ヨコアナ
31.真の刺客
古ぼけた店内に、雑多に並べられた品物を、ガルジアは眺めていた。
雑多に並べられている様で、よく見ればそれは一定の法則に従って、そこにあるという。それは、用途ではなく、一定の価値であったり。或いはそれが産出される場所であったり。いずれにせよ、その様な事には決して明るいとは言い難いガルジアにとっては、
よくはわからぬ物だった。それでも、それらを見ているのは、楽しかった。
「どうですか、ガルジアさん。何か一つ、記念に」
「えっと、その」
店内のあちらこちらを眺め回っていると、店の奥から顔を出した獅子の男が、破顔をして。にこやかな様子でガルジアに品を勧めてくる。そう言われて、ガルジアはしどろもどろになって。苦笑してしまう。
「やめとけ。どこに持つつもりだよ」
「……そうですよね」
「それともこの街に腰を据えるつもりか? 俺は別に、それでもいいがな。それならそれで、お前とはここまでだし」
「そんなつもりはありません」
ガルジアを茶化す様に。しかしその言葉は半分くらい本気であろうリュウメイの発言に、むっとしてガルジアは思わず言い返してしまう。そうしていると、慌てて獅子が間に入って、取り成してくれる。それから、ごめんなさいと。軽率にガルジアに勧めてしまった事まで、
謝罪をしてくれる。そこまでされると、ガルジアもリュウメイに対して怖い顔を向ける訳にもゆかなくなってしまう。
ガルジアと、そしてリュウメイが今居るのは、グレンヴォールの、鑑定屋だった。鑑定と一口には言っても、それだけで口を糊するのは厳しい時があるのか、ここには売り物も並べてある。店の主である獅子のガリューは、先の魔剣の事件の際に、それを手にした
ルカンが大暴れをしても尚逃げる事をせずに。ルカンに立ち向かったガルジアの援護をしてくれた男だった。ガリューは鑑定士ではあったが、多少は魔導を嗜んでいるのか。ガルジアが粘り、そしてリュウメイが駆けつける時間を稼いでくれたのである。当の
リュウメイはというと、ガルジアと別れた後しばらくはフェルノーの下で厄介になっていたそうだが、その後は結局フェルノーの手引きにより、ガルジアと同じく魔剣の浄化の儀式に立ち会う事ができたのだった。
リュウメイが黒牙の一員ではないかという誤解を解くのにも、ガリューが助力をしてくれたおかげで、色々と事がややこしくならずに済んだのであった。その縁もあって今、二人はガリューの家に世話になっているのである。
「フェルノーさん、大丈夫でしょうか」
事件の直後、その場を脱してすぐのリュウメイとのやり取りを、ガルジアは思い出す。
「まあ、悪運は強いからな。大丈夫だろうよ」
「そういう事ではなくて……」
その手段には、問題があったのかも知れないが。それでも確かにフェルノーは、リュウメイの事を。リュウメイだけを、愛していたのだと、ガルジアは思う。もっともそれで、消されかねなかったのは自分の方なので、同情をするとまではいかなかったが、それでも
フェルノーに対する感情というのは、先の件でかなり和らいだのもまた、事実なのだった。己の身も、何もかもを投げ捨てるかの様に、リュウメイを庇う。そうするだけならまだしも、用意していた邪法でもって、魔剣によって暴走していたルカンの動きまで
止めたのである。その一点だけを取り上げれば、今回の最大の功労者はフェルノーと言っても過言ではなかった。
そのフェルノーは今、魔剣で切り捨てられた事により、絶対安静の状態となっては。このグレンヴォールの街の、富豪の下に身元を預けられているという。元々フェルノーの容姿と、そして妖しげな仕草から醸し出される妖艶さという物は、ヌベツィアだけに
留まらず、このグレンヴォールの一部の者にとっては抗い難い力を持っていたらしく。フェルノーが怪我をしたと聞いて、血相を変えて飛んできたその富豪の男が、金も何もかもを投げ出してはフェルノーの看病をしている様だった。
「せっかくだ。そのままそいつの物になっちまえば面倒が無くていいな、俺は」
「リュウメイさん。流石にそれは、最低です……」
「良いじゃねえか。それに、俺はその金持ちの男の事は、買ってるつもりだぜ。あいつは……。フェルは、前から袈裟切りにされたんだ。フェルの見た目だけが好きって奴だったら、それで掌を返して、フェルを引き取るだなんて言い出す事もなかっただろうよ。でも、
そいつはそうじゃねぇ訳だ。フェルには、似合いの相手じゃねぇか。あいつ、元々身体が強い訳じゃなかったしな。どの道ヌベツィアで生きてゆくのには向いてなかったのさ」
「リュウメイさんは。それで、なんとも思わないのですか。助けてもらったのに」
「勘違いするなよ。そもそもが、フェルの思いついたやり方だ。あいつはただ、落とし前をつけただけだ。てめぇの身体でな」
「それは、そうですけれど。……その。リュウメイさんは、フェルノーさんの事は」
「弟みてぇなもんとしか、思ってねぇな。そりゃ、確かにあいつはやべぇくらいお綺麗だけどな。それでも俺にとっちゃ、糞野郎の所に乗り込んで、そいつをぶっ飛ばしたら。そこで丁度食われちまいそうだったあいつが居て。だから、それだけの話だ。あいつはそれを、
やたらと持ち出しては、俺が好きだのなんだの、言っちゃいるがな。それでも結局は、俺の様に、どこにでも行ける様な奴じゃなかった。それだけの話だ」
「……はぁ。なんというか」
「なんだよ」
「もっと節操無く手をつけているのかと思っていたら、違うみたいですね。あなたって」
「てめぇ、どういう物の見方だそりゃ」
そんな事を言われても。ただ、確かにリュウメイは酒は飲むし博打も上手いが、色事には手を出す事は今までほとんどなかった様に思う。
「てめぇがそれを担当してくれてもいいんだぜ?」
「お断りします」
「大体、てめぇだってあのルカンの奴、相当たらし込んでたじゃねぇか。お前がそんな奴だったなんて、不覚にも俺は知らなかったぜ。なるほどなぁ、普段の振る舞い方もよくよく相手を選んでるって訳だな? こりゃ、一杯食わされたね」
そこまでリュウメイが言った辺りで、ガルジアは無言でリュウメイの身体を軽く打った事を思い出す。あれ程戦いの最中では如何なる傷を負おうが、声一つ上げずに平然としているリュウメイが、悶絶していたが、見なかった振りをした。
「それにしても、ガリューさん。親切にしてくださるのは、とてもありがたい事なのですが。大丈夫なのでしょうか、こんな風に、厄介になってしまって」
一通りの事を思い出した後に、ガルジアはいまだに微笑んでは、店の品を確認していたガリューに問いかける。そうすると、ガリューはまた一段と笑みを深めて、大きく頷いてくれた。
「勿論です。それに、俺だって危ないところを助けてもらいました。あのままでは、どうなっていたか」
「別に、逃げても良かったんじゃねぇか」
「いいえ、そんな事をしては、俺はこのお店を兄様から預かる身なのに。兄様の顔に泥を塗ってしまいますから。それに、あの仕事ははっきり言って、あまり良い物ではなかったんです」
「そりゃまあ、如何にも金持ちの考えた、見世物でしかなかったなありゃ」
「リュウメイさん」
「いいんです。本当の事ですから。俺は、実績が欲しくて。あの仕事を受けたんです。本当なら、その場で鑑定をする必要なんてなかったし、実際に俺とは別の鑑定士の方が、とうにそれを済ませておられたんです。それでも俺が、あそこに居たのは。ただ、実績が
欲しかった。それだけの話でした。兄様の。スナベ様の跡継ぎの様な扱いを受けてはいたけれど、結局俺には経験も実績も足りませんでしたから。大きな事に関わりたい俺と、スナベ様の跡継ぎである俺を起用したという箔をつけたいあちら側と。互いの利害が
一致しただけの事で。それでも、あの場で俺が逃げてしまったら。俺は本当に、スナベ様の顔にも、この店にも、傷を付けてしまうところでした。逃げずに、立ち向かって良かったと思います」
「なんだか、良い話ですね」
「どうせそれで依頼が増えたんだろ」
「はい! すっごい、増えました!」
「ガリューさん……」
えへへ、とガリューが笑う。その表情には、少なくともそこまでの悪徳が滲んでいる様には思えないが。なるほど一筋縄ではいかない男なのかも知れないとも、ガルジアは思う。ただ、ガリューを助けたのは事実だが、ガリューに助けられた事もまた、事実なので
あった。それを、ガルジアはリュウメイが腰に佩いている剣を見つめながら思う。それまでの、リュウメイが愛用していた剣とは別に、今はもう一振りの剣があった。漆黒に彩られ、塗り潰されたその剣は。リュウメイが佩いていると、より一層禍々しい物にも
思えたが。それでもあの日、見て取った邪悪な雰囲気という物は、もう感じる事もない。目を見張る様な、見事な赤い髪の男が持つ、漆黒の黒い剣というのは、控えめに言っても、様になっていた。
「まあ、俺はこの剣が無事に引き取れたから、なんでも構わねぇがな」
リュウメイが、ちょっと腰の剣に触れる。それで何が起きた訳でもなかったが、不意にその剣が、目を醒ました様な。そんな印象をガルジアは受ける。本来であるのならば、事件の後にこの剣をリュウメイが持ち続けているというのは、おかしな事でもあった。これは
リュウメイの持ち物ではないし、言ってしまえばあの催しを企てた、商人の物であるからして。事が済めば、勿論そちらに返却されて然るべき物である。だが、この剣の置かれるべき場所は、少なくとも今のグレンヴォールには、無くなってしまったのである。黒牙
という、招かれざる者の闖入。そして、その頭であるルカンが手にした事による、暴走。魔剣の恐ろしさは、充分過ぎる程に、人々に知られてしまったのである。これではもはや、浄化をして聖物に、などという意見が通らぬのも、道理であった。その場に
居た者達は、口を揃えて魔剣の恐ろしさを語ったし、当然ながらそれを聖物になどというのは、とんでもない話だと憤慨をする有様で、その話を聞いた者達の反応もまた、まったく同じであった。そうしてまた、その商人もその様な不吉な魔剣で一山当てようと
企んでいたというのに、当てが外れてしまった物で。そんな品が自分の手元に戻ってくるのを、大変に嫌がったのである。かといって、不要だと、グレンヴォールの者達が日頃している様にヌベツィアに捨てる訳にもゆかぬ。この様な禍々しい物を、グレンヴォールに
対して常に牙を向きだしにしているヌペツに与えるのは憚られたし、そのヌペツの一部である黒牙を纏めるルカンが、それに操られたのであるのだから。結局のところ、必要であればグレンヴォールに、そして不必要であればヌベツィアに、という。この街の者が、
昨今ではすっかり慣れ切っていたその対処法に、魔剣は当て嵌める事のできぬ存在となっていたのだった。誰もが、それを引き取ると言い出さずに。魔剣その物を厭うているのだった。
「だったら。俺が貰っても別にいいよな?」
そこで、満を持して魔剣を寄こせと言ったのが、ガルジアの目の前で、今なんでもない様にその恐ろしい魔剣を佩いている、リュウメイなのであった。最初の内、誰もがそれには度肝を抜かれたが。しかしリュウメイがその剣を手にしても、何故だかルカンの様に
暴れる事もなく。そして魔剣その物もまた、禍々しい気を発する事を止めたのを見て。これはもう商人の方は大喜びで、寧ろ引き取ってくれるのならばと、謝礼まで用意してくれる有様であったし、当然ながら今回の騒動で魔剣に対してよろしくない印象を抱いた者は、
こんな恐ろしい代物を、余所者であるリュウメイが持っていってくれるのならばと。リュウメイの身を案じる事もなく、それには頷く始末であった。結局のところ、満場一致でグレンヴォールにも、ヌベツィアにも魔剣を置く訳にはゆかなかったが故に、首尾よくその魔剣は
リュウメイの手元に転がり落ちてきたのだった。
勿論、その様子を見て、リュウメイを訝しむ者が居なかった訳ではないが。その辺りは、今回の事で非常な恩義を。それには過剰な物が含まれていたのは確かではあるが、ガリューが感じており、それらを取り成してくれたおかげで、無事にリュウメイは黒牙の
一味という不名誉な疑いも、そもそもこの魔剣を秘密裏に持ち込み街に混乱を齎したのではないかという、ある意味身も蓋も無い容疑からも、解放されたのだった。もっとも、それでもしリュウメイを捕らえようとして、ルカンの様に暴れられたらと、誰もが不安に
思っていたので、よしリュウメイを疑う事があったとしても、それ以上踏み込む者とて居なかっただろうが。
その後、二人はガリューの好意によって、しばらくその店に厄介になっていたのだった。ガルジアは今更説明するまでもなく、白虎であり。その上で、今回は人前で歌術まで披露してしまったので、実のところグレンヴォールでのガルジアの評判という物は、
今大変な物になっていた。見せた相手が、悪かったのである。信仰を胸に秘めた者達であれば、当然ながら修道士の中に、歌術を行使し。普段は聖歌隊として活動をしているも、歌術によって魔法の様な奇跡を起こす事ができる者の存在を、知らぬはずが
なかったのである。魔剣に囚われて、暴走をした哀れなる匪賊の前に立ちはだかる、白虎の歌術士の活躍。その話は瞬く間に広まり、ともすればそれは、魔剣を調伏したリュウメイや、鑑定士でありながら果敢にも立ちはだかったガリューよりも、いくらか前に出る
話題にすらなっていた。そうなれば当然、ガルジア、というよりは。あの歌術を行使する白虎は何者なのだという話になる。しかも今、グレンヴォールには修道院がまさに開かれ様として、しかしその最初の一歩に躓いてしまった状態なのである。聖物の用意という
部分では遅れを取ったが、このガルジアの協力があればと。そう思う者も、かなり多かったのだった。
そして、リュウメイの方も。これはこれで、相応の話題になっていた。なんといっても、魔剣を手にしたのであるからして、ただ者ではないという話であって。そして、ただそれだけであったのならば、寧ろ不吉な男としての謗りを免れなかったかも知れないが。そんな
男と、少なくとも修道士としての経験と、そして確かな歌術の腕を持つ様に見えるガルジアの組み合わせがあったのである。今回の件に関心を示す者が居たとして、まず十中八九ガルジアの話は把握されていたし、それと共に在るリュウメイの話も、やはり
囁き交わされている様だった。
それであるが故に、今二人は、グレンヴォールの街中を正直なところ、出歩きたくはなかったのだった。外に出てしまえば最後、面倒な相手が押し寄せてくる事は想像するに難くなかった。だからといって、ルカンとの戦いでリュウメイはまた傷を負ってしまったので、
その治療の時間がどうしても必要で。その場所を提供してくれるガリューの存在は、とてもありがたいものであったのだった。少なくともガリューは、街の者に顔が利くので、無用な真似はしてくれるなと言ってくれたおかげで、大分世間の喧騒を避ける事が
できたのである。もしくは、このガリューの店の、前の持ち主であるスナベという存在を、街の者が恐れているのではないかと。あまりにも大人しく引き下がる街人の様子を見て、ガルジアは思ってしまうのだが。
「確かに、兄様はこの街がとても長い方でしたから。依頼をこなす内に、お偉い方の弱味の一つや二つはとっくに握っているでしょうし、もし兄様が帰ってきた時に、この店や、俺に何かあったら。多分、何人かどこかに消えてしまうかも知れませんが」
「とんでもない人なんですね」
「い、いえ。そんな事は……ないのかな? 兄様は、俺にはとてもお優しい方でしたし。突然に店を開けるから、好きに使って良いと言って。出かけてしまわれましたけれど。今頃、どこに居るのかなぁ。兄様は、この街から出た事がない、とっても箱入りの
方でしたので、とても心配なのですが。それ以来便りもなくて」
なんとなく、スナベという存在の不可解さの片鱗をガルジアは掴んだ様な気持ちになる。ただ、優秀な人物であるというのは、どう見てもスナベを崇拝している様にしか見えないガリューの言から見ても、確かな様だった。現に、魔剣をガリューが見る際にも、
スナベの名は上げられていたし、その名を聞いたルカンも、スナベを知っている口振りであったのだから。
そんな風に、ガリューの好意に預かり、リュウメイの傷を癒している間に。二つ程、特別な出来事が起こる。一つは、朝起きた時、ガリューの店の扉に、歌聖剣が立てかけられていた事であった。それは、紛れもなくガルジアの物であり。黒牙のアジトに居る際に、
取り上げられて。そうしてここまで来てしまったが故に、取り戻すのを諦めるしかないと思っていた物でもあった。もっとも、実はガリューの店にも歌聖剣が一つ、骨董品の様に飾られており。ガルジアが己の歌聖剣を取り戻せぬとあらば、それをガリューは
気前よく譲ると言ってもくれたのだが。
「あの歌聖剣の話は、俺も前に兄様から聞いてるんです。元々はこの街の、あの教会が撤去される際に譲り受けた物らしいのだけど、きちんとした使い手が居ないから、兄様はあれを売らずに飾っているんだって。なので、歌術士であるガルジアさんが、あれを
欲しいと言うのでしたら。俺は喜んで差し上げますよ。他でもない、あの歌聖剣を持つべき、使い手なんですからね」
「ガリューさん……」
「まあ、使い手って言える程使いこなせてるとは言えねぇがな」
リュウメイが面白そうに口を挟んだ事まで思い出して、ガルジアは苦笑する。とはいえ、黒牙の下に置いてきてしまった歌聖剣が、ここにある、という事は。それは恐らくは、ルカンの仕業なのだろうと、ガルジアは思った。魔剣に命を吸い取られ、その上で
リュウメイに切り捨てられたルカンである。あの後、生きているのかすらわからなかったが。ガルジアを気に掛けて、その上で態々歌聖剣をここに置けと命じる事ができるのは、ルカンを除いて他に黒牙には居ないだろう。ガルジアが、言葉は悪いが手懐けられたのは、
ルカンを除けば、もっと下っ端の者達であるし、それらではどうする事もできなかったのだから。それが、ルカンなりの。一度は己の物としようとし、それすら叶わぬのならば、その手に掛ける事すら厭わなかった男の、ガルジアへの新たな姿勢なのかも知れなかった。
とはいえ、目の前で話をする事もないので。実際に今ルカンが何を思っているのかは、ガルジアにはわからなかったのだが。
そして、二つ目。
「ガルジア様。お久しぶりでございます。私です、ロイゼン・エナークでございます」
ガリューの店を訪う者があった。それは、狐人の男であって、事情を聞かされたガリューがガルジアを呼びにきて、慌ててガルジアはその応対をしていた。
その相手を知って、ガルジアはリュウメイに絶対に外には出てこないでほしいと言ってから、それを迎える。ロイゼン・エナークは、サーモスト修道院で受付を担当していた修道士だった。クロムと共に、召導書を求める旅路を行く上で向かった先で、僅かに
知り合ったというだけの男だったが。そうしながら、ガルジアは全身に緊張感を漲らせる。サーモスト修道院の修道士である、という事は。ガルジアを奸計に陥れようとした、エフラス・ロー=セイムの差し金であるかも知れないと思ったのだ。当のロイゼンは、
非常に柔和な。狐らしい微笑みを浮かべて。その恰好は旅をする修道士のそれであって、どこにも武器などは持っておらぬ様子だった。それから、ガルジアがどう対応しようか迷っている様子を見せると。遅れた様にロイゼンも両手を上げる。
「ああ、ごめんなさい。ガルジア様。いきなりこの様に訪っては、さぞご心配にもなりましょう。その……エフラス様の事で、私をお疑いにもなられるというのに。申し訳ございません」
「いえ。ですが、その様に仰るという事は……」
「私は、そのう。こう言ってはなんですが。エフラス様のお考えに賛成を示す訳ではありませんでしたので。あの時の、サーモストの騒動でも。関与はしておりません。それに、私はまだまだ新入りでございましたからね。何も、サーモスト修道院の修道士の全てが、
あの時ガルジア様と、それからお連れの方を捕まえるために遣わされた訳でも、エフラス様の考えに賛同をする訳でもありません。それに、今の私はサーモストに属する訳でもありませんから」
「籍を、抜いてこられたのですか」
「ええ。その一件で、私はあそこに居るのが怖くなってしまって。それに、エフラス様も。その後は流石に問題となって取り沙汰されましてね。修道士が亡くなったのだから、流石に隠し通す訳にもゆきません。ただ、その後魔物達がヘラーの街を襲撃した際には、
逆にエフラス様の采配が評価された点もあるとは聞き及んでおりますが。結局のところ、その後エフラス様は院長の座を降りて。中央修道会の方へ向かわれたそうです。私は、その一件で少し、怖くなってしまったので。今はこうして、旅をして。改めて世を
見つめ直そうとしているところでして」
「それは、とても素晴らしい心掛けですね」
「ありがとうございます。それで、今回はこのグレンヴォールに、新たな修道院がという声を聞いて。私も様子を見に来たのですが。そこで、ガルジア様の事を聞きまして。失礼ながら、こうしてご挨拶を。それから、どうもガルジア様も私と同じ様に、どこかに属するのでは
ないご様子だというので、つい親近感が湧いて。そのついでに、サーモスト修道院の事もお伝えできたらよろしいかなと」
「そういう事だったのですね。ありがとうございます、ロイゼン様。確かに、私もあの一件で、どこかの修道院にお世話になって良い物か、悩んだ事もあって。今は私も旅をしているところなんです」
「そうですか。ですが、それが良いのかも知れませんね。確かにエフラス様は、その様な経緯で今はどこに居るのかもわかりませんが。しかしエフラス様がその様に動かれた理由を、中央修道会も理解しておりましょう。大義名分とは、恐ろしい物。私は存じませんが、
エフラス様がその様な行動を取るに足る物を、ガルジア様がお持ちであらせられる。その様に見られる事もありましょう。どうか、お気をつけください。私がお話をしにきたのは、それだけです。ガルジア様が、何故エフラス様から狙われたのかも。お聞きしない方が
よろしいでしょうし」
「本当に、ありがとうございます。ロイゼン様。その様にお気遣いくださって」
それから、二言三言話すと、ロイゼンは丁重に一礼をして去ってゆく。どうやら、サーモスト修道院の事については片が付いたと見ても良いが。だからといって安心してどこかの修道院に寄るというのは、もうしばらく様子を見た方が良さそうだった。
「それで、リュウメイさん。そろそろ、お話をしてくださっても、いいのではないかと私は思うのですが」
二つの事柄が過ぎ去って、リュウメイの傷が大分癒えた頃。ガルジアは、そろそろと耐えきれなくなって、その言葉を口にする。
「なんの話だ」
「とぼけないでください。その剣の話です」
ガリューの店で寝泊まりをする様になってから、十日以上が過ぎて。リュウメイの身体の傷も多少は良くなり、そして店に並べられた品を見る事にも飽きてきたガルジアが、問いかけると。リュウメイは素知らぬ顔をしながら、あらぬ方を見ていて。それを見ていた
ガリューが、苦笑する。今は三人揃っての昼食を終えて、そのまま談笑に興じているところだった。ガルジアは最初、一人暮らしのガリューの下に二人も押しかけて良いのかと思ったが。ガリューは寧ろこの状態を楽しんでいる様だった。
「俺、この街にはあまり馴染がなくて。勿論兄様と過ごした時間はあるのですけれど。大体はもう少し離れた、東の。小さな街の方を拠点にしていたんです。今回は兄様に店を使って良いと言われたので、出てきたのですけれど。だから、話し相手も中々
見つからなくて。なので、お二人が居てくださるのは、とても楽しいです。色んなお話が聞けますからね」
と、やっぱりガリューは朗らかに、そして肯定的に、ガルジアとリュウメイを受け止めてくれたのだった。ただ、それだからといっていつまでも厄介になる訳にはゆかなかったし、そもそもリュウメイが何故魔剣なんぞを引き取ったのかという疑問は、ガリューも
抱いていただろう。その説明を、ガルジアは求めたのである。ガルジアとて、その説明を受けた訳ではなく。今まではリュウメイの身体を気遣っていたのだが、ここ数日は大分いつもの調子を取り戻してきた様なので、これを期にと問い質したのだった。
「この剣の話、か」
食器を片付けて、机の上に何も置かれなくなった後に。リュウメイが、立てかけていた剣を二振り。今までの物と、そして新たに手にした魔剣を並べる。それに、ガルジアは首を傾げた。魔剣はまだしも、今まで使っていた剣をそこに置く事に、意味があるの
だろうかと。しかしリュウメイはそれが当然という顔をしたまま、その視線をガルジアではなく、ガリューへと注いだ。
「あ。俺、お邪魔でしたか? それでしたら、お話が終わるまで店の方に居ますが」
「いや、そうじゃない。ガリュー。お前、本当はもう、俺の剣を見て。それがどういう物なのか、わかってんだろ。お前みたいな目端が利く奴に、誤魔化しなんてするのは意味がねぇからな」
「……ええ、まあ。それに、リュウメイさんのお名前が、お名前ですし」
「どういう事ですか?」
二人の会話は、ガルジアにはわからぬ物であって、問いかける。そうすると、ガリューの方が少し意外だと言いたげな顔をしていた。
「こいつには、何も話しちゃいないからな」
「そうですか。あの、ガルジアさん。俺は鑑定士なので、リュウメイさんのこの武器の、装飾や。それから材質などを見て、それがどこから来た物であるのか、という事がわかるのですよ。それは、鑑定士であるのだから、当然と言わなければならないのですが」
「それだけ、価値があるという事ですか?」
「いえ。その、リュウメイさんには失礼な事を言うかも知れませんが」
「構わねぇよ」
「すみません。価値がある、という訳ではなく。その逆です。これを、忌み嫌う方が多いから。それ故に、俺の様な鑑定士は、その特徴をよくよく頭に刻み込んで、鑑定を依頼する方がそれをよくわかっておられないのならば、注意をして差し上げるのも、仕事の内なのです」
「はあ。結局、それはどこの物なのでしょうか」
ちょっと、わくわくして。ガルジアは問いかける。たった今、ガリューに気の毒な様にも見られた事もそうなのだが。ずっと謎めいていたリュウメイの事を知る時がきたのだと。そう思えば、少しだけ、嬉しくもなっていたのだった。修道院を飛び出してから、様々な
人物と旅をしたけれども。一番最初に出会ったはずのリュウメイの事だけ、ガルジアはよくわからぬまま、こんな所まで来てしまったのである。もっとも、何も知らぬからと言って、リュウメイの事を信用していないとか、そんな事はなかったのだが。
ガルジアの問いかけに、ガリューは迷った様子を見せて、リュウメイを見つめる。リュウメイが、促す様に頷いた。
「……エイセイ。旧エイセイの品なのです、これらは。リュウメイさんが使われていた物には、見紛うはずもなく、今は亡き国の紋章が確かに打ってありますし、魔剣の方は真黒なので少しわかりにくいですが、それでも細かい部分の特徴はエイセイの物である事を
示す物には違いありません。リュウメイさんのおかげで、刀身も拝見できましたしね。それに、リュウメイさんの持っていた方の剣ともある程度特徴が一致していますし。ただ、この魔剣の方は。もっと、ずっと古い物の様です。だからこそ、あの様に手にした者を
異常な行動に駆り立てていたのかも知れませんが」
「エイセイ……? 私は、聞いた事がないのですが。それに、その紋章も」
サーモスト修道院での事を、ガルジアは思い出す。クロムと訪れたその場所で、図書室を借りては、リュウメイの剣の紋章を調べてみたのだが。あの時見た地図には、それと同じ物は見当たらなかった。しかし今、ガリューは間違いなく国と言ったのだった。それが
腑に落ちずに、思わずそれを口にしてしまう。
「そりゃ、その地図が新しい物だったからだろ。エイセイはもう、国としての体裁を保っている訳じゃねぇからな。探すのなら、もっと古い地図にするべきだったな」
リュウメイの返答に、ガルジアは納得して。そして自分の調べ方の詰めの甘さを思い知る。確かに、情報が新しくなったのならば、地図の内容もまた刷新されて然るべきである。
「新しい地図では、空白を示している事が多いと思いますよ。いえ、旧エイセイという書き方をしている地図も、ありますがね。サーモスト修道院では、というより修道会側では。そういう訳にはゆかないでしょう。修道士達や一般の者が手に取っても構わぬ様に、
その辺りは作ったにせよ依頼したにせよ、修正が施されているでしょうし。エイセイは、あまり評判がよろしい訳ではなかったですからね」
「どうして、修道院ではそれが駄目なのですか?」
「立場だろ。新興国と、亡国の二つは、その名を認めるかどうかで、対外的な姿勢の一つとして見られるもんだからな。まあ、亡国の方はその国次第ってところがあるが。どうせ平和呆けな事を言いながら、中立を気取ってる様な奴らばっかのところなんだから、
無難に名前も何も載せない方を選ぶわな」
「リュウメイさん。お勉強になりますが、口が悪すぎます」
「うっせ。てめぇが無知なのが悪いんだろ」
そう言われてしまうと、反論もできなくて。ガルジアも思わず呻いてしまう。
「リュウメイさんって、頭悪いかと思ったらそうじゃないんですよね」
「少しは見直したか」
「実は勉強のできる不良だったって気分です」
「てめぇちょっとこれ握ってみろ」
「嫌です」
リュウメイが魔剣を近づけてくるので、ガルジアは慌てて距離を取る。ガルジアが握っても、何も起こる訳ではないと思うが。それでもルカンのあの姿を見てしまうと、どうしてもそれには触れたいとは思えなかった。
「この剣が、エイセイの物という事は、わかりました。では、リュウメイさんも。その国の出身、という事なのですか?」
剣の事を置いておいて、一先ずはガルジアは気になる事を口に出してみる。それに、ガリューはリュウメイの名前も、そうだという事を言ったばかりである。確かにガルジアも、リュウメイの名前は少し自分とその周りに居た者達は違っている事には気づいていたが、
しかし何を言うにも自分が世間知らずであるという自覚は多分に持っていたので、必要以上にそれを口に出す事はなかったのである。また、リュウメイはその様な事を根掘り葉掘り尋ねられる事には、あまり良い顔を見せなかったし、余計な事をすると、大抵は
手痛い反撃を。具体的に言うのなら、俺の事が知りたいのならと、寝床に誘ってくる始末なので、ガルジアがこうして率直な疑問をぶつけられる機会というのは、実は限られていたのだった。
「まあ、一応はそうなるな。とはいえ、俺は拾い子だったからな。厳密にはどこの産まれなのかっていうのは、俺自身も知らねぇが」
「……そうだったのですか」
「別に、そんな神妙な顔してもらわなくてもいいぜ。俺は、自分が不幸だと思っちゃいねぇしな。今の生き方に、不満がある訳でもないし」
「そうでしたね。すみません」
「お前には不満しかねぇけどな?」
「リュウメイさん」
「またしても攫われたお前を態々こうして迎えにきてやったのに、相応の謝礼も寄こさねぇ。聖職者様ってのは随分と気楽なもんじゃねぇか」
「も、申し訳ございません……。でも、つけといてください」
「面の皮だけは厚くなっていきやがる」
リュウメイが、鼻を鳴らす。それ程怒っているという訳ではなさそうだが。しかしガルジアとても、リュウメイが望むその謝礼という物を差し出すのには、勇気と、それから諦めが必要なのであった。少なくとも、今はそのつもりは毛頭ない。
「リュウメイさんはその剣に触っていて、どうして大丈夫なんですか?」
リュウメイについての疑問を、一度棚上げにして。そもそもの疑問をようやく思い出して、ガルジアはそれを口にする。あのルカンが手にした瞬間に、人が変わってしまったのである。確かにルカンは、グレンヴォールを、そこに住む人々を、憎んでいたのかも
知れない。しかし自らの同胞である、黒牙の事は、家族の様に思っていた事をガルジアは知っている。そのルカンが、なんの躊躇いもなく、黒牙を切り捨てていた。それ程の変化を齎すはずの魔剣の影響を、少なくとも今のリュウメイには見て取る事が
できないのであった。
「それは、俺も聞きたいですね。確かに俺が最初にこの剣を見た時、吸い込まれそうな力を感じました。この剣を手にした、あの黒豹の男が、暴れてしまう事も。その方に非があるというよりは、この剣の力なのだろうなと、納得してしまうくらいに」
「説明してやりてぇのは、山々なんだが。悪ぃが、俺だってこの剣の事を、全部説明できる訳じゃねぇな。……ただ、この剣は俺宛てだった。それが、わかるだけだ」
「どういう事なんです?」
「この魔剣の噂を聞いた時から、俺がこの剣を探していたのは。この剣がエイセイからの物だと思ったからだ。あそこには、俺の知り合いが一人居る。そいつは、なんて言ったらいいのかわからねぇが……。とにかく、魔導に長じた奴でな。そいつなんだ、俺を
拾って育ててくれたのは。元々、あそこを出る時に。いつか用事ができたら、俺を呼ぶって言ってたからな。この剣が、そうなのか。俺には判断できなかったが。あの時、ルカンの手から離れたこの剣を、最初に触った時。そいつの力を、確かに俺は
感じた。だから、こいつは多分。俺宛てだって。そう思ったんだ」
「リュウメイさん宛ての、剣……。でも、なんでそんな回りくどいやり方を」
「さてな。あいつの事だから、暇潰しも兼ねてるんじゃねぇのか。俺がきちんと成長したのかを、知りたかったんだろ。もし俺が、まともに剣も振るえねぇなら。招待をするために出したこの剣を握った別の奴に、切られて死んでただろうしよ。あいつは、まあ。そんな奴」
「その人、というのは」
「……アオゾメ。あいつの、名前だ。本名かは、知らねぇけど。あいつは、エイセイがまだ国として成立していた時の。エイセイの、高官の一人だったんだ。俺はアオゾメに拾われて、育てられて。まあ、あんなしけた場所に長く居ても仕方ねぇから、そこを出てきたんだ」
リュウメイの話を、ガルジアはしっかりと受け止める。ようやく。ここまできて、ようやく、この男の出生を知る事ができたと思えた。今までは、何も知らなかったのだった。リュウメイが、どこからきて。そうして、どこへ行くのかも。しかし今は、それがわかる。亡国で
あるエイセイから飛び出してきては、そこにいまだに残り続けているという己を育てた者からの声に、耳を傾けている。
「エイセイが滅んじまったのは、俺がエイセイを出て少し経った後だったな。アオゾメの奴が、上手くやったんだな」
「リュウメイさんは、エイセイが滅んだ原因をご存知なのですか? エイセイについては、謎が多くて。それを知る者も、また手がかりもないと、その様に俺は聞き及んでいるのですが」
エイセイの破滅についての話題になると、にわかにガリューが反応を見せる。リュウメイは、静かに頷いた。
「まあ、その辺も俺は詳しいとは言えねぇがな。エイセイは、不死の研究をしていたのさ。表向き、それは禁じられているが。エイセイの王と、その周辺の高官達は、てめぇらの時代が永遠に続く事を。国の名前と同じで、永生を得ようとしたんだ」
「そんな。不老不死についての研究は、禁じられているのでしょうに。それが、国家ぐるみだなんて」
「国家ぐるみだからこそ、だろ? だからエイセイは、ほとんど鎖国に近い体裁を保って、外の奴らとの繋がりを希薄な物にしていたんだからな。その後、どうなったのかは俺はもう出てきちまったからわからねぇが。エイセイが滅んだって事は、その時の王や、
その周りの奴らは全員くたばったんだろうよ。多分それは、アオゾメの仕業だ。そして今、アオゾメの力が込められた剣が、ここにある。……あいつ、まだ生きてるんだな。生きて、俺に帰ってこいって、言ってやがる」
しみじみとした様子で、リュウメイが言う。その様子が、ガルジアにはなんとなく、新鮮にも感じられた。普段はそれ程に、口数が多いとは言えない男だった。勿論、ふざけた調子や、金の話ならば、いくらでも舌の回る印象はあるのだが。
「リュウメイさんと、この剣についてのお話は、わかりました。……それでは、リュウメイさん。あなたは次はそのエイセイに、向かわれるのですか」
「ああ、そのつもりだ。アオゾメとは、約束もしたしな。別に今、俺の方では用件を抱えちゃいねぇし。この剣を貰ったのも、結局はアオゾメからの物だとわかったからだしな」
じっと、机の上の剣をリュウメイが見つめて。ガルジアも、それに倣う。招待状の役割を果たしたという、魔剣。
「どういう仕組みかは知らねぇが。多分、アオゾメの仕込みで、この剣には呪いが掛かっていたんだろうな。ただ、見た感じじゃこの剣自体がやべぇ事には変わらねぇみたいだが」
「それは、俺の方で保障しますよ。確かに禍々しい気を今は感じませんけれど。それでもこの剣は、恐ろしい。古い物でもあるし、元々あまり良い事には使われていなかったのでしょうね。その、アオゾメという方は。かなり優れた魔道士の様ですから。往年の、
この剣が本当に猛威を振るっていた時代の物に一時、戻すかの様な魔導を施したのかも知れません。それも、リュウメイさんが手にしたら消えてしまう様な形で」
「趣味が悪ぃな。まあ、エイセイの奴らの趣味の悪さなんて、今更言っても仕方ねぇが。さて、長話をしちまったな。ガリュー。世話になった。俺は明日、ここを出る」
「明日ですか。随分、急なのですね」
「この剣が、俺の所に流れ着くまでにも結構な時間が経っただろう。まあ、そういうやり方をしているのなら、あいつもそんなに時間に追われちゃいなさそうだが。それでも、急いだ方が良いだろうと思ってな」
「それなら、もう旅の準備をしないとですね」
明日ここを出ると聞いて、ガルジアはまずそれを思いつく。話に聞く限り、エイセイという物は既に国ではなく、ただの跡地と化しているのだろう。その様な場所に向かうからには、相応の用意という物はどうしても必要だった。少なくとも、街道を進んで、その
途中には宿場があって。確かに厳しくもあるが、人心地つける場所もある。その様な状態とは、無縁であるというのは察せられた。
「ガルジア。てめぇは残れ」
「えっ」
厳しい旅になるやもと、気合を入れようとしたところに。リュウメイからの言葉が飛んできて、ガルジアは思わず声を上げてしまう。
「どうしてですか」
「言っただろ。エイセイは、もう国でもなんでもねぇ。かなりやべぇ場所だ。お前を連れながら、進む余裕があるのかも、わからねぇ。この辺とは、訳が違うぜ。魔物も、人気のない場所に居る、なんて話じゃねぇからな。あそこには、人気その物がねぇだろうし」
「でも」
「ここにしばらく厄介になれば良いじゃねぇか。ガリューなら、まあ悪い様にはしねぇだろ。ガリュー。頼めるか」
「ガルジアさんがよろしければ、俺に異存はありませんけれど。ですが」
ガリューが、じっとガルジアを見つめる。それから、リュウメイも。リュウメイの方は、半ば睥睨する様で。自分についてくる事を、咎めているかの様にガルジアには思えた。
「私は」
二人の視線を受けながら、しかしガルジアは、意外だなと思う。リュウメイの、その瞳が。普段ならば、好きにしろと。ただそう言うだけである様に思えるのに。今までは、そうだった。確かにリュウメイには、ある種の器の大きさという物があって、ガルジアがどの様に
決めたとしても、それを頭ごなしに否定するという事はなかったのである。終わり滝での一件の後も、ガルジアが共をしたいと述べれば、嫌がる素振りも見せずに。それどころか、そう言いだすのを待っていた節さえあったというのに。
「……リュウメイさんに、ついていきたいです」
「そうかよ。死んでも怨むんじゃねぇぞ。てめぇがここに残るっていうのなら、いついつまでに俺が戻らなかったらって、決めようかと思ってたんだが」
「そんなに、危ないところなのですか。あなたが、そんな風に恐れる様な」
「別に、怖がってる訳じゃねぇさ。ただ、そういう場所も世の中にはあるってこった。そういう意味じゃ、今回のヌペツの奴らも、大概だったんだぞ」
「重ね重ね、ご迷惑をお掛けしました。またお掛けしたいと思います」
「お前、段々図々しくなってきてるな」
「それくらいじゃないと。リュウメイさんと一緒に居られませんからね」
かつては一度、それでラライトに残ったガルジアである。今は、そうするつもりもなかった。
「それに。確かに私は、足を引っ張ってしまう事もあるかも知れませんが。だからといって、法術も扱えないのに一人でそんな場所に行かれるなんて。いくらなんでも、無謀ですよ、リュウメイさん。どうせなら、ライシンさん達とどうにか合流をしてからという訳には
いかないのですか?」
「そのつもりはねぇよ。特に、ライシンには。頼む気はねぇ」
「そうですか。よくはわかりませんが、あなたがそう言うのなら。……では、ガリューさん。私も、明日ここを。お世話になりました。沢山の事をしていただいたのに、その上で、私の身柄を預かるとも言ってくださったのに。申し訳ございません」
話が纏まったところで、ガルジアは再度ガリューを見て、礼を述べる。ガリューは少し寂しそうな顔つきで、それを受けた。
「いいえ。俺の方は、構いません。……でも、ちょっと羨ましいですね。旧エイセイ領。そんな所、普通は足を踏み入れられませんし。俺も、この店を預かっていなかったら、ちょっと行ってみたかったかも知れません」
「そんなに危険な場所なのですか?」
「危険……かはわかりませんが。元々エイセイ国の時代は、外との繋がりをほとんど持ちませんでしたから、情報が無かったのです。それでも、ある日突然に、王の住まう城から光が上がり、そうして権力者の全てが姿を消したと言われております。どこまでが
本当の事なのかは、わかりませんが。しかしそれで、確かにエイセイは国としての機能を損ないました。蓋を開けてみれば、そこは荒涼たる大地が果てなく広がる、不毛の地であり、また飢えた魔物の跋扈する地でもあったそうです。エイセイが亡国となり、
しばらくの間は、周辺の国の協力でエイセイへの立ち入りは禁じられておりました。それは、あたかもそれまでの鎖国を貫く姿勢と、まったく同じ様で。しかし近年、国境に面した部分だけは最低限の安全を確保したという事で、これも解かれたという
話です。今、エイセイの中がどうなっているのか。確認をする事ができますが、しかし誰もがそれを厭うて、実情はよくわかっていないと言います。それを、よく知っている人が居るとしたら。それは、その。リュウメイさんの様に、元よりその中に居られた方々
なのでしょうね。エイセイが崩壊を迎えた際には、難民もかなり出ていたという話ですから。しかし彼らは一様に、亡き祖国については口を閉ざすとも言います。本当の事を言うと、今日こうしてリュウメイさんとお話ができたのは、とても貴重な体験でした」
「なんだか、その。想像していたより、ずっと過酷なのですね。そんな場所が、あったなんて」
「まあ、地図の外側。魔境の様子が、エイセイでだけは再現される。なんて笑い話もエイセイではあったくらいだからな。笑えねぇけどな?」
「笑えないです……」
「覚悟しろよ、ガルジア。てめぇが行きたいって言ったんだからな。もう俺は、引き摺ってでも、てめぇを連れていくぞ。ついでだから、アオゾメに見てもらえ。あいつが興味を覚えたら、きっと隅から隅まで、何かしらの実験に使ってくれるぜ」
立ち上がったリュウメイが、馴れ馴れしく肩を組んでは、嬉しそうに言う。これは、はめられたのではないかと。ガルジアは思う。先程までのガルジアを遠ざける様など、綺麗さっぱりどこかへ行ってしまって。今はただ、ガルジアがこれから迎えるであろう困難の
数々を考えてもいるのか、真底から楽しそうに笑う蜥蜴の男がそこに居た。適当に腕で近づいてくるリュウメイを押し返しながら、ガルジアは溜め息を吐く。
翌日、ガルジアとリュウメイは、ガリューに街の入口まで見送られ。持てるだけの荷を持っては、ガリューの紹介してもらった相手に荷馬車に乗せてもらい、その代わり護衛として働くと決めて。グレンヴォールを後にしたのだった。
「結局、グレンヴォールはほとんど見る事ができませんでしたね」
馬車に揺られながら、遠ざかるグレンヴォールの外壁を見つめる。荷馬車とはいえ、そこはガリューがかなり言い含めてくれたのか。敷物もあれば、簡易的な屋根もあって。荷物の間とはいえ、居心地は悪くはなかった。
「仕方ねぇだろ。あの騒動の後だ。お前が外を出歩いたら、それだけでぜひ修道士として、この街に残ってほしいって、言われただろうよ」
「言われただろうよっていうか、言われましたね。一度、ガリューさんとお買い物に行った時。……なんというか、怖かったです」
「嫌なのか。元々修道士なんだ。そういう事には、応えるべきだって言うのかと思ってたわ」
「それは、そうなのかも知れませんが……。けれど、私がもし、再び修道士としての活動をするのなら、それは、復興したラライト修道院でと思っておりますし」
「そういえば、修道院にふさわしい聖物を見つけるってお前は言ってたが。それは、どうなんだよ」
「そんな物、考える暇すら無かったですよ、今回は。でも、聖物に対する考え方は、少し変わりました。その、剣」
言葉を止めて、荷台の向かい側にふんぞり返って寛いでいるリュウメイを苦笑しながら見つめて、それからその剣へと視線を移す。そうすると、リュウメイも己の傍にあるそれへと目を落とした。
「こいつを聖物に、だったか。目の付け所が、如何にも商人って感じだな。確かに魔剣だって評判の物を、浄化して、聖物にできたら。そりゃ話題性はあるだろうし、グレンにとっちゃ新しい名所の誕生だろうがな。それでも、欲をかきすぎたな。ただの修道院で、
聖物はもっと穏やかで、無難な物を。そうするべきだったろうよ。そのための財力ぐらいは、あるんだからな。こいつは、聖物なんてご立派な物には程遠い代物だってのによ」
「グレンヴォールの修道院の計画は、進んでゆくのでしょうか」
「一旦は棚上げだって話だ。提案した商人が、この魔剣をと言ったんだから。それがあんな大失敗じゃあな。そんな風に築かれた修道院はいらねぇって声が上がっちまったんだとよ。まあ、だからこそ。歌術を使えて、それでいて白虎のお前に居てほしいって言う奴も
居たんだろうけどな。もっともその商人の奴は、お前が俺の連れで。お前を引き留めたら、俺が魔剣を持ってどこかに行く事もしなくなると見て。それには大反対だったそうだが」
「はぁ。なんというか。厳かな気持ちで、信仰をしてゆくのには、程遠いと実感させられてしまう様な話ですね」
「そういう点では、ヌベツィアの方がましってくらいだからな、あの街は。そんな街も、もう出てきちまったんだがな。……ガルジア」
不意に、僅かに雰囲気を変えて、リュウメイが呟く。ガルジアは居住まいを正して、それを迎えた。
「俺は、確かにエイセイから出てきた。だが、今のあの地の事は、何も知らねぇ。こいつは、一度だけ言うぜ。冗談抜きで、どんなにやべぇもんがあるのか、わかりゃしねぇ。それでも、いいんだな」
「……お優しいんですね、リュウメイさん。そうやって、確認してくれるなんて。私は、大丈夫です。いえ、戦力的には大丈夫じゃないと、思いますけれど」
「だったらいい。俺の里帰りに、付き合ってもらうぜ」
「里帰り、ですか。リュウメイさんが育った場所を、見てみたいですね。私が育ったラライト修道院を、リュウメイさんは見たのですから」
「あんな所、なんにもありゃしねぇさ。……本当に、なんにもな」
刹那、リュウメイが酷く寂しそうな表情をする。この男の、こういう表情はとても珍しく。しかし次の瞬間には、里帰りの事を持ち出しては、馬鹿みたいに笑いだしていた。
ガルジアは苦笑しながら、深くはそれを追求する事を止めて。空を。そして、通ってきた道へと視線を移す。
グレンヴォールの傲岸に聳え立った壁だけが、遠く離れた今も、その瞳には映っていた。
寒さが、被毛の上からでもガルジアの肌を刺すようだった。
人が足を踏み入れて、手を施した場所は、地図に記されるという。そして、その手と足が、いまだ及ばぬ地を、人は地図の外側と。魔境と呼ぶ。
そしてまた。エイセイ領の荒廃した地を指して。かつてそこに暮らしていた人々は冗談めかして、ここは外と同じだと揶揄していたという。ならば、今目の前に広がる光景は、外と同じなのだろうか。ガルジアは、束の間考えていた。
どこまでも広がってゆく様に、視界は開けていた。しかし、本当に開けている訳ではない事も、またわかっている。遠くには、黒い影が蠢いて。本当の遠くまでは、見渡せぬのだった。それ以外に見えるのは、ただただ荒れ果てて、そして枯れた木や、
もはや元はどの様な生物だったのかすらわからぬ動物の骨の数々だった。そうして、それらの上に、白い雪が積もっている。
エイセイ領。確かにそこは、ここまでガルジアが歩いていた場所と、一線を画するかの様だった。
「リュウメイさん」
不安に思って、ガルジアは前に居るリュウメイへと視線を送る。当のリュウメイはというと、いつもの明るい様子も見せずに、その地を見つめていた。或いは故郷とも言えるその場所に、思いを馳せるなどという事が、この男にもあるのかも知れないと。ガルジアは
見守る事しかできなかった。それでも、その内にリュウメイは振り返る。ガルジアの存在に、今気づいたとでも言うかの様に。
「ああ、悪い。なんだ」
「いえ、その……本当に、荒れ果てた地なのですね。それに、寒いし」
「そうだな」
リュウメイと二人旅を続けて、ここまできたガルジアは。次第に変わりゆく景色の変化に戸惑っていた。エイセイに辿り着く前までは、景色はこんな風ではなかったし、寒さを感じる訳でもなかったのだった。さながら旧エイセイ領だけを狙ったかの様に、災厄の類が
押し寄せて見える程に。その地は、不毛の一言で片付く様相を呈していた。外周部は、周辺の者達の手により多少はましになったと言われていたし、それはまた事実でもあったのだが。引き留める人々に、どうしても行かねばならぬと笑って、足を
踏み入れれば。どうして彼らが執拗に、特にガルジアを不憫そうに見つめて止めたのかが、ガルジアにはよくよく理解できた。そこは、あまりにも生の営みから、外れてしまったかの様な。そんな世界だったのである。それと比べれば、今まで歩いてきたどの場所も、
ずっと天国に思えただろう。少なくとも、どれ程悪徳に塗れ、汚らわしく、おぞましいと思えた場所でも。それを極めたであろう、ヌベツィアであったとしても。それでもそこには、日々を生きる人々の姿という物が確かにあって。そうして、それがあるという事は、それに
付随する物の動きが。商いがあれば、それを求める者が居て。分かち合ったり、或いは奪い合って独占をしたり。良し悪しは別として、人が居るからこそ成り立つ世界という物が、あったのだった。
しかし、今目の前に広がる、この地の有様は。それとはあまりにも、懸け離れていて。一層、清々しいと思える程だった。確かに、地図の外側がこれと同じであるというのならば。そこを魔境と人々が呼ぶのは、あまりにも的確な表現だったと、舌を巻くしかなかった
だろう。それ程に、旧エイセイ領というのは、少なくとも知性と理性とを持つ生き物から、見放された土地なのだった。当然ながら、この地に足を踏み入れて。ガルジアはいまだ、他の者の姿を、リュウメイを除いて見る事もなかった。誰も彼もが、ここを恐れて、そして
忌避しているかの様だった。
「昔から、こんなに酷かったのですか、ここは」
「いや、流石にそれはねぇよ。前はもう少しましだったさ。そうじゃなかったら、いくら鎖国だのなんだのしていたって、こんな国成立する訳ねぇだろう」
「それは、そうかも知れませんが」
リュウメイが、その場で屈み込んで、大地に手を触れる。それから、土をその掌に掬い取っては、指先で弄る。そうすると、かさかさに乾いた土は、ぽろぽろと音を立てるかの様に。まるでもっと何か別の、おぞましい物ででもあるかの様に。大地へと帰ってゆく。
「俺でも、少しはわかる。この地はもう、死んでるんだな。それらしい魔力ってもんが、欠片も感じられねぇ。そういう意味では、ここは外側の魔境とは、まったく正反対の場所だ」
「外側は、違うのですか?」
「寧ろ、変に魔力が強すぎたりして。だから魔物が異常な成長を遂げる事もあるって話だぜ。……ここは、そうじゃねぇ。昔よりも更に、悪化してるんだな。本当なら、魔物の姿だって、見えてもおかしかねぇはずなんだが。今はそれも見えねぇ。大地が、本当に
死んじまうと。魔物でも、住んじゃいられねぇ訳だな。まあ、食う物に困るのは、俺達も、魔物も、変わらねぇって事だ。寧ろ、エイセイが崩壊した事で。俺達が居なくなったから、余計に向こうも困っただろうよ」
「こんな所に。……この先に。あなたの求める方が、居るのですか」
「居る。間違いなく、アオゾメは居る。あいつは多分、前と変わらずに。この先の城に居るだろうよ」
「城、ですか?」
「あいつも、エイセイの高官の一人だったからな。でも、あいつは。他の奴らや、王の様に、不老不死の研究には良い顔はしてなかったみてぇだ。その辺も、俺は全部は知らねぇがな。そもそも、俺はエイセイには居ちゃいけねぇ種族だったからな」
「エイセイに居てはいけない種族、というのは。どういう事なんですか」
「鱗を持つ者。竜や蜥蜴の存在を、嫌ってたみてぇだ。それも、俺はアオゾメから。俺があまり長く居ると、殺されかねないからと聞かされてただけだがな」
「でも、そのアオゾメさんは。今は、リュウメイさんに戻ってきてほしいと言っているのですね」
「……今は、進まねぇと。アオゾメと直接話さねぇと。なんにもわからねぇままだな。ガルジア。本当に引き返すなら、今の内だぜ」
「あなたらしくないですね。そんな風に、何度も訊いてくれるなんて」
「俺らしい、か。そうだな」
それでも、リュウメイはもう、わざとらしい素振りを見せる事はなかった。それ程に、余裕がなかったのかも知れない。確かに魔物の姿は、当初予定していた様に見当たらなかったが。それが却って、えも言われぬ不安を無心に掻き立てるのだった。見える
驚異よりも見えぬ驚異の方が、時として人の恐怖を駆り立てては、その理性を苛む事を。ガルジアは今、痛い程に感じていた。どこまでも続く荒廃と、その上に降る細やかな白い雪は、死の予感だけを伝えてくるのだから。
「後戻りする気は、ありません。それに、せっかくリュウメイさんの用事が、できた訳ですしね。ほら。今までは、どちらかと言えば、気ままに歩いていたじゃないですか。それから、いつの間にか私が、ヨルゼアの一件に巻き込まれて、そのためにあちこちに
行く事もあって。ですから、今リュウメイさんの用事があって。それに付き合えるのなら、私は嬉しいですよ。……死にたくはないですけれど」
「まあ、誰だって死にたくはねぇわな。そんじゃ、死なねぇ様に頑張るとするか」
並んで、荒野を歩く。既にここまで様々な都合を付けて乗っていた荷馬車なども、見当たらぬ。こんな所に長居をする者は誰も居ないのだから、それは当然の事だが。ここからは、とくに気を付けなければならなかった。たっぷりの食糧と水を、持ち込んでは、
流石にこの荷を二人で持つのは難しいために、贖った馬をリュウメイは一頭連れて、それに積んでいた。ただ、それとは別に最低限の食糧を、ガルジアは持たされてもいる。それは、馬の様子を見れば、仕方がないとも言えた。
怯えているのである。この地に。この、既に死んだ土地の様子に。リュウメイは馬が逃げぬ様に、轡を取っていたし、その上で馬が落ち着く様に、頻々にその首を叩いたり、撫ぜてはいたものの。動物の本能的な部分からくる警鐘と恐怖に、馬はどうしても
尻込みをしてしまう様だった。それは、修道院育ちであるガルジアとて変わらぬのだから、もっと野性的な動物にとっては、克服しがたい物だっただろう。
こういう時、ライシンが居れば良いのになと、都合の良い事をつい考えてしまう。実際に、三人で旅をしていた時は、ライシンは率先して荷物を持ってくれたし、それは実に助かる事でもあったのだった。旅慣れておらぬガルジアでは、あまり荷は持てぬし、
リュウメイが持てば、有事の際には逐一下ろさなくては戦い辛くて仕方がない。ライシンとて体術を駆使する事もあるが、離れた場所から邪法で援護に回れば、多少足取りが重かろうが関係ないので、そういう意味でもライシンが荷物を持つというのは、
効率的だったのである。加えて、馬の様に恐怖に怯える事は、少なくともここまで露骨にはないのだから。
しかし居ない者は仕方がないと、諦めるしかなかった。リュウメイも、それを当てにはしておらぬ様だった。
「どこまで続くのでしょうか。この道」
かつては多少は人馬の行き来があって、それ故に拓かれた道は。ともすればそれが道とわからぬ程に、寂れ、荒れ果てていた。まだこの土地が生きている間に、申し訳程度に整地されていた道を植物が這いずり、獣が荒らし。そして今は、その上に淡い雪が
掛かっている。雪の下には、枯れたそれらが転がって。雪の量は、決して多くはなかったものの。それでもそのせいで、しばしば道がどこにあるのか、わからずに迷う事もあった。リュウメイとて、さまでこの辺りに詳しいという訳ではないという。
「旧エイセイ領は、それほど広くはないのですよね」
「そうだな。元々が、そんなに外交的な国でもなかったし、いつの頃からか鎖国に近い様な事もやってたし、豊かな国だった訳でもねぇ。今でこそこんな形だが昔は、なんて言えもしねぇしな。まあ、俺の知る昔も、そんなに遠い話の事でもねぇが」
「なら、早く用事を済ませましょう。付いてきておいてなんですが、あんまり私、ここで長持ちできる気がしません」
「こんな寂れた地で狩りなんざやってられねぇしな」
「ええ、本当に。立ち入りが許される様になったって話ですけれど、こういう所に足を運ぶ人なんて、居るのでしょうか? まあ、私達も、入っていますけれど」
「それが、意外と居るそうだぜ。かつては人が居たが、今は無人。そうなれば、エイセイの遺跡やらがあれば、そこには金目の物なんかは転がってるって話で。しかも今は入る事が許されたもんだから、堂々と大手を振って入る奴が増えたって話だ」
「物好きですね」
「エイセイの品は、ガリューが言ってたが。好む奴も居れば、反対に好まねぇ奴も居る。国が、国だからな。ただ、以前は立ち入りを禁じられていただろ? そうなると、エイセイの品を持ち帰っても、ガリューみたいな奴の目に掛かれば、これはエイセイの品だから、
どうして立ち入る事ができないはずの場所にある物がここにあるのかって、そういう話になる。そうなれば、表では扱えねぇ。ヌベツィアやらの、闇市や裏の流通が担当するだろう。でも今は、そうじゃねぇ訳だ。実のところ、立ち入りを許可されたっていうのには、
そういう背景があるって話だぜ」
「えっと……。つまり、既に盗掘した物を堂々と売り払うために、誰でも入る分には文句を言われない様に尽力をした人が居る、という事でしょうか?」
「そうそう、そういう話。管理してる奴は居ねぇから、遺物を持ち帰る事自体は可能だし。先を見越して個人で忍び込んでは取った品を寝かせてる奴も居れば、もっと長い目で見て、自分がいつか立ち入る事ができる様にするからと、金で雇った奴らに物だけを
先に取らせた商人も居るって訳だ」
「……なんだか。こんなに無人で、殺風景で。浮世の事と無関係そうな場所でも、結局はそういうややこしい話や、お金が絡んだ話になってしまうものなのですね」
ちょっと、ガルジアは呆れてしまう。ただ、こんな話でも。恐怖を和らげる材料にはなってくれる。そうなると、ヌベツィアではよくよく探せば、エイセイの品がよく扱われているのかも知れないなと思った。或いはリュウメイの目には、それが見えていたのかも知れない。
「そりゃそうだ。この世は生きてる奴の物なんだからよ」
最後に、リュウメイが付け加える。呆れながら、しかしガルジアはそれには頷いた。
粉雪の降り続く道を、歩いてゆく。遠くの空にはいまだに、黒い影が覆い。リュウメイが目指しているという、城の姿は見える事もなかった。
果ての無い世界を、どこまでも。どこまでも、ガルジアは歩いていた。前を歩くリュウメイは、相変わらず元気そうに。しかし口数は少なく、歩いている。
何日、こうしているのだろうか。そう考えても、既に答えは出せなくなっていた。それ程の時間が、実際に経った訳ではない事だけは、わかっている。しかし、どこまで歩いても、変わり映えの無い景色を、ただ二人歩き続けるというのは。時間の感覚を狂わせるのに、
充分な物があった。時間の経過を報せるのは、ただ己の身体を襲ういくつかの生理的な作用と、あたう限り持ち寄った荷物の減ってゆく様だけである。昼は薄明りの状態でだけガルジアの目に広がり、足早に立ち去っては、長い夜が続いていた。
荷運びのために連れてきた馬は、とうに始末してしまった。それを、したかった訳ではない。ただ、この世界の中を歩くのには、やはり本能によって行動する部分の多い生き物には、辛く。馬はその内に、気が狂った様になってしまい、どれだけ宥めようとも、
走り出そうとして。仕方なくリュウメイが黙ったまま切り捨てるのを、ガルジアもまた黙って見つめていた。食糧として使える部分だけをはぎ取り、荷物を拾い上げ、また旅が。どこまでも、果てしなく続くかの様な旅を再開したのだった。
空腹は、それ程苦にはならなかった。その感覚さえ薄く感じられるし、また実際に、この道程はそれ程の強行軍という訳ではなかった事が挙げられる。如何にリュウメイが、エイセイに足を踏み入れるのは久しいとしても。それでもかつては己が存在していた
場所に、ただ向かうだけなのであるからして。少なくとも糧食が尽きて、飢えに苦しむ、という事はなかった。エイセイの中でまったく狩りができぬという事は、エイセイに入る直前になってわかっていたので、その分に多少金を使ったに過ぎないのだから。
だから、強いて言えば。この強行軍は、ひたすらに精神の摩耗との戦いと言っても良かった。代わり映えの無い世界を、ただ進み続ける。快い様であり、同時に恐怖を呼び覚ます旅でもあった。それは、グレンヴォールで黒牙の者達と通った、教会地下の通路に
似ているともガルジアは思った。穴蔵の中と、開けたここでは、雲泥の差があったものの。それでも果てがなく、終わりが見えず。どこまで己の体力と正気が持つのか。今己の踏み出した一歩が、不意に何物をも踏みつける事ができずに崩れ落ちる様な事は
ないのか。その様な、凡そ普段の生活では対する事のない恐怖との、根競べを続ける必要があったのである。
それでも、ガルジアにとってその旅は、それ程の苦痛を伴う訳ではなかった。自分でも、意外だと思う。確かに疲れてはいたし、感情の動きも鈍くなっていた。リュウメイが馬をその剣で切り捨てても、何も言わなかったくらいである。それでも、自分の傍には
リュウメイが常に居て、片時も離れる事はなかったのだった。今までの旅路の様に、わざとらしく下卑た笑みを浮かべながらくっついてくる事もなければ、冗談を言う事もない。最低限の言葉を交わしては、あとは無言で、互いの動きを見て、それを察する事が
できる。ガルジアは不思議とそれが、快いと感じていたのだった。あれだけ反りが合わぬと思っていた相手と、今は阿吽の呼吸の様に、ぴったりと繋がっていられる。そうして、どこまでも歩いてゆける。それは、あの穴蔵の中と同じ様で、唯一違う点でも
あったのだった。ルカンの事は、嫌いではないが。少なくとも今の様に共に歩く様な真似は、できはしなかっただろう。
街に、何度か立ち寄った。街というよりは、村であり。そしてとっくに人から見放された、廃村だった。それでも最低限の寝床を確保するのには充分であったし、携帯食料と、火を起こし、鍋で雪を湯に変えれば、少なくとも今すぐに生命の危機を感じる様な
事もなかった。唯一、誰ともすれ違わぬ。それだけが、自分達がまったく別の世界に迷い込んでしまったかという錯覚を強くさせる。
「明日には、城に着くだろうよ」
無言で、てきぱきと準備を進めていたリュウメイが。質素な食事をガルジアが突いている時にふと言葉を漏らす。意外な事に、リュウメイはこういった細々とした仕事も得意な様だった。ただ、面倒臭がって、ライシンなどが居る時は全て任せきりに
していた様で。こうして二人で旅をすると、流石に何もかもを旅に不慣れなガルジアに押し付けては事が運ばぬので、そういう時は率先してやる事が多いのだった。調理の腕なども、実はライシンなどよりは余程上手い。戦いとなれば、ガルジアは後方に控えている
しかないので、その辺りはどうにか回数を重ねて、自分で担当できる様にはしたのだが。
「明日、ですか」
「ああ。遠くに、見えただろ?」
「ええ。今までも、時折見えている時もありましたけれど」
旧エイセイ領を歩く間、遠くの景色というものは、いつだって黒い霧に包まれては、見えはしなかった。自分達が入った方向ですら、一日で薄っすらとした物になり、その後はすぐに、前後の感覚を損ないそうになる程に、見えなくなるのだった。当てのないその
旅に、不意に終わりを報せたのは。その霧の中から浮かび上がった、淡い城の影だった。この廃村で休むと決める少し前に、それは不意に、ガルジアとリュウメイの目に見える様に現れたのである。夢から醒めたかの様に、ガルジアはしばらくそれに見惚れて
しまった事を憶えている。霧に覆われて、その城がよく見えた訳ではないけれども。それでもこの旅が、ようやく終わるのだと、そう思えば感じ入る物は確かにあったのだ。もっとも、ここまで歩いてきたのだから。帰る事ができるのならば、また同じ道程を
歩まなければならなかったのだが。
「ここまで、何もありませんでしたね。というより、何も無かったですね」
「そうだな。少し拍子抜けしたが、まあ面倒は無いに越した事はねぇだろうよ。外側の魔境と同じ、なんて冗談言ってたが。厄介な魔物の姿が見当たらねぇんだからな」
「そうですね。あとは、アオゾメさんに会うだけですね。……差し支えなければ、どんな方なのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「あいつの事は、あんまり口にしねぇ方が良いかも知れねぇが。それでも、聞きたいのか」
「リュウメイさんが、お嫌でなければ」
「なら、構わねぇな。あいつがエイセイの高官の一人だっていうのは、前にも言ったな。あいつは元々、高名な魔道士として、招聘を受けてエイセイにやってきたんだったかな。あいつは、その辺の事はあんまり俺には話したがらなかったけどよ」
「魔道士、ですか。とてもお強い方なのですか?」
「だからこそ、今回一人でやり遂げたんだろうよ」
「やり遂げたって、その……エイセイの偉い方々が計画していた、不老不死の事ですよね。あの、もしかして。リュウメイさんが、クロムさんを良くは思わなかったのって」
ふと、クロムの事を思い出して、ガルジアはそれを取り上げる。クロムの身体の事を。要は、不老不死を体現せしめたその男を知った時。珍しくリュウメイは感情を露わにするかの様に、クロムを毛嫌いしては、挑発まで行ったのだった。それに、リュウメイが
静かに頷く。
「別に、俺はあいつの事は嫌いな訳じゃねぇ。剣の腕も良いしな。ただ、不老不死なんて、そう簡単に持ってこられても。どうにも胡散臭くてな」
リュウメイがそう言うのは、無理からぬ事でもあった。国家ぐるみでの陰謀となった、このエイセイでの暴挙ですら。結局は上手く行かなかったか、少なくともそれを計画した者は破滅を迎えて、だからこそ国まで滅んだのであるのだから。その国の出身である
リュウメイが、クロムの身体の事を聞いて、不快感を示すのは。仕方がない事だったのかも知れない。
「アオゾメさんは、それを解決されたのですね?」
「ああ。あいつは、それには反対だった。元々魔道士だからこそ、それを求める事の意味を、よくよく理解していたんだろうな。だが、権力者には、それは通じねえもんさ。別に、アオゾメは真っ当な奴だった訳じゃない。それは育てられた俺でもわかるさ」
「まあ、リュウメイさんを見れば」
「おい。……だが、欲に塗れちまった奴らってのは、その上さ。自分達の地位を盤石にするためにアオゾメを招いた癖に、そのアオゾメが計画に反対を示すと、露骨にアオゾメを冷遇したんだ。まあ、厳密にはアオゾメを招いたのは、もっと何代も前の奴等
なんだろうが。アオゾメは魔道士としての格が高いから、少なくともその辺の奴らよりは元々長く生きるタイプだ。それが余計に、あいつらの癇に障っちまったんだろうよ。そんなアオゾメの様に自分達がなる事を、当のアオゾメに反対された訳だからな。何より、
そういう分野っていうのは結局は魔導の事だろ。アオゾメの協力を受けられなければ、元々上手くいくはずもない物が、余計に分が悪くなる。アオゾメ以外の魔道士にも、色々と声を掛けたんだろうがな。だが、今こういう形になって。エイセイは滅んじまって、
その上でアオゾメからの招待があったんだ。結局、あいつらは皆死ぬか、またはどこかに逃げ出して、アオゾメだけが残ってるんだろうよ。奇特な奴だな。魔道士なんだし、こんな惨めな国にしがみ付く様な理由は、あいつにはねぇと。俺はずっと考えてたんだが」
「明日、お会いになれば、きっとわかりますよ」
「そうだな。もう、寝るか。……なんだよ。そんな笑える様な話、俺はしてねぇぞ」
「いえ、ごめんなさい。その。リュウメイさんが、沢山お話をしてくれるので。なんとなく、嬉しくて」
つい、ガルジアはそれを口にしてしまう。リュウメイと、こうしてしみじみとした話をする機会は、滅多に無かった。終わり滝以来であったやも知れぬ。大抵はリュウメイの決断に従う事が多いし、それは大体において正しいのであるからして、ガルジアが口を挟む
余地というのは基本的にはないのだった。普段のおちゃらけた、軽口を叩くリュウメイならばまた別だが、そういう時のリュウメイは、まず真面目な話という物は持ち出さぬので、やはり今の時間が、とても貴重な物に感じられるのだった。
「アオゾメの事だからな」
「大切な方なんですね」
「……そう、なのかな」
僅かに、リュウメイが表情を曇らせて。いつもの迷いがなく、自信に満ち溢れた態度を失う。ガルジアはそれに驚いたが、リュウメイはそのまま背を向けて、毛布替わりとしてのマントに身を包ませて眠ってしまう。廃屋の中には、他にめぼしい物もなく。ガルジアも
程無く灯り替わりの光石を仕舞うと、横になって、しばらくはリュウメイの赤い髪を見つめていた物の、やはり疲れが溜まっていて、その内に意識を失う。
明くる朝。ガルジアが目覚めた時、既にリュウメイは身支度を整えていて、ガルジアは慌てて立ち上がる。リュウメイの言う通り、今日、あの城に行くというのならば、ここを出るのは急いだ方が良いだろう。
「行きましょう。リュウメイさん」
リュウメイが、それに黙って頷く。
黒い霧の中に、突如として浮かび上がったその姿。
それは、黒い城だった。黒い霧の中に浮かび上がるのだから、もっと別な色合いをしているのではないかと、最初は思ったのだが。近づけば、よくわかる。それは霧よりも尚黒く。まるで、リュウメイが今手にしている魔剣とまったく同じ造りであるかの様に、
遠くに傲岸として聳え立っていたのだった。外観は、中央に大きな塔が立ち、その周りをいくつかの細い塔が囲んでいる。等間隔で配されたそれらとはまた別に、いくつか細く、背の低い塔もあった。
「あれか。あれは、魔導のためにそうしているらしいぜ。確か、一番小さいのは。アオゾメが来てから、その指示で建てたって話だったかな」
「そうなんですか」
訊ねてみると、リュウメイは素直に教えてくれる。ガルジアは、またその城を見遣った。遠くから見ても、それが不吉の象徴であるかの様に不気味さを孕んだ物である事が、察せられる。既に人の手を離れたそれは、まるで巨大な、動かぬ魔物の死骸の様にも
ガルジアには見えたのだった。淡い雪化粧の中をここまで歩いてきたのだから、尚更そう思う。その城には、少なくとも離れたこの場所から目視する限りでは、雪はどこにも掛かっている様には見えなかったのである。まるで、それ自体が血肉の通った生物であって、
己に降り注ぐ雪を、その体温で溶かしているかの様に。無人の静けさの中に、有人の怪しい存在をでも主張しているかの様だった。
それでも、リュウメイはそこへ向かうと言う。ならば、ガルジアに異を唱えるつもりはなかった。どの道、今更帰りたいと言ったところで、流石にどうしようもない。一人で戻る力など毛頭ない。一応はエイセイの出身と言っても良いリュウメイの土地勘を頼りにしたからこそ、
ここまで来られただけであって、一人の力では元の場所に戻る事などできないし、その上で戻る場所が、今のガルジアには無かったのだから。
しかしここに来て、突然に変化が訪れる。それには最初、二人とも気づく事はできなかった。何故ならば、それはこのエイセイ領に入った時から、とうに見慣れた物であり。最初はそれがたまたま強くなっただけだろうと、少なくともガルジアは思っていたからである。
「リュウメイさん、これは」
だが、それも流石に視界が危うくなるまでに強くなれば、ガルジアにも変化として気づける様になる。最初に確かな変化として受け止められたのは、目指すべき場所として、今まさに目前に迫った城の姿が、突如として霧の中へと。まるで二人から逃げ去る蜃気楼でも
あるかの様に消えてしまったからだった。僅かな戸惑いの後に、しかしガルジアは、そうではない事に気づく。白い霧。それが、今ガルジアとリュウメイを、包んでいるのだった。遠くに、景色として広がる黒い霧とは、まったく別の物。そして、微かに感じる魔力の
波動。ガルジアはそれを感じ取る事に長けているとは決して言えなかったが、それでも何も感じぬという訳ではない。
霧が、徐々に濃くなってゆく。それは城を最初に隠したのかと思えば、遠くの黒い霧を隠し。そうしてにじり寄っては、雪を呑み込み。次第に、少し先を歩くリュウメイの姿すら、白く包まれようとしていた。ガルジアは慌てて、リュウメイへと近づく。リュウメイは黙って
剣を。魔剣の方を、抜いた。白い霧を切り裂く様に現れた黒い魔剣の刀身は、リュウメイが軽く振るうと、その白い霧をいくらか退けてくれる。
「流石、魔剣なだけはあるな。魔法にも効果があるみてぇだ」
「でも、こんな物切っても、仕方ないですよ。それに……魔力を感じるのなら」
「ああ」
それを感じ取る事ができるという事は、今まさに誰かが、仕掛けてきているという事だった。それが、少なくともこれから向かう城に居るであろうアオゾメではないという事は察せられる。自分で呼んでおいて、その相手がいざ目前にまで来ているというのに、それを
拒む様な事は、しないだろう。
ならば、誰なのか。それを考えて、しかし答えが出るはずもなく。代わりにガルジアは、この経験が初めてではない事をふと思い出していた。いつだったかと、記憶を掘り起こして、それにはすぐに行き当たる。その時も、ガルジアはリュウメイと二人きりで、
歩いていたからだった。リュウメイと出会った直後。半ば無理矢理、リュウメイに連れられて、うんざりとしながら街道を歩いていたまさにその時に、不意にどこからか湧きだした白い霧に呑まれた事を、ガルジアは思い出したのだった。あの時は、道を逸れれば
霧の魔の手ならは逃れられて、そのまま森の中を進んだが。しかし今は、そうする事もできなかった。あとはまっすぐ進めば、アオゾメの待つ城へと辿り着くという状態である。他の方向に行けば、或いはこの霧は、以前の時の様に自分達を見逃してくれるかも
知れないが。
ちらりと、リュウメイを見る。魔剣を取り出した事で、その男の周りの霧は無くなり、その表情も窺える。一目見て、ガルジアは思わず笑みを浮かべて。それから、踵を返す事も、諦めた。少なくともリュウメイには、そのつもりなど無い事が、察せられたからである。
「リュウメイさん。詩で風を起こしてみましょうか」
ならば。今の自分にできる事を。そう思って訊ねてみるが、リュウメイは少しの間、黙ったままだった。それから、やにわに剣をもう一度振るい、霧をもう少しだけ晴らす。
「いや、必要ねぇ。……いい加減、出てこいよ。こんな霧じゃ、前みてぇに俺は道を変えたりしねぇし、そもそも帰る気はねぇぞ」
遠くに聞こえる様に、リュウメイが声を張り上げる。その声の主が近くに居る事を、既にリュウメイは気配によって感じ取っているかの様だった。つと、人影が霧の中から現れる。ガルジアはリュウメイの邪魔にならぬ様に数歩退きながら、それでも歌聖剣に手を掛けて、
相手を待ち構えた。この霧の中であるからして、奇襲は容易いだろうと周囲に気を配ってみるが。相手は、正面に居るその一人だけの様だった。
霧の中に浮かび上がった輪郭が、進んで。その姿を少しずつ露わにする。男の様だった。少し、太めの体格をしている。そこまで気づいてから、ガルジアは目を見張った。こんな所で会うとは、思ってもみなかった男が、そこに居た。
「……やっぱり、てめぇか。ライシン」
リュウメイが、その名を呼ぶ。霧の中から現れたライシンは、黒く袖の無い拳法着を纏い、無い袖の代わりに、その腕には黒の帯魔布が何重にも撒かれていた。いつもの、見慣れた明るい要素は微塵も感じられず、どことなく虚ろな様子さえ見受けられる。構えも
せずに、ライシンは今、ただリュウメイをまっすぐに見つめていた。
「なんだ。バレバレだったんすね。俺の事」
「隠す気も無かったじゃねぇか。偽名くらい、使っても良かったんじゃねぇか」
「まあ、そうなんすけど。別に、そういうつもりじゃなかったっすからね。俺は」
「ライシンさん。どうして、あなたがここに」
ガルジアの呟きに、ようやくライシンは、ガルジアへと視線を移す。ただ、そうするだけで、やはり笑う事はなかった。この男は、いつ見てもよく笑う男だと。ガルジアは、己が勘違いをしていた様に感じてしまう。記憶を辿れば、大抵の場合においてライシンは大らかで
笑みを絶やさず。年下だというのに、頼れる部分もあって。それでいて、リュウメイを一途に慕っては、嫌がられては苦笑をして。とにかくそんな、明るい印象を受ける男だった。
「ガルジアさんまで、連れてきちまったんすねぇ。この人は、関係ねぇのに」
「ついてくるのかどうかは、こいつが決めたんだ。とやかく言われる筋合いはねぇぜ」
「確かに。自分でやりたいと決めた事なんだから。誰かから、ああだこうだと言われたくなんかねぇっすよね」
ライシンが、静かに両腕を浮かせて、それから構える。それと同時に、腕という添え木に巻き付く蔓の様だった黒の帯魔布がたるみ、渦巻く様に広がる。そうすると、魔導に対して素人同然のガルジアでさえ、恐ろしい程の魔力を感じて、全身の毛が逆立つ。
「俺がここに居る事に、納得をしているのなら。兄貴。俺が言いたい事も、わかるっすよね」
「知らん」
「引いてください。俺は、兄貴をあの人に会わせるのには、反対なんで」
「待ってください、ライシンさん。どうして、こんな」
「うるせぇな。部外者は黙ってろよ」
ライシンから飛んできた暴言に、ガルジアは固まってしまう。ライシンはそんな自分の様子を見た後に、僅かに躊躇う様に目を伏せる。
「……すみません、ガルジアさん。けれど、俺は何も、ふざけてこうしている訳じゃない。俺は、兄貴がこの先に進むのを、止めないとならねぇんで」
「どうして、なんですか」
「兄貴と、あの人。……アオゾメ様が、再会したら。きっと、どちらかが死んじまうと思うから」
「死ぬ?」
何を言っているのかと、ガルジアは戸惑う。リュウメイはただ、アオゾメが突然に寄こした招待を受けて、ここへ来ただけであって。アオゾメを手に掛けようとやってきた訳ではなかったはずだ。そもそもアオゾメの生死すら、知らなかった様な口振りであったの
だから。それが、どちらかが死ぬと、ライシンは言うのだった。どちらかが、という事は。リュウメイとアオゾメが出会ったら、殺し合いに発展するという確信を、まるでライシンは得ているかの様にも聞こえた。
「なるほどな。あいつの目的は、なんとなくわかったわ」
そんな中で、リュウメイはライシンの言葉で、状況を理解したのか。寧ろ迷いが晴れたかの様で。そして、そのまま剣を構える。
「リュウメイさん」
「下がってろ、ガルジア。何もしなくていい」
静かな、けれど強い口調で言われて、ガルジアは渋々と後方へと下がる。そうすると、霧は僅かに晴れた。元よりライシンの狙いは、リュウメイの足を止めさせる事だったのだろう。霧は徐々に晴れて、ライシンの背後にある城の姿が、再び露わになる。
「ライシン。てめぇが、ここに来るって事は。これはアオゾメの意思じゃねぇんだな」
「ええ。これ以上進まれると、俺の力があの人に知られちまう。だから、兄貴を止めるのなら、ここしかないと思って」
「どうしても、俺を止めるっていうのか」
「会えばどちらかが、死んじまう。けれど、俺は、どちらにも生きていてほしい。そう、思っています。そのために、兄貴を。……いえ。リュウメイ様。あなたを退ける方が、より確かだと踏んだまで。どうか、お引き取り頂けませんか」
「断る。アオゾメは俺に用がある。俺も、それに応えてここに来た。てめぇの指図を受ける謂れはねぇ。邪魔してぇなら、勝手にすればいい。だが、押し通るぜ」
「流石。言っても聞いてくれませんね。あなたの、そういう所が。俺は本当に大好きだった」
ライシンから、再び夥しい力をガルジアは感じて、思わず小さく悲鳴を上げてしまう。邪法を操るライシンの射程は、かなり広い。更に数歩、ガルジアは下がった。呟きが、どうにか聞こえるぐらいの距離だ。
それも、ライシンの邪法が発動されると、言葉は耳に拾えなくなる。ライシンは雄叫びを上げて、大地に右の拳を叩き落とす。そうすると、ライシンの腕の回りで怪しげに宙に舞っていた帯魔布が、宙に放られた部分から色褪せて、青白い炎を上げて燃えてゆく。そして
その力がそのまま移動を始めたのか、叩きつけた拳から、鋭利な棘と化した岩が幾重に、何重にも飛び出して、確実にリュウメイへと迫った。リュウメイはそれを落ち着いた動作で避けるが、当然ライシンはその程度の事は予想済みであるのか。素早く
腕を払う。そうすると、リュウメイの回りに淡い光を放つ光の弾が瞬時にして、いくつか現れる。本気だと、ガルジアは思った。ライシンは本気で、リュウメイを止めに来ている。少なくとも怪我の一つや二つは負わせて、追い返そうとしているのだった。リュウメイの
周りに現れた光は、程無く直視する事も難しい程に眩い光を放って、爆発を起こすのだろう。
「リュウメイさん」
思わず、ガルジアは前に出て。更に歌術を行使しようとした。しかしそうしようとすると、足元の大地が狙い済ましたかの様に、平らかだった物が起伏を形作って足を取られる。ライシンが、鋭い目でガルジアを見つめていた。
淡い光が、強くなって。しかし、それは途中で消え去ってしまう。ライシンが、ぎょっとした様にリュウメイの方を見ていた。ガルジアも、膝を突きながら、リュウメイを見つめる。当のリュウメイはというと、まったく涼しい顔をしながら、あの黒い魔剣を見事に
使いこなしていたのだった。光が本当の強さを発揮するよりも先に、リュウメイの腕は目にも止まらぬ速さで振るわれ、その腕から伝わった意思を明確に汲み取った魔剣は、ライシンの放った光の全てを切り裂いていたのだった。
「……冗談じゃねぇや。魔法を切られるなんて」
「馬鹿正直に邪法を使っても、俺は倒せねぇぞライシン。この剣は、そういう類のもんだ。俺の元々の剣でも、まったくできないって訳じゃねぇ。聖法や邪法っていうのは、純粋な魔力を、使い手が望む結果を引き出すために、相応の形に変換して引き起こした事象に
過ぎねぇんだからな。馬鹿な奴や、馬鹿を騙したい魔道士は、安易に奇跡だなんだって言うが。結局は定められた法則の上から、法術は逃れられるもんなんかじゃねぇ。一手間掛かる以上は、純粋な魔力の時がある。先に切っちまえば、こういう剣にとってはただの
餌にしかならねぇよ」
「まさか、あんたから魔導についての説教を受けるなんて、思いもしませんでしたよ」
「てめぇが下手糞だからだ。それとも、俺の事をなめてんのか?」
「とんでもない。でも、確かにこれじゃ、勝てそうにないっすね。少なくとも俺の今の技量じゃ、その欠点は潰す事ができない」
ライシンの動きに合わせる様にひらひらと宙を舞っていた帯魔布が、不意に急速に動きだして、最初に対峙した時の様にライシンの腕に纏わりつく。先程までは、ライシンの放った邪法によりそこかしこに魔力が散らばっていたが、今はその全てはライシンの腕に
集中し、ライシンはまた構える。邪法ではなく、体術を行使する様に、両腕を少し浮かべて、リュウメイの動きに目を凝らしていた。よく見れば、その足にも同じ様に帯魔布が巻かれている。
「随分、窮屈そうだな。そいつは」
「俺には、才能なんてありませんから。こうするしかないんです」
熊人が、躍りかかる。見た目よりもずっと俊敏な動きで地を蹴って、一気にリュウメイとの距離を詰める。即座にリュウメイはそれを迎えた。接近戦ともなれば、分があるのはリュウメイの方だった。懐に入られれば、確かに剣よりは拳の方がと思わないでもないが、
元よりリュウメイは接近戦を専門とした戦士であり、剣を取れば並ぶ者とてそう簡単に見つかる事はない程の達人である。如何にライシンが体術を行使できると言っても、リュウメイはその上を容易く行くだろう。事実、リュウメイはライシンを懐に入れる様な真似は
しなかったし、ライシンの腕や足に触れる様な事もなかった。触れられれば、爆発的な魔力を一点に集中させた物であるからして、ライシンの攻撃にも相応の効果が約束されていたはずなのだが、リュウメイはその全てを往なして、そうしてほとんと無造作に、
それこそライシンの命すらなんとも思わぬかの様に、剣を振り下ろす。ライシンが、己の腕を犠牲にするかの様にそれを受け止めるのを見て、ガルジアは思わず目を瞑ってしまう。しかし、不釣り合いな程にぶつかる音と、魔力の波動が広がり、恐る恐る目を開けば、
ライシンの腕には確かにリュウメイの剣が寸分の狂いも無く直撃したはずであるのに、腕は切り落とされる事もなく、リュウメイの剣を受け止めているのだった。ただ、当のライシンは苦しそうな表情をしていたし、制止した二人を尻目に、ライシンの腕にある黒の
帯魔布は更に燃えては、消えてゆく。邪法を放つだけが、ライシンの戦い方ではない様だった。今まで見ていたのは、ライシンの力のほんの一部であり。今目の前でまざまざと見せつけられている通り、本来ならば相反する物のようにさえ思える法術と体術を
組み合わせた戦い方をしているのだった。
リュウメイの剣を受け止めたまま、ライシンは不意に己の足を素晴らしい速度で放つ。明らかに無理のあるその動きも、体術に魔導の効果を乗せた物であるらしく。流石にそれをリュウメイは避け損ねて、腹に一撃を食らう。その直前に自ら後方に跳んだ事で
衝撃を和らげた様だが、それでも着地した瞬間に僅かによろめいては、唾を吐く様に口から血の塊を吐き捨てる。そこまでくると、リュウメイの無表情が段々と消えて。いつものあの楽しそうな顔が。戦いを楽しむ者の姿が現れる。
「やるじゃねぇか、ライシン。てめぇはいつも、俺が出ると支援に徹するし、俺の事を褒め千切るばかりで、てめぇの力は邪法しか見せねぇ奴だったが。そういう戦い方もできたんだな」
「全てを見せたら、いざって時に、あんたを仕留め損ねちまいますからね。俺、本当は。あんたがあんまりにもつまらねぇ奴だったら、この手でやっちまおうと思ってたんですよ。アオゾメ様の手を、煩わせたくなくて。アオゾメ様は、あんたの事を本当に気に入って
おられたみたいだけど。だからといって俺が、その話を聞くだけであんたの事を好きになる訳じゃなかったから。でも、実際に会って、俺の知ったあんたは。やっぱり、強くて。強いだけじゃなくて、俺が何か言える様な人でもなくて。殺そうと思ってた事すら、
忘れちまった。……だから、俺はあんたにも、アオゾメ様にも、死んでほしくねぇんだ。引いちゃ、くれませんか」
「やなこった。ここで引いたら、せっかくお前が俺をぶっ飛ばそうとしてくれてるのに、ふいにしちまうじゃねぇか」
リュウメイが、また血を吐き出してから、これ以上に楽しい事はないと伝えるかの様な笑みを浮かべて。そして、剣を抜く。既に抜いた魔剣と、今までに携えていた剣の二振りを、それぞれ左右の手に持って。ライシンは、息を呑んだ様だった。それは、二人の戦いを
見守っているガルジアも同様だった。グレンヴォールからここまで、隊商の護衛をする事もあって、リュウメイが戦う様を見ていたが。リュウメイはそもそも、魔剣の方を使う事はなかったし、当然ながら二つの剣を同時に、という事も今までの旅では一度もなかった。
「生兵法でやらねぇ方がいいっすよ。そんなのは。隙がでかくなるだけだ」
「悪いな。生憎、何も知らねぇ訳じゃねぇ。邪魔になる時の方が多いから、普段は一本しか使わねぇだけさ」
二本の剣を構えて突撃したリュウメイの口にした言葉は、決して虚勢ではない様で。剣一本の状態でさえガルジアの目では上手く追えぬ程の速さの剣が、二本同時に動いてゆく。ライシンが一本の剣を受け止めようとすれば、リュウメイはなんの躊躇い
見せずに。それこそそのままライシンを仕留めようとするかの様に、もう片方の剣を鋭く突き刺そうとする。特に、魔剣の方は身体に受けるのは勿論、受け止めれば通常よりもライシンにとっては負担となるらしく、その剣の差によって思わずライシンが魔剣の方に
ばかり気を取られてしまう事を早速に逆手にとっては、元の剣の方を。白い剣を操って、そうしてライシンが今度はそちらをと思えばその逆をゆくのだった。帯魔布の力を借りたライシンの力は確かに強かったし、接近戦についても妙を得ているのは間違いが
ないのだろうが、結局はその戦いの中における駆け引きの上手さという点では、リュウメイに劣っているのはどうしようもない事実だった。ライシンがそれに長けていないというよりは、リュウメイが異常な程にその才を持っていたという方が、正しかったのだろうが。
ライシンが短く呻き声を上げる。それと同時に、血が舞った。両方の腕に巻かれていた帯魔布の内、左腕の帯魔布が、ほとんど無くなって。それだというのにリュウメイの魔剣を受け止めたが故に、流石に帯魔布の力で持ちこたえる事ができなくなっていたの
だった。聖法の光を灯しながらライシンが後ろへと跳ぶが、リュウメイはすぐにそれを追従する。ライシンが新たな帯魔布を取り出す暇を、リュウメイは与えるつもりは無いようだった。ライシンとて、何も帯魔布だけに頼る訳ではなく、己の力もあるには違いないが、
帯魔布の力を借りつつ、それ自体を盾の様に扱ってるだけに、生身では更なる消耗を招く様だった。
「どうした。もう終わりかよ。土下座するなら、待ってやってもいいぜライシン」
リュウメイが剣を振るうと、ライシンが残った右腕でどうにかそれを。しかしその動きには互いに、さっきまでの鋭さは損なわれていた。それこそリュウメイが先程の様に攻めれば、その刃はライシンに致命的な傷を負わせただろうし、ライシンの方は
とうに余裕などという物を失くしていて。リュウメイの言葉に、ライシンが限界まで目を見開いてから、地団太を踏む様に大地を思い切り踏みつける。獰猛なライシンなど、ガルジアは見た事もなかったが。今がそれに当たるのだろうと思った。髪を振り乱した
リュウメイも、ライシンも。互いに手負いの獣然とした様子を存分に纏っては、近づく者全てを力で捻じ伏せる猛獣の様相を呈していた。
「あんたの、そういうところ。俺は、嫌いじゃねぇ。寧ろ、好きだよ。……でも、今だけは違ぇ。今だけは……糞むかつくんだよぉぉ!! リュウメイ!」
「上等じゃねぇか! ぶっ飛ばしてやるから掛かってこいやライシン!」
ガルジアは、思わず怯む。ともすれば、それは呆れさえ覚えてしまう程の、野卑で。どうしようもなく粗暴な、荒くれた男の勝負に気づけば変わっていた。最初に動いたのは、リュウメイで。己の優位を捨て去るかの様に剣をその場に放ると、そのまま素手で
ライシンを殴り飛ばす。ライシンも負けじと、やり返す。その様なやり取りになれば、今度はライシンの方に分がある様にも思えたが。既に互いに、満身創痍であって、もはや優劣などという物は存在しなかった。それどころか、勝負の行く末も。その結果で、互いが
どの様な行動にでるのかすら。忘れ去られてしまった様に、ひたすらに拳の、時々は蹴りの打ち合いが始まる。
その頃になれば、ガルジアも少しは息を吐いてそれを見守る事ができる様にもなっていた。或いはそれは、殴り合う二人の顔を見て、納得したからとも言えた。リュウメイは変わらずに、戦いを楽しむ様ではあったが、ライシンの方も、伝染したか様に今はそれと
同じ様な笑みを浮かべていたのだった。先程までは、もっと峻厳そうな。不退転の決意を抱いた顔つきをして、例え自分がリュウメイに殺されようがという気概に満ち満ちていた様にさえ見えたが。今はただ、純粋にリュウメイとの戦いを楽しむそれであって。それは、
修道士である以上二人の行動を野蛮な物だと見てしまうガルジアであってさえ、思わず羨望を覚えてしまう。
少なくとも、自分はあんな風にはなれないなと。ガルジアは思う。
それでも、やがては勝負に終わりが訪れる。勢いの良い掛け声と同時に放たれたリュウメイの拳が、ライシンを打ちのめす。鼻血を出したライシンが、僅かに後方によろめいて。そのまま体勢を整える事もできずに、仰向けに倒れる。流石に体術を得意とする
ライシンの相手であったので、リュウメイも今は息を切らして。座り込む事はなかったが、数歩下がると肩で息をしては、体勢を僅かに崩していた。
「リュウメイさん」
「もういいぞ」
後ろに控えていたガルジアは、おずおずと歩み寄る。息を整えたリュウメイが、何も無かったかの様に姿勢を整えていた。血を吐く様な蹴りを受けた癖にと、ガルジアは思ってしまう。それから、ライシンもそれは同じだった。仰向けに倒れたまま動かないライシンは、
両腕から血を流れさせて、そのままでは腕が腐ってもおかしくはなかった。それでも、その顔はどこか清々しさを得た様に。その瞳は澄んで、今はリュウメイではなく、遠くの空を。霧と雲に呑まれては見えぬ空から降り注ぐ、淡く小さな雪を眺めているかの様だった。
「何をしにきたんですか。二人とも。こんなに、ボロボロになってまで」
呆れながら、ガルジアは詩を歌う。海も何も無い、それどころか魔力の無い不毛その物の様な場所だが、それでも精霊はガルジアの下へとやってきて。すぐにリュウメイとライシンの身体を優しく癒してくれる。ライシンには聖法が使えるはずだが、今はその余裕も
無いようだった。その頃になってようやくリュウメイも、その場に座り込んで胡坐を掻く。
「まだやんのか」
「……いや。もう、いいっす。俺の負けで。もう、腕も動かねぇや」
「お前がここまでやるとは、俺は思ってなかったよ」
「俺も。自分がここまでできるなんて、思ってませんでした」
「二人とも、もっと自分の身体を大切にしてください」
「すまねっす、ガルジアさん。迷惑かけて。あと、酷い事も言って」
さっきまでの様子など、どこかへ行ってしまったかの様に。そこに居るのは、元通りの。ガルジアが知っているライシンだった。再びガルジアは溜め息をついて、それでももう、何も言わなかった。呆れながらも、羨む気持ちが、強くなっただけだ。
しばらくすると、ライシンは重そうな身体を起き上がらせては、腕の調子を確かめて。そのまま懐から新たな黒い帯魔布を取り出しては、腕に巻き付ける。いまだ傷ついたままの腕にそれが巻かれると、僅かに顔を顰めていたが。それ程待たずに、聖法の温かな
光がその腕を包む。
「大丈夫なんですか? その、腕は」
「はい。ちょっと、無理したくらいで。それに、聖法使ってれば腕の方は勝手に治るんで。ささ、兄貴」
ライシンが、リュウメイの治療にも当たる。ガルジアの歌術だけでは、すぐに傷を癒すという訳にはゆかぬので、それは非常に助かる事でもあった。もっとも、失った血まで元通りという事はないので、できればガルジアはこのまま、目前に迫った城に着いたのならば、
そこで休息がほしいとも思っていたのだが。それに、長旅でもある。ガルジアはまだ、我慢ができるが。傷ついたリュウメイの方は、どうしても心配になってしまうのだった。
治療を受けながら、リュウメイはまた唾を吐き出す。赤い物が混じったそれに、ライシンが顔を顰める。
「すまねっす、兄貴。俺」
「おあいこだろ、そんなのは」
それ以上、リュウメイは会話をする気も今はないのか。黙ってライシンの治療を受けている。
一頻りそうしてから、落ち着くと。不意に、リュウメイが顔を上げて。そしてライシンの後ろにある、それを見つめる。今や、それ程離れた場所にある訳でもない。エイセイの城。それを眺めては、何を思うのか。ガルジアは精霊の維持のために詩を歌いながら、同じ様に
それを見上げる。黒と白の霧が晴れた今、そこに立ちはだかる黒い城は、自分達をずっと待っていたと言わんばかりに、今ははっきりとその姿を見せていた。その城へと続く細い坂道も、今は見える。在りし日ならば整然としていた道は、今は朽ち、荒れ果てて。しかし
その道とは対照的に、その城は。少なくとも外観においては、年月という物を感じさせぬかの様に、どこにも朽ちた様子という物は見当たらなかった。それが一層、恐怖を引き立たせる。
「なんだか……。ずっと前に、人が居なくなってしまった様なお城には、見えないですね」
まるで、城そのものが生きている様だと。ガルジアは思う。
「ライシン。あそこに、アオゾメが居るんだな」
「……はい。そして、兄貴の事を待ってるっすよ、多分」
「ここまで来たんだ。今更、帰るつもりもねぇ。俺は、行くぞ」
リュウメイが、立ち上がる。ガルジアはその動きを注視するが、どこにも辛そうな仕草を見つける事ができなくて、とりあえずは肩の力を抜く。
「兄貴。アオゾメ様に会っても、俺の事は何も言わないでほしいんすけど」
「何言ってんだてめぇ」
座り込んだままのライシンを、リュウメイがねめつける。それから、静かに腕を差し出した。
「てめぇも来いよ。ここまで来たんだからよ」
「兄貴……。わかりました。俺も、行きます」
「あと、アオゾメの事だからこの程度の距離ならお前のやった事ぐらいは御見通しだと思うぞ」
「マジっすか……」
苦笑しながらも、ライシンはリュウメイの手を、しっかりと掴んで立ち上がる。
「ああ、兄貴に手を貸してもらえるだなんて。やっぱ兄貴、最高っす」
「やっぱお前残れ」
「嫌っすよ。こうなったらもう、どこまでもお供するっすよ。兄貴の露払いをするのは、いつだって俺なんだから」
いつもの調子に戻ったライシンが、小躍りしそうな勢いで言うのをしばらく見つめてから。リュウメイは軽く頷いて、歩き出す。それにライシンが続いて。ガルジアも、慌ててそれを追い。そのまま、揃って坂道へと足を踏み入れた。
夜の色をした城が、ガルジアの事を見下ろしていた。ガルジアは歩みすら忘れて、思わずそれを見上げてしまう。
旧エイセイの中にある、その城は。今は訪れる者とていないであろうに、その外観は遠くから見たのと同じく、古びた様子こそあれ、どこも朽ち果てたる様なところは見当たらなかった。まるで、つい昨日まで。いや、先程まで。ここには大勢の城勤めの者達が
闊歩していて。談笑に耽る事もあれば、城に荷をおろす者や、衛兵に使用人達が、溢れかえっていて。それが突然に、天変地異にでもあって、忽然と姿を消してしまったかの様にも思えた。それから、雪が積もった様子も、相変わらず見られない。このエイセイ領に
入ってから、ほとんどの時それは空から降り注いでいたはずだというのに。今、城に寄りそう様にしているガルジア達に、それは降り注がぬ。まるでもっと高い、中天のところで。降り注ぐ雪の全てが、城に喰われでもしているかの様だった。屋根や外壁を見ても、
どこにも白い物は見当たらず。黒く塗り固められた城であるだけに、それは余計に強調されて、一目見ただけでこの城が、ただの大人しい城などではない事が察せられるかの様だった。
「本当に、生きている様な城なんですね」
「別に、生きちゃいねぇだろ。つかもう死んでるだろ」
リュウメイにその事を伝えると、素っ気ない返事がされる。その様子を見て、ライシンが苦笑を零した。
「魔導の気が、そうさせるんだと思うっすよ。この城には、淡く。けれど他の場所なんかよりは濃く、力が溜まってるっすからね。その、あんまり、良い気じゃねぇっすけど」
「不老不死の研究をしたせい、ですか……?」
「兄貴。ガルジアさんには、もうそこまでお話されたんですか」
「まあ、この剣の事があったからな」
腰に佩いた魔剣を、リュウメイが軽く揺らす。ライシンがちょっとそれを見て、息を呑んだ様だった。
「確かに、魔剣だ。さっきは詳しく見てる余裕も無かったから、あえて知らん顔してたっすけど。こんなもんまで触って、なんで兄貴は平気なのやら」
「別にお前らが触っても平気だと思うぞ。今はな」
「やめてください、近づけないで」
「俺っちもちょっと遠慮しますわ」
「やめろよ、なんか俺が汚くて避けられてるみてぇだろ」
「だったらそれを自分できちんと管理してください。……それより、ライシンさん。もしかして、ライシンさんもエイセイのご出身、という事なのでしょうか?」
話もそこそこに、気になる事をガルジアは問いかける。ライシンは表情を曇らせたが、その内に静かに頷いてくれた。
「隠しても、もう仕方ないっすよね。まあ、兄貴と同じで、そんなに隠してたって訳でもねぇけど。本当に隠すのなら、偽名ぐらい使うべきでしょうし」
「そういや、なんでお前がアオゾメの手先なんだ。別に、お前が今ここに居るのは、そんなに不思議とも思わねぇが。アオゾメを守ろうとするのは、どうしてだ」
「それは。……とりあえず、中入らねぇっすか。こんな所で立ち話しても、仕方ないし。歩いてる間に充分説明できるんで」
促されて、ガルジアは城の中へと足を踏み入れる。リュウメイとライシンの様子を見るが、確かに二人はそれ程まで城の雰囲気に呑まれている訳ではなさそうだった。ただ、リュウメイは一度軽く、その内装を眺めては、考えに耽る様な仕草をする。
「正面はこうなってたんだったかな。俺はほとんど、こっちの方は知らねぇが」
「俺っちも大体同じっすよ。まあ、正式にここを歩ける様な身分じゃなかったんで、仕方ねぇけど」
同じ様に、ガルジアも辺りを見渡す。坂を上って辿り着いたエイセイの城は、正面の開かれたままの門を抜ければ、正面と、左右と。それぞれに分かたれた道が、城壁に沿って続いて。その先を臨む事はこの場ではできはしなかった。床も壁も、そのどれもが
外観と同じく黒石や黒レンガによって構成されており、時折ガルジアは距離感という物を損なっては、まるで黒い石の世界に迷い込んだかの様な錯覚を覚える。見上げれば、天を貫くかと思われる尖塔が、いくつも聳え立っており。リュウメイの言によれば、それらは
魔導のために、一定の法則に則って建てられた物であるらしい。もっとも、ガルジアにとってはただざっくばらんに、黒い石の城の中に、これまた黒い棘の様な塔が経ってるだけにしか見えなかったのだが。
ガルジア達が今立っているのは、門をすぐに抜けた広場であり。間もなくリュウメイ達が何も言わずに歩みはじめるものだから、ガルジアもそれに倣う事になる。案内をする様に、ライシンが正面の道を促す。進めば、先に通った門よりはいくらかこじんまりとは
している物の、城壁に備え付けられた両開きの大扉の片方が、開かれたままであり。特に苦労をする事もなく、屋内へと。この旧エイセイ領を長く歩き続けた中で、唯一人の手がいまだに加えられている場所へと達する事ができた。この城の中でさえ、
とうに人々に見捨てられた場所には違いなかったのかも知れないが、それでもこの先にはリュウメイとライシンが知る人物が居て。何よりも、ここは道中の村とは違い、少しも荒らされた形跡などはなかったのである。ただ、荒れていないとはいえ、それでも流石に
埃を被った物も多く。それだけは確かに、もはやここには、少なくとも全盛期の様な活気などがなくなって久しい事が察せられた。
屋内へと入れば、灯りなどは当然ながら配されている訳もなく、天井には果ての無い闇が広がっていた。ライシンが灯りを出してはくれたものの、それはこの、素材からして真っ暗なこの城の中ではあまりにも頼りない灯りと言わなければならなかった
だろう。常に雪が降り続けているこの地域ならば、尚更だった。昼と夜の違いは、ぼんやりとした明るさだけであって。そして今は、陽が沈みかけているのだろう。どんどんと、世界は闇に包まれては、黒く塗り潰されて。ガルジアの足元に迫っているかの
様だった。建物の様子も、今はさまで見て取る事もできはしない。ただ、がらんとした回廊の壁には、何かの像や絵画が飾られており。不思議と、それらには鱗のある者達の姿が。丁度、今ガルジアの前を歩いているリュウメイの様な男の絵や像が並んでいた。
「竜や蜥蜴の人は、立ち入りを禁じられていたんですよね? それにしては、随分そういう物を模した品が飾ってあるのですね」
「そうだな」
「立ち入りを禁じられていたって、言ってましたけれど。それはどうしてなのでしょうか。それなのに、そういう品はあるみたいですし」
「それは、エイセイの言い伝えがあるすらっすね。俺っちもその辺はあんま、詳しい訳じゃねぇっすけど……庶民の出なんで。元々、エイセイっていうのは、初代王は竜族か何かだったって話みたいっすよ。だから、そういう類の言い伝えがあったらしくて。でも、
この国が滅んだ時、この国を牛耳っていたのは、被毛を持った奴らだったんすよ。それで、言い伝えの中には。いずれは竜の子が現れて、再びこのエイセイを率いてゆくだろう。そういう話があって。だから殊更に、権勢を振るっていた、鱗を持たない輩は、
蜥蜴や竜を排除しにかかっていたって話っす」
「そうなんですか。なんだか、現実の物となるかもわからない伝承なのに、そんな風に振る舞ってしまうなんて。酷い話ですね」
「それで国自体が今は滅んじまったんだから、ざまぁねえな。まあ、んな事はどうでもいいんだよ。それで、ライシン。てめぇの話なんだが」
「ああ、そういやそうだったっすね」
今の話が本当ならば、リュウメイこそこの国で迫害されていたのではないかとガルジアは思ったのだが。当のリュウメイは、そんな事すらそれ程興味を抱く訳でもなく、さっさとライシンへと話を促す。それを受けて、ライシンがようやく口を開いた。
「俺っちも、この国の出身なのは、もうわかってると思うっすけどね。それで、アオゾメ様との関係っすね。アオゾメ様は、俺っちの命の恩人なんです。俺を、助けてくれた」
「いつの話だ?」
「時機で言うと、兄貴がこの国を出てからっすね。だから俺っちは、この国では兄貴と顔を合わせる事もなかったけれど。兄貴が出ていってからも、結局この国のやる事は、変わらなかったんすよ。……あの時はまだ、アオゾメ様の手でも、高官達の暴走を
止める事ができなくて」
「不老不死の研究、ですか」
ライシンが、立ち止まる。そうすると、僅かな光源もそこで止まって。それから、微かに光が弱まる。それはまるで、薄暗くて見えないライシンの表情の代弁をするかの様に。主の心の変化を映す鏡の様に。微妙に光の強弱を変えたり、時には急に光を強く
していた。
「俺の居た村は、エイセイ領の外れの方でした。だから、中央で何をやっていても、それまでは別に、そんなにそれを気にする様な事なんてなかった。貧しかったけれど、決められた物だけを納めていれば、それ以上の事なんて何もなくて。俺も、その一人
でした。子沢山な家の、長男で。貧乏で、汚くて、何も知らなくて。けれど、何も知らないからこそ、俺は弟や妹達の兄貴として、でかい面もしていられた。けれど、あの時は、急に」
「国の兵が来た訳か」
リュウメイが察した様な事を言うと、ライシンのぼんやりとした影が頷くのがガルジアには見えた。リュウメイは、その事情をある程度は察しているのだろう。そしてガルジアも、何も言わなかったが、ある程度そのやり取りで状況を把握する事ができたの
だった。不老不死の研究。天地開闢以来、禁忌として扱われてきたであろうその事に、エイセイは手を出していたのだから。そうして、今この様に滅び去ってしまったのだから。
「人狩りが、きたんです。俺の村に。抵抗した奴らは、皆切り捨てられて。それは、俺もなんすけど。俺の目の前で、親父達が死んで。弟達は、連れていかれて。俺は、何もできませんでした。腹に剣を刺されて、倒れて、そのままで」
「そこに、アオゾメが来たのか」
「はい。本当なら、アオゾメ様みたいなお偉い人が、そんな辺鄙な村に来るはずもなかったでしょうに。アオゾメ様は何度も、俺に謝ってくれて。何もできなくて、すまないって。アオゾメ様のせいなんかじゃねぇのに。俺っちはそのまま、アオゾメ様に拾われて、
しばらくはその下で傷を癒してから、それからアオゾメ様に色んな事を教わりました。魔導の基礎についても。俺っちが今、こんな風に聖法や邪法を使えるのも、全部そのおかげで。でも、ある日アオゾメ様は、俺にエイセイの外に出る様に言ったんです。元々
アオゾメ様の魔導は、素人の俺が真似できる様な代物じゃないから。俺は簡単な事しかできなくて。だから、俺が望むのなら、法術都市であるディヴァリアで一から学んだ方が良いと。それから、忘れられなくても、こんな国の事はもう忘れてしまった方が
良いと。俺は、それは断りましたけど。だから、その後もアオゾメ様とは連絡を取り合ってたんすよ。魔導で手紙のやり取りだけをしてね。それだけをどうにかできる様にする事すら、俺にはしんどくて仕方がなかったけれど」
ライシンの述懐は、最初こそ悲壮感が漂っていたものの、結局のところそれは過ぎ去った遠い昔の事でしかないからか。途中から、アオゾメの事を語る様になってからは、大分落ち着いた響きを持つ様になる。光も、今は安定していた。
「素朴な疑問なのですが。その様に人を狩って、その……人体実験という事ですよね。不死の研究をするにせよ、もっと良いやり方という物はないものなのでしょうか? その、私が言うのはいけない事かも知れませんが。動物などの実験では」
「そりゃ無理だ。動物には根本的に魔力の素養ってもんがねぇからな。俺達とまったく同じ様には、できてねぇんだよ。そうすると、同じ物を与えても、結果が変わっちまうんだ」
「ええ、そうっすね。実は、あんまり表立っては言えねぇっすけど。動物を使っての不老不死っていうのは、実在するんすよ」
「そうだったんですか?」
ちょっと、驚いたガルジアは言う。ただ、それでもガルジアの提案がそのまま通るという事ではなく、ライシンは静かに首を振る。
「けれど、兄貴が今言った通り。俺達と、動物では、身体の造りが違うんすよ。いくら、顔だけ取り上げたら似ているって言ってもね。だから、動物相手にそれを成功させたって、駄目だったんすよ。同じ事をしてもね。かといって、動物をそんな風に
しちまっても、使い道はねぇっていうか……結局は、自分達がそうなりたいから研究をしている訳っすからね。だから、それはほとんど無意味と言っても良いくらいで、だからこそ人を使おうとするんすよ。それから、魔導に拘るのは。魔法使いっていう存在が、
元々の寿命を多少は伸ばしたり、もしくは誤魔化したりするのには長けている方っすから。あんまりそれができると魔人だなんて言われちまうけれど。要は、先人に倣うのならば、結局はそれは魔導の手によって引き起こされるべきっていう考えが
根深いっすからね。それから、それとはまた別に、稀に魔物が。魔力を使ったり、或いは秘めたりしている奴もいるっすけど。それだってそんなにお目に掛かれるもんじゃないっすよ。それに、やっぱり俺達とは身体が違うっすからね。嫌な言い方っすけれど、
中々お目に掛かれない奴より、その辺に居る、なんの価値もない下々の方が、よっぽど都合をつけやすかったんでしょうよ」
「そんな」
改めて、このエイセイという国が何をしていたのかという事実を突きつけられて、ガルジアは困惑と、恐怖と、そして憐憫を抱く。そんな物を求めたいのならば、好きなだけ求めればいいと思うが。しかしそれは、己で受け止められる責任の中だけで終わるべき
だろうと思う。他者を害してまで得られるそれに、なんの価値があるのかと。少なくともガルジアは思う。何よりも、それを手にした者を知っていて。そしてその者の苦しむ様を見たのだから。
「……ありがとうございます、ガルジアさん」
「えっ?」
突然、ライシンから礼を言われて、ガルジアは正気を取り戻す。見上げれば、いつの間にか目前に来ていたライシンが、穏やかな、けれど寂しさをも滲ませた表情で、こちらを見ていた。
「部外者だなんて言って、すんません。なんか、自分でも、そう思ってたのに。だからさっき、あんな事を俺は言ったのに。今、ガルジアさんがとても悲しそうな顔をしてくれて。なんとなく、嬉しかったっすよ。結局俺は、誰の事も、守れなかったから」
「ライシンさん。……いえ、私が、部外者なのは、きっとその通りだと思います。ごめんなさい。土足で踏み入る様な事をしてしまって」
「いいえ。それに、そんなこの国ももう、滅んじまったっすからね。そうなるともう、誰も。ここで犠牲になった人の事を悲しんだりしてくれる訳でもねぇっすから。ざまぁねっすよね。ゴミみてぇに扱ってきた奴らと同じ様な目に遭って、あいつらは消えちまったんだから」
「その口振りだと、ライシン。やっぱり、アオゾメはやりきったのか」
リュウメイが、言葉を挟む。ライシンは一歩ガルジアから後ずさると、リュウメイを見て静かに頷く。
「恐らくは。……その事については、俺も手紙のやり取りの中でしかわからなかったっすけど。けれど、確かにこの国が、国としての機能を損なって。そうして滅んだのは、確かな事で。そんな中でも、アオゾメ様の手紙だけはやっぱり途絶えなくて。だから、
俺も全部を知っている訳じゃないんすけどね。ただ、そう。兄貴が知らなくて、俺っちが知っている事も、少ないけれど、確かにあるっすよ」
薄暗い道を歩き続けると、不意に階段に辿り着く。遠くが見えぬために、城の中を歩いているという感覚も、そうして今どの辺りを歩いているのかという事も、わかる事はなかった。話に集中をしているのだから、尚更だ。
「この先が、アオゾメ様が居る場所のはずっすよ。塔の一つっすね。昔は、魔道士の塔だなんて、言われてたみたいっすけど。ここだけは、アオゾメ様のためにだけ造られた場所なんで」
「この先に……」
ガルジアは、見えぬ事を知りつつも、遠くを。階段の先へと視線を移す。そこは既に、それほどの距離を置かずに、闇に呑まれては。今までと何も変わらぬ様に見えた。振り返っても、それは変わらない。闇の色をした城の中、闇に包まれた歩く道中は、奇妙な感覚を
ガルジアに与え続けていた。どこまで歩いても、前後の闇の距離は、ライシンの手にする光によって一定を保ち続けており、どこへも移動をしていないかの様な錯覚すら覚えていたのだ。それも、階段を目の前にして、ようやく己が少しは歩いていたのだという
確信を得る事ができる。
この先に、アオゾメが居る。リュウメイの育ての親だという、その存在が。どの様な人物であるのかは、リュウメイとライシン、二人の会話を聞いていても、詳しくはわからぬ点が多かった。必要以上に、リュウメイはアオゾメの、その人となりを語る様な事は
しなかったし、またリュウメイがそうである以上、ライシンは遠慮をしているのだろう。結局は、己の目で見て、その存在を知らなければならないと、そう思った。
「お前が、何を知ってるんだライシン」
考えに耽っているガルジアの耳に、リュウメイの声が。今はまだ、三人とも階段を前にして、佇んだままだった。まるで、その話題をいまだ口にしていないライシンは、この事を口にしてしまったのならば、少なくともしばらくの間は動く事すらできぬのではないかと、
リュウメイを心配する様に。今は愁眉のまま、リュウメイを見つめていた。
それでも、リュウメイが促せば。打てば響く様に、ライシンは口を開く。
「アオゾメ様は、お強い方です」
「んな事は知ってるんだよ」
「……けれど、そのアオゾメ様でも。たった一人で全てに敵う様な事はなかった。相手は曲りなりにも国家を牛耳って。そして、それに傅く奴らだったんすから」
「……」
「その上で、不老不死の研究を進めていた。不老不死の研究には、高度な魔術が必要とされてるのは、先に言ったっすよね。要は、魔道士が己の身体にだけ起こしている奇跡と変化を、他人に。魔道士になる器がない相手にも、作用する様に
する訳っすから。その上で、その先にあると思われる不老不死を更に望まなければならないのだから。だから、王の周りには、アオゾメ様一人では到底勝ち目のない程の戦力が整っていた訳でもある」
「そうだな」
「でも、アオゾメ様はその勝負には勝った。これは、間違いがない。そうでなければ、今このエイセイは、滅んじゃいなかった。いや、もしかしたら滅んだりもしたかも知れやしねぇけれど。でも、それは周辺国がそれを察知して、結局は戦争になったり。少なくとも
今こんな風に、死に態の城がそのまま残されている様な形には、決してならなかったでしょうよ」
「周りくどいな」
「……そうっすね。俺も、そう思います」
まるでそれは、ライシン自身も。己が今から言おうとしている事を、できれば口にしたくはないと思っているかの様だった。そうして、それを聞くガルジアとリュウメイに。いや、リュウメイに。本当に、続きを聞きたいのかと。そう、訊ねるかの様で。だからガルジアも、
今はまるでライシンの側に立ったかの様な気持ちになって、隣に居るリュウメイを見つめる。リュウメイは、いつもと変わらなかった。機嫌を窺う様なライシンの視線も、ただ成り行きを見守り、心配をするガルジアの視線も、意に介する事もなく。平然として、ただ
続きを促すかの様に、ライシンを見つめていた。
ライシンが、一つ息を吐く。
「手紙に、書いてありました。不老不死ならんと画策する者に対するには、己も同じ力を持つしかないと。だから自分は、不老不死となると。それでも。……それでも、真にその力を得るつもりはなく。自分が死ぬ準備も、きちんとしておくつもりだと。そしてもし、
自分が不老不死に。或いはそれに限りなく近い存在になった時は」
声が、震えていた。まだだった。ライシンが本当に告げる事を躊躇っている部分は。いつの間にか、ライシンの瞳から、涙が流れ落ちていた。止め処なく溢れては、流れ落ちて、光に照らされ僅かに輝きを見せた後に、それは闇の中へと沈んでゆく。
「自分を壊す事のできる相手を。リュウメイを、呼ぶだろうと」
ライシンの声が、静かに広がってゆく。その中で、ガルジアは何も言う事ができずに、ただリュウメイを見つめる事しかできなかった。
闇の中で、僅かな光源に照らされた赤髪の男の表情は、何も変わらなかった様に見えて。しかし変化の兆しが訪れた様にも見えた。
或いはそれは、ガルジアが。そうあってほしいと、願ったからこそその目に映った、錯覚なのかも知れなかった。