ヨコアナ
35.終の先
深々と、雪が降り続けていた。
長く雪を知らなかったエイセイの城に、今それは降り注いでは、積もってゆく。まるで、本当の死が。本来そこに住まうべき者達は、当に死んだか、どこかへ消えたかしたというのに。城だけが同じ様な死を受け入れる事ができずに、長い間抵抗を続けていて、
ついにそれも果て、ようやくの死を迎え入れたかの様だった。積もらぬはずの雪は積もり、窓は凍り付いて。いよいよもって、そこを死の城として陰惨に演出していた。魔導に包まれていた時の、不気味な死ではなく。大自然の、意思の無い、無味の死が
そこには広がっていた。
そんな中で、アオゾメの葬儀は恙なく進んでいた。二つの世界の問題も、それに乗じたアキノの計画も、もはや過去の物となった。本来ならば、いまだ生きているであろうアキノ達との決着が残っているはずだったのだが。リュウメイ達が城に戻った時、アキノと
ベリラスの姿はどこにも見当たらぬ物となっていた。唯一、城へ続く道程が、不自然に抉れていた箇所があっただけである。居ないならば、それで良いと。アキノ達の事は早々に忘れ去られる。既に過去の代物である、エイセイの国と同じ様に。それは今に
追いつく事もなく、遠くない内に、ただ時折思い出すだけの存在に変わるのだろう。
そして、また。
鮮やかな紫の被毛に包まれた、眠る狼人の姿も。今まさに、自分が見下ろしているその姿も。その内に思い出すだけの存在となるのだろう。
リュウメイは、そう思っていた。
それが、特別という訳ではない。死んだ者は、いずれはそうなる。ふとした瞬間に、弾みで思い出して。しばらく思いを馳せて、やがては消えてゆく。それだけだった。道端で切り伏せた、名も知らぬ盗賊も。名を知り、剣を交えた相手も。白虎の修道士を託して
死んでいった老人も。そうして、今目の前で、ようやく静かな眠りを手に入れた、自分の育ての親でさえ。
全てが、時折。気が向いた時に。思い出すだけの存在になってゆくのだった。その群れの中に。一つの決められた枠の中に。いつか己を拾い、育てた男も同じ様に入ってゆく。
それだけの話だった。
すすり泣く声が聞こえた。
ライシンは、もう泣いていなかった。アオゾメを、慕っていたという。命を救われ、師と仰ぎ、生きる気力その物を与えられたと言っても良かった。ライシンにとって、アオゾメの存在はとてつもなく大きな物だという事は、わかった。それでもライシンが泣いていたのは、
アオゾメを失った直後だけであって。今は寧ろ、落ち着いた顔を。それでいて、己が望むままに安らぎを得たアオゾメの事を、慈しむ様に微笑んでいる。凡そ歳相応の物とは思えぬ表情を浮かべていた。
その視線の先。すすり泣きを上げる者は、そこに居た。さめざめと泣き続けている、白虎の姿がある。
葬儀は、簡素な物だった。必要な物は特に無かったし、必要であったとしても、揃える事すらままならなかったし、アオゾメがもし、己の葬儀に対して生前に言う事があったとしても、飾り立てる様な事は望まなかっただろう。そういう男だった。ただ、血まみれ
だったアオゾメの身体をできるだけ清めて、服を変えさせておいたので、その遺体をアオゾメの領域まで持ち運び。そしてアオゾメの支配から逃れたが故に、外と同じ様に寒さに包まれはじめ、枯れ行く庭の植物達の中に穴を掘って、そこに収めただけだった。
すすり泣く声が聞こえる。それから、その白虎の隣で。何も言う事もなく、アオゾメの連れていた白狼が座り込んで、主と認めた男の亡骸を見つめていた。この白狼は、結局アキノ達との決着がつくまで、少しもアオゾメの傍を離れる事が無かった様だった。
ガルジアは、歌わなかった。歌ってほしいとも、その場の誰も頼む事はなかった。
泣いてくれる人が、一人でも多く入れば良い。ライシンが、そう言った。それに押されたから、という訳でもなく。とうにガルジアは、ここに戻ってきた時から涙を浮かべていたが。その涙は惜しみなく溢れては、最後の恵みを与えるかの様に大地に消えてゆく。
リュウメイは、それを黙って見つめていた。
やがて、頃合いと見て、土を被せてゆく。死んで、土に帰ってゆく。それもまた、同じだった。名も知らぬ盗賊も、高名な魔道士として招聘を受けた男も。最後は結局、同じ形を取っては消えて、忘れられながら、その存在の片鱗を記憶の中に残すのみとなる。
葬儀を済ませた。その頃には、この魔道士の塔の中にある、アオゾメの領域も。大分寒さに包まれていた。主を損なった塔は、自らをもまた死を迎えて。巨大な棺と成り果てたかの様だった。
二日程、城から出る準備に追われる事になる。アオゾメは情報などは残してはいなかったが、脱出のために必要な物資に関しては、抜かりなく揃えておいてくれた。そうでなければ、ここまで暢気にアオゾメを弔う余裕すら、無かっただろう。
その領域を出る際、リュウメイは振り返った。凍てつく寒さに容赦なく襲い掛かられ、抗う術を持たぬこの場の植物達は、既に一斉に色褪せては、倒れて。主と同じ姿を晒していた。
アオゾメを埋葬した箇所も、それは同じだった。長く伸び、その間を幾度となく主が通り抜けて、その度に主を擽っていたであろう草は全て横倒しになって。
その主の上に覆い被さり、どこにその主が眠っているのかを、他者に悟らせまいとするかの様に。既にリュウメイ達の瞳には、アオゾメがどこで眠っているのか、わからぬ事となっていた。
成すべき事を終えると、あとは各々がその場を後にしていった。
クロムと、それからバインがそうである。
不老不死の傭兵である、鬣犬のクロムは。今回の事で長年抱え続けていた不老不死という物から解放された様だった。確証を得た訳ではない。ヨルゼアの力を引き出す事で、ガルジアはクロムをその業から解き放った様だが、当のクロムはまったく予想を
しておらぬその行動に我を忘れて、到底リュウメイと口を利く様な余裕を損なっていたのである。
クロムはただ、ガルジアと長い間話をしては、その内に城を出る決意を示した。不老不死でなくなったのならば、たった一人での行程は辛いだろうと。恐らくガルジアは説得をしたのだろうが。クロムは、それに頷く事はなかったのか。軽い挨拶だけをリュウメイにすると、
そのまま足早にその場を去っていった。傷は、深かったはずだが。その辺りは、ヨルゼアの力が一時的に及んだのか、その仕草には殊更に辛い物は見当たらなかった。必要な物資については、アキノ達が残していた物があったので、クロムはそちらに手をつけた
様だった。それは、アキノ達が既にそこには決して帰っては来ぬ事を、理解しているかの様でもあった。どちらにせよ、不老不死から解き放たれたクロムは、例えアキノやベリラスと再会ができたとしても、彼らと手を組める様な状況ではないのだろうが。
召術士である狼人のバインも、また同じだった。落ち着いた頃、ヨルゼアの召喚を終えたとはいえ、消耗が激しくいまだあまり動けずにいたバインに向けて、リュウメイは剣を向けた。バインはそれを、寧ろ待っていたかの様に。挑発的に笑う。しかしそれを止めたのは、
ガルジアだった。ガルジアが、バインを憎んでいようがなかろうが、リュウメイはバインを逃すつもりは端からなかった。ただ、ガルジアがそうするのを止めてくれと言うので。結局は剣を引く事になる。それで良いのかと、一度だけ訊いた。ガルジアは、なんとも言えない
表情を浮かべたものの、その後には苦笑を零した。これで良いんです。そう、言った。
バインもまた、その後は己の身体がある程度動く様になると、率先して城を後にしていた。ただ、クロムとは違い、バインには迎えが存在していた。見送り、というよりは。妙な真似をせぬ様にと、城の入口までその様子を探りに行った際に、恭しい仕草で突如として
バインの傍に現れた男が居たのだった。すらりとした体躯に、しかし俊敏な身のこなしは相当な手練れであるという事を窺わせる、狐人の男だった。男はバインを迎えると、それから大層驚いた様子を見せるガルジアに対して深く一礼をして。バインを促しては揃って
去ってゆく。機会があればまた、との言葉を残されたが。できるならば会わない方が互いに助かるだろうなと、リュウメイは思う。
二人が去ると、残されたのはリュウメイと、ガルジアと、ライシンの三名だけになる。こちらは、アオゾメの残してくれた物資の扱いにもはや誰に気兼ねする必要も無いために、エイセイ脱出の計画に全て当てる事ができた。準備を終えると、リュウメイ達は揃って城を
後にする。
エイセイの城は、遠くから見ると埃っぽく、白く汚れていた。まるで、たった数日の間に、魔導の力によって遠ざけられていた老いその物が、城にまで侵食を始めたかの様だった。雪化粧は決して、城を若返らせる事はなかった。
不毛な大地を、抜けてゆく。会話が弾む物ではなかったが、それでも意気阻喪の態という訳でもない。城に向かう時と、それは変わらなかった。変わったのは、ライシンが加わった事だけだ。初めの内、ライシンはアオゾメと、それから姿を消した恩師であるベリラスに
対して思う事があるのか、ほとんど言葉を発する事もなかったが。それも城から離れれば、まるで城に蔓延っていた淀んだ空気から解放されたとでも言いたげに、突如として元気を取り戻していた。それが、空元気であったのかは、わからないが。しかしライシンは、
それでもう吹っ切れた様で。そこからは、歩く場所こそ恵まれた物とは言えなかったが、会話の続く旅が始まる。ライシンが口を開けば、ガルジアも控えめに口を利いたし、それはリュウメイにしてもそうだった。
雪が降っていた。その日は、廃村の建物を使っての宿となっていた。道中は行きも帰りもその景色を変化させる事はなかったが、歩く場所は異なっていた。ライシンの提案の一つであり、そちらの方角へ抜けると、国境を超えたところに新しくできた宿場があるの
だという。それは、エイセイが今リュウメイ達が歩く様に、解放されたが故に。その地に眠る何かを求める者。そうして、その求める者に対しての商いを行う者が造り上げた場所であり、エイセイを出たならば、直ちに休める様にするべきだという、ライシンなりの配慮の
様だった。今は、ひたすらにそこを目指して旅を続けているところだった。もう少し時が進めば、この不毛の地であろうと、やはり商売の臭いを嗅ぎ取った者達の手が伸びる事もありそうなものだが、それらはまだまだ先の話の様で。相変わらず、自分達を除いては、
他に人の姿を見る事はない。
夜になって、リュウメイは廃屋から抜け出した。空気はこの上なく澄んでおり、遠くまでを見渡せる。雪も、今はかなり落ち着いたのか、時折その小さな姿を見せるだけに留まった。こういう時、道程を振り返れば。遠くには自分達が抜け出した、エイセイの城の姿が
見えた。夜であっても、尚暗いその城は、不思議と闇の中に浮かびあがる。まるで、蜃気楼の様に。それは、いつぞや見た時と、遠目からでは同じに見えた。まだ若い時分。アオゾメに拾われ、様々な事を教えられ、そうしてそれらを経て城を旅立った。あの時の
リュウメイも、振り返れば自分を居丈高に見ているであろう城を、見上げた物だった。今は、そうではなく。その城は自分だけがそこに残される事を、厭うているかの様にも見える。
リュウメイは、黙ってそれを見つめ続けていた。アオゾメに、育てられた場所。アオゾメが、死んだ場所。あの城には、アオゾメが今も、眠っている。
足音が聞こえた。リュウメイは、振り返らない。足音の方は、一度止んだ後に、リュウメイが一切の反応を示さぬ事を知ったからか、また足音を響かせて。やがてはリュウメイの隣でまた音を止める。
視界の隅に、白虎の姿が見えた。
「何を見ていたんですか、リュウメイさん。……お城、ですか。もう、あそこを出て随分経ったと思ったのに。いまだに、こういう日は、あの城の姿が見えるんですね」
「ああ」
「何か、考えていたんですか?」
「何も」
「そうですか。……ところで、リュウメイさん。あの、アオゾメさんの連れていた、狼さんをご存知ありませんか?」
「そういや、見ねぇな」
「はい。私、アオゾメさんと約束したんです。もし、アオゾメさんが死んでしまったら、あの狼さんを外まで連れていってくれって。それから、名前も。何か、付けてあげてくれって。でも、あの狼さんは、アオゾメさんの葬儀が終わった後、すぐに居なくなって
しまいました。どこに行ったのかと、捜してみたのですが。どうしても見つからなくて」
「放っとけよ。アオゾメが言うには、あいつは賢いみたいだしな。自分の生き方は、自分で決めたんだろうよ」
「そうかも知れませんが。アオゾメさんと、約束をしたので。でも、見つからないのなら、仕方ないですね。いつまでも城に残り続ける事も、できませんでしたし。どこかで無事で居てくれれば良いのですが」
「話は、それだけか」
「ええ、まあ。……リュウメイさん」
「なんだ」
「これで、良かったのでしょうか。アオゾメさんの事も、アキノさん達の事も。こんな事を言うと、良くないのかも知れませんが。なんだか、私。もっと上手くやれたんじゃないかって。そう、思ってしまって」
「やるだけやったんだ。それで、良いだろうよ。今更とやかく言ったところで、死んだ奴や、済んだ事は戻ってこねぇぞ」
「そうですけれど……。その、リュウメイさんは」
「なんだよ」
「だから……うわっ」
「……俺が、泣かなかったのが。そんなに不満なのか、お前は。アオゾメの事になると、お前はずっとそうやって、俺を嫌そうな顔して見てるが」
「嫌そうな顔なんて、してません。でも……でも。……リュウメイさん!?」
「そんなに驚いた様な顔されると、心外だわ」
「……いいえ、いいえ。とても、大切な事ですから。……けれど、やっぱり少しだけ、意外です。あなたは絶対に、そんな風にはならないんじゃないかって。そう思っていたので。ごめんなさい。そんなはずは、ないのに。私にとっての、ウル様と。同じなのに」
「俺は、お前の育ての親に対しては、なんにもしなかったけどな」
「それを言うのなら、私だって同じです。いまだに、ラライトには戻れませんから。リュウメイさん、大丈夫ですか。もう少し、こうしていましょうか」
「餓鬼扱いすんなよ」
「そんな事言ったって。実際、私の方が年上なんですよ。全然信じられませんけれど。たまには、私の方が上の様に振る舞ったって。それから、あなたが年下の振る舞いをしたって。なんにも、悪い事はありませんよ。気が済むまで、こうしていますから」
「借金は減らさねぇぞ」
「また、そんな事を言って……。リュウメイさん。この後、このエイセイの地から出ても。私がお傍に居ても、大丈夫ですか」
「何回同じ事を言わせんだ、てめぇは」
「そうですけれど。そうなんですけれど。でも、今の私は……ヨルゼアと一つになった事で。結局、ヨルゼアはそれだけで満足してくれたのか、あの時はそのまま帰って、あちらとこちらをしっかりと支えてくれましたけれど」
「見た目も何も、変わってねぇだろ」
「ですが。私は、きっと」
「……なあ、ガルジア。そんなにお前が、それを気にするんなら。それが、嫌なら。俺は多分、お前を止めてやれるかも知れないぜ。アオゾメが、俺を待っていたのと同じだ。俺の使う、あの魔剣。あれがあれば、俺はお前を自由にしてやれるかも知れない。確証は、
ねぇけどな。ただ、お前のそれは。クロムの奴なんぞよりは、アオゾメの方に近い物のはずだろう」
「そうですか」
「試してみるか」
「嫌です。私、少なくとも今はまだ死にたくないです。そんなのは、もっと後の話にしてください」
「そうだな。だったら、その時まで。俺の傍に居ろ」
「……これ、はいって言わなくても、借金の事をまた持ち出すんですよね? 私、逃げられないんですよね?」
「よくわかってるじゃねぇか」
「はあ。あなたって、なんというか。本当に、リュウメイさんですね、あなた。ちょっといつもと違うのかなって思ったのに。わかりましたよ。それに、私の目的の方は、ちっとも達成していませんしね。あなたが何も言わないのなら、私はそれで構いません」
「はっきり言えよ」
「はい。一緒に居ますよ、これからも。あなたが嫌って言っても、私はまだ一緒に居たいですから。これで、良いですか」
「それで良い」
「そろそろ、戻りませんか。こんな所にずっと居て、風邪を引いたらどうしようもないですよ。ライシンさんも、寝ていましたけれど。気づいているかも知れませんし」
「ああ」