめんなさい、勝手に動いて……けれど、私は他の人とは一緒には居られません。
私が居る事で、周りに迷惑が掛かってしまいます」
「だから、自分から賊の群れに飛び込もうというのかな?」
「それは……」
 恐ろしかった。何より、納得出来なかった。生まれてこの方、清貧に生きてきた。ただ、自分は他の者とは一つだけ違っていた。
 その一つの違いで、理不尽に追い回される。脅かされる。冗談ではない、と思う。しかし、自分が居る限り周りの者はただ被害を被るのだ。
 それこそ、冗談ではないだろう。
「もう沢山なんです、私のせいで人が死ぬのは。
私が居なければ、修道院の者達は誰も死にはしなかった」
 外に出たのがいけなかったのだ。それまでは、あんなに平和な日々を送っていたのに。
 外に出ず、誰にも会わず。自分はただ我慢をしていれば良かった。
 我慢をしたまま、死ぬべきだった。
 言葉にしなかった想いは、しかし胸の中で溢れていた。ここに来るまで、ずっと考えない様にしていた。それも、限界だった。
「多くを望んだ訳ではありませんでした。外を見てみたい。当たり前の事でした。
でも、私には許されなかったのですね。私は、そんな事も知らなかったんです。
あんなに、外には、外の人々には、軽々しく近づいてはいけないと言われていたのに」
 外には、出逢いがあった。閉じ篭っていては何一つ知らずに居たままだった事。その全てに出逢えた。
 しかし代償は大きかった。そして、その代償を払ってまで自分が外に出るべきではなかったのだ。
「クロムさん、ありがとうございました。助けてくれて、私は嬉しかった。誰かに手を差し伸べてもらえた事。それだけは、私は忘れません」
「ガルジア」
 背を向けようとした自分の名を、クロムが口にする。そういえば、名前を呼ばれたのは初めての様な気がした。
「どこにも行く必要はない。今は、私が傍に居よう」
「でも、それではあなたが」
 クロムの強さは信用していた。しかしそれでも一人は一人なのだ。多数で襲われたら、どうなるのか。
 あのリュウメイでさえ、ガルジアが人質になった時は、深い傷を負っていた。自分が居るから、そんな事が起きるのだった。
「大丈夫だ、私は死なない。…………いや、死ねないというべきかな」
「え?」
 態々言い直した事に戸惑い、ガルジアは知らぬ間に溢れていた涙を拭う。それを気に留める事もなく、クロムはナイフを
取り出す。それを無造作に払い、自分の腕を切り裂いた。
「な、何を!」
 瞠目して、慌ててガルジアは駆け寄る。
 黒い被毛の中にある切り傷を確認して、ガルジアは息を呑む。血が一滴。出てきたのはそれだけだった。違和感を覚えて、
しかしその正体を掴めずに傷口とクロムの顔を交互に見つめる。
「私に触れた事はあるかい」
「い、いえ」
 クロムがそう言ったきり黙っているので、ガルジアはその腕に触れてみてまたも驚く。冷たく、死人の様だった。
「これは……」
「私は一度は死んだ身なんだ。今こうしていられるのは、呪いで死ぬ事が許されないからだ」
「死ぬ事が……許されない」
 呆気に取られて、ガルジアはその顔を見つめる。言ってしまえば、先程までは自分が話の中心であり、去ろうとする
ガルジアをクロムが引き留めていたのだ。今はただ、呆気に取られてクロムに視線を向ける事しか出来ない。あまりにも突拍子な
話題の切り出し方に、どう反応を示していいのかわからなかったのだ。
「すまないな、こんな風に君に打ち明けたくはなかった。しかしこうでもしないと君は一人になろうとするだろう」
「あ、あの……」
「それとも、死人と変わらない私と居るのは嫌だろうか」
「そんな事は」
 というよりは、説明をされてもクロムが死人だとは思えなかった。今もこうして目の前に居て、話をしているし、死者の発する
嫌な気というものも、強く感じている訳ではなかった。クロムが腕を傷つけた時に、僅かに違和感を覚える程度の物でしかない。
「ガルジア、私と来てくれないか。私はこの呪いを解く方法を探していてね、そのために傭兵として旅もしている。
これといった当てはないから、どこを歩くのも構わないし、君の心配する様に死んだりもしない。君を一人にさせるより、ずっと良いと思うのだが」
 まっすぐに見つめてくる、鬣犬の男。澄んだ瞳だけが不釣合いで、ガルジアを捉える。
「どうして、そこまで私に」
 思わず出た言葉に、クロムは微笑む。優しげな表情だった。本当に、鬣犬という種族に不釣合いな男だと思う。
「一人で旅をするのも、もう飽きてしまったよ。寂しいだけだからね」
「寂しい、ですか」
 俯き、ガルジアは目を瞑る。自分も似た様なものだった。何も言わずその隣を通り、宿へ戻る。一人で行く事は諦めた。自分が行けば、
クロムも共に来るだろう。
 クロムは黙って付いてきていて、ガルジアは一人部屋に入ると、そのまま横になり朝を迎えた。
「クロムさん」
 朝日を浴びて、ガルジアは部屋に迎えに来たクロムを見つめる。結局、ほとんど眠れはしなかった。今までも考える事が
山積していたのに、そこにまた、クロムの存在である。立ったままのクロムをガルジアは見上げる。こうしていると身長差で首が痛くなりそうだった。
 昨日クロムが言っていた事を振り返る。朝日は平気なのかと思ったが、当の本人は別段辛そうな様子を見せる事もなかった。
「……私は、あなたと共に行きます。私でお役に立てるのかは、わかりませんが。
今の私はどこへ拠る事も出来ない根無し草。元より、他の方の手助けも出来ない身ですし」
「そう言ってくれると助かるよ」
「けれど、本当に私でいいのですか?」
「勿論。それに、君を守る事で私にも意味が生まれる」
 クロムが剣を取り出し、跪く。ぎょっとして、ガルジアはうろたえる。
 肩膝を突いたまま鞘の先を立て、こちらを仰ぎ見ている。
「傭兵は金次第で動くただの野良犬だ。しかし君を守ると決めたのなら、私は君に近侍する騎士になれる。
君が私に意味をくれるんだ、ガルジア」
 息を呑んで、ガルジアは躊躇う様に腕を差し出す。柄を握る鬣犬の手に、そっと掌を合わせた。
「……なんだか、臭いですよ」
「やっぱりそう思うかい」
 どちらからともなく笑い声が上がる。今はクロムと共に行くと決めた。
 どの道、自分一人ではどこへも行けない身なのだから。

 息を切らしながら、木々の間を駆け大地を踏み抜く。木の葉によって千々に乱れた陽の光が、世界を斑に照らしている。
 自分の前を走るクロムの姿をガルジアは見つめた。縞模様に、斑な陽光が重なって、ちょっと見た感じでは、何がそこにいるのかと
思わず言い出したくなってくる様な背中だった。
 その背は、既に遠い。同時に走り出したのに、今はもう随分な距離が空いていた。
「クロムさん!」
 声を振り絞るとガルジアは全力で走り、クロムを追い抜く。目で合図を済ませると、詩を口ずさむ。
 荒らげた呼吸でどこまで歌えるのか疑問はあったが、それでも懸命に歌うといつの間にかガルジアの周りに鳥の姿をした精霊が現れる。
 立ち止まり、声を上げる。それでガルジアは身体が軽くなるのを感じた。これで自分の仕事は終わりである。
 膝を突いて座り込み、見守る。先程よりもクロムの足取りは軽やかになり、あっという間にその先を走る男の元へと達する。
 瞬く間にクロムが賊を制するのを、ガルジアは荒く呼吸を繰り返しながら眺めていた。
「はぁ……」
 場所は移り、街の宿屋へ移る。卓に突っ伏したガルジアを、クロムはにこやかに見つめていた。
「お疲れ様、大丈夫かい」
「は、はい。大丈夫、です」
 どうにか返事をするが、空元気に止まる。まだ身体が辛い。呼吸をするだけでも忙しいところに、詩まで歌ったのだ。喉に負担はかかるし、
足の方は舗装された道ではないから、もっと痛みを訴えていた。
「君のおかげでどうにか賊は捕まえられたよ。森の中を逃げ回られると、邪法も上手く届かないからね」
「それは、何よりです」
 身体を起こし深呼吸をする。それでようやくガルジアは元に戻る。向かい合う様にして、クロムは席へと着く。
「でも、すみませんでした。私が勝手に手を出したばかりに」
 発端は、街に着いたばかりのガルジア達が悪漢達に襲われている住人を見つけた事だった。
 クロムはガルジアの事も考え首を突っ込まぬ様にしていたが、聖職者であるガルジアには見過ごせない問題だったのだ。
 結局ガルジアが声を掛け、案の定白虎だからと標的を変えられた辺りでクロムが飛び込み大半の男達を撃退したのだが、
残党が逃走したために白昼堂々追いかける破目になってしまった。
「まあ、金に困ってはいないが謝礼も頂いた事だし、良しとしようじゃないか」
 そう言ってクロムがガルジアの取り分を差し出してくると、ガルジアは慌てて首を振った。
「そんな、守ってもらっているのは私です。お金は」
「そうは言っても、欲しい物もあるんじゃないのかい?」
「無い、といえば嘘にはなりますが、旅をする上ではあまり必要な物は。高価な物は、盗られるだけだと教えられましたし」
 実際には、一番高価なのがガルジア自身であるのであまり気にしなくていいのかも知れないなと内心は考えているのだが。
 苦笑いをしながら、それでもクロムはガルジアの前に子袋を置く。仕方なくそれを受け取った。
「さて、お金も充分だし、街について早速騒ぎも起こしたから長居もしづらい、どこへ行こうか」
「ご、ごめんなさい」
 改めて、ガルジアは余計な事をしてしまっただろうかと申し訳ない気持ちになる。ただでさえ自分が居るせいで目立つのだ。
「まあ今日くらいは休もうか。外で倒れられても、余計に困るし」
「はい、ご迷惑お掛けします」
「私も丁度疲れていたところさ」
「あの、クロムさん。お聞きしたい事があるのですが」
 話を切り替えようとガルジアは尋ねる。クロムが黙ったまま頷いてくれた。
「こうして旅に出る事が出来たのは嬉しく思いますが、クロムさんは、その……本当に身体を元に戻す方法を探しているのでしょうか?」
「ふむ、そう見えるかな?」
「……実を言うと、よくわかりません。行く当てもなく、私の行きたい所に行って良いなどと言われては」
「ふふ、そうだね。順を追って説明した方が良いだろう」
 一度目を瞑って、しばらくクロムは押し黙る。考えを整理しているのだろう。
 再び開かれ現れた瞳には、先程までとは違い理知の光が灯っていた。
「私が死なない身体なのは、平たく言えば呪われているからだ。これは、死者の呪いだ」
「死者の、呪い」
「どういう事か、修道士の君ならわかるだろう?」
 問われて、ガルジアは顔を顰める。
「……死者からの呪いとなれば、当然人を殺めた事が一番の原因でしょう。あとは曰く付きの品物に触ったり、でしょうね」
「私は根っからの傭兵でね。もう、どれ程前になるのか……戦争があれば、そこへ駆けつけて金のために人を切ったものさ」
 懐かしむ様にクロムが目を細める。いつもは優しげなその言動が、今は少し恐ろしく思えた。
「高名な魔導士を切る事もした。そしてある日、ついに自分に死ぬ番が回ってきた。
その時は、仕方ないのかなと思ったものさ。散々人を切ったのだから、ね」
 達観した様な事をクロムは言う。自分はこんな風にはなれないだろうなと、ガルジアはなんとなく思った。
「だが、私は死ねなかった。いや、死んだのかも知れないが。
気づいた時、傷は塞がっていたよ。夥しい血を流して、どう見ても助かる様な傷でもなかったはずなのに。
そして、僅かながらの霊の気配が私の身体を包んでいた。
そこで気づいた。今まで殺してきた者、取り分け最後に殺めた魔導士の強い力が残り、私を死ねない身体にしたのだと」
「本当に、死ぬ事が出来ないのですか?」
「勿論、最初は半信半疑だった……というより、かなり疑っていたさ。
でも、少なくとも、あの日私が息を吹き返してから百年以上は経っているよ」
 絶句して、ガルジアは瞠目する。普通の者なら、まず生きては居られない時の厚さである。
 それどころか、クロムの外見は自分より少し年上に見える程度だった。
「最初の内、私は呪いを解く方法を必死に探した。一箇所に止まると気味悪がられるのもあって、旅をしながら各地を回った。
しかしこれといった成果は上がらず、時だけが流れた。その内に、実を言うと、呪いを解くという目的もどうでも良くなってしまってね。
皮肉なものだね。富も名声も得た欲深い者が最後に手に入れようともがく物を、金のためだけに生きていた私がこうもあっさりと手に入れてしまったのは」
「……どうしても、死ねないのですか?」
「いや、恐らく死ぬ事は出来ると思う。致命傷を受けてもその内元に戻ってしまうだけだからね。
例えば塵一つ残さず消し飛ぶとか、火口に身を投げるだとかすればちゃんと死ねるんじゃないのかな。
勿論身体が完全に無くなるまで気が狂う程の痛みに襲われて、その後ようやく死ねるんだと思うが」
 言葉で説明されただけで、怖気が走る。そんなガルジアを見てクロムが思わず笑う。
「流石に、そこまでして私も死にたくはないよ。死ぬより先に頭がどうかしてしまうだろう」
「……私も、そう思います」
 乾いた喉を潤う様にクロムが茶を啜る。ガルジアがそれを見つめていると、クロムが視線に気づいたのか息を吐いた。
「ああ、飲み食いしなくとも死にはしないよ。ただ段々と体調が悪化するから、一応取っているだけだ」
 ガルジアの聞きたかった事を素早くクロムが教えてくれる。
 一通りの事を聞き終えて、ガルジアも茶を口に含む。
「あの、クロムさん。クロムさんって、剣の達人なんですよね?」
 しばらくして、話題を変える様にガルジアは口を開く。
「自分でこういう事を言うのは気が引けるが……大抵の相手には負けないね」
「だったら、お願いが」
 茶を置いて、ずいとガルジアは詰め寄る。クロムがちょっと驚いた様に身を引いていた。

 持ち主の手から放された歌聖剣が、重力に従い大地へと零れ落ちる。
 強かに打ち据えられた手首を押さえ、ガルジアは涙を浮かべていた。
 打ち据えた当人であるクロムは、なんとも言えない顔をしている。
「い、痛い……」
「ガルジア、そろそろ止めにしないかい。君のそういう顔を見ていると、私も力が出ないのだが」
「駄目です! まだまだいきます!」
 溢れ出る涙を乱暴に拭う。今まで生きてきて、痛みなんてほとんど味わった事がないのだ。
 併せてクロムの動きにまったくついていけない自分が不甲斐無くて、つい涙が出てしまう。
 ガルジアは今、クロムに剣術の指導を受けていた。
 突然剣を教えてくれと言ったガルジアにクロムは面を食らい、最初の内は断っていたのだが、
ガルジアが引かないと見るや否や、溜め息交じりにその指導を引き受けてくれた。
 街の外れにある空き地で二人きりになると、早速修行を始めるが、いくらも経たない内にこの有様である。 
「そんなに私一人だけでは心許ないかい?」
 拾った剣をガルジアは構える。こちらは抜き身で、クロムは鞘に収めたままだ。
 それでも先程からいい様に往なされて、隙を見ては鞘で小突かれているだけだった。
「そういう訳ではないんです。というより、クロムさんは凄く強いです。
剣の腕前だけならまだしも、魔法まで使えるんですから」
 クロムの恐ろしい所は、剣の腕も勿論なのだが聖法と邪法、両方とも扱えるという事だった。
 どうしてそこまでと問い詰めたガルジアに、暇だったからとあっけらかんと答えていたのは記憶に新しい。
「私は、詩を歌う事しか出来ません」
「充分だと思うが。さっきの詩も、私は寧ろ感動しているのだがね」
 ガルジアは黙って首を振る。褒められている事は素直に嬉しいが、それでも自分には足りないのだ。
「このままでは私は、足を引っ張ってしまいます。ただでさえ私のせいで災難が舞い込むのですから。
ですから、どうかお願いしますクロムさん」
「ふむ。……しかし、君を鍛える前に、まずは良い剣を見繕う方が良いかも知れないな」
「この剣では、いけませんか?」
 クロムが近づいてくると、ガルジアは一度構えを解いてそれを迎える。細身の剣をクロムは素手でゆっくりと手に取った。
「見たところ、これは何かを切る事を目的とした物ではないだろう?」
「……はい。詩を歌う者のために誂えた物だそうです」
 歌聖剣は相も変わらずその音色をガルジアには聞かせようとはしない。まるで、頑なに飼い主に屈しない猛獣の様だった。
 ガルジアが振り回した時僅かに音を響かせる。それが却って、持ち主を嘲るかの様に聞こえる事すらある。
「院長様から頂いた大事な剣なのですが、私は使いこなす事も出来なくて」
 剣を習いたいと思ったのは、この歌聖剣を使いこなし、音を奏でたいとガルジアは思っていたからだ。
 クロムの言う通り、確かに切るには向いていない。しかしそれでも剣は剣。使い手の腕に委ねられるのでは
ないだろうかと考えていた。そこに剣の達人であるクロムの出現である。
 本当はリュウメイに教えを請いたかったのだが、リュウメイはいつもガルジアをはぐらしてはまともに相手にしなかったし、
長旅に付き合わされ、休むともなればすぐさまくずおれて泥の様に眠る事も多く、一人で腕を磨く事も出来なかった。
 何より一人になる事はライシンからは禁じられていたのである。ディヴァリアで浚われてから後は、
迷惑を掛けない様にとガルジア自身もそれを深く胸に刻み込んでいたがために、結局機会を逃し続けていたのだ。
「音を鳴らしたいんです。古書を検めた院長様も言ってました。この剣が歌えば、それは詩と同じ事でもあるって」
「それは興味深い。だが、この造りだ。罅が入ればたちまちにこの剣は声を失うだろうし、
傷をつけるだけでも音色が変わるかも知れない。この剣で練習をするのも控えた方が良いかも知れないな。
色や感じる魔力からして祝金を用いているだろうから、生から外れた者にはそのまま振り回しても効果はあるだろうが、やはり脆い」
 私にも効果があるかも知れない、などとからかいながらクロムはうっとりと歌聖剣を見つめる。
「それにこの剣は破損すると厄介だ。強度の割に軽い祝金は、魔力を帯びた白金を混ぜた金属を清めた物だから値が張るし、
こんなに精巧に穴を空け、音が鳴る様に造られている。君の修道院に古書があったのなら、
紛失していては新しく作れる物なのかも疑問だ。もっと大事に扱いなさい」
「……これ、そんなに凄い物だったんですか」
 詩を習いはじめてしばらくしてから渡されて、それからは祭事の時に時折佩くだけでその刃すら見る機会の無かった剣だった。
 賊を見た時に思わず剣を持ち出し、そのままここまで持ってきてはいたが、今となっては修道院から持ち出した唯一の品となってしまった。
「まあ、仕方ないな。とりあえずはこれにするか。私の剣を渡してもいいが、重いからまだ早いだろうし」
 辺りを見渡して適当な木の棒を見繕うと、クロムが差し出してくる。歌聖剣を鞘に納めると、ガルジアはそれを受け取った。
 再びガルジアはクロムと向かい合うと、リュウメイに置き去りにされた事が脳裏に甦る。
 今となっては、リュウメイは自分を案じて修道院に置いていってくれた事もわかっている。
 しかし、リュウメイに迷惑を掛けた事は事実なのだ。自分はただ、後ろで詩を歌い、立ち向かうその背を眺めていたに過ぎない。
 憧れていた。あの男に。その生き方に。だからこそ、少しでも近づいていたかった。
 両手でしっかりと木の棒を握る。クロムは渋々といった様子で剣を持っていたが、
顔つきが変わると途端に威圧される。自分を見て、本気を出してくれたのだろう。
 陽が暮れるまで、打ち合いの音が空き地に響く。音が聞こえる度、ガルジアは自分の心が鍛えられていく様な感覚に陥っていた。

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