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13.召喚士と召術士

 男が立っていた。
 薄暗い、光石の頼りない光源の中で一際強く輝いていた光が少し収まり、ガルジア達の前に男だけが残る。
 黙然と佇んだまま、現れた虎人の男はリーマを見つめていた。
「で……出たぁーっ!!」
 リーマが思わず声を上げる。絶叫にガルジアも身体を震わせ、慌てて壁際まで下がった。
「が、ガルジアさん、出ました! 幽霊ですよ、早く、早く鎮魂歌を!!」
「ええっ!? ちょっと待ってください、こんな月も太陽も見えない所じゃ上手くいきませんって!」
「僕も手伝います! さっきみたいに二人でやればきっと」
「二人とも、落ち着きなさい。害意は無いみたいだから」
 寄り添うガルジアとリーマの様子に呆れたクロムが男との間に入る。
「護衛の私が騒ぐならまだしも、話をする君達が慌てていては解決するものも解決しないだろう」
「ご、ごめんなさい。つい……」
「話は済んだのか」
 律儀に待っていたのか、男が声を掛けてくる。再度リーマと顔を見合わせて、ガルジアはそっとその肩を押した。
「あ、あの……先程セロスの血を引く者と言いましたよね。やっぱり、あなたがリーマアルダフレイ様なのですか?」
「如何にも。私がリーマアルダフレイだ」
「悪霊じゃありません?」
「ふむ。悪霊といえば悪霊かも知れないが、少なくともお前達をどうこうしようとは思わん。
それに、お前達の力で私を降伏する事など出来はしないから、諦めなさい」
 害意が無い事を証明するためなのか、リーマアルダフレイの纏う光が更に弱まり、やがては消える。
 現れたのは極普通の、壮年の虎人だった。白虎とは違い黄色を宿し、瞳の色も金色の、ただの虎人。
「……白虎じゃない」
 ガルジアは思わず呟く。それを耳聡く聞いたのか、リーマアルダフレイはこちらを見て口元に笑みを湛える。
 その内にその瞳は再びリーマを捉えた。
「名は、なんという」
「リーマです。ダフレイ様の名前から、肖ったものです」
「ほう。それはまた、物好きな。面白い」
「ダフレイ様は……本当に幽霊なんですか? なんだか、随分とはっきり見えますが」
「ここには私の力を強く残してある。外に出られはしないが、この場に居る限りはこうしてお前達にも私の姿がはっきり見えるのさ。
しかし、よくここまで来てくれた。幽霊騒ぎなんぞをやっていたから、誰が来るのかと暇潰しに見ていたが。
まさか私の子孫が来るとは。ふふ、面白い者が釣れたな」
「……随分変わった方ですね」
「歳を取るとああなるものだ」
「クロムさんはならないでくださいね」
 リーマとの話を邪魔しない様に、ガルジアとクロムは一歩下がってその話を見守る。
 自分達が聞いていて良いのかと一度尋ねたが、リーマとダフレイの二人が許可したので傍観を決め込む事にした。
「ダフレイ様、僕はダフレイ様が霊となって出没しているという話を聞き及びやってきました。
何か、遣り残した事でもあるのでしょうか?」
 時間が限られている事もあり、リーマがすぐに本題へと入る。
「ああ、実は一つ気がかりがあってな。私の事を知っているお前ならわかるとは思うが、ネモラについてだ」
「ネモラ……大召術士の事ですね」
 リーマが答えると、ダフレイは感慨深げに頷く。
「召術士、か。なるほど、今はそういう呼称が使われているのだな。確かに、今のお前達では召喚士は名乗れまいて。
まあそれはいい。それでな、今の世に恐らくネモラが遺した何かがあると思うのだが、それをお前は知りはしないか」
「それは、召導書……ネモラが書き残したといわれる書物の事でしょうか?」
「召導書? 彼奴め、そんな物を遺してしまったのか。厄介な」
「ダフレイ様、召導書についてなら彼らの話もお聞きください。彼らはそれを捜して旅をしているのです」
 機転を利かせて、リーマがガルジア達を紹介する。毛深い眉を上げると、ダフレイがこちらに視線を送るが、
その表情は厳しくなりまるで嫌悪するかの様に歪む。
「お前達、召導書を狙うとは何を企んでおる」
「ち、違うんです! 私達は、盗まれた召導書を捜しているんです!」
 ガルジアの必死の言葉に、ダフレイの表情は転ずる。虚を衝かれたかの様に今度は瞠目して、
思わず伸ばした手で豊かに蓄えられた顎の獣毛に触れる。
「盗まれた? ……ああ。ならば、やはり少し前に気配を無くしたあれは、その召導書という奴だったのだな。
すまないな、私はここに閉じこもっている故に外の事には疎い。時間の流れを理解する事も、な。話を整理しよう。
ここから北東に位置する場所に、私はネモラの力を感じ取っていた。それがなんなのかはわからぬが、
恐らくそれがお前達の言う召導書だろう。ところがこれが、ある時気配を感じなくなってしまった。
それだけなら紛失でもしたのかとも思ったが、最近になってその気配を、其処此処で感じておる。
強い魔力を宿した物。それも、ネモラの奴が遺した物だ。どうにも気になって、私は、私の言葉を聞いてくれる者を探していたのだ」
 ダフレイが説明を終える。それで大体の経緯はわかった。召導書の行方と、その説明はぴったりと重なるのだ。
 その言葉に返事をしようとして、挨拶の途中だったという事を思い出しガルジアは慌てて姿勢を正す。
「申し遅れました。私はラライト修道院の修道士。ガルジアです。こちらは護衛のクロムさん。
ダフレイ様、ネモラの召導書は北東にある、サーモスト修道院という場所に聖物として納められていた物です。
それが盗難に遭い、私達はそれを捜すため、手掛かりを求めてサーモストに向かうところなのです」
「なるほど。なるほど」
 何度か髭を弄びながら、ダフレイも納得してくれたのかそう返事をする。ガルジアは内心ほっとした。
 死して尚この様に姿を現せる程の人物である。機嫌を損ねれば、最悪この洞窟から外に出られなくなる可能性もある。
「ダフレイ様。ダフレイ様は、ネモラの召導書……いえ、ネモラの力を感じ取る事が出来るのですよね?
でしたら、どうかお教えください。私は盗まれた召導書を取り戻さなくてはならないのです」
 一歩前に出、懇願するかの様にガルジアはダフレイを見つめる。背の高いダフレイはじっとガルジアを見下ろしていた。
「すまんが、今の私では力にはなれんよ。
誰かは知らんが、召導書を盗んだのは中々の手練だ。ネモラ独特の魔力から場所を特定されるのを避けるために、
細工をしている。私でも時折その力が、どこかにあるのを感じるだけ……つまり、消滅していない事がわかるだけなのだ」
「そうですか……」
 つと、ダフレイが笑い声を上げる。面白い物を見つけた子供の様に無邪気な笑い方だった。
「しかし、そうまでするという事は。ネモラの召導書……なるほど、中に何が記されているのかは、察しがつくな。
彼奴め、そんな物を遺せばどうなるのかわからん頭でもないだろうに。それとも、対抗策でも記したのか」
 したり顔でぶつぶつとダフレイが呟く。やがて考えの整理がついたのか、再び話しはじめる。
「ガルジアよ。すまないが、やはり私では力になれそうにない。当初の目的通り、北東を目指すが良いだろう」
「ありがとうございます。召導書がまだ現存すると聞けただけで、良かったです」
「しかし、一つ忠告しておく事がある。召導書を取り戻したとて、みだりにその中身を検めてはいかん。
禁忌を知れば、やがてはそれを知った己自身が禁忌そのものになるものだ。特に、お前の様な白虎はな」
「私が白虎だから、ですか?」
 含みのある言い方に、ガルジアはダフレイの真意を探ろうとする。しかしダフレイは既にリーマの方へと向き直っていた。
「……話は終わりだ。リーマ」
「はい!」
「お前は……召術士だな? 言わなくても良い。お前の身体の中にある力を見れば、それはわかる」
「はい。でも僕は才能が無くて、精霊くらいしか呼び出せません」
「ふむ。そうか。そうだろうな。……面白い、せっかくだし私が稽古をつけてやろうではないか。
私の使っていた家はまだあるのか?」
「セロス家は残っています。魔方陣も、そのままです」
「なんと。あんな物、後世には無用だから早々に片付けられると思っていたが。ふふ、気に入った。これを受け取れ」
 ダフレイが腕を差し出すと、掌の上に眩い光が現れる。ガルジアの隣に居たクロムが思わず身構えた。
「すまないな、生死から外れた者よ。お前の様な力の強い者に、召喚士の力はさぞ気味が悪く感じられるだろうさ」
「ダフレイ様、どうしてそれを」
「私を舐めるんじゃあないよ。さあ、これを持っていきなさい。リーマ」
 掌に現れた光の球を、ダフレイはリーマへと手渡す、その手は既に半透明になり、その先の壁が透けて見えている。
「私の力を籠めておいた。あとは家に持っていけば、そちらでお前の面倒を見てやれるだろう。
……さて、そろそろ時間だな。ここには随分と長く居たが、私が居る必要も既にないだろう」
「待ってください。終わり滝は魔物が寄り付かない地ですが、ダフレイ様が居なくなっても大丈夫なのでしょうか?」
 問い掛けにダフレイは笑みを浮かべる。予想していた事とでも言いたい様だった。
「心配は無用だ。それは私だけの力で成したのではない。げに恐ろしきはあの力。
私はそれを和らげて、方向性を変える。それだけの事しか出来なかった。
力の片鱗は消えずに残り続けるし、もし消えるとしても、生身ですらなくなった私にはどうする事もできん。
ああ。せめて私がもっと彼を理解する事が出来たなら、今日の事態を招く事も無かったかも知れないというのに……」
 リーマアルダフレイの身体が透けてゆく。その時ガルジアは一驚する。いつの間にか、リーマアルダフレイの
被毛からは陽の色が消え失せ、白銀に美しく輝く白虎の姿になっていた。縞模様の色は
微かに薄まり、瞳も蒼玉の様な深い海の色を湛えている。
 リーマアルダフレイは自身の腕を見つめ、悲しく笑う。
「許してくれガルジア。白虎である事を厭い、逃げ出した弱い私を。
そしてお前は、強く生きなさい。召導書を求めるあまり、その身に絶望を宿しても」
「待ってくださいっ! 訊きたい事があるんです、ダフレイ様!!」
 伸ばした手は、ダフレイの身体を擦り抜ける。淡い光になり、ダフレイは消えた。リーマの手元にある宝玉が代わりに光る。
「ダフレイ様、やっぱりあなたは……」
 そっと、リーマの持つ宝玉へと触れる。ダフレイはもう何も言わなかった。
 滝の音が聞こえる。静けさの戻ったこの場所では、遠くにあるその音だけがやけに強く、
ガルジアの心を反映するかの様にただ虚しい音を響かせていた。
 明朝、終わり滝の前でガルジアとクロムはリーマと別れの挨拶をする。
「ガルジアさん、クロムさん。本当にありがとうございました。おかげで僕は召術士として頑張れそうです」
「頑張ってくださいねリーマさん。ダフレイ様の指導があれば、きっと立派な召術士になれるはずです」
「そうだと嬉しいのだけど」
 リーマが破顔する。先祖の霊に会うと気丈に振舞っていた事から解放されたのか、出会った頃の礼儀正しさと若年寄な
雰囲気は今は鳴りを潜め、少年らしさと生気を溢れさせていた。
「セロス家に戻ると言っていたね。という事はやはり、サマザルに?」
「そうなりますね」
「サマザル?」
「ここから北北西にある、召術士の村として名高い場所さ。ダフレイの名に肖りたい者の集まる場所だ。
元々は荒地だったが、ダフレイが居を構え、亡き後も子孫、そして召術士達が集う場になったと聞くよ。
確か、蜘蛛街道の中央に位置するのだったかな」
「はい。セロス家はサマザルの、更に中心。もし旅の途中で近くに来たら、立ち寄ってみてくださいね。
ガルジアさん、クロムさん。いつか僕が力をつけたら、きっと助けに行きます。
今回の事でお支払いしたお金では、まだまだ恩返しにもなりませんから」
「そんな。私達も貴重な情報を得たし、また体験もしました」
「ああ、自分より長生きした者を見た様な気がするよ」
 隣から呟かれた言葉にガルジアは苦笑する。クロムの方が長く生きているだろうと言いたかったが、
リーマの居る手前何も言わずにその背を軽く叩く。
「それでは、また会う日まで。ガルジアさん達の無事をお祈りしています」
「リーマさんも。またどこかで」
 手を振ってリーマを送り出す。走り出した少年は、その未来が晴れ渡っているのを知っているかの様に軽やかな足取りだった。
 それを羨望の眼差しで以って見つめていたガルジアは、小さく笑いクロムへと向き直る。
「さて、観光だけにしては一日多く時間を掛けてしまいましたね。
おかげて身体は楽になりましたけれど。行きましょう、クロムさん」
「ああ。……ガルジア」
「なんでしょうか」
「ダフレイが白虎と知って、彼に何を訊きたかったんだい」
 昨日の事を胸に留めていたのか、クロムが話題にする。ガルジアは耳を下げ、口元だけを緩ませる。
「……白虎に産まれて、幸せだったのか。それを訊きたかったんです。
白虎から逃げたと言ったダフレイ様は、辛い事を経験したのだと思います。
でも、どんなに辛い道でも最期に思い返した時には、何か思うところがあったのでしょう。
私はそう思ったんです。だから、私には逃げろとは言わず、強く生きろと言ってくれた。……私の、勝手な思い込みです」
「そうか。私も、そう思うよ」
「ありがとうございます、クロムさん」
 終わり滝を後にする。一度振り返って、その壮大な、その昔偉大な召術士が居た滝を見上げる。
 リーマアルダフレイと出会えて良かった。ガルジアは、少しだけ自分に自信を持っていられる様な気がした。
「行きましょう」
「ああ。……そうだ、ガルジア。強く生きるのなら、やはり怖い物は無くした方がいいだろう。
昨日の事で幽霊にも慣れただろうし、怖い話でもしながら旅を」
「もう! そういう事をするの、やめてくださいクロムさん!」
「冗談だよ。でも君の鎮魂歌がそういう相手には役に立つのだから、いずれは。ね?」
「……うう、わかりました。少しずつ。少しずつ、ですよ? 沢山は止めてください。眠れなくなってしまいます」
 一方的な怪談話に華を咲かせて、ガルジアとクロムの道中は続く。

 大地を蹴立てて、荒地をひた走る。
 先を行くリュウメイの尻尾が、ライシンを誘う様に揺れていた。それを見つめながら、ライシンも同じ様に足を前へ、前へと踏み出している。
「せいっ!」
 掌に集めた魔力を適当なところで地面に押し付ける。そのまま走っていると、後方から爆発音が聞こえて思わず耳を下げた。
 振り返りもしないが、自分達を追っている賊が、仕掛けた罠を早速踏んで爆発させたのだという事は容易にわかった。
「てめぇは本当に小細工が好きだな」
「いいじゃないっすか。こうしてまっすぐ逃げている以上、罠なんていくらでも仕掛け放題っすよ」
 目的地をサーモストに定めて早十日。ライシンとリュウメイは道なき道を進み、少しずつその足をサーモストへと近づけつつあった。
「しかし、まあ。ここにきて随分と追手が多くなりやしたね。
ちょっと前まではそんなに追われる事もなかったし、こりゃ街道を避けたのは正解みたいっすよ」
 後方の煙が風で流される頃に一度振り返って、ライシンは軽く舌打ちをする。少々先頭と後続の間が空いていたのか、
それほどの人数を巻き込んだ訳ではなさそうだった。
「俺達がどこへ向かっているのか検討がついたんだろうな。用済みとわかったらすぐに手を下す。
ま、あいつらしいっちゃ、らしいか」
「兄貴、あのバインって人とそんなに親しい間柄だったなんて……」
「ちげーよ。そんなに良い付き合いって訳じゃねぇ。元々蜥蜴が珍しいってんで、しばらく俺に付いてきてただけだ。
付いてくる時も、離れる時も、あいつは一瞬だったしな。人を品定めする目が気に入らなかったぜ」
 それは兄貴も。と言おうとしてライシンは慌てて口を噤む。こんな所で言えば、足払いを掛けられ囮にでもさせられかねない。
 何度か同じ事を繰り返し、次第に後方から喚声が聞こえなくなった頃にライシンはまた振り返る。人影は見当たらず、もう罠を仕掛ける必要も無い様だった。
 呼吸を整えて一歩を踏み出したところで、踏み締める感触が先程までと違っている事に気づく。
 いつの間にか地面は泥濘になり、足を上げると後ろ髪を引く様に伸びた泥が、足を縛ろうとしていた。
「あーあ。ついてねぇっす。こんな所歩かないとだなんて」
「戻る訳にもいかねえ。このまま行くぞ」
 泥濘の中を足を滑らせぬ様に慎重に歩く。特に、ライシンの様な重みのある者は
ちょっとした事で体勢を崩して尻餅をつきかねない。
 泥の世界を旅しながら、ライシンは時折違和感を覚えて辺りを見渡す。空は旅を祝福するかの様に
一面澄み渡っていたが、今はそれが腑に落ちなかった。太陽は眩し過ぎる程に輝いているというのに、足元には、泥濘の、ともすれば
それは怨嗟を纏った死者の腕でもあるかの様に、自分の足を捕らえようとしている。
「……通り雨でもあったんすかね。こんなにぬかるんでるなんて」
「注意しろ。自然に出来たって訳じゃねぇみてえだ」
 リュウメイが指した方向には木が横たわっていた。根は剥き出しで、浅い根の様だった。
 予期せぬ泥濘に遭った事により上手く自重を支えきれなくなったのだろう。
「通り雨じゃ流石にここまでは……」
 訝しみながら呟いた言葉が途切れた。ライシンが言葉を切ったのは、リュウメイが構えたからである。
 視線の先を追ってみれば、人影か一つ。見渡しの良い泥の世界の中に、それは立っていた。
「おや、奇遇ですねお二人とも。こんな所でお会いするなんて」
 まるで雨上がりの中を迷いながら歩いてきたとでも言わんばかりに、フードを下げると漆黒の被毛を晒した狼が言う。
 先日遭遇したばかりの怪しい男。バインだった。夜を思わせる黒い被毛は、陽に照らされた明るい世界の中では異質な物に見える。
「よくそんな事が言えるなてめぇは。明らかに待ち伏せじゃねえか」
「またまた、そんな。ただ私は泥濘に足を取られて難儀していたところだったのですよ。こんな物悲しい大地で
人と出会えるなんて。僥倖と言う他ないですね。いえ、まったく、なんという偶然でしょう」
「兄貴、この人胡散臭いっす……」
「そういう奴だ」
「止めてほしいですね、人を胡散臭いなどと。近頃の若者は不躾で困ります」
 口々に勝手な事を言われて、酷く傷ついた様子をバインは見せる。それがまた一層、この男の怪しさを引き立てていた。
「あんただって若いじゃないっすか」
「……ふふ、そうでしたね」
 機嫌が良さそうにバインがにやりと笑う。笑みの中であったとしても、人を値踏みするかの様な瞳は変わらず不快感を覚える。
「そうそう、今日はお話があるんですよ。せっかくこうして会えたのですからね」
「なんだ、俺達を始末しに来たんだろ」
「そんな乱暴な話ではありませんよ。実はあなた達に私の傘下に入ってほしいのです」
「はっ。散々雑魚けしかけといて、今更何言ってんだ」
「そうっすよ! あんなに手下ばかり送ってきて! おかげでお財布潤ったけど!」
 捲し立てると、バインは中指で眼鏡を押さえて笑い声を上げる。それを見て、ライシンは少し目を見張る。今までは腕を
下げていたために見えなかったが、その腕は手首の辺りから指先までは、黒から一転し、白色の物へと転じている。
「それですよ。あなた達のせいで私の手下は結構な被害を被っている訳でして。
仲間内でも手を出したくないという者まで出る始末です。まったく、金で動くだけの木偶の癖に困ったものです。
それなら一層、あなた達を手元に置いておくのも良いかと思いましてね。
勿論、今までの事をそう簡単に水に流してほしいというのは虫の良い話ですから、報酬は弾みますよ。
そうですね……リュウメイ、あなたなら十日で金貨七枚は最低でも保証しますよ。
そちらのライシン君は……まずは金貨三枚。しかし有能そうですからね。働きに応じてリュウメイと同じにして差し上げます。
如何でしょうか? ぜひご検討いただきたいものですね」
「金貨……どこからそんな金が出るんすか」
「盗賊をしているとはいえ、別に金に困っている訳ではありませんのでね」
 ライシンは黙りこくったままのリュウメイをそっと見遣る。自分一人での判断は出来ないが、
リュウメイの判断に従うのが得策だった。ここでリュウメイと対立でもしようものならバインの思う壺である。
 リュウメイの出方がわからない今はただ成り行きを見守るしかなかった。仮にリュウメイがこの話を
呑むとしても、それはバインに近づき始末するためかも知れない。少なくとも、自分が下手に行動を決める訳にはいかなかった。
 やがて痺れを切らしたのか、バインが一歩前へと進む。
「リュウメイ、迷っているのですか? それなら背中を押してあげましょうか。
私が白虎の修道士を求めているのは先日お話した通りですが、彼に対する有力な情報を教えてくれたら金貨十枚。
彼を拘束し、引き渡してれたなら金貨五十枚。彼が私の期待通りでしたら更に金貨百枚を渡しましょう。
悪い条件ではないと思うのですが」
「ひゃっ、百枚……!?」
 大口を開けてライシンは目を点にする。そこまでして、ガルジアを求めているのか。
 そこらの金持ちでは出し渋る金額を、この男は事も無げに提示しているのである。
 ガルジアを求める理由を束の間ライシンは思案する。
「これでもまだ足りませんか? あなたも中々に欲深い身ですね。おっと、欲深いのはあなたの育った国を見れば自明でしたか」
「バイン」
 リュウメイが目を見開く。殺気にライシンは身を震わせた。バインは、リュウメイの逆鱗に触れたのだ。
「てめぇのそういう態度、俺は心底気に入らねえな。金をちらつかせれば誰でも言う事を聞くとでも思ってんのか?」
「人は金で動く生き物ですよ、悲しい程にね。だからこうしてあなた達をここへ招く事も出来ました」
 リュウメイが剣を抜く。漲った殺気はこれまで見てきたどのリュウメイよりも強く。肌にひりつく感覚がライシンを高揚させた。
 この強さが、殺気が、非情さが、いつでも自分の心を奪ってゆくのだった。他の男では、物足りない。正義感を振り翳す
様な者など、論外だった。束の間、うっとりとその姿を見つめてから、我に返って慌てて戦闘態勢に入る。
「流石兄貴っす! 俺っちの見込んだ男だけはある……俺っち、付いていくっすよ!」
「てめぇは敵でもいいんだがな」
「またまた、そんな事言って」
 腕を構えて、ライシンは魔力を集める。いつでもバインを吹き飛ばせる様に準備をしていたが、
バインは動揺も見せずに立ち竦んでいる。
「なるほど。残念ですよリュウメイ。あなたみたいな貴重な種を始末するのは些か気が引けるのですが、
仕方ありませんね。ここで死んでください」
「俺達を始末したら、お目当ての白虎の手掛かりも無くなるんじゃねぇのかバイン」
「ご心配なく。あなた達の足取りから目指すのはサーモスト修道院だと検討はつきましたから。
白虎が修道士なのを考えれば、まあ当然といえば当然。もしあなたの行動が虚偽であったとしても、
他の場所を見るのなら私の手下だけで充分ですから。
それにひ弱な修道士が生き長らえているとすれば、それは仲間が居る可能性が高い。
そうでなければ当にどこぞの賊の手に渡って、それは私の知るところとなっているでしょうからね。
それならば、白虎とあなたが合流を果たす前に、ここで始末するのが得策というものでしょう?」
「てめぇに付かなくて良かったぜ。そうやって人を使い捨てにする腹積もりなのが、心底気に入らねえ」
「ふふ。あなたのそういう負けん気が強いところ、私はとても好きですよ。……アローネ」
 戦闘体勢に入ったところで、バインが指を弾いて鳴らす。その音を皮切りに、辺りに溜まっていた泥が突如集まりだす。
 次第に固まりになったそれは魔物に近い姿をし、上半身だけを泥の山から出すとバインの隣へと現れた。
「リュウメイ。あなたは私が召術士である事を知っていますね。ですから隠しはしません。
紹介しましょう。私の召喚獣であるアローネです。彼はまだ私の手下になってから日も浅いので、
あなた達を始末するという功名を上げる機会を与えてみました。それでは、御機嫌よう」
 バインの身体が先日の時と同じ様に色を失い、泥の様に崩れてゆく。
 あれはバインの呼び出したこの召喚獣の仕業だったのだと理解して、ライシンはリュウメイにそっと近づいた。
「兄貴、あいつぁ……」
 泥の塊であろうそれ。アローネを見つめる。
 ライシンにとっては初めて目の当たりにする召喚獣だった。
 それは、本質では精霊と同じであると言い放ったガルジアの言葉を思わず疑い、異議を申し立てたくなる程に禍々しかった。
 先程の見立て通り、その身体は泥で形に覆われ、形成されているのは上半身のみであり、
それでも人の高さに届く程大きく、その頭部は竜を象ったかの様な形をしている。
 生物であるならば本来は目に当たる場所は窪み、眼窩の先には深淵の闇があり、その中に頼りなげにこちらを誘う様な淡い光がぼんやりと見える。
 どろどろとした土は絶え間なくその身体を伝い、目に当たる部分をも時には流れ、
その度に光る瞳は瞬きをする様に、消えては現れ、また消えるという事を繰り返していた。
 泥の召喚獣、アローネ。
 そこから感じられる魔力は、精霊の比ではなかった。まるで大人と子供、それ以上の差を感じる。
 その中に微かな嫌らしさを覚えるのは、恐らくはバインの魔力が残されているからなのだろう。
「召喚獣を見るのは、初めてか」
 呆然と泥の怪人を見つめていると、リュウメイに声を掛けられライシンは我に返る。
「はい。俺っちあちこちに旅もしたっすけれど、あんなのは終ぞ見かけやせんでしたね」
 それだけ、召術士は稀有な存在だった。ディヴァリアに居た頃は召術士と名乗る者も見かけたが、
大抵は召喚獣を呼び出す力の無い、ただの精霊使いが大半であったのだ。
 それが、あんな物を呼び出してしまうのだから、あのバインという男、やはり只者ではないのだろう。
「いいかライシン。いつあいつが動くかわからねぇから手短に言うが、召喚獣ってのは基本的に倒せねえ相手だと思え」
「えぇっ!?」
 頓狂な声を上げてライシンはリュウメイを見つめる。リュウメイは前を見たまま、ねめつける事を止めてもいなかった。
「精霊と召喚獣の大きな違いは、傷を負わせて退治出来るかどうかなんだ。
召喚獣ってのは、あいつらの世界からこちらに呼び出される際に色々と制約を受ける。
その代わり、呼び出した奴の魔力でその身体は構築される。つまりあいつを傷つけても、飼い主であるバインの
魔力があれば修復できるって事だ」
「はぁ。……なんか、召術士ってずるいっすね。あのバインって奴、今自分だけ逃げたっすよ。絶対高みの見物っすよ」
「俺もそう思う。で、問題はどうするかって事だな。
具体的な対抗策はいくつかある。一つは、修復するのにバインの魔力を使うんだから、
バインの魔力が尽きるまであいつを攻撃し続ける事。二つ目は親玉であるバインを直接攻撃して、魔力を奪うか、気絶させるか、殺す事。
三つ目は、呼び出されたんだから、あいつを召喚獣の居る世界に追い返す事。
……これが、あいつ自身で言った、召喚獣と対峙した際に取るべき行動だ」
「胡散臭いっすね……。まあ、道理っちゃ道理っすけど。あの男がさっさととんずらこいてる辺り、
満更嘘って訳でもねぇでしょうが。三つ目は論外として。俺っちは異界の扉なんて開けられねっす。
残るは袋叩きにするか、あの男を直接攻撃するかっすけど」
「俺は普通の相手なら剣で戦える。が、あいつは駄目だな」
 アローネを見遣る。現れた時といい、その身体のほとんどが泥で形成されているのは間違いないだろう。
 そんな相手にリュウメイの剣が効果があるとは、確かにライシンも疑問を抱く事であった。
「残るはあの男……けど、駄目っすね。どっかで見張ってるとは思うんすけど、あの男、現れた時もそうだったっすけど、
あんなに嫌な魔力びんびんだった癖に、今はちぃとも感じないっすよ。あの泥から感じるのも、探すのに邪魔になってるっす」
 見事な赤髪を一度振り乱し、リュウメイがにやりと笑う。
「まあ、物の見事に全部駄目って事だな。だったら別の方法が必要だが。お前、白布以外の帯魔布は持ってるか」
「黒と紫なら」
「どっちが上か知らねぇが、とにかくいい方で今から邪法を唱えてくれ、あとは……」
 リュウメイが指示を伝えてくる。頷くと、ライシンは後方へ跳んだ。
「あいつは俺が引きつける。頼むぞ」
「合点っす! ……兄貴、気をつけてください。剣も通じないんじゃ、捕まったら潰されかねないっす」
 不敵な笑みをリュウメイは浮かべる。ただの暴漢や魔物相手なら出来ても、召喚獣を相手にしても尚変わらずにある
その傲然たる態度がライシンを安堵させる。
「さて。随分待たせて悪かったな」
「話は済んだのか」
 耳を震わせ、ライシンは驚いて声を上げる。リュウメイの言葉に応えた声は泥の中から聞こえてきた。
 しわがれた声は地の底から這う様な印象を与え、時折その言葉は何かに塞がれた様に小さく、奇妙な音を立てては続きを発する。
 泥の召喚獣であるアローネは言葉を発してはいたが、上手くは話せない様子だった。
「兄貴、こいつ喋って」
「なんだ、知らねぇのかライシン。召喚獣は精霊と違って大抵の奴は口が利けるぜ」
 それは、召喚獣を初めて目の当たりにするライシンにとっては衝撃的な光景だった。
 無論、ライシンとてディヴァリアで遊学をした事もある身である。召喚獣が言葉を解す事も、それを自ら扱う事も知っていた。
 しかし、それでも。実際に聞いた事はなかったし、どういった物言いをするのかも知らずにいた。
 ガルジアが呼び出していた精霊を思い返す。彼らは、言葉こそ理解していた様だが、しかし物言う事はなかった。
「随分気前がいいじゃねぇか、それとも俺達が話している間に、てめぇも何かしてたのか」
「我は何もしていない。ただお前達をどう始末するか。それを考えていただけだ」
 またあの聞き取りづらいアローネの泥声が聞こえる。ライシンは、今はただその言葉を聞き取る事に専念していた。
 戦いは既に始まっている。ただ、アローネが何もしてこないだけである。
「どうやったらバインに気に入っていただけるか、ってところか」
「その通りだ。それだけが、バイン様に仕える我の望み」
「で、あわよくば種族名も貰っちまおうって魂胆か」
 アローネが目を見開いた様に、ライシンには見えた。実際には、流れる泥が偶さか眼窩の部分を避け
大きく目が開いたかの様になり、その中にある光が刹那光り輝いたのだ。
「貴様、何故それを」
 僅かに動ずる気配をアローネは見せる。やはり、リュウメイの言葉に反応を示していたのだろう。
 得たりとばかりにリュウメイは口尻を吊り上げる。
「何、これもバインから聞いたってだけだ。召喚獣ってのはてめぇの名以外に、種族名があるってな。
ただ全ての召喚獣が種族名を持つ訳じゃねぇ。種族名は、優秀な召喚獣の一族にだけ与えられる称号みたいなもんだってな。
さっきバインはてめぇを紹介する時に、てめぇの名だけを口にしてやがった。
自分の名前しか持ってないから、功名を上げたいんだろ?
召喚獣ってのは、召術士に仕えるか、絶大な力が無きゃ種族名が付かないそうだからな」
 鼻で笑う仕草をして、リュウメイがアローネを嘲る。
「種族名も持ってねえよ様な下級召喚獣を寄越すなんざ、随分舐められたもんだな」
「あ、兄貴」
 ざわつく魔力に、ライシンの喉から突き出される様に言葉が出る。
 リュウメイの言葉が響く度に、アローネの周りにある泥が騒がしく動き、時折音を立てていた。
 ざわざわと、何か別の生き物の様に泥はアローネの元へ集まり、また大地を汚し泥濘を増やしてゆく。
「……リュウメイ、と言ったかな。貴様の言う通りだ。それこそが我の悲願。
召術士様に尽くす事で、我は、我の種族に誇りを持たせたい。だからこそ」
 アローネの泥の身体から、羽根が広げられる。よく見るとそれは、アローネが下ろしていた泥塗れの手を広げた姿だった。
 腕から滴り落ちる汚らわしい泥の滝が、さながら翼の様相を呈している。
「だからこそ、貴様の様な口先だけの愚か者を殺しバイン様に認めてもらうのだ!」
 しわがれた声は怒声へ変わる。アローネは泥の海へ両手を叩きつけると、それは波に変わりリュウメイへと迫る。
 特に動ずる事なくリュウメイはそれを避けると、背を向けて走り出した。
「臆病風に吹かれたか、掛かってこい!」
 泥の怪人がそれを追う。思っていたよりもそれは素早く動いた。蛇の様に大地の上を進む。泥は僅かに尾を引く様な形でそれに従う。
 ライシンはリュウメイを見送り、アローネがこちらを眼中に置いていない事を確認すると、踵を返し駆け出し、
泥の中でもどうにかその浸食を免れた、大きく、天辺は平たい岩を幸運にも見つけ出すと、今まで背負ってきた大きな背負い袋をそこへ置く。
 乱暴に綴じ紐を解くと、走ってすっかり乱雑になった中の様子に思わず呻いてから、大慌てでその中にある目的の物を捜しはじめる。
「これじゃない、これでもない。これは……駄目っす、こんな時に、こんな破廉恥な物」
 がさがさと要らない物を取り出しては、泥の海に落ちない様に気をつけながら横へ並べてゆく。目当ての物が
小さいが故に、探すのは中々に骨が折れる事だった。
「ああっ、もうっ!」
 憤慨し、思わず岩を叩く。腕に触れた中身がいくつか泥の中へ落ちるが、そんな事も気にしていられなかった。
 袋から一旦距離を取ると、腕に巻いていた白の帯魔布を剥がし、露になった腕を見て、念じてから袋へと向ける。
「時間が無いっすよ! ……来い!」
 袋の中から何かが動き出す。次の瞬間、勢い良くその中から何かが飛び出した。
 宙に舞ったそれは、自分の上にあった邪魔な荷を吹き飛ばし、四散させ、それを見て思わずライシンは大口を開けてしまう。
 しかし、構ってはいられなかった。自分の元へと飛んできた、黒の帯魔布へ手を差し出す。
 端を左手で掴み、魔力を注ぎ、引き寄せる。巻いてあった黒布は風に乗せられた様に広がり、ふわふわと持ち主の行動を待つ体勢に入る。
 右の腕で指先二本に力を入れ、光らせる。素早くそれを黒布に当て、そのままライシンは黒布を更に強く引いた。
 黒い布地に、鮮やかに光が走る。小さな闇夜を光が割く。突然の夜明けに、黒布は敏感に反応を示した。
 光を引いた箇所が震え、丸まろうとする。ライシンがそれを自らの左腕に軽く巻きつけると、黒布はそのままライシンの腕へと
向かい、その腕がまるで自らの片時も離れてはいけないと定められた半身であり、そしてようやくそれを見つけたかの様に巻きつき、やがて完全に腕を覆う。
 更に念じると、もう一つ黒布が袋から飛び出す。もはや、それ以外の事には気を配らなかった。
 先程と同じ様に、今度は右腕で引き、左手で光を描く。二度目の夜明けを済ませると、今度は右腕にも黒布が纏わりつく。
「よし!」
 しっかりと確認を済ませ、ライシンは駆け出した。両腕から感じられる気味が悪いといえるほどの力に、内心は背筋が凍りつきそうだった。
 腕を払うと、一直線に細い光が地を走る。水分は蒸発し、それで泥は一時的に土へと戻った。
 切り拓いた道を行く。足の早さではリュウメイには敵うべくもないが、歩く大地が違うのならば話は別である。
 泥を土に戻しながら少し走ると、やがて泥の海が消える。こんな所までリュウメイは走ったのか。更にその先にあの怪人の姿を見つける。
 その前に相対するのは、優雅に赤髪を振り乱す蜥蜴の男。陽の光は男の髪を情熱的に燃やし、舞う姿がライシンの心を捉える。
 こちらに気づいたのか、リュウメイは僅かに身動ぎする。その身体には泥が付着していて、ライシンは危機感を覚える。
 あんな物に纏わりつかれていては、長続きはしないだろう。第一、リュウメイは決定打に欠けている。
「いつまで逃げ回るつもりだ、リュウメイ!」
 アローネは嘲笑さえ声音に籠めながら、リュウメイを追い詰めていた。今や足元の泥を失ってはいたものの、
その身体のありとあらゆる場所から、無限にアローネの武器は生成される。
 泥の弾を打ち出す事もあれば、泥の塊を広げて動きを封じようとするなど、攻撃も多彩で、周囲にはその残骸が残っていた。
 リュウメイが剣を抜く。
「ようやく相手をする気になったのか」
「ああ、そうだな」
 笑みを湛えているリュウメイだが、余裕はあまりなさそうに見えた。ライシンは両腕を握り締め、
なるたけ目立たぬ様に小声で言葉を紡ぎはじめる。
「堅氷に潜む大魚よ、氷海を束ね顕在せよ!」
 ライシンの両腕にぴったりと巻きついていた黒の帯魔布が、急激に緩むとその腕の周りを蛇の様にうねる。
 黒布が端から燦爛と光を発し、そのまま役目を終えて崩れ落ちてゆく。腕から手先へと伝わるその力に、ライシンは身震いする。
 両腕が光り輝き、次には時期外れの氷に包まれる。冷たいとは思わなかった。今はただ、熱い。
「これでお前が耐えられたらの話だけどな」
 リュウメイが距離を取ったのを見計らい、ライシンは集めに集めた力を大地へ、アローネが今まで通りながら作った泥の線上へと落とした。
 リュウメイを追い詰める事に躍起になっていたアローネは、自身に訪れた変化にようやく気づいた様だった。
「これは……!」
 その言葉が終わる間もなく、泥の水分を辿る様に氷が、続いて水がその上を渡り、アローネへと迫る。
 瞬きする間に泥は氷へ変わり、やがてアローネの身体を包む。
「貴様、こんな謀を!」
「仕方ねぇだろ、剣じゃどうせ切れないんだからよ。ま、今回ばかりはてめぇの馬鹿さ加減を怨みながら退場願うぜ。
泥の中で大人しくしてりゃ良かったのに、態々こんな所までのこのこ来たんだからな」
「なんの、これしき!」
 アローネが手を払って泥を飛ばす。それで一時氷の浸食は収まるが、ライシンの腕からはまだ魔力の供給は続いている。
 すぐにその泥も固まり、光を照り返し美しく咲く氷華へ変貌し、地上を彩った。
「仕上げっすよ」
 一度片腕を引っ込めてから、再度大地に叩きつける。氷の上を走っていた水が、今度こそはと固まり更に大きな氷山になる。
 アローネを水が覆い、凍らせる。醜悪な泥の怪人が、美しい氷像へと姿を変えはじめていた。
「おのれ、リュウメイ! 貴様だけは……許さぬ!」
 もはや自らの身体が凍る事を悟り、どうする事も出来ぬと判断したアローネはリュウメイに向き直ると
最後の力を振り絞り、腕を伸ばし泥の塊を押し付けようとする。
 アローネの腕が迫る。
「悪ぃな。やっぱてめぇには、名をくれてやる事は出来なさそうだ」
 リュウメイが呟く。その前には、凍りついたアローネの腕が、氷華の肥やしとなっていた。
 あと一歩という所で、その腕先まで凍りついてしまった様だ。
「兄貴、ご無事で」
 黒布が消滅したのを見守ってから、ライシンは顔を上げてリュウメイへと走り寄る。
 先程までの強い魔力も、それを担う黒の帯魔布が無くなれば霧散し、感じなくなっていた。
「おう。しかしまあ、随分派手にやったもんだな」
「特製の帯魔布っすからね、このぐらいはやってもらわないと。割に合わないっすよ。使い捨てだし」
 氷像と成り果てたアローネを見遣る。あまりに強く凍りついたがために、既に内包している泥の色さえも判別出来なかった。
「こいつ、もう動いたりしないっすよね?」
「さて、それはこいつとバインの力次第だが……。バインの力は感じるか」
「……いえ。兄貴を追いかける時からそうだったっすけど、途中で居なくなったみたいっすね」
「食えねえ野郎だな。その時点でこいつが負けるのは、見越してたんだろうな。
まあ、自分の得意な場所から挑発で簡単に誘き出されるのを見りゃ、仕方ねえが」
「随分あっさり引いてくれたっすね」
「そうでもねえよ。結構神経使うみたいだしな召術士は。
それにあいつ、口ではああ言ってたが、俺達を殺すつもりは然程無かったろうぜ。
本気なら、召喚獣を出しながらあいつ自身も襲ってくるからな」
「うへぇ……マジっすか……」
 然程苦戦した様には見えないアローネ一人だけでも、態々帯魔布を用いなければどうにも出来ない様な相手である。
 今回は泥の海から誘き出す事にも成功したから良かっただけで、次また見える事があれば、一筋縄ではいかないだろう。
「俺達を始末するなんてのは建前で、アローネの力と、それからライシン。てめぇの力を見たかったんだろうな」
「俺っちの……っすか」
「俺じゃどうにも出来ねぇ奴を出してきたのも、実力のはっきりしないお前を値踏みするためだと思うぜ。
俺だけならアローネからは逃げるしかねぇし、お前も頼りない様なら、その時は俺達を始末しただろうが」
 リュウメイが愉快そうに笑いかけてくる。
「ああ、これでお前もあいつのお気に入りだな。頑張れよ」
「えっ、ちょ、兄貴! なんすかそれ! 聞いてないっすよ!」
 リュウメイの肩を掴み、揺さぶる。すると、リュウメイの身体が倒れ込んでくる。じゃれていたライシンは、慌ててその身体を抱き止めた。
「あ、兄貴!?」
「……悪い。一発貰っちまった」
 胸の部分に、泥がべったりと付着している。恐らく、投げ飛ばされた泥をまともに受けたのだろう。
 周囲を見渡す。氷像となっているアローネの傍に、僅かに赤く染まった大地が見えた。
「痛むんすね、兄貴」
「平気だ。ちょっとふらっとしてるが」
「平気じゃないっすよ兄貴……そんなんで、あんなの引き受けちゃって」
 その身体を抱き止めながら、聖法を唱えて癒す。少し苦しそうだったリュウメイの表情が和らぐ。
「すまないっす、兄貴。ここにいつまでも居たらまた何かあるかも知れない。歩けるっすか」
「ああ。わかってる」
「兄貴。無茶しないでほしいっすよ」
「うるせーな。それよりてめぇ、しょってた荷物はどうしたんだよ」
「えっ……ああぁーっ!!」
 慌てて振り返る。遥か彼方に泥の海が見える。その先に、荷物は置いたままである。
「あ、兄貴、待って、待ってくださいっす!」
 身体を離すと、リュウメイは何事も無かったかの様に歩き出す。
 その背を眺めて、ライシンは想いを募らせる。
 ただの盗賊相手なら、リュウメイが遅れをとる事などありはしない。
 しかし今回の様な事が続けば。その時、リュウメイは無事で居られるのだろうか。
 背を向けて、大慌てでライシンは荷物を取りに向かう。走りながら、それを考える。
「……もう少し、お傍で見させていただきますよ。リュウメイの兄貴」
 呟きはもう、リュウメイには届かない。 

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