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25.それぞれの旅立ち

 滝壷から霧の様に立ち上る水飛沫が、朝日を受けてきらきらと輝いた。爽やかな風が、微かに湿り気を乗せて流れてゆく。
 風に撫ぜられて僅かに湿った被毛は、しかし強い陽射しにすぐまた乾く事を繰り返していた。
 終わり滝の朝は、清清しいものだった。
 滝を背景に、宿の前に姿を現したガルジアは、向かい合う三人、ライシン、クロム、リーマを見つめている。
「本当に、もう行ってしまうのですか? ライシンさんまで」
 別れを惜しんで、ガルジアは耳と髭までだらんと下げて、三人を見つめる。それを見た三人もまた、少し辛そうな顔をしていた。
 引き止めてはいけない。そう頭ではわかっていても、共に戦った仲間である。特に、ライシンとクロム、この二人との付き合いは、
結構な期間に及んでいた。別れを寂しいと感じないまま終えるには、長く付き合い過ぎたのだった。それは二人も同じだからこそ、尚辛い。
 場の空気を盛り上げるかの様に、身振り手振りを交えて、快活にライシンが声を上げた。
「兄貴の傍を離れるのは辛ぇっすけど……今回の事で、俺っちまだまだ自分が修行不足だって、痛感したっすよ。
戦力的に、じゃなくて心の問題っすけれど……自分がまだひよっこなんだって、思い知らされたっす。俺っちは、もっと強くならなくちゃ」
「それは、リュウメイさんの傍に居ても出来る事じゃないですか」
「駄目なんすよ、ガルジアさん。兄貴が居ると。俺っちは弱い奴だから、いざって時、つい兄貴に頼りたくなっちまう。そんなんじゃ、兄貴を守れないっす」
 ライシンの意見には、同意出来る部分があった。リュウメイの所作には、いつも迷いが無い。迷う事などありはしないのではないか。そう
思わされる程、いつの時も行動は迅速だった。その判断力。その姿勢。自分がリュウメイに抱く憧れの一つである事を、ガルジアは理解している。
「クロムさんも、行ってしまうのですね」
「ああ、私は鞘を失ってしまった。これはもう、本来の役割を果たすだけの物でしかないのさ。出来ればこの鞘の様な、私を
助けてくれる物が欲しい。聖法と邪法が不得手な私が魔法を扱えるのも、全てはこの鞘のおかげだったからね。
本当は残り続けて、君を守っていたい。しかし剣だけなら、私でなくとも良い。だから今は、行くよ」
 そう言って、クロムは漆黒に染まった鞘を見せ付けてくる。あれほど美しく、目もあやな装飾も、今は欠片もその名残を感じさせない。
「ごめんなさい。私のせいで、大切な鞘を」
「君のせいじゃないさ、ガルジア。必要な所で、必要だから使った。それだけの事さ。形があれば、いつかは壊れる。
もっとも、その理に反している私がこんな事を言うのは自分でも滑稽だと思うがね」
「当てはあるのですか?」
「それなんだが、ライシン君は修行のために一度ディヴァリアへ戻るそうだから、私も同道しようと思っているよ。鞘にせよ、剣にせよ、
質の良い金属が必要だ。鞘が無くなって、この剣も今はただ丈夫なだけが取り柄の物になってしまったし」
「俺っちもばっちり手伝うっすよ! 俺っちだって、この鞘に命を助けられてるっすから」
「もっとも、あまり期待はしていないがね。金属が希少なら、それを打てる職人も稀有だ。同じ時代に、
両方が揃わなければならないのだから、これが中々に難しい。同じ物を手にするには、長い時が掛かるだろう」
「長い時、ですか」
 ガルジアが呟いた言葉に、クロムが苦笑を返す。クロムだから手に出来たといっても過言ではない鞘を、再び手に入れようというのだ。
 もう会えないのかも知れないと、そんな考えが過ぎっている事を見透かされた様だ。
「心配しなくても良いよ、ガルジア。鞘が見つからなくても、私はいつか君の元へ戻ってくる。私の身体を元に戻すと、君が約束をしてくれた。
これ以上に嬉しく、私にとって待ち望んだ言葉はないよ。それに鞘が無くとも、私はこの身体だからね。戦うにはそれ程不便ではない。
言うのを迷っていたけれど、ディヴァリアには魔法の勉強にも行きたいんだ。今までは鞘があったから、自在に魔法が扱えただけだからね。
これも良い機会。ライシン君には、そちらの面で寧ろ期待していると言ってもいい」
「それなら、お任せっすよ! 探し物よりも、自信あるっす!」
 豪快に腕を振り上げたライシンの掌に、強い光が現れる。ヨルゼアと対していた時の様な及び腰は、すっかり鳴りを潜めた様だ。
 二人に挨拶を済ませると、最後にリーマへとガルジアは向き合った。当のリーマは、申し訳なさそうに、先程までガルジアがしていた様な仕草をしている。
「リーマさんも、もう行かれるんですね」
「はい。……今回は、申し訳ございませんでした。ダフレイ様とお会いするのに、ガルジアさんとクロムさんに助けて頂いて、
その恩返しをしたかったのに。結局、僕はなんの役にも立てなくて」
 そう言いながら悄然とするリーマは涙を浮かべていて、そうしていると、いつもの口調から感じ取れる理知的で大人振った印象は
どこかへ行き、歳相応に見えた。本来の姿が、こうなのだろうと思った。リーマアルダフレイの子孫として、ダフレイの顔に泥を塗りたくない
一心で、立ち振る舞い一つとっても丁寧な所作でもって相手に接する事を意識しているのだろう。
「そんな事ありませんよ。リーマさんが居てくれたから、ダフレイ様もこうして出てきてくれたんです。リーマさんは、まだ若いだけです。
きっと、これからどんどん強くなれますよ。頑張って、立派な召術士になってくださいね」
「はい、ありがとうございます! 僕がもっと強くなったら、その時こそは、ガルジアさん達のお役に立てる様に。今度はダフレイ様の
力は借りません。僕は、僕の力で召術士に。そして、ダフレイ様の様な召喚士になってみせます」
「えっと、ダフレイ様は……?」
 黙ったまま、リーマは懐から水晶珠を取り出す。少し濁った光を称えた水晶は、朝の光を照り返して鈍く輝く。
「今は、おやすみに。お話も出来なくて。でも、しばらくすればまた話も出来る様になると思います」
「そうですか。ダフレイ様は……その、私の事は、何も?」
 バインから開放されたガルジアは、ダフレイがここに来た理由を知らされていた。ヨルセアの復活の阻止。そして、そのためには
ガルジアを手に掛ける事も厭いはしない。今回ヨルゼアの召喚に及んだバインには逃げられ、そして鍵となる自分がこの場に居る以上、
ダフレイとしてはどちらかに手は打たなければならないと考えているに違いなかった。そのガルジアに、リーマは笑みを浮かべる。
「これは僕の勝手な思い込みですが、ダフレイ様は、ガルジアさんを手に掛ける気はもう無いと思います。バインに逃げられたと
知った時、ダフレイ様がその気ならば、少なくともガルジアさんを軟禁するくらいの事は言ったはずですから。
それをしないのは……話を聞いただけの僕が言うのもどうかと思いますが、きっと、呼び出されたヨルゼアが、ガルジアさんを気に入った
からなのかも知れないですね。ダフレイ様は、ヨルゼアの事を案じて今まで長い時を過ごされた方ですから。そのヨルゼアの心を乱す
様な事は、したくないのかも知れません。それに、やっぱりダフレイ様は既に死んだ身。僕を含め、今を生きている者達が、
誰一人ガルジアさんに手を上げようとはしなかったから、見守ろうとしているのかも知れません」
「そうですか……。ありがとうございます、ダフレイ様」
 水晶珠へ向かって、ガルジアは胸に手を当て礼を言う。いらえはなく、しかしガルジアは更に口を開けた。
「私、白虎として、生きてみたいです。ダフレイ様や、ヨルゼアの辛さ。今の私は、自分と同じ人達の気持ちを知っていますから。
生まれた時代が良かったと言われたら、それまでなのかも知れません。けれど、今の私には、私を助けてくれる人達が沢山居ます。
氏素性の知れない私を、ここまで色んな人が助けてくれました。だから私は、まだ人を嫌いにはなれません。
ダフレイ様。ダフレイ様にも、そんな人が居たのでしょうか。私は何も知りませんが、けれど、きっと居てくれたのだろうと思います。
ダフレイ様が今回助けてくれた事が、その証だと私は思っています。ヨルゼアを大事に思うだけでは、千年を超えて
ヨルゼアと戦うなんて、出来ない事でしょうから」
 吐き出した言葉は、やはり独り言の様に虚空へ消えてゆく。しかし、それで良かった。この言葉は、ダフレイ以外が応えて
良い物ではない。そしてダフレイが、聞いていないはずはない。聞いていてくれれば、それで良かった。返事を迎え入れて
互いの気持ちを確認する必要などなかった。ヨルゼアと気持ちを通わせていた時に、ヨルゼアを説得しようと長い時を掛けていた
ダフレイの想いも同時にガルジアの中には流れてきていたのだった。それは、ヨルゼアに対する慈愛だった。だからこそ今は、ただ
自分の考えを口にするだけで良かった。これ以上は、再びヨルゼアと見え、三人が揃った時で良いだろう。ヨルゼアが、話を
聞いてくれるのかはわからなかったし、そもそも再会が出来るとも思えない。あの日ヨルゼアが、ネモラの召喚獣達の手引きで連れ戻されて
から、ヨルゼアの存在はほとんど感じられなくなったのだという。少なくとも、当分はヨルゼアの召喚が行われる気配は無さそうだった。
 三人分の話を終えて、ガルジアは改めて三人の顔を見つめた。短い間の仲間だった。しかしその短い間で、これまで
生きてきた中でも、味わった事のない様な経験を共有し、そして強い信頼を抱いた。それぞれに思惑があり、それぞれに目的があった。しかし
今はただ、互いの無事を願い、そして別れる。共に戦っていた時は、このままずっと関係が続くのかと思っていたが、別れは不意に訪れて、
しかし胸には忘れがたい物を残してゆく。そういうものなのだろうと思った。
 一歩、後ろへ下がった。それが、合図だった。
「三人共、ご無事で。どうか、お健やかに」
 片手を胸に手を当て、ガルジアは一心に無事を願った。修道院に居た頃には飽きる程に繰り返し、しかし旅に出てからは、
忘れ去られていた、人への祝福。三人はそれぞれに異なる反応をしながら、しかし笑みを浮かべると背を向けた。離れてゆく。
 不意に、声を掛けたい衝動に駆られた。修道士としての自分だけが、取り残される。そういう事を繰り返してきたからなのかも知れない。
 しかしガルジアは、黙って見送ったのだった。戦いを終えた者達は、また新たな目的を胸に抱く。そうして、旅立ってゆく。生きてさえ居れば、
いずれはどこかで会えるだろう。もう自分は、修道院の中で祝福を与えるだけの修道士ではないのだから。
 もう一度、去り行く背に向けて、ガルジアは祝福を与えた。

 見送りを終えると、ガルジアはしばらく終わり滝を見つめた。千年前は、ダフレイが見ていた景色。
 周りの景色は変わっても、この流れ落ちる滝の力強さだけは変わらぬのだろう。ダフレイの霊も居なくなり、悪い噂が絶えたからなのか、
以前に立ち寄った時よりも観光で来る者が増えた様に感じる。
 バインと、それが呼び出したヨルゼアとの死闘。決着がついた後は、この終わり滝にある宿へとガルジア達は向かったのだった。
 終わり滝の周辺にはこれといった街や村は無く、それどころかヨルゼアとダフレイの手によりこの辺りに魔物は出なくとも、
少し離れたところには頻出する様になってしまい、戦いを終え傷ついた身体を癒す場所がどうしても他には見当たらなかったのだ。
 滝の上、更にその上流近くで行われた死闘の騒動は、当然ここにも伝わっていた。特に、ヨルゼアの召喚が良くなかった。大空に描かれた物だった
ために、夜間とはいえ目撃した者も多く、そのために大きく迂回をして終わり滝へと入り、外から来たのだとそ知らぬ態を装う事になった。
 人々は何が起きたのかと喧々囂々と議論を交わしていたが、結局事態は収束しているのでそれ以上の事は何も起こらず、
次第にその話題を口にする者も少なくなってきていた。
「おっ、ガルジアさん。見送りはもういいのかい」
 宿の扉を開くと、威勢の良い犬人の主人が声を掛けてくる。リーマと初めてあった時もこの宿を利用していたので、
二度目ともなると、主人は愛想良くガルジア達を迎えてくれていた。もっとも、満身創痍の状態には、あれこれと言い訳を連ねる
必要があったのだが、とはいえ今の時代が時代である。魔物に襲われたといえば、それ以上に深く問い質される事はなかった。
 これで傷口が切り傷であったならば、厄介事を持ち込むなと言われたのかも知れないが、ヨルゼアの振るう剣は光の束であって、
完全な切り傷とはならなかったのが幸いしていた。
「はい。皆さんすっかり元気になりましたので。観光もしないのに、今回は随分長居をしてしまいました」
「構いやしないさ。うちは金が入るなら、それでね。でも、そうなるとガルジアさんもそろそろ発つのかい?」
「いいえ。まだ、臥せっている人が居ますから」
「ああ、そういえば居たねぇ。一人、血塗れだったのが。あれを最初見た時、俺は死体でも引きずってるのかと思っちまったよ。
傷もそうだけど、あの赤髪。あれが、本当に血を流してるみてぇに見えちまうんだ。目つきも随分悪かったしな」
 噴出しそうになりながら、ガルジアは必死に笑いを堪えた。終わり滝で戦闘に参加した者達が療養している間、この宿の主人とは
よく話す間柄になり、こういった冗談も言い合う程になっていた。ヨルゼアに身体を預けていたからか、ガルジアは解放された直後こそ
全身に力が入らなくなっていたが、少し休めば傷は無く、最初に元気を取り戻して暇を持て余していたのだ。そんな時に、主人が話をしてきたのである。
「そんじゃ、まだこれは必要だったって訳だな」
 そう言って、主人は桶と、清潔な布を何枚か差し出してくる。それを丁重に受け取った。
「ありがとうございます。そういう訳で、すみません。ご飯も、もうしばらくは受け取りにきますので」
「ああ、盆に載せて置いとくよ」
 桶を持って外に出ると、ガルジアは滝へと向かった。滝から流れ落ちたばかりの清水を桶に汲み、そこに布を放り込む。
 手を浸すと、ひんやりとした感触に思わずぶるぶると身体を震わせた。未だ眠気の残る身体が、急速に目覚めてゆくのを感じる。
 一口水を掬い喉を潤してから、水が零れぬ様に注意を払い、宿の中へ。見守る主人に笑みを投げかけてから、一階の食堂で騒ぐ者達には目もくれず、
階段を上がり二階の廊下へと出る。窓から四角い陽光が幾重も投げかけられる中を通ると、桶の中の水と、白銀の被毛がきらきらと照って輝いた。
 歩く度に軋む廊下の音と、宿泊客の起こす僅かな話し声を耳に入れながら、ガルジアは奥へ、奥へ。物音が傷に障らぬ様にと注文を
つけて預かった、一番奥の部屋へと入る。隣の部屋は今朝方までクロムとリーマが使っていたから、既に空き部屋へと変わっていた。
 部屋の扉を開く。窓からは、遠くの終わり滝の様子が見て取れた。物音が傷に障らぬ様にと注文をつけたものの、滝の音まで止ませる事は出来ず、
そうして部屋を借りて既に十日も経つ頃には、すっかり滝の音にも慣れきっていた。眠る時は、その間断なく耳に届けられる水の調べが
段々と快くなってくる。その流れに身を任せる様に、眠りに落ちてゆくのだ。
 ベッドの上に、人影があった。寝ているとばかり思っていたその男は、身体を起こし、ぼうっとした様子で窓を見つめていた。
「リュウメイさん。もう、起きていたんですね」
 ベッドの横の棚に桶を置いてから、そっとその表情を覗き込む。黙ったまま、リュウメイが微かに頷いた。
「皆さん、たった今出て行ってしまったばかりなんですよ。リュウメイさんが起きると知っていれば、もう少し待ってもらったら良かったです」
「てめぇは、行かねぇのか」
「何を言うんですか」
 落ち着いたリュウメイの言葉に、ガルジアはちょっとだけ不審に思いながらも、笑い飛ばした。
「こんな状態のあなた一人を置いて、私にどこへ行けというのですか。それに、今は手持ち無沙汰ですしね。
皆さんはそれぞれに目的があるから旅立たれましたけれど、私の求めていた召導書は、結局ネモラ様の使いの方の手に渡りましたし。
今後をどうするのかは、まだ決めていませんが……とりあえずは、リュウメイさんには元気になってもらわないと。この終わり滝からも出られません」
 終わり滝は観光地というだけあって、人の往来の激しい地だった。魔物の被害もほとんど無く、街の様に華やかな造りこそされてはいないものの、
そこで商いを営む者、それに群がる者、そして不正が起こらぬ様にと警備が立てられており、治安の良い地になっている。
 だからこそ、ライシン達はガルジアと、療養の必要なリュウメイだけを残して旅にも出られたのである。少なくともここでは、ガルジアに
危害を加えようと企てる者が居たとしても、実行に移す者は居なかった。しばらくの滞在により白虎であるガルジアの存在は、終わり滝
ほどではないにしろ評判にはなっていたし、元来より修道士としての気質を叩き込まれた事もあって、決して悪い様に見られはしなかった。
 長逗留の理由が、傷ついた供の看護のためともなれば、尚更である。何くれと無く人々はガルジアの世話を焼こうとしたし、ガルジアも受け取れる
好意は受け取り、その度に修道士としてその者達にも祝福を与えた。もっとも、供回りとして数えられているなどとリュウメイが知った日には、
散々に怒りを撒き散らすのでリュウメイの耳に入らぬ様にガルジアは苦心する必要があったのだが。
 水を充分に吸い込んだ布を適度に絞り終えると、ガルジアはリュウメイを促して服を脱がせる。下着一枚になったその姿も、大分見慣れてきてた。
 上から順に、その身を清めてゆく。ディヴァリアで療養をした時と同じだったが、しかしあの時よりも経過は芳しくなかった。失った血を
取り戻すのに時間が掛かる事は承知していたが、傷の治りも良いとは言えない。ヨルゼアの力により、まるで焼ききる様な傷跡を付けられたのだ。
 必死の形相で聖法を扱える者達がリュウメイの治療に当たって、どうにか傷は塞がったものの、痛々しい傷痕が残る結果となった。とはいえ、
元々リュウメイは剣士として、傭兵の様な事もしている。そもそもが傷一つない美しい身体を持っている訳ではなかった。古傷の中に、新たな傷が加わった
だけ。そう思うだけで良かったが、それがヨルゼアが憑依していたとはいえ、自分の身体が放った攻撃により出来た傷なのだと心得ているガルジアは、
ただただ傷が言えてくれる様にと祈り、そして歌いながらその看護に当たっていた。ガルジアが歌えば、すぐに精霊が現れて淡い光でもって
二人を包み込む。リュウメイ以外の者達はそうしている間に傷が治り無事に旅立ったが、死闘に自ら飛び込み傷だらけになったリュウメイだけは、
そういう訳にもいかなかった。クロムも同じ様に傷を受けていたが、クロムの身体はやはり、特別なのである。その点に関してはクロムも、
自らの身体を皮肉りながらも感謝した様な事を呟いていた。
 傷だらけの、逞しい蜥蜴の偉丈夫の身体をゆっくりと布で擦ってゆく。沐浴をするには、まだ数日は早いだろう。こうして、汗を拭ってやる
事がガルジアの日課になっていた。ライシンが居た時は自分もやると聞かずに、その度にリュウメイが呆れていたが、今はそのライシンが
居ないために静かな時間が流れてゆく。そういう時、リュウメイもまた口を開く事はなかった。滝壷から上がる水音と、早起きの観光客のざわめき、
そして宿の一階からの威勢の良い客と主人の交わす声が、遠くで聞こえた。特に宿の中の声は一度大きくなってから、慌てて小さくなっており、
ガルジアの笑いを誘った。愉快に騒いでから、慌てて主人が気遣い、少し声を大人しくする様に注意を払ったのだろう。
 リュウメイの身体を、清めてゆく。顔を丁寧に拭いてから、首筋へ、喉元へ。鱗の肌に沿う様に、優しく拭う。これだけ長い間
臥せっていても、その身体の逞しさは衰える様子を見せず、精気に漲っているかの様に見えた。筋肉の張り詰めた腕や胸。贅肉一つ
見当たらぬ身体。被毛の無いリュウメイだからこそ、それは際立ち異彩を放っていた。傷痕は多く、多くは切り傷で、それが今まで
リュウメイがどの様な道を歩いてきたのかを、口よりも尚雄弁に物語っていた。傷痕をよく見て、それが触れてはならない物であった時だけ、
そっと布を逸らし、なるたけ多くリュウメイの身体を綺麗になる様にと拭ってゆく。同時に歌を続けた。終わり滝が不可思議な力に
満ちた地だからなのか、歌も終わらぬ内に精霊はまたすぐに現れる。
 布を一つリュウメイに手渡して、ガルジアはそのままリュウメイの腿へと。そしてそれを受け取ったリュウメイは、局部へと手を伸ばした。遠くの喧騒に、
柔らかな歌声が乗り上げる。ようやく二人きりになったガルジアとリュウメイの時間は、静かに、そして穏やかに流れてゆくのだった。
 足を持ち上げ、爪先から踵までを。指の間も丁寧に吹き上げる。それも終えると、一度離れて新しい布を取り出し、回り込んでベッドの反対側へ。
 そうして、リュウメイの背中へと取り掛かる。断ってから、長い赤髪を一纏めにして、肩を上らせてリュウメイの胸の方へと預けた。
「傷だらけですね、本当に。でも、背中の傷は多くありません」
 逃げる事を知らぬかの様な男だと思った。ヨルゼアに対してすら、立ち向かったのである。
 鱗に沿ってゆっくりと拭いては、下へ、下へ。今度は、そう時間は掛からなかった。傷が少ない分、すぐに終わるのである。そして、
細長く伸びた尻尾へと手を伸ばした。そうすると、リュウメイは露骨に舌打ちをしてから、ガルジアの手から逃れる様に尻尾を動かすので、
ガルジアも慌ててそれを追いかける。先端を捕まえると、尾の付け根から、身体と同じ様に清めてゆく。この時ばかりは、リュウメイは煩く
小言を並べてくる。もっと丁寧に拭けだの、くすぐったいだの。そんな事を聞く度にガルジアは思わず笑い声を上げてしまうのだった。痛みに強い
リュウメイも、普段感じる事のない刺激は苦手な様だった。
 暴れる尻尾に苦戦しながらも、どうにか成し遂げた。大きくて広い背中よりも、時間が掛かった。
「動くのは、大丈夫ですか?」
「ああ、ほとんど痛みも無くなってきた。まだたまにくらくらするけどな」
「それは仕方が無いですが……そろそろ、身体を洗える様になるかも知れませんね。身体は拭けばなんとかなりますが、
髪は難しいです。一応、拭いてはいるのですが」
 預けていた髪を戻し、また新しい布で拭き取ってゆく。表面ならば綺麗に出来るが、本当に洗いたいのは根元の方である。
 沐浴が出来ずに居るせいもあって、艶を失った赤髪は、また更に血の色に似ていて、ガルジアは少し強く髪を擦る。
「元気になったら、まずは洗ってくださいね。沢山の人が親切にしてくれました。一度くらいは、ご挨拶に出ないと、駄目ですよ」
「うるせぇなぁ。あいつらが勝手にやった事だろ」
「リュウメイさん! もう、あなたはどうしてそんな風に、人の親切を受け取らないのですか」
 人に親切にされる事を、露骨に嫌う節のある男だった。こうして世話をするのも、ガルジア以外がしようとすると、嫌がるのである。
 傷だらけの癖に自分だけで済まそうとするので、結局見兼ねて、全てをガルジアが引き受けていた。常に前を見据えて迷う事を知らない
反面、この男は、頑固なのである。何度かガルジアがそれを諫めても改める様子など見せもしない。
「これで終わりです。もう服を着ても大丈夫ですよ」
 言い終えると、リュウメイは先程まで身に付けていた物へと手を伸ばした。着ているのは、質素な、どこにでもある安物の糸と布で縫われた物だった。
 それは、ガルジアも同じである。二人とも、終わり滝の一件で身に付けていた服は血塗れで処分せざるを得なかったのである。こうして見ていると、
旅に出る訳でもないリュウメイの姿というのは、新鮮な物があった。旅をするのが、リュウメイという男なのだという気さえしてくる。
 そのまま、夕食まで何くれと無く面倒を見てやり、夕食を取ると早めの就寝となった。とにかく今は、傷を癒し、健康を取り戻す事である。
 リュウメイは不服そうだったが、こればかりはガルジアは譲らなかった。いい加減に過ごせば、それだけ傷の治りも悪くなる。路銀はライシン達が
多すぎる程の額を置いていったので、困っている訳でもないのだが、臥せっているリュウメイを見ているのが、ガルジアはなんとなく落ち着かなかったのだ。
 明かりを落として、しばしの時間が流れる。食堂からは、まだ人々の楽しげな歓声が聞こえていた。厳かな場所ではあるものの、宿ともなれば、
やはり騒ぎ好きの一人や二人は居るのである。刹那的な出会いを祝し、騒いでは、別れてゆく。この日もまた、いつもと同じ光景が繰り広げられているのだろう。
 その喧騒も止み、泊まり客が廊下でくだらない話を引きずりながら部屋へと帰ってゆく。それらが過ぎて静かになってから、ゆっくりとガルジアは起き上がり、
ベッドから抜け出した。隣のベッドに居るはずのリュウメイからは、反応が無い。そっと部屋を抜け出し、預かっていた鍵を掛け、傍にある階段を上った。昼間よりも、
木製の階段は強く軋んだ様に音を上げ、その度にガルジアは自分が立てている音だというのに、少し心細い気持ちになる。階段を上りきって、
扉を開いた。途端に、遠く感じていた滝の音が耳へと飛び込んでくる。湿った夜気が身を包んだ。終わり滝にある宿の、屋上だ。
 扉を閉めて、終わり滝を見上げる。激しい水の流れが、ここから一望出来た。尽きる事の無い水の流れは千年前、ヨルゼアが作った
物だという。その流れは千年経っても変わらず、そしてこの先千年もまた、変わらないのだろうとガルジアは思った。
 前に見た時は、ただ厳かな気分になっていた終わり滝も、今では別の想いが胸へと溢れてくる。ヨルゼアと、ダフレイ。二人が語らい、
しかし想いが重なる事のなかった地。そして幾星霜を経て、再びの邂逅を果たした地にもなった。
 ガルジアはただ、滝を見つめ続けた。その向こうで起こった出来事に思いを馳せて。今は居なくなった、自分と同じ二人の白虎を心に描く。
 煩い滝の音に混じって、微かに音が聞こえた。背後から聞こえたそれに、ガルジアはぎょっとして振り返る。満月を過ぎ、徐々に細くなってゆく
心許ない僅かな月明かりの下では、それは赤というよりは、黒に近かった。よろよろと動いているその男、リュウメイを、ガルジアは見つめる。

 微かな月光の下で、現れたリュウメイの事をガルジアはまっすぐに見据えた。昼間あれだけ喧騒に塗れていたこの終わり滝も、夜の観光が禁じられて
いる事もあり、昼のざわめきが嘘の様に静まり返っている。時折遠くで囁き交わされる巡邏の声以外に人の立てる音もなく、ただガルジアとリュウメイだけが
この世界に存在しているかの様だった。ただ一つ、滝の立てる音だけが、ざあざあと昼夜を問わずに響いては、辛うじてここが人の居る場所なのだという事を教える。
 あれだけ慣れ親しんで、煩いとも思わなくなっていた滝壷から上がる騒音が、今は耳障りに思えた。既に宵を過ぎ、夜を照らす月が細くなっているのを
良い事に、闇は我が物顔でその力を強めていた。巡邏の立てている篝火だけが、遠くで別物の様にゆらゆらと揺れている。
「リュウメイさん。もう、歩いて平気なのですか?」
「なんともねえよ。お前らが煩く騒ぐから、仕方なく寝てただけだ」
 口ばかりの出任せをリュウメイが言うが、その様子は普段の所作とは掛け離れていた。お世辞にも、軽やかとは言い難い。
「強がりばかりですね、あなたは。それで実力があるのが、怖いところですが」
 そのまま隣へやってきたリュウメイと共に、もう一度終わり滝を見上げる。足元を篝火で照らされた滝は、闇の中で白く立ち上り、闇を断ち割るかの
様に見えた。クロムと共にあの場所に行き、そしてダフレイと出会ったのも、既に随分と前の事である。
 長く旅をした。漠然と、ガルジアはそう思った。一介の修道士にしか過ぎなかった自分には、途方もない冒険だった。
「リュウメイさん」
「あぁ?」
「リュウメイさんは……これから、どうするのですか」
 暗闇からのいらえが途絶える。僅かな身動ぎの音がした。昼間から変わらず吹いている湿った風に、段々と被毛が
濡れてゆくのを感じる。長くここに居ると、リュウメイの身体に障るかも知れないとぼんやりと思った。
「旅を終えて、皆さんはまた新しい旅に出ました。リュウメイさんも、傷が癒えたら、また旅立つのですか?」
「そうだな。俺は生来、そういう生き方だ。今回はバインが係っていたから同じ場所にも行ったが、本当は一度来た場所には、
数年は行きもしねぇ。必要なら、人も切る。逆恨みをされる事もある。一箇所になんて、長々とは居られねぇのさ」
「どこかに腰を落ち着けようとは、思わないのですか?」
「そんなのは、真っ平ごめんだな。身体が動かなくなってから、いくらでも出来る事だ」
 ガルジアは口を噤んだ。修道院でぬくぬくと育ってきた自分とリュウメイでは、考え方が根本から違っていた。
 しかし今は、初めてあった頃とは違う。その生き方に、強い憧れも抱いていた。自由に歩き、見たいものを目に入れて、聞きたいものを耳に入れる。
 丁度、今自分の頬を撫で付けている風の様だった。どこから来るのかも、どこへ行くのかも、誰にもわかりはしない。
 同じ事を繰り返して生き続け、その中で小さな喜びを見つける。それは、大事な事だった。しかし長い間、修道院に閉じ込められていたガルジアに
とっては、どうしてもそれは物足りない生き方に思えたのだ。そうして始まった旅も、ようやく終わろうとしている。
「私がどこかへ行かないのかと、さっきそう言いましたね」
「ああ」
「私にはもう、帰る場所が無いんです。私の唯一帰る場所、ラライト修道院は、もう無くなってしまいました。
こういう時、私の様な修道士は他の修道院を尋ねるものですが……。今回の事で、それをして良いのかもわからなくなってしまいました。
私が外に出たいと思い、出たからこそ、修道院の皆は命を落とす事になりました。勿論それは、ヨルゼアの召喚を目論んだバインさんの仕業で、
悪いのはバインさんと言ってしまっても良いと思います。……けれど、私が何も行動を起こさなければ、誰も命を落とさずに済んだのは、
きっと事実なんでしょうね。私は、それが辛いです。身寄りの無くなった私が新しい修道院に助けを求めて、同じ事が繰り返されないとは
限らない。それどころか、サーモスト修道院での事もあります。ロー様はまだ私を狙っているのかも知れません。だとするのなら、どこかの
修道院に寄っても、ロー様からの召喚があるかも知れません。一介の修道士である私が、それを断る訳にはいかないでしょう」
「それで、どうしたいんだお前は」
「それは」
 長々と言葉を重ねた事を、まるで聞いていないかの様にリュウメイは返してくる。そう言われると、ガルジアは押し黙るしかなかった。
 身寄りを無くし、帰る場所と育ての親まで失い、そして召導書まで結局取り戻す事が出来なかった。取り戻したとしても、返す場所すら無いと言っても良い。
 この旅で、自分は何を手にしたというのだろうか。結果論でしかないが、結局、ほとんどの物を失ってしまった。残っているのは、辛く、しかし
楽しかった旅の記憶ばかり。その旅も、もう終わった。今はただ、過ぎ去った楽しい日々を振り返るばかりである。
「どうしたら良いのでしょうか、リュウメイさん……。私、全部無くしてしまいました。修道院も、修道士の皆も、ウル様も。
私には、もう何もありません。そんな事、ずっと前からわかっていたはずなのに。見ない振りをしていたんです。
リュウメイさん達と一緒に旅をするのが楽しくて。召導書を探すと決めてからも……きっと私は、死んだ人の事なんて
どうでもいいと思っている、薄情な奴なんです。今だって、そう。ラライト修道院のあった場所に戻って皆を弔い、死者を安らがせる事よりも、
修道院の生き残りや、村の人に会うのが怖くて仕方がないんです。事情を知ったら、きっと皆は、わかってくれると思います。
わかってくれても尚、心の中では、私一人が修道院の中に残り続けてくれていたらと思うのでしょう。私は、それが何よりも辛いのです。
私自身がそれを何よりも知っているから、辛い。それなのに、今になってもまだ旅を終えるのを惜しんでいる自分が、私は。
教えてください、リュウメイさん。私は、どうしたら良いのでしょうか。こんなに身勝手で、恩知らずで、薄情で。私は、私は」
 後半の方は、ほとんど言葉にもならなかった。泣き崩れるのだけはどうにか堪えて、しかし涙は止め処なく溢れては、
湿り気のある風などとは比べようもない程にガルジアの頬を濡らしている。しゃくり上げて、ガルジアは呻いた。こんな姿を
リュウメイに見せたい訳ではなかった。修道院を飛び出した自分を守ってくれてありがとうだとか、そういった感謝を口にしたかった。傷が癒えたリュウメイが
旅に出るのを見送って、その姿が見えなくなるまで、一片の弱みすら見せたくはなかった。旅立つ者の足を引っ張りたくない一心で堪えていたものは、
しかし努力の甲斐も虚しく溢れ出てしまったのだった。
「前にも俺は言ったはずだぜ、ガルジア。てめぇの好きにしろってな」
 嗚咽が治まりかけた頃にリュウメイが口を開いた。闇の中で姿は上手く見えずともその低く、落ち着いた声音はガルジアの耳にしっかりと届く。
「てめぇの勝手な行動で他人が死んだから、なんだってんだ。てめぇが殺したならまだしも、バインの仕業じゃねぇか。
そんな事を考えるのが、俺には理解できねぇな」
「だったら、リュウメイさんは、どうするんですか? こんな時」
 少し怒った口調で尋ねてみる。聞いてみたくなった。こんなにも苦しんでいる自分の事を、なんでもない様に言ってしまうこの男が何をするのかを。
「そうだな。酒でも買って、その修道院の瓦礫にでも掛けてやるさ。そしたら後は、好きな様に生きる」
「そんなの、自分勝手です」
「上等じゃねぇか。どうせこうなっちまった以上、出来る事なんてそれぐらいしかねぇさ。あとは、バインを見つけて仇を取るくらいしか、
死んだ奴のために出来る事なんてありゃしねぇよ。そのバインも、どこに居るかわからねぇ。あんな神出鬼没な奴を追いかけるくらいなら、
俺は俺のために、好きに生きる方を選ぶな。まあ、殺された奴にもよるがな」
「あなたって、本当に自分勝手ですね」
「人に助言を強請った癖に、随分な言い方しやがる」
 腕で懸命に涙を拭って、ガルジアはリュウメイを見つめた。暗がりの中では、リュウメイの光る瞳が僅かに見えるくらいで、それ以上の物は見えなかった。
 リュウメイからは、白い被毛の自分はある程度は見えているのだろう。
「褒めているんですよ。私の悩みを、いつだって小さい事の様に言ってしまって。そんな風に言うから、私もつい乗せられてしまうのかも知れません」
「小せぇよ。世の中にはそんな奴、いくらでも居るんだぜ。後ろを向いて生きるのなんか、誰だって出来る事だ」
「そうですね。リュウメイさんの、言う通りです。誰にだって、出来る事ですね」
 今までずっと、そう生きてきた。後ろばかりを振り返って。そして、今もまた。
 本当に、この男は。そう思わずにはいられなかった。前しか見ていないのである。自分とは、対照的だった。
「リュウメイさん、また旅に出られるんですね」
「ああ」
「私も、お供しても構いませんか?」
「嫌だ、と言ったら?」
「でも、私は一緒に行きたいです。私の人生ですから」
 しばしの静寂。その後に、リュウメイがくっくっと笑い声を上げた。
「それでいい。やっと素直になったな、てめぇは」
 それを見て、ガルジアはやっと納得をした。あの時。ラライト修道院で別れた時も、本当は、リュウメイは自分を待っていたのかも
知れなかった。何もかも投げ出して、ただ連れていってほしい。自分がそう言い出して、付いてくる事を。
「リュウメイさん。私、新しく目的を決めました」
「なんだ」
「宿の人の話を聞いていたのですが、ラライト修道院は今、復興作業をしているそうなんです。あの辺りには旅人の休める所がありませんから、
元々そういう役割もあった場所でして。でも、ラライト修道院には聖物がありません。聖物代わりの宝石は、ウル様が使われたそうですから。
私は修道院には戻れません。いつまた、バインさんが私を狙うかはわかりません。もしかしたら今も、それを狙って修道院の近くに潜んでいるかも知れません。
少なくともそれが落ち着くまでは、心苦しいですが……帰らない方が良いでしょう。だから私は、今度はラライト修道院に納められるに
相応しい聖物を探したいです。どんな物が良いのかもわかりません。なんの当ても、ありません。
でも、私がもし修道院のために出来る事があるのなら、これしかないのだと思います。仇と知りながらも、私は人を殺める事に抵抗のある身ですから」
「だから俺を出しにして、聖物を見つけようって魂胆か」
「はい。私一人では旅なんて上手くいきそうにありません。強い人が必要です」
「そうか。まあ、俺は構わねえが。行き先は俺が決めるぞ」
「勿論です」
「危険な場所にも、行くかもな」
「今回だって充分危険でしたよ」
「仕事次第で人を殺すぞ」
「それは、私が頑張って止めます」
「抱くぞ」
「それは嫌です!」
「なんだよ。そこは、調子良く承諾するところだろ」
「どうしてそういう下世話な話にしてくるんですか! 駄目ですよ、私は修道士なのですから。そんな事は。男女ならいざ知らず」
「良いじゃねぇか。どうせ男なら溜まるもんが溜まってんだ。大体、旅しながら女なんて、都合が良すぎなんだよ。街で買わねぇと無理だろ」
「例えの話であって、別に女の人に居てほしいとか、そんな事は言ってません」
「口の減らねぇ奴だ」
「そんなのは、お互い様です。……やっと、いつもみたいに話してくれましたね。ここに来てから、ずっと黙っていたから、心配していたんですよ」
 胸の内を零すと、にやけた顔が見えるかの様に上がっていた笑い声が止まった。
「バインの事を考えていてな。奴は、これで終わる様には見えねぇ。だから俺はどうにか始末したかったんだが」
「仕方ないですよ、それは。リュウメイさんが生きて、今ここに居る。私には、それだけで充分です」
「時々思うが、お前本当は俺の事誘ってねぇか?」
「だから、どうしてそう嫌らしい方向に捉えるのですか、あなたって人は。他人の気持ちのわからない人ですね」
 呆れて、しかしガルジアはつい笑い出してしまった。先程まで悩んでいたのが、嘘の様である。
「もう戻りましょう、リュウメイさん。リュウメイさんはまだ病み上がりなんです、こんな所で夜風に長く当たるのは、良くないです」
 そっと寄り添ってその身体を支えると、珍しくリュウメイが寄りかかってくる。ずっしりとした重みをガルジアは懸命に支えた。
 リュウメイが、やっと自分を頼ってくれた。そしてそれは、自分も同じだった。正面から、素直に言い出す事が出来た。
 外の世界を夢見て修道院を飛び出した修道士、ガルジア・イベルスリードの旅はこうして終わりを迎えた。しかしすぐにまた、新たな旅が始まる。
 今度は、見送るのではない。共に歩いてゆくのだ。そう心に秘めた想いで、ガルジアはリュウメイを支える腕に力を籠めた。

 旅立ちの朝。終わり滝はいつもと同じ様に、清清しい空気で胸を満たしてくれたし、来る者も去る者も分け隔てなくその清浄な空気で包み込んでいた。
 流れるいくつもの雲は、遠くへ。旅人達よりもずっと早く、空の彼方へと消えてゆく。時折その影が差して、僅かな間視界を暗くした。
 ガルジアが発つと聞いて、結構な人数の者が見送りに出ていた。一人一人に丁寧に応対を済ませて、最後に宿の主人の手を握り、感謝の言葉を
述べてからガルジアは終わり滝の宿から飛び出した。外では、既に先に出て終わり滝を見上げていたリュウメイが、こちらへと顔を向けている。
「遅ぇぞ」
「そんな事言ったって、仕方ないじゃないですか。皆さんとても良くしてくれたのに、何も言わず出ていくなんて事は出来ません。
リュウメイさんだって、本当はもっとしっかりとお礼を言わないといけないんですよ」
 起き上がれる様になったリュウメイも初めの内はガルジアに付いて回っていたのだが、予想通りガルジアを残して一人抜け出していた。
 その事を問い詰めても、リュウメイはもはや気にする素振りも見せずに背を向けて歩いてゆくので、ガルジアも慌ててその隣へと付いた。
「……なんだ、今日は自棄に静かじゃねぇか」
「あ、いえ」
 暫く黙ったまま歩いていると、目敏くリュウメイがそれを取り上げる。ガルジアは僅かに躊躇いを見せながら俯いた。
「リュウメイさんに付いていくって決めてしまいましたけれど……やっぱり、ご迷惑じゃないかなと」
「またそれか、心配性だな」
「だって、今回の事を考えたら、またバインさんが来たら」
「そうなったら、刺し違えてでも奴は始末してやるさ。あいつに迷惑してんのは、お前だけじゃねぇ。そこは気にするなよ。
……それにだな、ガルジア」
「なんですか?」
「てめぇ、本当は強いだろ? サーモストでやり合った時は、俺は結構てめぇの事、見直したんだぜ」
「あれは、詩のせいです。私の力では……いえ、力ではあるのかも知れませんが、あんな詩、早々歌えませんよ」
「残念だな。あのぐらいてめぇがいつも強かったら、俺は退屈しねぇし、色々任せてもいいんだが」
「嫌ですよ、私は人を切るなんて。勿論、場合によっては止む無しという事もあるのかも知れませんが」
「となると、借金返済はやっぱ身体でしか払えねぇ訳だな」
 リュウメイの零した言葉に、ガルジアの動きが止まる。慌ててリュウメイの顔を見上げると、見慣れたにやけ顔。
「借金って……えっ、そ、それはウル様からの礼金で良いって」
「なーに言ってんだ。修道院の依頼なんかじゃ金貨百枚になる訳ねぇだろ。こうして戻ってきたんだから、当然払ってくれるんだよなぁ?
踏み倒しなんて、修道士がして良い事じゃねぇもんなぁ?」
「リュウメイさん、あなたって人は……本当に、本当に」
 ぶるぶると震えながらガルジアは拳を握り締める、しかしやがては盛大な溜め息を吐いて、諦めた様に笑い出した。
「わかりましたよ、お支払いします。けれど、私の貯金も修道院に置いてきたからもう期待出来ません。
だから、ゆっくりお返しします。それでいいですよね?」
「一気に返す良い方法が」
「お断りします」
 ぬっと飛び出してきた手を素早く回避してから、ガルジアは前へと躍り出した。リュウメイが更に捕まえようとする。
 何度か逃げる事を繰り返してから足を止めて、ガルジアは問い掛けた。
「ところでリュウメイさん、気になっていたのですが……初めてあなたに会った時、どうして院長様の依頼で来たのだと
教えてくれなかったのですか? そう言ってくれたら、私だってもう少し……その」
 リュウメイに失望の眼差しを向ける事もなかったのに、と思う。
「あれは、あの院長から言わないでくれって頼まれたんだよ。お前は旅を満喫しているだろうから、
修道院からの護衛なんて言われたら、暗くなるってな」
「……そうなんですか。院長様……」
「しんみりしてる所悪いが、あの院長も相当な食わせ物だった事は忘れるなよ。結局、あの院長、お前がヨルゼアを
呼び出すために必要な事は知ってたんだろう?」
 召導書の件について、サーモストから来たロミス・ホーンがどこまでウルに真意を伝えたのかは定かではなかった。しかしバインに
襲撃された際、何がなんでもガルジアを逃がそうとしたその行動を鑑みれば、少なくともラライト修道院長、ウル・イベルスリードは
ガルジアの秘密を知っていたという事になる。それはクロムが何度も疑問として持ち上げていた事でもあった。
「今となっては、ただの憶測ですが……院長様も、きっと私にヨルゼアを召喚させたかったのかも知れません。
詩を歌わせていた私が、たまたまヨルゼアと心を通わせられる者でしたから」
「なんだ、極悪人か」
「そうじゃないと、思いたいです。きっと院長様は、私がヨルゼアと友達になる事を望んだのだと、私は思いたいです」
 ヨルゼアの危機を本当に防ぎたいのならば、ヨルゼアを滅するか、ヨルゼアについて触れられているネモラの召導書を抹消するしかない。
 しかしヨルゼアを滅する事など到底不可能であるし、修道院長が聖物を抹消する事など、許されるものではなかった。自分の管理
するものならまだしも、それは遠く、サーモストの地にあるべき物だったし、肝心の召導書すら、随分前に盗まれているのだ。ウル・イベルスリードは、
ヨルゼアを巡る騒動を聞き、その流れを断ち切りたい。その一心で自らもまた、危険であると知りながらも、ガルジアに詩を歌わせ続けたのではないか。
 ガルジアとしては、そう思う外無かった。誰よりも優しく、父の様だったウルの行動を、そう思う事でしか肯定出来なかった。いずれにせよ、真実は既に、
修道院が無くなって見えなくなった。今はただ、自らの命すら投げ出したウルの事を想うばかりである。
「リュウメイさん、次は、どちらへ?」
 思考を終えて、ガルジアは話題を振る様に口を開く。
「さて、どうするかな。もうすぐ寒くなるし、南の方が良いかも知れねえな」
「寒い地方でも、お供しますよ」
「バーカ、俺が苦手なんだよ。お前みたいにふわふわしちゃいねぇんだ。まあ、歩きながら決めるさ。どこへ行くかなんて、
いつ決めても、いつ撤回しても構わねぇ。てめぇも意見があったら言って良いぞ」
「本当ですか!? 私、沢山見たい場所があります。本や人から知っただけで、どんな所なのか、いつも考えてばかりいました」
 大海は、知る事が出来た。気高い山も、雄渾な大河も、ガルジアはまだ知らない。人の集まる街も、一つや二つだ。いくつも巡れば、
それらが街毎に異なる色を見せ、その度に胸を躍らせるだろう。季節が巡れば、人々の生きる様子も変ずる。それらをまだ知らず。しかし
どこに居ても、外を歩けばそれらは瞳に飛び込んでくる。ガルジアはその一つ一つに今から思いを馳せていた。はしゃぎながら先を急ぐガルジアに、
珍しくリュウメイが追いつこうとする形である。そうして、日が暮れるまで歩き続け、そして陽が昇れば、また歩き出すのだった。

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