ヨコアナ
16.誰がために歌われる詩
遠くから、無数の音が耳へと届く。天から降り注いだ雨粒が、無残に大地へ叩きつけられる。
雨粒は手の甲にも掛かっていた。それが冷たいと、ガルジアは思わなかった。
いつの間に雨が降っていたのだろうか。そんな事を考えて、次第に意識は鮮明になってゆく。
雨粒が大地に染みる様に、現実がガルジアの頭の中へとはっきりと伝わる。
「私……」
全身に痛みが走る。大地に染みる雨粒の様に、痛みは身体に深く染み込んで、それと同時に、徐々に記憶がはっきりとしてくる。
クロムと共に、サーモストから逃げ出したのだ。そして、逃げ切れず、崖から落ちた。
夜半にサーモストを飛び出したはずなのに、空は既に白みはじめていた。もうすぐ、朝が来る。
腕を立てようとする。それだけで、激しい痛みを伴った。しかし、痛いだけだ。動けない訳ではない。
出血はほとんど見られず、ガルジアは身体を叱咤して起き上がる。
たったそれだけの所作で、一日歩ききった様に身体は疲労と休息を訴えていた。元より、疲労困憊の身だ。
「クロムさん……?」
辺りをガルジアは見渡す。少し離れた所に、自分と同じ様に大地に横たわる鬣犬の男を見つける。
ゆっくりと這い蹲ってガルジアは男の下へ向かう。痛みに悲鳴を上げ、涙が零れる。
降り出した雨に濡れている鬣犬に、そっと寄り添う。
「クロムさん、起きてください。クロムさん」
手を差し出した頃に、ようやくガルジアは気づいた。自分と同じ様で、少し違うクロムの様子に。
それに気づかなかったのは、クロムは修道院を抜け出す際に修道士を切り伏せ返り血を浴びていたからだった。
今は返り血ではない。クロムの身体から、血が流れ出し大地を赤く染めていた。
意識が明瞭になった。ガルジアは、その身体を抱き寄せた。
「クロムさんっ! しっかりしてください、クロムさん!!」
掌に、ぬめつく感触。手を放すと、ガルジアの泥に汚れた手も、赤く染まっていた。
不意に、ガルジアは身体を震わせる。どうしようもなく恐ろしくなり、がたがたと震えて、涙を流しはじめる。
「返事を、返事をしてくださいクロムさん。クロムさんは、死なないんですよね?」
鬣犬の男は何も返さなかった。穏やかな表情で、血に汚れていなければ、
身体を横たえているのが大地でなければ、安らかに眠っている様に見えただろう。
呼吸が荒くなる。息が詰まりそうで、このまま自分も眠ってしまいそうだった。
心臓が激しく鳴り、ついに、我慢出来なくなり声を押し殺して泣きはじめてしまう。
ここのところ、ずっと大泣きするのを我慢していた。リュウメイ達と別れ、ラライトを追われ。身一つになった自分を強く律しようとした努力は、
あまりにも呆気なく、崩れ去った。
「こんなの、酷い……あなたは、何もしていないのに。ただ彼らが手に掛け様としただけじゃないですか。
どうして、こんな事に……クロムさん……」
珠の様な涙を流し、しかし次第にそれを押し殺し。ガルジアは乱暴に涙を拭うと辺りを見渡した。
同じ様に落ちてきた落石の向こう、サーモストの山に小さく開いた洞穴を見つける。
身体を起こし、クロムを背負う。傍に落ちていたクロムの剣も取り上げた。激痛にどうかしてしまいそうだったが、堪えて詩を歌う。
途切れ途切れの情けない、聞くに堪えない詩だった。時折咳き込み、上手く歌えもしない。咳をする度に、喉の奥を鷲づかみにされた
様な感覚を覚えるし、肺からは更にはっきりとした痛みが発せられる。
それでもガルジアの声に招かれて精霊は現れた。ガルジアとクロムの身体を青い光が包み、痛みを和らげる。
一歩踏み出す度に呼吸を整え、着実に足を前に出し、ついにガルジアは洞穴へ足を運んだ。
外観通り大きな物ではなく、人が四、五人も入れば隙間も無くなりそうなその中で、ガルジアは強く息を荒らげた。岩肌に背を預け、クロムを抱き締める。
「こんなに血を流して……血が少ないなんて、嘘じゃないですか。あなたは、私と変わりありません。
……ごめんなさい。でも今は……あなたの身体が普通じゃない事を、信じます」
クロムの身体を抱き締めて、ガルジアは詩を続ける。庇いながら落ちてきたクロムの身体は全身が深く傷つき、
背中を強か打ったのか、その身体を覆っていた革鎧は深紅に染まり、ぼろぼろで今にも千切れてしまいそうだったし、肩当もどこかへ
吹っ飛んでしまった様だ。
ローブを赤く汚し、掌の汚れをガルジアは落とした。仰向けに寝かせて身を預けさせているクロムの汚れた頬を撫でて、
少しでも綺麗にしようとする。鬣も、梳いてやった。
「死なないでください。クロムさん。どうか、死なないで」
死を渇望している男が生き長らえる事を願うのは、男にとって辛い事なのだろうか。
ガルジアは考えながら、しかし詩を口ずさむ自分を止められない。
徐々に自分の身体から感じる痛みは引きはじめる。クロムが守ってくれたから、自分はこの程度の傷で済んだのだ。
雨音はまだ耳に届いていたが、ガルジアは外を見ようとはしなかった。
不思議な事だが、今は誰も自分達の所へは来ない様に感じた。
雨音と、白虎の口ずさむ詩が並ぶ。
柔らかな声音と雨の共演は、雨が根負けをするまで続いていた。
少しずつ、少しずつ。ガルジアの傷は塞がってゆく。詩の効果は決して大きくはないが、それでも
夜明け前から歌いはじめ、日が昇りきるまで歌った詩はそれなりの成果を上げていた。
あとは、クロムである。深い傷が多いだけに、充分な治療とはいえない。
それに、環境が悪かった。もっと清潔で、傷の手当が出来る場所の方が良かった。
しかし今は何一つとて無い、洞穴の中であった。頼りなげな自分の声音から紡がれる詩だけが、今出来る全てだった。
クロムの胸の辺りを優しく、赤ん坊をあやす様にガルジアは叩いてゆく。
そうしていると、不意にクロムの呻き声が聞こえて、はっとした。
「クロムさん!」
声を掛けると、瞼を開いて鬣犬の瞳が見えた。虚ろな瞳は何も映さず、遠くを見ている様だった。
クロムが腕を上げる。その手は虚空へと伸ばされ、時折握る様な動きをしている。
「ガルジア……」
「クロムさん、しっかりしてください」
「早く、早く。逃げるんだ、ガルジア」
「クロムさん」
その瞳が自分を見ていない事に気づき、ガルジアはその身体を痛まない様に抱き締めた。
手を伸ばし、クロムの腕を取ると、そっと下ろさせる。冷たい腕だった。手を離さずに、繋ぎ続けた。自分のぬくもりが、
少しでも伝われば良いと思った。
「私は、どこへも行きません。クロムさんを置いて、一人で逃げたりはしません。
だから、どうか。今は身体を休める事だけに集中してください。クロムさん。クロムさん」
諭す様に、その耳元でガルジアはささやく。
クロムは尚も何かを言おうとしていたが、その内に眠りに付く。
雨の止んだ洞穴の外をガルジアは見つめた。雲間から覗いた太陽が、大地を祝福している。
洞穴に隠れている自分達は、まるで蚊帳の外だとガルジアは思った。
この美しい街の中で、ただ理不尽に襲われ、こうしてくたびれている。そう思うだけで、また涙が零れた。
更に時が経ち、傷ではなく、姿勢のせいで身体が痛みはじめた頃だった。
再びクロムが身動ぎをし、その双眸がはっきりと開かれる。今度は、それを見つめているガルジアをはっきりと捉えていた。
堪え切れず、ガルジアはまた涙を流した。今度は、悲しいからではない。
「クロムさん。もう、大丈夫ですか?」
「……ああ。ガルジア、鞘を。それと、魔法に良い詩を」
腕を伸ばし、傍らに置いてあったクロムの剣を取る。それを手渡してから、ガルジアは囁く様に知識の詩を歌った。
身体が触れ合っているから、今は光を渡す事もしない。魔力を求めているクロムの元へ、ガルジアの呼び出した精霊の力が渡ってゆく。
クロムは鞘を眩く光らせた。その光を浴びて、途端にガルジアは気だるさから開放される。痛みは感じなくなっていたが、
詩を行使し続けていた事により疲労が蓄積していた様だった。
「すまないが、もう少しだけ待ってくれ。……迷惑を掛けたな」
「そんな事は。クロムさんが守ってくれたから、私は大怪我をする事もありませんでした。
私だけだったら、助かってすらいなかったでしょう。クロムさんが身を挺してくれたおかげです。
クロムさん……クロムさんは、死なないんですよね? 私、クロムさんが死んでしまうのではないかって、凄く心配で」
「ああ、大丈夫。死にはしないさ。ただ致命傷を負った時は、身体がそれを治そうと躍起になるから、ほとんど動けなくなってしまう。
瀕死に近い状態だな。それでも決して死なないのだから、恐ろしい身体だ」
「恐ろしい……そう、ですよね」
先程まで自分が肯定していたその尋常ならざる身体の事を思い出し、ガルジアは口を噤む。
それでも次には訊きたい事を思い出し、また言葉を紡いだ。
「クロムさん、どうしてクロムさんは、こんなに私のために何かをしてくれるのですか?」
相変わらず身体を預けて眠ったままのクロムに尋ねる。今は大分調子も戻ってきたのか、いつもの様にクロムは笑みを浮かべていた。
「君を守ると、決めた事じゃないか。それに、一人は寂しいと」
「それは、そうですけれど……でも、それだけでなんて」
「そうだな。少し、唐突過ぎるかな」
二の句を思考してか、クロムは瞼を閉じ、しばらく押し黙る。
「ガルジア。君は、不老不死になってみたいと思うかい?」
「え? ……ごめんなさい、わかりません」
素直な気持ちでガルジアはクロムの問いに答えた。
不老不死という事は、今の自分が変わらず存在し続けるという事である。
そんな事を突然言われても上手く想像出来はしなかったし、なりたいかと訊かれても、ガルジアは首を傾げるだけだった。
「地位も名誉も富も求めた者は、最後には不老不死を求めるという。彼らはもはや、それ以外に手を伸ばす物が無いのだろうな。
しかし私は自分がこの身体になって、つくづくと思うよ。こんな物を求めても、人は幸せにはなれはしないとね」
「辛いのですか」
「と、言うよりは……倦んでいるんだ。この生き方に」
クロムが手を伸ばし、ガルジアの投げ出した手に触れてくる。
「こうして人に触れて、守りたいと、昔の私は思ったものだ。けれどね、この身体になると、そうではなくなってくる。
守るべき者も、憎むべき敵も、全ては時が押し流して風化させてしまう。残るのは、いつも自分一人だけだ。
何にも代え難いほど愛しかった。殺したい程憎かった。そう思う気持ちもどこかへ消えて、私という身体だけが取り残されるんだ。
守らずとも、いつか死ぬ。殺さずとも、いつか死ぬ。あいつらは、どうせ死ぬ。
私は、どうしようもない程に倦んでいた。寂しい、というのも、本当は少し違う。ただ、疲れていた。
自分以外に感けた時間は、何も残さずに消えていってしまう。ただ、虚しかった」
閉じた瞼の中にある双眸で、鬣犬の男は何を見ているのか。
ガルジアは、ただクロムの体温を感じていた。冷たく、しかしその奥底では、温かい。
「……だったら、どうして私を」
「あの日、修道院からの道すがら見つけた君を助けるか、最初は迷った。
今までと同じ事を繰り返すのが、辛かった。しかし結局私は君を助けて、今まで傍に居た。
それはね、ガルジア。君がまっすぐな人物だったからだよ」
クロムの独白は続く。狭苦しい洞穴に、その低い声は穏やかに響く。
いつも自分を安堵させてくれるクロムの声。
「全てを失い、訳のわからない理由で追い回され、それでも君は自分の目的を見出して、前に進もうとする。
ただ、眩しかった。若い頃の私でも、きっと君の様にはなれなかっただろう。
ずっと忘れていた。何かを守りたいとか。そのために、誰かを切り伏せるとか。
他人のために生きるという事を、君は思い出させてくれた」
ガルジアは息を詰まらせる。視線の先に見えるのは、クロムの目尻から零れた涙だった。
「自分だけが不老不死になるというのは、何百倍にも薄めたスープを飲んでいる様なものさ。
薄めたスープは味が足りなくて、不味い。塩を一摘み入れてみても、味なんてほとんど変わりはしない。
そうして私が悪戦苦闘している間に、皆はもうスープを飲み終えて、どこかに行ってしまうのさ。
気づいた頃には、温かかったスープもすっかり冷めて。そうなるともう、味なんてわからなくなるし、気にする事もなくなるんだ。
ガルジア。人はね、自分と同じ時間を生きる者の中でしか、上手く生きられない生き物なんだよ。
君を引き止めようと正体を明かした時、本当は私は、恐ろしくて仕方なかったんだ。
けれども、君はただ受け入れてくれた。本当に、眩しいな、君は。
それが一体どれほどの喜びだったのか。君はわからないだろうし、知る必要もないだろう。
例えこの先また私だけが取り残されても、私は自分の身体を怨みはしても、君を怨む事も、また忘れる事もしないだろう」
零れた雫が乾いた頃、また一つ、雫が零れた。
口元に笑みを湛えたクロムは、今まで見たどの仕草よりも晴れ晴れと、そして少年の様な顔をしていた。
「クロムさん。私、クロムさんが不老不死になって、良かったって思うんです。
クロムさんからしたら、迷惑な話だと思いますが」
そっとその涙を拭って、ガルジアは黙りこくったクロムの代わりに言葉を続ける。
「本当だったら、私とクロムさんは絶対に出会えなかったんですよね。
クロムさんは私より、百歳以上も年上の方なのですから。
でも、今はこうして同じ時間を生きています。呪いのせい、というのは不本意も知れません。
けれど、私はクロムさんと出会えて良かったって思うんです。私を守ってくれるから、というだけではありません。
クロムさんが不老不死である事を恐れないでいてくれた事が嬉しいと言ってくれた様に、私も同じです。
私が白虎であっても、それを利用しようともせずに守ってくれる。私は、それが堪らなく嬉しいんです」
何も、クロムだけが一方的な感謝の念を抱いている訳ではなかった。ガルジアも、それは同じである。
「今まで出会ってきた人々。私は、皆好きです。ラライト修道院の皆、ウル院長。
旅先で出会った人々。リュウメイさん。ライシンさん。リーマさん。ダフレイ様。……そして、クロムさん。
身の上は不幸かも知れません。けれど。いえ、だからこそ」
いつの間にか、ガルジアの瞳からも涙が零れていた。落ちた雫がクロムの顔にでも触れたのか、クロムの手が頬に触れてくる。
「私は幸せだと思うんです。私のために傍に居てくれた人が、沢山居ました。
決して、一人ではなかったと思います。今なら、ダフレイ様が言ってくれた事も、なんとなくわかります。
ダフレイ様にも、きっとそんな風に思い返せる方達が居てくれたんですね」
「傍に居てくれた人、か……。私は、そんな事も忘れてしまっているのだな」
「忘れてしまっても、また新しい出会いがあります。今の私とクロムさんの様に」
新しい出逢いが、いつでも自分達を待ってくれているのだ。
それはまた、ガルジアの胸に響く言葉でもあった。
「元の身体に戻る方法も、いつか見つけましょう、クロムさん。
一緒の時間で、一緒に歳を取りましょう」
「ああ、いいとも。約束だ。ガルジア」
陽の光の届かぬ洞穴の中で、約束が交わされる。
太陽に祝福されぬ関係であっても、それが自分達にとっては何にも代え難い物であると、ガルジアは思った。
体調が落ち着くのを待ってから、起き上がったクロムをガルジアは注意深く見つめた。
身軽に身体を動かすその様は、本当に先程までぐったりと、死の淵を彷徨うかの様にしていた男の姿とは思えなかった。
崖の衝撃にぼろぼろに破損した鎧や服だけが、その名残を残している。
「ガルジア、おいで」
先に洞窟から外に出たクロムの声に、ガルジアもゆっくりと起き上がる。
長時間同じ態勢でいた身体は軋む様に痛み、何度か足腰を擦りながら穴から抜け出す。
「……あれは?」
外に出て愚痴の一つでも言おうかと思っていたガルジアは、目を見開いて予定外の言葉を零した。
目の前に広がるは、木々の数々。サーモスト修道院は正面の山道以外は、そうしてヘラーの街からは
一定の距離を保つ様にして作られている場所である。
今はその木々の向こうに、いくつもの黒煙が上がっていた。
サーモスト修道院がヘラーの街に囲まれているのを考えれば、どの方向であっても、それはヘラーの街から上がる煙に他ならない。
「何かあった様だね。まあ、こんな所に半日も居て、サーモストの者が見えないところを考えるに、
連中にとっても想定していなかった事態が起きたのだとは思っていたが」
「どうしましょう、クロムさん」
「とりあえずは、ヘラーへ。サーモストに戻る訳にもいかないし、どの道逃げるにはヘラーの街を通るしかない。
ガルジア、走ったりするのは、問題ないかい」
「私は平気です。寧ろ、クロムさんの方が心配です」
その言葉に、クロムはにやりと笑う。鬣犬特有の嫌らしい笑い方だが、この男がすると、不思議と上品にガルジアには見えた。
「身体はもう平気さ。すっかり休んでしまったからね。時間さえあれば、元に戻る。
今回の様な大きな傷の場合は、手当てをしてもらった方が何かと早いがね」
「本当に、心配したんですよ。あんな無茶までして」
「大目に見てくれよ。自分の身体しか、使える物が見つからなかったのだから」
釈然としない気持ちで、ガルジアはクロムの隣に付く。
クロムの言う事は正しいし、それに異を唱えるつもりはなかった。事実、クロムがああしてくれなければ、
自分の命が今もあったのかすら怪しかっただろう。自分がクロムの様になっていると想像するだけで寒気が走った。
そっとクロム背中へと視線を送る。鎧と服が無くなったその奥には、既に元に戻っている縞模様の獣毛が覗いていた。
「本当に、治ってますね……傷も残らず。失った血は、平気なのでしょうか」
「それも問題はないよ。足りなくなっても、特にふらつく訳ではないさ」
以前リュウメイが大怪我をし、傷を治しても失った血までは戻す事が出来ずしばらく臥せていた事を思い出し尋ねてみるが、
どうやらクロムにはその心配も無い様で、悠々とした様子を見せている。
「恐ろしい身体だが、便利でもある。まあ、目的を失っては、意味もないがね」
自嘲気味に微笑んだクロムを見て、ガルジアはやはりこの男には呪いを解く事が必要なのだと悟る。
とてつもなく強い呪いだという事はわかっていた。簡単な物なら、それこそガルジアの詩でも充分に対処出来る。
しかし名のある司祭や魔道士に縋ってさえ祓う事は叶わなかったと、以前クロムの口から聞いた事でもあった。
それ程に強い、堆積した怨念の権化の様な身体なのである。死を寄せ付けないというのは、並大抵の力ではなかった。
「しかし、街も気になるには気になるが……サーモストの狙いも今は気になるな」
クロムの身体についてガルジアがあれやこれやと考えていると、呟かれた言葉に顔を上げる。
「どうしてこんな事になってしまったんでしょう……。修道院の者が、それも、修道院長とあろう者が、
あんな闇討ちをするだなんて」
「ローに襲われていた時にも言ったが……これは、ラライトの時と、似ているな。
ラライト修道院を襲った盗賊と、今回の、エフラス・ロー=セイムの行動。
君だけを狙い、それ以外は排除しようとし、更には手勢の犠牲すら厭う事のない苛烈なやり口。
まるで同じじゃないか?」
「そんな。ロー様が、ラライト修道院を襲ったというのですか?」
「それは話が飛躍し過ぎだよ、ガルジア。私が言っているのは、ラライトを襲った盗賊の頭と、ロー院長。
この二人の行動理念が共通しているのではないか、という話さ。そもそもロー院長はどうして君をそこまで捕らえたがるのか、だよ。
いくら白虎が金になるからといって、少なくとも卑しい盗賊とは違って、サーモスト修道院で不自由な暮らしをしているとは思えなかったし、
そうすると、ロー院長には何かしら別の理由があって君を求めていたという事になる。そして、そのための行動が、とても極端だ。
思い出してみてくれ、君が逃げるというのがわかってからの追い詰め方。
そして細道に入って、君が逃げ果せるとわかった途端に、落石まで仕掛けてきた。
これはもう、君を手元に置きたいが、よしんば他人の手に渡る様な事があるのなら、いっその事殺してしまおうと思ってなくちゃ出来ない事だ。
そこまでして、君を狙う理由はなんなのだろうね?」
「それは……」
「この際だから言ってしまうが、私は君に会うまでに、数人は手に掛けただろう。
生きていたとしても、後遺症が出るくらいの事をした。申し訳ないとは思わない、彼らは私を排除しようとしていたからね。
裏返せば、それは、そうまでしてもロー院長は君が欲しかったという事に他ならない」
しばしガルジアは立ち止まって、人の良さそうなローの姿を思い浮かべる。
その後に見せた凶暴で、人を射抜く光を宿した瞳も、逃げる時にガルジアははっきりと見ていた。
「それに、あの男はどうやら嘘が多い様だ。信用を得ていないだのと、抜け抜けと言い放っていたが。
信用が無いどころか、サーモストはほとんど奴の掌中と見ていいだろう。
逃げている時に立ちはだかった修道士は数十名はくだらないし、仲間が切られても必死の形相で私に向かってきた。
そんな統制の取れた指揮が、上に立って一日二日の、信用の無い者に出来るものか」
「クロムさんの言う事は、よくわかりました」
話を遮る様に、ガルジアは意見の肯定をする。そう長く聞いてはいたくない話だったのである。
盗賊の話ならまだしも、自分と同じ修道士の話だ。
「ロー院長の……いえ、今回の件で、私を狙う人達の目的は、一体なんなのでしょう?」
「それについて、私が前から引っかかっている人物が居る。ラライト修道院の、ウル・イベルスリードだ」
「ウル様、ですか?」
突然話がウル・イベルスリードに移り、当惑した様にガルジアは答える。
「ガルジア、有能な指揮官の条件を、知っているかい」
「いえ……?」
「有能な指揮官は、常に命を秤に掛けるのだよ。自分の指示で、部下は命を掛けて戦うからね。
だからこそ、時には心を鬼にし、例えどれだけ怨まれようと非情な決断をしなくてはならない。
一人を救うために、百人を犠牲になるなど、愚の骨頂と言うべきだろう」
「……何が、言いたいのですか」
「それと照らし合わせるのなら、ウル・イベルスリードは心底無能な男だという事さ」
「そんな風に、院長様を言わないでください」
食って掛かろうとすると、クロムは少し驚いた顔をした後、なだめる様に口元に笑みを浮かべた。
「すまない。君の育ての親だったね。別に、馬鹿にしている訳ではないのだよ。これは、本当だ。
話を戻そう。ウル・イベルスリードについて私はよくは知らないが、聡い男と見て、良いんだね?」
「それは、もう。時折院長様に教えを乞いに来る方すら居ましたから。私も、教えられる範囲ならではとよくお話しを聞かせてもらいました」
「なら、尚の事ウル院長の取った行動は不可解なのさ。どうして君を、盗賊に差し出さなかったのだろうね?
百人よりも一人の命を取った。しかも、自分は百人の側に立って、自らの命すらかなぐり捨ててしまった」
「それは」
「息子同然に育てた君を愛していたから? いや、それはおかしいな。
君以外にだって、ウル院長に育てられた者は居たのだろう? それとも、君だけを特別に愛していたのかな」
「……違うと、思います。ウル院長は、分け隔てなく、皆を愛していました」
ガルジアの脳裏に、温和な表情で自分を暖かく迎えてくれたウルの顔が浮かぶ。
「君に白虎とはまた別の価値がある事を、ウル院長もまた、よくよく知っていたのではないかな?
ロー院長はそれが他人の手に渡る事を恐れて君を排除しようとした。
ウル院長は、君を逃がし、君に手を伸ばす者を文字通り命を賭して撃退した。
ウル、ロー、盗賊。この三者の思惑は、立場は違うが、はっきり言えば似ている。
それほどまでに執着する、君という存在。実に興味深いな」
「教えてください、クロムさん。彼らは、私に何を見出したのですか?」
耐え切れなくなって、ガルジアはクロムに縋りついた。さっきから聞いていれば、全ては
自分を巡っているとしか考えられない言い方である。それに、ガルジアは身を切られる思いだった。
自分が原因だとするのなら、やはり自分は、不幸をただ招いただけの男でしかないのだ。
再び溢れた珠の涙を、今度は拭いもせず、足も止め、ただクロムへと身を寄せた。
「落ち着いて、ガルジア。一つだけ、君も知っている、謎の正体を暴く可能性を持つ物が残っている。ネモラの召導書だ。
そもそも、今回サーモストに来て気になったのは、ネモラの召導書について知っているはずの
イラニス・ユールミードも、ロミス・ホーンも、居なくなっていたという事だ。それも、排除したのは恐らくはロー院長だ。
そして、ロー院長は知らないと言ったが、彼は召導書の中身を知っている可能性が非常に高い。
これだけサーモストの修道士を掌握している彼が、それを知らぬはずはないだろう。
鍵は恐らく、ネモラの召導書が握っている。やはり、我々は、是が非でもネモラの召導書を見つけ、その中身を知らねばならない様だ。
禁忌に触れると、リーマアルダフレイは言っていたがね」
「ネモラの、召導書……」
「ウル院長は、ユールミード前院長の名代としてやってきたホーンに召導書の話を聞いた。
ロー院長は、恐らくは、サーモストの召導書についての仔細を知る修道士から話を聞き、そして邪魔になる者を排除した。
そして、盗賊だ。盗賊が何故この二人と同じ様な行動を取るのか。
答えは簡単だね。何せ、ネモラの召導書は、五十年前に盗まれてしまったのだから。
ネモラの召導書を今持っている者の仕業と見るのが、妥当だろう。
そうなると、今回の件。始まりはラライト襲撃からではなく、五十年前。サーモスト修道院から聖物である
ネモラの召導書が盗まれた、私がこの街に居たあの時から、全ては始まっていたのだろうな」
「どうして、そこまでして私を……」
「さて、それは召導書の中身を知らなくてはならないだろうね。
連中の目的は、これで大分わかってきた。連中には、ネモラの召導書もそうだったが、何よりも君が必要という事だ。
それがわかっただけでも、ここに来た甲斐はあったな」
話を終えると、悄然とするガルジアの腕をクロムは掴んで抱き寄せる。
「怖いかい。自分を取り巻く状況が」
「……怖いです。どうして、こんな、私なんぞのために、沢山命が無くなっていくのですか。
私は……本当に、不幸しか呼べない身なのでしょうか」
「気をしっかり持ちなさい、ガルジア。押し潰されてはいけないよ。
君の歩む道は、いつの間にかもう、途中で逃げ出す事の叶わない物へと変わってしまった。
私が傍に居るよ。ガルジア。だから、召導書を、そして、真実を見つけに行こう」
クロムの胸に縋り、ガルジアはしばらくの間、泣き続けた。ずっと、堪え続けていた、熱い涙である。誰かに受け止めてもらわねば、
ここで全てを投げ出してしまいそうだった。
しかし、それでも次に顔を上げた時、ガルジアは笑みを浮かべていた。
今は、クロムが傍に居てくれる。真実を求める志を持った仲間が居る。それだけで、ガルジアは救われた気がした。
再び歩きはじめてしばらくすると、やがて森を抜け、それと同時に、ガルジアは視界に広がる景色に圧倒された。
森に入る前に見た煙の数は変わらず、逃げ惑う人々の群れ。そしてそれを追う、大型の魔物。更にそれを追い、武器を持つ者達。
「これは……」
「ふむ、魔物の襲撃か。不謹慎だが、好都合だったな」
突如として現れた酸鼻な出来事に、ガルジアは束の間我を失う。道に転がる死体に、息を呑んだ。
「さて、行こうか」
一方のクロムは特に動じる様子も見せず、動かずに居たガルジアの腕を取ろうとする。
「ちょっと待ってください! このまま、街を見捨てていくのですか!?」
「そのつもりだが」
「そんな……」
「僥倖というのは少し気が引けるが、おかげでサーモストの連中に君が捕らえられる事態にはならなかった。
このまま街を抜けてさっさと逃げてしまうのが、一番良いと私は思うのだが」
「しかし、街の方達が」
「自業自得じゃないかね?」
「それは、サーモスト……ロー様は、確かにそうかも知れません。しかしヘラーの街の住民は違います。
彼らを見捨てていく事は、出来ません」
腕を振り解くと、クロムは暫し思案する様子を見せる。
この男にとっては、ガルジアと、それ以外の命の扱いには、それ程の差が既に出来上がっているのだ。
だからといって、ガルジアは街を見捨てて逃げる訳にはいかなかった。
「お願いします、クロムさん。どうか、彼らを。……私の力は、人を助ける事が出来ません」
痛いくらいに、ガルジアは歌聖剣をぎゅっと握り締めた。自分の力では、駄目なのだ。誰かに頼らなければ、人一人、
救う事も出来ない。ガルジアは、それをよく知っていた。
クロムは黙って剣を抜き放つ。冷酷な微笑を湛え、ガルジアを見つめていた。
「君にそう言われては、断る訳にもいかないな。それに、君を守るのが私の役目だ。
君の身ばかりではなく、その心も、守らなくてはね」
「クロムさん……ありがとうございます!」
「ただし、それでも一番に守るのは君だ。君は安全な場所に居てほしい。
と、私が言ってもどうせ聞いてくれないだろうから、せめてサーモスト修道院へ、逃げ送れた者を案内してほしい。
街の中心であるここまで魔物が入り込んでいる以上篭城するのは考え物だが、しかしここを突っ切って外に出るのも厳しいし、
それに、サーモストでは昨夜我々を盛大に邪魔してくれた、石砲もある事だ。登る道はほぼ一つ。空を飛ぶ魔物が居ても、
与し易いだろう。言うまでもないだろうが、サーモストの連中には必要以上に気を許さない様に。
この状況でもまだ君を捕らえようとするのなら、私は君を気絶させてでも、街を見捨てて出るしかないと思う」
「はい、わかりました。……大丈夫です。彼らも、本質では修道士なのですから。
ロー様が近くに居なければ、きっと街の人を助ける事に専念してくれると思います」
「だといいがね」
視線を交わし、頷くとクロムは駆け出した。その先に居た魔物を、無造作に切り捨てる。
続けて通りを駆け抜けて民家に突撃しようとしていた大狼に、左手に持っていた鞘を向けると、鞘から光が発せられる。
渦巻く風が、狙いを外す事なく狼の腹を撃った。どこからそんな力が出ているのか、ガルジアは束の間言葉を失う。
僅かに宙にこの身体を浮かせた後、狼は大地に落ち、動かなくなった。異様に変形した腹を見て、思わず顔を逸らす。
「こんな事をしている場合ではありませんね。人を、逃がさなければ」
辺りを必死に見渡すと、逃げ遅れた者を助けようとする修道士の姿を見つける。まずはそれにガルジアは近づいた。
相手の修道士はガルジアの顔を見たが、特に何かを言う様子も見せなかった。
どうやらサーモストの修道士全てが、ローの支配下に置かれているという訳ではなさそうだった。
昨夜の件でローの指揮下に居た者なら、何かしらの反応を見せても、おかしくはないのだ。
「大丈夫ですか!? お怪我は」
その修道士が心を隠す天才でない事を祈りながら、ガルジアは言葉を掛ける。
「私は平気です。しかし、まだ街の方が……」
「サーモスト修道院は無事なのでしょうか? 無事でしたら、ここに居るよりも、サーモストへ向かうべきでしょう」
「ああ、そうですね……。この様に、ヘラーの街の奥深くまで魔物が立ち入るなど、私は初めての事で……。
サーモストは無事です。あなたの言う通り、私はこの人達を一度修道院へと送り届けようと思います」
「お願いします。私は、逃げ遅れた人が居ないか探してみます」
「ありがとうございます。名も知らぬ、修道士の方よ」
恭しく頭を下げて、修道士の男と、それに続く怪我人がサーモストを目指して移動を始める。
ガルジアはもうそれに関心を払う事もせず、次に助けを求める者を探していた。
遠くでは、クロムが次から次へと魔物を屠っている。ちらりとそちらを見て、ガルジアは息を呑んだ。
実に楽しそうに、クロムは鬣を優雅に靡かせて、剣を振り、魔法を弾けさせている。
その戦い方は、自分の身体の事をまるで考えていない、捨て身の戦法だった。
もっとも、クロムにとっての軽傷ならばその特別製の鞘の力で即座に治るし、大抵の怪我で倒れる心配はない。
今のクロムの身体だから出来る戦い方といえるものだった。
「いつか……あなたの身体を元に戻したら、そんな戦い方も出来なくなるのでしょうね」
呟いて、ガルジアは足を踏み出した。今は、生存者の救助である。
ヘラーの建物を、針で縫う様に進む。元々、サーモストを臨むために二階建ての無い街である。
背の高い魔物の居場所はわかりやすかったし、また音もよく通り、移動自体はさしたる不安もなかった。
また家が潰れていても、瓦礫もそれほど多くはないために、人の救出もしやすい。
もっとも、高さを確保出来ない分、ヘラーの街は地下室が豊富であり、そちらに閉じ込められている者を救出するのは
しばらく後の話になりそうではあるが。
路地から飛び出す直前に、ガルジアはそっと角から通りを見遣る。ぎくりとして、慌てて首を引っ込めた。
まだいくらか魔物が残っていて、手近な獲物はいないかと唸りながら練り歩いているところなのだ。
野犬に似たそれは、リュウメイと歩いた森で出てきたそれと酷似しており、しばらくその場で待機して気配が無くなったのを
確認してからガルジアは通りへと現れる。
「……どなたか、生き残っている方は、居られますか」
先程まで居た魔物に聞こえない様に、細心の注意で声音を調節して辺りに響かせる。
元より詩を歌う身ではあるので、慣れたものではある。
「誰か居るの?」
いらえが聞こえて、ガルジアははっとし、近くの民家へと駆け寄る。
壁が破壊された民家の中、陰となる場所に、蹲った猫人の少年が居た。
「こんな所に居たんですか」
ガルジアはそっと屈み込み、その顔を覗き込む。
「大丈夫ですよ。顔を上げてください」
その言葉に少年はようやっと顔を上げ、視線を合わせてくる。溜まりに溜まった大粒の涙に、ガルジアは心を打たれる。
「お兄ちゃん、誰?」
「私は……修道士です。サーモストの修道士ではありませんが……。
いえ、今はそんな事を話している場合ではありませんね。ここは危険です。すぐに、サーモスト修道院へ避難してください。
道は、わかりますか?」
宥める様に、ガルジアは少年の柔らかな頭髪を掌で撫で付ける。少しだけ勇気が出たのか、少年は元気に頷いた。
「うん、お母さんとよく、お祈りに行っているから。……でも、お母さん、居なくなっちゃって、僕……」
「……そうですか。ごめんなさい、お母さんの方は、私は知らなくて。もしかしたら、もうサーモストへ向かっているかも知れません。
私もそれらしき人が居たらサーモストへ向かわせまずので、あなたもすぐにここを出て、サーモストに行ってくれますか?」
「お兄ちゃんは?」
「私は、もう少しこの辺りに居ます。あなたのお母さんや、他の人が助けを待っているかも知れませんから」
「わかったよ。僕、サーモストに行く。お兄ちゃんも、気をつけてね」
「ええ。ありがとうございます」
少年を立たせようとすると、その身体かふらつく。注意深く見てみると、転んだのか、膝から血を流していた。
ガルジアは小声で詩を歌い精霊を呼ぶと、その少年の傷を治療し、それから精霊に頼み、それを少年へと手渡す。
「さあ、これで走れるはずです。いざという時には、この子が一度だけ囮になってくれます。
他に人が居なければ、私もすぐ後を追いますから。急いで」
民家から再び外を注視し、ガルジアは子供をサーモストへ向けて放した。
走り出した子供の背を見送りつつ、ふと崩壊した部屋の中へと視線を戻し、ガルジアはある物に目を留める。
それは散乱した児童書の中の一つで、表紙に白虎の絵が描いてある絵本だった。思わずガルジアは身を硬くする。
「……懐かしいですね。こんな所にも、あったんですか」
童心に返る気持ちで、その本を取り上げる。
「ひとりぼっちの白虎……か」
本の題名は、今のガルジアの状態を表すかの様な物だった。幼い頃、ラライト修道院でも、この本を見た事がある。
内容は、ひとりぼっちの苛められっこだった白虎が旅に出る、というものだった。古めかしい童話の一つである。
もっとも幼いガルジアはそれに自分を重ねてしまい、結局途中で読むのを止めてしまったのだが。
「こんな物、読んでいる場合じゃないですよね」
我に返ると、その本をそっと戻してからガルジアは振り返り、息を詰まらせた。
大型の魔物が、いつのまにか家の外を移動していたのだ。熊の様な体躯をし、二足で歩き、しかし成人よりも二周りはあろうかという大きさだった。
口からは涎を垂らし、醜悪な顔はその中に潜む残虐性を孕んで、見る者に嫌悪感を植えつけるものだった。
その魔物が通り過ぎてから、ガルジアは顔を跳ね上げ、大慌てで外に出る。そちらには、先程走っていった子供が居るはずだ。
今どこまで逃げているのかはわからないが、もし立ち止まりでもしていたら、それこそこの化け物に見咎められかねない。
意を決して、ガルジアは瓦礫を一つ広い、それを放り投げた。動揺しながら投げたために当たりもしなかったが、
足元に落ちたそれに気づいてこちらを見た魔物には、それで充分だったのだろう。奇声を上げながら、大地を揺らすかの様に
どしどしと走りよってくる。
「うっ……うわあぁぁっ!」
ガルジアは思わず悲鳴を上げて、逃げ出した。胸が狂った様に危険を告げている。
その手に掴まれれば、当然命は無い。こんな無茶をして、後でどれほどクロムに叱られるだろうか。
そんな暢気な考えが時々、急がなくてはいけないはずの自分の脳裏に過ぎる。それよりも何よりも、生きて帰る努力をしなくてはならないのだが。
道の先に逃げる人を見つけ、慌てて方向転換をし、家々の間を走りぬけ、細道を通ってガルジアは逃げた。しかし、決して逃げ切る様な動き方ではない。
ともかくは、人の居ない場所へ誘導する事である。人を助けるはずが、今は自分が助けられたいのだから、なんとも情けない体たらくである。
風来の詩が歌えればもう少し俊敏に動き、翻弄する事も出来たが、それにより呼び出していた精霊は先日落石に遭い、
その力を失っていた。もっとも精霊は自然に発生する力の塊の様な存在であるから、時が経てばいずれ呼び出せる日は来るのだが。
何はともあれ、今のガルジアには、多少は旅慣れたとはいえ元は修道院で平々凡々に暮らしていた、自らの足しか無かった。
背後からは障害物となる木箱や、荷車などを破壊しながら駆け寄ってくる魔物の音が聞こえ、
その度にガルジアは振り返っては、また悲鳴を上げる。
かなりの間、そうしていた様にガルジアには感じ取れた。実際には、自分の体力を考えれば、それほど走った訳ではない。
体力が尽きるよりも前に、ガルジアは歩みを止めた。目の前には、自らの行く手を塞ぐ、壁があった。
振り返るが、既に退路は立たれていた。元々土地勘の無い街の中を縦横無尽に逃げるなど、出来るはずもない。
今はただ、じりじり、じりじりと。魔物が歩み寄り、ガルジアの柔らかい肉を想像したのか、粘度の高い唾液が、
その太った腹に落ちてはやがて千切れ、しかしその内にまた新しく垂れ落ちるという事を繰り返していた。
全身を怖気が走り、ガルジアは歌聖剣を握り締める。逃げ場は、ない。
「い、嫌です……来ないで……」
我ながら、情けない。そう思いながらも、ガルジアの口から出た言葉は、腑抜けたものだった。
歌聖剣を引き抜く。陽の光を照り返す、装飾を施された鮮やかな細身の剣が現れた。
所々に穴の開くそれは、お世辞にもこの状況をどうにかしてくれる頼もしい武器には見えなかった。
ガルジアは、これ以上下がれない、という所まで身を下がらせ、必死に壁に背を擦り付ける。
「まだ、死にたくありません……クロムさん……」
当然、クロムの助けなど、今はない。自分から離れたのだから、仕方がなかった。
全ての状況を把握して、ガルジアは涙を浮かべ、しかし次に取ったのは、口元を動かす事だった。
何かを呟く様に口を開いては閉じ、閉じては開く。それが、音になる事はなかった。
歌っていた。しかし、その詩は、決して音に出す事はない。
「院長様。私は、あなたが大好きです。あなたの教えてくれた、詩も」
途中で一度、ガルジア詩を止めて、言葉を紡いだ。
「……けれど、この詩は……大嫌いです。誰かのために詩は歌われるもの。そう、教えてくれたのに」
魔物が近づいてくる。もう足音も、唸り声も、耳に届く様な距離だ。
「自分のためだけに歌う、ひとりぼっちの詩なんて」
音に出さない詩を歌う。正確には、人の耳に聞き及ぼしてはいけない詩だった。
孤独の詩をガルジアは歌う。親を失くし、友を失くし。されど胸に抱いた、場所も知らぬ、自分の帰る地を夢見る男の詩。
漠然とした郷愁にただ焦がれ、涙枯れ果てるとも足を止めず。ただ自らを迎えてくれる、包んでくれる地を求める。
場所を知らぬのに想うのか。名も知らぬのに、想うのか。ぽつり、ぽつりと、自問する様に、声音は変えず胸で呟く
その心は、次第に望郷に塗り潰され、誰にもその道程を邪魔されぬ様にと、無造作に、無作為に、男は剣を振るう。
心の中で繰り返される言葉に、次第にガルジアの視界も薄暗くなってくる。
何故、こんな詩をウル・イベルスリードは自分に教えたのだろう。
自問し、しかしすぐに答えを見つけて、ガルジアは自嘲する。
いつかこんな日が来るのを、予想していたのだ。ガルジアが独りになる事を。だから、この詩を自分に授けたのだ。
魔物の丸太の様な腕が上げられ、振り下ろされる。
出来事は、ほんの一瞬だった。ガルジアはかっと目を開き、何も考えず、殺気を感じる方へと歌聖剣を振り回す。
刹那の後に、ぼとりと肉塊が落ちた。振り下ろされる途中で跳ね飛ばされた、魔物の腕だった。
おぞましい雄叫びを魔物が上げる。ガルジアは歌聖剣を、踊らせる様に振る、そうすると、なんとも言えない、
高雅な音色が歌聖剣から発せられる。歌聖剣は今、初めてその歌声を持ち主に聞かせていた。
その音色に引き寄せられて、精霊が現れる。炎を宿す、蜥蜴に似た精霊。
短く息を吸うと、大地を蹴立てて、ガルジアは魔物の懐へ飛び込んだ。内へ戻していた歌聖剣に再び力を入れ、一閃する。
跳ねられた首元から溢れる血を頭から浴びて、ガルジアはただ遠くを見つめた。段々と自我が薄れてゆく。
こんな詩を、知りたくはなかった。歌いたくは、なかった。
最後にそう残したガルジアの心とは裏腹に、血を浴びたその身体は、
口元に付着した血を肉の脂ででもあるかの様に舐め上げていた。