ヨコアナ
15.聖なる奸計
静寂に包まれた廊下に、三人分の足音が響き渡る。
奥へ、奥へと。サーモスト修道院の中を案内されて進むうち、次第に周囲からは人の気配が感じられぬ様になる。
元々礼拝を目当てに来ている一般の者は既に、各々が帰路へ着き、修道院内に居るのは修道士がほとんどなのだろう、
時折部屋の前を通り過ぎる際にクロムはその中を盗み見るが、修道士が談笑をしていたりする、極有り触れた光景が見えるだけだった。
彼らは歩いているクロム達に気づくと深く礼をし、微笑む。
ガルジアはそれに笑顔で応対していたが、血と闘争の中に生きてきたクロムにとっては、どうにも馴染まないものであった。
困った様に視線を泳がせていると、前を歩く受付の男が振り返る。その顔にも、やはり他の者と変わらない笑顔が湛えられていた。狐の顔と相まって、
にこやかな表情が眩しい。
「申し送れました。私はロイゼン・エナークと申す者です。ただいま院長様は準備の最中。
今しばらく、どうかお待ちください」
修道院の部屋の一つへと通される。食堂の様で、今まで見ていた部屋とは違い随分と広く、
ここで会食をしたり、客を持て成すのだろう。
いくつも並べられた席の内のたった二つを引き、佩いていた剣を互いに外し椅子に立てかけると、ようやく腰を掛ける。
「それでは、私はこれにて。直に院長様がいらっしゃるので」
「はい、ありがとうございました」
それでロイゼンは足早に姿を消す。残された二人は、しんとした食堂の中でただぼんやりとサーモスト修道院の
院長、エフラス・ロー=セイムを待つ他無かった。
「さて、お目当ての院長が来るまでは暇になってしまったな」
「そうですね」
ふとガルジアに視線を送ると、ガルジアは部屋を見渡して、口をぽかんと開けているところだった。
院の外側とは違い、内側には絵画が掛けられ、美しい壁の象嵌にも、所々に目もあやな光輝く石が嵌め込まれている。
宝石かと思ったが、そうではなく光石の一種であり、光源としての役割も果たしている様だった。
卓の上にはそれだけでは心許ないと言いたげに蝋燭が置かれ、既に火も灯され儚くも優しげな光を以って二人を出迎えていた。
「なんだか……同じ修道院とは思えません」
ぽつりと、ガルジアが修道院を眺めた感想を漏らす。
「ラライト修道院とは、どれを取っても違うんですね。建物の大きさも。
人が多く集まるというのは、こういう事なのでしょうか」
「サーモスト修道院の方がいいかい?」
その問いかけに、しばしガルジアは沈黙し、やがては首を傾げる。
「……わかりません。私は、ラライトに居て不満に思った事もありませんでしたから。
不満ではなく、外への憧れを抱いてばかりいました。だから、例えサーモスト修道院で今までの様に暮らしていても、
私のやりたい事は何一つ変わらなかったと思います」
向き直ったガルジアの瞳には、意志の光が宿っていた。クロムは思わずそれを見て微笑みを浮かべる。
「その気持ちは大事にしなさい。いつだって、人を動かすのはひたむきな気持ちだからね」
「はい」
「……なんだか、説教臭い事を言ってしまったな」
「そんな事は。……でも、クロムさん、いつもそんな感じですよ」
自然とお互いに失笑してしまう。こんなやり取りが、自分の気に入りである事にクロムは最近気づいた。
長く生きていると、どうしても人との繋がりというものは希薄になってしまうのだった。大抵の者は自分の正体を知ると気味悪がるし、
興味を持った者は、不老を我が物にしようと付狙ってくる事もあった。もっとも、いくら傷つけられても死にはしないし、
クロムは百戦錬磨である。そういった相手に遅れを取る事はないのだが。
「お待たせしました」
つと、部屋の入り口から声が掛けられて一人の男が入ってくる。
視線を送ると、白いトーガを纏った若い獅子の男がにこやかな様子でこちらを見つめていた。
「大変お待たせしました。お初にお目にかかります。わたくしがサーモスト修道院、院長のエフラス・ロー=セイムです。
どうぞ、ローと気軽にお呼びください」
男の言葉に慌ててガルジアは席を立つ。それを見てクロムもその後ろへと続く。
「ご丁寧に、ありがとうございます。ガルジア・イベルスリードです。こちらは、私の護衛を勤めてくれているクロムさんです」
「イベルスリード……ウル・イベルスリードの姓ですね。ラライト修道院の事は、わたくしも聞き及んでおります。
とんだ災難に遭われましたな、ガルジア」
「いえ、辛いのは私ではなく……命を落とした方達ですから」
苦々しい表情をしていたローは、不意に申し訳なさそうな顔をしながら、一つ咳払いをする。
「こういう事をお聞きするのは心苦しいのですが……。狙いはやはり、あなたなのでしょうか?」
「それは」
「いえ、申し訳ございません。あなたの気持ちも考えずに、つい訊いてしまいました。
長旅で疲れているでしょう。今食事を運ばせますので、今日はどうか、ゆっくりとお休みください」
全員が椅子へ着く。卓の向かい側にローが着き、呼び鈴を鳴らすと、程無くして給仕が来て湯気の立ったスープを配膳してゆく。
それだけでなく、適度に間を置きながら次から次へ、まるで宴の様に豪華な食物は運ばれた。
それを見て目を丸くしたガルジアに、ローは食事を取る事を促す。
「どうぞ、遠慮なさらずに」
「ありがとうございます」
挨拶を済ませると、互いに運ばれる料理に口を付ける。
食器類も銀が使われており、ガルジアはそれを見てまた少し戸惑った様子を見せた。クロムはそれよりも、ローのその容姿を食い入る様に見つめていた。
流暢に話し、時折冗談を交えるローの容姿は若々しい。ガルジアよりも、少し年上といった程度である。白いトーガを纏った恰好は、
一見すると質素にも見えるが、よく見るとトーガには非常に細やかな刺繍が施され、また首元にはさり気無く、金の首飾りが、鬣との距離感を
上手く掴んで配してあり、また獅子の鬣の貫禄もあってか、決して安っぽくも、また野暮ったくも見えない。
生え揃った鬣も髭も丁寧に整えられ、後ろの方は紐で一纏めにされて、蓬髪と揶揄されやすい獅子の被毛を上手く利用したその姿は、若々しい印象を
与えている。その仕草一つ取っても無駄が無く、気品に溢れ、実によく出来た男だという事が伺える。
丁寧な言葉とは裏腹に、瞳は猛々しい光を湛え、思わず人を引き寄せ、有無を言わさずに従える力を持った男に見えた。
しかし、やはり若い。その一点が、クロムにはどうにも腑に落ちないのだった。
「ところで、ロー様。いくつかお聞きしたい事があるのですが」
食事を終えると、最後に食後酒が振舞われ、その臭いに顔を顰めながらガルジアは口を開く。
「なんなりと」
「前院長である、ユールミード様と、修道士のホーン様が不正を働いたというのは真なのでしょうか?」
「ええ、事実です。彼らは修道院に納められていた金銭を懐に入れ、他にも多数の不正が明るみに出ました。
それを証言する者もまた複数現れ、事態を重く見た中央修道会の審議に掛けられ、僻地へ送られたと。
どこへ送られたかは、私達には知らされてはおりませんが」
ガルジアの問いかけに、表情は曇らせるものの、予想はしていたのだろう。ローの返答には淀みが無い。
「そんな……」
ここに来るまで、まだ何かの間違いではないのかとガルジアは思っていたのだろう。ローの口から発せられる
経緯に言葉を失い、終いには俯いてしまった。
「恥ずべき事です。修道院の中からその様な行為をする者が出てくるなど。それも、修道院長ともあろう者が。
……今は、私が代理で院長の座に付き、そのままここを預かっています。まだ若輩の身ではありますが、
かつての穏やかなサーモストを取り戻すために、精進しております」
「……そうですか、ありがとうございます」
ガルジアは項垂れるが、次にまだ話が残っているからと奮い立たせる様に大きく息を吐くと
再びローへ視線を戻していた。
代わろうかとクロムはガルジアを見つめたが、ガルジアは微笑んで、気丈に振舞う様子を見せる。
「まだお聞きしたい事が。ネモラの召導書についてなんです」
「ネモラの召導書? これはまた、ラライトから来たあなたが、どうして」
少し驚いた様にローは受け答えをしていたが、ガルジアが事の顛末を話すと、納得したのか次第に何度も頷く様になる。
「なるほど……召導書だけでも、ですか。あなたの気持ちは痛い程にわかります、ガルジア。
わたくしとしても、出来得るのならばネモラの召導書は取り戻したい。大事な聖物なのですから。
しかし何分、盗まれたのは昔の事……手掛かりといえる物は、何も無いのです。
前院長であるイラニスなら何か知っていたかも知れませんが、今は行方もわかりませんし、
それに、召導書が盗まれたのは彼よりも更に三つは前の院長だったはず。
当時の院長は既に病没していますし、イラニスが居たとて、やはり召導書の行方というのは、中々」
「手掛かりはありませんか……ありがとうございます。
最後にもう一つ。ネモラの召導書には、何が記されていたのでしょうか?」
「ガルジア、それは」
ガルジアの言葉にクロムは仰天し、思わず制止する。召導書の内容を知ってはならないと、
リーマアルダフレイには注意されたばかりである。
「申し訳ありませんが、私はその中身を深くは知りません。
ネモラの召喚獣に対する認識などが書かれていた、という事は聞き及んでいますが。
この程度の事は一般の者も知っているでしょうし。ただ……」
「ただ?」
含みのある言い方をしてローが話を区切り、運ばれていた火酒を優雅に口に流し込む。
杯を放すと僅かばかり酒に染まった口元が見え、それを丁寧に布で拭っていた。
「ネモラの召導書は、聖物と言われるだけの謎が秘してある。というのはよく聞きますね。
それと同時に、聖物を収めるサーモスト修道院の院長は、代々口伝により召導書の秘密を受け継いでいるとも。
もっとも、私は修道院長でありながらそれを受け継ぐ事は叶いませんでしたが。
先程話した通り、それを知るイラニス・ユールミードの行方も知れず。口伝も途絶えてしまいました」
「ユールミード様さえ居てくれたら、よろしかったのですが」
「居ない者を乞うても仕方ありませんよ、ガルジア。
とはいえ、口伝だけでなく、古株の修道士の中にはそれを知る者も居た様ですがね。
修道院長が急死した際に、それを新たな院長に知らせる役目を担う者が。
ただ、お恥ずかしい話ですが、私はまだ年若く、修道院長に就いて日も浅い。
誰がそれを知っているのかもわからず、教えられてもおりません。信用を得ていない、という事でしょうか。
かといって、それを知る者があなたに教えるという事もまたありえない話でしょう。厳重に秘匿しておきたい情報なのですから。
ですので、心苦しいが私からネモラの召導書について教えられる事はほとんどないのですよ」
「そうですか……。いえ、それほどネモラの召導書が大事な物なのだと改めてわかっただけでも、充分です。ロー様」
結局は、また振り出しである。しかし、何もわからなかった、という訳でもなかった。
せめて姿を消したイラニス・ユールミードさえ居たら、というのはクロムも思うところである。
「さて。これから、どうするのですかガルジア」
「え?」
面食らったガルジアの返答に、ローは苦笑する。杯をくるくると動かして、中身の火酒を弄びながら、それでもガルジアを見たままである。
「ラライト修道院は今はもうありません。先程わたくしが尋ねた様に、あなたは一人では狙われる可能性も高いでしょう。
あまり言いたくはありませんが、あなたは白虎なのですから。その身には、相応の価値がある。いや、あってしまうというべきか。
そのお供の方は腕が立つ様ですが、今後も当ても無く召導書を探す旅をするのでしょうか?
あなたさえ宜しければ、ここに居てもらっても構いませんが」
ローの言葉に、ガルジアは刹那戸惑いを見せ、愁眉を浮かべる。
「ですが、私が居るとご迷惑が掛かるかも知れません……」
「賊の心配をしているのですか。それは、無用という物ですよ。あなたもここへ来る途中、この街を見たでしょう。
賊の抜け道というものは、ありません。ここへ来るには必ず山道を通らなければなりませんし、ここで狼藉を働けば、
それは瞬く間にサーモストだけでなく、ヘラーの街に行き届き、咲き誇っていた白の花は閉じ、賊を逃がすまいとするでしょう。
召導書の様な小さな物ならともかく、ラライトの二の舞にはなりませんよ」
束の間、ガルジアは迷った様子を見せた。それを見てもクロムは、声を掛ける事はしない。
ここでガルジアが旅を終えると決めたのなら、自分はただ別れを告げ去るだろう。ガルジアにとっての
居場所にはなっても、自分には到底馴染まぬ場所である。
ローの言う通り、確かにここでならガルシアを狙う者も容易には闖入出来はしないだろうし、
よしんば何かあったとしても、サーモストへ至る道は正面の山道一つ。抜け道もあるかも知れないが、
それをこの目敏い院長が知らぬはずはなかった。そしてそこを抜けても、ヘラーの街が周囲を囲み、
サーモスト修道院に手向かう者を逃がすまいとするだろう。サーモストはさながら、堅固な要塞の様であった。正式な軍でもあれば
話は別だが、ただの賊に踏み入る事の出来る地ではないのは、確かだった。
それ故に、クロムはあの日サーモスト急襲の依頼を断ったのだった。
死ぬ事はない身ではあるが、容易成らざる内容であったし、それこそ相手はサーモスト修道院だけでなく、
ヘラーの街の信者達も含めると無数の者を手に掛けなくてはならなかった。報酬は確かに破格ではあったが、
それが払われる保障とて無かったし、最悪囮として使われ、見捨てられる可能性すら危惧するものだ。到底、承諾出来るものではなかった。
だからこそ、その後その男、今はまだ仮定ではあるのだが、その男は急襲を断念し、サーモストから巧くネモラの召導書を盗み出したのだろう。
もしかすると、最初から盗む目的で、クロムの様な者はやはり囮としての使い道を考えていたのかも知れなかった。
「……申し訳ございません、ロー様。この話は、お断りさせていただきます」
思慮に耽っていたクロムの耳にガルジアの言葉が響く。クロムは顔を上げ、ガルジアを見つめた。
遠く、ローを見つめるその瞳は、闇夜の中で光り輝くその姿と同じく、未来へ馳せる光を灯していた。
クロムは小さく頷いた。知っていたはずだ。この男が、ここで旅を終えるはずはないのだと。
外を夢見て、今ようやく羽撃いた。空を知った鳥は、もう巣穴の中でじっとしては居られない。
「確かに、ここに居れば安全です。それは、私もよくわかります。もし私が最初からここに居たのなら……
きっと誰も失わずに居られたのでしょう。でも私はもう、失う物は失い、そして求めるべき物を見つけました。
それを見つけた以上、私はもう、以前の様に誰かに守られ、誰にも触れられずに居た自分に戻りたくはないのです」
「そうですか。あなたが、そう言うのなら」
毅然とした態度のガルジアを見たからか、それであっさりとローは引き下がる。
「召導書を探す旅を続けるのですね、ガルジア。しかし一つだけ言っておくのなら、召導書は直、必要のない物になるかも知れません」
「……どういう事でしょうか?」
訝しむ様にガルジアは応答する。旅の目的の一つは、ネモラの召導書の奪還である。
「言葉通りの意味ですよ。召導書が盗まれ、既に五十年の月日が流れました。
我々としても非常に無念ではありますが、無くなった物は、無くなった物。
いつまでもそれに感けていないで、これからの事を考えなければなりません。
ですから、新しい聖物を見出そう、そういう意見も最近ではよく出る様になりました」
「そ、そんな。召導書が盗まれたというのに、その様な」
「勿論この意見が全てではありません。それに、代わりを用意すると言って、そう簡単に聖物は用意出来る物ではありません。
人心を惹くに足り、稀有であり、穢れも無い。そういう物が修道院に収められるには相応しい。稀覯本である召導書は、まさにそうでした。
しかしそういう物は、そう簡単に見つかる物ではありませんからね」
「でしたら、私が」
ガルジアは卓に腕を立て、身を乗り出す。
「私が、召導書を見つけます。それで、よろしいでしょう」
「そうですね。……期待していますよ、ガルジア」
ふわりと微笑んだローの表情は、しかし何かしら別の事を考えている様に、怪しい笑みを湛えていた。
静寂に包まれた大部屋の中で、クロムは棚から取り出した本を適当に捲っては、元に戻す事を繰り返していた。
食事を終え、客間を用意するというローの言葉に頷いた今は、その準備が整うまでの暇潰しとして、サーモストの図書室へと足を運んでいた。
ネモラの召導書が収めれていた事から、修道士の口から話は聞けずとも、何かしら手がかりがあるのではないかと期待しての事ではあったが、
その結果は幾度となく繰り返される溜め息が如実に物語っていた。
「時間が経ってしまったから仕方がないとはいえ、ここまで何も情報がないとはな。渦中のサーモスト修道院だというのに」
一応ここへ案内されるまでの間に、再び先導をしてくれたロイゼンにも話を聞いてみたが、ロイゼン自身はそれほど古株の修道士という
訳ではないのか、ネモラの召導書についての手がかりは掴めず仕舞いだった。既に夜も深まり、他の修道士も三々五々、自分達の部屋へと切り上げている。
修道士に聞くにしても、それは明日からの事になりそうだった。
一歩後退り、本棚を見上げる。サーモスト修道院の規模に見合う様に、図書室もそれなりの広さがあったものの、結局ネモラの召導書の
手がかりになる様な物は無かった。もっとも、ネモラの召導書の扱いを鑑みれば、それは別段に不思議な事ではなかっただろう。一般の者が
立ち入りを許される場所に、おいそれと情報が転がっている訳もなかった。ローの言い分を信じるのならば、ネモラの召導書には
口伝にて伝えられる部分があるのだから。当然、ここを管理するのならば、それに触れるか、或いは内容を示唆する記述のある物が
置いてあるはずはなかった。
「ガルジア、そろそろ引き上げようか」
本の海を漂って、入り口のところで静かに、これまた自分と同じ様に本を漁っていたガルジアへとクロムは声を掛けて、ふと眉を潜める。
「おや、世界地図かい」
「あ、クロムさん」
積み上げた本の中で、ガルジアは一枚の紙を広げて、それに魅入っていた様だった。こちらの存在に気づくと、驚いた後に、申し訳なさそうに
その顔が俯く。
「ご、ごめんなさい。ネモラの召導書を探しに来たのに、地図なんて」
「いや、いいんだよ。何か、気になる事でもあるのかい?」
「……はい」
クロムが怒っているのかどうかしばらく窺う様にしたガルジアににこりと笑いかけると、安心したのか、ガルジアは再び地図へと目を落とす。
「前に地図を見た時、その地図の外側もあるんだってお話を聞いたので」
「そうだね。ここに記されているのは、足を運び、正確に地形を把握したものだ。ふむ、この地図は新しい物だね。
前に私が見た物より、外側が少し書き足されている様だ。これより外は魔物の跋扈も甚だしいし、それ以外も……」
「それ以外……?」
「……まあ、色々居るって事さ。君はいつか、この地図よりも外へ行きたいのかい。ガルジア」
「そうですね。地図にも記されていない場所……気になりますけれど、危険な所ですから。難しいかも知れないですね」
「そうだね。ただ、地図には書かれていないだけだから、案外なんて事のない場所もあるだろうけれど」
「もう一つ、気になる事があるんです」
話を切り替える様に、ガルジアは今度は視線を地図の中央へと滑らせる。
「リュウメイさん……私と一緒に旅をしていた方の、剣の柄にあった模様が気になって」
「なるほど。どこかの国の物かも知れないと思ったんだね」
「はい。でも、見つからなくて。ここに書いてある国旗は、全部見てみたのですが」
同じ様にクロムも眺めてみる。もっとも、クロムはガルジアの言う、リュウメイという男の事は一度会っただけで、それ以上の
事は何も知らずにいる。自分がガルジアの求めている物を見つけたとしても、気づく事すら出来はしないだろう。
「何も、国の物だとは限らないよ。騎士団ならまた別の物があるし、或いは鍛冶屋の物かも知れない」
「そうですね。これだけじゃわからないですよね」
ガルジアは地図を丸めて、元の場所へと戻す。そのついでに本を棚に戻し、支度を済ませると図書室を後にして、外で控えていた
ロイゼンに寝室の案内を受ける。
都合が付かなかったのか、ガルジアとは少し離れた部屋になる事が決まり、別れ際にクロムはガルジアと少しの間談笑に耽る。
「結局、何もわかりませんでしたね。召導書の事は」
「そうだね。しかしまあ、こういうのは手掛かりのありそうな場所を、とにかく虱潰しに当たるしかないものだよ。
また情報を集めて、出発しなおそうじゃないか」
「そ、そうですよね! 明日は修道士の方にもお話を聞いてみましょう! 召導書の中身については教えて
くれないとロー様は言ってましたけれど、手掛かりなら、あるかも知れません!」
「さて、それはどうかな」
「え?」
「ああ、いや。しかし、あの男。どうにも気に入らなかったな」
「ロー様の事ですか? そうでしょうか。私は、とてもしっかりした方だと思いましたが……」
「出来た方だと思っただろう? そうだね、私もそう思う。だが、出来すぎに見えるのだよ。
少なくとも、長生きしてしまった私からは、そう見える」
「そういうものなのでしょうか」
しばらく会話をしていると、ガルジアが欠伸をする。目尻に溜まった涙を拭った頃に、また一つ。
「すみません、眠くなってしまいましたので、今日はこの辺りで」
火酒を勧められて飲んだ事もあり、とろんとした顔のガルジアが言う。
「随分歩いたからね、今朝ヘラーに着いたばかりだというのに、ここまで歩いてきてしまったし」
「今日は久しぶりに柔らかいベッドで寝られそうです。おやすみなさい、クロムさん」
「ああ、おやすみ」
クロムの危惧を他所に、ガルジアは就寝の挨拶をして部屋の奥へと消える。
残されたクロムはしばらく思案をしながら、辺りを見渡した。
「さて、どうしたものかな。確かにここは、要塞の様だ。あの時の男も、よくもまあこんな場所へ忍び込んだものだ」
光石と蝋燭が織り成す、幻想的な光の道はこの廊下にも存在していた。
今は蝋燭の火も消え、光石の淡い光だけが残され、闇を照らしている。
「ここは、出方を待とうか」
自分に宛がわれた部屋へ入ると、クロムは持っていた剣の鞘を握り締め、光らせた。
それからは何をする訳でもなく、ただ部屋に設けられた窓を開き、外を眺める。
いつの間にか密雲が覆っているのか、昨日まで見ていた星空は今は姿を隠し、湿った風が頬を撫で付ける。
暗がりの中、無音と思われた闇の中で、時々微かな物音がしていた。
しばらくそれを眺めていると、研ぎ澄まされたクロムの耳の中に、部屋の外の足音が届く。
耳をそちらへ欹てると、クロムはそっと窓から離れて、部屋の扉の前に立った。
扉が押し開けられ、闇を劈く音が立つ。入ってきた男は、起きていたクロムを見て目を見開いていたが、
構わずクロムは驚きに制止した男の腹に剣を突き刺していた。
「貴様、どうして」
「あんな物に私が引っかかる訳ないだろう」
後ろに居た男達がざわめく。剣を引き抜くと、呻き声を上げて修道士の格好をした男がくずおれた。
「……私もこれで、修道士殺しか」
愉快そうにクロムは呟く。別に、誰であろうが、必要ならば殺すしかない。相手の手には棍棒に、短剣。思い思いの
武器が握り締められ、今まさにクロムに対して振り下ろそうと準備をしていたのだから。
「引くなら見逃してやらん事もない。選べ」
「小癪な」
雪崩れ込む様に後続が部屋へと殺到する。クロムは何も言わず、剣を収め鞘を向けた。
「ならばこれまでだな」
瞳をぎらつかせ、クロムは加減もせずに邪法を放つ。視界が白に染まり、ただ爆音と男達の悲鳴が聞こえた。
光が止んだ頃には、転がった修道士達の姿がそこには残される。
「随分いい物を着てるじゃあないか。楽に肉塊になれる様にしてやったというのに。神のご加護という奴かな」
動かなくなった相手を蹴り飛ばして、生死を確認する。虫の息といったところで、止めでも刺してやろうかと思ったが、
今はそれよりもクロムには成すべき事があった。
勢い良く部屋を飛び出す。廊下にも待機していた修道士が居たが、クロムは再び剣を抜くと造作無く始末してゆく。
鬣犬の行く所、剣が振り下ろされ血が飛び散る。光石の淡い舞台の上で鬣犬は踊り、血の花を咲かせる。
何人殺したか。そんな事は、瑣末な問題であった。今目の前に居る者達は、ただ鬣犬の舞台を彩るための引き立て役に過ぎない。
鬣を靡かせ、尻尾を躍らせ、剣尖を閃かせ。観客が居たら、その演舞に心奪われぬ者とていなかっただろう。
「そいつをガルジア様の所へ行かせるな」
そう叫んだ者もまた、無残に切り捨てられる。
血の道を作り上げて辿り着いた先で、クロムはガルジアの部屋の扉を蹴破って躍り出た。
ベッドの上では、静かに寝息を立てている白虎の姿が。その穏やかな寝顔に束の間顔を綻ばせながらも、
クロムは再び鞘に光を灯し、ガルジアへとそれを渡す。
「さあ、起きなさい。ガルジア」
「……クロム……さん?」
程無くして目を覚ましたガルジアは、まだ睡魔が残っているのか、何度も瞼を擦り上げていた。
「どうしたんですか、こんな夜更けに。まだ朝はずっと先ですよ。
ああ、それにしても今日は久しぶりにしっかりした場所で寝られますね。さっきのお食事も、私まだ忘れられません……」
途中まで言い掛けて、ガルジアははっとして飛び起きる。
「クロムさん、どうしたんですか、その姿は」
血塗れのクロムの姿に眠気を失ったのだろう。ガルジアは怯えて、しかし気遣う様にこちらを見上げていた。
「君に言うかどうか迷ったが、どうやら連中は私を始末して、君をここに留めて置きたい様だよ」
「そんな」
驚愕にガルジアは思わず掌で口を覆う。しかしそのすぐ後には、ベッドから抜け出すと身支度を整えていた。
「何か理由があるのかも知れません。しかし、クロムさんが嘘を言うとも私は思えません。
とにかく、今はここを出ましょう」
「ああ、それがいい」
用意を終えたガルジアを連れて、部屋の外へ出る。遠くから、また新しく修道士が武器を携えて走り寄ってくる所だった。
傭兵の男を殺せ、という叫び声までもが、今やこの聖なる修道院に木霊している。
「どう思う。あれを見て、君の耳には、私の言葉は嘘に聞こえるだろうか」
「行きましょう。外へ」
「一つだけ言っておく。私はここに来るまでに、恐らく何人かは修道士を殺した。
それでも、君は私と来てくれるのかな?」
「……付いていきます。わかっています、もう。自分を殺しに来ている相手に、都合の良い慈悲など持ち合わせてはいけないのだと。
そして私の行動に関わらず、クロムさんは逃げなくては、殺されてしまいますから。そんなのは、嫌です」
「まあ、私は死なない訳だがね。さあ、行こう。屍を徒に増やす前に」
ガルジアを守りながら修道院の聖なる道を汚して進む。とりあえずは、外へと出なくてはならない。
クロムは血路を切り開く。傷を受ける事はなかった。武器を持っていようが、それを扱うのはただの修道士である。
百年以上の時を生き、戦場に身を投じたクロムには赤子も同然の相手だった。
「しかし、そう簡単に出られるとも思えないな。これは」
「どうしてですか?」
ガルジアはぶつぶつと風来の詩を歌い上げる。現れた鳥は優雅に舞い、ガルジアの周りを飛び二人の足を速める。
「まさかこれだけの修道士を動員して、部屋に送り込ませただけでは済まないだろう。
酒に薬を入れたからと安心して来たのだろうが、彼らはなんの戦闘技術も有する事のない者達だ。
それにあの院長の事だ。最初の策が破れて、それで仕舞いとはいかないだろう。
彼自身が、サーモストの守りに自信を持っているのだからね」
「やはり、ロー院長は……」
その時、曲がり角から奇声を上げた男が棍棒を振り回して飛び出してくる。
舌打ちをし、クロムは素早く剣を振り下ろし袈裟切りにすると、ガルジアは思わず悲鳴を上げた。
「さあ、もう外だ。一気に突っ切るよ」
「はい。クロムさん」
正面から外に出ると、予想通り数十人の修道士が待ち構えていた。
しかしクロムはそれを意に介する事はしない。ただ鞘を一振りし、大地を削る様に払い上げる。すると地の上を光が走り、
集団の一部を突き飛ばす様に散らせた。軽い邪法だが、今はこれで充分だった。まだ先があるのだから温存しなければならない。
邪法の威力自体は強力に出来るのだが、クロム自身の持つ力はそれほど多くはなかったし、
何より凄惨な光景をガルジアに見せ続ければ、その足は止まってしまうだろう。
「待ちなさい、ガルジア」
穴を開けた場所から抜け出した頃に、聞き覚えのある声が聞こえる。振り返ると、修道院から出てきたローの姿があった。
顔は憤怒に塗れ、こちらをねめつけては鬣を振り乱していた。その姿は先程夕餉を共にした時とは似ても似つかない、雄雄しくも、卑しい姿だった。
少し距離を取り、クロムは控える。ガルジアはローの姿を見て、足を止めていた。
「これはどういう事ですか、ロー院長。闇討ちなど、恥を知りなさい!」
「貴様が自分の価値をわかっておらぬからだ! それを、私が留め置こうとするのを、聞きもせずに」
「私の価値? 何を言って……」
クロムはガルジアの腕を引く。
「これは、同じだな」
「同じ?」
「ラライト修道院を襲撃した賊は、君を捉え、他の者は皆殺しにしようとした。今の状況と、何も変わらないだろう?」
「それは……どういう事ですか」
「推測はまた後にしよう。さあ」
「待て、待てと言っている! 隷属種如きが、生意気な!」
走り出したクロム達の背に、ローの罵声が響く。隷属種という言葉に、クロムは虫唾が走るのを感じた。
「とんだ修道院長だよ、まったく」
「隷属種……」
「気にするな、ガルジア」
整地された道をひた走る。今日の夕方に瞳を輝かせてガルジアが歩いたばかりである。物事の移り変わりとは、早いものだった。
その先にあるヘラーの街は、今もまだ眠っていた。恐らくは、ヘラーの街までは動かしてはいないのだろう。しかしそこに至る道には、
灯火がいくつも並んでいた。既に、クロム達を受け入れる準備は整っていた。
不意に強い魔力を感じて、クロムは振り返る。
「ガルジア、耳を塞げ!」
鞘を取り出し、力を籠めるのと爆音が響くのはほとんど同時だった。間一髪のところで、飛来した何かをクロムの張った壁が受け止める。
凄まじい轟音に、ガルジアはまた悲鳴を上げる。その身体を抱き寄せて、クロムは歯軋りをした。
音が止むと、辺りを見渡す。自分達に当たらなかった攻撃が、道を砕き穴を開けていた。
「な、なんなんですかこれは。邪法?」
「少し、違うかな。これは、石砲だ。砕いた宝石を魔力で飛ばしているんだ。見なさい」
クロムが鼻先で指し示した足元には、光り輝く宝石の欠片が転がっている。やがて、その光が消えてゆく。
「これじゃ、兵器じゃないですか。どうして修道院にこんなものが」
「どこかの国の軍から横流ししてもらったのだろう。この石砲は旧型の様だからね。
旧型の石砲は宝石を砕いて使用するが、今の石砲は砕く事なく宝石から力を取り出していると聞く。
破片が飛び散るのは、旧型の証の様なものだ」
「ああっ、また!」
禍々しい光が飛来する。ガルジアは耳を塞ぎ、クロムはそれを押さえる。今度は充分に準備をしていたので防音も働き、
耳に被害を受ける事はなかった。
「ガルジアが居るというのに。まるで、手に入らないのならば殺してしまえとでも言いたげだな」
「クロムさん。早く、逃げましょう」
「ああ、わかっている。しかしこのまま走ると上手く防げない。少し、黙らせようか」
「そんな事、出来るんですか?」
驚愕に包まれた顔でガルジアが訊いてくる。黙ってクロムは頷いた。
「旧型の石砲だからね。当時は、それでも新しい物だったが。戦場を駆ける傭兵が、対処法を知らぬはずはないよ。
ガルジア。修道院の方へ風を吹かせてくれないかい」
要求に、ガルジアは素早く詩を歌う。その間にも石砲の砲弾を何度か受け止めて、クロムは憤怒の炎を燃やしていた。
ガルジアが精霊を呼び出す。先程と同じ風来の詩だが、時間が経ち消えていた鳥が、再び現れた、それに何かを命じたのか、今度は風が吹きはじめた。
それを見てからクロムは障壁を解き、懐から小さな宝石を取り出した。安物の、どこにでもある様な物で、精精銀貨数枚程度の代物である。
無造作に宝石を放ると、剣を抜き放ち一閃した。真っ二つになり、跳ね上げられた宝石は、その中から淡い光を漏らしている。
剣を収め鞘を宙に向けると、今度は光線を放つ。極弱い光だが、それは割れた宝石に当たり、今度は割れた状態から更に散らばり粉々になる。
きらきらと輝く美しい光の粉が、戦場を覆った。それはガルジアの呼び出した風に乗せられ、修道院へと降りかかる。
すると少しの間を置いて、幾つもの爆発が地上から巻き起こった。ガルジアは声を上げて、後ずさりをする。
爆発したのは、今までクロム達を苦しめていた石砲の砲台そのものの様だった。
「あれは、砲台?」
「粉々に砕いたばかりの宝石の扱いは慎重を要する。私の宝石の欠片が砲台の中に入ってしまえば、既に中で削っていた分の
力はそれに触発されて、その場で爆発するしかないのさ。正しく物を扱う知識があれば、宙に宝石が舞った時点で操作を放棄するか、
宝石の力を無力化しただろうに。あれが旧型で良かったな。さあ、今の内に」
石砲が完全に止み、戦場に束の間のしじまが訪れた事を確認して二人は走る。
「でも、このまま行くと待ち伏せが」
サーモスト修道院のある山は、小高く外敵の侵入を拒むかの様に切り立っており、正面以外から
下りる訳にはいかないと、ガルジアは零す。
「……あそこだ」
山道の途中、細い脇道を見つけクロムは指し示す。他に道も見当たらず、仕方なくそちらを選ぶ他はなかった。
どの道このまま正面から下りヘラーの街に差し掛かる場所で乱闘騒ぎになれば、ヘラーの街の住人とて
黙ってはいないだろう。眠れる獅子を起こすのは避けたかった。
細道に差し掛かる。整地もされておらず、草が伸び放題になっているそれは、人一人分の隙間で続き、
山に沿う様に徐々に下へ下へと伸びている様だった。非常用の通り道か、はたまた修行のために態々通る悪路にも見える。
「足元に気をつけなさい」
後方では大騒ぎをした修道士達の声が聞こえる。特に道に入ったばかりの今は、道の入り口から来るどころか、
先回りをしようと恐れ知らずにも崖をそのまま滑り落ちて来る者も居た。当然、着地に成功し前を塞ぐ者も居るが、
自らの勢いを止めきれず、そのまま崖下へ悲鳴を上げながら落ちてゆく間抜けも居た。
もっとも、難を逃れた者とてその直後にはクロムに切り伏せられる運命である。
一人分の狭い道であるために数の利を活かせず、また一人分の狭い道であるために、切り伏せられた者の行く場も決まっていた。
しかし彼らの半ば自虐的な妨害も、決して無駄ではなかった。クロムとガルジアを追う後方の者達は、じりじりと距離を詰め
もうそこまでという所まで来ていた。ガルジアが、クロムに何度もその事を告げる。
「仕方ないな」
一度ガルジアを抱き寄せると、クロムは鞘から邪法を放ち、無造作にそれをたった今自分達が歩いてきた道へと走らせる。
かなり弱い衝撃だったが、この狭い道を破壊し尽すのには充分な威力であり、それでもって追手と自分達を分断する。
あとはもう、逃げるが勝ちである。既に充分な距離を走っていた二人に追い着くには真上にあるサーモストから
崖を滑り落ちる他はないが、高さで見てもかなり開いているがために、流石にこれ以上追ってくる者は居なかった。
サーモストの山の周りを巡るその道を走り、徐々に高度を下げてゆく。眼下には、この騒ぎを知る由もない
ヘラーの街が、曇りの今であっても淡い白さを失わず、静かに眠っていた。
「もう少しだ、ガルジア」
背後からは、苦しそうに喘ぐガルジアの息遣いが聞こえる。
休息も満足に取れず、ここまで走り通しである。体力の限界を当に迎えているのだろう。
それを気にしていたクロムは、ふと足元に転がってきた石に気づく。
何事かと真上を見上げ、瞠目した。人の頭程の大きさの石が、神の怒りを買った愚者に降り注ぐ神罰の様に降り注いできていたのだ。
「ガルジア!」
後方のガルジアの腕を取り、引き寄せる。ガルジアの位置からは、避けきれそうにもない。
クロムの胸に飛び込んできたガルジアは、しかし別の何かに気を取られて声を上げていた。
そちらへ視線を送ると、ガルジアの呼び出した精霊が落石をかわしきれず、切なげに悲鳴を上げ羽根を散らすとその姿を
青白い光に変えて消え去った。それと同時に、クロムは体勢を大きく崩す。
何事かと戸惑ったのと、理解をしたのはほとんど同時だった。ガルジアの精霊が消えた事により、詩もまた効力を失くし、
今まで身軽に動いていた身体は急に元の状態へと戻っていたのだ。
クロムよりも更に酷いのは、ガルジアだった。腕を引かれほとんど自らの勢いを支える物が何も無い状態である。
もはや自身の行く方向すら決められず、その身体は崖下へと向かう勢いを止められはしなかった。
「クロムさんっ! いけません、手を放してください!」
クロムはもう一度腕を引こうとするが、ガルジアの身体の勢いに負け、あろう事かクロムも宙へ身を投げ出す結果に終わる。
刹那の浮遊感の後、身体は重力に従い地獄の果てまで向かうかという勢いで落下を始める。
口元に笑みを浮かべた。クロムは、ガルジアを強く抱き締め、そしてなるたけその身体が傷付かぬ様に崖側に自身を置いた。
衝撃が訪れたのは一瞬の事だった。全ての感覚がそこで止まる。
そして、クロムの意識もそこで途絶えたのだった。