ヨコアナ
3.幽霊船にご招待
空を見上げ、細長く伸びた雲の流れを見つめる。風は心地良く、それに押された雲もまた彼方へと消えていった。
潮の匂いのする風に体毛を撫ぜられる。ガルジアがフードを取ると、頭髪がふわりと遊ばれる様に宙に舞った。
住人に見送られてフォーリアを後にし、海鳥達と分かれてから既に結構な時間が経つ。船は特に問題もなく航路をとって自分達を乗せていた。
「天気も良好だし、丁度いい船旅日和ですね」
「そうっすねぇ」
甲板に出て手摺に凭れたガルジアの隣で、先程仲間に加わったばかりの熊人の男が相槌を打つ。
「えっと、ライシンさん……ですよね」
「はい! 先程は失礼しました、ガルジアの旦那!」
「旦那……普通に呼んでいただいて構いませんよ」
にこりとライシンが笑みを浮かべる。体格は自分やリュウメイよりも更に大きく、
傍目からは彼の方が自分達を引き連れている様にも見えるだろう。服装は風貌や振る舞いから受ける
印象通りというか、とにかく動きやすさを重視し、それでいて露出もそれなりにある服を着ていた。短めの胴着に、
茶色い体毛よりも黒に近い色のズボン。武道家と呼ぶに相応しい風体をしていて、剥き出しの両腕には
何やら模様の描かれた白い布が巻かれている。
熊人のライシンはリュウメイの後を追いかけてきたのだと言い、それから同行する旨を伝えていた。
リュウメイは心底嫌そうな顔をしていたが、これから二人が船に乗るのは分かりきっていたので逃げ場は無く、
渋々といった様子でライシンが付いてくる事を了承していた。体毛は焦げ茶色で短く、硬そうで、体格と合わせて
堅物な偉丈夫の印象を受けるが、一目見るだけで陽気さが伝わってくる程の快活な表情が、この男が与える印象を
大分好意的な物へと変化させている。一つ表情を変える度に、その太い眉もまた大きく動く事から、すぐ顔に出てしまう性癖なのだろう。
「ライシンさんは船に乗っても大丈夫なんですか? 家に戻ったりは」
「平気っすよ。俺っちは兄貴の行く所どこまでもお供しますんで。今は、ガルジアさんも」
「そうですか」
一途にリュウメイを慕うライシンを見て、リュウメイのどの辺りが気に入っているのだろうかと、ガルジアは内心考える。
恋人になりに来たのだと平然と言い放ち、最初はガルシアに敵意すら剥き出しにしていたライシンは、
事情を説明すると、呆気なくガルジアの事も受け入れてくれた。それどころか、ガルジアがあまり世間を知らないと聞くや否や、
率先して一つ一つの物事に対して丁寧に話をしてくれる。リュウメイはあまりそういう話をしたがらないので、出会って間もないというのに、
既にガルジアとしては大いに助かる存在になっていた。
「それに兄貴も気になるけれど、ガルジアさんの事も俺は心配ですから」
「私、ですか?」
「だって白虎じゃないっすか。今時珍しい」
言われて、確かにそうだとガルジアは考える。今までは蜥蜴人であるリュウメイの珍しさに気を取られていたが、
自分自身も周りを見渡して同じ者が居る様な外見はしていなかった。
ガルジアの両親は極平凡な虎人の夫婦だったが、そこから生まれたガルジアは産まれた時から純白の体毛に
少し薄い縞模様が敷き詰められた状態だったのだ。
「兄貴はただ珍しいってだけですが、白虎は……大変な事もあるんすよね?」
「そう、ですね」
遠い国では、白虎は聖獣として崇められているらしい。この地においてはそこからの流れを汲み
幸運を呼ぶ者と言われていた。
嫌な記憶が甦る。つい先日の事ではあるが、路銀を盗まれて払う金が無いと発覚した時の事だった。
一部の者の自分を見る目が怪しく光っていた事が忘れられない。リュウメイの言葉通り、売り飛ばされなくて済んだのは幸いだった。
幸運を呼ぶ者などと言われてはいるが、実際はそのために諍いが起きるのだからガルジアとしては複雑である。
「それに、白虎って凄く柔らかいって聞いた事も」
ライシンの目つきが怪しくなる。ガルジアは慌てて一歩下がった。それに気づいてライシンが、慌てて元の状態へと戻って両腕を上げた。
「冗談っすよ! 俺っちは兄貴一筋っすから!」
「失礼ですが、あのリュウメイさんのどの辺りがそんなに魅力的なんでしょうか」
「やっぱあのエロい所っすね! 主に身体が」
そう言ったライシンの頭に、剣の鞘が叩きつけられる。三度目だと思いながら、その向こう側に来ていたリュウメイに視線を向ける。
「リュウメイさん」
「俺が居ない間に随分仲良くなってるじゃねぇかライシン。鞍替えか?」
「ちっ、違うっすよ兄貴! 俺っちは兄貴一筋っす!」
「はん。そういう薄っぺらい事を言うのは忘れねぇなてめぇは」
涙目で弁解するライシンを放置して、リュウメイはまっすぐこちらに向かってくる。
「部屋の都合は付いた。押しかけちまった格好だが、読んだ通り町の恩人を無碍にする事はしてこなかったぜ」
「リュウメイさん、急ぎたいからってそんな無茶な事は」
本当なら、もう一日船を待つはずだったのだ。それをリュウメイが無理矢理船に乗り込もうとするものだから、
ガルジアとしても同行せざるを得なくなった。リュウメイは売った恩を早速上手く使い、無理に都合をつけさせたのである。
「なーに、こちとら恩人様なんだぜ? 気分が良いからこれもお前の働きって事にしてやるぜガルジア」
ガルジアの首に腕を絡めて、実に楽しそうにリュウメイが笑う。目的は当然、共犯に陥れる事である。とはいえ、
既に船に乗ってしまった以上、今更どうする事も出来なかった。船の者にも体裁という物がある。部屋を辞退し雑魚寝でもすれば、
今回の事を知っている者達はガルジアを無下にしたと、船員達を非難するだろう。そういうところまでリュウメイは計算して、相手が
断れない様に、更にはガルジアが何も出来ない様にしているのである。
「あなたって人は。今に罰が当たりますよ」
「大丈夫だって。こっちにはご立派様な修道士さんが居てくれるからなぁ」
そう言いながらガルジアの腹に手を当て、そこから下に進もうとするリュウメイの動きを慌てて制する。
「兄貴達って、やっぱり付き合って……」
ふと鋭い視線を感じて顔を向けると、ライシンが最初にあった時の様に睨みを利かせていた。
「違います。断じて違います。こんな人と一緒だなんて御免蒙ります」
腕を跳ね除け、船内へ向かおうとする。
「リュウメイさん、船室への案内をお願いします」
ガルジアが離れた途端に近寄ってきたライシンを蹴り倒していたリュウメイが、つまらなさそうに自分を見ている。
ガルジアは何も言わずに、船内への扉を開いた。
船室へ続く道を、三人で列を成して歩く。細い通路は人二人分の幅しかなく、時折すれ違う者達が、恰幅の良い
ライシンが近づくと慌てて身体を避けているのが少しだけガルジアの笑みを誘った。
「どんな部屋なんすかねぇ」
「一等船室だから、まあそれなりのもんだろ」
「ああ、なんて罰当たりな」
「気に入らないなら甲板で寝てろ。俺は部屋で寝る」
船室に着くとリュウメイが預かった鍵で錠を開け、扉を開く。
案内された部屋は、確かに上等な造りだった。椅子も机も一級品の様ではあるし、船窓も添えられそこから外の景色も楽しめた。
水平線には、何も見えない。陽の光を照り返す、ただただ広大な海が広がっていた。彼方で魚が水を跳ね上げながら身を翻すのを見て、思わず厳しい
表情も綻ぶ。見慣れた者には味気ないこの光景ですら、ガルジアには新鮮な物だった。広い海の上の、ちっぽけな船の上。どこを見渡しても
大海であり、自分はその中に包み込まれて、揺れている。修道院の中に居ては、とても味わえない開放感だった。
しかしガルジアが今気になったのは、そういう事ではなかった。
「ベッド、二つですね」
「そりゃそうだろ。町の恩人はお前と、オマケで俺だ。という訳でライシン」
「へ?」
「てめぇは甲板だ。もしくは金を払って二等船室でよろしくやってろ」
「ああっ、そんな兄貴っ!」
早速リュウメイはライシンを部屋の外に追い出そうと蹴りを食らわせる。ライシンはライシンで、必死に抵抗を見せていた。
部屋の入り口で壁を必死の形相で掴むライシンと追い出そうとするリュウメイの熾烈な争いが繰り広げられる。廊下に人が居たら
さぞや迷惑だろうなと、ぼんやりと考えながらもガルジアは仲裁へと入る。
「待ってくださいよリュウメイさん。そんなの可哀想です」
「ならてめぇ出ていくか」
「それは」
正直なところ、ガルジアもそろそろベッドでゆっくりと眠りたかった。
森を抜け、この町に来た次の日には祈願に駆りだされ、その翌日には船に乗っているのである。
元々長旅で疲れていたというのに、ここで身体を癒す場を失っては身体が持たないだろうと思っていた。
「せめて、床で。ここなら絨毯もありますし、毛布も頂く事は出来るはずです」
ガルジアの説得に、あからさまにリュウメイは舌打ちをするがライシンへの攻撃も止む。どうにか納得してくれたのだろう。
「あ、ありがとうございますガルジアさん!」
ライシンが瞳を潤ませてガルジアを見つめる。悪い気はしなかったが、寝るのは床である。
「兄貴……はリュウメイの兄貴が居るので、姉貴って呼んでもいいですか。口調も女っぽいし」
「船から突き落としますよ」
「ごめんなさい」
一度船室から出ると、船員に毛布の都合をつけてもらい、その後は揃って船室を出て食堂へ向かう。
「これはなんでしょうか」
食堂に辿り着く前に、柱に貼られている札を見つけガルジアは声を上げる。
札の周りは囲いがしてあり、不用意に触れられる事のない様に固められていた。
札自体は相当古びた紙が使われており、変色し、ぼろぼろになっていたが、それでも不可思議な力を感じる。
「ああ、これは耐震設備の一種っすね。聖法で食堂全体を揺れに強くしてるっすよ」
「へぇ、詳しいんですねライシンさんは」
「こいつ、こう見えても聖法邪法どっちも使うからな。見た目に騙されるなよ」
「それはまた、努力家ですね」
「俺っちこう見えても頭脳派っすから! ところでガルジアさんは、聖法は?」
「すみません、私は魔力の方はどうもからきし駄目の様で」
ちょっと顔を伏せて表情を曇らせる。修道院に居るからには大抵の者は聖法を学ぶのだが、
ガルジアにはその才が無かった。聖法を上達してゆく者達を横目で見て、いつも羨んでばかりだった。
傷を癒すのも、人を祝福するのも、亡者を退けるのも、まずは聖法である。修道院に持ち込まれる案件などの相手も、
もっぱら聖法を得手とする者か、修道騎士団の手に委ねられてばかりで、ガルジアにはそういう仕事が回ってくる事もなかった。
「ですから、私は聖歌隊に入って詩を」
「へえ、そうだったんすか。俺は詩はよく分かりゃしませんが、凄い物なんですか?」
「こいつの詩は結構すげぇぞ。中毒になっちまうかもなありゃ」
「えっ、詩ってそういうものだったんすか?」
「違いますよ。……多分」
ガルジアは不安げに答える。直接詩を聞いて戦ったリュウメイの感想は、確かに無視できない物ではあった。
リュウメイの様に戦いの中で生きている者に聞かせた事など一度もない。個人差があるとしても、何も不思議ではなかった。
話もそこそこに食堂に入ると、不意に耳に飛び込むにぎやかな声。そしてその内装に、ガルジアは圧倒される。船室もそうだったが、
やはり装飾には拘っている様だ。
真紅の絨毯が敷かれ、部屋の壁に沿う様に階段が設えられている。手摺りには金の装飾が施されて、触れるのを躊躇って
しまいそうになる。小さな港町にこの様な船が泊まるのを訝しんで口に出すと、目的地である方の港が大きいからなのだとライシンが丁寧に
説明をしてくれた。白いクロスを掛けられた丸い食台が並び、既に各々乗客がそれに付いて優雅な食事と談笑に花を咲かせていた。
大きな窓も設置され、そこからは大海原が一望に収められていた。水平線を見て、その先にある景色をガルジアは束の間夢想する。
窓の近く、一段高い特等席には、如何にも金を持っていそうな者達が鎮座している。別途支払いが必要な席なのだろうかと考える。
「随分豪華ですねぇ」
「それなりの旅客船だからな」
階段を下りると少し外れて、窓の近くの席を取る。食台は床に打ち付けられていて、波に揺られる程度では外れそうになかった。
「ここはお支払いが必要ですか?」
「いや、一等船室に泊まる奴は料金の中に含まれているからタダでいい。二等船室の奴らは有料だな」
「……どうやら、直接の謝礼よりも凄い物を頂いてしまった様ですね」
「という訳でライシン、押しかけてきたお前はさっさと二等船室で船乗り弁当でも食ってろ」
「ええっ、そんな兄貴!」
「私達が余分に注文する、というのは」
「仮にも修道士がそういうちょろまかしを言うのはどうかと思うぜ?」
「ですよね。それと、仮じゃありません」
「わかりましたよ、払いますよ。飯代くらいなら俺っち持ってますから」
そう言って、腰に巻いた帯の中を弄ると、ライシンは小袋を取り出し食台の上に置く。紐解けば、その中に詰まっていた銀貨が姿を現した。
「八十くらいはありますんで、これだけあれば平気でしょ」
「これだけあれば一人分の一等船室借りられますよね」
「それは言わないでほしいっす。せっかく兄貴と一緒の部屋になれたんですから」
呆れた顔で、リュウメイは給仕を呼んでいた。
一通り食事を済ませ、ガルジアは口元を丁寧に拭く。
港町から出る船だけあって鮮度の約束された海の幸をふんだんに使用した料理に、天にも昇る心地だった。
内陸にある修道院では、口にするのはもっぱら野菜、それも穀物が中心である。修道院では畑も所有していたため不自由はしなかったものの、
近くの村人が川が釣ってきた魚を時折物々交換で口にする程度のものである。
「しかしまぁ、よく食うなてめーは」
「詩を歌うにはそれなりの体力が必要ですから」
ガルジアの前には積み上げられた皿が十数枚は並んでいて、対するリュウメイは精精四枚といったところだった。
どこに入っているのだと言わんばかりに、リュウメイが訝しげにこちらを見つめてくる。
「大して歌ってねぇだろ。そんなんだから贅肉が付くんだよ」
「付いてません! そりゃ、リュウメイさんと比べたらそう見えるかも知れませんけれど」
髪以外に目立った体毛が無いというのも相まって、リュウメイの身体は実にしなやか物だった。それでいて旅路を重ねた
身体は男のガルジアから見ても、なるほどライシンが見惚れるのも理解出来る程に芸術的に整っている。
「そりゃ、街道を通る時は馬車に乗せてもらったりしたから聖歌隊に
居た頃より歌わなくなってちょっとくらいお腹は出ましたけれど……」
段々と小声になりながら呟く。リュウメイが愉快そうに見つめているのに気づいて、咳払いをした。
「それで、これからの旅の事なのですが」
「修道院には行かねーぞ」
「……そんな、いきなり話を終わらせなくてもいいじゃないですか」
しゅんとするガルジアの隣で、ライシンはフォークに刺したソーセージをにやつきながら咀嚼していた。
「せめてどこに行くかとか」
「当てはない」
「じゃあどうして船なんて」
「ここまで来ればお前も一人で帰るなんて出来ねぇだろ?」
「酷いです、リュウメイさん……」
自然と溢れてきた珠の様な涙を拭う。ライシンが今度はちょっと気の毒そうな顔をしていた。
「兄貴、俺っちもガルジアさんが可哀想だなって思うんすけど」
「てめぇには関係ねぇだろ。兎も角金が返せない間は俺の所有物と同じだ。俺が行く所に従ってもらうぜ」
「うう、分かってますよぅ……もう船乗っちゃいましたし」
今更帰る事など許されるはずもなく、ガルジアは修道院に思いを馳せたまま船に揺られる。
「それにしても、もうすぐ西の国との境界みたいっすね」
場の空気を変えようとするかの様にライシンが口を開く。言い終えてからまた一つソーセージを頬張っていた。
「西の国、ですか。私は船旅をするのも初めてで。どういった場所なのでしょうか」
「割と良い所っすよ。といっても海を渡るとはいえそんなに距離がある訳でもないっすから、そんな何もかも変わるって訳でもねぇですが。
勿論国によっての特色もありやすしね。この船が着くエリスって港町は割かしまともで、大きな所でさぁ」
「今私達は、丁度世界の真ん中で航路をとっているんですよね」
壁に掛けてある地図に目を向ける。大陸を両断したかの様に海が走り、その間を行き来しているのがこの船だった。
「そうっすね。でもあの地図が世界の全てではないとも聞きやすし。真ん中じゃないかも知れないっすね」
世界は広い。ガルジアは漠然と思った。魔物が蔓延る世では、まだその全貌すら明らかになっていないのだ。
開拓者も居るとは聞くが、あの地図から更に外側の魔境が切り拓かれるのはまだまだ先の話なのだろう。
「修道院の皆、怒っていないといいのですが」
「まあ、大丈夫っすよ。退っ引ならない事情があるって言えば。実際そうじゃないっすか」
「ですよね」
「それに兄貴は言う程悪い人じゃあないみたいっすし。俺っちも会ってまだ二十日くらいしか一緒に行動してないっすけど」
「そういえば気になっていたのですが、リュウメイさんとはどんな出会いで、そしてまたどうしてこんな人を好きに?」
「おい」
リュウメイが突っ込みを入れるが、ガルジアとライシンは特に気にもせずに話を続ける。
「よくぞ訊いてくれたっす! あれは俺っちが街道を歩いていた時の話なんすけど……」
ライシンが身振り手振りを交えて説明を始める。纏めると、旅をしていたライシンが追い剥ぎに遭遇した際に
通り掛かったリュウメイに手助けを受け、その時のリュウメイに一目惚れをしたのだという。
「一人では心細かった俺っちの前に現れた、エロい救世主! いやもう降って湧くってのはこういう事っすね」
「よく言うぜ。俺が通り掛かった時にはもう賊の大半は潰してたじゃねぇか」
「やだなぁ兄貴。あれは兄貴が一人片付けたのを見て皆怯んでただけっすよ」
「……という風に、付き纏われちまってな。面倒なもんだ」
「はあ、そうなんですか」
ガルジアは相槌を打つ。いつの間にか話し手がライシンからリュウメイへと変わっていた。自分がリュウメイと
出遭った様に、出遭ってしまったのだろうと思う。
食事を終えると、濡れた布で身体中を拭きそれから就寝になる。客船であるからして、酒場などは開かれているが
リュウメイとガルジアは長旅の疲れを癒すためにすぐに横になっていた。唯一ライシンだけは元気が有り余っている様だが、
リュウメイが動かないと見るや否や大人しく付いてきていた。
「兄貴ぃ、ベッドに行っちゃ駄目っすか」
「追い出すぞ」
もっとも、大人しいのは部屋に着くまでの間だったのだが。
波音が耳に届く。忘れかけていた潮の匂いが再び鼻腔を突き、ガルジアは重い瞼を開いた。
まだ眠っていたかった。船酔いという言葉があるが、ガルジアには無縁の様で、
波の上で揺られる不可思議な感覚はただただ心地良かった。
まだ夜中なのだろう。眠る前に船窓から射していた月光も途絶え、今はただ暗闇だけが視界を染めている。
四足で歩く猫程ではないが、それでもガルジアは夜目が利いたので次第に暗闇に目が慣れてくる。寝台に座ると、
足元でライシンが大口を開けて寝ているのが見えた。
「えっ……?」
眠るライシンを見て束の間微笑みながら、何気なく窓の外へと目を向けたガルジアの瞳が見開かれる。
慌てて起き上がろうとして体勢を崩し、ライシンの身体の上に倒れ込む。
「うおぉっ!?」
「ご、ごめんなさい!」
ライシンが思わず悲鳴を上げるが、何が起きたのか把握すると慌てずにガルジアの体勢を直そうとしてくれる。
「どうしたんすかガルジアさん、もう夜中っすよ」
「えっと、そうなんですけれど」
「ああ、それにしても柔らけぇ……こりゃ兄貴も傍に置いておくってもんでさ」
脇腹を押さえていたライシンの手が妖しく動く。悪寒が走り、ガルジアは慌てて離れようとする。
這う様に指が動く様子は、こういった事に手馴れているのだろう。もっとも経験の皆無なガルジアには、ただただ嫌悪感を
煽る動きでしかないのだが。
「だっ、ちょっと止めてください! セクハラ! 痴漢!」
「うるせーぞてめぇら、盛りてぇなら甲板でやれ」
「盛っ……違います! 断じて違います!」
リュウメイの寝台から声が上がり、ガルジアは慌てて立ち上がる。柔らかいながらも、その奥に筋肉の眠る
確かな感触を感じるライシンの腹を踏んづけて。
「ガルジアさん。踏んでる。踏んでるっす俺の事」
「しばらく反省してください。リュウメイさん、それより大変です」
「どうした」
ガルジアの言葉でようやくリュウメイが起き上がる。投げ出した足が、これまたライシンの身体の上へと伸びる。
「ああっ、兄貴まで踏んでる。でも兄貴なら、俺へぐぁっ!」
「黙ってろ豚が」
鈍い音が聞こえる。恐らくリュウメイがライシンの腹を蹴り上げているのだろう。
それに構う素振りも見せず、ガルジアは船窓へ視線を向ける。
「窓を見てください。外が見えますかリュウメイさん」
「……船か」
自分の様に夜目が利くのか分からずにガルジアはそれだけを言うが、すぐにリュウメイの返事がやってくる。
見えているのは、眠りにつく前までは見覚えのなかった船だった。
「おかしいですよね。この船にぴったりとくっつく様に船が見えるんです。それに……ボロボロです」
船窓から注意深く目を凝らす。窓一枚を隔てた外の景色は、こちらと同じ様に船の横っ腹を見せている。
ここからではよく見えないが、僅かばかりの灯火すら視認する事が出来ない。月も今は密雲に呑まれたのか、月光が届く事もなかった。
「いくらなんでも、こんなに暗い中で至近距離に船同士を近づけるなら灯りは必要なはずです」
部屋の外で足音がする。複数人が慌しく歩いている様だった。
「他の奴らも異変に気づいたか」
「行ってみますか?」
「そうだな。何が出来るかは分からねぇが、海賊でも乗り込んできたら丸腰は面倒なだけだ」
「海賊……そうですね。ここは客船ですし、ありえない話ではないかも知れません」
「ライシン、明かりを出せ」
「ちょっとちょっと! そんな事言うんなら二人共俺っちの事踏むのやめてくださいって!」
存在を忘れていたライシンの言葉にガルジアは慌てて身体を引く。リュウメイも最後に一発蹴りを入れてから立ち上がっていた。
「今の話を聞くと、あんまり強いのは控えた方がいいっすよね。ほい」
ライシンの掌から淡い光が漏れる。暗闇に慣れた目には辛く、ガルジアは最初の内は掌で光を遮り徐々に目を慣らす。
身支度を済ませると、リュウメイがまず扉から廊下を伺う。
「賊……って訳じゃねぇかもな。それならもう来ても可笑しくねぇだろう」
「随分静かっすね」
「とにかく甲板へ。このままでは何も分かりません」
リュウメイが頷くと、一行は廊下に出て甲板へ続く道を行く。
途中、開け放たれた扉を除くと、中の主はどこかへ行ってしまったのか無人で、しかしガルジアはその部屋の窓からも外の様子をしっかりと眺める。
やはり明かり一つ見当たらない漆黒の闇に浮かぶ船が見えるだけだった。
甲板に出ると、異変に気づいていた乗客が十数名は居て、皆一様に横付けされた謎の船をざわつきながら眺めていた。
「大きさは……この船と同じくらいっすね。でも向こう側には誰も見えやしませんね」
ライシンが掌に光を出し、両手を合わせる様にして握り拳で光を叩き潰すと派手な光が上がる。
それに照らされた向こうの船の甲板には、人影一つ確認する事は出来なかった。
「海賊船じゃねえみてぇだな。ボロ船を装ったりするのは定番だが、ちょいとボロ過ぎるなあれは」
「そうっすねぇ、あれじゃまるで幽霊船っすよ」
「えっ」
幽霊船と聞いて、ガルジアは尻尾を跳ね上げて後退りをする。
「ガルジア、何か感じるか」
「えっと……」
今更ながらそれを調べる事を忘れていて、リュウメイの言葉でガルジアは目を瞑り探ってみる。
「……何も。けれど、少し悪寒が」
「なんだ。霊感は無いって言ってたじゃねぇか」
「そうですけれど、修道院に居ましたからね。けれど、これは……」
不意にガルジアの瞳から涙が零れる。
「ど、どうしたっすかガルジアさん!」
「いえ、なんでもないんです。勝手に」
慌てて涙を拭う。何故だか分からないが、あの船を見ていると自然と涙が溢れてくる。
「おう、お前さんら。迷惑掛けてすまねぇな」
泣き出したガルジアをライシンが心配そうに見つめているところに、声が掛けられる。
他の船員とは違う、船長服に身を包んだ狼人の男がこちらを見ていた。他の乗客達も船員が集めている様だ。
どっしりと構えるその姿は、如何にも海の男といった風体である。船長の証である幅の広い帽子を取ると、一直線に伸びた鬣の様な
頭髪が夜風に靡いて印象的だった。精悍そうなその男は、しかし今はただばつが悪そうな表情でこちらを見つめている。
「船長のバーク・クレニデスだ。こんな夜中に起こしちまったな」
「船長、これはどういう事だ」
リュウメイがまず話しかける。それに、バーク船長は歯切れが悪そうに答える。
「それは俺の方でもよく分からねぇ。しかしこの船……今見てみたが、こりゃ確かにうちの船だな」
造形を見れば充分にそれが分かるのか、バークはそう返してくる。
「船員の話じゃ、暗闇からいきなりこの船が現れて横付けになった途端、どうにも舵が利かなくなっちまったみたいでな。
西に向かうはずが、少しずつ南に移動してるって話だ」
「南……ってそれちょっと不味いんじゃないんすか!?
この辺の海域は波が穏やかだからいいっすけど、南は半端じゃないって!」
思わずライシンが上げた声に、乗客に動揺が走る。
「その通りだ。こりゃひょっとすると、本当に幽霊船なのかもな……待ってたら、この船も危ねぇかも知れん」
「どうするんですか一体!」
乗客から声が上がる。それに続く様に野次が飛び、徐々に収集がつかなくなってくる。
「恐ろしいが、あの船に様子を見に行くしかないだろう。幸いぴったりくっついてるから乗り移るのはそんなに難しくもねぇが」
「誰が行くか、か」
リュウメイの言葉に一同が沈黙する。ただの客船の船員と乗客では、腕に覚えがある者など期待出来るはずもなかった。
「しゃあねぇな。待っててもどうなるか分かったもんじゃねぇし、ちょっくら行ってくるか」
「お前さん、行く気か」
バークが意外そうに、しかし期待を孕んだ声色でリュウメイに尋ねる。この短時間で決意を固める者が出るのが意外な様だ。
「待って事が済むならそれが一番だが、こいつは尋常じゃねぇわな。それに、船長のあんたは行く気があるみてぇだ。
だがこの状況で船長が居なくなるのは、正直不味いだろ。乗客はまだしも、船員までビビってるじゃねぇか」
「……すまんな」
「つー訳でお前ら。あの船に行くぞ」
「ええっ、そんな!」
一部始終を見守っていたガルジアは声を荒らげる。隣に居るライシンは異存は無いのか、ただ頷いていた。
「これも人助けだガルジア。つかこのままだと本当に死ぬぞ」
半分脅す様な言い方だが、冷静に考えればガルジアにも理解出来る事だった。
こんな真夜中に大海原で、見知らぬ幽霊船に連行され向かうは荒れ狂う海域なのである。
自由に動かす事も出来ない船でそんな場所に引き摺り込まれたら最後、沈没するのは目に見えていた。
「分かりました……。ああ、またゆっくり眠れないなんて」
「このまま船が沈んだらゆっくり眠れるかもなぁ?」
「冗談止めてください! 行きますよ行けばいいんでしょほら行きますよ早く!」
「おー、こえーこえー」
笑い声を上げながら、リュウメイが両手でお手上げの体勢を決める。ガルジアは船員が向こう側に繋ぐ様に置いた板の上を
真っ先に渡り、ボロ船に下り立った。その瞬間に寒気に襲われ、僅かに身を震わせる。
「これ、私達が入ってる間に船が離れたりしませんよね?」
「その辺は大丈夫だ。出来るだけ繋いでおくって船長が言ってたしな」
続いてきたリュウメイが、ガルジアの呟きに答えを添える。
「それにしても、随分な御利益だったな」
「なんの話でしょうか」
「惚けんな。てめぇで祈願して祝福された船が出航した結果がこれだぞ」
「無理に船に乗ったリュウメイさんに罰が当たったんです。大体そんな事を言うのなら私にさせなければよかったんですよ」
流石にむっとしてガルジアも言い返す。元はといえばリュウメイがさせた事なのだ。
「それじゃ、幽霊船探検隊出発っすよ!」
気分を盛り上げる様にライシンが声を張り上げる。
どうしてこの二人は。そう思いながらも、ガルジアは先を歩き出したリュウメイを追い、自身もボロ船の船室へ続く穴へと続いた。