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28.正直者の街

 ヌベツィアに、夜が来る。
 どの様な街、どの様な場所であれ、昼があれば夜があり、そうして時がうつろえば、昼の代わりに夜が来る。
 空に昇った月は、頽廃と悪徳に満ちたこの街でも変わらずにガルジアの目を奪っていた。いつもよりも、少し大きく見えるのは、背の高い建物がこの街には無いからだろうか。
 それは、サーモスト修道院のお膝元であるヘラーの街の特徴と、同じだった。しかし、その理由は著しく異なっている。ヘラーの街は、街のどこに居ても、信仰の対象であるサーモストを見上げられる様にと、背の高い建物を建てる事そのものが禁じられている。それと
比べて、ヌベツィアにはそういった決まりは無い様だった。高い建物が無いのは、ほとんどの家々が、急ごしらえの、拙い、掘っ立て小屋の様相を呈していたからだ。街を練り歩いている間、リュウメイに訊ねてみた。すると、リュウメイは得たりとばかりに口角を
吊り上げ、笑みを形作り、言ったのだった。この街で、本当に腰を据えて落ち着ける場所などはないから、誰もが簡素な建物を構えるだけなのだと。そうして、その家に暮らす住人ですら、幾度変わろうが不思議ではなく、また誰も気に留めもしないのだと。
 それが、どういう意味を含んだ言葉なのか。ラライトで箱入りの様に育てられたガルジアでも、流石にわかった。ガルジアはただ、早くこの街から出たいなと、思っただけである。
 そうしながら、やがては宿を見つけた。リュウメイは先の会話通りに、なるたけ静かな、それでいて比較的危険も少ないと思われる宿を選んでくれた様だった。店主の舐める様な視線に怯えながらも、部屋へと案内され、今ガルジアはすっかり日も暮れて、月の
昇ったヌベツィアの夜を見ていたのだ。そして、振り返る。
「リュウメイさん……。一つ、よろしいでしょうか」
「なんだ」
 備え付けの粗末な椅子に腰かけ、考え事でもしていたのか天井を見ていたその顔が、ガルジアを見る。
「リュウメイさんが、頑張って宿を探してくれたのは、一緒に歩いていた私は、よくわかっています」
「おう」
「でも、でも……」
 廊下から、どかどかと足音が聞こえる。部屋の扉は一部が窓になっており、そこは布で遮る事も可能だが、今は開いたままだった。そして、通り過ぎる人影。見えたのは、少なくとも上半身は裸の熊人の男の物だった。それに続く様に、また別の裸の男が
通り過ぎてゆく。
「やっぱりいかがわしいところじゃないですか!」
 憤慨して、ガルジアはリュウメイに詰め寄る。当のリュウメイはそう言われる事は覚悟していた様だが、面倒臭そうな顔で視線を逸らしていた。
「うるせーな。これでまだ行儀が良いところなんだよ。これ以上はこの街にはねえ。いや、あるにはあるが、武装してねぇと面倒が起こる様な場所しかねえよ」
「そんな。だって、今の人だって、裸で……」
「外じゃねぇんだからぶらぶらしててもいいんだよ、この街は」
「そんな非常識な」
「不夜城だの言われるアイラスよりはまともだろ。あそこは外でも決められた場所なら丸出しでも構わねぇし、寧ろ武器を持ってないからって、モテるんだぜ。警戒する必要がねぇからな。まあ外でやるとどんどん増えて面倒くせぇから、俺はオススメしねぇけどな」
「そんな変態ばっかり集まる街の話はしてません!」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐなよ。他の客に迷惑だし、そうやって騒いでると、人が来るぜ。ただでさえお前は白虎で、お前程じゃねぇが、俺だって目立つんだ。今通った奴だって、歩きながらしっかりこっちを見てたしな」
「ええっ!?」
 大慌てで扉へ走り寄り、覗かれぬ様にガルジアは備え付けの布を下げる。
「ああ、それ多分、薄く向こう側が見える奴だぜ。盛り上がってる時にちらっと覗いて、中に何人居るかどうか調べられる様にな」
「最低です! 最低!!」
 荷物入れから予備のローブを取り出して、更に被せる。とりあえず、これで安心だろう。
「他に覗き窓とか、ありませんよね?」
「そうだなぁ……まあ、無い方が珍しいってくらいだが、ここはねえみてぇだな」
「……良かった。やっと、ゆっくりできます」
「良いじゃねぇか。せっかくヌベツィアに来たんだ、お堅い修道士なんて、もうやめちまえよ。どうせもう名ばかり修道士だろお前」
「嫌ですよ。そんな、まったく面識もない人となんて。そんな……不埒です。不潔です」
「へぇ。じゃあ、面識のある俺となら、いいのかよ」
「何を言って」
 いつの間にか、背後にリュウメイが居る。ガルジアか振り向いて顔を合わせた途端に、怯んだ。その瞳が、妖しく光っている。ディヴァリアで、サーモストで、見た事のある様な気がした。
「せっかく二人きりになったんだ。楽しい事しようぜ?」
「……嫌です。そんな事するなら、私出ていきます」
「出ていった先で知らねぇ奴に手出されるってのに、馬鹿な奴」
 その手が伸びてくる。狭い場所で、かわす余裕もなく。ガルジアはその腕に抱かれる。抗い難い程の膂力だった。剣一つを振り回して今まで生きてきた男なのだから、当然だが、とても抜け出せそうにない。反射的に悲鳴を上げる。
「リュウメイさん」
 どうにか、それだけガルジアは絞り出した。リュウメイはガルジアを抱いたまま、動かない。目だけを動かして、その表情をガルジアは見つめて、抵抗する事を止めた。直前までのからかう表情ではなく、何か厳しい顔で、今は何かを待っている様だった。しばらくすると、
遠くで足音が聞こえる。ガルジアの耳にも、それは微かに聞こえるくらいだった。
「ほれ、行ったぞ。あんまり騒ぐんじゃねぇぞ」
「い、今のは……?」
「そら、俺がお前を取り逃がしちまったら、すかさずお前を拾おうと思ってたんだろうよ。今通った奴かも知れねえし、この宿に入るのを見た奴かも知れねぇ。だから、静かにしてろよ。本当はこのままやっちまった方が、もっと自然なんだがな」
 腕から、解放される。ぼーっとして、ガルジアはリュウメイを見上げた。赤髪の男は、もう興味を失くしたかの様に、窓へ行くとこちらも布を垂らして、外からの視線の侵入も遮断してしまう。
「……リュウメイさん」
「なんだ」
「今まで、あなたがそうやって私をからかい半分にどうにかしようとする度に、私はつい声を上げてしまいましたけれど……。リュウメイさんって、無理矢理な事は決してしないのですね」
 赤髪が、ふわりと舞う。振り返ったリュウメイが、自分をじっと見ていた。この部屋にも、光石があって、淡い光が部屋に満たされている。客の興奮を盛り上げるために、こういう物が置かれているのだろう。そういえば、妙な臭いも微かに感じる。嗅ぎ慣れていない
それがなんなのか、ガルジアにはわからない。
「俺は無理矢理より、てめぇで腰振り出す様にさせるのが好きだからな」
「やっぱり、最低です」
 リュウメイの隣を通り過ぎて、ベッドに横になる。それ以上は、何も言わなかった。リュウメイも、何も言わなかった。
 背を向けて、眠っているであろうリュウメイをガルジアはじっと見つめる。薄明りの中でも、やっぱりその赤髪は特徴的で、自分を誘う様に闇に揺らめいている。
 結局、ここまで来てしまった。そう思った。幼い頃から過ごしたラライト修道院は、召術士であるバインの手により今は跡形もなくなり、既に帰る場所の無い身だ。それでも、何もリュウメイと一緒に居る必要は無かった。リュウメイもまた、ガルジアがどこかに腰を
落ち着けたいと言えば、その場で自分を解放してさっさとどこかに行っただろう。時折借金を取り立てには現れるかも知れないが。
 だが、ガルジアはそうする事はせずに、リュウメイと共に居るのだった。共に歩けば、どれほど如何わしい場所へ行き、その度に悩まされ、うんざりとさせられるのか。既に充分心得ている。それなのに、不思議と後を追いたくなってしまう。そうして、全てが終わった時に
振り返って。楽しかった。そう、思っている自分に気づいたのだった。
 リュウメイは、もう眠っているのだろうか。きっと、眠っていないのだと思う。先程から、背を向けたままだった。
 ガルジアが眠るまでは、眠らないのだろう。

 昨夜の月夜が嘘の様に、朝のヌベツィアの空は、厚い雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうで、それでも降り出さない。それが気になって、ガルジアは何度も空を見上げてしまう。そうしていると、そういう奴がすりに遭うのだとリュウメイから忠告され、
慌てて気を引き締めた。窓から外を見る。細い通路の、その先に、昨日歩いていた道が見えた。道を行く人々は皆一様に柄の悪い、他の街でなら悪漢と言われる様な種類が多かったが、この街ではそれがごく普通の様だった。時折、その悪漢達ですら
行儀が良いと思われる様な、上半身が裸で、身体中が傷だらけの男や、異様に体格の良い男が通り過ぎてゆく。
「今日は、どこに行くんですか?」
 あんまり長く見つめていると、外に出たくなくなりそうで、ガルジアは振り向いて既に支度を済ませたリュウメイに視線を送る。リュウメイと、一緒に居る。それは自分が望んだ事だが、それでもやっぱり、このヌベツィアに長居をしたいとは思えなかった。
「そうだな。フェルの情報網に掛からねぇときたら、やっぱりまだこの街には無いのかも知れねぇが。かといってあいつに頼りっぱなしなのは癪だ。闇市に行こうと思ってるが……お前は、来ない方がいいかも知れねぇな」
「闇市、ですか……やっぱり、酷い場所なんですよね」
「ここまできて嘘は言っても仕方ねぇから、もう言っちまうが。人は売られてるし、多分、白虎も売られてる」
 はっとして、ガルジアは黙り込む。その言葉が、予想できていない訳ではなかった。ラライトから飛び出し、各地を彷徨い。自分の身体にどれ程の価値があるのか。それは充分に心得ていた。不埒な目で見られた事は一度や二度ではないし、実際に
かどわかされた事もある。
「どうしても無理なら、フェルの所で待っててくれてもいいぜ。あそこはあそこで信用できるかっていうと、今一つだが。まあ、俺への貸し一つだっていえば、フェルは喜んで預かってくれるだろうよ」
「いえ。……私も、お供します」
「いいのかよ」
 リュウメイが、念を押す様に訊ねてくる。いつもなら、こんな風には重ねて言う事はない。それ程に、ガルジアが見てはと思っているのだろう。
「一緒に行くと、決めましたから。その上で、この街に入る事も、決めました。大丈夫です、リュウメイさん。ありがとうございます」
「なら、もう何も言わねぇ。変な奴に掴まらねぇ事にだけ、気をつけな」
 それで会話は打ち切られ、宿を出て、再びヌベツィアの街中へと踏み込む。途端に視線に晒されて、ガルジアは身を震わせた、昨日も歩いた、同じ道。そのはずなのに、リュウメイの話を聞いたからだろうか。身が竦んでしまう。腕が掴まれ、引かれた。リュウメイ
だった。何も言わず、自分を見ている。ガルジアが頷くと、そのまま歩き出した。
 手を引かれて、人込みを進む。なんとなく、変な気分になった。道を行く人々はこちらに目を向けるものの、何もしない。前を歩く男の迫力によるものだろう。
 舗装もされていない、雑多な道を歩いた。昨日見た時と変わりなく、人の波が行き交う。奇怪な恰好をした者は多いし、道から少し外れた方へと視線を飛ばせば、やはり娼婦と思わしき女や、女に混じった男が居る。他の街なら、もう少しは隠れているそれらも、
街を彩る一つの花として、当然な顔でそこに居た。この街は、どこに居てもそうなのだと、ガルジアは思った。例えばサーモストは、地上では皆が涼やかな表情で、厳かに日々を送ろうと努めている。その内面がどうであろと、だ。しかし地下では、まるでコインの
表と裏が存在するかの様に、まったく別の顔を見せていた。普通の街であっても、それは昼と夜という、自然な現象によって管理されている事柄だった。しかし、このヌベツィアは違っていた。どこを見ても、表も裏もなく。ただ一つの顔をガルジアに見せていた。通りに
面した店は、地味な恰好した物と、それとは対照的に派手な物が多かった。派手なのは、もっぱら妓館や宿の類。それから菓子を売る店で、飴細工、焼き菓子、揚げ菓子、果物を甘く煮込んだ物は、どれもこれも宝石の様な色合い、飾りつけをしており、同じく
派手な娼婦達への贈り物として大変に重宝されている事が窺えた。店を構えているのは全般的に老いた者、不具を抱えた者が多く、若者の姿はまったく見当たらない。身体一つを投げ出せば、ここではそれで金に、或いは金と同等の快楽を得る事が
できるのだ。店を営んでいるのは、もっぱら荒淫、隷従に身体が耐えきれない者。それから新参の、自分の身体が値打ち物になるとは思いもせずに、人込みの中から舌なめずりをした目で見られている様な者だけだった。
「面白ぇだろう。この街は」
 前を歩きながら、リュウメイは陽気に言う。ガルジアは、ちょっと控えめに応えた。
「なんというか……。本当に、見たままの街なんですね」
「ああ、そうだ。この街は、正直者の街なのさ。自分の欲望の全てに誰も彼もが正直で。だからこの街も、そういう奴を求めてるんだ」
 正直者の街。そう言われると、ガルジアが想像するのは、穏やかで、正しい人の住む街の様にも思える。それが、地上に顕現した実際の姿はまったく異なるのだから、なんとも皮肉な話だった。しかし、リュウメイの言わんとしている事はわかっていたので、
それに異を唱えたりする事もない。
「リュウメイさんは、この街、好きですか」
「ああ。好きだ。遠慮はねぇ。建前もねぇ。まぁ、嘘は吐くがな。自分に正直になるための、嘘だが。だから、気持ちが良いんだよ。今話したばかりの奴が、本当は何を考えていたのか。そんな事、気にしなくて済むからな。言いたい事が言えるし、言いたい事を
言った奴が賞賛される街だぜ、ここは」
 なんとなく、ガルジアにも頷ける部分がある気がした。言いたい事を互いに言えば、それは喧嘩になるかも知れないが、しかしそれきりなのだ。本当は、こう思っていた。本当は、こうしたかったのだ。それを察する事ができないから駄目なのだ。そういった、ある種の
煩わしさ。それが、この街には存在しないのだった。気風の良い街とも、言えるかも知れなかった。ただ、長く居座る事には、確かな実力が要求される。蹴落とし、蹴落とされ、弱者は強者にしがみ付く。まるで大自然の中で起きている出来事が、文明の光が
灯っているはずのこの街では繰り広げられていた。
 道が、細くなってゆく。一度脇道に入り、それからまた通りに。すると、街の様子はほんの少しだけ変わった。先程までと、明確に変わった訳ではない。しかし空気が、変わった様に感じられる。唯一、明確に変わった物があるとすれば、先程までとは店を構えている
者の容姿がまるで変っていた。老いた者は消え、若い、屈強な男が増えた。ガルジアはそっと、リュウメイに尋ねる。
「もう、闇市の入口だ。だからここは、乱闘騒ぎになる事も多い。足の遅い奴は、こういう所では店は開かねぇんだ」
 また、通路。抜け出た先では、流石に今度ははっきりとした変化があった。通りを行き替う人々。立ち並ぶ店。しかし、違っていた。店の商品が、違っていた。ガルジアは身を固くして、顔を上げた。
「着いたぞ」
 そっけなくリュウメイが言う。
「もっと、隠れた場所にあるのかと思いました。屋内とか」
「そういう時もある。今は、そうじゃねぇ。そんなもんだ。他の街なら、もっと隠れてやる。ここは、そうじゃねぇんだ。それでも騒ぎになる事もあるから、ちょっと場所が必要なだけだ。それも、逃げる奴が出ても、取り押さえられる様に、ヌベツィアの中央に
近い方が多いな」
 手枷足枷を嵌められた、人が見える。首輪がついているのも居た。まるで、動物の様だ。そう思ってから、ガルジアは己を恥じた。しかしその扱われ方は、間違いなく動物のそれであった。
 闇市に入ってすぐに、檻があった。ガルジアはそれに目を奪われる。中に居たのは、痩せ細った壮年の、犬人の男だった。違和感を覚えたのは、着ているその服が身体に合わずに、ぶかぶかとしているからだった。咄嗟に、檻の全体をじっと見た。値札は、
貼られていない。代わりに一枚、木の板が打ち付けられ、文字が書かれていた。
「間抜けな商人、か」
 横で、自分が見ていたからだろう。釣られて見ていたリュウメイが口にする。
「よお、兄ちゃん。買い物かい?」
 見ていると、檻の前に座っていた、人相の悪い狼の男が声を掛けてくる。片目は潰れて、どの様な表情をしても剣呑さが隠せない様な顔だったが、それでも声の調子は軽く、にこやかな様子だった。上半身は裸で、下半身も襤褸のそれをしか纏ってはいない。腰に
巻いた帯に、控えめな抜き身の刃が存在を主張していた。
「まあ、そんなところだ」
「そうかいそうかい。いやぁ、兄ちゃんも、その後ろの人も、高く売れそうだなぁ。おっと、冗談だよ。そんなに強く睨むのはよしとくれ。一目見ただけで、あんたにまともに手を出そうなんて奴は、ここには居ねぇよ。自分の寿命を縮める事には、誰も彼も、敏感だからなぁ」
「……その人は、どうされたんですか?」
 思い切って、ガルジアは訊ねてみた。織の中の犬人は、虚ろな表情で舌をだらしがなく垂らしたまま。自分を見ているはずのガルジアやリュウメイにも気づいていない様子だった。
「ああ、こいつかい? 残念だなぁ、こいつ、売り物じゃねぇんだよ。他を探してくれるかい」
「いや、買うつもりじゃねぇ。どうして檻に入ってるのか、だとよ」
「ははぁ。そんな事を訊くなんて。やっぱりそっちの白虎のお兄さんは、こういう街は初めてなんだねぇ。まあ、仕方ないか。あんたみたいな綺麗な人、こんな所でうろうろしてちゃいけないよ。そうそう、それで、この男の話だったな。こいつはさぁ、元はグレンヴォールでは
そこそこ名の知れた商人だったんだよ。なのに、馬鹿だよなぁ。自分には金があるからって、このヌベツィアを蔑ろにしたんだ。こいつは、ヌベツィアの品に手をつけたんだよ。私兵を雇ってな。それで結局、かんかんに怒った奴らに伸されて、終わりさ。運が悪い事に、
こいつはルカンの持ち物にも手を出したからな。ルカンにまで狙われたら、どうやったってまず逃げられやしねぇのに。そんで、ここに連れてこられて、散々奴隷としてこき使われてな。最初はあんなに威勢が良かったのに。まあ、震えてたけどな。……カカカ、
今思い出しても、笑えてくるぜ。本当にグレンでぬくぬくと生きてきたんだろうなぁ。金をばら撒いて、柔らかい女だの、少年だのを侍らしてたのに。まさか自分が大の男の相手をする事になるなんて思ってもなくて、散々喚いて。ああ、でもやっぱ、駄目だな
急ごしらえだと。こいつはもう、おかしくなっちまってさ。元々商品価値がそんなにある訳じゃねぇし、だから今はここにぶち込まれてるんだよ。見せしめのためにな。グレンの奴らも、ここには来る。結構、覗き見て目を丸くする奴が居るんだぜ。それから、
ちょっと仲間と話してたりするんだよ。こいつをグレンで見たってな。そりゃそうだ。本人だもんなぁ。なあに、売り物じゃねぇけど、いつまでもここで飼ってる程俺達も暇じゃねぇ。迎えが来たら、返してやるさ。勿論無料でな! こいつの餓鬼だか、上さんだかが来て、
今のこいつの姿を見た時の顔さえ、俺にじっくりと見せてくれたら、だけどよ」
 そこまで言うと、狼はげらげらと笑い声を上げる。初めに声を掛けてきた時とはまるで別人の様に、腹を抱えて、それがどうしても我慢できないかの様に、笑い続けた。ガルジアはそれに戦慄を覚える。周りの者達は、それへちょっと目を向けるだけだが、何も
見なかったかの様に歩を進めていた。これが、ここの日常なのだ。そう言われた気がした。
「そうか。ありがとよ」
 リュウメイが、銀貨を一枚指で弾く。その時だけは男は笑うのを止め、俊敏な、本来の動作でもってそれを受け取っていた。
「へへ、あんがとよ、兄ちゃん。ここで見世物にしてるだけでなんの役にも立たねぇと思ってたのに、儲かっちまった。あんた、よかったら今夜どうだい。俺はどっちでも構わねぇ口だし、こういうつまんねぇ奴らのお守りが多くてよ。たまには、あんたみたいないい男と
したいんだが。あんたなら、朝が来るまで楽しめそうだ。それに、丁度いい物も手に入ったんだ」
「悪ぃな。今は、そんな気分じゃねぇ」
 更に銅貨が一枚、宙を舞う。
「へへへ。やっぱ、駄目だよなぁ。後ろにそんな綺麗な兄ちゃんが居るんじゃ、俺なんかじゃな。そんじゃ、ごゆっくりどうぞ」
 へらへらと笑いながら手を振る狼に見送られ、ガルジアとリュウメイは奥へと進む。振り返ろうとして、振り向くなとリュウメイから声が飛んだ。
「ああいうのに顔を憶えられる様な事はしねぇ方が良いぜ。今は、お前が止まったからあいつも話しかけてきたが」
「すみません。ご迷惑を」
「それから、そういう顔もすんな。もっと、堂々としてろ。ここを出るまででも構わねぇ。嫌って程声を掛けられるぞ」
 リュウメイの忠告に、ガルジアは顔を引き締める。だが、それも長続きはしなかった。闇市に置かれている物は、やはり闇市というだけはあって、表には出られぬ物、思わず目を背けたくなる様な物も多かった。怪しげな効果を謳った強壮剤から、何に使うのか
わからない、希少な種族から抜き取った毛の束。生き血。それ以外にも、身体の一部。そして一部ではなく、檻に閉じ込められていた男の様に、その全てを売りに出されている者。ガルジアは、目を見開いた。その中に居る、白の被毛に、縞模様。自分と同じ
存在を認めてしまったのだ。相手もまた、じっと見つめているガルジアに気づいた様だった。しかし、その反応はガルジアの予想を裏切った。相手はしばしガルジアと目を合わせはしたが、その内に視線を外すと、特に何も言わなかった。
「こうして見ると、バインがお前を狙った理由が、わからなくもねぇな」
 俯いた、白虎。それは少女の様だった。光の無い目は、今は座り込んだ自分の足元に向けられており、それ以外はなんの関心も持たぬかの様だった。もう、ガルジアを見る事もない。
「あいつは、白虎の歌術士を探していた。この中に、歌術士としての才能を持った奴は、居るかもしれねぇ。でも、こんなんじゃ使い物にはならねぇな」
 ガルジアは何も言わず、俯いた。リュウメイの言っている事は、よくわかった。歌術は、歌によって精霊を招き、共に歌う様にして力を引き出すものである。このヌベツィアで捌かれる様な運命を辿った者は、とても精霊を気にして歌える様には見えなかった。その上で、
ヨルゼアである。バインに操られていた時に言われた事を、ガルジアはふと思い出した。自分が白虎である事を、本当に厭う事ができない。白虎の召術士、リーマアルダフレイがヨルゼアを降伏させられなかった原因の一つには、確かにそれがあったと思われた。そして
また、ここで繋がれている者達も、己をこんな不幸な状況に追い込んだ、己自身の出生を、種族を。怨まずに、厭わずに居られる訳がなかったのだった。例えこの中に、バインの求めていた白虎にして、召術士、或いは歌術士の才に秀でた者が居たとしても、
ヨルゼアは決してその白虎を選びはしない。憐れみは、するだろう。しかしそれだけだった。ヨルゼアと一度は一つになったガルジアだから、今はそれが手に取る様にわかる。ヨルゼアは自分を選びはしても、今目の前に居る少女を選ぶ事はないのだという事が。そして
また、自分は。ヨルゼアを選ばなかった存在でもあるのだが。
「どうにか、できないのでしょうか」
 ヨルゼアの事を頭の隅に追いやって、ただ純粋に、目の前の少女を助けられないのかと、ガルジアはリュウメイを見上げる。リュウメイは、黙って首を振った。
「金で一時的に助けてやる事はできる。だが、白虎だからな」
「私は、今まで修道院に居たからわかりませんでしたが……恵まれていたんですね」
「さあな。そう思えるんなら、良いんじゃねぇか。こいつは助けても、どうせすぐに捕まるだろ。もう、目が生きちゃいねぇ」
 リュウメイが、歩き出した。ガルジアは申し訳なく思いながら、その場を後にする。以前の自分だったら。ラライトを抜け出した頃の自分だったら、騒ぎ立てて、どうにか助けようとしたのかも知れない。冷酷になった。そう言われたら、そうかも知れない。しかし少女を
連れて旅はできないし、一人にしておけば、また捕まるだけであり、そして今目の前に居るのは、助けすら必要ともしていない様にしか見えず、ただ俯いたままの白虎なのだった。どうにかしたくても、どうする事もできない時もあるのだと、身に染みた。最初に
顔を合わせた時、何かを言うとガルジアは思ったのだ。助けてほしい、と。或いは、睨みつけてくるのかとも思った。どうして自分が奴隷として扱われ、お前はのうのうとそこに立っているのだ、と。しかし実際の反応は、そのどちらでもなく、無だった。全てを諦めた者の
取る行動。諦めた者にしてやれる事は、何一つ無かったのだった。
 細道を行く。丁度、ガルジアとリュウメイが入ってきたのは、奴隷が多く集う場所だった様だ。道を進む度に、身体のどこかしらを繋がれた者の姿が見えていたが、やがてはそれも消える。そうすると、少し広い場所へと出た。そして、何やら歓声が上がっているのが
耳に届く。ガルジアは説明を受けようとリュウメイを見たが、リュウメイも訝る様にそれを見ていた。
「珍しいな。ここじゃ、ああして騒ぐのはご法度だったんだが。何年も来ちゃいなかったから、変わっちまったのかもな」
「もしかしたら、リュウメイさんの探している剣の手がかりがあるかも知れませんね。珍しい品が出ているから、ああして騒いでいるのかも知れません」
「可能性は無くはねぇが。厄介毎に関わっちまいそうだな。生憎、今は一人じゃねぇからなぁ」
「な、なんですかその言い方は。私が足を引っ張るって、言いたいんですか」
「中々わかってるじゃねぇか」
「私だって、お役に立ってみせますよ。……それにしても、なんの騒ぎなんでしょう」
 柄の悪い人込みは、一様に背を向けていた。広場の中央へと、皆が視線を向けている様だ。そっと近づくと、一際大きな声が響いた。
「グレンの奴らの横暴を許すな!」
 中央に居た、如何にもといった風体の悪漢が高らかに叫ぶ。すると、周りに居た者達が同意を示し、唱和する。熱狂的な声が、方々から上がる。ガルジアは眩暈を覚えて、思わずリュウメイに縋りついた。
「なるほどな。生粋のヌペツの集会って訳か」
「一体、なんなんですかこれは?」
「この街が、グレンヴォールから不要になった物、追いやられた奴らが集まってできた場所だってのは、マーノンが言った通りだ。だからこの街の奴らは皆、グレンが嫌いなのさ。グレンの奴らが自分達をヌペツと言い蔑むのも、一度捨てた物をグレンの奴らが
拾いに来るのも、何もかも。グレンヴォールはな、街として大成するために、汚れた物、忌避される物を、全部ここに擦り付けた様な街だ。だから、あの街は小奇麗で、金を出せばなんでも揃う街なんだぜ。金持ちの連中ばかりが集まる街だ。それが余計、そこから
追われた連中には、堪らねぇんだよ」
「……なんだか、悲しい話ですね。大きな街だと言うから、グレンヴォールに行くの、私は楽しみにしていたのですが……そんな風に言われてしまうと」
「まあ、ヌベツィアも、グレンヴォールも、他の街とはそこが違うってこったな。一つの街でも、昼と夜は違うが、ヌベツィアとグレンヴォールは、本当の顔を一つしか持ってねぇんだよ。だから尚更、この二つの街に住む奴らってのは、極端な奴が増えて、それがまた余計な
確執になる訳だな。まあ、俺はヌベツィアは好きだが、連中の言うヌペツになるつもりもねぇから、グレンが嫌いって訳じゃねぇが。ただまあ、グレンで遊んでも、物足りねぇのは確かだな。あそこはただの暇潰し程度にしかならねぇ」
「なんとなく、わかりました。あなたがここを好きな理由が」
「お遊び一つとっても、こことグレンじゃ、違うぜ。ここを味わった奴は、もうグレンなんかじゃ満足できねぇんだ。だからこの街も、グレンに負けずに続いてる訳だな」
 熱狂的な演説は、まだ続いていた。段々と場が温まり、次第に隣に居るリュウメイの声も聴きとり辛くなる。
「奴らは自分達の街に教会を復活させるつもりだ! 一度は捨てたというのに!」
 ガルジアがぽかんと口を開けたのは、その言葉が飛び込んできたからだった。今中央で叫んでいるのは、身形は聖職者のそれである。しかしその顔は恐ろしい程の憤怒に塗れており、到底穏やかな面構えをする職の者だとは思えなかった。その主張もまた、
喝采を浴びて迎えられる。リュウメイが、にやにやと笑いながら口を開いた。
「知ってるか、ガルジア。グレンには、教会や修道院はねぇんだぜ」
「それは、まあ。修道院の荷を届ける時にも、それで私はグレンヴォールには行かなくて良いなと、その時は引き返してあなたと出会った訳ですから」
「でも、昔はあったんだ。グレンは、信仰を捨てちまったのさ。いや、金っていう立派な信仰があるけどな」
「そういう言い方はやめてくださいよ」
「面白ぇのは、ここからだ。なんと、この街には教会があるんだ」
「……えっ!?」
 思わず、ガルジアは声を上げた。とはいえ周りはもはやそれよりも大きな声で騒ぐ連中の集まりであるから、誰も気に留めた様子もない。ガルジアが白虎だというのも、隣にリュウメイが居るからか、手を出してくる者も居なかった。
「そんな。私、ここに教会があるなんて知りませんでした。修道院で確認した書類にも、確か書かれていなかった様な」
「そりゃそうだ。こんな小汚ねぇ街の事なんて、外の奴らは大して知りもしねぇからな。この街に教会があるのはな、グレンが教会を捨てたからだ。丁度俺もその時はこの街に居たから、憶えてる。グレンヴォールは金持ちと商人が集まって発展した街だからな。段々と
拝金主義になっていって、まあそれは今もそうだが。それで、教会も廃れちまったんだよ。だから、グレンの連中は、教会を捨てて、そこに居た奴らも追い出しちまった。そこで騒いでる奴は、多分その時の奴らの一部なんだろうな。まさか、こんな吹き溜まりの街で、
教会を開く事を許されるなんて思ってもみなかったって顔をしてたぜ。でも、生憎だ。ここはグレンの奴らが捨てた物が集まる街。あいつらが見捨てた物は、なんでも受け入れちまうのさ」
「だから、あの人は怒っているんですね……」
「しかもグレンが今後教会を戻したとしても、当然招かれるのはあいつらじゃねぇからな。見ろよ、あの顔。聖職者の恰好をした、ヌペツさ。あいつはもう、立派なヌペツになっちまったんだ。この街に長く居ると、ああいう風になっちまう奴が多いんだよ。皆が皆、
グレンヴォールから要らねぇって捨てられちまったからな。そういう奴らで集まると、グレンに対する愚痴が馬鹿みてぇに出てくる。頭ん中が、全部それで埋まっちまうんだよ。お前も、まだ修道士を続けたいって言うんなら、あんまりこの街には長居しない方が
良いのかもな」
「言われなくとも、しませんよ。あなたの用事を片付けたら、さっさと出ていきますとも」
「すぐに、片付けばいいんだけどよ。さて、見物はこんなもんか。俺達の入って来た方向とは反対側で、武器やら何やら商ってるみてぇだ。そこを見て、今日は帰るか」
 リュウメイに促されて、足早にガルジアはその場を去る。去り際に、視線を投げかけては。いまだに粗末な木箱の上か何かで、声を荒らげては演説に耽る修道士を視界に入れた。変わらずに彼はそうしていて、それはいつまでも、続いてゆくかの様に
見えた。ガルジアには、到底理解できない事柄ではあったのだが。清貧を貫いては、日々祈りを捧げて、困った者を助ける。そのいずれにも、そこに居る者達には当て嵌まらぬかの様に見えたのだった。
 闇市を、抜けてゆく。闇市と一口に言っても、道が変われば扱う品もがらりと変わった。丁度、ガルジア達が入ってきた方を奴隷市とするのならば。その反対側へ向かうにつれて、商いの景色もまた変化を見せたのである。人から、獣へ。獣から、物へ。品は
命を宿す物から、命を持たぬ物へと変わり。そしてまた客層も変化を見せる。店構えこそ、似た様な物だが。今ガルジアとリュウメイが歩く通りに並ぶのは、煌びやかな宝石ばかりだった。とはいえ、そのどれもがそれ程の価値がある物とは到底思えぬ代物
ばかりではあったのだが。その様な場所になると、客もまたそれに合わせるかの様に着飾った、同時に少しけばけばしくもある女の姿を見る様になる。香水の独特の芳香が入り交じっては、つんと鼻をくすぐるし、場所によっては思わず咳き込んでしまいそうな
程だった。薄暗く、雑多で、狭い道だというのに。その中を歩く者達は、まるで別の場所から切り取られては、そこへ貼りつけられたかの様に色味に富んでいた。もう少し歩けば、また品は変わって。今度は食品や、食材を扱う物へと姿を変える。そうなると、
そこに集まるのはごく普通の主婦の様な姿をした女の姿も多くなる。道の端や、更に細い通路の方には、ここがどこであるのかを忘れさせぬかの様に屈強で、荒くれた男の姿はいまだに見えたけれども。それでも、その様子を見ると。この頽廃に塗れ、おおよそ
真っ当な生活が行われている様には見えないこの街にも、確かにその様な場面があるのだという事を教えてくれる。
「この辺りは、なんというか。普通の方も、多いのですね」
 極僅かではあるが、子連れの女の姿もここでは垣間見る事ができた。一体平時はどこに潜んでいるのかと言いたくなる程ではあるのだが。確かにその様な姿も、ここでは認める事ができたのであった。
「そうだな。闇市って言っても、扱う物が変われば、客も変わる。何も、他所では人目に晒す事すら憚られる様な物ばかりって訳じゃねぇさ。ただ、品はそうでも。どこからそれを取ってきたのかってのは、また別なんだがな」
「……やっぱりまともじゃないですね」
「そこは、詮索しちゃならねぇ決まりさ。売り手が居て、買い手が居る。たったそれだけの事を、頷けるのなら。ここは誰にでも開かれてる場所って言ってもいいくらいだ」
 ある意味では、それはとても単純明快で。それから気持ちの良い物なのかも知れなかった。もっとも、更に景色が変わって、品が武具や防具へと変ずると同時に、そんな思いもまた打ち砕かれてしまうのだが。並べられている品々は、一見してそれ程の価値が
ある様には見えない。問題は、価値ではなく。その見た目だった。明らかにどこかの正規の品と思われる物が、多いのである。或いは城務めの兵に至急されるべき物。或いは街の警備に使われる物。それらが、ある程度纏まった数となって置いてあるという
のは、後ろ暗い理由が無いと主張する方が余程難儀な事だっただろう。実際に、ガルジアは気になってリュウメイに訊ねてみると。確かにリュウメイはそれに頷いて。いくつかの品の中から、これはグレンヴォールの物もあると言い放ったのだった。よく見れば、
小さな刻印が鞘や鎧、靴なとには施されており。それらはグレンヴォールの物である事を示す証に間違いはなかったのだった。そういった、出所を示す証をむしり取った痕跡が見える物も確かにあったのだが。そんな事は何一つ気にせずという物の方が、寧ろ多い
くらいであった。それらを商う店主達の姿もまた、荒くれた、立派なヌペツのそれであり。思わずガルジアは、相手から見咎められる恐れすら一時忘れて、溜め息を吐いてしまった。
「本当にやりたい放題ですね、この街は」
「これが普段通りなんだよ」
「グレンヴォールが捨てた物が集まるのではなかったのですか? あれ、明らかに横流しされた物ではありませんか」
「だから、そうじゃねぇか。不要だと決めつけられた物。ああ、そうだ。確かにあれをここに流した奴らは、これはもう不要ですという手続きの一つや二つはして、さも仕事した様な面で手放しただろうよ」
「……はぁ」
 呆れ果てて、言葉も出ないというのはこういう事かとガルジアは思う。自分を案内してくれているはずのリュウメイにも、今はなんとなくそんな気持ちが湧いてくる。
「なんだか、この街って。リュウメイさんにそっくりですね」
「褒めるなよ」
「はぁ」
 リュウメイが口角を吊り上げてそう返すのにも、ガルジアは疲れを感じてしまっていた。もう、諦めよう。そう思う。救いの手を求める者に、手を差し伸べるのは当然の事であるし、そう教えられても来たけれど、それすらここでは不必要な物とさえ思える程だ。例え
こちらが手を差し伸べても。ここの住人ならば、相手が勝手に手を出してきたとまで思いもするだろう。ガルジアの中での修道院での教えが、ちょっとだけ、揺らぐ。
 気を取り直して、ガルジアはリュウメイの傍近くを歩きながら。リュウメイの目当ての魔剣を探しはじめる。とはいえ、それははかが行かぬ作業と言わなければならなかった。情報を仕入れては、それを商うフェルノーの情報網に掛からぬのであるからして。生半な
事で、その手がかりが掴めるという事はありえなかったのである。その上で、魔剣はどこにあると直接問い質す事も、憚られる。その在り処を知らぬ者であっても、その様な直截な物言いをすれば、金になる話と判断して、金を要求しては法螺を吹く可能性も充分に
考えられるのだった。結局はただ闇一をぐるぐると回っては、話の通じる様な相手に軽く声を掛けて。最近は良い品、或いは面白い品の話はないかという世間話をするに落ち着くのだった。また、その話の中において、確かに魔剣の事を口にする者とて
居なかった訳ではなかったが、その仔細を知る者はやはり見つからなかった。結局のところ、リュウメイがどう思っているのかはわからぬ物の。ガルジアにとって情報屋であるフェルノーの信用を上げるだけの結果に終わったのである。
「結局、何も見つかりませんでしたね」
 空が、朱に染まってゆく。もうすぐ、夜が来る。昼も夜も、確かにこの街ではそれ程の違いがある訳ではない。色を売る者とて、朝夕を問わずに蔓延っているし、それらがまだ健全に思える様な、もっと如何わしい品を扱っている者とて、自重を知らぬのだから。
 それでも、確かに変わる物もまた確かにある。ガルジアが驚いたのは、街を歩く者達の中に、昼の間は観光を目当てにした様な者の姿が散見された事だった。こんな場所に、一体何を観光するのかと思わず問い質したくなるそうだが。その辺りはリュウメイが
言う通り、グレンヴォールでは物足りないと思ってしまう様な者が、そのすぐ近くにもっと大きな火遊びができる場所があると聞いて、やってくる様だった。もっとも、火遊びなどという程度に抑える事ができずに、そのまま業火に焼かれる者もまた後を絶たない
そうだが。
 そういう者達は、夜になるともう少しだけ数が増えるのだった。昼も夜も、この街で供せられる物は変わりはしないが。その様に他所から来た者は、夜こそが本番と思い、姿を現すのだった。
「そろそろ、戻るか」
「もうよろしいのですか」
「昨日今日、いきなり現れた奴が、はっきりとした物を求めもせずにあちこち練り歩いては、話をしている。ただの旅人や観光を目当てとした奴なら、まあいいだろうさ。だが、お前が居るからな」
「なんですか、その言い方は。大体リュウメイさんだって、結構目立ってますよ。フェルノーさんだって、言ってたじゃないですか」
「まあ、そうなんだがな」
 リュウメイの、蜥蜴という種族は、少なくともガルジアの白虎よりは目立ちはしない。ただ、その赤髪は、とても目立つのは確かであった。一度見たら、忘れられないとガルジアは思う。実際、一度離れた時などは、リュウメイの顔などは多少記憶の中でぼやける
事はあっても、あの赤い髪はとても鮮やかだったと。そう、思い返す事は多かったのだから。
「とにかく、そういう事もあってあんまり目立つ真似ってのは、できねぇもんなのさ。ただ、焦ると碌な結果は帰ってこねぇ。お前は、嫌になるだろうが。もう少しだけ、この街には居ようと思う」
「……あなたが決めたのなら、構いませんよ。それに、今日一日歩いただけでも、確かに疲れましたけれど。でも、決して悪い事ばかりの街ではないという事も、少しはわかったつもりです」
 確かに、悪徳の権化の様な街である事には、変わりは無かった。奴隷の売買などは、公然と行われているし、どこを見ても思わず目を背けたくなる程に欲に塗れ、耽溺し、放蕩している。以前のガルジアだったならば、思わず目を背けていたかも
知れない。或いは、乗り込んではその道を正そうとしたのかも知れない。今は、そのどちらでもなく。ただあるがままを見つめては。ほんの少しだけ、受け入れる事もしていた。それは、凡そ修道士の振る舞いとしては、正しい事とは言えないだろう。既に天に
召されたであろう、己の育ての親であるウル・イベルスリードには、ガルジアは申し訳なくも思っていた。それでも、己の属していた側が、全てにおいて万能であり、正しいとも限りはしないのだと。サーモストの一件でまた、ガルジアは思い知ったのだった。
 ちらりと、隣を歩くリュウメイをガルジアは見遣る。夕陽に照らされた街の中。夕陽の染まる人々の中において、尚赤く、その赤髪は煌めいては、人目を引くかの様だった。
「どうした」
「……いえ」
 じっと、見つめていると。リュウメイから声が掛けられて。ガルジアは、慌てて何も無いのだと、繕っては視線を逸らす。それでも、今は暴漢に絡まれるのを恐れて、その腕に抱き付く様な形だ。
 こんな男と、こんな所にまで来てしまった。いつか、終わり滝でもその様な想いに囚われた事があっただろう。それを今、ここでも思う。以前の。リュウメイと出会う前の自分ならば、それはやはり考えもつかない様な行動だった。リュウメイの様な、野卑な男と
共に歩く、などという事は。例え一時言葉を交わす事はあったとしても、表面に笑顔を貼りつけはしても。自分は決して、この様な男を本心から好く事はないし、また修道院を飛び出したとしても、この様な男と道を行く事もないだろうと。
 不思議な物だと思った。それが今は、修道院を飛び出して。それどころか、もはや戻る事すらままならぬとして、また目立つ事を控えて、修道士としてすら振る舞う事もなくなっている。物心ついた頃から、修道士として、ラライトに住み着いては育まれ、
そうして修道士への道を歩んでいたはずだというのに。自分の全てを構築するための期間を、それに捧げたはずであるというのに。リュウメイと出会い、別れて、また出会ったごく短い期間で、ガルジアの物の捉え方というのは、様々な変化を見せていたのだった。
 そうでなければ、こんな男の隣を歩く事はなかっただろう。
「早く、帰りましょう」
 その思いを、気取られてしまいたくはなくて。ガルジアは、急かす様にリュウメイの腕を引く。しかし、リュウメイは動かず。思わず、ガルジアは己の思いが伝わる事すら忘れて、顔を上げる。当のリュウメイは、僅かに目を細めては。前方を睥睨していた。釣られて
視線を送れば同じ様にガルジアの表情も強張る。行き交う人々が、僅かに疎らになっていた。正確に言うのならば、自分達の傍から距離を取っているのだった。そして、行き交う人々の波の中に立ち尽くす男達が見える。一様に、自分とリュウメイを見つめて
いるのは明らかだった。
「リュウメイさん」
「落ち着け。追い払えるのなら、それでいい。ただ、逃げる準備はしておけ」
 徐々に、人が減ってゆく。災いから、逃れる様に。流石の嗅覚だと思う。老若男女を問わず、彼らは結局はヌペツとしての気性と、この街の掟を知り尽くしているが故に、災いから逃れるその感覚は非常に研ぎ澄まされているのだった。そうして、自分とリュウメイは
どちらへ向かおうとも、そこから逃れる事はできなかった。男達は完全に自分達を包囲している様であったし、走り出そう物ならば、一斉に襲い掛かってもきたであろう。この街では、無法がまったく許されているとまでは言わないが。しかし多少の諍い事は、
見逃されるのだから。寧ろ、最初に自分達を囲んだ者達だけなら、まだ良かった。難を逃れようとする様子を最初は見せていた者の中にも、明らかにガルジアを見て、これは金になるのではと今は傍観の姿勢を決め込む者の姿も確かにあったのだ。そうしている内に、
少しずつ包囲の輪が狭まってゆく。男達は、まるで威嚇でもするかの様にその手に思い思いの武器を持っては、しかしそれを未だ振り上げてはいない。そんな状態のまま、じわじわとこちらへと近づいてくるのだった。対するリュウメイは、特に動じた様子も無く
今は黙ったままでいるし、剣を抜いてもいなかった。
「よう、兄弟。調子はどうだい」
 男が一人、飛び出してきた。最初、ガルジアはそれがどの様な種族であるのか、一瞬理解ができなかった。よく見れば、それは鳥人であって、それ以外の物ではありはしなかったけれど。その背には、翼が無かった。それ程見る種族という訳ではないが、記憶の
中では、翼を持つ者も居たはずだった。その背で、空を自由に行き来できるのかは、よくはわからなかったが。その男には、翼が無いのだった。それが、生まれつきの物なのか。それとも、この街で暮らすのだから、その様になってしまったのか。ただそこに立って
いるだけだというのに、今陽気な声音でリュウメイに話しかけてきた鳥人の男の様子が、今はなんとなく不気味に思える。
「よう。まあ、悪くはねえな。久しぶりに、帰ってきたんだが」
「そうだろうよ。あんたみたいな目立つ奴、この街にずっと居たってんなら、俺は名前ぐらい知っているだろうしな」
 その会話で、なんとなくガルジアはこの男とリュウメイは、知り合いという訳ではない事を察する。親し気な口調で話し掛けてくるものだから、最初は知り合いかと思ってガルジアは様子を見ていたのだが。リュウメイをじっと見つめていると、短い間目配せをされる。多くの
受け答えをする程に器用ではないために、決めた事は少ないが。様子を見ていろという指示を受けて、ガルジアはまた鳥人の方を見つめる。
「それで、何か用か。生憎と、儲け話は持ってねぇんだが」
「何を言ってるのさ。その隣に居る奴は、飾りなのかい。それとも、ただの虎をそんな風に染めて、持ってきたとでも言うつもりかい」
 冗談でも言うかの様に、鳥人は言う。それに笑う者は居なかった。取り囲む男達は、皆一様に、食い入る視線をリュウメイに向けているだけである。
「用事がねぇなら、俺達はもう帰るところだ。そこを、通してくれねぇかな」
「待てよ。用事は、あるさ。でもそれは、あんたに、さ。リュウメイ」
「……なんだ、やっぱり知ってるんじゃねぇか」
「いや。でも、あんたがそう答えてくれると思って、声を掛けたんだ」
 そこまで言うと、鳥人はこの場に。この街に。そしてその人物にもそぐわぬかの様な、馬鹿丁寧な一礼を見せる。
「俺は、あんたを知らない。ただ、そういう奴が居たら。そして、その隣に白虎の男が居たら。そいつを連れてくる様に。そう、頼まれただけさ。ルカンの奴にな」
「知らねぇ名だな」
「酷い事を言うもんだ。黒牙のルカンを知らないなんて」
「悪いが、面倒くせぇ名前を持ってる奴を一々憶える趣味はねぇんだよ」
「……本当に、酷い奴だな。ルカンを怒らせておいて。一対の黒牙の、片方を。ディヴァリアで殺しておいて。だから俺は。俺達は、あんたを逃がす訳にはいかないっていうのにな」
 刹那、一斉に剣が振り上げられる。鳥の男が静かに片腕を上げたと同時に、複数の男が飛びかかってくる。リュウメイは、それに然程気を取られた様子も見せなかった。ただ、黙って剣を抜いて。そのまま無造作に切り捨てただけである。
「リュウメイさん」
「この程度じゃ死なねえよ。それより、余計な事をしようとするなよ。敵が増えるだけだ」
 傷ついた者の姿を見て、咄嗟にガルジアは歌術を行使しようとか逡巡するが、それはリュウメイに止められる。傍観を決め込んでいる男達が、どうなってしまうのか、わからないのである。ガルジアは、ぐっと堪えた。誰かに、死んでほしいとは思わない。しかし
自分がこの場で、何かをすれば。自分とリュウメイの道が閉ざされる事となってしまう。今は、突き進むしかないのだろう。
 刃のぶつかる音が聞こえた。ガルジアより少し前に出たリュウメイが、何かを叩き落としていた、地を見て、散らばった刀子にようやく気付く。ほとんどその様子すら感じ取らせずに、眼前の鳥人の男はそれを放った様だった。
「弔い合戦だ。頭の。ルアの仇を取れ」
 束の間、ガルジアははっとなって、その鳥人を見つめる。いつの間にか、その瞳には涙が浮かんでいたのだった。こんな街の中で。こんな、悪徳の街で。こんな涙を見る事になろうとは、思わなかった。そして、そんな物には一切動じずに剣を構えたリュウメイを、
見てしまったのだった。
「駄目です、リュウメイさん」
「てめぇのその物言いは、いい加減治らねぇものなんだな。反吐が出ると、言ったはずだか」
 ディヴァリアの夜の事を、思い出す。それから、目の前の男も、ディヴァリアの件を持ち出していた。あの時の事が、繰り返されるかの様だった。切りかかってきた新手と、リュウメイが切り結ぶ。ガルジアはただ一歩下がって、見守る事しかできなかった。白虎としての
価値があるからか。それとも相手の言う、弔い合戦であるからか。相手の狙いはリュウメイだけの様で、今のところはガルジアが剣を抜く必要は無かった。また、歌う必要も。少なくともリュウメイに対しては必要が無かっただろう。例え人数で勝るとは言え、剣を
取っての対人であるのならばリュウメイの強さはやはり狂人の域に達していたし、それは相手にも瞬時に伝わった様だった。荒事に長けて、その機会に恵まれている者こそ。瞬時に相手の力量を計り、そのまま戦うべきか、逃げ出すべきかを見極める確かな目を
持っているのだった。その目と、判断力を持っていない者は、生きてはゆかれない。リュウメイと切り結び、どうにか軽傷で済んで下がった男達は既に、恐怖の表情でリュウメイを見つめていた。当のリュウメイはといえば、いまだにそれ程の興奮を覚えている訳でも
なさそうである。本当に昂った時には、それこそ狂戦士然とした姿と化す事を、ガルジアは知っている。それでも、冷静さが必要な時にはそれを完全に抑えるのだという事も。今のリュウメイは、どちらともつかず。ただ退屈そうな様子を滲ませていた。この男に
とっては、そうなのだと。今更ながらにガルジアは畏怖を覚える。涼しい顔をして、匪賊を切り捨てる事ができる男。命の尊さなどという物を、まるで斟酌する様子を見せない男。命の価値を知らぬという訳ではない。ただ、リュウメイはリュウメイであって。そして
どの命を刈り取るのか、見逃すかのかですら、結局はリュウメイの采配に依るのだった。ガルジアにできる事は、ただ、殺さないでほしいと。命をあだや疎かにしないでほしいと、懇願する事だけだった。
 鳥人の男が、流石に動揺を見せる。この男も、仲間が切り捨てられるのをただ見ている訳ではなかった。既に片手で扱える剣を取り出してはリュウメイに切りかかり、引いては仲間に任せて、リュウメイの隙を突くかの様にまた刀子を放ってはいるのだ。ただ、
それがリュウメイの身体を傷つけるには至らなかった。このヌペツの暴漢達の基本的な戦術というのは、結局のところはその様な物であったのだろうが。リュウメイはそれにたった一人で完全な対応を見せていたし、それに相手が焦れて大勢で掛かれば、
それこそ刀子を投げ入れる隙という物は無くなってしまう。そうなれば結局は、剣の腕で無双を誇るリュウメイが有利だった。男達の方は、動揺をしているから尚更だ。また、本当にリュウメイが危ないとなれば、ガルジアもなりふり構ってはいられず、歌術を行使
しただろう。そうなればまた、圧倒的な力でリュウメイは暴れる事ができる。感情にすら働きかける軍兵の詩を、軽々しく歌えば、リュウメイがどの様に暴れるのかがわからないので、ガルジアはいまだに言われた通りに詩を歌う事を我慢していたのだが。
 それでも、その戦いは不意に終わりを告げる。切り倒され、地べたを這いずる男達の数が増え。自棄になったかの様に、刀子の数が増えて。リュウメイがそれを素早く叩き落としていた時だった。
「動くな」
 不意に、ガルジアは背後から突然の物音と気配を感じて。しかし振り返るよりも先に、自分の首に黒く、太い腕が回されて、そのまま首を絞められる。咄嗟に悲鳴を上げてしまう。そうしながら、ガルジアは混乱していた。いくら自分が実戦に不向きで、かつ経験にも
乏しいとはいえ。囲まれている以上は背後にも注意を払っていたのに。一体どこから、今自分を拘束にしている男が出てきたのかと。ただ、その疑問は首に腕を回されて、視界が僅かに上へと向いた事で解決する。建物の、上だった。雑多な人込みの、
その向こうには当然ながらこのヌペツの背の低い建物が犇めいている。今ガルジアを捕まえた男は、その建物の上に潜んで、この機を密かに狙っていた様だった。現に、今ガルジアの瞳には、まだ建物に残っている悪漢達が、先んじて舞い降りた背後の男の
行動を見守る様に気づいた。
「悪いな」
「えっ?」
 耳元から、声が聞こえる。何故か、謝罪の言葉が囁かれる。ガルジアがその意図を理解するよりも先に、首を絞められて。苦し気に呻く。そうしながら、背後の男はガルジアよりもその先に居るリュウメイを見つめている様だった。
「おい、止まれよ。こいつが見えねぇのか」
 当のリュウメイはといえば、男の言葉も知らぬと言いたげに、隙を見せた悪漢達を相も変わらずに切っては捨てていた。寧ろ、男がたった今現れて、ガルジアを人質に取ったのを見た悪漢達の方が、勝負はこれで決しただろうと肩の力を抜いたために、そこを
リュウメイに突かれて余計に被害が大きくなっているという有様だった。とはいえ、更に声を掛けられて。リュウメイもようやく振り返る。振り返ってから、男ではなく。明らかにガルジアだけを見つめて、小さく溜め息を吐く。
「お前、せめて自分の身ぐらい自分で守れよ。だからグレンに居ろって言ったじゃねぇか。役に立たねぇな」
「……そ、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか!」
 必死にもがいて、僅かに腕の拘束を緩めさせる事に成功したガルジアは、しかし息を整えるよりも先にリュウメイの抗議に物申してしまう。申し訳ないという気持ちはあったけれども。確かに、自分が足を引っ張っているなとは思うけれども。何も、開口一番に
そんな事を言わなくても良いではないかと。
「おい、いい加減にしろ! こいつがどうなっても良いってのかよ!?」
「別に、できるもんならやればいいんじゃねぇか? そんな事したら、そいつの価値も無くなっちまうだろうけどよ」
「リュウメイさん……」
 思わず、今がどの様な状況なのかも忘れて、ガルジアは呆れてしまう。要は、ガルジアの白虎として価値を知っているからこそ。リュウメイはその様な振る舞い方をしているのだった。とはいえ、リュウメイなら例えガルジアが白虎でなくとも、その様にぬけぬけと
言い放つところが想像できてしまうのだが。味方を人質に取られて、簡単に手を止める様な人物ではなかったなと、今更ガルジアは理解して。それから、なんとなく今自分を人質に取った男や。それでリュウメイが止まらずに、あっという間に切り伏せられてしまった
暴漢に、少し同情を抱いてしまう。
「ルカン。こいつ、手強いぞ」
「んな事わかってんだよ。だからルアもやられちまったんだろうが」
 鳥人が、ルカンと口にする。そこまできてから、ガルジアはようやく自分を押さえている男の、ルカンの種族を推し計ろうとする。背後から拘束されているため、ほとんどどの様な種族であるのかなど見る事もできなかったのだが。それでも自らの首に回された、
太い腕を見れば、ある程度はわかる。黒い、腕だった。真っ黒な毛色。夜の闇の様に深く。しかし今は、陽の光を受けて僅かな艶も見える。ただ、あまり手入れはしていないのか、お世辞にも綺麗な被毛だとは言えそうになかった。
 それから、ガルジアの耳元で囁いたり、顔を寄せてリュウメイの方を覗いてもガルジアの視界にはその鼻先があまり見えないところからして、ルカンという男はどうも黒い猫。或いは黒豹の類である様だった。ルカンは、今は表情が見えずともわかるくらいに、
憎々し気にリュウメイを見つめている様で。
「てめぇら、正面から掛かるんじゃねぇ。ずらかるぞ」
 そう言ってから、素早く取り出した何かを放った。そうすると、僅かな破裂音の後に、光が迸り、ガルジアは目が眩む。それから、あっという間に黒煙が昇る。もくもくと立ち昇ったそれは、リュウメイの姿を呑み込んで。同時にガルジアは、男が後退をする事によって
止む無く自身もどうにか後ろへと歩を進める。そうしながら、男は残った方の腕を上げて、下ろす。そうすると、待ってましたと言わんばかりに一斉に暴漢が退き。そして今までは背後で帰趨を見守っていた代わりの男達が。これは弓を番えては、黒煙の中に
居るであろうリュウメイに狙いを定めていたのだった。
「リュウメイさん!」
 ガルジアが叫ぶのと、矢が放たれるのは、ほとんど同じだった。それらは一斉に、吸い込まれる様に煙の中へと消えて。そうして僅かな間の後に、低い声で悲鳴が上がる。ガルジアは血の気が引くのを感じながら、しかしその悲鳴と同じ様に聞こえた金属の
連続した音で、まだ希望を捨てずにその様子を見守っていた。そうしている間にも、矢は増える。それから、また別の悲鳴が。どうも、流れ矢の被害に遭っている者も存在している様だった。先程から、ガルジアの白虎としての価値に目が眩み、おこぼれに
預かろうとしていた男達などがまさにそれである。その声が、聞き慣れた声ではない物である事を祈りながら。ガルジアはただ見つめている事しかできなかった。
 時折、悲鳴が別の箇所から上がる。弓を番えていたはずの男が、地に伏す。何が起きているのか、ガルジアはそれも理解はできなかったが。それでも良く見れば、倒れた男のどこかしらにはあの鳥人や、他の男が使っていた刀子が、ほとんど柄の部分を
残して深く突き刺さっていた。矢を放てば、己の居場所を教えてしまう。まるで、その様な戦いの教えを、まさに示しているかの様だった。
 それでも、次第に煙は晴れてゆく。風が吹いては、流れて。隠していた物を、露わにする。その後を見て、ガルジアは息を呑んだ。多分、自分を押さえているルカンも。そして他の男達も、そうしていただろう。その中で一人、立っている男が居た。身体には、
流石に防ぎきれなかったのは数本の矢が突き立っている。しかし、それだけだった。赤い髪を振り乱した男が、赤い血を流しながら、狂おしい程に輝いた瞳でこちらを。ガルジアの背後に居るルカンを見つめていた。ガルジアは思わず短い悲鳴を
上げる。リュウメイの表情が、怒りに満ちていたら良かったと思う。そうでは、なかった。今はただ、楽しそうに口角を吊り上げては、笑っているだけで。見開いた瞳と相まって、それはただ、ひたすらに狂気だけを感じさせている様で、恐ろしかった。
 その傍には、針鼠の様になった暴漢が数名倒れ伏していた。しかし、肝心のリュウメイに突き立っている矢はたったの数本である。男達を盾に使いはしたものの、残りのほとんどはその剣で叩き落としては。己に矢を放つ者の位置を正確に記憶して、普段は
使いもしない刀子をリュウメイは投げ返していたのだった。
「化け物か」
 ルカンの声が聞こえる。震えた声だった。声だけでは、なかった。その身体が震えていたし、またルカン以外も、明らかにその目には怯えの色を滲ませていた。もう一度同じ様な事をすれば、リュウメイをそのまま殺す事すらできるかも知れないというのに、誰も
彼もが、怯えていたのだった。多分、リュウメイを始末できるだろう。そうする代わりに、自分達の方もほとんど死に絶える事になると。その覚悟ができるのならば。
「引け」
 ルカンは、それを良しとはしなかった様だった。再度煙幕を投げ込むと、撤退を命じる。
 ガルジアは、抵抗しようとした。
「すまねぇな。あんたに、手荒な真似はしたくないが。せめてあいつから逃げきるまでは、一緒に来てもらう」
 その言葉を言い終えると同時に、首に鋭い痛みが走る。どうにかガルジアは意識を失う事を堪えたが、続いて耳元で何かの言葉を囁かれると、意識が遠くなる。そういう魔法なのだろう。ただ、それ程の手練れではないのか。肉体を弱らせる必要もあった
様で。意識を失う間際に見えたのは、何人かの暴漢がリュウメイへの殿として残り、既に力の入らぬガルジアの身体を、背後に居たルカンが抱える様だった。
 その時になって、ようやくガルジアは、ルカンの姿を見る事ができる。黒い、豹の姿をした男だった。

 鉄格子こそ見えはしなかったものの。それでも独房の様な雰囲気の部屋と、決して内からでは開く事のない扉を見て、大きな溜め息を白虎は吐く。
「……また捕まってしまいました」
 溜め息が続く。自分の不甲斐無さに、涙が出る思いだ。猫の魔道士に捕らえられたり、致し方なかったとはいえ召術士のバインと同行する事になったり。そろそろ枚挙に遑がないと言われても反論ができない頃だとガルジアは思う。
 帰ったら、リュウメイの小言が怖い。いや、まず帰る事ができるかという心配をしなければならないのだが。
 それでも、それほどの悲観という物を、ガルジアはしていなかった。本来ならば、ここはヌベツィアであるからして。この後自分がどの様な目に遭うのかを考えれば、それは身体の震えを押さえられぬ様になろうとも、なんら不思議は無いはずなのだが。ただ、
なんというか。今までとは扱いが違う事を、ガルジアは感じていたのである。今までは、捕らえられた場合は、それこそ狭い場所に押し込められたり、ぞんざいな扱いを受ける事もあった。或いはバインからの様に、反抗すらできぬ様な特殊な魔法を掛けられて、
その意識すら乗っ取られかねない様な時もあった。
 しかし今は、そのどちらでもないのである。確かに、外に出る事は許されてはいなかったが。少なくともガルジアが閉じ込められた部屋は、外に出られぬ事。それから少し薄暗い点を除けば、きちんとした部屋の態を成していたと言っても良い。ベッドは昨夜
宿を取った時とそれ程変わらぬ物であったし、質素ながらも置かれた椅子と机。机の上には、喉が渇いた時にと水の用意まである。それから、間に合わせとでも言いたげに、干し肉もあって。さっきから目覚めたガルジアの鼻腔を擽っては、そろそろ宿に
戻ろうとした所を捕らえられ、意識を失い。そのまま翌日となり空腹になっていた腹の虫を刺激する。更には、歌聖剣がそのまま壁に立てかけてあったのだった。検めれば、おおよそまともに扱える剣ではないという事はわかると思うが。それでも武器は武器で
ある。それを取り上げようとせぬのは、余程見くびられているのか、或いは絶対的な自信を持つのか。そもそも、警戒をする必要が無いと見られているのかのどれかである。
 それでも、流石にガルジアはすぐには机の上の食物に手をつける事はなかった。何が入っているのか、わからないという事もある。それから、何もしない内から、その様に監禁されている状況を享受する気にもならなかった。
 立ち上がっては、部屋の様子を改めて観察する。少しだけ、黴臭いが。それでも掃除はしてあった。どちらかといえば、慌てて掃除をした様な状態ではあったが。それでも野宿などよりはずっとましである。質素なベッドに、椅子と机に。棚はあったが、それは
壊れかけていた。明かり取りの窓があって、しかし窓口は小さく。到底そこから逃げ出せるという程ではない。朝の光が射している事からして、やはり少なくとも、ここに連れ込まれてから一日。ないし二日は経っている物と見て良いだろう。空腹の具合からして、
それ以上ではないはずだった。
 そこまで見ると、やる事を終えてしまって。また溜め息を吐く。残されたのは、天井の安物の光石の照明と。それから、開かぬ扉だけだ。目覚めた時、真っ先にそれに縋ってはみたものの。案の定扉が開く事はなかったし、覗き窓からなるたけ外を覗いて
見ても、殺風景な石の壁が見えるだけで。見張りの者すら、今は見当たらぬ。誰か人が居るのなら、或いは交渉に持ち込む事とて不可能ではないというのに。何も無いというのでは、どうする事もできなかった。
 ベッドの上に戻って、机の上の干し肉をもう食べてしまおうか。そんな事を考えていた頃に、ふと。かつん、かつんと。足音が遠くから響くのが耳に入る。耳を何度も震わせて、ガルジアは扉を見遣る。刹那の間、待ち伏せをするべきだろうかと悩んだ。覗き窓から
見えぬ位置に陣取れば、扉が開け放たれる可能性も無くはない。ただ、そうしようとは思った物の。やはりガルジアは様子を見る事に決めた。今はまだ、行動を起こすには早計に感じる。ここがどこなのか、部屋の外に出たとして、どこへ向かえば良いのかも
わからぬのだから。それに、自分を閉じ込めたこの部屋の状態も気になる。もしガルジアの、白虎としての価値に目が眩んで捕らえたというのならば。この様な扱いはされぬだろう。少なくとも決して逃げはしない様に、手錠や足枷の一つや二つは付けられて
いても、不思議ではない。
 なんとなく、それが。ガルジアの行動を遅らせた。それから、気を失う間際にも。何故だか、気遣う様な事を言われた記憶が、甦ったのだった。
「起きていたのか」
 声が掛けられる。扉の外。はっとなって、そちらを見れば。覗き窓の向こうに、黒い影が見えた。薄暗い廊下に、黒い影は同化している様で。それでも、扉が開けば、闇の中からその姿が飛び出してきたかの様に、部屋の中へと入ってくる。その身につけて
いる物も、黒に覆われた、黒豹の男。ただ、黒い被毛に刻まれた古傷と、炯々とした金色の瞳だけが、黒地の海の中に浮かんではその存在を主張していた。
 ルカン。暴漢の誰かが、そう言っていた。指示を出していたところから察するに、少なくともあの男達を纏め上げていた存在は、間違いなく目の前のこの男なのだろうとガルジアは思う。
「あなたは……」
 どう出るべきか。ガルジアは躊躇った。今も、ルカンはさしてガルジアを警戒した様な仕草を見せている訳ではなかった。それどころか、ルカンが鍵を開けて入ってきた扉も、少し開いたままである。確かに自分の見た目からすれば、到底警戒をするに足る
様には見えないのかも知れないが。いくらなんでも無警戒過ぎる気もしてしまって。
「ルカンだ。黒牙の連中を纏めている」
「……リュウメイさんは、どうなされたのですか」
「知らん。それどころじゃなかったからな。あの場に、置いてきた。まあ。死んだなら報告が来てるはずだが、あいつはあの程度で死ぬ様な奴でもなさそうだな」
 そう言われて、ガルジアは俯く。リュウメイの安否も、今はよくわからない。それでも、生きている可能性の方が高いと言われた事で、少しは安心もできた。ここでは、何も知る事ができはしないのだから。
 しばらくの後に、意を決したかの様にガルジアはまたルカンを見つめる。今は、自分にできる事をしようと。そう決めた。
「あなたが、あの悪漢達の頭目なのですね」
「まあ、そういう事にはなるんだろうな。もっとも俺は、その片割れなんだが」
「片割れ……。そういえば、あの鳥の方も、その様に言っていました。一対の牙の、片割れだと」
「お喋りな奴だな。まあ、あんたなら。別に知られてもいいんだけどよ」
「あの、失礼ですが……どこかで、お会いしました?」
 なんというか、随分と砕けた様子で自分に接してくるのを見て、ガルジアは思わず問いかけてしまう。砕けた様子、というだけではない。親しみというか、気遣いの様な物を感じるのだった。この部屋にしろ。それから、ガルジアに対する口の利き方にしろ、
それは滲み出ていた。だからこそ、ガルジアも今一食って掛かる様な事もできずにいる。リュウメイと対峙していた時でさえ、ガルジアの事を必要以上に痛めつけたりするのは躊躇っている様に見えたのだ。
「そうか。憶えちゃ……いないよな」
 不意に。とても、寂しそうに。ルカンが笑った。顔見知りではないと、口にしてしまったガルジアの方が、思わず罪悪感を抱いてしまう程に。
 呆気に取られているガルジアを尻目に、ルカンがその場で跪く。覚束ない足取りなのは、そんな行為に慣れてはいない事を、充分に匂わせていた。当たり前だ。ルカンは、ただの荒くれた男達を纏める、卑しい匪賊の一人でしかないのだから。
 それでも、ルカンは跪く。偉丈夫の黒豹が、身を縮ませて。それから、一心にガルジアを見上げる。
「あんたは、憶えていないのかも知れねぇけど。ディヴァリアで、俺はあんたに助けられたんだ」
「私が、助けた」
 そこまで呟いて、ガルジアは思い出す。目の前の、黒豹の男の事を。名前は、知らなかった。名乗り合った訳でも、なんでもない。ただ、あの時。ディヴァリアで、リュウメイが夜の街に繰り出して、切り倒していた賊の中に。確かにこの男は居たのだ。骸の
中で、死ぬ事を免れて、助けを求めていた男を。確かにガルジアは、歌術を用いて永らえさせた。もっとも、そのあとは街の者達に身柄を引き渡したので、どうなったのかなどわかりもせずに、ガルジアもまたディヴァリアを後にしたのだが。
「ディヴァリアの。あの一件の時の方だったのですね」
「そうだ。この街で、あんたに出会えるだなんて。俺は思ってなかった。……あの、蜥蜴野郎にもな」
「……あなたの仲間が、リュウメイさんに報復をしようとする理由がわかりました」
 今思えば、鳥人の男も、確かにディヴァリアの件は口にしていた。あの一件が全て繋がっているとは思っていなかったので、ガルジアはそこに至るまでに少しの時を要したが。では、弔い合戦というのも。結局はあの時リュウメイが手に掛けた者達の事を
言っていたのだろう。
「その、牙の片割れという方も」
 ルカンが、露骨に顔を顰める。そうすると、その黒い被毛を引き裂いて見える傷が。より生々しくあの時の事を語るかの様だった。
「黒牙は、俺だけが率いていた訳じゃない。元々は、俺と。それから、ルア。俺と同じ様に、黒い被毛を持っていたんだ。けれど、あいつは犬だった。そのルアが、率いていた物だったんだ。俺達は、二人揃っての頭領だった。でも、あの時ルアは、俺を庇って」
「そうだったのですか……」
 胸が痛む。罪悪感を覚える様な、内容ではない。そもそもが、その様に狩られる程に、落ちぶれた生き方をしていたのだから。それをたまたま、リュウメイが金を目当てに狩っただけ。そうして、たまたま自分がそこに居ただけだった。
 それなのに、悲痛な表情で淡々と当時の事を振り返るルカンの痛々しさは、見るに堪えない。そして、その表情もやがては憤怒に染まってゆく。
「ずっと、捜していたんだ。あの男を。リュウメイを。ルアの仇を、取るんだって。……だが、失敗しちまった。ざまぁねえな。それどころか、また仲間も失って。しかも、手加減されたときたもんだ」
 リュウメイが、手加減をしていた事を、ルカンは知っている様だった。もっとも、ディヴァリアではガルジアの制止の声が間に合う事もなかったために、切り伏せられた賊のかなりの部分はそのまま冷たくなってしまったのだから。それと比べれば、今回の襲撃で
失われた命の数はそれほどの物ではなかったのだろう。
 ルカンが、またガルジアを見つめる。その瞳には、光が宿っていた。狂おしい程の憎悪も、一時は鳴りを潜めて。今はただ、ガルジアに親しみを抱くかの様な光を湛えている。
「あんたは、あの時俺を助けてくれた。どうしてなんだ。あいつの、仲間なんだろう。本当なら。……本当なら、俺はあんたも、生かしちゃおけなかった。あんな奴の仲間だっていうのなら。でも、あの時は俺が助けられて。今度も……あのリュウメイが、態々手加減を
する理由なんてどこにも無かった」
「私は、誰かが死ぬのが、ただ嫌なだけです。そう、身勝手な考えをしているだけです。リュウメイさんは、それでも私の我儘に、時々は付き合ってくれるのです」
 悲しく笑って、ガルジアはそう返す。本当に、それはただガルジアの我儘な考えであって。そしてリュウメイは、律儀にも自分のそんな身勝手さをたまには聞き入れてくれるのだった。それまでのリュウメイからしたら、それはとても煩わしくて。それ故に、何度か、
真底からの瞋恚をぶつけられた事もあった。それでもリュウメイは、ガルジアが付いてゆくと決めたのならば、それを拒む事はないし、悪態を吐いても、付いてくるなとは言わなかった。
「身勝手、か……」
 ルカンは、何かに感じ入るかの様に。ガルジアの言葉を繰り返しては、僅かに視線を逸らす。けれど、それは長くは続かなかった。
「名前を、聞いても良いだろうか。俺にとっては、恩人な事には変わりない。いつまでも、あんた、なんて言い続けたくはないんだ、俺は」
「ガルジアと、申します。ガルジア・イベルスリード」
 イベルスリードを。育ての親であるウルの姓を名乗って良い物か。束の間、ガルジアは悩んだが。それでも目の前の、ルカンのできるだけの摯実な応対を見て、妙な誤魔化しをするのは諦めた。場合によっては、その姓から迷惑が掛かるかも知れないとは
思うのだが。当のウルは、既に亡くなっているし、その姓を名乗る事が許された者も、バインのラライト修道院襲撃の一件で、大半は命を落としたという。結局は、ガルジアがその姓を譲り受ける事となったのだった。
「ガルジア……そうか。ガルジアと、言うんだな。俺は、ルカン。黒牙を束ねる、ルカンだ」
 ルカンは、ガルジアの姓にはそれ程の頓着をする事はなかった様だった。
「黒牙とは、なんなのですか?」
 互いに挨拶を済ませて、落ち着くと。ガルジアはベッドに、ルカンは備え付けの椅子に腰かけて、ようやく人心地ついてから、改めて話を始める。ガルジアが気にしたのは、黒牙という存在だった。ルカンは。そして亡きルアは。その首領であるという。
「有体に言えば、義賊みたいなものだ」
「義賊……?」
 そんな風には、到底見えなかったなと。ガルジアは思わず言葉を濁すが。その頃になると、ルカンは流石にこの街の。ディヴァリアに住む、生粋のヌペツの表情を見せて、狡そうな笑みを浮かべた。黒い豹の男が、そうして笑うと。黒い被毛の海の中に、
細められた瞳と。剥き出しの牙が浮かんで。それは野性的な荒々しさを垣間見るかの様だった。
「勿論、そんなに綺麗なもんじゃない。それでも、この街ではそういう態でやっているって事さ。この街は、ヌベツィアは。他所には居られなくなった奴。他所から捨てられた物が集まる場所だからな。あんた……おっと。ガルジア。お前は、この街を見て
回ったんだろう? だったら、よくわかるだろ。この街での義侠と言われたら、その意味がさ」
「……外への。グレンヴォールへの、敵意ですか」
「そうだ。ただ、グレンの奴らがむかつくからって。一人二人でそいつらにかかっていったって、無駄な話だからよ。あいつらはそれこそ、不要と言って切り捨てた俺達が、報復にくる事を一番に恐れているのだから。だから俺達は、徒党を組むのさ。そうして、
時々は俺達の事を見くびる馬鹿な奴らに、思い知らせてやるんだ。お前達が切り捨てた奴らは、ただの物なんかじゃねぇって。本気になれば、お前達なんざ一捻りだってよ」
「その様な事は……」
「……ガルジア。お前は、そう言うと思ったよ。あんな、リュウメイみたいな奴と一緒に居る癖に。お前は、他人に優しくもできるんだな」
「別に、リュウメイさんはそんなに悪い人ではありませんよ。それは、まあ……酷いところもありますけれど」
「そんな事は、どうでもいい。あいつは、ルアを殺したんだから。俺は、その怨みを。決して忘れる事はないだろうさ」
 話は平行線を辿るかの様だった。一応、ルカンがガルジアに一目置いてくれているからこそ、決してルカンは荒々しい言葉を使ったり、ガルジアを恫喝こそしなかったが。それでも、ガルジアが言葉を尽くしても。ルカンの意志は変わらぬかの様だった。
「私を、どうなさるおつもりですか」
「……実は、あんまり考えちゃいない。ただ、リュウメイを見つけて。そこに、お前が居て。確かに俺は、リュウメイの奴は生かしておく訳にはいかなかった。あいつがこの街に入ったんだから、尚更だ。黒牙の者は、ルアの仇と見定めて。もしあいつが目の前に
居るのに、何もしないだなんて俺が言ったら。怒り狂っちまうだろうからな。それは、俺だって変わらない。でも、俺はお前の事を、少なくともリュウメイと一緒に始末しちまいたいだなんて、思っちゃいなかった。だから、人質にすると言ったんだ。ディヴァリアで、
お前に助けられた奴らは、お前に感謝はしているだろうけれど。それが全員という訳じゃない。お前だけを、助けるには、ああするしかなかったんだ」
「私は」
 一度、ガルジアは目を瞑った。これも、リュウメイの歩んだ道の、結果なのだろうか。しかしそれは同時に、ガルジアが歩んだ結果でもあったのだった。少なくとも、ディヴァリアでの賊をリュウメイが嬉々として切り伏せていた時。自分はそれを止めて。そして
リュウメイは、その時も。いくらかの手加減を見せてくれたのだった。ほとんどは、手遅れであったのは確かではあるけれども。それでも、目の前のルカンが助かったのは、事実だった。
 そうして、生き延びさせてしまった相手が、やがては復讐を誓って災いとなる。
「……私は、自分だけが助かるつもりはありません。リュウメイさんの選択の全てに、頷く訳ではありませんが。けれど、そんなリュウメイさんと一緒に居続けると決めたのも、また私ですから。だから、ルカンさん。ごめんなさい。私を、帰してはいただけませんか」
「それはできねぇ。リュウメイは、まだ生きている。生きてあいつの下に帰られると、困る。けれど、あんた一人で解放したって。その後、どうにかなる訳じゃないんだろう? こんな街に、あんたみたいな白虎が、堂々と歩ける場所なんて、あるはずもない。だから
こそ、あのリュウメイの隣は、確かに安全だったのかも知れねぇがな」
 ルカンは、白虎の価値をよくよくわかっている様だった。だからこそ、こんな事を言う。それがまた、同時に、この男が真底では純粋な部分を持っているのだという事も教えてくれる。掃き溜めの街だと、人は言う。ガルジアの、白虎の価値を知っているのならば、
いくらでもガルジアを騙して、金に換える事はできるはずだった。
「心配しなくていい。少なくとも、ここなら。あんたをどうこうする様な事はない。勿論、外に出ようとしなければ、だが。お前は、やっぱり目立つよ、ガルジア。外に出したら、それこそあのリュウメイが、真っ先に目印として、お前を見つけるだろうさ」
「それは、そうかも知れませんが」
 街中を歩いても、当然ながら白虎などという物は見ない。商品として扱われている者以外は。それは他の街とて、然程変わらぬ。それ程までに、珍しい事は、わかっていたが。確かに今は、ルカンの言う通り。下手に動く事はできぬ様だった。できるのならば、
帰りたいが。しかしルカンの言葉通り、リュウメイをここに招くという事は、また新たな命が散ってゆく事でもあるのだろう。ガルジアは、どうにか穏便に事を済ませたかったのだった。それはとても今更な話で、到底実現不可能な、困難な道に思われたが。
 かつん、かつんと。また音がする。はっとして、ガルジアとルカンは、扉へと目を向けた。
「誰だ? しばらく来なくていいと、言っておいたんだが」
 ルカンのその言葉に、ガルジアは少し首を傾げる。ルカンの言いつけを守れぬ様な、余程の事態が起きてしまったのだろうか。けれども、それは違うとすぐに判断する事ができる。足音は、ゆっくりと。そして一人分の物が響いていたのだから。もし、緊急の事態だと
言うのならば、その足音はもっと大勢を報せる物であって良かっただろうし、よしんば一人であったとしても、その様に暢気な足音を響かせてはいなかっただろう。
 足音が、近づいてくる。足音の主は、やがては足音だけではなく。ガルジアとルカンの瞳に映る存在として、その場へと現れる。
 しかし、それを見てガルジアは、思わず自分の目を疑いそうになる。それ程の相手、という訳ではなかった。例えば今ここに、ライシンなどがやってきていたら、それは大層仰天したに違いないが。そこに居ても、不思議ではない人物。しかし、何故居るのかと、
問い質したくもなる人物だった。
「ふうん。随分仲良くやってるんだね、ルカン」
 長く、白い髪が、揺れていた。この場には、そぐわぬ様で。しかし確かにその人物は、このヌベツィアに馴染みきった、生粋のヌペツでもあった。場所さえ違えば、それはさながら、誰からも愛されるかの様な、蠱惑的な雰囲気を漂わせていただろう。
「……フェルノーさん」
「おはよう、ガルジアさん。よく眠れたかな?」
「どうして、あなたがここに」
「ふうん。へえ。意外と頭の回りは、悪いのかな?」
「フェルノー。お前、なんでここに居るんだ」
「……はぁ。二人揃って、そんな事言うの。呆れちゃうね。結果がどうなったのか、僕が確認をしにここを訪れるのは、そんなにおかしいの?」
「フェルノーさん。あなたは……リュウメイさんの事を」
「勘違いしないでほしいな。別に僕は、リュウメイを売った訳じゃない」
 軽く右手を挙げて。細い指先を、マズルの先にある顎に軽く触れさせると、フェルノーは僅かに口を開けて、嫌らしく微笑む。相も変わらず、その仕草のどれをとっても、男がそうしているというよりは。稀代の悪女がそこに居る様にしかガルジアには見えなかった。
「僕が売ったのは、あなただよ、ガルジアさん。だから、そう。僕は別に、リュウメイを売った訳じゃないの。わかるかな?」
「あなたが、私達の事をルカンさんに教えたのですね」
「別に、ちょっと早く事が始まるだけなのだから、構わないじゃない? ルカンは本当に、リュウメイが憎くて仕方なかったそうだし。あなたと、リュウメイ。こんなに目立つ二人が、この街を歩いていたら。別に情報屋の僕が何かしなくたって、黒牙の連中はあなた達に
目を付けたと思うよ。どうも、ルアのお兄さんを、リュウメイはやってしまったみたいだし。ちょっと、残念だな。ルアのお兄さんは、そこのルカンとは違って。僕の事、可愛がってくれたのに。リュウメイも。どうせなら、ルアじゃなくて、ルカンの方を始末してくれれば
良かったのにね」
 冷たく言い放って、フェルノーはルカンへと視線を向ける。当のルカンは、不機嫌そうにはしていたけれども。それ以上の感情を、フェルノーに見せる事はなかった。それよりも、ガルジアは、フェルノーが情報をルカンに流したという事が、信じられなかった。あれ程
までに、リュウメイを好いている様に見えたはずなのに。それが、一歩間違えれば、リュウメイが死んでしまうかも知れないというのに。確かにフェルノーの言う通り、フェルノーが情報を流さずとも、この結果にはなったのかも知れない。しかし、それだからと言って、
自分の想い人を売る様な真似をしてしまうというのが、ガルジアには理解できなかった。
「そんなに、僕のした事っておかしいのかな? 自分の好きな人が。本当に、欲しくて。欲しくて、堪らない人と、久しぶりに会えたのに。その人の隣に、綺麗な人が居て。仲睦まじそうにしていたら。それは、祝福をできる人は、素敵だと思うよ? でも、僕は。少なく
とも、そんなにお人よしにはなれそうにない。だから、邪魔な方を消してもらいたかった。そのために、ルカンを使った。ただそれだけなのに。ルカンがリュウメイを憎んでいるのは、知っていたしね。ルアのお兄ちゃんが殺されたんだから、当然だけど」
「本当に、好きだとあなたが言うのであれば。あの様な手は、決して使われるべきではなかったと思います」
 少しだけ、意固地な部分を見せて、ガルジアは僅かに目を細めて言う。珍しく、自分の中に怒りにも似た感情が灯されている事に、ガルジア自身も驚いていた。誰かを好きだという気持ちは、立派な物だと思う。ただ、フェルノーのその手段は。到底ガルジアには
受け入れられる物ではなかった。自分が邪魔だと言う、フェルノーの思いは理解できる。しかし、それだからと言って。平然とリュウメイを襲撃させるなどとは。
 ガルジアの視線を受けて、フェルノーも負けじと、顎を軽く振る様にする。そうすると、くすんだ白い被毛と一体化している髪が、ふわりと舞う。それと同時に、甘い香りが広がる。こんな時でさえ、フェルノーは悲しい程に妖しさを滲ませていた。
「別に、あなたからどう思われるかなんて、僕には関係無いね。……でも、あなたがそうやって怒る気持ちも、わかるよ」
 フェルノーは不意に視線を外して。それから部屋の入口からつかつかと歩み寄って、ガルジアとルカンの下へとやってくる。そして、細長く。やはり女の様にしか見えぬ細腕を伸ばす。机の上にあった水の入った容器を手に取ると。その中身を、ほとんど無造作に
ルカンの方へと放った。ガルジアは思わず口を開けるが、その水はそのままルカンの頭を濡らす。黒い豹の被毛の上を、水が滴り落ちてゆく。
「確かに僕は、情報は売ったよ。でもそれは、ガルジアさんが邪魔だから。ガルジアさんにだけ、消えてほしいから。リュウメイに死んでほしいなんて、思う訳がない。リュウメイを傷つけたのは、許さないよ」
「随分、勝手な事言うじゃねぇか。お前の情報を受けて、こっちは仲間を動かしたってのに。俺達がリュウメイに手を出さねぇはずがねぇだろうに」
 ルカンが、もっともな事を言う。フェルノーは、相変わらず厳めしい顔をしたままで。あくまでフェルノーは、ガルジアとリュウメイを引き離す手段としてだけ、ルカンと、その仲間である黒牙の者達を扇動したに過ぎない様だった。協力者の様に見えたルカンと
フェルノーは、実のところそれ程の仲という訳ではない事を、ガルジアは察する。
「黒牙の奴らが頑張ったところで、リュウメイを殺す事なんてできるはずがないと思っていたからね。実際、できなかったのだろうけれど」
「フェルノー。口が過ぎると、お前でもただじゃおかねぇぞ。こっちには死人も出てるんだ」
「どうぞご自由に。ルカンの所に行くと言って店を出たから、僕が帰らなかったらどうなるか、言わなくてもわかるよね? それに、いくら義賊なんて名乗っていたところで、手負いの獣は、手負いの獣。徒党を組んでいるのはあんた達だけじゃない。騒ぎになれば、
他の奴らも舌なめずりをしてやってくるだろうさ」
 ルカンが、舌打ちをする。それから、滴る水を掌で払う。思わずガルジアは、ベッドにあった短い掛布団を差し出すと、ルカンが礼を言ってそれを受け取る。
「そうやって、リュウメイの事も籠絡したの?」
 それを見て、フェルノーが早速とばかりに棘のある言葉を吐き出す。フェルノーの店で、リュウメイに寄りそう様にしていた時の姿とは、別人の様だった。それでも、その容姿だけは文句のつけようもなかったのだが。
「当たり前の事をしているだけですよ」
 それに対して、ガルジアはなるたけ穏やかな言葉で。しかしフェルノーに決して後れを取らぬ様な言葉を吐き出す。フェルノーは、特に表情を動かす事もなく、ガルジアの事を見つめ続けていた。
「ガルジアさんの無事も確認したし。もういいか。帰るよ」
 その内に、フェルノーはそう言って踵を返そうとする。その時になって、ガルジアはフェルノーを引き留めて。リュウメイは無事なのかと、問いかける。
「まあ、無事だったよ。勿論、傷はあるけれど、致命傷って訳じゃない。また傷は増えてしまったけれどね。もし大事があったら、僕はここまで冷静にしてないし、そこのルカンにも、例え勝てなくても飛びかかってただろうしね」
「そのお気持ちがあるのならば、こんな真似は、しなくても良いと思うのですが」
「自分がリュウメイの傍に居られるからって、いい気になってそんな知った様な事言わないで。僕がどれだけ努力しても、リュウメイは僕を連れてくれる事はなかったのに」
 一睨みをした後に、フェルノーは姿を消す。本来ならば、ガルジアを消してほしいが故にルカンに頼みをしたのだから。当のガルジアがこの様に無事で居る様を見て、そうしてそれを野放しにするというのは不本意には違いないのかも知れないが、フェルノーの
意図を察しているルカンが殺気を放っていたので、深追いは避けた様だった。フェルノーの足音が遠ざかると、ガルジアは溜め息を吐く。
「別に、そんな風に思われる必要はないと思うのですが……。少なくともリュウメイさんは、一緒に居る事を拒んだりする様な方ではありませんでしたが」
「フェルノーには、色々あるからな」
 独り言として呟いた言葉に、ルカンの言葉が重なって。はっとなって、ガルジアはまたルカンへと目を向ける。先程渡した掛布団を頭から被りながら、ルカンは呆れた様にフェルノーの消えた先を見つめていた。白い掛布団から、黒いルカンの顔が飛び出して
いるのは、なんとなく滑稽な様子にも見える。
「色々、ですか」
「ああ。あいつは、あんな見た目だからな。この街では随分生きにくい事も。それと同じくらい、生きやすい事もあったんだろうがな。前に、ルアの奴から聞いた事がある。フェルノーを昔助けたのが、あのリュウメイだってな。ルアの奴は、フェルノーにお熱だった
からなぁ。俺は、あそこまで行っちまうとどうも様子が良くねぇと思っちまう方だが。思った通り、性格はよろしくねぇ。まあ、この街の中で、性格が良い相手がほしい、なんていうのは寝言にしかならねぇがな?」
 そこまで言って、ルカンが不意に笑い声を上げる。ガルジアも、少し強張った笑みを浮かべた。
「ああ、でも。ガルジア。お前は、この街にはふさわしくねぇくらいの気性だったな」
「そんなに、買い被られる程の物ではないとは思うのですが。……リュウメイさんには、よく言われましたけれど。お前の考え方には反吐が出るって」
「はは。わからなくもねぇな。もっとも、俺はそれに助けられて、永らえては今ここに居るんだからよ。お前の事、悪くは言えねぇんだが」
「ありがとうございます」
 少しだけ、ルカンと打ち解ける事ができたなとガルジアは思う。荒くれ共を従えるというから、もっと粗暴で。凡そ言葉の通じぬ相手ではないだろうかと心配もしていたが、そういう訳ではない様だ。少し考えれば、それは確かに納得できる事でもある。例え
どの様な場所であれ、身分であれ。他者を従える者というのは、何かしらの一点において、従えられる者達よりも優れているものである。それは目立つ部分である事もあれば、日頃は決して見せられる事がない場合もあるが。少なくともルカンのそれは、この様な
汚れた街の中であっても決して失われない、磊落さや、仲間思いの、真の煌めきである様だった。
「ところで、ガルジア。こうして、攫ってきた相手に対して、言うのはなんなんだが……。お前の力を、貸しちゃくれねぇか」
 場の空気が少しは和んだのを見計らったかの様に、黒豹は神妙な顔をしてから、ガルジアにそれを切り出す。
「リュウメイを襲った時に、傷ついた仲間が居るんだ」
 どういう事かと問い質せば、ルカンの要求は単純な物だった。先のリュウメイを襲撃した際に、傷ついた仲間を大勢出してしまった。その手当を、ガルジアに頼みたいと言うのだった。確かに、リュウメイの相手をしていたのだから、怪我人の数は十では効かぬ
だろうし、もう少し詳しい話を聞けば、今ここは黒牙のアジトだと言うが。別室に、その怪我人は収容されて、今も痛みに苦しみ、呻いているのだという。
「この街には、こういう時に頼れる奴は少ないんだ。さっき、フェルノーの奴も言ってたと思うが。俺達みたいなのは、例え同じ町の連中であっても、時にはぶつかり合う。助けを求める事は、中々難しい事なんだ。できたとしても、相手の下風に立つという事に
なりかねない。ガルジア。お前は、聖法か何か、使えるんだろう? うろ覚えだが、助けてくれた時の事を、俺はまだ忘れちゃいない。死にかけていたから、あれが何かはわからなかったけどよ……。確かに、あれはお前の力だったんだろう?」
「それは、そうですが。……他に、聖法を使える方は居られないのですか?」
「少なくとも、内には今は居ない。ルアの奴は、多少はいける口だったが。そもそもが、読み書きすらまともにできない様な奴らばかりさ。俺は、読み書きの方は少しはできる様にしたけどな。それでも、魔法の才は無かった」
 適切な治療を受けるにも、相応の対価は必要であるし、それはまた結局のところ、外部へ必要以上に情報を出す事となってしまう。それは、避けたいのだろう。魔導に関しては、そもそも読み書きもできぬ相手であるのだから、確かに期待しようも無かった。平民の
中でさえあっても、それができぬ者はまだ多いのだから。この様な吹き溜まりの町では、尚更だ。金勘定だけはできるけどな、と。ルカンが僅かに白い牙を見せて、皮肉そうに笑う。
「わかりました。とりあえず、案内していただけますか。怪我人の様子を見たいので」
「ああ、こっちだ」
 ルカンに連れられて、部屋を出る。歌聖剣は、そのままにしておいた。流石に今はまだ、剣を佩いて出歩く程の信頼を得たとは言えない。それに、歌術を行使するにも。平時のガルジアには歌聖剣は必要のない物であった。それが必要なのは、身体の内に
精霊を宿した場合である。普段から扱える様にならねばと、旅の途中に思い出した様に振り回してはいるが、相変わらず下手な口笛の様に時折音がなるだけであるし、リュウメイにも散々馬鹿にされていた。
 部屋を出ると、薄暗い廊下が広がっていた。それは長い回廊の様でもあって、ガルジアは僅かに歩みを止めて、それへと目を留めてしまう。薄暗い回廊は、どこまでも。どこまでも、続いてゆくかの様だった。この牢屋の様な部屋の中では、よくはわからなかったが、
雑多に、小さな建物が並んでいた外の様子とは、似ても似つかぬ様で。どうやら、ある程度は地下に。それこそ、サーモストのそれの様に造られた空間の様にも見える。それでも部屋には、明かり取りの窓があったので。それ程地中深くという訳ではない様だが。
 ところどころに、壁から弱い光が。光石の灯りがあったが。しかしそれは、非常に頼りなく、儚げな物に見えた。廃墟にでも紛れ込んだのかと、思わず疑ってしまう程である。それでも、少し離れた位置には見張りと思しき人物も居る。ルカンはガルジアに対して
よくよく気を遣っていたのか、部屋の前に見張りを置く様な真似はしなかったらしい。話を聞かれたくなかった、という事もあるのかも知れないが。
 ガルジアがきょろきょろと辺りを観察していると、振り返ったルカンは辛抱強く待ってくれている。最後にまた、ガルジアはルカンを見つめた。
「こんな場所が、あったんですね。……ここが、どの辺りか。お聞きしても大丈夫でしょうか?」
「まあ。それぐらいなら構わねぇな。この街に詳しくなるのには、それこそ一年じゃ足りねぇくらいだ。ヌベツィアは、見た目よりは街並みはかなり広くなってるんだ」
「外から見た感じでは、確かに狭い様にも見えましたが」
「獣道の、向こう側にあるからな。思ったより、ずっと広いだろ? ここは、ヌベツィアの中央。大体は闇市として使われる場所なんだが、その近くの、地下の部分だ」
「よく、こんなに広々とした場所を使えますね」
「それが、黒牙の強みさ。元々ここは、闇市で非常時の際に使うための通路だったんだ。扱う物が、物だからな。このヌベツィアができた頃は、そこまでの力が無かった。取引をするにしろ、その場所を押さえられたり。もしくは、俺達みたいな団結をしている奴らの
争いも、もっと酷かったんだ。ここは、その時の名残みたいなもんだ。今では使われなくなった一部を、黒牙が使ってる。もっとも、出口なんぞはいくつかは塞いであるけどな。あちこちに、通じている道だから。言い換えれば、古株の奴らは、俺達がどう動けるか、
なんていうのもある程度把握しているもんだ。ある程度の人数を集めるには、何かしら寄って立つ場所が必要だから。昔の黒牙の頭領が決めたって話だが」
「では、リュウメイさんも、もしかしたらこの場を知っているのかも知れないのですね」
「あいつも、ヌベツィアにはある程度の縁があるみてぇだからな。ただ、流石にここに乗り込んできたら。俺達の方が有利になるさ。いくら場所を知ってるっていっても、その中はもう、俺達の都合の良い様に、かなり作り替えちまった。例え以前は足を踏み入れた事が
ある奴でも、黒牙の奴じゃければまったく同じ様に歩ける訳じゃねぇ」
「あの、フェルノーさんは。黒牙に属しているのでしょうか?」
「いや。あれは、違うな。ただ、情報屋だから、最低限の道は知っている訳だ。それから、まああんな見た目だからな。男ばかりのこの街では、フェルノーに骨抜きにされている奴も多い。具合が悪い事に、うちにも何人か居るんだよなぁ。まあ、それでも流石に
全てをフェルノーに教える様な奴は居ねぇと思うが。ここを根城にする以上は、隠れ家はまた別に必要な時もあるからな。そっちの説明は、いくらなんでもできねぇよ」
「充分です。ありがとうございます」
「さあ、行こう。あまり、時間がねぇんだ」
 話はこのくらいで良いだろうと、ルカンが闇の回廊を歩き出す。それに連れられて、ガルジアはその後ろを。今更だが、特に、手枷を嵌められる様な事もなく。ガルジアは少し鼻白む様な気持ちになる。
「……随分、信用しているのですね。私の事を。こんな風に、歩かせていただけるなんて」
「元から、お前が起きたら。頼み込もうと思ってたんだ。一応、最低限の治療はしているが。それでも間に合いそうにない。明日、明後日までこのままだと、危ない奴も居るんだ。お前を脅して、従わせる事はできなくもないだろう。でも、俺は。それは、したくはない。恩を
受けたままの相手に、そんな扱いをしたら。死んだルアの奴にも、笑われちまうだろう」
「少し、意外でした。例え義賊だと称しても。他の方から見れば、匪賊には変わりないと。そう、思っていました。そんな風に、言っていただけるなんて」
「……やっぱ、甘いなお前は。そういう風に、見せている。そういう事だって、あると思うぜ」
「そういう事まで、教えてくださるのですから。尚更、私は今、必要以上に騒ぎ立てたりはしたくないと思うのです」
 それ以上、ルカンは言葉を吐き出す事はなかった。ただ、背を向けて歩き続ける黒豹から。微かな笑い声が聞こえただけである。
 薄暗い道を、歩いてゆく。確かに、ルカンの言う通り。例えこの黒牙のアジトの場所を知っていたとしても、そこに黒牙に属さぬ輩が足を踏み入れて、無事で済ますのは困難を極めただろう。道は暗く。また複雑に分岐を繰り返しては、蟻の巣の如く広がっている
様に思えた。ガルジアは、ただ前を歩くルカンの姿を。暗闇に浮かぶ黒豹は、ともすれば闇と同化してしまいそうで。ルカンはそれを気遣ってか、掌に光石をあしらった腕輪を付けて歩いていた。その光石の光は、壁に使われている様な安物とは違い、
時折別の色合いへと変化する物であって。それは、暗闇を行くガルジアを導く光でもあったし、また同時に、暗闇に潜む黒牙の見張りの者達には、ルカンが歩く証として認められている様だった。時折、何も無いと思っていた闇の向こう側から、僅かな身動ぎの
音や、ルカンへ挨拶を飛ばす声が聞こえて、その度にガルジアは仰天を繰り返しそうになる。それから、ガルジアを見て。ルカンに氏素性を訪ねる様な者も居る。リュウメイを襲った時に動員された者達が、黒牙の全てではないようで。思いの外、この義賊という、
実際のところはどの様な素行であるのかもわからぬ集団が、それなりの人数でもって、ある程度の社会性を築きあげながら、この頽廃と悪徳に満ちた街の中で蠢いている事が察せられる。
「こっちだ。もう、近い」
 黙って歩き続けていたルカンが、不意に声を上げる。その頃になると、ガルジアも余計な事を口には出さずに歩いていたので、不意に聞こえた声に、また驚きそうになる。しかしその驚きも、長くは続かない。ルカンの声よりも、ほんの少し先から。臭いが
するのだった。そしてまた、同時に、微かな呻き声が。言われずともわかる。怪我人は、この先に収容されているのだろうと。
 暗闇を、抜ける。少しだけ明るい場所へ。足元は、相変わらず暗くて、白虎であるガルジアの瞳でもよくは見えなかったが。血の臭いが強くなっているところを見るに、どこかしらが赤く染まっていても不思議ではない様だった。そうして、部屋の中へと、ルカンに
手招きを受けて、ガルジアは足を踏み入れた。扉が開け放たれた瞬間に、声と臭いは強くなり。ガルジアがいざその中へと身を移せば、それはより一層の強さでもって、ガルジアを打ち据えるかの様に、五感を支配する。
「……酷いですね」
「死んでねぇだけ、まだましだと。言わなけりゃならねぇんだろうがな」
 広がる景色に、ガルジアは息を呑む。部屋は、ガルジアが閉じ込められていた部屋の何倍も広く、充分に人を収容できる状態ではあった。今、その床には、怪我をした者達が、種族も問わずに横たえられて。各々が思い思いに、己を苛む痛苦に対する恨みを
飲んだ呻き声を上げていた。怨嗟の声は、止む事なく。むせ返るかの様な血の臭いは、絶える事がなかった。背後で、ルカンが慌てた様子で扉を閉める音が聞こえた。その微かな振動が、果たして誰の傷に響いたのだろうか。僅かに声を上げる者もいれば、
叫びにも似た声を上げて、虚空へと手を伸ばす者も居た。そんな者達の中において、仲間の惨憺たる様にも、健気にその面倒を見て、できるだけの治療を施す者も居るには居るが。お世辞にも、充分な治療が施されている様には見えなかった。
 すすり泣く声が、聞こえた。明日の我が身を思ってか。友の明日を諦めてか。
「本当に。ここには、満足な治療のできる人が居られないのですね」
「ここは、ヌベツィアだからな」
「ヌベツィアだから、ですか」
「他の街には、居られない様な奴。不要だと、断じられた奴。そんな奴の、集まりだ。ガルジア。どんな奴が、他人から。周りから。不要なのだと、言われると思う」
「……わかりません。無法を働く者。そう、単純に考えて良い訳では、ないのでしょうね」
「そういう奴も、居るだろう。でも、それが全てという訳でもない。不具の奴も居れば。治らねぇ病に侵されて、見捨てられる奴も居る。俺達は、こうなんだ。自分の命しかねぇのに。それを大事にする事もできやしない」
 一つ、溜め息をガルジアは吐く。本来ならば、この様な事態になるまで放っておかずに、助けなければならぬ相手だった。それが、修道士の教えのはずだった。しかしその全てを、救いだす事などできはしない。己の視野には限界があり、そうして両の掌で
救える者は、その眼下に臨める者の中の全てですらなかった。そうして、視野にすら入る事ができなかった者の成れの果てが、ここにはただ広がっている。血と、痛苦と、涙の海の中で、沈んでゆく命が、今ようやくガルジアの瞳に映り、目の前に広がっているだけだ。
「ガルジア。なんとか、できるか」
「……条件が、あります」
「全ての条件が飲める訳じゃねぇ。それでも、できるだけ。なんとかしよう」
「では。私の価値を知っても。私に、手を出さないでいただきたいのです」
「それは、どういう」
 それでも、ルカンが言葉を紡いだのは、そこまでだった。僅かな間を置いて、ルカンは押し黙ったまま、頷く。それから、頼むと。短い言葉を口にした。ガルジアには、それだけで良かった。所詮、今交わせるのは、ただの口約束でしかない。ガルジアにできるのは、
ただ自分の力を示した時に、何もしてくれるなと。そう、願う事でしかないのだから。反故にされたのならば、抗う術もない。しかしまた、目の前のこの惨状を見て。見て見ぬ振りをする事も、できはしなかった。
「皆さん」
 一歩、踏み出して。静かに声を上げる。誰も、なんの反応も見せなかった。誰もが、己の抱えた傷に。そうして無事な者も、仲間への心配を募らせては。その様な余裕を、失っている様に見えた。
「落ち着いて。心を安らかにして、聞いてください。声が、響く事もあるかと思います。それは、申し訳なく思います。けれど、どうか聞いてください。それから。それから……諦めないでください。生きる事を」
 部屋の中央にまで、どうにか辿り着く。そうしてから、ガルジアは静かに、詩を歌いはじめた。怨嗟の声に染まった海に、歌声が流れる。荒波に、掻き消されそうな程に、歌声はか細く。誰の耳にも、届かぬかの様だった。それでも、ガルジアは歌い続けた。黒く
淀む海であっても、夜明けの光が射し染めて、僅かな輝きを見せた時、本来の青さを取り戻す様に。どれだけ黒く、悪しく染まっていても。その心の内を探せば、誰もが本当は、白く、柔らかく、優しい心根を持つ事を信じるかの様に。
 慈悲の詩を、歌いながら。そっと、右手を。掌を、上に向けて、虚空へと差し出す。間もなく訪れるであろう、自分が待つ相手が居座る玉座を。ガルジアはこの手と定めて、歌い続ける。
 虚空が、揺れて。淡い波紋が、どこからともなく広がっては、次にはぱしゃんと、水飛沫の上がる音が聞こえて。誰かが、僅かな声を。呻き声にも掻き消されぬ、仰天の声を上げた。現れたそれは、中々の大きさの異形だった。大魚、そう言っても差支えが
なかったのかも知れない。光り輝く鱗に覆われた身体は、しなやかに伸びて。そうして尾の先が、一段と光り輝いてくる。瞳はつぶらで、自分を呼び出したガルジアを、じっと見つめている。
「あなたは、初めてですね。こんな、海も、湖も無い場所に、来てくれるなんて」
 僅かな間、ガルジアは歌への集中を止めて、しげしげとその異形の精霊を見つめる。召術士と、歌術士のそれぞれが使役する、その異形はこの世界の精霊であり。また、異界の獣を。召喚獣を使役するのが、召喚士だと。いつか、事が落ち着いた僅かな間、
終わり滝でリーマに教えられた事がある。もっともリーマも、細かい部分は己の先祖である、偉大な召喚士のリーマアルダフレイ・セロスからの受け売りだと言っていたが。
 その、精霊の姿が、以前よりも大きさに勝る者が多いと。実のところ、ガルジアはこのところ気に掛けていたのだった。特別に、修練を積んだという訳ではない。そもそもが、リュウメイとの二人旅。詩は必要な時に、最低限行使するだけであり。少なくともラライトで
修道士を務めていた時の様に、行事の際に出席をして歌う事もなかった。下手に歌術を行使すれば、待っているのは余計なしがらみと、悪しき者達の触手であり。そんな物は、既に嫌という程味わったのだから。
 もしかしたら、ヨルゼアの影響なのかも知れないと思う。終わり滝で、その身に、異界の召喚獣を宿したガルジアは、確かに一時、人である事を辞めたかの様な力を手に入れた。それはほとんどが、ヨルゼアの力とはいえ。その時の名残が、いまだに、僅かに
残っているのかも知れなかった。それでも今は、それが有り難い。以前の自分の力では、この数の怪我人には、効果を及ぼす事は難しかったかも知れないのだから。
 詩を、続ける。それで、ガルジアの掌に触れたり、身体を擦り付けていた精霊が、頷くかの様に。僅かな声を上げた。そうすると、その尾の光が、色を変えて。まるで、ルカンの付けている腕輪の様にも見えた。ただ、その腕輪よりも、光は強く。部屋中に、
波の様に広がる。それに包まれると、不思議と快い温かさを覚える。それはガルジアだけではなかったのだろう。辛苦に喘ぐ者達の声も、精霊の光に照らされれば、次第に大人しくなってゆく。それから、部屋が広く、怪我人が多いという事もあって。ガルジアは、
僅かに精霊に触れる掌で、その異形の身体にこちらから改めて触れると。そのまま、ほんの少しだけ放るかの様に力を込めた。ガルジアの意思を読み取った精霊は、空を泳ぐ。暗闇の、頽廃と悪徳に満ちた、汚れた世界を。凡そそれにふさわしからぬ、光り輝く
精霊が、泳いでゆく。優雅に泳ぐそれは、ひれを靡かせて、時折妖しく宙を舞い、灯す光は線を描いては、消えてゆく。不思議な、夢幻的な光景が広がった。いつの間にか、部屋は静かになっていた。誰もが、食い入る様にガルジアと。そしてその手から放たれた
精霊の動きを目で追っていたのだった。そして、いつの間にか身体の痛みを忘れて。忘れるだけではなく、その傷が癒されている事に気づいて。もっと、その光景を見たいと願っているにも関わらず、ようやくに訪れた安堵に身を任せて、眠りにつく者は、
かなり多かったのだった。昨日から、ずっと痛みに呻いては、いねがてに夜を過ごしていたのだから、既に限界を超えていたのだろう。
 一通りの治療が済むまで、ガルジアは歌い続ける。とはいえ、所詮は歌術による作用。聖法のそれの様に、十全に傷を癒すという訳ではない。聖法とて、結局のところ間に合わせでできるのは傷を塞ぐ事であり、失われた血液などを即座に戻すという訳では
ないのだから、それにさえ劣る歌術でできる事は、決して多くはなかった。今の様に、歌う事で広範囲に効果を届ける事ができるのは利点だが、その間ガルジアは無防備になるし、それは精霊とて変わらぬ。戦場などでは、基本的には扱えないだろう。その問題を
解決するために、歌聖剣を振るう事や、詩と歌聖剣の技術の向上による二重、三重の精霊の行使があるのだが。今のガルジアでは、到底その域に届く事はない。自らの身体に精霊を取り込む、孤独の詩を歌えばまた別ではあるが。あれはただ、ガルジア
一人だけが生き延びるための詩であるので、やはり使う訳にはゆかなかった。
「終わりました」
 一頻り、歌い続けてから。ガルジアは何度か深呼吸を繰り返す。そうすると、手元に戻ってきた精霊がガルジアを労わる様に、また身体を擦り付けていて。少し楽になる。もっとも、これを行使しているせいでガルジアは疲れているので、早々に戻って
もらわなくてはならないのだが。礼を述べてから、それをぎゅっと抱き締めると。精霊はそのまま、光の泡となって消えてゆく。
「……すげぇな。初めて、見た。いや、俺を助けてくれた時にも、やってくれてたんだろうけど。あんた、詩が歌えたんだな」
 ルカンに促され、一度部屋の外に出て、少し離れた場所で二人きりになると。ルカンは堪りかねた様に口を開いて、話し出す。
「ご存知でしたか、歌術の事を」
「まあ、碌でもねぇ理由だけどさ……。魔法の様な効果は期待できないし、それを扱えるのは聖職者の中の、ほんの一部であって。物珍しさから道楽な連中には、高く売れるだろうって。そんな話だ」
「そこまで、おわかりならば。私を、この後どうするおつもりなのでしょうか」
「何も。ただ、帰す事はできねぇが。察してくれよ。この話、あいつらの前ではしなかったんだから。受けた恩を忘れねぇ様にと言ってはあるが、それでも全員が、そうじゃねぇ時もあるさ。まあ、安心しろよ。歌術なんて、この辺りで知ってる奴は少ねぇ。俺みたいな、
頭になる様な奴なら。そりゃ、闇市で扱われる可能性のある物の、価値は知ってるもんだが。あいつらは、そうじゃねぇ。ただ食い詰めての、その日暮らし。そういう事もある。歌術なんか、名前も知らねぇさ」
「それに。確かに私が傷を治したのは事実ですけれど。私がリュウメイさんと共に居た事を考えるのなら。良い顔は、されないのでしょうね」
「それは俺がなんとかするさ。お前に、ここに残ってもらうのは。俺の我儘なんだから。それぐらいはな」
「ルカンさん。あなたは、やっぱりリュウメイさんの事を」
「生かしておく訳には、いかねぇんだ」
 平和裏に、解決できないものかとガルジアは思う。しかしルカンが、リュウメイを語る時の表情だけは。決して曲げる事のできない、強い意志が垣間見られる。それから、ルカンは自分が怖い顔をしていた事に気づいたのか。暗闇の中でも、笑っている事が
よくわかる様にと白い牙を見せる。黒牙と言われているのを鑑みれば、それは少しおかしくて。
「黒牙は、笑わない。笑うのは、身内に対してだけさ。ガルジア。仲間を助けてくれて、ありがとう」
 礼を言われて。ガルジアは、釈然としない物を抱えてはいても。今は素直な笑みを浮かべて、それを受け入れたのだった。
 部屋の中からは、今は血の臭いだけが届いていた。

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