ヨコアナ
20.泥に咲く花
湿った風が頬を撫で付ける。
壁を穿って作られた明かり取りの窓から、ヘラーの街並みをガルジアは見つめていた。
昼間の内、晴天の続いていたヘラーの街は、今は曇天を迎え、やがては雨に昇華しようと、少しずつその気配を
街に漂わせている。湿った風に撫で続けられている被毛も少しずつ湿り気を帯び、耳の中に僅かに入ってきた
冷たさを払う様に、ガルジアは仕切りに耳を動かした。
陽の光を浴びて、あんなにも白く光り輝いていた街は、曇りの今はくすんだ灰色に沈んでいる。
光が閉ざされた街。そして今は、街の入り口も閉ざされかけている。
「雨が降りそうかい」
声を掛けられて、ガルジアは振り返る。二つあるベッドの内の一つに、腰掛けている鬣犬の戦士の姿があった。
膨らみ、先端が尖った耳。それに負けないくらいに伸びた鬣。それらとは不釣合いな、深い優しさを称えた瞳がじっと見つめてくる。
この男には、雨が似合うだろう。ガルジアは、そう思った。雨に塗れれば、威嚇するかの様なその鬣も大人しくなるだろうと。
そうして雨に塗れた男はきっと、元来からの優しさを失わず。心身ともに自分を安心させてくれるのだろうと。
「お昼を過ぎた頃に、降るかも知れませんね」
「そうか。では私は、夜まで降らない方に賭けようかな」
「いけません、クロムさん。賭け事だなんて、如何わしい。それも、このヘラーでだなんて」
「そんな事はないさ、ガルジア。君だってもう、このヘラーが信仰に厚いだけの街だなんて
思ってはいないだろう? 昼夜を問わず、裏では穢れが蔓延る。滅多に来ない知人の来訪を知った時に、
物置に見られたくない物を慌てて押し込んだかの様だ。そして押しかけたまま帰らぬ相手を前に、それをずっと隠し続けている。
とても人間味に溢れた街だ。そうは、思わないかい?」
「そんなのは、一部の人だけの話です。普段から片付けをしない、だらしがない人の話です」
「はは。そう言われると、耳が痛いな。私は片付けは苦手でね。だからいつも捨ててしまう。
必要になったらまた手にすれば良い。そんな性分でね」
「物を大事にしなさいと、ウル院長にはよく言われました」
「そうか。君は良い人に育てられたのだね。彼の事を訝しんでばかりで、申し訳ない」
「いえ、いいんです」
言葉を区切り、ガルジアはまた外へ視線を戻す。こんなやり取りをしたいのではなかった。昨日邂逅を
果たし、そして激昂して出ていったリュウメイの事を思い浮かべた。雨が似合う男が居れば、雨の似合わぬ
男も居る。リュウメイは、丁度そんな感じだった。だからこそ、クロムとは反りが合わないのかも知れないと思う。
ラライト修道院で別れ、そしてなんの因果か、ここに来ての再開。それを喜んだのも束の間、
今度は激しい怒りを見せ付けて、また姿を消してしまった。つくづく、勝手な男である。離れるのも、近づくのも。相手の
思い通りになど決してさせはしない。その度に自分が翻弄されるのを、ガルジアは充分に思い知っていた。だからこそ、
今はその存在が殊の外気になるのだろうか。
今ならば、会いに行ける。リュウメイからではない。自分が会いに行こうと決めれば、会いに行けるのだ。
せっかく再開を果たしたというのに、まだ何も話してはいなかった。
「クロムさん。私、リュウメイさんの所へ行こうと思います」
「そうかい。てっきり今日は行かないのかと思っていたよ。病み上がりなのだから、無茶はいけない」
纏まった休息を取ったのは、随分と久しかった。それこそ、ラライトから辛くも落ち延びて以来である。
ようやく辿り着いたサーモストで待っていたのは、温かな歓迎ではなく、冷たい奸計であった。
そして、そこからの魔物の襲撃。リュウメイとの剣戟。リュウメイとの旅を終えたとはいえ、ぬくぬくと
修道院で生きていた修道士の身には、あまりに過酷だった。
「平気です。あの日からもう四日、充分に眠りました。今度は身体を動かさないといけないんです。
私の旅はまだ終わっていないのですから。それに」
また、外をガルジアは眺めた。遠くの空が僅かに鳴いている。手を上げると、指先で頬を擦り、顔を洗う。
「この雨は、長く続きそうですから」
支度を済ませると、いつもは被らぬフードを深々と被り、顔を見せない様にする。
ローの監視の目が光る以上、サーモストを訪れる前の様に露出をする訳にもいかなかった。
幸い、ここヘラーでは顔まですっぽりと隠していても、然程怪しまれる様な事はない。
「何か聞かれたら、私が代わりに応えよう。君はなるたけ声も出さずに」
「お手数をお掛けします」
「いいさ。君一人で行かせるよりは、ずっとね」
本当ならば、ガルジア一人で出向きたかった。それをクロムに止められたのである。
ヘラーの街に閉じ込められているとはいえ、実はローに対しての心配は、然程必要はなかった。
それはローがサーモストでの一件を公にしていない事からも察せられる。ガルジアを大々的に追い掛け回す
訳にはゆかず、しかしまた逃す事も避けたい。そのためにも、ヘラーの街へ入る事の出来る、北以外の三方向に
作られた出入り口を固めているのだ。表向きは魔物に対する警戒という事だが、十中八九、こちらに対する
備えであるというのは、全員一致の意見だった。そして、街で事を起こすのは、恐らくはローも本意ではない。
心配なのは、やはりバインという、盗賊の頭であり、また召術士でもある男だった。
盗賊ならば、当然このヘラーへの進入は許可されはしないだろう。しかし少しずつ手勢を入れる事くらいは
していてもおかしくはなかった。話を聞く限りでは、ガルジアがサーモストを目指していた事を、バインは承知している。
外か、内か。いずれにしろ、どこかに潜んでいるというクロムの意見は無視出来なかった。
しかしそれを心得ていても尚、ガルジアは、出来ればクロムを伴ってリュウメイと会うのは避けたかったのだった。
絶対に合わない。予感ではなかった。既に見ている光景でもある。
クロムはともかくとして、問題はリュウメイである。あの様子では、再び見えたとしても、やはり上手く行くとは思えなかった。
こういう時は、少しずつ距離を縮める他はなかった。ただでさえローやバインの事で悩まされているというのに、辛い事である。
そのために、まずは自分が。そう思っていたのだが、やはりクロムが付いてくるのは仕方がなかった。ガルジアも、
流石に付いてくるなとは言えない。言ったとしても、恐らくは聞き入れてももらえないだろう。
部屋を出ると、宿の主人に挨拶をする。宿の主人はすっぽりとフードを被ったガルジアを見て、少し目の色を変えていた。
「おや。お連れさん、ここに来た時は随分とぐったりしていて良くなったのかと思ったら、今度はどうしたんだい」
思わずガルジアが何かを言いかけようとすると、クロムがそれを制する。
「いやね、体調が戻ったのは良いが、こいつは元々重い皮膚病を患っていてね。
人にうつさぬ様に、また見られたくないがために、こうして顔まで覆っているって訳さ。大丈夫、こうしていれば、うつりはしないから。
もしうつったら、その時はすまないが、侘びにこれでも渡しておくれ。余ったら、宿代としてそのまま持っていってくれ」
そう言ってクロムは銀貨の詰まった袋を差し出すと、亭主はしばらく考え込んでから、ガルジアへの関心を無くした
かの様に黙って袋だけを受け取る。そのまま宿から出ると、ヘラーの南通りへ、リュウメイ達の使っている宿へと向かう。
「ごめんなさい。無駄にお金を掛けてしまって」
「仕方ないさ。それに、私の方も謝らなくては。君を病気持ちだと吹聴してしまったよ」
「とんでもない。私が伏せっていた事、そして今は顔を見られたくはないという事。全部考えたら、ああ説明するしかないです」
ガルジアとて頭が働かぬ訳ではない。世間知らずではあるが、クロムの心遣いは充分に理解していた。
「ちゃんと前は見えるかい。辛いなら、手を引こう」
「そんな事したら目立っちゃうじゃないですか」
「駄目か。残念だ」
控えめに憤慨しながら、笑い声を零す。この男は本当に、こういう時であっても、優しくからかう事を忘れはしない。
そういうところも似ていると思った。しかしリュウメイの場合は、笑っているのはリュウメイ自身である。
魔物の襲撃から四日目。ヘラーの街は、既にその落ち着きを取り戻し、また以前の様に白亜の街としての
姿を惜しみなく晒していた。元々被害が大きかったのは外周部分である。街の中心であるここでの被害は
それほどでもない。行き交う人々の表情も、道で開かれる商いも、既に平時のそれとなんら変わりない。
リュウメイとライシンが泊まる宿へと、ライシンの言葉を頼りに向かう。
辿り着いた宿は、自分達が泊まっている所よりも少しばかり粗末な外観をしていた。宿へ入ると、食堂の手前で立ち止まる。
「クロムさん、ここでしばらく待っててくれませんか?」
「私が一緒だと不味いだろうか?」
「そうですね……正直なところは。リュウメイさんがどうしてあんなに怒っているのか、
私もクロムさんも知りませんし。ライシンさんが居てくれたら、教えてくれるかも知れませんが。
とりあえず、今は、私だけで行こうと思います」
「わかった。何かあったら、すぐに呼んでくれ。私は入り口を見張っていよう。
尾行をしている気配は感じなかったが、何せ相手は盗賊も混じっている。流石に私も本業相手では自信が無い」
「お願いします。そんなに時間は掛からないと思います」
胸に手を当て、軽く頭を下げる。その後にガルジアは宿の受付へと向かった。
受付ではやはり、怪しむ様な目を向けられる。こうして宿を取る時にまで素性を、ましてや顔まで隠していては、
流石に言い訳のしようもなかった。
「すみません、知人がここに泊まっているという話を聞いてきたのですが」
「……ああ、そういえば。尋ねてくる人が居ると聞いたね。あの赤髪の男の知り合いかい、あんた」
「はい、そうです」
「一番奥の部屋だ」
「ありがとうございます」
それ以上何かを言われる事もなく、ガルジアは受付を後にする。もう少し探りを入れられるかと
思ったが、どうやらその辺りはリュウメイとライシンが上手く手を回してくれていた様だ。
案内通り、一番奥の部屋へと足を運ぶ。扉代わりの厚手の布が掛けられているだけの部屋だ。
「リュウメイさん、ライシンさん。私です。入っても大丈夫でしょうか」
声を掛けるが、返事はない。それをガルジアは不思議に思う。リュウメイならばともかくとして、
こういう時、ライシンは必ず待っていてすぐに飛び出してくるだろう。
部屋を引き払ったという可能性も考えられない。引き払っていたとしたら、受付で案内はされなかっただろう。
「失礼します」
そっと布を退けて、ガルジアは部屋へと入る。尋ねる約束はライシンと交わしていたし、
いつまでもこうして部屋の前で佇んでいては、目立ってしまう。それだけは避けねばならなかった。
部屋に入ると同時に、ガルジアは眉根を寄せる。強い酒の臭いが部屋中に充満している。
その部屋の片隅に、目当ての男がだらしがなく床に座って所在無く酒瓶を手にしたまま、うっそりとしている。
「リュウメイさん」
転がる酒瓶の数に、ガルジアは溜め息を吐いた。何かと思えば、泥酔状態である。
いつもならリュウメイを諫めるはずのライシンの姿も今は見えなかった。ライシンはライシンで、外の様子でも伺っているのだろうか。
「ああ、もう。こんなに散らかして。あなたって人は本当に」
フードを取り、リュウメイへと駆け寄る。その時になってようやくリュウメイはこちらへと目を動かしていた。
「よぉ、遅かったじゃねぇか。もう酒盛りしちまったぜ」
「リュウメイさん、こんな時になんて悠長な事を」
「固ぇ事言うなよ。どうせ、街からは出られねぇんだからな」
当て付けの様に言い放ちながら、リュウメイはまた酒を口へと運ぶ。飲み干したのか、興味無さそうに空き瓶をまた転がし、
それは山の中の一つになった。ガルジアは呆れて溜め息を吐くばかりである。
こんな風に正体がなくなるまで酒に溺れたリュウメイを見るのは、初めてだった。ディヴァリアで飲んだ時も相当に酔ってはいたが、
今の様に酒瓶を手当たり次第に開ける、などという飲み方ではなかった。それ以外では、酒など滅多に手にしなかったし、
飲んでも一口二口で止めてしまう。そんなリュウメイだからこそ、ガルジアは長旅でも身体が持った。外を歩いている時、この男の傍に居ると
安心して休む事が出来るのだ。
「そんなにクロムさんの事が、気に入らないんですか」
「ああ、気に入らねぇな」
はぐらかして話を続けても仕方ないだろうと、ガルジアがクロムの事を口にすると、敏感にリュウメイは反応を見せる。
「リュウメイさんのお気持ちはわかります。私だって、最初にそう言われた時は……。
怪しげな物に手を伸ばした人は、修道会からは敵視されるものですし。けれど、クロムさんはただ私を守ってくれました」
「気安く他人の気持ちがわかるだなんて言うなよ。てめぇには、わからねぇだろうさ。
修道院でぬくぬくと育った、おぼっちゃんにはな」
「……そんな言い方、酷いです」
取り繕う暇もなく、リュウメイから突き放される。ガルジアはただ俯いた。親に修道院に預けられ、
白虎であるが故に人目も避けて育てられた。そう言われては、返す言葉もなかった。
「ごめんなさい。そうですよね、あなたの気持ちがわかるだなんて、大それた事を言いました。
……だったら、教えてください。リュウメイさんのお気持ちを。一度別れたのに、ここまで来てくれた。あなたの気持ちを」
リュウメイが口元だけで笑みを浮かべる。酒に酔っていても、この男が本当に酔っているとは、ガルジアは思えなかった。
酔った振りをしているだけなのではないか。酔いは人を解放的にするというが、いつもと変わらず、
ただ自分の事を見通すかの様に見つめているリュウメイが目の前に居るだけだった。
「不老不死なんてのは、碌でもねぇもんさ。その方法は簡単には見つからず。今となっちゃ、それを
追求する事すら禁じられているもんだ。それが、ふらっと現れた傭兵が不老不死だなんて、そう簡単に信じられるもんじゃねぇさ」
「わかります。でも、どうしてクロムさんをそんなに敵視するんですか?」
「気に入らねぇからさ。あいつの顔も、態度も。それに不老不死ってのは厄介なもんさ。
不幸が付いて回る。その秘密を知りたい奴が大勢居るからな。傍に居て、良い事なんて一つもねぇと相場は決まってる」
結局は、同属嫌悪である。クロムもまたその点ではリュウメイとは反りが合わない。
表面的な態度はあまりにも違う二人ではあるが、人と接する際常に自分に余裕を持つ事、一歩引いた立場で物事を
見ようとするところなどは、同じだとガルジアは思っていた。大きく違うところがあるというのならば、
クロムはガルジアには真摯で従順だったが、リュウメイは苛烈で意地が悪いというところだろうか。
しかしガルジアはそれを深く気に留める事もなかった。それよりも、リュウメイの言葉を訝しむ。
どこか歯切れが悪く感じた。その言葉の奥に、もっと別の何かを隠している様な気がする。
「ここまで来たのは、そうだな」
しかしそれを尋ねるよりも先に、リュウメイは話題を変えた。そしてあえてガルジアは蒸し返す事もしなかった。
無理に聞き出しても、クロムとの関係を好転させる材料になるとは思えなかった。下手をすれば、自分までもが
リュウメイに疎まれ、ヘラーの街で集まったはずの仲間は、仲間ではなくなる様な気がした。
「あいつ……バインとは、腐れ縁だ。昔からのな。元々気に入らねぇ奴だったから、まあ、そのついでだな。
どうせ盗賊まで率いちまった以上、俺にとっちゃただの獲物。何もてめぇだけのためにここまで来た訳じゃねぇ。
ここに居れば、どうせあいつが来るんだからな」
「そうですか。……でしたら、やっぱり、その……皆一緒に居た方が」
おずおずとガルジアは切り出してみる。本来ならば、リュウメイ達を巻き込みたくはないと言いたいところ
だったが、既にリュウメイの好戦的な性格、敵に背を向けぬその気概を知っていた。仮に一人であっても、
リュウメイは気にせずバインに向かってゆくだろう。それを避けるためでもあった。
予想通り、リュウメイはガルジアの提案には頷かない。
その内リュウメイが立ち上がろうとして、ふらつく。慌ててそれをガルジアは押さえ様とするが、
そのまま押されてベッドの上へと押し倒される。悲鳴を上げてリュウメイを見つめるが、
微笑と、少し切なげな光が瞳に湛えられていた。いつもの猛々しさは、微塵も感じられない。
「ずっと考えてたんだが」
「え……?」
「どうしててめぇはバインに狙われてるんだろうな。白虎なら誰でもってんなら、
金を積めば調達出来るもんだ。金貨百で、元は取れるはずなんだが。
あいつは白虎の修道士を探してる。それだけしか言わなかった」
「そんな事、わかりません」
「ああ、そうだよな。だから一つ推論を立ててみたぜ。どうしてお前が狙われるか」
そう言いながら、リュウメイはゆっくりと手を伸ばして、ガルジアのローブへと手を掛ける。
布越しに指が身体を這う感覚に、ガルジアはぞくりとした。
「リュウメイさん、何を」
「売り物の白虎とお前。違うとしたら、ここだよな。修道院で後生大事に育てられたお前だ。
娼婦や男娼の濁った目なんて、知らねぇだろうな。バインは汚れてねぇてめぇをご所望なのかも知れねぇぜ?
なんせ、売られちまってる白虎ってのは、とっくに言いなりになる様に躾を済ませたり、味見し終わったのが大半だからな」
「そんな……馬鹿な話が。女性ならともかく、私は」
蜥蜴の瞳が妖しく光る。先程まで確かにあったはずの優しさは今は欠片も感じられない。
不思議とガルジアは動けなかった。金色の瞳に見つめられると、まるで獲物として食われる動物の気分になる。
赤い長髪が、絡み付く様にガルジアの首筋や頬へ触れてくる。僅かに身動ぎをする度に、それは
くすぐる様にガルジアを撫でて、ともすれば甘い愛撫の様に刺激を走らせた。くぐもった笑いが、耳元に発せられる。
「可能性を一つずつ潰そうぜ。お前は綺麗だ、ガルジア。身も心も、その辺に居る奴とは比べ物にならねぇ。
まあ、俺はお前の甘ちゃんなところは、反吐が出る程嫌いだがな。
でも、そういう奴は、儀式の生贄には持ってこいなんだぜ? あながち、間違った推理でもねぇと思うんだがな」
「それは」
一度、盗賊に攫われた事が脳裏に蘇る。あの時自分を攫った猫人の魔道士も、自分を見てそう言ったのだった。
そしてその男は、目の前に居るリュウメイに切り伏せられ、崖から落ちて姿を消した。
「俺が守ってやる。俺の物になれ、ガルジア」
「あ……」
首筋に舌が這う。頭の中が真っ白になる。リュウメイの身体が圧し掛かり、ガルジアは息を詰まらせた。
男の手が触れてくる。何も知らぬ身体に。ガルジアは、本当に何も知らなかった。そしてそれに、
恐怖を抱いたのだった。ディヴァリアでの一件を束の間思い出す。しかしあれは、魔法の効果でリュウメイを好きに
なっていただけである。今胸にあるのは、純粋な恐怖と、嫌悪だった。
「止めてくださいっ!」
思い切り突き飛ばす。リュウメイはほとんど抵抗も見せず、ただ自分を見つめていた。
「最低です……リュウメイさん。あなたは、最低な人です!」
言いたいだけ言って睨みつける。しかし自分の行動になんの迫力も無い事をガルジアは知っていた、
既に瞳からは涙が溢れているし、身体は震えていた。リュウメイにこうして求められるのだって、初めてではない。
しかし今回はいつもと違っていた。リュウメイからの、真摯な告白と、その瞳。それ故に、
バインの計略を破るために汚すのだという言葉にも、憤慨した。
涙を拭って駆け出した。背中に、リュウメイの乾いた笑い声が聞こえる。酔っているのだ。そう思い込む事にした。
部屋を飛び出すと、フードを被る事も忘れて宿の入り口へ向かう。出迎えたクロムは自分の様子を見て驚いた様だが、
すかさずフードを被せ、周りの目から守ってくれた。
「どうしたんだい、ガルジア」
「帰ります」
「……いいのかい?」
「いいんです。もう、知りません。あんな人」
それ以上、クロムが深く訊いてくる事はなかった。ただ帰り際に、リュウメイの居るであろう部屋へ向けて
殺気を漲らせていただけである。それ以上の事はしなかった。ガルジアも、クロムに何かを求めはしなかった。
こうして、結局折り合いもつかず、それどころかリュウメイに散々にあしらわれて、ガルジア達は帰路に着いたのだった。
宿へ戻ると、ガルジアは今朝の様に窓から外を見つめる。やがて、雨が降ってきた。
枯れた涙の代わりに、雨が降る。
「まだ夕方だ。賭けは君の勝ちの様だね」
雨音に気づいたクロムがそう言ったが、それにもガルジアは応えない。クロムは何も言わず、
ただ傍に居てくれた。夕食を運び、それにガルジアが碌に口をつけずにいても、ただ黙々と世話をしていた。
日が沈んだ頃に、横になる。眠るにはまだ早いが、それもまたクロムは察してくれた様だ。
雨音が聞こえる。長い雨が続くだろう。それは自分の心と同じだと、ガルジアは思った。
雨音が聞こえる。止む事がないかの様に、それはただ規則的な音をガルジアの耳に届けていた。
ぼんやりと開いた眼が、少し離れた所でベッドに眠るクロムを映す。ぐっすりと眠っているのか、ガルジアが起き上がっても、
特に反応を見せる事はなかった。刹那主義の傭兵は中々隙を見せない。それはガルジアが今まで会ってきた者達の
共通点だったが、流石に百戦錬磨であるクロムも、今は疲れている様だ。
暢気に眠っていた自分とは違って、サーモストを抜け出してからも、緊張の連続だった。
そんな事までして、どうして自分の事を。そう尋ねても、クロムは曖昧に笑うだけだろう。
思えば遠くへ来たのだと、ガルジアは身の上を振り返る。修道院で修道士として生きて、死ぬ。
それが自分の人生なのだと思っていた。不満があった訳ではなかった。安全な世界がそこにあった。
外で何が起こっても、修道院に居るガルジアには関係の無い事。心を悼めても、身体が痛む事はない。
しかし同時に、幸福や安堵は無かったのだった。似ている様でそれらは違い、そしてガルジアは、身の安全よりも、
刹那的な安堵や幸福を求めて修道院を飛び出したのだと、自分では思っていた。それが全ての始まりであり、それ故に
沢山の命が失われ、やがては帰る場所すらも無くなった。今は、その内の何一つも手の内には無い。
「自分勝手だったのでしょうか、私は」
こんな事になるとは、思いもしなかった。ただ、外を見てみたかった。それだけである。
自分は、修道士としては失格だと思った。日々の安寧に安堵し、その中で幸福を見出す。それこそが今を生きる者に
必要な救いである。気づかないでいる身近な幸せに気づき、それを大事にする。ガルジアは、それを放棄した。
いつも考えていた。胸の中での繰り言。こんな事態を引き起こした自分を苛んでいるのか。それも、わからなかった。
考えても無駄な事だ。結果は今更覆らない。降り続く雨が天に戻る事がない様に、降りしきり、
濡れそぼつこの身体に叩きつけられた雨粒が無かった事にはならない。
そっと、ガルジアは起き上がってみた。クロムを起こさない様に気遣いながら、自分の足で立ち上がる。
窓から見えるのは夜の闇。しかし夜明けを控えているのだろう。僅かな薄明かりと、雨粒の姿が見える。
その中に揺れる赤色を見つけたのは、偶然だったのだろうか。
雨に染められ、淀んだ世界の中であっても、その赤い色は見事に存在を主張していた。泥の中に、花が咲く。
「リュウメイさん……」
赤髪がゆらゆらと、雨中で揺れている。水分を強か吸ったその髪はだらりと垂れさがり、いつもの様に風に
遊ばれる事もなく、ただガルジアの傍へと垂れた紐の様に静かに瞳の中へと飛び込んできた。
その姿が、少しずつ遠くなる。発作的に、ガルジアは部屋を飛び出した。そこにリュウメイが居るとしたら、
それはリュウメイが、この街を出ていくという事ではないのか。人目を忍び、静かに居なくなるのではないか。
どうして自分はそれを追っているのだろうか。ガルジアは、自分の行動が理解出来なかった。つい先程は関係を
迫られた事に腹を立て、突き飛ばし、憤慨し、侮蔑の言葉をくれてやった相手である。どこへ行こうと
関係ない。そう思った。そうあるべきだった。それなのに。
「リュウメイさん、待ってくださいっ!」
宿を飛び出した。泥濘を踏み締める。降り止まぬ雨はついに白亜の街を、泥の街へと変えていた。いくら白で塗り固めた街とはいえ、
大地が剥き出しのままである部分も、目立たぬだけで相当な部分がある。しとどに濡れた大地は、まるで今こそが自分の版図を広げる好機だと
言いたげに、白い街を、泥で塗り潰していた。
遠くで赤髪が揺れている。曙の今ですら視界は暗く、その闇の中を照らす様に、歩く度にリュウメイの髪が揺れていた。
冷たい雨に打たれ、踏み締め跳ねた泥に塗れ。しかしそれでもガルジアは自らを止められない。
ここでリュウメイと別れたら、次はどこで会えば良いのか。自分とリュウメイを繋ぐ糸は途切れてしまう。
そして街の外には、盗賊団が待ち構えているかも知れない。既にリュウメイはそれに手を出した。
たった一人で外に向かおうとする男の背中を、ガルジアは見過ごす訳にはいかなかった。これ以上、
見知った者が死ぬのは、耐えられなかった。
角を曲がった赤色を追う。さながら、炎に魅せられた虫の様だ。自らが焼かれると知っていて、
それでも追う事を止められない。ガルジアもまた角を曲がった。いつの間にか、サーモストの裏手へ来ていた。
雨が降っているとはいえ、朝は朝。大通りでは宿の主人が、怨めしそうに雨を眺め、そして信心深い者達は
例えこの時間と生憎の天候で見る事が叶わぬと知りながらも、美しいサーモスト修道院を臨もうと外へ足を運んでいるだろう。
彼らの姿も、この場では見えなかった。家々の間の、長い通路。そこを歩くリュウメイに、追い縋るガルジア。
世界はそれだけだった。この直線の上に立っている、自分とリュウメイ。ガルジアにはもはやそれしか見えていなかった。
「リュウメイさん!」
声を張り上げた。雨音に負けない様にと張り上げた声が届いたのか、その足が止まる。それを見て
ガルジアはようやく安堵した。近づけば、炎はまた身を燃やそうとするだろう。しかし適度な距離を保った炎には、人は安堵してしまうのだった。
人であるガルジアは、安堵をし、逃げる事はしなかった。
息を切らせて、リュウメイの隣へと駆け寄った。ずぶ濡れの身体など、どうでも良かった。リュウメイが
自分の声を聞いて立ち止まってくれた。それだけで、ガルジアには充分な事だった。
前に出て、向き合おうとする。どんな顔をしているのか。まだ、怒っているのだろうか。それが知りたかった。
「ガルジア!」
怒号に似た声が聞こえた。今まで自分が走ってきた方向から、クロムが来ていた。
「そいつから離れろ!」
険しいクロムの顔と言葉に、ガルジアは一瞬何を言われたのか、判断を鈍らせた。しかし相手にとっては、
その一瞬で事足りたのだろう。隣に居た赤髪の男はガルジアを抱き寄せると、素早く後ろに回り、
ガルジアの首を腕で押さえた。仰天しながらも、ガルジアは喉を押さえられ、悲鳴も上げられない。
「あ……あなたは……」
リュウメイではない。直感的に、それだけはわかった。ぽたぽたと男の顔から雫が落ちる。その色が
濁っていた様にガルジアには見えた。実際に濁っていたのかどうかは、雨に流されわからなかった。
「御機嫌よう。お二方」
聞き慣れぬ声が聞こえる。今度は背後から。ぴちゃぴちゃと軽快に足音が聞こえる。
隣へと、誰かがやってくる。瞳を懸命に動かして、ガルジアはその姿を視界に収める。
漆黒の被毛。尖った耳と細長い鼻先を見るに、恐らくは狼人である。
「お迎えにあがりましたよ。ガルジア」
その言葉でガルジアは全てを悟った。召術士の男。バインである。
漆黒のローブに、漆黒の被毛。白色の腕だけが、闇に染められた白亜の街の中で際立っている。
「お初にお目にかかります。私はバインと申す者。あなたを訪ねて、ずっと旅をしていました。
おお、本当に白虎ではありませんか。この目で見るまでは、と思っていましたが……なるほど、素晴らしい。
そして、あなたの力は既によく知っていますよ。やはりあなたこそ、私が求める人材です」
好き勝手な事を言うバインを、ガルジアはじっと見つめていた。元より何かを言いたくても、喉を押さえられて
言葉どころか呼吸すら危うい状態である。
「ああ、そんなに苦しそうな顔をして。アローネ、やり過ぎですよ。殺してしまったら、どうするのですか」
バインの言葉で、押さえつける腕の力が緩む。勢い良く息を吸い込んだガルジアは、何度も咳き込み、
涎を垂れた。涙が溢れて、それと混ざる。その様子を見て、バインが両手をわざとらしく上げた。
「なんと手酷い事を。アローネ、ガルジアは主賓なのですから、もう少し丁重にお願いします」
「申し訳ございません、バイン様」
背後のリュウメイが返答をする。何がどうなっているのかもガルジアにはよくわからなかった。
「部下が無礼な真似を働きました。お許しくださいね、ガルジア」
顎を掴まれ、顔を持ち上げられる。バインはまっすぐにこちらを見つめ、そしてその礼儀正しい言葉とは
裏腹に、裂ける程に口元で笑みを浮かべていた。狂気の混じったそれに、ガルジアは怖気が走るのを感じ取る。
「ガルジアから離れろ!」
クロムの声が飛んでくる。バインはそれを聞き、振り返ると、クロムへ今度は笑いかけた。
「お久しぶりですね。クロム」
「……私は、覚えがない」
「それはまた、寂しい事です。五十年前に、確かに会ったではありませんか。
と言っても、長い時を生き抜いて、そしてこれからも生き続けるあなたです。半日すら
顔を合わせていなかった私の事など、忘れていても無理はありませんがね」
五十年前、という言葉にクロムは敏感に反応を示した。
「まさか、サーモスト急襲の?」
「ええ、そうです」
「馬鹿な。あの時お前は三十かそこらといった体だったではないか。
今のお前は、あの時より若い。……まさか、お前も私と同じ」
「残念ながら違いますね。私のそれは、あなたの様に完成された物ではない。
緩く結んだ紐の様な物。気を抜けば解けて、元に戻ってしまう。その程度の物ですよ。
羨ましいですね、あなたが。傭兵として伝説となり、その果ての結果がそれとは。なんと恵まれた人生でしょうね」
「生憎、私は気に入ってはいないよ」
「勿体無い事です。もし私がそうなれたらと、あなたに依頼を断られてからも、私は夢想する日々を送っていたというのに」
「御託はいい。ガルジアを、こちらに返せ」
「あなたも馬鹿ではないでしょう。ここまでガルジアを追ってきた私が、万に一つもその心算ではない事、よく理解しているでしょうに。
しかしそうせざるを得ないのでしょうね。ここで戦いを選んだら、ほら。私は大悪党らしく、こんな事を指示していますから」
再び首を絞められて、ガルジアは悲鳴を上げる。同時に身体が中に浮き、首吊りの状態へと移行する。
必死に両腕で首を絞める赤髪の男の腕を剥がそうとするが、無駄な努力だった。爪を立てようと、びくともしない。
「可哀想に。あなたが抵抗をするから、ガルジアはこんなに酷い目に遭ってしまいましたよ」
薄れる意識の中で、ガルジアはクロムの表情をただ見つめていた。そうする事がクロムにとって辛い事だと、わかっている。
クロムは目を見開き、そして牙を剥き出しにしていた。こんな顔をするところなど見る事はないだろうと思っていた。
自分を怖がらせぬ様に、表情すらも常に慈愛を秘めている。その男が、今は敵意を剥き出しにしているのだ。
「堪りませんね。その表情。百戦錬磨の男は、そうでなくては。くだらない優男の仮面なんて、似合いませんよ」
「貴様、死にたい様だな」
「まさか。それにあなたに動かれると困ります。あなたは死なないのですから、私では歯が立ちません。
ですから事を穏便にと、そう言っているのです。さあ、武器を捨ててください。このままではガルジアは死んでしまいますよ。
私がガルジアを殺さないと、あなたは思っていますか? そうですね、確かに。私の野望に彼は必要ですし、
ここで彼を殺してしまっても、あなたはもう止まらない。確実に私を殺しに来る。そう考えると、ガルジアを殺すつもりはないのかも知れません。
しかし白虎なら、また待てば良い事。長い年月が掛かるかも知れません。しかし答えに辿り着いた私は、
これからは貪欲に白虎を求めるでしょう。ここでガルジアが死んでしまうのは確かに手痛い。しかし殺してしまっても、私には道がある。
ガルジアに心底傾倒しているあなたと違ってね。あなたは、どうですか? ガルジアを失っても、まだ道はあるのですか?
寂しいですねぇ。一人ぼっちの道ですからねぇ。五十年前のあなたの瞳は、とても濁っていたのに、
今のあなたはとても幸せそうだ。そしてまた、自ら瞳を濁らせてしまうのでしょうか?」
饒舌な狼の言葉が、雨音の伴奏の中を流れてゆく。クロムは何も言わず、剣を捨てた。それを見て、
ガルジアは首吊りの状態から、腕を放されて大地へと落ちた。取り押さえる必要も無いと見たのだろう。窒息寸前の身体に力は入らず、
ただ蹲り、激しい嘔気に苛まれ、何も言葉を発する事が出来なかったのだ。
溢れ出る涙を懸命に拭った。泥が目に入る事も、気にしていられなかった。ガルジアの身体をバインが引き起こそうとする。
身体を引っ張られた時だった。
一陣の風が巻き起こる。ガルジアの目の前で、バインの腕が千切れ、その身体がばらばらになった。
それに悲鳴を上げるよりも先に、千切れた身体が色を失い、泥になって崩れ落ちる。ガルジアには
幸いな事だった。これで血と肉片が飛び散っていたら、気を失っていたかも知れない。
「ガルジアさん!」
荒々しい男の声。だらりと首だけを動かして見遣ると、クロムの背後にライシンが走ってきていた。
そしてその隣に、赤髪の男。リュウメイが居た。
「リュウメイさん、ライシンさん……」
「ガルジアさん、そいつは兄貴じゃないっすよ! バインの奴が用意した、替え玉っす!」
言いながら、もう一度ライシンは風を起こす。今度はガルジアの隣に居た替え玉へとそれが飛ぶ。
しかし風の刃が直撃する直前で、その邪法の効果は消え去った。リュウメイの姿をした何かは涼しい顔をしていた。
「乱暴な人達だ」
そして、再び背後から。あの声が聞こえる。
「そうやって不意打ちばかりをして。これではどちらが悪党かわかりませんね。辛い物です」
「うるせぇ、サディストが」
駆けつけたリュウメイが吐き捨てる様に侮辱の言葉を発する。それにもバインは涼しい顔をしていた。
「ああ、ちなみに私は本物ですよ。ですから、今の様な不意打ちは、お止めくださいね」
「嘘臭いっすよ、兄貴! 旦那!」
「心外ですねぇ。本当の事を言っただけなのに。正真正銘、私は本物ですよ」
ライシンとクロムが身体を震わせる。それを見たガルジアは、言い知れぬ恐怖に苛まれた。恐怖の対象は、当然
自分の後ろに立つバインである。
「本物だから、本気であなたたちのお相手も出来る訳です」
「流石にてめぇで三人は厳しいんじゃねぇのか」
「そうでもありませんよ、リュウメイ。今や泥の街と化したこの白亜の街は、アローネにとっては絶好の場所。
確かに少々猛進するきらいがある彼ですが、私という司令塔が今は居るのですから。
けれど、そうですね。確かに、三人纏めてというのは、辛いですね。ですから、早速脱落者を出してしまいましょう」
言うや否や、バインの掌から黒い光が大地へ落ちる。鈍く輝く、深遠の色。それは地に落ちると同時に、
影へと変じ、素早く泥の上を走り三人の元へ向かう。ライシンが少し遅れて掌に光を灯した。
「危ねぇっ!」
目が眩む程の光だった。しかしその光を受けて、バインの放った影は消え去る。
「ああ、惜しい」
「残念だったっすね。俺っちにそんな小細工は」
「ライシン君か、クロム。どちらかが後ろにも注意を払っていたら、良かったのに」
バインの言葉で、三人がびくりと身体を震わせた。後ろへ振り向こうとした者も居たに違いない。しかし、動けなかった。
恐らくは、影に取り付いて動きを封じる魔法だったのだろう。ガルジアだけは何が起きたのか、知っていた。バインが
影を放つ直前、三人の背後にもバインが現れたのである。泥の中から、突然飛び出した何かを
判別しようとした頃に、ライシンの光が爆発した。そして後に残っていたのは、こちらに居るはずのバインの姿。
向こう側に居るバインからも、同じ魔法が放たれたのだろう。
「忠告したでしょう。ここは既に、アローネの縄張りだと。私は召術士であり、彼は私の召喚獣。
召喚獣ならともかくとして、召術士が、召喚獣に頼らずに攻撃を放つだなんて、そんな馬鹿げた事、ある訳ないでしょうに」
「こ、これしき……!」
ライシンとクロムが必死の形相で掌に光を集めようとする。三人纏めて動きを封じるというのは、流石に無理があるのか、
少しずつ、光が強くなってゆく。
「ところで、雨が強くなったと思いませんか、三人共。ああ、ガルジアは感じていないでしょうけれど」
「え……?」
バインの問いかけに、ガルジアだけは声を上げた。雨脚が強まった様には、ガルジアは感じなかった。
「実は私も感じていません。あなた達だけなんです。さて、どうしてでしょうね」
言いながら、楽しげにバインは掌に風を集める。一瞬にして夥しい力が集まり、ガルジアにもその風は吹き付けた。
「お返しですよ」
バインが魔法を放った。巻き起こった颶風は三人を切り裂くのかと、ガルジアは思った。しかし三人に目立った外傷はなかった。
しかし、直後だった。
「うがああぁぁっ!」
突然、ライシンが叫び声を上げた。ガルジアは仰天して、ライシンに視線を送る。ライシンの身体には、傷は無い。
血が流れた様子も無い。しかしライシンは悲鳴の後に倒れると、泥の上でのた打ち回っていた。
そしてその両隣に居るリュウメイとクロムも、顔を顰め、バインを睨みつけていた。その頃になってようやく
ガルジアは気づいた。三人の更に後ろに居た、新しく現れたバインの右腕と右足が切断されている事に。
激しい風に晒されたそのバインは、すぐに泥となり、先程目の前で起こった様に崩れ落ちて大地へと帰っていった。
「どうですか? なんの傷も無いはずなのに、手足をもぎ取られた痛みと、気分は。
あなた達三人纏めて消し飛ばすのは私には無理ですから、少し趣向を凝らしてみました。どの道、クロムは倒せませんしね。
ああ、それにリュウメイ。あなたの様な貴重な種を始末するなんて、やはり私には耐えられません。
ですから、痛みだけを。私からのささやかな気遣い、気に入って頂けましたか?」
「うぁぁ、痛ぇ……痛いぃ……」
大地の上で必死の形相でもがきながら、ライシンは聖法を唱えて手当てをしようとする。それを見て、バインが笑った。
「無駄ですよ、ライシン君。私は泥人形とあなた達の神経を繋いで痛みを教えてあげただけであって、傷を作った訳ではない。
だから聖法による治療なんて、今はなんの意味も成さない。私がした様に神経から脳に情報を与えれば話は別ですが。
痛みで気が狂いそうでしょう? そんな状態で、出来る芸当ではない。一歩間違えれば、廃人にでもなってしまいますからね。
まるで幻肢痛の様ですね。もっとも、あれとは何から何まで、正反対ですが。あるはずの手足に喪失感を覚え、
無いはずの傷に痛みを感じてしまう。大丈夫。半日もすれば、痛みは引きますよ。私が保証します」
ライシンはバインの言葉が聞こえていないのか、狂った様に聖法の光を放っている。見えない血が流れている。
ただ手足を切り飛ばした光景よりも、恐ろしい物にガルジアには見えた。同時に、自分が受けていたらと思うと、身体の震えが止められなかった。
「やはり見立て通り、ライシン君は痛みには弱いみたいですね。無理もない。彼は一番若いのだから。
若いが故に、痛みを知らない。痛みを知る覚悟も無い。自分が行使している物が、自分に跳ね返ってきた時の心の準備もできていない。
いけませんね、リュウメイ。人選は慎重にしなければ。彼が可哀想ですよ」
残されたリュウメイは剣を構え、クロムは剣を拾い直していた。表情はぎらぎらとして、ただバインを睨み殺そうとする
かの様に、必死の形相をしていた。
「流石ですね、リュウメイ。今の攻撃でクロムはともかく、リュウメイ、あなたも声を上げようともしないとは。
手足が千切れてそんな風にしていられるなんて、普通じゃありませんよ。なんて恐ろしい。
あなたが絶叫してのた打ち回るのを、私はとても期待していたのに。残念ですね。しかし、嬉しくもある。
やはりあなたは一流の戦士だ。もっと別の形であなたと出会えていたら。こんな時ではありますが、私はそう思いますよ」
「バイン、てめぇ……!」
よろよろとリュウメイが歩を進める。一歩踏み出す度に、その瞳が合わせる様に開いては閉じてを繰り返し、
荒らげた息と漲る殺意が、決してリュウメイが無事ではなかったのだという事をガルジアに教える。
その隣では同じ様に動きながらも、クロムはまた先程の攻撃が来ないかと警戒しているのか、歩を進めるのは
そこそこに、鞘を握り締めていた。そしてリュウメイを迎えるために、替え玉として立ち尽くしていた偽者のリュウメイも動いた。
剣を抜き放つ。二人のリュウメイが対峙した。
「バイン様、そろそろお引きください。あまり無理をされては御身に障ります。
それに如何にリュウメイに化けたとて、我には戦士の素質は無い故、長く持ちますまい」
「ええ、そうですね。この程度でリュウメイの剣は鈍らないでしょう。精精足が遅くなる程度。
そしていずれはそれも乗り越えるでしょう。リュウメイですから。さあ、ガルジア」
抱き起こされて、ガルジアはバインを見つめる。口を開けて何かを言おうとしたが、震える口からは吐息が出てくるだけだった。
「可哀想に、こんなに怯えて、震えてしまった。あなたは戦乱の中に生きる様な人種ではありませんからね。
もう大丈夫ですよ。私が温かな寝床とスープを用意しましょう。こんな所に、長居は無用です」
「い、嫌です……私は……」
「私の目を見つめて。睡魔に呑まれなさい。視線を逸らそうなどとは思わない事です。
そうしたら、また彼らは傷つきますよ。あなたのために。あなたのせいで。また、死人が出てしまいますね。
あなたを守るために、一体どれだけの人が死んでいったのでしょうね」
ガルジアは瞳を逸らす事が出来なかった。涙を湛え、バインの瞳に見つめられ、次第に意識が朦朧としてくる。
「殺さないで、ください」
「約束しましょう。素晴らしい人材を無下にはしません。
さあ、もう眠りなさい。あなたには、辛すぎる現実でした。それももう終わりです。
きっとあなたを救ってくれますよ。私ではなく、ヨルゼアがね」
項垂れて、バインの胸の中へとガルジアは身体を預ける。こんな時だというのに酷く安心したのは、
不安に満ち満ちた現実が無くなるのだと言われたからなのだろうか。しかし意識を失う直前に、ガルジアは
最後の力を振り絞り背後を盗み見た。リュウメイが、歩いてくる。自分の元へ。
あと少し。そう思ったところで、自分の側に居たリュウメイも動いた。剣戟の音を合図に、ガルジアの意識はぷつりと途切れた。
長雨はまだ、止みそうにない。