top of page

22.二死三生の男

 身体が動かせる様になったのは、光が止んでから更にしばらく経ってからの事だった。
 自らの腕の中で気を失っているリーマの身体を、バルゼリオは大事に抱えた。
 背後に一瞥をくれると、先程まで共に歩んでいた者達が倒れ伏していたが、僅かに身体を動かし立ち上がろうと
しているところだった。傷はそう深くはない。
 ヨルゼアに憑依されたガルジアの一撃は、凄まじい物だった。それを見て咄嗟にバルゼリオは石の壁を間に作り上げはしたものの、
それも見事に破られ、残った光で吹き飛ばされた。ジースホーンを名乗る自分ですら、ヨルゼアの力には適わない。それも、
ヨルゼアが憑依したガルジアである。本来のヨルゼアの力には、程遠いはずだった。
「大丈夫か、お前達」
 軽く声を掛けてやる。返事代わりの僅かな呻き声。それで、充分だった。死んでいなければ、それで良い。
 しかし気絶しているリーマは、別だった。幼い少年の身体は、羽根の様にバルゼリオには軽く感じられた。
 ダフレイから貸し与えられているとはいえ、今のバルゼリオの主は、リーマである。しかしリーマは実戦経験が無いどころか、
今回の件で急ぎに急いだために、身体中に疲労の蓄積しきった身である。咄嗟に壁を作り上げたバルゼリオに急激に、大量の
魔力を吸い取られ、更には防ぎ切れなかった攻撃により身体にも負担を背負った。二重の衝撃は、小さな身体には重すぎる。それを
気の毒に思いながらも、バルゼリオは何度かリーマへと呼びかける。今はリーマに倒れられては、困るのだ。声を掛けている
バルゼリオの片足は、吹き飛んだままである。自らを壁とし、失った手足は主の魔力で戻るとはいえ、その魔力の供給源である
リーマがこの様では、召喚獣であるバルゼリオにはどうしようもなかった。
「おや、まだ生きていたのですか。残念ですね。一息に楽にして差し上げたかったというのに」
 悪魔の様な声が聞こえる。嘲笑を含むその声音は、光の発せられた方向から現れたバインの物だった。その隣には、
白虎の歌術士の姿が。バインとは違い、ガルジアは無表情を湛えていた。その腕先には淡い光が漂い、その身体は僅かに
光を発している。もはやそれは、生身の人とは言えなくなっていた。ヨルゼアがこの世界においての入れ物を見つけた。それは
ある意味では、幻獣化に成功したともいえなくもない。幻獣とは、召喚士や周囲の魔力に頼る事なく、召喚士達の世界に存在
し続ける生き物なのだから。
 しかしそれはまだ、完璧な幻獣とは言えなかった。それは攻撃をする刹那、逃げろと叫んだガルジアの行動から察せられる。
 ガルジアはまだ、ヨルゼアと一つになった訳ではない。
 リーマを庇いながら、バルゼは片足でなるたけ遠ざかり、それと同時にリーマの懐へと手を突っ込む。
 程なくして取り出したのは、ダフレイが力を封じている水晶球だった。
「出番だぞ、ダフレイ!」
 握り締めて、バルゼリオは水晶球を砕く。破片は僅かに飛び散った後に光へと変わり、そして腕の中へ居るリーマへと
吸い込まれてゆく。リーマの身体が宙へ浮き、一際眩い光を放った次には、既にそれはリーマではなくなっていた。
 失っていた身体が再生してゆく。立ち上がると、バルゼリオは数歩下がり、その姿に見惚れた。こうして生ある姿を、仮初とはいえ
得たその姿を見るのは、実に千年振りである。感じられるその力に、こんな時に、とは思いつつも、バルゼリオは目頭を熱くした。
 現れた男は、少年のリーマとは違い長身で、何よりもその白い被毛が目を惹いた。それこそが、己の本当の主の証。それ以外の者には
決して許されぬ、その姿。白虎の召喚士であるリーマアルダフレイは、まっすぐに眼前の狼藉者へと、酷薄な色を湛えた、
鮮やかな青玉の瞳を向けた。
「随分乱暴に起こしてくれたな、バルゼ」
 僅かに顔を向け、青玉がこちらへと向く。全身から汗が噴出すこの感覚。これこそが、リーマアルダフレイなのだと、バルゼリオは傍白する。
「仕方ないだろ? こんな状況なんだから」
「まあ、そうだな。ヨルゼアが相手では、私以外ではその相手、務まる者とておるまい」
「これは。まさか、あなたは……」
 二人の話へと、バインは割ってはいる。その表情は先程までの余裕に包まれた物ではなく、驚嘆とも、苦渋ともつかぬ色を
滲ませていた。しかし次第にその口元は不気味な程の笑みを形作り、最後には哄笑へと走った。
「なんと素晴らしい事か! まさか、リーマアルダフレイ様が直々に参られるとは!
……なるほど、そういう事でしたか。儀式の阻止には間に合わなかったとはいえ、簡単に追えぬ様に細工までしたというのに、
それでも私に辿り着くのが随分早いと思いました。召導書も持たず、情報に関して碌な伝を持っては
いないと高を括っていましたが、なるほど、なるほど……。まさか、あなたご自身が現れるとは。
思いもしていませんでしたよ。リーマアルダフレイ・セロス様?」
「黙れ。貴様の様な出来損ないに名を呼ばれたくはないわ」
「これは、失礼しました。しかし私もそれなりに腕に自信は持っているつもりですが」
「そういう事ではない。召喚獣を操るために、歌術士の利用を企んだのが、私は気に入らぬ。召喚士の面汚しめ」
「なるほど、なるほど。……ふふ。あなたにそう言われると、私も上手く反論出来ませんね。あなたの仰る事は正しい。
しかし、正しいだけだ。私は正しさなどよりも、ヨルゼアを掌中に収める事を求めただけですよ。
そう、あなたに出来なかった事だ。そして、私にはそれが出来る。結果を大事にしましょう、リーマアルダフレイ様。
あなたは結局、ヨルゼアを調伏せしめる事適わぬ身。ヨルゼアというたった一つの事柄。しかし、他の何よりも優先すべき
その点において、私はあなたに勝っている。それ以外の全てが劣っていたとしても。そうは、思いませんか?」
「物は言い様だな。……だが、それは否定はせぬ。私は確かに、ヨルゼアと心を通わせる事が出来なかった。
なるが故に、まさか、ガルジアが適任者だったとはな……。そして、歌術士である彼奴を利用するとは。
だが、ガルジアも所詮は常人の身。凡人だ。召喚獣をその身に宿すなどという、開闢以来報告されておらぬ様な手段、
いつまで持つだろうか? 現に、ヨルゼアはガルジアに憑依する事で、力を削ぎ落とされている様に私には見える」
「切れ味の鋭い、抜き身の刃だった。だから、必要な時以外は鞘が必要。私はそう思っていますよ。
ガルジアの負担が大きいのは私も承知の事。だからこれからは、私がその身体にも手を入れましょう。
常人であり、凡人でもある。結構ではないですか。そんな事、私の力でどうにでもして差し上げますよ」
「痴れ者の餓鬼が。つくづく気に入らぬわ」
 ダフレイの掌から光が発せられる。ヨルゼアが光を操るのと同じく、ダフレイもまた光を我が物とする事に長けていた。
 放たれた光はバインに直撃する寸前に前に出たガルジアに受け止められ、握り潰される。
「乱暴なお方だ。千年経っても名を残す程の優秀な召喚士だというのに、自らも暴れるなど。
それに、餓鬼だなどと。お言葉を返す様ですが、これでも私はあなたより年上なのですがね」
「生ある内の話なら、そうであろうな。だが私は死した後も千年を過ごした身だ。生憎だが、百年二百年など、数える内にも入らぬわ」
「死に損ない。……いえ、消え損ないでしょうか。まあ、言葉遊びはこれぐらいにしましょう。
私の言動に異議があるのならば、申し立ては力ずくでお願いします。悪霊の召喚士よ」
「良いだろう。バルゼ」
 開ききった眼で、ダフレイが発した言葉をバルゼは黙って受け止めた。元よりダフレイも、説得でバインが
止まるなどという事は期待していない。召喚獣を使役するという点では、バインとダフレイの間柄は悪くはないのかも知れないが、
その捉え方がまるで異なっている。決して交わらぬ二人は、どちらかが倒れるまで争う他なかった。
「陣を張れ。出せるだけ、出してやる」
「ダフレイ。昔のお前ならともかく、今のお前じゃ……」
「早くしろ。弱くなっているとはいえ、ヨルゼアはヨルゼアだ。私も死力を尽くさねば、時間稼ぎにもならぬわ」
 強い口調に諦めて、バルゼリオは両腕に力を入れる。筋肉が盛り上がり、縄の様に皮膚に現れる。それを勢い良く地に叩きつけると、
途端にダフレイと自分の居る地点を中心として、小さな家程もある広さの大地が盛り上がり、そしてその表面に線が描かれる。
 それはセロス家にある、あの魔法陣と同じ紋様だった。全ての属性に繋がる語を描き、全ての場へ繋がる語を描いた輪。
 この感覚も、バルゼリオには懐かしく感じられた。本気を出したダフレイがバルゼリオに命じる、神にも等しい号令。
 陣の周りに岩壁が立ち上る。主の声が遮られぬ様に、バルゼリオはただ、ダフレイを守る盾になった。
 準備を終えると、バルゼリオはダフレイを見守ったが、やがては訝しむ表情をする事になる。
 普段ならば、千年前の在りし日ならば、既にダフレイの召喚は始まっている。しかし今のダフレイは右手を軽く掲げるだけで、
召喚を始めようとはしなかった。
「出し惜しみはせぬ。この日のための、今までだったのだからな」
 途端、夥しい力を感じて、バルゼリオの身体に怖気が走る。それは紛れもなく、千年前に感じ取った強い力の流れであり、
そして今眼前に立っているダフレイからは感じられぬはずの、本当のダフレイの力だった。ダフレイが掲げた右手の掌の上には、
小さな丸い、宝玉の様な赤い球体が浮いている。それを、バルゼリオが呼び出した時の様に、ダフレイが握り潰した。飛び散ったのは光ではなく、
深紅の液体。鼻腔を刺す鉄の臭い。それはダフレイの腕をしとどに濡らし、染め上げ、やがては色を薄めてその身体へと吸い込まれてゆく。
 それに変わるかの様に、ダフレイの身から感じる、懐かしくも恐ろしい魔力の奔流。
 銀髪が、虚空に舞った。
 先程までは短かった白虎の後頭部の被毛が、今は伸びに伸び、足元へ届くかと思われる程にすらりと垂れ落ちる。
 銀糸の様にきらきらと、一本一本が輝き、それは夜空に舞えば、緩慢に落ちる流星の様だった。
 ダフレイが軽く身を捩る度に、銀糸は躍る。淡い光を放つそれは闇の中で、妖しく、蠱惑的に存在を主張していた。
 それを見て、胸の高鳴りをバルゼリオは痛い程に感じていた。紛れも無く目の前に佇むのは、千年前のあの日のダフレイだったのだ。
「ただいま、バルゼ」
 振り返ったダフレイが、優しく微笑んだ。振り乱した銀髪が、その身に孕む険しさを和らげ、その生涯のほとんどを見届けた
バルゼリオですら、別人を前にしたかの様な違和感に苛まれてしまう。この感覚は、ついにダフレイを失うまで、消える事がなかった。
「ダフレイ、その姿は」
「言っただろう、出し惜しみはしないと。……実はな、私の直接の死因は、寿命でも、病でもない。確かに身体は弱っていたがな。
いつか来るこの日のために、私は、私の力を封印する事にして、さっさと死んだに過ぎぬ。
……そんな顔をするな。千年も待ったが、今こそが私の戦うべき時なのだ。何も言わず、付いてきておくれ」
 ダフレイが背を向ける。バルゼリオは、もはや何も言葉を紡ぐ事がなかった。これが、この男、リーマアルダフレイの生き方なのだと、
そう受け止める事しか、出来なかったのだった。
 そして始まる。ダフレイの口から発せられる、妖しげな詠唱が。それに呼応して、銀髪の光が増してゆく。
「我に従いし誇り高き猛者達よ。我が名はリーマアルダフレイ。我が声に応じ、参じて頭を垂れよ。
炎の帝。雷の神。白雪の王。氷海の姫君。風来童。光照者。夜告者。怨呪。紅武者。月影。
昔日の約を思い出せ。我が言葉こそ、神の言なり」
 ダフレイの被毛から、夥しい量の力が流れ出し、それらは宙へ。丁度、先程ヨルゼアを呼び出したのと同じ様に、
虚空に入り口が開かれた。開け放たれた巨大な穴のその先から、こちらへ飛んでくる者の力をバルゼリオは感じて顔を綻ばせたが、
すぐに表情を曇らせた。明らかに、足りていないのがわかったからだ。
 二柱の光が、即席の魔法陣へと降り立つ。光が止みその場に残っていたのは、一人の美しい女と、一人の少年だった。
「十匹呼んで、たったの二匹か。衰えたな、私も」
「無理もねぇ。主が死ねば、契約はそこで途切れるんだ。こうして現れるだけでも、変わり者なんだよ」
「ダフレイ様」
 呼び出された女の方は初め、目を何度も白黒させるかの様に瞬きを繰り返し、やがて涙を流して、美しい顔に皺を寄せた。
 水色で、半透明の透き通った肌の女である。その身体は上半身は被毛が無いだけだったが、下半身は魚のそれを形作っていた。
「お久しゅうございます、ダフレイ様。こうしてまたお目にかかれるとは、このアステシャ、恐悦至極に存じまして」
「前置きは良い。アーシャよ、死した後千年の時が流れても馳せ参じたお前の事、私は誇りに思うぞ」
「いけませんわ。わたくし如きに、その様なお言葉。勿体のうございます」
「こうして話をしていたいが……すまんな、私はもう、以前の様な力は持たぬ。それに、感じるだろう? ヨルゼアだ」
「ヨルゼア」
 呟いたアステシャの顔が、憤怒に包まれる。美しさはそのままに、しかし見る者を圧倒する酷薄な物だった。
「忌々しい。ダフレイ様の寵愛を受けながら、裏切ったあの者。それを、今になっても尚、ダフレイ様を傷つけようなどとは」
「すまないが、しばらく時間稼ぎをしておくれ。アーシャよ」
「心得ました。ダフレイ様、どうか、このアステシャにお任せください」
 そう言うと、大地から水が噴出し、アステシャの身体を持ち上げてゆく。水の流れを作り出したアステシャは、それに乗って
バルゼリオの作った石壁を軽々と乗り越えた。
「バルゼリオ。言わずともわかっているでしょうが、あなたはダフレイ様をお守りしなさい」
 短く言い残して、美しい人魚は姿を消す。残ったのは、その隣に現れた、痩躯の狼人の少年だった。
 被毛はダフレイと同じ、純白。こちらは華奢な身体にみすぼらしいローブを羽織り、黙ってダフレイを見上げている。
「やあ。遅くなってしまったな、フール。お前は相変わらず、子供のままだな」
「ダフレイは死んじゃったんだね」
「ああ。今の私は亡霊の様なものだ。それ故に、力も大して持たぬ。来てくれたのは助かるが、嫌なら帰っても構わんぞ」
「おい、ダフレイ」
 慌ててバルゼリオが声を掛けるが、ダフレイはほとんど取り合わず、ただ嘲笑に似た笑みを浮かべていた。
「仕方ないだろう? フールは私の力が純粋に好きな召喚獣なのだぞ。だのに、肝心の私がこの様ではな。
これでは満足に暴れさせてやれないし、さぞや不満だろう。すまないな、フールよ」
「ううん、いいよ。今のダフレイでも。でも、後でまた、僕と遊んでね? ダフレイ」
「ああ。私が無事に帰れたら、今度はフールも呼んでやろう。リーマにやるにはお前は強すぎるから、躊躇っていたがな。
バルゼすらまともに扱えない奴が、扱える様なお前ではあるまいて」
 ダフレイが、優しく少年の頭を撫でてやると、目を細めていた狼はにこりと笑って、一歩飛び退った。
「だが、フールよ。今はアーシャが居るからな。あまり強くやり過ぎて、あれを困らせないでおくれ。
お前と、アーシャ。今の私が動かせるのはそれだけだし、それでもかなり辛い」
「うん、わかった」
 狼の身体から、覇気に似た物を感じ取ってバルゼリオは一度身構える。ローブをはためかせ、
その中から一本の魔導士が持っている様な、極有り触れた造りの杖を取り出した少年は、石壁の一つに
杖を触れさせると、そこから縦に壁が凍りつく。
 そのまま軽く杖で小突くと、容易くバルゼリオの作った壁は崩壊した。きらきらと氷の粒が舞い、その少年、
白雪の王であるイスフールを歓迎する。杖の先から光が迸ると、ほどなくそれは新雪へと変貌した。
 そこまで来ると、バルゼリオは石壁を解除して、土へと返した。元よりダフレイが召喚を済ませるまでの間に合わせである。
 残されたバルゼリオは注意深くダフレイを見つめていたが、その身体が揺れている事に気づくと、そっと肩を支えた。
「すまんな。流石に、この身体での多重召喚は厳しい。情けないものだ。昔はお前に陣を描かせ、そこから十匹を出し、
合わせて十一匹を同時に従えていたこの私が、よもやこんな醜態を晒しているとはな」
「お前の時代も、ついに終わったって事だな。……それより、リーマの身体は大丈夫なのか?」
「今のところはな。使っている力の大分部はまだ、私の方だ。元々、物は悪くはないのだ。ただ、召喚獣に触れる機会には恵まれておらんかったし、
技術という点でも、やはり稚拙。私がこうして力を引き出してやれば、中々のものなのだが。それでもやはり、弱いな。
リーマの方が、持たぬかも知れぬ」
 寄り添う主の身体を支えながら、バルゼリオは二人の召喚獣が向かった先を祈る様に見つめていた。
 繰り広げられるのは、生身の人では及びもつかぬ死闘だった。アステシャの呼び出した水は鉄砲水となり、
ガルジアの足元を掬うかの様に流れはじめたかと思えば、突然勢い良く、氷塊交じりの、本来のヨルゼアであっても
二倍以上はある程の高さの津波を発生させる。凄まじい音を轟かせそれはガルジアへと向かう。
 足元を流れる濁流に目を落としていたガルジアに、津波が襲い掛かる。ガルジアは掌へ光を灯すと、光は湾曲した怪しい
光を放つ剣へと変ずる。白銀の月の形をひたすら歪にしたかの様に、その刀身はやはり美しい色合いをしていた。少なくとも
その武器には、ここに居るダフレイと、その下僕である自分達は見覚えがあった。あの時。丁度今のガルジアの
様な状況にダフレイが置かれたあの日。ダフレイの身体を見放してその姿を現し、激甚な破壊を齎した際も、
その手にはあの剣が握られていたのだった。それはヨルゼアの無比とも言える程の莫大な魔力で以って拵えられた、
一振りの光り輝く剣。ガルジアと同化していてもそれを扱える事に、束の間千年前の記憶が胸に甦り、バルゼリオは震えた。
「大丈夫だ、バルゼ」
 それを宥めるかの様に、ダフレイがぽつりと言を零す。
「確かにあの剣は、ヨルゼアの力の結晶。しかしやはり、弱くなっておる」
「俺には、そう見えねぇがなぁ……」
 襲い来る津波がガルジアを呑み込んだ刹那、光の柱が、上空の月にすら届かんとばかりに昇る。僅かな時間差の後に、
アステシャの放った津波は綺麗にガルジアの目前で二つに割れた。氷交じりの飛沫が、ガルジアの持つ光の刃の
光を照り返し、まるでそこが舞台の上であるかの様に眺めている者に錯覚させる程、ガルジアは輝いていた。その表情は、
次第にガルジアの穏やかなそれから、戦いを楽しもうとするヨルゼアの本質を湛えはじめていた。ヨルゼアは孤独に眠る
者だが、その比類無き力からくるものか、戦いに無関心という訳ではなかった。何よりも、今は、自らが同化した男を守る戦いである。
 ガルジアを避ける様に割れた波は、そのまま流れてゆく。それどころか、ガルジアから放たれた一撃は、
そのままアステシャの方まで届かんとばかりに距離を詰めている。それを止めたのは今まで黙ってアステシャの隣に居た、
痩躯の狼人である、イスフールだった。樫の木ででも作ったかの様な貧相なその杖は、しかしこれもまたイスフールの力により
創造された物であって、自分達に迫っていた一撃を、一打ちに伏した。イスフールと、ガルジアの視線が絡み合う。
 そのまま、イスフールはその場から消え去るかという程の速度で躍り出し、杖を構えてガルジアの元へと向かう。
 ぶつかり合う二つの力の衝撃に、僅かに呻いた。それは、ダフレイも同じだった様だ。
 刀と杖。形は違うが、それらはお互いの魔力を形而下の物へ落とし込んだに過ぎず、純粋な力と力の鬩ぎ合いである。
 一合、二合とぶつかる度に、その余波が離れたここまで届いてくる。イスフールが目を見開き、笑みを湛えていた。
 イスフールはこの場に居る誰よりも、戦いを好む習性を持っていた。既にその瞳にはガルジアしか見えてはいないかの様だ。
「見てみろ。やりあっているフールが、押されておらぬ。あいつも強くはなっているが、やはり、ヨルゼアの弱体化は甚だしいのだ」
「それはいいけどよ、ダフレイ」
 互角の状況を見ても、バルゼリオは奢る事なく、主へと語りかける。
「これからどうするんだ? まさか、本当にあのガルジアって奴を」
「……手に掛けるしか、あるまいな。ガルジアが自力でヨルゼアを内から追い出せれば、それが一番だが。
あのバインという男、抜け目がないな。ガルジアの心を術で縛っている。それでも時々顔を出しているガルジアは、
寧ろ健闘している方だ。しかしそれでは、いかんのだ。あれはもはや、契約と同義。否、それよりも強い繋がりを持つ。
このままヨルゼアと同化し続ければ、本当に切り離せなくなるし、心まで同化しかねない。そうなっては、全て手遅れだ。
ガルジアの自我が無くなり、身体だけがヨルゼアの物になる。ヨルゼアはその身体で、本来の力を振るうだろう」
「でもよ、ガルジアを殺しても、ヨルゼアは暴れるんじゃねぇのか。……あの時みたいに」
「それは甘んじて受け入れるしかあるまい。それに勝てるのかは、正直なところ自信はないが。かといって、野放しにしても
バインがガルジアを利用してこの世界に害を及ぼすだろう。だったら、私はガルジアを殺す事で、ガルジアを解放してやる。
可哀想なガルジア。白虎に生まれたが故に、この様な数奇な運命を辿る事になってしまった。それもまた、新たに生まれた、
私の咎の一つ。この時代に召喚士が不在である以上、召喚獣で向かえる事が出来るのは、私を除いてはおらんのだ。
だからこそ、私はガルジアを殺す。その後は、可能ならばまたヨルゼアに対話を申し込みたいところだが、流石に無理であろうな。
千年前ヨルゼアに拒まれ、そして今度は、ヨルゼアの邪魔をしている私の声は、既にあの雄雄しい白虎には、届かぬ。
しかしそれでも引く訳には行かぬ。どうせ負けるのなら、私は戦って負けたいのだよ。バルゼ」
「それになんの意味があるんだよ? どっちにしろ、負けるんだろ?」
「振られた腹癒せになるではないか」
「……そりゃ、いいや」
 再び、ダフレイの身体がぐらつく。長く伸びた髪も、次第に腰の辺りの長さへと戻ってきていた。内に秘めるには大きすぎる
力を一時的に外へと放出する。それが、ダフレイの長髪の真相である。銀糸は自然と抜け落ち、淡い光を残してから、消えてゆく。
 戦況は最初は五部かと思ったものの、ともすればイスフールが押している傾向が見られた。
 互いの力がぶつかる度に、特にイスフールの周りは凍り付いて、どんどんと空気が冷えてゆく。
 今はもうあの場に立ち入る事すら、並みの者には至難になった。一歩でも踏み込めば、イスフールの魔力に当てられ、
瞬時にして氷像へと変えられその生に幕を閉じるであろう。その中に居て身体に何一つとして変化の見られないガルジアは、
やはり、その身体が支配されている事を如実に物語っていた。今はガルジアもイスフールと同様に楽しげに打ち合いに臨んでいる。
 互いの表情だけを見れば、この二人はともすれば気が合うのかも知れないと、そんな事をバルゼリオは考えていた。
 咳き込む音がする。不意に聞こえたそれに、バルゼリオは我に返った。眼下に居るダフレイは口元を押さえていたが、
堪え切れなかった血の奔流が、指の隙間から溢れると、舐める様に流れてはその被毛を白から赤へと塗り替えてゆく。
「ダフレイ……ダフレイっ!」
 ダフレイは掌に溢れ咲いた深紅の花を、無理にまた身体の中へと戻そうとするかの様に時折口を開こうとするが、
その度に胸の内側が破れたかの様に続く喀血に、やがてはそれを諦めた。掌から夥しい量の血が落ちて、純白だったその被毛も、纏っていたローブと共に
赤く染めてゆく。それでもまだその口からは絶える事なく、赤い液体が少しずつ、少しずつ溢れては、流れていた。
 支えたダフレイの身体は柔らかく、ほとんど力が入らぬ様だった。バルゼリオは身体を寝かせる様にしてその身を預かると、腕を下ろした
ダフレイの顔を見つめた。光を失い虚ろになった瞳に、苦笑交じりの皮肉な口元。いつ見ても峻厳さに満ち溢れていた
その顔も今は、死を待つ者の弱弱しい姿を、隠そうともしなかった。
「もう限界が来てしまったか。無様だな、私は」
「ダフレイ」
「せっかくヨルゼアと、今だけは対等に渡り合えていたというのに。幾星霜を経ても、お前達は私の元へと参じてくれたというのに。
なんと無様か。所詮私は、世界に禍根を残す者にしかなれなかったのだな。やはり、白虎とは、災禍を招く生き物だという事か。
すまなかった、バルゼ。お前も、アーシャとフールも、本来ならばとうに新しい主を見つけ出して、また一段と強くなれたであろうに。
私の我儘で、随分と長い間、縛り付けてしまったな」
 溢れ出る涙を、バルゼリオは堪える事はしなかった。降り注ぐ涙が、ダフレイの血を僅かに拭う。手を伸ばして、口元の血を浚う。
「もういいんだ、ダフレイ……お前は、やれるだけやったさ、ダフレイ。だから、もう、休んでもいいんだぞ」
「しかし、まだ……戦っておる。アーシャとフールが。私からの力が途絶えても、戦っているではないか。
私だけ、休んでいろというのか。お前も、そうやって、私を仲間外れにしてしまうのか。バルゼ」
 腕が上がる。美しいはずだった白虎の手は、どす黒い血に汚れ、傍目からも一目でわかる程に、弱弱しく震えていた。
 それでも、バルゼリオの視線を奪うダフレイの魅力は一片たりとも欠けはしなかった。死の臭いを纏い、静かに
死の訪れを待つダフレイも、また心の中に蠱惑的な想いを浮かばせた。
 しかし、死んでほしくはなかったのである。
 震えるその腕を取って、下ろさせる。ダフレイの首を少しだけ傾けさせて、バルゼリオは一点をダフレイに見せた。
 顔を向けさせた先。赤髪の男。立っている。この絶望的な戦場の中でも、逃げる事もせずに、その後ろにも何人かの姿があった。
「お前達、まだ逃げていなかったのか。もう少しで、私は負けるぞ。逃げるなら、早くした方が良い」
「生憎だが、ここまで来て尻尾巻いて逃げるつもりはねぇよ。俺はな」
「私も、そうだな」
「……生身であのガルジアと対するのか。道は既に、あの男を殺さなければならないと決まっているのに」
 赤髪の男は、何も言わない。
 ダフレイが、くっくっと、静かに笑った。次には咳き込み、また血を流す。
「ガルジアが、羨ましいな。私には、誰も居はしなかった。唯一あの小僧、ネモラぐらいか。こんな事を言うと、バルゼ、お前は怒るかも知れないが。
そうか。私が倒れても、まだ戦おうとする者が居るのだな。今はもう、若い者達の時代か。これで私も、ようやく死ねるというものだ」
「リーマ、死ぬな」
「バルゼ」
 白虎の瞳が、爛々と輝く。先程までは年老いた老人の様だった顔が、今は違っていた。まっすぐに、バルゼリオを見つめてくる。
 既に、伸びていたはずの髪は、ほとんど元の状態に近くなっていた。長年その男の傍で感じてきた強い力は、もう感じられない。
「お前があの日、私を助けてくれた事を、私は忘れない。ありがとう。お前が、私の命を救ってくれた。
私は、こんな性格だから、ずっとお前には何もしてやれなかった。いつだって、下僕扱い。お前の気持ちをぞんざいにし続けていた。
それなのに、お前はまだここに居てくれるのだな。一度目は秘術を成したが故に、魔法陣の上で一人冷たくなった私が、
よもやこうして、お前の腕の中で逝けるとは」
「それでいいんだ、リーマ。初めて会った時から、俺はお前に付き従うって、決めてたんだからな」
「そうか。長かったな、ここまで。実に」
 微笑んだまま、やがてダフレイの身体から、力が抜けてゆく。
「迷惑を掛けたな」
 遠くで戦っている二人の召喚獣の力が、不意に弱まった。
 それが、ダフレイが死を迎えた事の何よりの証だった。バルゼリオの体内からも、ダフレイの魔力が弱まり、外へ出てゆこうとする。
 その動きを、バルゼリオは決して許しはしなかった。なるたけの力を抑えて、内へ内へと留めている。恐らくは、戦っている二人も。
 こうして召喚士リーマアルダフレイは、終わり滝の近くの丘で、その長い長い一生に幕を閉じたのだった。

 遠くで聞こえる戦いの喧騒は、既に静まりつつあった。必死の抵抗も、長くは続かないだろうとバルゼリオは思う。
 主である者を失った事による喪失感。そして、もはや供給される事の無い魔力。今すぐに勝負が決しても、それは自然な事として受け入れられる。
 腕の中に居る、閉じられていたダフレイの瞼が、不意に開かれた。
「……さて、奥の手は使ってしまったな」
「なんだ、死んでねぇのかよ」
 赤髪の男、リュウメイが呆れた様な声を上げた。起き上がろうとするダフレイの補助をして、バルゼリオは体勢を戻した。
 先程までの弱弱しさを微塵も感じさせず、そして血の流れすら今はどこかに消え去ったダフレイは、既に涼しい顔をし、皮肉な笑みを浮かべた。
「死んださ。そして、元に戻った。これでもう私は本当に幽霊そのものであり、もはや単身ではなんの役にも立たぬ。
あとは、お前達次第。すまないな。出来れば、私だけでどうにかしたかったのだが。やはり、私一人の力では、何も成し遂げられなかったのだな」
「そうでもねぇ。今なら、俺達でもガルジアには近づけそうだ」
 一時的にとはいえ、イスフールとの戦いで、ガルジアの内に居るヨルゼアは消耗している。
 今が最初で最後の機会だった。長引けばガルジアは完全に支配されるであろうし、ヨルゼアにも体勢を立て直す時間を与えてしまう。
 それ以上、深く言葉を交わしもせずにリュウメイ達は背を向けて、歩きはじめた。黙ったまま、バルゼリオとダフレイはそれを見送る。
「バルゼ、こんな時ですまないが、お前の力を少し分けてくれぬか。リーマの意識はまだ戻らぬし、今しばらくは私が預かった方が良いだろう」
 頷くと、バルゼリオは虚空へ手を伸ばし、そこから扉を開き腕を飲み込ませる。これで、バルゼリオの力の一部は主ではなく、
呼び出される前のバルゼリオが負担する事になる。厳密に言えばこれも幻獣化の一部と言っても良かった。バルゼリオには負担が掛かるが、
しかしそんな事を今更気にする事はなかった。元々、バルゼリオは幻獣化も辞さない覚悟である。
 魔力を渡すと、先程よりもダフレイの力が強くなった。しかしそれでも、一人の召喚獣を従える程度の力しか持ち得ない状況なのは変わらない。
「アーシャ達は一度引いた様だ。私達は彼らを追おうか、バルゼ。この戦いの帰趨を、私はこの目で見てみたい。
せっかく千年も掛けて見守っていたのだからな」
 未だふらつくダフレイの身体をそっと支えながら、バルゼリオはリュウメイ達の向かった先へと視線を向けた。
 歴史に名を連ねる事のない、静かな死闘はまだ終わりを見せず。それどころか、より一層の波乱を含んで、自分達を呑み込もうとしている。
 どんな結果であっても、自分が後悔をする事はないだろうとバルゼリオは思った。自分がこの世界の住人ではないから、という訳ではない。
 ダフレイが自らの全てを賭した世界。だからこそ、どんな結果であろうとも、それがダフレイが自分に見せたこの世界の姿になる。
 異界の姿を知りたい。その世界に想いを馳せたい。召喚士に従う召喚獣とは、本来そういうものだった。

戻る

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

bottom of page