
ヨコアナ
32.剣の還る場所
階段を上る三人分の足音が、闇の中に木霊する。どこまでもそれは広がるかの様に響いては、それでもやがては消えて。
その音を聞きながら、ガルジアは先程までの話を反芻しては、その度に背を向けて先導をするライシンの背中と、それから広い階段故に、並んで上るのをなんら苦にしないという事もあって。己の隣で黙々と歩みを続けているリュウメイとに、視線を彷徨わせていた。
アオゾメは、己を殺してくれる相手としてリュウメイを選び、招いた。
その事実を口にしたライシンは、泣き崩れんばかりであったが。リュウメイはといえば、それ程の反応を見せたという訳ではなかった。
「だから、お前は俺に引けと言った訳か」
ただ、そう言って。先のライシンとの対峙に、納得を見せただけである。そうして、それも終われば。先を促して、アオゾメの下へと案内しろと。ライシンにただ命じたのだった。それに対して、ライシンももはや何を言う事もない。リュウメイのその所作だけで、
その内心でリュウメイが如何なる考えを巡らせては、結論を導き出しているのかを、寸分違わずに慮る事ができたとでも言うかの様だった。
ガルジアには、よくはわからない事でもあった。何故今、平然としていられるのか。これからその、育ての親と向き合って。それを切り伏せる事が、できるというのだろうか。そんな事をして、自分が平静でいられると思っているのか。そんな事のために、こんな所まで
足を運んだというのに、何も言う事はないのか。もっと他の方法を探し出そうとか。そんな事を、言いはしないのか。それだったら、ガルジアは。諸手を上げて賛成を示しては、リュウメイの支えとなり、その手助けができる事を喜んだだろう。何よりもガルジア自身が、
育ての親を失った身であるのだから。それも、己のせいだと言っても、過言ではない事柄を経て。
リュウメイが、それをさえ望むのならば、ガルジアは。
しかしリュウメイは、何も言う事はなかったのであった。己に突きつけられた事実に対して、抗う術は無いのだと言うかの様に。確かに、それはそうなのかも知れなかった。アオゾメは、高名な魔道士でもあるという。そのアオゾメが最終的に導き出した結論に
抗うだけの根拠も、そうして都合の良い他の道があるだなどと、ガルジアも簡単に思う事はできなかったのだから。
それでも。それでも、もっと。示されるべき反応が。露わになるべき動揺が。あっても良いのではないかと、そう思ってしまうのは。自分が弱いからなのだろうかと、ガルジアはそんな気にもなってしまう。
リュウメイの事が、わからなかった。それは、いつもの事の様でもあって、やはり今は、新たにわからないという気持ちが芽生えていた。わかった様で、わからぬ男。近づいた様で、しかしその度に、遠くにも感じる男だと思う。現にガルジアは、今リュウメイが
何を思っているのかも、わからなかった。それから、前を歩くライシンにも、今は少しだけ睨んでしまう様な気持ちが芽生えてしまう。何故何も言わずに、黙って先導をしているのかと。リュウメイとアオゾメの再会をこそ阻むために、ライシンはここに来たのだという。ならば、
もっと足掻いても良いのではないかと。それでも、結局は。選択の全てが、リュウメイの手に握られているという事だけは、ガルジアもわかっていたので。言葉にして、ライシンを詰る事はなかった。ライシンも、きっと辛い。それは、先程見せられた涙で、充分過ぎる程に
理解していたのだから。ただ、リュウメイの事が、やはりわからないだけであった。終わり滝での一件を経て、ほんの少しだけ、わかった様な気がしたのに。そのままディヴァリア、グレンヴォールと歩き続けたというのに。やっぱり今は、わからなかった。
それが、リュウメイなのだろうと。今のガルジアは思っていた。考えを放棄した様な気もするが、しかし考えてもわからぬという事柄が、確かに世の中にはあって。そうしてその一つが、今自分の隣で黙々と歩を進めている、という場合もあるのだと。そう思う事にした。
そう思えば、幾分は気が楽になる。もっとも、ライシンの言う通りであるのならば。この後リュウメイは、育ての親を手に掛けるかどうかの選択を迫られるという事なので、少しも落ち着いたりはできはしなかったのだが。
階段は、どこまでも続いていた。魔道士の塔、というだけあって。階段は塔を中心に、内側に螺旋状となってどこまでも、果てがなく伸びては着実にガルジア達を大地から引き離していた。時折、行く手の途中に設えられた窓から外を覗けば、その様子が見て
取れる。もっとも、この魔道士の塔自体が、エイセイ城に付け足す形で建てられた事もあって。その窓の外も、結局は一定の距離を挟んで、その城壁を映すだけだっただろう。それすら、ライシンとの話もあって既に陽も暮れた今ではようようわからぬ。僅かに
輪郭を残す城の姿が、ただ遠くなるだけだった。
階段を上る内、階層が改められるといくつかの部屋の扉が見えたが、ライシンはそれらには見向きもしなかった。リュウメイも、何も言わぬ。
「あの、ライシンさん。途中の部屋って、どんな部屋なんですか」
階段を上る前のやり取りのせいで、すっかり会話が無くなり、立ち込めた重苦しい空気を払拭するためにガルジアは口を開いてみる。そうすると、ライシンは気の抜けた様な声を上げる。
「ああ。なんだったかな。俺っちも、ずっとここに居たって訳じゃねぇですし、それにもう随分と時間が経っちまったっすからねぇ……。でも、不用意に開けたりしない方が、良いっすよ。中にどんな化け物が居ても、不思議じゃねぇし」
「ば、化け物、ですか?」
「魔道士なんて、そんなもんだぞ」
「それに、アオゾメ様だって、何も反旗を翻すまで、何もかもにおいてエイセイの上層部と仲が悪かったって訳じゃないっすよ。というか、それだと自分が動くための準備ができないっすからね。だから、アオゾメ様は本意ではなかったかも知れないけれど、
この中にも不老不死の研究のために集められた人が居た事もあったはずっすよ。アオゾメ様は、人目を盗んでそれらを逃がしたりしてたみたいっすけれど、全員って訳にもいかなかったでしょうし」
「で、でも。それってもう、ずっと前の話なんですよね? その、危ない何かが居たりする訳ではないのでは」
「……まあ、開けない方が良いから、俺も兄貴も無視してるんで。ガルジアさんも、開けない方が良いっすよ。一見ポロっちい扉に見えるかも知れないっすけど、最低限魔導の施錠がされて、決して中の空気が漏れない様になってるのはわかるんで。開けるのは、
多分簡単っすけど。開けた瞬間に訳のわからない臭いに一発でやられたりするかも知れないっすよ」
「……わかりました。なんというか、魔道士の方って、怖いのですね」
今更だが、ガルジアはそう思う。ガルジアにとって、最も身近な魔道士といえば、目の前のライシンである。そのライシンにも、結局は様々な都合と事情がありはしたのだが、それでもやはり、今のライシンが安心して背中を託せる存在である事には変わりない。
「あ、あと窓もあんまり触らない方がいいっすよ。そっちも外側からは見えない様に魔導で作られた物っすからね。ガルジアさんみたいに、魔法を使わない様な方には良いもんじゃないっすから」
そう言われて、思わずガルジアは鼻白んだ様子を見せてから、リュウメイを見つめる。
「なんだよ」
「いえ、その……。こういう所で育ったら、こんな風に人はなってしまうのかなって」
「良い度胸じゃねぇか。用が済んだら、少しここに住んで。お前も少しは別人になってみたらどうだ」
「すみません、お断りします」
「あと、兄貴がそんな風なのは元からっすよ。元から」
「ライシン、てめぇまで」
「だってアオゾメ様がそう言ってたっすし」
「気が変わった。まず最初に殴り飛ばすわあいつ」
そもそもこれからの会話次第では、手を掛ける事になるのではないか。という声をガルジアはどうにか呑み込む。そうして会話をしている間にも、階段を上り続けていると、もうそろそろだと言うライシンの言葉が聞こえる。
「少し、雰囲気が変わりましたね」
「アオゾメ様の力でしょうね」
薄暗い階段を、ライシンの灯す光を頼りに進む。それは、何も変わらなかった。相変わらずそれ以外にはそれらしい光源もなく、城の中から塔へ移動したという実感にも乏しい。それでも、不意にガルジア達を包む空気そのものが、一変したのは確かな
事だった。既に死んだ城と、ライシン達が言う通り。この城の空気というものは、無人の冷たさという物を常に孕んでいて。佇んでいると、それが足元から這い上っては、全身を包み込むかの様な恐怖を覚えるのだった。それが、徐々に薄れてゆく。それに代わるかの
様に、まったく別の物が今自分の身を包んでいる事に、ガルジアは気づいたのだった。
その感覚を、以前どこかで味わった様な気がして。すぐに思い当たる。それは、ヨルゼアに身体を預けてきた時と、同じだった。他の者は、ヨルゼアに身体を乗っ取られていた様に見るのかも知れないが、ガルジア自身は、そうではなく。ただ、途方も無く大きな、
ヨルゼアという存在の中に、小さな己が浮かんでいる様な。産湯に浸かっている様な、限りの無い優しさと、そうして落ち着きを得られる様なあの感覚。
ライシンの足が、速くなる。アオゾメの魔力に、当てられでもしたかの様に。同じくこの感覚を味わい、それが恋しくて堪らぬとでも言いたげに。何も言わずに、ガルジアもそれに。リュウメイは、二人を見て渋々といった様子だった。
階段を、上りきった。本当は、まだ上があったが。しかしライシンは、そちらには向かおうとはしなかった。今までと同じ様に、塔に造られた部屋の一室があって。しかしそこには、扉は無かった。その代りに、光が。その中から、青く、淡い光が漏れていた。それに
近づくと、より自分の身体を包むあの感覚が強くなる。
広い空間に、ガルジア達は出る。塔の一室だと言うが、それでもこの魔道士の塔はそれなりの大きさがあるからか、狭い場所に出たとは感じない。それどころか、見上げれば。天井は大分遠いところにあった。どうも、塔の天辺に近いのか。この部屋だけは、縦に
数階分の天井をぶち抜いて造られている様だった。淡い光が、踊っている。鼻に、草の匂いが辿り着く。
「……綺麗ですね」
塔の一室。目の前に広がった景色は、そうとは思えぬ様子だった。土が運ばれ、そこから植物の姿さえ見える。散りばめられた青く淡い光は、まるで日光の代わりを務めるかの様に、優しくそれらを照らしていた。それは、この旧エイセイ領に踏み入ってから、ついに
今まで見る事のなかった景色でもあった。植物だけではない。丁度、ガルジア達が入ってきた気配に気づいたのか、全身を真白な被毛に覆われた狼がそこに居たのである。動植物が、ここでは息づいていた。
「魔物、でしょうか?」
それでも、相手が僅かに警戒を見せたので、ガルジアは心配を口にする。
「いや、アオゾメ様の使い魔みたいなもんっすよ。まあ、魔物には違いないけど、心配するもんじゃないっすよ」
唸り声が聞こえて、ガルジアは僅かに身を震わせる。それから、その狼を見て更に身を。その狼の体格というものが、またその辺りを歩いている様な野良犬よりは二回り以上は大きく。身体を伸ばしたら、ガルジアよりも体長があるのではないかという
程であった。また、それが少しずつこちらへとやってくるまでに、違和感にも気づく。その狼というのは全身が雪の様に白く。確かにそれは、美しかったのではあるが、どうも左右で身体の大きさが微妙に違っている様にガルジアの目には見えたの
だった。だからといって、その狼の動き自体は非常に滑らかな物であり、淡い光しか光源の無いこの場で、その様に見えたのかも知れなかったのだが。
そんな事を考えている間に、その狼は近くへとやってくる。それから、明らかに敵意を孕んだ唸り声を上げて、こちらを見つめていた。
「だ、大丈夫なんですか?」
「おかしいっすねぇ……俺っちも見るのは初めてだけど、確かアオゾメ様の手紙には、書いてあったはずなんだけど。ほーら、怖くねぇっすよー」
ライシンが、若干ふざけた調子で近づくのをガルジアは心配する。あんなに大きな獣に噛みつかれでもしたら、指の一本や二本は持っていかれてもなんの不思議もないというのに。ただ、ガルジアの心配は杞憂に終わる事となった。ライシンが少し身を屈めてから、
手を振って近づくと、狼はぴたりと唸る事を止めて、素直にライシンを受け入れていた。それから、ライシンが冗談半分でアオゾメの事を訊ねると、小さく吠えてから背を向けて走り出す。少し距離をつけてから、僅かに振り返って。まるで、ガルジア達を先導するために、
そこで待っていたかの様に振る舞うのだった。これにはライシンも様子を改めてから、ガルジア達へと視線を移す。それを受けて、ガルジアも頷いた。
白い狼の歩く道を、三人は続く。そうしていると、ガルジアは再びこの場の。この部屋の空気に呑まれている自分に気づいた。本当に、部屋なのかと思ってしまう程に。この場所には自然が満ちていたのだった。ただ自分達が通った入口と、そうして中天を
見上げた時に天井と思しき物がある事で、それと見分ける事こそできたものの。それを除けば、確かにそこは屋内であるという事が信じられない程の光景が広がっていたのだった。大地があり、そこには草木が繁茂していたし、一体どの様な仕組みで態々
そうしているのかと首を傾げてしまう事には、水の流れる音があって。足を進めれば、それは小川となって目に前に広がっていたのだった。まるで、塔の階段を上っている内に、まったく別の世界へ通じる道を辿ってしまったかの様な錯覚すら覚えてしまう。雪と
枯れた地で埋められた旧エイセイ領ではなく、もっと別の、秘境と呼ばれた地にでも突然に転移してしまったかのではないかと。
そして、その中にあって。その世界を我が物顔で歩く白い狼の姿というのは、とても幻想的であって。それと同時に、また一つこの狼に対する違和感を覚える事にもなる。これだけ自然に埋め尽くされているのだから、他に動物の姿などが見えても不思議では
ないのだが、虫の声一つ、聞こえはせぬのだった。それこそ、この部屋の薄暗さと相まって。ここに涼し気な虫の鳴き声でも流れていれば、それらしいとも思えたのだが。その様な姿を認める事はガルジアにはできなかった。小川に掛かった小さな橋を渡る時も、
澄んだ川の中に目を凝らしてみたけれども、魚が泳いでいる様な事もなかったのである。それがまた、結局はここもエイセイの中であって、錯覚は錯覚に過ぎぬのだと、ガルジアに教えるかの様であった。
うぉん、と白狼が吠える。はっとなって、ガルジアは顔を上げて。しかしその先には、何も無かった。ただ、獣道からも逸れたその場所は、他よりも草が伸びていて。今ではガルジア達の腿の辺りを擽っていて。その草むらの中に向けて、白狼は何度か
吠えていたのである。
そこまでくると、ライシンが盛大な溜め息を吐いて。それから、ガルジアの隣に居るリュウメイも、僅かに息を吐いていた。
「アオゾメ様。またこんな所で」
ぎょっとして、ガルジアが目を見張る。そうすると、その視線の先で白い狼が僅かに身を屈めて、それから何度も唸り声を上げていた。今度のそれは、先程の敵愾心を抱いた様な物ではなく。ただ、何かを伝える様で。
そうすると、程無くして草むらの中からぬっと、人影が現れる。それは、横になっていたのか。狼の声に反応を見せて、身体を起こした様だった。そうすると、白い狼の尖った耳に、これまた尖った耳が並んで。もう一頭、狼が現れた様にも見えた。それでも、色は
白ではなく。鮮やかな紫の色合いを呈していたし、その顔は横に居るのと同じ狼の物ではあったけれども、しっかりと人型の身体がついては、その瞳は爛々と知性の光を灯していた。もっとも、その男の隣に居る白狼も、かなり知性に優れた様には見えたのだが。
「久しぶりだな。アオゾメ」
一部始終を黙って見ていたリュウメイが、ようやく口を開く。その声に、男は耳を震わせて。それから、静かに立ち上がり、こちらへと視線を投げかけていた。
紫の、紫紺の被毛に覆われた狼人の男の事を、ガルジアは見つめてていた。
当の男は。リュウメイに、アオゾメと言われたその男は。特に何かの返事をする訳でもなく、静かに佇んでいる。それを、注意深くガルジアは観察した。その服は、とても質素な物で、薄暗い色の麻の服を上下とし、上が前が開いたままで。その上で、履いているのも
申し訳程度のサンダルだけという有様だった。それ以外には、何も身に着けてすらおらぬ。僅かにその狼人が首を振ると、肩を過ぎる辺りまで伸びた長い髪がふわりと宙に舞う。そうすると、その被毛の中に巻き込まれていたのか、草の葉の一部が、かさかさと
音を立てて、宙を舞っては落ちて。それは、その男の。アオゾメの傍に座り込んでいた白い狼の頭に落ちていた。
アオゾメという男は、実際のところガルジアの予想とは一癖も、また二癖も違っている男だった。まず、どう見てもその外見が歳を取った者のそれではない。それだけならば、見た目と本当の年齢がそぐわぬ者達の出会いが。要は、クロムやバインなどと比較すれば、
それほどに驚きに値するという訳ではなかったのかも知れないが。その恰好という物の方は、やはり呆気に取られてしまう。腕の良い魔道士だと言うが、見た限りでは、到底その様には見えずに、若い男がそこに佇んでいる様にしか、ガルジアには見えなかった。
「痛い」
不意に、アオゾメが口を開く。立ち上がったアオゾメは、何かを思案するかの様に瞼を閉じていたのだが、それが急に開いては、斜め下へと向けられる。釣られてそちらを見れば、アオゾメの指先を、白狼が軽く噛んでいた。アオゾメは軽く手を振って、噛むのを
止めさせると。その白狼の頭の上に乗ったままである草の葉を払ってやる。
「別に、寝ていた訳じゃない。そんなに、急かさずとも良いだろう」
「そいつには、バレバレじゃねぇか。アオゾメ」
呆れた様な、リュウメイの声。なんとなく、リュウメイがその様な態度を示す事を、ガルジアは新鮮に思った。リュウメイに呆れさせられるのは、周りに居る者にとっての常であるが。その逆は、珍しいのである。
「リュウメイ、か。……では、分が悪いな。寝ていたのは、お前にもわかってしまう」
「相変わらずだな。てめぇから呼んでおいて」
「そう、怒るな。……久しぶりだ。随分な時が、外では流れた訳なのだな。最後に見たお前よりも、逞しくなって。それから、髪も伸びた」
「あんたはちっとも変わんねぇな。それが、魔道士の手妻って奴なのかも知れねぇが」
「何、それだけではない。今は、な」
アオゾメが、言外に込めた意味に笑みを浮かべる。そうしていると、やはり若いという印象を、ガルジアは受けた。リュウメイと並べれば、同い年の様にも見えただろう。身長はリュウメイより少し低いくらいで、ガルジアよりは高く。その身体は襤褸の様な物を
纏っているが故に、はっきりと見て取れる。魔道士という割には、程良く全身を鍛えている様だった。
「そっちは、ライシンか」
「お久しぶりです、アオゾメ様」
声を掛けられて、ライシンが素早くその場に。土と草の上だという事を厭わずに、膝を突く。それに、アオゾメは目を細めた。
「お前、随分戻りが早いな。俺が手紙をくれてやって、そのまま飛んできただろう。リュウメイがいつか、ここに来てくれる事を俺は願っていたが。お前がそれに付いてくるとは、俺は思っていなかった。リュウメイとは、終わり滝で別れたと。その様に聞いたが」
「例え、兄貴が……。いえ、リュウメイ様が、ここに来られずとも。俺一人であっても、ここに来る心算でございました。アオゾメ様の、お考えをどうにか改めさせようと。そこに、丁度リュウメイ様が参られましたので」
「それで、城の前でドンパチやってたと。そういう訳か」
びくりと、ライシンの身体が震える。どうやら、エイセイ城の前での戦いを、アオゾメはしっかりと感知していた様だった。
「ご存知で、ございましたか」
「こんな静かな、俺しか居ない土地で、馬鹿騒ぎをすれば。嫌でも俺には伝わる物だ。俺は、お前の考えなんぞは好きにさせてやっているが。だからといって、俺の邪魔をしてもらっては、困るな」
「申し訳ございません。ですが、俺は」
「もう、いい。リュウメイは、ここに来たのだから。そうして、お前もまた。あとは事の成り行きを見守ろうと。そう、思ったのだろう。ならば、俺からお前に言う事は、何も無い。さて、最後に残るは」
ライシンへの話を終えたアオゾメが、素早くガルジアへと視線を移す。そうされると、ガルジアは全身に怖気が走り、思わず身体を震わせてしまう。傍から見ていれば、アオゾメは暢気な男にしか見えなかったが。その瞳で睥睨されると、全身から力が抜ける様だった。
ガルジアの様子に気づいたのか、アオゾメが僅かに表情を柔和な物へと変える。
「お前の報告も、このライシンから受けている。ガルジア、だったな?」
「……はい。お初にお目に掛かります。その、アオゾメ様」
「その様な堅苦しい物言いは、しなくて良い。このライシンが、勝手に畏まっているだけであって。そんな風に振る舞われるのは、俺としては身体が痒くなる思いだ。……なるほどな。確かに、白虎にして歌術士か。俺はあまり、終わり滝での一件の元凶は。要は、
召術士や召喚士、それからヨルゼアについてさまで詳しいとは言えないが。その身がヨルゼアを引きつける、というのは。わからんでもないな。俺の目から見ても、確かにお前は、精霊に好かれる性質に見える。歌術士として振る舞えるのだから、それは当然の事と
言わなければなるまいが」
「はあ」
「そんな事より、アオゾメ。お前、俺を呼んだんだろう。その話をしろ」
割り込む様に、リュウメイが間に入る。それで、ガルジアは少し、ほっとしてしまう。魔道士の事が特別に苦手としているつもりはないが、結局はバインの手に囚われたという経緯があって。己の身体をつぶさに見て、そうして評価を下そうとする存在というのは、
ガルジアには中々に辛い物があるのだった。白虎として、今まで散々に値踏みをする様に見られてきたからという事もある。その上で、ヨルゼアの事まで承知している様な相手とあっては、尚更だった。
「話? ああ、お前を呼んだ事か、リュウメイ。それにしても、まさか本当にお前が、ここまで来られるとは、俺は思っていなかったよ。お前に出した招待状も、無事に届いた様であるし」
「随分悪趣味な物で報せやがって」
アオゾメが、リュウメイの佩いている魔剣に目をやって、にぃっと笑みを浮かべる。リュウメイは軽く魔剣を見下ろしただけだった。
「こいつのせいで、ヌベツィアでもグレンヴォールでも、面倒な目に遭ったんだぞ」
「別に構わんだろう? それも踏まえて、お前がここに来るに足る存在であるのか、俺は知りたかったのだから。ライシンだって、最初はその様にお前を推し計るために、お前に接触していた様だしな。まさか、心服させてしまうとは、思わなかったが」
「あなたが、この魔剣に妙な真似をしたのですか? アオゾメさん」
「おい」
気になって、ガルジアは訊ねると。リュウメイが僅かに焦った様子を見せて、咎めてくる。それに、首を傾げそうになるが。しかしそのやり取りをするよりも前に、アオゾメが不意に目を見開いて、口角を吊り上げる。
「いや、それは違うな。いやいや、合っていないとも言えないが。その様に言うという事は、この魔剣は十二分に本来の姿を、お前達の前に晒したのだろう? 他者を手繰り、使役し。本来は使われる側でしかない道具が、持ち主を使う側に回る。素晴らしい事象だと、
そうは思わないか? 私は道具については、門外漢とまでは言わぬが。専門とはやはり言えない。それでも、この魔剣の在り方という物には、心が沸き立つ事を己に禁じ得ない。持ち主が切り伏せたい相手を切るがために、剣はあるというのに。この剣に魅せられたが
最後、剣が望む相手を、持ち主は切る破目になるのだからな。だが、リュウメイ……いや、そこなガルジアよ。別にそれは、私がした事ではない。先に言った通り、これはこの剣の、本来の力に依る物だ。私はそれを、ほんの少しだけ引き出したに過ぎない。それ程に、
この剣は優れていたし、またあまりにも優れていたが故に、魔剣と言われ、封じられていたのだがな。私がしたのは、かつての姿を少しばかり取り戻させてやって。それから、もしこの剣をリュウメイが手にするのならば、私の力がリュウメイに伝わる様にと。たった、
それだけの事でしかない。私には、それで充分なのさ。あとはこの剣を流してやれば、この剣は持ち前の素晴らしさでもって、人々の目に留まるし。そうして流転を繰り返しては、最後には最もふさわしい者の場所へと、辿り着くという訳だ」
「え、えっと」
「馬鹿。不用意にアオゾメに話掛けるな。面倒な事になっちまったじゃねぇか」
「そんな事言われても」
先程までの、横になってぼうっとしていたアオゾメは一体どこへ行ってしまったのか。今は見開いた目は子供のそれの様に爛々と輝いては、話し方まで変わっていた。億劫そうに喋っていたその口も、今は酷く饒舌にしていたし、身振り手振りまで加えては、
己の語る内容に迫力を示して、熱心にガルジアに説明を始めていたのである。
「まあ、その過程で多少の犠牲は出るやも知れんが。それは致し方ないという物だな」
「……そのせいで、リュウメイさんも怪我をしたのですが」
「その程度の事で死ぬ様や輩なら、私はここに招くに足るとも思わん。当たり前の事だろう?」
「アオゾメ。てめぇのそういうところ、やっぱ俺は嫌いだわ。つかいい加減元に戻れ。そこの犬、なんとかしろ」
犬と言われて、白狼は大分心外とでも言いたげにリュウメイに対して牙を剥き出しにしたが。それでも話がおかしな方向へ行ってしまった事は白狼にもわかっているのか。また、アオゾメの手をその口先が、身振り手振りをしているために多少の苦戦を伴いながらも、
やがてはアオゾメの指先を捉える。
「ん? なんだ、私は話の途中で……。あ、ああ。そうだった。つい、我を忘れてしまったな。こんな面倒臭い話をするために、俺はお前を呼んだ訳ではないのだが。どうもその、魔道士の性という奴はな、中々に俺の中に根付いて、そうして中々抜けてはくれなくてな」
「アオゾメ様は、お偉い魔道士ではあるんすけど、庶民の事もよくよくわかってくださる方……なのはいいんすけど。たまに、こうなっちまうんで。ガルジアさんも、気を付けてください」
「はあ」
「悪かったな、ガルジアよ。魔道士として振る舞ったり、また同じ魔道士と接する場合には、どうしても普段の俺のままという訳にはゆかなくてな。それをやっている内に、すっかりそちらの方が板についてしまったのだが。ああ、それで、なんだったっけか? なんの話?」
「俺を呼んだ事についての話だ。剣だのなんだの、そんなのはいいんだよ」
「おお、そうだった。すまんなリュウメイ。だが、とりあえず今日のところは、休んだらどうだ。もう、すっかり陽も沈んでしまっただろう? こんな寂れた地を、長々と歩いてきたのだから。随分疲れただろう。そちらのガルジアなんぞは、大分足元も危うい様に見えるしな」
アオゾメは白狼に何度か噛まれた手を擦りながらも、話を後回しにして、今日は休む様にと促す。そう言われて、ガルジアは思わず全身の力が抜ける自分が居る事に気づいてしまった。今までは、この様な不毛の大地を行き、そして目的の場所に辿り着いても、
リュウメイとライシンの壮絶な戦いを見て、己の身体を振り返る余裕すらなかったのだという事に、気づかされる。アオゾメにその様に取り上げられて、休むべきだと言われると。その場に頽れてしまいそうになる。
「……そうだったな。なら、悪いが。食い物はあるか」
「ああ、用意しよう。ライシン、手伝ってくれ。リュウメイは、ガルジアを連れて。私の家で休んでくれ。場所は、憶えているだろう?」
リュウメイは、もっと食い下がるのかとガルジアは思っていたが。そのリュウメイは、ガルジアを一瞥するとアオゾメの提案に大人しく従っていた。気を遣われてしまったかと、ガルジアは考えるが。そのままリュウメイが歩き出すので、それへと続く。
「ここは、不思議な場所なんですね。塔の中なのに」
リュウメイと二人きりになると、少し戻っては、獣道に合流して。目指す先は、今度はその道に続いている様で、道を歩きながら、ガルジアは辺りを見渡してリュウメイに声を掛ける。ライシンが離れた事で、道を照らしていた光が無くなった物の、ここにはそれとは別の
青い光が散りばめられていて。それらは決して眩しいと感じる程に輝く事はなかったけれども、二人の道を照らすのには、充分な程の明るさを保ってくれていた。相変わらず、塔の中に居るという実感の湧かぬ空間だと思う。まず、この空間の広さからして、塔の中に
あるのだとは到底信じられぬ程なのだから。虫や、或いは鳥の声すら聞こえぬ事、自然の強い風が吹かぬ事。その二つの存在を欠いただけで、目の前に広がる自然は酷く違和感の伴う、奇妙で不気味な雰囲気を孕んでもいたのだった。もっとも、それさえ等閑に
付す事ができたのならば、静かな川のせせらぎと、秋の夜長を思わせるこの空間は、ガルジア達を優しく包んでくれていたし、先程のアオゾメの様に、草の上に横になっても気持ちよく過ごせただろう。
「これもアオゾメの魔導の一環なんだろうよ。練習っていうのも、あっただろうが」
「練習ですか?」
「本人が確か言ってたな。不老不死の研究の、一環だとか。まあ、本人にそれ以上訊ねると、さっきみてぇになるから。俺は聞きたくねぇがな。あいつ、一旦ああなると本当に魔道士の振る舞い方しかできなくなって、しかもよくよく話すからな。餓鬼の俺に対して、
俺がよくわかってない事だろうが延々喋りやがる。実際、堪ったもんじゃなかったぞ。あいつの話が聞きたいなら、俺の居ないところでやれよ」
「凄い人でしたね……。こんな所に居る時点で、凄くないはずがないとは、思っていたのですが」
「まあ、魔道士の中ではまだ話ができる方みたいだがな、あれも。結局、魔道士として大成してる奴なんて、てめぇの得になる事しか考えねぇし、自分と凡人じゃ何もかもが違うって意識があるから、中々人前には出てきたりはしねぇもんだ。普通に話ができたりする
部分が残っていたり。この国から招聘を受けて伺候したり、その上でライシンやらを助けて謝罪したりする事ができる分、あいつはずっとまともな魔道士さ。あくまで、他の頭のおかしい魔道士と比べたらって話であって、アオゾメ自体がまともだなんて、俺は
思っちゃいねぇがな」
「あなたが言うと説得力がありませんね」
「言ってろ。ほら、見えたぞ。あそこが、アオゾメの家だ」
遠くに、黒い建物の影が見える。闇の中に浮かぶそれは、近づくと次第にその全容を明らかにして。それは、外観は木造の質素な家に見えた。目の前に来て、なんとなくガルジアは溜め息を吐いてしまう。
「自分が今どこに居るのか、段々わからなくなってきました。ある意味、家の中に家がある。そんな感じですよね、今」
「慣れの問題だ。俺も、最初は気になってたが。この国はこんなものより大分おかしい部分が多かったからな」
リュウメイは慣れた仕草で、戸を開いて中へと入る。ガルジアも、それに続いた。中は外観と同じく、木で統一されているために温かな空気で満たされていて。それがより一層、外と、そうしてここまでの道中を振り返ると不釣り合いにも感じてしまう。とはいえ、
家の中に招かれて、手近な椅子に座った途端に、ガルジアは強烈な疲れと眠気に襲われて、そのまま机の上に突っ伏してしまう。
「随分疲れてたんだな」
「そりゃ、そうですよ。生きた心地がしませんでしたし、このエイセイの旅路は。リュウメイさんやライシンさんが、いまだに元気な方が、信じられません」
「俺達にとっちゃ、まったく経験が無い事でもねぇからな」
道中が、殊更に険しく辛かった、という訳ではなかった様に思う。しかし、食べ物は手に持つそれだけであって、補給もままならぬ。水だけは綺麗な雪を掻き集めて、湯とする事でどうにか凌げはしたものの、それでもその状態で、無限に広がるかの様な荒野を
行くのは、大分旅慣れたとはいえ元々は修道院の中で、修道士としてぬくぬくと生きてきたガルジアには、中々に辛い物があった。それと比べて、今のこの、アオゾメの家のなんと居心地の良い事かと思う。
「それに、寒くもないです。この塔の部屋に入ってきた時からでしたけれど」
それも、魔導による物なのだろうと思う。城の外は、それこそ雪が降っていたのだら、それなりに寒い。被毛があるから、多少着込めば、あとは身体を動かしていればどうにかなるとはいえ、それでも肌寒いという感覚は残り続けていたが。それもこの塔の、アオゾメの
領域に足を踏み入れた途端に消え去っていた。限りなく優しい自然を再現するかの様なアオゾメの魔導に、思わず感心してしまう。確かに、これ程の腕前を持つ魔道士の助力をエイセイの高官が乞うたのにも、得心がゆく。
いつもならば軽口の一つでもガルジアに対して言ったのかも知れないが、流石に疲労困憊の態である事を見て取ったのか。ガルジアがその内ようやく少しは動ける様になって、顔を上げると。リュウメイがさっさと机の上にあった物を、ガルジアからすれば、何に
使うのかも見当のつかぬ物体や、何やら難しい言葉で書かれている紙などを退けていた。そうしている内に、姿を消していたライシンとアオゾメが揃って戻ってきて。ライシンは両手で大籠を持ち、その中には色とりどりの野菜と果物が詰められていて、思わず
ガルジアは瞳を輝かせてしまう。
「ここで採れた物だ。心配せずとも、余計な事はしていない。あまりな」
「そんな贅沢は言いません」
本来ならば、アオゾメのその言葉には大分難色を示してしまうのであるが。しかし道中のひもじい思いを振り返れば、もはやそれが美味しく頂けるのならば、ガルジアは文句を言うつもりなどさらさらなかった。
それからは、旅の疲れを全て洗い流すかの様に、至れり尽くせりの宴が始まる。アオゾメがガルジアとは反対側について、ぼんやりとしはじめると、何かに吹っ切れた様にライシンは調理の腕を振るったし、またリュウメイも渋々の態ではあったがそれに参加する。
「俺はこういうのはどうにも向かなくてな。だから、リュウメイが小さい時は、散々嫌な顔をされたっけなぁ。気づいたら、リュウメイの方が圧倒的に腕が良くなっててな」
「だからあんなに手際が良いのですね」
揃って、まな板の前に立っているリュウメイを見遣れば。思わずガルジアが悲鳴を上げてしまいそうな速度で包丁を振り回しては、籠の中にあった野菜があっという間に切られて分解されてゆく。髪が交じらぬ様にと、あの長い髪も今は後ろに縛って一纏めにしていて、
そうして見ていると、なんとなくその様は日頃の、狂気と戦闘に耽溺しているリュウメイとはまったく別の印象を受けたけれども、思っていたよりは様になっているなとガルジアは思う。
程無くして、料理は揃い。それから食後の果物も切りそろえられると、ガルジアは心行くまでそれを堪能していた。また、アオゾメが育てたというそれらは味も良く、口に放り込めば、口内にその甘さが広がる様な物ばかりであって、ここに来るまで質素な物ばかりの
食事を強いられていたガルジアからすれば、涙が出る程に素晴らしい物でもあった。
「部屋も用意してある。今日はそこで眠ると良い」
食事を終えて、小川の水を沸かして風呂にも入り、さっぱりとしたところでその様に言い渡されて、ガルジアは素直にそれを受け入れる。案内をされた部屋には、ベッドが二つ用意してあり、それから空いた所にも同じ様に布団の用意がしてあった。
「俺っちは、床でいいんで。お二人はどうぞそちらで」
「いいのですか?」
「はい。というか、アオゾメ様が朽ちねぇ様にあれこれとしてくださってる物っすけど、それでも俺っちにはちょっと危ない気がするんで」
確かに寝床は整えられているには整えられてはいたが、それでも年季を感じさせる造りであって。ライシンの様な身体の重い熊人には、少し厳しいのは事実らしく、有り難くガルジアはその提案を採用してはベッドに飛び込むと、そのまま強烈な睡魔に呑み込まれて
意識を手放してしまう。
「兄貴、アオゾメ様は……」
眠る間際、ライシンとリュウメイが話をする様子が聞こえたが。それも、長くは聞き取る事ができなかった。
次にガルジアが目覚めたのは、大分夜も深まった頃合い、なのだろうか。食事の際に、アオゾメと軽く話した限りでは、この塔の一室は、いつもこの様に薄暗いのだという。それ故に、陽の降り注ぐ昼という概念自体が、この場には無いかの様だった。それでも、
目を醒ました時にガルジアの視界は、先程までよりも更に薄暗くなっており。一応は、その様な照明を通じた時の移ろいが再現されている事はわかる。
ゆっくりと起き上がりながら、ガルジアは何故自分が起きてしまったのだろうかと、不思議に思う。心身ともに疲れ切っていたのだから、それこそもっと長く、寝ていても良かっただろう。どれ程に時間が進んだのかはわからぬが、左右を見れば、リュウメイとライシンは
静かに眠っているところだった。気丈に振る舞っていても、やはりエイセイの旅路というものは、この様な強者にもそれなりの疲労を齎す物である事に気づいて、ガルジアはちょっと、ほっとする。自分だけが疲れ切っていて、それを不甲斐無く思う必要もないのだと
わかる事が。それから、リュウメイの様な者が、その様に無防備に身体を休めている事が。大体、リュウメイは魔剣の一件で大分傷を負ったのに、それ程休む事なくここまで来てしまったのだ。もう少しくらい、休むべきだというガルジアの忠告も無視して。
静かに。本当に、静かな声でガルジアは歌うと、精霊を呼び寄せる。ただ、現れたのは淡い光その物であって、いつもの様な異形ではなかった。二人が起きぬ様にと気を遣ったせいもあり、今はこの程度の力が精々だろう。元よりこの不毛の地を忌み嫌うのは、
何も人だけではない。精霊も、同じである。彼らこそは、自然の中で生きている者であるからして。その様な不毛に満ち満ちた大地の奥にある、こんな城には、早々駆けつけられる物ではないのだろう。それがまた、結局はこの塔の一室とて、アオゾメが
造り上げた偽りの自然でしかない事を、ガルジアに教えていた。
しばらくそうして、詩を歌い。その光を傷ついた二人に渡すと、ガルジアは起き上がる。寝直してしまおうかと、思っていたのだが。自棄に目が冴えて、眠れそうになくて。仕方なく、足音を立てない様に気を付けて寝床から飛び出すと、二人を残して部屋の外へと
出て、そのまま散々飲み食いした部屋も通り過ぎると、外へと出る。
風が、弱く吹いていた。屋内であるからして、それが吹く様には思っていなかったのだが。どうも、アオゾメが何か細工をしたのか。今はガルジアの白く、そうして黒の走る被毛を、優しい風が撫でつけて。目を細めてそれを受け入れていると、不意に近くの草むらから
音がして、ガルジアははっとなる。何が出てくるのかと、思わず丸腰で出てきた事を後悔しながら見守っていると、その内にそこから、真白な、外に舞う雪の様に白い被毛を持つ、あの白狼が出てきた。ばったりとそれと会い、目を合わせてから、ガルジアは迷った様に
建物の中へと視線を迷わせる。今更だが、この白狼とどの様に接して良いのかが、ガルジアにはわからなかったのである。ライシンやリュウメイが居れば、良かったのだが。それに、アオゾメはこの白狼については、あまり触れる事もなかったので、それもまた
ガルジアの逡巡に拍車を掛けていた。夕食の時には白狼の姿は無かったし、そこから今に至るまで、どこに行っていたのかもわからない。
「えっと……。こ、こんばんは」
とりあえず、挨拶をしてみる。そうすると、白狼は僅かに首を傾げる様な仕草をして。それから、ゆっくりとガルジアの下へと歩み寄ってきては、アオゾメにやったのと同じ様に。それでもとても優しく、ガルジアの指先に、己の黒い鼻先で触れたり、舌を出して舐めたり、
ほんの少しだけ口を開けて牙を引っ掻ける様にを繰り返す。
「どうかしたのですか?」
屈み込んで、ガルジアは思い切って問いかけてみる。どうも、襲われる、という様な状況ではなく。白狼は何かを伝えるかの様にしていた。言葉も、掛けてみる。言葉を話す事はないみたいだが、この白狼が非常に聡明である事は、既に先のアオゾメとのやり取りで
十二分に理解していた。ガルジアがその様にすると、白狼は距離を取って、初めて会った時の様に、案内をしようとする。ガルジアは、また迷ったが。それでもその後に続く事にしてみた。どの道、眠気がまだ戻っておらず。その上で、この様な気になる存在を前にして
引き返したところで、余計に眠れはしないだろうという事がわかっていたからである。
獣道を行く事もなく、白狼は草むらの中へと一直線に。ガルジアも慌ててそれに続いた。見失ってしまうのではないかと、そう思ったが。風が草を震わせる度に、暗い緑の海に、その白は輝いて。白狼の大きさのおかげもあって、ガルジアはどうにかそれに付いて
ゆく事ができた。一度、振り返れば。リュウメイ達の居る家は、どんどんと遠ざかってゆく。本当に、不思議な物だと思う。ここは、塔の一室であるはずだというのに。そんな気が、微塵も感じられなかった。空を見上げれば、天井らしき物は見えるかと思ったが、
夜が深まった事を、演出するためなのか。空もまた、闇の色に染まりきっては。しかし僅かな光を。星が、そこにあった。あたかも本当の夜空が、そこには広がっているのかと思える様な光景だった。
うぉん、と鳴き声が聞こえる。目を下げれば、いつの間にかすぐ傍に、白狼が居た。立ち止まっていたガルジアを、気にしていたのだろう。
「ごめんなさい。今度は、ちゃんと付いていきますから」
ガルジアの言葉に、納得したかの様に。再び白狼が先導をする。
道を行く。白い狼に導かれて、白い虎が行く。真夜中と思しき世界の、真っ暗な中を。道も無く、当ても無いかの様に、ただ歩いては、草にぶつかり、草を踏んでは音を立ててゆく。振り返る事は、もうしなかった。振り返れば、遠くになった建物が、
見えた事だろうか。それとも、それも草むらに埋もれてしまっただろうか。そんな事を考えながら、ガルジアは懸命に、白狼を見失わぬ様にしていた。大いに食べ、眠った事で、体力がある程度戻っていたのは、幸いだった。付いてゆく事が、辛いという訳ではない。ただ、
この白狼は自分をどこに導こうとしているかのという、疑問だけがそこにあって。そうして、言葉を交わす事ができぬ以上は、白狼に付いてゆく事でしか、この疑問が氷解をする事もまたなかったのであった。
不意に、白狼が走り出した。今までは小走りであったので、ガルジアでもどうにか付いていけたのだが、ここにきて、白狼はそうして。ガルジアは思わず声を掛けたが、そのまま草むらの中へと消えてしまった。ガルジアは、はっとなって立ち止まる。正気に戻って、
振り返る。辺り一面は、草むらしか存在し得ぬ場所で、もはや戻る事すら叶わぬかの様だった。脹脛までだったはずの草はいつの間にか伸びに伸びて、腿を擽っていたし、その様な薄暗い草の原で、ガルジアは一人、立ち尽くしていた。風が。初めて
ここに来た時には吹いていなかった風だけが、ただガルジアの被毛と、草を優しく撫ぜては、ガルジアの後ろから迫っては追い抜き、離れてゆく事を繰り返していた。
「ようこそ、ガルジア」
声が聞こえて、慌ててそちらへと向き直る。そこに立っていたのは、予想を違える事もない。あの、アオゾメだった。紫紺の被毛に覆われた狼人は、静かにそこに佇んでいて。そうして、アオゾメが軽く手を払うと、アオゾメの周りから、ガルジアに向けて鬱蒼と
茂っていた草が横倒しになる。そうなると、いつの間にかアオゾメの下へと帰っていたのか。あの白狼が、アオゾメの隣で行儀よく座り込んでいて、これもまたガルジアを見つめていた。
「よく、休めたか。もう、大丈夫そうか」
「アオゾメさん。……はい。おかげさまで、大分楽になりました」
「それは良かった。お前と話がしたかったが、しかしとても疲れていた様に見えたのでね。態々、話を先延ばしにする様な真似をしてしまった。私にももう、あまり時間は無いというのに」
「すみません」
「謝ってほしい訳じゃない。お前は、態々こんな所まで来てくれたのだから。ガルジア。本来ならば、お前は終わり滝での一件が済んだのだから、リュウメイとは離れて、どこへ行こうとも良いだろうに。そうは、しなかったのだな」
「リュウメイさんには、沢山お世話になりましたから」
言葉を濁そうかと思ったが、それは止めにする事にした。リュウメイの、育ての親と言っても過言ではない存在なのである。また、透徹したアオゾメの瞳は、何もかもを見通すかの様であり。ガルジアの思い付きの行動などは、なんの意味をも成さないと思って。
「アオゾメさん。ライシンさんから、お話は聞きました」
その代わりに、ガルジアは本題を切り出した。リュウメイが話そうとしても、後にしろと言われてしまった事を。今度は、そうするつもりはないのか。アオゾメは静かに頷いていた。
「ライシンさんの話では、確信を得る程ではありませんでしたが。あなたは、やはり」
「俺は不死になった」
ぽつりと、アオゾメは呟く。それは、ガルジアにはそれ程の動揺を起こさなかった。なんとなく、それは予想がついていた事ではある。不老不死を求めて暴走をしはじめたエイセイに、己が力で抵抗をするためには。結局はアオゾメも、その力に縋るしかなかったのだと
ライシンは言う。それが、本当ならば。そして今、そのエイセイが滅び、アオゾメが自分の目の前に居るのならば、それは何一つとして疑う余地のない真実でしかなかった。
「だが。俺のそれは、完璧な物ではない。ライシンの報告にはあったが、お前の傍には、その領域に足を運んだ者もまた確かに居たそうだな」
「クロムさんの事ですね。確かに、あの人は。真の不老不死を体得したのだと思います、……アオゾメさんのそれは、違うという事なのですか」
「厳密には、ほとんどその領域に到達したと、私は見てよいと思っているが。しかし、完全な不老不死とは言えない。私のそれはな。というよりは、本当にそうなる事を私自身は厭うて、少しは手を抜いたと言うべきか。……そうだ。魔道士としての俺ならば、それは寧ろ、
歓迎をしただろうが。しかし俺は。アオゾメという、ただの男の身には、それはあまりにも、重すぎてな。それに、俺が不老不死を得たというのも、結局はそう。この国に魔道士として伺候したが故と、言えなくもない。何人をも遠ざける魔道士の一としてあって、その上で
それが達成されたのならば、俺は何も思い煩う事もなかっただろうが。この国のおかげで、という形ではな」
「では、リュウメイさんを呼んだのは」
「俺は、死ぬ事ができない。だがそれは、自身の手で、己を殺す事ができぬという、そういう意味でだ。俺は限りなく不老不死に近い形を実現したままに、エイセイの高官達を始末し、そうして奴らを取り込む事で、また新たな領域に足を踏み込んだ。丁度今は、
そんな時だ。だからそう。死ぬなら、今しかない。自分で良くわかる事だ。俺の中に渦巻いている、あの捻くれた馬鹿者どもが、騒いでいるのが。そうして、魂としてより集められた分。もはや俺の中であっても、永遠の生を欲しがっては、蠢いている様が、
俺にはよくわかる。永生とは、よく言った物だな。確かにこの国の奴らは、それを目指す事を宿命づけられているかの様だった。もっとも、もっと昔には。こんな馬鹿な奴らではなく、もっとまともな者達が治めていた国ではあったのだが。ああ、あの頃は、
良かったな。つまらん繰り言など、年寄りのする事だが。それももう構うまい。俺もまた、その年寄りの一人になってしまった訳だしな。……そうだ。お前の質問に、答えねばな。今言った通り、俺は己の手で死ぬ事ができない身だ。だからこそ、リュウメイをここへ
招いたのだ。あいつに似合う剣の贈り物までしてな」
「そんなの、酷いです」
率直に、ガルジアはそう言った。自分が育てた子に、殺されようとするなどと。それはあまりにも惨い事であって。ガルジアは、思わずアオゾメに詰め寄ってしまう。そうすると、唸り声が聞こえて。そちらを見遣れば、今まで散々大人しくしていた白狼が、ガルジアを
遮る様に前に出ていた。
「止めろ」
すかさずアオゾメが、白狼の動きを制すると、大人しくなる。
「ごめんなさい、私」
「いや、その様にお前が怒るのは、当然の事だろう。だが、俺も。他に頼る相手が居なくてな。リュウメイに、こんな事を頼むのはとは、思うのだが」
「……リュウメイさんの、あの魔剣があれば、それは叶うのですか?」
「五分と言ったところか。だが、あの剣が強力な事に変わりはない。己の手で死ぬ事ができない以上は、そうしてもらうしかない。また、俺の中に渦巻く奴らが、騒ぎ立てれば。俺もいつまで、この様に振る舞っていられるのかは、わからなくてな。それに、あの剣は
元々持ち主を選ぶ物だ。もしあの剣が、何かしらの悪さをしていたというのならば。それはあの剣にそれなりの力を取り戻させた俺のせい、という部分はあるにはあっても。結局はあの剣に気に入られぬ、使役されて当然の力量をしか持たぬ者達のせいだ。そして
リュウメイは、あの剣に普通に触れられる。それは、他でもないリュウメイの力だ」
「そう、なんですか。……わかりました」
ガルジアの返答に、少しだけアオゾメは意外そうな顔を見せる。それから、実に面白そうに笑った。
「なんだ。もっと、食い下がるかと、そう思っていたが。随分あっさりと、それを受け入れるのだな。修道士だというから、そういう事には絶対に反対を示すのかと思っていたのだが」
「本当は、そうしたいです。けれど、それを決めるのは、私ではなくて、リュウメイさんですから。そして、リュウメイさんは。自分で決めたのならば、絶対にそれを曲げたりはしないでしょう」
「確かに。あいつは本当に、そういう奴だった。昔から、な。実際、あの決断力と判断力は、凄いと思うよ。俺が拾った時、あいつは今よりもう少しは小さかったはずなのに。そういう部分は、ほとんど完成されていたんだ。一体どういう目に遭ってきたのかと思うが、
俺にもそれは打ち明けてはくれなくてね。まあ、こんな国に蜥蜴として産まれたら、それも仕方がないのかも知れないが」
「この国では、リュウメイさんの様な種族はやはり忌み嫌われてしまう物なのですか?」
エイセイでは、その様な話があるとライシンも言っていたが、改めて興味を惹かれて、ガルジアは今度はそれについて問いかける。いずれにせよ、リュウメイとアオゾメの問題は、二人の物であって、自分の物ではないのだから。
ガルジアの質問に、アオゾメは頷く。
「このエイセイはな、元は、竜の国と言われていたのだよ。遠い。とても、遠い昔の話なのだがな。それを正確に知る者も、俺を除けば、もはやほとんど居ないだろうな。俺をここに縛り付けたのは、その竜の血を継ぐ王の一人だった。ただ、時が流れて。次第に竜の力が
弱まった。元々竜人は、とても稀有な存在であったからな。実際、その少なさに、蜥蜴などの。要はある程度近い部類と血を重ねる様な事もあったそうだが。それも、長くは続かなかった。そうして、鱗を持たぬ、被毛を持つ者が治める様になると。彼らはいつか
竜人や、それに類する輩が再びこの地に舞い戻り、権勢を振るう事を恐れる様になったのだ。古い言い伝えでは、いつか正統な竜が現れては、この国を率いてゆくと。その様な物もあったのでね」
「だから、その可能性の芽を摘むために、鱗を持つ方を露骨に排する様になったのですね、この国は」
「ああ。もっとも、それもほんとうに、最後の方だけだったが。元々が竜の国だからな。そんな風に触れを出したところで、それに頷く者も多くはなかっただろうが。そして、ほとんど衰退期に差し掛かった頃には、不老不死の研究と来たものだ。皮肉な物だな。竜には
任せてはおけぬと、入れ替わる様に被毛を持つ者が立ったはずであったというのに。結局はその者達こそが国を滅ぼしてしまったのだから。しかも、不老不死を夢見て、とは。竜人もまた、長命な種であるが故の、憧れだったのかも知れないな。今となっては、
何もかもがただ虚しい夢の残滓に過ぎぬのだが。まあ、そんな訳で。俺にはあまり話をしてくれる事はないが、リュウメイの境遇という物も、中々に大変だった様だな」
「そうだったのですか」
リュウメイの過去を、知る事ができた。それは、嬉しさよりも、悲しみを伴う物で。しかし同時に、ガルジアは酷く納得してしまっている自分が居る事にも、気づいたのだった。あれ程までに、冷静であり、冷酷でもあるあの男は、一体どの様な育ちの果てに、そうなって
しまったのかと。そう、疑問に思う事も多かったのだが。確かにその生い立ちを考えれば、その様に達観をしていても、また己の求める物をこそ第一とする様なところがあっても、少しも不思議ではないのかも知れなかった。
それは、あまりにも身勝手に過ぎるという事を、ガルジアはよくよくわかってはいたけれども。しかし修道院で幼少期の頃から、何もかもを投げ打って過ごしてきたガルジアにとっては。やはりどうしようもない羨望を抱く物でもあったのだった。
「なんだ」
突然、アオゾメがそんな事を言うから、ガルジアは何かと思ったが。また、あの白狼がアオゾメの手の辺りに鼻先を近づけていて。まるで、何か忘れているのではないかと、アオゾメに伝えているかの様だった。
「ああ、そうだったな。ガルジアよ。すまないが、一つ頼まれてはくれないか」
「頼み事、ですか? 私でできる事なら、構いませんが」
「何、それ程難しい事ではない。もし。もし、俺がこの後、死んでしまう様な事があるのならば。こいつを、エイセイの外にまで、連れていってはくれないだろうか。俺が居なくなると、こいつは一人ぼっちになってしまうし、そうなると、飢えて狂ってしまうかも知れないしな」
「それは、構いませんが。今更ですが、この狼さんはどうしてここに?」
「それはな」
そこで、一度言葉が切られて。しばしアオゾメが迷った様に片手で己の顎に触れる。
「ふむ。あまり言っては、怖がらせてしまうやもと思ったが。しかし託す以上は、何も言わぬというのも、よろしくはないのかな。お前、どう思う」
アオゾメが、白狼に問いかける。白狼は肯定をするかの様に、瞳を合わせるだけだった。
「良いか。そうか。実はな、こいつも俺と同じ。いや、俺はまだ完全とは言えないので、俺よりも先輩なのかな。要は、こいつもまた不老不死なのだよ」
「えっ」
「ただ、こいつは俺とは違って、魔物だ。魔力をその身に宿す、稀有な魔物という奴だな。不老不死を求める仮定で、他の奴らが散々にいじくりまわして、結局は上手くゆかずに。ほとんど瀕死の状態で俺の方に回されてきた。こいつは、そんな奴なのさ」
「そんな。では、この狼さんを不老不死にしたのは」
「他でもない、俺だな。こいつ、もう死ぬ寸前なのに、あんまりにも意志が強いもんで。なんというかそう、あれだ。リュウメイに似ててな。つい、あいつを拾った時の事を思い出してしまってなぁ。思えば俺、ライシンやら何やら、拾ってばかりいるな」
アオゾメが、踏ん反り返ってわはははと笑う。そうしていると、白狼は機嫌を損ねたのか、アオゾメの尻尾に噛みつく。
「あいた。お前、いつもそうだが、命の恩人である俺に対してもう少しは敬おうという気はないのか。ライシンなんぞはもう俺に触れる事すら恐れ多いと言わんばかりだというのに。まあ、あそこまでされると、それはそれで俺も反応に困るが」
「でも、どうしてこの狼さんまで不老不死に」
「言っただろう。死なせるには、惜しくてな。それから、俺はその時、エイセイの高官達との対決を見据えて、己の身体をもある程度は作り替える必要があった訳だ。言い方は悪いが、いきなり自身で何もかもを行って、己を不老不死に近づけるなんて事は、流石の俺でも
躊躇いがある。上手くいかなかったら、あいつらを叩き潰す前に俺が死んでしまう訳だからな。そのための、実験の意味合いもあった。結果は御覧の通りだが。俺が努力を惜しまなかった事と、こいつの意志と生命力の強さ故なのだろうな。動物とは違い、魔力を有し、
我々とは違い、迸る様な生命力を持っている。その賜物だろう。おかげで俺は不老不死の一歩手前、なんぞという大層都合の良い状態に己をいじくり回す事もできた訳だが。尊い犠牲という奴だな。痛いっ。やめろっ。その点については前に散々謝ってやっただろう」
また、白狼がアオゾメを攻撃しはじめたので、ガルジアは苦笑してしまう。なんというか、不老不死で繋がっている、よくわからない仲の様だが。この一人と一匹は、仲が良い様だった。
「ガルジア。こいつに、触れてみるといい。少しは、知ってもいいだろう。こいつの事をな」
促されて、ガルジアはおずおずと白狼へと近づく。また唸ったりはしないかと、心配したが。白狼は大人しいまま、今は何もしようとはしていなかった。それを見て、何故白狼が唸っていたのかを、ガルジアはなんとなく察する事ができた。アオゾメを害する様な者が
近づいた時だけ、この白狼は怒りを露わにして。そうして、アオゾメを守ろうとしているのだった。そう思えば、いくらか不安も和らぐ。
「この狼さんは、魔物なんですよね」
「ああ」
「なんだか、意外ですね。魔物っていうと、もっと凶暴で。だから、もし出会ってしまったら、戦うしかない相手だと、ずっとそう思っていたのですが」
「大抵は、そうだろう。だがこいつは、魔力を宿す程の者だからな。相応の知性と理性と、そうして自我とを。しっかりと持っている。まあ、そうでなかったら俺も助けられなかっただろうが」
少し屈んでから、ガルジアはそっと手を差しだしてみる。上から触ろうとするのは、怖いだろうかとか。そんな事を思って。この白狼に限って、その様な事を恐れたりしないのは、わかっているのだが。頬の辺りに触れて、それからゆっくりと頭頂部へと
掌を動かして。そして、被毛にしっかりと触れて、被毛の先に指先が触れた事で、ガルジアはある事に気づいて、思わず身体を震わせる。
「これは」
「少し、硬いだろう。人形の様に。それから、でこぼことしてもいる。これは、こいつの身体が継ぎ接ぎの肉体である事の証明だ。死にかけていたからな。そもそも身体が、五体満足という状態でもなかった。見るに堪えないくらいで、仕方ないから俺が適当に
他の魔物の肉体から、使えそうなところを見繕ってはくっつけて、それでも肉の塊でしかないから、皮膚と被毛なども足してやったのさ。今ではすっかり定着して、一見して綺麗な白狼といったところだが。それでも肉体は少しちぐはぐしていてな。くっつける時に、
もう少し融通を利かせてやれたら良かったのだが、時間も材料も無かったから、そこは許してほしいところなのだが」
「そ、そうですか」
聞いていて、大分気分の悪くなる事を言われてガルジアは顔を顰めたが、それでも目の前に居る白狼に対して、嫌悪感が芽生えたという訳ではなかった。寧ろ、同情心すら芽生えてもいたのだった。勝手な都合で連れてこられては、その様な目にあって
いるのだから。例え魔物といえども、その白狼を取り上げてどうしようとは、ガルジアには考える事ができなかった。白狼は、そんなガルジアの考えを見透かしているのか。今は目を細めて、大人しくガルジアに撫でられている。被毛の感触こそふわふわとしているが、
やはりその先に詰まっている肉の硬さは、自然の動物の物とは異なっていた。なんとなくそれで、ガルジアはクロムの事を思い出す。クロムも、一見して普通の鬣犬の様だが、触れる事でその体温の低さがわかる。それと、同じだった。この白狼は、まるで既に
死して硬直の始まった動物に触れている様な錯覚を思い起こさせるのだった。とはいえ、本当にその身体が硬くなっている訳ではない事は、その優雅な動きで充分に理解できるのだが。
「実際、こいつは凄い奴だよ。これで、戦いともなればかなり強い。俺一人で全てを成すはずだったのだが、心強い味方となってくれてな。大抵の物は一瞬にして噛み砕くし、爪も鋭利で鉄板くらいなら切り裂いてしまう。それから、魔力を持っているからな。吠えれば、
それはそれで魔導の作用を引き起こす。これで言葉を話す事ができないというのだから、一層不思議な物だ。喉は人の物にしてやるべきだったかな。拒絶反応が出ると、こいつの命が持たないかも知れないから、魔物の肉のみで作るしかなかったが。何よりも、
こんなに酷い目に遭って、我々の事など、到底信じられぬだろうに。俺の手伝いをしては、今はこうして黙って撫でられてもいる。お前、本当は嫌じゃないのか。お前を不老不死なんぞにしてしまった俺の事を、憎んでいるんじゃないのか」
途中から、アオゾメはガルジアではなく、白狼に語り掛ける様に。それだけではなく、その場に座り込むと、身体の大きい白狼を抱き締めては、語り掛けていた。そうすると、白狼は頭を僅かに振ってガルジアの手を追い払ってから、あれ程アオゾメの事をぞんざいに
扱っていたというのに、今はアオゾメの抱擁を受け止めては、首を伸ばしてアオゾメの腕や頬を舌で舐めては、そんな事はないのだと言いたげな返答をしていた。
「お名前は、なんていうのですか」
「名前か」
その関係に、ちょっと目頭が熱くなりながらも。ガルジアは気になった事を訊ねてみる。それを聞いたアオゾメが、虚を突かれたかの様に目を丸くする。
「そういえば、付けていなかったな。いや、忘れていたというか。こいつを作った時、俺は決戦に臨む時であったし。付けても仕方がないなとか、そんな事を思っていたのは確かなんだが……。それに、こいつが傍に居てからは、こいつ以外、俺の傍には誰も
居ないもんだから、おいとか、お前とか、こいつとか。それで済んでしまっていたしな。また、こいつは俺の名を呼ぶ訳ではないから、余計にな。そうか、名前か……どうしようかな。付けてやった方が、良いのだろうか」
「その方がよろしいのでは」
「ううむ。……そうだな。ガルジア、すまんがこいつの名前を、考えておいてくれないか」
「私がですか?」
「もう離れてしまう俺が付けるよりかは、良いだろう? こいつには、随分頼ってしまったし。俺の事など、忘れてくれて良いのだが。もし俺が死んだら、こいつを外に連れてゆく時に、ついでに名付けてやってくれないか。ああ、それから。こいつの事は、エイセイの
外までで良いんだ。結局こいつは魔物で、だからお前達と一緒に行く様な事は難しいであろうしな。また、こいつも今は俺の魔力を食わせてやっているから良いが、外に出たら少しは食う物にも変化が訪れて、そういう意味でもお前達と一緒には居られないかも
知れないし。こればっかりは、実際にその時になってみなければ、わからないのだが」
「はあ。名前、ですか。自信はありませんが、アオゾメさんがそう言うのなら」
「頼むぞ。まあ、もし何かしらあって、俺がまだしぶとく生きている様ならば。その時は、俺から名前をくれてやろう。今まで散々お前の事を、名前なんぞ付けずに呼んできたせいで。いざ名前を付けたら、俺の方が落ち着かなくなってしまいそうなのだがな」
ゆっくりと離れたアオゾメが、白狼を撫でつける。そうすると、白狼は控えめに尻尾を振っていて。また、アオゾメも。どちらかと言えば無表情であったり、或いは魔導に対する興味を示すばかりだが、今それらは鳴りを潜めて、優し気な表情を垣間見せていた。
「俺からの話は、以上だ。ガルジア。すまなかったな、こんな夜更けに起こしてしまって」
「アオゾメさんが、起こしてくださったのでしたか」
「無論だ。お前は大層疲れていたのだから、本来ならば泥の様に眠りに落ちていて当然のところだろうし、それにリュウメイとライシンが、まったく動かなかっただろう? 今気が張っているあいつらが、お前が一人出てゆこうとしたのならば。それを黙っていると
思うのか。逆に、あいつらにはとびきり寝付きがよくなる魔法を掛けてやったのさ。リュウメイには、良い薬だろう」
「それも、そうですね。リュウメイさんは、終わり滝の一件から傷ばかりを負っていて。たまに、心配なんです。あの人は、とても強いのは、わかっているのですけれど。それでも、生身である事には、違いないのに。なんだか、クロムさんや、アオゾメさんよりもずっと、
あの人の方が、本当は決して死なない様に思えてしまって。そんなはずがないのは、わかりきっているのに」
「そうだな。お前がその様に思う事も、わからぬでもない。あいつは子供の頃……と言っても、俺が拾った時にはもう本当に子供子供した時機というのは抜けきっていたが。まあ、俺の目から見ても。あいつは歳相応の物を他人には見せない様な奴だった
からな。逆に今、久しぶりに会ったあいつが、多少は人がましく振る舞っているのを見て、寧ろ安心したよ。我儘を言ったりしているのならば、その方がずっと良いからな」
「そうだったのですか」
大人しいリュウメイ、というのはあまり想像できないでいたが。確かに今回の件では、その様なリュウメイの姿を見る様になったとは思う。或いは以前も、クロムの正体を知った時などは、リュウメイはからかう様子を見せずに、ただクロムをねめつけていたが。
アオゾメが言うには、そちらのリュウメイの方が、馴染深いというのだから、わからないものだった。ガルジアには、ふざけてばかりいる様で、見ているところは見ている様な男の印象が強かった。
話は、そこまでだった。アオゾメに別れを告げると、帰路もまた白狼が先導をしてくれたので、ガルジアは迷う事もなく、アオゾメの家へと戻ってくる事ができた。ガルジアを無事に送り届けると、白狼はまた飛び込む様に草むらへと消えてしまったので、恐らくは
アオゾメの下へと戻ったのだろう。アオゾメ自身も、特に家に戻るつもりはなく、また草の上で眠っているのだろうか。そんな事を考えながら、部屋へと戻ると、出た時と変わらずにリュウメイ達は眠っていて。どうやら、アオゾメの魔導という物は本物の様だと察する。
そしてまた、ガルジアも。ベッドに戻り、再び横になると。先程までの目が醒めた状態が、魔導による仮初の物でしかなかった証明であるかの様に、あっという間に睡魔に呑み込まれては、眠りに落ちていったのだった。
アオゾメの領域というのは、アオゾメの預かる魔道士の塔に限られている様であった。
ただ、それとは別に。エイセイの城全体を、魔道士であるアオゾメがそこに居るからか、淡い力が覆っているらしく。それが、空から降り注ぐ雪を防いでは、黒い城を黒のままに保っているらしい。そうして、その根城とされている魔道士の塔となれば、これはもはや外の
肌寒さなども寄せ付けず、常に快適な状態が保たれている様だった。
「三人とも、揃っているな」
よく食べ、よく眠り。存分に疲れた身体を癒した後に、アオゾメはそこに集まった者の顔を。リュウメイ、ガルジア、ライシンをそれぞれに見渡してから、いよいよ事を始めると。その様に告げたのだった。
アオゾメの案内を受け、この塔の中に突如として現れた自然の溢れる階層を後にしては、ここに来た時と同様にガルジアはまた階段を上る。今度は、それ程の時間が掛かる訳ではなかった。名残惜しく離れた、あの自然溢れる階の高さの分だけ階段を上れば、もう
それ以上はないのか、淡い光と共に、不意に階段は途切れて。僅かな物置としての広さを持った小部屋にある扉を開けば。そこには、曇天の空と、そうしてこの魔道士の塔よりも更に背の高い、いくつかの城の尖塔が視界に広がる。
「ここは……」
急に戻ってきた寒さに、ガルジアは身を震わせる。外に出たのならば、流石にアオゾメの魔導の領域からは外れる様だった。
ガルジア達が辿り着いたのは、魔道士の塔の、頂上だった。殺風景な物を想像していたガルジアだが、それは裏切られて。一角には、東屋の様な物があり。そうしてそれ以外は目だった物がなく、広がってはいたものの、一ヵ所だけ、道が伸びて。それは、この
魔道士の塔から、真横に向かって伸ばされた、別の場所へと続く道の様だった。そちらを見遣れば、それはこの増設された魔道士の塔から、元のエイセイの城へと繋がる道の様で。その先には、魔道士の塔よりも更に背の高い城の姿が臨む事ができる。
「あちらにも、道が続いているのですね」
「まあ、ここまで背の高い塔だと、上りなおすのも面倒でな。昔はよく、ここを俺は歩いていた物だ。面倒な話の後に、そのまま帰れる様に、無理を言って造らせたものだ」
昔話に、アオゾメは僅かに表情を和ませてはいたが。それもすぐに止む。そのまま、つかつかと中央まで歩くと、振り返り。そして、赤髪の男を、リュウメイを見つめる。
「リュウメイ」
アオゾメが、まっすぐにリュウメイを見ている。リュウメイが、どうしているのか。後方で見守っているガルジアには、わからなかった。ライシンも、同じだった。今、ライシンはガルジアの隣で、なんとも言えない表情のまま、ただ二人の行く末を見守っている。既に、
これからの事は全てリュウメイと、そしてアオゾメ二人だけの物であって。そうしてガルジアとライシンの二人というのは、ただの傍観者にしか過ぎぬのだった。ガルジアは、息を呑む。
「リュウメイ。……よく、ここまで来てくれた。お前の成長を、俺は喜ばしく思う。息子を。家族を持つ、というのは、この様な気持ちを指すのだろうか? 俺は、魔導にばかり感けていた事もあって、妻帯をしたり、或いは友人に恵まれては、日々を笑みで彩る様な事も
できはしなかったが。それでも、お前を拾って、お前に様々な事を教えていた間くらいは。少しは人がましくなれたのではないかと、そう、思っているよ」
「そう思っている癖に。お前はこれから、俺に。お前自身を、殺させようとする訳か。ご立派な親もあったもんだな」
「お前の言う事、もっともだな。だがこれも、俺と。そうしてお前の、結びつきの結果にしか過ぎない」
不意に、アオゾメが軽く宙に右手を。そうすると、虚空に突然光が溢れて、一度弾け飛ぶ様に光が散った。僅かに視界を奪われた後に、どうにかそちらを見遣れば。既に光は止んでいて、そしてアオゾメの手には、一振りの剣が握られていた。
「代わりに、少しはお前を楽しませてやろう。お前はこういう事には、目が無いからな。それならば、良いだろう?」
「よくわかってるじゃねぇか」
「当たり前だ、短い間であっても、育ての親なのだからな。ああ、だが。剣を持つのは、久しぶりだ。まあ、そんな必要が、俺にはあまり無かったからなのだが」
風が吹いた。それはリュウメイの赤髪を宙に舞わせてはいたが、それと同じ様に、アオゾメの髪も待っていた。リュウメイ程は、長くはないが。アオゾメの紫紺の髪も、また見事な物だった。服装も、改めたのか。今のアオゾメは黒い胴着の上に、真白な上着を
羽織って。それには、今のガルジアならばわかる、エイセイの印が施されていた。位の高い者が、身に着ける物なのかも知れないとガルジアは思う。
「名前か。そうだな、大切だな」
「なんの話だ」
「ガルジアと話をしていて、少しな。……そう、そうだ。お前に付けた、その名も同じ。俺はお前を守ろうとしながら、しかしお前自身には、この国の馬鹿どもが恐れる名をつけてしまったなと、そう、思ってな。いずれ、竜が帰る時が来る。竜の命が下る時が来ると」
「悪いが、俺は竜人じゃねぇ」
「そうか。そうだったな。それでも俺は、今がその時だと思っているよ。もう、国は滅んでしまったけれど。託された国を、俺は守る代わりに、己で手折ってしまったけれど。それでも俺は、ここに残り続けて。お前が来る事を、待ち続けていたから」
軽い仕草で、アオゾメが大地を蹴る。たったそれだけで、しかし次には驚くべき程の速さで、アオゾメはリュウメイに接近しては、無造作に虚空から取り出した剣を叩きつける。リュウメイは、それを受けた。魔剣ではなく、元々持っていた、リュウメイの剣で。
「リュウメイ。お前は、事の趣旨を、理解していないのか。俺が望んだ結果は、お前にくれてやった、そんな鈍らで成される事では、決してないというのに」
「すぐに決着がついたら、つまらねぇじゃねぇか。少しは、楽しめよ」
「そうか。お前は、そう返すのか」
言葉は、そこまでだった。そうして、熾烈な剣の戦いが幕を開ける。アオゾメは、ガルジアが思っていたよりも、ずっと恐ろしい剣の使い手だった。リュウメイ程の剣の腕前を持っているのならば、アオゾメとの勝負などはそれ程の時を必要とせずに終わるのでは
ないかと、そう思っていたのだが。それは、あまりにも自惚れた考えである事を、思い知る。
「あんなに、強かったんですね。アオゾメさんは」
「そうじゃねえっすよ」
思わず呟いた言葉に、隣に居たライシンがぽつりと呟く。はっとなって、ガルジアはそちらを見遣ると、ライシンは二人から目を離す事なく、それでもぽつり、ぽつりと言葉を零す。
「アオゾメ様のあれは、俺と同じ。本来のアオゾメ様の身体じゃ、あんな事はできるもんじゃない。あんな身体になっちまったからこそ、俺よりも更に乱暴に。自分で自分の身体を、魔力によって操っているに過ぎねぇんだから。……アオゾメ様。本当に、不老不死に
なっちまったんだなぁ」
少しだけ俯いたライシンの瞳に、涙が浮かぶ。それで、ガルジアはライシンが、アオゾメを本当は助けたかった事。そうして、自分には何もできなかった事を悔やんでいるのだと知る。
剣のぶつかり合いは、苛烈さを増してゆく様だった。確かにライシンの言う通り、アオゾメには、もはや人がましい動きという物すら、徐々に無くなりつつある。どれ程に無茶な体勢をしようが、アオゾメの攻撃が止まる事はなかったし、またリュウメイの返しを
受け止め損ねる様な事もなかったのである。それどころか、軽く跳躍した際などには、明らかに宙で方向転換をすらしている。まるで、見えない糸を張り巡らせて、その糸は、アオゾメを僅かに絡めると同時に解放しては、アオゾメが縦横無尽に跳梁する事を助けている
かの様だった。リュウメイと切り結び、リュウメイの圧倒的な技術と膂力で跳ね返され様が、アオゾメの身体が仰け反ったり、体勢を崩すという事はありえない。その上で、少しでもリュウメイが己の腕に籠める力を見誤り、隙を作ろう物ならば、その時こそアオゾメは
全神経と魔力の糸とを集中させて、そこへ飛び込んだだろう。現に、先程からそれに近い事が成されては、際どいところでリュウメイはその突撃を往なしていた。勝手が違う、という事がリュウメイにとっても、中々に攻めあぐねる結果に繋がっているのだろう。
或いは、躊躇っているのか。魔剣を使わぬ、という事は。その証左とも取れる。ガルジアは、そう思った。それから、そうあってほしいと、思った。
不意に、鈍くぶつかり合う音の後に、澄んだ、物の壊れる音が響き渡る。傍観している二人が、はっとなる。リュウメイの、握っていた剣の白い刀身が、砕けた。懐に飛び込んだアオゾメの一撃は、それ程までに鋭い物だったのか。或いは、アオゾメの手妻に
よる物なのか。それはわからなかったが、確かにアオゾメの一撃を受けたリュウメイの剣ははっきりと音を立てて、その途中から折れてしまったのだった。
「リュウメイさん」
ガルジアが、思わず名前を呼ぶ。リュウメイの剣を破壊したアオゾメは、そのままなんの躊躇いもなく。それこそ、リュウメイにそのつもりが無いというのならば、己がリュウメイを狩ろうとするかの様に、まったく勢いを衰えさせずにリュウメイに迫る。
しかし、勝負が続いたのは、そこまでだった。目を見開いたリュウメイは、ぱっと己の握っていた剣を手放すと同時に、未だ収めたままの魔剣を驚くべき速さで抜き放つ。黒い光が、鈍く輝いた。それは我が身を晒す事ができた喜ぶに、打ち震えているかの様に。そして、
我が身が振るわれるべき相手が目の前に居る事を、まるで知ったかの様に。グレンヴォールで見せたその禍々しい姿を、再びガルジア達の目に晒した。ただ、リュウメイはそれに呑まれたとも言えぬ。ルカンの様に、狂った様子を見せる事はなかった。
勝負が決まったのは一瞬だった。懐に飛び込んだままのアオゾメが、ようやくリュウメイが見せたその切り札に口角を吊り上げて、剣を振り上げたところへ、リュウメイはそれを受け止めて。そして、今までと同じ様に、その膂力でアオゾメを突き放しては、
アオゾメもまた、跳躍しようとした。しかしそれは、実行には移す事ができずに、それどころかアオゾメの身体ががくりと体勢を崩す。そのための力を、アオゾメは損なっていた。アオゾメに、限界が来た訳ではない。リュウメイの、その魔剣が。瞬時にしてアオゾメが動く
ために割いていた力を、食いつくしたのだった。
数歩、足を踏み出したリュウメイが、無造作に魔剣を払った。その剣先は狙いを過たずに、紫紺の被毛に覆われた、狼人の身体を捉えて、そうして、夥しい血を。突風に散らされた花の様に、四散させた。アオゾメが呻き声を上げ、頽れる。その手から零れ落ちた、
アオゾメの剣が、光の粒子となって。雪の様に。今までこの城の、ずっと高いところで消えていた雪が。ようやく城へ、辿り着いたかの様に。床に降っては、消えていった。
地に倒れたアオゾメの身体から、静かに血だまりが広がってゆく。広がって、広がっては。地を染めてゆく。
「アオゾメさん」
ガルジアは、駆け出していた。胸が、痛いくらいに鳴っている。ライシンも、同じ様に飛び出していた。
倒れたままのアオゾメを前に、リュウメイだけが、ただ立ち尽くしては。剣にこびり付いた血を払う事もせずに。アオゾメの事を、静かに見下ろしていた。
「これで良い。リュウメイ」
何度か、荒く息を吐いた後に。アオゾメは、ようやく言葉を口にする。それから、近づいて、その傍で屈んだガルジアに向けて、手を出すと。その動きを制した。
「何もしてくれるな」
「ですが」
「お前は、それを見守ると言ったではないか。今更。それを、違えるというのか」
「アオゾメさんは、それで良いのですか。これで、本当に良いと。リュウメイさんも」
「良いのだよ、これで。心残り、というか。申し訳ないなと思うのは。こんな、損な役回りを、リュウメイにさせてしまった事だが。しかし俺には、他に伝手もなかった。リュウメイだけだった。これで俺も、我が身に残る、無様な奴らの言いなりにならないで済む。最近は、
それが酷くてな。そのせいで、眠る事が多くなっていた。意識を保ったまま、それに抗するのが、そろそろ如何な俺であろうとも、堪える様になってきた。だから、これで。良かったのだ。全ては」
「アオゾメ様」
ガルジアとは、反対側でアオゾメの傍に駆けよったライシンは、そのままその場で泣き崩れていた。涙が、次から次へと流れては、被毛から離れて、血の海へと消えてゆく。
「申し訳ございません。俺は、なんにもできなくて。なんにもできないまま、こんな事になってしまって」
「何を言う。お前が居てくれたから、俺はこうして、リュウメイを呼び寄せようとも思ったのだ。そんな顔を、してくれるな。或いはお前は、それを。己のせいで俺を死なせたと、そう思うのやも知れないが。しかし俺は、感謝をしているぞ。俺は、俺のままに、死ぬる事が
できるのだから」
いつの間にか、ガルジアも自分の視界が滲んでいる事に気づいた。何もできない事を、ライシンが悔やんでいるからだろうか。もっと、別の道は無かったのかと。今更、己に問いかけては、責めている。こんな結果が、欲しかったのか。こんな事にならぬ様に、
リュウメイと共に行こうと。そう、思っていたのではないのか。
しかし自分がいくらそう決めたところで、リュウメイが止まらぬ時は、決して止まらぬ事も、ガルジアはまたよく知っていたのだった。
「これで良いのだよ。リュウメイ」
また、アオゾメがその言葉を放った。
足音が聞こえた。獣の足音、獣の息遣い。それが、背後から。そちらへ目を向けるよりも先に、それはもっと、ずっと早く。こちらへと来ていた。白狼だった。ガルジア達を、押し退けるかの様に。それはアオゾメの下へと向かっては、その頭の横に、ちょこんと、
大きな身体を座らせて。そうして、寂し気な声を上げながら、アオゾメを見下ろしていた。
「お前か。……すまないな。やはり、俺から、お前に名をくれてやる事は、できそうにない。俺がもし、名前を付けていたら。お前は、気に入ってくれたかな。いつもの様に、素っ気ない態度をしか、見せてはくれなかったかも知れないが」
そう言って、アオゾメは静かに手を上げて。しかし血に塗れた己の手と、白狼の美しい被毛を僅かに見比べてから、白狼を汚す事を躊躇うかの様に、手を下ろそうとして。
しかし白狼はそれを肯ずる事はなく、首を伸ばし、顔を突き出し、鼻先を下げては、下ろしかけていたアオゾメの手を受け止めて、催促を。アオゾメは、諦めた様に笑ってから、白狼の頭を撫でてやる。べったりと、赤い血が、白狼の被毛にこびり付いた。それでも、
白狼は小さな声で鳴きながら。鳴きながら、尻尾を揺らしていた。
「お前、口が利けたら良かったな。お前がどんな風に喋るのか。俺はちょっと、気になっていた。……まあ、いいか、それも。お前は口が利けなくとも、それよりもずっと雄弁に、お前自身の行動で。いつも俺に、応えてくれた。お前が居てくれたから、俺は戦いに、
勝つ事もできた。そんなお前を、遺してしまう俺の身勝手を、どうか許してくれ。それから、お前は。こんな所まで、連れてこられてしまったけれども。不老不死に、なってしまったけれども。それでも、お前の生きたい様に生きる事が、今からでも、きっとできるはずだ」
白狼を撫でていた、アオゾメの手が、ゆっくりと離れる。それから、アオゾメがまた笑った。
「存外、悪くないな。この肉体も。傷の割に、言いたい事は全て言う事ができた。……ライシンよ」
「はい」
「ここを出る時に、必要な物は全て使って良い。もう、要らんからな。それから、長居はするな。俺の力が途絶えたんだ。この城も、少しずつ朽ちてゆく。俺の空間も、無事では済まぬ。しっかりと、支度を済ませて。そうして、生きろ」
「はい……」
「……困ったな。意外と息が長く続いているな」
その頃になって、ようやくリュウメイが、静かにその場に座り込もうとする。
その時だった。足音が再び聞こえる。しかしそれは、人の。それも、複数人による物であって、その場に居る、誰の物でもないという事に、すぐにガルジア達は気づいた。アオゾメと、それからいまだにアオゾメの事を黙って見つめている白狼以外が、さっと
顔を上げる。
そこに、立っている者が居た。ローブに身を包んだ大柄な人物と、それを従える、一人の、赤い鱗を持った竜。それが、この塔の頂上にある、橋の方から、この時を待っていたと言わんばかりに、歩み寄ってきたのだった。
「決着は、ついたみたいだな」
竜の男は、アオゾメを静かに見下ろして。短く、そう言い放った。
冷たい風が、吹いてゆく。
魔道士の塔の頂上には、それが最初から吹いている様に思えたが。今はアオゾメの影響が、徐々に失われつつあるからか。その寒さが、先程よりも厳しい物に感じられた。
そんな中で、ガルジアは赤い鱗を持つ、竜人を見つめていた。少し小柄と言っても良いその男は、今はただ静かに、目を閉じているアオゾメを見つめていた。
「なんだ。結局、死んじまったのか、アオゾメさんは。できれば、俺に力を貸してほしかったんだが。あんたみたいな、強くて、なんでも知っている様な。世間様からすれば、賢者と言われる様な人の力が、俺は欲しかったのに。……まあ、いいか。その代りに、必要な
奴は残っているみたいだし」
「なんなんだ、お前」
竜の独白に、怒気を孕んだ声が突き刺さる。ガルジアは、身を震わせて、慌ててそちらを。目を見開いたライシンが、怒りの表情を隠しもせずに、竜人を見つめていた。
「ここはてめぇらが足を踏み込んで良い様な場所じゃねぇ。とっとと消えろ」
「怖い事言うなよ。それに、悪いけど。お前には、用事が無い。お前だけは、半端者で。だから俺には、どうだっていい訳だし」
ライシンが、吠える。そして、無造作に拳を大地に叩きつけると、そこから塔の地面が変化し、幾重もの棘となって竜人の下へと。しかしそれはあと一歩というところで、竜人が一睨みをしただけで止まってしまう。
「なんだよ。この程度か。所詮、帯魔布を使わないとてめぇで使う力も供給できない癖に。俺に手なんか出すのが間違いなんだよな。実力もわからねぇ奴は、嫌だ嫌だ」
その言葉を、ライシンは聞いていなかった。ライシンも、自力だけで目の前の竜人が排除できるなどとは、思ってはいなかったのか。次には素早く懐から帯魔布を取り出しては、腕に巻き付けて。両の掌に、凄まじいまでの力の籠った光を灯していた。それは確かに、
先程の力よりもずっと強大な物で。この直撃を受けたのならば、肉体なんぞは簡単に消し飛んでしまう程だろうと。魔導には疎いガルジアでも、すぐにわかる程の物を繰り出そうとしていた。
しかし、それが不意に弾け飛ぶ。魔導を行使している、ライシンの意思さえ無視して。
「えっ……?」
今まさに、その力を解放しようとしていたライシンが、意外な程に幼い声を、思わず出してしまう。ガルジアは、何が起こったのかわからずに、それを見ている事しかできなかった。ライシンが信じられない物を見る様な目で、視線を送っているのに気づいて、そちらを
見遣れば。竜人の後ろに控えていた大柄な、ローブで顔までをすっぽりと覆っていた男が、静かに片腕をライシンの方へと向けていた。何をしたのか、ガルジアにはわからなかったが。どうやら、今のライシンの詠唱が不発に終わったのは、その男の力で
あるらしかった。
「そんな」
「大きな隙は、命取り。そう、君には教えたはずですがね。……まあ。それだからと言って、この展開を君が予想していた訳ではないし、私もまた、少し意外に思った物なのですが」
ライシンの掌から散った光が、集まってゆく。ライシンの下に、ではなく。その男の、白い掌の上に。そして、その光を男が握り潰すと。ライシンが放とうとしていた力の強さを物語るかの様に、魔力の風が吹き荒れる。その風は、男のローブをはためかせ、やがては
フードを跳ね上げる。男の、顔が見えた。白熊の、男だった。柔和な表情は、風を一頻り浴びてから、その内に目が開くと。先程までの様子はどこかへと行って、厳格な表情を形作る。
「ベリラス先生。どうして」
「お久しぶりです、ライシン君。なんて言う程の、長い別れでもなかったけれど。まさか、君もここに。この呪われて、人々から見捨てられた地に来ているとは、意外でした。如何に終わり滝での事があって、そうしてその時の仲間が居るからと言って、君はとても、
悩んでいた様ですから。彼の。ここに居る、アキノの失言を、代わりに私が詫びましょう。あなたにとって、そこのアオゾメ殿は、とても大切な方だったのですね。天涯孤独だった君の事を鑑みれば、その方だけは、君の唯一の理解者であると言っても、良かったの
でしょうから」
「そんな事訊いてねぇ! どうして。どうして先生が、ここに」
「どうして、ですか。そうですね」
そこで一度、ベリラスという名を持つ白熊は言葉を切ると。とても、辛そうな。寂しそうな表情を見せた。
「結局は私も、道から外れた身に過ぎぬが故でしょうか。……そういう意味では、やはり君は、ここにはふさわしくないですね、ライシン君。君なら、いつだって引き返せるのですから。さあ、そこを退いてください。私も、今は君に用事がある訳ではありませんから」
「そうそう。俺達が用事があるのは、そこのガルジアさんと。それから……アオゾメさんにも、できれば協力を仰ぎたかったけれど。まあ、仕方ないね。その死に方を、アオゾメさんが選んだのなら。俺はそこまで狭量じゃない。ちゃんと、尊重するさ」
ゆっくりと、竜人がこちらへ歩いてくる。ガルジアは思わず、身を震わせて。その竜人の仕草や、瞳には。何かなしただ者ではないと感じられる様子があって、それに触れられては、もっと何か、嫌な事が起こるのではないかと。そんな予感を覚えたのだった。
「そんなに怖がらないで。……ああ。自己紹介がまだだった。これは失礼。俺はアキノ。見ての通り、竜人で。それから、そう。魔人だ」
「魔人……?」
「意味は知ってるでしょ? 本来の寿命から、逸脱した者。だから俺は、今ここに来て。そうして、ガルジアさん。君に、話がある訳だけど。どうかな? そっちにとっても、そんなに悪い話じゃあないよ。というより、君にとっては必要な」
「てめぇら、何しに来たんだ」
不意に、アキノの言葉を遮る様に、静かな声が。それにガルジアは耳を震わせる。今まで黙ったままだった、リュウメイの声。深く沈んでは、感情を表さぬその声に、振り返る。リュウメイは、無表情のまま、アキノだけを見つめていた。それを見て、アキノはにぃっと
笑みを浮かべる。
「リュウメイ、か。実際、ご大層な名前を、アオゾメさんは付けたもんだね。竜人ですらない癖にさ。そんなに竜を望むのなら、俺がここに居るのに。俺が声を掛けても、少しも良い顔なんてしてくれなかった。俺と同じ。いや、俺よりも、何歩も前に出ていた癖にね」
リュウメイが、静かに立ち上がった。黒く、そして赤く染まった剣を、構える。そうすると、アキノが目を細める。
「凄いな。泣いてもいない。そんな風に生きてきたから、そうやって今、平気な顔をしていられるのかな。まあ、君のそういう所を責める事ができる程、俺自身が良い奴な訳じゃないけれど。でも、生憎だけど。俺は君にも、用事はない。黙ってガルジアさんだけ、
俺にくれないかな」
リュウメイは、何も言わぬ。しかしアキノに易々とガルジアを渡すつもりがない事だけは、それでわかった。そしてライシンもまた、今はベリラスとの対峙に。短い会話のやり取りの中で、ガルジアが理解できたのは、二人が旧知であるという事だけだったが。それでも
ライシンは、己の立場を変える気はないのか。静かに帯魔布を揺らしては、今度はベリラスに妙な真似をされぬ様に、充分な注意を払って魔力を編み込もうとしていた。
「良いね。言葉は要らないって、そういう奴。俺は結構、好きだよ」
「あなたはよくよく喋る方ですからね。少しは見倣った方が、よろしいのでは」
「酷いよ、ベリラス。そういう事、俺に言うなんて。俺はこうなの。それで良いだろう?」
ライシンの様に構える訳でもなく、暢気そうに己の掌を見つめているベリラスが、アキノへと言葉を向ける。アキノはその言葉に対して傷ついた様子も見せずに、軽い返しを。まるで、この場の緊張感などなんとも思わぬ様な会話が始まる。
「それで。このまま、戦うおつもりですか」
「どう思う?」
「アオゾメ殿の前では、あまり乗り気にはなれませんね。それを抜きだと、そうですねぇ。ライシン君も居りますからねぇ」
「なんだよ。ここまで来て、昔の教え子が居たから覚悟が鈍っちまうのかよ、お前」
「別に、そうは言っていないじゃありませんか。ただ」
ベリラスが、柔らかな笑みを浮かべる。それでも、当人から感じられる凄みという物は、少しも衰えず。こんな風に相手を威圧する者もまた居るのだと、ガルジアは少しだけ場違いな事を考えてしまう。
「ただ、今は態々戦うまでもありませんね」
不意に、足元から振動と、低い音が聞こえて、ガルジア達ははっとする。黒い染みが、広がっていた。アオゾメの流した血だまりを呑み込んで現れたそれは、黒い蔓となって、ガルジア達の足を縛ろうとする。
「こりゃ……」
「ライシン君。君は、魔法使いでしょう。如何に魔道の才に優れていようが、それとはまったく別の要素が魔道士には必要だと。最初に出会って、君に授業を受けさせた時に、私は言いました。私が君を、買っていたのは。君が表面上は、どれ程に明るく
振る舞っていても、その内心に抱え込む物は深く、大きく。それが故に、常に周りから一歩引いては、周囲に対する警戒を怠らぬ冷静さを保っていたからでした。しかしそんな君でも、アオゾメ殿の死に。それから、ほんの少しだけ自惚れて良いのならば、今私が
君と対峙しているという事実に、心を乱されている。それでは、君の強さは、決して君の物になってはくれませんよ」
大慌てでライシンが地に手を付けて、黒蔓への対処をしているのを眺めながら、ベリラスは淡々と述べる。白狼も、ようやく我に返ったのか、低く唸り声を上げた。ガルジアは歌術を用いて、彼らの補助をしようとした。しかしそれをするよりも先に、背後から突然に
腕を回されて、喉を押さえられる。あまりに突然の事に、身体が強張る。視界には、いまだにアキノとベリラスの姿はしっかりと映っていて。当然、この場に居ると思っていた全員が、動いたという訳ではなかった。それでも、ガルジアの身体は今何者かの手に
押さえられて。そうして、ガルジアの足元にあった蔓だけが消えると、ずるずると後ろへと引き摺られる。
「ガルジア」
声が、聞こえた。低く、落ち着いた声が。それに、ガルジアは何度も耳を震わせる。
「あなたは」
腕が、多少緩められて。呼吸がおかしくなっている事にすら構わず、ガルジアはどうにか首を動かし、背後を確認する。ベリラスと同じ様に、ローブを纏った男。その表情は、間近に居るガルジアならば、見る事ができた。鬣犬の男。
自分の見た物を、ガルジアは信じたくなかった。クロムが、そこに居た。ただそれだけであったのならば、心強い味方が来てくれたと。そう、思えただろう。しかしクロムがしたのは、歌術を行使しようとしたガルジアの、妨害だった。その上で、その表情を見れば、
よくわかる。ガルジアを安心させる様な微笑みばかりを浮かべていた、その男が。今は睥睨するかの様に目を細めては、口元は笑みを形作る事もなく。まるで、そうする事で。言葉を用いずに、ガルジアを絶望させようとしているかの様だった。
「クロムさん……」
それでも。ガルジアは、縋る様にその名を呼んだ。自分の見た物も、クロムがした事も、何も無かったのだと思いたくて。
「ガルジア。君を、迎えに来た。納得できない事が、多いと思う。けれど今は。私と、一緒に来てくれないか。あの、アキノの下へ」
クロムが口にしたのは。ガルジアの期待を、粉々にするのに充分な威力を秘めていた。
「待てよ」
赤髪を振り乱しながら、男が口を開いた。ライシンがどうにか抵抗をしているが、それでも黒蔓はライシンと、そしてリュウメイの身を包み。そのまま引き裂いてしまいかねない程に、身体を雁字搦めにしては、動く事を禁じていた。その二人のすぐ傍で、眠る様に
横になったままのアオゾメの姿は、一層滑稽な物としてガルジアの瞳に映る。
「クロム。てめぇは」
「……すまないな、リュウメイ。私は君に、ガルジアを預けた。いや、託したつもりになっていたんだ。実際、君はガルジアを常に守っていた。君はあの時気づいてしまったから、私に良い顔を見せはしなかっただろうが。それでも初めて君と手合わせをした時、この男の
強さは相当な物だと、そう私は思った。剣だけならば、私でもわからぬとね。だが、事情が変わってしまった。君ならばガルジアを守ってくれるだろうと思った私の考えも、ここまでだ。君じゃ、いつかはその時が来てしまう。君が悪い訳では、ないけれどね」
リュウメイは、何かを言おうとしていた様だった。それでも、更に黒蔓に絡めとられて。それをしばらく眺めていたが、その内にアキノは表情を明るい物に変えて、それからクロムへと手を上げる。
「さあ、行こう。別に、始末してもいいけれど。そんな事をしても、ガルジアさんの表情を曇らせては、この後に支障をきたしてしまうだけだ。それから、後でベリラスにねちねち小言を言われるのも、俺は真っ平ごめん。クロム、それで良いかな?」
「私からは、何も言うつもりはない」
「本当にあんたは、ガルジアさんの事だけを思っていられるんだね。一層清々しいくらいに。まあ、いいや。だったら、行こう。時間が無いしね。そういう意味でも、ここで立ち竦んではいられない。さあ、ガルジアさん。歩いて。悪いけど、君がそうしてくれないのならば、
その時は流石に俺も、考えを改めるしかない。さあ」
アキノが、手招きをする。ガルジアは、固まったままだった。しかしその内に、背後のクロムから促されて。渋々と歩き出す。暗に、アキノは言うのだった。そうしなければ、リュウメイ達を殺すと。しかも今は、クロムまでもが敵となっては、それすら辞さぬ構えである。
クロム一人であろうとも、相当に苦戦する相手であるというのに。その上でその強さはわからぬが、それでも強者である事には違いないアキノと、ベリラスが居るのだから、他に選択肢は無かった。
ガルジアは、一度被りを振って。
「リュウメイさん、ライシンさん。すみませんが、後はお願いします。それから……アオゾメさんを、きちんと弔ってあげてください。お二人にとって、とても大切な方なのですから」
「そうなの? 少なくともそこのリュウメイは、涙一つ流しちゃいないのに。そこの狼の方が、余程悲しんでいる様に俺の目に見えるな」
「そんな事を、軽々しく言うべきではありません。あなたにも、私にも。それはわからない事なのですから」
咎める様に言うと、アキノが両手を上げて降参の意を示すかの様になる。
「今のはあなたが悪いですよ、アキノ。あなたが、あなた一人で在り続けるのではないというのならば。その軽率で不躾な物言いは、少しは改めるべきです」
「わかった、わかったよ。悪かったね、言い方が悪くてさ。俺だって、アオゾメさんが居ないのは、悲しいくらいさ。魔導の知識は、ベリラスでもかなりの物だけど。積み重ねた年数という物が、やっぱりアオゾメさんは桁違いだったからね」
「そういう言い方が、無神経だと私は言ったのですがね。ライシン君達が、どんな理由で悲しんでいるのかぐらい、わかっているでしょうに」
「ちぇっ」
拗ねた様にアキノが一人、背を向ける。赤い鱗の続く細長い尻尾が、不機嫌そうに跳ねる事を繰り返していた。ベリラスが、それに続く。そして促されたガルジアも、やがては。
「心配しなくていいよ。別にその魔法は、殺すための物でもなんでもない。ただの足止めだから。そこの熊のお坊ちゃんが頑張れば、凍える前には抜け出せるはずさ」
振り返らぬまま、アキノはガルジアの懸念を口にする。それで一先ずは安心をして、ガルジアは歩みを速めた。少なくとも、自分がここに居る間は、ベリラスの力でその呪縛が解かれる事はないのだろう。ならば、今だけは。
「クロムさん。あなたは、どうして」
少しだけ、歩幅を短くして。クロムにだけ言葉が聞こえる様にしてから、ガルジアはいまだに己の背後で、決して戻る事を許さぬ様に傍に居るクロムへと声を掛ける。
「君のためになる。そう、思ったからだ」
「これが、私のためになるというのですか」
「きっと。私は、そう信じている。……けれど、それは所詮、私の考えに過ぎない。君の考えを、聞きたい。だがそのための説明すら、ここでは満足にはできないだろう。今は何も言わず、来てくれないか」
「そういう所だけは、あなたは変わらないのですね」
それでも、結局歩く事のできる道は、一つしかない事に変わりはなかった。丁寧なクロムの物言いも、所詮はガルジアを気遣っての事であって、今を変える事を許す物ではない。
ガルジアの鼻先に、冷たい物が落ちてきた。空を見上げる。雪が、降っていた。あれ程この城には降り注ぐ事のなかった雪が、今は降り注いでは、真黒な姿を染めてゆく。この城に長く留まっていたアオゾメの影響が、薄れたからなのか。
一度だけ、ガルジアは振り返った。映る景色は、変わらぬ。倒れたまま、眠っているかの様なアオゾメの姿も、変わる事はない。
ただ、降り注ぐ様になった雪だけが。アオゾメが、息絶えている事を。仮初の眠りではなく、真に深く、醒める事の無い眠りに包んでいる事を、教えるかの様に降っていた。
促され。ガルジアは、視線を外す。