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27.魔人の足音

 波の揺れる音が、船室に響いていた。
 遠くでは、水夫達の威勢の良い声が聞こえる。もうじきに、船は西大陸の玄関口であるタミアの港へ入る。
 タミアから更に西へ足を伸ばせば、そこはもうかの有名な法術都市ディヴァリアである。今は丁度、東の港からタミアへ向けてライシンは船に乗っているところだった。
 目の前には、胡坐を掻いて座り込む鬣犬の男が居た。一見で傭兵とわかる様な身形をしたそれを、先程からライシンは見下ろしている。ライシンが手を払うと、いつも腕に巻いている帯魔布が躍る。ただ、今日の帯魔布は、ライシンが本気を出す時の黒色を
していた。腕にきつく締め上げられていた帯魔布は、一気にたるみ、今度はライシンの腕に触れている箇所など一つも無いかの様に、腕の周りを蛇の様にうねる。刻まれた紋様が輝き、小さな夜空に雷が走る。
 座り込んだ男の前後左右に、少し大きめの砕かれた宝石。それが眩く光り、十字を刻む。四つの宝石の間に、等間隔に一つずつ、今度は小さな宝石が置かれている。これもやはり砕かれ、そして十字に配されていた。再び、刻む。二重の十字を刻み、ライシンは
ぶつぶつ囁き、祈りを籠める様に光を手繰る。汗を掻くライシンの身体を優しく包む様に、光の球はいくつもいくつも生まれていた。それらが、胡坐を掻いて、静かに目を瞑っている男の周りへと向かう。
 不意に、光が全て途絶えた。ライシンは大きな息を吐き、腕を払った。主の意思を酌み、帯魔布は失った魔力の分燃え尽きてから、残りはその太く逞しい腕へと貼りつく様になり、以前の状態へと戻った。宝石の方は、既に光を失い。ただのクズ石となっている。
「やはり、駄目かな」
「駄目なんてもんじゃねぇっすよ、旦那」
 鬣犬の男、クロムが笑みを浮かべるのを見て、ライシンは大きな溜め息を吐いた。
「なんなんすか、この呪い。俺っちには、呪いとも思えねえっすよ。こうして態々必要な物を集めて、船旅の暇潰しがてらやってみたってのに、ちっとも反応しやしねぇ。こりゃ、並大抵の奴らじゃ、そもそも呪われてるって断定する事もできねぇっすよ」
「そんなに、酷い物なのかい」
「呪いだと思わなければ、どこにも異常が無いと言った方が早い方っすよ。勿論、旦那から薄らと感じる、怖い魔力だってのは俺っちにもわかるっすけどね。けれど、その大本となると、これだ。二重で調べても、ちっとも反応しやしない。どこへ持っていっても、
匙を投げられる訳だ」
「ふむ。困った物だねぇ」
 ちっとも困ってなさそうな顔をして、クロムは言う。二人は今、終わり滝の死闘を終え、リュウメイとガルジアに別れを告げてから、ディヴァリアへと向かっていた。もう一人、共に終わり滝を去ったリーマは、ある程度まで同道してから、自らの故郷である
召術士の街であるサマザルへ帰るために、これも別れたばかりである。二人になったライシンとクロムは、そのまま港へ入り、そこからタミア港へ向けた船に乗っていた。その船旅の途中、船の上ではできる事も少ないからと、ライシンの提案でこうしてクロムの
身体を少し調べてみる事にしたのだ。
 クロムの持つ、呪われた身体。それは、自らの死を遠ざけてしまうという、人によっては羨望を抱くであろう代物だった。
 傷は放っておいても癒えるし、歳を取る事もないのだという。普通の方法では、死ぬ事もない。首を飛ばしたらどうなるのかは、定かではないが。
 それがどれ程凄まじい身体であるのか、ライシンは実のところ、よくわからない部分もあった。無敵という訳ではない。大怪我をすれば、当然しばらくは動けなくもなるし、意識を失う事もある。死なない、という一点を除けば、戦線を離脱させる事自体は可能なのだ。
 こういう手合いが真に強いのは、時の流れという何人も抗えぬ物を利用した、持久戦だろう。例えば、逃げる事だった。何年経とうが、その健脚も強さも衰えたりはしない。追う方は、そうではないだろう。その気になれば、百年だろうとクロムの身は持つ。大抵の者は、
その間に死を迎えるのだろう。しかしそれは、あくまで身体が持つというだけの話だった。心までは、わからない。或いはクロムも、そういう世界で生きている事に疲れたのかも知れなかった。だから、ガルジア等という、見た目こそ稀有であっても、その性格は
平平凡凡な、はっきりと言えば平和惚けした相手に心を動かすのかも知れない。
 そこまで考えて、ライシンは苦笑した。内心のガルジアに対する毒という物が、どうにもここ最近甚だしいのはわかっていた。それはやはり、あのリュウメイが気に掛けているガルジアという存在を、新たに現れた歴戦の勇士、百戦錬磨の傭兵のこの男もまた気に
掛けているという事実が、どうにも腑に落ちないのだった。勿論、ライシンもガルジアの事は嫌いではなかったし、寧ろ好きであるとはっきり言える。自分の好きな男や、一目置く男に尽く好かれているという点を除けば、だ。大変情けない事だが、自分はそれに今、
大いに嫉妬しているのだった。
「ああ、俺っちもガルジアさんみたいに守られてみたい……いやいや、駄目っすよ。おんぶにだっこじゃ、相方は務まらないっす」
 というのは、とても口には出せないが常々ライシンが思っている事だった。
「しかし、このままだとこの呪い、どうにも解けそうにないっすねぇ」
「ディヴァリアに行けば、或いはなんとかならないものかな? 無論、私も昔足を運んで、一度はどうにもならなかったのだが……。今度はライシン君も居る事だし」
「それは、どうも。というより旦那、よくその話を持ってディヴァリアに入って出てこられたっすね。不死の身体なんてもんが入ってきたら、それこそディヴァリアに監禁されて耳の先から尻尾の先まで調べられて、一生出てこられねぇってなったって、文句も
言えないっすよ。不死なんていうのは、表では研究するのはご法度だなんて状態でも、結局のところ魔道士や、酸いも甘いも経験して老境に入りかけた奴らにとっちゃ喉から手が出る程欲しい能力なんすから」
「まあ、何も無かったとは言わないよ。ちょっと、強行突破したがね」
「やっぱり。それで、またディヴァリアに行こうだなんて言うんだから、旦那も人が悪いっすね本当に」
「まあまあ。それに、今回私がディヴァリアに行くのは、鞘の代わりと、己の魔法に対する鍛錬という名目があるからね」
「気を付けてほしいっすよ。ただでさえ、最近は魔人がどうこうだって、噂にも聞くっすし……。あ、いや。これは失言だったっすね」
「いや、いいよ。というより、私ももう既に充分、魔人と呼ばれる条件を満たしているじゃないか」
「そりゃまあ、そうなんすけどね」
 魔人というのは、言ってしまえば本来の寿命から逸脱した者を指す言葉である。一度死した後に生き返った者などとは別に、なんらかの方法を用いて己の寿命の外へ辿り着いた者全般を指す言葉だった。往々にしてそれは不死の研究に取り組んだ証として、
本人の実際の理由は別にして、蔑視の対象にもなっている。不死というのは結局のところ、不死である事を証明するために、多大なる命の犠牲を払う事でしか立証できない事象なのだった。そうでなければ、クロムの様に実際に百年以上を生きてみる他はなく、
そして不死を目指した者が百年も待つつもりが無いのは道理だった。それで不死を会得したのならば万歳を叫んだだろうが、もし失敗していた場合、大抵の場合は寿命を迎え、生きていたとしても既に死の間際。そこからでは、もはやどのような方法を取る事も
できはしないだろう。
 故に不死の研究というのは、大抵が倫理の問題に絡め取られて、はかが行かぬ物だった。実際、それに手を伸ばして災厄を招いた例とて、枚挙に遑がない。そして辿り着いた者は押し並べて、甚だしい批判の対象となるのだった。或いはその中に、己の
勇気の無さからくる羨望と嫉妬すら包み隠した者の声も含まれているのだろう。
 終わり滝で戦った、狼人の召術士であるバインも、そういう意味では魔人にあと一歩という所に居る男だった。バインは、自らの身体に膨大な魔力を集め続ける事で、己の若かりし頃の身体を再現していたのだ。普段の挙措に至っては、老人のそれなど
微塵も見せずに居た。しかしそのバインも、魔力を解放してしまえばやはり老人だった。それは、ライシンの使う帯魔布と似た様な物だと言える。ライシンは己に足りない魔力を先に帯魔布に込めたり、或いは魔力の宿る色の付いた帯魔布を利用し、一時の
力を得て利用している。バインもまた、緊急時にはその若い身体が帯魔布の役目を果たしていたのだろう。化けの皮が剥がれて現れたのは、余命幾許も無いと言えるくらいに声はしわがれ、被毛は黄ばみがかった白という、如何にも老人然とした姿に
なってしまっていたのだ。あれでは、とても不死に辿り着いたとは言えないだろう。
 クロムを見つめていると、どうしてもライシンはバインの事を思い出さずには居られなかった。たまたま襲われてしまった不幸により、死に際に不死に目覚めてそれを迷惑がる男も居れば、あの様に遮二無二努力をして、その一歩手前まで辿り着く男も
居るのだった。バインも、或いはもう少し時が経てば、不死という頂に辿り着くのかも知れない。そうなれば、終わり滝で止めを指さなかったのは愚策だったと後悔をする日も、いつかは訪れるのかも知れない。或いはリーマアルダフレイも、それを予感して強硬に
バインを滅ぼすべきだと言ったのかも知れなかった。
 それでも、全てはただの繰り言にしかならなかった。既にバインの行方は知れず。そして今、ライシンは大海原の上である。
「ともかく、ディヴァリアにはあくまで魔法の鍛錬と、鞘の入手を目的としてほしいっすよ。その身体の事は、今は諦めてほしいっす」
「勿論。それに、私も今この身体を元に戻したいとは思っていない。鞘を失った私は大分戦力的に見劣りがするものだからね」
「またそんな事言って……充分強いっすよ」
 リュウメイに勝るとも劣らぬ剣の使い手であり、そして不死の身体を持つ。今まではそれに加えて、強力な邪法まで使いこなしていたのだ。ライシンの立つ瀬がないという物である。もっとも、邪法の扱いは本人の技量が今一つだからか大雑把な物が多かったし、
これはクロムに対しては決して言えないが、思い切りという点でも剣ではリュウメイには及んでいないのだった。というよりは、リュウメイが思い切りの良すぎる性質だと言った方が良いのかも知れない。一切の迷い無く振り下ろされるあのリュウメイの剣だけは、
如何にリュウメイを一番に想っていると自負しているライシンでさえ、時々末恐ろしい物を感じずには居られなかった。
「鞘の都合は、やはり難しい物なのかな。ディヴァリアといっても」
 話を切りかえる様にクロムは鞘の話題を持ち出す。ライシンは陣を敷くのに使っていた宝石を集めると、線を引いていた粉も息を吹きかけて吹き飛ばした。そうしながら、適当に部屋に明かりを灯す。粉もまた宝石を砕いて作った物で、そのままにしておくと
部屋の魔力が濃くなってしまうので、適当な魔法を使って濃度を低くしていた。
 一頻りのその作業をしてから、宝石を懐に仕舞ってライシンは腕を組む。
「正直なところ、かなり難しいっすよ。あの鞘、俺っちは手にとったからわかるっす。並大抵のもんじゃ決してない。まあ、あんなのがそんなに簡単に転がってるっていうのなら。俺っちだって帯魔布なんぞを態々補充したりする様な手間はとりゃしやせんがね。あれを
打てる魔法鍛冶師なんてもんがそもそも、現在居るのかどうかって話だし……それに、俺っち聞いてたっすよ、旦那」
「何がだい?」
「ゴルディオール……そう、言ったっすね旦那。あの鞘を使った時に」
「はて、どうだったかなぁ」
 惚けたクロムを、ライシンは呆れた様に見つめる。本当に、こういう部分はリュウメイと似ていないと思った。二人とも、その本質はよく似ているのだった。ただ、馬は合わない。それは、クロムが不死の身体を持つというのが主な原因だった。それが、
リュウメイの逆鱗に文字通り触れたのだ。剣の腕というただ一つの部分において、この二人は対等であったし、またその部分でだけは違いを認め合ってはいた様だが。それでも剣呑な雰囲気がいつ始まるのかと、ライシンは気を揉んでいた事を思い出す。
「一般人にはちょいとピンとこねぇ話っすけど、俺っちは知ってるっすよ。ゴルディオールっていや、鍛冶師の間じゃ知らない奴は居ないって噂だった傑物じゃないっすか。もう、随分前に死んじまったった話っすけど」
「五十年くらい前だったかな。あいつが死んだのは。おや、四十年前だったかな? あんなに剽軽で、殺しても死にそうにない奴でも、死ぬんだなって、当時私は思ったものだよ。あの鞘は、その忘れ形見さ」
「はあ。さっきまで知らない振りをしといて、これなんだから。旦那ってのはつくづく、人をからかうのがお好きなんすね。ガルジアさんにはあんなに親切な顔をしておいて」
「ガルジアはほら、あんまりからかうと拗ねてしまうからね。君はそんな事ないじゃないか。それに、長く生きてきた奴に真っ直ぐな性根を期待するなんて、無駄な事はやめた方がいい。普通の人だって、子供の頃はどんなにか綺麗な心根であっても、
大人になったら見るも無残な物じゃないか。普通の人がそうなのに、彼らよりずっと長く生きる私の様な奴がまともだなんて思っちゃ、いけないよライシン君」
「はあ。まあ、旦那のそう言うの、俺っちは嫌いじゃないっすけどね」
 それ程に長生きをしたからこそ、ガルジアの様な天真爛漫な者に惹かれるという事も、あるのかも知れなかった。修道院の中で院長手ずから大切に育て上げた修道士である。クロムの今の物言いからしても、ガルジアだけは別格の扱いをしている事は充分に
感じ取れた。それがまた、ライシンの嫉妬に繋がっては、ぴりりとした痛みを心へ走らせた。
「その、魔法鍛冶師って奴もそうだけど、それ以外も問題っすよね。宝石は……それなりの物を大量に用意すればいいのかも知れねっすけど、まあ、それも今だとどのくらいの値になるかって感じっすけど……。一番の問題は、使われていた金属っすよね」
「そうだね。当時でももう希少価値がすっかり高くなってしまっていたからね。さる筋から譲ってもらった金属なんだけど、材料の一つであるそれが、今だときっと、いくら積んでも物が無い状況なんじゃないかなぁ」
「旦那。前から気になってたんすけど、あれってもしかして、トニア鉱じゃねぇっすよね? 鞘が自分から魔力を作るっていうのは、結局はその性質を持っている金属で作られて。それをより強く引き出すために宝石が使われていたはずっすけど」
「どうだったかな。私は金属の名前までは、聞かなかったし。ただまあ、渡したらあいつは嬉々として打ってくれた。普段はケチケチして、料金も吹っ掛けてくる様な奴だったけれど。あれだけは、寧ろあいつの方から打たせてくれってね。だから私は、面白くなって
鞘を打ってもらったんだ。剣として、ぶつける様に使うのには向かない金属の様だったし。だったら、鞘としてお守りの様に使おうかとね。できあがって、使ってみたら、あんな事になってしまって、大分驚いたけれど」
「はぁ」
 ライシンは、本当にほとほと呆れ果てて、うんざりした顔でクロムを見つめた。
「もう旦那の話の何を聞いたって驚いたりするつもりは、俺っちにはねえっすよ。旦那が今歴史として語られている話の中に出てきている事だって、もしかしたらあるのかも知れないっすからね。それに、宝石の件もややもすれば、旦那の身体を元に戻すのと
同じくれぇ大変な事かも知れないっすよ。少し前の、戦争だのなんだのがお盛んだった頃、そして宝石が豊富に産出されていた頃なら、あの鞘の材料になる宝石は、そりゃもう沢山あったとは思うっす。でも、今はもう時代が違うっす。宝石は砕かれて、
それらが眠っていた場所は蛻の殻。人は新たな黄金時代を求めて、地図よりも外へと手を伸ばしてるっす。そっちで見つかった宝石なんて、直ちに登録されて、お偉方の手に渡って、その後は然るべき場所で、それも然るべき相手にのみ売り渡されてる
でしょうよ。とても、おいそれと手に入る物じゃないっすよ。かといって、魔導士が作る様な、本物と比べたら大分劣るケチな奴じゃ、五倍、六倍の量でも足りねぇかもしれないし」
「だろうね。時代は、変わった。君に言われずとも、わかっているさ。私は実際にこの目で見てきたのだからね。だからこうして、見苦しく今更の様に自己の研磨への道を歩もうとしている。どうか、そんなに私を偏屈な男だという目で見ないで、お手柔らかに
頼むよ、ライシン君。君は魔導という点において、私よりずっと先輩なんだからね」
 そういう言い方が、気に障るのだという言葉をライシンはなんとか呑み込んだ。口にしたところで、この男にはまったくなんとも思われずに、また新たな冗談が口から出てくるのだろう。まったく、ガルジアもまた、どうしてこんな男に出会ってしまったのだろうか。
 ガルジアは男運という奴が悪いのだな、とライシンは勝手に決め付けた。事実それは間違ってはいないだろう。修道院から飛び出した白虎を最初に掴み上げたのは、あのリュウメイである。それ以上、ガルジアの男運の無さを証明するのに必要な物は、
何も無かった。
 それ以上の問答はせず、ライシンは黙って船に揺られている事にした。どうせ、もうそれほどの時間を置かず、船はタミアの港へと入る。下船の準備をしなくてはならないし、この部屋に無駄に集めてしまった魔力も発散させなくてはならない。
 ディヴァリアに着いたら、クロムを思う存分虐めてやろうと思った。確かにクロムの言葉通り、道具を使わない邪法の勝負なら、今は自分の方が上だと思った。いつまで上で居られるのかは、自信が無かったが。

 タミアの港から、二十日ほど掛けて西へ行き、ライシン達は再びのディヴァリアへと到着する。丁度、タミアではディヴァリア行きの隊商が護衛を探していたところで、名乗りを上げた二人は路銀を稼ぎがてらの移動をする事ができた。ディヴァリアで隊商から
報酬を貰い、別れると、二人はディヴァリアの東地区へ足を運ぶ。
「ああ、やっぱりここは何度来ても、いいっすねぇ……」
 奇石通りに足を踏み入れて、破顔したライシンは思わず溜め息交じりに呟く。
「君は、ここは慣れたものなのかい」
 露店に並ぶ宝石の数々を眺めながら、少し肩の力を抜いた二人は談笑をはじめる。陽の光に照らされた宝石は眩く、晴天の今は簡易的な屋根を設えて、日光を避けている店が目立った。確かにこの通りに並んだ全てに陽が降り注ぎ、そうして反射を
繰り返していたら、あまりの眩しさに目を開けていられず、買い物どころではなかっただろう。
 そういう場もまた、ライシンは好きなのだった。様々な色の光が輝き、そうしてどんなケチなクズ石であろうと、その中には多寡の違いはあれど、魔力が内包されていて、それがこれだけ集まっているともなれば、魔導士は当然それを感じ取る事が
できるのだった。この場に満たされたそれが、ライシンには快かったし、そこを行き交う人々や、それらが商われる様子を見るのも、やはり好きなのだった。市場といえば、それはどこにでもある光景の様にも思えるが。そこに並ぶのは、宝石の数々である。同じ
様な魔導に重きを置いた場所でもない限り、決してこの様な光景は見られなかっただろう。扱っている物が、粗悪な宝石だという事も含めてだ。もう少し価値の高い物であったのならば、やはりこの様に雑多に並べられる事も、またこれ程の数が揃う事も
なかっただろう。
「おっと。そういや、この間来た時は、まだ旦那は居なかったっすね。俺っちも昔はこの街の法術学園に席を置いていたっすよ。まあ、言う程昔でもねぇんですが……。今はこれこの通り、リュウメイの兄貴がため! 学園なんぞに引き篭もってたら、恰好良い
兄貴も、若い時期も、あっという間に過ぎちまうってもんでさ。勿論、法術にはまだまだ興味はあるっすけどね。俺っち、それのために自分の一生はとても捧げられねえや」
「ふむ。多分、その方が良いのだろうね。法術を極めようとしたら、きっと一人の一生では、とても足りないだろうし」
「それにしても、いざこうやってディヴァリアに来てみた物の……どこから当たるべきっすかね。旦那の身体を元に戻すなら学園っすけど、当然、旦那の体質っていうか、呪いを正直に打ち明ける訳にゃいかねぇんで……。昔と今じゃ技術は進歩しただろうから、
そこは期待できるっすけど、根っこはきっと、変わってないっすよ」
「そうだな。また、街の外まで追いかけられても困るな」
「おお、おっかねぇ。法術に一生掛けちまったお偉い先生も居るっすからね。それに、表には出さないけれど、不老不死に興味がある連中だって居るはずっす」
 言葉には出さないが、魔導士を志していて、不老不死を考えない者は居ないであろうというのは、ライシンとクロムの共通の考えだった。クロムが口にした通り、法術を、その中の二大要素である、聖法と邪法を極める事すら、人の一生では難しい。どちらか
一つに絞ったとしても、その状況は変わらない。魔導の力を得て、高名になり、自らにどれほど自信をつけたとて、寄る年波の前には、あまりにも人は無力だった。そうなった時、己の研究と研磨。今まで築き上げていた物を全て手放さなければならないという
事実に愕然する魔導士は、実は少なくはなかった。不死の研究はあまりにも犠牲が大きいがために禁じられてはいるものの、可能であれば己もその永遠の力を享受したいと願うは必然であったし、また理解できない話でもないのだ。不老不死とは、魔導によって
齎される究極的な願いの一つであり、またそれと同じくらいに、禁忌とされている事柄なのであった。
「まあ、今回はその事は後回しにしよう。急ぐ必要はないし、要らぬ騒ぎを起こすだけだ。本来の目的は、私は鞘の都合をつけに、それから、法術の腕を改めて鍛えに来たのだから。君は、どうするんだいライシン君。腕よりも心を鍛えたいと、君は言っていた。私には、
君が何かする必要は無いと思うのだがね」
「そうっすかねぇ……。でも、俺っちはヘラーの街で、兄貴の足を引っ張っちまいやした」
 苦々しい記憶が、ライシンの脳裏に甦る。バインの奇術的な攻撃に惑わされたのだ。今でこそあの絡繰りがわかる物の、恐ろしい程の技術が必要な攻撃のやり方だったと、内心は畏怖を抱いていた。また、一番厄介で、面倒なのが、別にそんな事をしなくても
バインが本気を出せば、ああいう攻撃のやり方をする必要は無かったという事なのだが。相手の神経に直接訴えかける様な芸当ができる、というのは。それだけでとてつもなく恐ろしい力を持っていると見做さなければならない。
「あれは、仕方がないさ。四肢が切断される痛みなんて、普通は耐えられるはずがない。終わり滝での戦いで君が復帰していたのが、不思議なくらいさ」
「そんな事言ったら、旦那だってぴんぴんしてたじゃないっすか」
「まあ、私はね。一度死んでしまった身だからさ。残念だけど、即死しなかったから、一番辛かったのは、結局あの時だったんだよ。なので、今更手足がどうこうされるくらいは、大丈夫だよ。サーモストでも、頭がちょっと潰れてしまったしね」
「なんか、そういう言い方すると……怖いっす、旦那」
「事実だから、仕方ないね」
 本当にそれが事実なのだから、末恐ろしいとライシンは思った。サーモストではガルジアを庇い、全身を強かに打ち付け、更に頭までクロムは打ったのだった。その時は流石に回復に時間はかかったが、結局は今こうして目の前で、そんな様子を微塵も
感じさせずに、時折露店の宝石を手にとっては矯めつ眇めつ眺めているクロムが居るのだった。そうしていると、その様な目に遭った事はおろか、到底修羅の様な傭兵である事すら、見抜ける者とて居なかっただろう。
「寧ろ、私の方が恐ろしいと思ったよ。あの時、顔色一つ変えず、それどころかほとんど反応も示さなかった、リュウメイがね」
 宝石を露店に返して、顔を上げたクロムの表情は、先程までの柔和なものとは違い、どこか鬼気迫る物があった。それに、ライシンは静かに頷く。
「ああ、確かに……。俺っち、兄貴はすげぇって思ってたっすけれど。でも、よくよく考えてみると……そんな簡単に片づけて良い事じゃないのかも知れないっすね」
「そうだね。一度死んだ私より、余程痛みに慣れている様で。ヨルゼアと戦った時も、彼はそうだったね。確かに味方であれば心強いが、敵になったら、相当辛い相手だな。私は、あまり気乗りしないな」
「そんな事言って、結構喧嘩腰だったじゃないっすか」
「それはリュウメイの方だけだよ。私が不老不死と聞いて、怒ってしまって。まあ、生と死のやり取りを常に続けている、歴戦の戦士からすれば。そんなのは馬鹿げてるって思うのも、無理はないのかも知れないが」
「それは、ちょっと違うっすけど……」
 誰にも聞こえない様な小声で、思わずライシンは呟く。幸い、クロムにはそれは聞こえなかった様だった。
「それより旦那。どうっすか、ここの宝石」
「うーん、そうだねぇ……やっぱり、あの鞘の材料にした物と比べると……だね。君の言った通り、あの時よりも何倍。いや、何十倍の量が必要になりそうだ」
「やっぱ、そうっすよね。ここには学生が作った様な宝石も、結構多いっすからね。天然物と比べたら、量も質も、雲泥の差っすよ」
 よくよく見れば、店を出している店主の、三割程が、とても店を商うとは思えない若者だった。彼らは魔導の腕を磨くその一方で、暇を見つけてはこの奇石通りで店を広げては商いを繰り返している様だった。隣り合った者達で談笑をしながら、売れるのかも
わからぬ宝石を並べている者の数もかなり多い。
「宝石ってのは、言っちまえば不便な帯魔布みたいなもんなんすけどねぇ……。それでも見た目が良いってんで、観光客なんかには受けが良いんすよ。ここに居る連中のほとんどは、そういった奴らを相手にしてるんすね。ちょっと細工をしたり、出来が良い
宝石なら、高値で売れるもんっすから。懐かしいなぁ。昔は俺っちも、ここで売ってた事もあったんすよ」
「ほう。学生なら、誰もが通る道なのかな」
「貧乏学生なら、っすかね。遊ぶ金欲しさな奴も、そりゃ居たっすけど。でも、作るのも結構手間暇掛かるっすからねぇ……。俺っちも学費を賄うのが大変で、あの時はとにかく売れる物を探しては、よくここに並べてたもんすよ。最近じゃ、宝石作ったりなんかは、
しないっすけどね。本当、見た目だけっすからこれは」
 話をしていると、ライシンはあの日々を思い出してしまう。まだ自分がリュウメイとも出会っておらず、一日の食い物にすら困る様な有様でありながら、学生として学園に通っていた当時を。
 楽しい事ばかりの記憶とは、お世辞にも言えなかった。今こうして振り返っても、苦々しい思い出も、かなり多い。異国から来た苦学生などという物の環境が、良い事などありえようはずもない。
「ライシン君。君、もしかして、ライシン君じゃないかい?」
 考えに耽っていたところに、声が掛けられてライシンははっとする。クロムも同じ様に、声の主へと視線を向けていた。見つめた先に居たのは、古めかしいローブを身に纏った、恰幅の良い白熊の男だった。ライシンは一度大きく目を見張ると、少しの後に、
瞳を輝かせて手を振った。
「おおっ! 誰かと思えば、先生! ベリラス先生じゃないっすか!」
 奇石通りを向こうからやってきた、白熊の大男は、柔和な表情のまま手を上げる。思わずライシンは、クロムが居る事も忘れて、走り出した。
「随分久しぶりですね。お元気でしたか?」
「勿論っす。あ、いや。勿論です。先生」
「そんなに畏まらなくてもいいんですよ。確か今は、休学中でしたよね?」
「……はい。実は、ちょっと用事が色々できて」
「いいのですよ、そんな顔をしなくても。君の元気そうな姿がまた見られて、私も嬉しい限りです」
「そう言っていただけると、ありがたいっすよ」
「ところで、そちらの方は? お邪魔してしまったかな」
 軽く抱き合って、再会の喜びに浸っては、話をする。そうしていると、遅れてやってきたクロムの存在を、ベリラスは見咎めた様だった。
 クロムの存在に気付いたベリラスが、少し申し訳なさそうに眉を顰める。クロムはそれを見て取ると、これもまた温和そうに微笑んで迎えた。
「いえ、構いませんよ。どうも、察するに久方振りの再会の様ですから」
「申し訳ございません。私は、ベリラスと申します。このディヴァリアの学園で、教職に就かせていただいております」
「これはご丁寧に。私はクロムと申します。しがない傭兵家業をしておりまして。丁度今、ライシン君と二人で、隊商の護衛を終えて、ディヴァリアに落ち着いたところです」
「それは、また。お疲れの所、重ね重ね申し訳なく……」
「ああ、もう。いいっすよ先生。そこまで畏まらなくても」
 恭しいやり取りに、段々と背中が痒くなってきたライシンは二人の間へと入る。
「そんなにくさくさしたやり取りが見たい訳でも、したい訳でもないっすよ」
「これは。どうも、いけませんね。つい失礼の無い様にと思ってしまって」
「俺っち達は、今クロムの旦那が言った通りな感じっすよ。先生もやっぱり、教師、続けてるんすね」
「ええ。大事な生徒達が、沢山居ますからね。君も、用事が済んだら、また戻ってきてください。そういえば、探し人が居るとあの時は言っていましたが、それがそこに居られるクロムさんなのでしょうか?」
「いや、それはちょっと違うんすけど……でも、まだ学園には戻らないっす」
「そうですか。それは、残念です。君はいつも熱心に授業を聞いてくれて、私も教え甲斐があったのですが」
「申し訳ねっす。俺っちは、魔導に全てを捧げる様な生き方をする人には、なれやしませんでした」
「いえいえ。そんな風に謝らないでください。それに、元気そうな姿を見て、正直ほっとしました。確かにあなたは素直な生徒でしたけれど、なんだかいつも余裕が無さそうでしたから。今のライシン君は、大人になった事もあると思いますが、以前よりずっと、
余裕がおありになる」
「そうっすかね。そんなに、変わったかな」
「ええ。とても」
「……っと。クロムの旦那、すみません。すっかり置いてけぼりで。もう少ししっかりとご紹介させていただきやす。こちらはディヴァリアの学園で、教師をしているベリラス先生っすよ。専門はえっと……聖法が第一だけど、邪法もだったっすよね?」
「はい。その二つを主として、召術なども多少の心得はあります」
「それは、凄いな。そうしていくつもの法術を会得しているとは」
「何よりも凄いのは、その授業! すっげぇまともなんすよ!」
「……それは、褒めるべきところなのかい?」
 クロムの自然な疑問に、ライシンとベリラスは二人揃って苦笑いを零す。思わず声を上げて笑ってしまったベリラスが、それを引き継いで口を開いた。
「教師といえど、魔導士は魔導士ですからね。その……教師である私があまり言うのは憚られる事だとは思うのですが、魔導士であり、人格者であり、更に他人に教えを授ける事に意欲的な人、というのは非常に稀でして……つまるところ、自己の研磨に
勤しみたい人が多いのですよ、魔道士というものは。ですから、教師側にも何かと問題が起こりやすいというか、なんというか」
「大体は変人奇人ばっかっすよ。マジで」
「こらこら、ライシン君。……とはいえ、あながち嘘とも言えないのです。教職としての地位を何かしらに利用したい人や、教育熱心なのですがちょっと偏屈な人や。本来ならひたすらに己を磨いていたい人達に、態々教鞭を振るってもらうのですから、仕方のない
話ではありますが」
「なるほどね。役職からして、堅苦しいのかと思ったけれど、思っていたのとは大分違うんだね」
「ええ。お恥ずかしい話です」
「でも、だからこそ、ベリラス先生の授業ってのは人気があるんすよ。懇切丁寧に教えてくれるし、人当たりもいいし、生徒を実験材料にもしないし……おおっと」
「ライシン君。それは、外の人には言ってはいけません。あなたももう外の人ではありますが」
「ははは。なんだか、面白そうだな。学園というのも」
「興味がおありですか? クロムさん。歓迎しますよ」
「しかし、私はもう大分歳がいってしまっているが」
 クロムのその断り方に、ライシンが噴き出す。ベリラスは不思議そうに首を傾げているだけだったので、多分クロムの事が知られる心配は無いだろう。
「歳は、関係ありませんよ。学ぼうとする志があれば、いつでも門戸は開かれています。……まあ、これでは綺麗ごとを並べているだけですね。当然、それなりのお金も掛かります。見たところ、クロムさんは腕が相当に立つ様ですから、その腕で稼いだお金が
あれば、学園に通うくらいの事はなんともないとは思いますが」
「ふむ、そうか……」
 ちらりと、クロムがライシンへと目配せをする。ライシンは気づかれない様に、ほんの少しだけ首を左右に振ってみせた。
「魅力的な話だが、今回は見送ろうかな。私も傭兵だ。一つの所に落ち着くのは、どうにも不慣れでしてね」
「そうですか。それは、残念」
 断られると、それ以上ベリラスは勧誘をする事もせずに、あっさりと身を引いてみせる。それほど本気で今の話題を口にしていた訳ではないようだった。
「それにしても、クロムさん。あなたからは、なんだか不思議な力を感じますね。何かのおまじないでしょうか?」
「えっ。先生。それ、わかるんすか?」
 思わず、ライシンは学園関係者には黙っておこうと決めていたのに、口を滑らせてしまう。船の中で、あれほど散々クロムの身体を調べたのに、わからなかった事をあっさりと見破ったベリラスに、驚きが隠せなかったのだ。
「ええ。それがなんなのかはわかりませんが。ほんの少しだけの、違和感と言いましょうかね。何か、お困りなのですか? そういう方もディヴァリアにはよく訪れますから、私でよろしければ、力になりますが」
 この提案に、二人は再度顔を見合わせ、頭を悩ませた。正直に話して良い話題なのかどうか、判断がつかなかったのだ。正直に打ち明けてクロムの呪いが治療されれば万歳と言ったところだが、以前クロムがディヴァリアで遭った様な面倒事に発展すると、それは
非常に困る展開と言える。
「えーと……」
 どう返すべきか、考えあぐねた様な声をライシンが出した頃だった。
「泥棒ー!」
 金切声が上がり、話を中断して、奇石通りに居た大半の人物が声のした方へと顔を向ける。
 すると、声のした方では、並べられていた煌びやかな宝石が引っ繰り返され、無残にも地面へ散らばっていて、そこから必死の形相で一人の若者が、ライシン達の方へと走り出したところだった。

 荒々しい怒号と悲鳴が飛び交う。蹴散らされた露店から飛び出した宝石が宙を舞い、日陰から日向へと投げ出される。一つ一つが陽の光を受けてきらきらと輝き、その場に居た誰もが、思わず視界を光に満たされる。光が舞う様は、幻想的な風景に見えなくも
無かったが。直後に大地に叩きつけられたそれらが一斉に奏でる音は、それに浸る者を現実へと引き戻す。
「そっちに逃げたぞ!」
 誰かの声が聞こえた。ライシンは腕でなるたけ光を遮りながら、目を細めてどうにか状況を把握しようとする。
「旦那、先生。大丈夫っすか」
「ああ。さすがに、今のはくらっときたかな」
「私は平気です」
「あいつ、露店の物を態々ばら撒いてるっすよ。眩しくて敵わねぇや」
 泥棒と思われる男は、今も店先の物から比較的高く売れそうな宝石を見繕いながらも、同時に逃走するために宝石をばら撒いているのだろう。あちこちでけたたましい音と、同時に悲鳴が上がっていた。誰もがこの事態に気づいてはいたものの、犯人で
ある男の方を見れば思わず目が眩み、男の行動を制止するところまでは気が回らないでいた。男は男で、自分の逃げる方向には宝石をばら撒かないのだから、やりたい放題ができてしまうのである。
「少々お待ちください。今、私が」
 ベリラスが声を上げる。途端に、奇石通りを覆う光が弱まった。顔を上げれば、薄い膜の様な物が奇跡通りの空を埋めていて、それが日光を大分弱めている事が察せられる。
「流石先生っす。こんな芸当もできるんすね」
「ですが、長くは持ちません。どこまで宝石が散らばっているのか細かく見ていられませんでしたから、かなり広く展開したので」
 宝石を盗もうとしていた男は、この事態に虚を突かれたのか、一度足を止めていた。ようやく、その姿が誰の目からも明らかになる。
 灰色の被毛をした犬の男だった。男は舌打ちをした後、手に持っていた宝石のいくつかを砕く。
「余計な事をしやがる。せっかく怪我しねぇようにやってたのに」
「それは、あなたの勝手な言い分でしょう。馬鹿な真似はお止めなさい」
「そうやって偉そうな口利いてる余裕があるのかよ。ここにある宝石の山が、見えねぇってのか」
 更にいくつか、男は宝石を割る。元々は学生が作り出した安物故に、割る事もまた造作もない。魔道士ならば、魔力を籠めたまま握り締めるだけでも、容易に宝石は砕けるのだ。そして、その中に秘められていた力が、溢れ出す。男はぶつぶつと呟くと、
その周りにいくつもの炎が揺らめいて現れる。
「困った人ですね。すみません、ライシン君。あれを止めていただけますか」
「承知っすよ、先生」
 狂った様に飛び跳ねながら、炎が襲い来る。ライシンは腕に巻いていた帯魔布に意識を集中させると、白い帯魔布は途端にたゆみ、ライシンの腕の周りにふわふわと浮きはじめる。そのままライシンが両手に光を灯すと、途端に帯魔布に刻まれていた
文字が輝き出す。最初に来た炎を、ライシンが掌で受け止める。すると、その場で炎は掻き消え、そして小さな波動が、ライシン達の周りを覆った。
「ふん。こんなへなちょこ弾、なんて事ねえっすよ。……旦那、俺っちと先生が、今隙を作るっす。あとは頼んます」
「一つ確認したい。生かして捕らえたいのかい?」
「できれば、お願いします。しかしどうしても不可能だと判断された場合は、止むを得ません」
「わかった」
 次から次へと、炎が現れてはライシンの下へと向かう。ライシンは慌てずに、また手を滑らせる様に一つ一つ、丁寧に炎に触れ、それを掻き消していた。本気でかかれば最初から強い結界を貼る事で全てを消し去る事もできたのだが、場所が場所
である。爆発させれば周りが巻き込まれないとは限らないし、それに、宝石も散らばっていた。魔力のままでは誘爆する様な事はないが、この場に居る他の者が動揺する事もまた、厄介なのだった。素人に近い者がほとんどとはいえ、彼らもまた魔導士なので
ある。この場にある宝石を手に手をとって暴れられては、収拾がつかなくなる事は目に見えていた。
「皆さん。慌てずに、避難してください。くれぐれも魔法で応戦はせず、するなら防御に徹してください」
 先程までの温和な状態から一変したベリラスの凛とした声が、騒々しい中でもはっきりと通った。元々この通りには学生が多く、彼らはベリラスの事はよくよく知っていたので、それに異を唱える事もなくすごすごと避難をはじめる。
「ライシン君、もう少しです。大丈夫ですか」
「勿論っすよ」
 上から来た炎を左手を上げ受け止め、次いで右からの炎を右手で。更に右から、そして左からと続くのを見て、そのまま一回転をしながら、炎が消えたのを確認してライシンは手を回してゆく。時にそれが間に合わぬ時は、炎を掌で素早く打って
四散させる事もあれば、掴み取って自らの腕へと宿らせる。勿論炎を身に纏う事などライシンにはできぬのだから、その分防御に魔力を多く使う。物の焦げる音が、耳に張り付ていた。帯魔布の文字が、少しずつ。そして、無茶な動きをした時には
大きく。輝き、そして音を立てて、消えてゆく。それを確認する事もなく、しかしライシンは残りの文字が半分である事を理解していた。炎の猛攻が止む事はない。相手の男は、手持ちの宝石が尽きたと見て、手近にある物をまた手にとっては同じ事を
繰り返しているのだ。その上、焦れて乱射する様になってきている。ライシンの舞う様な防御にも、そろそろ限界が来ているだろう。
「お待たせしました」
 ベリラスの声が聞こえた。ライシンは足を止め、そのまま後ろへと飛び退る。帯魔布の文字は、ほとんど消えかかっていた。飛び退った瞬間に腕を離れた帯魔布の端を掴むと、そのまま帯魔布は小さく丸まり手に収まる。
「これで終わりだ」
 勝ち誇った男の声。躍りかかる炎の群れ。しかしベリラスは臆する事もなく、一歩前に歩み出る。
「終わりなのは、あなたの方ですよ」
 次の瞬間、ベリラスに向かっていた全ての炎が、なんの前触れももなく掻き消える。男は思わず声を上げ、丁度再び品切れになってきた宝石を手に取ろうと、露店へと駆け込もうとする。しかしベリラスがその方向へ手を伸ばすと、一瞬にして、あれほど
陽の光を浴びて華麗に輝いていた宝石の数々が光を失い、ただの石ころへと変ずる。驚愕に、また男が声を上げた。
「少々やり過ぎましたね。できれば、商品を駄目にする様な事はしたくありませんでしたが」
 ベリラスが手を上げると、その場に居た誰もが怖気が走る様な感覚に囚われる。さざめく様に輝いていた宝石の輝きは、男の周りを限定して、今は全て消え失せていた。そして、感じられていた魔力の全ては今、ベリラスの手の上にあるのだった。
 男の表情が、次第に絶望包まれてゆく。咄嗟に、宝石に頼らずに自分で邪法を行使しようとしたのだろう。上げかけた腕からは、しかし何も出てこないでいた。ベリラスはにこにこと笑いながら、手を揺らす。手の光がまた、大きくなった。
「旦那」
 ライシンが言うよりも、クロムが動く方が早かっただろう。クロムは一度横に移動し、人込みのなるたけ空いている部分を通り抜け、突然男の前に出現したかと思うと、あの黒い鞘をそのまま男の腹に打ち込んだ。何が起こったのかもわからぬ顔をしながら、男が倒れる。
「これで、大丈夫でしょう。ああ、商品を駄目にしてしまいました。弁償しなければ」
 ベリラスが、集めていた魔力を適当に分散させる。流石に一度集めた物がそのまま宝石に戻る事はしないのか、全てがその場で消えてゆく。
「驚いたな。手をかざすだけで、宝石から魔力を取り出すとは。普通は砕かないと使えないし、砕かずに使うにしても、ごく小さな穴を開けるはずなのだが」
 暴漢を担いだクロムが、しげしげとベリラスを見つめる。ベリラスは少し照れた様に頬を掻きながら、周りの学生に事態が終結した事の説明と、宝石を駄目にしてしまった露店の者への謝罪に回っていた。やがてそれも済むと、再びライシン達の前へと戻ってくる。
「基本的には取り出せませんよ。しかし、ああして魔導士の作った宝石というのは、強度も高が知れていますからね。地中深く眠っていた物は難しいですが、こういう所に並ぶ様な宝石なら、ああして使う事もできるんですよ。もっとも、普通には中々に難しい事
なのかもしれません。私は元々、それほど魔力の多い性質ではなくて。その分、こういう芸当ができるらしいです。詳しくは、自分の事でも、ちょっとわかりませんがね」
「恐ろしいな。相手が邪法を唱えようとしていたのに、それが発動すらしなかった」
「要は決めた場所にある魔力を奪う物ですからね。しかし相手が手練れだと、これにも対抗する事ができます。決して、万能な訳ではありませんよ。今回もこの人が動揺していた間に片がつけられたから良かった物の、本気で暴れられたら、どうなっていた事やら」
 騒ぎを聞きつけて、警邏の男達が駆けつける。それに男の身柄を引き渡すと、ベリラスとはその場で別れた。
「先生、もう行っちまうんですかい?」
「はい、今の男についての説明……は建前で、私も少し、店に被害を出してしまいましたから」
「そんな。別に、先生が悪い訳じゃねえっすよ」
「ええ。先方もそれは重々承知してくださっていますが。では、ライシン君。またどこかで。しばらくは、ディヴァリアに?」
「はいっす。居着くかはわからねっすけど、クロムの旦那は良い装備を、俺っちも少し、法術を学びたくて。……まあ、復学する程の資金はちょっとねぇんで、先生には会えないっすけど」
「そうですか、残念です。君が戻るのを、楽しみに待っていますよ。では、クロムさん、ライシン君。また、どこかで」
 去ってゆくベリラスの姿を、ライシンはじっと見つめていた。途中、クロムが動かない自分の事を不審に思った事に気づくと、慌ててその場を取り繕い、奇石通りを後にする。
 ライシンとクロムはそのまま、ディヴァリアの東地区から南地区へ。こちらもガルジア達と訪れた時とは変わらずに、観光客向けの様々な品を扱う店が軒を連ねていた。大通りを少し外れ、適当な宿を決めると部屋を借りる。路銀には余裕がまだあったものの、
借りたのは比較的質素な部屋だった。二人が寝泊まりする分には充分に広く、最低限とはいえ家具も整えられている。窓の外には、大通りを外れたとはいえ、楽し気に街を練り歩く者達の姿がよく見えた。
「さて、ようやく人心地ついたかな」
「そうっすねぇ。ちょっと軽く貴石通りに寄ったつもりが、面倒に巻き込まれて。おかげで、先生にも会えたっすけど」
「ライシン君、彼は、信用できるのかい?」
 壁に背を預けて、単刀直入にクロムが訊ねてくる。ライシンはちょっと困ったように笑うだけだった。
「そうっすね……俺っちは、信頼しているし、信用していたい。……って感じっすね。先生は、ここに居た頃の俺っちに、良くしてくれた人なんで」
「君がそう言うのも、わからなくはないよ。研究一辺倒、という人物でもなさそうだったし。それでも君はあの時、首を振ったね」
「信用し続けたいと思える人。本当に危険なのは、そういう人だって事くらい、俺っち知ってるっすよ」
「そう言えるのなら、君の判断にケチをつけるのはやめよう」
「でも、俺っち本当に先生は信じてるっすよ。ただ、クロムの旦那の事情が事情っすからね。ベリラス先生が大丈夫でも、どこから話が漏れるかなんて、わかりゃしねぇってもんです。法術の稽古なら、俺っちでもなんとかつけられるし、鞘なんぞの……金属を
調べたりするのは、俺っちだけでも学園に入る事はできるっすから。きちんとした学生じゃないと入れない部分はあるっすけど、調べものをするくらいなら、休学中の俺でも一応は問題ねっす」
「ありがとう。君がそこまでしてくれるのは、とても助かるよ。でも、君の用事はいいのかい?」
「俺っちは、特にこれって目的はねえっすから。勿論自分自身を磨く事は大事な目的なんすけど。ただ、なんて言うんすかね……。俺っちはきっと、一回兄貴から、距離を置きたかっただけなのかも知れないっすね。終わり滝で別れる時にも、ガルジアさんに
言ったっすけど。一緒に居ると、頼りたくなっちまって。ああ、自分って本当、情けねぇなぁって思うっすけど。リュウメイの兄貴が、あんまり物事に動じない性質なんで」
 リュウメイと旅をしていた事を振り返ってライシンがまず気づいたのは、その背をじっと見つめていたという事だった。いつの時も、どっしりと構えている、赤髪の男。知らず知らずの内に、随分とそれに頼る様になっていたのだ。戦いともなれば、ライシンも決して
その後ろに隠れている訳ではなかった。しかし、それ以外となると。ライシンはベッドに座って、しばし考えてから、苦笑する。
「なんか、これ以上兄貴に恰好悪いところ、見せたくねぇなぁって。ますますガルジアさんと差ついちまう。でも、こうなってみると……ガルジアさん、思ってたよりもずっと凄かったんすね。ぱっと見た感じは、至って普通の……白虎ってところを除けば、本当、ただの
良い人って感じなんすけど。結局、帰る場所も、頼りも無くなっちまったのに、ちっともうじうじしてないで、兄貴と一緒に行っちまった」
「ガルジアは、そういう所は本当に強いからね。修道院で大切に育てられたからなのかな。弱い部分もあるけれど、でも、強い所は、普通の人よりもずっと強いな、あれは」
「兄貴達、今はどの辺りに居るんすかね。もう、傷は良くなったのかな」
「そういえば、何も聞かずにここまで来てしまったね。リュウメイの傷が癒えるまではどこにも行けないのだから、仕方ないけれど。私達と同じ方には……きっと、来ないだろうな。リュウメイだと。先日までの騒動になった場所も避けるとしたら、きっと、まだ東の大陸に
居て、サーモストや終わり滝、それからラライト跡地を避けたどこかに居るんじゃないかな」
「なんにせよ、無事で居てくれるといいっすよ。つい俺っちの独断で抜けちまったけれど、やっはり今になって思い返すと、ガルジアさん一人じゃ兄貴が迫ったら、きっと危ないっす」
「そうかも知れないね」
「……ところで、ずっと気になってたんすけど。旦那はそう言ってにこにこしてるっすけど、ガルジアさんの事、狙ったりしないんすか。兄貴に、取られちまうっすよ」
「ガルジアがそれで良いのなら、良いのではないかな。というより、ガルジアは男は嫌がると思うのだが」
 少し話が逸れて、緊張感の解れる方へ向くと、ライシンはようやく元気を取り戻して、口元に嫌らしく笑みを形作る。
「いやいや。ああいうタイプは押しに弱いっすよ、旦那。旦那がそんなんじゃ、取られちまうって」
「そういうものなのかな。いずれにせよ、私はこの身体のまま、どうこうという訳にはいかないな。それに、そこそこに長生きしたからね。リュウメイの様にがっつく気はないよ」
「流石、大人っすねぇ旦那。ああ、でも俺っちはがっついてる兄貴が……がっつかれたい」
 思わず涎が出そうになって、ライシンは慌てて口元を手で拭う。それを見て、クロムが静かに笑っていた。
「さーて、兄貴の事を思い出したら、なんだかやる気が出てきたっすよ。明日から早速、俺っちは学園の資料室でも見てくるっすよ。なんとか旦那の使ってた鞘……と同じのは無理かも知れねっすけど。それに近い様な物の情報、少しでも仕入れないと」
「私は、君が帰ってくるまでは、一人で法術の鍛錬でもしようかな。あの鞘があれば、とは思うけれど……君の言う様に、あれと同じ物は、きっともう手に入れられないと思う。鞘が無くても、よくよく扱える様にならなければね」
「わからない事があったら、どんどん訊いてほしいっすよ。あの鞘に助けられたのは、俺っちも同じなんすから」
「ああ、ありがとう」
 話を切り上げると、丁度食事の支度ができたと宿の主人から声を掛けられる。いつの間にか陽も傾き、まもなく夜が訪れようとしていた。

 食事を済ませて、クロムは部屋へと戻る。ライシンは、少し飲みたい気分の様で宿の食堂に残ったままだった。クロムはちょっと遠慮させてもらって、今は一人、借りている部屋へと足を踏み入れていた。食事をしている間に陽はすっかりと没していたが、部屋の中は
明るい。大抵の街とは違い、ディヴァリアにとっての夜は、闇が支配する時間とはなり得なかった。他の街では多く見られるとは言えない光石の類が、ここには集中しており、より求めやすい値で振る舞われているのだ。客を持て成す宿ともなれば、余程の安宿
でない限りは、まず光石が壁に埋め込まれていた。淡い光を放つ物を選んで配してあるのか、それらは昼の間は決して目立たず、壁をちょっと彩る様な物でしかないが、夜ともなれば昼間の沈黙が嘘の様に、自身を存分に輝かせ、充分に光源としての役割を
果たしていた。光石は元々宝石の一種として扱われているが、用途はまったく別であり、その値もまた宝石とは異なっていた。大きさも、宝石と比べれば巨大な物は比較的見つけやすい。とはいえ稀有な事には変わりないので、大きな光石という物は高値で取引され、
王侯貴族の下へと運ばれていた。その扱いと比べれば、小さい光石は割とぞんざいに使われている節があった。一つには、宝石と比べると内包されている魔力はずっと少なく、その用途が光源、或いは演出のために限られている事がある。あまりにも高価に扱うと、
結局のところそれを最も必要する、下々や末端の者達からの買い手が付かないのだった。
 宿の入口には、壁に埋め込み、更に薄く塗料を塗った光石があった事を、ふとクロムは思い出す。光石の中でも、光が強い種類は、直視すると眩し過ぎるために、そういう使われ方をする場合もあるのだった。窓へ歩み寄り、外へと視線を投げかける。外もまた、
その光石の光。それとは別に、魔力を注いだ事で光を発する何かの道具、或いは魔力その物が、ぬばたまの夜を、空の月に代わって照らしていた。蝶が、闇夜を舞う。ディヴァリアの街の一角で、壁に背を預けていた名も無き魔導士が掌で編んだ灯りが、ほんの
僅かな生を得て黒を彩り、生を終えて消えてゆく。蝶を追う様に、鳥が。鳥を追う様に、龍が。空を舞う度、虚空へ消える度、それを見ていた者達が喝采を挙げ、チャリチャリと小気味の良い、投げ銭の音がそれに続いた。別のところではまた、きらきらとした粉が
複雑な動きを示して、宙に漂っていた。その光の粉を辿った先には、薄物一枚に、豊かな肢体を晒した狼人の女の姿があった。女はその肢体を惜しげも無く晒しながらくるくると一人踊り、その掌からは、先程の粉がぱらぱらと巻かれている。それもまた、魔導に
より齎される光の一つに他ならなかった。光の中で、光よりも尚女は魅力的に輝いている様に見え、目を奪われた男達が囃し立てる。その内に女は良い男を見つけたのか、踊る事を止め、一人の男に腕にしなだれかかってその場を後にした。そうすると、それに
代わる様に今度は別の女、或いは少年、そしてこれは中々に度胸の据わった、逞しい肉体の男も、思い思いに踊ったり、自分を魅力的に見せるポーズをしては、中々に悩ましく、卑猥な様子を惜しげも無く晒す。夜に生きる者達は、そうして昼の間は外には出ず、
夜になると現れては街の一角で、街を彩る花と化していた。彼らは陽の光ではなく、魔導により齎される妖しく蠱惑的な光が、自分達をより魅力的に見せる事を充分に心得ていたのだった。豊かな乳房と尻を持つ女も、華奢な手弱女の様な少年も、筋骨逞しい
益荒男も、妖しげな光は分け隔てなく艶めかしく見せては、それまで訳もなく、自分の好みはこうだと思っていた者達の理性と概念を突き崩し、欲望を疼かせ、喉を鳴らさせ、そうして腕を伸ばさせた。彼らに声を掛けたのは、意外にも場慣れもしていなさそうな
男達ばかりだったし、女に至っては、声を掛けた方もまた、女だった。それでも彼らは一様に、ただにこりと笑って、自分に声を掛けた相手の腕を取り、にこやかにその場を去ってゆく。闇の中へと、帰ってゆく。そうして、花が消えれば、また新たな花が現れて、
咲き誇る。魔道の妖しい煌めきに満ちたディヴァリアの夜は、彼らの嫌う朝が来るまで、長く、訪れる者全てを絡めとる様に広がり、続いてゆく。光石も、人も、同じだった。夜が訪れるのを待ち、そして夜が来れば、蓄えていた自分の魅力を、存分に曝け出すのだった。
「ガルジアには、とても見せられないな」
 別れた白虎の事を思い出して、クロムは苦笑した。純粋な彼が、今この場に居合わせたら、どんな顔をしていただろうか。そっと目を背け、何か明るい話題でも差し出してくれたのかも知れない。今は、どこに居るのだろうか。何を、しているのだろうか。街を彩る
花を見る事を止め、クロムは空を見上げた。ディヴァリアの夜の空は、他の街とは違い、目立たず、まるで存在していないかの様に地味に見えた。終わり滝でガルジアと別れて、ここまで来た。考えてみれば、もう随分と会っていない様な気がする。実際は、それほどの
期間が空いた訳ではないのだが。あの日。ラライト修道院が業火と、続く爆発に襲われた日。道から外れた場所で泥に塗れて気絶していたガルジアと出会ってから、終わり滝での決着を見るまで、ほとんどの時を共に過ごしていたのだ。穏やかな日々だった、
と思う。様々な思惑に囲まれ、戸惑い、悩み、涙し。ガルジアにとっては、到底穏やかとは言えなかった日々ではあるので、今そう思ってしまうのは、なんだか申し訳ない気がしてしまうのだが、しかしクロムにとっては、穏やかな日々だった。不老不死を得て、
代わりに居場所を失くし、時の流れに、あるがまま風化する世界の中、己だけは風化せず、ただ黙々と生きていた。大木にでもなった様な気分だった。自分よりも幼い姿をした者が、自分よりも老いた姿へと成長し、やがては倒れゆく。それを見るのが嫌で、
一ヵ所には留まらなかった。どの道、自分の存在を知って利用しようと近づく者、気味悪がって離れてゆこうとするどころか、牙を剥く者の存在によって、留まる事などできはしなかったのだが。
 暗澹とした、闇の道。導無く、どこに続く訳でも無く、歩いてゆくだけだった。闇の中から時折何かが現れ、しかし通り過ぎると、また闇の中に消えていった。いつしか、何が見えても気にならなくなった。手を伸ばしても、伸ばさずとも、闇から生まれたそれらは、
また闇に帰ってゆくのが、わかっていたからだった。
 それでもあの日、手を伸ばしてしまった事を、自分は決して忘れる事はないのだろうと、クロムは思った。薄汚れて、傷ついたまま、無様に横たわっていた男の姿。冷ややかに見下ろして、見なかった振りをして歩き出す事は容易だった。それでも、
助けた。助ける事で、面倒に巻き込まれるという予感はしていた。そして、思った通りに、巻き込まれた。
 巻き込まれたと、そう、思っていた。しかし気づけば自分もまた、渦中にて存在する人物の一人となっていた。共に生きてゆこうと、そんな戯言を、ガルジアが口にしたのがいけなかったのだ。剣を抜き、それを他人のために使ったのは、あまりにも久しい事で、
眩暈がしそうだった。
 そうして、鞘を失った。
 そっと、手を伸ばしてみる。白銀の煌めきを放っていたそれは、今は黒く。空と同じ、闇に染まっていた。長い間、不老不死の自分を支えていた鞘は、一足先に死を迎えたのだった。確かにこの鞘は、生きていたのだった。生きて、自分と共に歩いていてくれた。
 窓から目を逸らし、部屋へと視線を戻す。ライシンは、まだ戻っていなかった。クロムはしばらく思案に耽っていたが、書き置きを一枚残してから、部屋を出て、ディヴァリアの街へと繰り出した。外に出た瞬間に、耳を劈く程の喧騒が聞こえた。宿の
窓から見ているのと、それほど変わらないと思っていたが、こうして外に出て、全てを目の前にすると、やはり違っていた。先程までは大きな物音にしか聞こえなかった声が、はっきりと聞こえる。ささやき交わす声。さわさわとした衣擦れの音。からからと
笑う声。一つ一つが、控えめで、その上で、そのどれもが淫靡さを含んでいた。
 クロムは、それらにそれほど気が引かれた様子を見せる事はなかった。さっさと人通りを抜け、人の少ない方を目指す。そうしていると、細い路地に入り込む。ここまで来ると、喧騒は遥か彼方になり、そして灯りもまた、少なくなり。空に昇った月と星が、ようやく
主役を与えられたと自己主張を激しくしていた。ディヴァリアの街は、サーモストよりは建物の背は高く。南側のここでは、家々の明かりもまだ冷めやらぬ態で残っていた。観光客が多く、宿も多い地域である。本当に寝静まるのは、朝方の薄っすらと視界が
開けてくる、曙の頃だった。その時から、陽が上り切る時まで。その僅かな時間が、夜の賑やかな街が、本当に眠る時だった。
「そろそろ、出てきたらどうだ」
 ぽつりとクロムが呟いた言葉は、虚空へ消えた。今は、どの様な音も、聞こえなかった。夜はまだ長い。どこかで男女の声が聞こえても、おかしくはなかったが、何故だか、今は聞こえなかった。それが魔導の仕業だという事は、なんとなく察知していて、
クロムは声を投げかけたのだった。どこからか、笑い声が響いてくる。
「ああ、やっぱり。あんたみたいな人には、わかっちまうんだなぁ」
 頭上から、声が聞こえた。建物の、二階。宿に設えられた、大き目のバルコニーの、柵の上に、それは座って、自分を見下ろしていた。薄白い月光に照らされても、それは強く、赤々とした印象をクロムへと届ける。刹那の間、クロムはリュウメイを
思い出した。ただ、リュウメイと違っていたのは、それは全身が赤かった、という事だった。そして、被毛でも、頭髪でもなく、鱗だった。赤の鱗が続き、唯一赤くないのは、その輝く金の瞳と、真白な一対の角があるからだった。赤い竜。クロムは、息を呑んだ。竜の
身体が、宙を舞う。器用に空中で身体を回転させ、最後はクロムの目の前へと身軽に着地する。
「初めてまして。不死の傭兵、クロムさん?」
「驚いたな。昼から妙な気配がするとは思っていたが、まさか竜だとは」
「ちっとも驚いた様な顔してないじゃねーか。まあ、それも仕方ないのかな。見掛けが若くても、中身はジジィだもんなぁ」
「そういう君こそ。竜なのだから、常人よりはずっと歳を取っていると思うがね」
「んじゃまぁ、お互いにジジィって事で一つ」
 そう言うと、愉快そうに赤の竜は笑った。音の無い空に乾いた笑い声はやたらに響いた。一頻り笑ってから、ようやく抱えていた腹から手を離し、竜がまっすぐに立つ。身長は、クロムよりも低い。竜の基準として考えると、それほど高い訳ではないだろう。翼などは
見当たらず、それでも赤い鱗が、やはり際立って目立っている。人込みの中に居ても、決して紛れる様な事はないだろう。顔以外は地味な色のローブに身を包んでいて窺えないが、先程の動きからして、相当身のこなしには長けている事がわかる。
「それで、私になんの用だ」
「まあまあ。そんなに嫌そうな顔するなよ。まずは一つ、自己紹介といこうじゃないか」
 邪険に扱おうとすると、なだめる様に両手を上げられる。そうしていても、その瞳は油断なく煌めいて、口元には不敵な笑みが浮かんでいた。やっぱり、リュウメイをどこか彷彿とさせるところがある男だった。軽薄さだけが、唯一の違いだろうか。リュウメイにも
そういう部分はあるが、それは心をある程度許した相手に限られている様に思えたし、自分にはそういう態度は決して取らなかった。この男は、逆である。誰彼構わずに、こういう態度をもって接して、そうして本当の表情を隠している様な気配しか感じなかった。
「俺はアキノ。見ての通りの竜人さ。あんたは別に、名乗らなくていいぜ、クロムさん」
「知らない人物に目を付けられるなんて。最近は私の事を追う奴も居なくなったと思っていたのに、残念だな」
「そりゃあ、皆表立ってあんたに会いに行かないだけさ。あんたは不老不死になって、そうしてもう随分になる。最初はそれを訝ったり、半信半疑だった連中も、今のあんたが若い姿のままぴんぴんしてるって聞いて、寧ろ今の方があんたは注目されているくらいさ」
「それで」
 僅かに距離を取りながら、クロムは剣を閃かせた。音も無く抜き放たれた剣先を、アキノの喉元に突きつける。アキノは、特にそれを見て動じるという素振りは見せず、表情も変わらなかった。クロムはそれを見て、剣を鞘に納める。脅した程度では、引かない様だ。
「なんのつもりなのかな。私の秘密を知って、追ってくる奴ならば追い返すか、首だけになってもらいたいし、大抵の奴はそうなったが。でも、今の私には連れが居る。そのままお引き取り願えれば、嬉しいし、助かるのだが」
「流石だねぇ、あんた。剣の腕も、中々だ。元々そっちが本業だもんな」
「そろそろ、本題に入ってくれないか」
「あんた、俺の仲間になってくれよ」
「仲間?」
「とぼけるなよ。魔人、さ。俺はあんたを仲間に。いや、少し違うのかな。そう。あんたを、迎えにきたんだ」
 束の間、クロムは相手をねめつけた。ガルジアの前では、多分リュウメイに怒りを覚えた時以外は見せた事がないなと、殺気を飛ばしながらもぼんやりと考える。
「私に、魔人に与しろ、と」
「別に、いいだろう? あんただって、魔人なんだから。魔人ってのは、てめぇの寿命を超えて、なんらかの手段によって生きながらえている奴がそう呼ばれるんだ。あんたはもう、百年はその姿を保ってるって聞いたぜ。だったら、あんたは魔人だろう。今更、
否定しても無駄だったのは、わかるよな。まあ、厳密に言えばあんたは不老不死だから。魔人よりも更に上位に位置するのかも知れねぇけど」
「魔人として、私を勧誘する。では、アキノ。お前もまた?」
「ああ、そうさ」
 ローブから赤い右手を竜は出し、宙へ。歌う様に上げてから、そっとアキノは己の胸に当て、目を細めて嫌らしく笑う。舌がちろちろとその口元から飛び出している様は、蛇を思わせた。蛇程は、舌は細くはない様だが。そうしていると、普段竜人を見かけない
という事もあって、その様は異様な淫靡さと、非常な頽廃とを孕んでいる様に見えた。まるでこの街の、夜のディヴァリアの中に、たった今生まれ落ちた、街の化身そのものの様だった。ローブを纏っていても長い尻尾は誤魔化せないのか、揺らめいては
妖しく目を奪う。
「竜人は、元来から長寿だ。己の寿命の長さにかこつけて、魔人と名乗っている訳ではないのか」
「そりゃ、いくらなんでも失礼ってもんだぜ。言われたくなくても、竜人は魔人だって言われちまうってのによ。他の奴らが、すぐおっ死んじまうだけの話だってのに。こう見えても、俺も百は過ぎてるさ。あんたの噂は度々聞いていたけれど、いざこうして会ってみると、
なるほどよくわかるなぁ。あんたは鬣犬だから、百年なんて普通は生きてられねぇ。俺は、普通でも生きてられるけどな。それでも、もっと歳は取るぜ。それで、な。あんたの力が、俺は欲しいのさ」
「なんのために」
「言っただろう。魔人のため、さ。魔人の中にも色々居る、それは、あんたもわかってるだろう? 望んで魔人になった奴は、まだいいさ。でも、そうじゃないのも居る。あんたも、そうだって聞いたぜ?」
 脳裏に、風化し、忘れかけていた記憶が甦る。血の海。その先に佇む、狂った魔導士。剣を、払った。最後の一撃だった。それが相手の身を切り裂き、全ては済んだかに思えた。しかし、刹那の後の、狂った哄笑。死体になった相手の口からではなく、
辺りの至る所から響き渡るその声。そして、相手の周辺の全ての血の蠢き。それが、己に向かってきた時の恐怖。クロムは、苦い顔をした。何度思い出しても、気持ちの良い風景ではなかった。そうして血に呑まれ、包まれ、飲む内に、この身体は
不死にして不老を得たのだった。
「あんたみたいな魔人の力が、必要なんだ。あんたは魔人の中でも、別格だ。そう、不死だ。さっきも言ったが、本来の寿命から逸脱したら、魔人だ。だから別に、不老である必要はないし、不死なんて、ほとんどの奴は実現できてない。それは不老ですら
同じ事だ。でも、あんたは違う。不老にして、不死。はっきり言って、あんたは魔人の括りにすら、収まらないかも知れねぇぜ。それぐらい、まったくの異色なんだ。おお、羨ましいねぇ!」
「こんな身体を、羨ましいと思うのか」
「あんたみたいなのを見ちまうと、逆に俺達普通の魔人は、自分が本当に半端だって事を思い知るんだよ。いっそ、あんたぐらいになれたらってな」
「難儀な事だな。いずれにせよ正道には戻れず、石を投げられるだけでしかないというのに」
「ああ、そうだなぁ。まったく、そうだ。だから、今なんだ、魔人の集結。わくわくしねぇか? 望んだ訳でもないのに、こんな身体になっちまった。そんな奴は、毎日怯えて生きているんだ。俺達から、何かをした訳でもないのに。俺達はただ、日々の中に、溶け込んで
いたいだけなのに。月日が過ぎれば、それは崩れる。だから、さ。俺は、魔人を集めたいんだ。魔人を集めて、どこか寄って立つ地を決めて。そこで、楽しくやろうじゃねぇか。正道の奴らなんかの顔色を窺わずにさ」
「魔人だけの、村か」
「そんなちっぽけなもんじゃねぇ! 国だよ、国! 俺達で、俺達だけの国を作るんだ! 隠れてこそこそなんてしけた事はしねぇ。あいつらに、俺達がここに居るって事、はっきり伝えるんだ。どんな形でも、俺達だって生きているんだって、声に出して言うのさ」
「国の体裁を保てる程、魔人が居るとは思えないがな」
「小さくても、国は国さ。それに、魔人がまったく居ないなんて事は、ありえねぇぜ。魔導は日々進歩し、魔導士連中の中には自分の寿命をどうにかしたいと思う奴が五万と居る。そんなの、今更言わなくたってあんたならわかるだろう?」
 終わり滝で、サーモストで対峙した、バインの顔が浮かぶ。バイン本人は、自分の力をクロム程ではないと評していたし、若さを維持できなくなれば老人の姿にもなっていた。しかし、程無くしてバインもまたその道を選ぶだろうという事は、想像に難くない。
「それに、数が少なくても、魔人は強い。それも、わかるよな。不死の研究は、禁じられている。実験材料がいくらあっても足りないし、不老も合わせたら、長い時間もかかるしな。でも、自分の身体を改造する分には、咎められる謂れはねぇ。だから魔導士の
中には、魔人に足を踏み入れた連中が多い。そういう奴らは、強いぜ。欲望の塊で、死を忌避する気持ちも人一倍強いからな。魔人である事を咎められずに、好き勝手に振る舞える国ができるんだ。夢みたいじゃねぇか。いや、夢じゃなくて、これから現実にするんだが」
「お前の言いたい事は、よくわかったよ。アキノ。でも、私は」
「辛くねぇのかい。一人っきりで。あんた、ずっとそうしているつもりかい」
 遮られて、クロムは黙った。
「魔人が集まれば、きっと寂しくねえよ。そりゃ、あんたみたいに完璧な不老不死を実現できている奴なんて、居ないかも知れない。でも、普通の奴らよりは、ずっと長く、あんたの傍に俺達は居られるぜ。あんた、そんな身体で、そんなに強いのに、あんまり心は
強くねぇんだな。顔に、寂しいって書いてあるぜ」
 はったりだった。それは、わかっていた。適当な事を言い繕って、こちらへ靡かせようとする。それでも、クロムはしばしの間、口が利けなかった。胸に浮かぶのは、あの白虎の姿。元に戻る方法を探し、共に生きようと言ってくれた、心優しい修道士だった。けれど、
本当にこの身体の呪縛を解き放つ術があるのだとは、クロムは思っていなかった。それが容易く見つかるのなら、自分は既にこの呪いを解き放ち、そして屍となって土に帰っている。
「本当の事がずっと言えなくて、行方を晦ませる奴だって居る。魔道士ならまだ、そういう奴だって思ってもらえるかも知れねぇが、普通の人の中に混じっちまった奴は、そういう訳にはいかねぇ。嘘を吐かずに、本音が言えて、そして長く一緒に居たい。全部
合わせたら、俺達はもう、魔人同士で寄り集まるしか、ねぇんじゃないのかい」
「言われなくとも、わかっているさ」
 わかっていた。それぐらい、ずっとわかっていたのだった。いつかガルジアは自分を置いて。否、自分はガルジアを置いてゆく。身に宿る呪縛のために。払う術が見つからず、今まで涙を呑んできた様に。その恐怖と絶望は、いつしかあまり感じなく
なってきた。ガルジアと触れ合うまでは、だ。そしてまた、それは訪れる。絶対的な時の流れは、自分とガルジアを引き裂く。
 そして、また独り。
 僅かに、身体が震えた。アキノが目を細める。口元の笑みは、いつの間にか消えていた。
「……悪いが、私は一緒には行けない」
「そうかい。約束を交わした相手でも、居るのかな」
 見透かした様な事を、アキノは言う。アキノがどこまで自分の事を調べたのか、それはわからない。
「まあ、いいぜ。今じゃなくても、いいんだ。いつか。それで、構わない。他に頼る伝手が無くなった時でもいい。ほら、これ」
 アキノが懐を弄ってから、手を差し出す。掌の上にあったのは、その鱗の色とよく似た深紅のリボンだった。
「これは俺の血で色付けした奴だ。おっと、趣味が悪いなんて、言うなよ。気が変わったら、こいつを……あんたが作れるなら作ってもいいし、魔鳥が作れる奴に頼んで作ってもらって、その足に括り付けてくれ。それを空に離せば、あとは勝手に俺の所に
飛んでくる。ついでにあんたの居場所を書いた紙でも挟んでくれれば、俺はいつでも、あんたの所へ行くぜ」
 ガルジアとの、約束があった。それを、受け取るべきではなかった。しかし、クロムは自分でも気づかぬ内に、手を差し出していた。自分の行動ながら、保険を掛けている様で、あまり気持ちの良い物ではないなと思う。
「いいんだよ、それで」
 アキノが続ける。なんとなく、クロムはこの男の事が好きになった様な気がした。おちゃらけた態度をしていても、その中に芯の強さが窺えるからだろうか。
 リボンを受け取り懐に仕舞い込む。一歩下がったアキノがにこりと笑っていたが、不意にその表情が厳しい物へと変ずる。
「俺の張った結界に、誰か感づきやがったみたいだ。あんたを追いながら作ったから、あんまり質の良いもんじゃねぇ。こりゃ、破られるな。そんじゃ、クロム。機会があったら、また会おうぜ」
 クロムは、何も言わなかった。アキノが牙を見せる様に笑いながら片目を瞑り、そのまま身を翻す。赤い尻尾は、まだゆらゆらと揺れていた。やっぱり赤い髪の男を思い出した。
 走り出したアキノが路地の角を曲がると、突然爆発が起きたかの様に、耳に騒音が戻ってくる。大通り程ではないが、ここにもやはり、音は存在していたのだ。軒を連ねる宿から上がる、鼾や嬌声。遠くでいまだ冷めやらぬ馬鹿騒ぎを続ける人々の喚声。そんな物が
一気に溢れて、途端にディヴァリアの夜はクロムの下へと帰ってきた。
「クロムさん」
 背後から声がして振り返る。月明かりの下に、真白な被毛。一瞬、ガルジアを思い出した。それでも声の違い、身体の大きさから、そうではない事はわかっていた。昼間、貴石通りで会った白熊のベリラスだった。
「こんばんは、ベリラスさん」
「今、不思議な気配がしたのですが……大丈夫でしたか? 妖しい結界があったので、破ってみたのですが」
「いえ、私は何も。確かに妙な気配はありましたが。今は、それも無くなった様です」
「そうですか。こういう結界を張る様な輩は、かなり力が強い事が多いです。どうか、お気をつけて」
「……どうして、ここに?」
 にこにこしているベリラスに、そう問いかけた。ベリラスは相好を崩さずに、照れた様に手を上げ、頭を掻く。
「昼間の事で、ちょっと怒られてしまいまして。仕方のない事でもありましたが。なので、ちょっと自棄酒を」
 そう言うベリラスからは、確かに仄かに酒の臭いが漂っていた。
「良かったら、クロムさんも如何ですか」
「いえ、私は、連れを。ライシン君を待たせていますから」
「そうですか。彼は、お酒が飲める様になったのかな。それなら、今度は一緒に飲んでみたいですね」
「本人に、伝えておきますよ」
 軽く会釈をして、クロムはその場を後にする。一度、振り返った。ベリラスは、今は背を向けて、アキノが逃げて行った方を向いていた。アキノが居た痕跡は、何も感じられない。それ以上は、クロムも構わなかった。路地を戻る。空を上げる。
 月と、星。それだけは、何も変わらずに、ずっとそこにあって自分達を見つめていた。

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