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29.黒の招待状

 野卑な声が、上がっていた。
 しかし今は、それが不本意ながらこの街の中で聞き慣れてきたそれとは著しく異なっている事を、ガルジアは知っている。親しみの籠った声だった。それは粗野な振る舞い方をしている者だからこそ、滲み出る様に伝わってくる物であって。だからガルジアは、
思わず相好を崩してしまう。そういう事をするなと、黒牙の頭領であるルカンに言われたばかりなのだが。
「ありがとよ、ガルジアさん」
「いいえ。お大事になさってくださいね」
 黒牙のアジトに居る事を余儀なくされたガルジアは、定期的に怪我人の収容された部屋を訪っては、詩を披露する事を繰り返していた。本当はすぐにここを出て、リュウメイの無事をこの目で確かめたかったのだが、その許しはいまだ出ていない。そういう
意味では、今目の前に居る者達に治療を施す事は、複雑な心境を招く事でもあった。自分が助けた命が、リュウメイに牙を向く事も、あるのだろう。ルカンの事を考えれば、既にそれは起こった事実と言っても良い。確かに、リュウメイからすれば。こんな自分は
迷惑なのだろうと思う。
 ならばと、ガルジアはまた新たに、できる限りの事をしていた。
 ルカンの説得である。
 とはいえ、ルカンがガルジアに対して好意的であるのは確かだが、ガルジアの言う事を必ずしも聞くという訳ではなかった。そういう意味では、ルカンはとても芯の通った人物でもある。少しの間ルカンと行動を共にして、また修道院から抜け出して、様々な場所に
向かい、多少は自分に向けられる目という物に頓着する様になったガルジアだからこそ、わかる。ルカンの好意に。ただ、ルカンは自分に好意を抱いてはいても。その行動と信念を、そう簡単に曲げる事はなかったのだった。
「お前の言う事を聞く訳じゃない。が、どちらにせよ、しばらくは大人しくしているしかないな。全体から見れば、怪我人の数はそれ程でもねぇが。それでも、結構な痛手だ。街で不必要に暴れたと、周りからも見られている。そういう意味では、安心してくれよ。当分の
間は、こちらから仕掛ける事はしないさ。もっとも、絶対とは言えねぇがな。この街じゃ、そんな風に安心して構えている状況なんて、滅多にあるもんじゃねぇから」
「あなたから、そう言っていただけるだけで。私は構いません」
 ルカンとの、やり取りを思い出す。それ以上の保障などは請け合えないと言われれば、ガルジアにはそれで充分だった。今後の事は、今はまだわからないというのは、まだまだ不安にも思ってしまう事ではあるのだが。仮にリュウメイともう会う事もない、などという
事になれば。自分は今後どの様に生きてゆけば良いのかという話にもなってしまう。少なくとも、このヌベツィアの街で身一つで生きてゆく事は、自分にはできはしないだろう。かといって、街を出る事も、そもそも外に出るところから禁じられている。しばらくは、様子を
見るしかなさそうだった。リュウメイを気に掛けながらも、何もできずに居る自分が歯痒い。しかしだからこそ、ここで。少しでも自分にやれる事を見つけるべきだろうとも思った。
「それにしても、ガルジアさんはお綺麗だなぁ」
「そうでしょうか。ありがとうございます」
 手当をしていた悪漢が、破顔をして言う。そんな事を言う男の容姿は、酷い物だった。というよりは、この場に居る男達の容姿という物は、大抵が酷い。抗争の果てや、或いは元からそうであったのか。何かしらの不具を抱えている者は居るし、それどころか、
被毛の一部が完全に抜け落ちて、地肌が剥き出しになっている様な者も居た。それらは、何かしらの病もあれば、完全に人為的な仕業と見て間違いが無く。火傷の痕と共に痛々しい傷を晒した者もあった。突然に目の前に飛び込んできたら、失礼だとは
思いつつも、悲鳴を上げて仰け反ってしまいたくなる感覚にも、もう慣れた物である。今のガルジアは、日がな一日外に出る事を許されぬのもあって、いまだにその手当に加わっていた。元々、歌術による治療とて、ただの一度で良いという訳ではない。聖法よりも
劣るのであるからして、深く傷ついた相手には定期的に歌い続ける必要もあったのだった。
 そうして接している内に、ガルジアはすっかりと、悪漢達の中に馴染んでしまった。とはいえ、傍から見れば、どこに居ようがガルジアの姿など一目瞭然と言っても良い程に、見た目から何まで、違っていたのだが。立ち居振る舞いがまず違うし、仕草を一つ
とっても、豪放な黒牙の男と比べれば、同じ男とはいえ修道院で修道士として過ごしていたガルジアの方が圧倒的に品が良かったし、それは隠そうとしても隠せる物ではなかった。なよやか、とまでは言わぬが。荒くれと比べると、どうにもガルジアの挙措とはその様に
見えてしまう部分があったのは、否定できなかった。
 そのガルジアが。この街の常識に則って考えれば、到底居るはずもない白虎が、何故ここに居るのか。一部の黒牙の者達はそれを口にしては、ガルジアを訝しみ。またその様な者を、アジトの中だけとはいえ、一定の自由を許しているルカンに対して不満を
零す者も居るという。ただ、少なくとも今ガルジアが目の前で看病している黒牙の者達は、そうではなかった。この者達こそ、ガルジアがリュウメイと共に居る事を目撃した張本人に他ならぬのだから、一番の警戒と敵愾を抱いていても、なんの不思議も
ありはしないのだが。ただ、同時に彼らはガルジアに命を救われた者も多く。そのガルジアが、献身的な世話をしてくれるという事もあって、今のところはガルジアを受け入れてくれている様だった。もっともそれは、いざとなればどの様な目にも遭わせてやれる
という、見縊った考えから来ている事は、否定できはしなかったが。それでも、繰り返しガルジアが訪ねては、治療を施してゆく内に。ほとんど本能的に、大丈夫だという事を悟ったのか。最近では以前よりも気さくに話し掛けられる事が増えたと思う。この様な
街だからこそ、なのだろうか。騙し合い、裏切りを重ねる事が常であるからこそ。一度深く、身内として信じた相手には、驚く程の純粋な信頼が返ってくるのだった。ガルジアは、それを裏切りたくはないと思う。
「こんな街に居て、大丈夫なのかねぇ?」
 先程まで治療をしていた男達が、口々に勝手な事を上せる。
「だから、ここに居るんだろ。ルカンの奴が手元に置いてさ」
「だろうな。ルカンの奴、ガルジアさんに完全に惚れてるぜ。この間、手を出したらぶっ殺すって、怖い顔して歩き回ってたわ」
「おお、怖い。頭領だからって、ルカンは怒らせると本当に容赦がねぇからな」
 大分、聞きたくない方向に内容が飛び交っている事に、ガルジアか苦笑をしながら手当を続ける。ルカンの好意は、わかってはいるのだが。だからといって、それに応える様な事はないだろう。黒牙のアジトの中に、女っ気が無いという訳ではなかった。どんなに
女人にそぐわぬ様な場所であっても、男に負けず劣らずの女という物も確かに居たし、そうでなくともこの街は、結局は夜が永遠に続くかと思われる様な状態である。その主である女の姿が、無いという事はありえなかった。それでも、肉欲に塗れた場である
以上は、その性別をすら問わぬ、という場所もまた多かった。外を見れば、その実例を垣間見るのには苦労を伴う事もなかっただろう。
 そんな中において、或いは同性間の繋がりというものは一種の、特別な絆か何かを生じさせる物、という見方もまたある様だった。ガルジアには、よくはわからなかったが。苦楽を共にし、懸命に日々を生きるからこそ。密接な関係という物はできあがって。それはこの、
黒牙という存在の中でも確かにあり。それはルカンも嗜む物であるらしかった。とはいえ、ルカンのガルジアを見る目には明らかに、絆などを飛び越えたまったく別の感情が滲んでいるのは、ガルジアだけではなく。黒牙の者達にも既に知れ渡っている様だが。
「残念だな。ルカンの奴が狙ってないなら、俺の方からなんとかするのに」
「止めとけって、ここに居る奴らじゃ、どいつもこいつも釣り合わねぇよ」
「むかつくけど、ルカンと並ぶと、結構様になってるんだよなぁ。黒い豹と、白い虎とでさ」
「まあ、ドブくせぇから、そこは似合わねぇがな。ルカンも含めて、俺達なんかじゃ」
 そこまで言うと、豪快な笑い声が部屋中に響き渡る。ヌペツには、独特の臭いがあった。とはいえ、この様な街で暮らし続けていて、衛生的である、などというのは確かに難しい事であるので、それは頷ける話ではあったが。幸い、ガルジアの身体からは、まだ
その様な兆候は見られない。供出される食べ物にしたところで、ルカンは余程気を遣っているのか、ガルジアには良い物を出してくれる事が多かった。
「お前が救ってくれた命に比べれば、安いもんだ」
 ルカンは、そう言っていたが。それがリュウメイによる物である事を鑑みると、ガルジアはなんとも言えない気持ちにはなる。
「ガルジアさん、ずっと居てくれればいいのになぁ。俺達も無茶がしやすくなるし」
「治せるからと言って、あまり無理はしてほしくはないのですが……。それに、全ての人は、助けられませんでした」
 ガルジアの歌は、確かに大半の黒牙の者達の怪我を癒す事には成功した。ただ、それは全てではない。既に死の淵に立たされた者。或いは、聖法を扱える者の手ですら間に合わぬ程の重傷を持っていた者も、確かにあの場には居て。その者達には、別に
魂を安らわせる詩を歌ったのだった。それに、そもそもここに収容されなかった者の事もある。リュウメイが矢を放たれた時に、盾として使われた者などは、そうである。既に死んでいる者。それまで引き連れて撤退する余裕は、ルカンには無かったのだろう。それを
思えば、ガルジアはやはり己の力の無さを申し訳なくも思うのだった。
「仕方ねぇさ。それに、俺達はそれくらい、覚悟してるぜ。この街でしか、生きられない。でも、この街で生きるってのもさ、他の街よりももうちょっとだけ、命懸けだって。ただ、それだけなんだ。それに、例えヌベツィアでなくたって。結局は俺達みたいな、お偉い
方々なんて奴らには一生顔を突き合わせる事も無い様な存在は。どっちにしろ、どこで死んだっておかしかねぇもんだ。だから俺達は、後悔しねぇんだがな。ルカンに付いてゆくのも、そのせいで、死んじまったとしてもな」
「……皆さん、とてもお強いのですね」
「何も考えてねぇだけじゃねぇかな?」
 そこで、また男達による爆笑が起こる。思わずガルジアは、自分が重く考えていた事も忘れて。一緒になって、笑ってしまう。
 その笑い声はやはり、悪漢達のそれに混ざり合う様な物ではなかったが。

 黴臭い部屋にも、慣れを感じる様になってきた。
 細やかな掃除の賜物だと、ガルジアは思う。ただ、住めば都、とまではいかないのは確かであった。
 ルカンの下に、軟禁に近い生活を続けて、十日は過ぎただろうか。最初は戸惑うばかりだった、匪賊の暮らし振りというのも。ようよう慣れてきたというところだった。とはいえ、別にガルジアは黒牙の中に居て、その仲間として一定の者から認められた
とはいえ、同じ様な賊の行為に興じる真似はしなかった。また、頭領のルカンも。決してそれを強制的にやらせようなどという素振りを見せはしなかったのである。
 相変わらず、ガルジアの自由という物はアジトの中に留まりはしたが。それでも、それを除けば。別段に不自由な生活を強いられているという訳でもなかった。少なくとも、当ても無く外を彷徨い、野宿を繰り返す旅の日々よりかは、ずっとましである。衣食住が
保障されているという点を考慮すれば、どちらかと言えば、それは悪くない暮らし振りにも思えた。
 それでも、日に日にガルジアの表情は陰りを見せる様にもなる。別れたきりの、リュウメイの様子を依然として知る事はない。訊ねれば、ルカンはそれらしい返答はしてくれるが。しかし実際にリュウメイがどうしているのか、という事はわからずじまいである。一度は
顔を見せたフェルノーも、それきり音沙汰はなく。小康状態を保っていると言っても良かった。
 そうした日々の中で、ガルジアは変わらずに、怪我人である黒牙の者達の看病に当たっていた。しかしそれも、終わりが見えてくる頃となる。ガルジアの詩の効果もあって、比較的軽傷の者はすぐに以前の様に身体が動かせる様になったので、今も看病が
必要なのは余程重傷の者と、傷を負った事により身体が上手く動かせぬ様になってしまった者に限られていたのだった。その頃になると、その様な者達は一様にガルジアを見ると、相好を崩すが。同時に自棄になった様子を見せる事も多くなった。それも、
致し方ない部分はある。義賊と名乗ってはいても、結局はこのヌベツィアの中の、ヌペツとして。隣り合う勢力とは鎬を削る日々を送るのであるからして、その様な抗争に。或いは自らが属する団体に貢献ができぬ様になってしまった者の扱いというのは、決して
良い物とは言えなかったのだった。無論、それはルカンの命を受けた者の結果であるからして。外に放り出して見捨てる様な真似をする事はなかったが。それでも一線を退いた者達というのは、裏方の地味で、遣り甲斐の無い作業をするしかないのであった。
 最近のガルジアはといえば、どちらかと言えば状態は落ち着いた物の、しかし復帰をする事のできぬ者達の話し相手をしながら、共に裏方の仕事に従事する事が多かった。特に、この様な荒くれた男達が忌避するであろう家事全般というのは、真っ先に
戦力外になった者達に回される仕事であるので、厨房に立つ事も多くなっていた。厨房に立つといっても、それ程の料理の技術を要求される訳でもない。そもそもが、材料に事欠く様な環境なのだから。それでも心を籠めて作れば、素直な反応は返ってきたし、
またこの様な作業を任されたばかりで不慣れな者には、ガルジアも教える事ができた。修道士であったガルジアは、元よりその様な経験をあまり積んだとは言えなかったが。その辺りはリュウメイと出会ってからの、旅の連続による賜物だろう。それを思い出すと、
苦笑をしてしまうが。旅の中で、最もその雑用を押し付けられるのは基本的にはライシンと、その手ほどきを受けたガルジアであったが。滅多にやりもしない癖に、リュウメイが一番その様な事を器用にこなしていたのである。それを考えるだけで、笑みが零れる。
「お前のおかげで、あいつらも腐ったりしなくて済んでる様だ」
 ベッドの上に座ったまま、話をしていたガルジアは、椅子に座るルカンの報告を受けて、微笑を浮かべて頷く。リュウメイについての話題は、なるたけ避けてはいるが。それ以外の事については、ルカンは忌憚のない返答をしてくれる。特に怪我人がその後
どうなったのかという事については、ガルジアが気にしている事を察してか、事細かに報告をしてくれていた。大抵は、既に元の状態に戻っているという。嬉しい反面、それがやはりリュウメイへの牙とならないか、心配の種ではあった。
「最近、お疲れの様ですね」
「そう見えるか」
「……少なくとも、最初にお会いした時よりは」
 なるたけ明るく、ルカンは振る舞ってはくれているが。それでも所作の端々に、その様な物が見て取れた。別に、動きが鈍っているとか、そういう訳ではない。ルカンは黒牙を纏める者であるからして、その敏捷さ、隙の無さは、素人のガルジアが見ても舌を
巻く程である。それでも、こうして座り合って会話に興じれば。何かしら、機嫌を損ねる出来事があったのだろうかと思ってしまう様な時があるのだった。
「ちょっと、な」
「そうですか」
 濁した様な事をルカンが言う。そういう時、ガルジアは無理に訪ねようとはしない。大抵の事について、ルカンは素直に話をしてくれる。そうではない時は、何かしらの理由があるのだった。黒牙の者達も、そうなのだが。外側が、どれ程に荒くれて、言って
しまえば普通ではない姿と形をしていても。その内面は。芯の部分は。驚く程に、純粋なのであった。物の考え方が、他所の者とは違い。富んでる者には相応の憎悪を抱いてはいても、その傍近くに寄り、話をして、通じ合う事ができれば、意外な程に彼らは
素直で、優しく。また裏表もない。ある意味では、純粋無垢と言っても良かったのかも知れなかった。罪の意識が、ある訳ではない。ただ、この街で生きてゆくには、この様になるしかなかったのだと。そう、言われているかの様だった。
 ルカンは荒くれた男達を束ねるだけあって、殊更にそれが強い男でもあった。怖いくらいに、まっすぐな部分があるのだった。だからと言って単純な人物という訳でもない。考えるところは、考えている。言葉を濁した、という事は。ガルジアに話してよいか、
悩んでいるのだろう。
「……私の事について、でしょうか」
 それでも、その日は。ガルジアはいつもの様に引き下がらずに、言葉を続けた。ルカンが、僅かに身体を震わせる。今までにない展開だと、どちらもが認識をしているのだった。ガルジアもまた、そうだった。いつまでもここに居続けても、仕方がない。今後の
事を、考えなければならなかった。
「それも、ある。それ以外の事も。……部外者であるお前を、自由にし過ぎている。そういう風に見る奴も、居るんだ」
「それは、仕方がないでしょう。私も、そう思います」
 その様な声は、何も今挙がったという訳ではない。寧ろ、今この場での、ガルジアの扱いが破格なのだった。義賊とはいえ、彼らはこのヌベツィアで生きる者達である。力ずくで物事を押し通す事も、あるだろう。その中において、ガルジアの様な存在を
野放しにしている事に、疑問を覚える者が出てくるのは、当然だった。しかもそれは、敵であるはずのリュウメイの傍に居た者であって。本来ならば、常に拘束を必要とし、必要であればあらゆる手を尽くして迫り、従わせるべき相手である。ルカンは、ガルジアに
以前は助けられ、そして今もまた助けられたという考えを抱いているが故に、そうする事ができずに。身内からの、僅かな疑心と不満を向けられている様だった。
「ガルジア。本当に、俺達の仲間になるつもりは、ないのか」
「ありません」
 何度目かのやり取りを、ここでも繰り返す。返事はいつも、同じだった。ルカンは、ガルジアに、黒牙の一味となってほしいのだという。そうする事ができれば、今の批判も無くなると。しかしガルジアは、それを肯う訳にはゆかなかった。傷ついた者に手を
差し伸べる事に、異存は無かった。ガルジアは、その様に育てられたのだから。しかし、自分が助けた相手が、また他の誰かを傷つける事はあるだろう。それもまた、見過ごす事はできなかった。
「都合が悪いと言うのであれば、私はここを出ましょう。もっとも、これだけ中の事を知った私を、今更外へ、という訳にはゆかないのかも知れませんが」
「……そうだ」
 ルカンが、明らかに表情を顰めて言う。ルカンの懊悩の原因は、そこにある様だった。リュウメイを始末するために、ガルジアを人質にしようとした。リュウメイから逃げるために、そのまま連れ去った。己が命を助けてくれた相手であるが故に、ガルジアをぞんざいに
扱う事ができずに。そうしている内に、ガルジアは黒牙について知り過ぎてしまったのだった。
 そうして、じわじわと。黒牙の中において、無視のできぬ事柄へとガルジアの存在は変わったのだろう。解決策は、いくつかあった。ルカンが最も望ましいと思う形が、ガルジアが完全な黒牙の一員となる事だった。そうなれば、これはもはや同じ黒牙で
あるからして、仲間の内からの不信や疑問は払拭に至るだろう。表面上は、だが。
 ルカンが立ち上がると、静かに歩み寄ってくる。ベッドに座ったままのガルジアの前で、跪き。ガルジアの右手を取って、まっすぐに見上げる。黒い被毛の海の中の、金色の一対の瞳が、まっすぐに。縋るかの様に、ガルジアを見上げる。到底、他の黒牙の者には
見せられはしないだろう。既にルカンが、ガルジアに相当に入れ込んでいるというのはもっぱらの噂になっていたが。まさかここまでの事であろうとは、誰も思わぬだろう。ルカンも、流石にその辺りの自覚はあるのか、こうして二人で言葉を交わす際は、いつも
見張りは遠くに追いやられていた。
「頼む、ガルジア。俺は、お前の事が好きだ。勿論、それをお前が、嫌がっているという事もよく知っている。けれど、俺はこのままじゃ」
「私を殺さないといけなくなりますか」
「……ああ」
 焦燥した顔のルカンが言う。リュウメイを襲撃するには、こうするしかなかったのだった。そうして、ガルジアを手元に置いてしまったルカンは今、黒牙の頭領としての役割に則らねばならぬ自分に、苦しんでいるのだった。
 ルカンの取った手を見つめながら、ガルジアは微笑んで。しかし首を振る。温かい手だと思った。匪賊の、卑しく、血に染まった腕であろうと。誰かを思って差し出した手は、温かいのだった。もっとも、そんな事は当に知っていたのだが。リュウメイにしろ、クロムに
しろ。そしてライシンにしろ。人を殺めなかった事は、なかっただろう。そして彼らの優しさを、ガルジアは知っているのだった。リュウメイだけは、相変わらずよくわからない部分も多いが。
「どうして、なんだ」
 ルカンが俯いては、掴んだ手を頂く。どうして、と。何度もその言葉が繰り返された。
 しかしそれは、長くは続かなかった。不意にルカンが、顔を上げた時。その瞳には確かに、獰猛な獣の魂が宿っていたのだった。ガルジアは、思わず背筋が寒くなる思いをする。
「だったら、何故。あいつと居るんだ。あんな奴、俺達とそんなに変わりゃしねぇじゃねぇか。リュウメイは、良いのかよ。あいつなら、良いって、そう言うのかお前は」
「それは」
 狂おしく、猛々しい瞳の光。その時になってようやく、ガルジアは思い知ったのだった。ルカンもまた、ヌペツであるのだと。己が不要だと断じられ、そう決めつけた相手を憎む性分を心の中で飼い慣らしては、再び自身が不要と言われた際には、牙を剥き出しに
して、その相手の喉笛を噛み千切るのになんの躊躇いも持たぬ獣である事を。
 優しく、壊れ物を扱うかの様だったその手には力が漲り、ガルジアは痛みに顔を顰めるが、それも長くは続かなかった。這いずる様に、這い上がる様に。しなやかな黒豹の身体は、白く輝く白虎の身体を上れば、そのまま重みに負けてガルジアはベッドへと、
ルカンと共に身を沈ませる。白を、黒が染めるかの様に、ルカンの身体が圧し掛かる。
「ルカン……」
 手を伸ばして、その身体を押しのけようとすれば。黒く覆われた手が、低い獣の唸り声と共に伸ばされては、ガルジアを拘束する。両腕が、押さえられては、少し硬いベッドに沈む。それであるというのに、あまりの力の強さに腕が痛んだ。傷つかぬ様に、
壊さぬ様に。それを努めては振る舞っていた黒豹は、今全ての遠慮と気後れをかなぐり捨てて、ただ一心に自分の欲する物へと手を伸ばしたのだった。
「あいつは奪ったんだ。俺から、何もかもを。ルアを、奪った。仲間を、奪った。お前まで、あいつは奪うのか。殺してやりたい。どうしてだ。どうしてなんだ。俺と、あいつで、何が違う。汚ねぇヌペツ。あいつだって、そんなに変わりゃしねぇはずだ。なのに、
どうしてなんだガルジア。どうしてお前は、俺を捨てて。あいつの傍には、居ようとするんだ。そんなに俺は、お前の目には醜く見えるのか。あいつと比べて、何もかもが劣っている様に見えるって。そう言いてぇのか」
「違います、ルカンさん。私は」
「黙れ」
 息を荒らげて、瞠目したルカンがにじり寄ってくる。本能的な恐怖に、ガルジアは逃げ出したくて、しかしどうしようもできなかった。助けを呼ぶ事も、できはしない。叫び声に合わせて、ルカンが来るなと言えば、それまでである。黒牙の者達は、いよいよルカンが
ガルジアを自分の物にしようとする決断を下したのだろうと。そう思うだけだろう。
 限界まで見開かれた、二つの金色と。その一対の瞳にまで達するかと思える程に、開かれて吊り上がった口角と。そこから覗く白い牙と、赤い舌とが、ガルジアを追い詰める。そうして見れば、確かにルカンは、黒牙を継ぎ、多数の部下を抱え、死ねと
命ずる事すら容易い程の迫力を持っていた。或いは初めてガルジアが見るルカンのその姿こそが、仲間である黒牙の者達が本当に恐れるルカンなのかも知れなかった。義賊、などという形容の仕方が、如何に生易しい事であるかを物語る様に、獰猛な、
一頭の獣がそこには居るだけである。唸り声も今は上げているのだから、凡そそれに相応の知性が備わっているのかすら、今は危うい程に見える。
「俺の……。俺の、物だ」
 それでも、その口から出た言葉は。悲しい程に、純粋な物でもあった。ガルジアを、食らい尽くしたい訳でもなく。黒牙の頭領としての面子を保つ様な事でもなく。ただ、目の前に居る相手に焦がれた者のみが持つ、純粋な。それと同じ程に狂気にも近い感情。
 痛みに、ガルジアは顔を顰めて。どうにかルカンを押しのけようとする。そうすれば、そうする程に。ルカンは力を強めた。これでも、全力とは言えないのだろう。
 不意に、ルカンが身を屈めて、首を伸ばす。ガルジアは碌にそれに対する反応をする事もできずに、そうしている間に、口を大きく開けたルカンのあぎとは、白虎の、白い喉へと達する。強張った様に、ガルジアは固まって。どうにか浅い呼吸を繰り返した。喉が
恐怖に震えて。動く度、ルカンによって当てられた鋭い白い牙が、僅かに触れては被毛を超えて、皮膚に食い込む。相容れる事ができなかった、黒い獣の牙が。白い獣の喉笛へと達する。
 もはやどう足掻いた所で、ルカンから逃れる事はできなかった。体重を掛けられ、圧し掛かられている以上は、そもそもがその身体を退かす事もできはしない。ガルジアとルカンでは、ルカンの方が上背は勝るには勝っているが、そこまで差が大きい
という訳ではない。それでも、ルカンの体躯はやはり黒牙の頭領にふさわしく、鍛えぬかれている。歌術の行使でもしなければ、ガルジアには到底抗う事もできはしなかった。
 そうした中で、ガルジアにできる事は何も無かった。否、無い訳では、なかった。ただそれは、目の前のルカンを跳ね付ける様な事ではないだけであって。
 だからガルジアは、以前として牙を当てたまま。しかし動く事のなくなったルカンに対して、全身の力を抜いて。それ以上の抵抗の意思を見せる事を、止めた。いずれにせよ、膂力ではまったく勝てぬ相手であるのだから、全てが無駄に終わるだけである。
「ルカン」
 小さく、呼びかけた。覆い被さる黒が、僅かに反応を見せる。身体をびくりとさせては、耳を震わせて。それはガルジアの口元に当たった。動きを封じられたガルジアが、唯一きちんとした反応を見せられるのは、首から上に限定されている。
 名前を、呼んだ。名前を、呼んで。それから、ガルジアは僅かに首を上げた。白い牙が、再び白い被毛に沈んでゆく。沈んだ先で、被毛の大地となっている、皮膚へと到達する。また、ルカンから反応があった。唾を呑み込む。ルカンの牙が食い込んで、それは
僅かな痛みとなった。そのままルカンが牙を通せば、呆気なく皮膚は裂けて。白い被毛は、赤く染まるだろう。
「……ごめんなさい。ルカン」
 ガルジアが言う。ルカンの身体が震える。それは、ほとんど同時に起こったかの様に見えた。不意に、.ルカンの顔が、離れる。唾液でしとどに濡れた喉が解放されて、透明な糸が僅かに見えては、切れて、消えてゆく。
 喉に顔を埋めていた事で、見えなかったルカンの表情が、離れた事で再び視界に治まる。それを見て、ガルジアは目を見開いた。先程までの、獣のそれではなく。今はただ、頼りなげな表情の黒豹がそこには居た。耳を下げて、白い髭も僅かに下がって。そうして
いると、黒豹というよりは、黒猫の様にも見える。とはいえ、その図体を考えれば、到底可愛らしい猫の様だとは、間違っても思わないであろうが。
「お前も、結局は。あいつの物なんだな」
「ルカンさん」
「どうして俺達は、奪われる側にしかなれねぇんだ。奪われるだけ、奪われて。お前なんか要らないと、そう言われては、捨てられて。捨てられた奴らで、ひっついて。必死に。……惨めに、生きる事しかできやしない。いくら強がったって、本当に強い奴が
現れたら、虫けらみてぇに処分されるだけだ」
 苦しむ様に細められたルカンの瞳から、止め処なく涙が溢れては、流れ落ちてゆく。黒の海に吸い込まれて、それは消えたかと思えば。頬を通り、顎を伝い、その先に僅かに豊かになっている獣毛から、ぽたぽたと落ちる。黒の海から生じた涙が、そのまま
白の海へと帰ってゆく。
「あんまりだ。こんなのは。そうは、思わねぇか。あんまりじゃねぇか。最初に捨てたのは、あいつらなのに。最初に裏切ったのは、あいつらなのに。だのに、俺達がほんの少し、掠めただけでも、あいつらは……。畜生。なんなんだよ。そんなに、この街で
生きてる奴らと、外の連中は、違うのかよ。そんなに、あいつらは偉くて。ご立派で。尊くて。だから俺達に何をしたって、許されるのかよ。畜生。くそったれ。どいつもこいつも、気に入らねぇ。ぶっ殺してやりてぇ……」
 そこまで言うと。ふと、ルカンは糸が切れた人形の様に、がくりと首を下げて。それから、ガルジアは全身にその重みを感じる。圧し掛かられている様に思えても、ルカンが自重を支えていた時と比べれば、かなり重く感じられた。それでも、ガルジアは不平も
言わず。今しがた、気を失ったばかりのルカンの言葉を、反芻しては。ただ、気の毒そうにその黒豹を見つめる事しかできなかった。規則的な寝息の音が聞こえてきた頃に、ガルジアはおずおずと手を伸ばしては。動かなくなったルカンの頭から、首に
掛けてを静かに撫でつけてみる。黒い色の耳が、もっとしてほしいと催促するかの様に僅かに揺れた。そうしながら。ルカンの身体を受け止めながら。ガルジアはしかし、この街に来なければ良かったのだろうかと。そう、考えていた。豚の商人であるマーノンが
言った通りの、卑しく、野蛮な匪賊であると。そう、思っていられたならば。今の自分の内心は、こんなにも揺れ動く様な事にはならなかっただろう。既にヌベツィアに入り、それどころか黒牙の者達とも触れ合い、彼らがただ野卑なだけではなく。奪われ、
見捨てられた者達の成れの果てであるという事を、思い知ったのだった。本来ならば、修道士としてのガルジアが、本当に手を差し伸べなければならない相手と言っても、過言ではなかっただろう。何よりも、ガルジアもまた、同じ様な物なのだから。実の
両親に、修道院に預けられた身である。その上で、姓を辿っていつか再会する事も無いようにと。今のガルジアが名乗るのは育ての親であるウルの姓でもあった。珍しい白虎という外見に、両親は自分を持て余したのだとも思うし、また現在の、白虎だから
というだけで散々に付け狙われた事実を鑑みれば。平凡な家庭ではガルジアを守る事ができはしないだろうと、そう判断したのかも知れなかった。いずれにせよ、ガルジアは両親の思いを知らぬ。その事について、必要以上にウルに問い質す事もなかった。それを
すれば、自分を我が子の様に可愛がってくれたウルに申し訳が無いと。ある程度成長したガルジアは、決して必要以上にそれを訊ねる事はしなかったのである。そうしている間に、ウルももはや帰らぬ人となってしまった。奪われる気持ちも、不要と断じられる
痛みも、決して理解できぬ物ではなかったのだった。
 すやすやと子供の様に眠っているルカンの身体を撫でながら、ガルジアはルカンの言葉を振り返る。どうして、リュウメイと居るのか。どうして黒牙にはなれぬのか。それに対する、明確な答えという物を、ガルジアは欠いていた。リュウメイとて、決して褒められた
人柄と素行という訳ではない事は、今更語るまでもなかったし、それについては散々に悩んだし、苛立たせられたし、それから色々と諦めた事もあった。いつの間にか、そうなっていた。そうして、今はただ。様々な旅と死闘の果てに、それでも自分が傍に居る事を
厭わずにいるリュウメイの、力になりたいとも思っていた。ただ、その事はルカンには必要以上には告げる事はできはしなかった。終わり滝での事、などというのは、仲間内であっても不用意に口外しては面倒事の種と意見が合致していたし、ただでさえガルジアと
リュウメイが歩くだけで、目立つのだから。あの奇妙な一連の体験も、法螺話の様にしか思えぬはずが。この見場のせいで、妙な信憑性が出てしまう可能性もあったのだから。
 そのために、結局ガルジアは、ルカンに掛ける言葉を見つける事はできなかった。ただ、共に行く事はできぬと。そう、言い続けるだけである。少なくとも、リュウメイには様々な借りもあって、それから半ば強引なものの借金もあって。その全てを返して、
それからついでに愛想を尽かしてからならば、考えなくもなかっただろうが。リュウメイとルカンが敵対し、そして早速攫われて迷惑を掛けてしまった以上、リュウメイの下に戻る事が先決なのは確かだった。また、いくらルカンが被害者の様な語り方をしたとして、
それが実際にはある程度本当の事であったとしても。今の彼らが、義賊の旗を掲げていても。それでも、略奪を尽くす事もある匪賊であるという事実には、変わりなかったのである。また、そうであるからこそ、リュウメイに狩られたのだから。
 その内に、ルカンが目を醒ます。ルカンは最初、身体を僅かに浮かせると自分がどこに居るのかがわからぬかの様に、視線を彷徨わせては、目の前のガルジアを改めて見つめて、意識を失う前までの状況を思い出したのか。僅かに瞳を大きくして、
それから無言で手を伸ばすと、その手をガルジアの喉元へと。噛みついた時よりは、幾分緩慢とした動きで、触れさせる。
「……まだだ。俺は、まだ、お前の事を……殺さない」
 そっと、手が離れてゆく。そこまでくると、ルカンは黒牙の頭領としての本来の敏捷さを取り戻して、素早く身を引くとガルジアから距離を取る。その瞳には既に、最初にこの部屋を訪った時の様な、親しみの光は灯ってはいなかった。無機質で、無感動な。物を
見る目つきがあるだけだった。ガルジアは、対照的にゆっくりと身体を起こすと。ただルカンを見つめる。そうしている内に、ルカンは背を向けて。何も言わずに、部屋を出てゆく。
 扉が、閉まる。いつもならば、そのままルカンの遠退く足音が、聞こえるだけだった。鍵が、掛けられる音がした。
 初めてこの部屋に放り込まれた時の様に、虜囚としての生活が、再び幕を開けたのである。

 重苦しい扉が、開かれる。
「こっちに来い」
 冷たい声が、聞こえる。それでもそれは、ガルジアが既に聞き慣れたと言っても良い、ルカンの声だった。とはいえ、聞き慣れたのは声音であって。感情を押し殺した様な声ではなかったのだが。
 椅子に座って、項垂れていたガルジアは静かに立ち上がると、自分を待つルカンの下へと。そうすると、抜け目なくルカンはガルジアの両手を前に合わせて、手枷を嵌める。その間、ガルジアは黙ってルカンを見つめていたが。ルカンがガルジアを見つめる
事はなかった。
 それから、首輪に繋がれた紐を引かれる。これは、ガルジアが虜囚として囚われた日から付けられた物だった。首を強引に引かれて、ガルジアは僅かに声を上げたが。ルカンは頓着せずに、さっさと歩きだす。再びそうなっては叶わないと、ガルジアは
それに続いた。
「どちらへ行かれるのですか」
 返事を期待せずに、訊ねてみた。ルカンは、何も言わない。
 僅かな光石の灯りを頼みに、歩き続ける。今は、辺りには誰も見当たらぬ。丁度、初めてここに来て、怪我人の収容部屋へと案内された時の様だった。道を外れた暗がりからは、明確な意思と知性を備えた誰かが、目を凝らしてこちらを見ているのやも
知れぬ。僅かな光も見えぬその暗闇の先を、ガルジアからは推し計る術もない。
 そうして歩いている内に、やがてはルカンが案内しようとした先へと辿り着く。確か、黒牙の中でも上位に位置する者達だけが入る事を許された場所だった。アジトの中を歩く事を許されていた時のガルジアでも、その先はと。言い含められていた場所である。
 ルカンが、扉に手を掛けて開いた。そうするとその中の光が、僅かに漏れ出る。とはいえその先も、今居る場所とは劇的な変化を伴う程ではなさそうだった。扉が開かれ、ルカンが進むのに合わせて足を踏み入れれば、そこは大きな机が中央に設えられて、
その周りを如何にもといった風体の男達が座り込んで、たった今現れたルカンと、そしてガルジアを鋭くねめつけていた。大半の視線は、最初はルカンに向けられはしたものの。すぐ後にガルジアへと向けられては、更に目が細められる。その男達の中に、
ガルジアが触れ合ったと言っても良い黒牙の者達は、一人も見当たらぬ。今この様に睨まれている、という事は。やはりガルジアの存在を訝しんだり、或いは納得できぬ者は、多かったのだろう。もっとも、いざその様に敵意を含む視線を向けられたところで、
怯むには怯んだものの。結局はここに連れてきたのはルカンであるのだから、どうしようもなかったのであるが。
 その男達の中に、一人だけ、ガルジアは見覚えのある男を見つける。翼を持たぬ、鳥人だった。ルカンと同じ、黒牙を纏めていた亡きルアの事を思って、涙を流していた男。ここに来てから、ガルジアは顔を見る事もなかったが。その鳥人もまた、周りと
同じく冷ややかな目をガルジアに向けていた。
 それらを見ていると、扉が閉められ。首輪を引かれて、ガルジアはそのまま床に座らされる事になる。
「妙な真似をしようとは考えるな」
 ルカンが、僅かに距離を取る。首輪を離されるが、既に背後の扉には、見張りと思しき黒牙の一員である男が塞いでいる形だった。元より、ガルジアにはそのつもりもなかったが。歌聖剣はついに取り上げられてしまったし、歌術を行使しようにも、即座に
阻まれる様な状況では到底歌えたものではなかった。法術には基本的に詠唱が必要とされている以上、事前に準備でもしない限りは、この様な状況には対応できる物ではない。その上で、ガルジアの使う物が歌術であるという事は、既にこの者達には
よくよく知られていたのだから。
「なあ、ルカン。本当にこいつに話を聞かせてもいいのか」
「……ああ、それが良いと思うんだ。閉じ込めておくのも、飽きちまったしな」
 ルカンは、ガルジアの方を見ずに言う。それへ、幾人かの黒牙の者達は訝しげな表情を向けていた。それでも、ルカンが僅かに咳払いをしてから、空いていた椅子の一つにどかりと座り込めば。場は漲る緊張感に満たされる。
「ガルジア。今日、てめぇをここに招いたのは、他でもねぇ。お前と、それからあのリュウメイが探している魔剣についての情報が入ったからだ」
「どうして、その事を」
「フェルノーからの話さ。まあ、あいつも最近は顔を見せやしないがな。当然か、今は、あいつがリュウメイの傍に居るんだからな」
「フェルノーちゃん、なんであんな奴なんかに……」
 ぽつりと、鳥人が零したのに向けて、ルカンが鋭い目を向ける。大慌てで鳥人が両手を上げて。その視線を遮る様にしながら苦笑を零した。
「ケス。お前、まだあんな女狐みてぇな奴に現を抜かしてんのか」
「そんな風に言うなよぉ、ルカン。大体、それを言ったらお前だって……そ、それに。ルアとは、親しかったからなフェルノーちゃんは。ルアにも、よく言われたよ。困っていたら、助けてやってほしいって」
「はん。それで今、そいつがあのリュウメイを助けてるんだから、世話ねぇな」
「そりゃ、そうだけど」
 逸れた話を聞きながら、ガルジアはじっと男達を見つめていた。どうやら、フェルノーの存在というのは、ある程度自分と似たところがある様だった。確かにフェルノーも、情報屋という顔をしていても、平気な顔でこの黒牙のアジトまで乗り込む様な輩で
あるからして、フェルノーに好意を抱かぬ黒牙の者達からすれば、今ガルジアを見つめるのと同じ様な印象を持つに至っているのだろう。
 そうした中で、ケスと呼ばれた鳥人は、フェルノーには好意を抱いている様だった。ただ、それはケスだけには留まらぬ様で。他にも何人かは、ケスがルカンに睨まれている時に、似た様な表情をしている者があった。確かにあれ程の容貌を持っているのだから、
それはガルジアとてわからぬ訳ではなかったが。
「話が逸れたな。魔剣の事は、俺達も少しは話に聞いている。とはいえ、正直なところはよくわからねぇ部分も多いがな。手にした奴が、とんでもねぇ力を得るっていう話もあるし。反対に、手にした瞬間に。そいつは剣から生気を吸い取られて、乾いて死んじまうって
言う奴も居る。その辺りのところは、わからねぇ。ただ、そいつがどこにあるのかは、目星がついた」
 そこで、一度言葉を切ると。ルカンは唇をめくり上げて、獰猛な唸り声を上げる。野生の獣然としたその様子に、室内がしんとしする。
「グレンだ。グレンヴォールの、ある集まりにおいて。今度、その魔剣がやり取りされる」
「しかし、なんでまたグレンなんだ。そんな曰く付きの物、こちらに流れても、おかしくはねぇと思うんだが」
 席に着いていた他の黒牙の者が、言葉を挟む。それで、ガルジアもその場に居る者達の全てが、状況を完全に把握している訳ではない事を知る。ルカンが、頷く。
「魔剣、というからには。その剣は呪われているんだろうっていう話だ。……なあ、ガルジア。お前に訊くが。そういう呪われた品っていうのは、どうされて然るべきなんだ?」
「えっ。そう、ですね」
 ルカンが、ガルジアが元は聖職者である事を踏まえた上での話を振ってくる。歌術を扱うという事は、多かれ少なかれ、それに従事、或いは関係を持つ者である。その話を他の者が知っているのか、束の間ガルジアは気になったが。どの道歌術を行使できる事が
知られている時点で、相応の知識を持っている者なら知っている事であるので、今はただルカンの言葉の方を受け止める。
「曰くつきの品である以上、危険が無いとは断定できませんし。そういった呪いを解く事ができるのなら、そうしますし。それができないのであれば、厳重に保管をされて然るべきではないでしょうか。また、その様な品をわかっていて商う様な行為は、
公には禁じられているので、商いをする方も事情を知っていれば避けるのは当然の事ですし」
「そうだな。ご高説感謝致します、だ。だが、今言われた通り。こういう品ってのは表じゃ取り扱う事はねぇはずだ。なのに今は、それがグレンにある。ヌベツィアにあるんなら、まあ多少きな臭い程度だが。そうじゃねぇ。……なんのために、グレンにあると思う?」
 問いに、答える者は居ない。ガルジアとて、何故グレンヴォールにその様な物が。それも、ルカンの口振りから察するに、たまたまそこにあるという訳ではなく。どうも、グレンヴォールにそれが運び込まれたと言っても良い様な印象を受けるのである。珍品の
類を集める好事家でも居るのかも知れない。確かにグレンヴォールには、そういう者達が集まる場所もあるのだと、話だけは聞いた事がある。
 ルカンが、視線を一人一人に向けてゆく。答えを聞かせろと、言うかの様に。それでも、誰もが明確な答えを示す事はなかった。その内に、それはガルジアへと注がれる。ガルジアとて、はっきりとした理由はわからない。
「私には。先程の通り、呪いを解くというのであれば、相応の場所に預ける必要があるとは思いますが。グレンヴォールには、教会や修道院の類は無いと聞き及びました」
「それだ」
「え?」
 今のが、答えになったのだろうかと。ガルジアは首を傾げる。周りの者達も、同じ様だった。
「連中は、魔剣の呪いを解こうと試みるらしい。そのために、金を掛けてそれができる奴らを掻き集めてるそうだ」
「だが、なんのために?」
「……グレンヴォールに、大規模な修道院を作りたいんだとよ」
 吐き捨てる様に、ルカンが言う。それに、周囲の者達がざわめいた。ただ、ガルジアは何故周りがその様な反応を見せるのかが、わからなかった。確かにグレンヴォールには、今はその様な機関は無いという。それはリュウメイと共に歩いてヌベツィアの街で
見かけた、その関係者達の成れの果てを見てわかっていた。彼らはもう、立派なヌペツになってしまった。リュウメイの言葉を、思い出す。
「信仰は金だけで充分だって、てめぇらで捨てた癖に。今更、それを取り戻そうって訳か。気に入らねぇな」
 誰かが呟いた言葉で、ガルジアもようやく事態を呑み込める。要は、ヌベツィアのヌペツの気性というのは、その様な物であったのだった。自分達が見捨てられ、不要と断じられた側であるが故に。一度相手が、それもグレンヴォールの者が不要だと決めつけて、
捨て去ってしまった物を後になって必要だと言い、掌を返す様が。殊の外ヌペツ達には鶏冠に来る様であった。ガルジアには、やっぱりよくわからない物の考え方であるが。信仰を不要だと、そう言われる気持ちはガルジアにも理解できる事なのである。もう少し
熱心な聖職者であれば、その様な物言いには憤慨を示すか。或いはそれを受け入れた上で、尚教えを説く様な。言葉だけでもという者も居るのかも知れないが。少なくともガルジアは、そのどちらという訳でもなかった。それは、育ての親であるウルへの
申し訳なさにも繋がってはいたものの。結局はガルジアは、己が生い立ちという物があるために。修道士でありながら、完全にそれらの様になる事はできなかったのである。その上で、今は修道士と名乗って良いのかもわからぬ態である。また、その様な信仰は
結局は都合良く取り扱われる事や、誰か特定の者達だけが独占をする物でもないと思うが故に。今目の前に居るヌペツ達が、自分達の物を奪われるかの様に憤慨している様は、やはり馴染まぬのだった。
「だが、修道院と魔剣と、なんの関係が?」
「言っただろ。呪いを解くって。修道院だの、そういう場所に必要な物が、あるだろう。普段は態々手を付けて、あんな奴ら相手にしても割に合わねぇから、到底狙ったりもしねぇが」
「……聖物、ですね」
「そうだ」
 ルカンの伏せている答えを、すぐにガルジアは見つける。それで、本来ならば表立って扱われる事のないであろう魔剣が、このヌベツィアではなく、グレンヴォールにある意味を察する。
「奴らは、魔剣の呪いをお偉い魔道士様に金を積んで取り除いてもらってから、それを聖物として、新しい修道院に収めようって腹積もりな訳だ」
 また、周りの黒牙の者達がざわめき出す。そうしている中で、ガルジアは当の修道院側の思惑の方を慮っていた。グレンヴォールに、その様な場所が必要だと今再び考えられて、それが誘致されようとしているからには、当然中央修道会側は一枚噛んでいる
だろう。そうした中で、魔剣の呪いを清める事で、それを聖物に仕立て上げようとしている事には、僅かな違和感を覚えていた。確かに聖物とは、一般的には中々お目にかかれぬ類の物を据えるのが基本だが。だからといって、その様な曰く付きの物を、
それも本来ならば表立ってはあまり取引されぬ様な品を用いてまでする必要があるのだろうか。ガルジアの居たラライト修道院でさえ、聖物として扱われていたのはそれなりの大きさの宝石である。無論、それもかなりの価値があったのには違いないだろうが、
魔剣などという穏やかではない代物と比べると、可愛い物に思える。もっともその宝石も、ウルがバインの足止めをするのに砕き、修道院ごと爆破するのに使われて。既に影も形も無くなってしまったというが。
 そこまで考えて、ガルジアの思考は遮られる。男達の中から、一人が豪快に拳を机に叩きつけたのだった。
「どうするんだよ、ルカン。まさか、指を咥えて見ている訳じゃねぇよな? そんな事のために俺達をここに集めたって言うんなら」
「話は最後まで聞きな。……無論、そんなつもりはねぇさ。ああ、そうだ。一度は捨てた物を、事もあろうにグレンの奴らがまた手にするなんざ、俺は納得がいかねぇ。それに、魔剣にしてもそうだ。扱われるとしたら、俺達の方で、だろう。それを、連中のつまらねぇ
見得のために使われるなんざ、黙って見ているつもりなんかさらさらありゃしねぇさ」
 派手な音を立てて、ルカンが立ち上がる。獰猛な牙を剥き出しにして。見開いた目には、狂気の光が宿っていた。
「そんなもんは、見過ごしちゃおけねぇ。連中は、修道院として使う場所に、まず最初にその聖物としての魔剣を置く場を作って。そこで、魔剣の浄化をするって話だ。だったら、そんな場所なんざぶち壊して、魔剣を奪っちまえばいいんだ。お前ら、異存は
ねぇよな? まあ、そんなもんがある奴を、俺は仲間に入れた憶えはねぇが」
「異存も何も。そりゃ痛快じゃねぇか、ルカン! この間の、馬鹿な商人を捕まえたのも悪くはなかったけどよ。あんなもんじゃ、足りねえと。言ってる奴ばっかなんだぜ。ルアの奴が死んじまって、俺達は舐められっぱなしだ。もっと派手にやらねぇとな」
「おお、そうだ。ルアを殺したリュウメイも、その魔剣を狙ってるって話だからな。当然、リュウメイにもそいつは渡せねぇ。……いや。もし、魔剣に。魔剣と呼ばれる程の力があるって言うなら」
 ルカンが、獰猛な笑みを浮かべる。その笑みは、まっすぐにガルジアを向けられていた。まるで、ガルジアを通して、それがリュウメイに伝わるのだと信じ込んでいるかの様に。ガルジアは息を呑んで、それ下卑た笑みを。つい先日までは、控えめな笑みで
もってガルジアに接してくれていた面影などすっきり消え失せてしまった、黒豹の凶相を見つめる。
「その剣で、リュウメイも始末しちまえばいい。欲しがってた剣でぶっ殺されるんなら、本望って奴だよなぁ? 良い見世物になる。だから、ガルジア。お前も、連れていってやるぜ。もしかしたら、リュウメイも来るかも知れねぇだろ? 決着をつけるのに、丁度いいや」
 賛同を示す喝采と哄笑が、部屋中に満たされる。誰もかれもが、そうしている中で。唯一その輪に入らぬガルジアと。そしてルカンは。しばらくの間、ただ互いを見つめ続けていた。
 ルカンの金の瞳は、狂おしくガルジアの事を見つめている様で。
 しかし既にガルジアを見ておらず。ただ己が魔剣と呼ばれる曰く付きの品を手にして、リュウメイを切り捨てる様を夢見ているかのようだった。

 空で笑う三日月に、枯れ木の梢が掛かっては、過ぎてゆく。
 揺れる馬車の中、相変わらず手足の拘束を受けたままのガルジアは。特にする事も見つけられずに、それを眺めていた。
 グレンヴォールで開かれるという、魔剣の浄化と。それを軸とした修道院の開院は。ある程度の催し物として扱われているらしく。今まさに、ルカン率いる黒牙の者達は、それに魔の手を伸ばそうと、舌なめずりをしながら闇の中を這いずり、牙を通すべき獲物の
下へと向かっていた。
 その様な中にあって、ガルジアに言い渡された言葉は、至って単純な物だった。
「何もしなくていい。ただ、もしリュウメイが来たのなら。死に目にぐらいは会わせてやるさ」
 獰猛に笑うルカンに、ガルジアはただ諦めた様に首を振るだけだった。冷静に考えれば、ガルジアを態々伴ってヌベツィアを飛び出す様な真似は愚行にも思えるが。今回のグレンヴォールの件には、それだけ黒牙の者達が。それだけではなく、同じヌペツの中でも
殊の外瞋恚を燃やす者が多く居るらしく。そのために黒牙の人員を投入すればする程に、ではガルジアをどこに置くかという問題が持ち上がってくる様だった。一応は人質の態でもあるので、少人数でアジトに残す訳にもゆかず。そうした中で、ルカンが強硬に
連れてゆくと主張をするのは、ある程度は致し方なかったのかも知れない。そうでないというのなら、その辺りにさっさとガルシアを捨て去るか。黒牙の事を知り過ぎたと、さっさと処分するべきだという声が強くなってしまう事は容易に想像できたのだから。
 また、これはある程度黒牙の者を動員するために、ガルジアは知る事ができたのだが。ガルジアが世話をし、面識を得た黒牙の者達は、やはりガルジアをその様に切り捨ててしまう事には難色を示してくれたという。何よりも、その様に命を救われた筆頭が
ルカンであるのだから、他の黒牙の幹部達も、必要以上に反対を示す事はできぬ様だった。更に付け加えるのなら、グレンヴォールでの魔剣と修道院の催しが行われるまでに、それ程の猶予が無い故に。今その様な事で仲間割れをしている訳には、どちらに
与する者達にせよなかったし、それは共通の認識でもあったのだった。
 そのために、ガルジアは今は荷馬車に乗せられては、猿轡も噛まされて。囚人の態で運ばれていたのだった。荷台には他に、ガルジアを見張るための者が数人と。それから、大量の武器や、火を放つための道具に、僅かながらに帯魔布の存在が
見て取れる。帯魔布などの魔導用の道具が少ないのは、扱える者が極端に少ないところから来る物なのだろう。なんとなくそれを見て、ガルジアはこんな時でありながら、ライシンの事を思い出してしまう。終わり滝で別れて以来、それきりであるが。あの
ライシンが、今居てくれれば、助かる事もあっただろうなと思ってしまう。自分がその様に振る舞う力が無い事が、今は嘆かわしい。匪賊の群れなどというものに対するにあたって、ライシンの邪法はかなり信頼が置けたし、怪我をしても治療が
できるのだろうから。ライシンにしろ、クロムにしろ。やはり大勢で居た頃は、それなりの準備と、そして戦い方があったのだと、身に染みた。その様な中であるからこそ、ガルジアは安心して歌術を行使する事もできたのだから。
 朝夕を問わずに、荷馬車は進んでゆく。ただ、進む道は、到底道とは言えぬ悪路であって、お世辞にもその乗り心地は良い物とは言えなかった。そもそもがヌペツ達の移動であるし、その上で目指すはヌベツィアの北東。然程離れたとも言えぬ
グレンヴォールであって、更に目的はそこで行われる催事に乗り込み、散々に引っ掻き回しては魔剣を強奪するという内容である。人目に付くのは憚られるし、いよいよグレンヴォールに近づいたとあれば、段々と隠れる場所も無くなって、昼間の移動は
断念し、夜間の移動が多くなっていた。ただ、ここに来てガルジアの乗る馬車は一度大きく迂回をして、大半の黒牙の者とは別れた様で。その内にまた昼の移動も再開される。グレンヴォールもまた、今回の様に新たな物事を始める際、それが一度は
自分達が打ち捨てた物である以上は、ヌベツィアの動きをある程度警戒している様な節があるのだろう。その様な中において、当然ながらヌベツィア側へと続く道には相応の警邏と兵が配され、警戒が敷かれているというのは、黒牙の者達の会話からも
なんとなく察する事ができた。夜陰に乗じてグレンヴォールに入り込むのに、流石に荷馬車を共に行かせる余裕は無かったのだろう。
 肝心のグレンヴォールの入口では、荷馬車には何重もの布が被され。またガルジアが閉じ込められている区画は木の板を組み合わせ、更にその上には荷物を置いていた様で、到底そこに人が隠されているのだとはわからぬ様にされて、結局はガルジアが
僅かに期待を見せた様な展開に至る事は無かった。声を上げる事も、自分に寄りそう黒牙の者がガルジアの口元を押さえていたのでする事はできなかったし、また結局のところ、この様な場で助け出されたとしても、白虎であるガルジアの身の上というのは
グレンヴォールですら、ガルジア一人ではきちんと扱ってもらえるのかは今一つわからぬのは確かな事であった。
「どうやら、無事みてぇだな」
 街中に入ると、人気の無い場所へと荷馬車は置かれ。そこまで来ると、今まで別行動だったルカンが乗り込んできては、拘束されたままのガルジアを見下ろして。
 そうして、僅かな安堵の色を浮かべた表情でそう言う。しかしそれは、長くは続かなかった。
 ルカンは全体の指揮を取るために、先んじてグレンヴォールに乗り込んでいたのだろう。ガルジアもまた、到着してすぐに現場へと赴くという訳ではなく、しばらくはグレンヴォールの中にあっても、ヌペツに手を貸す者。或いはヌペツでありながら、グレンヴォールの
情報や有事の際に拠点を提供するために潜む者達に匿われて、その日を待つ事になる。その間も、ガルジアが知る事のできる情報という物は、ほとんどなかった。グレンヴォールの中だというのに、ガルジアを閉じ込めておくための牢は既に用意してあって。それは
時にはこのグレンヴォールから、ヌペツ達が気に入らぬ者達を。大体がヌベツィアを軽んじては、ヌペツを蔑む様な輩を攫い、一時的に監禁するために使われている場所の様であった。
「ルカンさん」
 その様な場所において、仲間の到着と襲撃の下準備を待つのもあってか。ルカンはひたすらに己の中の刃を研ぐかの様に、日々その表情は剣呑な物へと変わってゆく。それに対して、ガルジアは例えそれが聞き届けられぬだろうと思っても、声を掛け続けたが、
ルカンがその声に応える様な事はなかった。監禁されているガルジアの様子も、ルカンは逐一見にきてはいたが。やはり以前の様に言葉を交わす事はなく。ひたすらに今回の襲撃が功を奏し、グレンヴォールの計画をぶち壊しては、魔剣を奪取し。そうして
その剣の力でもって、リュウメイを始末する事だけを見つめているかの様だった。

 グレンヴォールの夜が来る。
 それは、隣り合うと言うには距離があるものの、それでも一番に近い場所にあるヌベツィアとは、似ている様で。しかしよくよく見てみれば、明らかな違いを孕んだ物になっていた。
 一つの街には、二つの顔がある。それは昼と夜で変わる事もあれば、或いは厳格な趣で統一された地上を表とし、その地下には思わず目を背けたくなる程に享楽に耽溺した者達の顔を隠す裏も存在する。ガルジアが巡ってきた街とは、どこにも一定の、
その様な表情と、移り変わりという物が存在していた。それは、街としてならば、ごく当たり前の光景であったとも言えよう。昼にしろ、夜にしろ。書き入れ時というのは存在しているが故に、そうして時が過ぎたり、場所を少し変えれば、同じ名を持つ街も、
見せる姿を別の物へと変えてゆく。それが、街という存在の、常なのであった。
 しかしグレンヴォールの見せる顔というのは、やはり昼と夜で、それ程の違いは無いように思えた。勿論、昼と夜の商売の違いはあったであろうし、それはこれまでにガルジアが見て、過ぎてきた街と同じ様にも思えたが。やはりどこか、違っている様にも
思えるのだった。簡潔に表現をするのならば。グレンヴォールで行われるやり取りというのは、常に金の上に成り立つ、しかしそれ程の危険性を伴わぬ、ある意味では安全な物に留まっていたのである。そうして、グレンヴォールで扱えぬ物の全ては、
ヌベツィアへと流れてゆく。不要と断じられた物を、投げ入れてゆくその内に、ヌベツィアはどんどんとその姿を大きくしては、グレンヴォールとは何もかもが反対の物へと。本来ならば切り離す事ができぬであろう、コインの表と裏という物を、切り分けた様に
なっていたのだった。
 街中ををしずしずと歩いているガルジアは、深く被ったフードから僅かに見える周りの様子を見て、そんな事を。どれ程にヌペツがグレンヴォールを憎んでも、結局はその様に二つの街は一つの物と言っても良い状況なのだなと、ぼんやりと考えていた。
 そうしながら、歩みを僅かに止めていたせいもあって、背中を小突かれる。自分と同じ様に、淡い白のローブを纏っていたルカンが、鋭い目で自分を見つめていた。それに、ガルジアは小さく頷く。
「余計な真似をすれば、その場で殺す」
 そう短く言われて、ガルジアは拘束を解かれては、そのまま目当ての場所へと。魔剣の解呪を試み、またそれを聖物としては、新たな修道院の始まりとしようとしている場へと向かっていた。とはいえ、流石にここまで来た時の様に、荷馬車で乗り付けるという訳には
ゆかなかった。既にその場では、人だかりが。今回の催しに期待を寄せる者達が、集まっているのである。これが例えば、修道院が実際に建った後の祝いの席であったのならば。ありとあらゆる物が、あたう限り集められては、派手な盛り上がりにも
なり。荷馬車の入る隙もあったというものだが。今回はその修道院に据えられる魔剣を浄化し、聖物と成せるかどうかという。いわば前哨戦の様な段階である。勿論これが上手くゆけば、そのまま修道院に確かな聖物として据えられる事が決まるので
ある以上、関係者にとっては今後の進捗に影響を及ぼす事柄であったのは確かだが、その様な訳で、大仰な宴などという物がなく。そのために、荷馬車などを潜り込ませる隙は無かったのだった。
 ただ、その代わりに。宗教に熱心な感心を寄せている者達が、その分今は集まっているのだった。グレンヴォールには、かつては教会があったというが。今はそれは無く。しかしだからといって、日々を生きる中で心の中に信仰を抱く者達が、消えた訳では
なかった。彼らは細々とした日々を生きながらも、再びこの様な日を迎える事を心待ちにしていたのだろう。今まさに、その修道院が建つと思われる場所へ集う者達の表情は皆穏やかで。また身に纏う者も、街の者は比較的質素で、普段着の様相では
あったものの。どこからか今回の件を聞きつけて、足を運んだと思われる者は、今のガルジアやルカンと同じ巡礼者を示すローブに身を包んでいる者が多かった。然るに、荷馬車での潜入は難しいが、その者達に扮して、それらに紛れ込む事は充分に
可能だったのである。
 それら、信仰を胸に秘めた者達は。長年の屈従とまではゆかぬものの、それでも表立ってその様に振る舞う事、寄り集まる場を損なってしまった鬱憤を今こそ晴らすかの様に。ガルジアが当初想像していたよりも多く姿を見せていた。その中に、修道士である
ガルジアが、匪賊と共に紛れ込むのであるから、皮肉な物だった。ややもすれば、今回の事に正式に招かれては、新たな修道院の設立を寿ぐために足を運ぶという事態も、あったやも知れぬというのに。それも、ラライト修道院が無くなった後は、どこにも
腰を据えずに。風来坊のリュウメイと旅をしているのだから、仕方が無かったが。
 今更ながらに、とんでもない男と一緒に旅をしていたのだなと振り返って。ガルジアは薄く笑う。声を上げなければ、その程度の所作は深く被ったフードが、隠してくれた。
 その内に、人の熱が伝わってくる。ぽつり、ぽつりと歩いていたはずの人の姿は、段々と増えては、一つの塊へと変じてゆく。さざめき、揺れ動く様が、巨大な一頭の獣の様子へと変わり。ただ一つの目指すべき場所へと、足並みを揃えては進んでゆく。どこに、
これ程の人が。その胸に信仰を抱いた者が居たのかと、ガルジアは目を見張る。己が修道士であり、ともすれば彼らから恭しく接せられる立場であるというのにも関わらず。この場の一種独特の、そして異様な空気に、ガルジアは蹴落とされてしまいそう
だった。それ程までに、リュウメイとの旅は自分を変えてしまったのかも知れぬ。また、サーモストの一件もあり。自分が所属する場に、必ずしも全幅の信頼が寄せる物とは限らない事も、知ったのだから。
 人の波の、一部となる。そうしていても、周囲は少数の黒牙の者に取り囲まれており、逃げ出すという余裕はなかった。黒牙の者達は、周りと同じ様な外套を身に着けているために、一件して見分けがつかぬ様だが、よくよく見れば正面と後ろから見たどこかに、
小さな印をつけて。それとなく仲間内ではぐれたり、また無関係の物と見間違う事のないようにとの工夫が施されていた。前を見ても、横を見ても。黒牙の者達に囲まれている事は疑いようもない。また、仮にここから抜け出せたとしても。既にこの一群の向かう
先は同じであって、正反対の方向へ引き返す、などという事もできはしなかっただろう。
 グレンヴォールの道を歩いてゆく。その頃になってようやく、ガルジアも初めて足を踏み入れたグレンヴォールをある程度落ち着いて観察する事ができる様になっていた。監禁されていた時は、無論外を見る事は許されはしなかったし、ここに来るまでもそれは
変わらなかった物の。この様に大勢の中に潜んでいる間は、黒牙も不必要な騒ぎを起こしたい訳ではなく。ガルジアが余程の事をしない限りは、見逃してくれるのだった。そもそもが、この計画は魔剣の奪取と修道院設立の阻止であって、ガルジアがここに
居る事は単なるルカンの気紛れに過ぎないのだから。
 グレンヴォールの街並みは、ヌベツィアの街並みとはやはり対照的であった。背の高い、二階、三階建ての建物などというのは、凡そヌベツィアではお目に掛かれなかったし、そもそも舗装された道というのも、ヌベツィアではごくごく一部の話だった
だろう、商業的な成功を治めたグレンヴォールの街並みは、確かに他の街とは比べようもない程に発展していると言っても良かった。あのサーモスト修道院のお膝元であるヘラーの街ですら、裏道などは地面が向きだしであったし、そのせいで召術士のバインには
痛い目に遭わされた事を考えると、如何にグレンヴォールが破竹の勢いで急成長を遂げているのかがわかる様だった。もっとも、ヘラーは宗教関係者に開かれた街と言ってもよく、清貧を心がける様にと表向きは触れ回っているのだから。その点だけを取り上げて
ヘラーの街がグレンヴォールにひけを取ると見るのは些か早計に過ぎたが。
 ともあれ、確かにグレンヴォールというのは、ガルジアが見てきた数少ない。それでもそのどれもが記憶に新しい街と比べて、極めて小奇麗で、また背の高い建物が多く。道行く者達も中々に豪奢な服に彩られた者の多い街だった。もっとも、豪奢ではあっても、
瀟洒とはお世辞にも言えぬ態の者も多かったが。その辺りはやはり、まだまだ田舎臭い独特の印象を受ける、結局は長年の伝統などを持たぬ、新参者達の匂いを充分に纏わせているのでもあった。野暮ったく、洗練されたというには程遠い。
「もうすぐだ」
 ルカンの声が響く。言われて、顔を上げれば月は闇の中に控えめな光を共にして、空を彩っていた。この街も、ディヴァリアと同じく灯りの類は多く。空の美しさよりも、街そのものの姿の方が目につく方だった。今も、ガルジアが顔を上げると。空に手を伸ばすかの
様に築き上げられた街を覆う壁が見える。大分それに近づいてくると、ふと気づく物がある。その壁は通常、無地の質素な物であるのだが。ある一角には、僅かに他にはない装飾が施されている様だった。恐らくは、あそこが人の波が流れ着く場所なの
だろう。
 僅かに、足並みが早くなる。走り出す程ではないが、誰もが目的地を前にして、自然と足を速めている様だった。次第に見えてくる。そこにあるのは、遠くで見て期待していた物よりは、幾分こじんまりとした印象を受ける建物だった。それは内壁に沿う形で
造られており、それ以外の全ては壁とは距離を取った形であるため、非常に目立つ物となっていて。今はその建物を囲む様に、集まった者達が輪を作っている状況だった。
「あれが、昔この街にあった教会だ。すっかり寂れちまったそうだが、今回はそこと、その隣にいくつか作って修道院にするって魂胆みてぇだな」
 あれが、そうなのかと。ガルジアはじっと見つめる。何年前の出来事なのかも、わからないが。そこには確かに自分と同じ様な者達が居て。そうしてある日、そこを追い出されて、その一部はヌベツィアへと逃れたという。その成れの果てを。ヌペツとなった
姿を。確かにガルジアは、リュウメイの案内を受けて見たのだった。不思議な物だと思う。もし自分が、同じ目に遭ったとしても。到底その様にはなれなかっただろう。健やかに、安らかに、そう生きている時は、人は穏やかな振る舞いをしていられるが。実際に
困窮した際には、どうなるのかはわからぬと。そう言われているかの様だった。その自分も、何故だか別の修道院などには移らずに、当てのない旅をして。そうして今日ここに居るのだから。
 修道院の予定地である部分は、まだまだ手つかずといった風であって。今そこにあるのは、元は教会として扱われていた場所だけであった。それも、かなり急ごしらえであるせいか。いまだに放置されていたと思わせる様な部分が見え隠れしている。それでも、
誰もがそれを見て首を傾げたり、溜め息を漏らす様な事もなかった。再びこの地でも信仰をする事が許されるという、安堵と歓喜に打ち震えているかの様だった。
「あの中に……」
「そうだ。今回の、聖物となる予定の魔剣があるはずだ」
「この後は、どうなされるのですか」
 一見して、その元教会である建物というのはそれなりの大きさである事は壁と見比べればわかったものの。既にこの場に集まっている者達の全てを収容できるとは到底言い難い状態であって。その上で、自分達がこの中に入るのは難しいのではないかと
ガルジアは思い、ルカンにそれを訊ねる。
「そうだな。このままじゃ、ちと厳しいだろうよ。勿論、魔剣を浄化するにも、それをよく見てくれる観客が。成功した際に、それを喜んじゃ、外の奴ら、街の奴らに吹聴する存在が必要だ。そういう見物客がな。つまり、運の良い奴はここから、あの中に入れる。それに
紛れてうちの奴らもある程度は入れるだろうよ。だが、全員という訳には行かねぇし、俺達は確実に入らなくちゃならねぇ。……こっちだ」
 ルカンが、不意に歩き出す。教会とは別の方向へ、だ。ガルジアも、それに続く。どの道周りの黒牙も動きはじめるために、立ち止まる事は許されはしなかった。ルカンが向かったのは、教会からは離れた内壁沿いだった。その辺りは先に見た通り、教会を
除けば他の建物があるという訳ではなく。ただ見上げるしかない殺風景な内壁と。大きな道がどこまでもそれに沿って伸びているだけだった。必要に応じて、そこを通り荷を運んだり。或いは余程大きな物を動かす際には使われる様だが。陽が落ちた今は、
自分達を見咎める者とて居ない。ガルジアは、高い壁を無言で見上げていた。天高く伸びる壁は、如何なる者をも寄せつけぬと言いたげに、傲岸に聳え立っており。そうして見上げているだけでも、圧倒されるかの様だった。もっとも、仕事振りを発揮しては、
一番に遠ざけておかねばならない存在であるヌペツが、今は内側に居て。この壁を見上げているのだが。
「ここだ」
 壁が、続いていた。ただ、それはどこまでも一切の起伏を知らずに伸び続けているという訳ではなかった。壁に線があり、近づけば、そこは外側に向けて僅かに突出する様に造られていて。遠くから見れば、確かに線の様に見える。グレンヴォールの
高い壁には、いくつかその様な場所があり。それは遠くから見れば、殺風景にも見える内壁にほんの少しの、虚しいあしらいを添えたかの様だったが。実際にこの辺りで戦闘が起きた際などには、隠れる場が壁際には無いので、その様に扱う物である
様にも見えた。今はその線に入った分だけ外に向けて造られている小さな袋小路に、ルカンが入る。ガルジアが続くと、そこには長年放置されたせいか。幸いにも争い事とは無縁で居られたのか、控えめに茂みがあり、丁度袋小路に入った者達の身を
隠す事ができる様になっている。
「ここが、何か……?」
 ガルジアが問いかけると、ルカンが頷く。そうして、その場で屈み込むと、両手を突き出して何やら茂みを弄り回していたのだが、不意に軽く声を上げると同時に、両手で持ち上げる様にすると。茂みその物が大きく横にずらされる。ガルジアが呆気に取られて
いる前で、気づけばその大地には、ぽっかりとした穴が。緑その物が器用に切り取られ、その先には地下へ続く階段が。闇の中へと、ぽっかりと口を開けて、どこまでも続いていた。
「これは」
「教会の、抜け道だ。教会自体は壁を造った後に、ああやって内壁にくっつける様に造られたからな。非常時に使うためのものらしいな」
「どうしてこんな物がある事を」
 そこまで言って、ガルジアはヌペツとなった教会の者達の姿を思い出す。彼らならば、まず間違いなくこの道を知っている事だろう。
「これが使えるのは、今だけだろうよ。今後、あの教会も細かいところを直す様になる。そうなったら、この道も見つかる可能性があるし、そのまま放置されるとは思えねぇ」
 先頭を切って、ルカンがまずは階段を下りてゆく。その次がガルジアで、逃げられぬ様にと後ろにはルカンの右腕でもある鳥人のケスと、残りの黒牙の者達が続く。中には当然ながら照明になる様な物が用意されている事はなく。ルカンがぼうっと
掌に光を灯す。それは光石の腕輪と、ルカンの掌自体がその様に光っている事により齎される、極僅かな光源だった。薄暗く、狭苦しく、息苦しい道を、進んでゆく。進む内に、次第に外の音が、遠くなって。代わりに耳鳴りの様な音がやってくる。外では、実に
様々な音が自分を包んでくれていたのだと。ガルジアは呆然と思った。風の音。それに乗せられて聞こえる人々のさざめき。どこかへ飛び立つ鳥の羽ばたく音。虫の声。何気なく耳に入れては、特になんの感想も抱く事もなく過ぎ去っていたそれらが、今は
遠く。入り込んだ秘密の入口から離れれば離れる程に、それらは感じ取る事ができなくなって。その代わりに聞こえるのは、今この場を歩く者達の足音と息遣い。その二つだけだった。暗闇の中で、先頭を行くルカンの掌にある淡い光だけを頼りに道を行く。それは、
奇妙な快さと恐怖とを、同時に駆り立てる物だった。外の喧騒も、今この街で起きている事も、何も頭を過ぎる事はなく。ただ無心で、歩いてゆく様は心地良いと思えたし、それと同時に、まるで自分達がどこかまったく別の、見知らぬ場所を。この暗闇の中から
魑魅魍魎が突然に飛び出してきても、それを全く訝る事もなく。いざそうなったら、ただ悲鳴を挙げている間に全員が食らい尽くされてしまうという恐怖をも感じていたのだった。何もそれは、ガルジアだけが感じていたという訳でもないのだろう。足音は次第に
規則的な物なら、僅かに早くなったり、遅くなったりを繰り返していたし、息遣いに関してはもっと露骨に、数人の呼吸が早くなっていた。闇の中で生まれた様な、ヌベツィアのヌペツであっても。結局は自分とそれ程に変わるという訳ではないのだと、ガルジアは
思う。ただ一人、目の前を歩くルカンだけは。何一つの変化も伴わずに、そこに在り続けた。それは或いは、リュウメイに似ているのかも知れないと思う。リュウメイならば、例えこんな道であったとしても、何も変わらないだろう。何も変わらずに、その赤髪が揺れては、
自分の事を導いてくれるのだろう。当のルカンの姿は、相も変わらずに黒の被毛に、黒ずくめであったために。この闇の中では、ほとんどその掌と周りしか見る事も敵わなかったが。
「ここか」
 不意に、二つの音以外に存在し得なかった静寂が破られる。ルカンがその様に呟いただけだと言うのに、何かしら奇妙な戦慄が全員を襲い、後ろの方では微かな悲鳴すら聞こえた。ルカンは、それを気にした様子も見せずに、一度掌の灯りを消して、完全な
暗闇の中で、ごそごそとあらぬ方向に手を伸ばしては入口の時と同じ様に具合を確かめているらしい。その腕輪だけが、闇の中で蠢く様は、やはり別の世界、別の場所にでも、この暗闇の通路を歩いている内に迷い込んでしまったのかと思わせるかの
様だった。それでも、それは長くは続かぬ。不意に物の動く音が聞こえると、それで暗闇には僅かな明かりが射し込む。明かりと言って良いかわからぬ程に、弱い光ではあっても。完全な暗闇の中からすれば、それは眩しい外に飛び出したかの様に、その場に
居る者達を安堵させるには充分な物だった。誰かが、吸い続けていた息を吐き出す音が聞こえる。そうすると、ルカンが叱咤する様に高い音で息を吐き出した。
「俺だ。ぬかりはないか」
「はい。今は、俺達だけです」
「そうか。始まるまで、ここを使う。もし誰かが来るのなら、関係者の振りをして。補修もされていないからここからは進めないと言え。無理に入ってくる奴は、下っ端なら始末してもいい。それ以外は、悪いがどうにか追い返してくれ」
 ルカンは、教会へとの入口を開けてそのままその先で待機していた仲間と会話をしている様だった。流石に外から侵入する事ができても、出た先にまったく用意が無くては上手く行かないと判断したのか。その辺りには根回しがされている様だった。程無くして、
ルカンの身体がすいと持ち上がる。暗闇に同化していてよくわからなかったが、真上に穴が開いて、そのまま出られる様だった。ガルジアがそれに続いて、どうにか上ろうとすると、ルカンに手を差し伸べられる。渋々とそれに引き上げてもらうと、ガルジアは
それまでよりはずっとましではあっても、薄暗い部屋へと辿り着く。
「ここはもう、教会の中にある。裏手の、物置だ。大きな声は出すなよ。流石にここからは、気づかれちまう」
 ルカンの説明を聞いている間に、続々と抜け道から黒牙の者が出てきては、最後に蓋をする。
「首尾はどうだ」
「今のところは、特に問題は無いようです。今は丁度、建物に入る奴を選んでいる状態でして」
「魔剣が浄化され、聖物となる奇跡の瞬間を目の当たりにする幸運の持ち主は誰かってか。はん。いいぜ、その幸運な奴には、残らず後悔と落胆を擦り付けてやらねぇとな」
「ルカンさん。その剣が、浄化されるというのも、許せぬ物なのですか」
「当然だ。それが聖物になる以上は、そうなると修道院をぜがひでもって流れにもなっちまうからな。そういう意味では、俺達が何もしなくても、その魔剣の浄化とやらが上手く行かなければ、頓挫する話かも知れねぇが。どっちにしろ、要らねぇと投げてきたものを、
またてめぇらの物にしようとするなんざ、反吐が出る。この間も、腐れ商人は捕まえられたが、あの鑑定士の奴は逃がしちまったんだ。今度は失敗なんぞしてられねぇ」
 後半の部分は、もごもごとしながらルカンが言う。ルカンの言葉に、黒牙の者達が瞳をぎらぎらとさせながら頷いていた。皮肉な物だと思う。おおよそ真っ当な生き方しているとも思えず、悪事に手を染めている様な輩が。教会だの修道院だのという物を原因と
して争うのであるのだから。とはいえ、彼らにとってはそれ程に宗教や信仰が大切なのではないという事は、よくよくガルジアはわかっていたのだが。要は、グレンヴォールに好きな様にさせておくのを、彼らはどこまで行っても潔しとはしない性質であって。また、
そうであるからこそ。彼らはヌベツィアの一員として常に自他共に認める、立派なヌペツでもあるのだった。
 促されて、ガルジアは様子を見る。ガルジア達が潜んでいるのは、一般の者も受け入れて祈りを捧げられる聖堂に隣接した場であって。丁度、壇上の様子と、席に着き祈りを捧げる者達の様子も窺う事のできる、斜め前の位置の物置部屋だった。今はその
部屋の前に黒牙の者と思しき見張りが、かなり質素な恰好をしてこの物置へと通じる道を塞いでいる。そうして、先程の会話の通り、ぽつぽつ人の姿が見えているところでもあった。外に居て、教会を囲んでいる者達の中から、特別幸運に恵まれた者だけが
選ばれては、明らかに今回の催しがあって急遽手が加えられた内装をきょろきょろと眺めながら。それでも己がまさに今、聖物が誕生し、それが修道院及び教会が新たに設立される足掛かりとなる瞬間に立ち会えるという事もあって、皆が高揚を
隠しきれぬ表情をしていた。そわそわとしながら席については、しかし私語を交わす程には浮かれておらぬ者達は一様に、まっすぐに正面を見据えて。もうすぐそこで繰り広げられるであろう魔剣の浄化という、これはちょっとした見物でもある出来事が
早く始まりはしないかと、期待に目を輝かせていた。それを見ていると、なんとなくガルジアは胸が痛む思いをする。まさにこれから、自分達が。いや、ガルジアはその気はないのだが。黒牙の者達が、この式をぶち壊しにするのは、明白なのであるからして、
彼らの思いは粉々に砕かれて、ルカンの言う通り後悔と落胆にその表情が染め変えられるのだろうという事は想像するに難くはないのだから。
 しかしここまで来ると、またガルジアも腹を括っていた。どちらにせよ、騒げばその場で命を絶つと散々に忠告された以上は、どうする事もできはしない。仮に自分がそうする事で何かが変わるとしても、今回の催しが台無しになるだけであって。それは何一つとして
解決には至らぬ事であるというのはわかるのだから。とはいえ、このまま見守るだけで、何かが良くなるという訳ではないのかも知れなかったが。
 そんな事を考えている間にも、続々と人は増え続けて、やがては椅子が人で埋め尽くされる。座る場所が足らずに、立ち尽くす者も出ている様だった。ガルジアと同じくそれを覗いていたルカンが、僅かにほくそ笑む。
「合図をしたら乗り込むぞ。せっかくだ。魔剣がどんなもんか、見てみようじゃねぇか。そのために、鑑定士の奴も呼んだみてぇだからな。……あのスナベの奴じゃねぇみたいだが」
 ルカンが指示を出すと、それきりガルジア達が隠れている物置からは完全に音が立つ事はなくなる。皆が精神を研ぎ澄ましては、ルカンの合図をただ待って、命令一下になんの滞りもなくそれを果たすためだけに動く事ができるのだった。ガルジアも今はその
気に呑まれては、固唾を呑む様にして。それから、最後にまた聖堂に集まる者達をちらりと盗み見た。そのどこかに、自分の見知った者が居やしないかと。この場には、遠方から今回の件を知って参じた修道士の姿もちらほら見えるので、ほとんど居ない知り合いの内、
それらが居ないかと。また、あの赤髪の男がどこかに潜んでいるのではないのかと。それでも、ガルジアはそのどちらをも見つける事はできなかった。フードを深く被った者達が多い中では、流石にここから離れた場所に居る者達の見分けはつかない。
「静粛に。皆さま、大変お待たせいたしました」
 そうしていると、不意によく通る声が聖堂内に響き渡る。どうにか目を凝らせば、壇上に見慣れぬ男が立っていた。どうやら、今回の催しの司会を務める者の様で。集まった者に労いの言葉を掛け、また今回の事が滞りなく進めば、このグレンヴォールに
新たな修道院が造られる事。その許可を既に中央修道会から頂戴している旨などを、丁寧に説明してゆく。
「思えば、過日ここにありました教会が無くなられた際。皆さまは大層気を揉んだ事でしょう。この街では特別に信仰を禁じるという様な事はありませんでしたが。それでも祈りを捧げては、安らげる場所が無くなってしまったのは確か。ご安心ください。さる筋の
高名なお方が、この街を治めているドンド様へと、熱心に掛けあってくださったのでございます。まずはそのお二方へ、どうかお祈りをお願いいたします」
 しばらくの間、祈りが捧げられているのか、それで聖堂の方も静かになる。ただ、それを聞いていた黒牙の方からは、あからさまな舌打ちが聞こえた。
「何がさる筋の高名な方、だ。ただの業突く張りの商人だぞ、そのパトロンは。これだけ街がでかくなったから、一度は要らねぇと踏んで、追い出した宗教家やらを次の得物だと思っただけじゃねぇか。反吐がでらぁな」
 聖堂の方へは聞こえぬ様に。しかし静かに怒りを孕んだ声でルカンが言う。それを聞いて、ガルジアも僅かに気分を悪くする。その様に信仰を利用されるというのは、ガルジアにはやはり受け入れがたい事ではあった。それでも、今聖堂に集まっている者達には、
その場所が必要なのもまた確かであって。如何ともし難いのだが。結局は、この街において物を言うのは金であって。そうしてどれだけ清貧を心掛けていようが、その場を守るのにも必要なのは、金なのであった。特に、グレンヴォールの様な。場所が空いて
いるのならもっと他の、儲かる事に使うべきだという意見が通りやすい場所では尚更である。その様な意見に対して、説得するというのは。結局のところ、こちらもそれなりに儲かる上に、新たな客を呼び込むのだと主張するのがもっとも手っ取り早いの
だった。確かに金銭に塗れてはいるものの、今回その出資をしては、この街の長だという者の説得に当たった商人の見る目というのも、また確かな物なのだろう。もっとも今それが、果てない程にヌペツ達の怒りを駆り立てているのだが。
「ありがとうございます。それでは、あまり時間を掛けるというのも好ましくはありませんので、本題へと入らせていただきます。既に夜となり、皆さまの中にはあまり時間の掛けられぬ方や、眠る前のお祈りをされる方もおりましょう。まずは、今回の催しについての、
改めての説明を申し上げます。修道院や教会など、その中でも一定の大きさの施設には、聖物があるというのは、大抵の方はご存知の事と思われます。それらは不可思議な力を持つ物が多く。実際に奇跡を起こす事もできると言われております。有名な聖物と
いえば、今はその行方がわからぬとされておりますが。サーモスト修道院に収められていた、ネモラの召導書などでございますね。彼の召導書は、大召術士と讃えられたネモラの知識が記された大変貴重な品であり、今日においては失われつつある召術の
前進である、召喚について。当時の姿を知る貴重な文献としての価値もあるという物でございます」
 ネモラの召導書についての話が出て、ガルジアは僅かに耳を震わせる。結局のところ、あのネモラの召導書は終わり滝で現れたネモラの僕である召喚獣の手に、渡ったのだった。そういえば、サーモスト修道院では結局のところ新たな聖物を見出す事は
できたのだろうかと、ふと考える。捜し求めていたネモラの召導書は既に帰らぬ物と見て良かったであろうし、この事実をサーモストが知れば、また新たな聖物をとなるだろう。もっとも、サーモスト修道院での、修道院長であるエフラス・ロー=セイムの奸計により、
ガルジアは二度とはあの地を踏まぬと決めていたので、今はどうなってしまったのかもよくはわからなかったが。修道院に属したままでいたのならば、それを知る機会もあったという物だが。それではローの手より逃れられる保障もない。そもそも、召導書が
戻らぬという事実を伝える事もないが。
「そして今回、新たな聖物として用意された物が、こちらでございます」
 司会の男が言うと、小さな車の上に乗せられた品が運ばれてくる。ざわめきが起こっていた。ガルジアも、それから同じ様に扉の隙間から覗いている黒牙も、扉の前に居る見張りも、息を呑んだ様だった。運ばれてきたそれは、遠目からでもはっきりと
感じ取れる程に、何かなし禍々しい気を漲らせていた。魔剣と呼ばれるそれは、鍔の無いそれは、柄も鞘も闇の中かな産まれいでたかの様に黒く。遠目からではただの黒い棒の様にも見えたが、それが纏う禍々しさだけは、誤魔化し様が無かった。誰の目にも、
それは到底聖物とはなりえぬ様にも思える程の代物にしか見えはしなかったのである。明らかに、それを見た観客からも動揺の声が上がった。ガルジアも、その声には賛同してしまう。この様な物が。それも、平和とは凡そ正反対の位置にある物が。その上で
魔剣と呼ばれる物を聖物にと推すというのは、納得できない部分があるのだった。無論、剣の類がまったく聖物には適さぬというのではない。記憶を辿れば、それを聖物として収められていた場所も確かにあったはずである。しかし、だからと言って。目の前のこれは、
余りにも見る者に畏怖と恐怖を抱かせるばかりの品である事には、違いなかったのだった。
「皆さま、驚きの事と思います。無理もございません。一目見て、わからぬ者とて居ない程の一品でございます。これこそが、魔剣と。巷では呼ばれております、魔性の剣にございます。御覧の様に、この剣は何もかもが、ぬばたまの夜の様に。闇そのもので
あるかの様に、真黒なのでございます。刀身をお見せできないのは、どうかご容赦くださいませ。この剣には、直に触れられる物ではございません。抜き身となれば、見る者を魅しては凶行に走らせる事も、否定はできぬ品なのです。ですが、それはこの剣には
呪いの一種が掛けられているからでございます。それは、確かな事。それさえ取り除かれてしまえば、この剣は確かに素晴らしい切れ味の一品であり、またただ切るだけに留まらずに、己に降り注ぐ災厄をも退ける程の力を持った剣なのでございます。皆さん、
どうか静粛に! その様に、怯えられてはなりません」
 一部の者が、明らかに怯えの色を隠せずに居る事に気づいた司会が、慌てた様にそれを制する。それから、取り繕った優しい声音で再び語りはじめる。
「その様に、恐ろしい物と思われるのは、わかります。ですが、それはこの剣の不幸という物ではないでしょうか。この剣とて、何も今この様に、魔剣という謗りを受けたいという訳ではございません。呪いを解かれ、浄化されたその時こそ。この剣は真の姿を
皆さまの前に晒しては、掛け替えのない、聖物となるのでございます。どの様に手を悪事に染めても、それを心から反省し、贖罪を成しては、泣いて許しを請う者が居たとして。皆さまは、それは許せぬと。そう、仰るのでしょうか。せめて一度の機会はと、お思いに
なられる方も多いとは思います。この剣も、それとまた同じ。今から、生まれ変わるのです。……よろしいですか。それでは、まずはこの剣を改めて鑑定していただくために、今回は鑑定士の方をお招きしました。この街では、やはり鑑定士が認めた物こそが、
本物である事には相違ありませんからね。鑑定士の、ガリュー様です」
 続けて、壇上に現れたのは、これはガルジアよりもまだ年若い、獅子の男だった。黒い服に、胸元には金色で何物をも見通す瞳が描かれたローブを着ている。一目でそれが、鑑定士の用いる物だという事がガルジアにもわかった。ガリューと呼ばれた男は、
若々しく。その鬣もまだようよう生え揃ったばかりという有様で、それは後ろに縛って一纏めにしていたが。緊張しているのかどこか所作がぎこちなく、それが初々しさと同時に、たどたどしさを感じさせる。鼻筋の上にちょこんと乗せられた眼鏡が、なんとなく見る者に
愛嬌を感じさせた。
「ご存知の方も多いとは思いますが、ガリュー様はあの鑑定士であるスナベ様とは、近しい家柄の方でございます。残念ながら、過日にスナベ様は短い書置きだけを残してこの街を去られてしまいましたが、今はそのスナベ様のお店を切り盛りされておられるのが、
ガリュー様でございます。まだ若いとはいえ、その鑑定眼は確かにスナベ様が太鼓判を捺す程だともっぱらの評判であり、現在のグレンヴォールにおいては無くてはならぬ存在でもあります。それでは、ガリュー様。どうかよろしくお願いします」
「スナベの近縁か……まあ、似てるな」
「お知り合いなのですか」
「いや。だが、スナベの奴は知ってる。あいつと違って性格は良さそうだな」
 勝手な感想をガルジアとルカンが言い合っている間に、一つ咳払いをしたガリューは丁寧に一礼してから、魔剣の下へと向かう。それを、ガルジアは注意深く見守っていた。そもそも鑑定をすると言っても、直に触れられぬと先程言われたばかりである。外から
眺めているだけで、どの様な物かわかるのかと。ガルジアは首を傾げる。
「まあ。本格的な鑑定はとっくに済ませてるだろうよ。その上でああしてあの小僧を呼ぶのは、要はパフォーマンスの一環だな。あの小僧はあの小僧で、実績が欲しいのだろうから、利害が一致してるって訳だ」
 そう言われて、ガルジアはなんとなく今懸命な表情で魔剣に接しているガリューの苦労を感じ取る事ができて、少し同情的な心持になる。確かにこの街でやってゆくのなら、相応の実績と信用は必要だろう。そういう意味では、ガリューの親戚だとかいう
スナベという人物はかなりの物であった様で。あとはガリュー自身が築き上げる物に掛かっているといったところなのだろうか。
 ガリューは慎重に魔剣に対しては、直に触れる事は避けて。それでもいくつかの詠唱をした後に、掌を怪しく光らせたり、それを己の額に当てて、懸命に目を凝らす事を繰り返していた。鑑定士という物の仕事を、ガルジアは初めて見るのだが。矯めつ眇めつ
見るだけではなく、この様に魔導をも駆使しているのだというのは中々に新鮮な光景でもあった。若い獅子であるガリューは、自分に与えられた機会を必死に物にしようと。懸命に魔剣と対峙していた。
 やがて、一息吐いたガリューが顔を上げる。少し疲れが見えたのか、足取りが覚束ない。
「……終わりました。確かに、恐ろしい剣ですね。私は触れてはいないのですが。それでも、手を近づけると。思わず、その柄を握りたくなってしまう。そんな衝動に、駆られました」
「そうでしたか。他には、何かわかる事はあるのでしょうか?」
「そうですね。刀身の方も改めたり、振り回さなければ切れ味などという物は到底わかりませんが。しかしこの造りからして、少なくとも百年以上は経過している物と思われます。魔剣と、確かに言われてはおりますが。元々がとてもしっかりとした物なのは、
間違いがありません。ただ、傷みなどがまったく見られないのは。やはり魔剣である所以なのやも知れませんが」
「では、やはり直接触れる様な事は到底厳しいという事なのですね?」
「それは、そうなりますね。それについては、この後の魔道の先生方に、ぜひともお願いしたいところです。浄化していただければ、私ももう少し詳しく、この剣を見る事もできますので。申し訳ありませんが、これ以上は、今の私には」
「いいえ。大変結構でございました。そこまで、見ていただければ。鑑定士の眼であったとしても、無闇に触れてはならぬと。それがわかるだけで、我々の様な素人には、充分な事でございます。ありがとうございました、ガリュー様」
「では、私はこれで。浄化が成功した際には、またお呼びください。その時には、もう少し詳しく調べられると思います」
 ガリューは再度一礼すると、つぶさに見ている内に汗を掻いていたのか、額を何度も擦りながら、鑑定士のための席として設けられていた椅子に座り、事の成り行きを見守る姿勢に入る。
「続けて、魔道士の方々をお呼びしております。どうぞ。今回は物が物でございますので、一人では荷が重いという事もあり、多数の魔道士様達に助力を乞いました」
 司会の男が引き継いで、案内を続けると。今度は見るからに魔道士然とした。実際に魔道士なのだが。その様な男達が数人現れる。年老いた者も居れば、若い者も居て。招かれて入ってくるなり、皆が一斉に魔剣の方へと顔を向けていた。魔導に疎い一般の
者ですら感じ取った邪気とも言えるそれを、魔道士達が感じ取れぬ道理はなく。最初はにこやかに笑みを浮かべていた者も、すぐに表情を真剣な物へと変じては。一切の無駄口も叩かずに剣へと視線を注いでいた。
「大変お待たせいたしました。それではいよいよ、本日最大の見せ場でもございます、魔剣の浄化作業に入りたいと思います。すぐには終わらぬやも知れませんが、皆さま、どうか祈りを捧げてください。強い呪いには、その様に場の空気という物もまた大切
なのでございます。慈愛の心でもって、この剣を呪いから解き放つ様を。そうして、この剣が聖物となり、皆さまの心を安らがせては、いついつまでもその平穏が続く様に。穏やかな気持ちで、願ってくださいますよう」
 再び、場が静寂に包まれる。誰もが、司会の言葉に乗せられるかの様に。目の前にある魔剣が、浄化される様を。救われる様を、願っているかとガルジアには見えた。
「頃合いだな」
 ただ、それも長くは続かぬ。ガルジアは、はっとして。しかしガルジアがルカンを見上げるよりも先に、ルカンの方がガルジアの身体を押し退ける。音が立つが、そんな事はもはや構いつけずに。ガルジアはそのまま、下がった先で別の黒牙の者に受け止められる。
「大丈夫ですか、ガルジアさん。すまねぇけど。しばらくは俺とここに居てくれよ」
 聞き覚えのある声がして、振り返れば。そこにはいつぞやガルジアが治療を施した黒牙の一人が居て。ただ、ルカンの命令は絶対なのか。その表情と言葉はガルジアを案じているのは確かであったけれども。強い力で、今はガルジアが動けぬ様にと。一切の
邪魔ができぬ様にされていた。そうしている間にも、派手な音が。ルカンが物置の扉を開けた音が聞こえて、聖堂の方が騒然となっていた。あまりにも呆気なく、静寂は破られては。熱心に祈りを捧げて、心を平静に保っていた者達に、一方的な混乱を
押し付ける。ガルジアの居る場所からでも、既に黒牙の男達はフードを上げては、隠していた思い思いの凶器を手に取って、その凶相を剥き出しにしていた。一つ、誰かの悲鳴が上がれば、それは連鎖的に広がって、爆発的な物へと変じては、もはや収拾の
つかぬ騒ぎとなる。
「悪いが、てめぇらにその魔剣はやらねぇぜ」
 ルカンがよく通る声で、高らかに宣言を。自前の三日月型の曲刀で、壇上にある魔剣を指し示すと。ただそれだけで、黒牙の者達は構えたまま突撃をする。当然、事態を察知した魔道士達は浄化の手を休めて、応戦しようとするが。何分ここはあまりにも人が
密集しているために、派手な邪法を放つ訳にもゆかぬ。その上で、聖堂自体はそれなりの広さがあるとはいえ、出入り口となればそのままとはゆかず、狭まっているが故に。逃げ出そうとする人々は余計に混乱を極めては、邪法を放つ事を魔道士達に
躊躇わせていた。彼らが一致団結をすれば、黒牙の襲撃に対してもまだ対応はできたやも知れぬ。ガルジアの顔見知りは居ないとはいえ、修道士の姿もちらほらと見えていて、彼らは彼らで、ある程度自衛の手段を。大抵は聖法と、やむを得ぬ場合のための
剣術なりとを体得しているには違いなかったが。それも混乱を極めたこの場においては、役に立つとは言えなかった。押し合い、圧し合いをしている者達に、懸命に声を枯らしながら避難の指示を出すので、精一杯だった。その混乱こそが、まさに全ての面に
おいて黒牙の味方となっていた。黒牙には、守る物とて無く。進軍を阻む全ての者は、切り捨てて構わぬのであるからして。如何に魔道士と修道士が揃っていても、抗する術はなかったのである。魔道士達が無惨にも切り倒され、司会の男は先程までの
美辞麗句を意識した様な言葉遣いもどこへやら。何を口にしているのかもわからぬ悲鳴を上げては逃げ去っている有様であり。既に混乱に包まれたこの場を治める者の姿は、どこへも見出し様がなかったのである。
 ガルジアはその様子を、必死に押し留めようとする男の手に阻まれながらも、懸命に首まで伸ばして眺めていた。血が流されぬ事を願っていたが、それはあまりにも甘えた願いであった事は疑いようもなかった。ただ、今の自分には何もできぬ事だけを
痛感している。そうして、その内についにルカンとその一味は、魔道士達を切り伏せて、或いは退かせては、魔剣の下へと到達したのである。その様は、まさに黒い牙を思わせた。嵐の様に現れた、黒ずくめ、或いは暗い色の服を纏った者達は、ほとんど
無表情のままにその場を制したのである。それは以前、ルカンが言った事がまさに本当であったのだとガルジアに教える。黒牙は、笑わない。笑うのは、仲間に対してだけだ。彼らは匪賊でありながらら、興奮に駆られた野盗の様な、蛮行に付き物の馬鹿笑いを
響かせたりする事もなく。ただ野生の猛獣が獲物の喉に執拗に牙を突き通す事だけを狙うかの如く。魔剣へと達したのだった。
「どうするんですか、ルカンさん」
 ガルジアの声は、小さくて。喧騒の中に掻き消えていた。ただ、声が届かずとも、ガルジアの疑問はもっともな事でもあった。先程、鑑定士であるガリューですら、触れるのを厭うた様な魔剣である。黒牙には、というよりもヌベツィアに住まうヌペツには、そもそも
魔剣に抗するための魔導を学ぶはおろか、文字を読む事すら危うい者が多く。そして黒牙を束ねるルカンであっても、到底魔導に長じているとは言い難い。何か、考えがあるのかと思っていたガルジアは、次には目を見張る。ほとんど無造作と言っても良い程に、
ルカンは凶悪な笑みを浮かべたまま、その剣の柄を手に取ったのだった。それはまるで、魅せられては、吸い寄せられる様にも見えた。魔剣が、ルカンを呼んだかの様な。
 これには、周りに居る黒牙も、そうしてはらはらとしながら事態を見守っていたそれ以外の者達も、思わずはっと息を呑んでは、固まる。その場の誰もが、魔剣の存在を認めながらも、しかし触れたらどうなるのかには非常な興味を持っていたには違いがなかった
のである。悲鳴を上げ逃げ惑う人々も、それを治めようとする修道士たちも、無表情に剣を振るう黒牙も、それに抗する魔道士達ですら。何かなしの予感めいた物を。もっとはっきりと言えば、それを手にした者が次にどうなるのかという、期待を持っていたのだった。
 当のルカンは、剣を持ち、それを掲げたまま。それに魅入られでもしたかの様に、微動だにせず。まるで彫像と化してしまったかの様だった。髭一筋、瞬き一つする事はなく。まるで剣を手にした途端に、その剣と一体化を果たしては、そのまま抜け殻にでも
なってルカン当人はどこかへと消えてしまったのかと思わせる。その頃にはガルジアも、聖堂の方へと出てきていた。自分を引き留めていた黒牙の者も、ルカンが魔剣を手にしていると知った瞬間に、固まってしまったのである。
「ルカン……?」
 先程と同じ様に、しかし異質な静寂を最初に破ったのは、ルカンの右腕である鳥人のケスだった。彼は自分がそうしなければならないという使命感に似た物をでも感じ取ったのか、勇気を振り絞ってルカンへと声を掛け、歩み寄る。そうしなければ、誰も彼もが
そのまま動く事をせぬまま、一幅の絵の様に固まり続けるのではないかという疑念を掃うかの様に。一歩、二歩と踏み出して、壇上へと。ルカンと、その手にある魔剣と。魔剣が置かれていた手押しのできる車の下へと向かってゆく。
 しかし、三歩目をケスが踏み出す事は永遠に無かった。
 突然に金切声が聞こえる。女のそれの様に高い声を発したのは、ケスだった。普段の低めの声からは想像もできぬ程に、それは高く。ともすれば、まさに鳥の上げる、けたたましい鳴き声にも聞こえた。ケスはそれを叫びながら、そのままどうと仰向けに。鮮血を
噴き出させ、その茶の羽毛を真っ赤に染めて倒れた。二度、静寂が悲鳴に破られる。飛び散った赤い血を、頭から浴びている者が居た。黒い被毛の男。鞘に納められていたそれを、いつの間に抜いていたのか。ケスが倒れ、壇上にただ一人残っていた
ルカンは、全身に血を浴び、滴らせては、口元の血を舌で舐め取っていた。
 その手に握られている、漆黒の剣。刀身も、やはりそれ以外と同じく。夜の闇の様に、黒く染まっていた。そして今は、赤くもある。
「ルカン。どうして」
 弱々しい声を、ケスが上げる。その声も、それまでだった。上げかけていた顔が、そのまま全ての力を失っては重力に従い床へと落ちてゆく。ケスが動かなくなっても、ケスの身体から流れる血だけは動いて、辺りへと広がってゆく。
 二度目に起きた混乱は、先程までの比では無かった。もはや、そこには秩序も、統率もありはしなかった。先程までは、例え大混乱の様相を呈していても、結局そこには狩る者と狩られる者との冷静なやり取りという物が存在していたし、逃げ伸びる者にも
まだ多少の余裕があって、それを先導する者の存在も確かにあったのだった。しかし今は、違う。黒牙の中から、僅かな者を除いて。残りの全ては一斉に、我先に逃れようと必死になっていた。それ程までに、ルカンの様子は尋常ではなく。その手にある
魔剣を初めて見た時よりも、もっと濃密な。ただ、見つめる者を、そこに居続ければ死のあぎとに喰われる事を連想させるかの様な気迫が備わっていたのである。
「ルカン。しっかりしろ! どうしちまったんだ!」
「様子がおかしい。逃げろ。とにかく、ルカンから離れるんだ」
「あの剣が。あの剣が、ルカンを喰っちまったんだ」
「助けてくれ」
 大半の者が、逃げ出そうとする。残った一部の勇敢な黒牙達も、ルカンと対しては。先の犠牲者であるケスの様に切り捨てられる。ルカンは既に、正体を失っている様でもあった。今は哄笑を上げ、鮮血を浴びては、浴びた血の全てはその黒い被毛と、黒い剣に
吸い込まれて。その身から離れる時だけ、血を纏っていた事を。どれ程の血を浴びたのかを、教えていた。ガルジアは、息を呑んだ。ルカンが、笑っている。それは、黒牙の振る舞いとして、正しいとは言えなかった。それから、その姿を。リュウメイと
重ねる。リュウメイと、似ている。そう思った。しかしリュウメイとは違う。そうも思った。少なくとも、仲間を笑いながら切り捨てる様な真似を、リュウメイはしない。
 ガルジアの下にも、黒牙の男達が逃れようとやってくる。教会の正面は、既に他の者でごった返しているために、そちらに向かうのは悪手であると。黒牙であれば理解していたし、またこの秘密の通路の存在を、彼らは非常な恐慌状態であっても忘れる様な事は
なかったのである。ガルジアは慌てて道を空けると、秘密の通路の蓋が乱暴に開けられて、先んじて複数人がそこから姿を消した。
 そこまで来ると、ガルジアはようやく立ち上がっては、聖堂に出られる様になる。元々がきちんと並んでいても、あまり隙間に余裕が無かった場所で、そんな所で乱闘騒ぎを起こしている以上、見守る事しかできなかったのだが。既に入口に詰めかけた者も少しずつ
脱出を果たしており、聖堂内は充分に歩き回れる程に人の姿は疎らな者へと変わっていた。足元に転がっている、生死不明の者達の姿は目につくが。
 そして、壇上。いまだに残り続けている黒牙は、ルカンに真からの忠誠を誓った者なのだろうか。襲い掛かるルカンの剣をはっしと受け止めては、懸命にルカンに呼びかける事を試みていたが。それは功を奏する事もなく。そうしている間に、圧倒的なルカンの
剣術の前に切り伏せられる。自らの獲物を手放し、変わりに魔剣を握ったルカンのそれが、特別に優れている訳ではないのかも知れないが。黒牙には気後れがあり。そしてルカンには、そんな様子は微塵も無かったのである。哄笑を上げ、口角を吊り上げて牙を
見せつけては、ぎらぎらとした金の瞳は愉快そうに二つの三日月となり、相手を切り捨てた時だけは見開かれ。まるでその相手の死にざまを見る事が何よりも心地良いのだと。言葉にせずとも主張するかの様だった。そのルカンを見て、魔剣に支配されたと
思わぬ者とて居なかっただろう。ルカンが握り締めている黒い剣は確かに、一目見た瞬間に誰もが畏怖を抱いた通りの魔剣なのだった。次第に、黒牙の数が減ってゆく。逃げたのではなく、切り捨てられ、地に伏せる事によって。
 ガルジアは身震いを感じていた。足が震えているのかと思えば、それは全身に伝わって。何故だろうかと思う。独房の中で、錯乱したルカンに首を絞められた時は、それ程の恐怖という物を感じていた訳ではなかったというのに。今のルカンを見ていると、
何故だか抗い難い程の恐怖と。そうして、それと同じくらいの憐憫がガルジアの胸中に溢れていたのだった。笑い声は尚響き、剣の乱舞は苛烈を極め、世界は尚赤く染まってゆく。。そうした中で、次第に返される刃の傷を受けたルカンは、血を流しながら。しかし己の
振る舞いを改める事はなく。着実に一人、また一人と仕留めてゆくのだった。あれほど必死に守ろうとしていた己の手下を切り捨てる際に、躊躇いは微塵も無い。
 可哀想な事だと、ガルジアは思う。何もかもが、可哀想で。そうして、止まる事もできないのだと。
 落ちていた剣を、一振り拾った。使える剣を探す事に、苦労は必要無かった。狭い通路を大慌てで、なるたけ早く逃げるとなれば。武器など持っていけるはずもない。この場を放棄した黒牙の残した剣は、いくらでもあった。
 そうしながら、ガルジアは詩を歌う。風来の詩。自分に何ができるのか、それはわからなかった。ただ、今目の前に繰り広げられる様を見捨てて、逃げる事はできそうもなかった。確かに今なら、逃げられるのかも知れない。もはや黒牙の者達も、ガルジアの
事など構いつける余裕は無かったし、少なくともここでルカンと対峙するよりかは、勝手のわからぬグレンヴォールの街の方が生き延びられる予感もしていた。ただ、そうしようかと思う度に。涙を流していたルカンの顔を、思い出すのである。特別に
好いていたとか、そういう訳ではない。少なくとも、ルカンが自分に抱いていた様な好意を、ガルジアは持っている訳ではなかった。それでも、見捨てる事はできなかったのである。
 ほとんど風の無い聖堂に、風が吹き荒れる。ガルジアの歌声を聞きつけた精霊が、現れる。鷲の姿をしたそれは、いつか終わり滝でリーマと二人で呼び出した精霊だった。やはりと、思う。自分の詩だけでは、限界があったはずなのに。現れる精霊の
姿は、以前とは異なっていたのだった。前はもっと、小さな。小鳥と言っても差支えの無い物だったのだから。それでも、今は深くそれを考える事もない。ただ、鷹が一際高い声で啼けば。ガルジアの身体は嘘の様に軽くなった。
 身体は軽くなったが、その手に持つ剣は重く感じられた。普段使い続けている歌聖剣と比べれば、何倍も重たい物であるし、相手を叩き伏せる剣ならば、それが当たり前の事ではあるのだが。しっかりと剣を握り締めて、ガルジアは詩の力を借りて
駆けた。この詩の選択が正しかったのかは、わからない。しかし魔剣の力に囚われて、剣を振り回すルカンに対するのならば。これ以外の詩で良いとも思えはしなかったのである。ルカンは丁度、剣を弾き飛ばしては。その持ち主の一人が腰を抜かして、
ただ浅い呼吸を繰り返しながら狂おしくルカンを見つめているところに、己の黒い魔剣を振り下ろそうとしているところだった。剣のぶつかる音と、火花が散る。ガルジアはその間に割り込んで、それを受け止めた。ただ、受け止めきる事は諦めて、すぐに
受け流しては横に逸れて、そのままルカンに剣を向けた。自分の背後に居る者を守りながら戦える程の腕前など、あるはずもなく。それどころか、例え一切の邪魔がなくとも、ルカンの相手をする事などできはしなかっただろう。
「怪我をされている方は、早く逃げてください」
 声を枯らして叫ぶ。余裕があるのは、そこまでである。既に、ルカンはガルジアを切り捨てるべき敵と見定めて、迫っていた。ガルジアはとにかく正面からルカンの相手をする事を避けた。風の加護を受けた今ならば、少なくともルカンよりは早く動ける。しかし
それは長くは続かぬ事も、理解していた。いくら早く動けるとはいえ、体力は十人並みであって。到底鍛え抜かれたルカンを相手には。それも今は例え疲れ果てていても魔剣の力で動くであろうルカンには、通じる物ではなかったし、また場所も悪かった。壇上
とはいえそれ程の広さが確保されている訳でもなければ、争闘の最中であって、足元が整えられているという訳でもない。それは早く動こうとすればする程に、足を取られる原因にもなる。加えて、この勝負の終わりという物が見えない事もある。ルカンはただ、
この場に居る全員を殺せばそれで終わりであるが、こちらはルカンを止めなければならないのだから。そうなると、結局は逃げるだけでは何一つ進展をする事もない。だからといって、ルカンに勝負を挑んで勝てる程の力がガルジアには無かった。たった一度
ルカンの攻撃を受け止めた腕は、既に痺れて感覚が掴めなくなってきている。結局は、皆が逃げるまでの時間を稼ぐ事が精一杯で。それすらどこまでやれるのかという始末であった。
 ルカンが迫ってくる。距離を取る。その繰り返しだった。ただ、時折は注意を惹きつける様に攻撃をしなければならない。そうしなければ、いつ他の傷ついた者に止めを刺しにゆくのか、わからなかった。魔剣に支配されているルカンの行動というのは、ルカンの
思考には依らぬために。次にどう動くのかが、どうしても予想できなかったのである。しかし切り結ぶ事は、たちまちにガルジアの体力を奪う結果となる。ルカンに切り捨てられる最悪の事態を回避する事で、精一杯なのだった。
 それでも、次第に人の数は減ってゆく。既に正面にも人影は無く。残った中で、生きているのは。少数の黒牙と、それから魔道士の中でも一人。そして、これは意外な事だが。あの鑑定士である獅子のガリューはまだ残っていた。実のところ、ガルジアには
ルカンに僅かでも近づいて、どうにかなる程の剣の技量がある訳ではなかった。元々、振り回す事すら慣れておらぬ重い剣である。最初の一撃を防ぐ以上の事など、早々できる物ではなかった。にも関わらず、それができているのは。偏にガリューと、
もう一人の魔道士の援護のおかげだった。彼らは怪我人の治療をある程度済ませると、それよりも優先すべき事を即座に見極めて。時間稼ぎをしているガルジアの援護に回ってくれたのだった。不思議な物だと、ガルジアは思う。以前、リュウメイやライシン、
そしてクロムと旅をしていた時は。自分が後方に在って、彼らがガルジアの歌術を行使する時間を捻出してくれた物だが。今はガルジアが、彼らのための時間を作りだしているのである。もっとも、リュウメイ達の様に上手くとはいかなかったが。それでも、
稼ぐ必要のある時間はそれ程ではなかった。他の者は当に逃げていたし、黒牙もまた、その辺りはよくよくルカンに言いつけられてもいるのだから。当の自分達の頭であるルカンをさえ諦められれば。彼らとてそれ程の時を要する訳ではなかったのである。
 聖堂がようやく、生存者の人影が少なくなった頃に、魔道士と、鑑定士のガリューも引く様子を見せる。とにかく、外に逃げた者達は、応援を呼んだであろうし、これ以上自分達が引きつける事は難しいと判断したのだろう。黒牙も、既に数人という有様で。彼らは
逃げる事すら忘れて、この戦いを見守っている様だったが。周りの様子を悟ると流石にそれには合わせる様に動く。潮時だった。
 ただ、その時になって。ガルジアは足の疲れからか、膝を突いてしまう。そこをルカンが見逃すはずもなく、突進してくる。ガルジアとルカンの間に、ガルジアの呼んだ鷲が入るが。それはあっさりと切り捨てられ、煙の様に消えてしまう。途端に、身体全体に
激烈な重みが加わった感覚を覚えた。散々に無理を重ねていたつけが、来たのだった。ただでさえ、黒牙に囚われてからは屋内での生活を強いられていたガルジアであるからして、その様に飛んで跳ねての状態を、それも詩の力を借りて通常よりも素早くと
なれば、相応の負担が掛かったのだった。
 魔道士達が止める暇も無く、剣のぶつかり合う音が。そして、ガルジアの手に持っていた剣が弾き飛ばされる。どうにか起き上がろうとしたガルジアを、ルカンが押さえつけて。まるで、牢の中で過ごした時と同じ格好になる。そのルカンの手には、あの時は
無かった黒い魔剣が。鈍い煌めきを発していた。
 笑い声が聞こえる。哄笑ではなく、潜む様な笑い声が。目を上げれば、自分を見つめているルカンが、小さな笑い声を上げていた。そうしながら、浴びた血の数は多く。その白い牙も、赤く汚れていた。ルカンが触れれば触れる程に、虜囚であるガルジアに
与えられた質素な麻の服が、赤く染まる。
「ガルジア」
 ルカンが、口を利いた。魔剣を取ってから、一切まともな言葉を吐き出さなかったルカンが。しかしそれ以上は続かずに、すぐに剣を構える。この間と同じ様で、しかしもはや躊躇う様子も無かった。
 死を覚悟したその瞬間。不意に感じていた重みからガルジアは解放される。閉じかけていた目を精一杯に開けば、黒いルカンの姿はどこかへと消えていて。その代りに、赤い髪が、視界の隅に。それを追えば、そこにこの姿はあった。ガルジアに背を向けた、
男の姿が。
「リュウメイさん」
「随分面白い事になってんじゃねぇか、ガルジア」
 ゆっくりと、ガルジアが痛む身体を起き上がらせると。ルカンはリュウメイとは反対側に居て。今は闘志を剥き出しにした顔をしていた。さっきまでの、げらげらと笑っていた様子も今は無く。それは本当の獲物を。その剣を振り下ろすべき相手が、ようやく
目の前に現れた事に狂喜するかの様だった。対するリュウメイはというと、身に纏ったローブを邪魔とばかりに投げ捨てては、黙って剣を抜いていた。自分が助かったのだという事に気づいて、ガルジアは力の抜ける思いをするが。しかしそれに長く浸る事は
なかった。敵が。いまだに魔剣に憑りつかれたルカンが、そこに居るのだった。
「気を付けてください、リュウメイさん。あの黒い剣が、魔剣です」
「魔剣、ねぇ。まさか、本当にそこまでヤバい物だとは、思ってなかったぜ。もう少しはお行儀の良い物なんじゃねぇかと」
 リュウメイは、ルカンの変わり様を取り上げては。軽快に言う。そういう態度を見て、ガルジアは思わず笑ってしまう自分が居る事に気づいた。相変わらず。こんな時でも、その振る舞い方は変わらないのだなと。もっとも、終わり滝で遭遇した敵と比べれば、
それ程の事はないと言いたいのかも知れないが。その時はガルジアも、ヨルゼアを宿してはリュウメイと剣を交えたのだから。
 長く間を置く事はなく、ルカンが飛び込んでくる。リュウメイがそれを迎えた。二度、三度と剣がぶつかり合い、離れる事を繰り返す。
「なるほど。確かに魔剣だわなこりゃ。こいつ、前はここまでじゃなかった」
 ディヴァリアで、一度はルカンと勝負をした事のあるリュウメイである。ルカンの実力は、とっくに見切っていても不思議ではなかった。それでも、すぐには結果が出る事はない。やはり魔剣の効果というのは、それ程の物であるという事だった。ガルジアは
咄嗟に詩を歌おうとするが、そうすると全身が引きつる様な痛みを覚えて、思わず呻く。思っていたよりも、ルカンの相手をして自分は痛めつけられていた事を自覚するが、それでも懸命に歌った。やがて、炎を宿した小さな精霊が現れる。流石に、疲れ切っている
今は、満足な詩の効果も期待できはしなかったが。そうしながら、ガルジアはとにかく自分の身体を休ませる事に専念する。歌の効果にも、限りがあるし、その時はまた歌う必要があるのだから。
「中々頑張るじゃねぇか」
 精霊の力を受け取ったのか、リュウメイがそう言う。顔は、相変わらず見えなかったが。ガルジアは少しだけ、笑いかける。
「私だって、守られるばかりという訳にはゆきません」
「……まあ、今回ばかりは褒めてやるよ。それで、どうなんだ。こいつは。やっちまっても、いいのか」
「それは……。できれば、剣を落とすに専念してはいただけませんか」
「随分簡単に言ってくれるじゃねぇか。お前、注文つけるならたまには俺に何か恩返しがあってもいいんじゃねぇのか」
「つけといてください」
 リュウメイとルカンが、ぶつかり合う。ルカンはただ、叫び声にも似た雄叫びを上げて、幾度となくリュウメイに向かっていた。既にその身体は黒牙と魔道士の攻撃を受けて、己の血をも流れさせてはいたが。一向にその苛烈な攻撃は止む様子を見せる事は
なく。延々と続くかの様だった。
「こいつ、どっちにしろこのままじゃ死ぬぞ」
「ルカンさん……」
 リュウメイが、剣を一度弾いてから、驚くべき速さでルカンの腕を狙う。当たれば確実にルカンの腕が切り落とされる程だが、そこは魔剣が何よりも主導権を握っているからなのだろうか。そういう時、まるで魔剣は己の意志であるかの様に動いて。それこそ、
それを握っているルカンの方が不自然な動きをする程に、自らの黒い刀身でリュウメイの剣を受け止めるのだった。まるで、持ち主を守るかの様な動きに、目を見張る。しかし次には、ルカンが苦し気な呻き声を上げるのに、ガルジアは気づく。
「面白ぇな。流石に、魔剣だなんだと言われるだけはあるじゃねぇか。持ち主の力も吸い取ってやがる」
 研ぎ澄ました一撃を防がれたリュウメイが、愉快そうに笑う。いつもの悪い癖が、そろそろ出てくるだろうと思っていた矢先の出来事である。ガルジアは少し溜め息を吐きながら。それでもできる事もなく、その戦いを見守る。勝敗は、決しているかの様に
思えた。明らかにルカンの方が消耗をしていたし、リュウメイの言う事が本当ならば、魔剣の力という物も決して万能という訳ではない。持ち主を守るかの様にその剣が動くのも、結局は自分を振るう者の力を吸い取るためであるのだから。
 リュウメイならば。
 しかしそう思っていたガルジアの期待は、裏切られる事になる。リュウメイが、僅かに距離を取ったのを見て、首を傾げる。リュウメイはほとんど引かずに、優勢であったはずなのだが。しかし少し見れば、その原因はわかった。リュウメイの剣を握る
右腕。その肩から、血が流れだしている事に。それで、ガルジアは今更の様に思い出す。それは、今できた傷ではなかった。先日ヌベツィアで、黒牙と対峙した際に受けた矢傷の方だった。多少の時間は流れたし、リュウメイがそれを感じさせる様な動きを
していなかったので、ガルジアはすっかり失念していたが。治りきっていない肩の傷が、開いたのだろう。安静にしていれば、なんの問題もないそれも。剣を握り締めて戦うとなれば、黙っているはずもなかったのだった。
「リュウメイさん」
 ガルジアが、立ち上がろうとする。しかしまだ、身体に力が戻っている訳ではなかった。舌打ちをしながら肩を押さえたリュウメイが、ルカンとぶつかる。今度は、今までの様にはゆかなかった。互いが手負いの獣であるのならば、条件が、同じであるの
ならば。例えルカンの意識がほとんど朦朧としていようが、魔剣の支配下に置かれている以上はあちらの方に分があるのだった。
 徐々に、リュウメイが押されつつある。まさか。そんな気分になった。こんな所で、リュウメイが負けるという事が、ガルジアにはどうしても信じられなかった。それでも、現に目の前の光景は、それ程遠くはない内にリュウメイの敗北へと移ろいゆく。懸命に、
ガルジアは身体を動かした。何もできなくとも、黙って見ている訳には。
 そのガルジアの後ろから、飛び出す影があった。それは今まさに、攻撃を受ける事に耐えかねて僅かに体勢を崩したリュウメイの前に躍り出る。長い髪が、ふわりと待っていた。それはリュウメイの物よりも、地味な色合いをしていたけれども、その分
しなやかで、きめ細かく。美しい物だった。赤くはない髪の変わりに、振り下ろされた刃が、その白い身体を切り裂いて。その分の赤を取り出す。
「フェル」
 リュウメイが、咄嗟に呟いた。フェルノーは髪を振り乱しながら、リュウメイとルカンの間に割って入ったのだった。リュウメイが受けるはずだった刃を、代わりにその身に受けて。しかしフェルノーは、決してそれだけでは己の行動を止める事はなかった。フェルノーは
両手に集めていた力を、振り下ろされた刃を受け止める事にすら使わず、それは我が身で受けて。練っていた魔力を解放する。派手な爆発が起きる訳ではなかった。ルカンがそれで倒される事もなかった。しかしフェルノーの放った邪法の光は、確実に
ルカンを捉えて。魔剣を振り下ろしたきりルカンの身体が動かなくなる。
「リュウメイ」
 崩れ落ちる自身の身体すら、厭わずに。フェルノーはリュウメイを呼んだ。呼応するかの様に、リュウメイが前に出て、動きを封じられたルカンの胸を切り裂く。その次に、仰け反ったルカンの手元を寸分の狂いもなく打った。かなり激しい音と同時に、その手から
魔剣が零れ落ちると。そのままその柄を蹴り上げて、魔剣は少し離れた場所へと放られる。がしゃんという音を立てて、魔剣が地に落ちて、止まった。そしてまた、ルカンも。そのまま仰向けに倒れる。
 それで、その場には三度目の静寂が戻ってきたのだった。
 
 勝負は、一瞬の出来事だった。リュウメイが振り返り、倒れたフォルノーの近くで屈み込む。抱き起こすのは、傷に障ると判断したのだろう。
「リュウメイ……」
「フェル。お前、どうして付いてきた」
 その頃になると、ガルジアもようやくほんの少しは動ける様になって。地を這う様に二人の下へと向かう。そうしてから、残り僅かな力を振り絞って、詩を歌った。黒牙のアジトで披露した様な力はとても発揮できなかったが、どうにかフェルノーに治療を施す事が
できる様になる。
「治さなくていいよ、ガルジアさん」
「ですが」
「こんな大きな傷。残したまま生きていても、仕方ないし」
「だったら、助けになんかくるんじゃねぇよ」
 リュウメイが吐き捨てる様に言う。そうすると、フェルノーは引き攣った様な笑みを浮かべて。それは自棄に、満足そうにも見えた。
「だって。僕のせいで、リュウメイが死んでしまったら。それは嫌だもの。あーあ。こんな事なら、余計な真似なんて、しなければ良かったな。でも、こうでもしないと。リュウメイは僕の傍に、居てくれなかった。ほんの少しの間くらい、傍に居る事も、できなかったんだよ」
 フェルノーが、そっと手を伸ばして。自分を覗き込むリュウメイの、髪へと触れる。
「ああ、綺麗だなぁ。リュウメイ。羨ましい。僕にもっと、力があったなら。リュウメイと、一緒に旅ができたかな?」
「お前の身体じゃ無理だな。そんなに強くねぇだろう」
「そうだね。そう。少しくらい、魔法が使えても。僕は旅に耐えられる程は、強くなんかない」
「仮にそうでも。俺はお前を連れて旅をする気はねぇがな」
「酷いな。ガルジアさんは、連れてゆく癖に」
 また、フェルノーが笑って。しかし笑うと同時に、呻き声を上げる。袈裟切りされたその身体は、血に塗れていた。ガルジアは、懸命に詩を続ける。見た限りでは、命は助かるだろう。命だけが助かっても、それをフェルノーが喜ぶのかは、わからなかったが。
「思ってたより、痛いな。初めての時よりは、ましかな?」
「そういう寝事が言えるなら、まだ死にそうにねぇな」
「死んでほしい? そうしたら、リュウメイの記憶の中に、ずっと居られるかなぁ?」
「馬鹿言ってねぇで、さっさと治してヌベツィアに帰っちまえ」
「また、酷い事を言う。助けてあげたんだから、ありがとうございますくらい、言えないの?」
「お前が撒いた種じゃねぇか」
「そうだった。じゃあ、仕方ないね。……リュウメイ。一度だけで良いから。僕の事、抱き締めてくれる?」
 珍しく、溜め息を吐いたリュウメイが。諦めたかの様にフェルノーの身体を静かに抱き上げる。傷に響く事も、フェルノーは厭う気は無かった。
「嬉しい。幸せ」
 フェルノーが、目を細めて笑う。その目尻から、涙が流れ落ちた。
 なんとなく、居た堪れなくなって。ガルジアは、ふと視線を向ける。僅かな呻き声が、もう一つあった。ルカン。仰向けに倒れたまま、動く事はない。それだけ、魔剣に力を吸い取られたのだろう。
「ガルジア。そいつを、どうするつもりだ」
「……いけません、でしょうか」
「さあな。だが、忠告をしてやる。……死なせてやれよ」
 リュウメイの言葉を、しっかりと受け止めて。それでもガルジアは、ルカンに歩み寄る。咳き込んだルカンが、口から血を吐き出しては、聞いている者が顔を顰めそうな程に、苦しそうな呼吸を繰り返していた。それでも魔剣の支配からは、脱したのだろう。ガルジアが
近づけば、見開かれた二つの瞳は、今までにない程輝いて。そうして、ガルジアをまっすぐに見つめていた。
「ガルジア、アァ……殺す。お前を……あ、あぁ……」
 半ば狂ってしまったかの様に。それでもルカンは懸命に、ガルジアに手を伸ばしていた。今にも掴みかかっては、今度こそ組み伏せて、喉を食い千切ろうとするかの様に。もがけばもがく程、胸の傷から血が流れては、広がってゆく。それすら、ルカンは
わからぬかの様だった。
「ルカンさん」
 しゃがみ込んで、ガルジアはその手に触れる。ルカンの手には、ほとんど力は籠っていなかった。魔剣を振り回した、弊害なのだろうか。リュウメイの言う通り、確かに魔剣は、ルカンの生命力その物を奪い取っていたのだった。
 その手をぎゅっと、強く握り締めても。ルカンはもう、何も言わなくなっていた。限界まで大きくなった瞳だけが、今も尚ガルジアを見つめては。明確な殺意を、伝えるかの様だった。
「ごめんなさい。私は、あなたと一緒に行く事は、できません。あなたの物になる事も、できません。……それでも、あなたには、生きていてほしいと。そう、思っています。とても、身勝手な考えですけれど。……ごめんなさい」
 その場で、ガルジアは座り込む。血だまりなど気にもせずに。その手を、両の手で挟んで、既に大分喉の方も疲れてはいたが、静かに歌った。青い輝きを放つ、大魚が静かに現れて。ルカンを優しく包み込む。
 口を開けたまま、しかしルカンの言葉が、続く事はなかった。力の入らなくなった身体を横たえて、今は僅かに目を細めている。その拍子に、涙が流れては、落ちて。黒の被毛へと消えて。その被毛を超えても、血の海へと落ちて消えてゆく。涙など、流しては
おらぬと言いたげに。
「俺は……お前を……」
 その先を、ルカンが続ける事はなかった。まるで、どうしたら良いのか。ルカン当人すらも、わかっておらぬ様だった。
「すまねぇ、お前ら。俺が、巻き込んじまった。俺が、お前らを殺して」
 ルカンの視線が、ガルジアから外されて。辺りに横たわる黒牙へと注がれる。
「ケス……」
 倒れているケスは、既に息をしていなかった。それ以外の黒牙も、先の掃討も合わせて。この襲撃に参加したものの半数近くが、死んでいた。
「ルカンさん。今は、眠ってください。……お疲れでしょう」
 ガルジアは囁く。優しく。しかし、それはどうする事もできぬのだと、教える様に。次第に、ルカンの瞼が閉じてゆく。そうすると、また涙が流れた。
 ガルジアが、歌い続ける。この場で倒れている者の内、どれだけの者が救えるのかは、わからなかったが。それでも、なるたけ助かる様にと。
「そろそろ、引き上げ時だな」
 不意に、リュウメイが呟く。確かに、応援がそろそろ来る頃だった。リュウメイの言葉に、我に返ったのか。残り僅かの黒牙は大慌てで動いて。そして、意識を失ったルカンを引き取る。その瞬間に、ガルジアはその者達に見つめられた。黙って、首を振る。まだ
治療が完全に済んだとは言えないが、しかしここにグレンヴォールの者達が入ってきたのならば。少なくともルカンの命は無いだろう。大分通り辛いであろう、隠し通路の方へと。彼らが消えてゆくのを、ガルジアは目で追っていた。
「フェル。お前はこの街の奴に見てもらえ。お前、どうせこっちの方にも伝手くらいあるんだろ。情報屋なんだからな」
「冷たい言い方。……あるけど」
「なら、心配ねぇな。悪いが、ちょっとそれまでは寝ててくれ」
 リュウメイがフェルノーを再び横にさせると、立ち上がり。ガルジアの隣を通り抜けて、そしてもう少しだけ歩く。ガルジアは、はっとなった。その先にある物を、忘れた訳ではなかった。黒い剣が、まるで所有者を求めるかの様に、そこに転がっていたのだった。
「リュウメイさん。駄目です」
「心配すんな」
 何を根拠に。そう、言いたくなった。しかしガルジアが止める間もなく、リュウメイは軽率にその魔剣を手に取ってしまう。ガルジアは、息を呑んだ。もしここでリュウメイが暴れる様な事があれば、少なくともこの場に居る者達は死を免れそうにもない。
 しかしガルジアが心配した様な動きは、一切起こらなかった。リュウメイは手に取った剣をしげしげと、静かに眺めていたし、その様子に別段触れる前までとどこか変わったところがある様には、見えなかったのである。
「リュウメイさん。大丈夫……なんですか?」
「ああ。……思った通りだ。やっぱりこれは、俺宛てだったか」
 納得した様子を見せるリュウメイに、更にガルジアは首を傾げそうになる。何に納得をして、またその様な事を口にしているのかが、まるでわからなかった。そのガルジアを捨て置いて、リュウメイはただ、黒い刃を。血をたんまり吸い込んで、より一層
禍々しく輝いていた剣を、見つめる。そうすると、不意に違和感をガルジアは覚える。あれ程までに、邪悪その物だと確信できた禍々しい気が、魔剣から徐々に失われてゆくのだった。その内に、魔剣はただの黒い剣へと変わってゆく。姿も何も、変わった
ところこそないが。それでもそれが、少なくとも先程までルカンを操り、我が物としていた魔性の剣であるとは、感じなくなっていた。
「リュウメイさん。どういう事なんですか」
「悪ぃが。今は説明している暇はねぇな」
 そこまでリュウメイが口にしたところで、丁度人々が、聖堂の中へと雪崩れ込んでくる。武装した、グレンヴォールの警備隊の様だった。彼らは一様にこの場の惨劇を見ては、思わず顔を顰めて。しかし次第に事態を把握したのか、生存者であるガルジア達を
見ては、慌てた様子で保護しようとする。確かに今は、リュウメイの説明を聞く時間は無さそうだった。
 走り寄ってくる者達を見つめながら、しかしガルジアは一度視線を逸らして、物置の方を。ルカンと黒牙が消えた先を見つめる。無事に、生き延びてくれれば良いと思った。例えそれができた先でも、仲間に手を掛けてしまったルカンが、黒牙の中でどの様に
扱われるのか。それはわからなかったが。魔剣のせいだと、誰もがそれを疑う事はないだろう。ルカンの心の荒れようを、まるで見透かしたかの様に。魔剣は確かに、ルカンを吸い寄せたのだった。
 もう一度、ガルジアはリュウメイを見つめた。血の中で、血に塗れた黒い剣を持っているリュウメイの姿は、あまりにも不吉で。まるで、魔剣その物の様だった。
「アオゾメ……」
 つと、リュウメイが何かを囁いた。その言葉の意味も、結局は喧騒に掻き消されて。ガルジアはその意味を訊ねる事も、できはしなかった。
 黒の剣先から、血が一滴。血の海へと落ちては、また消えてゆく。

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