ヨコアナ
9.慟哭の詩
波に揺られて、ガルジアは水平線を見つめる。ついこの間渡ったばかりの海を、今は戻っている。出発した港は別ではあるのだが。
船は順風を受け、海上を走る。いつぞやと比べれば、二度目の船旅はこれといった問題も起きず、ここにきてガルジアはようやく
快適な船旅というものを味わっていた。そうだというのに、その表情は些かも明るい様子を見せない。
背後からは、すっかり落ち込んだ自分の様子とは対照的に、船乗り達の威勢の良い声が上がっていた。
「うーん……」
「どうしたっすか、ガルジアさん」
潮風を浴びて唸るガルジアに、隣に付いたライシンが声を掛けてくる。前回船に乗った時は、ライシンとは知り合ったばかりで
あった。そのライシンとも、今は大分打ち解けたという気がする。それを認めて、ガルジアは軽く頭を下げ、しかし愁眉を開く事はなかった。
「リュウメイさんの事です。あんなに私が修道院に帰る事を邪魔していたのに、どうして今更許してくれたんでしょうか」
「実は、俺っちもそこは気になってたっすよ。どういう風の吹き回しなんでしょうかね」
自分よりもいくらかリュウメイという男に精通しているライシンですら、リュウメイの本意を図りかねている様で、ガルジアは途方に暮れる。
しばし思考に耽って、ふとある事に思い至りガルジアは顔を跳ね上げる。
「ま、まさかリュウメイさん……私に支払い能力が無いからって、修道院に直接取り立てに行くつもりでは」
最悪の展開が脳裏に過ぎる。脂汗がガルジアの全身から噴出してくる。
「そんな事されたら、私もう修道院に居られません。ああ、神様……どうかお助けください」
「お、落ち着くっすガルジアさん! いくら兄貴だって、そんな」
「しない人に見えますか?」
「……見えないっすね」
溜め息を吐いて、船縁から海を見下ろす。壮麗な青い海も、青い空も、今はガルジアの心を青くするばかりだった。
ディヴァリアを発ったのが五日前。ひたすら東へ進み、エリスとは別の港から船に乗っていた。また何か事件に巻き込まれるのかと不安に思っていた
ガルジアを他所に、今のところ船は順調に東の大陸へ悠々と海を割っている。
「修道院に帰る事が出来るのは、嬉しいですけれど……不安です。リュウメイさんの考えが私には分かりません」
ついこの間までは、何がなんでも自分を帰そうとしなかった男だ。それが、一転して戻る事を決めると黙々と
歩を進めていた。疑問に思わない方がどうかしていた。
「でも、これで少しは返済が捗りそうです。私の部屋に行けば、多少の蓄えもありますし。
それでも足りないので、後は修道院長様に事情をお話してもうしばらく同行しないといけませんね」
リュウメイの目当てはそれなのかと考えるが、いくらなんでも一介の修道士風情の貯蓄など高が知れている。ここまで来て
今更取りに戻る価値などありはしなかった。やはり、腑に落ちない。
「どうした、そんな所で固まって」
考えに考えて、それでも答えを見つけられないでいるとリュウメイがやってくる。潮風に髪を靡かせるその足取りは
軽やかで、既にディヴァリアで臥せっていた時の片鱗は感じられずに居た。その姿に密かにガルジアは安堵する。
「リュウメイさん。……そろそろ、お話をお願いしたいのですが」
「何をだ」
「どうして修道院に向かうか、です」
「俺の気が向いたからさ」
「また、そんな事言って」
何度聞いても、はぐらかされる。リュウメイの表情を見れば、正直に答えるつもりが無いのはよく分かった。涼しい顔をして、
こちらの目を見ようとしない。他人の相手をしない時、リュウメイはその露骨な態度を隠そうともしないのだった。
「……仕方ない人ですね、本当に」
答える気が無いのなら、問答は無駄だった。どうせ向こうに渡ればその真意も分かるのだ。
それまでは気楽に構えていようとガルジアは考え直す。
「それより、ガルジアさんが育った場所が気になるっすね。小さい頃から修道院で育ったんすよね確か」
「はい。私は、その……孤児みたいなものでしたから」
少し言葉を濁しながらガルジアは言う。とはいえ、幼い頃から修道院に居た者は、大抵がそうである。
「とっても良い所ですよ! 近くの村も、優しい人ばかりですから。せっかくだし私が案内しますね」
こうなったら自分が先導してやろうと、ガルジアは張り切った。リュウメイの思惑が気にならないといえば嘘になるが、
しかし里帰りに胸を躍らせている事もまた事実である。
数日後、無事に港に着いた三人は桟橋に降りる所で、見知った船長の姿を見つける。フォーリアからエリスへ続く
海路の船を預かっていた、バーク・クレニデス船長だった。
「どうだい。今度はちゃんとした船旅だったろう」
バーク船長は満足気に言う。ようやく借りを返せたと思ったのだろう。組んだ腕はそのままに、満足気に笑っていた。
「ありがとうございました。でも、いいんですか? また船賃を払わなくて」
「何、気にする事はねぇよ。あんたのおかげで、俺もまたこうやって船に乗れるんだからな」
「……ところで気になっていたのですが、どうして今度はこの船に?」
ガルジアの問い掛けに、大声でバークは笑う。先に降りていた客が振り返って、ガルジアは少し照れ臭くなった。
「同じ航路ばっかじゃ退屈ってもんよ! 俺みたいなのはちょっと異端だけどな。自分の船持たねぇってもんで、
他の奴からは浮気者だって言われちまう。まあ、否定はしねぇけどな」
そう言うと、少し嫌らしい笑みをバークは浮かべる。バークに見送られ、港を後にする。港町を足早に立ち去り、
東へ。二日も進むと、ガルジアの見知った景色が見えてきた。
「ほら、あそこですよ」
息を切らせて走りながらガルジアは指を差す。その先には小さな村が見えた。ガルジアの故郷ともいえる懐かしいその姿に、
目頭が熱くなる。
「船降りてから随分元気じゃねぇか」
「そりゃそうっすよ。やっと故郷に帰ってこられたんじゃ、ああもなりますって」
「お二人とも、早く行きましょうよ!」
跳ねる様に軽やかな足取りでガルジアは向かう。普段は追いかけるはずの自分が、今だけは先頭である。走りきって、
両脇に柱を立てただけの簡素な門をガルジアは通る。いつもは疲れてしまうはずの身体が、
今だけは自分の意を汲んで強がりをしてくれていた。
「おや、ガルジアちゃん」
早速村に入ってきたガルジアを見咎めて、一人の老人が声を掛けてくる。
「ただいま戻りました!」
「随分長いおつかいだったじゃないか。皆心配していたんだよ」
「すみません、色々あって……」
話をしていると、次第に騒動を聞きつけて人だかりが出来る。幼い頃から見慣れた顔ばかりである。ガルジアが修道院から
唯一行き先とする事を許された村なのである。ここで生活してはいなくとも、ガルジアには馴染み深い者ばかりである。
「おかえり、ガルジアさん」
「今日は随分若々しい格好だねぇ」
「こういう服も案外似合うんだな」
「お兄ちゃん、おかえりなさい!」
人々に温かい出迎えに、ガルシアは顔を綻ばせる。思わず涙が零れて、指でそれを拭った。
「随分人気者じゃねぇか」
「リュウメイさん」
振り返ると、遅れてきた二人が立っている。村人がちょっと物珍しそうに見ていた。ライシンはともかく、
リュウメイの姿は種族のせいもあって、異質である。
「旅の途中、困っていた所を助けてもらったんです」
慌ててガルジアが取り成すと、二人の事も村人は受け入れてくれた。元々温和な者ばかりだ。
「ここがラライト村。私の居たラライト修道院とは、持ちつ持たれつという関係の村です」
「へぇ、名前が一緒なんすね」
「修道院に肖って付けた名前だそうです。元々小さくて、名前も無い様な村でしたから。
ラライト修道院はこの辺りに大きな街が無い事もあって、宿を求める旅人も手厚く持て成してますけれど、どうしても
修道院の空気が合わないという方が居る場合は、こちらにご案内する事もあるんです。
私は小さい頃からこの村しか来る事も出来なかったので、よくこの村でおつかいを頼まれたり、お手伝いをしていたんですよ」
茶屋代わりの家屋に案内されて談笑に耽る。こういう村では店も無いのだが、好意で村人が申し出てくれた。
「他の場所には行けなかったっすか?」
「はい、白虎だから危険だと言われて。小さい頃はどうしてそこまでと思ってましたが、今回の旅でそれがよく分かりました。
確かに私一人では、とても出歩けそうにないですよね」
「まあ、そうっすよね……。結局ここまでの旅の半分は盗賊騒ぎだったっすし」
「リュウメイさん達に会うまでは運が良かったんだなって、つくづくと思いました。
旅に同行する事になりましたけど、帰りも無事な保障は無いし、良かったのかも知れませんね」
率直な感想だった。行き先で散々賊に追われていれば、流石にガルジアの考え方にも変化が訪れる。
「さっきも言ったが、ここではお前人気者なんだな」
「小さい頃からしょっちゅう来てましたから。悪戯したり、これでもやんちゃだったんですよ。
礼拝に出られる様になってからは、そちらでここの村人の方以外にもようやく会える様になりました」
照れ臭くて、ガルジアは出されていた茶を啜る。この辺りで取れた香草で淹れた、飲み慣れた優しい味がした。
休息を終えると、礼を言って家を出る。金を払おうとするが、やんわりと断られてしまう。
「ありがとうございます」
「ガルジア君は小さい頃からの常連さんだからね。またおいで」
優しさに見送られて、村を出る。小さな村で紹介する場所も大きくはなかったし、修道院もそれほど遠くはない。
田舎道が徐々に舗道へ変わる。道を歩いては辺りを見渡して、帰ってきた事を噛み締めた。
「リュウメイさん。あそこです。あそこが、ラライト修道院です」
やがて見えてきた建物に、声を上げる。それは、別段の造りがしてある訳ではなかった。旅をして見てきた修道院と、
さして変わらぬ造りである。それでもガルジアにとっては一番の故郷だった。足取りはまた、軽くなる。参列者を横目に入ろうとすると
一度止められるが、入り口に居た修道士もガルジアを認めると道を開けてくれた。
「特に確認は必要無いんだな」
「他の修道士なら、服が違うと止められる事もありますが……私は目立ちますから」
複雑な気持ちになりはするものの、一目見るだけでそれと分かる白虎の姿というものが、今は有難く思えた。事情を話して、二人も中に入れてもらう。
修道院の中へと一歩踏み出した。途端に言い様もない安堵に包まれ、ガルジアは息を吐く。
「ああ、やっと帰ってこられました! なんて懐かしいんでしょう! リュウメイさんに捕まってからはもう帰るの無理かなって思ってましたけれど、良かった!」
「そりゃ、良かったな」
思わず興奮して大声を上げてしまう。声を聞いて、辺りに居た修道士達もガルジアに気づいた。徐々に集まる見慣れた顔触れに、ガルジアは
にこやかにそれを迎える。
「おや、ガルジアじゃないかね」
若い修道士達の後ろから犬人の老人が姿を現す。濃い眉毛が目元を隠していて、しかしその奥の瞳にはしっかりとした光を宿していた。
この場に居る修道士のほとんどは、ガルジアは旅に出た時に纏っていた、首周りなどのほんの一部にだけ質素な細工を施した全身を覆う
白いローブを身に着けているのだが、その老人だけは、空の色をそのまま封じ込めたかの様に染色した上等な絹布を幾重にも重ねたローブを
纏い、人目で他の者と見分けられる様にしていた。青いローブから飛び出した黄白色の体毛は伸びきって、老いと同時に、厳かな印象を受ける。
「院長様!」
慌ててガルジアは院長の元へと駆け寄る。そっと手を取ると、強く握り締めた。
「ガルジア、ただいま戻りました! お久しぶりです!」
「おお、随分元気そうだ。中々戻らないから、皆心配していたのだよ」
「ごめんなさい。色々事情があって」
跪いて視線の高さを合わせると、院長が手を伸ばし、そっと身体を抱き締められる。感嘆の溜め息を漏らし、ガルジアは束の間周囲の目を忘れた。
「そちらは、お連れの方かな?」
「あ……申し訳ございません。こちらは私の旅を助けてくれたリュウメイさんと、ライシンさんです。
リュウメイさん、ライシンさん。この方がラライト修道院の現修道院長、ウル・イベルスリード様です」
院長に見咎められた二人を、村の時と同じ様にガルジアは説明をする。同時に、ウル院長の事も。しかし他の修道士達は、リュウメイ達を訝しげに見つめていた。
確かにその格好は、傍目には暴漢に見えなくもないだろう。少なくとも神に祈りを捧げに来た者には見えはしない。
「勝手ですが、二人とも長旅で疲れています。客間をお願いできますか?」
「勿論。誰か、用意をしてくれ」
それでもウルの声が響くと、すぐに数人が動きリュウメイ達を案内する。
客間に通されると、卓を挟む様にして院長が座る。まずは仕事の報告を済ませ、それから今までの事情を説明する。
「という訳で、仕事は順調だったのですが、紆余曲折あってリュウメイさん達のお世話に」
「ほほ。色々面倒に巻き込まれた様だが、楽しんできた様だね」
「……そう、見えます?」
「そんなに活き活きとしたお前を見るのは久しぶりだからね。それに、服も今風で中々いいじゃないか」
ウルの言葉に、ガルジアははっとして身体を隠そうとする。育ての親である院長にすら普段は見せない格好だという事を、今更思い出す。
「こ、これは長旅でローブが持たなかったので仕方なく」
「良いのだよ。隊商などに頼っての旅ではないのだから、動きやすい服で」
ウルの言う事はもっともで、それはガルジアもまた十分に弁えていた事だった。それでも身に着けたのは、やはり恥じらいがあったからで、
そんな恥じらいも、リュウメイのせいで粉々に打ち砕かれる結果となっていた。
自分が下品になっていないかと、ガルジアは不安に思う。
「ところで院長様。実は私、旅の途中で召導書についても手を尽くしてみたのですが」
「召導書、というとネモラの召導書の事かね。その顔を見るに、良い結果は得られなかったみたいだね」
結果を言うまでもなく、ガルジアの表情を読み院長は言う。幼い頃からの付き合いで、ガルジアにとっては父も同然の人だった。
俯きながら、出された茶を喉に通す。村で飲んだ物と同じ味だ。焦燥がほんの少し和らぐのを感じる。一息吐いてから、
保留にしていた二人の紹介へと移る。
「こちら、私を助けてくれた方の一人でライシンさんという方です」
「お初にお目にかかるっす。院長さん」
「……ライシンさん、言葉は」
「まあまあ、いいじゃないか」
ウルに失礼が無い様にとガルジアは口に出すが、本人は笑ってそれを受け入れる。そう言うのならばと、ガルジアは見守る体制に入る。
「彼は魔導に長け、召導書についての捜索も助けていただいたのですが、やはり今になって手掛かりと言える物すら見つけられず……」
「どこまで行ったんだい」
「ディヴァリアまでっすね」
「それはまた、ガルジアも随分と旅をしたものだ。昔は修道院の外に出るだけで泣きじゃくっていたのにのう」
「ちょ、ちょっと院長様! そういう事言うのやめてください!」
不意打ちのウルの言葉に、慌ててガルジアは声を上げる。愉快そうに笑って年老いた老人は片手を上げて応える。
「この通り、ガルジアは余り外には出せなくてな。友達も中々出来ず終い。良ければ、友達になっておくれ」
「そりゃもう! もう友達っすよ! ね、ガルジアさん!」
「えっ、あ、はい」
「嬉しくねぇのか」
「いえ、そんな事は。でも改まってそんな風に言われると、吃驚してしまって」
思えば、同じ修道士以外では歳の近い友人など持った事もなかった。幼い頃はラライト村に行き友達を作る事もあったが、成長した友人達は
皆小さな村を退屈に思い、刺激を求めて村を出た者ばかり。里帰りなどの機会があって時折会っても、修道院と礼拝堂を行き来するだけの
ガルジアでは、その話題に付いてゆく事も出来はしないのだ。楽しげに話される話題の何一つ、ガルジアには知らぬ物であった。
そうして生まれた齟齬から次第に心が離れてゆく。そういう事の多かった人生だった。
「と、とにかく今その話は関係ないじゃないですかっ」
慌てて軌道修正をする。三人ともにやつきながら自分を見ていたが、ガルジアは無理矢理話を戻す。
「ディヴァリアの学園と協会にもお邪魔したっすけれど、やっぱり今になって手掛かりという物も見つからなかったっすよ、院長さん」
「ふむ、やはりそうか」
「申し訳ございません」
「いや、いいのだよ。元々ガルジアに任せた仕事は別の物だったし、そもそも盗まれたのだって、ガルジアが産まれるより前の話だ。
召導書の手掛かりがあれば助かるが、そう簡単に見つけられないのは、私も分かっているよ」
ウルにはそう言われるが、ガルジアは出来れば取り戻したいと思っていた。修道騎士団等の防衛手段はあるものの、修道院に
保管されている貴重品という物は盗難に遭いやすい。元から持っていたものならまだしも、一部は謙譲された品である。召導書もその一つだった。
こういう事が相次げば、引いては修道会への批判は免れないだろう。
「さてと。すみません、私は一度自分の部屋へ。リュウメイさん達はもう少し待っていてください」
一礼してガルジアは客間を出る。部屋に残していた金を取りにいかなくてはならない。元々、リュウメイには修道院へ帰してくれれば
相応の礼はすると言ってはいるのだ。自分の持っている物くらいは差し出す必要があった。自分の居ない間にリュウメイが院長に失礼な事を
しないかと、今この瞬間も不安ではあるのだが。
一般の者達が立ち寄る手前の建物から、修道士達が寝起きする場へと続く渡り廊下を走る。庭の見事な景色にそれほど見惚れる事もなく、
奥へ入るとすぐさま自分の部屋へと向かった。扉を開く。懐かしく、少し誇り臭い自分の部屋。それに構わずに部屋の奥にある引き出しを開ける。
手前の物を退けて手を伸ばすと、硬貨の入った音がする袋の感触がして、それを二つ取り出す。片方は銀貨の袋。その中に一枚だけ
金貨が入っている。もう片方は銅貨の詰まった袋だった。中身を確認して、ガルジアは小さく笑い声を上げる。
「良かった。全然、足りないです」
借金の返済には程遠い。だから、また旅に出られる。自分の旅は、当分終わりそうにない。
足早に部屋を立ち去る。久しぶりの帰還は、実に短い物だった。息を切らして、来た道を戻る。以前だったら禄に走りきる事も
出来なかった道だが、今はなんとも無かった。
「お待たせしました! ……って、あれ」
客間へ戻り顔を出すが、そこに居たのは一人だけ。自分と同じ修道士の者が、出された茶を片付けている所だった。
「あ、あの。すみません、先程までここに居られたお客様達は」
「ああ、あの方達ならもうお帰りになられましたよ」
「ええっ、そんな!」
礼を言ってガルジアは再び走り出す。待っていてと頼んだはずなのにと独り言つ。
客間を飛び出す。修道士達の間を通り過ぎ、教会となっている場所へ着いても謝りながら走り続けて外へと飛び出す。素早く辺りを見渡すと、
遠くに小さくなった二人が見えた。もう院長との話を終えてしまったのか。
「リュウメイさん!」
必死に走る。声が届いたのか、足を止めてくれた。
「もう、どうしてそんなに急ぐんですか! 待っててくださいって言ったのに」
覚束無い足取りで、ガルジアは何度も呼吸をする。リュウメイの前に着く頃にはすっかり息が上がってしまった。
「まだ院長様にもしばらく戻れないって言ってませんし、お金だって……ほら」
深呼吸を繰り返し、袋を取り出す。全財産だが、どうせ部屋に置いておいても仕方ないだろう。
どの道修道院に待機している間は自分の金を使う場など、ほとんど無いのだから。
「必要ねえよ」
「え?」
リュウメイの言葉にガルジアは首を傾げる。
「どういう事ですか? 借金の返済に、充てられるんですよね?」
「その必要が無くなったって俺は言ってるんだ」
リュウメイが袋を取り出す。その袋を見て、ガルジアは目を見開いた後、表情を強張らせる。
「……それ、修道院の袋ですよね。まさか、お金を要求したんじゃ」
「ああ、したぜ」
「そ、そんな! いくら私に返済能力が無いからって、それだけは!」
「そうじゃねえ。これはここの修道院から依頼された仕事の分だ」
「ラライト修道院からの、仕事……?」
嫌な予感がした。リュウメイを見つめる。その瞳は、いつもと違い冷淡に戸惑うガルジアを映す。
「てめぇを無事に連れて帰る事。それが、俺が受けた仕事だ」
「私を……」
「そういう事だ。じゃあな」
リュウメイが歩きはじめる。その隣のライシンも、頭を下げるとそれに続く。
「待って、待ってください!」
しばらく呆然としながらも、遠くなるその背中にはっとして、ガルジアは歩み寄ろうとする。
「近づくな。てめぇとは、ここで別れる」
リュウメイが振り返る。その射抜く様な鋭い眼差し。一瞬にして、ガルジアは総毛立つ。声すら一時忘れた。
「どうして、なんですか」
「どうして? そんな事、てめぇが一番分かってるじゃねえか。てめぇが居た事でどれだけの迷惑を俺が被ったと思ってる?
大して役にも立たねぇ、足手纏いの癖に」
髪を振り乱し、リュウメイが見下す様に見つめてくる。そんな目で、自分を見てほしくなかった。既にガルジアの瞳には、
薄っすらと涙が浮かんでいる。
「でも、私がしたい様にしろって、リュウメイさん」
「ああ、それは否定しねぇ。だが俺が勝手をするのも、当然だ。てめぇを連れていくのはもううんざりなんだよ、ガルジア」
一歩踏み出す。踏み出したきり、錘でも乗せられたかの様に、足が動かない。ねめつけるリュウメイの、自分を嫌悪し、拒むその瞳。その瞳が、
ガルジアの動きの全てを縛り付けていた。
「何が幸運を呼ぶ白虎だ。てめぇは、不幸しか呼ばなかった」
リュウメイが背を向ける。それを呆然としながらガルジアは見送っていた。追いかけたかった。しかし、足はいう事を利きはしない。
それどころか力が抜け、ガルジアは膝を突いた。握っていた二つの袋が、音を立てて大地に叩きつけられる。
リュウメイはもう見えない位置に行ったのだろうか。滲む視界では、何も見えなかった。
「どうして……」
あの日と、同じだった。呟く様に、同じ言葉を繰り返している。
けれど、今のガルジアは違う想いを抱えていた。それは腹の底から湧き上がってくる。
「どうして私は白虎なんですかっ!!」
頭を抱えて、滅茶苦茶に皮毛に爪を立てた。白と薄い黒。二対の美しい毛が纏わりつく。
「うっうぅ……うああぁぁぁっ……」
嗚咽が止め処なく溢れる。恥も外聞も無く、ガルジアは泣き叫ぶ。
「どうして……うぅ、リュウメイさん、リュウメイさんっ……どうして、なんですか……。どうして。どうして、私は……」
全てが、自分から離れてゆく。指の間を擦り抜ける様に、零れてゆく。
涙が枯れるまで、ガルジアはその場から動く事が出来なかった。
リュウメイ達が旅立った翌日、ガルジアは自室のベッドで横になっていた。
何も口に入れず、何も話さず。誰と会う事もなかった。心配をした者が時折会いに来るが、扉も開けなかった。生返事をしただけだ。
一度だけ、話を聞いた事があった。しかし相手の口から出てきたのは、リュウメイ達を貶める様な言葉と、ガルジアへの同情だった。
金をせびりに来た、小汚い賊と変わりない者達。それにガルジアは巻き込まれ、引き摺り回された。
そんな事を、ガルジアは話したい訳ではなかった。それきり、誰とも会わずにこうして横になっている。
掻き毟った所が時折痛みを訴えている。その度に見捨てられた自分を思い出し、目に涙が浮かぶ。そうして泣き腫らして
赤くなった瞳を閉じ、記憶の中に必死に逃げ込んだ。幸せだった記憶はそう多くない。あったとしても、いずれも結末は同じだった。
皆、離れてゆく。呆れながら、罵倒しながら、無視をしながら。リュウメイも、そうやって離れていった。
「普通の……普通になりたかったです、盗賊さん」
自分を羨んでいた者の姿が見える。彼は、自分の様な境遇になっても、満足したのだろうか。自分を羨んだまま、死んでいった。自分も
そうなのだろう。普通を羨みながら、老いてゆく。叶わぬ願いを胸に秘めて、人はいずれ、死ぬ。
普通の虎人だったら、両親は自分をここに置いていかなかったのだろうか。
普通の虎人だったら、リュウメイは自分を連れていってくれたのだろうか。
過ぎ去った仮定の話に花を咲かせる。その全てが、白虎に起因するのだとガルジアは思う。
身体を丸めて、また呻く。枯れたと思っても、涙は後から後から溢れてくる。鬱陶しくて仕方なかった。
本当は分かっていたはずだ。いつか、リュウメイからも見捨てられる時が来る事も。
一度たりとも自分が期待をして、それが叶った事などありはしなかったのに。どうして、どうして期待をしてしまったのだろうか。
仕方がなかった。それだけ、楽しい旅だったのだ。見た事の無い景色に、食べた事の無い味に、交わした事の無い言葉に、
その全てに快くガルジアは包まれていた。いつか終わると分かっていても、先延ばしにしようとする自分が居た。修道院に帰ると
言われた時は、耳さえ疑った。それも、徒労に終わった。元の鞘に落ち着いた。それだけだ。
二日目の朝、ようやくガルジアは起き上がった。
現金なもので、旅の疲れが癒えると無くしたはずの食欲も戻ってくる。喉も渇いていたし、身体を洗わなかったから、痒みもあった。
沐浴をし、軽食を取る。それを済ませると、また所在無く修道院内をうろうろとしていた。本来なら、修道院に戻った以上はその仕事に
従事しなければならないのだが、長旅を労うという名目で休みを貰っていた。人通りの無い道を歩く。一般の者達はまず立ち入りを許可されない廊下だった。
そっと目当ての扉を開く。小さな礼拝堂はしんとしていた。ここも、関係者以外立ち入る事はない。
人を帰した後に使う事が多く、まだ早いこの時間はガルジア以外の姿は無かった。適当に席に座り、正面を見つめる。顔の無い神像が
置いてあった。顔に当たる部分には、僅かに顔を象った球体が置かれているだけだ。多種族が織り成すこの世界において、神の種族を
言い当てようとする事は禁じられていた。耳も無く、ただ祈る事が神に通じる道なのだという。ここからでは見えないが、尾も神には見当たらない。
縋る様に、神像に想いを寄せる。それが無駄だという事を、今までの人生を通してガルジアは知っていた。
それでも修道院で育った身。それを表立って口にした事は無い。
「ここに居たのかね、ガルジア」
声が掛けられて、ガルジアはやおら振り向く。ウルが自分を見ていた。
「院長、様」
「戻ってから、体調が優れないと聞いたが」
「……どうして優れないのか、知ってるじゃないですか。意地悪ですね相変わらず」
老人は上品に笑い声を上げる。そもそも自分を連れ戻すという仕事をリュウメイに依頼したのが、他ならぬ院長なのだ。修道院を飛び出した
先でリュウメイに捕まえられた事からが既に、この老人の掌の上の出来事に過ぎなかったのである。
「せっかくガルジアが帰ってきてくれて、歌を聞きたいという者も居るというのに」
「別に、私の歌は上手くありません。もっと上手な人が居るじゃないですか」
「また、そんな事を。一番精霊に気に入られるのはいつもお前じゃないか」
ガルジアの隣に来ると、ウルは席に着く。強烈な居心地の悪さを、育ての親であるウルの前で初めて感じた。どんなに悪戯をしても、
怒鳴り散らす事もなく、優しく自分を見つめてくれていた男である。
「そんなに置いていかれたのが辛かったのかね」
「それは」
思い出すだけで、また涙が出てくる。ウルの手が伸びると、ガルジアの頭を優しく撫で付けた。
「辛いなら、泣いてもいいのだよ」
「院長様」
堪えていた涙が、また溢れてくる。その膝に縋りつく様にして再びガルジアは泣きはじめた。
「よしよし。本当にお前は小さい頃から泣き虫だね」
「うぅー……」
幼い頃も、よくこうして院長の膝で泣いていた。あの頃から、自分は何も変わっていないと思った。泣き止むまでそうしてくれて、
落ち着きを取り戻すとガルジアは旅の事を話しはじめた。リュウメイに出会った事。無理矢理旅に同行させられた事。リュウメイが、
酷い男だったという事。
けれども、旅はとても楽しかったという事も。
「あんな人、嫌いです……意地汚くて、嫌な人です。私を苛めてばかりで、最低です」
「そうかい」
「……どうして、笑っているんです?」
穏やかな笑い声が頭上から聞こえ、涙を流してまま、ガルジアは院長を見上げる。不思議に思い問い掛ける。
「お前は、彼の事が本当に好きだったのだね」
「え?」
「お前が他人の悪口を言うところ。私は初めて見たよ。
どんなに嫌な事があっても、嫌な人と会っても、全部抱えて一人で泣いている様な子だったのに」
言われて、ガルジアは妙に納得した。思えば、こんな風に相手を罵る事など初めてだった。
「でも、好きな訳では」
「ああ。嫌いな部分が多いのだろう。けれど、好きな部分もそれだけあったんだろう?」
口を噤む。胸に溢れるのは、何気ないリュウメイの優しさだった。言葉にはしなくとも、所作の一つ一つが思い起こされる。自分を守ろうと
前に出る、その勇ましい後姿。傷を負おうとも、一歩も引く気配を見せぬ。いつもそれに、見惚れていた。
「違います……。あんな、お金に汚くて、身勝手な人」
「ガルジア」
静かな礼拝堂に、凛とした声が響く。耳を震わせ、ガルジアはウルを見つめた。もう、泣いてはいない。
「素直になりなさい。お前は旅の間中、ずっと見ていたのだろう?」
頭を何度か軽く掌で叩くと、院長が立ち上がる。慌ててガルジアは身を引いた。片手を上げて礼拝堂から出てゆくその背を見送る。
再び一人になってガルジアは物思いに耽る。浮かぶのは、リュウメイの事ばかりだ。
出会いから今までを反芻する。やっぱり、嫌な人だと思った。
いつも自分をからかって、馬鹿にしては笑っている。まともに取り合ってはくれず、しかしガルジアの話はいつも聞いてくれていた。
「でも、酷い人です」
ぽつりと呟く。金のために人を殺める。リュウメイはそういう人物だ。金に汚い。ガルジアが、一番嫌いな人種。
「あれ……」
そこまで考えて、ふと引っかかる事に気づく。
リュウメイが金に汚いのは、共に旅をしていてよく分かった。手段を選ぶ事もしないし、正々堂々なんていう言葉も嫌いだろう。
それならば、どうして。
「どうして、私をここまで連れてきてくれたんですか?」
金が欲しい。それだけを口にしていた。しかしリュウメイの行動には矛盾が生じる。
金だけが欲しいなら、自分を修道院に連れ戻さずに縛り上げてさっさと売り飛ばせば良かった。修道院からの依頼と、修道院長の立場を考えれば、
報酬が約束されているというのは魅力だっただろう。しかし、長期間足手纏いの自分の面倒を見て、修道院に連れて帰るというのは、
凡そ労力に見合うとは思えない。修道院とて、決して裕福ではないのだ。院長がリュウメイにいくら支払ったのかは分からなかったが、
少なくともリュウメイが自分に吹っ掛けた代金に届くとは思えなかった。遺憾に思うが、自分には種族として、白虎としての価値がある。それは
旅を共にしたリュウメイなら、賊の様子で知っているはずだ。否、人に雇われ、金目の物に聡いリュウメイが、自分の価値を知らぬはずはない。だからこそ
リュウメイは自分を夜の相手として指定する事にも破格を提示していたのだから。ディヴァリアで罪人を切り伏せていた時のリュウメイも、白虎という
存在の価値については言及をしていた。
それでも、こうして送り届けてくれた。そして、突き放す様に去っていった。
「ああ……」
得心がいって、ガルジアは声を漏らす。一貫して変わらないリュウメイの態度を、たった一つだけ見つけた。
「リュウメイさん、ごめんなさい。ごめんなさい……リュウメイさん」
最後の涙が一筋流れる。
「あなたは、ずっと私を守ってくれていたんですね」
ガルジアの呟きを聞く者は、誰も居ない。遠く、既に追いつく事もままならぬその男の耳に、この声が届けば良いのに。
ぽつりぽつりと、ガルジアは繰言の様に謝罪を、そして感謝の言を述べ続けていた。