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19.召術士の旅立ち

 吹き渡る風が、何にも邪魔をされる事なく流れてゆく。
 街道を両脇から挟む草原を時折撫で付けては、さらさらと葉のぶつかる優しい音色が、
誰に聞こえるとも知れずに静かな演奏を続けている。
 不規則なその音の中、規則的な揺れに包まれて、眠りこけていた少年は、
不意に揺れが治まるのを知ると、薄っすらと瞼を開き、馬車の隙間から僅かに見える外へと目を遣った。
「おい坊主。起きてるかい? 蜘蛛街道に着いたから、降りるなら早くしておくれ」
 御者の言葉が耳に飛び込むと、虎人の少年は身を起こし、欠伸を一つ。それを済ませると、
ひらりと身軽に馬車の荷台から飛び降りた。
 少年が礼を済ませると、再び御者は馬を駆る。それを見送った虎人の少年は、懐に手を入れると、
そこから青白い水晶球を取り出した。
「もうすぐです、ダフレイ様」
 その言葉に応えるかの様に、水晶球は淡く光を灯した。そうしていると、ダフレイの力が流れてくる様で、
少年、リーマはにこりと微笑んだ。
 終わり滝にて先祖であるリーマアルダフレイの霊が出ると聞き、旅に出ていた少年は、
ガルジア達と別れると、まっすぐに自らの故郷であるサマザルの村へと向かっていた。
 街道へと足を運ぶ。先程の馬車は、三つに分かれた道の、左側へと行った様だ。
 リーマの目的は、直進し、その先にある故郷のサマザルへ帰る事である。本当はサマザル行きの
馬車を探そうとしたのだが、都合がつかず、蜘蛛街道へ差し掛かるまでという約束でここまで先程の馬車の世話になっていたのだった。
 快晴の空を見上げ、とぼとぼと蜘蛛街道を行く。
 蜘蛛街道はその名の通り、まるで蜘蛛の巣の様に内側が入り組んでいる事からその名が
付けられた街道である。元々は荒地を避けるために輪を描く様に作られた街道の内側が、
開拓が進むと内へ内へと道を伸ばしたために、蜘蛛の巣の様な街道になった、という説を聞いた事がある。
 そのために、街道の外側へ用があるものは、先程の馬車の様に外の部分をぐるりと回る事も多かった。
 リーマが目指すサマザルの村は、この蜘蛛街道の中心に位置する。
 水晶球を大事に懐へ戻すと、リーマは駆け出した。遠くに見える大樹こそ、リーマの故郷であるサマザルの
ある場所であり、またかつてリーマアルダフレイが居を構え、そして今では召術士が集う地にもなっている場所であった。
 途中で再び馬車を見つけると、それがサマザル行きだという事を確かめて、再びリーマは馬車へと乗り込む。
 そうして揺られ、蜘蛛街道までは十日近く。そしてそこからサマザルへ至るのにも、二日を要した。
 旅慣れていない身体は悲鳴を上げ、倒れる様に家の扉を開いたリーマは、しかしゆっくり休む暇もなく、父や祖父へと事情を話すと、
かつてダフレイが使用していたとして、今も代々セロス家の者が管理をする魔法陣の鎮座する建物の鍵を預かる。
 サマザルの象徴である大樹。そのすぐ近くに、魔法陣は描かれていた。それは偉大な先祖であり、召術士でもあるダフレイが残した物であり、
建物こそ補修工事を何度も重ねてはいるものの、魔法陣その物は今もほとんど手を加える事なく残り続けているのだという。
 幼い時分にそれを聞いたリーマは、よく父と祖父にせがみその魔法陣へと触れていたが、歴代のセロス家の者と同様、召喚獣を召喚する事は叶わなかった。
 しかし今は違っていた。終わり滝でのダフレイとの邂逅。そのダフレイが直々に稽古を付けてくれるというのだ。
 逸る気持ちを抑える事も出来ず、ここまで駆けに駆けて戻ってきた。

 重苦しい扉が開け放たれる。昼間だというのに、遮光された屋内は外の光の一切の闖入を拒んでいた。
 それ故に扉が閉められると、視界は闇に包まれる。しかし闇に目が慣れた頃、ぼんやりと光る物がある事に気づく。
 それが、リーマアルダフレイの残した魔法陣だった。リーマアルダフレイの魔力で描かれたというそれは、既に千年が経過したというのに、
今も消える事が無い。リーマアルダフレイがどれほど優れた力の持ち主だったのか。それを見るだけで、大抵の者は納得するのだという。
 リーマにとっては、それこそ物心が付いた頃からの慣れ親しんだ景色である。
 水晶球を取り出すと、それを魔法陣の中心へと細心の注意を払って置く。
「……ダフレイ様。これで、大丈夫でしょうか?」
 その問いの代わりに、水晶球に亀裂が入る。思わずリーマは呻くと、数歩下がった。
 亀裂からは眩い光が上がり、やがてそれは粉々に砕け散る。光が止むと、薄っすらとした煙が、
自ら発光し、それは次第に人の形へと変わってゆく。やがて、煙は完全な人になり、そして色付く。
 白銀の被毛を纏った長身の男が姿を現す。白い虎。それを見て、リーマは数ヶ月前に別れたガルジアの事を思い出した。
「懐かしいな。まさか、本当に残しているとは思わなかったぞ。リーマ」
 揺らめく煙が払われると、もうそこには一人の男が立っているだけだった。
 召術士として死して尚千年の時を経ても言い伝えられ、そしてまた、リーマの祖先でもあるリーマアルダフレイが、
そこに立っていた。リーマの唯一知る白虎であるガルジアと、リーマアルダフレイの容姿は随分と違っていた。眼差しは鋭く、背も随分と
高い。終わり滝で出会った時と身に纏っている物も違った。黒を基調としたローブは、四肢の部分は赤紫色に塗り固められ、その境目には
夕焼けと夜を隔てるかの様に、金色の線が走っている。少々趣味が悪いとも言えるが、長身で、かつ白銀色の被毛のリーマアルダフレイが
身に着けていると、中々に様になっている様な気もすると、リーマは暢気な事を思う。
「あの、ダフレイ様。もう……白虎のままでも?」
「ああ。どうせお前には知られてしまったしな。それに今更隠したところで、既に私は死んだ身だ」
「とても、そんな風には見えませんが」
 リーマかそう言うと、得意気にダフレイは笑みを浮かべた。
「当然だ。こうして身体が亡くなっても終わり滝で監視が出来る様に、私は準備をしていたのだからな。
もっとも、その努力も無駄に終わってしまったが……しかし今は、私の血を引くお前が居る。
そう悪い事ばかりが続く訳でもあるまい。時にリーマ。お前……」
 歩み寄ってきたダフレイが、なんとも言えない表情をする。リーマは必死にそれを見上げていた。
「お前は随分背が低いな。本当に私の血を引いているのか?」
「ダフレイ様が大きすぎるんです。僕より二倍近いじゃないですか」
「ふうむ……血が薄れてしまったのかな。水晶球になっていてもお前の動向はある程度伺えるが、
先程話していたお前の父や祖父も、あまり背は高くなかった様だし。お前達が召喚獣を
上手く使役出来ないのには理由があるが、血が薄れてしまったという事もあるのやも知れぬな」
「ダフレイ様が特別大きかった、という事は?」
「さて、どうだったかな。私の父は……覚えておらぬしな」
 刹那、ダフレイが眉間に皺を寄せたのを、リーマは見逃さなかった。
 それ以上聞く事を避けて、本題へ移ろうとダフレイを促す。
「うむ。お前の稽古を付ける。そういう約束だったな」
 そういうや否や、ダフレイは屈み込むと、こちらをじっと見つめてくる。
 薄暗い中にある青の瞳は、宝石の様にきらきらと光っている。その奥で、白虎の鋭い視線が見え隠れした。
 同じ白虎であるガルジアとは、まるで別人である。ガルジアの瞳はいつも人を優しく見つめる、慈愛に溢れたものだった。
 しばらく見つめ続けていたダフレイは顔を顰めたり、首を捻ったり。何かを考えている様だが、
口に出す事はなく、次第にリーマも不安になってくる。
「良いだろう。リーマ、お前を鍛える前に、いくつか言っておく事がある。まず、私はお前が私の子孫であっても、
手加減をするつもりはない。手心を加えてもらえるとは、思わない事だ。良いな?」
「はい」
「よろしい。では、率直に言おう。お前には、大して召喚士、いや、召術士としての才能が無い」
「えっ」
 ダフレイの言葉に、リーマは瞠目した。耳の中で、その言葉が波音の様に寄せては引いてゆく。
「……すまない。少し言い過ぎたか」
 しばらく経ってからダフレイがそう口にしたのを聞いて、慌ててリーマは知らぬ間に流れていた涙を拭った。憧れ続けていた
召術士。それも、自分の先祖からの辛辣な言葉である。多少の覚悟をしていたものの、それはあっさりと無駄に終わっていた。
「い、いえ。大丈夫です。続けてください」
「うむ。お前の父や祖父は、召術士を目指していたそうだな。そしてまた、お前も」
「はい。父達は若い頃から、法術都市のディヴァリアで遊学を。セロス家は代々、ダフレイ様に連なる者として、
ほとんどの者が召術士を志していました。……結局、ダフレイ様程の者は現れませんでしたが」
「そのディヴァリアという都市は知らんが、大した経験は積まなかった様だな。あやつらからも、
私は大した力は感じ取れなかった。如何に私の血を受け継ぐ者とて、才に恵まれる様な事はなかったか。
まあ、血を受け継いだというだけでその力が約束されるというのならば、世襲制度を採る国々は、
いつの時代ももう少しは安泰であったろうしな。お前……いや、濁して言っても仕方あるまいな。この村に居る者達全員、私から見れば
大した力を持っている様には見えぬ。召術士が集まる村だというが、あれでは召喚獣の一体すら、満足に呼び出せぬのではないか?」
 リーマは俯き、しかしゆっくりとダフレイの言葉を肯定する。
「……仰る通りです。今の時代、召喚獣を呼び出せる召術士は、数えるくらいしか居ません。
僕は召喚獣を見た事が無いし、話として知っているのも、祖父や曽祖父が師事していたディヴァリアの召術士である、
リオフォーネ・カスト先生を除いては、誰も。ほとんどの召術士は、精精が精霊を呼び出す事が出来るくらいです」
「なんと情けない。だが、仕方のない事なのかも知れぬな。リーマ、よく聞きなさい。確かにこの時代の
お前達には才能が無い。しかし何も、召喚獣を呼び出せない原因の全てが、お前達にある訳ではないのだ」
「そうなのですか?」
「ああ、それを説明する前に……一つ教えてくれ。私は、お前達にどのような人物として、
言い伝えられているのだ? それを私に教えておくれ、リーマ」
「はい。……召術士リーマアルダフレイ・セロスはその卓抜とした魔力と才能を以って、その名は
大召術士であるネモラと同等に位置する人物である。……僕が知っているのは、それだけです」
「たった、それだけなのか?」
「はい。この家やディヴァリアにある資料を見ても、それ以上の事は」
「ふむ……そうか。ならばお前には後で別に話があるが、今はそれは置いておこう。いや、それよりも私は一つ物申したい。
私があのネモラ……小僧と同じだと? なんだその評価は。後世の者は馬鹿しかおらんのか?」
 穏やかだったダフレイが、急に機嫌を悪くするのを感じてリーマは首を傾げる。
「そ、そんな事を僕に言われても……」
「大体あやつが大召術士と言われているのに、何故私はただの召術士なのだ? 召術士などという、
召喚士の劣化品みたいな呼び方をされるだけならまだしも、私があいつより下だと?
ええい、腹立たしい! あの小僧め。ちょっと世界を救ったからって、良い気になりおってからに」
「だ、ダフレイ様、落ち着いてください」
「ああ、今思い出しても腹が立つ。彼奴の馬鹿面が眼に浮かぶわ。だが今は私の勝ちだ。
後世に名を残そうが、今の私はこうして肉体を失おうとも存在を保っているのだからな。
そうだ。私の方が優れているのだ。あんな仲良しごっこの召喚士など、私は、私は認めんぞ」
 段々と自分の世界へと没入してゆくダフレイを、リーマは止める事も出来ずに見守っていた。
 しばらくそうしてぶつぶつとネモラについての怨み言を呟いていたダフレイだが、気が済んだのか、やがて咳払いをする。
「……取り乱したな。では、本題に入る。準備はいいな」
「はぁ……」
「リーマ。先程言った通り、お前には大した才能は無い。私が保証してやる。
しかし才能が無いといっても、それは私と比べたらの話だ。そしてお前はまだ子供。花は蕾が開くまで、
本当の美しさはわからないものだ。そして今のお前でも、少なくともお前の親父達よりは
いくらかましだ。私がお前に稽古を付けると決めたのも、お前の力を多少は買っているからだ。ここまでは、良いな」
「はい。でも、ダフレイ様。僕は精霊を呼び出すくらいしか出来なくて」
「それは仕方のない事なのだ。リーマよ。私の生きていた時代ならば、お前程度の者でも、召喚獣を呼び出す事は
充分に出来たのだ。しかし今はそれが出来ない。それには理由があるが、説明は後にして、お前にはとりあえず私の召喚獣をくれてやる」
「召喚獣を……くれる……そ、そんな! いいんですか!? そんなあっさりと決めてしまって」
「構わん。どうせこの身体では、そう満足に召喚が行える訳ではない。
だったらお前にでもくれてやった方が、まだ使い道もあるというものだ」
 立ち上がると、ダフレイは魔法陣の上へと戻る。闇の中に白虎の青白い身体が、希望の光の様に漂っている。
「お前はまず、召喚獣を呼び出し、使役するという事に慣れるべきだ。だからまずは、私が一体呼び出してやる。
そこでよく見ていろ。これが、召喚という物だ」
 言葉が途切れる代わりに、莫大な魔力を感じ取ってリーマは身体を震わせた。
 先程まで感じていたダフレイの魔力であっても、並の使い手ではない事は充分にわかっていた、
しかし今感じるのは、その比ではなかった。ダフレイの纏うローブはその力の影響を受け、風ではなく魔力によりはためく。
 闇の中に純白の白虎の尻尾が怪しく揺れている。ダフレイは勢い良く、左腕を壁に向けた。
「我と契約せし誇り高き獣よ。我が呼びかけに応えよ。我の名はリーマアルダフレイ・セロス。
この名を持って汝に命ずる。来たれ。大地を割る猛き獣、ジースホーン、バルゼリオよ」
 腕を伸ばした空間が、歪みを見せる。現れた渦は、リーマが精霊を呼び出す時に見慣れた物であったが、
しかしそこから感じ取る事の出来る力は、精霊を呼び出す時のそれとは明らかに異なっていた。その中は暗く、
その奥からは底知れぬ何かが潜んでいる気配がする。魔力を感じるのではなかった、闇の向こうから漂うそれに
リーマが抱いたのは、恐怖だった。そこから如何なる異形の化け物が出てきたとしても、自分はそれを疑う事は決してないだろう。そう思った。
 しばらくその穴は開いたままだったが、やがてダフレイが腕を下ろす。
「リーマよ、これが召喚獣がこちらへ来る時に通る扉だ。お前はまずこれを上手く開ける事も出来ぬだろう。
今は、私が開けてやる。しかしいずれは自分の力で開け。でなければ、誰も召喚獣を呼び出す事は叶わぬ。それと……」
 ダフレイが怨めしそうに渦を見つめる。
「……来ないな」
「え?」
「流石に千年も経てば、私の呼びかけに応えぬ者も出てくる。新しい主を見つけた者も居るだろうな。
心配するな。他の者はどうだか知らんが、こいつは呼び出せるはずだからな。
だが私の呼びかけに応じぬとは。ああ、本当に召喚獣という奴は。信用ならんな」
「どうするんですか?」
「私の声に耳を貸さぬのならば、引きずり出してやるまでだ」
 再びダフレイは腕を上げると魔力を強める。すると掌から、黒い紐の様な物が勢い良く飛び出し、渦へと吸い込まれてゆく。
目を凝らして見つめると、それは茨の様な形状をしていた。黒い植物。それが今、空間の向こう。恐らくは、召喚獣の
済む世界へと続く渦を通っている。
「リーマ。召喚獣というのは、どんな奴だと思う?」
「え?」
「こうして呼びかけ、それに応えてくれる。力を貸してくれる。奴らはこちら側に居る精霊とは違い、
しっかりとした意思と感情を持ち合わせている。そんな奴らが、こうして呼びかけに応じているのはどうしてだと思う?」
「それは……」
 実のところ、召術士としての家系であるリーマにも、それはわからなかった。
 御伽噺の本を読んでも、父や祖父の話を聞いていても、何故召喚獣は自分達に協力をしてくれるのか、
そんな事も教えられはしなかったのだ。
 唯一、召喚獣を呼び出したリオフォーネ・カストの話を聞く限りでは、召喚獣はただ忠実に従っていた、という話を知るだけである。
「信頼しているから、ですか?」
「いや、まったく違うな」
 リーマの返答に、如何にも予想をしていたとでも言いたげな顔でダフレイはぴしゃりと否定をする。
「奴らは卑怯で狡猾だ。それでも従うのは、我々の持つ魔力が、奴らにはこの上なく甘美な物に感じられるからだ。
そしてまた、我々が呼び出す事で扉が開け放たれ、こちらの世界へ来る事が出来る。
お前は何も知らぬ未知の世界が目の前にあると知った時、それを恐れるか?
それとも、何があるのだろうかと瞳を輝かせるか? 我々が呼び出す召喚獣というのは、基本的には後者の性格を持つ者達だ。
奴らは主に取り入り、時として支配しようとする。甘美な魔力を味わおうとする者も居れば、
主をこの世界へ来るための道具として利用しようと、様々な方法で自分達が主導権を握ろうとする者も居る。
そしてまた功名心も旺盛だ。主の力を我が物とし、強い召喚獣になろうと画策する者も居る。
良いか、決して召喚獣に心を許すな。召喚士がしなければならないのは、召喚獣との信頼関係を築く事ではない。
如何にして主導権を握り、隙を見せず。生かさず殺さず縛り付けておくか。それだけだ」
「そんな」
「……捕らえたぞ」
 伸びていた茨の動きが止まり、何かを掴んだのか、今度はダフレイが腕を引くと茨は凄まじい勢いで
掌へ戻り消えてゆく。何かを引き摺り出そうとしている様だ。
 やがて、聞き慣れぬ声が聞こえてくる。それは渦の中から、雄叫びの様に響いてくる。
「うおぉぉぉぉっっ!!」
 勢い良く、黒い茨に纏わりつかれた巨体が渦から飛び出してくる。思わずリーマは悲鳴を上げて身を引いた。
「さあリーマ、待たせたな。紹介しよう。こいつが私の召喚獣の一つ。ジースホーン種のバルゼリオだ」
「あ、えっと……」
 渦の中から現れた巨体は、茨に巻きつかれながら、もがいている。そのせいで、立ち上がる事も出来ない様だった。
 その隣でにこにこと笑いながらダフレイは佇んでいる。その二人を何度も見比べて、リーマは泣きそうになる。
「ダフレイ様。なんだか、苦しそうです」
「活きが良いだろう?」
「息が出来ていないのでは……」
「構わん。私の呼びかけが聞こえぬはずはない。だのに、出てこなかった罰だ」
「いや、でも」
 よくよく覗き込んでみると、その顔は牛のそれである。牛人の召喚獣の様だった。
 赤銅色の皮膚に身につけているのは腰布だけであり、今は茨に首を絞められているのか、目を見開き
必死の形相で茨を取り払おうともがいている。リーマはもう一度ダフレイを見上げた。ダフレイはダフレイで、
それを愉快そうに見つめている。恐らくこの男は、本質的に相手をいたぶるのが好きなのだろうと、
先祖に対して無礼な事だと知りつつもリーマは考える。
「そんな顔をするんじゃあないよ。なあに、こちら側に出るのと同時に、こいつらはもう不死と同じ事。
私の魔力によってその身体は構築され、首を刎ねようが腕が千切れようが、魔力がある限りいつでも元に戻せる。
このぐらいの仕置きはなんとも無いから、お前も気に入らない事があったら、好きなだけ痛めつけてやりなさい。
お前も行く行くはこの茨の様な、召喚獣を拘束する魔法を覚えるのだぞ。私のオススメだ。ぜひとも覚えなさい」
「で、でも。可哀想です……そろそろ」
「ふむ。仕方ないな」
 白虎が拳を握り締めると、その掌の中にあった黒い塊が握り潰され、四散する。恐らくはそれが
茨の魔法の源だったのだろう。それと同時に、牛人を縛る茨も綺麗に消え去った。開放された牛人はしばらく
のたうち回りながら、激しく咳き込みを続けている。相変わらず、ダフレイは愉快そうにそれを見つめているだけで、仕方なくリーマはそっと歩み寄った。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫か……だとぉ!? てめぇ、そんな風に見えるのかよ!」
 呼吸を荒らげた牛人が、勢い行く飛び起きると怒りを露にリーマの両肩を激しく揺さぶる。そんな事をされても、
やったのはダフレイなのだから、リーマは途方に暮れて悲鳴を上げる他なかった。
「止めろ、バルゼ。貴様、私の呼び掛けにも関わらず無視した挙句、その態度はなんだ」
 ダフレイの声が暗闇に響くと、バルゼリオという召喚獣はぴたりと動きを止める。
 ダフレイを見つめたその瞳は見開かれ、身体を震わせていた。
「り、リーマ……? お前、どうして。死んだはずじゃ……」
「ああ、死んださ。しかし私の声が聞こえないとは、耄碌したか? それと、ここにはもう一人リーマが居る。
すまないが、私の事はダフレイと呼んでおくれ」
「違ぇよ……今更、お前からの呼び出しがあるだなんて、俺ぁちっとも」
 偉丈夫のバルゼリオが立ち上がる。そうすると、背の高いダフレイよりも、頭一つ分高くなる。
 その姿だけで、常人ならざる者だという事はすぐにわかるだろう。内包する魔力以外では、
召喚獣というのは、一見して人と大きく変わらない者も多いとリーマは聞いていたが、目の前に居る
バルゼリオはそれには当て嵌まらぬ様だった。ダフレイと並んで立っていると、それだけで絵になる様な二人である。
「久しいな。ああ、こうして貴様を見るのは、いつ以来だろうか? 我が身が朽ち果て、貴様らはさぞ安堵しただろうな。
私の呪縛から逃れられたのだから、悪い気ではなかったのだろう?」
「何言ってやがる。全員がそうだとは言わねぇが、悲しむ奴だって当然居たんだぞ。勿論、俺だって。
……ダフレイ。お前、そんな身体で召喚なんて、よくやってのけたな」
「初めて貴様を呼び出した時、私は十をいくつか過ぎた程度の子供で、今よりも力は弱かっただろうが。
まあ、今はいい。本題に入る。こうして私がここに居るのだから、お前も大体の見当は付いているだろう?」」
 十をいくつか過ぎた頃と聞いて、丁度、今の自分と同じぐらいだろうかと、リーマは考える。やはり、
自分とダフレイでは、持って生まれた物が違うのだろうか。
「お前がそうして魂だけを残したのは、終わり滝の監視のためだったな」
「そうだ。そして今、私が終わり滝を離れる用事が出来てしまった。貴様には、
これからここに居る子供……。リーマを主と仰いで、従ってくれ」
 主の言葉に、バルゼリオは瞳を光らせてこちらを見遣る。爛々と輝くその瞳には、自らの主に足り得る
物をリーマが持っているのかと訝り、それを推し量ろうとする考えが混じっていた。リーマはその視線を
正面から受け止めはしたものの、居た堪れなくなり、僅かに頭を下げる。
「おい。冗談キツいぜダフレイ」
「そう言うな。これでも私の血を受け継ぐ者だ。いずれは芽が出るかも知れん。
それにお前にも私にも、選択の余地は無い。身体を失った今の私は、魔力を作り出す事が出来ない。
従って終わり滝やここの様な魔力の集まる場所でしか満足な行動も出来ん。
魔力さえあれば、生前と然程変わらぬがな。いずれにしろ、私の時代はもう終わった。これからは若い者の時代さ」
「急に年寄り振りやがって。生きてた頃は、年寄り扱いされてぶち切れてた癖によ」
 呆れながら、しかしバルゼリオの表情はどこか清清しい。散々な扱いを受けていても、やはり主との
対話がこの男には掛け替えの無い物なのだろう。その主に今度は自分がなるのだと、今更の様にリーマはそれを受け止める。
「さて、リーマ。お前にはこのバルゼリオをくれてやる訳だが……残念だが、本当の主従関係になるという訳ではない。
それは私とバルゼリオの間に契約が結ばれており、そして私がこうして肉体を失ったとはいえ、魂としてこの世に存在する以上、
その契約が破棄された事にはならないからだ。だが今のお前にはそれでも充分だろう。こちらとあちらの扉すら
上手く開く事が出来ないのだからな。しかしいずれは、自分の力で扉を開け、そして契約をしろ。
かつて召喚士と呼ばれた者達は、それを当たり前にしてきたものだ」
「はい、ダフレイ様」
「では、今日の話はこれで終わりだ。長旅で疲れただろう。今日ぐらいは、ゆっくり休め。
本格的な指導は明日からとする。私はここに居るから、いつでも来るといい」
「ありがとうございました。ダフレイ様、バルゼリオ様」
「バルゼは呼び捨てでいい。もうお前の手駒なのだからな」
「……癪だが、仕方ねえな。よろしく頼むぜ。新しいご主人様よ」
「はい、バルゼリオ」
 深々と頭を下げて、部屋から退出する。外に出ると、建物の傍に立つ大樹へと目を向ける。
 陽はまだ高く。木漏れ日が時折瞳に注ぎ、暗闇から出てきたばかりのリーマを眩ませる。夢から覚める様に、
急速に意識が現実へと引き戻される。その頃になって、小さな虎人の少年は、胸の中に渦巻く感動に身を震わせ、
今まで忘れきっていたかの様に喜びを噛み締め、思わず笑顔のまま少しだけ泣いた。今の時代、神童と称された
者でもなければ、召喚獣を従える事など、夢のまた夢。祖父や父、延いてはセロス家の者達が誰一人として果たせずに、
ただ老いてはやがて夢を手放し、しかし手放しながらも諦めきれぬそれを子供へと託し続けてきた。儚い夢だった。
 その夢に、自分は今手を掛けている。召術士の家柄。どれだけの間そう言われ、そしてどれだけの間、
その言葉を自分達は裏切り続けてきたのか。リーマはその心中を誰にも明かす事はなかった。例え、
これから師事するダフレイ当人にも、これから先決して打ち明ける事はないだろう。
 家へと続く短い道のりを行く間、それを何度も反芻しては、今がどうか夢では終わらぬ様にとリーマは祈り続けた。
 父や祖父に話もしたかった。終わり滝へダフレイの霊が出るという噂の真偽を確かめるために家を出たはずの
報告も、ダフレイ直々の指導という展開になったために、帰宅の挨拶もそこそこに保留にしていたのだ。
 振り返り、ダフレイが残っているであろう魔法陣の安置された建物を見つめる。ここに居ても、ダフレイの類い稀な
力は感じている。どの道、家の者達もそれには気づいているだろう。
 焦らず、しかし決して驕る事なく進もうと決めた。道はダフレイが示してくれた。後は、自分の才と努力次第である。

 腕を組みながら、退屈を持て余してダフレイは欠伸を掻いた。
 目の前では必死の形相のリーマが、両手を伸ばして壁に歪みを作り出そうとしている。
「魔力の量が偏っているぞ、リーマ。両腕を使わないと扉を開けないのはわかるが、
それでは安定しない。均等に力を入れるか、もしくは私の様に片腕で開ける様にしろ」
「はい、すみません」
「ただの魔法ならそれで良いかも知れんが、我々は召喚獣のために道を作らねばならん。
そんな不安定な道、精霊ですら通るのを拒否するぞ」
 溜め息を吐きながら、ダフレイはリーマの修行を見守っていた。こうして修行を始めて、
既に七日は経過しただろうか。結論から言えば、リーマはまだまだひよっこだった。魔法に関しての才は、
悪くはない。聖法などは充分に扱える。十代でこれなら、素質としては、悪くはない。
 しかしそれが召喚となると、話は別である。魔導全般に言える事ではあるが、ただ力が強いだけで
どうにかなるのは、初めだけである。特に邪法と召喚は、或いは呪いの類は、高みを目指せば自ずと魔法を操る技術も要求されてくる。
 それ故に、召喚を得意とする者は同時に邪法の扱いにも優れた素質を示す事が多かった。ダフレイ自身も、それは同じである。
 しかしリーマの適正は邪法よりは、聖法だった。細かく魔力を操作するというよりは、惜しみなく与える方に傾いている。
 こればかりは天性の物であり、ダフレイの指導をもってしても、一朝一夕でどうなるという訳ではなかった。とにかく、根気である。
「おーい、そろそろ開けそうか?」
 歪ながらも開かれた扉の向こうから、ダフレイと同じく退屈そうなバルゼリオの声が聞こえる。
 ダフレイが最初にリーマに出した課題は、扉を開き、そこから自分の力でバルゼリオを出す事である。
 これだけであっても、ダフレイは相当譲歩した。本来ならば扉を自力で開け、更にその先に自らの魔力を送り、
それに呼応した召喚獣を呼び出すか、もしくはこちら側の魔力の集まる場所に遊びに来る様な、
酔狂ながらも力を持った召喚獣と対話をするかである。いずれにしろ、今リーマのしている事より数段辛い事だ。
 この程度の事を自分でこなせなければ、やはり諦めて精霊を使うだけの、名ばかりの召術士になれと言うしかなかった。
「それにしても、召術士か……。確かにこれでは、召喚士などとは名乗れぬな」
 扉が開かれて、そこからバルゼリオが現れる。結果は、失敗である。失敗と見て、バルゼリオの方から
扉を開いたのだった。リーマは膝を着くと、汗に塗れた額を拭い、項垂れている。サマザルへ来た次の日から、
ずっとこの繰り返しである。現れたバルゼリオは、なんとも言えない表情でこちらを見ていた。
「うむ、扉は相変わらず上手く開けられないみたいだが、しかし魔力の量自体は悪くはない。
こればかりは根気良くやるしかないな。しばらく休憩だ、リーマ」
「すみません、ダフレイ様」
「気にするな。お前にまったく才が無いという訳ではないのだ、リーマよ。
昔ならばお前の腕であっても、扉を開く事は充分に出来た。ただ、今は事情が違うのだ。
大きな力が動いた。その影響で、こちらとあちらを繋ぐ事が困難となり、
それ故に、召喚が行えなくなった者を私は大勢見てきた。もう、千年前の事だがな。
今日において召術士が減ったのもその影響だろう。こればかりは、乗り越えてくれとしか言えぬ」
「大丈夫です。僕、頑張ります。あと少しだと思うんです」
「うむ。段々と両腕の魔力も揃ってきた事だしな。初めの頃よりは大分良い。
杖を使えばもう開く事も出来るかも知れん。しかしまずは、何も持たず開けられるくらいの技量を持て。
さて、せっかくの休憩だ。少し召喚獣についてでも話をしようか」
 その言葉でリーマの表情が明るくなるのを見て、ダフレイは苦笑した。召術士の家系。その言葉に縛られている様に
ダフレイには見えたが、それでもリーマは根っからの召喚獣好きの様だ。それが、いつか見た者の姿と重なる。ダフレイの嫌いな召喚士だった。
「リーマ、召喚獣との契約については、以前お前に話したな。
契約というのは、召喚獣をより呼び出しやすくし、また魔力の供給も円滑にする効果もある。
お前の作りかけの扉をバルゼリオが開いているのはわかっているな。呼び出しやすくなるというのは、そういう事だ。
未契約の状態ではある程度まで扉を開かなくてはならないが、契約をすれば、召喚獣の側からもお前の方へ向かおうと
する分、楽に扉が開けられる。そういう意味ではバルゼリオではなく、誰とも契約をしていない
召喚獣の方がお前には合っているのかも知れないが……。どうせ、呼び出したら呼び出したで
力を維持するために相当な魔力が必要だ。今の内に慣れておけ。さて、契約についてだが、
これは至極単純なものだ。お互いの魔力を交換するだけで良い。要は互いに刻む目印だと思ってくれ。しかし
契約にも問題がある。というのは、するのは簡単なのだが、破棄するのはとてつもなく難しいのだ。それを、
肝に銘じておけ。お前にいきなり契約をさせなかったのは、そういう意図もあったからだ」
「でも、契約自体はいつかしなくてはならない事なんですよね?」
「そうだな。私も生涯で十体を超える契約を結んだ。お前も見込みのありそうな奴がいたら、してみるといい。
召喚獣は一人としか契約は出来ないから、早い者勝ちでもあるしな。もっとも、この時代では
そういう事で問題が起こる事もあまりないだろう。なんせ、召喚獣を呼び出せる者が少ない。
それ故に昔とは違い、他人に取られる心配はあまりしなくていい上に、こちら側に興味のある召喚獣は選び放題な訳だ。
しかし、だからこそ召喚獣の選定は慎重に事を運ばねばならない。召喚獣との契約はな、した直後ならば比較的すぐに
破棄する事が出来る。しかし時間が経てば経つ程、互いが互いを知り、交わる程に破棄するのは難しくなってゆくのだ。
それは預かりうけた魔力が身体の中に納まり、そして執着と結びつく事に起因する。
召喚獣と触れ合い、互いが互いを知れば知るほどに繋がりは強くなり、また契約の効果も高まるのだ」
 長々とした言葉に、理解はしている様だが、それでもリーマは訝る様に首を傾げていた。ダフレイは少し苦笑してみせる。
「えっと……では、仲良くなればなるほど、契約の効果は強くなるけれど、その分破棄も難しくなるって事ですか?」
「正解だ。だがそれは、答えの一部でしかない。良いか、執着とは、何も友好的な感情だけを指すのではない。
他者へと抱く感情、その全てが執着へと繋がってゆく。それは時には愛情であり、友情であり。そしてまた、憎悪であり、畏怖でもある。
無関心の対となるもの。それが、相手に対する執着心だ。召喚獣に、自分を強烈に印象付ける。
契約を成した後主となった者がするべき事は、まずそれになるな」
「愛情でもいいし、憎悪でもいい……」
「そうだ。つまり私がバルゼを呼び出す度に酷い事をしている様にお前には見えるだろうが、
実は理に適った行動でもあるという事だ。私が痛めつける度にこいつは私を憎むだろう。
しかし憎むが故に、我々の交わした契約はその力を増し、我々の力になるのだ。なんとも面白いだろう?」
 バルゼリオをダフレイは手招きする。その身体が僅かに震えるのを見て、快感が身体中を走り抜ける。
 のそのそと巨体を動かし、緊張した面持ちでバルゼリオはやってくる。腰布だけを纏った、ともすれば、奴隷と見紛う体で。
「でも、ダフレイ様……それでは、召喚獣が可哀想です」
「ほう。そう思うか?」
「だって、別に暴力に訴えなくても、今ダフレイ様が言ってくれた様に……愛情や、友情によって
契約の力を強める事が出来るんですよね? だったら、そうすれば」
「それが、そう簡単ではないのだよ。育った場所も違えば、文化も違う。そんな相手と契約したからと言って、
今日明日で簡単に愛や友情を育む事が、お前には簡単に出来る事だと思うか? それどころか、下手をすれば、言葉が通じない奴も居るのだぞ。
しかも召喚獣の目的は、我々の世界への探究心、或いは功名心、或いは我々の魔力そのものだ。
ついでに言えば召喚獣だって、下手を打ってつまらん主と契約して、しかもそれが使えない主だと知り、憎んでも見ろ。
その瞬間契約の効果が強まり、簡単に破棄出来なくなってしまう。召喚獣は召喚獣で、
主といつでも契約を破棄出来る様に、心を閉ざしたり、無関心を装う事だって多いのさ。
心を開かぬ相手に心を開いてみせたところで、おいそれと愛や友情が芽生えるとは、私は思わんな」
「それは、そうかも知れませんが。でも」
「見てみろ、リーマ」
 妖しい笑みを浮かべて、ダフレイは緩慢に手を伸ばし、隣に居るバルゼリオの顎を掴んでこちらへと向かせる。
 目を見開いたバルゼリオがダフレイに視線を向け、そしてまた震える。息を呑んで喉を鳴らす。指先でそっと喉を伝うと、その身体は大きく戦慄いた。
「どうだ。こいつの恐怖に慄く顔は。恐怖とは、出会いがしらの相手に一番楽に植え付ける事の出来る感情だ。
愛情。友情。大いに結構! だが、そんな関係を悠長に築く間に、畏怖や憎悪はあっという間に相手を支配してしまう。
私を避けたり、私から逃げる事あたわず。ああ、なんと惨めな召喚獣なのだろうな。まるで、奴隷ではないか。
見えない枷に縛られて、さぞや私が憎いだろうさ。そう思えば思う程、また自らを強く縛る事を理解しているのに。
憎まずには、居られない。恐れずにも、居られない。ああ、最高だ。私は召喚獣は愛していないが、この関係を、愛しているよ。リーマ」
 囁く様にダフレイは言葉を紡ぐ。リーマの名を口にしてはいるが、しかしその言葉の矛先は、目の前のバルゼリオである。
 毒を染み込ませる様に、言葉をその心へ浸潤させる。バルゼリオはいつの間にか息を荒らげ、瞳を細めている。
 狂っていた。自分が狂っているのを、ダフレイは充分に理解していた。
 リーマもそれは見てわかるだろう。しかし否定は出来ないはずだ。この小さな召術士の卵には、欲望がある。召術士に
なりたい。召喚獣を使役したい。ダフレイには、容易く見通す事が出来た。自分の前で、嘘を吐いても無駄である。自分はただ、
その欲望を穿り出してやればいい。欲望に忠実になれない奴に、何が出来るとも思えない。
「他の方法でもいいはずです! 愛情や、友情であっても……。それに、そんな遣り方では、いつか寝首を掻かれます」
 幼い叫び。助けを請う様なその表情。ダフレイは、束の間目の前に居るリーマをとても不憫に思った。自分の様な卑しい者の
子孫でなければ、きっとこんな欲望を抱かずに生きていられただろう。誠実なその性格。まだ幼く、健やかに育てば精悍な
青年にきっと育つ。好青年になったリーマは、きっと誰からも愛されるだろう。憎まれ、蔑まれた白虎である自分とは違う。輝かしい
人生を歩んでくれるはずだ。召喚士にさえ、憧れなければ。
 だからダフレイは、口を開く。召喚士の全てを告げてやる。恐れるならば、引き返せ。足を止められぬと
言うのならば、さっさとここまで堕ちてこい。相反する願いを込めて、ただ道を示す。
「良い所に気づいたな、リーマ。実は、契約を強引に破棄する方法が、それだ。
執着し合い、絡み合った魂の契約は、もはやどうする事も出来ない。それこそ、都合良く記憶を消さぬ限り、執着は消えない。
契約を破棄せずに逃げる事は出来ぬ。私がバルゼを強引に呼び出したのを、お前も見ただろう?
だから、切羽詰った召喚獣は主を殺そうとする。命でも、心でも。或いは、自らの寿命の長さから主が死ぬのを待望する。
お前の言う通り、一歩間違えれば、破滅が待っているだろう。しかし、愛情は、いつか枯れるぞ。リーマ。
枯れずとも、人数が増えれば、一人に注がれる愛は減ってゆく。一度愛された者は、それを我慢する事が出来ない。その時
愛情は憎悪へと転ずるし、やはり寝首を掻かれるだろうな。たった一人を選ぶというのなら、それも良い。しかしそれでは、真の高みへは
届かない。召喚士としての半端者へ堕ちる。そして、私利私欲の入り混じる環境で異種族との友情を育むには、時間が掛かりすぎる。愛憎に
塗れる事も、畏怖を抱かせる事も禁じては、お前は何も掴む事が出来ない。今のお前は私の言葉には否定的だろう。しかしそれでも
私がこうして口にするのは、召喚士に憧れを抱く者が、避けては通れぬ道だからだ。いつかお前は、私の言葉の正しさを思い知るだろう」
「では……では、どうすればいいんですか!」
 耐え切れなくなって、リーマが叫んだ。涙が零れ落ちる。
 ああ、あと少し。あと一押しで、崩れる。ダフレイは堪えきれず哄笑した。
 そうでもしないと、このまま絶頂にでも達してしまいそうだった。
 リーマの胸の内に迷いがある。それを崩してやればいい。そうすれば、きっとこのあどけない子供は、こちら側へと落ちてくる。
「簡単な事だリーマ。こうすればいい」
 そう言うや否や、ダフレイはバルゼリオの顔を自分に向かせる。そしてそのまま、自らの唇と合わせた。
 突然の事にリーマだけではなく、バルゼリオも驚愕の表情をする。しかしすぐに、その瞳は魅せられた者の
それへと変ずる。光を無くし、されるがままへ。白い指先を、妖しくバルゼリオの肌へ這わせ、ダフレイは口を離す。
 この時ばかりは、自分が白虎に生まれた事をダフレイは感謝していた。こうして召喚獣を篭絡させるのに、
白虎という存在は欠かせなかった。普通とは違う。それは嘲笑の対象になる事もあれば、こうして情欲の対象になる事もあるのだ。
 そしてダフレイは、自らの容姿を。白虎という存在そのものを十二分に利用していた。
「飴と鞭。奴隷を躾ける時の常套手段だ。殺したい程憎ませるなら、死ぬまで犯してやりたいとも思わせろ。
愛するなら、喪失感を先に覚えさせてやれ。主を失えば、お前には何も残る物など無いのだと、しっかりと教育してやる事だ。
それだけで、もはやこいつらはただの手駒になる。主無しには生きられない。生きながら、こいつらは死んでゆく」
「ダフレイ……」
 巨体の牛人が身を屈める。ダフレイは満面の笑顔でそれを迎え入れた。バルゼリオへ触れる指先には、
僅かな光を灯す。それが触れる度、淫靡な呻きがバルゼリオから上がる。圧倒的な征服欲が、満たされてゆく。
「お前にこうしてやるのは久しぶりだな、バルゼ。どうだ。気持ちいいか?」
「ああっ、ダフレイっ!」
 唇を合わせ、激しく舌を絡ませる。ダフレイは窮屈そうに唇を離すと、吐息を胸へと吐き掛ける。
 恍惚の表情で、バルゼリオが叫ぶ。リーマに初めて会わせた時とは、別人である。もはや目の前に居るのは、哀れで
浅ましい、ただの獣だった。
「私が死んだ時、どんな気分だった? もうこうされる事もないと、絶望したか?
私が憎いだろう、バルゼ。千年経ってもお前を束縛し続ける私が。だが私はお前を解放する気はない。
お前が死ぬまで縛り続けてやる。あと何百年? それとも、何千年? 召喚獣の寿命は個体差が激しいからな。
嬉しいか? ……そうか、嬉しいか。そうだろう。私に触れたいか? この白虎の肉体。どこを探しても、
おいそれとは見つかるまい。ただの白虎ならまだしも、召喚士の力を持った白虎など、私以外は存在せぬのだからな。
身体も魔力も、お前好み。堪らないだろう? さあ、今は私の子孫へ、力を貸しておくれ。私の愛しいバルゼ。
そうすれば、私はいつか、お前の気持ちに応えてやれる。戯れに、気が向いた時にでもな。
ああ、やはりお前は良いな。最初に来てくれなかった時、本当は私がどんなに不安だったのか、
お前は知らないだろうな。……そんなに申し訳なさそうな顔をしてくれるな。さあ、顔を上げろ。私に、忠誠を示せ」
 全てを終えると、口元を拭ってダフレイは振り返った。隣に居るバルゼリオは跪き、ただ命令を待っている。リーマはただ、
瞼を限界まで開いて、自分達の痴態を見つめていた。それに向けて、ダフレイは飛び切りの嫌らしい笑みを見せ付ける。
「以上で私の話は終わりだ。……なんだ、そんなに呆けた顔をしおって。ただの挨拶代わりだぞ、これは」
「え……あ、はい……」
「まあ、これは私のやり方だ。そしてお前にはお前のやり方がある。道は一つではないからな。
私が召喚獣を貸している間に、自分がどういう風に召喚獣を手懐けるか決めておけ。
召喚獣によってやり方を変えるのもいいぞ。人付き合いと、そこは同じだな。大分手を変え品を変えるが」
「あ、ありがとう、ございました」
 それだけ言うと、リーマは気分が優れないと言い、部屋から出てゆく。
 残されたダフレイは、未だ高揚したまま元に戻らないバルゼリオを蹴りつけた。
「いつまでそうしている。貴様」
「あ……あ、ああ。ダフレイ……リーマは、お前の子孫なんだろう? なんだって、こんな事まで見せるんだ。
いきなり、こんな……早すぎるだろ?」
 その言葉に、途端にダフレイは不機嫌になる。睨みつけると、バルゼリオはすっかり萎縮してしまっていた。 
 いつもはもう少し気骨のある召喚獣だが、流石に骨抜きにした直後では、逆らう様子は微塵も見せない。
「お前まで、まだそんな事を言うのか。私が初めてお前を呼んだのは、あれよりも更にいくつか幼かったではないか。
そしてお前は私を見て、邪な想いを抱いた。お前が私にこのやり方を教えたも同然だというのに、何を綺麗な顔をしている。不愉快な。
それに、この程度で根を上げる様では、あいつもその程度という事だ。所詮、凡人は、凡人にしかなれぬ」
「お前の台詞とは思えねぇな。自分の子供が産まれたのを見て、涙を流していたお前の台詞とは」
「私が子供を見て泣いたのは、無事に産まれたからではない。白虎ではなかったからさ。……時に、バルゼ。知っているか。
今の世では、白虎は幸運の証と言われているのだそうだ。なんとも皮肉な話ではないか」
「ダフレイ」
「災厄を呼ぶ者。あの頃の白虎は、そう言われていたというのにな。だが、白虎を取り巻く環境は、然程変わった様にも見えなかった。
白虎の修道士と、その事情はもう話したな? 彼奴もまた、金になるからと人に追われる身。結局、白虎は己が運命からは逃れられぬのだな」
 若かりし頃のダフレイは差別により、そして今を生きるガルジアは、金に目が眩んだ者に悩まされ続けていた。
 誰一人として信用出来ない。幼く、天涯孤独の少年だったダフレイが求めたのは、価値観の異なる異世界の住人だった。
 そして開いた扉の先から現れた、ジースホーンのバルゼリオ。初めて自分が呼び寄せ、そして契約をした相手である。
「今の世は、私には何もかもが皮肉に見えるよ、バルゼ。人を避け荒地の奥に定めたこの土地も、今はサマザルという名の村になり、
私を慕った召術士の集まる村だというではないか。私がどれだけの功績を立てても、白虎だからと認められず、
仕舞いには染毛で全身を染め、名を偽り、ただの虎人になり潜んでいたというのに。
……初めてお前を呼び出した時、私は、私を追う者達をお前に消させたな。皆、私が不幸を招いたと呪詛を呟いて死んでいった。
馬鹿な奴らだ。自分から不幸に飛び込んできた癖に。それが今は、幸運の証だ、などと」
「ダフレイ……」
 ゆっくりと、バルゼリオの腕がダフレイを包む。目を閉じ、身を預け、ダフレイは異界の温もりに触れた。酷く懐かしい。しかし慣れきった物だ。
「もう、いいじゃねえか、ダフレイ。お前は充分にやっただろ?
どうして身体を失ってまで、ネモラの召導書を……ヨルゼアなんぞを追いかける?
お前の役目は、終わり滝を最後に、全て済んだじゃねぇか。皆、お前を失って泣いていたんだぞ。
呼びかけに応じない奴が多いのは、お前を失って悲しみ、けれどお前がようやく救われたんだからって、未練を失くしたからだ」
 胸に込み上げる思いに、ダフレイの目からは涙が流れた。どれだけ邪険に扱っても、こうして手元に残るものがあった。
「わかっている。しかし私は、ここで終わる訳には行かぬのだ。本当なら、死ぬまでにどうにかしなくてはならなかった。
私が贖罪を終えるよりも先に、私に寿命が来てしまった。だから私は、まだ終わる訳にはゆかぬ。手段も選ばぬ。
そのためならばリーマだって利用してやる。あれが私を蔑もうが、些細な問題だ。役目を果たせなかった
私の代わりをしてくれれば、それで良い。私は死ぬ事で、裏切ってしまった。お前達を、白虎であった私を
信じてくれたネモラを。そして、私の言葉に耳を傾けてくれていた、ヨルゼアでさえも」
 無念の内に倒れて、相当な時が流れた。あまりにも、遅かった。しかしまだ、間に合うはずだ。
 召術士の家系と言われるセロス家。しかしダフレイの子孫は、悉くダフレイの意志を受け継ぐ器ではなかった。
 それはリーマとて例外ではない。しかしもう、悠長にしていられなかった。ネモラの召導書の存在を知り、敵の思惑にも検討が付いている。
 ダフレイは今、この機会に賭けていた。下手を打てば、肉体を失った自分は今度こそ消滅し、全てが水泡へと帰す。
 しかしこれはまたとない好機でもあるのだ。上手く行けば、ネモラの召導書を手にし、二度と人目に触れさせぬ事も出来る、
少なくとも召導書を元凶とする災厄は幕を閉じるだろう。
 だからこそ、リーマには辛くも当たったのだった。ここでリーマには、死地に赴いてもらわねばならない。自分の子孫
というだけで、こんなにも理不尽な仕打ちを受けさせなければならないのだ。

 翌日、いつもよりも大分遅れてリーマが姿を現した。もう来ないかも知れない。ダフレイはそう思っていた。 
 しかしそれもまたリーマが選んだ道なのである。扉が開かれリーマが顔を出した時、ダフレイは淡々と、昨日までと同じ事を口にした。
「ガルジア達は、今はどこに居るかな」
 休憩になると、世間話をする。必要な事は既に教え終わっていた。ダフレイの目的もネモラの召導書、延いては
その先にある物だという事も、リーマは心得ている。全てを語った訳ではないが。
 リーマ自身もまた、世話をしてくれたガルジアとクロムに恩返しをしたいと思ってくれているのは、ダフレイには好都合だった。
「終わり滝からヘラーの街。そしてサーモスト修道院ですから、まだ時間は掛かると思います。
サマザルの村へ戻ってくるよりも、ほとんど二倍近い道のりで、ガルジアさん達は馬車のお世話になるのは避けると思うので」
「難儀なものだな。せっかく災いの種と見られなくなったというのに、人目を避けねばならぬとは。
同行していたクロムという男は尋常ならざる者に見えたが、ガルジア自身からは、なんの力も感じなかったし、
あれでは苦労するだろうな」
「なあ、ダフレイ」
 バルゼリオが話に割り込んでくる。その表情は豪快なバルゼリオには珍しく、心配そうに顰められていた。
「その、ガルジアという奴は白虎なんだろう? まさか、召喚士の適正があるなんて事は」
「ありえんな。今言ったが、本当になんの力も感じなかった。あれは、どう見ても凡人だ。魔法の基礎すら扱えぬだろうな。
一層哀れなくらいだ。あの身の上では、私と同じく力が欲しいだろうに。何一つとして魔法が扱えない様な凡人ではな」
「言いすぎだろ、それ」
「事実だから仕方ない。温室育ちの修道士に、何が出来るものでもないだろう?」
「そりゃ、そうかも知れんが」
「ガルジアさんは、何も出来ない訳ではないですよ、ダフレイ様」
 今度はリーマが割り込んでくる。それに気を悪くするよりも、ダフレイはリーマの言葉に引っかかりを覚えた。
「何? 彼奴め、あんななよなよした体で、実は剣術や武道に精通しているのか?
もしくは相当頭が切れるのか。切れ者には、まったく見えなかったが」
「いえ、そうじゃなくて。ガルジアさんは、歌術士なので、魔法が使えなくても困らないんですよ」
「……歌術士? なんだ、それは?」
「え? 知らないんですか? ガルジアさんは詩を歌う、歌術士なんですよ」
 意外そうに驚いて、リーマが顔を跳ね上げる。その顔を見て、ダフレイは自分が無知を露呈したのを認識した。もっとも、自分は
千年も前の人物であるからして、知らぬ事があるのは当然なので、別段恥じ入る様子を見せる事もないのだが。
「おっ、ダフレイでも知らない事が……そうだよな。千年も引き篭もってたジジイじゃ、わからない事も流石に」
「バルゼ。貴様は後で茨に包んでやるから覚悟しておけ。リーマよ、歌術士とは、一体どういったものなのだ?私の時代には、
そんな者は居なかったが。ガルジアが修道士だという事を考えれば、大方聖歌隊にでも入っていて、詩が歌えるのだとは察しも付くが」
「そう、それなんですよ、ダフレイ様!」
 リーマが瞳をきらきらと輝かせる。その隣で茨の拘束を想像して悶絶しているバルゼリオは、とりあえず無視した。
「ガルジアさんは、詩を歌って精霊を呼び出す事が出来るんです!」
「精霊を? なんと、そんな芸当が……なるほどな。だから初めて会った時、詩を歌えと言い合っていたのか。
しかし、所詮は精霊ではないか。精霊なんぞ、召喚獣の劣化品でしかない。私の居た時代に歌術士が存在しないのも、道理というものだ。
精霊の使役など、召喚士にとっては児戯にも等しいものだ。今の召術士は、それが精一杯の様だが」
 所詮、精霊は精霊である。全ての面において、召喚獣より一回りも二回りも劣る存在だった。
 特に耐久性の無さはうんざりする程だ。元々こちら側に居るものだから、召喚獣の様に召喚士の魔力で構築したりする事も出来ない。
 散ってしまえば、再び集まるまでに時間が掛かる。知能も低く、複雑な命令も理解出来ない。
 過言ではなく、精霊とは劣等生の召喚士が仕方なく手を出す様な存在だった。
「そんな物に手を付けるとは。そしてそんな物に名が与えられようとは。本当に、召喚士の衰退とは恐ろしいものだな。
召術と、歌術。対になる呼び名から察するに、どうにか精霊だけでも使役出来ないものかと努力したのかも知れぬな。
なんと涙ぐましい。哀れな。はははは」
「そこまで言うなよ……」
「事実だから仕方ない。そうだとも。詩によって呼び出せるのが精霊だけとは……」
 口にして、ダフレイはふと言葉を途切れさせた。
「精霊だけ……? いや、それは……どうなんだ?」
「ダフレイ様?」
「どうかしたのか? ダフレイ」
「本当に呼び出せるのは精霊だけなのか? 精霊とは召喚獣の劣化品。こちら側とあちら側というだけの違いでは
あるが、能力には差がある……そう、たったそれだけの違いではないか。しかし、本当に、呼び出せるのは……精霊だけなのか?
そうだ。詩であちらへの扉は開けないだろう。だから……だから呼び出せる者も、精霊に限定されて……」
 そこまで口にして、ダフレイは勢い良く立ち上がった。
「まさか。そんな、馬鹿な話が。召術士ですらないではないか? それが」
「ダフレイ!」
 身体を揺さぶられ、正気に戻る。バルゼリオが不安げに自分を見つめていた。
「どうしたんだ、しっかりしろよ!」
「バルゼ……。私は。私は、とんでもない勘違いをしていたのかも知れない。そうだ。歌術士。ガルジアは、歌術士なのだ。
何故こんな事をあの時見抜けなかったのだ。私は……敵の狙いは、やはりガルジアだったのだ」
「どういう事なんですか? ダフレイ様……」
「リーマよ……。落ち着いて聞いておくれ。今から話すのは、私の推論だ。しかし、恐らくは」
 ぽつぽつと、リーマは考えを纏め上げ、それを即座に口から吐き出す。その話を聞く二人の表情が、やがて驚愕に包まれる。
 その日はそれで終わりだった。泣き叫ぶリーマを帰し、そして無言でリーマとバルゼリオは魔法陣の上に立ち尽くしていた。
 翌日。またもダフレイはリーマを待つ事になる。相変わらず、バルゼリオは自分を見つめて、浮かない顔をしている。
「どうするんだ、ダフレイ。リーマが来なかったら」
「その時は、仕方あるまい。この身が持つかはわからぬが、ここを出るしかないだろう」
「無茶だ。魔法陣から出て、お前の力が持つ訳が無い。俺が保障してやる」
「ならばどうするというのだ。このまま、黙って見過ごせというのか、ここまで来て」
「そんな事言ってねぇ!」
 激昂する二人がぶつかる。互いにこんな言い合いは無駄だと悟っている。しかし。今は他に出来る事もなかった。
「俺が行く」
「何……?」
 僅かに躊躇いを見せた後、バルゼリオが案を出す。
「お前は水晶球に戻れ。そして俺が行く。それで良いだろ?」
「馬鹿な。主の力も無い召喚獣が何を言う。それでは私が歩いてゆくのと何も変わらぬではないか。
それこそ召喚獣であるお前では……」
 言葉を途切れさせ、考えに至ったダフレイは、顔を跳ね上げてバルゼリオを見つめる。忠実な僕であるバルゼリオはにやりと笑ってみせた。
「召喚獣が駄目なら、召喚獣なんて止めちまえば良い。そうだろ?」
「バルゼ! 貴様、自分が何を言っているのか、わかっているのか!? それこそ無茶というものだ!
召喚獣の幻獣化など、上手く行くはずはない! よしんば成功しても、生身の召喚獣が世界を
超える事など許されぬ! ネモラの連れていた幻獣を、お前もいつか見ただろう!」
「他に手段が無いんだろう、ダフレイ! 手段は選ばねぇんじゃなかったのか!」
 気圧されている自分に、ダフレイは気づいた。自分の下僕である召喚獣に気圧されるなど、なんと無様か。
 しかしそんな事を気にしている余裕すら、ダフレイは失っていた。
「私は認めんぞ、これは私の不始末だ! 貴様如きが……口を出すな!」
「ダフレイ!」
 腕を掴まれる。痛みにダフレイは呻いた。
「俺を他人みてぇに言うんじゃねぇ! てめぇが餓鬼の頃から付いてきた俺が、今更関係ねぇだと!?」
「だが……。バルゼ。それは、駄目だ……止めてくれ、バルゼ……」
 痛みを訴える事も、ダフレイは既に出来なかった。力が入らなかった。自分が不甲斐無いばかりに、
バルゼリオに責任を押し付ける事など。それも、幻獣化させるなど、あってはならなかった。
「私は見たんだ、バルゼ。ネモラの連れていたあいつを。あれを見て、どうしてお前が幻獣になるのを良しと出来る?
あれはもはや、人形だ。世界を超え、その証を身に刻み、刻まれた痛みで、どうにかなってしまっていた。
身体の傷なら、私はいくらでも治してやれる。召喚獣の時は勿論、例え幻獣になり、こちら側の者になったとしても。
しかし、壊された心はもはやどうにもならぬ。どんな聖法も効き目はなく、そして砕かれた心には執着心も残らぬ。
そうなれば、お前と私の接点は無くなってしまうではないか、バルゼ。私は、そんな事、認められぬ」
「他に道はねえんだよ、ダフレイ……一か八か、だ。お前が死んだ時、俺も死んだんだ。今更、恐れるな、ダフレイ。
それとも、契約が無ければ、俺達の繋がりも無かった事になっちまうのか?」
「……嫌だ。私は、反対だ。貴様がその手を取るというのならば、今ここで貴様の力、私が全て奪い取ってやる」
「ダフレイ!」
 問題無用でダフレイが手を掲げた時だった。重苦しい扉が開かれる。二人揃って、口を開けたままそちらへと視線を移した。
 入り口に立っていたのは、リーマだった。充血した瞳。今もまた、零れ落ちる涙。しかし宿す光は、確かに決意の光を
孕み、決して逸らす事なくダフレイへと向けられていた。
「リーマ、お前」
「行きましょう、ダフレイ様」
 つかつかと歩み寄り、リーマが決意を告白する。
「リーマよ。……決断をしたのか」
「いえ、そうではありません。僕は、ダフレイ様の考えには反対です。でも、このまま黙って見ている事も出来ません。
行って、僕自身の目で何が出来るのかを見極めます。ダフレイ様も、そうしてください。そして、本懐は最後の最後まで、実行に移さずに。
ダフレイ様だって、本当は嫌なのは、僕だってわかってますから」
 腕を下ろして、ダフレイはリーマを見つめた。その時になって、ようやくダフレイはリーマがまだあどけない子供
だという事を思い出した。そんなリーマに、身体を失った自分は、情けなくも今全てを託している。なんと、不甲斐ないものか。
「準備が出来たら、すぐにここを出ます。それで、良いですね」
「……ああ。すまないな」
「いえ」
 ほんの少しだけの笑みを浮かべて、リーマは走り出した。後に残された二人は、しばらく何も言葉を交わす事が出来なかった。
「ダフレイ、良いのか?」
「わからぬ……。これで良いのか。私の身一つで全てが済めば、それが最良だった。しかし私には、それが出来なかった。
なんと無様なのだろうな私は。白虎である事を蔑まれ、見返すために召喚士としての腕一つで成り上がり、全ての者を見下していたのに。
結局、何も成し遂げられず。それどころか、ただ召喚士に純粋な憧れを抱くリーマの想いまで穢し……本当に、最低だ」
「ダフレイ」
「わかっておる。今更感傷に浸ったりはしない。リーマが立ち上がってくれた。私は、私の出来る事をするさ」
「もしもの時は、俺の幻獣化についても考えておいてくれ」
「そんな事。私に相談するまでもないだろう、バルゼ。いよいよという時にお前が行動を起こしたら、私では止められぬ」
 不思議と、嫌な気分ではなかった。千年もの間止まっていた時間が、今、動き出した。
 白虎の姿が脳裏に思い浮かぶ。孤高なその姿。なんと美しく、哀れか。
「行くぞ、バルゼ。私はもう迷わぬ」
 掌を翳し、力を集める。そして、水晶球へとダフレイは姿を変えてゆく。
「待っていろ、ガルジア。今私が行く。
そして……そして、必ずお前を、この手で殺してやる」
 水晶球へ姿を変えたダフレイを、バルゼリオがそっと持ち上げる。あとは、リーマを待つだけだ。
 こうしてリーマの里帰りは、短い間に終わりを告げ、そして新たな旅立ちが始まった。

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