top of page

34.夢幻の終わる時

 石畳の道を、歩き続けた。整地された山道を、ある程度進むと。今度は下りに差し掛かって。傾斜が急なところは階段となっており、それは急ぐ身であるガルジア達には、少し堪えもした。
 それでも背後から迫っている驚異と比べれば、何程の事もない。
 下り坂も、やがては落ち着いてくる。開けた場所に出た。山から下りきった、という訳ではない様だった。広場と言っても、遠くを見渡せばいまだに山の影と木々があるだけであって、到底麓に達したとは言い難い。
「ここは」
 一度、足を止めた。そうしている場合ではなかったのだが。それでも上がった息は、踏み出す一歩ずつを重くしては、身体をその場に縛り付けようとする。こういう時、ガルジアは少し申し訳ない気持ちになる。振り返れば、バインを楽々と背負ったリュウメイは
息を切らす様子を見せもしていなかったし、更にその背後で逐一振り返っては追手の警戒と、そうしていざとなれば殿さえ務めようと気を漲らせているライシンが居て。こちらもまた、そのずんぐりとした熊人の体格に不釣り合いと言える程に、まだまだ意気盛んで、
気を配っている分余計な疲労を覚えていても不思議ではないというのに、その片鱗すら感じさせる事もない。
「エイセイの、斎場ですよ。ここは」
 リュウメイに背に揺られていたバインが、目を醒ましたのか。ガルジアの言葉に反応を示す。今まで走ってきた場所も、祭事を行うのに充分な広さを備えているところはいくつかあった様に見えたが。ここはその比ではなく、巨大と言っても差支えがない程に広々と
しては、ガルジア達を迎えていた。柱の数は物々しいが、それでも場が広いが故に、窮屈な印象を受ける事もない。それらはある一点に向けて、刻まれた模様を示しては立てられており。まるで、頭を垂れる人々の群れであるかの様に見える程だった。
「これ程に広大な物は、今では中々にお目に掛かる事はできませんが。流石にエイセイの城の裏手、最大の斎場と言うだけはありますね。古来から、エイセイには門外不出となる祭事という物が山の様にあり、部外者はそれを見る事は禁じられ、迂闊に忍び込んで
見ようものなら、地の果てまで追ってでも、その者を始末せねはならぬ様な事もあると。文献で読んだ事がありますよ。もっとも、エイセイは鎖国を貫いていたし、それが無くとも部外者には冷たい国でしたから。それが本当の事なのかは、わかりませんでしたが。私も
態々この国に用事があった訳ではありませんし。しかしこの光景を見ると、なるほどその様な話が出てくる事も、頷けますね」
「ごちゃごちゃうるせぇな。人の耳元で」
「良いではありませんか、リュウメイ。それに、あなたなら本当は理解できている事なのですから。あなたはいつも、わからない振りや、面倒臭い振りばかりをして、こういう話からは逃げてしまいますものねぇ。本当は、物事の本質を一番に理解して、必要ならば
取り出せるくらいの頭は持っているというのに。あなたに魔導の素質が無いというのを、私は寧ろ残念に思うくらいですよ。その代わりに、その不屈の闘志があるというのならば。まあお釣りがくるくらいだなとも思いますがね」
「もうお前自分で歩け」
「おお。こんなか弱い老人を路傍の石の様に扱うだなんて。エイセイでは老人を大切にする文化という物が無かったのでしょうか? そういえば、あまりにも年老いた者は山に置いてゆく、などという話も確かありましたっけねぇ」
 くすくすと笑いながら、バインはリュウメイの言葉には何一つとして恐れも見せずに返事をしていた。どうもその様子は、思っていたよりも親しい物が滲んでいて。到底この二人が終わり滝や、そこに続くまでの道で、顔を合わせる度に互いの命を狙っていたなどとは
考え難いとも思ってしまうのだった。
「思っていたより、仲良しなんですね。リュウメイさんとバインさんは」
 思わずそれを口にすると、リュウメイは心底から嫌悪の表情を滲ませたし、背負われているバインはもはや声を抑える事もせずに笑っていた。
「ふざけんな」
「ええ、実は、そうなんですよ。腐れ縁の様な形ですが、私は昔、リュウメイに助けてもらった事がありましてねぇ。あの時は、本当に驚いた物です。こんな若造に、助けられた事その物よりも。その精神性というか、達観した様子と言いましょうかね? 皆さんご存知の
通り、私はもうとっくにおじいちゃんですから。本当に若い人とは中々本当にはわかり合えないという事もあるのですが。リュウメイというのは、そんなに若い時分の時ですら、私の様な老いぼれとも一定の話ができるくらいでしたからねぇ。だからこそ、一時は行動を
共にした事もありましたが。もっとも、私が求めるのは召術についての事が多く。そうして彼はその様な物には感心を示さぬ性質でしたから、歩く道はすぐに分かたれてしまいましたが。それが、ヨルゼアを巡る騒動でまた顔を合わせてしまうだなんて。運命という物を
感じてしまいますよね」
「はあ」
 適当に聞き流しながら、ガルジアはバインの様子を意外だなと受け止めてしまう。もっと冷徹で、自分の目的をしか考えぬ様な男の印象が強かったのだが。こうして触れてみると、なるほどと思ってしまうくらいには砕けた部分も持ち合わせた人物である様だった。
 もっとも、バインはガルジアにとってはウルと修道士達の仇であるからして、到底全てを許して、例えばライシンと触れ合う様に朗らかな様子で肩を並べる事はできそうにはなかったのだが。
「くだらねぇお喋りはこれぐらいにしろ。バイン。てめぇ、起きたんなら、さっきの話はここでやるって事でいいんだな?」
「ええ。本当なら、このまま山を下りて、もっと準備をしたいところですが。生憎心安らかに休める様な場所が用意されている土地ではありませんからね。その唯一の場所は、アキノ達が占拠している状況ですし。だからと言って、いつ世界の異変が起きるのかが
わからぬ以上は、あまり長居をしてはいられない。ガルジアの事も、心配でしたからね。私が言うのもなんですが、しかし私だからこそ言える事でもある。ガルジアを良い様に使える、という特権は。アキノ達にとっても、とんでもない恩恵であるのは確かです。故に、
ガルジアをあまりあの場に置いておく事はしたくなかった」
「あなたがした様に、自我を乗っ取られかねないって事っすか」
「ええ。クロムが居るから、すぐにはそれは成されないとは思いましたが。しかし長い目で見ると、これはわからない」
 そこでバインは一度言葉を区切り、リュウメイに合図をして、自らの足で大地に立つ。リュウメイに運ばせている間に、多少は己の身体に魔力を蓄える事ができたのか。少なくともその見た目は大分青年のそれに。顔は黒く、しかし腕は白い状態へと戻っていた。
「本当に、恐ろしい土地ですねここは。今の身体の状態で、地に足を付ければ、それが嫌でもわかりますよ。通常ならば、自然には魔力がどれだけ微量であろうとも存在していて。そうして今、私の様な魔力を求める状態の者が足を踏み入れれば、少しずつでもその
力を吸収する事ができる。それがもっと大規模になったのが、ベリラスの状態と言っても良い。しかし、この地は違います。まるで神から見放されてしまったかの様に、この地にはその魔力が、塵芥としても感じられない。そのせいで、せっかく蓄えた私の力が、逆に
吸い取られている様な気分ですよ。乾いた大地には、私なんぞは一滴の水にも等しい存在なのですから、止めていただきたいものですねぇ。さて、ライシン君。すみませんが、帯魔布を頂けますか。代金は後で、互いが生きていたら三倍でお返ししますので」
「最後のは余計っすよ。まあ、構わねぇっすけど」
 ライシンが、荷物の中から黒の帯魔布を取り出す。巻取られた物を、四つ。それだけで金貨が十枚以上は掛かる事を知ってるガルジアは、思わず瞠目してしまう。
「私はあまり、こういうのは馴染まぬのですがね。だからこそ、自らの被毛にその役割を持たせつつ、若返りの手段としても用いているのですが。まあ、贅沢は言っていられません」
 受け取った帯魔布にバインが触れると、帯魔布は素早く持ち主の意を汲み取っては、宙に舞う。黒い布が、伸びきっては、たわみ。宙で制止する様は、異様な光景と言っても良かった。水の中を泳ぐ蛇の様なそれを、バインが左右の腕に一本ずつ導くと、帯魔布は
その腕にしっかりと巻き付いて。そうすると、白いバインの被毛が隠れて、本当に若返った様にも見えた。もっとも、腕は老人のそれの細さを維持してはいたが。
「ふむ。物は悪くない。さて、このままもう少し、進みましょう。ここの、中央。そこまで行けば、この計画をするのには充分な場として使えるでしょう。しかし、もう後戻りはできません。もっとも、今更どこへ逃げても、あの超人的な能力のアキノと、驚異的な魔道の技術を
有するベリラスと。そして不死身のクロムの三人が相手では、逃げ切れた物ではありませんがね」
「たった三人しか居ねぇのに、冗談みてぇに強い連中っすね……」
「まあ、小さい国くらいなら下手したら落としかねないくらい危ないですからね、あの人達は」
「てめぇが言うなよ」
「失敬な。私はただの老いぼれで、しかも召術士であるという事は彼らの様に前線にも立つのには向いていないのですから。彼らと同一視する様な真似は控えて頂きたいですね、リュウメイ」
 リュウメイは、それ以上は何も言わなかった。呆れているのだろうなと、ガルジアは思う。
 促され、再び道を行く。今度は、道という道がある訳ではなかった。この斎場にあるのは、ただ中央へ向かって頭を垂れるかの様に並べられた、石柱の山だけである。バインが言うには、それらは全て中央に向けて力を集めるための物であるらしいが。しかし魔力を
損なった地である今は、それ程の意味を成す訳ではないのだという。
「だったら、どうしてこの先に向かう必要があるのですか?」
「まあ、見渡し易いというのも一つにはあるのですが。特にあの、アキノの神出鬼没であるかの様な身体能力の凄まじさは、物陰が近いと到底避け切れませんし。ですが、それだけではありません。この斎場は、エイセイの中では最大規模の物。かつては様々な
祭事が成されていたでしょう。それだけの場である、という事は。そこに居た者達の思いもまた、この地には染みついているのです。なんとなく、厳かな空気を感じると言えば、あなたならば理解できるでしょう、ガルジア。結局は、その様に思うというのは。かつて
この場に立っていた者達の思いが、それだけ強く残っているからでもあるのです。それから、先の見渡し易いのと同じ事ではあるのですが。相応の広さが、どうしても必要です。理由は、わかりますよね。戦うにしたところで、城の中や、山中の傾斜の甚だしい
場所なんてお断りですし」
「でも、逆に言えば逃げ場は無くなるっすよ。本当に、いいんですかい」
 一つの懸念を、ライシンは口にする。その腕にも今は、黒の帯魔布がぐるぐる巻きにされていた。口ではそう言っていても、ライシンもまた逃げるつもりなど端から無い様に感じられる。
「時間を稼いでくれるだけでいいのです。それに、彼らはガルジアを手に掛ける事はできませんからね。攻撃の手はいくらか鈍ろうというもの。ガルジアを損なっては計画が音を立てて崩れさる可能性を否定できないのは、あちらも同じなのですから。いずれにせよ、
一度始めたのならば、ガルジアと、そして私は。少なくとももう逃げられません。今後死ぬまで彼らに追われるやも知れないのならば、ここで決着は付けてしまうべきですよ」
「そうっすけど。その、ガルジアさんは。……それで、いいんですか」
 気掛かりそうにこちらを見るライシンに、ガルジアは苦笑を見せる。
「本当は、少し怖いですけれど。でも、確かにヨルゼアとの接点を持つ私を、アキノさん達がそう簡単に逃がしてくれるとは思えませんし。だったら私は、ここでやれる事をやりたいと思います。そうする事で、この世界の危機もまた退けられるのなら、尚更ですね」
「別に、そんなもんを気にする必要はねぇと思うがな。強い奴が牛耳っていた今までと、何も変わらねぇ。もっと強い奴が出てきたら、弱い奴が新たに決まって。それも過ぎて落ち着いたら、また今みたいになるんだろうよ」
 身も蓋も無い言い方をリュウメイがする。しかしある意味では、それはまったくその通りでもあるのは、確かだった。異世界からの力の侵攻が及んでくる、という事を除けば。それは自然界の成り行きと、それ程の差がある訳ではない。今日において、
権勢を振るっては平和を享受している国々も。己が文明人であるという自負を抱く者達も。結局は原初を覗けば、力と力のぶつかり合いと。勝者が敗者を貪り、そうして勝者が紡いだ歴史が続いた結果に過ぎない。それが、今改めて繰り返されるだけであって、
充分な時が過ぎ、落ち着きを見せれば。そこにはまた今の様な秩序が広がっているだろう。余程、召喚獣の気質という物が乱暴でさえなければ、だが。
「でも、私は今が好きですから。アキノさんの、魔人の王国。それ自体は、応援したいですけれど。そのために、召喚獣の利用をするつもりであるのならば。その結果で、私達の生きている今が無くなってしまうのなら。私はやっぱり、それには抗いたいです。ちょっと、
申し訳ないけれど」
「そうかよ」
 素っ気ない返事がされる。相変わらずだなと思う。その相変わらずな部分に、今のガルジアは太鼓判を押された様な安心を得てしまうのだから、面白い。
「さて、たわいの無い話もここまででしょうかね。着きましたよ。ここが、斎場の中央です。もっとも、ここまでとはそれ程の違いがある訳ではありませんがね。貴重な品などは、流石に持ち去られた後でずから」
 話を切る様にバインが声を上げて、ガルジアは横に向けていた顔を、正面へ。いつの間にか、自分達が合間を縫う様に進んでいた石柱の存在は、途切れており。そうしてその代わりに、この斎場の中央と思われる位置には、いくつかの小さな段差を経た台座の様な
物が設えられていた。それらは縁の部分は金で彩られていた様だが、長い年月を手入れもされずに放置されていたせいで、ほとんど剥げていて。それと同様に記されていた何かの文言と見て取れる文章もまた、解読できた物ではなかった。それはエイセイの古語で
記されているらしく、どの道完全な物があったとしても。それを読み取る事は難しかっただろうが。幾重もそれが重なった上には、何も無い。平らかな床が広がっているだけだった。必要に応じて、そこに鎮座する物が変えられていたのだろうか。それを予想するだけの
残骸一つ、見当たらぬ。ただ、アオゾメが居た時の城と同じ様に。ここにだけ、雪は積もる事を知らぬかの様だった。
「魔力の無い土地。ですが、それでもこの場には僅かながらにそれが感じられます。雪が積もらぬのも、それのせいなのでしょうね。ああ、少し落ち着いた。ここでなら、私も少しは腕を振るえそうだ」
 早速、一行は準備に取り掛かる。とはいえ、それ程に時間の掛かる工程とも言えぬ。ただガルジアが台座の中央で精神を落ち着かせ、そうしている間にバインはその周りに幾何学的な模様の魔法陣を描いてから、細部にまた別の文字を書き込んでいた。それは
バインの光る指先で描かれており、時折バインの足に踏まれたり、長い狼の尻尾に払われても、特に消え去る様子もない。描かれる陣は中々に大きく、小さな家が五つは入りそうなこの台座の上を我が物顔で占拠してゆく。
 リュウメイとライシンの方は、もっと簡単だった。リュウメイは黙って、魔剣を引き抜いては、じっとそれを見下ろしている。長い間リュウメイが使っていたであろう剣の方は、アオゾメとの決闘の果てに折れて、使えなくなったはずなので。今リュウメイが頼るのは、
その魔剣一つなのだろう。相変わらず、それを持ってなんともないというのが信じられぬ程に、リュウメイは平然とした様子をしていた。その隣でライシンはといえば、帯魔布に不備が無いかと点検をしては、バインとはまた別に外側に魔法陣を描くと、一足先にそれを
発動させていた。そうすると、ライシンの描いた部分だけが淡く光っては、光の環が形成されて。それは水面に広がる波紋の様に、薄い膜となって辺りへと散ってゆく。侵入者を察知するために使われる物だった気がするが、それと同時に空気中に不意に力が
流れるのを、ガルジアは感じた。懐かしいとさえ思えるその感覚は、外の世界の空気の感覚その物と言っても良かった。この不毛の地に足を踏み入れ、それなりに長く過ごしていたが故に、産まれた時から感じていたであろうはずのその空気の感触をすら、
いつの間にか忘れていた様だった。途端に、胸の中に込み上げてくる物がある。温かくて。この地は、とても寒いというのに。それがわかっただけで、この地の恐ろしさを、改めて知るかの様だった。
 そしてまた。無事にこの地から、揃って脱出をしようという決意も込み上げてくる。

 曇り空は、変わらずにそこに広がっていた。昼を過ぎた頃、なのだろうか。時間を知る術すら失われた軟禁生活は、ガルジアからその感覚を奪い取っていた。雲は厚く、黒く。そうしてその先にある物を、隠してさえいるかの様だった。或いはその雲が取り除かれれば、
既にそこには、召喚獣の世界が顔を覗かせているのではないかと思えてしまう程に。曇天は底知れぬ物となって広がっていた。
 空気が、耳に痛い。耳鳴りの様な音が、聞こえた。それは、世界と世界とが、世界の変革よりも先んじて、ガルジアの傍で跪く狼人の召術士の手に依って、繋がれては、行き交うための門が今まさに開かれ様としているからでもあった。
「行きますよ」
「はい」
 短い言葉が交わされる。それを皮切りに、バインの敷いた魔法陣が、ようやく役目を迎える時がきたと。勇み立つかの様に震えては、光を立ち昇らせる。バインの囁く言葉が、聞こえる。この世界の言葉ではないそれを、今この、老いておきながらも若い姿を保つ
召術士は口にしているのだった。その言の葉は彼自身の魔力の作用を受けて、魔法陣の光と共に天に昇るという。異界を開く、鍵の一つ。本来ならばここには存在し得ぬ言葉。それは、バインが召術士として培って手にした技術の、一つであった様だった。
 大地が、揺れているかの様に感じられる。曇天が、曇天のままに、しかし震えてもいた。世界の全てが、鳴動を。そうして、躍動するかの様だった。世界その物が、この出来事に狂喜を示しては、それをしているガルジア達を祝福するかの様に、震え続けた。
 曇天が、不意にぱっくりと開く。巨大な見えない刃が、それを切り裂いたかの様に、空が開いてゆく。切りつけられた様に開いたそれは、光が立ち昇り、そこへと達すると同時に、綺麗な円を形作る。光が触れた先から、闇に呑まれてゆく。その先。この世界ではない、
別の世界。ガルジアの瞳は、それをまっすぐに見つめていた。終わり滝の時とは、違う。あの時は、操られ、良い様に使われていた。心の動きは、ほとんどない様な物だった。しかし今は、違う。空に開かれた門を、じっくりと見つめる余裕もあった。
 広がり切った門は、その周りに黒い稲光が時折発生しては、光を侵食して、門その物を閉じようと試みる。その度に光の方が今度は強くなり、それを退ける。その、繰り返しだった。光と闇が食い合いながらも、確かにその門はそこに広がっては、次の動きを
待っているのだった。
「ガルジア。長くは、持ちません。お願いします。門を開く事。その物は、確かに容易くはなった。しかしこれからここを通るのは、孤高にして最強の召喚獣なのです。そんな道を、きちんと用意するのは、やっぱり生半な事ではありませんのでね」
 頷いて、ガルジアは歌おうとした。その時、不意に別の音が聞こえる。はっとして、視線を向ければ。そこでは既に、激しいぶつかり合いが始まっていた。この台座に向けて放たれた巨大な火球を、ライシンが受け止めていた。ライシンは舞う様に帯魔布を靡かせては、
その火球を直接受け止めて自身が無防備となる愚を避けて。まるで糸の様に帯魔布を張り巡らせて、それを受け止める。そのライシンに向けて、続けざまに炎が。
「なりません。ガルジア、早く」
 咄嗟に、そこへ駆けつけようとしたガルジアを叱咤する、バインの声。そちらを見遣れば、苦し気に呼吸を繰り返している老人と、目が合った。既にバインの身体は、再び老人のそれへと戻りつつある様だった。今を逃せば、二度目は無いだろう。それを理解するのにも、
それ程の時間は掛からなかった。ガルジアは、また頷いて。それから深呼吸をする。幸い、ライシンの方は上手くやり過ごしたのか、視界の隅にその姿を捉える事ができた。また、剣戟の音も使える。アキノが剣を使うのかは、定かではないが。使わぬのならば、
それはリュウメイとクロムがぶつかり合っているのだろう。それらの音も、次第に遠くなる。或いはバインが、気が散るだろうとそれらを遠ざけているのかも知れない。
 虚空へと、右手を差し出す様にして。左手を己の胸に当てて、ガルジアはゆっくりと口を開いた。詩が、響いてゆく。その場に。そして、バインの力の先導を受けたかの様に、虚空に向けて。ガルジアが歌っているのは、歌術として認められる詩ではなかった。終わり滝で
操られた際に歌った、精霊を招く詩でもない。自らにとって故郷と言うべきラライトの周辺の村に伝わる、質素で、簡素な歌だった。昨日まで続いていた日々が、今日も同じ様に流れては、明日とその先へと。どこまでも、どこまでも続いてゆく事を綴った歌
だった。ガルジアは、修道士であったが故に、その様な日々が続いてゆく事を厭うてはいたけれども。それでも、この歌は幾度となく、歌術士としても、ただのガルジアとしても、幼い頃から歌っていた物だ。同じ日々が繰り返され、時折は少し違う事はあるけれど、
やっぱりまた同じ日々は繰り返して。しかしそれは大切で、掛け替えのない物である事を歌う詩だった。時には、その歌詞の示す事柄が、ガルジアには酷く嫌に感じられた時もあったものだった。今は、もう少しだけ違う気持ちで歌う事もできる。修道士としての日々を、
懐かしみ、惜しんではいる自分を知りながらも。こんな所までのこのこと来てしまった、今の状況をまた、とても好いてはいるのだと。言葉ではなく、歌声に乗せてゆく。
 そうして、ただ。自分はここに居るのだと。それだけを歌う。精霊を招くための物ではないこの詩は、精霊には好かれぬかも知れない。精霊と似た存在である、召喚獣にも、受け入れてはもらえぬやも知れない。それでもガルジアは、歌い続けた。伝えるべき事柄は、
たった一つで良かったのである。ただ、自分がここに居るという事。ただそれだけが、たった一人に伝われば。それ以外の誰にも、この声が届かずとも、それで良かったのだった。
 空が、眩い光に包まれる。まるで太陽が、その場に現れたかの様だった。虚空に描かれた門の中。その深奥の、漆黒の闇が、照らされていた。ガルジアは、笑顔になって歌い続けた。この詩が届く事。この声が届く事。誰よりも、自分と同じ気持ちを持ち得る存在が、
それを聞き届けてくれた事。それが、何よりも嬉しくて。手招きをするかの様に、弾んだ歌声を響かせた。例え目の前に居ても、そう歌っただろう。ここだ。ここに居る。自分は、ここに居るんだよ。そう、歌ったのだった。
「グッ……うぅ……」
 不意に聞こえた声に、ガルジアは我に返る。気づいた時、ガルジアの足元にバインは横たわって、苦し気に呼吸を繰り返していた。少し前までは、そんな状態ではなかったはずだ。改めて辺りを見渡して、すぐにその原因に気づく。光の柱が、空へ届くのとは別に、
目も向けられぬ程の光を発していた。その向こうに、僅かに見える存在。赤い鱗を持つ竜の男。初めてみた時の印象は、今はどこにも見当たらずに。狂おしく開かれた目は炎の様に輝いて、今まさにバインの陣を打ち破ろうと攻撃を加えていた。その攻撃が
加わる度に、魔法陣の光は悲鳴を上げるかの様に更に光っては、足元で転がるバインからは悲痛な声が上がる。既に息絶えてしまいかねない程に消耗している、憎い仇である男のその姿は、何かなしガルジアの胸を打った。その瞳は、今まさに魔法陣を
打ち破らんとする獰猛な竜人の目と、ほとんど違わぬ物だった。老人然とし、虫の息と言っても良い有様でありながら。その目は限界まで開いては、己に危害を加えているアキノを睨み殺さんとするかの様に鋭い覇気を漲らせている。
 ガルジアが正気を取り戻して、見守っていたのは、そこまでだった。バインはもはや、例え己がそのまま無様に死に至ろうとも、この状態を解くつもりなど毛頭ないのだろう。
 天を見据えた。異界の光は依然として高く、そこに在って。だから、ガルジアはまた口を開けて、歌おうとした。しかし、歌声がその口から出てくる事はなかった。それでは、間に合わぬ。何かに罅が入る様な音がする。陣の外。バインが遮断していた周辺の音が、
途端に入り込んでくる。剣戟の音。魔力と魔力がぶつかり合い、混ざり合っては、爆ぜる音。時折は、呻き声が。
 すう、と息を深くガルジアは吸い込んだ。歌う事で乱れていた呼吸を整える。
「ヨルゼア。今更こんな風に言うのは、身勝手だってわかっています。私は一度、あなたを拒んだのですから。けれど、私の歌声を聞いて、今そこにあなたが居るのならば。どうか、お願いします。……助けてください!」
 歌う事を、ガルジアは放棄した。絞り出したのは、小さな悲鳴。大きな存在に比べれば、それはあまりにも小さな、悲鳴だった。どこへも伝わらずに、ただ消えて。やがては悲鳴を上げた者さえ、消えてゆくだけの物だった。
 それでも。
 闇が散ってゆく。雲が散ってゆく。現れた光は、全てを吹き飛ばすかの様だった。曇天も、遠くで降っていた粉雪も、何もかもが一瞬にして払われて。しかしそれが舞い降りた場所に居る者達には、一切の危害を加える事もなく。その眩い光は、ガルジアの前に
舞い降りる。眩んで閉じていた目を、ガルジアがゆっくりと開けば。それは確かに、ガルジアの目の前に立っていた。睥睨するかの様な、深紅の瞳。ガルジアの持つ青みがかった瞳とは、そこだけが違うと言っても良い。もっとも、体格もかなり違うのだが。
 光が散ってゆく。まるで、己の姿をもっと、ガルジアに認めてほしいとその存在が思っているかの様に。光その物の様な白虎の身体に、白銀の鎧が。決して重々しい様な装備ではなく、身体の一部を守るだけのそれは、隙間から覗く持ち主の力強い体躯を
教えるかの様だった。それらを一瞥してから、首が痛くなる程にガルジアはまた顔を上げて。まっすぐに、見つめ合う。世界の全てが、制止したかの様だった。バインの働かせた防音はとっくに破られているはずだというのに、今は外の物音もほとんど聞こえない。誰もが、
そこに現れた存在から目を離す事ができずにいるかの様だった。ガルジアには、そんな事を確認する余裕などはなかったのだが。
「ヨルゼア……」
 息を呑んで、ガルジアはどうにかそれだけを。
 ヨルゼアは、何も言わぬ。無表情の仮面を被ったかの様に、静かにガルジアを見つめているだけだった。
 それで、不安になる。しかしガルジアは、どうにか一歩を踏み出した。ヨルゼアが、本当に自分の事を、それこそリーマアルダフレイと同じ様に見限ってしまったのだとしたら、少なくとも今ここに現れる事はなかっただろう。孤高の召喚獣であるヨルゼアは、長い時を
そうして過ごしていたのだから。己の興味をそそらぬ相手には、近寄る事さえない。その辺りの事は、ガルジアはよくよく弁えていた。それは、一度はヨルゼアと一体となっては、その魂を己の魂とすり合わせて、互いの気持ちを共有したからこそ充分に
理解している事でもあった。異界の異形。この世界の者とは、一個の存在としての格があまりに違うとされる相手でさえ、結局はどれ程に違いはあれど、心が存在しては、それは通じ合える状態である事を。少なくともヨルゼアはそれを持っている事を、ガルジアは
知っていたのである。
 しかし、だからこそ今ここでの言葉には、気を付けなければならなかった。少なくとも今のガルジアには、ヨルゼアの気持ちはわからぬのだから。
 ガルジアは、静かに一礼をする。その礼儀が、異界の、それも孤独の海に沈む相手に伝わるのかは、わからぬが。
「ヨルゼア。来ていただいた事、感謝します。一度はあなたを拒んだ私が、こんな風に勝手にあなたを呼ぶのは、きっとお嫌だろうとは思っていたのですが。その上で、あなたにとっては、私達の都合などはまったく関係の無い事ですし。……その上で、とても
不躾なのですが。あなたの力が今、必要なんです。あの、えっと……。力を、貸していただけませんか」
 今更ながらに、自分達が如何に都合の良い事をヨルゼアに頼もうとしているのかを理解して、ガルジアは俯いてしまう。そもそもが、終わり滝の一件とてヨルゼアの立場からすれば、確かにガルジアという、己と似通った存在を提示されたとはいえ呼び出されただけの
状態に過ぎぬ。その時決別をした癖に、今また呼び出されたのだから、決して心象は良い物ではないだろう。それこそ、決別した後の様にヨルゼアがこの場で暴れ出したとしても、なんの不思議もない。そして、あの時のネモラに仕える召喚獣達の様な存在を欠いた
今、そうなってはもはや手の打ちようがない。ヨルゼアを元の世界に追い返す事のできる存在など、少なくともこの場には居ない。アキノ達と協力をすれば或いはという気がしないでもないが、その道もまた困難を極めるのは想像するに難くなかった。
 不安が不安を呼び、胸中がざわめく。しかしそんなガルジアの心配は、杞憂に終わった。ヨルゼアは僅かに身を屈ませると、俯いたガルジアと再度目を合わせようとする。まっすぐに、見つめ合った。そうしても、何かが起こる訳でもなく、ヨルゼアの考えが読める訳
でもない。それでも、無表情とも思えたその瞳が、少なくとも怒りの色を滲ませてはおらぬ事だけは、今のガルジアにも理解できた。
 それから、非常にゆっくりとした動作でヨルゼアの掌が伸びて、ガルジアの頭にぽんと置かれる。ガルジアは思わず耳を伏せて、目を閉じて。それでも、何も起こらぬ事を確認してから、静かに目を開いて。そうしていると、不意に頭の中にふわりと何かが広がる
感覚を覚える。一瞬、恐怖に襲われたが。しかしそれが、決して悪い物ではない事を理解すると、途端にそれは快い物へと変わった。それは、ヨルゼアの想いその物だった。言葉ではない。目の前に居るヨルゼアは、それほど表情を変えずに、その口を開く事も
なかったし、頭の中に響くその想いも、明瞭な言葉として響く事はなかった。言葉ではなく、素直な気持ちがそのままに流れ込んでくる。ガルジアは目を閉じて、その思念を素直に受け止めた。柔らかく、温かな流れは、一度は魂を共にした時に感じた、あの快さに
似ていた。あの時は、全身がそれに浸かっていたのだから。それと比べれば、物足りないと思う程だ。
 様々な感情が、想いが、流れてくる。それらは全て、ヨルゼアの物だった。一度は見つけて、共に在ろうとしたガルジアに拒まれて、それを寂しく思った事や、それでも今こうして再び見える事ができたと喜んでいる事や、それから、もっと雑多で。沢山の事を伝えたいと
逸る気持ちその物が、広がる。思わず、ガルジアは口元に笑みを浮かべてしまった。最強にして、孤高の召喚獣。ヨルゼアは、そう呼ばれていた。それはただ、外から見ただけの姿でしかないのだという事が、嫌という程によくわかる。
「ごめんなさい、ヨルゼア。私は、あなたがとても怒っているのだとばかり」
 少なくとも、伝わる気持ちの中には怒りが滲んだ物など、何一つとして見つけられなかった。穏やかなそれは、身を預けて眠ってしまいたくなる程で。
 しかしそこで、ヨルゼアの手が離れて。ガルジアもまた正気へと。そうすると、バインの敷いた陣が、アキノの手によって完全に粉砕される様が、丁度後ろで広がっていた。実際には、全員が固まっていたのはそれ程長い時間ではなかったし、ガルジアとヨルゼアの
触れ合いも、短い物の様だった。夢から醒めた様に、急速に現実が戻ってくる。
「バインさん。もう、いいです。死んでしまいます」
 はっとなって、バインの事を思い出して。ガルジアは言う。それと同時に魔法陣の光は完全に消え去った。ヨルゼアが現れた事でどうにか少し距離を取っていたバインは、全ての力を使い果たした様だったが。それでも今は、笑みを浮かべてヨルゼアの事を
見上げていた。一層無垢とも言える程のその感情の動きは、しかしその内に止まって。バインはその場で完全に意識を失う。
 そして、それに代わるかの様に、アキノが陣の上へと。
「まさか、本当にヨルゼアを呼び出してしまうとは思わなかった。話には聞いていたけれど、こんなにあっさりと、ほとんどなんの準備も必要とせずに、これだけの事をしてしまうなんてね。やっぱり、ガルジアさん。あんたは、こっちに来るべきだよ。それができる時点で、
あんたもう俺達の仲間であって、常人の中に埋もれるなんて到底叶わぬ身だって事に、気づいた方が良い」
「わかっています、そんな事は。それでも私は、あなたとは共には行く事ができません。アキノさん。それに、ヨルゼアの力があれば。もしかしたら、世界と世界の問題その物を解決できるかも知れないのですから」
「それは俺が一番に困る事だ。何もかも無かった事にされちまったら。俺達は結局、ただの少数派でしかないのだから。悪いけど、そんな事をするのなら。流石にその命の保障もしちゃいられない。味方にならない奴は、放っておくに限るけれど。あんたはそんな簡単に
見過ごして良い存在ですらないのだから」
 アキノが、地を蹴ると姿を消す。恐ろしいまでの身体能力だった。しかしそれも、ヨルゼアには見えているのか。屈んだまま、ヨルゼアは軽く手を振ると、その手から放たれた光が確実に竜の身体を捕らえた。はじき飛ばされたアキノは、大きく跳んで。台座の上よりも
更に遠くへと。ほとんど何が起きたのかもわからずに、しかしガルジアは身を震わせる。やはり、ヨルゼアの力という物は、あまりにも桁違いだった。少なくとも今のアキノの動きにある程度対応できるのは、リュウメイやクロムなどの、極一部の者に限られただろう。
「アキノ」
 台座から吹き飛んだアキノを心配するかの様なクロムの声が聞こえる。それから、ベリラスも。声こそ上げなかったが、それを感じ取ったのだろう。宙を舞ったアキノは、その内に己の身体の制御を取り戻したのか。浮いたまま軽く魔法を周囲に放ち体勢を整えると、
器用にくるくると回ってその場へと着地する。しかしその身体からは、赤い血がかなりの量流れ出していた。その顔はほとんど驚愕と、そして恐怖に染められては、ガルジアを害すると判断した事で戦闘態勢に入ったヨルゼアを見つめていた。
「ヨルゼア」
 思わず、ガルジアはヨルゼアを呼んでしまう。ヨルゼアは一度振り返ったが、その表情は僅かな陰りを今は覗かせて。それから、静かに首を振っていた。それで、大体の事は察してしまう。ガルジアは、アキノを殺してしまう事を厭うたが、しかしヨルゼアはその必要が
あるという判断を下した様だった。冷静になって考えれば、それは致し方ない事であるのは確かなのだが。現れたばかりとはいえ、ヨルゼアはアキノの戦闘力と。そしてそれ程の腕前を持つ人物が、ガルジアを手に掛けようとしている事実を把握したのだろう。
 説得はできそうもなかった。そしてそれは、たった今ヨルゼアの力を思い知った当の竜人ですら、同じだった。アキノは地に崩れ落ちる様にして、苦し気に呼吸を繰り返していたが。闘志を覗かせた顔だけは変わらずに、ヨルゼアを見つめていた。それでも、一度
咳き込むと、そこから大量の血が吐き出される。或いはヨルゼアは、最初からアキノを消し飛ばすつもりで攻撃を放ったのかも知れなかった。既の所で、アキノはその破壊的な力の強さを感じ取って、攻撃を諦めてそれを全て受け止めた様だった。
「おいおい、冗談だろ……召喚獣が強いなんて、今更言われるまでもなかったけど。ちょっとかすっただけじゃん。こんなのあっさり使えるなんて、狡いよ」
 怯えながら、慄きながら。それでもアキノは口元には笑みを浮かべていた。それはある種、リュウメイとは同じ魂をアキノもまた持っている事を意味していた。
 もっとも、そうであるが故に。それを見て取ったヨルゼアは、アキノに手加減をする気など毛頭無くなってしまうのだが。アキノに向けた掌に、凄まじい光が一瞬にして集まる。ガルジアは思わず、息を呑んでしまう。先程とも、違う。先程は、そんな予備動作を必要とすら
しなかったのだから。その上で、今それをするのだという事の恐ろしさと徹底振りを、ガルジアは悟ったのだった。
 口を開けて、再度ヨルゼアの名をガルジアは呼ぼうとした。しかしそれは、間に合わなかった。放たれた光弾は、ヨルゼアから離れた途端に大きく広がっては、まるで相手そのものを包み込もうとするかの様にアキノの視界に広がった。それでも大分、
手加減が。アキノに対してではなく、この場に居る者達や、この世界その物に配慮をした攻撃だという事が伝わってくる。本来のヨルゼアの力とは、大陸を割るとすら言われる程であるのだから。もしそれに一切の誇張がなく、全てが真実であるというのならば、
その一撃はガルジアを除いた全ての者達を跡形も無く消し飛ばした上で、その後ろにあるエイセイ城ですら大破させていた事だろう。
 それを思えば、それはまだ優しい攻撃だと言わなければならなかった。もっとも、直撃をしたら死を免れぬという意味では、その対象にとっては何一つ変わらぬ、無慈悲な一撃に他ならなかったが。
 眩い光が、世界を晦ませる。ガルジアの瞳にも、それは同じだった。正面からそれを受け止めたアキノがどうなってしまったのかとか、そんな事を確認する余裕すらない。ただ目を瞑って、必死にその絶大な力の片鱗に吹き飛ばされぬ様に、身を屈めた。
 光が、不意に全て消えてゆく。まるで夜になったかと錯覚をする程に、光が失われた様に感じられて。しかし数度呼吸をする頃には、また光は戻ってきた。あまりの激しい攻撃に、時や光などといった物すら、一時この場から退けられてしまったかの様だった。
 閉じていた瞼を、ガルジアはゆっくりと開く。本当は、見たくはなかった。しかしそうしなければ、何事も進まぬ事もまた、わかっていた。何よりも、ヨルゼアを呼び寄せたのは自分なのだから。
「ベリラス……」
 感情すら籠らずに、思わず零れてしまったかの様なアキノの、呆然とした声が響く。他には、誰も騒いではいなかった。
 光が無くなったその先に居た者を見て、ガルジアは思わず息を呑む。アキノは、体勢を変えてはいなかった。ヨルゼアの迅速な攻撃に、さしものアキノも傷を負ったままではすぐには対応できなかったのだろう。
 動かなくなった、そのアキノの前で、仁王立ちをする者があった。それは多分、白熊だったはずの男で。しかし今は、全身を真っ赤に染め上げていた。落ち着き払った顔も忘れて、遅れた様に獣の様な唸り声が聞こえる。その被毛も、ローブも、何もかもが赤く
染まりきっていた。それでもベリラスは、確かにそこに立っては、ヨルゼアの攻撃を防いだのだった。
「ベリラス!」
 ベリラスが膝を突くのと同時、アキノは弾かれた様に立ち上がって、その身体を支える。それから、アキノは一度辺りを見渡した。敵意を孕みながら、しかし助けを求めるかの様に。血まみれの自分達を、今庇ってくれる存在がどこにも居はしない事を理解している
はずなのに。アキノは僅かな間そうしていた。そうしていれば、誰かが助けてくれるのではないかと、期待するかの様に。
 それでも、アキノの判断は非常な早さで下された。突如として気迫を漲らせ、そうして力を込めたアキノはベリラスを、どこにその様な膂力があるのかと疑いたくなる程に軽々しく持ち上げる。そして、その場から消えた。とはいえ、それはアキノ一人で行使するよりも、
ずっと遅い動きと言わなければならなかった。ガルジアの目でも、今は追う事ができる。万全な状態のアキノならば、もっと機敏な動きを見せたのかも知れないが。そのアキノ自身も、全身に傷を負っていた。アキノと、そしてそれに担がれたベリラスは、何に
目をくれる訳でもなく、足早にその場を立ち去ろうとする。
「ヨルゼア」
 ガルジアはどうにかその場から身体を動かすと、声だけではなく、その手でもってヨルゼアを引き止めた。当然、本来のアキノの動きですら見切って吹き飛ばしてしまう様なヨルゼアであるから、遁走しているアキノを見失う様な事も、それに対して追撃ができぬ
という事もない。現に、ガルジアがそうしなければ。ヨルゼアは再び腕を上げて、何も言わずに彼らを消し去っただろう。
「もう、いいです。ごめんなさい。あなたにばかり、任せてしまって」
 ヨルゼアの手を取って、ガルジアはそれを見上げる。最強の召喚獣の名を欲しいままにする、白虎の存在を。手が触れたところは、少し熱く。それはヨルゼアの持つ本来の物というよりは、攻撃を放った反動に因るものなのだろう。もっとも、それでヨルゼアが痛みを
感じる様な事もなく。それはより一層、普段は孤独と無関心の海に浸っているこの男を、一時狂戦士の様に変える薬としての作用をしか成さぬのだろうが。

「えっと……」
 アキノ達が去って、その場には静寂が広がる。交戦をしていたリュウメイとライシンは、二人ともまだそれ程の手傷を負った訳ではないのか、今は台座の下からガルジア達を見つめていて。そうしてバインはいまだに、ほとんど動けずに居る様だった。
「ごめんなさい、ヨルゼア。申し訳ないのですが、少し力を分けていただけませんか。このままでは、何もできそうになくて」
 ガルジアが頼み込むと、ヨルゼアは黙ってガルジアと手を繋いでくれる。そうする事で、ヨルゼアから莫大な力がガルジアの中へと流れ込んでくる。とはいえ、ガルジアは魔導の素養を持たぬ身であるからして、それはほとんど意味を成さずに、それでもガルジアの
疲労と傷を奪い取ってはどこかへと消し去ってゆく。それを快く感じながら、ガルジアは余った方の手で屈むと、バインの手に触れた。触れた途端に、老いた狼人の身体はぴくりと震えては、まるで奇跡の様にその身体が黒く染まってゆく。ガルジアと触れ合った
指先から、塗料を流し込んだかの様に、白から黒へと染められてゆく。それはなんとも不思議な光景と言わなければならなかっただろう。ただ色が変わるだけならまだしも、その肉体も含めて、驚くべき早さで若さを取り戻してゆくのだから。ややもすれば
そのまま胎児にまでなってしまうのではないかと、ガルジアは心配になってしまう。しかしその心配は杞憂に終わって、その内にバインの方が勢いよく身体を起こす事で、その接触は終わりを告げる。
 本来ならば、歌術を行使しても良かったのだが。それはヨルゼアの手前、憚られる事であり、願ったのだが。それは思っていたよりも良く、また迅速な効果を齎してくれた。
「おおっと、危ない。いえ、助かりましたが。本当に、素晴らしい力ですね、ヨルゼアは。おお、眩しい。面を向けられぬ程ですよ」
「バインさん。すみませんが、ヨルゼアに無駄口は控えてください。その、失礼ですけれど。ヨルゼアがあんまり、良い感情を持っていません」
「……それは。まあ、仕方がないのでしょうが。アキノ達の二の舞にならぬだけ、私には充分ですが」
 そう言いはするものの、内心バインにとってそれはかなり衝撃的な様だった。終わり滝でガルジアを散々に利用した事を、そうしてそれをヨルゼアが知っている事実を鑑みれば、それはなんら不思議ではなかったのだが。しかしバインは召術士であり、力のある
召喚獣への憧憬を抱いている。それが一心に向けられるべき相手から、その様に見られるというのは、やはり堪えたのだろうか。遠くでライシンが噴き出しているのが見える。
「ヨルゼア。待ってください。今はバインさんの手助けが必要なんです」
 ガルジアはといえば、必死にヨルゼアを宥める事で手一杯だった。今ヨルゼアを怒らせたら、誰にも止められるはずがないし、その上で終わり滝の時はネモラの召喚獣が手を貸してくれたのだから。
 そういう意味では、本来の危機であるアキノ達を退ける事はできたとはいえ、本番はここからと言っても良かった。アキノ達が去った事で、ようやく一息吐いた一行は、短い休息を挟んで。それから、改めてガルジアはヨルゼアへと向き直る。待たせている間も、
ヨルゼアは何もせずに待ってくれていたのが幸いだったが。それが却って非常な威圧となっていたのは言うまでもない。しかも、本来であるのならば召喚獣の行使する力は、呼び出した召術士の魔力によって賄われるものだが、ヨルゼアに限っては必要な量が桁違い
であるが故に、今はそうではなく。ただヨルゼアの方から差し出した力で賄われているのだから。バインなどはそれを大層気にしている様だった。もっとも、そうでなければ瀕死のバインに対して、ヨルゼアが力を渡す事に意味も生まれなかったが。
「ヨルゼア。ごめんなさい、すっかりお待たせしてしまって。本当にありがとうございます」
 とりあえず、ガルジアは丁寧にヨルゼアへの応対をする。そもそもヨルゼアは、ただ呼ばれたから来ただけであって、それだけでも充分にガルジアは感謝をしなければならぬのに、それを今引き止めているのだ。最強の召喚獣がその様に扱われていると知ったら、
ダフレイ辺りは卒倒しかねないなとガルジアは苦笑する。そのダフレイが今回居ないのは、ある意味では良かったのやも知れない。ヨルゼアと繋がったガルジアは、ヨルゼアがダフレイの事を少しは気にしながらも、複雑な感情を抱いている事まで理解していたのだから。
「では、改めて説明をします、ヨルゼア。こんな場所に、突然に呼び出してしまって、ごめんなさい。けれど、もう時間が無いのです。それは、あなたが通ってきたあれを見ても、わかる通り」
 そこで言葉を切って、ガルジアは空を見上げる。そこには、ぽっかりと開いた門の、残骸と呼べるべき代物が広がっていた。事前にバインから説明を受けていたので、今のガルジアにもその意味がわかる。
「既にバインさんは、あの門の制御を放棄しています。今までだったら、それはすぐに閉じては、消えてしまうそうです。ですが、今はそうではない。世界と世界の均衡が崩れている、その証とも言えます。ヨルゼア。今回、あなたをお呼びした本当の目的は、この問題に
ついてなのです。お願いです。あなたの力で、この世界の繋がりを、以前の状態へ戻していただく事はできないでしょうか」
 そもそもが、世界と世界の繋がりというのは非常に微妙な物の上に成り立っているというのは、今更言うまでもない。その上で、ヨルゼアの力というものは、それその物に干渉し得るのだった。その証拠に、ネモラとダフレイ達の時代では、現れたヨルゼアの力によって、
その後長きに渡る召喚士の衰退を招く様な事態に。要は、世界同士の位置がずれを起こしては、それまでの様に召喚を行えぬ様な状態になったのである。そして、先日の終わり滝での一件が過ぎた後は、今度は逆に過剰な程に召喚をするのが容易くなってしまった。
「これを、ヨルゼアが巧みに操る事ができるのか。それはわかりません。しかしヨルゼアの力が、あまりにも絶大であるが故に。世界の均衡をすら揺るがす物であるのは、まず確かと言っても良い。いずれ召喚獣が、門の創造すらを必要とせず。そうすると召喚獣
という名ではなく、ただの良き隣人か、或いは侵略者として現れてしまうというのであれば。それこそヨルゼアの力によって、それは制されて然るべきでしょう。というより、それ以外の力なんて私達は持っていないし、知りもしないし、知っていても決して手は届かぬの
ですから。そういう意味では、ガルジア。あなたはまさに、それができる存在と言っても良い。厳密には、それをするのはヨルゼアですがね。しかしヨルゼアが言葉に耳を傾け、そうして代わりに力を行使する事すら厭わぬ存在というのは、あなたを除いて存在しては
いないのです」
 バインの言葉が、思い出される。アキノ達に真向から抵抗をしようとしたのも、結局はその言葉があったからだった。世界と世界の繋がりを白紙に。以前の様に戻す事ができる。それができるのならば、それが最良とガルジアは踏んだのだった。それをする事で、
アキノ達の計画は根幹から崩れ去る事にもなる。或いはそのためにアキノはガルジアを傍に置いていたのかも知れないと、バインは言う。アキノに召術士の観点から見た助言をする事を避けていたがために、真相はわからずじまいであるが。己が傷つこうともすぐには
引こうともしなかったところを見れば、アキノもその可能性は最初から考慮していたのかも知れなかった。
「このままでは、世界と世界がぶつかり合って、壊れてしまうかも知れない。それは、実際にそうなってみないと、わからない事なのですが。ヨルゼア。どうか、今はそのお力を、お貸し頂けませんか。あなたにとっては、なんの関係も無い事と言われては、それまで
なのですが」
 言葉を紡ぎながら、ガルジアはこの提案をヨルゼアがどう受け取るのか、わからず不安に陥っていた。ヨルゼアにとってみれば、それはあまりにも瑣事である。例え世界が一つになって、召喚獣がどれだけ暴れ回ろうが、そんな事はヨルゼアにとっては雑兵が、更に
弱い雑兵を傷めつけている様にしか見えぬだろう。それは世界の隔たりという物を抜きにすれば、元々双方の世界であって然るべき光景である。ただ、立場はそのままに。そこに収まるべき者達が様変わりをするだけに過ぎない。そうした中においても、強者である
召喚獣の中で頂点に君臨すると言っても過言ではないヨルゼアであるのだから。その在り方も、立場も。何一つとして脅かされる心配などはないのである。
「だからこそ、あなたじゃないといけないのですがね。だって、もしそんな大変な事になってしまったら。あなたの身が危ない事を、ヨルゼアは理解してくれますからね」
 バインは、そう言う。しかしガルジアとて、己が願えばそれを全てヨルゼアが叶えてくれるかというのには、疑問があったし、またそれはあまりにも都合の良い意見だと言わなければならなかった。何よりもガルジアは、一度は終わり滝でヨルゼアを拒んだので
ある。ヨルゼアにとっては、それこそガルジアなんぞを助ける義理すら元々持ってすらいない。この様に姿を現しては、アキノ達を撃退してくれただけで、あまりにも大きな貸しを作ってしまったのに。その上で、世界の均衡についても手を貸せと要求をしているの
だから。もっとも、そもそもの発端はそのヨルゼアの力であるので、そういう意味ではあながちヨルゼアも無関係ではないのだが。しかしそれも、ヨルゼアを求めた者達が引き起こした結果であって、ヨルゼアが意図して行った訳でもない。
 説明を終えると、僅かな間を置いてヨルゼアの手が、ガルジアの手を取る。そうするだけで、ヨルゼアの気持ちが伝わってきた。ヨルゼアは、己が口から言葉を発する事がない様だった。もっとも、直に伝わるこの気持ちがあれば、確かに不要だというのは
頷けるが。言葉よりも尚雄弁に、それはガルジアにだけ語り掛けてくる。ガルジアの主張に、異存の無い事を。それから、その様な作用を世界に引き起こす事をヨルゼアは理解しているので、普段は何もしていないというのだという事も。結局は、ヨルゼアを求める手が、
時にはその逆鱗に触れて。厄災の素となっている様だった。
 それから、最後にとヨルゼアが告げてくる。ガルジアは、頷いた。
「はい、わかっています。そのためには、もう一度私とあなたで、一つにならないといけない事も」
 それの意図するところも思って、ガルジアは僅かに表情を陰らせた。
「やめろ!」
 ふと、叫び声が聞こえた。その場で成り行きを見守っている者達ではなかった。ガルジアがはっとなって、目を向ければ。そこに、鬣犬の男。全身を傷だらけにして、それどころか上半身には何も纏わずに、力なく両腕を下げた鬣犬の男が、悲痛な叫びを上げてそこに
立っていた。
「クロムさん……」
 ヨルゼアの攻撃の余波で、その姿を認める事ができなかったが。確かに今、クロムはそこに居た。その身体のあちこちから、鬣犬の被毛を赤く染める血が流れ出ていたし、力なく垂れ下がった尾からはぽたぽたと更に赤い血が流れ落ちている。その様子から察するに、
正面からでは見えないが。背をヨルゼアの攻撃で焼かれたのだろう。半死半生の態ではあるが、流石にそこは不死身の男だった。致命傷は塞がり、己の傷すら今は見えてはおらぬ様に。狂おしく猛々しい光を瞳に宿しては、ゆっくりと台座へと歩み寄ってくる。
「ガルジア、やめるんだ。今また、ヨルゼアをその身に宿す様な事をしたら。本当に君は、おかしくなってしまう。今だって、わからないのに。そんな事をしたら。……大体、そんな事をする必要が、一体どこに」
「それが、あるんですよねぇ」
 やり取りを見守っていたバインが、クロムの言葉に反応を示す。そうすると、クロムはバインを睨み殺そうとするかの様な形相で見つめた。もっとも、その程度でバインが怯む事などありえなかったが。しかしその代わりに、沈痛そうな表情を、バインは浮かべる。
「私が原因の事ですから、こんな風に言うとあなたや他の方はさぞお怒りでしょうけれど。ヨルゼアをガルジアに憑依させるのは、大前提ですよ。何故ならば、世界と世界の繋がりを、以前の様に戻して。それを安定させるためには、こちらとあちら、双方からの力が
必要だからです。こればかりは、如何にヨルゼアの力が強くとも、一人でできる事ではありません。ヨルゼアはあちらの者であるからして、それでは結局、こちら側から力を放ったとて、その全てはあちら側の物に吸収されてしまいますからね。ガルジアの身体を
介する事で、それをある程度はこちら側の力であると認識させる事はできる。……そうですね、どちらが内側、外側という訳ではありませんが。雨漏りをした時に、内と外から、しっかりと様子を見て直さなくてはならない事と、同じと思ってくださればよろしい。だから、
片側だけではそれは成り立たない。奇跡を願って、そうしてもらう事は可能ですがね。それが都合良く一千年も安定する事もあれば、つい最近の様にどんどんと不安定になってしまうやも知れない、とても微妙な選択と言わなければなりませんが」
「だったら。今回が駄目だったのならば、その時そうすれば良いだろう。何も、今すぐなんて事は」
「あなた、結構残酷ですねぇ。言い忘れてましたが、きちんとした補修ではなく、奇跡を願うという事は。仮に一時は良い様になったとしても、その状態が続いてゆくという保障も無いのですよ? いつ来るのかもわからぬ。いつかがやってくる事に怯えて、ガルジアに
生きてゆけと言うのですか。それはそれで、ガルジアが生きている間にしかできぬ事だというのに。いえ、あなたがそれで良いと言うのなら、構いませんがね?」
「だが」
「それに、その時になったら、というのはちょっと世界の事も蔑ろにし過ぎですよ。言うなれば、私達はかなり乱暴に雨漏りを直そうとしている様な物。本来ならば、そもそも全てを取り払って、そこに新しい家屋を用意すればいいけれども。それは世界の創造に等しく、
誰にもできる事ではありません。一度歪んだ物は、どれだけ叩いても決して元の綺麗さを取り戻す事はないのと同じ様に。手を加えるのならば最小限の方が望ましい。他の場所から、綻びが出ぬとも限らないし、一度それが出てしまえば、その連鎖は我々では
止めようがない。だからこそ、今、たった一度でそれを解消するべきですよ。もっとも、その選択は全て、ガルジアに任せましたが。今の私は、それを教える事ができるだけでしかありませんからね」
「全部、貴様のせいだろう。白々しい。どうしてそれで、ガルジアが犠牲にならなければならないんだ」
「ええ。全部私のせいですね。どうぞお好きな様に罵ってください。それで結果は何一つ変わりませんが」
「やめてください、二人とも」
 ガルジアの声が飛ぶ。そうすると、二人は言い争いを止めた。もっとも、バインの方はただからかっているに過ぎないのだろうが。対するクロムはといえば、普段はあれだけ余裕を持った振る舞い方をするはずなのに、今はその仮面をかなぐり捨てては、剣ではなく
その牙でもって、バインの喉笛を噛み千切らんばかりの形相をしていた。
「クロムさん。これは、私が決めた事です。それに、他に方法が……少なくとも今は見当たらないのは、バインさんが話してくれた通りです。どうか、見守っていただけませんか」
「しかし、ガルジア」
「お願いします。やっぱり私は、このまま世界が滅茶苦茶になってしまう事は、見過ごせません。そうなったら、こんな風に皆さんと旅をする事も、きっとできなくなってしまいそうですから」
 もっとも、ヨルゼアと再び繋がりを得る事で。例え世界その物が救われたとしても。己が旅を続ける事は不可能になってしまうかも知れないが。ヨルゼアからすれば、当然事が済めば、ガルジアをまた求めようとするやも知れない。それは、言わなかった。それは、
覚悟をせねばならなかった。
「ヨルゼアを呼び出すために使った門も、やはり少なからず影響を与えた様です。ヨルゼアその物が、強大な力の塊であるからして、それは無理もないかも知れませんが」
 しかし今、それを持ち出して新たな口論を生じさせる余裕は無さそうだった。バインが促した通り、中天には依然としてヨルゼアを召喚するために開いた門が、開かれたそのままに存在していた。それもまた、新たに世界への影響を強めているとバインは言う。
 クロムが、次第に表情を静かな物へと。僅かに諦めを混じらせたそれへと変じさせる。
「……もし、君の身体が、本当に私と同じ様な物になってしまっても。君はそれでも、構わないのかい」
「はい。それに、その時は。クロムさんも居てくれますから。一人じゃありませんしね」
「はあ。わかったよ。……召喚獣が、こちらに容易く訪れる事はなくなって、アキノの計画も崩れ去る。確かに、もっとも正しい選択なのだろうね。君の事を、除きさえすれば。……リュウメイ達は、本当にそれで良いのかい」
 一度、クロムが辺りを見渡した。リュウメイと、ライシン。それぞれに視線を向ける。つい先程までは、交戦をしていた間柄だが。既に争う理由を、互いに損なっていた。クロムがこの計画を邪魔さえしなければ、剣を交える必要は無かったのだった。
「俺は、リュウメイの兄貴と、ガルジアさんが決めた事ならそれで構わねっすよ。元々はアオゾメ様のためだったけれど、アオゾメ様ももう居ねぇし。好きにしろって、アオゾメ様には言われてたっすしね」
 ライシンは、特に迷った様子も見せずに言い放つ。気持ちの整理はいまだにできたとは言い難いが、それでもアオゾメの死は、きちんと受け止めたのだろう。ただ、恩師であるベリラスが敵である事については、やはりまだ気掛かりであるのか。アキノ達が逃げた
方向を一度、気掛かりそうに見つめていた。もっとも、それで己の立ち位置を変えるつもりはない様だが。
「リュウメイ、君は」
 珍しく、クロムは縋る様にリュウメイを呼んだ。ともすれば、リュウメイが反対を示せば、それだけでガルジアが止まるとでも思っているかの様に。多分、それはそこまで間違った考えとも言えないでもないが。
 それでも、ガルジアはその心配はしていなかった。微笑んで、リュウメイを見つめただけである。
「まあ、好きにすりゃいいんじゃねぇの? 俺はアオゾメに呼ばれてここまできて、俺の目的を果たしたんだ。こいつはそれに付いてきて、別にやる事を見つけたんだ。ここまで付き合ったんだから、俺もそれぐらいは付き合ってやるさ」
 言葉に、ガルジアは思わず苦笑を零してしまう。心配するだけ、損だったなと思う。
「ヨルゼア、お願いします。それから、バインさんも」
「心得ました。最善を尽くしましょう」
 バインが、再び陣を敷く。今度はそれ程に手間の掛かった物ではなかった。空に残った門をただ閉じる。それだけの物である。このためだけにも、やはりこの中で唯一、召術士であるバインの力が必要だった。程無くして陣が完成すると、先程までの様に
リュウメイ達は退き。そして新たに加わったヨルゼアと共に、ガルジアは魔法陣の中央へと立ち竦む。
「ヨルゼア。……ええ、大丈夫です。はい。心配してくれて、嬉しく思います。私はあなたに、酷い事をしてしまったのに。ええ。少し、あなたの事を誤解していました。本当は、こんなにも優しくて。それから、臆病だったんですね。本当は、私とそんなに変わらない様な」
 差し出された大きな手を、ガルジアが受け入れると、そこからじわりと広がってくる。ヨルゼアの気持ちが。それに対して、ガルジアは言葉を返す。本当は、こうしているのならば、ヨルゼアと同じ様に気持ちを伝える事もできただろう。それでも、ガルジアの声が響くと、
ヨルゼアの喜びに満たされた波動が伝わってくるのだった。まるで、自分はそうする事ができぬが故に、それを羨むかの様に。
 陣から、光が溢れてくる。それが合図だった。ヨルゼアを己に宿したとしても、ガルジアはあくまで歌術士であり、召術士の芸当を。要は、門に対するあれやこれやという事はできない。門を閉じ、その上でこちら側から必要な力を届かせるためにバインは居て、
そうしてヨルゼアは最後に、自分の世界へと戻って同じ事をする。
 ヨルゼアの姿が、淡くなって。その代わりに、触れ合った手が、火傷をするかの様な熱を覚える。それでも、そう感じるのは一瞬の事だった。指先の被毛が抜け、爪が剥がれ、皮膚が裂け、そこから熱い物が身体の中に入ってくるのかと思えば、すぐにそれは
一転して快い感触へと変わってゆく。失った様に思われた指先が、新たに、そしてまったく同じ物を形作る。消滅と再生。その二つが、同時に行われているかの様だった。ヨルゼアをその身に宿すという、その意味を、改めて身体に教えられる。
 戸惑いが、聞こえた。音ではなく、しかしそれはガルジアの中に、確かに響いた。指先から始まった、光と熱が、怯えている。淡くなって、その姿を消したヨルゼアは今、ガルジアの前で小さな光となって、静かに漂っていた。何かを躊躇う様に。望まれてする事で
あっても、そうする事で、ガルジアを自身が狂わせてしまうのを、厭うかの様に。跪く様にして、ガルジアはその距離を詰めて。それからその光を、抱き締めた。口を開けて、何かを言おうとして。それでも今は、何も言わなかった。もう、ほとんど入っている。受け入れようと
している。ガルジアが示したその態度は、ヨルゼアに伝わったのだろう。光に包まれて、光が治まって。しかしそれは、己の内から溢れ出すが故に、ガルジアの瞳には映らぬ事にもすぐに気づいた。
「不思議な物ですね。あの時と様に、快い感じはしますけれど。でも、あの時よりもずっと楽な感じがします」
 あの時は。終わり滝では、ガルジアは無理矢理にそうさせられた事で、ヨルゼアという大海の中に沈められたに過ぎなかった。それでもヨルゼアは限りなく優しくガルジアを包んでは、癒そうとして。しかしそれは結局、功を奏さぬ結果に終わる。
 しかし今は、その逆だった。力強く、強大な存在が、小さな淡い光となって、ガルジアの中へと沁み込んでゆく。言葉では言い尽くせぬその快さに、ガルジアは驚いていた。ヨルゼアからも、まったく同じ波動を感じた。互いが、互いを求めようとして起こり得る衝撃と
比べれば、以前の事は、本当にただ二人が近づいた、それだけの事に過ぎぬのだったと確信を持って言える。今は、ヨルゼアと比べればあまりにも卑小で、取るに足らぬガルジアの方が、海だった。大海とも言えぬ。海とすら。水溜りの様な。そんな、小さな存在
だった。それでもガルジアは、ヨルゼアがその中に喜んで身を投じている事を。求める事を諦めた、孤高である事と同じぐらいに孤独なこの存在が、とても控えめではあったけれども、素直な幸せの波動を迸らせている事を感じ取った。
「素晴らしい……」
 言葉が不要になったその場で、言葉が響く。いつの間にか閉じていた目を開けば、床に跪き、瞳の開ききったバインが、うっとりとこちらを見上げていた。それにガルジアは微笑みかけてから、屈み込むと、その肩に触れる。途端に、バインは呻いた。
「私が光を届かせます。それに向かって、あなた達の力を。焦らないでください。強すぎる力で壊してしまったら、元も子もない」
 陣の光が、強くなって。再び空へと伸びてゆく。筒の中に居る様だった。その光を確認してから、ガルジアは力を解放する。勝手は、まるでわからなかった。ただ、己の内で眠っているヨルゼアが、かっと目を見開いたかの様な錯覚を覚えて。だからガルジアは、
その力の流れをただ許しただけだった。そうすると、中天に伸びる光の筒が、一層強さを増す。傍で、バインの小さな笑い声が聞こえた。ちょっと見てやると、涙を流している狼人の姿が見える。その顔は若者のそれだったが、その様子はお世辞にも見た目相応の物とは
思えない。バインは力を消費しながら、消費される先からすぐにガルジアの手を伝って、新たな力を足されているのだった。その精神的な負担は、長年召術士として生きていた老練な男の精神をも、半ば壊してしまうかの様だった。
「大丈夫ですよ、私は。こんなに素晴らしい景色が広がっているのに、今すぐにどうにかなるなんて。そんな勿体ない事はしませんよ」
 今バインを欠いては困る。その身体をガルジアが気遣うと、バインは不敵な笑みを浮かべてこれに応える。
「もう少しです。焦らずに」
 促され、見上げれば。既にバインの創造した門その物は崩壊を始めていた。光の環が、切り分けられた様に小さな光となっては、霧散してゆく。広がる闇もまた、閉じかけていた。ただ、それとは別に。非常に大きな光の環が。まるで波紋の様に、遠くの空へと
広がっては消えてゆく。それが、ガルジアとバインを介して今伝えられいる、ヨルゼアの力だった。世界の異変を、正すだけはある。それはまさに、この世界の空に、染み渡る様に広がっては、消えていた。本来ならば、ヨルゼアの騒動が起きたのは終わり滝で
あるからして、一番にその手当てを必要としているのはその地に他ならないが。この場所からでも、ヨルゼアの力はあまねく天に、届くのだという。それらの情報は全て、見た物をガルジアが訝しむと同時に、ヨルゼアから答えとして与えられる物だった。長きを
生きては、そしてこれからも朽ちる事の無い存在の経験と知識が、望んだあらゆる答えを、今のガルジアには惜しみなく与えてくれる。
 だから既に、ガルジアは今の事態を見て、高揚感に包まれたり、不安に苛まれたりする必要もなかった。バインですら、例え計算はできても、己が力だけでしている訳ではない以上は不安を覚えるだろうが。しかしガルジアにとっては、ヨルゼアと一つになった時点で、
その様に心をざわつかせる事はなかった。全てが上手く行く事など、己が内に居る大いなる存在が、端から教えてくれていた。
 最後に、ちょっと力を入れる。それだけだった。そうすると、バインの魔法陣が力に耐えかねて、粉微塵に砕ける。天に続く光の階段が、朽ちてゆく。最後の力は天に行き渡ると同時に、弾け飛ぶ様に光を放った。世界が、ほんの少しだけ、しかし絶対的な光に
包まれる。この世界の内ならば、どこに居ても、きっとその変化は人々の目に映っただろう。それ程までに、とてつもない力だった。ガルジアの内に入っている以上、ヨルゼアの力は本来のままとは言い難いはずであるというのに。それでも、心を開いた二人から
放たれた力は、やはり絶対的な物だった。
 雪が降っていた。何事も無かったかの様に。何事も無くなった事を知らせるかの様に。今はこの斎場にも、ようやくその雪が達していた。この場に残っていたと思われる、人々の思いも、溶けては消えてしまったかの様だった。
「終わりました。これで、よろしいのでしょう。きっとね」
 いつの間にかバインは平静さを取り戻しては、片腕を上げて小さな門を創造して、その具合を確かめていた。
「こちら側からは、以前と同じ様に。そうですね、召術士と呼ばれるに至った時代の物と、変わりありません」
「そうなる様にしましたから」
 ガルジアが静かに呟くと、バインはちょっと、ぎょっとした様な表情を見せる。ガルジアの中でのみ行われている、限りない知識と経験の循環。その様子を、バインは垣間見たかの様だった。
「あとは、あちら側からのヨルゼアの仕事ですね。もっとも、それを心配する必要などありませんが」
 曇天と、雪。空に見えるのは、それだけだった。先程まで空に広がっていたあらゆる物は、白昼夢の様に消え失せて。しかしガルジアだけは、いまだに身体の中にある強大な力の存在を知るが故に、それが現実の物であった事を自覚していた。
 ガルジアは、己の掌を見つめる。そうすると、そこから力が抜けだす気配がした。ヨルゼアが、その融合を解こうとしているのだろう。
「待って、ヨルゼア。一つだけ、教えてください」
 それを引き留めて、そしてガルジアは問いを、言葉ではなく思いで伝える。踏み止まったヨルゼアは、直ちにガルジアの疑問を解消してくれる。その術はある。今ならば行使できる。失敗もしない。
 相手の存在に、負担も無い。
「ありがとう」
 ガルジアは、静かに立ち上がった。既に、台座の近くまでそれを見守っていた人々が来ていた。
「リュウメイさん。ライシンさん。終わりました。これで、大丈夫だと思います。ヨルゼアの役割は、まだ残っていますが」
「みてぇだな」
「すげぇっす、ガルジアさん。本当に、さっきまでと空気が違うっすね。俺は召術は全然っすけど、それでも少しは空気が変わった事、わかるっすよ」
 二人と言葉を交わして、ガルジアは微笑む。無事にやり遂げた事を、喜ぶかの様に。
「ガルジア」
 そこに、一人。鬣犬の男が歩み寄ってきた。多少は、遠慮をするかの様に。それでも、気遣わしげな表情だけを湛えて。
「ガルジア。君の身体は、大丈夫なのかい」
「どうでしょうか。自分では、ちょっとまだわかりませんが」
「なら、早くヨルゼアと別々になるんだ。長く一緒に在ると、きっと君に負担が」
「そうですね」
 掌を向けた。その先に居る、鬣犬の男が立ち止まる。男が、戸惑った様にガルジアを見ていた。位置は、悪くはない。
 光が迸る。ほとんど無造作に、ガルジアはそれを放っていた。もっとも、それをしたのは、その内に在るヨルゼアに他ならなかったが。
 それでもこれは、ガルジアが選び、またそうさせた事でもあった。
 力強い光は、男を貫いた。途端に、この世の物とは思えぬ叫び声が聞こえる。誰の者とも結びつかぬ、聞き覚えの無い声が。のた打ち回る様に響いては、やがては消えていった。
 光が止んだ時。クロムはそこに居た。膝を突いて、呆然としていた。見る見るうちに、その瞳から涙が溢れては、流れてゆく。
「どうして」
 微かな声が聞こえた。歴戦の傭兵が絞り出したとは思えぬ程の、小さな声。ガルジアは、クロムの背後を見つめていた。まるで伸びた影の様に、夜よりも、闇よりも尚暗い。黒その物が。血飛沫の様に広がっていた。
「どうして、こんな事を」
 涙を止められぬまま、クロムがガルジアを仰いでいた。ガルジアは視線を逸らす事を止めて、クロムを迎えて。静かに笑った。
「約束を破ってしまって、ごめんなさい。クロムさん。けれど、あなたはあなたの時間を。これからは、生きてください」
 頽れる様に、クロムが地に伏した。
 止め処ない涙が、今は雪よりも一足先に、大地を濡らしていた。

 視界が、揺らいでいた。
 全身の痛みが、酷くなっている。何故かと思い、しかしアキノはすぐに答えを見つけた。今まさに、自分が背負っている男の存在が、原因に他ならない。
「アキノ」
 か細い声が、聞こえる。アキノは、構わずに足を踏み出した。とりあえずは、城へ。そう思った。二人とも満身創痍であるし、このままではアキノの方ですら動けなくなりそうだった。
「起きたんだ、ベリラス」
「ええ。……すみません。あなたの力を、きっと奪ってしまったでしょうね。寝ている時は、私にはどうする事もできません」
「別に、いいよ。それに、ここはこんな土地だから。ベリラスの力の向かう先も、俺しか無かったんだろうし。俺の方は、まだ平気だから」
「とても、そんな風には見えません」
「それは俺の言葉なんだけど。あんな頭のイカレた一撃、よく受け止めきれたもんだな」
「何事も、成そうと思えば成せる物です。流石にあなたを守り切れないかも知れないと、思いましたが。どうにか、それだけはできた」
「それでも、その怪我か」
「壊すのが、間に合いませんでした。受け止めて、壊してしまえば、それはただの魔力になって。だからそれは私の糧とする事ができる。しかし受け止める事すら、満足にできずに。それどころか受け流す事にこちらの力を持っていかれてしまった。まあ、そんなところです」
「ベリラスでそれなら、俺は蒸発してたな。俺そんなに魔法使えないし」
「召喚獣の攻撃ですからね。ただの邪法よりも、与しづらい」
 一度言葉を切って。アキノは背負うベリラスが落ちぬ様に、持ち直した。そうすると、ベリラスが呻き声を上げる。アキノもまた、声こそ上げなかったが。痛みは全身に及んでいた。ベリラスが意識を取り戻し、力の搾取が弱まった事で、ある程度はましになったのは
確かだが。しかしアキノとて、ヨルゼアの一撃を喰らった事には、違いなかった。
「はあ。なんか、疲れたわ。ていうか、あれ反則だよな。あんなに強いだなんて、思ってなかった。いや、強かったとしても。強いからこそ。あんな風に、たった一人のために、あんな化け物がやってきてくれるなんて、俺は本当には信じてなかったよ」
「そこのところは、私も同意しますが。いくら召喚が容易くなったとはいえ、あの様な大いなる存在を、召喚してしまうとは。リオの力だけでは、ありませんね。あの、ガルジアという者が。ヨルゼアから、真に好かれているからなのでしょう」
「あー。痛ぇ……。俺、痛いの嫌いなんだけど。勝つのは好きだけどさ」
「根っからのサディストですものね、あなたは」
 何度か、咳き込んだ。その度に、赤い血がぼたぼたと垂れてゆく。ヨルゼアにとっては、本気を出したとは言えないはずの攻撃だった。咄嗟の事で、完全な防御ができなかったという事もあるが。それにしても、受けた傷は大きかった。
「どうしよ、ベリラス。もう、無理なのかな。あいつら、あんな強い奴が出せるんだ。きっと、俺達の計画が根本からおじゃんだよな、これ」
「そうですね。ちょっと、急ぎ過ぎてしまいましたかね。あなたも、私も」
「だって、そんなの仕方がない。多くの。いや、少ねぇけど。魔人の同胞に協力を取り付けるのには、今回の事を成功させなくちゃならなかったんだ。誰も、今自分の持っている、細やかな居場所をすら投げ打つ覚悟がなかったから。そうしても、平気なんだって。俺達が、
それくらいの場所を用意してやらなくちゃ、いけなかったんだ。召喚獣の異変が、いつ大きな物になるのかもわからねぇ以上は。とにかく急いで、地盤を固めなくちゃいけなかったんだ」
 言い訳をする様に、それを口にする。アキノ自身もまた、それを充分に理解していた。早計であった事など、百も承知だった。しかし、急がなくてはならなかったのだった。
「わかっています。ええ、わかっていますよ。アキノ。……それでも、早計である事より、何よりも。私達が、本当にすべきだった事は。その同胞達と、もっと話をして。保障すらしてあげられずとも、彼らと共に立ち上がる事だったのかも知れません。今更、こんな事を
言うのは気が引けるし、詮方ない事でもありますが」
「そうだったのかな。でも、そうだったんだろうな。今ここに、残っているのが俺とお前だけだって事が、その証拠なんだろう。バインは、最初から期待してなかったけど。クロムは、もうちょっとだったかなって、思うんだけどな」
「クロムは、別に私達を裏切ってはいませんでしたよ。私と同じ様に、あなたを守ろうとして重傷を負っていましたし。ただ、ガルジアという存在が居たから。あの場に残った。それだけの、話です。彼は、板挟みにも苦しんでいましたね」
 急ごしらえの夢は、勢いこそは確かだったが。結局それは実る事もせずに、今砕け散ろうとしていた。
「これから、どうしようか。あいつら、戻ってくるかなぁ。あんなヤバいのまで一緒だと、流石にもう、今回の事がどうとかより、俺達が生き残る事すら、できそうにないけれど。あ、ベリラスは死なないか」
「死なないだけで、死んだ方がましな状況なのですがね」
「ははは。なんで、世間って奴は不老不死なんて欲しがるんだろうね。そうなった奴の中で、思わず羨んでしまうくらいに、幸福そうな奴なんて、一体どこに居るんだか。俺が知っている不老不死を会得した奴らは。皆、寂しそうで。寂しくて、今にも泣き出しそうな奴ら
ばっかりだったよ。結局」
「私は、そうではありませんが。あなたが居てくれましたし」
「でも、初めて会った時のベリラスは、やっぱりそんな感じだったよ」
「そうでしたか。なら、あなたが私を変えてくれたのでしょうね。ああ、あなたと初めて出会ったのは、もう何十年前の事でしょうか。百年くらい、前でしたっけ?」
「俺そんなにまだ生きてないんだけど。四十年くらい前だよ。もう呆けたの」
「楽しい時間は、苦しい時間よりも何倍も速く過ぎ去ってゆくものです。そうですか、まだ、その程度の時間でしかなかったのですね。もっと、ずっと昔から。私はあなたと一緒に居た。そんな気がしてならないというのに。あなたと一緒の時間は、そんなに短かったのか」
「それでも、普通の奴らにとっては長い時間だね」
「ええ、本当に」
 足元が、ふらつく。膝を突いて、そのままベリラスの体重を支えきれずに、アキノは潰れる。そうすると、しばらくの間を置いて、背負っていたベリラスがどうにか横へと退いた。二人揃って、打ち捨てられ、多少は荒れ果てた石畳の上に転がった。
 顔を上げれば、エイセイの城が見えた。漆黒の城は、今は一時主となったアキノと、そしてベリラスの二人を、睨みつけてさえいる様だった。
 乾いた笑いを浮かべる。
「はは。なんか、見た事ある感じだな、これって。俺達みたいな存在は、こんな気持ちをあと何回繰り返したら、俺達を指差してる奴らみたいになれるんだろうな。こんなに、痛い思いまでして。どこまで我慢をしたら、当たり前を、当たり前に手にしている奴らと
同じになれるんだろうな」
「疲れましたか」
「……ちょっとね」
 起き上がる力が、無い訳ではなかった。足は千切れてしまいそうな痛みを上げていたが、腕はまだ動く。だからこそ、ベリラスをここまで担いでこられたのだから。腕を立てれば、まだ身体を起こす事もできる。這いずって、進む事もできる。
 ただ、顔を上げれば。惨めに生きている自分を見下ろすかの様な城の姿を見るだけだった。
「疲れたな。ベリラスは、どう。疲れた?」
「ええ。私も、疲れましたね。こんな地では、いつもの様にすぐに元気に、という訳にはいきませんから」
「俺の力、もっと使ってもいいよ。もし、あいつらが戻ってきて。そうして、俺達を生かしちゃおけないって言うのなら。俺はきっと、助からない。だったら、ベリラスだけでも、助かってくれて良い。どうせ、今回の事はもう失敗に終わって。どう足掻いても、挽回なんて
できやしない。失敗した俺達を、同胞は毛嫌いするだろう。危険因子って奴と、一緒には居たくないって思うだろうさ」
「どの道、私は彼らにもあまり好かれていたとは言えませんしね。私は、厳密には。あなたとも違うのだから、アキノ」
「やめろよ、そんな風に言うの。例え、そうであったとしたって。俺は、同じ魔人なんかよりも。ベリラス。ずっと、お前の方が、好きだよ」
 倒れていた身体を、抱き上げられる。白熊の、赤い腕がアキノを包み込む。
「赤いね、ベリラス。俺と同じ」
「あなたの赤い鱗は、少し違いますがね。色合いが。……大丈夫ですか。アキノ」
 気遣う様に、ベリラスが言う。そうされながら、アキノは苦痛を覚えていた。ベリラスが意図せずとも、身の危険を感じたその身体は、アキノの力を吸い取っていた。その身体は、アキノを苛み、しかしその身体の持ち主は、アキノを案じてもいた。苦笑が漏れる。
「あんまり、大丈夫じゃないな。ベリラスは?」
「私も、あまり。このままでは、あなたを食ってしまいそうだ」
「それで、いいんじゃない。今言った通り。俺と二人より、ベリラス一人の方が、きっと生き残れる。いや、厳密には、お前は死なないはずなんだから。楽にここから逃げられるってところかな」
「私に、生きていけと言うのですか。あなたと会う前の私を、知っていながら。あなたは」
「ごめんな、ベリラス。でも、俺は失敗してしまったから」
 計画が頓挫してしまえば、その後の展望はない。だからこその大きな賭けだった。大きな、夢だった。
 そして、賭けには負けた。夢も、夢ではなくなった。
 楽しかったのか。今、そう思えているのか。アキノは、束の間考えた。わからなかった。馬鹿だったかなとは、ちょっと思ってもいる。
「もっと、上手く言えば良かったかな。ガルジアさんや、クロムに。もっと、大変だった。助けてほしいって。それくらい、切羽詰まってるんだって。そう言えば、何かは変わったかな?」
「そんなに悲劇的に演出する程、魔人が人が好いとは思いませんがね、私は」
「まあ、そうだけど。だって俺がそうだし?」
 一つ、息を吐く。寒さが堪えた。力に漲っていた時には、それは気づきもしない癖に。こんな時になって、今更の様にその存在は身体を冷やしては、体力をまた奪ってゆく。
「寒いのですか」
「ちょっと、血を流し過ぎたね。普段なら、どんなに寒くたって。ベリラスにくっついてれば、寒いなんて事はないのに」
 白熊の胸の中に、アキノは顔を埋める。いつもの様な、ぬくもりを感じる事はなかった。
「ああ、温かいな」
「それは良かった」
「なあ、ヘリラス。俺、どうしたら良かったのかな。どうすれば、上手く行ったのかな。それとも、普通の奴らの中に、怯えながら隠れ住んでた方が、良かったのかな? ただ産まれただけで、いつの間にかついてしまった差を、甘んじて受け入れて。下を向いて
生きている事が、俺達のするべき事だったのかな? そりゃ、態々こんな身体になりにくる奴も、居るけれど。俺は少し違うし。偶々っていうか、ちょっと竜人にしても力が強かったからだし。ベリラスだって、生まれつきなのに」
「そうですねぇ」
「戦おうとした事が、間違いだったのかな。手を取り合って? そんな余地すら、与えてくれない様な惨状を嫌になるくらい味わっているのに、それでもそうしない俺が、悪かったのかな」
「あなたが間違っていた訳ではありませんよ、アキノ。……けれど、私達は負けたのです。譲れない物が、互いにあって。だからぶつかって、そうして負けて。ただ、それだけです。間違っていた訳ではない。けれど、正しかった訳でもありません。負けた者の事を、
誰も正しいだなんて言いませんからね。だから、アキノ」
「ベリラス」
「よく、頑張りましたね」
 衝撃が、走った。アキノは今更になって、目を見開いて。自分が、そして自分を抱き締めているベリラスが、どんな状況になっているのかを理解した。ベリラスの腕の中に収まっているから、気づかなかった。そうしている間に、ベリラスは自分達を中心に、魔法陣を
描いていた事を。
 そして、それを描き終わると同時に。ベリラス自身があまり使わぬ邪法を。魔導によって生成された槍を形作っていた事を。
 その槍で、ベリラスは己と、己の抱き締めているアキノを、貫いたのだという事を。アキノは、その時になってようやく知った。
「ベリラス。どうして」
「この魔法陣は、外に私の力が及ばぬ様にした物です。結界と言っても良い。だから私の身体は、どんな命の危機に晒されても。内側にしか干渉し得ない」
「ベリラス……」
 アキノの全身から、急激に力が抜けてゆく。ベリラスの身体が、命を繋ごうと躍起になって、その力を解放する。それに、アキノの存在は呑まれた。途端に意識が朦朧として。痛みを感じる暇もなく、再びベリラスの胸の中へと落ちてゆく。
「本当は、もっと別の形があって、それでもいつかはこの様にする事があるのではないかと思っていました。私が死ぬためには、条件が必要だったから。けれど、アキノ。あなたの計画は、崩れ去って。あなたはそれを受け入れて、それだけではなく、
自らの死をも受け入れようとしている。……それなのに、私には生き続けろと言う。死ぬ事のできない私を、あなたは置いていこうとする。それが、私には耐えられない事すら、あなたにはわからないのですか。それとも、それすら、あなたは諦めてしまったの
かも知れませんが。だって、私は死ねない身体ですから。けれど、死なずとも、消滅をする事はできる。これは、クロムなどと同じ様で、しかしその性質を異とする私だからこそできる死に方だ。私は周りの力を吸い取る事で、永らえているのだから。そうする事で、
永遠を演出しているに過ぎぬのだから。私の力が、どこにも及ばぬままに。私の存在が完全に消えてしまうのであれば。私はきっと、死ぬ事ができる。あなたと共に、死ぬ事かできるはずです。アキノ。聞こえていますか、アキノ。私の声が。今、あなたにとても
酷い仕打ちをして、酷い事を言っている私の声が、聞こえますか。ごめんなさい。こんな形になってしまって。やっぱり、この計画をあなたが考え付いた時。私はそれを、止めるべきだった。どんなに惨めで、無様であっても。世界の隅で、誰からも受け入れられない様な
在り方しかできなくても。私はあなたと共に居られたら、それで良かった。あなたは、優しいから。私がそんな現状に満足していても、あなた自身は決して満足はしなかったし。自分の同胞がその様な憂き目に遭っている惨状にすら、胸を痛めてばかり
いたけれど。本当に、あなたは優しいのですね。私は、あなたの様な優しさを持つ事ができなかった。自分と似た様な者達が、どれだけ虐げられていたって。私の前に、あなたが居てくれるのなら、それだけで良かった。身勝手なんですね、私は。身勝手だから、
今あなたがさっさと死を選んで、私に逃げろと言った事にすら、耐えられなくて。今、あなたにこんな事をして。アキノ。ごめんなさい。でも。……聞こえていますか。私の声が」
 ほとんど動かなくなった腕が、僅かに震える。痩せ細った手。それを、懸命に伸ばした。胸に当てて、それから、必死にその上にまで。そうしている間に、赤い鱗にこびり付いた血を洗い流そうとするかの様に、いくつもの滴が落ちては、流れていった。
 それでも、その先を続ける事はできなかった。既に、口を開く事もできない程に、アキノは乾いていた。
 空に、光が走る。光の環が広がって。どこまでも。どこまでも、空を駆けてゆく。綺麗だなと思った。
 それから、アキノは空を指差そうとした。俯いたまま、自分を見つめるベリラスが、それに気づける様に。綺麗な物が見られると、教えたくて。
 しかし、アキノがどれだけそうしても。願っても。ベリラスはもう、決してその視線をアキノから逸らす事はなかった。
 世界が、白く染まる。

戻る

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

bottom of page