ヨコアナ
4.詩と召術授業
潮と黴、饐えた臭いが混じり合った船内の空気は酷く淀んでいて、思わず呻く程の悪臭に包まれていた。
一歩踏み出す度に、老朽化した床が悲鳴の様に軋んだ音を上げる。ガルジアは、それに一々身を震わせては頻りに辺りを見渡していた。
「気をつけろよ。所々腐ってやがる。結構長い間漂流してたみたいだなこりゃ」
「俺っちの体重で落ちたら、船底までまっしぐらっすねこりゃ」
「そのまま船底ぶち破って鎖無しアンカーでもやってろ」
時折明かりを照らしながら、ライシンが愚痴を零す。ガルジア自身は二人が歩いた箇所、
特にライシンが通った場所に足を踏み出せば良いので気楽なものだった。当のライシンは細心の注意を払って、踏む場所を選別している様である。
「何も無い、か」
「こんな所にあるのは精精白骨死体くらいですよ兄貴」
船室を覗き見ては何も無い事を確認して、リュウメイはどんどんと奥へと進んでゆく。性急過ぎるその動きに、ガルジアは
ほとんど余所見をする暇もなかった。
「すみません、もう少しゆっくりお願いします。部屋の中が見えません」
「黙って付いてこい」
時折部屋の中を照らしてリュウメイとライシンが中を伺うが、すぐに奥へ行こうとするせいで
ガルジアは部屋の中が伺えず注文をつけるのだが、素っ気無い返事がされるだけだった。ライシンの光が眩いせいもあり、
目が慣れる事も出来ず闇の中は見えない。ただ時折、ぞくりとした悪寒が走る事から、その先には何かがあるのだろうと思った。
「案外静かだな。これでなんにも見つからなかったら、それはそれで困るな」
「対処も出来ないまま流される……嫌ですね」
「だからってでっかいお化けが出てくるのも嫌っすね」
「そんな事言うの止めてください、聖法くらいしかまともに通じないんですからそういう類には」
軋む音と会話が船内に響く。なんだかんだで、ガルジアもこの二人に乗せられて大分冷静になってきていた。
一人きりでは、船内に足を踏み入れる事すら出来はしないだろう。ライシンの実力はまだ分からなかったが、少なくともリュウメイの腕には、
ガルジアは全幅の信頼を既に寄せていた。腕は確かな男である。腕だけは。そしてその後ろに居る事が、心細い、歩き慣れぬ道を行く時、
ガルジアの心を安堵させる唯一の存在となっていた。
「錆びついて使えそうにねぇな」
装飾品の残骸と思われる物を拾い上げてリュウメイが愚痴を零す。嘗ては煌びやかに着飾った持ち主を魅力的に見せていた品々も、
今は薄汚れ、腐った木片の上で虚しく主張をするだけの存在になっていた。しばらく持て余してから、リュウメイは至極残念そうにそれを戻す。
「リュウメイさん、故人の金品を盗むなんて真似は止めてください。私が許しません」
「堅い事言うなよ。お前がお宝見つけてきたら、そのままお前の借金から引いてやってもいいんだぜ?」
「だ、駄目です! 絶対に駄目です! そうやって私を抱き込もうとするのは止めてください!」
「別の意味で抱いてやってもいいんだぞ」
「いい加減にしてくださいっ!」
「まあまあお二人とも、そんな風にじゃれてたら話が進まないっすよ」
ライシンの仲裁に、我に返りガルジアは盛大に溜め息を吐く。無論それは、一列になっているために音でしかやり取りが出来ない
が故の、精一杯の抵抗の証である。
「リュウメイさん、あなたは本当に酷い人ですね……。他人の気持ちも考えないで、私をからかってばかりです」
「退屈しねぇからな、てめーは」
「ここを出たらあなたのその性根、私が叩き直してあげます。そうです、そんなに捻くれているから男色などというものに」
「ついに男色癖が性格のせいにされたぞ」
「愛されちまってますねぇ兄貴」
二人の言葉に、ガルジアはまた我を忘れる。
船室を一つ一つ確かめながら、少しずつ船の奥底へと進んでゆく。これといって気になる物もなく、ただ時間だけが過ぎていた。
自分達の乗ってきた船は大丈夫なのかとガルジアは不安に思うが、口にするのは避けた。どの道今は確認をする方法も無い。こういう時に
不安を煽る様な言動は慎むべきだった。他でもない自分が、この三人の中で一番臆病に決まっているのだから。
目の前の二人は、そんな素振りすら見せる事はない。
「ここで、最後か」
「船底っすか」
船底を塞ぐ蓋の前で、三人は揃って考え込む。
「ここまで本当に何もありませんでしたね。居るとしたら、この中に何かが」
ガルジアが言いかけた途端、リュウメイが剣の柄に手を掛ける。
「どうやら、当たりみてぇだな。何か居るぜこの下に」
「ようやく本命のお出ましみたいっすね、盛り上がってきました!」
「暢気な事ばっかり言わないでくださいライシンさん」
「行くぞ」
リュウメイが蓋を開ける。梯子に足を掛け下りられるかを確かめ、まずは一人で下りてゆく。こういう時のリュウメイの行動力
に、ガルジアは感服するばかりであった。客船一つを漂流させてしまう程の原因がこの中にあるのやも知れず、そして階下は深遠の闇の様に薄暗い。
「明かり、こんなもんで大丈夫っすか」
「ああ、それでいい」
覗き込む様にしてライシンが船底を照らす、奥の方はガルジアの居るここからではよく見えなかった。
「ライシン、明かりは落とせるか」
「すぐ消えますが、まあ」
ライシンは少し大きめの明かりを出してから、それをリュウメイの傍へ落としてゆく。
落ちてきた光をリュウメイが鞘で小突いて奥に転がすと、ようやく船底が光に照らされた。
「うわぁ……こりゃまた……」
「こういうオチだったか」
「な、なんですかあれ?」
三人が口々に感想を述べる。視線の先に居るのは、黒く大きな物体だった。身体中がまるで夜の闇の様に暗く、それが元は
なんの生物であったのかを断定する事すら困難と言える。唯一、両の目とも言える場所にはぼんやりとした光が点り、その位置からして
巨大な魚の一種であるのがかろうじて分かる程度の物だった。そして、全身に走る怖気。思わずガルジアは悲鳴を上げた。その姿に
悲鳴を上げたのではなかった。その黒い塊の周囲に蔓延る、無念の嘆き。船に乗る前に確かに感じた、亡者の叫び声。それが今
ガルジアの全身を包んでいた。距離のある今であっても、それは充分過ぎる程に伝わってくる。あの黒い魚だけがここに
居るのではない。数多の死者の怨念が、この場を取り囲んでいるのだった。
「ガルジアさん、平気っすか?」
隣に居るライシンから声を掛けられて、はっとして我に返る。震える身体で頷くと、ガルジアは意を決して梯子を下りた。
恐怖心は拭えない。しかし、行かなければならないのだと、この時ガルジアははっきりとした意志でもって身体を動かした。無念の死を
遂げた者。癒されぬ魂を慰めるのは、他ならぬ修道士の務めでもある。ガルジアが下りた後に、ライシンも続き、全員が船底へと移動する。
「こいつは、なんなんすか? 魚っぽいっちゃ、魚っぽいっすけど。船底ぶち破って顔だけ出してるっすね。これでよく船が沈まないもんでさ」
「これは、怨念の様な物です、リュウメイさん、ライシンさん。船が沈まないのは、ここで亡くなった方達の無念が晴れる事がないからでしょうね。
この魚の様な魔物も、元は大きいだけの魚だったと思います。恐らくは、船底を破ってしまったために魚は死んでしまって、船員さん達も
亡くなってしまって……こうして、一つに固まってしまったのだと思います」
「薄ら寒い事言うじゃねぇか。こういうのは、よくあんのかよ?」
「人の力だけでは、こんな風にはなりません。巨大魚が居たから、こんな風に彷徨う船になってしまったのかも知れないです」
既に魂が抜け腐り落ちた巨大魚の身体に、徐々に衰弱し、或いは発狂して自害や凶行に走った人々の怨嗟が堆積した結果だった。
また、涙が零れる。これ程おぞましい光景を目の当たりにしても、ガルジアの胸にはここで命を落とした者達の叫び声が僅かに聞こえてくるのだった。
「それで、どうすりゃいいんだガルジア」
除霊の心得までは流石に知らぬ様で、珍しくリュウメイが助言を請うてくるのをガルジアは耳にする。それで現実へと引き戻された。
「可哀想ですが、このままにもしておけません。まずはあの魚の身体をどうにかしないと。あの亡骸が、霊の依り代になっています。
魚の死骸さえ無ければ、一つ一つは安らぎを求める魂に過ぎません」
「とりあえずぶっ潰せって事だな」
リュウメイの言葉を皮切りに、一際強く黒魚の瞳が光った。自分に敵意を向ける者を敏感に感じ取っているのだろう。堆積した怨念
である。こちらの胸の内も、容易く理解してしまう様だった。黒魚の身体から、細長い紐状の物がいくつも飛び出してくる。手足の無い魚の
代わりを果たそうとするのだろう。それは、身の毛がよだつ光景だった。幾重も飛び出した触手の様なそれは、獲物を狙うかの様に真っ直ぐにこちらへ鋭く
伸びてくる。それを、リュウメイが容易く切り伏せた。ぼとぼと床へ落ちた後も、それはくねくねと独りでに踊り、更なる嫌悪感を届けてくる。
「ライシン、明かりを絶やすなよ。今はてめぇの明かりだけが頼りだ。
それと邪法は使うな。船壊したら洒落にならねぇし、お前には後で仕事がある」
「あいあい!」
「ガルジア、接近はするな。詩だけ歌ってろ」
「は、はい。リュウメイさんお気をつけて」
剣を何度か振り回したリュウメイが、前へと出る。その頃には黒魚の新しい腕が生えて、リュウメイへと狙いを定めていた。
「頼むぜ、ガルジア」
「おお、ついにガルジアさんの詩が聞けるんすね。楽しみっす」
充分に距離を取ってから、ガルジアは歌う体勢に入る。
「この間みてぇのは出来るか?」
「無理です。こんな大海の上では、あの仔は来てくれませんよ」
「場所に左右されるって事か。まあ、役に立つのならなんでもいい」
息を吸う。敵ではなく、リュウメイ達を見て歌いはじめる。
歌ったのは慈悲の詩だった。傷付き、倒れゆく者へ無償の愛を送る。
疲れ果てたのならば休めば良い。その背を支えて、傍に居ると誓いの声を上げる。
生まれたその日から今に至るまで。そして、これからも。ただ愛し、慈しむ詩。
「綺麗な詩っすねぇ……」
ぽつりと感想を零したライシンへ、にこりと笑い掛ける。いつの間にか、ガルジアの周りを細長い、体毛の無い青い異形が漂っていた。
ふわふわと宙を舞いながら、青白い光を纏っていた異形がガルジアと声を合わせて歌うと、異形の纏う光が三人をも淡く包み込む。
詩を終えて、現れた異形を抱きかかえる。しばらくは歌わずとも傍に居てくれる様だ。
「攻撃には向きませんが、補助に優れた詩です。すみません、ここで歌えるのは、このぐらいです」
「それでいい、行くぞ」
リュウメイが切りかかる。触手と攻防を繰り広げるが、不意に新しい触手が鋭く飛び出しその身体に叩きつけられる。
ライシンがリュウメイを呼ぶが、それとほとんど同時に激しく水が弾ける音が鳴り、飛沫が舞う。
リュウメイは無言のまま、奥深くまで切り込み触手の一つを、そして黒魚の頭部へ一撃を繰り出していた。
「なるほど、防御寄りの詩だな」
「大丈夫っすか兄貴?」
戻ってきたリュウメイにライシンが治療を施すために近づくが、リュウメイはそれを制する。
「ちょっと痛かったが、それも治まるみてぇだ。もう治った」
「凄いっすね、これが詩っすか……」
「過信し過ぎないでください、聖法と比べたら即効性に劣ります。もう少ししたら、また歌う必要もありますし」
「分かった、俺がなんとかする」
「兄貴、俺っちもお供するっす!」
「いや、明かりに専念しろ。それにあの紐とお前の体術は相性が悪いだろ」
そう話している間にも、再び新たな腕が伸びてくる。接近するだけでも危険だというのに、直に触れなければならないライシンでは
確かに辛いのだろう。リュウメイの剣が閃く。頼り無い魔法の明かりの中で、それだけは鋭く光りガルジアに安堵を届けていた。
あの光は、リュウメイが生きている限り止む事はない。
再び声を上げガルジアは歌う。傷付かぬ様に、傷付いても癒せる様に。敵である黒魚に対しても、ほんの少しの哀れみを籠めて。
瞬く間にリュウメイは黒魚の触手を切り落とし、ついに再びその頭部へと切り込む。何度か切りつけると、どす黒い血の様な液体をを頭から
被る。立ち上る臭気に僅かにガルジアは眉根を寄せた。臭気から逃げようとして一歩下がった所で気づく。足元を海水が覆っていた。
切りつけた事で黒魚が暴れて、少しずつ海水が船内に入ってきたのだろう。いくら霊の力で船が浮いているといっても、その依り代
となっている黒魚が戦闘に入り、傷つけられれば力も弱まるというもの。長引けば、この船底も水に沈む定めと見えた。
「リュウメイさん!」
リュウメイとライシンが下がってくる。二人とも海水には気づいていた様だった。
「ここらが潮時か」
「これからどうするんで?」
「一先ず上に戻るぞ」
促され、下りてきた梯子を今度は上る。何度も腕を切り落としたからか、黒魚の攻撃は既に止んでいた。
梯子を上り廊下に戻ると、各自が息を整えてから改めて作戦を話す。
「さてここからが肝心だ。あいつを弱らせた以上、この船はその内沈むだろう」
「多分、人の力だけではこの船は維持出来ないと思います」
「兄貴、まだ船は動かないみたいっす! それと、言われた通り帆の準備をお願いしてきたっす!」
先に一人だけ甲板に出てバークに確認をしていたライシンが戻ってくる。
「仕方ねぇ。こうなったら船底を直接破壊してあいつを追い出すしかねぇな。どうも、この船の力はまだ消えてねぇみてぇだし」
「どんどん物騒になっていきますね……」
「最後の手段だ。下手したらこの船が沈んだ波や渦で俺達の方も引きずり込まれるかも知れねぇが……後には引けねぇな」
「大丈夫っすよ、きっと。それよりも、ここから甲板まで俺達が間に合うかどうかって方が心配っすね」
「ガルジア、てめぇは先に戻ってろ」
「いえ、お供します。それにこれから船底を壊すんですよね? それなら、私の詩も役に立つはずです」
束の間、ガルジアはリュウメイと見つめ合う。時間にすればそれは一呼吸にも満たず、すぐにリュウメイの方から視線を外した。
「好きにしろ。ライシン」
「待ってました兄貴!」
指名をされて、ライシンが吠える様に返事をする。夥しい魔力を感じて、思わずガルジアは怯んだ。
「船底を爆破しろ。特に魚の居る辺りだ」
「了解っす!」
「ガルジア」
「はい」
ライシンが両腕に力を籠める、眩い光の後に火が点り炎が躍り出る。両腕のそれを合わせると小さな太陽が生まれた。
熊の両腕が眩く光る。光っているのは、腕に巻いたあの白布だった。今まではしっかりと腕に巻かれていたそれは、緩みきって、
ライシンの腕の周りを蛇の様に這いより、渦を描く。注視していると、布ではなくそこに刻まれた紋様が閃光の様に光り、
やがて消えてゆくのが見て取れる。文字を書く行程を逆に見ているかの様だった。
その度にライシンの掌中に挟まれている太陽がどんどんと大きくなり、それに合わせてライシンの掌の距離も離れてゆく。
ガルジアは再度詩を歌う。今のライシンの補助になる知恵の詩を口ずさむ。
幾万の星霜が過ぎ、消えゆく知識と知恵がある。しかし今だけは先人の軌跡の享受を願う。
言葉を変え。姿を変え。然れど受け継がれる叡智だけは変わる事なく在り続ける。
ガルジアの手に薄っすらと光が宿る。異形は見えなかった。知識や知恵は、決して形にはならない。
ライシンの肩に触れると、持っていた光をその身体へ。光は吸い込まれ、その瞬間に太陽の光が更に輝きを増した。
「うおぉぉっ! な、なんすかこれ、すげぇ!! 今ならしち面倒臭ぇ邪法の魔導書もすらすら読み解けそうっすよ!」
「んなもん後にしろ。暴発したら死ぬぞ。それとガルジア、先に行け。まだライシンの作った光が残ってるはずだ」
「……分かりました。私に出来るのは、後は足を引っ張らない事だけですしね」
「バーカ、充分役に立っただろ」
微笑んで、ガルジアは走り出す。階段に差し掛かった頃、ライシンの雄叫びが聞こえて振り返る。
「行くっすよぉ! おらあぁっ!」
船底に向けてライシンが即席の太陽を落とす。即座にリュウメイが蓋をした。
「ガルジア、手摺に掴まれっ!」
声に、ガルジアが慌てて手摺に捕まるのと、轟音が起こるのはほとんど同時だったと思う。船が壊れるのでは
ないかという程大きく揺れ、思わず悲鳴を上げる。
「兄貴、これでいいんすかね」
「中の確認なんてしなくていい、行くぞ」
二人が走ってくる。ガルジアも追いつかれて邪魔にならぬ様に懸命に階段を駆け上がった。
息を切らし、時折身体をふらつかせながらもどうにか上りきって甲板に転がり出る。
「……これは」
視界に広がる景色に絶句する。入る前までは見当たらなかった、白い靄の様な物がいくつも見えた。
「なんじゃこりゃあ!?」
「馬鹿、んなもんいいから早く向こうに渡れ」
後から来たライシンが声を上げる。リュウメイが急かして蹴りを入れていた。
慌てて元の客船に戻ると、船乗り達が船を動かす。
「ライシン」
「はいよぉ!」
ライシンが再び魔力を集めて解き放つと、暴風が吹き荒れる。帆に向けてそれを飛ばしているのか、限界まで風を受けた帆を見て乗客が声を上げる。
「どうっすか!?」
「駄目だ、動かねぇ!」
素早く確認をしたバークが声を上げる。リュウメイが舌打ちをする音が聞こえた。
船底の爆破に成功したのか、既にボロ船の方は沈みはじめていた。黒魚がどうなったのかは分からないが、
少なくともあの船は沈もうとしているのだ。それなのに何故動かないのか、乗客がまた騒ぎはじめていた。
「やっぱり、あの靄が……」
ガルジアは船から身を乗り出して真下を見る。船を逃がさぬと言いたげに、靄が集まっていた。
「あの船で亡くなった方達、なんですね」
涙が三度溢れてくる。ずっと海上をさまよい続け、助けを求めていた彼らが、今必死に
生き延びようとしている自分達を許せないと思うのも仕方がない事なのかも知れなかった。
「ごめんなさい。私に出来る事は、このぐらいですが」
大きく咳払いをする。三度目の詩。喉が持つのか刹那躊躇したが、それに構っている場合ではなさそうだ。
「ガルジア」
「リュウメイさん。少しの間、支えてくれますか」
何をするのかと言おうとしたリュウメイに、それよりも先にガルジアは用件を口にする。
そっとリュウメイが傍に寄り、肩を押さえてくれる。礼を言ってから、ガルジアは歌いはじめた。
鎮魂歌。行き場を失くした者に送る、別れの歌。
いつか皆が辿り着く場所に、先に向かう者達への手向けを歌う。
全てを洗い流し、穏やかな気持ちで旅立てる様に、ガルジアは精一杯に声を張り上げる。
涙を流して歌い続ける。死者の遣り切れない気持ちが痛い程胸に突き刺さってくる。
雲間から、月が覗いた。そこから淡い光が降ってきて、靄の中へ落ちてゆくと、途端に眩い光が立ち上った。その光の柱に靄が吸い込まれる様に消えてゆく。
声を枯らしながら、ガルジアは歌い続けた。月光が次第に強くなり、やがて靄が一つ残らず姿を消した。ふらついたガルジアをリュウメイが支える。
「船が動いたぞ!」
歓喜の声が上がる。颯爽と海上を滑り出した船は、沈みゆくボロ船を背に再び大海原へ旅立った。乗客が喝采をするのが遠く聞こえる。
「大丈夫か」
歌い終えるとリュウメイが問い掛けてくる。その肩を借りてゆっくりと自分の足で立つと、ガルジアは頷いた。
「しばらくは、上手く話せないと思いますが、大丈夫です。久しぶりに、沢山歌ったので」
「すまねぇな」
「いえ、このくらいの事。お役に立てて何よりです」
気だるい身体を引き摺りながら壁際へ移動すると、背中を預ける。窮地を脱した乗客達の歓声はいつまでも止む
事はなく、時間も忘れて夜通しのお祭り騒ぎが続いた。ガルジアはそれをいつまでも耳に入れておこうとして、しかし
やがて疲労が全身に巡ると、リュウメイに腕を引かれて船室へと引き上げていった。
幽霊船の騒動から数日。船は何事も無く海上を進み、遠くに陸が見える頃、ガルジアは船室で苦笑いをしながら
談笑に耽っていた。本当なら、近づいてくる港を間近に眺めて、そこにはどんな物があるのかと嬉々として夢想しただろう。そう
したかったガルジアの思いとは裏腹に、目の前では身なりの良い、ついでに身体もでかい、でぶでぶな犬人の男がにたにたと愛想笑いを浮かべていた。
「本当にありがとうございました、ガルジア様」
「様だなんて、そんな。もっと気軽に呼んでください」
物言いにガルジアはたじろぐ。修道院に居た頃も恭しく接される事はあったが、しかしここまで露骨な態度は初めてである。
そんなガルジアの様子に男は気づきもしないのか、少しも改める事なく軽く手を振った。
「いえいえ。ガルジア様が居なかったら今頃どうなっていたかと思うと、背筋が寒くなる思いですよ。
それより、どうして修道士様がこんな所で客船などに?」
「え、えっと……」
「見たところ、豪傑と言えそうなお供を二人も連れているご様子」
困った様に顔を逸らして、離れた所で傍観を決め込むリュウメイとライシンに視線を送る。
リュウメイは素知らぬ振りをしていたが、ライシンは何度も首を振っていた。正直に言うのが憚られるのは、それを見るまでも
なくガルジアとて心得ている事だった。修道士を連れ回しているなどという噂が流れては、リュウメイが何をされるか
分かった物ではなかった。勿論そうすればガルジア自身は念願の修道院へ続く帰路に着く事が出来るのは承知しているが、既に自らも
この旅に面白みを見出している手前、そんな事をする訳には行かず、どうにか誤魔化さなければならなかった。
「ちょ、ちょっと見聞を広めてみようかなーと……」
「世直しという事ですか、それは素晴らしい!」
「えっ。ああ、まあ。そんなところです」
ガルジアの言葉を都合良く男は解釈したのか、慌ててそれに話を合わせ更に二の句を畳み掛ける。
「修道院や教会に訪れる人以外にも、救いの手を待っている方は各地に居ますから。少しでも手助けになればと」
「素晴らしい! 私は感動しました!」
大げさな仕草で、男は両手を胸に当てて賛嘆の声を上げる。これにはガルジアも失笑をする程だった。
「うっそくせーなおい。つか真に受けるか普通」
「駄目っすよ兄貴そんな事言っちゃ」
遠くで勝手な言い分が聞こえる。それをなるたけ耳に入れない様にしながら、とにかくガルジアはぎこちなく笑ってその場をやり過ごす。
そのまま長々と時間を掛けた男との話を終え、満足顔で部屋を後にする男を見送ってから溜め息を吐いて扉に背を預ける。
この時ばかりは、さしものガルジアも迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。どうせ見ているのはリュウメイとガルジアの二人だけであったし、
この二人はガルジアよりもずっと迷惑そうな様子を、扉が閉まる前、男が背を向けていた時から露骨に見せている。今更ガルジア一人だけが
繕ったところで、却ってリュウメイにからかわれるだけだった。
「やっと終わった……」
「だから言っただろ。相手にするなって」
「仕方ないですよ。お礼を言いたいと来た人を無下にする訳にはいきません」
朝早くから船室に来ていたのは、船の乗客だった。
幽霊船の騒動が落ち着いてから今まで、引っ切り無しに礼を言いに来ていたのだ。
喉を酷使したガルジアを見て一日二日はリュウメイが追い返していたのだが、三日目以降となると流石に
ガルジアも部屋に引き篭もる訳にもいかず、その応対に追われていた。おかげで食事も部屋で取る破目になり、
ガルジアとしては、初の船旅は大いに不服な結果となってしまった。
「結構多かったっすねぇ、お礼を言いに来る人」
「そりゃそうだろ。元々向こうの港に居た時から祈願の事で話題になってたってのに、
今度は船の上で命まで救われてりゃ、礼言わねぇ方が常識が無いってもんだ」
「そんなっ。リュウメイさんが常識を語るなんて」
「張り倒すぞ」
手を振り上げてゆっくりとこちらに迫るリュウメイから、ガルジアは慌てて距離を取る。
「まあまあその辺で。それよりそろそろエリスの港町に着くみたいっすよ」
あと一歩という所で間にライシンが入り、素早く話題を切り替える。礼の代わりにその背をガルジアは軽く叩いた。
窓から外を見ると、既にここからでもかろうじて陸地が目に入る。それほどの間を置かず、船はエリスに入港するだろう。
身支度を済ませると三人は部屋を出る。
「随分迷惑掛けちまったな」
下船する直前に、見送りに来ていたバークが声を掛けてくる。その顔は晴れ晴れとして、しかし僅かに申し訳ないという
表情も滲ませていた。たった一人でも幽霊船に乗り込む気概を持っていたというのに、その大役をガルジア達に任せてしまったのが心残りなのだろう。
「次会った時は、ちゃんとした船旅を約束するぜ」
「楽しみにしています、船長さん。お世話になりました」
「世話になったのは俺の方さ。危険に目にも遭ったが、面白い物が見られた。良い旅を」
短く挨拶を済ませると、まだ船員に指示する事があるのか、帽子を目深に被り、尖った尻尾を振り回しながらバークは船へと戻ってゆく。
「さーて、ここからどうするんすか兄貴」
船を下り、久しぶりの陸を思い切り踏み締め喜びを身体全体で表しているライシンがリュウメイに問い掛ける。
ガルジアも控えめに懐かしい陸地の感触を楽しんでいた。船の上では常に揺られている事からして、感覚がまるで違っていた。強く踏みつけた
際の確かな手応え。僅かに足へ伝わる痛み。その一つ一つが、夢から覚めた自分自身を急速に現実へ引き戻すための材料となる。楽しみ
ながらも、同時に生まれていた不安が、それで綺麗に吹き飛ぶ。
「そうですよリュウメイさん。ここまで来て当てはない、だなんて言われても困りますよ」
「まあ俺は兄貴が行く所、西へ東へベッドの中へって感じっすけどね」
「とりあえず、飯食うか。腹減ったしな」
「そうですね。もうお昼ですしね」
しばらく考える仕草をしていたリュウメイが、昼食を提案するのにガルジアは同意を示す。幽霊船の件があり、
予定していた時間よりも遅く港に着いた船内では食料が不足していた。まずは空腹を満たすという事で意見は一致した。
「出来れば人の少ない所が良さそうだな」
「えっ、どうしてです?」
「見てみろ」
リュウメイが顎で示した方向を見て、ガルジアは思わず低く唸る。先程まで部屋に押しかけていた乗客達がこちらを指差しながら、
したり顔で港の者に話をしているのだ。話をされている方もガルジアをじろじろと見ているのを考えれば、何を喋っているのかは
想像がついた。大方、幽霊船の事を、或いは前の港の事でも話している者も居るだろう。
「あんな調子ででかい店に入ってみろ。満足に飯も食えねぇぞ」
「そうですね……すみません」
「穴場が見つかるといいっすねぇ」
逃げる様にその場を後にして、細い路地をいくつも抜けてゆく。そうしてゆくと、次第に港町の景色は遠く、
しかし潮の匂いだけが変わらずに漂い、ここが港町である事を思い起こさせる。リュウメイは吸い寄せられる様に道を行き、
やがて一つの店の扉を開いた。騒がしい港とは違い、隠れ家の様な店で、店内は少し照明を落としていて、どちらかと言えば
昼間からも営業している酒場の様で、早朝の一仕事を終えた猟師達の憩いの場として利用されているのだろう。椅子に
掛けているのは屈強な、しかしそこそこに歳を取った男が多い。荒々しさは歳と共に衰え、しかし同時に味わい深い静けさを好む者達である。格好の違う
ガルジア達が、しかも珍しい白虎と蜥蜴の二人が入ってきても、然程気にする様子も見せずに各々が静かに杯を傾けてた。ここならガルジアの
顔が知られていてもすぐに見つかる心配は無さそうだった。手頃な席を見つけると、三人揃って椅子へと着く。
「何日も船に揺られて食欲も失せてただろ。存分に食えよ、金はあるからな」
そう言ってリュウメイは食台の上に銀貨の詰まった袋を置く。それを見てガルジアは思わず声を上げた。
「こ、こんなに持ってましたっけ?」
「命を救われたんだから、なぁ?」
「リュウメイさん、まさか……」
ガルジアの言葉に、にやりと蜥蜴の口が裂ける様にして笑みを形作る。
「俺は何もしてねぇよ? ああ、しちゃいねぇ。お目通り願えないのなら、せめて謝礼だけでもとかなんとか
独り言を言いながら金を忘れていくんだよ奴ら。せっかくだから、拾っといてやったぜ」
「すぐに返してきてください! どうせ何か言ったんでしょう!!」
「本当になんにもしてねぇよ。てめぇの活躍に見合った金だから安心しろって」
笑みを消したリュウメイが真っ直ぐに見つめてくる。この顔で言われると、ガルジアは二の句が継げなくなってしまう。
「ごめんなさいごめんなさい、でも食べないと……沢山歌ったから、その分は。ああ、でも……」
ガルジアとしても、今は食欲の赴くままに食物に食らい付きたい気分であった。特に、臥せっていた間は
喉に負担が掛かると言われ、腹は空いているのにあまり多くの物を口にする事を控えていたのである。その上、
上陸を済ませて身体はいつもの調子へ、精神的にも安定した今、食欲を抑えるのは拷問に近かった。
「大丈夫っすよガルジアさん。なんなら俺っちがガルジアさんの分も立て替えるっす」
「ライシンさん……」
困窮しているガルジアに助け舟を出す様に、ライシンも腰紐から袋を取り出す。思わずガルジアが涙ぐむと、ライシンがにっこりと微笑む。
普段はリュウメイに付き纏ってばかりいるライシンだが、面倒見が良い性格の様で、こうして度々困っているガルジアを
助けてくれる優しい心根の持ち主であった。これでリュウメイに対する言動が無ければと思うのは、贅沢なのかも知れない。
「俺っちも、それに兄貴だって。ライシンさんが居ないと生きちゃいなかったっすよ。
修道士さんだから色々考えなくちゃならねぇとは思いますが、もっと我が儘になったっていいんですよ」
「……ありがとうございます」
「そうだそうだ、さっさと食え」
「あなたは黙っててください」
睨み付けると、拗ねた様にリュウメイは視線を逸らし、運ばれた飲み物に手を伸ばしていた。
運ばれてきた順に、皿の上から料理が消えてゆく。流石に陸に上がった後の最初の食事なので、三人とも黙々と料理を胃に詰め込んでいた。
目立たぬ場所にある事からして味の方が気になっていたが、思いの外良く、どうやら穴場を見つけた様で滞りなく食は進む。
「……おい、まだ食うのかお前は」
「言ったじゃないですか、沢山歌ったから沢山食べるって」
「だからって二十皿超えてるんすけどね……そりゃ一皿一皿は大した事ねぇですけど」
二人の視線を受けて、ガルジアはちょっとだけ俯く。それでもまだ腹八分目といったところだった。
「普通の人から見たら食べすぎだと思いますが、詩って本当に体力を使ってしまうんです。
聖歌隊に居た頃は皆よく食べてましたけれど、見慣れてないと確かに食べ過ぎですよね。
歌ってない時は、私もそんなに食べてなかったじゃないですか」
「まあ、そうだったな」
それとは別に、借金の事もあり遠慮していたのだが、確かに普段食べている量と
詩を行使した後では、その量は数倍は優に超えていた。とにかく、空腹になるのである。こればかりは
リュウメイに注意されようとも、止められなかった。長年の習慣である。
「そうそう、詩っすよ詩。凄かったっすねガルジアさんの詩」
一服している時にライシンが詩の事を口にする。
「あんなに効果があるものだとは、俺っちも思わなかったっすね。詩ってみんなあんな感じなんすか?」
問い掛けられて、口元を拭うとガルジアも食べる手を休める。ようやく満腹になってきたところだった。
「そうですね。でも詩が特別凄い訳ではないんですよ。どちらかと言えば、召術の方が」
「召術っすか……流石に俺っちもあれは使えないっすね」
「実は、召術と詩で呼び出すのはほとんど同じ物なんですよ」
「ははぁ、召術って確か、別の世界から獣を呼び出すって奴っすよね」
今となっては扱える者が極めて少ない召術は、幻の魔法と言われていた。こうして魔法に精通するライシンですら、詳細は知らぬまま話している様だ。
「はい。詩はこちら側に暮らす精霊を。召術は扉を開いて、その先に居る精霊を呼び出しているんです。
同じ精霊ですけれど、どうやらこちらの精霊よりも知能が発達して、見た目もしっかりとしているんですよね」
「だから区別をするために召喚獣って言うんすか」
「そうみたいです。詩は歌声で精霊を呼んで力を借りる程度ですが、召術は魔力で道を開いて、
現れた獣が戦うのに必要な力も負担して、初めて直接戦わせられる。と聞いた事があります」
厳密にはガルジア自身も話を聞いた程度の知識しか持ち合わせてはいなかった。詩を習う過程で、軽く召術についての知識に触れた程度であり、
今まで生きてきた中で、召術を扱う者など見た事はないのである。
「そう考えると召術士ってのはおっかねぇですねぇ。ずっと魔力を使い続けてる、だなんて……俺っちは無理そうっす」
「だからこそ、使い手も減ってしまったのでしょうね。それに関する文献もほとんど残っていないそうです。
唯一、ネモラの召導書がありましたが」
「あ、それ知ってるっすよ俺っち」
皿を積み上げながらライシンが声を上げる。一方のリュウメイは興味が無いのか話についていけないのか、
さっきからつまらなさそうに食べ終えた料理の皿を数えている。
「大召術士とまで言われたネモラが書いた召導書。中身はそれこそ召喚獣との付き合い方だのなんだの、
一般人がドン引きして召術オタクしか読む奴が居ないって本の事っすよね」
ライシンの物言いに思わずガルジアは苦笑いをする。しかし言っている事は間違ってはいなかった。魔導書ならば、それこそ
聖法邪法を扱う者が飛びついただろう。しかし召導書といわれるだけあって、その中身はネモラ自身の独善的な手記により埋め尽くされているという話だった。
当然、内容は大召術士の視点で語られており、力の弱い召術士では参考にする事も不可能といわれる程の出来の書物だという。しかし
それでも召術の資料としては希少な物で、人々は召術の詳細は知らずとも、ネモラの召導書の知名度は高い。
「でも確かその召導書、盗難にあったんすよね?」
「本が傷んでいたから、解読の途中で写本も作ろうとして、その矢先の出来事だったそうです。
唯一召術について記された書物だったのに、それも無くなったので召術の研究は遅れていると聞きましたね」
「確か修道院に納められている聖物の一つって話だったっすよね?」
聖物とは、各修道院に丁重に保存されている名のある品の事だった。それらは各々が特別な力、或いは伝説的な話を備えており、
ネモラの召導書も聖物の一つとして数えられていた。
「……はい。サーモストという名の修道院に聖物として納められていた物ですね。申し訳ない事です」
「ああ、ガルジアさんを責めてる訳じゃないっすよ。つか、盗まれたの数十年も前の話じゃないっすか」
そもそもネモラの召導書が納められていたのは、ガルジアの居た修道院、ラライト修道院とは別の、サーモスト修道院である。
そのサーモスト修道院から以前年老いた修道士が来たので、一度召導書についての話を聞いたのを、いまだに憶えていたのだった。
当時写本製作の作業をしていた一人もその者で、話を聞くとやはり冒頭はよく言われている様に
くだらない事が記されていたと、呆れ顔で愚痴を零していたのが脳裏に甦る。結局召導書は盗まれ、写本の製作も頓挫している。
「そういえば、写本を作っていた人と院長様が話をしていた事もありました。
院長様に聞いても、やっぱり中身は酷い物だと言ってましたけれど」
「こりゃ、本気で使いもんにならないっぽいっすねぇ……。
それにしても、盗まれてから随分経って、今も見つかってないときたら望みは薄そうっすね」
「残念だけど、そうなりますね。召導書についての話も聞きませんし」
修道院の用事で各地を回り、今はリュウメイに付いているのでそのついでに召導書についても調べてみたが、
そもそも召術士でもなければ興味の無い本のために、大抵の者は存在は知っていても行方を知らず、召術士自体も会った事が無いガルジアでは、
砂漠に投げ入れた金貨一枚を捜す様なものだった。
「そういえば、詩はそういう本ってないんすかね?」
「詩は……基本的には。発声練習などの簡単なものはありますけどね。
もしかしたら、誰も知らない詩というのもあるのかも知れませんが。精霊に力を貸してもらうだけですから、
あんまり凄い物は無いと思いますよ。それに詩は技術というよりも、精霊に好かれるかどうかが大事の様ですから」
他でもない、詩を歌うガルジア自身が一番理解している事だが、ガルジアは特別歌唱に秀でているという訳ではなかった。それこそ
鬼才、天才などという言葉とは無縁であるし、修道院においても自分より詩の上手い者は数多い。しかし精霊は歌声だけではなく、
歌う者をも見ている様で、詩が上手い者であっても、精霊を呼び出す事が叶わぬ場合もままあるのだった。また、召術とは違い、
詩で呼び出す精霊は補助的な行動をするに留まっている。そして最大の欠点であるのが、一人では戦えないという点だった。歌っている
間は無防備になりやすく、詩の力を考えれば、他人が居た方がより多くの恩恵に預かれる。ガルジア自身が歌う詩も、他人の補助をする役目の詩が多かった。
それ以外の詩も存在するにはするのだが、やはり人に聞かせてこそその効果が発揮されるのが詩の特徴といえば特徴なのだろう。
「話は終わったのか、お偉い修道士さんよ」
無言だったリュウメイがようやく口を開く。そういえば、黙れと言ったばかりだった事を思い出した。
「ええ、一応は。おかげで静かにお話ができましたよ」
「そりゃ何よりで。そんじゃそろそろ宿でも探すか」
「今日は泊まるんですか?」
「不満かよ」
「いえ。リュウメイさんの事だから、すぐにでも出発するのかと思っていたので」
それきり何も言わず、リュウメイは会計を済ませて店の外に出てしまう。
それをしばらく眺めてから、残ったライシンと顔を見合わせた。
「怒らせてしまったでしょうか……」
「うーん、兄貴は気難しいっすからねぇ。俺っちもちょっと掴みどころがないなって思いますし」
急いで残っていた食事を口に放り込むと、店員に礼を言ってリュウメイの後を追う。
宿に着くと、リュウメイが手早く受付に話をつける。
「ありがとうございます、リュウメイさん」
宿の様子を見てガルジアは礼を述べる。リュウメイが訝る様に自分を見ていたが、構わず笑顔を保った。
「なんの話だ」
「ここも、大通りからは離れた所ですから。態々気を遣ってくださって」
「お前のせいで面倒に巻き込まれるのがごめんなんだよ、俺は」
「……それでも、ありがとうございます」
本当にそれが嫌なら、とうに自分を追い出しているのだろうと理解しているガルジアは引かずに頭を下げる。
「三人部屋はねぇみてぇだ。二階の二人部屋と、一人部屋を取ったぞ」
「それでは私は一人部屋で」
「おい、そこは俺と二人部屋を選ぶ流れだろ」
「それとこれとは話が別です。というか、嫌らしい事考えないでください。そういうお礼はしません」
少しだけ茶化す様な仕草で微笑んでから、一人部屋の鍵をガルジアが預かる。こういう時、リュウメイは多少は
抵抗しても良さそうな物だが、素直に対応をしてくれる。ガルジアをからかう様に接しているが、本当は発破を掛けているのかも知れない。
もっとも、それでリュウメイを理解したつもりになり冗談半分でその言葉に乗ると、憂き目に遭う事は目に見えているのだが。
「いよっしゃ! ガルジアさん抜きで兄貴と二人部屋っ!! これは来た、来たっすよ俺っちの時代がぁ!!」
不満を隠そうともしないリュウメイとは違い、その相部屋に決まったライシンは拳を握り締め、喜色を隠そうともしなかった。普段ならば
敬遠するその下心も、今は有難い。これでライシンが部屋を譲る様な事でもあれば、一度引き下がったリュウメイも嬉々として乗り込もうとしてくるだろう。
「頑張ってくださいねライシンさん」
「頑張るっす!」
「応援すんな。てめぇは外で寝てろ」
「ああっ、そんな兄貴殺生なぁー」
リュウメイが無視をして階段を上ってゆく。慌てて追いかけるライシンにガルジアも続き、二階の廊下を歩く。
「そんじゃ、俺達はこっちですんで」
「はい、おやすみなさい二人とも」
ガルジアの部屋と、リュウメイ達の部屋は廊下を挟んだ向かい側で、距離も然程ない様だった。
「激しくて聞こえちまったらすまないっす!」
「……あの、他のお客さんも居ると思うので、出来るだけ静かにお願いしますね、リュウメイさん」
「だからしねーよ」
「それなら構いませんが」
扉を閉めて二人と別れる。久しぶりの一人の時間を、腕を伸ばして満喫する。
「いだぁっ!! 兄貴ぃ、そんないきなり鞘で殴らなくてもいいじゃねぇですか!」
直後にそんな悲鳴が聞こえて、思わずガルジアは笑い声を上げた。