ヨコアナ
33.擾乱の果て
魔道士の塔から続く王城は、それまでとは大分異なる様相を呈していた。
そこはアオゾメの領域とも、この城に入ったばかりとも違い、人の生活が僅かながらに営まれている気配があったのだった。
それは、先にガルジアの目の前に現れた、竜人のアキノや、白熊のベリラスなどが、まさに今そこで寝起きを繰り返しては、何かしらの計画を進めているという証拠でもあった。ある程度環境も整えられているからなのか、寒くは感じない。或いはアオゾメが
していた様に、ベリラスやアキノの力が、今はこの王城には及んでいるのかも知れなかった。
「まあ、とりあえずは楽にしてくれよ。ちょっと強引に、連れてきちゃったけどさ。何も俺は、ガルジアさんの事、無理矢理どうこうしたい訳じゃない。と、いうよりは。それでは、俺の計画が色々と面倒な事になってしまうし」
王城の一角。本来ならば、ごく位の高い者が使っていたであろう一室に通されたガルジアは、そこで拘束を受ける事もなく、上等な細工に彩られた椅子に座る様に促される。もっとも、机を挟んだ向かい側には大層軽薄な様子の、赤い鱗に覆われた竜人である
アキノが身軽そうに座り込んでいたし、振り返れば部屋の入口を塞ぐ様に、クロムが静かに扉に凭れていた。唯一、ベリラスの姿は見えなかったものの、だからといって自力で抜け出せる様な状況ではない。
アキノの恰好は、ベリラスと同じ様にローブに身に着けてはいたものの、細部では異なっていた。無地の物を避けているのか、金の刺繍が地味に生地の上を走っていたし、ローブは腰から下の部分は両側に切り込みを入れて、自慢の尻尾が必要以上に
動きを制限されぬ様にもしていた。それから、首にも赤によく合う、金のネックレスが僅かに存在を主張している。ローブの下はよくは窺えないが、首の途中までぴったりとした黒い生地が覆っているのは見えて。それはネックレスを僅かに際立たせていた。そうして
いると、とても軽薄な様子を受けるのは確かだが。本人の竜人という種族があって、同時に威厳という物を醸し出していた。アキノの言動は、それには程遠い部分も多く。ともすればちぐはぐな印象を受ける。
「あなたの計画というと。その、魔人の国を作り上げる、という事ですね」
「そう。その通りさ」
道中、アキノはリュウメイ達との充分な距離が取れたと見るや否や、早速にガルジアの隣へやってくると、己の計画について語りはじめていたので、既にガルジアはある程度は、アキノ達が何を目的としてここに居るのかという事については知ってもいた。しかし
それであっても、アキノの計画というのはガルジアには半信半疑に感じられた。魔人だけの国を作り上げる。小規模であったとしても、確固たる地盤を築きたいのだという。それは、あまりにも途方もない話で。最初に聞いた時、ガルジアはどうにか頷きはしたものの、
正直なところ突拍子が無さ過ぎて、どの様な反応を明確に返すべきなのかも、わからなかった。
「あまりに途方もない、大きな話なので。すみません。でも、本当に大きな夢ですね。とても、大きな」
「勿論さ。俺の夢は、大きいんだ。夢を見るなら、大きい方が絶対に良いからね」
「どうしてでしょうか」
「そりゃ、例えこの夢が叶わなくたって、それは仕方がないさって。そういう風に笑ったりできるからさ。それでもただ、それに向かって頑張って走っていた自分だけはその場に残ってさ。ああ、こんな夢を見ていたな。馬鹿だったな。でも、楽しかったな。そんな風に、
思えるだろうさ。でも、小さい夢は見ちゃ駄目さ。絶対にね。だって、もしそれが。それすら叶わなかった時。それすら叶わぬ己の人生だと、気づいてしまった時。きっと、立ち直れない。少なくとも、俺はね。ガルジアさん。ガルジアさんなら、この気持ち、わかって
くれるんじゃないかなぁ? だって、ガルジアさんも同じだからね。クロムから、聞いたけどさ。幼い時から、その身体のせいで修道院で育てられて。一体何回、小さな。細やかな夢を見たの?」
「……そう、ですね」
アキノはあえて、幼い頃のガルジアが、何を望んだのかまでは言及をしなかった。小さくて、細やかな子供の願い。確かにそれは、一つとして叶えられる事はなく。それすら叶わぬ己の境遇を、呪いもした。そんな願いすら叶わぬから、ガルジアは修道院で育てられた、
修道士でありながらも。己が信じ、崇めなければならない神の存在には、そこまでの信を置く事は叶わなかったのである。もっとも、修道士としての慎ましやかな生活。清貧を心掛けるという生き方に関しては、己の考え方と合っていたために、決して修道士である事を
疎んじていた訳ではなかったのだが。更にはその原因である、己が白虎であるという事実をも、本当には厭えずに。そこをバインに狙われる事もあった。
「だからさ、大きい夢、見ようよ。それに、笑い飛ばさないだけ、ガルジアさんは優しいな」
そう言って笑うアキノにも、やはりガルジアは上手く答える事はできずに。結局この部屋まで、案内をされていたのだった。
「さて、本題だ。俺が伝えたい事は、確かに伝えたけれど。でも、流石にそれじゃ雲を掴む様な話だよね。それくらい、口にしてる俺だってわかってるさ」
「そもそも、その計画に私が必要な様には思えないのですが」
「そうだね。ガルジアさんは、歌術士だものね」
一度、アキノがガルジアから僅かに視線を逸らすかの様な仕草をする。ガルジアが訝しんでいると、それはすぐに戻るが。呆れた様な溜め息が、背後から聞こえる。
「ただ、ここで一つ見逃せない出来事があるんだ。これは、ガルジアさんが体験した、終わり滝での一件についてなんだけど」
「その事を、知っているのですか」
思わず、その時になってガルジアは振り返ってしまう。この話をアキノが知っているのだとしたら、それは今ガルジアの後ろで事態を静観している、クロムからの情報に他ならぬと思って。そうして視線を合わせたクロムは、僅かな間を置いてから、静かに頷く。
「おっと、クロムを責めたりしないでくれよ。確かにクロムは、俺にその事を教えてくれたけれど。それでもそれよりも先に、俺は俺の情報網でもって、終わり滝での事は掴んでいたんだからさ。要は、クロムにしてもらったのは、ただの確認さ。クロムにも言った事だけど、
俺みたいな奴にとっては、あの時終わり滝に居た奴らっていうのは、全員一癖も二癖もあるからね。サーモストの一件で、大分派手な騒ぎになったんだ。誰一人目を付けない、なんて事はありえない話だよ」
「そうなんですか。それで、終わり滝での一件で、見過ごせない点というのは」
「それはね」
そこから先、アキノの言葉を聞く度に、ガルジアは何度も驚く破目になる。異界との接点。いずれ起こり得るやも知れぬ、世界と世界の衝突、或いは融合。境界が曖昧になった事により現在生じている、召喚獣の問題。そうしてそれらの異変は、あの日終わり滝での
一件を皮切りに起きている事。このまま捨て置けば、それだけでその異変の影響は世に広がるであろうという事。
「いつか、召喚獣は召喚すら介さずに、この世界に現れるかも知れない。それが、いつなのかはわからないけれど。俺は魔人と、それから彼らの中から、協力してくれる奴を集めて、国を作りたいんだ」
「お話は、わかりましたが。……いえ、到底、全てを理解したとは、言えませんね」
「それでも、いいさ。突然に過ぎるからね」
「それで、私が必要というのは」
「君は、ヨルゼアに選ばれた白虎だ」
ヨルゼア。その名を出されて、ガルジアは思わず固まってしまう。終わり滝での一件を、アキノが承知しているというのだから、それは当然の事と言わなければならなかったのだが。
なるべく思い出さぬ様にしていたのだが、ガルジアは、ヨルゼアには複雑な思いを抱いている。ガルジアは、ヨルゼアの孤独を知ったし、それは己が抱えた物と似通っていたが故に、一時は身体を明け渡す様な事にも陥っていた。
しかし。その後、結局ガルジアはヨルゼアを拒んでは、怒りに震えたヨルゼアはネモラの召喚獣達の手によって、元の世界へと帰されたのだった。
「もし、世界と世界の繋がりがこれ以上密になって、召喚獣が現れる様になった時。ヨルゼアの様な強い召喚獣が現れたら、世界はどうなると思う?」
「それは……」
ガルジアには、到底想像もつかぬ事態だった。また、ヨルゼアの性格を考えれば。短い間とはいえ、触れ合った事でそれを知っているガルジアは、ヨルゼアならそれでも態々こちらに出てくる事はしないのではないかと思う。
「普通なら、そうかも知れないね。ヨルゼアは、孤高の召喚獣らしいし。でも、君に会えると知ったら。これはどうなるだろうか」
正直な考えを告げると、今度はそう返される。そう言われると、またガルジアはわからなくなる。
「私は、一度はヨルゼアを拒んだ身です。ヨルゼアが今、私に対してどの様に思っているのか。それが、わかりません。ですから、アキノさんの言葉にも、どうお返事をしたら良いか」
或いはヨルゼアは、既にガルジアをも見限ったのやも知れぬ。それは、遠い昔の話。リーマアルダフレイ・セロスが、ヨルゼアに触れようとして、拒まれた時の様に。そうであれば、なんの問題も無いのかも知れないが。しかし今、ヨルゼアがどの様な心境であるか
というのは、ガルジアにもわかった物ではなかった。
「そう、わからない事。あまりにも、不確定の要素が、多すぎる。俺の計画は、だからこそそこに賭けている訳だけれど」
「だから、私に今は、ここに居てほしいというのですか」
「そうだね。それから、こう言うのは卑怯だと思うけれど。ガルジアさんからしたら、怒っても仕方がないけれど。終わり滝での一件が、始まりだというのならば。素知らぬ顔をするのは、ガルジアさんの流儀としては、どうなのかな」
「……それは、そうですね」
本来ならば、それは召術士のバインが諸悪の根源であるのだから。その様に言われるのは、ガルジアとしては大層心外であるのは、確かなのだが。しかし己が居なければ、そもそもがあの時、ヨルゼアはあの場に現れる事はなく。それは結果として、今日の事態を
招かぬのだという事が、わからぬはずもない。
「アキノ」
その言葉を深く受け止めていると、咎める様なクロムの声が聞こえる。
「その件で、ガルジアを責めるのはあまりにも筋違いだ。その様な物言いをするのなら、私は許さんぞ」
「ああ、ごめんごめん。悪かったよ。ちぇっ。こんな事なら、ベリラスに来てもらうべきだったかな……。それはそれで、あんたは絶対騒ぐと思うから、連れてきた訳だけど。まあ、そんな訳で。しばらくはここに居てほしい。それに、もし召喚獣が実際に溢れたりした際には、
世界に相当な混乱が生じる事は想像するに難くはない。それこそ、俺は召喚獣の一部とは手を組むつもりだけど、実際にそこまでの大事になってしまうと困るんだ。そういう時に、或いはガルジアさんなら、ヨルゼアに助けを乞う事ができるかも知れないと
思うんだよね。門を開くのは、もう俺の力でもできるし」
軽い調子でアキノがそう言って、話は終わる。譲歩する様な事を言っていたが、やはり今、ガルジアがここから素直に解放されるという訳にはゆかぬ様だった。
「アキノさん。あなたは、どんな国を目指して、今そうしようとしているのですか?」
話を切り上げて、アキノが後の事をクロムに託して立ち去ろうとした際に、ガルジアは声を掛ける。振り返ったアキノが、ごく自然な笑みを浮かべた。
「魔人が、虐げられない様な国を。それから、召喚獣も。もし世界がこれから、本当に重なってしまうのなら。召喚獣の中にも、俺と同じ考えができる奴が、居るはずだからね。けれど、そう。本当はそれらは、建前なのかも知れない」
「建前?」
「俺が、したいのはさ。ベリラスなんだよね。あの、白熊のね。あいつが安心して生きられる場所を、俺は作りたい。ガルジアさん。俺の言葉、全部は信じられないと思うけれど。それでも、これだけはどうか信じてほしい。ベリラスと。そう。それから、そこに居るクロム。この
二人は、或いは魔人よりも、もっととんでもない生き物だからさ。いや、クロムの方は生きてるんだか死んでるんだか知らねぇけど? まあ、生きてるよね。ごめんごめん、そんなに怒った顔しないで。そう。だから、俺はそういう国が欲しいんだ。そうして、そんな国や、
場所がこの世界に既にあるのなら、俺はこんな事はしなかったと思うけれど。そんな都合の良い場所なんて、どこにもなかった。だから、これから作ろうっていうのさ」
夢を語る様に。実際に、夢を語っているのだが。瞳を輝かせながら、アキノはそう言って、姿を消す。後には、僅かな溜め息を吐いたガルジアと、それを見守るクロムが取り残されただけだった。
アキノとの話を終えたガルジアは、王城からまた別の道へと通される。そこは、魔道士の塔のそれと同じく、王城の周りに聳え立つ塔の一つであって。そこへ続く道は、豪奢な設えがされてあったけれども、その入り口は重苦しく、頑丈な扉がガルジアを待ち構えて、
口を開けていた。
なんとなくそれを見て、ガルジアはそこが、位の高い者のための牢獄として建てられた塔だという事を察する。王族や、貴族などの中から罪を犯した者は、いくら咎を重ねようとも、結局は下々の、卑しい者と一緒くたにされる様な事はない。薄汚く、黴臭い牢屋に
入れられる様な事は、決してないという。とはいえそれは、結局は見た目だけの。要は一番にわかりやすい部分においては違っている、という事にしか過ぎないのもまた確かであった。余程の権力を持っていたのならば格別、そうでなければ、結局は獄に落とされる
という結果には、何一つの違いもないのだった。
「申し訳ないのですが、しばらくはここに居ていただきます」
アキノと入れ違いでガルジアの前に再び現れたベリラスは、一度クロムをも遠ざけると、ガルジアにその様に言い放っては塔に入る事を促す。ガルジアは何も言わずに、黙ってそれを受け入れた。今、敵、もしくは油断のできぬ相手として立ちはだかっている中で、
一番隙の無さそうな男である。これがクロムであったのならば、それこそ二人きりになれば、もっと話のしようもあったのだが。流石にベリラスは、そこのところは抜け目の無い様だった。
塔の入口から、中へと入る。中は、これまでのエイセイの城とは大分様相を異にしていた。単刀直入にいって、白々しい程に煌びやかなのである。城の他の場所は、少なくともガルジアが歩いた限りでは、質素な。勿論城としては充分な程の装飾が施されていた事には
違いないが、それでも華美という様な雰囲気はなかった。それが、ここにはあったのである。牢獄として使われていたそれの、趣味の悪さに。ガルジアは露骨に顔を顰めた。ベリラスは、そんな物は見なかったと言うかの様に、ガルジアを部屋の、牢屋の一室へと
押し込む。鍵の掛けられる音がした。
それでも、ガルジアは少し、ほっとしてしまう。ようやく、一人になる事ができた。それに、部屋の様子も。相変わらず派手なところはあるにせよ、家具一式は整っていたし、アキノ達の力がここにまで及んでいるからか、寒さも感じはしない。別に手足を縛られている
訳でもないし、それどころか、歌聖剣すら取り上げられはせずに、ガルジアの手元にある始末だった。外に出られぬ、という点を除けば、寧ろそこは楽園の様な有様と言っても良かった。ベッドに腰かけたガルジアは、次第に睡魔に包まれては、眠ってしまう。アオゾメの
家で一晩しっかり休んだとはいえ、たったそれだけで、この長旅の間、体内に蓄積した疲れの全てが洗い流されるという訳ではなかった。緊張が途切れたのならば、身体は貪欲に休息を求めたのだった。
誰にも邪魔をされる事なく、ガルジアは眠り続ける。
夢を見ていた。既に死した、アオゾメの姿が、そこにあった。夢の中で、アオゾメは己よりも背の低い、赤髪の青年を連れていて。それから、不意にその景色が黒く塗り潰された後は、アオゾメだけになって。そのアオゾメは、ガルジアに何かを語りかけようとしていたが、
その言葉は到底、聞き取れなかった。
目を醒ました時。ガルジアは少し、物思いに耽る事になる。夢に出たアオゾメも、もう死んでしまった。残されたリュウメイの事が、今は頭を過ぎる。
「ガルジア」
どれくらい、そうしていただろうか。ふと、声が聞こえて。ガルジアは耳を震わせる。部屋の外から聞こえたそれは、聞き覚えのある、クロムの物だった。
「……クロムさん」
応えるか、ガルジアは刹那迷いを見せたが、結局は言葉を返す事にする。クロムならば、いくらかは話がしやすいし、何よりこうして見た目だけは豪奢な、しかし立派に牢屋としての役目を果たしている場所で、何もせず自堕落に惰眠を貪る様な気分ではなかった
のである。溜まりに溜まった疲れが、静かに眠っている間に大分無くなった事だけは、ありがたかったが。しかし疲れが取れたところで、その次に何ができる訳でもない。そこにクロムがやってきたのだから、ガルジアにとっては良い機会でもあった。
「まずは、謝らせてほしい。すまない。こんな場所に、君を閉じ込めてしまって。もう、私とは口を利きたくないかも知れないが」
「そんな事は。ただ、色々と腑に落ちない部分があって、困惑しているだけです」
結局のところ、ガルジアが今一番に感じている物は、困惑だった。そもそもが、リュウメイから引き離された事自体が、少し奇妙と言っても良いやも知れぬ。アキノと話をするまでは、アキノにとってリュウメイ達が邪魔であるから、その様にしたとも思っていたのだが、
話を聞けば、そもそもがアキノの計画は、別にリュウメイを障害と定める様な物ではなかったのだから。
「それは、そうだろうね。ただ、リュウメイが。アキノがこの場を好き勝手にする事を許すのか。それに、君の事もある。結局は、引き剥がすべきだと。そう思ったのではないかな」
「それに。私はただの歌術士ですし。もう、修道士ですらない。確かにヨルゼアの件はありますが、私をここに留めようとする必要が、あるのでしょうか」
「……その事なんだが、ガルジア」
不意に、クロムの声の調子が低くなる。扉に、覗き窓はあったが。そこは今閉じられていて。クロムは扉の前に立ったままでいる様だった。ガルジアは、クロムの声が小さくなるのを知ると、扉の前へと歩いては、背を預けて座り込む。そうしても、床には上質な素材を
用いた毛皮の絨毯が敷き詰められており、まったく不潔ではない上に、温かみがあった。
「この事を、君に伝えて良いのか。私にはわからないのだが。しかしその役目は、アキノに言って、私にしてもらったんだ」
「なんの事についてですか……? すみませんが、それだけだと話が見えません」
「君の、身体について。正確には、ヨルゼアのその身に宿した、君の肉体の変化についてだ」
そこから、クロムは大分迷った様子のまま語りはじめる。姿が見えずとも、その声だけで、歴戦の勇士であるクロムが思わず笑い飛ばしたくなる程に狼狽えては、平静さを欠いている事が察せられた。
その話を聞く間、ガルジアは何度も息を呑んだ。
「君はもう、普通の。少なくとも市井の人々と同じ身体を持つとは、言えないのかも知れない」
「それは。私も、クロムさんと同じ様な身体になってしまったと、そういう事なのでしょうか」
話を先延ばしにしても仕方がないと、ガルジアは本題に触れる。或いはその様に言う事が、扉一枚を隔てた先に居る鬣犬の男を苦しめるのだという事も、理解した上で。案の定、苦し気なクロムの声が。しかし次には、気力を振り絞るかの様な声も聞こえる。
「いや、それはまだわからない。そもそもが、召喚獣を。それも、ヨルゼアの様な力の塊とも言って良い存在を、その身に宿した者が居るなど、天地開闢から検める事ができたとしても、現実に起こり得るなんて事はないかも知れない。君の身体が今、どんな事に
なっているのかは、少しもわからないんだ。君は、終わり滝での一件以来、自分の身体に何か変化が訪れた様な気はしないかい?」
「変化、ですか。……別に、凄い変化があった様な気はしませんが」
別に、体力が前より増した訳でもない。元々は修道士であって、体力に乏しい面があった故に、旅を続ける上で相応に身体が鍛えられたという事実はあるものの、結局はそれだけである。無論、魔導を扱える様になったりした訳でもない。
或いは、その辺りは一切変わらぬままに、実はクロムと同じ不老不死になっている、という事もあるのやも知れないが。しかしそれを今、自分で確認する勇気はガルジアには到底なかった。少なくとも、クロムの様に体温が低いとか、血が流れにくいとか、
そういう事もないので、その説は今のところは薄いだろうと。そう思うだけである。それに、クロムの不老不死は、他者からの呪いによるものである。ヨルゼアとの繋がりを得た事によって、ガルジアの身体がもし変化をきたし、不老不死になっていたとしても。身体に
見られる兆候が同じと言う事すらできない。
「ああ、でも。一つだけ。詩を歌うと、前よりも私を助けてくれる精霊さんが、大きな物になった気がします。私は歌術士の勉強はしていたので、わかるのですが。大きな精霊の方が、力が強くて。でも、そういう精霊ほど、歌術で呼び出すのは中々難しいのですよね」
「ふむ。それは単に君が旅を経て、歌術の腕が上達したのかも知れないし、ヨルゼアの影響とも取れるし……なんとも言い難いところだな」
「そうですよね。断定する様な事じゃないですよね。他は……本当に心当たりがないのですが」
終わり滝での戦いを終えて、その後は旅をしては、ヌベツィア、グレンヴォールでの騒動に巻き込まれ、そうして今は旧エイセイ領深くに押し入ってもいる状態である。流石に、明確な違いがあれば、すぐにガルジアは気づく事ができるはずだった。それに、自分の
傍にはリュウメイも居る。リュウメイの目の鋭さには、ガルジアは全幅の信頼をおいているので、そのリュウメイも何も言わぬとなれば、やはりクロムの言う様な変化は、少なくともいまだ訪れてはおらぬと言っても不都合はなさそうだった。
「そうか。……しかし、そうなると。私としては逆に、君を早くここから出してあげたいと。そう思ってしまうのだが。ここはあまりにも不毛な土地だしね」
「クロムさん。もしかして、私がそんな風になってしまったかも知れないと思って。もし、そうだったらと、アキノさんの計画に加担しているのですか」
「まあ、そういう部分は多いにあるが。無論、それだけではないさ。例の、召喚獣の話。世界と世界の繋がりの話。あれこそ、等閑に付すべからざる話だろう。もしアキノの言う様な事が、現実に起こり得るのならば。今安穏と暮らす事のできる場所とて、それを
享受し続けられるとは限らないかも知れない。私がアキノに手を貸しているのは、そこのところもある。もし君が、魔人と呼ばれる存在になってしまったのならば、リュウメイの手で君を永く守り続ける事は厳しいし、そうでなくとも、召喚獣が溢れる様な事があれば、
それはそれで生身の君に危険が及ぶかも知れない。そうであるのならば、これもまたリュウメイ一人に任せる訳にはいかない。召喚獣の恐ろしさ、強さを、我々は終わり滝で、骨の髄まで教えられたのだからね」
「クロムさんのおっしゃる事、凄くよくわかるのですが。あの、でも、その」
「なんだい?」
「そこまでして私の事を気に掛けてくださる必要は、ないのでは」
扉に背を預けながら、ガルジアは少しだけ、はにかむ様な。けれど、気圧される様な気分にもなる。この歴戦の勇士であり、不死の傭兵を、己が縛り付けているかの様で。もっとも、先のネモラの召導書を巡る騒動では、再三その助けを受けてしまったので、今更だと
言われればそれまでなのだが。
扉の向こう側から、僅かに息を吐いた音が聞こえる。それから、少し笑った様な。
「君が、言ってくれたからね。私を元に戻す方法を、見つけようと。そのためにも、私は君に降りかかる火の粉は、払いたいのさ。今回は、少し気が急いてしまったが。それでも、君の元気な姿を見られたのは、良かったと思う。こんな形でもね」
「あの、クロムさん。私をここから出してはいただけないでしょうか」
話をしている内に、ガルジアはすっかりクロムと打ち解けて。それはそれ程長い間の別れだった訳ではないし、そもそもがそうする前は、二人で苦楽を共にしながらの旅を続けていたのである。アキノという存在が、現れたからといって。そう簡単に、クロムとの仲が
無かった物になるとは、ガルジアは思わなかった。それに期待を掛けて、願いを口にする。
「すまないが。今は、それは。それに、私としては君の味方ではあるけれど、やはり召喚獣の件が気になる。それから、アキノの国についてもね」
「召喚獣について、ですか……。もしかして、ダフレイ様や、リーマさんも、もうそれに感付いてはいるのでしょうか」
「それはまず間違いないと見て良い。ディヴァリアに私は居たから、よくわかるけれど。既にあちらで召術を専攻していた生徒が、不用意に召喚獣を呼び出した事で不慮の死を遂げたというからね。私も、君も、召喚獣に対する知識はそれ程までに明るくはないし、
憶えがある者とすれば、ダフレイや、バインの様な、完全に彼らを調伏せしめた輩ばかりだけれど。やはり召喚獣というのは、そのままではかなり危険な存在なのだろうね。それもまた、ヨルゼアを通じてよく知ってはいるつもりだけれど」
ヨルゼアの様な存在が、世界が通じる事で、或いは沢山出てきたりするのだろうかと、ガルジアは束の間考えて身を震わせる。確かにそれは、世界の破滅と言っても良い程の事態になるだろう。少なくとも、この世界に住む者とは、持っている力があまりにも
違い過ぎる。様々な制約を経て、召術士が召喚をする事で彼らは、ある意味では安全に使役をされるのであって。その枷が外れたとなれば、これはどうなってしまうのか誰にもわからぬというのは、確かにそうなのだろう。
その場合は、アキノの計画も、夢も、あったものではないだろう。確かにアキノは、召喚獣の力を。異次元の、強力な力を頼んではいるものの。それは共に手を取り合える相手として、という話が大前提となる。もし、召喚獣の全てが蛮人のそれの様な振る舞いをしか
知らぬのでは。何もかもが、破滅に向かう事になる。それ程までに、力の差は歴然としているのだから。
「確かに……。今、私は外には出たい気持ちはありますが。この件を野放しにして、どこへ行こう、という気にはなりませんね。それこそ、何もかもが無くなってしまうくらいに。とても大きな話で」
「その上で、もし世界が、本当にその通りになっているというのならば。我々の力を例え全て集めたとしても、それに抗しきれるのかすら、わからないときたもんだ」
「……わかりました。私も、もう少しここに居ます。そういう話ならば、私も寧ろ、アキノさんの近くに居たいと思うのですが。アキノさんの言う通り、私がヨルゼアと通じ合う事が、他の召喚獣にとっての抑止力になるという話も、満更ありえない話ではないでしょうし。ただ、
当のヨルゼアが。どんな気持ちを今抱いているのか。それが、とても心配なのですが。ヨルゼアを拒んでしまった私が、こんな事を言うのは、虫の良い話かも知れませんが」
「いいや。そのおかげで、終わり滝での一件では、我々は助かったとも言えるのだから。それは構わないさ。それこそ、君とヨルゼア。二人が手を取り合ってしまったのならば。あの場では、誰一人として。バインは除いて、生き残る事もなかっただろうしね」
「そう言っていただけると、助かります」
「困ったな。私も、君をもっと安全なところへ逃がしたいのはやまやまだけど。そんな場所すら、無くなってしまうかも知れないなんてね。そういう意味では、確かに今、ここは安全なのかも知れないね。少なくともアキノの保護下ではあるし、私も居る。それから、あの
ベリラスもね。彼は、ライシン君の師匠と言っても良い方の様だ。少し話してみたけれど、あれはあれで、相当の手練れだろう。現実的な話をすると、召喚獣の大群を除けば。今最も近くて、頼もしいのは。確かに我々だという事には違いない。その上で、アキノも
君をいつまでもここに閉じ込めるつもりは、ないだろうさ。君の力を借りたいのならば、無理矢理なんて訳にはゆかぬだろうしね。それは、終わり滝でバインがやって、失敗した事も、知っているだろうから」
「そうですね」
話が一段落する。結局のところ、ガルジアはこの場に留まるしかない様だが。それでも己の振る舞い方を決めたのならば、多少は心の在り様も変わってくる。
「……そういえば、クロムさん。リュウメイさん達の様子は、わかりませんか。アオゾメさんを、放って私は来てしまいました。きっと、リュウメイさん達はアオゾメさんを弔っているはずです。本来なら、修道士でもあった私が、それに立ち会えたら良かったのですが」
向こう側から、またクロムの苦しんだ様な声が聞こえる。
「申し訳ない。君を、それに列席させるべきだとは思ったのだが。アキノの主張が激しくてね。でも、心配しなくても良いよ。リュウメイ達は、一度はアオゾメの領域に。あの魔導士の塔へと戻ったみたいだ。少なくともこの王宮にまでは、来ていないからね。こちらに
こない分には、アキノもどうこうしようという考えではないみたいだ。ライシン君とベリラスの関係も、考慮しているみたいだしね。ただ、アオゾメが死んだ事で。いつまでもあの場所に留まる様な事は難しいだろう。ライシン君では、その維持もできないだろうし。アキノと
ベリラス。二人がかりでなら、できるかも知れないけれど。そういう意味で、確かにアオゾメという人物は相当な傑物だったんだね。話をする前に、亡くなってしまった事が、悔やまれるな。相当な賢者だったというし」
「アオゾメさんは、この件については何も言う事はありませんでした。アキノさんとは、面識があったみたいなのですが。どうしてなのでしょうか。この事態を、予測していなかったとは、私には思えないのですが」
「自分が去った後の事だからね。あまり、強く言う事は割けたのではないのかな。直接会った事すらない私は、それを推測する事しかできないけれど」
そこで、話は終わる。少なくとも、リュウメイ達が今命の危険に晒されている、という訳ではなさそうで、ガルジアは安堵する。もっとも、そのリュウメイ達も早急にこの地を去らなければ、飢えて寒さに震える事になるが。あの居心地の良かったアオゾメの部屋も、
結局はアオゾメの存在があって成り立っていたものに過ぎず。そうなれば、厳しい寒さはあの部屋に繁茂していた植物を傷めつけては、やがては外と同じ様な環境にしてしまうのだろう。それはアキノ達とて変わらぬはずだが、先にクロムが言った様に、アキノと
ベリラスも相当に魔導の術には長けている様で。少なくとも今のところはその心配は無い様だった。
「ああ、そうだ。最後に。少し、待っていてくれるかい」
そう言って、クロムが遠ざかる足音をガルジアは聞く。何かまだ用事があるのかと思い、その場で待つと、程無くして再び足音が。ただ、それは今までとは違い、少しゆっくりとした物となってガルジアの耳に届いた。
「ガルジア。食事だよ。下から入れられる様になっているから、少し下がってくれるかい」
ガルジアが扉から離れると、扉の下部が僅かにせり上がり、隙間が生まれる。そこから盆に乗せられた食事が滑り込む様に現れる。アオゾメの所で振る舞われた時も思ったのだが、この様な不毛な土地でありつけるとは到底思えなかった、温かな料理が
そこにはあった。質素ではあっても、きちんと手を加えられて煮込まれたスープも付いていたとあっては、ガルジアはそれを拒む事もできずに素直に受け取ってしまう。
「ありがとうございます、クロムさん」
「何、本当は君が起きているのか、その確認をしにきたのさ。寝ているのに、食事を差し入れても君が寝ていては、冷めてしまったり、君を無理に起こしても、食欲が無いかも知れないからね。それじゃ、今日のところはこれで。少し長居をし過ぎてしまったな。まあ、
アキノなら、私がこうするのも理解した上で、私が君に声を掛ける事も、許したとは思うのだが。食べ終えたら、扉の前に置いておいてくれ。これは、内側からは開かない様になっているからね」
再び、足音が遠ざかる。ガルジアは食事を机の上に移すと、然程迷わずに口に入れた。毒か何か、入っていないとも限らないが。しかしそんな回りくどい事をする必要性がアキノ側にある訳ではなかったし、何よりもクロムが持ってきたのである。寧ろ、クロムならば
それが怪しいと踏んだのならば、勝手に毒見すらしかねないだろう。クロム自身は死なぬ身体であるが故に、その様な行動は当たり前にしてのけるのだから。
食べ終えて、盆を戻すと。格子のはまった小さな窓から、外をガルジアは見つめる。雪が、降っていた。アキノとベリラス、二人が手を組んである程度の環境を整えている様だが、雪にはそれ程作用しない様だった。
リュウメイは、無事にアオゾメを弔う事ができただろうか。そう思い、その内にガルジアは静かに祈りを捧げる。本当ならば、今すぐにでもアオゾメの下へと向かって、そうしたかったのだが。そういう訳にもゆかず。その魂が浮かばれる様にと、願い続けた。
ガルジアが軟禁状態になってから、数日の時が過ぎた。その間、部屋から出された事はないが。しかし部屋の環境は変わらずに整っていたので、それ程息苦しいという訳でもなかった。流石に、位の高い者が幽閉される場所なだけあって、その設備にもなんら
不満があるどころか、今まで泊まっていた安宿などとは比較にならぬ居心地の良さであって、ガルジアはすっかりこの部屋に馴染んでいた。また、別の部屋という物があって。そちらは共に幽閉される使用人が使う様な小さな部屋だったものの、掃除用具なども
整えてあったので、ガルジアはあまり部屋を汚さぬ様にと、必要のない配慮までしていた。どの道、この部屋から出られぬ以上、ガルジアにとって一日とは大いに暇を持て余す時間が多数を占めるのだから、それは気分転換にも丁度良かった。
時折は、クロムが様子を見に来るが。それでもあまり長居をしてはアキノに咎められかねないと言う。短い会話の中で、ガルジアは現状の様子を聞き取っていた。その点に関して、クロムは協力的であるので、問題はなかった。
「そうですか。先に、少し門を開こうというのですね」
「ああ。色々考えてみたんだが、その方が良いという話で纏まったみたいだね」
今は、アキノの計画の進み具合がクロムの口から語られていた。いつかは起こるという、召喚獣の登場。しかしそのいつかを気長に待つつもりは、アキノには無い様だった。無論、世界と世界の、繋がりの話である。アキノ一人がどうこうしようとして、それが今すぐに
実現に至るという訳ではないが。それでも既に、門を創造する事でのやり取りは、非常に簡単な物となっているが故に、今の内に少しでも話のできる召喚獣と意思の疎通を図ったり、或いはこちら側だけでは足りぬ情報を、門を開いた先に居る召喚獣達から
集めているところだという。確かにそれは、必要な手続きだったと言わなければならないだろう。いくら話が通じる相手が居ると言っても、突然に世界と世界が一つになり、そうして彼らがこの地に溢れる様な事態になってからでは、何もかもが後手に回って
しまう。どの様な召喚獣がこの地に足を踏み入れるのかは、わからないが。しかし力の差が歴然である以上、同じ空間に強者と弱者が並んだのならば。その上で、召術士と召喚獣という区切りさえ無くなってしまったのならば。彼らを制約するための枷は、何一つ
無いのである。ならば、少なくとも今は。どれだけ手を尽くしても、それが足りぬという事は、ありえない。それどころか、例えこの世界の全てが滅ぼうが、この計画を進めているアキノを頂点とした一派だけは、召喚獣と上手く手を組む事で、一つの国ではなく、
この世界の王として君臨する事すら、可能性があるのだった。少なくとも、アキノ達の力はこの世界の常人などよりは、遥かに強い。ヨルゼアの様な、抗い様の無い力には、流石に敵うべくもないが。アキノが口にしたという抑止力は、この世界のみではなく、新たに
加わる可能性のある召喚獣に対しても、相応の効果が期待できる事にはまず間違いはないだろう。
「それにしても、何度聞いても、本当に途方もない話ですね。この話だけでは、到底信じられない様な」
「そうだね。ただ、私も何もアキノの言葉の全てを鵜呑みにして、今君にこの話をしている訳じゃない。実際に、門を通じてあちらとの繋がりを得る事は、あまりにも簡単な事になっている。気になって、アキノに少し教鞭を取ってもらい、私もしてみたが。もう少しという
ところだったな。本来ならば、私はあの、失ってしまった鞘の能力が無くては、十全に魔力を制御できる状態ですらない。その私ですら、これなのだから。元から召術を学んだ者にとっては、確かに今は、素晴らしい機会とも言えるのかも知れないね。もっとも、それが
過ぎて、死者を出してしまっている以上、手放しで喜ぶ様な事ではまったくないのだが」
「ともすれば、この世界の破滅でもあるのですよね」
「実際に召喚獣が自由にこちらに来る事ができて、そのままこの世界が制圧されてしまうのか。それについては、まだ断定できはしないがね。とはいえ、それでも凄まじい力を持った者が増えるという事は。間違いなく世界の均衡は崩れるだろう。そういう意味では、
アキノが今している事は、正しいとも言えるね。逸早くこの事態を察知しては、必要に応じて彼らと手を取り合おうとする。既存の国々では、中々に難しい事だろう。大きな戦をする時代は終わって、今は小競り合いが精々。どの国もが、今の状態を維持しようと心を
砕いている状態だからこそ、誰もが先んじて召喚獣の力を利用する方向に舵を切る事もできないでいるのだから。実際に、召喚獣が溢れる様な事があれば。それこそその時次第とはいえ、誰が先にその上っ面の仮面を脱ぎ捨てて、この世界の者が敵と定めた
そちら側に寝返るのか。中々に見物だろうね」
「クロムさん」
「……ああ、悪い。つい、傭兵時代の悪い癖がね。君にこんな話をしても、到底良い顔はしないだろうなって、わかっているのだけれど」
「傭兵さんは、皆そんな感じなのですか」
「怒らないでほしいけれど、でも事実としてはそうなるね。だって、金を出せば働くと言っても、命には替えられない。我が身を託すに足るかどうか。傭兵はいつも、それを気に掛ける物さ。それから、それとは別に。ちょっと、面白そうだなって。そう思うかどうかかな。実の
ところ、アキノの計画を私は少し、面白いと思っている。強大な力すら御してしまおうとする、その大きな計画はね」
「大きな、夢がありますか」
アキノの言葉を、ガルジアは束の間思い返した。大きな夢を見て。小さな夢なんて、見もしない。確かに、目の前にこんな機会があるというのならば。人がその夢を追おうとしても、それは咎められる事ではないだろう。或いはガルジアも、そうして修道院を飛び出しては、
リュウメイと出会い。リュウメイだけではなく、様々な者達との出会いを経て、今ここに居るのだから。夢を見ずに、足元を見続けて生きていたのならば。きっと、ガルジアはいまだに修道士として生きていたか、或いはリュウメイ達とは出会わずに、しかしバインの
目には留まって。もっと別な形を取っていたやも知れぬのだから。
大望を抱いている、アキノ。しかしそのアキノは、直接ガルジアを訪う事は、今のところはなかった。クロムの話を聞く限りでは、かなり忙しいのではないかと推察はできる。
クロムが去って、また一人になると。ガルジアはベッドに座り込んで、しばらく考え込んでしまう。アキノにかどわかされる形となった直後は、確かに良い感情をアキノに。そしてこのエイセイ城に詰めている者達に抱いてはいなかったが。しかしこうしてクロムを
通じて事情を知れば、有無を言う事もなくアキノの行動を批判するという訳にもいかなくなる。そもそも、アキノは確かにガルジアを脅す様な真似をして、自分の手元に置いてはいるけれども。言ってしまえば、それだけなのである。少なくとも、あれからリュウメイ達に
危害を加えていない事を、クロムは幾度となく確認したそうであるし、ガルジアに対して、何かを無理強いする様な事もない。もっとも、この部屋に軟禁を強いているのは、確かなのだが。
どちらかと言えば、ガルジアはまだ、自分の身の振り方を決めかねていた。リュウメイ達に会いたいと、漠然と思うだけである。それ以外では、アキノ達に対してどの様な態度を示せば良いのか、わからなかった。アキノの言う国造りの夢が、その言葉通りである
というのならば、どちらかと言えば応援をしたって良い。ガルジアは、危険な物であるからと、魔人などの話題には修道士の時分にはあまり触れさせてはもらえなかったものの。彼らがその能力の強さを持て余すが故に、迫害を受けている事実は、知っていた。彼らが
静かに生きてゆく場を、ただ求めていて。そうしてアキノが、その場を提供しようと、今まさに粉骨砕身をしているというのならば。それこそガルジアの信念は、それを後押しする物に他ならない。もっとも、その国を維持するための抑止力とアキノが言う、強力な力を
得んとする行為については、頷くとまではいかなかったが。
それに。
クロムの言葉が、引っ掛かった。ヨルゼアを自らの肉体に宿したガルジアは、もはや常人とは言えぬのではないか。ややもすれば、ガルジア自身が。当に魔人としての能力を得ているのではないか。
もし、そうであったのならば。
蹲って、ガルジアは言葉にならない声を上げる。それが、嫌なのかと言われれば、それすらよくわからぬ。思考の海が、揺れている。今はまだ、静かな水面に、唐突に巨石が投げ込まれて、その姿を消したところだ。波はあらゆる方向へ広がっては、ぶつかり、爆ぜて、
正常な判断をガルジアから奪い取る事に躍起になっていた。時と、そして相談相手が、ガルジアには必要だった。
それから、そう。純粋に、思うのだった。もし、自分がその様な、言い方は悪いが、胡乱な存在に成り果ててしまったというのならば。
リュウメイとの旅も、ここまでなのだろうかと。
不思議な物だと思った。自分の身体が、どの様になってしまったのか。その最終的な行き場も、気にならぬ訳ではなかった。しかしそれよりも、尚。あの男との旅が、終わってしまう。それも、死を覚悟してここまで来て、或いはどこかで命を落としては終わるというの
ならばともかくとして、互いに存命であり、共に在る意思が揺らいだ訳でもないというのに。それでも、場合によっては、離れなければならぬ、などとは。
「困りました。私はあなたの考えが、やっぱりわからないです、リュウメイさん。あなたが今、私が何か、まったく別の物になってしまったと知ったら。あなたは、どんな反応をするのでしょうか」
或いは、リュウメイならは。何も変わらぬという気もする。リュウメイの、そういう度量の深い。いや、深すぎるところは、ガルジアは大いに信頼をしている。
しかし、魔人ともなれば、どうなのだろうか。それも、ヨルゼアに見込まれたとあっては、通常の魔人よりも長く生きられる様な、それこそクロムと同じ、不老不死の様な状態になってしまっているかも知れない。クロムの持つ不老不死に、怒りさえ見せたリュウメイの
事を思えば。ガルジアは今一つ、自信が持てなくなる。
そうして。結局は、リュウメイに会いたいと。そう思うのだった。例えその先で、もう共に旅をする道が断たれてしまったとしても。こんなところで一人、うじうじとしながら、自分の身体の事もわからず。リュウメイ達の状態も知り得ず。その上で、アキノの計画が着々と
進行しては、それとは別に世界の破滅が近づいているかも知れない、などという途方もない思考に陥らなければならないのは、ある意味では拷問に近いと言っても良い。
豪華な独房の中で、煩悶とする日々が続く。変わらず、外に出る事は許されてはいない。
しかし、不意にその日々にも終わりが訪れた。
それは、すっかり陽も落ちて、夜が訪れた頃。窓から見えるのは、ぬばたまの夜が広がる有様だけだった。闇に染まった今は、静かに降る雪も見えはしない。
そうした中で、ガルジアがいつもの様に、考え事に耽っていた時だった。
「……誰ですか?」
不意に、こんこんと、小さな音が。指の関節の部分で、部屋の扉を叩く音が聞こえたのだった。
ガルジアの言葉に、いらえは無く。それでガルジアは、それがクロムではない事を知る。クロムならば、即座に自分が訪れた事を、ガルジアに伝えて安堵させただろう。ガルジアとて、その扉の先に誰が居るのかわからぬのでは、それ以上の言葉を掛ける訳には
ゆかなかったのだから。特に、クロムとは話ができる様になったのだから、尚更だ。これで、この扉の先に居る相手がクロムではないというのに、ガルジアの方から好き勝手に、クロムだと思って話を始めてしまったのならば、それは大分よろしくない事になるだろう
というのは、今更考えるまでもなかった。
「ガルジア」
「えっ……?」
名前が、呼ばれる。その声には、聞き覚えがあって。しかしガルジアは、しばしの間固まってしまう。
聞き覚えがあって、しかし聞き慣れたとは到底言い難い。故に、いつも話しているクロムや、今安否を気にしつつも直接確認の取れぬリュウメイやライシンなどですらない。ましてや、死んでしまったアオゾメの物でもない。アキノの声にしては、それは静かであるし、
ベリラスはそれに近いのかも知れないが、そもそもほとんど言葉を交わした事がないので、その声をガルジアは忘れかけていた。
およそ、今このエイセイの城に居る者達の中に、その声の持ち主は居ない様に思われた。それは、確かだった。聞き覚えがあるというのに、それが誰なのか、ガルジアは思い出す事ができないでいた。
「私ですよ。召術士の、バインです」
しかし次には、扉の向こう側に居る相手は。馬鹿正直と言っても良い程の素直さで、ガルジアにその訪いを告げたのだった。
「バイン……」
絶句して、ガルジアは固まる。思わず、扉に近づいていたというのに、そのまま数歩後ずさってしまった。何故ここに、あのバインが居るというのか。しかしその疑問は、すぐに氷解する事になる。アキノは、終わり滝での一件を知っているのだった。その上で、アキノが
目指すのは、魔人の国興しである。バインの情報という物は限られていたが、その正体は老人のそれであるという事を、終わり滝の戦いでガルジアはなんとなく察していた。故に、バインもまた、魔人となり得る、或いは既に魔人となった人物である。
その上で、バインは優秀な召術士でもあるのだった。天才であるリーマアルダフレイ・セロスとは反りが合わなかったが、しかしその力量は確かな物だと、ダフレイは確かに認めていたのだから。
魔人であり、召術士でもある存在。
アキノが、それを見過ごすはずはなかった。ある意味では、終わり滝での一件で、バインがガルジアに目を付けた時と似ていると言っても良い。白虎であり、歌術士であるガルジアと。ある意味では、バインは似ているのかも知れなかった。
「どうして、ここに。……いえ。あなたも、アキノさんから声を掛けられたのですか」
「中々どうして、あなたは頭も悪くはない様ですねぇ。その様に、すぐに言葉が出てくるのですから」
「場所が、場所ですから」
そもそもが、現在の旧エイセイ領は不毛の地と言われる様な場所である。それはここを歩いて渡ったガルジアが、何よりも知っていた。こんな所を態々歩くのは、それこそリュウメイが口にしていた様に、封鎖されていたが故に放置されていたであろう遺物が目当ての
探索者ぐらいの者である。少なくともバインは、そういった物に興味は示すかも知れないが。しかしそれを求めて態々乗り込む様な男には、ガルジアには思えなかった。盗賊団を指揮してラライトを攻めた事も考えれば、その様な雑事は他者を用いるはずである。
ならば、何故ここに居るのかという問いの答えは、アキノが今ここに居てやろうとしている事を知っているのならば、それだけで充分だっただろう。
「確かに。アキノの計画を、あなたは知っているのですから、そのために私もまたここに居るのだと納得していただくのは、自然な事ですね」
「あなたも。……あなたも、アキノさんの計画が、上手く行くと踏んで、おこぼれに預かろうとして今ここにいらっしゃるのですか」
「ふむ。中々に、棘のある言い方をなさる。あなたの気性には、合わぬでしょうに」
「自分を利用して、ヨルゼアを使役しようとした方に、良い感情を抱くというのは無理な話です」
扉の向こうから、小さな笑い声が聞こえて。ガルジアはそっぽを向いてしまう。ガルジアとしては、終わり滝での事がある手前、バインに良い感情を抱いているはずはなかったのである。
「それに。……あなたは、ウル様と、修道院の皆を殺しました。決して、私はそれを忘れません」
口にして、ガルジアは全身から力が抜ける様な気分に陥る。扉一枚を隔てたその先に居るのは、育ての親の仇だった。終わり滝では、それに手を掛けようとするリュウメイを引き留めた。それは、結局は生きている者を優先した結果だった。修道院の者達の
事を思えば、バインが憎くないと言えば嘘になってしまうが。それでも、ガルジアはこれ以上の死者を出す事を、厭うたのだった。
「別に、私は殺したくて殺した訳ではないのですがねぇ。私としては、ただあなたを掌中に。ただそれだけの行動だったのですから。それに抗する形で、命を散らした修道士や修道院長の行為は、また見事な物だとは思いますがね」
「……ご用件は、なんなのでしょうか。その様に死者を冒涜なさるおつもりで私を訪ねたのならば、お帰りください。私は、修道士ではありますが。それでも本当にはその資格を持っている訳ではないみたいです。あなたの事、憎たらしいなと今思ってしまったので」
「正直な方ですね。ですが、それでよろしいと思いますよ。聖職者の、なんでもかんでも許す様な慈悲という物を、私は到底受け入れがたいと思いますし。寧ろ今、私がこうして現れた事で。あなたが澄ました口調で、あなたに罪の意識があるのならば、私はあなたを
許します。なんて言い放つのだったら。私は大分不愉快な思いをしたでしょうし」
「お話はそれだけですか」
「ああ、すみませんね。つい、あなたが面白い事を口にされる物ですから。私もつい、余計な事を」
本当に、この男は何をしにきたのだと。ガルジアは少し腹を立てる。自らが死に追いやった修道士やウルの話題を、態々こんな辺境の奥地の、しかも閉じ込められているガルジアに言いに来たのか。或いは、自分は本当に殺したい訳ではないのだから。その
原因の一端は、結局は目を付けられる様な白虎であるお前が悪いのだと言いに来たのかと、ガルジアは勘ぐってしまう。
しかしガルジアの思考は、そこで止まった。不意に、扉が淡い光を発したのである。ぎょっとしていると、その直後に、あれだけ硬く閉ざされていて、実のところ一人で居る間はどうにか開けられはせぬかと模索しながらも決して開く事のなかった扉が、今あっさりと
開いたのだった。そして、その先には。ガルジアよりも僅かに背が低い、あの狼人の青年の姿があった。真っ黒な被毛。本当は、その被毛は白く。そして黄ばむ様な色合いをしているのだと、束の間思う。老人のそれであると。
瞠目したまま固まっているガルジアを実に満足そうに見つめたバインは、にこりと笑う。
「実は、あなたを助けにきた訳です。私はね。さあ、行きましょう。あまり長居をしては、すぐに追手が来てしまう」
そして。そう、抜け抜けと言い放ったのだった。
「さあ。お早く」
王宮へと続く渡り廊を、ガルジアは連れられて歩いていた。自分を連れているバインを、幾度となく、訝し気に見つめながら。相も変わらず、黒いローブを身に纏った、黒い被毛の狼人の青年であるバインは、そうしているとまるで、雪化粧を施されたエイセイの城の
代わりに、黒の姿を保っているかの様だった。振り返ったその瞳が、闇の中から鋭い光を発する。
「そう、警戒する事もないでしょう? 私があなたを、ここから助けて差し上げる。それだけは、純然たる事実なのですから」
「はぁ」
生返事をすると、実に楽しそうにバインが笑う。こんな男だっただろうかと、ガルジアは思ったが。しかしバインがどの様な性格であるか、というのを理解できる程に知り合ったとは言えないので、こんな物かと思う。召術と召喚獣の事には異常な程の執着を見せるのは、
痛いくらいに身に染みてはいるが。
「しかし、面白い。いや、不思議な物ですね。あの時、終わり滝で揃っていた我々が、今またこうして、この様な場所で一堂に会するというのは」
「リュウメイさん達に、お会いになったのですか」
「ええ。一度、軽くね。常人ならば、決して立ち寄らぬこんな地に。また同じ者達が揃う。運命を感じてしまいますねぇ」
「……それよりも。あなたはどうして、私を逃がすのですか」
バインの物言いには、大いに賛成を示したいところではあるが。それよりも、ガルジアはいまだ答えが得られぬ疑問を口にしていた。急かされた事もあり、バインはいまだに、ガルジアを牢から助け出したその意図を、説明してすらいなかった。
「さて。どうしてだと、思いますか?」
「急かす癖に、そんな事は訊いてくるのですね」
ガルジアが呆れていると、不意に自分の出てきた牢獄の塔から、爆発音が聞こえて。ぎょっとして振り返る。見た目には何も変化が訪れてはいないのは、流石に要人を収容するための施設だからだろうか。しかしその説明もまたバインに求めようとすると、バインは
もう、作り笑いを止めて。狼特有の鋭さを剥き出しにしてそれを眺めていた。
「すみませんが、もう少し移動を。今の騒ぎは、流石に誤魔化しきれません」
「何があったのでしょうか」
「召喚獣ですよ。私が放ったそれと、そうしてアキノ達。多分、ベリラスでしょうけれど。あれは本当の天才ですからね。できない振りは達者でしたけれど。それが使役している召喚獣が、ぶつかったのでしょう。あなたを見張る目的で、配されていた者ですね。まやかしは
仕掛けておきましたが、それも所詮は時間稼ぎ。破られた際に、アローネを置いておきました。さあ、とにかく、今は」
促され、ガルジアは黙って頷く。確かに、バインの言う通り。今はこの問答を続けている場合ではなさそうだった。足早に、その場を去る。王宮へと戻るが、バインはその場でぶつぶつ何かを呟いてから、光を灯すと。それを自分達に振りかけた。
「これも、まあただの誤魔化しですが。ここを通る際には必要です。まったく、相手の腕が立つと、どうすれば良いのかはわかるのですが。しかしそれを実行に移すのは、中々に骨が折れる事ですね」
「ベリラスさん、ですか」
「ええ。私でも、あれの目を完全には誤魔化せない。私一人なら、まだしもね」
そこから、バインは目に見えて急ぐ様子を見せて。更に足を速める。王宮を通り抜けて、更に別の廊下を歩き、抜け。そうして、一度開けた場所に出る。そこは丁度、大広間の造りとなっており、ガルジア達はその真正面の、左右に大きく広がり迂回する様に設えられた
階段が、真ん中で合流するその場所に出てきたのだった。
「ここは……?」
「裏の山側への出口ですよ。正面から見たのでは、わかりませんが。エイセイというのは、裏手には山があって。それにある程度沿うように造られているのです。ですので、城の外に出るのならば、こちらの方が近い。かつてはこの先は、神聖な場として見ては、
祭事の際に使用されていた様ですが。まあ、こんな話は後でよろしいですね」
回りくどい話と階段を経て、絨毯へと。道は、相変わらず暗いままで。ガルジアはただ、歩いた距離と、床に敷かれたままの上等な絨毯の感触だけで、エイセイの城という物を感じていた。バインの照らす、淡い光は。ライシンのそれとは違い、少し青みがかった
物であって、それもまた他人の目には極力見えぬ、特殊な物だという説明を受ける。ここまできて、ガルジアはようやくバインの事を、少なくとも今は我が身を託すに足る存在であるのだと思い至るのだった。本来ならば、育ての親の仇。到底共に行く事など、
肯ずる物ではなかったが。しかし既に、自分はその誘いに乗って、脱獄をした身。今更になって、この男は信用できぬと思っても、どうする事もできはしなかった。本来であるのならば、クロムとも約束した通り、ガルジアは今しばらくは静観の構えを。状況が
変わるのを、待っていたかったのだが。それでも鬱屈とした日々と、突然に目の前に現れて、外へと連れ出そうとする手を見せられては、抗う事はできなかった。
階段を下りて、広場の隅の方にある小さな扉から、外へと出る。途端に、寒さが被毛をすら飛び越えて、肌を突きさす様に感じられて。ガルジアは思わず身を震わせてしまう。ずっと城の中に居た事を、これ程強く感じる事は中々にないだろうと思う。今まで散々、その
中を歩いてこの城に来たというのに。ぬくぬくとした部屋に慣れ切ってしまえば、こんな物だった。
「一先ず、このまま先へ。山を下りて、あなたには隠れてもらいます。私はそれから、リュウメイ達にもまた会わねばなりませんし」
ガルジアは、もはや何も言わず頷く。山と言われたが、そこに広がる景色は、凡そ山のそれとは言い難い。整地されきった道に、いくつもの魔術的な意味を持つであろう柱の羅列に。そうして、その上に静かに降り続ける粉雪に。
確かにそこは、祭事の際に用いられると言われても、納得できる様な場所だった。遠くを見渡す事で、ようやく山の姿が見える。それ以外は、切り拓かれた道は、どこまでも続いているかの様だった。エイセイは、鎖国に近い環境を続けていた国であるからして、それは
ガルジアの様な修道士達が信じる神とは、また別の物が崇められていたはずである。彼らからすれば、異教徒とも言えるガルジアはそこに足を踏み入れながらも。しかしその厳かな空気には、居心地の良さを感じずにはいられない。様式こそ異なってはいるが、その
様な空気というのは、結局のところどこかしら、似通った物があるのである。もっとも、その場に務める者達にもし言いふらそう物なら、大分機嫌を損ねられてしまうのだろうが。
その様な相手も。亡国となったこの場には居ない。
「私が、何故あなたを助けるのかについてなのですが」
歩いていると、不意にバインが口を開く。ここまで来れば、もう安全だという事なのだろうか。
しかしバインは、そこで言葉を切って、続きを告げる事はなかった。まるで、それ以上の言葉を口にする事を、躊躇うかの様に。
「あなたは、アキノさんの味方なのですか」
「そうだと言えば、そうですが。しかし違うという気もしますね」
仕方なくガルジアが問いかければ、すぐに答えは返ってくる。しかしそれは、明確な物とも言えなかった。
「アキノの考え方。それは、わかります。そうして、世界にその様な兆候が見られる様になった事も。私は召術士ですからね。何より、これは私が引き起こした事と言っても良いのですから。だから私には、アキノのする事を責める権利も無いのでしょう。私がした、
結果を見て。彼は己の計画を打ち立てては、今は実行に移そうとして。そしてまた私の力をも必要としているのですからね。だから、それは悪い気がしないし、その手助けをする事も、私はそれ程嫌だとは思ってはおりません。……しかし」
「しかし?」
「しかしながら。世界がその様な繋がりを経てしまっては。そして、召喚獣という存在が、召喚を経ずにこちらへと現れてしまったのならば。もはやそれは、私が求めていた召喚獣とは、違う様な気がしてしまいましてね」
「呼び出したか、どうか。その程度の違いでしかないと、思うのですが」
「ええ、そうですね。あなたの言う事が、正しいと思います。ですが。上手く、言えないのですがね。困りましたね。今更、若い時分の様に、言葉が出てこないだなんてね。こんな事になって、今更私は、自分が召喚獣を好きで、愛しているのは。まったく別の世界へ通じる
扉を己が手で切り拓いて、そうしてそこに居る者達と触れ合い、共に在り続けたり、旅をしたり。何よりもそれを好きでいたのではないかと。そう、思ってしまうのです。本当ならば、アキノの計画を抜きにしても、今回の事で、私は狂喜したって良いくらいのはず
であるというのに。ずっと憧れ続けていた存在が。己の本来持ち得る寿命では、到底満足に出会う事すら叶わぬ存在が。事もあろうに、向こうからやってきてくれるのですから」
ガルジアは、それを黙って聞き続けていた。ともすればそれは、ガルジアにとっては。怒りを招きかねない発言にも思えたのだが。好き勝手にやって、こんな事になって。これは少し違うと思うなどというのは。
それでも、バインの気持ちを明確に表すとするのならば。それは矜持という物なのだろうとは思う。この男は、己が望む物を、常に己が手を伸ばして、掴み取る事をこそ第一しているのかも知れなかった。そうでなければ、ヨルゼアを巡る凶行すら、無かったのだから。
「……それに。この計画に、あなたの犠牲が付き物の様ですしね。私、これでも少しくらいは、あなたには悪いとは思っていたのですよ、ガルジア。それに、あなたは終わり滝の一件で、私を見逃してくださった。無論。それはあなたにとって、私を殺す事なんかよりも、
自分の仲間の命の方がずっと優先されるべきだったのだと、それだけの話でしかない事も、重々承知しておりますが」
「待ってください。私の犠牲って、どういう事なんですか」
話の腰を折るのは、気が引けたが。しかしガルジアは、気になる部分があって、バインの言葉を遮った。バインが、振り返る。黒い尻尾が優雅に揺れて、振り返る。そうすると、やっぱりそこに居たのは、今口にした事を到底考えているとは思えぬ程に若い。とても
若い、狼の青年だった。指先だけが、白く。その本性を現している。ここまで来る事で、己の魔力を消耗したのか。今その腕は、肘の辺りまで薄っすらと白くなっていた。
「だって、あなたはヨルゼアを呼ぶ事ができる。いざとなればね。アキノがあなたを傍に置くのは、その保険に他ならない。アキノとて、あなたに何もかも任せるつもりはないから、先んじて召喚獣と話をして、ある程度の関係を作り上げている事とは思いますが。しかし
実際に世界と世界が繋がった時には、どうなるのかはわかったもんじゃない。より強力で、何よりも残忍な怪物が現れれば。その時は、何がなんでもあなたに頼るしかなくなる。あなただけは、ヨルゼアを呼ぶ事ができるのだから。その結果で、ヨルゼアがあなたを
再び見過ごしてしまうのかは、わかりませんが」
「……やっぱり、私をここに置くのは、それだけの理由でしかなかったのでしょうか」
少し、落胆をガルジアは見せる。とはいえそれは、わかっていた事ではあったのだが。クロムは、ガルジアのための居場所を造ろうとしていた。ともすれば、魔人と成り果てているやも知れぬガルジアのために。今後どの様な展開を見せようとも、対応できる様に。しかし
アキノ達の考えは、やはり違っていたのだった。それを、あの鬣犬の男は、知っているのだろうか。
「まあ、それだけではないとは思いますがね。あなたの事を、まったく考えていないという訳でもないとは。ですが」
そこで、言葉が途切れる。同時にガルジアは全身の被毛が総毛立つ様な感覚に囚われて。その場に立ち竦む。しかしバインは、どうしてその様な事態が起こっているのかすら即座に理解したのか、片腕を上げた。そうすると、バインとガルジアの周りに薄い膜が
突如として現れて。そうして、更に何かのぶつかり、弾ける激しい音と同時に、視界が白く染まる。それは、バインの張り巡らせた結界が、何かを阻んで濁ったかの様であった。
音が、急に止む。それもまた、バインの力である様だった。
「大丈夫ですか」
バインは、一度確かめる様にガルジアの肩に触れる。
「は、はい。これは」
「思ったよりも早いですね。流石に、何事もなく抜け出すのは虫が良かったみたいです。ベリラスが来ました。すみませんが、もしもの際には、あなただけでもここから抜け出してください。申し訳ありませんが、あなたを守りながら、彼と戦うのは流石に厳しい」
短いやり取りか澄むと、バインの結界が徐々に透明へと戻ってゆく。ガルジアは、思わず身震いをした。バインとガルジアを包む結界の、その周り。誰にも守られなかった部分は、全て消滅をしたかの様に、深く抉り取られていたのだった。
バインが、結界を解く。そうすると、いまだに残る魔力の残滓は肌に。そして響き渡った音が、ガルジアの耳に飛び込んでくる。
「末恐ろしい物だ。ガルジアがここに居るのに、なんの躊躇いも無くこんな攻撃までして」
「君にそれが通じるとは思っていないからね」
煙が立っていた。しかしそれを、すぐに一陣の風が吹いては、一纏めにして攫ってゆく。それもまた、魔導の手妻によるものなのだろう。そうして煙が晴れた先には、淡い色のローブに身を包み、どっしりと構えた白熊の男が。ベリラスが、立っていたのだった。
バインは目を閉じては苦笑をして、軽く右腕を払う。その様子をガルジアは注意深く見つめた。バインの右腕は既に黒い部分を失い、それだけではなく、いまだ黒いままの左腕と比べれば不釣り合いな程に細く、そして老いを感じさせる物へと変じていた。その白も、
純白の美しさというよりは、やや黄ばみがかった様な。年老いた物を想起させる様な色合いである。薄く目を開いたバインは、それを見つめては小さな舌打ちをしていた。
ベリラスはそれを何も見なかったかの様に、一歩踏み出しては、バインとじっと見つめている。
「リオ。せっかくここまで馳せ参じてくれた君が。よもや、私を。そしてアキノを裏切るだなんて、信じたくはないな」
「生憎ですが。私はその名は捨てましたよ、ベリラス。ここに居るのは、年若い、バインという召術士である事、お忘れなきよう。もっとも、この無様な姿を晒して尚この様に言うというのは、あなたの様な完全な存在からすれば、酷く失笑を買う物言いにしか聞こえぬの
でしょうか」
「そうは思わない。少なくとも私は、君のそういう貪欲なところが眩しく見えるくらいに好きだ。私には、その気持ち一つですら。理解した振りをする事はできても、本当には理解できない物なのだから。その上で、君もいつぞやは私と同じ学び舎で、私の事情を知っても、
素直に私に接してくれた数少ない存在なのだから」
「単に、私はあなたのその体質が、気になっただけですよ。自らが求める物全てに手を掛けるのに、凡人の。……少なくとも、身体はそうである私には、時間が足りなかったから。最初からそれを得ている、あなたの事がね。あなたにとっては、不愉快極まりない
事だったのかも知れませんが」
「ならば、結局は。私と君は、お互いに足りぬ物を持っている相手を見て、羨望と親しみを抱いていたと見て、良いんじゃないだろうか。少なくとも私は、君の事を友人だと思っていた」
「奇遇ですね。私もあなたの事を、友人だと思っていますよ。たった今、あなたに襲われてさえね」
低い呻き声が聞こえる。バインの声だった。ガルジアは、はっとなって。それから、バインの手に促されるまま、その後ろへと。それと同時に、バインの左腕から迸る光が、ベリラスへと向かう。それも、ベリラスは腕すら動かす事もなく。それはベリラスの目の前で、
まるで最初からそうなる様にと定められたかの様に弾けては、消えてしまう。
「止めた方がいい。君は確かに、強いけれど。でもやっぱり、君は召術士なのだから。昔日の召喚士ですらない君は、結局は己で戦う事よりも、他者を助く方に向いているのだから」
「困りましたね。今の私では、確かに分が悪い。……しかし、ベリラス。一つ気になる事があるのですが。この地において、あなたの体調は、本当に大丈夫なのですか? あなたの体質は、結局は周辺の魔力があってこそ成り立つ物であって。この魔力の損なわれた、
不毛の大地に立つという事は、あなたにとっては毒を食らう様な物に等しいはずなのに」
「こんな時でも、君は私の心配をしてくれる訳か」
「こんな時だから。あなたの事をよく見て、そうして打てる手は打つというものですよ」
「無論、長居をすれば危険だ。しかしそれも、一時の話に過ぎない。それに、門が容易く開ける様になっただろう。そこから、多少の。少なくとも私がただ生きている分には不都合の無い力は、充分に流れてくるよ。いずれ、世界が重なれば。あちら側の者達は、
我々よりもずっと強い魔力を持っているのだから。その自然もまた推して知るべしであるからして。もしかしたら、この不毛の地にもまた緑が戻る様な事も、あるのかも知れない。それはその時になって、もっと研究が進まなければならないので、断定もできは
しないがね。……話が逸れたね。私には、アキノも居る。あれは、クロムと同じ様に、己が力を制御する技術には欠けている部分も見られるけれど。それでもその力の絶大さでいえば、誰よりも強い。君が心配した様な事も、手を打つ必要性も、少なくとも今の
ところはありはしない」
「そうですか。残念ですね」
バインが、再び光を。今度の物は、先程よりも大きかった。流石にベリラスは、それに構えようとするが。しかしバインはその光を放つ事はなかった。代わりに、ガルジアの方が目を見開く。ほとんどなんの音も無く、突如としてベリラスの背後に、ぬっと忍び寄る者が
あった。それは巨体であるベリラスの、更に何倍もの質量を持っては広がり。そして反応の遅れたベリラスを一息に押し潰してしまう。
「私が満足に戦えぬ心配を、あなたもしてくれましたねベリラス。互いに、物の考え方というは、同じなんですねぇ」
涼しい顔をして、バインが言った。ガルジアは、まだそれを。呑まれたベリラスを、見つめていた。今はその上に幾重もの、ベリラスを包んだ物が重なって。そこにベリラスが居たのだという事実すら、わからぬ様だった。
「泥……?」
目を凝らせば、それがなんなのかが見えてくる。次には、バインの前にそれが現れて、人の形を取る。顔は、竜のそれであり。そうして醜悪な泥の怪人が。バインの使役する、召喚獣であるアローネの姿となって現れる。アローネは、泥の滴るその腕を自らの
喉元に当てると、僅かな間を置いて。そうすると、その口からは流暢な言葉が。見た目通りの泥声ではない、澄んだ音となって紡ぎ出される。
「申し訳ございません、遅れました」
「いえ。あちらの相手をしつつ、こちらにも駆けつけろというのも、中々に無茶な要求でしたからね。そうしてくれるだけで、充分ですよ、アローネ。……ベリラスは?」
「長くは抑え込めますまい。この男の力は、人が持つ物としては、異常です。私一人では、多大な力を必要とするでしょう。それは、御身にとっては良くない事であります」
「でしょうね。もう両腕から血の気が引いて、寒くなってきましたよ。ああ、若いって、本当に良い事ですね。こんな地では、それが。寒さが身に沁みますよ」
「バインさん。私が」
その頃になって、ようやくガルジアは歌術を行使しようとバインに近づく。しかしそれをするよりも先に、バインの手によって制される。
「いえ、それはなりません。あなたの歌は、ここではあまり使われぬ方がよろしい。アキノ達が召喚獣との繋がりを得ようと画策している今、妙な者を呼び寄せてしまいかねない。せめて、もう少しここを離れてからの方がよろしいでしょう」
先を促され、仕方なくガルジアは歌う事も諦める。バインの身体が、今は心配だった。アローネが今まで戦っていた分の魔力を捻出していた事もあって、既にその両腕は細く。その足取りも、それまでの様にしっかりした物とは言えなかった。ライシンの使う、帯魔布の
様な役割をその身体その物が果たしているのは明白で、その上でバインは決して力の弱い魔道士という訳ではないはずなのだが。そのバインですら、やはり一人でなんでも受け止めきれる程の力があるとは言えない様だった。
「ガルジア。それから、一つだけ。あなたにお話ししておきたい事があります。これを聞いたら。或いはあなたは、やっぱり引き返すと言ってしまわれるかも知れませんが。その選択権ぐらいは、あなたに差し上げましょう。今なら、アキノの下に戻る事もできるでしょうしね」
道を進みながら、ガルジアはその話を聞く。その内に、驚きに小さく声を上げた。
「今言った事が、本当に可能なのかは、わかりません。しかし、不可能と断言する事だけは、誰にもできはしないでしょう」
「確かに、そうですね」
「選択する権利は、あなたにあります。と、いうと。残酷な言い方とも言えますが。しかしあなたがその意思を持たねば、きっと何事の変化も訪れはしないでしょう」
「バインさん。あなたは、それで良いと思うのですか」
「あなたがそれを決めたのならば。私は、私の力の全てを、あなたに差し上げますよ。一度は見逃していただいた身である事には、変わりありませんからね」
深々と降る雪の中を、歩き続けた。そうする事で、ガルジアはたった今、バインがした話を忘れようとして、しかし忘れられず。結局はそれ以上の言葉を交わす事もなく、己の考えの中に沈んでゆく。バインもまた、それ以上の事を殊更に、急かす様に口にする事も
なかった。
ベリラスとぶつかった地点から、もう少しは進んだ場所で。ガルジア達はまた足を止める。
「……クロムさん」
そこに、一人の鬣犬の剣士が立っていた。静かに佇んでは、眠っているかの様に目を閉じて。しかしガルジアが声を掛けると、静かにその暗い色の目が開かれて。
「ガルジア。言いつけを守らないのは、良くないのではないかな。それも、そんな怪しい奴にあっさりと付いてゆくなんて」
「心外ですね。怪しい、という意味では。少なくとも私は、あなたに勝てる気がしないのですがねぇ。生物としてすら、胡乱な存在なのは、あなたの方でしょうに」
「確かに、そうではあるが」
「バインさん。そんな風に言うのは、やめてください」
「相変わらず、お優しいですね。あなたは。少なくとも今ここに居る彼は、私達を易々と通す気を漂わせてはおらぬ、敵だというのに」
「話せば、わかるはずです。それに、クロムさんは」
自分を守ろうとしてくれているのだから。しかしガルジアは、その言葉を続ける事はなかった。クロムが、静かに剣を抜いたからだった。
「そんな悠長な時間を持つつもりは、ないみたいですよ。まあ、それはこちらとて同じなのですが。もたもたしていては、ベリラスが来てしまう」
「ベリラスだけを警戒するのは、危険だと思うがね。バイン」
クロムが、はったりでも言うかの様に口にする。しかしそれは、事実でもあった。いつの間にか、自分の真後ろに誰かの気配を感じて、ガルジアは身を震わせる。それと、低い声が上がるのはほとんど同時だった。
「バイン様」
自分の前に居たバインを、誰かが殴り飛ばす様にしていた。吹っ飛ばされたバインは、そのまま近くの、折れた柱に強かに全身を打ち付けて、ぐったりと頽れる。それでも意識は失っていないのか、今はその狼の瞳を輝かせては、自分に奇襲を加えた相手を
睨み据えていた。
「随分派手に遊んでるね。ベリラスが泥塗れだったのは面白かったけど? 急いでいたから気づかなくて、何回か踏んじまったわ」
身軽に跳んだ身体が、ガルジアの隣へと戻って。そのままガルジアは、身体を引き寄せられる。小柄な、赤い鱗を持つ竜人が。アキノがそこに居た。触れられて、ガルジアは震えが止まらぬ自分に気づいた。アキノはほとんどなんの予兆を報せる事もなく、まるで
影か何かの様に現れては、己に背を向けたバインを打ち据えたのだった。そのまま、アキノが片手を上げると、そこから凄まじい熱量を感じる炎の塊が飛び出して、それはアローネへと向かい、泥の怪人をあっという間に炎に包む。程無くして、その泥の怪人の姿も、
掻き消えた。恐らくアローネは、多少は粘る事もできたはずだが。アキノのこの力に逆らえば逆らう程に、主であるバインの消耗に繋がると踏んで、自発的に消滅をした様であった。
「アキノ……」
「やあ、クロム。ごめんね、遅くなっちゃった。俺が忙しい時に限って、こんな事になるんだもんな。まあ、だからこそバインも、今動くんだろうけどさ。それで、どう? まだ、俺の味方で居てくれるのかな。ガルジアさんは、今文字通り。俺の掌中と言っても良いけれど」
そう言って、無邪気にアキノは笑う。冷えた空気の中に、乾いた笑いは陰惨に響き渡っていた。
逃げ出したくて、しかしそれが叶わずに。ガルジアはアキノの腕に拘束されたままだった。といって、動けぬ様な事はない。ただ、下手な真似をすれば、アキノはたった今現れたのと同じ様に、到底目で追えぬ程の速さでもって、ガルジアを捕まえるだろう。
「クロム。まさか、揺れたりはしていないよねぇ? 俺が今、ガルジアさんの隣に居る事。あんたなら、その意味も、わかるだろ?」
「別に、私は何も」
「本当に? 問答無用で、バインを切り捨てても良かっただろうに。実際、それをされておかしくないくらい、バインは散々にあんた達を悩ませていただろうにね。まったく、バインはそんな簡単に手懐けられないだろうなとは、思っていたけどさ。あんたまでそんなんじゃ、
困るよ。まあ、だから俺は、ガルジアさんをこうして手元に置いておいた訳だけど。あんたの行動方針って、大体そうだしね。まあ、それを非難するつもりは、俺には毛頭ないけれどさ。何を言うにも、あんたは本当に、一度は死んだと言っても良い存在で、だからこそ
あんたと同じ立場に立ってあげられる様な事は、俺達にだってそうそうできないからね。だからこそ俺は、あんたが望むだけの物を用意して、あんたを誘う訳だけど。ほら。ここに、ガルジアさんが居てくれる。それで、良いんだろ?」
「……ああ」
クロムは、それ程に納得した表情をしていない様にガルジアには見えた。ただ、今は。ガルジアが見つめても、視線を逸らすばかりだった。仕方なく、ガルジアはアキノに吹っ飛ばされ、そのまま動かぬままのバインを見遣る。そちらは、あまり芳しいとは
言えない状況だった。身体を打った際に、出血をしたのか。白い老人の細腕が、赤く染まっていた。それでもバインは、闘争心を剥き出しにする様な表情を隠す事もなく。それは寧ろ、手負いの獣をそのままに連想させる様子でもあった。少なくともバインは、自分が
今働いた行動によって、アキノに対する明確な背信を示した事。また、それらを経て許され様などとは微塵も思っておらぬ事を、ガルジアに感じ取らせた。
「バインさん」
「放っときなよ。バインは、強いけど。でも、一度力を使いきったら、しばらくは使い物にならないからね。ここで放っておいても、その内凍え死ぬだろうさ。若い身体のままなら、違っただろうけれど。そんな様ではね」
「あなたは、仲間をそんな風に見捨ててしまうのですか。アキノさん」
「仲間は見捨てない。でも、俺に背いた奴は、別だ。ガルジアさん。あんたと俺で、仲間の範疇が違うのかも知れないみたいだけど。少なくとも今、バインがした行為は。あんたを逃がしたり、ベリラスに危害を加えた事は。俺は、許す訳にはいかない。それを相手次第で
変えたりする気もない。だって、この計画が上手く行ったのならば。俺は、王になってしまうからね。柄じゃないって思うけど、ベリラスはそんな要職はごめんだって言ってるし、そうなると俺になるし。どっちにしろ、ベリラスの立場じゃ面倒な役職になるのは
避けられないと俺は思うんだけどなぁ……有能だし。まあ、そんな訳で。俺が曖昧な態度を貫いては、付いてくる者も居なくなってしまう。裏切りを許しては、信を寄せる事は叶わなくなる。こんな事、言わなくてもわかるよね」
「ですが……」
「それとも。俺がバインを助けたら、ガルジアさんは快く残ってくれるのかな? まったく、難儀な物だよね。クロムを抑えるために、ガルジアさんが必要で。それなのに、今度はガルジアさんを抑えるために、バインが必要になっちゃうなんてさ。まあ、悪いのは俺に、
あんた達全員を惹きつけておくほどの魅力ってもんが無いせいなんだろうけれどさ。いや、それを俺のせいにされても困るけど。あんたら全員、我が強いし。一癖なんて言葉で片付かないし。ちゃんと全員としっかり繋がっておけなんて、俺には無理だってば」
底抜けに明るく、アキノは冗談を言う様に。それなら、やれやれという様子を滲ませる。
「さあ、二人とも帰ろう。随分やんちゃをされて、俺もついここまで来ちゃったけど。今は本当に、煩わされるのはごめんだ。あんまり遅いと、召喚獣が無尽蔵に現れるかも知れない。俺には、時間が無いんだからさ」
来た道を、戻る様にと。アキノに言われる。ガルジアは、固まったままだった。
「……戻りません」
「どうして?」
ガルジアの言葉に、アキノはそれ程驚いた様子を見せた訳ではなかった。しかしガルジアは、咄嗟に言い放ったその言葉に、自分で驚きながらも。しかしもう、アキノの下に戻ろうとする気を失っていた。たった今、バインを切り捨てる様な事を言ったというのもある。
もっともそれは、アキノの言い分の方が正しいくらいであるのは、確かなのだが。しかし、バインが口にした言葉がある。
それから。ガルジアは、また、ゆっくりとクロムを見つめた。クロムは、今度は視線を逸らさぬ。戻らぬと口にしたガルジアの思いを汲み取ろうするかの様に、今は食い入る様にその瞳は、ガルジアを見つめていた。
「アキノさん。あなたが、どの様な方なのか。はっきりと見えた訳ではありません。それを言うには、まだまだわからないところが多すぎます。ですが。それでも、私はやっぱり、あなたと一緒には居られません。それに、クロムさんも。クロムさん。あなたが今、迷っている
様子を見せるのは、何を考えての事なのですか。私のために動いてくれとは、言いませんが。悩んだまま、何かをしようとするのは。傭兵にはふさわしくはありません」
「御大層な物言いだけど。それでガルジアさんは、俺から。そして、クロムから。逃れるつもりなの」
挑発的な物言いを、アキノがする。そんな事ができるはずはないと、言いたげな顔だった。ガルジアは、アキノの腕を振りほどいて、距離を置こうと跳ぶ。そうしながら、歌聖剣を抜いた。もっとも、これはただのはったりだった。アキノは、動かなかった。まるで、ガルジアの
手並を見てみようというかの様に。クロムも、それは変わらなかった。
「アローネ!!」
誰かの、バインの叫びが上がった。その途端に、アキノと、そしてクロム。近しい場所にあった二人の足元が、崩れ落ちる。クロムの方は、完全に後れを取っていた。アキノの方は、そうではなかった。例え大地が崩れ去ろうと、アキノは冷静さを失わぬ。足元が
崩れ去ると同時に、多量の泥が一斉にアキノへと向かうが。それもアキノが吠えれば、全て弾け飛んだ。そうしながら、アキノは掌に光を集めて、それを斜め下へと打ちだす事で、自らの身体を僅かに移動させる。恐ろしい程の力と、判断力だった。そうする事で、
アキノは未だ崩落を免れている箇所に足を付けては、このバインの周到な罠からすら、逃れようとしていた。
しかし、無事な大地へと戻ろうしたアキノに、また別の力が遅いかかる。宙に跳んだアキノの身体が、不意に強烈な風の刃に晒されて、その竜の鱗が切り裂かれて、赤い血を晒す。とはいえ、それがアキノにとって致命傷にはならない事は、明らかだった。そこまで
来ると、アキノはもはや朗らかな様子をかなぐり捨てて、闘争心を剥き出しにしたままの笑みを浮かべていた。リュウメイのそれと、同じである。
「ガルジアさん!」
声が、聞こえた。ガルジアは歌術を行使しようと詩を歌いはじめていたが、そちらへ目を向ける。どちらへ続く道でもなく、それは山の中から現れていた。茶色い、大柄な熊人の姿。ライシン。そこに居た。それを、ガルジアは知っていた訳ではなかったが。しかしバインが
仕掛けたのを見て、それもまたバインの秘めた策の一つだという事を、瞬時に理解した。それと同時に、歌術を解放する。ライシンの風を後押しするかの様に、更に突風が吹き荒れて、その流れの中から生まれいでる様に、大鷲の姿が現れる。風来の詩は。というより、
歌術その物は。攻撃をするのには、向いていないのは今更な話だったが。それでもその時に現れた大鷲は、明確に敵意を孕んだ甲高い鳴き声を上げると、その風はライシンの邪法を後押しするかの様に、アキノへと襲い掛かっていた。
それでも、アキノには致命傷とはならなかったが。尚もこちらへ向かおうと試みるアキノに、三度目の風が襲い掛かる。それは、座り込んだままのバインの真横から、放たれた物だった。そちらへ目をやれば、既に大分黒い部分を損ない、その顔の被毛にすら
白い物が交ざりはじめていたバインの、不敵な笑みだった。そのバインは、震える手でもって己のすぐ近くに、極小さな門を創造し。その開け放たれた場から、異界の召喚獣の力が、放たれたのだった。要は、いつぞや終わり滝で、ヨルゼアを招くために取った
手段を、バインはここでも取ったのである。ガルジアの歌声を聞き届けた異界の、名も知らぬ召喚獣は。その詩を気に入り、今まさにガルジアに手を掛けようとした存在に牙を剥いたのだった。
それらを、長くはガルジアは見つめなかった。足先が動く事、躓かぬ事だけを意識して、一気に速度を上げる。自分でも驚く程に、身体が軽いのは充分な休息を取ったからであるし、また身体が俊敏に動く事も、やはりこれまでよりも更に力の強い精霊を招く事が
できたためでもあった。その足で、ガルジアは素早くバインの下へと駆けつける。
「バインさん」
「置いていきなさい。如何に足が早くなろうとも、膂力まで備わる訳ではないのでしょう。アローネも、流石に今ので本当に力を使い果たしてしまった。これは、私が受けた物を、あなたに返しただけです。もっとも、それには足りぬと思いますが」
「駄目です。さっきの話が、あります。あなたの力も、必要なんです」
「そうですか、あなたは決心を。……しかし、今の私は、自力では動けません。これ以上あなたの手を煩わせるのは」
「だったら俺が背負えば良いんだろ」
ガルジアは、顔を上げた。バインもそうだった。そうでなくても、ガルジアはそこに誰が居るのかはわかっていた。ライシンが居るのだから、それは当然。そして、その声がいつか自分の耳に再び届く事も、わかってはいたけれども。それでも、その声を聞くと。酷く
安堵してしまう自分が居る事に、気づかされてしまうのだった。
赤髪の男。
何も変わった事など無い様に、そこに、それは。リュウメイは、立っていた。
「早く行くぞ。こっちはてめぇの話でこんなところに待たされたんだ。堪ったもんじゃねぇ」
「すみませんねぇ。あなたは寒いの、お嫌いだろうなとわかっていたのですが。というより、おぶっていただける? ちょっとそれは期待できなかったので、今の私は諦めるところだったのですがね」
「軽口は後にしろ」
その場に、仲間が集まる。ライシンも駆け寄ってきた。そして今、敵となる相手は居なかった。クロムは元より反応が遅れたせいで地面の崩落に巻き込まれているし、アキノも流石に三度の攻撃を受けては、同じ様に穴に落ちてすぐには動けぬ様だった。バインに
命じられたアローネは、相手の力量をよくよく弁えて。今度は泥の塊を空中に呼び寄せると、それからいくらかの水分を取り出して固めるや否や、蓋の様にその場に叩きつける。整地された道が、荒れ果てていた事を除けば。一瞬にしてその場には平らな地面が
できあがり、そこには何も無かったかの様にしか見えぬ。
「だ、大丈夫なんでしょうか。あんな事して」
「別にいいだろ。少なくとも今はどっちも敵みたいなもんじゃねぇか。それに、あのアキノって奴はどうだか知らねぇが。クロムの奴はあいつの言ってる事が本当なら、こんな事じゃ死なねぇだろうよ」
「それは、そうなんですけれど」
とはいえ、痛みや苦しみを感じるのは紛れもない事実であるからして。ガルジアはどうしても生き埋めにされた二人の心配をしてしまう。そうしている間に、バインはリュウメイに背負われて。そしてその召喚獣であるアローネはこれ以上主の負担になると、それは
本当にバインの身体を傷めつける事になってしまうのを察知したのか、完全に消え去っていた。後にはリュウメイとライシン、そしてバインが残るだけとなる。バインが居る事を除けば、それはある程度見慣れた光景とも言えた。
「申し訳ない。自分で歩く事もできないとは。アキノの動きというのは、どうにも私の様な魔術ばかりに感けている者にとっては、如何ともし難い物がありましてね」
「見た目が若いだけの中身ジジィなんだから、無理すんなよお前」
「おお。あなたにそんな風に気に掛けていただけるなんて。もう雪は降っているので、あとは槍が降るだけですねぇ」
「兄貴、本当にこの人連れていくんすか。置いていっちゃった方が、絶対良いと思うんすけど」
「必要みてぇだからな。使える内ぐらいは、生かしといてやるさ」
短い会話もそこそこに、再び一同は移動を始める。そうしながら、ようやく再会できたリュウメイ達とガルジアは早速に情報のやり取りを交わしていた。ガルジアやバインは一時はアキノの傍に居た事もあって、その事情をある程度は理解してはいるものの、この
二人はそういう訳にはいかなかっただろう。
「それで、どこに行くんだ。このまま、エイセイを出る方が良いのか」
「いえ。アキノさんの計画を考えると、それも良いとは、私には思えなくて。というより、お二人はどこまで今回の事を、知っておられるのですか」
「バインから手身近に聞いたが、それ以上の事はわからねぇな。アオゾメの私物も少し調べたが、アキノに対する事なんぞは書いてなかった。あいつ、面倒だからってそういうのは俺達にぶん投げやがったな」
「……あの、アオゾメさんは」
「アオゾメ様のご遺体は、一時魔法で封じておいたっすよ。その、腐ったりもしねぇ様にして。本当は、もっと時間を掛けて弔いたい事っすからね。今はあの、アオゾメ様の連れていた狼が守っているはずっす。あれはあれで、冗談みてぇに強いんで、まあ大丈夫かと」
「そうなんですか。今回の事が、無事に切り抜けられたら。私も立ち会いたいです。リュウメイさん、よろしいでしょうか?」
「俺に訊くなよ。別に、俺があいつの後始末をするのを買って出た訳でもねぇ。てめぇがその時そこに居たいのなら、それでいいだろ」
「……ありがとうございます」
一時、ガルジアは今の状況を忘れて、アオゾメの事を思った。それでも、長くはそうしてはいない。一度振り返れば、既に山へと移っているが故に、エイセイ城の大きな姿こそ見る事は叶わぬ物の、それでも王宮として使われている場だけは臨む事ができる。
そうしながら、ガルジアはまた口を開いた。今度は、己の考えを述べるために。
ガルジアが語る内容を、リュウメイは黙って聞いていた。召喚獣の世界との異変と、それに付随するアキノの計画を。話は、それほど拗れる事もなく、あっさりとリュウメイへと伝わる。特に、途中からライシンも一緒になってその説明に回ってくれた事が、大きかった。
「ベリラス先生は、俺の恩師なんで。……なんでこんな所に居るのかって思ってたけど、あのアキノって奴と一緒なら、そういう事なんでしょうね」
諦めた様な苦笑を零しながら、ライシンは言う。ベリラスは元々ライシンにとっての恩師で、ディヴァリアで教鞭を振るっていた人物だという。ライシンはベリラスと再会をした関係で、召喚獣と世界同士の新たな動きについては把握をしていたので、魔導に対する
知識の浅いガルジアが説明をしづらいところなどは、大抵がライシンが代わりとなってくれていた。その役目はバインでも果たせなくはなかっただろうが、当のバインはどれだけ気丈に振る舞っていても、やはり消耗が激しかったのか。リュウメイに背負われると、
程無くして寝息を立てていた。その腕は真っ白で、か細い老人のそれになっていたし、顔も眉や顎、それから頭頂部の辺りだけが白くなっては、全身が漆黒の闇の様に塗り固められていた状態と比べれば、別人と言っても良い有様だった。服を着ているので、
それ程わからぬはずであるのに。その身体も老いているのか、青年の状態を基準としたであろうその暗い色の質素な服も、今は大分身体より大きい様に見える。
「それから、まだ確証はありませんが……」
最後に、ガルジアは何度か唾を呑み込んで。それでも、隠す事なくクロムから告げられた話を。己が既に、常人の肉体を持たぬかも知れない可能性を、口にする。
「そういう意味では。もしかしたら私は今、アキノさんと共に在るべきなのかも知れませんが……」
最後に、そう付け加えてガルジアは俯いて。しかしそうすると、途端に怖くなる。リュウメイが今、どんな顔をしているのか。ライシンの方は、最初にそれを聞いた時は大層驚いた様な様子を見せはしたものの、それでも結局はリュウメイの意思に従うべきと
思い定めたのか、それ以上の反応は何も示す事はなかった。
「それでも、ガルジアさんが終わり滝でヨルゼアに抵抗してくれたから、俺っちは助かってる訳ですし。そんなの気にする事じゃないっすよ」
ただ、ガルジアが俯いたのを見た時だけ。小さく呟いてくれて。ガルジアには、それは充分過ぎる程の言葉ではあったけれども。
それでもガルジアは、リュウメイの言葉を待っていた。
「くだらねぇな。別に、どっちでもいいんじゃねぇのか」
「ですが、その」
クロムの一件があるのに、リュウメイは、怒らないのだろうかと。ガルジアは反射的に顔を上げて、リュウメイを見つめてしまう。そうするとまた、自分をまっすぐに見つめているリュウメイと、目が合った。
「何度も言わせんなよ。てめぇで決めろ。お前が決めて、俺が決める。それだけの話であって、一々お伺い立てますなんてすんなよ」
「リュウメイさん。……あの、でしたら。今後もお供させていただいても、よろしいでしょうか」
「お前なら、アオゾメの事もきちんと弔ってくれそうだからな」
少しだけ、遠回しのその物言いに。ガルジアは自然と笑みが浮かんできて。それから、頷く。
「あとまだ金返してもらってねぇんだが」
「それは忘れてください。そんな短期間で返せる訳ないじゃないですか。あ、でもアオゾメさんをきちんと弔うために私の詩が必要でしたら、いくらかそれでお返しします」
「育ての親が草葉の陰で泣いてんぞ」
「お二人とも、台無しっすよ……結構良いところだったのに」
呆れたライシンの声が聞こえて、ガルジアは苦笑を零す。それは、リュウメイも変わらぬ様だった。
「それで、リュウメイさん。この後、どうするかなんですが……」
伝えるべき事を伝え終えると、ガルジアは次の一手について触れる。それについての考えは、バインの意見を聞いた時から、ほとんど固まっていた。
ガルジアの意見は、まず、ライシンによって散々に反対を示される。しかしそれは、ライシンが何も意地の悪い事をしようしている訳ではなく。ただガルジアの身を案じて口にしている事だった。それがわかるから、ガルジアも、小さく笑ってそれを聞く事ができる。
「いいんじゃねぇのか。ここに、クロムが居たら反対しただろうが。俺は、構わねぇぜ」
「リュウメイさんは、そうするべきだと思うんですね」
「そうじゃねぇ。少なくとも、そうするのが正しいなんざ、俺は微塵も思ってねぇよ。でもな。……その方が、面白そうだ」
そう言われて、ガルジアは思わず噴き出しそうになって。どうにかそれを堪えて、しかし堪えきれぬ笑みが零れてしまう。
「そう、ですね。確かに。面白そう、ですね。ああ、なんだか、すっきりしちゃいました。そんな風に言われてしまうと。私、すっかりリュウメイさんに毒されてしまいましたね」
「影響を受けたってところだろ、それは」
「ある意味間違ってもいねぇっすけどね」
「ライシン。てめぇ、俺が今バインを背負ってるからって、随分強気じゃねぇか。後で覚悟しとけよ」
「へへへ。後がある様に、頑張るっすよ。兄貴と、それからガルジアさんが決めたんなら。俺っちはもう、とことまんで付き合いますんで」
「てめぇの恩師とも、ぶつかるんじゃねぇのか」
「そういう事も、あるでしょうよ。ああ、でも。今の兄貴の言う事聞いてたら、それもちょっと、面白そうかなって思っちまって。へへへ。俺っちも、兄貴に毒されちまったんすかねぇ」
「てめぇら、都合の良い時だけそういう風に言ってるだけじゃねぇか」
今度は、リュウメイが呆れる。それを見て、笑いながら。そうしながら、ガルジアは己の心の中にある、震える小さな自分を、必死に忘れた。
怖い訳では、なかった。自分一人だったら、こうしようとすら思わなかっただろう。
それでも今、ガルジアの隣には仲間が居て。そうして、今回の事をただ見過ごすだけでは、それは面白くないと。気に入らないと。そう思う様な輩ばかりが揃っているのである。
やれるだけ、やってみようと思った。例えそれで、己の旅をここで終えるとしても。何もせずに逃げ延びた先で、世界の大規模な変化に怯えと後悔を抱いて過ごすよりは、ずっと良いと。
逃げるのではなく、立ち向かおうとしている自分に気づいて。ガルジアは、また笑う。