ヨコアナ
21.ヨルゼア
雨に打たれていた身体を、いつまでも放っておきたかった。
自分がいつ宿へ帰り、部屋へと戻ったのか。クロムにはわからなかった。
ガルジアが、攫われた。
白虎を掌中に収め逃亡するバインを追ったのは、記憶に新しい。
蹲ったまま起き上がる事のないライシンを仕方なく置き去りにし、リュウメイと共に
後を追おうとして、バインの召喚獣であるアローネの必死の妨害に遭ったのだ。
泥の身体を持つ召喚獣の力は、雨中で泥濘の街となったヘラーにおいては、比肩する者が居ない程恐ろしいものだった。
倒しても、倒しても、アローネはすぐさま泥の人形を出してくる。ほとんど尽きる心配の無い
材料が足元に、そして、街中に広がっているのである。こちらの動きは徒労に終わっていた。
これが召喚獣でなければ、アローネを捕らえて一先ずは良しとする事も出来たかも知れない、しかし
アローネは妨害できるだけ妨害し、主を逃がし終えたと判断するや否や、その身体を崩して消え去ったのである。
後に残ったのは、茫然自失となった自分とリュウメイ。何か声を掛けてリュウメイと別れた気がするが、
それがどういったやり取りだったのか、どうしてもクロムには思い出せなかった。
泥に汚れた身体を引きずり、部屋を出ている間にバインの手下が訪れたのだろう、
荒らされた部屋からはガルジアの所有物である歌聖剣が無くなっていた。それにも、クロムは大して興味を惹かれなかった。
奇妙な喪失感が拭えなかった。
何かを失う。それにはもう慣れていた。祖国を失い、家族や知人を失った事もあった。傭兵を生業としてきた
身である。戦火に身を投じている間に、別の場所で起きた火に見知った者が焼かれる事など、当たり前にあったのだった。
しかし今回はいつもと違っていた。守ると決めていた、たった一人の者。それがただ、理不尽に目の前で奪われていった。
殺されたのなら、やはり諦めもついたのかも知れない。死んだ者に対して出来るのは、時々思い出し、
悲しんで、やがては忘れてやる事だけだった。しかし、かどわかされた者は違う。今もどこかで生きている。自分の助けを、待っている。
いつもの喪失感とはまったく異なっていた。諦念も憤怒も沸いてこない。ただ、無力感に苛まれている。
そうして腐ってゆく自分に気づきながら、しかし手を拱いてクロムは動く事も出来なかった。
丁度そんな頃である。宿の主人に案内をされたリーマが、部屋を訪ねてきたのは。
面会したリーマは、ガルジアが居なくなっている事に気づくと、安堵とも、悲哀ともつかぬ顔をしていた。
そのリーマを連れて、リュウメイ達の居る宿へと向かう。どの道今後についての話し合いが必要だと思っていたところだ。
訪いを入れると、リュウメイは黙って部屋へと入れてくれた。終わり滝での事は説明済みであるので、
リーマを訝しむ様な事もない。流石のリュウメイも、今は自分を邪険に扱う事はしなかった。
事が事であるし、そしてもう一つの原因が、部屋の中に居た。
部屋の隅で蹲る、熊人のライシンである。
快活な男、だった。それもバインの攻撃で手足を切り落とす痛みを覚えさせられてからは、人が変わってしまっていた。
自らの手を抱きしめて、時折身体を震わせている。それは、クロムにとっては見慣れた光景である。
痛みが、忘れられない。
身体に負った傷は癒す事が出来る。しかし心に負った傷は、そう簡単に癒える事はなかった。バインは
ライシンの心に深い痛みを残していったのである。戦場ではよくある光景だった。威勢の良い者も、
痛みを覚えればただの子羊に成り下がる。泣き崩れて、慈悲を乞う。今まで自分が何をしていたのか、
思い返す事もせずに。自分もいつかそうなるだろう。そう思っていたクロムだが、
ついに死んでからもライシンの様になる事がなく、時折の致命傷でもやはり心が挫けなかったのは、奇跡だと思っていた。
それはリュウメイも同じだろう。ある意味では、自分やリュウメイは狂っている。ライシンの状態が、普通なのである。ライシンと
そう歳が変わる訳でもないこの男がこれほどまでに痛みに強いのは、天性の物なのか、歩んできた道に因る物なのか。
痛々しいライシンの姿を見て、リーマが項垂れた。用事があるはずのリーマが言葉を失ってしまったので、
仕方なくクロムが促すと、リーマは水晶球を取り出した。見間違いがなければ、ダフレイが以前姿を変えたものだと
いう事をクロムは思い出す。そして予想通り、リーマが部屋に少し細工を施すと、水晶球は人の姿へと変わった。
白虎の姿を取って現れたダフレイに、リュウメイは束の間驚いた様だった。ガルジアと同じ白虎であるが、
しかし二人は似ても似つかぬ風体だったし、またその心も異なっていた。
「手酷くやられた様だな」
現れたダフレイは事情は察していたものの、廃人寸前にまで追い詰められているライシンを見ると、短い感想を漏らした。
ライシンを見下ろして、流石のリュウメイも心苦しそうな顔をする。バインに言われた事を気にしているのだろうか。話を聞く限り、
ライシンはただリュウメイを慕って付いてきている身に過ぎない。クロムの様にガルジアを助ける事に使命感を
燃やしている訳でもなければ、リュウメイの様にバインとの因縁がある訳でもなかった。詰まるところ、ライシンにとってのガルジアやバインは、
ただの他人である。本来なら知り合うはずもない、別世界の住人。だからこそ、激烈な痛みは彼の心を打ち砕いたのかも知れないし、
バインもまたそれを見越して、ライシンの心を砕くためだけに狙いを定めて攻撃を放った節があった。
「彼は、どうにか出来ないかい?」
「すまないが、必要なのは身体よりも心の治療の様だ。そんな事を、そいつとなんら関わり無い私に乞われても困るな。
狂人に変えてくれと言うのなら、承っても良いが」
「ダフレイ様」
リーマが怒った様に諫めると、ダフレイが苦笑をする。冗談を言ったのだが、子孫であるリーマには通じなかった様だ。
「急を要する。今は私の話からにしておくれ」
咳払いを一つすると、ダフレイは周囲の者を冷たくねめつけた。
「単刀直入に言う。私は、ガルジアを殺しに来た」
「ダフレイ様!」
再びのリーマの声が上がるよりも、自分とリュウメイが剣に手を掛ける方がいくらか早かった。しかし抜きはしない、
どの道この場にガルジアは居ないのである。そしてリュウメイはともかくとして、クロムはこのダフレイという男が、
無計画に何かをする様な男だとは思ってはいなかった。無論、どういう腹積もりであろうとも、ガルジアを手に掛ける
のが目的だというのならば、手加減をするつもりは無いのだが。
「二人とも良い目をしているな。そこのクロムはともかくとして、そちらの男も。実に良い。こういうのを虐めるのが、
私は大好きだが、今はそんな話をしている場合でもないか。おお、リーマよ。そんなに睨むでないわ。
顔に書いてあるぞ、自分が説明した方が良かった、とな」
愉快そうにダフレイが笑う。しかしその瞳は細められる事もなく、爛々と輝いていた。己の凶相を、ダフレイは隠そうともしない。
「時にお前達。確認のために聞くが、ヨルゼアという名に聞き覚えはないか?」
「ヨルゼア……?」
「……聞いたっすよ」
呟いて、クロムはリュウメイと視線を交わすと、答えを出すよりも早く蹲るライシンから声が上がる。
「兄貴や旦那はバインの相手で聞き逃したかも知れないっすけど、俺は……。
確かにあいつの口から、その言葉を聞いたっす。ガルジアさんを、ヨルゼアが救うって」
「ふむ。戦意喪失の割には、聞くところは聞いていた様だな。ならば、やはりバインの狙いはヨルゼアであったか」
「ヨルゼアとは、一体?」
尋ねられて、ダフレイはしばし迷う仕草を見せる。しかしやがては溜め息を吐いて、観念したかの様に苦笑した。
「ガルジアにもこの事は伏せていたが、もはや黙していても仕方あるまいな。どうせ、お前達は動くのだろうし、
ならば少しでも覚悟をしてもらった方が私としても助かる。私がガルジアの命を狙う事も、理解出来るだろうしな。
お前達が真実に辿り着かぬ事を願っていたが、それも無駄に終わった様だ。
先に言っておくが、覚悟が無いなら今すぐこの部屋から、そしてこの街から出ていけ。話を聞くだけでも、
恐らく敵にとっては、厄介者と見做されるだろう。赤の他人の白虎が攫われた。そう思うのなら、聞かない方が良い。
特に、そこの小僧。お前はな」
「ライシン」
リュウメイがその腕を取ろうとすると、ライシンは何度も首を振った。
「平気っすよ、兄貴。俺っちも、付いていきます。大丈夫っすから……」
痛々しい笑みを浮かべたライシンに、リュウメイの舌打ちが飛ぶ。元よりこういう相手を上手く往なす術は心得ていないのだろう。
「話を続けてくれ」
それ以上の確認は必要ないと言う様に、リュウメイが促すとダフレイは頷いた。
「事は千年前。私がまだ生きていた時代にまで遡る。当時の召術士は召喚士と呼ばれ、
そして今の名ばかりの召術士とは違い、召喚獣を使役していた。そして、ヨルゼアだ。ヨルゼアとは、召喚獣の名だ。
種族名は持たぬ。それはヨルゼアが非力だからではなく、召喚獣の中でさえ、ヨルゼアが稀有な存在だった事に由来する。
ヨルゼアとは即ち、私、リーマアルダフレイ。そして、ガルジア。我々と同じく、白虎の姿を持つ者なり」
「白虎の……召喚獣、か」
「皮肉な話だな。白虎とは、召喚獣においても稀有とされる。それどころか、我々よりも更に珍しい特性だという。
こちらにおいてなら、そうだな、白虎が今は幸運の証とされているなら、奴隷市場でも漁れば、それなりには見つかるだろう。
しかしあちらにおいては、そうではない。白虎の召喚獣の情報は、ヨルゼア以外に確認されておらぬ」
「それで?」
脱線しかけた話をリュウメイが戻そうとする、ダフレイは少し気分を害した様だが、何も返さずに続ける。
「ヨルゼアは絶大な力を持つ召喚獣だ。そして、孤高の存在でもある。他の召喚獣とは違い、人に心を開く事はなかった。
だからこそ千年前、私は利用された。白虎にして召喚士。その私を生贄とし、ヨルゼアを召喚させ、ヨルゼアの力を我が物にしようとする者が居た。
この部分の詳しい話は省くが、結論から言えば、ヨルゼアは確かに召喚されはしたものの、ヨルゼアが使役される事態は免れた。
それを防いだのが、今日においても名を轟かせ、ついでに今回余計な物を残した、ネモラだ。
ネモラは己の召喚獣、そして幻獣を率いて暴走するヨルゼアをあちらの世界へと押し戻したのだ。誇張ではなく、奴はそれで世界を救った」
「なんとも。御伽噺の様だな」
「私もそう思うよ。しかしヨルゼアを呼び出す材料にされた身だからな。そうも言ってはおられん。
そしてヨルゼアによる危機が去った後、私はその力が一番強く残った地において、ヨルゼアと対話し、その力を弱めようとした。
あわよくば、ヨルゼアを召喚獣として、契約を結ぼうとした。私の命令を聞く様にしておけば、少なくとも私という存在が
残り続けている間はヨルゼアを悪用する者は現れないだろうからな」
白虎の召喚士の瞳に、徐々に深い悲しみの色が浮かぶ。ヨルゼアに想いを馳せては、心残りがあるのか、
先程までの余裕を無くし、ただ俯いている。
「しかし、これは失敗に終わった。私自信が白虎というものを毛嫌いしていたからでもあるし、私の寿命が尽きてしまった
というのもある。元々生贄に使われた時点で身体に負担も掛かっていたからな。ヨルゼアを説き伏せる事叶わず、
死期を悟った私は、こうして魂だけで残る術を編み出し、ヨルゼアの力を可能な限り良い方向へと向かわせ、そして死んだ。
現在の終わり滝が聖地と呼ばれる由縁でもある。元々は魔物を呼び寄せる様な、酷い力だった。強い魔力があるから、仕方ないがな。
そして、それから千年。私はヨルゼアの監視を続けていた。とはいえ終わり滝から出る力もなく、私の願いを託すに足る
者も現れず。無為に過ごした。しかしそれはまた、ヨルゼアを呼び寄せる事の出来る逸材が現れないという事でもあった。
丁度、そんな頃だ。あの力、ネモラの召導書の異変に感づいたのは」
「サーモストからの、召導書の盗難か」
「やったのは、バインなのだろうね。あの男、私の様に無限ではないものの、寿命を延ばしている様な事を口走っていたよ」
「恐ろしい執念だな。現代において召喚獣を使役する程の力を持っているのだから、当然といえば、当然かも知れぬが」
「見た目が若い割には妙に達観してる上に、腕も良かったが。なるほどな、そういう訳か」
「それを君が言うのもおかしいがね、リュウメイ。君の腕も、相当なものだ」
「そりゃ、どうも」
不服そうにリュウメイが返す。クロムにとっては、素直な気持ちだった。
「恐らくネモラの召導書には、ヨルゼアについての記述があるのだろうな。バインはそれを見て、ヨルゼアの召喚を思い立った。
……ネモラの馬鹿者め。私の苦労を、なんだと思っておるのだ。あの小僧、世界を救ったかと思いきや、今度は破滅まで招きおって」
「一つ腑に落ちないのだが、ダフレイ」
ネモラに対するダフレイの愚痴が始まるより先に、クロムは手を軽く上げて質問をする。
「千年前はダフレイ、つまり白虎の召喚士が利用された、というのはまあわかる。
ヨルゼアの注意を引くために、ヨルゼアを召喚する事の出来る腕前を持つ白虎が必要だったのだろうしね。
しかし、何故ガルジアが? ガルジアは、召喚士どころか召術士ですらなく、そしてそれよりもまず魔法すら扱えないというのに」
「そこだ、クロム。私はそれを気にしてここまで来て、そして予想が的中した事を悔いている。同時に、ガルジアを殺してやらなかった事もな」
不穏な空気が部屋中に満ちてゆく。゜その答えを、ダフレイを見つめる全員が待っていた。
「ガルジアは詩を歌い、精霊を使役する。ガルジアは召術士の対となる、歌術士……白虎の歌術士だ。
それが、ネモラの召導書を手にしてヨルゼアを知ったバインの目に留まってしまった。全ての始まりだったのだ」
白虎の歌術士。それを聞いて、クロムは息を呑んだ。
青白い光が、眩しかった。ガルジアは丸い月を見上げ、ただそれに魅入られていた。
「どうかしましたか、ガルジア」
声が掛けられ、そちらへと顔を向ける。月光に照らされた、光を拒む黒の被毛に覆われた、狼人の男が居た。
自分をここまで連れてきた、バインである。今は黒の被毛によく映える、純白のローブに身を包んでいた。それは、自分も同じである。
「立ち止まる必要はありませんよ。あなたを待っている者が居るのですから」
差し出された手を取って、再び歩みを始めた。奇妙な浮遊感に、時折身体が倒れそうになる。
「まだ体調が戻っていない様ですね。申し訳ございません。あなたが私の手元に来るのかと思うと、つい張り切ってしまいました」
わざとらしい悪びれた様子を見せるバインに、ガルジアは何も言わず付いてゆく。時折口から漏れるのは、言葉にすらならぬ
呻きに近い声だけだった。
月夜の荒野に、影が二つ伸びる。バインの魔法に掛けられたガルジアは、その言い成りになり、
示されるがままの道を歩かされていた。少し前までは僅かに見る事の出来たバインの手下の盗賊の姿も、今は確認出来ない。
皓々と月に照らされた世界に居るのは、二人だけである。見渡す限りは、地平。何一つとして、その平らな景色を
彩る物とて無い。目の前を歩くバイン以外は。木々も存在せぬ大地の上に立つ物音は、ただただ二人分の足音だけだった。
「さあ、着きました」
何も無いと思われる、荒野の真ん中。そこでバインは歩みを止めて、振り返る。
「こんな殺風景な場所、お嫌でしょう? 私もそう思いますよ。しかし、ここでなければなりません。
ここは丁度、終わり滝の上、川の流れの近くですから。一見何も無い、不毛の地。しかしそれは、強い力が残っているが故なのです。
……ああ、まだ月が昇るまでに時間がありますね。少し、急ぎすぎましたか」
ガルジアは、何も感じない。魔力にはある程度反応する事が出来るが、この地からは、それが一変も感じる事がない。
しかしバインはそうではない様だった。時折その表情が僅かに、微弱な電流でも流されたかの様に歪んでいる。その度に、
その狼は愉快そうに微笑んでいた。これでガルジアが平常時だったならば、それについて取り上げでもしてやったのだろうが、
今のガルジアは物言わぬ人形の体である。何を言われても、何をされても、バインに乞われなければ、動く事もない。
「昔話をしましょうか。あなたを退屈させる訳にはいきませんからね。
ガルジア。あなたもネモラの召導書を追って旅をしていた身ならば、在りし日の召喚士達の絶対的な力、
そして現在の召術士と呼ばれる、下等な者達の力の差を聞いた事があるでしょう?
召喚士は召喚獣を自在に操るが、召術士は、その大半が精霊を操るくらいしか能の無い、劣等生。
歌術士であるあなたと、然したる差がない。惨めな者達です」
鈍く働く意識の中で、ガルジアは記憶を思い返していた。旅の途中で見えたリーマアルダフレイ・セロスが、
確かそんな事を言っていた気がする。そしてその子孫であるリーマも、精精が精霊の召喚が限度の召術士だった。
「才能のある一握りの人材だけが、異界の扉を開き、召喚獣を呼び出す事が出来る。悪くはない話です。
しかし、いくらなんでもおかしな話だと思いませんか? かつては召喚獣を呼び出せたはずが、今となっては、それが
出来るのはほんの少数になってしまった。才能のある人間が減ってしまった? しかし、それだけにしては、あまりにも少ない。
故に召術士などという不名誉な渾名が定着し、更には歌術士なる呼称までもが生まれてしまった。
これにはなんらかの理由がある。私は、ずっとその疑問を抱いて育ってきました。幼い頃より神童と呼ばれたこの私です。
聖法も邪法も、扱うのになんら不自由はしなかった。そして私は召術士の力を秘めていた。誰もが賞賛したものですよ。
しかし、その私ですら。……私ですら、下級の召喚獣を呼び出すのが精一杯だった。
勿論、下級の種族名を持たぬ召喚獣とはいえ、アローネや他の者も中々には優秀ではありますが。
私は自惚れているのかも知れません。しかし、大昔に私より優秀な者達が多く居なければ、少なくとも
召喚士という存在が今世まで伝わるとも思えない。そして、私より優秀な者がそんなに多いとも、思えない。
当時の召喚士と比べれば、私などは下の下。召喚士の端くれとしか見られないでしょうからね」
淡々と推論を口にするバインの表情は、憎悪や渇望、様々な感情を内包していた。話をしながらも、
自らもまた召術士、或いは召喚士に思いを馳せているのだろう。その言葉はガルジアではなく、自分自身に向けているかの様だった。
「数多の資料を読み漁りましたが、召喚士に対しての明確な見解を示す物はほとんどありませんでした。
まるで何か事情があって、葬られでもしたかの様に断片的な情報が残されているばかり。
何度か呼び出した召喚獣とも話をしましたが、結果は同じ。私の問いに明確な答えを返せる者は、居なかった。
唯一、昔と今では、世界同士でずれが生じ、それが現在の召喚士の衰退に繋がったという事だけがわかりました。
……そんな時です。私がネモラの召導書に目をつけたのは」
バインの話に、ガルジアは眉一つ動かす事はなかった。ただ言葉が胸の内へと吸い込まれてゆくばかりである。
静かな湖面に、石が投げ込まれる。僅かに波立った後には、また元の無音の光景へと戻る。丁度、その繰り返しといったところだった。
「元々召導書には興味を惹かれていたのですがね、サーモスト修道院は召導書の一般公開は行いませんでした。
それこそ、厳重に警備をしているところに遠目から見せられる程度。その中身についての話もせず。精精が、
ネモラの召喚獣に向ける愛情が描かれた作品だと嘯くばかり。もっとも、半分くらいはそれは事実だったし、
私としてはネモラが召喚獣への直向な愛情を綴った召導書というのも、中々に魅力的でしたが。
召導書に限らず、聖物とは人心を集めるための物。抽象的な神に縋り付くだけでなく、正邪を問わずに
何かしらの力を秘めている物が聖物として祭り上げられる事は多かった。人同士の諍いも減った今、平和になってしまった
世の中では、信仰も薄れるというもの。修道会側も、あの手この手と人心を集める術を模索していたのですね。
物だけでは飽き足らず、時には不具の者ですら、時代によっては聖物と定められたという話も聞いた事があります。
そこに何かしらの、多数には無い物があれば良かった。だからこそ、ネモラの召導書には何かがあると
私は確信していました。そして、今から五十年程前に、実際にこの手で盗んでもみた。それを紐解き、そして」
そっとバインが両腕を伸ばして、ガルジアの頬を掴む。人の良さそうな柔らかな笑みを湛えたバインは、
愛おしそうに目を細め、嘆息していた。
「……そして、あなたを見つけましたよ、ガルジア。
召導書には、白虎の召喚獣……ヨルゼアの記述があったのです。その力は、あまりにも強大。あのネモラですら、
正面からの戦いでは歯が立たなかった。押さえ込むのがやっと。そんな事が記されていました。
そして、ヨルゼアの身の上を嘆く事も。奇しくも、ヨルゼアは白虎であるが故に、孤独だったのです。いえ、孤高と言った方が、より適当でしょうか。
どんな召喚士の呼びかけにも応じず、その絶大な力を誇示する事もしない。しかし千年前、白虎の召喚士である、
リーマアルダフレイ・セロスの存在が、彼を狂わせた。リーマアルダフレイを媒介とし、何者かがヨルゼアをこの世界へと召喚しました。
白虎である事。それが、ヨルゼアの関心を引いたのでしょうね。結果、その力は暴走し、破滅を齎しかけた。
どういった結末がその後に待ち受けていたのか、それはわかりません。
しかし召導書の著者であるネモラは間違いなくヨルゼアと対峙し、その戦いを生き延びた。
そしてその直後から、こちらとあちらの世界にずれが生じ、召喚獣を呼び出す事が困難になり、召喚士は衰退したと、召導書には。
恐らくは、ヨルゼアの暴走はこの世界を抉るだけでなく、世界の繋がりにすら皹を入れてしまったのでしょうね」
狼の瞳の中に、無機質な表情の自分が映っていた。その瞳は一つ一つの言葉を言い聞かせる様に、視線を逸らす事はなく、
奇妙な光を灯していた。
「大陸を割ったとすら言われる、神にすら匹敵するその力。その記述を見た時、私の心は奪われ、そして魅せられた。
私はヨルゼアを求めようとしました。しかし残念な事に、私は白虎ではなかった。一介の、召術士でしかない。
リーマアルダフレイは事後にて、ヨルゼアと心を通わせようとしたそうです。しかし、それには失敗した。
白虎であり、優秀な召喚士でもある。これ以上無い程に好条件の揃った彼ですら、ヨルゼアを調伏せしめる事は適わなかった。
不安に駆られ、しかしそれでも私は、ヨルゼアを諦める事は出来なかった。そして、ヨルゼアを呼び出すための算段を立てた。
少なくとも、白虎でなくては、ヨルゼアを目の前に立たせる事すら適う事はない。私は、召導書を手にしたその日から、
ずっと白虎を求めていました。召術士の力を持つ者すら稀だというのに、更にそこに希少種である白虎とあっては、
もはや数百年待ったとしても、現れる保障なんてありませんでした。大抵の白虎は売り物にされ、探し当てた時には
使い物にならぬ程に自我を壊された者ばかり。召術の才能のある者も、見当たらなかった。
時だけが過ぎ、私も歳を取った。寿命を延ばす手は編み出していましたが、しかし心は枯れゆくもの。
そんな時私の前に現れたのは、あなただった。修道院の中で大切に育てられ、この純白の被毛を
そのまま映し出したかの様な清廉な心を持ち、何よりも歌術士であるあなた。
現在の召術士は、世界を繋ぐ力を持てずに、精霊を呼び出す事が精精という者が大半を占めます。そして歌術士もまた同じく、精霊を使役する。
私は一つの考えに至りました。精霊と召喚獣の違いは大きく見れば、あちらに居るか、こちらに居るか。
そして歌術士は魔力を行使しないが故に、世界を繋げず、この世界に居る精霊しか呼び出せない。
ならば、世界が繋がれているところで歌うのはどうでしょうか? 精霊に愛される歌術士は、召喚獣にもまた愛されるのではないか?
正直なところ、この考えは賭けに近い。万に一つ。いえ、それよりも酷い。しかし、賭けでも充分でした。私の目の前に、白虎であるあなたが居る。
ヨルゼアを呼び出せるかも知れない素質を持った、あなたが。私の心に再び火をつけてくれた。あなたには、いくらお礼を言っても、足りないくらいですよ」
狼の白い腕が離れ、そして宙を切る。途端、少し離れた大地から、天に向かって細い光が放たれる。
「時間です。月が昇りました。今更こんな物に頼らないといけない我が身の未熟さを呪いますよ。私だけの力では、とても足りないのでね。
さあ、ガルジア。歌ってください。ヘラーの街中で歌った、精霊をその身に宿すあの歌を」
ガルジアは詩を歌う体勢へと入る。天に昇った光が渦を描き、そして次には月を呑み込んだ。実際には、
ガルジアと月の間に闇が広がったのだった。それを憮然とガルジアは見上げた。恐らくはこれが、世界と世界を繋ぐ扉なのだろう。
空に穿たれた穴の中からは、時折唸りとも、呻きともつかぬ声が聞こえる。
「あなたが精霊を身に宿す詩すら歌えると知った時、私は身体が震えました。あなたは精霊に愛される素質を持っている。
ヨルゼアは、確かに危険です。私でも、扱い切れない。しかし、ヨルゼアを身に宿したあなたならば、話は別だ。
あなたはある意味で、召術士の白虎よりも、ヨルゼアを呼び出す事に適した白虎といえる。
人の身に召喚獣が宿れば、力は落ちるでしょう。しかしそれでも、絶大な力の片鱗だけでも、充分過ぎる力があるはず。
さあ、歌え、ガルジアよ! お前自身のために歌われるべき詩を! ヨルゼアを求める、私のために!」
身体の中から溢れる言葉の通りに、ガルジアは声の無い詩を歌おうとする。口を開けた途端だった、
目の前に光の柱が立ち上り、その中に見える者達の姿に、ガルジアは僅かに目を大きくした。
「ウル院長……」
光の中に居る、今は亡きラライト修道院の院長、ウル・イベルスリード。そして、その後ろに居る、修道院の者達。
彼らは物言う事はせず、ただガルジアを見つめていた。その彼らが、不意に得体の知れない光に払われると、姿が掻き消される。
「邪魔ですよ。あなた達の役目は、もう終わったのです」
粒子になったそれらの向こう側に、バインが見える。
「そんな顔をして、泣かないでください、ガルジア。彼らはもう死んだのです。他でもなく、私が殺した。
あなたには、そんなものは必要ない。私とて、なんの考えもなく彼らを殺したのではないのですよ。
リーマアルダフレイがヨルゼアと心を通わせられなかった原因の一つに、彼が召喚獣を従えていたという事があったのだと
私は思っています。だって、ヨルゼアは孤高の白虎なのですから。他の者に心を許し、あまつさえ後世に白虎とは知られぬ様にしていた
リーマアルダフレイです。自らが白虎である事すら厭うていたのかも知れません。そんな彼に、ヨルゼアは心を開かなかったのではないか。
だから、ガルジア。あなたは独りにおなりなさい。修道院で宝物の様に育てられたあなたは、他の白虎とは違い、自分が白虎である
事を本気で厭う事が出来ない。そして、あなたの周りに居たものは、私が全て消し去りました。今のあなたなら、傷心に身を窶したあなたならば、
ヨルゼアはきっと、あなたの元へ来て、あなたと心を通わせてくれるでしょう。目にしたでしょう? 燃え盛る
ラライト修道院を。耳にしたでしょう? あなたを助けるためにやってきた者の、苦痛に満ち満ちた悲鳴を。
あなたには、もう誰も居ない。ヨルゼアを除いては」
止め処なく流れる涙を拭う事もせずに、ガルジアは口を何度も動かした。空気だけが漏れている様で、しかしガルジアの内では
言葉を紡いでいる。誰にも届かぬこの声に、精霊だけは応えられる。そして今は、開かれた扉の先に居る者達も。
しばらくは、静かな光景が続いた。吹き荒ぶ風の音、開かれた扉の奥から聞こえる、異形の声。それ以外は何も耳には届かない。
しかしそれも長くは続かない。やがて、闇に閉ざされた扉の中は眩い光に満ちてゆく。目を開ける事が出来なくなり瞼を閉じても、
その眩しさは遮る事が出来ない。他でもなく、自分を照らしに来た光である。次第にそれにも慣れた頃、いつの間にか、目の前に人の気配を
ガルジアは感じた。ゆっくりと閉じていた瞼を開く。光は弱まり、そして、それは立っていた。純白の被毛。敷かれた淡い薄茶色の縞模様。
自分と同じ、白虎の姿。しかし違っていた部分もある。背丈が、まるで違う。長身であったダフレイよりも更に大きい。そして、その瞳の色も
違っていた。自分もダフレイも、抜ける様な空の色、深く沈む海の色。表現の仕方は多々あるが、概ね青く染まった瞳をしていた。普通の
虎人の金色とは違う、白虎の証。しかし、ヨルゼアの瞳は、赤かった。深紅に染まるその瞳に、束の間、深紅の髪をしていた男の影を思い出した。
「おお……おお! これが、ヨルゼア! なんと、なんと美しい……」
感嘆の声を漏らしたバインの言葉を、ほとんどガルジアは理解出来なかった。それは目の前に居るヨルゼアも同じ様である。
互いが、ただ見詰め合っていた。最初はその瞳に魅入られたが、次第にその全身へと視線を移してゆく。
白銀の鎧を身に纏っている、ヨルゼア。鎧っているそれも、時折鈍く輝いている。それもまた、ヨルゼアの力が込められているのだろう。
「ヨルゼアを、その身に宿すのです。ガルジア」
そっと手を伸ばした。目の前に居るヨルゼアのだらりと垂れ下がった腕を、少しだけ引く。
深紅の瞳が細められる。巨体が屈み、酷く緩慢な動作を以って、ガルジアはその腕の中に納まった。途端に、言い様もない
程の温もりに包まれ、枯れかけていた涙は再び溢れ出た。傷ついた心を満たす様に、ヨルゼアは触れてくる。
心の隙間を、精霊に貸し出す詩。今は、大きく開けられた穴に、ヨルゼアという存在はぴったりと収まったのだ。
僅かな微笑みの声。それを境に、ヨルゼアの姿は消える。光になったそれはガルジアの身に宿ると、そのまま光を収めた。
光が止む。開け放たれた扉も閉じられ、再びの月光に包まれた。その中で、恍惚の表情をしていたバインに向けて、ガルジアは
無言のまま掌を向けた。一変した狼の表情は驚きながらも、しかし狂った様な哄笑を上げた。
ガルジアの掌から放たれた高速の光をバインは冷静に受け止め、受け流して後方へと捨てた。僅かな間の後に、ヨルゼアが
現れた時の様に光の柱が昇る。光を払ったバインの腕から、赤い液体が滴り落ちていた。
「素晴らしい。魔導の素養の無いあなたが、こんな風になってしまうとは。しかし、今の行動は
頂けませんね。ガルジア……いえ、あなたの中のヨルゼアの仕業でしょうか。ガルジア、止めさせてください」
バインの言葉を皮切りに、ガルジアの纏っていた力が僅かに弱まる。自分の中に居るヨルゼアは、
少なくともバインが気に入らず、消そうとしている。しかしガルジアにとっては、自らを操るバインの言葉は絶対である。
ガルジアが止める様に命ずると、ヨルゼアも、主の身体を無理に動かす事はしなかった。
「サーモストの件で、精霊を宿したあなたは自我を失ってしまうのかと思いましたが、中々どうして。
私の支配化に居るからか、それとも、ヨルゼアだからなのかも知れませんね。ヨルゼアはあなたの意思を尊重している様ですし。
……ああ、ガルジア。私は今、幸せですよ。最高の召喚獣。最高の歌術士。それら二人を同時に掌中に収めているとは。
何千年生きても、こんな奇跡が起こりうる事はもうないかも知れませんね。あなたも、幸せでしょう?
あなたを守ってくれる者を、やっと見つけたのですから。彼は他の者とは違って、脆弱ではないし、寿命も人と比べれば、
無限と言っても良い。ずっと、あなたを守ってくれますよ、ガルジア。
そしてまた、あなたも死ぬ事はないでしょう。ヨルゼアを宿したその身、恐らく既に常人ではない。
ヨルセアと共に居る限り、あなたもまた不滅なのです。こうして見ると、凡人は私だけという事でしょうか。
人の生から逸脱しようと私も研磨しておりますが、少なくともあなた達二人の様には生きられないでしょうね。
実に口惜しい。この目であなた達がどうなるのか、見届けられないとは。
ガルジア、あなたは、長生きしてくださいね。そのために、ヨルゼアとの愛を育んでください。
召喚獣とその主は、契約をし、そしてあらゆる意味で交じり合い、相手に執着を抱く間柄でなければいけません。
特にあなたは召術士ではない。今は私が扉を開き、そこから現れたヨルゼアがあなたに興味を示しているからここに
滞在しているに過ぎない。いずれは私の助けなどなくても、あなたが呼べばヨルゼアが無理矢理にでも扉を開いてこちらに
来る様に。……いや、その身にずっとヨルゼアを宿しても良いですね。召喚獣が、こちらに居を移す。それは並大抵の事ではありません。
大抵の召喚獣にはそれは適わぬ者。それを成し遂げた召喚獣は、幻獣という新たな種になります。
しかし世界を超えるというのは生半可な力では成し遂げられない。超える者、或いは引き摺り出す者に相応の力が必要だし、
世界を超えた召喚獣には、世界を超えた証がその身体に刻まれ、それは激烈な痛みを伴うと言います。
だからこそ召喚獣を自らの魔力によって、仮初の肉体を入れ物として呼び出す私達召術士、かつての召喚士が存在
していたのですがね。しかしヨルゼアならば、幻獣となる事など何程の事でもないのかも知れません。
彼の力が本物ならば、扉そのものすら、恐れるに足りず。あなたとヨルゼアが密になれば、その実現も近い将来の事かも知れませんね。
あなたか、ヨルゼア。どちらかが女だったのなら、良かったのかも知れません。まあ、私達と召喚獣の間で子は成せないそうなので、
性差など瑣末な事ですが。ガルジア。あなたのその穢れを知らぬ身体を、ヨルゼアのために。あなたは身も心も美しい。
まさに、ヨルゼアの伴侶になるために産まれてきた白虎と言っても、過言ではないでしょうね」
羽虫の様に小煩く聞こえる男の声は、ガルジアの耳にはほとんど届かなかった。自分の内に居るヨルゼアも、
それは変わりはしないだろう。この胸の中に、確かにそれはある。二つが一つになったのだ。二つの身体で交わる
などというのは、如何にも外野であるバインらしい意見だった。今はそれが一層、哀れにも思える。
この一体感は、味わっている者にしか理解出来ぬものだとガルジアは思った。傍観者であるバインが理解出来ないのも、
無理からぬ事。このまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。ヨルゼアに包まれ、ヨルゼアの中へ沈んでしまいたい。
幸福。安堵。安全。その全てをヨルゼアは与えてくれるだろう。しかし支配権を完全に渡したその時こそ、
ヨルゼアはバインを消すだろうし、バインの命令に、今のガルジアは逆らう術を知らなかった。重い双眸は
閉じられる事はなく、眼差しはバインに注がれ、そしてそのすぐ後に、遠くから届いた物音の方へと向けられた。
「ああ、遅いお出ましですね。あなたを手繰る残りの糸屑が来ましたよ」
月光に照らされた荒地に、赤い髪が見事だった。数人の男達の中に居る、いつか見たそれに、ガルジアは僅かな間心を動かした。
それに、ヨルゼアが敏感に反応を示す。文字通りの一心同体となった今、互いの心の微細な揺れですら、見逃す事はなかった。
リュウメイ達が現れても、バインは然程表情を変える事はなくにこやかにそれを出迎えていた。
「ここまでご足労をおかけしましたね。しかし残念ですが、間に合いませんでした。あなた達もここに至るまでの
一般席からご覧になったでしょう? 私はもう、ヨルゼアを召喚しガルジアへとそれを与えてしまいましたよ。
素晴らしい景色でした。特等席を予約した甲斐がありましたよ」
「与えた……どういう事だ?」
「ああ、失礼。あなた達には理解出来ない事でしたね。おや? そちらの少年は」
目敏くバインは新顔を見つけてそれを話題に上らせる。虎人のリーマとは初対面なのだろう。
元々リーマとガルジアが顔を合わせたのは、終わり滝での一日だけ。流石にそこまでは把握が出来なかったのだろう。
そして、それに寄り添う巨漢の牛人。一目それを見て、ガルジアはそれが召喚獣だという事を理解した。
元々精霊と触れ合う事により、召術士や召喚獣の特異な力を自然な物だと思い、鈍感になっていたガルジアではあるが、
ヨルゼアと同化した今では、その牛人の持つ力。その先に居る、ダフレイの存在を鋭敏に感じ取っていた。
我が身に宿るヨルゼアがざわついていた。先程バインの口にした事が事実ならば、ヨルゼアとダフレイは旧知であり、
そして、袂を分かつに終わった関係である。リュウメイを見て反応を示した時と同じ様に、ガルジアもまた、
ヨルゼアの変化を感じ取っていた。失望に似た暗い思いが流れてくる。それが、ヨルゼアがダフレイに抱く感情なのか。
「まだ子供ではありませんか。それなのに、召喚獣を従えている。あなたも中々に有能な様ですね。
それにしても、なんと粒揃いな事か。誰も彼もが、一線に立てる力を有している。
本来ならばあなた達を私は歓迎したいところですが……。しかし、今の私には、ガルジアが、そしてヨルゼアが居る。
残念ですよ、リュウメイ。あなたはここに来てしまった。心苦しいですが、あなた達には消えてもらう他ありません。ガルジア」
隣へと寄り添ったバインが、そっと耳へと顔を寄せてくる。吐息と微かな嘲笑を耳が感じ取る。
「さあ、あの者達を始末するのです。まずはあなたがしっかりと動けるのか、確かめなくてはいけませんからね。
そういう意味では彼らは適任だ。今まであなたを守ろうとし、しかし守れなかった。もう用済みの連中です。私にも、あなたにもね」
掌中で光が迸る。ヨルゼアの力が、溢れ出てくるのを感じていた。しかしガルジアは、腕を上げる事を拒んだ。
ゆっくりと顔を振る。これを放てば、彼らが消し飛ぶ事など容易に想像出来た。
「い、嫌……です……」
「あなたも中々に強情ですね。私の術中で踊るだけかと思ったら、こうして反発するのですから。
では、言い方を変えましょう。ヨルゼア。あなたは私が気に入らないでしょうが、しかし私の言葉には聞く価値がありますよ。
彼らはガルジアを取り戻しに来た連中です。私からだけでなく、あなたからも。
無論、ここでガルジアが取り返されて、そしてあなたと引き合わされなくなったとしたら、私はあなたに似合いの白虎をまた
探してさしあげるつもりですが……さて、それにはどれほどの月日が流れるのか。私の生きている内に果たせる可能性は、低いでしょうね。
リーマアルブタレイとも反りが合わなかったあなたが、ようやくガルジアと共にあるというのに、彼らはそれを邪魔しようとしているのですよ、ヨルゼア」
咄嗟に耳を塞ごうとしたが、それよりもバインの腕の動きの方が素早かった。左腕を掴まれ、そして光を集めている右腕からは
次第に感覚が遠退いてゆく。
「駄目です、ヨルゼア! 逃げて、逃げてください!」
張り上げた声も空しく、腕は上がり、光が放たれた。先程のバインに与えて放ったそれと似てはいるが、それよりも強い力が
働いている。それはヨルゼアの焦燥と憤怒に他ならなかった。太い光線は辺りを真昼の様に照らした後、現れた彼らの元へ、
そして視界が奪われ治まった頃、そこには何も残ってはいなかった。光線の軌道に反って少し削られた大地。新たに作られた
道のために、弾き飛ばされた岩山。その先で上がる、光の柱。そこに人影は見当たらなかった。
「素晴らしい! 先程より少し間を置いただけで、この程の威力とは」
バインの絶賛する声を、ガルジアは空しい心持で聞いていた。なんの感慨も、感触も無い。今まで自分を守って
傍に居てくれた者達は、あまりにも呆気なく、消えてしまったのだった。
溢れ出た涙は、すぐに止んだ。震える心を、ヨルゼアが優しく包んでくる。それは心地よく、しかし麻痺させる様に
ガルジアの心へと浸潤してゆく。痛みも、悲しみも、ヨルゼアは救ってくれるのだった。それに身を預けながら、ガルジアは
探していた。何も残っていない更地を。その中から、赤髪の男が出てきてはくれないのかと、幾度も繰り返し、やがては
それも諦める。叫び声も、上げられなかった。ただ、掠れた声で男の名を口にしていた。
それはきっと、ヨルゼアにも聞こえはしない。今のガルジアが上げた、ただ一つの悲鳴だった。