ヨコアナ
14.白亜の街
泥濘に足を取られる。泥の海を黒のローブに全身を包み、歩く。
一歩踏み出す度に纏わり付く泥を睨み据える。
「もう遠くへ行ってしまいましたかね」
望見していたが故に事の顛末を朧げにしか把握しておらず、男は呟く。
辺りを見渡し、何やら散乱し泥の海に沈む物を見つけるが、それには大した関心も持たず、
やがて泥の切れ目から筆で描いたかの様に、大地を走る一本の泥の線を見咎める。
その線を追うと、その内に白銀色の物体が見えてくる。近づいてみて、それが水晶の様な美しさに彩られた像である事に気づいた。
厚い水晶の台座から、竜の頭部を据え上半身を拵えられた水晶像は美々しく、腕を伸ばし躍動感に溢れたそれは、名匠の傑作もかくやと、
惜しみの無い美を男の前に晒して佇んでいた。
街中や、教会にでも飾ればさぞ人目を引き、また厚く崇められるであろうと男はにやりと笑う。
「さて、どうしましょうか。召喚し直すか、破らせるか」
水晶像に近づくと、途端に冷気に身体が包まれる。水晶ではなく、氷で出来ているのだとそれは主張していた。
男がローブを上げると、闇の中から、これまた同じ様に、指先までが闇色に染まった腕が飛び出す。氷像に右腕を伸ばし、
掌を当てる、ひんやりとした感覚の後に、その中に眠る者の鼓動が伝わってくる。
「そうですか。それでは」
男が腕に力を籠めると、指先が一度眩く輝く。そして、氷像に触れている箇所から男の真っ黒な
被毛の色は薄くなり、やがて黄色がかった白色へと変貌してゆく。
色の浸食は徐々に広がり、肘にまで達する。その辺りで男は手を引いて、距離を取った。
「さあ、これで良いでしょう。アローネ。いつまで芸術品になっているつもりですか」
男の声が響く。辺りは再び静寂に包まれていたが、不意に罅の入る音を、氷像は奏でる。
程無くしてその中にある者が、氷の鎧を粉砕して姿を現した。芸術に通じている者ならば、その光景を見て
思わず唸り声を上げ、最後には悲嘆したかも知れない。先程までの氷像の美しさ。そしてそれが割れる、刹那の美。そこまでならば、
儚い作品の一生といったところだろう。しかし、その中から現れた物は見る者によっては醜悪とさえ受け止め、
顔を顰めるであろう泥の塊であった。氷と泥の違いでしかないというのに、その評価は一変してしまうという不憫な怪人は、
しかしそれを意に介する様子も見せず、男の傍へゆっくりとやってきては、やがて跪く様に泥に沈み背丈を低くした。
「申し訳ございません。バイン様」
「ふふ。意外でしたね。あなたは意外と興奮しやすい性分の様だ。
態々自分の有利になる場から動いてリュウメイを追いかけ回すとは」
泥の召喚獣、アローネは何も返さず、ただ主人であるバインの処罰を待つ姿勢を続けている。
「如何様な罰も受ける所存にて」
アローネの言葉は途切れる。バインはそっと手を伸ばすと、泥の形作る頭部へと手を伸ばしていた。
「バイン様、お手を汚してしまいます」
「構いませんよ」
アローネの謝罪の事など気にする素振りも見せず、バインはその頭部の、顎の付け根と思しき場所へと指を沈める。
先程まで凍っていた事もあり、低音の泥はバインから体力を奪う様に纏わり付いてくる。
「バイン様、そのお身体では」
バインの片方だけ白く染まった腕を気にして、アローネは再度咎める。
黒の左手と、白の右手。右手の方は、その白色が届くところ、左と比べると痩せ衰えていた。
「構わない、と言ったでしょう。私はね、あなた達に触れるのがこれ以上無い程に好きなのですから。
私のそういう楽しみを、奪う様な事はしてほしくないですね」
溜め息を吐く代わりに、アローネは眼窩の中にある光を弱める。主人のしたい様にすればいいと、匙を投げたかの様にも見えた。
一方バインはというと、泥の中に魔力を送り込み、アローネの身体を更に回復させていた。
傍から見れば泥弄りをしているだけにしか見えないが、徐々にアローネの泥に水分が増し、泥濘が戻りはじめる。
「奴らは、先へ行ってしまいました」
「そうですね」
「よろしいのですか?」
「目的は果たしましたからね。幾つか講じた策の内、二つは成りました。全てが成らずとも、良いのです」
一つは、リュウメイに手傷を負わせた事だった。これで多少は足止めにはなるだろう。
残り一つも、手傷に付随する形で成した。それだけで充分だった。状況が変われば、また打つ手も自然と思い浮かぶだろう。
泥の中から腕を引き抜く。アローネが命じたのか、泥はまるで水の様に、僅かに残る事もせずにバインの手から離れ、アローネの中へと戻ってゆく。
「あとは、白虎の修道士。彼だけです。私の夢の実現に必要な者はね」
「本当に、白虎を利用なさるおつもりなのですか?」
「ええ、勿論。それが私の夢であり……そして私では成し遂げられぬ夢を叶えるための第一歩となるでしょう。
もっとも、彼がまだ私の期待通りの人材であるのかはわかりませんので、もうしばらく調査が必要ですが」
「差し出口を叩く事、お許しください。バイン様のお考えは、このアローネ、よわかります。しかし、奴は危険過ぎます」
「ふふ。あなたは随分と召術士想いなのですね、アローネ。召喚獣はもっと厄介なものだと思っていたのですが」
「人それぞれ。バイン様の周りに居る者がそうである様に、です。
それに、我とて功名心から仕えているに過ぎませぬ。ゆめゆめお忘れなき様。それよりも、我は」
「わかっていますよ。あなたの言いたい事は。並の者……いえ、あの召喚士リーマアルダフレイ・セロスにすら成し遂げられなかった事、
それを一介の召術士である私では、どうなる事やら」
バインの双眸は遠くを見つめていた。空よりも遠く。自分の行く末を慮る。
その内に、身体中から力が漲ってくる。右腕に力が集まり、白く染まっていた被毛を今度は黒く塗り潰してゆく。
「しかし私は引きません。そのために何もかも投げ打ったのですから。私は調伏させてみせますよ」
「バイン様が、そこまで仰るのなら」
指先までが黒く染まる。それが、バインにとっての出発の合図だった。
「行きましょう、アローネ」
「はい」
アローネは泥を広げる。その先にある血痕を目指して泥の小波が押し寄せる。
程無くして血を飲み込むと、アローネの身体は奇奇怪怪に蠢き、形を変えてゆく。
やがて、泥が泥ではなくなり、色付き、一人の男の姿に、赤髪の不敵な蜥蜴人の男の姿がそこにあった。
それに大して興味をそそられる体でもなく、バインは歩き出した。
「さあ、私の野望はこれからですよ。
待っていてください。白虎の修道士よ。……そして、ヨルゼアよ」
二人の男が泥の地を後にする。澄み渡る空を再度見つめ、不敵にバインは笑って見せた。
いつか自分はあの空をも汚して見せる。
そのために生きてきた人生だった。
見上げた闇夜に目を凝らした。
初めの内、その中には何もなく、ただ闇が果てしなく広がっているだけだと思われた。
しかしよくよく見てみれば、その中には無数の煌びやかな星が、自らの存在を必死に伝えようと輝き叫ぶのが見える。
宵闇が訪れ、それも過ぎれば夜が来る。クロムは星を見上げ、方角を確かめていた。
「問題は無い、か。明日にはヘラーに着くだろうか」
胸の中で呟いた言葉を復唱する。声は誰に聞かれる事もなく、闇の中へ消えていった。
用を済ませると踵を返し、草を掻き分けて少し奥まった場所へと向かう。その先には
死者を遠ざける、文明の匂いのする薄明るい光がぼうっと灯っていた。
先程薪をくべたばかりの炎は今も勢い良く、地上の星となり、狭苦しい自分の領土を守ろうとするかの様に懸命に自身の背を空へ、空へと
伸ばしていた。その炎から少し離れた所には、クロムに背を向けて、何やら蹲っている一人の男が居る。
「どうしたんだい、ガルジア」
声を掛ける。はっとして、男が振り返った。愛くるしいその姿がクロムの瞳に飛び込む。
陽光の下でいつも見ている、輝かしく、美しい純白に薄い黒色の走る被毛は、今は夜の闇と、その中に灯る紅い炎に照らされ、
昼とはまた違う様相を呈していた。艶めかしく、儚げである。
物憂げなその白虎の表情も、それを引き立てていた。いつもは蒼玉の様な美しく澄んだ瞳も、
今は闇に陰り炎に照らされ、翡翠の様にまた色を変えて、クロムを誘う様に揺れている。
成人しているにも関わらず、その身体から感じるあどけなさは、彼が修道院に軟禁に近い状態で
長い時を経て今に至る事の証左でもあった。何も知らず。それはまた、なんの汚れも知ってはいない。
「今日頂いた生き物達のお祈りを。……ご迷惑でしたでしょうか」
その背後には、真新しく土を盛った後があった。つい先程まで、野兎を捉えて食していたところだった。
クロムの口にも、その新鮮な獣の脂がまだ残っている。思い出した様に、クロムは舌なめずりをした。
「いいや。それに、君もようやく食べられる様になったのだしね」
ガルジアはこれまで野生動物を捕まえ、それをその場で食す事が無かった。
修道院で暮らしていたガルジアは、大抵は肉以外の物を口にしていたし、旅に出てからも干し肉などの、
ある程度加工された物だけを口にしていたのだ。
しかし長旅が続けば、当然食糧も携帯していた物だけではなく、現地調達をする必要も出てくる。
出来得る限り食べやすい様に調理はしたものの、ガルジアにとってはやはり初めての事で、戸惑う事も多かった様だ。
自分と会う以前の旅では荷物運びの男が居て食糧にある程度余裕があった事などが幸いしていたそうだが、
今は二人旅であり、また長旅でもある。
終わり滝を後にしてから既に二十日以上が経過している。終わり滝を出る際に保存食の補給はしていたものの、
行程を考慮して獲物を見つけた際はそちらを食す事を優先していたのだ。
初めの内、ガルジアは口をつけるか悩んでいた様子だが、何度か胸に手を当て礼をすると、
今度は勢い良く肉にかぶりついていた。腹が減っていたのもそうだが、自分が倒れては足を引っ張ってしまうのを懸念していた様だ。
「今までも、頂いた物に感謝はしてきました」
不意に、ガルジアの呟きが夜に響く。背を向け、再び堆積した土を眺めて祈りを捧げている。
「けれど、本当の意味では感謝はしていなかったのかも知れません。そこにあるのが、私にとっては当たり前でしたから」
外に出る事すらほとんど無かったガルジアにとっては、それは仕方のない事なのかも知れなかった。
そのガルジアを生かすために、毎日食物は届けられていたし、それが殊更な事だという訳でもなかったのだろう。
「いけない事ですね。こんな風に生きる事を、野蛮だなんて思っているのですから」
「気にしなくていいさ。それに、その日暮らしの生き方というのは、事実、野蛮だからね」
風来人、冒険者などといえば聞こえは良いが、繰り返される安寧の日々を退屈に思う者が、ただ浮浪しているに過ぎないのだ。
盗賊との違いは、人を食い物にするか、それを狙う盗賊を食い物にするか。その程度の違いでしかない。
その時その時で冒険者と盗賊の顔を器用に使い分けている者も、そう珍しくもなかったし、また特別咎められる事ですらない。
「もう寝なさい。長旅で疲れているだろう。明日にはヘラーに入るのだから」
「はい。クロムさん、おやすみなさい」
寝床代わりの粗末な布の上にガルジアは横になる。薄汚れていても、その姿が本当に汚れているとクロムは思わなかった。
ここが修道院の一室であったのならば、彼は敬虔で、清らかな身の修道士であっただろう。
火を間に挟んだ向かい側にクロムはゆっくりと座り込む。八方に即席の罠を仕掛けたので、当面問題はないだろう。
「……サーモスト修道院、ですか」
時折薪をくべて、朝まで暖かさが続く様に調節していると、ガルジアの声が聞こえる。
「サーモストの修道院は、ヘラーの街の中心。小高い山の上にある。
規模は大きく、ヘラーの街もまた、信心深い者達が集まり、秩序を重んじる聖なる街としても有名だ」
「そうなんですか。サーモストについては私も知っているのですが、街の事は、中々」
また、情報の規制だろう。箱庭の中で育てられたガルジアは、外への強い関心を抱かぬ様にと、
与えられる情報すら制限されて生きていた様だった。
それに対して、クロムは密かに憐憫の情を抱いている。
気ままに生きる者が居れば、ガルジアの様に、下手をすれば一生を閉じ込められたまま終えかねない者も居た。
そして、ガルジアは今解き放たれたのだった。
決して口にはしないが、不幸な身の上のガルジアは、身内の全てを失う事により、ようやく一人の人として歩き出していた。
それがガルジアの望んだ人生なのか。それはまた、別の話ではあるのだが。
一面に広がる白一色に、ガルジアは息を呑んだ様にクロムには見えた。
銀世界の様に白いそれらは、建物の一つ一つが純白で彩られ、それ以外の色を拒むかの様に、
白以外を用いられずに作られた物の集塊だった。
道を行く者たちの服も目立った色の物は少なく、街並みの更に遠く、小高い山の上に一際大きく聳え立つサーモスト修道院が見える。
例外として別の色があるとしたら、それは広がった空と、土色の大地だけである。大通りは道もまた、純白の石により舗装されていたものの、
建物と建物の細道や、何かしら事情があって取り壊した箇所などには僅かに剥きだしの大地が目に付いていた。それらは別に悪い訳ではないのだが、
白に統一しようと苦心しているこの場においては、非常に悪目立ちをしてしまう様だった。
「凄い。ここが、ヘラーの街……」
「第二聖都と呼ばれているだけあって、君の格好も今は目立つ事もないだろう」
ガルジアの身に纏う服はこれまで着ていた、目立つ事を避けるための平素な物とは違い、
本来その身を包むべく誂えられた純白のローブへと元通りになっていた。
ガルジアは大きく開けた口を掌で多い、目尻に涙まで浮かべる。
しばらくそれを見つめていると、クロムの視線に気づいたのか、慌てて涙を拭い俯いて照れを表す。
「ご、ごめんなさい。私、つい見惚れてしまって」
耳を下げ、生え揃った白髭も倒し、尻尾も垂らすとガルジアは全身で悄然を表現する。
「遊びに来ている訳ではないのに、私」
「いいんだよ、ガルジア。というより、君はもっと旅を楽しむべきだろう」
「でも、私が旅をしているのは、召導書を探す事。……今の私に唯一出来る、修道院の皆への罪滅ぼしなんです」
「贖罪の気持ちを抱くのは君の美徳だと私は思う。しかし、いつでもそんなに根を詰めていては身が持たないよ。
今自分が歩いている道を楽しみなさい。ガルジア」
「楽しむ……」
表情は陰りを見せたまま。その憂いを晒した顔は艶めかしく、クロムは苦笑を零す。
「後悔をしているのかい、ガルジア。しかし後になって後悔をしても、何も変わらないものだよ。
君が今成すべきは、君が決めた召導書を取り返すという事だろう? だったら、その目的のために必要な事は惜しまず享受しなさい。
今の君には、休息と、余裕と、ついでにまともな食事が必要だろう」
しばらく物思いに耽る様にしていたガルジアだが、その内に辺りを見渡して、それから向き直る。その頃には、その瞳にはまた
眩い光が溢れていた。それが、クロムには眩しく感じられる。
「そう……ですね。そうですよね。クロムさん、ごめんなさい! 私、ちょっと考え過ぎてましたし、それに、陰気でしたよね!」
突然の態度の変化に若干の違和感を覚えながらも、注意深くガルジアを観察する。
空元気、という訳ではなさそうだった。
「……思い出したんです。リュウメイさんも、私にそんな言葉を掛けてくれました。
後悔しないで、楽しむ度胸をつけろって。……本当に、クロムさんも、リュウメイさんも。凄い人なんだってわかりました。
私も、そんな風になりたいです。楽しんで、みたいです」
「それは良かった。その意気だよ、ガルジア。召導書を取り戻そうとするのと、君が世界を見て周る事。
それらは両立の出来る事なのだから」
「はい、ありがとうございます」
目の前の白虎は太陽の様に微笑む。本当に、表情の変化が激しい男だった。だからこそ、大事にされていたのだろう。白虎
だから、というだけではないのだとクロムは思いたかった。
「さて、どうするんだい。いきなりサーモストへ行くかい?
この前は街で話を聞くと私は言ったが、よくよく考えてみれば五十年も前の事だ。
証言としてまともな話が聞けるとは、思えないが」
「そうですね……。クロムさんでも覚えていない事ですしね」
「敬虔な信者なら或いは、とは思うが、それならサーモストへ届けられているだろうし、やはり行くならサーモストだろうか」
そもそもが、クロムとて立ち寄ったのはサーモスト修道院を襲撃する話を持ち掛けられたその日、それきりの街であった。
一箇所に留まる事を避けている手前、一度立ち寄った場所にはしばらく寄り付きもしなかったし、
当時は召導書の盗難騒ぎでこの穏やかな街も、にわかに殺気立っていたのだ。流れるだけのクロムが残る理由は何一つとして無かった。
「わかりました、サーモストへ行きましょう」
「宿で休まなくて大丈夫かい?」
「大丈夫だと思います。それに修道院は宿代わりとして利用出来る様になっていますから。
私の居たラライト修道院は周辺に休息場の無い場所でお客様を迎える事もありましたし、
それは他の修道院とて変わりはありません。況して、私も修道士なのですから」
「ちょっと図々しいね」
「そ、そんな事は……ないはずです。そ、それに召導書を探すという、立派な名目があるんですよ!」
そう返されて、思わずクロムは哄笑する。
「いや、すまないね。君もそういう風に図太い事を言うのだなって、おかしくて」
「そんなに笑わないでくださいよ……」
はにかむ様にガルジアはまた顔を伏せる。平謝りをして、ようやく二人はヘラーの街中へと足を運んだ。
道行く者も、建物も。純白に染まっている事が多い街は、知らぬ者が突然に訪れたらさぞや異様な光景に見える事だろう。
しかし街に居る者の顔は穏やかであり、宗教に染まった独特の空気というもので満たされていた。
それがクロムは嫌いではなかったが、自分が纏う事は生涯ないのだろうと感慨に耽る。
もっとも、今は生涯を終える事すらない身なのだが。
「気になっているのですが、この街は背の低い建物しかないんですね」
「それは……見てごらん、ガルジア。向こうの山の上にサーモスト修道院が見えるだろう。
この街の者はどこに居ても、心の拠り所であるそれが視界に収まる様にと、高い建物はあえて建てずにいるんだよ」
サーモストの事は知っているのにヘラーについては知らないのか、という言葉を慌てて呑み込んで、懇切にクロムは説明をする。
二階建ての建物などは、街の内側には一つとて見当たらなかった。外側に申し訳なく物見台の役目を果たす望楼が背伸びをしているだけだ。
サーモスト修道院は、周辺にあるヘラーという白い花弁に赤子の様に大事に包まれ、雌しべの様に、街の者、
そしてクロム達の視界に、悠然と空へ伸ばしたその姿を露にしていた。
「凄いです! この街の造りもですけれど、あの修道院も……私の居た所は、そんなに大きい物ではなかったのに」
近づく度に、サーモスト修道院は更に大きくなりクロム達を傲然な様子で迎えている。
街と同じく白亜に彩られたサーモスト修道院を見上げては、ガルジアは瞳をきらきらと輝かせていた。
美しいその外観と同じ様に、その中に居る者達も清廉潔白な人物だと疑っていないのだろう。
クロムにとっては、少し憂鬱な事だった。
召導書が盗まれたあの日、血眼になって召導書を探そうとしたサーモスト修道院と街の者は
それこそ怪しい者と見るや否や手当たり次第に拘束をしていたのだ。無論、クロムがそれに捕まるという事などは
有り得ないし、よしんばそうなったとしても、切り抜けるのも苦ではなかった。
しかしそういう事を見ている手前、サーモストとヘラーに対するクロムの評価は、今ガルジアの中で破竹の勢いで上昇
しているであろうそれとは反比例するかの様に冷え切っていた。
もっとも、それだけ召導書という物が大事な品であるという事の証左でもあり、クロム自身も召導書には興味があるのだが。
終わり滝で出会ったリーマアルダフレイの言葉が不意に思い起こされる。その中身を知って、禁忌に触れてはいけないと、
ダフレイは忠告していったのだった。
禁忌ならば、この身はもう充分に触れているだろう。
ガルジアに聞こえない様に、クロムはそう呟いた。
白亜の壁に彫られた絵が見事だった。
太陽、人、地。それらは彩られる事はなかったが、全体が白く輝いたその外観においては、それ以外の色は無粋というものだった。
少しだけ入り組んだヘラーの街を、布に垂らした水の様に、時間を掛けながらも抜け出したクロムとガルジアは、
坂道を登り、やがて山の上に鎮座するサーモスト修道院へと辿り着く。
「随分時間が掛かってしまいましたね」
「そうだね。街のどこからでも見えるから、つい近く感じてしまうが、結構な距離を歩いてきた様だ」
振り返れば、一面に白の花。今は沈む夕陽に照らされ、半分は紅に、残りは宵闇の色が覆い、間もなく漆黒に染めてゆく。
しかしその内に昇った月に、やがて街は白銀として輝き夜を彩り、昼とはまた別の顔を見せるだろう。
「この修道院からなら、こんなに綺麗な景色がどこを見ても見えるんですね」
夢見心地にガルジアは言う。幼い時から修道院で育てられたこの白虎は、やはり修道士としての教育を充分に施されたのだろう。
「急ごうか。もう陽が沈む。夜分になってからでは都合が付かないかも知れないからね」
先を促すと、ゆっくりと尾をくねらせながらガルジアも歩きはじめる。時折外観を眺めては、また溜め息を吐いている。
夜が来るのを見て帰ろうとする者達とは反対に、奥へ奥へと進む。サーモストの修道士達は
少し怪訝そうにこちらを見ていたが、ガルジアが微笑むと、胸に拳を当てて一礼した。
整地された道を行き、幾重にも立てられた石柱の間を通り、ついにサーモスト修道院の入り口に立つ。
中に入ると、厳かな空気に僅かながらにクロムは身を震わせた。
生者とも死者とも形容し難いこの身には、祝福されたこの場は何か無し違和感を覚えてしまう様だった。
「大きいですね……。ラライト修道院とは、全然違います」
天井を見上げてガルジアは呟く。壁の象嵌は人の背よりもずっと高いところまで達し、
陽が沈みかけている今は上手くそれが見えないが、これが昼ならば反対側に備えられた窓から差し込む陽光で神々しい眺めになるのだろう。
しばらくそれに見惚れていたガルジアが、はっとして謝罪を繰り返しながら慌ててその先の受付へと顔を出す。
「ようこそ、サーモスト修道院へ」
受付に居る修道士が、笑顔で二人を迎える。狐の顔をした、おっとりとした様子を湛えた男だった。
「礼拝をご希望の方でしょうか? 申し訳ございませんが、本日の礼拝は既に終えておりますので、
教会にてお祈りをするだけの形となってしまいますが……」
「クロムさん、ここからは私が。……あの、実は私、ラライト修道院の者なのですが」
ガルジアの言葉に、修道士は瞳を大きくし思わず身を乗り出す。
「おお、おお……よくぞご無事で。ラライトの事は、勿論私共の耳にも届いております」
「それで、その……恐れ入りますが、院長のイラニス・ユールミード様とお話をさせていただけないでしょうか。
ガルジア・イベルスリードが来たと言っていただければ、お許しくださると思うのですが」
「ユールミード様、ですか……」
不意に受付の男の表情が曇る。それに、クロムは凶兆を覚え瞳を光らせる。
「申し訳ございません。イベルスリード様。……大きな声ではいえないのですが」
受付の男は注意深く辺りを見渡し片手を自らの口へと持ってくる。それに釣られて、ガルジアはそっと耳を寄せた。
しばらく話を聞いていたガルジアが、先程の男と同じ様に瞠目し、思わず声を上げる。
「そ、そんな……何かの間違いです! あの方は、とても厳格な人だと」
「私もそう思っているのですが……」
「どうしたんだい?」
声を掛けると、ガルジアが助けを求める様にこちらに視線を送り小声で事情を説明してくる。
「それが……ここ、サーモストの院長だったイラニス・ユールミード様は、罷免されて今は居ないと」
「修道院長なんだろう? 一番偉いのではないのかね」
「それは、この修道院内での話です。ヘラーの街が第二の聖地と言われている様に、サーモストが
一番に偉いという訳ではないんです。それで、どうもユールミード院長が何かの不正を行ったという密告がされ、
そのまま僻地に向かわされたと……」
「あまり、穏やかな話ではないな」
「ええ。ユールミード様、私は直接お会いした事はないのですが、とても厳格な方だとウル・イベルスリード様……
ラライト修道院の院長様は仰っていたのですが」
愁眉のまま、ガルジアは受付へと向き直り再び話を始める。
「で、では……修道士のロミス・ホーン様を」
「……申し訳ございません。その方も、前院長と同じく」
その言葉にまたもガルジアは仰天した様だった。
「そんな! ホーン様とは会った事はありましたが、悪行を尽くす様な人ではなかったはずです!」
「イベルスリード様……」
「……すみません、大声を出して。では、今の院長はどなたが務めていらっしゃるのでしょうか」
「現修道院長は、エフラス・ロー=セイム様であらせられます。お呼びしましょうか?」
「お願いします」
受付は深く礼をすると、足早にその場を後にする。残されたガルジアは、突然の話に当惑した様子を見せていた。
「一体、どういう事なのでしょうか。院長様も、ホーン様もここには居ないだなんて」
「その、ホーンというのは?」
「ロミス・ホーンは、前に召導書についてラライト修道院まで来て、ウル・イベルスリード院長にお話をしていった方なんです。
ホーン様は、ユールミード様の使いとしてやってきたと。だから、召導書について尋ねるのならばまずこのお二人だと
私は考えていたのですが……その二人が、どちらも居ないとなると」
「修道院長絡みの不祥事、か」
珍しい、とはクロムは思わなかった。宗教と立場を嵩に懸かって私腹を肥やす事など、長く生きているクロムは見飽きていた。
「私には、考えられません。お二人とも、そんな事をする様な人ではないと聞いていたのに」
「考えていても仕方ないな。その二人が居ない以上、今は新しい修道院長に話を聞くしかないだろう。
院長が変わったのは残念だが、それでも院長は院長。何かしら、情報は持っているはずだからね。
ところで、ガルジア。さっき君は自分の事をガルジア・イベルスリードだと名乗っていたが、
君はそのウル・イベルスリードとは何か関係があるのかい」
「直接的には、何も。それに、修道士は一旦修道士になったら独身を貫くものですし、種族も違いますから。
ただ、私は両親から修道院に預けられた身で、姓が無いのです。恐らくは、姓を辿って捜索する事を避けたのだと。
なので私の姓であるイベルスリードは、ウル・イベルスリードから預かっている物なんです。
普段は使いませんが、今日の様に名乗らなければいけない時には、姓も必要だろうと院長様は仰ってくれて。
修道院に引き取られた他の子も、イベルスリードの姓を預かる者も居ました」
「なるほど」
「あの日、ラライト修道院が襲撃され……話を聞く限りでは、生き残りは遠出していた修道騎士団の方のみ。
その中にイベルスリードの者は居ませんから、今となっては、私が唯一イベルスリードを名乗る者となってしまいましたが……」
修道院の事を思い出したのだろう。目を落としたガルジアの瞳には薄っすらと涙が浮かんでいる。
「ガルジア」
「……ごめんなさい、今は、サーモスト修道院についてですよね。
とにかく、新しい院長様に会ってみましょう」
気丈に振舞うガルジアにはそれ以上声を掛けずしばらく立ち竦んでいると、やがて受付の男が笑顔で戻ってくる。
「イベルスリード様、お待たせしました。院長様もぜひお会いしたいとの事です。
時間も頃合です。ささやかながら、夕餉と寝床の準備もいたしますので、よろしければぜひ」
「ありがとうございます」
ガルジアの思惑通りに事が運び、思わずクロムはくすくすと笑みを浮かべる。
それを聞いたのか、ガルジアが横目でなんとも言えない表情をしながらこちらを見ていた。
「さて、それではお相伴に預かろうかな」
「この方も同席させても構わないでしょうか。私をここまで連れてきてくださった恩人なんです」
「そうでしたか。勿論、よろしゅうございますよ」
再度礼を言い、クロムとガルジアは男に連れられてサーモスト修道院の奥へと案内される。
その頃にはすっかり陽は沈み、夜の闇が修道院を包み、二人を月明かりも届かぬ闇の懐へと呑みこんでいった。