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ジクジカ
 

 薄暗い室内に、埃と黴の臭いがふわりと広がる。
 装飾の施された台の上にある淡い光が、時折寂し気に揺れ、その度に、それに照らされた者達も
怪しげに揺らめいていた。
 そのすぐ傍で目を凝らしているのは、まだ若い獅子の男。
 立派な鬣は伸び放題だったけれども、邪魔になるのか、顎から下の部分だけは切り揃えられ、その鼻筋の
上には顔の大きさには不釣り合いな眼鏡がちょこんと乗っていた。
 見つめる先には、この臭いの元となっている額縁に入った絵があった。片手でも持ち上げられる程の
小さなそれを、先程から熱心に獅子は見つめ、しかしある程度すると、不意に興味を失くしたかの様な
表情になり、顔を上げて、大きな溜め息を吐いた。

「それで、どうなんだ? その絵はよ」
 声が掛けられて、獅子はそちらを見遣る。眉間に皺を寄せた黒牛の偉丈夫は、半分は睨む様に、
しかしもう半分はこちらの返答を恐れているかの様だった。
「残念ですが、贋作ですね」
「マジかよ!?」
 その顔が驚愕に包まれ、続いて放心した様に巨体が頽れる。すかさず獅子は、その大きな手が
下ろされようとしていた先にあった物を、手で退けた。
「間違ってんじゃねぇのか……」
「そう思って他の所に持っていって、鑑定料だけふんだくられたの、何回あったか覚えていますか?」
「わかってらぁ……。一回、本物だって言った奴も居たけれど、その時も結局は、偽物だったんだ」
 脱力していた黒牛が、薄っすらと涙を浮かべながらこちらに視線を向ける。黒くてごつい、偉丈夫の男が
そうしている所は、妙に間抜けで、しかし愛嬌のある様にも思えた。
「でもよ、今回の分け前、俺はそれで手を打っちまったんだぜ……?
こいつは値打ち物に違いねぇ! だから、他の奴は、お前らにくれてやる! ……ってな」
「見る目が無いのに、どうしてそういう行動に出られるのか、甚だ理解できませんね」
「なあ、これ、本当に」
「しつこい人ですね」
 集中力が途切れて、僅かに位置がずれた眼鏡を指で整えながら、獅子は言う。
「あなた、何回説明してもすぐに忘れるから、嫌なんですよ」
「そこを、どうか」
「仕方のない人ですね……」
 それで一度、獅子の男は立ち上がると伸びをして、それから大欠伸まで付け足してから、たっぷり黒牛を待たせて椅子へと戻る。
 手に持つ小さな絵を、今はもう価値が、それも大した値打ちも無い物だと理解しているために、雑に持ちながら口を開いた。
「……まず、塗料が新しいですね。この絵は。本物のキルレントの絵は、百年以上前の物ですから。
限りなく本物に似せようという努力の痕跡は確かに見られますが、光に当てれば微かな違いは見分けられますよ」
 そう言って、先程まで自分達を照らしていた光に手を伸ばし、軽く指で払うとその光を止める。
「それから、キルレントは絵具に宝石を砕いた粉を散りばめる事があります。
それもこの光では見る事ができます。しかし、この贋作を描いた者もそれを心得てはいるみたいですが、配合量が違いますね。
それから、使われている宝石も、安いクズ石ですね。光り方が、気に入りません」
「最後のはお前の感想じゃねぇか……」
「良いんです、私が気に入った光り方が、大体はキルレントの作品でもあるんですから。
あとは……そうですね、画風にも僅かに乱れがありますね。これを描いた人は、本来はこういった、長閑な風景画等を
描かない人だったのかも知れませんね。それから、何よりも極め付けに駄目なのが、ここです」
 獅子が指を差す。その先にあるのは、描かれた絵そのものではなく、それを収める額縁の隅だった。
「ここに文字が掘られていますよね? これは今となっては随分古い言葉ではありますが……。
お粗末な事に、宛て名の字が間違っていますね。キルレントは自らの家族、親しい友人等に、心を籠めて描いた
絵を贈った画家で、それ故に現存する絵が少なく、それが値打ちを暴騰させている原因でもありますが……。
絵を贈る際には、こうして贈る相手へ一言。それから、その名前を彫っているんですよ。
つまり言い換えれば、ここに綴られる名前は、ある程度限定される訳です。そんな訳ですから、
キルレントの絵が発見されて、今までにない名前がそこに記されていると、それが本物かどうなのか、
まず大騒ぎになって、よしんば本物だとしたら、それがキルレントの、我々が新しく知る事になった知己
だという事にもなり、それ以降のキルレントの絵の真贋を見極める目安になってくれたりもします。
話を戻しますが、この絵に掘られている名は、既に見つかっているキルレントの関係者の名で、
それ自体は問題はありません。が、文字を間違える、それも名前をというのは、余程の事がない限りは
まずありえませんよね。ただの走り書きならともかく、キルレント本人は、心を籠めた贈り物として、贈るのですから。
万が一、本物であって、しかし名前を間違えたという事も、絶対に無いとは言いませんが……。それも、これ程
他の点でも訝しい部分があると、仮にキルレント本人が描いた物だとしても、世間では本物だとは認められないかも知れませんね」
「ううぅぅ……」
 再び牛人の顔が臥せられ、その身体がぶるぶると震える。
「ち、ちなみに……いくらくらいで、引き取ってくれるんだ?」
「これも何度も言いましたが、私は贋作は取り扱う気はありませんよ。
他所に持ち込みとなると……贋作として扱って、銀貨一枚くらいでしょうかね」
「い、一枚……」
「残念ですけれど、これ、保存状態が悪いですよ。本物のキルレントの絵なら、それであっても金貨数十枚、
保存状態が良くて、あとは記された名前次第では、最低金貨百枚、最高でどれだけ行くのやら、というくらいでしょうが。
こんな状態では、飾っても苦情が来るだけでしょうし」
 牛人の身体から、完全に力が抜ける。それを獅子は溜め息を吐いて眺めていた。
「申し訳ございませんが、次のお客さんもいらっしゃるので、早めにお引き取りいただけますか」
 店内に居る、マントを纏い、フードをすっぽりと深く被った客へと、獅子は視線を向ける。顔は見えないが、背格好からして男なのだろう。
 その男は先程から自分の番を待ちながら、店内にある品物を眺めて、大人しく待ってくれている様だったが、
これ以上長引かせると、帰られてしまう可能性も否定できなかった。
「はあ、わかったよ……。仕方ねぇ、今回は、この光石だけで頼むわ」
「なんだ。出せる物、あるんじゃないですか」
「これは分け前とは別で、俺が一人で取ってきた奴だからな。でもなぁ……こんな小さい光石じゃなぁ」
 差し出された袋を手に取り、その中にある、淡い光を放つ光石を獅子が手に取る。
「おや、珍しい。色付きじゃないですか。金貨三枚出しますよ」
 途端に、牛人が顔を跳ね上げ、その表情が見る見るうちに喜色を露わにする。

「お待たせいたしました。申し訳ございません、随分と時間がかかってしまいまして」
 大喜びで、飛び跳ねながら店を出てゆく黒牛を見送りながら、苦笑いで獅子はじっと自分の
番を待っていた男へと声を掛けた。男は軽く頷く仕草をしただけで、それ以上は何も反応を見せない。
「本日は、どの様なご用件でしょうか? じっとお待ちになられていたところから察するに、
鑑定か、買い取りとお見受けしますが」
「……買い取り、かな」
「畏まりました。それで、品物は」
「すまないが」
 言いかけた言葉を、男は手を上げて制する。目を細めて、獅子はその様子を見つめた。
「邪魔が入らない場所で、できるだろうか」
 そう言われて、軽く辺りを見渡す。店内には既に、この男以外に客は居ない状態である。
「失礼ですが、人払いをしてほしいという要求はわかります。しかし、顔すら隠した方とは、
おいそれと私も付き合う訳にはいきませんね」
 片腕を後ろに回し、そこに力を籠める。いつでも男が暴れても良い様にと、準備をする。
 途端に、男はフードを跳ね上げた。それを見て一時、獅子は瞳を丸くする。
「これで良いか」
 現れたのは、角の生えた、蜥蜴人。いや、竜人の頭部だった。

「先程は、失礼しました」
 男を店の奥、住居として利用している部屋まで案内すると、獅子は一度店に戻り、そのまま店仕舞いを
してから竜人の元へと戻る。背凭れのある、尻尾を通す穴の開いた椅子へと座り、竜人には、今までマントの
中で窮屈そうに隠れていた太い尻尾があるため、背凭れの無い椅子へ座る様にと促した。
 そうして机越しに向かい合うと、決して小さくはない机が、今は小さい物の様に思えた。獅子は成人男性の貫禄を
充分に備えていたし、竜人の方は、それに輪を掛けて身体の方は大きかった。腰かけている椅子の方が、気の毒に思える程だ。
「すまないな。店まで閉めてもらうとは」
「構いませんよ、私は。どうせ、あの煩い人の相手をするのに、疲れてしまいましたから」
「彼は、ついていたな。あの光石が当たりで」
「本当に。あれも外れだったら、まだ店に残っていたでしょうね」
「そうなると、困るな。俺はまだ宿を取っていないんだ。長引くと、野宿になってしまう」
 くっくっと静かに竜人が笑う。それを聞いて、獅子はふと視線を窓辺へと移す。既に陽は沈みかけ、黄昏時。鮮やかな橙の色も次第に紫がかり、
外の通りには足早に家路につく者達の姿を垣間見る事ができる。まだ微かに窺い知る事のできる空には、一部のせっかちな星が早くも存在を主張していたし、
それを遮る様に、炊事の煙がもうもうと立ち昇ってもいるのだった。獅子は立ち上がり、窓へ近づくと、それに名残惜しそうな顔をしながらも、カーテンを閉じる。
 そうしていても、遠くからは子供のはしゃぎ声が聞こえる。窓の外は、生命の息吹に満たされていた。
「なるほど。グレンヴォールは、初めての様ですね」
 外部から覗かれる心配を全て排除し、自分の椅子へと戻った獅子が口を開く。
「と言うと?」
「ご心配なく。このグレンヴォールに限って、金があるのに宿が無い。そんな事は、ありませんよ。
年に一度の大祭りの季節は、例外ですがね。それ以外では、金を落とす相手を、この街は逃がしません」
「そうか。うっかり口を滑らせては、いけないみたいだな」
 続けて笑った竜人が、一頻り笑い終えると、居住まいを正す。そうして、まっすぐに見つめられると、
なんとなく獅子はたじろいでしまいたくなった。挙措から既に察してはいるが、相手は相当に腕が立つのだろう。
 そうでなければ、竜人であって、一人で出歩く事などままならないのかも知れないが。
「商談に入る前に、まずは、自己紹介から始めましょうか。それから、今お飲み物でも」
 この部屋に案内してあった時から準備を始めていた容器に、湯を注ぐ。ふわりとした湯気と共に、
淡い、甘い香りが広がる。それをそっと机の上へ。竜人へと供する。
「どうぞ。この辺りではあまり見られない、花の蜜を使っているんですよ」
「ありがとう。俺は、ヨルガと言う」
「ヨルガ、ですか……。この辺りでは聞かない名前ですね。
失礼ですが、ご出身は北の方……いや、外側なのでしょうか?」
「名前で、そこまでわかるのか」
「ある程度は。それに、竜人ですからね。自己紹介が遅れました。私は、スナベと申します」
「それも、あまり聞かない名の様な気もする」
「ええ。私は外側ではありませんが、それに近い所の出身でしたから。幼い頃に、この街へ来たんですよ。
ヨルガ。重ね重ね、詮索する様に訪ねてばかりで申し訳ないのですが、今お幾つなのでしょうか?」
「六十だ」
「……流石、噂に聞くだけの事は、ありますね。ありがとうございました」
「俺が嘘を言っているとは、思わないのか?」
「ここまで口を滑らせてきたのだから、信用しますよ」
 態度にこそ出さないが、初めて見る生身の竜人に、スナベは興味を引かれていた。竜人の希少さを語るには枚挙に遑がなく、
こういった話題でよく取り上げられる白虎などと比べても、ずっと珍しい物だった。そんな竜人と、このグレンヴォールで。金が物を言う街で
会う事になるとは、夢にも思わなかったのだ。顔を隠して会いに来たのが、別の種族の者だったら、スナベも流石に初対面で家へ
招く様な事はしなかったかも知れない。
 マントを脱ぎ、ようやくその姿を曝け出したヨルガを、スナベは見つめる。外側は赤銅色の鱗に覆われ、内側の顎から首、そうして更に下へと、赤銅の身体を
真っ二つに割る様に引かれているであろうと思われるのは、象牙色のもう少しだけ柔らかい皮膚だった。革のベストを着こんでいて実際には窺い知る事はできないが、
概ね見立てに違いもないだろう。張りのある胸と、その胴周りの筋肉は猛々しさを伝えていたが、意外な程に腰の辺りは細く引き締まり、鈍重という印象を
受ける事はなかった。後頭部からは、竜人の証であると言いたげに、細めの角が数本、垂れ下がる様に生えており、頭頂部からはその真似をするかの様に、それほど
豊かとは言えないながらも生えた白銀の髪が、正面からだと僅かに見えた。瞳は深緑色を湛え、一見厳つい見た目を中和するかの様に、穏やかな光が灯っている。しかし、曝け出された
腕に走るいくつもの傷が、この男の見た目がただのこけおどしではない事を、まざまざと主張していた。腰に巻かれたベルトには、左に手頃な大きさなの長剣が、そして後ろに
真一文字の形で、短剣が挿し込まれている。それ以外にヨルガが持っているのは、今は床に下ろされている手提げの革袋一つだけだった。
「その容姿からして、竜人というのは、本当に長寿なんですね。ヨルガ」
 六十を過ぎたと告白したヨルガの容姿は、お世辞にもその年齢の通りには見えなかった。先程見た通り、発達した筋肉は成熟した二十代、
三十代のそれであったし、所作の一つをとっても、どこにも年老いた事を感じさせる物は見当たらない。
「普通の者より、ほんの数倍長いだけさ」
「それがどれ程、普通の者達にとって羨むべき事なのか。きっと、本人達が知る時は来ないのでしょうね」
「スナベ。お前は、羨ましいと思うか?」
「さて、どうでしょうね。今は特別、そうは思いません。私には想像もつかないところで、不便な事も、
多いのでしょうから。安易にどちらが良いかなんて、とても言えませんね」
「そうだな。寿命が長いというだけで、魔人扱いされる事もあるしな」
「それはまた。魔人の定義からも、外れているのに。気の毒な話ですね」
「それで、話は戻すが」
 ヨルガが、懐へと無造作に手を入れる。少しだけ冷めた茶を啜り、スナベはそれを待ち構えた。
 そっと差し出された、ヨルガの手。開かれた掌の上にちょこんと乗せられていた一枚の硬貨を見て、スナベは思わず呻いた。
「カルナスト白金貨」
「流石。一目でわかるんだな」
「心底呆れましたよあなたには」
「偽物ではないぞ?」
「そういう呆れ方ではなく、さっき突然に現れた相手なのに、逐一私を驚かせてばかりいるから、呆れているんですよ、ヨルガ。
それは、そうやって軽々しく取り出して良い物ではないのですよ。私だって、この街の美術館に保管されている物を、
一度拝見したくらいしか縁の無い代物なのですから。それを、どこで?」
「古いアストニアの遺跡でな。スナベ、俺は、自分の出生や、種族について調べているんだよ。その、ついでさ」
「竜人について、ですか。自分の出生というのは?」
「残念だが、俺は物心ついた時から、こんな風でね。初めの頃は、自分に縁のある者は
どこかに居ないのだろうかと、探し回っていたもんさ。この歳になるまで、結局それらしい手がかりもなく
過ごしてしまったが……。それでもこの生き方は、俺には性に合っているみたいだ。数ある遺跡の中でも、竜人が
関係したと思われる物を調べて、ついでに生活の足しになる様な物を持ち替えっては、流れるだけの生活さ」
「竜人ですか……。私も、それほど詳しくは存じあげませんが。
昔は今よりももっと数が居たとは、よく言われていますね。また、彼等は一人一人が、非常な才に
恵まれていたとも。その上で寿命まで、私の様な者達とは比べようもない。それなのに、今は何故だか、
生きている竜人というのはあまり見掛けなくなったと聞きます。実際、私も見るのは、あなたが初めてですし」
「ああ、そうなんだ。一説によれば、竜人は人目を避ける様にして、姿を眩ませたとも言われている。
それが本当だとして、どこに行ってしまったのか……。もしかしたら、外の世界へと、行ってしまったの
かも知れないな。そうして俺は、まだ子供だったからなのか。残されて、それっきりだ」
「辛い旅だったんですね」
「そうでもないさ。自由に生きるのは、俺は好きだよ。こんな身でも、片田舎で静かに暮らす事を
選ぶくらいなら、充分に許されるはずだからな。それでも、俺は、それは嫌だと思った」
「そうですか」
 ヨルガが机の上に置いたカルナスト貨を、スナベはじっと見つめる。
「手に取っても?」
「構わない」
 おずおずと手を伸ばし、それを掴み上げる。表面には細かく複雑な模様と、翼を広げた鳥の模様が刻印されている。
「アストニアの遺跡で、ですか。その遺跡にも、竜人が関係あったのですか?」
「というよりは、関係があるかどうか、調べに行った、という方が正確かもしれないな。何しろ、手がかりという物がない」
「私の知る限りでは、そういう話は聞きませんね。竜人の伝説といえば、今は亡き北の国では、それが
崇められていたといいますが。ああ、確かに本物だ。見てください、ヨルガ。今私の指から光を出して当てていますが、
この硬貨が微細な光を放っているのが見えるでしょうか? カルナスト貨は、既に滅びたアストニア王国で
使われていた物ですが、製造の際に彼の地で当時採掘されていた、トニアという金属を混ぜ合わせて
作られている物なんです。トニアの不思議なところは、宝石の様にその中に魔力を蓄えている事ですね。
ですから、私の出す光にも反応を示す訳です。……おっと、失礼しました。こんな話は、退屈でしたね」
 我に返って、スナベは照れ隠しに頬を掻く。なるたけ表面に出さない様にと務めてはいたのだが、
今日はこの不思議な出会いの連続に、自然と心が躍っているのだった。
「いや、続けてくれ。こいつは遺跡で探し当てて、路銀が厳しくなったらその都度売りに出しているんだが、
どうも買い叩かれている気がしてな。一度、じっくりと話を聞いてみたかったんだ」
「そういう事なら。……今言った通り、トニアは宝石と似た性質を持っている金属なんですよ。そもそも何故地中から
取り出されるこれらに魔力があるのかと言うと、私達は普段、大気に存在しているそれらを利用する事で、消耗を少なく
しながら聖法や邪法、果ては術の類を行使している訳ですが、雨が降り、地に注がれ、地中深くまで流れた魔力達は、
言ってしまえば私達に消費されるという難を逃れている訳ですね。そうした彼等の行先が、宝石や、このトニアという訳です。
ただトニアの生成にはこれ以外にも条件がある様で、アストニア国内以外では採掘できず、またその代わりに、宝石が
アストニア国では採れなかったとも言われるそうです。そして、トニアとそれ以外の宝石の違いというのは、宝石は
砕く事で、その中に集積した魔力をようやく使えるのですが、トニアはなんと、長い間魔力を集めた事により、次第に
自らが魔力を生み出す性質を秘めてゆくのです。そうして、砕く必要すらありません。まるで、奇跡の様な
産物ですね。とはいえ、それが故にアストニアは周辺国から目を付けられ、やがては滅びゆく事に
なってしまいましたが……。トニアの価値が知られ、魔導士達が追い求める様になってからはトニアの流通量は
年々目減りし、このカルナスト貨の様な使い方は、非常な贅沢、道楽の類だとまで言われ、今では
カルナスト貨は幻の貨幣とも言われています。勿論、作ろうと思えば作れるでしょうが、トニアの現物を入手する事が、
非常な困難を極めますからね。そこまでする酔狂な人物は、まず見当たらないでしょう。こうしてこのカルナスト貨は、
極一部の者を惹きつけては止まない、言わば所持している事が一種のステータスを示す物となった訳です。
王族、貴族などは、これをまず一枚は持っているし、持っていなければ、大枚を叩いて求めるとも言われていますよ。
さて、カルナスト貨については、こんなところでしょうか」
 長々と話し終えたスナベは、渇いた喉に再び茶を流し潤す。食い入る様に聞いてきたヨルガが、ゆっくりと頷いた。
「よくわかったよ、ありがとう。どうやら俺は、これを過小評価していたみたいだな。路銀に何枚かは換金してしまったが、
金貨数枚程度では、効かなさそうだ。一応、鑑定士やそれに近い相手を選んでいたのだが」
「私が言うのもどうかと思いますが、これを売るのなら、そういう相手は避けた方が良いですよ。欲しがるのは
もっぱら王族や貴族の類ですからね。彼等に直接売りに行くのが、一番手堅いでしょう。既に持っていても、紛失した
時のためにと、更に欲しがる方も居ますし、それ以上に集めてただ自慢をしたい者も居ますから。
反対に鑑定士などは、まず値切って、そうして高く買ってくれる相手が現れるのを気長に待ちますからね。
あとは鑑定士といっても、物の価値がわからないのも居れば、価値を知っていても、必要以上に金を出さない者も居ます。
この辺りは本当に千差万別なので、細かいところは省きますが」
「ちなみに、スナベ。お前なら、これをいくらで買ってくれる?」
「さて。適正な価格で言うのなら、最低でも金貨十枚でしょうかね。私はそれぐらいしか、出しません。そういった、やんごとない方々の所へ
態々営業に行ったりはしないですからね。欲しがっている相手が丁度見つかれば、金貨三十枚くらいならあっさり
出してくれると思いますよ」
「そうか。では、悪いが二枚程買い取ってくれないか」
「……私の話、聞いていましたか?」
「生憎、路銀が足りないからここに居るのでね。それに、お前は正直に、俺にこのカルナスト貨について
教えてくれた。今までの奴は、どうにかして俺からこれをふんだくろう、安く買い取ろうとした奴ばかりだったし、盗み出そうとも
してきた。だったら、ここで売ってしまった方が俺には良い様にも思える。あと数枚はあるしな」
「記念にそれは残しておいた方が良いかもしれませんね。売り払った時の金で、いざ買い戻そうとしても、
そう簡単には取り戻せない物ですから。トニアと同じく。では、二枚買い取りましょうか」
 商談が成立し、スナベも懐から金貨を数枚。それから一度家の奥へと入り、残りの金貨を手に戻り、
それをヨルガへと手渡す。ヨルガはそれを受け取った後、そっと金貨を数枚、こちらへ戻そうとする。
「鑑定料、必要なんだろう? さっき、聞いていたぞ」
 訝る様に見つめていると、ヨルガが呟く。
「それは、そうですが。高すぎますよ、ヨルガ」
「授業料も込みさ」
 それ以上引き下がる気配がヨルガから感じられず、止む無くスナベは戻された金貨を、二枚のカルナスト貨と共に
懐へと仕舞い込む。
「ありがとうございます、ヨルガ。こんなに良い品を手に入れる事ができるとは、思ってもみなかった」
「助かったのは、俺も同じだ。それに、次からこれを易々と手放さなくて済む」
「お礼と言っては、安い物かも知れませんが。泊まるのに良さそうな宿をお教えしましょう。
グレンヴォールの街は、確かに金さえ積めばどこであろうと泊めてくれる様な所ですが、それでも良し悪しはありますからね。
それに、この街の近くには、ヌベツィアもある事ですし」
「ヌベツィア?」
「おや、ご存知ないのですね。この街の南西にある、吹き溜まりの街の事ですよ。様々な理由でこの街に
居られなくなった者。この街から、不要と断じられた物。そういった良からぬ事柄の全てが、あの街にはあるのです。
そうして、ヌベツィアに住む者達の事を、この街の者はヌペツと呼ぶのです。彼等は柄も悪く、腕付くで事をなす
性質の悪い悪漢がほとんどですからね。ですから、宿を取るにしても、この街の南西部や、外側に近い方には、
金目の物を所持したまま行くのは控えるべきでしょうね」
 グレンヴォールの地図を取り出すと、スナベは思いつく限り、この街に不慣れな者であろうと安心して
利用する事ができる宿の場所を指し示す。大抵は中央部寄りの、しかし観光客を迎える場からは少しだけ
外れた様な場所だった。あまりに賑やかなところでは盗みも横行しているし、竜人である事も考慮すると、外周と
中心の間が適当だろうという判断だった。
「それでは、お気をつけて」
「ああ。今日は、ありがとう。良い店を見つけたよ」
「そう言ってただけると、私も嬉しいですよ。ヨルガ」
 要件を済ませたヨルガを、店の入り口まで見送る。ヨルガは再びマントを羽織り、フードを目深に被ると、
軽く手を上げてから、振り返らずに去っていった。しばしそれを眺めていたスナベも、やがては扉を閉め、自室へと引き返す。夕焼けの
グレンヴォールは、奇妙な邂逅を見届けると、徐々に宵闇に包まれていった。

 竜人のヨルガと出会ってから、数日後。スナベは、夜のグレンヴォールの街を歩いていた。
 知人に頼まれていた鑑定の仕事を済ませたスナベは、急ぐ事もなく、まもなく本当に暗がりに落ちるのを待ちわびて、
ざわめく街の中を行く。街の中央、大通りから一つ外れたそこは、酒場や賭場、またそれらには付き物の妓館が軒を連ね、この一夜を人生の
大勝負と決め込んで、勇んで来る者達の溜まり場となっていた。大金と言うにはいささか大袈裟ながらも、賭け事の勝者は
歓喜の咆哮を上げ、そうして負けが込んでしまった者は、身も心も、ついでに財布の中も寒くなって不貞腐れてはいたけれども、
憐れんだ者から僅かばかりの種銭を恵んでもらうと、喜び勇んで再び賭けへと乗り出すのだった。真新しい石畳の上を、陽気な顔の
酔漢達が大股で、肩を組みつつ、下手な高歌放吟を披露しながら歩いてゆく。道に面した妓館の二階の窓からは、それを見下ろす兎頭の
妖婦が腕を組み、悩まし気に胸を寄せ上げながら、金を持っていて、何よりも自分を今夜の相手と選んでくれる男の一本釣りを試みようと
している姿が見て取れた。その向かいの建物の二階からは、こちらは男娼専門なのか、少女然とした、少々痩せぎすの犬の青年が、
こちらも自分の武器がなんなのかを充分に心得ている様子で、ただ憂いを帯びた表情で通りを歩く男達を見つめている。
 これが、現在破竹の勢いで発展し続けているグレンヴォールの、毎夜繰り広げられているごく当たり前の光景だった。スナベはそれらに
大して気を留める事もなく歩いていたが、しかし向こう側からの、特に今窓から通りを見下ろしている娼婦達からの熱い視線を感じていた。
 彼女ら、或いは彼らは、スナベの身に纏う、鑑定士である事を証明する、黒を基調として、胸部に何者をも見通す眼を模して金糸で彩られた
ローブに気づくや、ざわめくと同時に、はっきりと遠くからでもわかる程に自己主張を激しくしていたのだ。もっとも、スナベは相変わらずそれに
取り合うつもりもなく、可憐に咲いても、見つめられる事も、愛でられる事も無い花々の間を無言で通り過ぎてゆく。つとその時、少し先の酒場から、
大きな身体の偉丈夫が現れた。スナベは微かに目大きくする。それは、いつも自分のところに品を持ち込み、先日は散々に時間を奪った、あの
黒牛の巨漢だった。
「お、スナベじゃねえか」
「こんばんは。早速あぶく銭の浪費ですか」
「そんなに悪い事して稼いだ金じゃねぇんだがなぁ……。まったく、あんたはいつもそんな感じだな。
せっかくこんな所に居るってのに、辛気臭くていけねえや」
「帰り道で、一番の近道だから、というだけの話ですよ」
「ふぅん。そうなんだ。ああ、そういえばさ、あんた、竜人って見た事あるか?」
「と、いうと?」
「いやさ、今、この店に竜人が居てよ。あの体格、多分この間、あんたん所に居た時に、俺の後ろに
居た奴じゃねぇかなって思うんだよな。顔も見えなかったけど、あの体格もそうだし、なんとなく、身のこなしもそれっぽいし」
「あなた、そういう部分の目は本当に良い物を持ってますね。物を見る目は、からっきしなのに」
「そう言うなやい。自分でも、自覚してるんだからよ。いや、それにしても、あいつは強いなぁ。ちょっと前に、喧嘩がおっぱじまってな。
まあ、竜人だからな。大方物珍しがった酔っ払いが絡んだんだろうけど、赤子を捻る様な扱いだったぜ。ありゃ、手合わせはごめんだな」
 黒牛の男は、それから二言三言話しをすると、軽く手を振ってその場を立ち去ってゆく。なんとなく、スナベはそのまま帰るという気を
失くして、そっと今男が言った酒場へと顔を覗かせた。そこには確かにも遠目でもわかる、赤い鱗の竜人の男が居た。確かに、
数日前に顔を合わせた、ヨルガに違いなかった。そして間の悪かったと言っていいのかどうか、当のヨルガも丁度酒を呑み終えて
顔を上げたところだったために、覗きこんでいたスナベと目を合わせてしまう。ヨルガはちょっと考える様な顔をした後、大きく手を上げて、
手招きをしていた。一瞬、スナベはここから逃げるかどうか逡巡したが、結局は諦めて、酒場へと足を踏み入れる。
「こんばんは、ヨルガ」
「ああ、スナベ。奇遇だな、お前もこんな所に来るんだな。てっきり、自分の家で
茶をゆっくりと飲む事以外は、あんまり興味がないのかと俺は思ってたよ」
「おおよそ外れてはいませんが、ちょっと用事があったものでしてね」
 少し酔っているのか、ヨルガは先日よりも大分砕けている様にスナベには思えた。もっとも、先程の牛の話通り、
一勝負した後なのか、他の客は皆遠くからその姿を見つめているだけで、そういう意味でもヨルガは話し相手が欲しかったのだろう、スナベが
隣へと座ると、更に機嫌を良くしていた。そのままスナベは何を頼もうかと思っていたが、ヨルガが自分と同じ物をと言い出したので、それに任せる。
「いや、今日はいい気分だ。俺が奢ってやろう」
「またそんな事を言って。この街で金を使おうと思ったら、あっという間に無くなってしまいますよ、ヨルガ」
「なあに。そうなったらそうなったで、また遺物でも探しに行くさ。別に、自然の中でも生きていけない訳でもないしな」
「逞しい人ですね。……今日は、顔は隠さなくて、良いのですか」
 スナベの店に現れた時のヨルガを振り返って、スナベは問いかける。竜人などの、希少な種族についての事情も
鑑定士であるスナベはある程度理解していた。時にその種が災いして、人攫いに遭う事もあるのだ。
「このグレンヴォールでは、流石にそういうご法度は中々無いとは思いますが、南西にはあれがありますからね」
「平気だよスナベ。少なくとも、俺は大抵の奴には負けたりしないし。そうでなかったら、どうなったのかは
わからんが。それに、あの時俺が顔を隠していたのは、どちらかと言えば面倒事を避けるためだ。店の主が、
俺の姿や身の上を知って、足元を見やしないか。それに、そういう奴らは伝手も多いしな。あれはただ、店の主人が
そういう厄介な奴じゃないかと思っていただけだ。お前は、そんな奴ではなかったな」
「買い被り過ぎですよ、ヨルガ」
「事実だろう」
「まあ、独り身で、その上店まで切り盛りしていますから、あの日の事を誰かに話した訳ではありませんが」
 スナベの元に、ヨルガの注文した物が届く。深く赤い、血の色の様な葡萄酒だった。一口飲んで、スナベは顔を顰める。
「酒は駄目だったか」
「いえ、最近ずっと飲んでいなかったものですから。すみません」
「お前は随分と質素な生き方をしているんだな。鑑定士なら、そこまで金には困らないだろう。
俺の品を買い取った時も、あっさりと金が出せた訳だし」
「ある物を、ただ計画も無しに使うのが嫌いなだけですよ。それに、グレンヴォールは大都市と言える程に
発展した街ですが、それでもまだ発展途上。一人暮らしで毎晩酔っぱらっては、身の危険もあるというものです。
かといって、人を雇う程ではありませんしね」
 しばらくはそうして、ヨルガと二人でちびちびと酒を呑み、つまみを食い、たわいもない話に興ずる。こういう形で人と
話をするのは、スナベにとっては久しぶりの経験で、そしてヨルガにとっても、それは同じ様子だった。ヨルガは思っていたよりも
単純なところもある人物で、ほろ酔いの今は、先日の様などこか威圧する様な部分もほとんど感じられず、自然とスナベも
話ができる様になっていた。話すのはもっぱら、珍しい品や、遺物のまだ眠っていそうな場所の話がほとんどだったが、一般の者が
聞いていたら欠伸の出そうな話でも、元来それを生活の糧として利用しているヨルガや、そこから持ち替えられた品を見極め、
扱う事で生きているスナベにとっては、ごく当たり前の話題として成立していた。
「スナベは、遺物を探しに出かけたりはしないのか?」
「探すも何も。私はこの街からは、ほとんど出た事がないくらいですよ。今の店は、父から
譲り受けた物なんです。店を放っておく訳にもいきませんから、ずっとここに居るのですよ」
「退屈そうだな、それは」
「それが、言う程退屈ではありません。昔のグレンヴォールなら、さぞや退屈したでしょうが……。
こうして発展した今となっては、この街では大抵の物は揃えられますからね。勿論、相応の対価は必要となりますが」
「気になっていたんだが、グレンヴォールは随分と発展していたんだな? 俺が聞いていたグレンヴォールは、
もう数十年も前になるが、規模はそれなりではあるが、慎ましやかな街だと聞いていたのだが」
「仰る通りです。グレンヴォールは元々、農業が盛んな街でした。牧歌的でありながら、しかし東の大陸の中心に近い事も
あり、様々な者が訪れ、何かを始める地としてもよくよく利用されていたために、人の往来は非常に激しかったと言われています。
私が子供の頃のグレンヴォールは、そんな感じでしたね。それが明確に変わり、今の様に商業的な発展を遂げ、見る影も無い程に
変貌してしまったのは、今グレンヴォールを治めている、ドンドという人物の手腕に寄るところが大きいですね」
「ドンド、か。街の中央に像があるが、あれか? 随分趣味が悪いな」
「私は何度かお会いした事はありますが、意外と本人は気さくな人物でしたよ。それで、そのドンドですが、
元々立地の良いグレンヴォールに目を付けていたのでしょうね。今から十五年くらい昔の話ですが、その時彼はまだこの街に居る
商人の一人に過ぎませんでした。しかしこの街の将来性を見抜いて、もっと貿易に力を入れるべきだと説いて回った訳です。
それが、余りにも上手く行き過ぎてしまったんでしょうね。数年後には、街の長が老齢なのもあり、彼を推す声が
非常に高まったのもあって、彼は渋々とそれを引き受けたという話ですよ。本当のところは、わかりませんがね。
ただ、それから今に至るまでの時間で、グレンヴォールは本当に様変わりをしてしまいました。ヌベツィアについては、
この間お話しましたよね? 南西にある、小さな街です。あれも、グレンヴォールが一変した事により、生まれたといっても
過言ではない街なのですよ。街に不必要になった物は、ヌベツィアに流れ、街に馴染めなくなった者もまた、ヌペツになったと
言われています。元々は農業の街だったのですから、街が発展し続ければ、当然そういう仕事をしていた者達のいくらかは、
どうにもならなくなった訳ですね、農業には、土地が必要で。しかしその土地は、もっと違う事に使いたい。そういう意向が、
あまりにも強くなってしまいましたから。そうして、今では西の国の商業都市に迫ると言わんばかりに成長したのが、グレンヴォールです」
「なるほどな。しかし、聞いていると、随分無理矢理な事もあった様だな」
「そうですね……。ただ、決して悪い事ばかりではありませんよ、ヨルガ。私はこの件に関しては、
中立的だと自分では思っていますが、街の治安が遥かに向上したという事実があるのです。元々人の往来が
激しい地でしたからね。決して治安が良いとは、言えなかったのですよ。それで、ドンドは街を発展させ、そうして金儲けに
集中しましたが、その代わり、稼いだ金の一部で、とにかく街の治安を安定させる事も始めたのです。今のこの、盛り場を見れば、
なんとなくわかりませんか? 確かに賭場があり、妓館があり、酒場があり。それらは野蛮と言えるのかも知れませんが、重大な犯罪という物は、
極端に少ないのですよ、ここは。それは、本当に騒ぎを起こしたら、あちこちにある詰所から、警邏の者達が飛び出してくるからです。
ドンドに敵愾心を抱く者達は、確かに多いです。しかしドンドはこういった所にも目敏く手を入れる事で、元々弱い立場故に
困っていた者達の、最低限の安全を確保したのですね。ですから、結局この街に住む者は、如何にドンドを憎んでいても、
本当のところは何もするつもりはないと思います。本当にドンドのやり方が嫌な人は、とっくに出ていったか、ヌペツにでも
なって、目を光らせていますからね。……さて、この街の話は、こんなところでしょうか」
「よくわかったよ、ありがとう。スナベは色々な事を知っているんだな」
「いいえ。知っているのは、この街の事と……それから、自分の仕事に関係する事柄だけですよ。
それに、本当に知っているだけ……実際に見た事が無い物ばかりです。とても気になりますが、
店は空けられませんしね」
「店は、父親から引き継いだと言ったな」
「ええ。父は、息子の私が言うのもなんですが、とても優れた鑑定士でした。私も父に追いつこうと
努力していますが、まだまだ未熟と言わざるを得ませんね」
 話を終えて、スナベは一度渇いた喉を潤そうと、意を決して残った酒を飲み乾す。
「父が存命していたなら……私も、聞くばかり、知るばかりではなく、実際に触れてみたかったな」
「そんなにも、店が大切なのか」
 新しい酒を注文すると、ヨルガはそう言う。まだ飲むのかと視線で訴えるが、ヨルガは破顔するだけで、
何かを言おうとはしなかった。
「……大切ですよ、とても。父が私のために、取り戻してくれた店ですから」
「取り戻した?」
「ええ。本当はあの店、一度は他人の手に渡っているんです。父は確かに腕の良い鑑定士でしたが……。
物の真贋を見極める事はできても、人の言葉の真贋を見極める事は不得手な人でしてね。騙されて、
店を取られてしまった事があるんですよ」
 当時の記憶を思い出して、スナベは苦い顔をする。まだ幼かった時分の話。まだ自分が、父を憧れの的として見ていた頃。
「私はまだ子供で……。店を追い出されると知った時、泣き喚いて、父に随分と酷い事を言いました。
父が悪い訳ではなかったけれど、到底我慢できなくて。父はそれから、それまでも充分に勤勉な人でしたけれど、
更に身を粉にする様にして働いて、店を買い戻したんです。結局、それが祟って身体も壊してしまいましたし、
取り戻した店を私に渡すだけ渡して、亡くなってしまいましたが」
「あいよ、お客さん。あんまり飲み過ぎるんじゃないよ」
 威勢の良い、酒場の女主人の声と共に、酒がどんと目の前に置かれる。それで、スナベは我に返った。
「ああ。すみません、ヨルガ。こんなつまらない話を、ついしてしまった」
「謝る必要はない。俺が訊ねたんだからな、スナベ。辛かっただろう」
 顔を上げて、スナベは自分を見つめる竜人の顔を見つめる。深緑の瞳は、酔いのせいもあるだろうが、
鋭さはなく、今はただ優しい光を湛えていた。そうしていると、ヨルガは確かに六十の齢を感じさせる部分があると思える。
「辛かったのでしょうか。正直なところ、自分でもよくわかりません。
ただ……父に酷い事を言ってしまったという記憶だけが、ずっと残っている様な気がして」
「最期は、看取ったのか」
「ええ」
「なら、良いんじゃないか。俺には、できそうもない事だ」
「……重ね重ね、申し訳ない事を言いました、ヨルガ。あなたの前で、こんな風に自分に酔っても、
仕方のない事でしたね。あなたはきっと、もっと大変なのでしょうに」
 天涯孤独の身で歩き続けるヨルガ。彼にとっては、そもそも両親が今どうしているのか。生きているのか
どうかすら、わからない事なのだった。恥ずかしくなって、スナベは俯く。
「そんな事、言うもんじゃない。お前が悲しんだのも、辛かったのも、事実なのだから。
もっと不幸な奴が居るから、弱音を吐いてはいけないなんて、それこそ身勝手な言い分というものだ」
「ありがとうございます、ヨルガ。そう言っていただけると、なんだか、楽になりました」
 ヨルガが杯を手に取る。促され、スナベもそれにならう。今夜は、今までに無い程飲む事を、スナベは決めていた。

 グレンヴォールの街の北東、質素な佇まいの住宅地の中を、スナベは一人歩いていた。南西にあるヌベツィアとは
もっとも離れた対極の位置にあり、外側に近い方であっても、住民にとっては人気の高い区画となっている。この辺りには観光客を
迎える様な店を出す事は禁じられており、商われているのは日常生活に用いる消耗品、嗜好品の類がほとんどであったし、また店構えも、
決して派手派手しい様相で開かれている物は見つからない、落ち着いた環境が整えられた場所だった。
 道を行く者達も、この街に住む者がほとんどで、スナベがその中を歩いても、特に騒ぎを起こす様な連中もここには居ない。昼を過ぎ、
まもなく夕焼けが地上の全てを朱に染め上げようとする頃合いで、足早に帰路を急ぐものの姿も見える。それとは別に、夜の仕事を持つ者達が、
ここでは不釣り合いにけばけばしい衣装で外を出歩く頃でもあった。本人達もこの場ではそぐわぬと重々に承知していて、いつもの明るさは
抑えて、そうして盛り場へ出向けば、一変して派手に騒ぎをはじめる。夕暮れ時と、それから仕事帰りの朝方が、彼らが外を出歩く時間帯であり、
その時だけはこの落ち着いた空間にも、そうした色を売り、愉快に騒ぐ連中の姿が見られた。
 住宅地を抜け、閑散とした裏路地を歩く。壁一枚の向こうから、楽しげな子供の声が聞こえる。何度かそうして細道を抜け、抜けた先は、
もっともグレンヴォールの外側に近い一角だった。とはいえグレンヴォールは巨大な壁に四方を囲まれ、決められた箇所以外からは平時は
出られぬ様になっているため、灰色の厚い壁が、何者をも阻むかの様にそそり立つ様が見えるだけである。その壁沿いに歩いてゆくと、やがて、
唯一壁側に造られたそこそこ大きな、しかし質素な建物が見える。外壁は白で統一されていたものの、薄汚れ、所々は欠けている所から、そこが既に
人の手が及ばなくなってから随分な時間が経ち、見捨てられていた事が察せられる。古く、朽ちかけた木の扉が、無遠慮に外側に向かって開かれた
ままで、訪いの無いこの場を呪っているかの様だった。スナベは特に気にもせず、建物の内部へと足を運ぶ。
 整列した長椅子、その間にまっすぐ敷かれた、所々が破けた絨毯。その先にある、数段高い場所に設えられた木造の台。その向こう側にある、
成人男性より少し大きめの像。それだけで、おおよそここが、かつては教会として機能していたのだという事を知るには充分だった。明かり取りに
穿たれた壁から差し込む西日が、人気の無い教会の中を照らし出す。長椅子の一部に使われていた金具がそれに照らされて、ちかちかと
寂しげに、見る者とて居ないこの場で、僅かな時間の間だけ主張を続けていた。部屋の中央まで歩いてから、スナベはそれらを一瞥した後、そっと、
台の後ろにある像を見つめる。顔らしき物があり、しかし何も描かれてはいない像。耳も尾も無く、正体不明のそれは、物言う事もなく、
ただひっそりとこの場で、見捨てられてからも、佇んでいるのだった。
「随分酷い有様だな」
 声に、はっとしてスナベは振り返る。
「ヨルガ。どうして、こんな所に」
 すっかり見慣れた竜人のヨルガの姿。しかし、場所が場所であり、スナベは驚きを隠せずに問いかける。
「いや、旅の無事を祈願する様な場所はないのかと酒場で聞いたらな。この街には、そんな物は無いと言われて。
それで、色々聞いたらここには教会があるというから」
「意外と信心深い方なんですね」
「そうじゃないさ。使える物は、使うってだけで」
「とはいえ、ここに来られても、何もできませんよ。生憎ですが、グレンヴォールには、教会、修道院の類はここにしかなくて、
この教会も数年前に、打ち捨てられてそれきりですから」
「この教会も、か?」
「……ええ。グレンヴォールには不必要だと言われましてね。ここには一応、住み込みの者も居たみたいですが、
そういう人達も、ここでは来る者も居ないと、別の街へ行かれましたよ。とても皮肉な話ですが、ヌベツィアには教会が
あると聞いた事があります。吹き溜まりの街だと言われているにも関わらずね。とはいえ、あの街に態々行くのは勧めませんが」
「スナベ。お前は、どうしてここに?」
「用事で近くまで来たのですが、ふと思い出しましてね。ここを閉鎖する時に、持ってはいけないし、置いておいても盗まれて
しまうからと、私が引き取った物もありまして。それにしても、すっかり荒れ果てて……本当に、誰も来ない場所になってしまいましたね」
「そうか。……他には無いそうだし、仕方ないな」
 ヨルガは、立ち尽くしたスナベの隣を横切ると、適当な席に座り、静かに祈りを捧げる。西日に照らされた今、ヨルガの鱗や白銀の髪は艶やかに
輝き、数少ない光の当たる場所でそうして祈りを捧げている竜人の姿は、どこか神話めいた一幅の絵の様で、スナベは思わずそれに見惚れた。それから
スナベは反対側の席へ座ると、その妨げをせぬ様に注意を払いながら、同じく祈ってみた。特に祈る内容を決めて来てはいなかったが、
ふとヨルガの存在を見て、目を瞑りその旅路の無事を祈る。やがて、ヨルガの呼吸音が聞こえて、スナベもそっと目を開けた。
「お前は何を祈ったんだ?」
「商売繁盛、ですかね」
「なるほどな。それにしても、不思議なもんだな、あの像は」
「名も顔もわからぬ神像、ですか」
「スナベ。お前でも、あの名前がわからないのか」
「わかる人なんて、居るとは思えませんがね。絶対的な信仰の対象として、ただ神と呼ぶ以外の事は、私も存じあげません。
そうして誰の側でもないようにと、種族的な特徴を示す部分は表さずに造られるのがあの神像です。もっとも、新興の
怪しい宗教なんぞは、あれに好き勝手な耳や尾をつけて、自分達の側の生き物だと宣言したりする事もあるそうですが」
「信仰か。こんな所に来ていて言うのもなんだが、俺は、あんまり信じてないな」
「それには、私も同意しますよ」
「祈ってもどうにもならない事が、あまりにも多くありすぎた」
 切実なヨルガの言葉に、スナベは俯き、黙って頷く。
「人というのは、弱い生き物なのかな、スナベ」
「それは、そうでしょうね。こういう物に縋らなくては生きてはゆかれない人も、おりますから」
「俺は、よくわからないよ、そういう神経は。結局は、何かのせいにしたいだけにしか、思えない」
「何かのせい?」
「辛い事があった時に、何かに原因があると思い込んでしまう事さ。悪事を働いたとか、祈りを捧げなかったからだとか。
そうして、こういう場所で生きている様な奴らは、清貧に、健気に生きようとしているだろう? でも、そんな奴らですら、
悪い事が起こったら、祈りが足りなかったとか、果ては、神の試練だなんて言いはじめる。自分が信仰している相手のせいにする。
結局、正しく生きても、悪く生きても、人ってのは、何かのせいにせずには居られないのだろうか。俺は、それがなんとなく嫌なんだ」
「……そうですね。私も、そう思います。私は、店を奪われた時、父が悪いと思い込みました。何もかも父が悪いのだと、本当は、
そうではない事ぐらい、わかっていたのに。心が弱い者は、そうして何かのせいにしていないと、自分を保てないのでしょうね。
何一つ悪い行いをせず、清く、正しく生きてきた者が、ただ理不尽に捻じ伏せられる事を、まっすぐには受け取れないのかも知れません。
例えそれが、自分であれ、見知らぬ他人であってもね。しかし、ヨルガ。それは、あなたが強くて、何より、
強くあろうとしているからですよ。それと比べたら、私も弱い方ですから」
「そうなのかな。俺は、スナベも強いのだと思うのだが。今のお前は、昔を振り返る事ができているじゃないか」
「時が経ちましたからね、残酷な程。もう、父のせいにしようとしても、その父が居なくて、ただ虚しいだけですから。
やはり、私はあなたの様に、強くはない」
 ヨルガが、立ち上がり、スナベの元へと歩み寄る。自分を見下ろすヨルガと、スナベはしばし無言で見つめ合った。
「俺は、俺自身が強いとは、思えないよ。スナベ」
「……そろそろ、ここを出ましょうか。人に見捨てられた物や場所は、良くない霊が憑くと聞きます。
ここは特に、人の想いが強い場所。そうした想いに動かされる者も。出るやも知れません」
「そうだな」
 教会の入口で、ヨルガと別れを告げる。既に陽は沈み、夜空は輝く星々で満たされていた。スナベは一度、振り返って
教会を見つめる。ヨルガの姿は、既に見当たらなくなっていた。
「やはり、弱いな私は」

 書物の埃を手で払いながら、スナベは一息吐く。見渡せば、しんとした店内に、唯一見えるのは、
フードを被った男の姿。つい先程までは客が居たのだが、丁度、その客から本を買い取ったところだった。
「もういいですよ、ヨルガ」
 声をかけると、フードを被ったヨルガは、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。店番をしているスナベの元にヨルガが
遊びに来たのは、昼食を終えた頃だった。ヨルガはスナベの鑑定士としての腕に一目を置いた様で、色々と聞きたい事が
あると言い、スナベもまたそれを了承したので、客が居ない時に、談笑に興じているのだった。ヨルガの言から考えれば、
他の客が居ても顔を隠す必要はないのではと思うのだが、やはり竜人が屯しているというのは噂を呼ぶという事で、ヨルガはフードを
被り続けて、店を見て回っていた。
「それにしても、思っていたより客は少ないものなんだな」
「そうですね。煩い人が来ない限りは、いつもこんな風ですよ」
 鑑定士としての腕を活かし、売り買いまでを行うスナベだが、店はそれほど繁盛しているとはいえなかった。
 それでも生きてゆくのには充分な程の金は得ていた。少なくとも、この街の一部の者からは、金を持っている者と見做される程度には、
である。主な収入源は店の運営よりも、必要な時に、鑑定士を必要としている人物の相手をする事の方が多かった。特に今、急成長を遂げている
グレンヴォールでは、まさにスナベの様な人物は引っ張りだこであった。農業を主とした状態から、商業へと一転し、そうしてそれが
成功を収めたグレンヴォールである。良く言えば慎ましやかで、穏やかな生活ではあったものの、反面地味で田舎者という印象が
拭えなかったし、また自分自身もそう思っていた連中が、ある日を境に、煌びやかで華やかな世界へと飛び出したのだ。当然彼らは手に手を
取って、好景気に沸いている今、これまではただ指を咥えて見ていたり、憧れているだけであった、貴族的、或いは金持ちの暮らし方に、
必死に手を伸ばしはじめたところなのだ。その最盛期は既に過ぎ去ったとはいえ、今のグレンヴォールの街はまだ、この状態から
抜けきったとは言えない。元々グレンヴォールに住んでいた者はまだしも、街一つがその様な変貌を遂げたからには、周辺の、これまた
地味な連中、特に若者に至っては、我先にとグレンヴォールへと足を運ぶ有様であった。そして、そうした連中にとっては、如何に
金持ちそうに、また優雅そうに振る舞えるかどうかが一大事であり、そうしたある種の魔力に憑りつかれた者達が求めるのは、つまるところ、
本物である、という事なのであった。それ本来の価値がどうというのではない。ただ、本物である事を求めるのだった。著名な芸術家の作品。酒。ドレス。
織物。武器。防具。遺物。人物。それらの本来の価値ではない。本物である事、そうして他人に対して見せびらかす事ができる物。それら
こそが、今求められていた。そしてスナベの鑑定士という職業こそが、本物である事を、周りが納得できる形で証明できるのだった。故に、
スナベの元には、そういった、本物の証を求める者が、大枚を叩きにやってくるのだった。といって、鑑定士というのはそれほどになるのが
難しい職業という訳ではない。事実、そうした鑑定士の需要を見込んで鑑定士が増えたし、また鑑定士のお墨付きに価値がある事に目をつけて、
偽物であろうと、本物であると判断を下し金をせしめる者もかなりの数現れていた。皮肉な事に、真贋を見極めるはずの鑑定士自身の、
真贋を見極める必要が出てきてしまったのである。しかしそうなればなるほど、スナベの様な、長い間鑑定士を続けていた者の価値という物は
上がってしまい、鑑定依頼も殺到するのだった。特にスナベは、父親を含め、グレンヴォールが活性化するよりも以前から、この街に住んでいた
鑑定士なのである。それまではしがない鑑定士であったはずのスナベとその父の知名度という物は、事にこの景気によって爆発的な物へと
変じていた。鑑定士自体の真贋を見極める事ができぬ人々は、結局はスナベの様な、街の者にとってよく知られ、またある程度信用も
されている様な人物に頼る他、この街で滞りなく本物の証明を受ける事ができないでいるのだった。勿論スナベよりも、更に年期を重ねた
鑑定士も存在はするものの、それらはスナベよりも依頼が殺到し、結局はその数を減らすために鑑定料の値上げをしているため、スナベぐらいの、
信用できて、値もそれほど張らない鑑定士に落ち着く、という者もまたかなり多かった。とはいえスナベ自体は、鑑定料はそれほど取らないものの、
そうした道楽をする連中を相手にする事を良しとしないがために、自身の生活が苦しくなった時に何件か受け持つ程度ではあったのだが。
「それにしても、ここには本当に色々な品物があるんだな」
「勿論ですよ。ただの鑑定した物から買い取った品物もありますが、それとは別に、
売れそうな品物もありますしね。特に私は鑑定士であっても、魔導の品も扱いますから」
「そういえば、初めてあった時に、使っていたな確か。あの時、妙な気配を感じた」
「ええ。鑑定士の中には魔導の素養が無いので、そういった物に手を出さない者も居ますが。
私は嗜む程度ではありますが、修めていますからね。魔道士の方などが時折、自信作を持ち込んでくる事もありますよ。
宝石など、天然物を普通の人は持ち込もうとしますが、彼らは自らの手で作った物を売り込む事もできますからね」
「そうか、やはり魔法が扱えると、便利なんだな」
「ヨルガ、あなたは?」
「俺は、使えるが、使えない、と言ったところか。竜人が聖法などと相性が悪いというのは、聞いた事があるか?」
「ああ、そういえば、そうでしたね。確か、竜人は本当に古く、そして長く生きるから、私達の様に大気に満ちる力は扱いにくいのでしたか」
「そんな所だ。だから、消耗が激しくてな」
 ヨルガが掌を差し出すと、そこに青白い炎が現れる。ゆらゆらと揺らめくそれは、鬼火の様で、その内ヨルガが握り潰すと
何事も無かったかの様に消え去った。
「勿論俺はその分魔力も多いみたいだが、まあ、こんな事をしなくても直接殴ったり切った方が疲れないからな」
「でしょうね。その体躯と身体能力があれば、乱用する必要は無いですね。
……なるほど、そういうヨルガには、帯魔布は勧められるかも知れませんね」
「魔導士がよく使っている、あれか?」
「ええ。言ってしまえば、魔力を切り分けて保存して、必要な時に引き出して使う、という物ですね」
 説明をしながら、いそいそとスナベは店の隅にある小箱から、帯魔布をいくつか取り出してヨルガへと差し出す。
 両手を合わせて差し出すと、そこには黒、赤、白の三本の帯魔布が、巻き取った包帯の形で納められていた。
「帯魔布は、大別すると白と、それ以外があります。白いのは、持ち主が魔力で線を刻み、必要な時に引き出す物ですね。
引き出すと線が消え、帯魔布自体は残ります。そして、白以外。ここにあるのは、赤と黒ですね。これらは線を引くのは
任意です。そして、使うと燃え尽きて無くなります。つまり、この布自体にかなり強い力が籠められている、という事ですね。
白いのは一番安く、しかし使いまわしが効きます。そして他の物は使い切りですが、白とは比べ物にならない程の力を発揮します。
基本的に、色が濃い帯魔布程効果は高いですよ。なので、この場合は黒の帯魔布が一番効果が高く、そして値段も張る、という事ですね」
「そうか。なら、白をいただこうかな」
「その前に。ヨルガ、一度、書いてみてください」
 白の帯魔布をヨルガに渡す。ヨルガはそれをしげしげと見つめてから、困った顔でスナベを見つめる
「……どう書くんだ?」
「ああ、これは失敬」
 スナベも帯魔布を右手に取ると、端を掴んでから、それを一気に引く。途端に丸められていた帯魔布は一気に宙へと躍り出すと、そのまま僅かに
ゆらめきながら動きを止める。スナベは左手の指を二本突き出すと、帯魔布の手元の方へ添え、力を入れ指先を光らせる。そのまま指を動かすと、
まるで帯魔布はその動きに答えるかの如く素早く動き、スナベの指先をなぞろうとする。後は簡単な物で、スナベは思うままに光線を引き、やがて
端まで線を引き終えると、帯魔布は再び待機状態へと移る。
「巻き取った状態に戻したいなら、このまま右手の掴む手を離してください。巻き付けたい部位があるのなら、そこへ帯魔布をつけてから、
離すといいですよ。今回は巻き取ります」
 スナベが右手を離すと、帯魔布はその場で急速に自身を巻き取り、やがて安置してあった状態へと戻る。違うのは、線が引かれている
という点だった。光線は今や目立たぬ様に黒地の線へと変じ、大人しく自分の番を待つかの様に静かになる。
「使用する時は、身体か服に巻き付けてください。あとは身体の魔力の流れを感じ取って、勝手に線が消えて、今入れた分の
力が戻る様になっています。とりあえず、線を」
「ああ」
 実演した通りに、ヨルガは手早く帯魔布を使う。今のスナベの指導で、使い方は充分に理解したのだろう。程無くして巻き上がった
帯魔布をヨルガは掌に持っていたが、不意にそれはぶるぶると震えてから、先程ヨルガが見せた青い炎へと変じる。
「……やはり、竜人では駄目ですか」
「種族的に向かないのか?」
「懸念はしていました。しかしどちらかと言うと、あなたの力が強すぎるのが原因でしょうね。
あなたは線を引かない、色付きの帯魔布の方が良いみたいです」
「む、そうか。……しかし、そうなると持ちあわせが厳しいな……」
 ばつが悪そうな顔をして、ヨルガはじっと帯魔布の籠を見つめる、それを目で追って、スナベも苦笑した。白の帯魔布ならば、
銀貨数枚といったところだが、色付きの帯魔布はそれとは比べようもない程値が張るのだ。一番高価な黒の帯魔布にもなると、
これ一つで金貨数枚はしてしまう程だった。
「まあ、これは差し上げますよ。あなたにはカルナスト貨の一件もありますからね」
「良いのか? 大切な商売道具だろうに」
「ちょっと在庫が余ってしまいましたからね。こういうのは、あまり手元には起きたくない物でもあるんですよ。
忍び込んだ賊が、そのまま手に取ってこちらを攻撃……なんて事も、ない訳ではありませんからね」
 適当な口実をでっちあげて、ヨルガへと無理矢理帯魔布を手渡す。とはいえ、決して嘘ではないのだが。
「他に、気になる物はありましたか? 売れる物なら、お安くしときますよ。
とはいえあなたは旅をして、遺跡を巡るのですから、かさばる物は駄目でしょうけどね」
「そうだな……。あの非売品の剣は、なんなんだ?」
「……ああ、歌聖剣ですか」
 ヨルガが指示したのは、壁の高い位置に固定された箱の中に納められた、細身の剣だった。繊細な形状は、とても
剣としての役目は果たせぬのではないかと思う程で、その箱には非売品と書かれた札も貼ってある。
「この間、教会から引き取った物があると言いましたよね? 実は、あの歌聖剣がその内の一つなんですよ。
しばらく待っても引き取りに来られなかったら、売ってしまってくれと言われましたね。歌聖剣以外の品は売ってしまったの
ですが、あの剣はなかなか売り手が決まらないし、でも、見た目はいいので、あんな場所に飾ってあるんです」
「確かに、骨董品としては良いのかもしれないが……切るのに向いている様には見えないな」
「でしょう。骨董品としては、中々なのですがね。よく見てください、刀身に小さな穴が見えませんか?
気になって調べてみたのですが、歌聖剣というのは、歌術士が用いる剣みたいですね。歌術士は、知っていますか?」
「ああ。召術士の、親戚の様なものだろう」
「そうですね。ただ、召術士よりも力は劣ると言われています。彼らは精霊に愛される素質を持ち、そうして歌声を響かせる
事で、召術士の様に精霊を呼び出す事ができるのだとか。もっとも歌術士というのは、志す者が少ない上に、今では宗教関係者の
極一部にしか門戸が開かれていないと言われているために、中々詳しい事はわかりませんが。それで、あの歌聖剣ですが、
あの穴が空いているのは、剣を振る事で音を鳴らし、その音により、詩を歌うのと同じ効果を得て精霊を呼び出すためだそうですよ。
ただ、私も気になって少し振ってみましたが、ほとんどまともに音は出せませんでした。恐らくあれを扱うのには、相当な技量が必要と
されているのでしょうね。ですから、買い手がどうにもつかなくて。勿論、欲しいという者も居ない訳ではありませんでしたが、
この剣が如何に使いにくいかという事は、説明させていただきましたよ。騙して売りたい訳ではありませんからね。そういう訳で、
結局あの歌聖剣を使う人は現れないままなんです。そのまま使ったら、多分簡単に折れてしまうでしょうしね」
「難儀な代物だな。歌術士自体が、召術士に比べて大分劣ると揶揄されているというのに」
「そうですね。精霊に愛され、詩が歌える必要があり、更にはあの様な小難しい剣まで振るわねばならないとは。
魔導を志す者には、ちょっと考えられないですね。結局、私の店では骨董品の扱いですよ。結構気に入っているので、
構いませんがね。さて、他に気になる物は、何かありますか?」
 それから、ヨルガがいくつか提示した品についてスナベは説明をする。明かり取りの光石類をいくつかやり取りし、
その合間にやってくる客の相手をしながら、少しずつ時間が流れてゆく。
「お待たせしました、ヨルガ」
 何度目かのその掛け声をスナベが発した時、ヨルガは顔を上げ、壁の一点をじっと見つめている所だった。
「地図ですか」
「ああ。次は、どこへ行こうかと思っていた頃だ」
「ヨルガ。地図なら、こちらへ」
 壁に飾られた地図を熱心に見上げているヨルガを手招きし、机の引き出しからスナベは地図を取り出し、
机の上へと広げてみせる。最新の地図であり、去年の物と比べると、内側よりも、寧ろ外側の地方の開拓が進んだことにより、
多少小さく世界が描かれていた。ヨルガが近づくと、スナベは黙って指を差す。
「説明するまでもありませんが……。グレンヴォールはここですね。東の大陸の、中心に近い位置です。
そして地図にはありませんが、南西のすぐ近く。ここにヌベツィアがあります。残念ながら街とは公には認められていませんから、
今後も地図に載る事はないでしょうね。ヨルガは、どちら行かれるおつもりなんですか?」
「実は、迷ってるんだ。というより、当てが無いというべきだろうか。
自分で言うのもなんだが、随分長い間、あちこち彷徨ってきたものだからな。
スナベ、何か案はないか?」
「そうですねぇ……。突然言われても、困ってしまいますが。ああ、でも、一つだけ興味深いといえば」
 スナベは地図につけた指先を一度浮かせてから滑らせ、そのまま北北東へと移動させる。
「旧エイセイ領」
「エイセイか」
「危険かもしれません。しかし、私が選ぶなら、ここですかね。
エイセイは後年、鎖国に近い程、外との交流を断っていました。事実、エイセイが滅んだ時も、
一体何故滅んだのかはよくわからないままでしたしね。国を治める王と、その側近達が軒並み行方不明と来ては。
エイセイ領は元々なのか、長年の引きこもりが祟ったのか、荒れ地が広がるばかりで、その上怪奇現象が起こるとかで、
すっかり統治する者も居ないまま。しかしだからこそ、狙い目でもありましょう。一般人の立ち入りが禁じられていたものの、それも近年解除
されましたからね。エイセイに遺跡があるのなら、それはまだ手付かずである可能性が高いでしょうし。……それに、確かエイセイは、
竜人や、それに近い蜥蜴などの入国を、ほとんど禁じていたと言います。何故禁じていたのか、それすらわかりませんが……。
そういう意味では、ヨルガ。エイセイ国が無くなり、残った旧エイセイ領というのは、今まさにあなたが向かうのには、打ってつけの場所ではないでしょうか。
勿論、危険も伴うと思います。できれば、一人で行くのは避けた方が良いかも知れませんね。といっても、あなた程の腕前なら、
大丈夫だとは私も思っていますが」
「旧エイセイ領……悪くないな。検討しよう。しかし、スナベ。お前はこういう事に関しても、中々造詣が深いな」
「こうして街に残っていると、何かと世間を騒がせた事柄については、気になってしまいましてね。
ヨルガは、そういう事は気になりませんか?」
「気にならない訳じゃないが、そもそも外を出歩いている事が多くて、情報が得られない事も多いからな」
「そうですか。私は、とても気になりますよ。店がある手前、自分では外に出られませんから」
「外に出ようとは、思わないのか?」
「出たいですよ。正直に言えば。しかし、ここは父の、そうして私の店でもあります。そう簡単には、手放したくはない」
「俺から言うのは無粋かも知れないが、スナベ……あまり、それに囚われるなよ」
「囚われている様に、見えますか。この私が」
「少しな」
「実は、私も少しだけ、そう思っています。私は鑑定士の仕事を愛していますが、それと同じぐらい、
まだ見ぬ神秘、それから不可思議な出来事も大好きですからね」
 少しはにかみながら、スナベは指を上げ、グレンヴォールから北西、かなり離れた箇所に指を当てる。
「ほら、ヨルガ。この間、この終わり滝であった事件の事を、知っていますか? 大召術士と言われた、リーマアルダフレイに
縁のある地だと言われている所です。真夜中だというのに、近くの空は純白に近い程の輝きを見せ、大地は震えたと言われています。
その話を聞いた時、私は心が躍りましたよ。結局それが、どういう意味を持った出来事だったのか、わかる人は居ないと言われていますが、
しかし絶対に、何かがあったはずです。実際、リーマアルダフレイの霊が出た、という話は聞きましたからね。そして、もしかしたら、
そこには誰かが居て、しかし黙秘をしているのかも知れません。その人は、一体どのような体験をしたのでしょうか? そうして、
何故それを誰かに伝えようとはしないのでしょうか? そう考えるだけで、私はとてもわくわくしますよ、ヨルガ。
……こうして地図を眺めていると、こんな事ばかりが頭の中に浮かんできてしまいます。この地図だって、年々広がってはいるけれども、
決して世界の真の姿を記した物ではありませんしね。私達の手の届く範囲の、世界の姿でしかない。この地図の、外側の世界は、どうなって
いるのでしょうね? そこは、今私達が居るところよりも、大気中の魔力の量が少なく、魔法を用いる事が困難であるために、中々私達は
道を切り開けないでいます。そして、魔力に飢えているからか、獰猛な魔物も多くいるのだとか。そうして、海続きで行こうとすると、海は大きく
荒れ、とても船を進ませる事ができないのだと言います。その先には、何があるのでしょうか? 世界に、果てはあるのでしょうか? あったとして、
それは、なんなのでしょうか? 船乗りの伝説には、いくつもの話があります。ある者は、そこには見上げても先が見えない程の壁があり、先へ進む事が
できないのだと言うし、またある者は、そこでぷっつりと海は途切れ、何もかもが、そこから零れ落ち、どこへとも知れぬ場所へとただ落ちてゆくのだと言い、
またある者は、大嵐が常にそこにあり、そこまでどうにかして辿り着いた者であっても、もはや進む事叶わぬ様になっていると言います。結局は、
どれも不確かな話ではありますが。世界は、どんな形をしているのでしょうね、もし壁があるのなら、私達が今生きているところは、盃の中の様な
場所なのかも知れません。ヨルガは、気になりませんか?」
「スナベ。お前、案外と子供なんだな」
「そんな風に言わないでください。好奇心というものは、いくつになっても心に留めておくに越したことはありませんよ。
それに、私はただ知っているだけ……そう、知っているだけなのです。様々な本を読み、様々な品を鑑定し、そうして知識は豊富でありながら、
しかし実際のところ、この目で見た事はない物ばかり……。だから、知識としても知らず、その上で、この目で見られるだなんて……。
本当に、羨ましい限りです。私が体験したいと思っている事柄を、実際に体験している人が、居るのですね」
 言い切ってから、スナベは一度深呼吸をする。。そこまで言い切ってしまうと、今店を持ち、それに縛られている自分が、
本当に情けなく思えたし、そんな姿をヨルガに見せてしまった事を、恥じ入りたくなってしまった。
 しばらく無言の時が過ぎた後、不意に、ヨルガの堪えかねた様な笑い声が聞こえて、スナベは慌てて顔を上げる。
「本当に、お前は面白いな。スナベ。そんなに外の事を夢中に話す大人なんて、今時中々居ないんじゃないか」
 その言葉に、自分の顔が急激に熱くなるのをスナベは感じた。思わず手を上げ、指先で頬を掻く。
「お前はもっと落ち着いた奴だと、最初にあった時俺は思っていたよ。でも、本当は違うんだな。
そうやって、自分の知らない世界に対して恐怖ではなく、ただ純粋な好奇心を抱いている。やっぱり、お前は
こんな所に居るのは、勿体ないよ、スナベ。例え、この店がどれほど大事な物であってもな。この店は、
世界を練り歩きたいと思っているお前を、縛っているだけの様に見えるぞ」
「やめてください。ここは、大切な場所なんですから」
「一つ気になるのは、お前の父親だな。お前はきっと、幼い頃から本当は、鑑定と同じくらい、外の事に興味を持っていたんだろう。
お前の父親は、お前に何か、言い残しはしなかったのか。店一つに、お前一人を残していく事について」
 スナベは、過去を振り返った。病床に臥していた、父の姿。その父が、亡くなる前に残した言葉。
「……いいえ。父は、何も言いませんでしたよ。ヨルガ」
 にこりと微笑んで、スナベはそう返した。ヨルガはそれ以上、何も追求しようとする素振りは見せなかった。
「申し訳ございません、ヨルガ。実は、今日の夜は、仕事が入っていまして。少し早いですが、店はそろそろ閉めようと思います」
「そうか、またな」
 二言三言言葉を交わし、ヨルガは店を出てゆこうとする。
「スナベ」
「なんでしょう」
「お前がもし、本当に外を見たいと願っているのなら。
俺と一緒に、知っていても、知らなくても、見たい物を見にいかないか」
 本当に、なんでもなく、たわいのない話をする様に、ヨルガはそう言った。
「申し訳ございません」
「そうか」
 スナベの返事に、ヨルガはあっさりと引き下がり、そのまま店を出る。スナベは、閉められてからも微かに
揺れていた扉が、完全に止まってからも、ヨルガの去っていった扉を見つめていた。
「決心が付いたら、この店は捨てなさい」
 寂しく呟いた言葉が、室内に木霊する。
「そう簡単には、捨てられませんよ。父上、ヨルガ……」
 腕を組み、スナベはしばらく、待ち合わせの事も忘れて、二人の言葉を反芻していた。

 空が朱に染まる時間も過ぎ、夜の帳が下りた頃。スナベは馬車を呼び、一人店を出てそれへと乗る。
 スナベが店を構えているのはグレンヴォールの北西寄りの場所だが、馬車は一度中央へ向かい、そこから南西へ。ヨルガへ
話をする際にも、充分に注意する様にと言い含めた、南西地区へと今スナベは向かっていた。
 本来ならば、スナベがこうして出向くのではなく、相手側から依頼の品を持ちスナベを訪う事が当然なのだが、
大口の取引のために、数が嵩み、また持ち運びにくい程に大きな物もあるというので、スナベ自身が出向く事になったのだった。
 馬車に揺られ、小さく開けた窓から、夜の街を眺めてスナベは一人、千々に乱れる自分の心に、戸惑っていた。
 自由に世界を旅する。あの男。もっとも、本人には目的があるとはいうのだが。スナベにしてみれば、それでも自由な
生き方なのだろうと思った。自分だって、自分の生きたいように生きている。そう思っていたが、あの男を見ていると、
自信を無くしてしまう気がしていた。道を行き、出会う者達と言葉を交わし、気に入れば声を掛け、しかし断られればそれ以上の
事は何もせず、また歩いてゆく。何者にも縛られず、また何者をも縛らない者。幼い頃からスナベが夢に見た、己の目で見るという、
単純ながらも、決して自分にはできなかった事をしに行くあの男。そうして、それに自分を誘った。あの竜人。ヨルガという男。
 どうして自分は今こんなにも、追い詰められた心地でいるのだろうか。本当は、ずっと望んでいたからだろう。後方から、
声が聞こえた。そこには誰も居はしない。馬車の中に居るのは自分だけだ。聞こえたのも、自分の声だった。
 馬車が揺れる。揺れる度にその声は、様々な方向から、様々な角度を経て、自分へと。スナベから、スナベへと。
「スナベさん、どうしたんですか? 気分が悪いのですか?」
 いつの間にか、揺れは止まっていた。スナベは俯き、頭を抱えているところを、出てこない事に焦れた御者に見つけられていた。

「ようこそ。お待ちしておりました。鑑定士のスナベ様」
 御者を相手に、揺れに酔ったのだと必死に取り繕い、慌てて外に出たスナベを待っていたのは、でぶでぶとした恰幅の良い、
犬商人の男だった。一目見て、スナベはそれが、あまり係り合わない方が良い人種である事を見て取る。父の失敗をよく見ていたスナベに
とっては、人相と言葉でどの様な者かと見極めるのは、それほど難しい事ではなかった。一口に依頼者と言っても、深く付き合うか、
浅く付き合うか、見極めなければならない時もあった。この男は、後者である。時々、鑑定士の行方がわからなくなる事件も、この街では
起こっていた。そういう者達は、最初こそは己の仕事を全うしていたのだろうが、多額の金を掴まされたり、弱味に付け込まれたりして、
結局は鑑定士としての信念を曲げざるを得ない状況になったのだろう。そうして、本人の信用がある間を利用して、偽りの鑑定結果を
出すのだった。偽を真にする事は勿論、真を偽にする場合もあるだろう。持ち主がその結果に落胆したところで、それを安く買い取り、
別のところで、これまた押さえていた鑑定士には別の結果を出させる。勿論、そんな方法が長く続くはずはない。信用の無くなった
鑑定士は、その内に姿を消す。彼らがどうなったのか、スナベは知っている訳ではなかった。潔く鑑定士をやめた者も居れば、
この街から出て行った者も居るだろう。そして、あまりにも大元の事情を知りすぎたとして、永遠に闇に葬られた者も、恐らくは。
 日向での煌びやかな表情とは一変したこの街の、日陰の実態に、街を治めるドンドは、当然気づいているだろう。そして、頭を悩ませても
いるのだろう。しかし相手は商人なのである。自身すら商人であるドンドの最大の支援者というのは、同じ金を持つ商人仲間であるのは、
言うまでもなかった。
「まだお若い方なのですね。私はお会いするのは初めてですが、大変な評判だと伺いまして。
今日は、よろしくお願いしますよ。そうして、あなたさえよろしければ、今後とも」
「ありがとうございます。しかし、申し訳ございませんが、私は自堕落な生活を送るのが好きな性分ですし、
多芸とも言えません。自分の口を糊するだけで、充分でございますよ」
「そうなのですか。それは、残念な事です」
 見えているのか気になるぐらい、細いままの目を更に細めた商人がにこにこと話をする。
「さあ。依頼の品は、どちらでしょうか? もう夜も深くなってしまいました。早く終わらせてしまいましょう」
「こちらです。あの倉庫の中に、いくつもありましてね。申し訳ない事です。態々来ていただくとは」
「それは、私も了承した事ですから」
 見上げた倉庫は予想していたよりも大きな物で、闇の中でそうして見上げていると、口を開けて獲物を今か今かと
待っている怪物の様にも見えた。この辺りは街の南西とはいえ、人通りも充分にある。そうした所に、こうした物を所有している事が、
この商人の財力を物語っている様だった。ちらりと盗み見れば闇の中ではあまり見えなかったものの、身に纏う服も、装飾品も、
滑稽な程に高価な物で統一されていた。それは本人が心から望んでいる事もあれば、この街の空気に合わせるために、
仕方なく豪勢に見える様にする事もあるのだが、着慣れた仕草からして、下手な事は言わない方が良いという事をスナベは
感じ取った。財力こそが、この街では力なのである。少なくとも、ドンドが来てからはだ。
 倉庫の中へとスナベは足を踏み入れる。全身に緊張が走ったが、中にある品の数々を見て、少し力を抜いた。少なくとも、仕事の依頼
自体は極めて普通の内容の様だった。
「数が多いので、お手数ですが結果はこちらの紙にお願いします。一通り終わりましたら、提出していただければ。
気になった点があったら、どうぞお気軽に」
 受け取った羊皮紙には、今回の鑑定品の一覧が記されていた。スナベは早速、その順番通りに並べられた依頼品の
鑑定へと入る。鑑定自体は非常に順調に進んでいた。本物もあれば、偽物もあったものの、スナベが調べている時に、一切の
口を挟む者が居ないのだ。数が数であるため、一々依頼人が鑑定士の意見に異を唱えていては、朝になっても終わるはずがなかった。
 そのため、鑑定士に全てを任せ、その後で気になる点があれば意見を交わす、というこの形式に落ち着くのだった。スナベにとっては、
非常に助かる展開である。舌戦を挑んでくる客の相手をするのは鑑定士にとっては日常茶飯事であったし、まったく勝算も無いのに延々粘る、
あの黒牛の様な男も居るのである。それと比べれば、これほど楽な仕事もないだろう。勿論、この仕事一つだけを取り上げれば、
今までスナベが地道に積み上げてきた信用があればこそ舞い込んだ依頼なのであるから、鑑定士であっても、おいそれとは
受けられる物ではなかったのだが。
 黙々と紙に鑑定結果を書き記しながらも、スナベは気取られぬ様に視線を向ける。邪魔をしては悪いからと、あの商人は外へ出ており、
今は倉庫の入口に数人の、これは如何にも用心棒と言った風体の、屈強な男達が佇んでいた。この倉庫の中に総額でいくらの
宝があるのか、スナベは既に理解していたので、それも仕方がないのかも知れなかった。紙に一度目を戻す。ざっとみて、本物の、
それも質の良い物が非常に多かった。どこからこれ程の物を、という事は、多分訊かない方が良い事なのだろう。
 鑑定品が、半分程過ぎた頃だろうか。神経を研ぎ澄ましていたスナベの耳に、微かな物音が届く。スナベは鑑定の手を休め、
何度か耳を震わせ、そうして耳を向け、音の在り処を探し出す。最初は、倉庫の外。西側から聞こえたそれは、次第に大きく、そして、
倉庫を取り囲む様にやがて増えてくる。最初に聞こえた微かな悲鳴が、今はがやがやと騒ぐ、男達の声へと変じていた。
「誰か」
 スナベは鑑定品の山から抜け出すと、倉庫の入口へ。あの男達へと声を掛ける。男達は酒を一杯やっていたのか、
まだ異変にも気づかず、途中で抜け出してきたスナベを胡乱な目で見ていた。
「どうも、外の様子がおかしいです。どなたか、様子を見ていただけますか?」
 スナベの言葉に逡巡していた男達だが、結局、誰かを使いに出す必要は、次の瞬間に無くなった。
「賊だ! ヌペツの奴らが来たぞ!」
 どこからともなく聞こえたその声は、外を見張っていた男の物だった。次にはその男の悲鳴が続く。
「ちょっと失礼」
 スナベは強引に男達の間を通り抜け、外へと出る。外に出れば、既にこの場が騒然とした騒ぎに包まれている事は、
充分に理解できた。不意に、大きな爆発音が聞こえる。西の空が、夜の闇に負けじと僅かに赤く染まった。歓声と悲鳴が同時に上がる。それに
然程気を取られた様子も見せず、スナベはまだ辺りをじっと見渡していた。
「どうやら、ヌベツィアの賊が入ったというのは、本当の様ですね。仕方ない。ここは引きましょう。
あなた達も、早くお逃げなさい」
「で、でも」
「でもも何もありませんよ。あなた達を雇っていたあの商人、今ここで出てこないのなら、もう逃げ出した頃でしょう。
そういう所の判断は、中々ですね。てっきり、戻ってきて品物を守れなんて、無茶な事を言うのかと思いましたが……。
そういう訳ですから、こんな所に居ても、命を捨てるだけですよ」
 言葉に、男達はしばし顔を見合わせたが、一人が頷くと、全員がそれに倣う。
「スナベさん。あんたは……」
「鑑定士が居たぞ!」
 鋭く飛び込んできた声が、場を凍りつかせる。そちらに目を向ければ、風体からして、この辺りの者ではないと
断定できる様な荒くれた男が、剣を一振り持って叫び声を上げていた。
「おや。今日に限って、この服を着てきたのは失敗でしたね。仕方ありません。私は一人で逃げますよ」
 遠くから、複数の足音が響き渡る。スナベは身を翻し、その場を後にした。今は、考えるよりも逃げる事を優先するべきだった。建物の間の
細い道をひた走る。倉庫が、赤く燃えていた。先程の爆発の後にも、何かをしたのだろう。巨大な倉庫が燃え上がり、天に向かって炎の触手を
幾度となく伸ばしては、潰えてゆく。非常時ではあったが、その様は物悲しく、スナベの目を引き付けた。先程まで自分が熱心に鑑定していた物が、
その中で燃え尽きているからなのだろう。
 前方に似た様な男達の姿が見え、慌てて真横の路地へと。前後に居た男達の数を思い返してから、懐へ手を突っ込む。
「随分周到ですね。今日ここに品物が持ち込まれるのは、織り込み済みという事ですか」
 背後から聞こえる足音。そして、予想はしていたものの、前方の暗がりからも男が現れる。流石に、スナベは足を止めた。ここには他に道が無いのだ。
「そんなに急いで逃げるなよ、スナベさんよ」
 前に立ちはだかるのは、黒豹の男だった。不敵な笑みを浮かべたその男は、黒い被毛を持ちながらも、服もまた黒く。しかし手にしたナイフは、
怪しい程にぎらついて存在を主張していた。獰猛そうな瞳と刃が、闇の中で獲物を前に輝いていた。今後ろに居る程ではないが、その黒豹の周りにも数人男が居る。
「随分手厚い歓迎ですね。たかが鑑定士一人にしては」
「あんたみたいなまともな鑑定士は、この街にとっては必要な人材だからな。それに、他の目的は果たしちまったんだよ」
「他の目的?」
「豚……じゃなかったな。あの犬の確保と、盗品の処分だ」
「ああ。では、あの人は捕まったのですね。首尾よく逃げ出したのかと思っていました」
「そんなヘマするもんかい。一番の狙いは、あいつだったんだからな」
「盗品、と言われましたね。では、あの倉庫の物はやはり」
「あれは元々、ヌベツィアで捌かれようとしていた物さ。あいつは目が眩んで、ヌベツィアの物に手を出した。
馬鹿な奴だな。そこに運び込まれるまでに既に盗まれてる物も多いんだ。そいつを盗んだら、俺達から目をつけられて当然なのに」
「しかし、それに火を放ってしまうとは……」
 それを口に出すと、黒豹は一度苦々しげに表情を曇らせる。
「できれば取り返したかったさ、俺だってな。でも、さすがに正面切ってグレンの奴らと戦える程の戦力はねえ。
壁に囲まれたこの街に運び込まれちまった時点で、あとは散り散りになる前に燃やしちまうしかなかったのさ」
「そうですか。しかし、勿体ない事をする」
「鑑定士らしい意見だな。さて、あんたはどうするんだい。スナベさん」
「私にこれだけ詳しくお話いただけた、という事は、逃がす気はないのでしょう?」
「勿論だ。でも、あんたの鑑定士としての仕事振りは、知ってるぜ。だから、グレンに置いときたくはねえと思って来たんだが。
だからよ、あんた、俺達と来なよ。ヌベツィアには、質の良い鑑定士がいねぇんだ。あんたみたいな奴なら、大歓迎だぜ」
「非常にありがたいお話、と見做すべきなのでしょうね。そうして、手を差し伸べていただけるというのは。
でも、残念ですがお断りしますよ。遺物をあんな風に無碍に燃やしてしまう人とは、話が合いそうもありませんからね」
「残念だな。これだけ囲まれているのに、そこまで強がれる性分も、中々のもんだと思うんだが」
「勝算が無い訳ではありませんから」
 言い終えるのと同時に、スナベは手早く魔力を集める。全身がかっと熱くなる。本当に熱を発しているのは、自分に今纏わりついている物、
即ち鑑定士の黒い服と、そして身体に直接巻いているいくつかの帯魔布だった。黒豹の様子がさっと変わる。手を上げ、口を開けていた。
「遅いですね」
 指を鳴らす。虚空に響いたその音を皮切りに、スナベの指先から炎が飛び出した。それは、何か明確な意思を持っているかの様に、今まで
スナベが走って来た方へとまっすぐに炎は伸び、慌てる男達の足元へと吸い込まれる。そうして少し遅れてから、爆風が巻き起こり、次いで悲鳴が上がる。
「てめぇ……!」
「馬鹿ですね。宝石を砕いて走っているのくらい、見極めないと。魔道士相手に数だけで挑むなんて、死にに来るような物ですよ?
少し火力は抑えておきましたから、今すぐ治療すれば、死にはしないでしょうけれど」
 ぎらぎらと黒豹の瞳が輝く。流石にその威圧感は凄まじい物で、スナベは少し後退りする。
「怨まないでくださいね。手を出してきたのは、あなた達なのですから。では、私は失礼しますよ。
街の守備兵も真夜中とはいえ、いい加減に出てくるでしょう。今彼らを助けて引かないと、彼らは捕まる上に、
重傷の者は死にますよ。彼らを見捨てて、私一人を始末したいのなら、どうぞご自由に」
「待ちやがれ!」
 倒れている男達の方へと走り出したスナベに、怒声が飛ぶ、気配を察知して、スナベは腕を上げ、力を集める。腕に、何本か黒豹の投げたナイフが
刺さっていた。足に刺さろうとしていたそれを、無理矢理捻じ曲げたが、走りながらの上に、先程の爆発で力をほとんど使ってしまったために、
上手くいかない。しかし腕に刺さる分には走るのに支障は少ないため、スナベはそのまま、走り続けた。黒豹は、仲間を選んだのだろう。それ以上の
追手が掛かる事はなく、スナベは賊の騒ぎですっかり目を醒まし、外へ出てきた守備兵、住民らの中へ飛び込み、そして目立たぬ様にそこを抜けだし、
また人気の無い道へと戻る。本当は、このまま人込みの中に居続ける方が良かったのだが、身体を激烈な熱が襲い、それどころではなかったのだ。誰も
人が居ない事を確認してから、スナベは壁に背を預け、そのまま頽れる。走っている間に刺さったナイフの全ては抜いていたが、血が止まらず、
妙に全身が気怠い。
「走ったのは、失敗でしたかね。毒ですか……。しかし立ち止まると、捕まってしまう。難儀な事ですね」
 すぐさま解毒に入るが、状況は芳しいとは言えなかった。元々スナベは鑑定士であって、魔導士ではない。こういった事が得手である
訳ではなかった。魔力も、帯魔布を用意する事でどうにか購っているのだ。予備の帯魔布を取り出し、どうにか治療に専念するが、
朦朧とした状態ではそれも上手くはいかない。
 身に纏う鑑定士の黒い服の色が、既に灰色近くまで落ちてきていた。これは元々、非常時のためにと、帯魔布を縫い付けて作った服だったので、
その役目を果たすと色が抜けてしまう。そうして、黒地の時は見えなかった、自分の流した血の多さを、今更はっきりと教えてくれた。ナイフを受け止めた
右腕の袖は真っ赤に染まり、そこから下、足に至るまで、血が流れ続けて真一文字の跡になっている。
「出血が、思ったより酷いですね……。そういう、毒なのでしょうか。ああ、薬も持ってくるべきでしたかね……」
 段々と、息が苦しくなる。帯魔布が無くなり、服も今は純白に近くなっていた。これ以上自分にできる事はないのだと知った時、スナベは腕を下ろし、
深く息を吐いた。
「情けないですね。せっかく、逃げられたのに、こんな風に苦しんで死ぬのは……。一層、捕まった方が、早かったのかも知れませんね」
 徐々に意識が遠退いてゆく。グレンヴォールの街は、あの喧騒が嘘の様に、今は静かに思えた。熱に浮かされた身体に、夜気は涼しく、また快かった。
 前のめりになるのを堪えようとして、勢い余ってスナベは横へと倒れようとする。その身体を誰かが支えた。
「スナベ、大丈夫か」
 声が聞こえた。目を開けずに、スナベは少しだけ笑う。硬い手の感触と、低い声が、それだけで誰が来たのかを教えてくれる。
 ヨルガは、血まみれのスナベの身体を支えていた。

「こんばんは、ヨルガ。夜風が気持ち良い夜ですね」
「お前の冗談は笑えないよ、スナベ」
 精一杯力を入れて吐き出した言葉に、ヨルガは冷たい返事をする。
「あの騒動に巻き込まれたのか」
「おや、ご存知でしたか」
「随分派手にやっていたからな。もしかしたらと思って、来てみたら。この様だ」
「我ながら、情けない姿だと思っています。こんなに無様な姿を、お見せしたくはなかったのですが」
「まったく。よく死にかけているのに、それだけ言葉が出てくるな。いつもと変わらないじゃないか。どれ……。
なるほど、毒か。まあ、そこまでしないと、お前は倒せないだろうしな。苦しいだろう。今、治すぞ」
 ヨルガの力強い腕に抱かれる。スナベはされるがまま、身体を預けていた。やがて、ヨルガの身体から、強い魔力を感じる。それと
同時に、全身を刺し貫く様な激甚な痛みが走り、スナベは唸り声を上げた。暴れようとする自分の身体を、ヨルガが制する。スナベはヨルガの胸に
爪を立て、何度も息を荒らげては、喘いだ。
「痛いだろう」
「あなたが怪我人にこんな事をする人だとは思いませんでしたよ」
 スナベの笑い声が、僅かに上がる。
「馬鹿を言うな。痛いのは、生きているからだ。お前は半分程死んでいた様な状態だった。それを、
俺が今引き戻している。生の側に立つほど、お前はお前の身に受けている痛苦を自覚しているだけだ。
負けるなよ、スナベ。生き残っても、心が壊れては仕方がない」
「しかし、痛いですよ。今までこんなに痛みを感じた事はありません。あなたがとても怨めしく思えてきました」
「好きなだけ怨め。俺は、お前を救いたい。助かった後で、俺を好きなだけ苛めば良い。
お前は俺を騙す事なく、ただ善意から助けてくれた。お前を助ける事も、お前を楽にしてやる事も、お前の恩に
報いる事にはなるのだろうが、俺はお前を助けたい。死ぬなよ、スナベ」
「死にませんよ、まだ」
 それから、スナベは呻く事もやめ、ただ痛みに耐え続けた。ヨルガの言った通り、治療が進む度に、忘れていた身体の熱が甦り、
そうして苦痛もまた、波の様に押し寄せてくる。全身の皮膚が破れたかの様な痛みを感じ取り、頭の中と、喉の後ろ辺りが絶え間なく、
ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられている様な、どうしようもない不快感が襲っていた。吐けば楽になるだろうかと思うのだが、不思議と口から出てくる物は無い。
「辛いか」
 ヨルガの言葉にも、スナベは答えられなかった。ただ、突き立てた爪の強さだけが、増している気がする。ヨルガの服を破り、比較的柔らかな胸側の皮膚を貫き、
爪はその身体の中へと達していた。しかしスナベはそれを抑える事ができなかったし、ヨルガもまた、気にした素振りを見せてもいない。
「スナベ」
 ヨルガが、何かを言っていた。スナベの名を呼び、そうして続けて、何かを口にしている。それがなんなのか、スナベには聞き取れなかった。熱が
身体に甦る度に、思考も焼き尽くされ、次第になんの反応も示せなくなっていたのだ。
「スナベ」
 もう一度、ヨルガの声。スナベはただ、聞こえている事を伝えたくて、ゆっくりと顔を上げた。そこへ、噛みつく様にヨルガの口が迫る。されるがままの
スナベに構わず、ヨルガは強引に口元を開けると、舌を捻じ込んでくる。互いの舌が触れ合った途端、口内に血の臭いが広がった。意識が少し戻り、
ヨルガから離れようとスナベは抵抗するが、ヨルガはそのまま角度を変え、更に奥まで口付けを。そうして、舌を奥まで入り込ませる。歯列を何度かなぞられ、
抵抗を見せなくなった頃、一度ヨルガは離れるが、程無くして二度目が始まり、また口内に血が流し込まれる。スナベは抵抗する事を諦めて、血をただ飲み込んだ。
 その内ヨルガの気が済んだのか、再び治療が始まる。すると、身体の中がかっと熱くなった。毒に侵されていた時とは違い不快感は無く、更に少しずつだが、
意識が明瞭になってゆく。
「今のは……?」
「俺の血だ。気持ち悪いだろうが、我慢してくれ。お前の身体を内からも治療するには、俺の力に呼応する物が必要なんだ」
「そういう事でしたか。これで私も、不老不死になれましたかねぇ」
「残念だが、竜人の血でどうにかなるなんていうのは、お伽噺だスナベ」
「でも、おかげで助かりそうですよ。さっきよりも、具合がずっといいです」
「そうだな。今の状態なら、少しは動かしても大丈夫だろう。ヌベツィアの奴らはもう引いたと思うが、ここに居続けると、
面倒が起こるかも知れない。お前の家へ向かおう」
 ヨルガはマントを取り出すと、それをスナベへ被せ、そのまま軽々と背負うとスナベの家へと向かいはじめる。
「傍目には、これで酔った奴を背負ってる様にどうにか見えるだろう。血の臭いまでは誤魔化せないから、人目は避けるが」
「何から何まで、申し訳ございません」
「何も言わず、今は眠れ。それが一番お前のためになる」
 言葉通り、スナベは背負われたまま眠りについた。本当はまだ言いたい事が沢山あったのだが、身体が回復したのは一時的な物だったの
だろう。程無くして抗い難い程の強烈な睡魔に襲われ、ほとんど気を失う様に意識は遠退いた。

 スナベが目を醒まして最初に見たのは、自分の家の、殺風景な天井だった。身体をゆっくりと起こすと、腕からは痛みが
走るが、それ以上は何も感じず、峠は越したのだという事がわかった。
「起きたか、スナベ」
 部屋の扉が開かれて、ヨルガがのっそりと入ってくる。手には盆を持ち、その上には丁度、水の入った容器が乗っていた。
「さっきから何度か身じろぎをしていたからな。そろそろ起きる頃だと思っていた。喉が渇いただろう」
 差し出された水を、遠慮なくスナベは受け取り、一気に飲み干す。僅かに胃に響いたが、堪えた。
「ヨルガ。私はどれくらい寝ていたのですか?」
「二日程だな。待っていろ、何か、食べ物もその辺りで見繕ってくる。消化に悪い物は避けた方が良いかも知れないな」
 ヨルガは身支度を済ませると、外へと出てゆく。しばらくスナベは窓から外の景色を眺めていた。ここ最近では珍しい、雨の日だった。
 しとしとと静かで規則的な音が、心身ともに疲れ果てていた今は、優しく語りかけてくる様で、ヨルガが戻ってくるまで、スナベはその音に
聞き入っていた。買い物から帰ってきたヨルガは、その手に沢山の食べ物を、とりあえずなんでもいいからと集めてきた様だった。
「果物がいくつか、それから、砂糖菓子も買ってきた。それと、この壺には温かいミルクと、千切ったパンが入っている。
食べられそうな物だけでも、とりあえず食べるといい」
「ありがとうございます」
 例を言って、とりあえず果物は後にするとして、それ以外にスナベは手を付けた。柔らかくなったパンは今のスナベにはありがたく、
また温かいミルクも、身体を芯から温め、何よりも安心させてくれる効果があった。食後の砂糖菓子も、一つ一つ摘まんで食べる分には丁度良く、
食べ終える頃にはスナベはすっかり満腹になり、ようやく人心地付く事ができる様になっていた。
「ヨルガ、帰らなくてもいいのですか?」
 食事を終え、軽い話をしながら、気になってスナベは訊ねてみる。ヨルガは小さく頷いた。
「話を聞くに、そのヌベツィアの奴らは、お前をも狙って現れたんだろう? 病み上がりのお前を一人にする訳にはいかないだろう」
「申し訳ない。万全の準備はしたのですが……。やはり、私は根っからの魔道士という訳ではありません。彼らの相手をするには、
些か力が足りませんでした」
「そう卑下する物でもないだろう。たった一人で、そんな状況では、立ち向かえるだけ立派だと思うぞ。お前のそういう所は、俺は好ましいと思っている」
 そう言って、ヨルガはにこりと笑った。今までも何度かヨルガの笑い顔は見た事はあるのだが、そうして優し気な笑みを浮かべるところを見たのは、
初めてかも知れないとスナベは思った。
 やがて、夜が訪れる。その頃までにはスナベも起き上がれる様になっており、そうして看病をしてくれたヨルガのために、ささやかだけど、
なるたけ豪華な宴をと、ありあう食材を用いて食事と、それから酒を用意した。賑やかとは言えないものの、静かで、笑みの零れる時間が過ぎてゆく。
 スナベは元より、ヨルガも自身の血縁を探すためという事で、世界の遺跡や、そこからの遺物。また不可思議な物や、語り継がれる伝説には興味があり、
そうした話をお互いに披露するのは、非常に有意義な時間だった。互いが話し相手に飢えていた、という事もあるのかもしれない。特に、竜人に纏わる、
話の真相などのほとんどは、竜人であるヨルガに尋ねられるので、そういう点で、スナベは非常な喜びを感じていた。とはいえ、流石にそう根掘り葉掘り竜人に
ついて尋ねるのも失礼なので、精一杯自制していたのだが、ヨルガが苦笑するくらいには、それはできていなかった事だろう。
「もう、身体は大丈夫の様だな」
「おかげさまで。明日からは、店を開けられると思いますよ。仕方がない事とはいえ、突然二日も休んでしまいましたから、
取り返さないといけませんね。とはいえ、受ける依頼はもう少し慎重にならないといけないみたいですが」
 ささやかな宴は終わりを告げ、スナベは寝室へ引き取ろうとする。ヨルガはこの家に居る間、客間で適当に雑魚寝をしていた様で、
今日もそうするつもりの様だった。
「スナベ。俺を、怨んでいるか」
「突然、何を言い出すんですか」
「言ったじゃないか。怨めしく思えてきたと、あの時」
「言葉の綾ですよ。今は、そんな事は思っていません。……それよりも私が考えていたのは、父の事です」
「あの時にか?」
「ええ。私も、死にかけましたから。父は病苦で苦しんでいる時も、一人きりでした。勿論、私は看病も
しましたけれど。しかし、私の心にはまだ蟠りがあり、父には遠慮と気後れがありました。
あの時、私は……。結局、私も父と同じ様に、一人で死ぬのだと、そればかりを考えていました」
「だが、死ななかったな」
「まったくですね。なんだか、父に申し訳ないという気が、今更しましてね」
「スナベ」
 鱗に覆われた腕が差し伸ばされ、スナベの手を取る。被毛に覆われた手と、そうではない手が重なる。
「仮に、お前があの時死んでしまったとしても、お前は一人きりではなかっただろうよ」
「そうですね。……そうでした。ヨルガ。あなたが、居てくれましたね」
「スナベ」
 ヨルガの瞳が、スナベを見つめている。赤銅色の、焼き尽くす様な色とは違う、深緑を湛えた、静かな色。
 スナベは何も言わず、ただ微笑みを返した。ヨルガが一度俯き、軽く息を吐く。それから、また、顔を上げた。
「スナベ。お前を、抱きたい。俺が好きになった、お前を」
「それは、光栄な事ですね」
「もっと、真面目に取り合ってくれ」
「真面目ですよ、とても。あなたにそうして求められる事が嬉しいのだと、今ようやくわかったところです」
 ヨルガの手を、スナベは引いた。

 雨音が、続いていた。
 次第に強くなる雨脚に、スナベは目を醒ます。いつの間にか、眠ってしまっていた様だった。身体全体が気怠く、
そして雨に打たれた後の様に湿気に満ちていて、それから独特の臭いが部屋中に充満していた。
 露出していた肩に寒さを覚え、身動ぎをしてからゆっくりと瞼を開く。裸のまま、背を向けてベッドに座っている男の
後姿が見えた。いくつもの消えない傷が、その鱗の上を走っている。この男が、誰にも頼らずに生きてきた事を、そうして
今まで自分を身体を重ねていた事を、スナベは思い出した。
「どうした。もう、起きたのか」
 伺えなかった顔を、男がこちらに向ける。
「……ごめんなさい。私、どのくらい眠っていましたか」
「まだそんなに経っていないさ。窓の外も、まだ暗いままだ」
「すみません。きっと、途中でしたよね」
「病み上がりの身体だ。お前が謝る必要はない」
 うつ伏せの状態からゆっくりと腕を立て、スナベも身体を起こす。毛布がはだけ落ち、何も身に着けていない
身体が露わになる。腕を伸ばしきった瞬間、腰に痛みが走り、スナベは僅かに身体の動きを止めた。
「痛むか?」
 気取られぬ様に振る舞おうとしたが、ヨルガは目敏く気づいた様だ。スナベはそのまま起き上がると、何事も無かったかの
様に振る舞いながら、特に隠す素振りはせずにベッドへと腰を落ち着ける。
「少しは。思っていたよりも、痛むものなんですね」
「初めてだったのか」
「そう思えないくらい、緩かったですか?」
「お前」
 ぶっと噴き出したヨルガが、口元を抑え、身体を丸めてしばらく痙攣する。必死に笑いを堪えている様だが、
やがて諦めたのか、小さな笑い声が聞こえてきた。
「お前、思っていたより下品だな」
「良いじゃないですか。このぐらい。今の今まで、もっと下品で、淫らな事をしていたのですから」
「まあ、それもそうなのかな。それで、どうなんだ」
「初めてでしたよ。人を受け入れる事も、男を受け入れる事も、身体に精を放たれる事もね」
「そうか。すまないな、随分独り善がりに抱いてしまった」
「私は、そうは思っていませんよ、ヨルガ。本当にそういう人なら、相手の顔を伺いながら抱いたりは、しないものでしょう」
「そう言ってくれると、助かるな。俺は、どうしてもお前としたかった。お前と離れるのなら、離れるよりも先に、お前を知っておきたかった」
「それで、どうでしたか」
「お前が気を失ったのに、しばらく気づきもしなかった」
「流石、六十を過ぎても、竜人は若いという事ですかね」
「お前が魅力的だと言ったのに、お前はすぐそうやって、逃げてしまうな」
「逃げてばかりの人生でしたから。……街は、いつ頃発つのです?」
「二日後には。元々、少しばかり長居をし過ぎた。観光をする訳でもないのにな」
 それもまた、遠回しにスナベに対する好意を口にしているのだろうと思ったが、スナベは何も反応を示さずにいた。
「寂しくなりますね」
「そうか」
「あなたは、寂しくなりませんか?」
「どうだろう。俺は、あまりそういう事を考えずに生きてきたからな。長く一人で居過ぎたのかも知れない」
「一人で居るのに、慣れてしまいましたか」
「そうだな。俺は、一人で生きてきた。言い寄る連中は居たし、竜人というだけで、精を受けたいと身体を差し出してくる奴も居た。
俺は、そんな奴らは相手にしないで、自分の気に入った奴と話をして、そいつさえ良ければ、抱いてもいたが。とにかく、そうやって、
一人きりで今まで生きてきた。寂しい、か。お前に言われて、今ようやく、それを考えた気がするよ、スナベ。俺は、寂しいのだろうか。
今まで一人きりで、生きてこられたというのに」
「あなたは、一人で生きていける人ではないと、私は思いますよ。ヨルガ」
「どうして、そう思う?」
 腰の痛みを無視しながら、ヨルガの背後から、スナベは抱き付く。角に気を付け、その身体で唯一生えている髪の部分に少し埋もれながら、
両腕を前に回し、ヨルガの胸の前で合わせる。
「こうして女の様に抱き付かれるのは、嫌ですか」
「いいや。構わない」
「……言葉を重ねて、身体を重ねて。あなたという人が、ほんの少しだけわかりました。
あなたと比べればまだ若い私の言葉は、あなたには届かないのかも知れませんが……」
「そんな事はない。お前の言葉は、いつもよく俺に響く」
「あなたは一人で生きていける訳ではありません。ただ、一人で生きるしかなかった。ただ、それだけの話なんですよ」
 ぴくりと、ヨルガが身動ぎをした。それきり、ヨルガは言葉を発しなかった。スナベも、黙ったまま、腕の力を少し強くするだけだった。
「それに、本当に一人きりではなかったと思います。あなたに抱かれた相手は、きっと、あなたの無事を
願っていると思いますよ。勿論、私もですが。もしかしたら一人きりで生きていける人も、世の中には居るのかも知れません。
他者と交わるよりも、一人で居る事にだけ安らぎを見出す人も、確かに存在はするのでしょう。でも、ヨルガ。あなたが遺跡を
巡るのは、なんのためですか。自分の血縁の存在を知り、そうしてどこへ行ったのか。知りたかったのでしょう。今でこそ単に、
遺跡を調べ、遺物を取り上げる事をも生き甲斐にしているのかも知れません。しかし、最初の最初は、そうではなかった。
最初から、あなたは一人で生きたくなどなかったんですよ。ただ、一人で居るしかなかっただけ」
「もう、いい」
 ヨルガの声が聞こえた。スナベは、言われた通りに黙った。これ以上、何かを言うつもりはなかったし、ヨルガもまた、必要とはしなかっただろう。
 両の腕に、僅かに感触がする。湿気た被毛にも、温かくて、しかし冷たい水の感触は充分に伝わった。お互いに何も言わず、しばらくそのままの
状態で時が過ぎる。雨が、まだ降り続いていた。屋根にも、スナベの腕にも、雨が降り続いていた。止む事を知らずに、雨は降っていた。
 それでも、雨はいつかは止む。もっと降っても良いのだと、雨に濡れた相手の気持ちも知らずに。
「ありがとう、スナベ。お前と出会えて、良かった」
「私もですよ、ヨルガ」
 腕を緩め、スナベはヨルガの胸に手を当てた。心臓の鼓動が、伝わってくる。ヨルガの手が、それに重なった。
「さあ、雨はまだ、続いています。私達も、もう少しだけ暖を取りましょう。私の身体の事は、心配しないでください」
「好色な奴だな」
「自分でも、初めて気づきましたよ。こんな自分にね」
 スナベが腕を解くと、ヨルガが振り向いて、口付けを交わす。互いに斜めに構えて、深く深く、舌を交わらせ、唾液のやり取りを行う。不慣れ
だったそれも、スナベは大分慣れてきていた。不快感も、今はほとんど感じはしない。
「お前の事を、もっと知りたい。忘れられなくしたい。精が尽きるまで、お前を抱きたい」
「知ってください。私も、あなたをもっと知りたいと思います。喘いでいる私をあなたが見つめていた様に、
あなたが強かに私の中に精を放つ時の顔を、私も知りたい。今度は、気を失ったりはしませんから」
 ヨルガが、乱暴にスナベをベッドへ押し倒す。それが本当に乱暴に扱われているとは、スナベは思わなかった。
 スナベが股を開いた所に、ヨルガは再び身体を滑り込ませる。

 よく晴れた、気持ちの良い日だった。先日の大雨の気配など、何一つ感じさせない快晴の空の下、ヨルガは別れを告げ、旅立っていった。
「いつか、また会おう。お前の元に、戻ってくるよ」
「戻るのなら、早めにお願いしますよ。老いぼれた私では、あなたの相手はできませんから」
 短い言葉の後に、ヨルガは歩き出した。その姿が小さくなるまで、スナベは見つめていた。ヨルガはやはり、振り返る事はしなかった。本当は、
一人きりでも大丈夫なのかもしれないと、スナベは思った。ただ、ヨルガに一人きりで生きてゆける様にはなってほしくなった。その願望を、
口にしただけなのかも知れない。そうして、自分を求めてほしかったのだと。
 ヨルガを見送ってから、何日が過ぎたのだろうか。スナベは、はっきりと数えはしなかった。そうする度に、ヨルガを深く思い出してしまいそうだった。
深く言葉を交わした事も、何度も身体を重ねた事も。何もかも。どことも知れぬ旅の空を見上げたヨルガも、そうして自分を思い出す事が、あるのだろうか。
 しかし、そうしたスナベの努力というものも、まったくの無駄に終わっていた。ヨルガが旅立ち、そうしてスナベもまた一人きりになったあの日から、
途端に生活から色が無くなった様な気分になるのだった。今までの生き方が、こんなにも退屈な物だったのだろうかと、愕然とする程だった。
 遺物を眺めていれば満たされた心も、今は遺物を手に取ってヨルガと語り合っていた事を思い出すばかりだった。
 最低限の仕事は済ませ、あとはただ、無為に一日を過ごす事が多くなった。
「よう、スナベ。久しぶりじゃねえか」
 買い出しに出た帰り際、あの偉丈夫の黒牛に出会った。元々外には出ないスナベであったが、輪を掛けて外出を控える様になったので、
知り合いと顔を合わせる事も久しかった。
「お久しぶりです。調子はどうですか?」
「おうよ。実はさ、今日は鑑定を頼みたくて、後で店に寄ろうと思ってたんだ。今日は、開いてるか?
最近店が閉まってる時が多くてよぉ」
「すみません。少し風邪を引いていましたから。この後ですね、わかりました。戻ったら準備をしていますから、
少し待ってから、来てください」
「ああ、そんじゃあな。……ところでよ、何か、あったのかよ?」
「何か、とは?」
「最近、元気がねえなぁ……って思ってよ。前はもっと、要らない事も口にしてたのによ」
「気のせいですよ。あなたがあんまりにも学習しないから、私も学習をして、何も言わなくなっただけです」
「おおぅ……それだよ、それ。やっぱ、そうこないとなぁ。そんじゃ、また後でな」
 軽く手を振り、黒牛と別れる。寄り道もせず、自分の店であり、我が家へと。
 店の扉を開け、閉めた扉にスナベは背を預ける。途端に全身から力が抜けそうになった。
「どうしてしまったんでしょうね……私は」
 ヨルガが居なくなってから、ずっとこの調子だった。笑顔でヨルガを見送ったのに、一人になれば、この有様だった。
 抱えていた袋を傍の棚に置き、なんとなく手を懐に入れる。無造作に突っ込んでいた釣りの銅貨と銀貨を取り出すと、はずみで
大きな硬貨が飛び出した。床に落ちた硬貨は跳ね上がり、転がり、そうして、店の中央へ転がり続けてから、倒れた。それを、スナベはじっと
見つめていた。硬貨が倒れ、音を立てなくなってからも、じっと見つめていた。
「カルナスト貨……」
 億劫そうに足を踏み出す。一歩一歩が、重く感じられた。カルナスト貨の場所まで辿り着くと、屈み込んで、それを手に取る。途端、胸に、
溢れてきた。ヨルガが初めて店に訪れた時の事。訝んでいた相手が、フードを跳ね上げた時の驚き。交わした言葉の新鮮さ、興味深さ。赤銅の鱗。深緑を
湛えた瞳。低く、静かで、優しげな声。一目見れば厳つそうで、二目見れば打ち解けた、その姿。その心。その振る舞い。全ては優しく、全ては穏やかで、
全ては新鮮で。そうして、全てが通り過ぎていった。一人残された、自分だけが、この店に居た。
 涙が滂沱として流れ落ちた。滴がいくつも、いくつも、いくつもカルナスト貨へ落ち続ける。その度に、鈍く白銀は煌めいた。煌めく度、ヨルガの言葉を
思い出せる様な気がした。それでも、本当に思い出したのは、自分の口にした言葉ばかりだった。
「一人では、生きてはいけない」
 自分の事だった。自分がそうだから、口にしたのだ。ヨルガにも、そうであってほしかった。そうあってほしいと、願っていた。しかし、涙を流したヨルガは、
結局は一人で行ってしまった。
「ヨルガ……。勝手な言い分なのは、わかっています。あなたは私を連れていこうとしてくれた。私はそれを、断った。
その上で、こんな事を言うのは、あまりにも女々しいのだと、捻くれているのだと、私もわかっています。けれど……」
 滲んだ視界のまま、店内を見渡した。どこを見ても、思い出が甦った。子供の自分。品を手に取り、はしゃぎ、真贋を見極めようと躍起になる自分。父に
褒められて、はしゃぎ声を上げていた自分。父を亡くし、一人で店番をしていた自分。そして。
 そして、一月にも過ぎなかった、思い出の数々。思い出ばかりが、この場には溢れていた。自分は今まで、それだけにしがみ付いて生きていたのだと、
どうしようもなく理解させられる。
「どうして……」
 カルナスト貨を見つめる。スナベは、それを強く抱き締め、胸に寄せた。硬い金属が、このまま胸に埋まってしまえばいいと言うかの様に。
「どうして、私を無理矢理連れていってくださらなかったのですか……?」
 忸怩たる想いがあった。父に何も言えなかった事。外を知りたくても、言い訳を連ねて店に残り続けた事。手を差し伸べてくれたヨルガを、
断った事。そうして今、身勝手な要求を口にした事。恥じ入りたくて、謝りたくて。スナベは、蹲った。
「ヨルガ」
 戻ってきてほしい。と言う事だけは、止まった。自由なヨルガを、好きになったのだった。自分とは何もかも違うから、好きになった。そうして、抱かれたのだと。
「ヨルガ……」
 何もかも忘れて、嗚咽を漏らしながら、スナベは泣き続けた。雨の夜、自分だけが泣いていなかった分を取り戻すかの様に、涙は止め処なく
溢れて、誰にも降り注がずに流れていった。

 丘の上に立って、スナベは遠くを眺めた。高い壁に囲まれた、街が見えた。壁は全てを拒む様で、ここからでは、街の様子は窺えそうもない。唯一
見えるのは、立ち昇るいくつかの煙だけだった。強い風が、スナベを撫ぜる。もはや揃える必要も無くなった鬣が、遊ばれて、乱された。
「おーい。スナベ、ちょっと待ってくれよ」
 風に掻き消されそうにならながらも、必死の声がスナベに届いた。視線を、街から声がした方へスナベは向ける。荷物を背負った、黒牛がそこに居た。
 黒牛はスナベの前へようよう辿り着くと、何度か大きく深呼吸をしてから、スナベが見ていた物を自分も見る様に、遠くなったグレンヴォールをしばし見つめていた。
「別に、ついてこなくても良いのですよ」
 そっぽを向いて、スナベは言う。
「もう決めたんだよ。大体、碌々外も出た事がない奴が、いきなり一人旅なんて、無茶ってもんだぜ」
「それは、確かにそうですが……。しかし、私の目的は」
「あの竜人、だろ」
「……そこまでわかっていながら、ついてくるのですか」
 あれから、更に数日。結局スナベは、こうして身支度を済ませて、旅に赴こうとしていた。街を出ようとした時に、運悪く黒牛に見つかったのは、
誤算だった。黒牛もまた、新たに遺物でも探しに行こうとしていたのだろう。そのまま同行を迫られ、こんな所まで、一緒に歩いてきてしまったのだ。
「そんでよ、当ては、あるのか」
「ありませんよ。……いえ、一つだけ。旧エイセイ領ですかね」
「うげ。よりによってあんな怖いもの知らずしか近寄らねぇ所かよ……」
「嫌なら、ここで帰ってもらっても構いませんよ。私は、行きます」
「待てよ。行かねぇなんて、俺は言ってねえぜ」
「……あなたに見つかったのが、運の尽きですかね」
 手がかりは、ヨルガとの話の中で出た、旧エイセイ領だった。その頼りない、たった一つの手がかりだけを手に、スナベは旅に出る決意をしていた。
「でもよ。お前、店はいいのかよ?」
「親戚に駆け出しの鑑定士が居ましたから、預けてきましたよ。あの子は物を見る目も良いし、問題ありません。
それに店の品は全て好きにして良いとも言いましたから。ただ、街を出ると言い出したら、引き留めてくる連中が居ますから、
そこは黙って出てきてしまいましたがね」
 それに、気がかりなのはあのヌペツの黒豹だった。スナベが生きていると知ったら、今度は何をしてくるのか、知れたものではない。ほとぼりが冷めるまで
グレンヴォールから姿を消すという事も、悪い選択肢ではないだろう。
「戻る気は、ねえって事か」
「何もかも、捨て置いてみました。なるほど、悪くはありませんね。今まで私は、父の遺した物の中で、ずっと閉じ籠っていましたから」
 後ろ髪を引かれる思いが無いと言えば、それは嘘になる。店にある様々な品物は気になるし、父の店を捨ててしまった様な気がして、
胸がちりちり痛みもしたし、当てがほとんど無く、初めての旅に不安か募るばかりで、落ち着く事もできないでいる。
「でも、悪くありませんね。それ以上に、わくわくします。さて、行きましょうか」
「おう」
「でも、どうしてあなたは私と行こうとするのですか?」
「そりゃ……お前と一緒なら、金目の物は見過ごさないだろうしな!」
 少し言いよどんでから、良い案が浮かんだという仕草をして、黒牛は続ける。
「……あなたには、辛い旅になりそうですね」
「何言ってんだ。辛いのは、初めて旅に出るお前だろ?」
「まあ、そういう事にしておいてあげますよ。……でも、本音を言うと、一人では心細かったところです。ありがとうございます」
 にこりとスナベが微笑むと、黒牛はちょっと唖然とした様に固まる。
「お前でもそんな風になる時があるんだなぁ……」
「あなた以外の前では、割とこういう時もありますよ」
「また、それかよ」
 たわい無いやり取りをしながら、スナベは歩き出した。戻る道を閉ざし、当ては頼りなく、計算外の道連れと共に、道を行く。
「ヨルガ。私もようやく、知るだけではなく、見る事ができます。あなたの様に」
 空はどこまでも広く、雲は遠くまで流れてゆく中、旅人は想いを胸に歩き出していた。
 グレンヴォールから、一人の鑑定士が消えた日だった。

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