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23.終わり滝の死闘

 荒涼とした大地に、風が吹き荒れる。
 終わり滝の上流近くに位置するこの場所は、辺り一面には草木一本見当たらず、平時ならば閑散とした空気に包まれている。
 ダフレイの言によれば、これはヨルゼアの力が強すぎるためだそうだ。
 そしてその力をダフレイが利用した事で、終わり滝は反対に土地を育み、魔物を寄せ付けぬ地となったのだった。
 空気中に僅かな光が煌く。それは、千年もの昔にヨルゼアが残していった、魔力の片鱗だった。
 長い時を経て、眠りについていたそれらが主の光臨を察知し、俄かに沸き立つと、地味な会場に花を添えようと
するかの様に、何度も瞬いては次第に強い力をクロムへと伝えた。
 それを見て、やはりヨルゼア、ひいては召喚獣とは、生身で立ち向かえるものではないのだと、理解する。
 ダフレイが使役していた者の魔力にすら、怯んで前には出られなかったし、実際に狼人の少年の力はあまりにも
凄まじく、周辺を凍らせていた。強い抵抗力がなければ、あの世界には居られない。そして今、その力の前に自分は立っているのだった。
 ガルジアは、無表情でこちらを見つめていた。
「ガルジア……」
 既にその表情からは、普段の面影は消えている。空気中に散らばった光が時折ガルジアを照らし、その時だけ、
いつかのガルジアの幻を見せるだけである。それに、クロムは俯いた。汗が身体中から噴き出ているのが如実に感じられる。
 ガルジアに、剣を向けるというのか。守ると誓ったその身体で。
 サーモストの時とは違っていた。あの時は、ガルジアを正気に戻すために、仕方なく振るったに過ぎない。
 しかし、今は。
 焦燥を嘲笑うかの様に周囲の魔力は強くなってゆく。戦いの疲れをヨルゼアは回復しつつあるのだろう。
 その力は未だ測りかねていた。しかし、これ以上弱くはならない。時が経てば経つ程に、ガルジアは蝕まれ、
そしてヨルゼアはガルジアの身体だけではなく、やがては心を手にする。心を手に入れておらず、そして消耗した今の状態。二度とは
訪れはしないであろうこの好機においての妙手は何かと問われれば、それはやはりガルジアをここで手に掛ける事だった。
 ガルジアを失う事で、ヨルゼアは暴走するかも知れない。しかし殺さずに見過ごしても、バインがガルジアを介してヨルゼアを意のままに
動かせば、何かしらの事を起こすはずだ。既にラライト修道院を滅ぼし、サーモストにすら何度か奸計を仕掛けた男である。己の
知識欲を満たすためならば、天に弓引く事とて、瑣末な事だと考えている節があった。ガルジアが、その様な卑劣極まりない男
の手先として使い捨てにされる事など、クロムには到底受け入れられる事ではなかった。
 ならば、手に掛けるか。
 そこへ行き着くと同時に、萎縮してしまう自分にクロムは気づく。
 今までも、こういった経験が無かった訳ではなかった。人質を取られる事はあったし、その後の行動も、その時の最善を選んできた。
 しかし今は何が最良なのか、わからずにいた。進むのも、戻るのも、ガルジアを助ける事にはならないのではないか。その
思いが去来する。
 クロムは、世界の命運でもなんでもなく、ただガルジアを助けたいのだった。
 死を忘れ、緩慢な思考の中で漂う様に生きていた。嫌な事からは、逃げれば良かった。どんな出来事も、時の流れには逆らえない。
 そして自分だけは、その流れからは外れた場所にいつでも居られた。だからこそ世界の全てに興味を失いかけていたのだ。
 ガルジアは自分に、道を示してくれた。同じ身体にはなれずとも、同じ様に生きようとしてくれたし、元の身体に戻ろうと言ったのだった。
 そのガルジアは今、自分達を消そうと、光を集めているのだった。いくら不死のクロムといえど、あの光に包まれ、塵一つ残らない
様に吹き飛ばされれば死ぬ事が出来そうだった。
「皮肉だな。私は、君が私を救ってくれると信じているし、君になら殺されても良いと思うけれど、
その行動は君の本心ではないのだろうね。ガルジア」
 ガルジアの掌の光が強まると、また一段と風が強くなる。自分の隣に居る男の髪が、それに靡いた。
 リュウメイは黙って剣を引き抜いている。クロムはまだ、鞘に収めたままだった。
 突然、ガルジアの持っていた光が弾けた。それに驚くよりも、クロムはガルジアの表情に目を奪われたのだった。
 感じられる力ももはやヨルゼアの物でしかなかったが、光を自らの意思で消し去ったガルジアの表情は、今はあの優しい面影を
湛えて、微笑む様に。しかしまた寂しそうにこちらを見つめていた。全てを諦めた様に、静かに笑っている。
 それを見て、クロムもまた黙って剣を抜いたのだった。満足そうにガルジアは少し頷いたが、しかし程なくしてその表情はまた、
ヨルゼアへと取って代わっていった。
 ひらりと、赤髪が舞う。飛び込んだリュウメイと、それを迎えたガルジアがぶつかり合う。遅れてクロムも飛び込んだ。
 大きくは表情を変えずに剣戟を交えているガルジアを見ていると、サーモストで精霊に身を任せていた時の彼を思い出す。
 あの時と違うのは、精霊が居ないという事だろうか。ヨルゼアは孤高の召喚獣であるからして、そういった他者を呼ぶという
芸当をする事はない様だった。ガルジアが詩を歌う事もない。その代わりに、乗り移ったヨルゼアの力により、
ガルジアの膂力と動きは凄まじい物になっていた。振り下ろした一撃は受け止めきれず、そのまま受け流す他なかったし、
払った剣の動きをそのままにくるりと一回転し、勢いを殺さぬ様に更に一撃を加え、まるで踊っている様に剣を振るう。二人掛かりで
追い詰め、捕らえたかと思うと鋭敏にそれを察知し、常人ならざる脚力でもって、背後に素早く距離を取って跳ぶ様な芸当もしていた。
 その戦い方が、精霊を身に宿していた時と似ているなと、クロムは観察していて気づく。
 ヨルゼアも、精霊も、それが本来の戦い方ではないはずである。乗り移ったガルジアの身体に合った動きをしようとしているのだろうか。
 だとすれば、ガルジアにはそういう才もあったのかも知れないと、こんな時にも関わらず、クロムは推察した。
 大地を蹴立てて、ガルジアは踊る。不毛な世界の中で、宙にあるヨルゼアの魔力はきらきらと輝き、汗を掻きながら戦うガルジアを
照らしている。飛び散る汗もまた、燦然とガルジアを彩っていた。ここだけを取り上げれば、それはまるで退廃を孕んだ大都市の舞台の上、
或いは王城であって、綺羅、星の如く連なる王侯貴族が見物するかの様な、素晴らしい舞踏であった。
 ガルジアが華麗な足取りで踊る度に、光は強くなる。少し遅れてその軌道を追う、ふさふさとした白虎の尻尾が、妖しげに揺らめいていた。
 握り締めたヨルゼアの剣が、波打つ様にざわつく。元々湾曲していた剣ではあるが、それも今は、ガルジアの動きに合わせるかの様に
波打ち、しかし攻撃に移るその一瞬研ぎ澄まされ、驚異的な一撃へと変貌する。クロムはなるたけその攻撃から、リュウメイを守ろうとした。
 リュウメイにとっては不服な事だとは思うが、ガルジアの持つ剣の一撃は、それを受け止めた者の身体を浄化するかの様に消し去ろうとする
事に打ち合う間にクロムは気づいた。恐らくはこの剣自体が、先程までガルジアが放っていた光線を
一纏めにした物なのだろう。ガルジアの心の妨げにより光線を放てなくなったヨルゼアは、こうして直接攻撃で勝負をしかけている。
 受け止めた剣にも、その力強さは伝わってきていた。並の剣ならば、そのまま刃を合わせているだけで破壊は免れない。クロムは
鞘に宿した力を移して打ち合っているから問題はなかったが、意外なのはリュウメイの剣も、この打ち合いに耐えうる一品だという事だった。
 柄に刻まれた紋章から、どこの国の物であるのかはわかっているのだが、随分特別な物をリュウメイは賜っていると思った。
 光の刃に身を切り裂かれると、途端に凄まじい熱を感じる。切り裂いた次から、焼けてゆく。ガルジアの詩の効果を更に強くした様な威力の剣だった。
 痛みに呻きながらも、しかしクロムは快さを感じていた。ガルジアの手に掛かるのなら、恐らくは
他の誰の手に掛かるよりも、幸せに逝けると思った。しかし負ける訳にはいかない。傷つけば傷つく程、本当に傷ついているのは自分
ではなく、剣を振るっているガルジアなのだった。
 辺りに漂う光は益々輝きを増してゆく。それが、ヨルゼアの力の隆起を物語っていた。
「下がれ、リュウメイ!」
 不意に走った悪寒に、ほとんど無意識のままクロムは叫んでいた。
 ぐにゃりと音が聞こえてきそうな程にガルジアの剣が曲がりくねったかと思うと、それは刹那球体へ戻ってから、更に変ずると
あの光線となりガルジアから放たれる。咄嗟にリュウメイを下がらせて、鞘を盾にしクロムはそれを受け止める。凄まじい衝撃の後、一瞬とも
数分ともつかぬ意識の混濁を起こし、気づけば背後に居たはずのリュウメイが、自分の少し先に居た。そして、再び集まる輝き。
 起き上がる事も出来ないでいるクロムの前で、リュウメイに向かって光線は放たれた。直後に違和感を覚えたのは、人影が残っていたからだった。
 最初に食らった時の威力を鑑みれば、塵一つ残さず消えていてもおかしくはなかった。今の一撃で感じたのは、どんという鈍い音に、衝撃波。
 それと、僅かに臭う、肉の焼ける臭いだった。
 いつの間にか増えていた人影に気づいたのは少し後の事で、目を凝らせば、リュウメイの前にライシンが居て、ガルジアの一撃を
受け止めようと躍り出たのだった。しかし受け止めきれずに、腹を破ったのかそこから血が流れている。
「ライシン」
 珍しく、呆けた様な声でリュウメイが呟く。ゆっくりと、背を向けているライシンの肩に手を掛けている。
「兄貴、ご無事っすか」
 振り返り、それだけを口にしたライシンは、そのまま崩れ落ちた。リュウメイがその身体を支えようとして、しかし
動揺しているためか、共に地に伏した。その頃になってようやくクロムは飛び起きて、二人の元へと走ったのだった。
 出血を押さえる様に腹に手を当てて、淡い光を灯しているライシンは、リュウメイからの視線に苦笑を零していた。
「てめぇ、どうしてきやがった」
「何言ってるんすか、兄貴。俺っち、兄貴が行く所、どこまでもっすよ。俺っち、兄貴の露払いなんすから」
 ライシンの手を退けて、傷口を確認する。出血はそれほど酷くはなかった。致命傷に至っている可能性は低かったが、
しかし魔法の一撃である。身体にどの様な影響が出るのか、それは時間が経つまでわかりはしなかった。
 傷は腹だけではなかった。両腕は、火傷を負っている。帯魔布の焼き痕だった。受け止めた際に、自らの防御も捨てて全ての
力を注いだのだろう。帯魔布は燃え尽き、そのままライシンの腕を焼いたのか、茶色い熊人の腕が、更に黒くなっていた。
「クロム」
 喘ぐ様にリュウメイが呼ぶ。クロムは何も返さず、ただライシンを診ていた。クロム。もう一度リュウメイが口にした。
「大した怪我ではないだろう。熊人の脂肪のおかげかな。出血は少ない。
心が付いてこられないのに、無理をしたのが祟ったな。治療をすれば、少なくとも死にはしないだろう」
「頼むぞ」
「リュウメイ、一人では」
 せめて鞘を託したかったが、それを託せばライシンの治療には支障が出てしまう。リュウメイはもはや耳を貸すつもりもないのか、
まっすぐにガルジアを見つめていた。ガルジアもまた、リュウメイを見ている。その顔には先程まで見せていた陰りは見当たらない。
 その代わりに、ただ涙が伝っていた。無表情に涙を流すガルジアの痛々しさを、もはやクロムは視界に収める事すら辛く感じる様になっていた。
「……それでも君は行くんだね、リュウメイ。ガルジアの願いを叶えに」
 ライシンの身体を引き摺り少し下がってから、クロムは勇敢で臆病な熊人の治療に当たる。
「無茶をするものだ。両腕までぼろぼろにして」
「そんなの兄貴や、旦那だって……。あんなのまともに食らったら、いくらクロムの旦那だって、生きてはいられねぇでしょう?」
 苦笑を零しながらもクロムは治療を続ける。ライシンに言われて初めて、自分が随分と危険な戦場に出てきているのだと理解した気がする。
 当てのない旅の途中で出会った、天涯孤独の白虎の修道士。その供となるのは、味気ない旅程にほんの少しの刺激を求める様な
ものだった。気づけば、こんな所で命を賭して、しかもその結果次第では世界の、少なくともこの大陸の命運を左右する一戦に身を投じている。
 不思議な出会いもあったものだと思った。百年以上の時を生きてきて、これ程奇妙で奇天烈な体験も、そうそうあるものではなかった。
「旦那。すまねぇっすけど、俺っちの懐にある帯魔布、出してくれねぇっすか」
 言われた通りにクロムはライシンの服を弄ると、黒色の帯魔布を見つけ出し、それを火傷で上手く動かせない手に乗せる。帯魔布は
ライシンの手に渡ると同時に強い光を放ち、その腕へと巻きついた。僅かに擦れたのか、呻き声が上がるが、治療に移ったのか次第に
表情は穏やかなものになる。これでクロムは腹の傷の面倒を見るだけで良くなり、ライシンの回復は思ったよりも早く終わりそうだった。
「兄貴も、旦那も、凄いっすねぇ……こんなに痛ぇのに、ちっとも弱音なんか吐きもしねぇ」
「君の反応の方が自然だよ。私は、まあ、生粋の傭兵だからね。私は寧ろリュウメイに驚くよ」
 幻覚とはいえ、手足を一度に切り落とされる痛みは流石のクロムも血の気が引く程のものだった。その激甚な痛みに
ライシンは叫び声を上げ、リュウメイもそれに続くのかと思っていたが、当のリュウメイは僅かに顔を顰める程度で、その闘争心を
衰えさせる事はなかったのである。たったそれだけで、この男が今までどの様な道を歩いてきたのか、想像するに難くなかった。
「そっすね……兄貴は、凄いっすよ。俺っちは、兄貴みてぇにはなれねぇみたいっす」
「無理はしなくていいさ。無理を重ねれば、やがて心を病むよ」
「ああ。死にたくねぇなあ」
 ぽつりと、ライシンが素直な一言を零した。クロムは黙ってそれを受け止めていた。
 今を生きている者の、純粋な気持ちだ。自分には無い物だと、溜め息を吐くだけである。
「兄貴、大丈夫っすかね」
「もう少ししたら、私も加勢に行くよ」
 揃って顔を向けた先に居る、リュウメイと、ガルジア。
 互いに熾烈な打ち合いを演じ、遠くからでは剣の動きすら満足に追えない程の死闘だった。
 涙も、今は流れる暇はないだろう。無造作に払った一撃がガルジアを切り裂き、無慈悲に払った一撃がリュウメイを切り裂く。
 血が飛び散るまでは、同じだった。しかしガルジアの傷は瞬時にして消え去るのである。痛々しい血痕だけが、悪戯に増えてゆく。
 リュウメイの限界は、それほど遠くはなさそうだった。

 奇妙な浮遊感に包まれ、微かな音を耳にしながら、目を覚ました。
 腕が動かず。足も動かず。指先一つとっても、満足に動かせる状態ではなかった。
 身体が、温かい物に包まれている。足の爪先から腿、腰、尻尾、胸へと続き、それは首元までをすっぽりと覆っていた。
 快い感覚が身体に押し寄せる。それは外側だけでなく、被毛を掻き分け肌へ取り付き、徐々に内側へ、
体内へと侵入しては、中からも身体を温めようとしていた。
 耳に聞こえた音が、次第に大きくなる。男の声だった。それが煩くて微かに身を捩ってから、瞼を開く。目の前に広がるのは、
赤髪の男の戦姿。髪を靡かせ、血を流し。剣を振るうて、息を乱し。命を燃やし、削り、消えてゆく。雄雄しくも儚い姿だった。
 蜥蜴の緑の肌に、深紅の血。赤髪に混じったそれは目立つ事はなく、しかし決して隠れもせず、男の傷が浅くはない事を知らせていた。
 それを、黙って見つめていた。一人の男が死にゆくのを、眺めていた。
 快さが増してゆく。邪魔をするのは、その男だけだった。目を瞑り眠りに落ちようとするが、何故だかその男から目を離せずにいた。
 男が膝を着くが、すぐに立ち上がる。僅かな呻き声を上げるが、一層瞳の光は強くなる。死への恐怖が無いとでも言いたげに、
男はどれほどの傷を負っても、決して怯みはしなかった。
 何故そこまでするのだろうかと、問い質したくなる。出会ってからそれほど長い時を過ごした訳でもなかった。
 仲が良かったのかと訊かれれば、そうでもない。反りが合わない事が多く、意見は交わる事もないまま、平行線を辿る事が多い。
 思想が合わないし、性格が合わない。趣向が合わないし、言葉遣いも、態度も、気に入らない。
 何もかもが合わぬまま、ここまで来てしまった。その男の事を何も知らぬまま、しかし男は自分を知り、ここに居るのだった。
 指先が僅かに震える。しかし、まだ足りない。
 長く旅を続けた様な気がした。実際は、半年にも満たない旅だった。しかしそれでも、自分にはとてつもない冒険なのだった。
 外に出る事を禁じられ、いつも窓から眺めていた。丘の向こう、雲の続く先。歩いてはやがて消えてゆく、人の姿。
 何もかもが、自分には無縁の物だった。知ってはいても、見た事はない。そんな世界から、抜け出してきたのだ。
 連れ出してくれた男が居た。守ってくれた男が居た。長い間、それに気づいていなかった様に思う。いつも、その男がからかうせいだ。
 からかわれる内に、慣れてしまう。傍に居る事が当たり前なのだと、思い込まされてしまう。だから、不意に訪れた別れには困惑したし、
置いていかないでくれと、喚いたりもした。
 そして、再びの邂逅。
 男がまた、膝を突いた。今度はすぐには立ち上がらない。しかし、立ち上がろうとしていた。
「どうして、そこまでしてくれるんですか。リュウメイさん」
 呟きが男に届いたのかは、わからない。少なくとも、自分の耳には届かなかった。
 声を封じる様に、温かさが首元から上ってくる、そうして、自分の全てを呑み込もうとする。
 剣を大地に突き立て、震える身体で男は立ち上がる。
 いつの間にか、瞬きすら忘れていた。ただ、男を、じっと見ている自分が居る。男も、そうだった。
「いつまでそんな奴の好きにさせているつもりだ。ガルジアッ!!」
 はっきりと聞こえた男のいらえに、身体が震えた。
 動かなかった指が、動く。指先から始まった力の胎動。尽きる事なくそれは溢れてきた。腕を上げた。足を、踏み出した。
 温もりから出た部分から、ひんやりとした感触が自分を迎える。それが本当に冷たいものだとは、思わなかった。はっきりとした
感触は、自分が自分だからこそ感じられるものだ。
 惜しむ事もせずに飛び出した。振り返る事はしなかった。今はただ、声のした方へ。自分を呼ぶ、声がする場所へ向かえばいい。
 ガルジアは、リュウメイへと手を伸ばした。

 立ち昇る光に、クロムは瞼を閉じかけた。既に一度、ここへ来る途中、ヨルゼアの召喚が成された時に見上げた景色である。
 ライシンの治療を終え、自らの治療もそこそこに、劣勢に立たされたリュウメイを見て立ち上がろうとしたところだった。
 光は留まる事を知らぬかの様にその輝きを増し続け、やがては直視をする事が困難な程になり、止む無く腕で視界を遮る。
 それはまるで、全ての始まりであるかの様だった。白色以外の何物も、視界には広がらない。目を瞑っても、暗闇を食い破る様に
光が飛び込んでくる。その光の中で何が起きているのか。その光の中から、何が出てくるのか。それは的中させようもなかったが、
しかし今までよりも更に恐ろしい者が潜んでいる事だけは、予感していた。光のその先に渦巻く強い力に、身体が震えた。それも
またヨルゼアがこの地に降り立った時に感じたものであり、その後ガルジアと一体化してからは鳴りを潜めていたものだった。見えずとも、
どういう事態が起ころうとしているのか、クロムには手に取る様にわかった。
 知りたいのは、そんな事ではなかった。光に包まれて、見えなくなったガルジアと、リュウメイ。二人とも揃って魔法の素質を
持たぬ者達だから、この眩い白亜の世界の中では、生きているのかを確かめる術とてなかった。もっとも、これだけ強い
ヨルゼアの力が渦巻いている以上、微弱な人一人の力など、感じ取る事が出来る程に敏感でもなかったのだが。
「こんな時でなんだが、逃げるのならば、今の内だよ。ライシン君」
 ライシンからの返答は、なかった。しかし隣に居るその力ならば、感じ取る事は出来る。
 一人くらい、逃げる者が居たって良いではないか。そんな事を考えて、クロムは笑みを形作った。短い生を送る彼らは
誰一人として逃げ出さず、懸命に生きようとしていた。長い生を不本意ながらも与えられて、逃げ続けてきた自分が酷く滑稽に思える。
 もう、逃げる事はしなかった。剣を抜き、堂々と構える。召喚獣がなんだと思った。所詮は、世界が少し違うだけであって、
一つの生物である事に変わりはしない。人だろうと魔物だろうと、好きな様に考えていれば良い。ただ、少しだけ自分の手には余る相手だというだけだ。
 光が、やがて治まってゆく。このまま強くなり続け、世界そのものを呑み込んでしまうのではないかと思われたその光が、弱まっている。
 しかしそれが本当に弱くなっているのではない事は、集中する魔力の存在ですぐに理解した。輝きを失う代わりに、一点に集中してゆく。
 視界を取り戻して腕を退けると、暗闇が馴れ馴れしく戻ってくる。それを見て、今が夜なのだという事を思い出した。酷く長い間
ここに居る気がするが、月もほとんど動いてはいない。
 目を細めて見つめた先に、リュウメイが居た。その傍に居たはずのガルジアは、今は身体を崩れさせて、リュウメイが支えている状態だった。
 駆け出して、その傍へ。ぴくりとも動かないガルジアは、ほんの僅かなものだが、息をしていた。
「ガルジア」
 時折身を捩るが、それ以上の返事はない。それでも充分な物だった。これだけ分の悪い戦いの中で、もはや手に掛けるしかないと
思っていたガルジアが、戻ってきてくれた。胸に溢れた充足に、クロムはこの白虎の修道士に自分が心底から心酔しているのだと、
ようやく認める気分になった。しかし長くはそれに気を取られはしない。リュウメイと、ガルジアの向こう。少し離れた場所に、集まった光が
徐々に形を成してゆくのが見えていた。ヨルゼア。思わず、呟いた。リュウメイを助け起こし、とにかく距離を取る。
 光の中から、男の姿が現れる。銀色に鈍く光る金属でよろい、唯一前掛けの様に垂らした布が見た目の重厚さに
僅かな抵抗を見せていた。全身は装具も含めて光そのものの様に白く、しかし白虎であるが故に被毛に敷かれた縞と、ガルジアや
ダフレイとは異なる赤色の瞳が一際目を引いた。鎧の隙間からは鍛え抜かれた筋肉が、被毛の下にあっても隠れ切れておらず、
それもまた旅を共にしてきたガルジアとの際立った差異となってクロムに印象付ける。
 身の丈はダフレイが引き連れるバルゼリオよりも更に大きく、無論この場に居る誰をも見下ろす形を取っていた。偉丈夫の身体に、
ごつい肩当てと、厚い胸板を更に厚く見せる胸当て、身体の太さを隠しきれずにいる腿当てと膝当てが続く。全身鎧とまでは行かずに、
動きやすさを重視しているのか、細部からはやはりその何者をも圧倒するであろう、頑健な体躯が見え隠れする。
 ガルジアとは似ても似つかぬ白虎の姿だった。その表情は憤怒を湛え、次にはヨルゼアの咆哮が上がる。全身にびりびりとした
感覚が襲い、周りからは誰かの声が上がった。勝てない。クロムは直感で、そう感じた。歴戦の自分であっても、あれには到底
適うべくもない。しかし、既に引く訳にも行かなかったのだった。ヨルゼアが怒りを露にしているのならば、当然矛先は、この場に居る
自分達以外の何者でもないのである。そしてあの力からは、そう簡単に逃れられる物とも思えなかった。
 下がりに下がって、リュウメイ達の治療に当たる。身に纏うローブは血に染まっているが、ガルジアは無傷だった。傷が深いのは、
リュウメイである。元々、盾となる自分が離脱をした事で戦況は芳しくなかった上に、リュウメイは捨て身の覚悟でガルジアと切り結んで
いたのだ。心を囚われていたガルジアはありとあらゆる手を尽くし、一撃の威力を弱めてはいた様だが、だからといって
それで全ての攻撃が衰えていた訳ではない。一撃で死ぬものを、精精が瀕死に止める程度だろう。
 鞘を握る手に力を籠める。いつの間にかライシンと、そして様子を見ていたダフレイも傍へ来ていた。三人掛かりで
聖法による治療を試みてようやく、リュウメイの出血は治まり、その厳しかった表情も和らいだ。しかし流れた血だけは
どうしようもなく、これ以上の戦闘は期待出来そうになかった。元来の赤髪と出血により、ほとんどが赤く染まっている。
 それは、ガルジアも同じだった。純白で簡素なローブは汚れきっていた。
「お前達、よくやった」
 当座の治療を済ませると、ダフレイが満足気に微笑んで言った。
「ガルジアを始末するしかないと思っていたが、まさかこうして、助け出す事が出来るとはな」
「何が、よくやっただ。まだ勝負はついてねぇぞ」
 髪を振り乱してリュウメイが言う。身体が上手く動かせもしない癖に、その瞳からはまだ闘志の光が瞬いていた。この男の
意志の強さには、驚愕するばかりである。どれ程の痛みに晒されても、衰えない。その光が本当に消えるのは、死ぬ時を以って
他にはないのだろう。
「そうだな、お前の言う通りだリュウメイ。このままヨルゼアが暴走すれば、少なくとも終わり滝は丸ごと吹き飛ぶであろう。
かつては大陸を割ったその力。ガルジアと一体化していた事で多少衰えてはいるが、さて。
皮肉なものだな。千年前は私を拒み暴走したというのに、今度はガルジアに拒まれてとは」
「短気な野郎だ」
「兄貴が言っちゃあお仕舞いっすよ」
「抜かせ」
 軽口をライシンが叩く。その表情はまだ強張っていたが、少なくともここに残る意志は確かな様だった。
 咆哮が上がる。揃ってそちらに目を向けた後、クロムはヨルゼアの傍に跪く男の影に気づいた。
 跪くというよりは、座り込んでいるのだろうか。状況を考えれば、それはこの事件の首謀者であるバイン
である事に間違いはないはずだった。しかしその被毛の色を見て、クロムは目を見張った。自分が知っているバインといえば、
当然漆黒の被毛を持つ狼人であった。しかし今その身体を覆うのは黄ばみがかった白色の獣毛、年老いたもののそれであり、
バインの顔からは覇気が失せ、顎先や、眉は老人の様に長く伸びていた。
「あれは……バインなのか?」
「そうだ。あれが、あの男の本当の姿だ」
 呟きに気づいたダフレイも、バインを見ながらクロムの疑問を肯定する。俄かに全員が言葉を失った。そこにいるのは、
ただの老いた男だった。若々しい精気に溢れていた青年の面影はどこにも無く、震える腕で大地から必死に身体を起こし、
ヨルゼアを見つめている、老いた男。
「私が身体を染めていたのと同じだな。あの男、全身を魔力で染め上げていた。丁度、そこの小僧の腕にある帯魔布の
役割を果たしていたのだろう。そして全身を覆う被毛の一本一本で、外側から身体を刺激をする事で若い姿を保っていたのだろう。
不老不死とまでは言わないが、あれもそれに近づこうとした跡と言ったところか。まあ、帯魔布と同じで魔力を放出したらなんの効果も無くなる。
ヨルゼアの召喚と維持に力を使いすぎたな。もはや身体を若く保つ事も出来ておらぬ」
「ふむ、という事は……やはりネモラの召導書を盗み、今まで隠し持っていたのも、バインという事か」
「で、あろうな。今のあの男からは、ネモラの力を微かに感じる。脇が甘くなっているからだろうか。恐らくは、
この力を発している源が、お前達が探し続けているネモラの召導書だろう」
「大事に持ってんのかよ、世話ねぇな」
「癪だが、あの男は私と同じだ。信用できる者が居ない。そういう奴は結局自分の懐しか隠す場所がないものだ」
 率いているはずの盗賊団の姿が、ここに来るまでの見当たらなかったのがその証左だろうか。もっとも、いくら盗賊に身を落とす
様な輩であったとしても、破滅を齎すかも知れない召喚獣の召喚になどおいそれと手を貸す者もいないとは思うのだが。
「じゃあ、もうすぐあいつの魔力が無くなるって事っすよね? だったら、あのヨルゼアっていう奴も、帰ってくんじゃないっすか?」
「ところが、そうならぬやも知れぬのだ。千年前も、結局は召喚士の力が途絶え、自らの力だけで残り続けていた。
並みの召喚獣なら、そんな事をは不可能だし、やったとしても負担は大きく、黒い印もつきそうなものだが……やはり素晴らしい召喚獣だ。
そんな様子、微塵も感じさせぬではないか。ああ、どうして私を拒んでしまったのだヨルゼアよ。お前が受け入れてくれれば、
私は身も心も捧げたというのに。他の奴らは私に傅くが、私はお前に傅くのもやぶさかでは……」
「ダフレイ、今はその話はしなくていい」
 バルゼリオに遮られて、我に返ったダフレイが軽く咳払いをする。
「とにかく、まだ安心してはならん。ヨルゼアの魔力は今も尚強くなっておる。
可能ならば今すぐ逃げた方が良いのやも知れぬが……おお、我々を見据えるあの赤眼のなんと美しい事か。私達を逃がす気は無いであろうな。
せっかく見初めたガルジアを取り上げられたのだから、当然といえば当然だが」
「逃げるのは難しいか。まあ、ガルジアがここに居て、もうヨルゼアの邪魔が出来る者も居ないしな。
ヨルゼアが、ガルジア諸共私達を消し飛ばすかは疑問が残るが、少なくとも走って逃げてもヨルゼアの力の及ぶ領域からは逃れられないだろう」
 冷静に現状を分析して呟いたクロムの言葉に場がしんと静まった。各々が、既に満身創痍である。ヨルゼアと互角に渡り合える者は居ない。
 生前のダフレイだけが唯一その可能性を秘めていたのだが、そのダフレイも、今はただリーマに寄りかかる小さな魂に過ぎなかった。
 声一つ上がらぬ代わりに、地鳴りが轟いた。ヨルゼアの力は今まさに頂点に達し、その憤怒の矛先を逃さんとばかりにかっと
開かれた両の眼は、こちらを射抜いていた。誰もが、自らの命運がこの終わり滝で途絶える事を覚悟する他なかったのだった。

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