top of page

2.ガルジア濡れ鼠になる

 温かな陽光が降り注ぐ部屋の中、ガルジアはゆっくりと瞼を開く。
 照らされた自身の腕は銀糸の様にきらきらと輝き、自然の恵みを与える太陽の温もりに、口元を綻ばせた。
 耳に鳥の囀りが届いた。ベッドの上で猫の様に丸めていた身体を伸ばし、欠伸を掻く。
 起き上がって窓を開くと、潮の香りが一番に鼻に届いた。続いて、僅かな湿気が鼻腔を突く。
 遠くを見遣れば、朝日を照り返して輝く海原と、そこに停泊する船の数々が見えた。
「港町フォーリア、ですか」
 改めて今居る場所を把握して、ガルジアは苦笑する。次はこのフォーリアから出る船に乗り、
海を渡って西の国へ発つというリュウメイの提案に、嫌な顔をしたばかりだ。
 霧の立ち込める街道から外れ森に入り、そこを抜けてから数日が経っていた。森を抜けた直後の
霧の見えない景色に、思わず涙を流したのは記憶に新しい。
 陸路でここまで来たというのに、航路を取っては益々修道院からは遠くなってしまう。
 仮に借金を完済して開放されたとしても、自分の身一つで帰る事が出来るのか、ガルジアには甚だ疑問だった。
「何を考えているんでしょうね、あの人は」
 自分を先導する男。蜥蜴人のリュウメイの姿を思い浮かべる。
 半月は既に共生関係にある。その内にリュウメイという男が見えてくるのかと思ったが、それは期待外れに終わった。
 何を考えているのか、まるで分からないのだ。勿論表面上の事なら、分かり過ぎるくらいに、よく分かる。
 しかしその内で何を考えているのか、それは推し量る事が出来なかった。いつも飄々として、自分を小馬鹿にしては
憤慨するのを見て、げらげらと笑っている。しかしそれは所詮、リュウメイという男の表の顔であり、ほんの一部に過ぎなかった。実戦に
おいてのその苛烈さ、酷薄さは、やはり普段のそれとは別にリュウメイが持っているであろう性格の片鱗をガルジアに顕示していた。
 リュウメイの見せるそれに、ガルジアはおいそれと触れる事はしなかった。そうすると、途端にリュウメイは不機嫌になる。
 べたべたとくっついてくる癖に、それが相手からのものだと、途端に跳ね除けてしまう男なのだ。
 詰まるところ、リュウメイという男は、酷く自分勝手なのであった。
「私の助けが必要な様には、見えないのですがね」
 一人旅には手馴れている様で、どの様な所作を見ても滞る部分は見当たらない。
 それなのに、自分を助けてくれた。その部分だけを抜き取れば、善人に違いないと何も知らぬ者は言うだろう。
「ところがどっこい、あの外道っぷり」
 ぽつり、ぽつりと。愚痴の様に言葉を零す。聞いているのは、精精外の木の梢で縄張り争いをしている鳥ぐらいなものだろう。
 顔を横に向ける。当のリュウメイが寝ていたはずのベッドは、蛻の殻だった。恐らくは、船の都合をつけにいったのだろう。
「乗らないと、駄目なのかな。嫌だなぁ……」
 はあ、と溜め息を吐く。逃げ出そうかとも思うが、既にこの場所から一人で修道院に戻る自信も無かった。
 何より、戻るという事は、あの街道に差し掛かるという事である。その後話を聞いて不可思議な霧は晴れたというが、
しばらくあの街道は通りたくなかった。これで一人で出向いて霧が出たら、もはやお手上げである。森の中で魔物と遭遇した事実も忘れてはいなかった。
 奇想天外なあれらと再び、今度は一人で見える事を考えると、とても今からリュウメイを置いて帰るという行動には移れなかった。
 あれこれと考えを巡らせていると、木製の扉が開かれる。そこからリュウメイが顔を出した。それは同時に、
もう逃げられないという事でもあるのだが、ガルジアはこの時、安堵している自分に気づいた。それは、仕方のない
事なのかも知れない。修道院から外に出る事など滅多になかった身の上なのだ。どこへ居ても、一人では不安なのだった。
「起きたのか、随分と寝坊助だな」
 軽口を叩きながら、リュウメイは飄々と歩いてくる。いつものリュウメイである。
「歩き通しでしたから。丁度いい運動になりましたよ」
「贅肉が取れるといいな」
「贅肉って言うのやめてください、太ってません」
 ガルジアの抗議は涼しく受け流される。取り乱した自分に気づいて、こほんと咳払いをする。
 いつも、この調子だ。今日はその手には乗らないと、今一度平静を取り戻そうと努めた。
「船の手配に出ていたのですか?」
「ああ、そのつもりだったんだが、どうもな」
「何かありました?」
「ほれ、窓からも見えるだろ」
 言われて、先程見ていた様に窓から港を眺める。しかしこれといって可笑しい点は見当たらない。
 快晴であり、良い風も吹いている。船旅には持ってこいではないかと、ガルジアは首を傾げる。
「何か、変ですか?」
「随分船が泊まってると思わねーか?」
「ああ、そういえば……ぎっちり詰まってますね」
 言われてみれば確かに、これでは港のほとんどの船が停泊している様なものだ。
 浅瀬で漁をしている船はちらほらと見えるが、それにしてはやはり船の数が多い。船を出すには申し分のない
状態ならば、船の数はもっと減っていても良いはずである。
「なんでもな、この港では毎年航海安全のために祈願をするそうなんだが、今年はまだそれが行われてないんだとよ」
「はあ、そうなんですか。では船旅は取り止めに?」
 ガルジアがその言葉を口にした途端、リュウメイが得たりと笑みを浮かべる。嫌な予感がした。
「いや、船には乗る。だがそのためには祈願をしないといけない訳だ。分かるよな」
「ええ。それは、まあ。大事な事ですよねとても」
 祈願をしなかった事で船が難破でもしたら、それこそ大問題である。こういった、昔から続けられている
風習というものは、下手に軽んずると大抵は良くない結果を招く事になる。
「祈願をするのは、どんな奴が向いていると思う?」
「そうですね、やはり神や精霊、それと自然にある物に祈りを捧げる訳でしょうし、普段からそういう事をしている人が……」
 はっとする。リュウメイは依然として嫌らしい顔でこちらを見ていた。
 後退りをして、そのまま動揺に足を取られてベッドに尻餅を着く。不意の出来事で潰してしまった尻尾から痛みが
走るが、しかし今はそんな事を気にしている場合ではなかった。リュウメイはもはや、喜色を隠そうともせずに
自分を見下ろしていた。ガルジアは、笑顔を貼り付けながら、必死に顔を逸らす。
「いえ、他の人でも大丈夫だと思いますよ。大事なのは信心です。ええ、信心ですとも」
「この祈願はちょっとばかし特殊でな。同じ奴には出来るだけ祈願はさせないんだとよ」
 ガルジアの言葉を無視してリュウメイは続ける。聞きたくなかった。
「それで今年は遠方の修道院に依頼をして一人修道士を派遣してもらうはずだったんだが、そいつが来られなくなったそうだ」
「そうですか、大変ですね。さて、船は出ないみたいですし陸路を」
「丁度ここに修道士が居る」
「……わ、私は」
「辛いよなぁ、船が出せないなんてよぉ。漁も浅瀬でしか出来ねぇし、そうなると食い扶持すら稼げねぇ。
船の往来が無くなれば、俺達みたいな旅人は不便になるのは無論の事、荷運びすら出来やしねぇ。そうなったら、あとはもう飢えて、
寂れた港町は人が減るだけだ。可哀想な話だよなぁ? たった一人ここに居る修道士様のご慈悲があれば、皆救われるのになぁ。お前はそういう奴だったんだな」
 実に楽しげにリュウメイはすらすらと言葉を並べ立ててゆく。この時のために練習したのかと言いたくなる程に。
 助けを乞う者が居れば、手を差し伸べなければならない。それもガルジアが教えられた事である。
 船に乗りたくない。自分のその我が儘で人を見捨てる事など出来はしない事を、この男は理解し尽していた。
「わ、分かりました。私で良ければ、協力します……」
 涙を拭いながらガルジアはそう答える他なかった。リュウメイが満足そうに笑いながら頭を撫でてくる。
「そうと決まれば善は急げだ。支度したら行くぞ」
 上機嫌で背を向けたリュウメイを見て、ガルジアは嘆息する。どうやら、船に乗る事も避けられない様だった。
 そんなガルジアを茶化す様に、窓の外ではまだ鳥が鳴いていた。

 ガルジアがフォーリアの役場へ出向くと、とんとん拍子でその日の内に祈願をする事が決まる。
 迎えた人々はガルジアを眩しく見つめていて、困窮しきっていたのだろう、
乗せられたとはいえ、それを見たガルジアは気を引き締める。今ここに居る自分にしか出来ない事なのであった、
如何に隣でリュウメイが楽しげにほくそ笑んでいても、だ。
 そして、そんな風に出したやる気はその直後見事に粉砕される。
「こ、こんなの着るんですか!?」
 渡された祈願のための衣装を見て、思わず頓狂な声が出る。
 薄く、上質な絹で織られたローブは柔らかく、薄っすらと透けて仄かに艶かしさを醸し出しており、それの印象を
和らげるかの様に、可愛らしい花を象った装飾がなされている。局部は厚めに取っているからか、手を入れても
見える事はなかったが、ガルジアは身体から血の気が引くのを感じていた。いくら人助けとはいえ、これではあんまりである。
「ああ、言い忘れてたが、これ大抵は女がやる事だから。衣装もそんな感じなんだよな」
「嘘おっしゃい! 絶対言わなかっただけでしょうあなた!!」
「んなこたぁどうでもいいんだよ。まさかここで降りるなんて言わねぇだろうな、ガルちゃんよ」
 騒ぎ立てたガルジアを見て、住人が酷く心配そうな顔を一様にする。それを見て、ガルジアは涙を滲ませる。
「うぅ。悪魔。人でなし。人非人。鬼」
「おお、最近の修道士様は鬼も知ってるのか。博識じゃねぇか」
 からかいはじめたリュウメイを無視して、諦めて服を脱ぎ、渡された衣装に袖を通す。
「他の物は全部脱げよ」
「分かってますよ」
 神聖な儀式であるからして、見につける物はこれ以外許される事はない。どこまで見えているのか、何度も確認を繰り返す。
 女物の服が自分に着られるのかと思ったが、幾人もの相手に頼む事だからか、何着も大きさを揃えた衣装がある様で、
ガルジアの期待も虚しく衣装はすんなりとその身体に合った。
「お待たせしました」
 試着のために使っていた部屋の扉を開く。自分を見た者が笑みを浮かべる。
 安堵の笑みのはずだった。それなのに、自分が嗤われている様な錯覚にガルジアは陥る。
「似合うじゃねぇか、ガルジアちゃんよ」
「その呼び方、止めて下さい。……って、なんですか、リュウメイさんまで着替えて」
 個室で着替えていたガルジアは気づかなかったのだが、リュウメイの装いもいつの間にか変わっていた。
 祈りを捧げるために純潔さを意識し、僅かながらの装飾が施されたガルジアの服とは違い、
袖の無い無骨な作りの漆黒の胴着を身に纏う様は、まるで流離の武道家の印象を覚えた。いつも見えている
腕の引き締まった様子が、そうしていると、一層引き立ってリュウメイの逞しさを余す事無く伝えてくる。
「俺はお前のお守りだ。これも役得って奴よ」
 善は急げと、嫌がるガルジアの腕を掴みリュウメイは外へ歩き出す。外でもガルジアは町人らの
視線を一身に浴びて、思わず呻いてしまった。リュウメイはそんな事は知った事ではないと、どんどんと足を踏み出してゆく。
 港町の住人に見送られて町を出る。目指すのは、小高い丘の頂上だった。
「出来れば、こんな格好で外を出歩きたくはなかったのですが……」
 袖に目を通すと、自分の四肢が薄っすらと見える事にガルジアは嘆息する。
 こういった服は、修道女なら着る事もあるが、男であるガルジアはほとんど経験が無かった。修道士の中でも、
美の女神の寵愛を受けた、少年の儚げな美貌を残す様な者なら、祭事の際に纏う事もあるかも知れないのだが、そういうものとも、無縁である。
「いや、中々に絶景だ。肝心な所が見えないのが残念だが、それもいいな」
「見ないでください!」
 早速絡んできたリュウメイを睨み付ける。当のリュウメイは格好のせいもあり、普段より数段野生的に見える。
 もっとも普段もかなり野生的で、挑発的な格好だとは思っているのだが。燃える様な赤い髪が、
今の無骨で、粗暴な格好にもよく似合っていた。
「剣は持ってきたのですね」
「ああ。本当はこいつも置いてきた方が良かったんだろうが、流石にな」
 愛用の剣をリュウメイが見せつけてくる。鞘に特別な細工がしてあるという事もなく、ごく一般的なそれはリュウメイに
よく似合っていると思う。対するガルジア自身は、丸腰の状態だった。もっとも何かあったとして、詩に専念し敵の相手はリュウメイに任せるのだが。
 日が暮れる頃、丘の上に辿り着く。振り返れば、フォーリアの港町は遠く、本来ならば夕日を照り返す海の光も見えたのだろうが、
停泊する船に遮られ、今はそれを臨む事は叶わない。沈む夕陽の光がガルジアの白銀を仄かに赤らめさせ、
そして隣を歩くリュウメイの髪は普段よりも一層強く、激しい炎を湛える様に照らされていた。赤々としたその長髪は、
持ち主の冷徹さにはそぐわぬ様に風に靡き、生きているかの様にふわりと虚空に舞っている。
「やっと着きましたね。もうぐったりですよ。休んだばかりなのに、こんな所まで駆り出されて」
「まあまあ、これで祈願が出来るってもんだ」
 隣に立つリュウメイは息一つ乱す様子がないのが、怨めしい。やはり、踏んできた場数が違うのである。
 修道院から飛び出し、ほとんど初めてと言っても過言ではなく世界に触れているガルジアと、リュウメイは正反対の存在だった。
 何度も深呼吸を繰り返し、落ち着いた頃に正面へ向き直る。遠くに、僅かに湖がちらついていた。
 焼ける様な空の色をそのまま映したように湖面が広がり、その周りを覆う木々が天地を分けている。
 物音はなく、時折遠くで羽撃く鳥が木を揺らす些細な音がガルジアの耳に届く。近場なら、憩いの場として人気が出そうだと、
暢気な事を考えては口元を綻ばせる。
「また、湖ですか。それで、件の祈願は、どうすれば良いのですか?」
「まずは暗くなるまで待ってからだ。そこに社がある」
 言われて目を凝らす。薄暗くて分かりづらかったが、確かに横手には社があった。それほど大きくはなく、
丁度大人二人程度が入れる程度の簡素な造りの物だった。木材の壁は長い年月を経たためか、黒く薄汚れていて、
この祈願がガルジアが思っていたよりも長く続けられている事だと、今更気づかされる。緊張して、ガルジアは息を呑んだ。
「夜になったら、お前はそのまま湖に入れ。お前に触れ清められた水が川になり、海に流れる。
それが、港から出る船を祝福するんだとよ」
「それはまた、大層な。男である私で良いのか疑問ですね」
「俺もそう思うが、町の奴らが大丈夫だと決めたんだ。やってみるしかねぇな」
 社の階段に腰を下ろす。遠くには今朝まで滞在していたフォーリアの港町、そして水平線には夕陽が沈んでゆくのが見えた。もうすぐ、夜が来る。
 宵闇が深くなり、自分達を闇に染めあげる。これなら服が透けていても大丈夫だろうと、ガルジアはほんの少し安堵する。
「リュウメイさん。リュウメイさんは、船で向こう側に渡ったら、やる事があるんですか?」
 手持ち無沙汰になり、リュウメイに声を掛けてみる。いよいよ深くなってきた闇と、音の無い世界を不安に思う気持ちもあった。
「……さあな、そんなもんは行ってから決めるさ」
「そうですか」
 それきり黙ったまま時が過ぎ、やがて時間となる。
 陽の代わりに昇った月が煌々と湖面を照らし、水面にも月が現れる。二人を祝福する様に湖が光で満たされた今、視界は思ったよりも悪くはなかった。
 靴を脱ぐと湖の正面に立ちガルジアは湖面を見つめる。思ったよりも大地は柔らかく、ガルジアの素足を歓迎してくれた。
「リュウメイさんは」
「俺は、ここで待ってるさ」
 湖に入る事が許されているのはどうやらガルジア一人の様で、それを聞いてゆっくりと歩を進める。
 足先を湖に入れる。僅かに波立ち湖面の月が朧に揺れる。
 少しずつ身体を浸してゆく。腰まで浸かった所でガルジアは歩みを止めて、しばし湖を見つめる。
 思っていたよりも水温は高かった。震える程ではなく、しかし服と体毛が水を吸っているからか、ずっしりと重く感じる。
 その内に、湖の底から光が現れる。言われた訳でもないのに、無意識の内にガルジアは両手で湖から光を掬い取っていた。
 指の隙間から湖水が流れる。少しだけ湖に帰った後、残りは腕を伝い、まだ濡れていない腹をしとどにしてゆく。
 光だけが残ると、それは自分の身体に吸い込まれる様にして消えていった。
 止む事なく、光は次から次へと湖面に現れる。ガルジアは、一つ一つを丁寧に掬い上げて、消していった。
 背後から声が聞こえる。リュウメイが呼んでいるのだろう。なんと言っているのかは、分からなかった。
 振り返る。月明かりとはいえ、異様に照らされたその顔を見て、落ち着かせる様にガルジアは微笑んだ。闇の中でリュウメイの赤髪が、
炎の様に揺れていた。
 やがて、光が止み空にも雲が覆いはじめる。月が雲に攫われ、視界が闇に染まる。
 急に、寒くなった。身体から力が抜けてゆく。先程まで掬い取っていた光が、自分の外に出ようとしているのだろう。
 名残惜しげにそれを見送る。見えない流れに目を落とし、これから川を流れ、海を辿り更に遠くへ旅に出る者達に手を振った。
「ガルジア」
 リュウメイが、呼んでいる。いつの間にかまた月が出ていた。俯いたままの自分を見て心配したのだろう。
 ゆっくりと湖から上がる。リュウメイの前に辿り着くと足が力を失い、膝を折り倒れるガルジアの身体をリュウメイが支えてくれた。
「大丈夫か」
 いつもの様に触るなと一蹴したいところだったが、生憎自力で立つ事もままならない様だった。
 不思議な事だが、今はそれが恐ろしいとも思わなかった。子供の頃、陽が暮れるまで遊び、夜になると
その疲れがどっと出て怠惰な気持ちに包まれたのに似ていると思う。
「……リュウメイさん、この後はどうするのですか」
「俺と一緒に社に入って、朝を待つ。それで全て終わりだ」
「分かりました。ごめんなさい、一人では歩けそうにないので、お願い出来ますか」
 リュウメイは黙ったままガルジアを抱き寄せて社に向かってくれた。こうして触れられていると、その身体の逞しさがはっきりと伝わってくる。
 巨漢のそれの様に、どうしようもなく太ましい訳ではない。しなやかさを保ちながら、しかしその中には鍛え上げられた力が眠っているのだった。
 社の戸を開くと、リュウメイがそっとその中に下ろしてくれる。礼を言おうとしたが、言葉も上手く話せなかった。
「随分辛そうだな」
「こういった事をするのは、初めてでしたから。そのせいかも知れません」
 戸を閉めると、狭い空間にリュウメイと二人きりになる。二人も入ると足の踏み場が僅かに残るだけで、密着するのは避けられなかった。
「寒いのか」
 体温も下がっているのか、言われて初めてガルジアは自分が震えている事に気づく。
 その場で気をつけながらリュウメイも座ると、衣装越しに身体が触れ合う。ガルジアの白い皮毛から流れ落ちた水玉が、リュウメイの
皮毛の無い肌を滑り落ちた。
「不思議なものですね、湖に浸かっただけなのに、今は凄く寒いです」
「ただの湖だと思ったが、どうやらそうじゃなかったみたいだな。とはいえこれで船が出せる。
少しぐらいなら、金は弾んでやるぜガルジア」
「それは、有難い事です」
 震える身体をリュウメイが抱き寄せてくる。抵抗する事も出来ずに、その胸の中に収まった。
 そっと手を伸ばして、リュウメイの服を握る。胴着を肌蹴させ、そこに手を入れて胸に触れた。
「おおっと、大胆な行動」
「体勢を直そうとしただけです」
 ようやくリュウメイがからかいだしたところで、ガルジアもまともに言葉を返せる様になる。
 リュウメイに包まれた部分から温もりが伝わる。体温はそれほど高くない様だが、今の自分にはそれでも充分暖が取れる物だった。
 いつもならば、逃げ出したかも知れない。しかし今はそうする事も出来ないし、何よりもリュウメイの体温が心地良い。
 幼い頃大抵の者は味わったであろう、親の腕に抱かれて感じたあの感覚。それに似ているのだと思う。
 掌からもリュウメイの体温が伝わる。体温よりも、その蜥蜴の肌の感触の方がガルジアは気になった。吸い付く様で、
しかし張り巡らされた筋肉のせいか、押しても大きくはへこまず、弾力に富んでいる。
「リュウメイさんは、蜥蜴さんなんですよね」
「なんだよ今更」
「すみません。けれど、私は見るのは初めてでして。とても珍しいのだとお聞きしました」
「そうだな、それなりには珍しいかもな」
 本当に希少な種族といえば、似て非なるものではあるが竜人がそれに当たる。もはや伝説上の生物と
言われており、当然ガルジアは見た事が無かった。
 蜥蜴人というのも、それには及ばずともやはり今まで生きてきた中でガルジアは見かけなかったのだが。
「私や他の人は体毛がありますから、なんだか変な気分になります」
「興奮したり?」
「馬鹿」
 握り拳を作って、とんと胸を叩く。
「……すみません、少し眠りますね。おやすみなさい」
 言い終えると同時にガルジアは睡魔に呑み込まれる。次に起きた時は、またリュウメイを毛嫌いする
いつもの自分に戻っているのだろう。
 背中を優しく撫でられた様な気がした。

 朝になると揺り起こされてガルジアは目を覚ます。リュウメイが戸を開くと、そのまま外に出た。
 遅れて立ち上がるが、夜の間の事が嘘であったかの様に身体はしっかりと動いた。
 狭い所に閉じ込めていられた鬱憤を晴らす様に両腕を伸ばし、陽の光を全身に浴びる。
 その時にガルジアは気づく。自分の纏っている衣装が乾ききっている事に。
 リュウメイに視線を向けると、対照的にその服はしっとりと水分を含み、まるで夜の間感じていた悪寒を含めて
リュウメイが預かってしまったのだと思わされてしまう。
「リュウメイさん、身体は大丈夫ですか?」
「あ? なんで俺に訊くんだよ」
 リュウメイの返事に、本人に影響が出た訳ではないのだと察知する。安心している自分に気づき、視線を逸らした。
 名残惜しげに湖に目を向けてから、丘を下りるとフォーリアへと戻る。迎えた住人達は衣装をまず確かめて、二人がやり遂げた事を確認していた。
「ただの付き添いだと思ってましたけれど、リュウメイさんの役所も大事な物だったんですね」
 衣装を返して、ささやかながらも謝礼も受け取ったガルジアは満足気に言う。
 これでまた一歩借金の完済に近づいたのである。知らず知らずの内に、口元が緩んでいるのに気づいて慌てて顔を振った。
「はい、リュウメイさん。銀貨十枚も頂いてしまいました」
 本当は金銭を受け取る事など許されないのだが、どうしてもと無理に渡されてしまったのと、事情があるので
有難く受け取っていた。自分で使う金ではないから、大丈夫だろうと言い訳をして。
 返済の内金貨一枚が自分で使った物なのは、忘れる事にする。
「今回は私も頑張ったので、この銀貨十枚を返済に充てても大丈夫でしょうか?」
「ああ、そうだな」
 どこか上の空のリュウメイに、ガルジアは首を傾げる。その内リュウメイもこちらをじっと見つめていた。
「どうかしました?」
「いや、な……ガルジア、お前がな」
「え、私?」
「寝てる間にケツ揉んでみたら結構いい感じでなぁ、よかったらまた今度」
 途中でリュウメイの言葉が止まる。
 突然の事に、憤慨したガルジアは思わず銀貨が詰まった袋をリュウメイの頭に叩きつけていた。
 流石にこれは効いたのか、本気で痛がるリュウメイの横に袋を置いてガルジアは一人宿へ続く道を歩きはじめた。
 宿に着くと、昨日と同じ様に窓を開け肘をついて空を見上げる。
「なんて人なんでしょう、あの人」
 せめてもう少し誠実な人だったら、良かったのに。
「って、それも駄目。駄目ったら駄目です。そうですよ、私は修道士です。異性を気にするのならともかく、同性だなんて、そんな」
「何が駄目だってぇ?」
「あ、リュウメイさん……ひっ!」
 肩を掴まれて振り向かされる。血走った瞳のリュウメイが口元だけで笑っている。
「随分派手にやってくれたじゃねぇかガルちゃんよぉ、さっきのは結構効いたぜぇ……?」
「あ、あ……ごめんなさい、血が出てますね……」
 思ったより強打になってしまったのか、額からは僅かに出血が見られた。流石にやり過ぎてしまった様だ。
「町の恩人である修道士様に叩きのめされた馬鹿だって、通行人共に好き放題言われちまったよ。傑作だなぁオイ」
「で、でもっ、元はといえばリュウメイさんがっ」
「それで暴力を振るうなんてとんだ修道士様もいらっしゃったもんだなぁ」
 悪いのはリュウメイ。それは分かっているが、こんな風に詰め寄られるとガルジアも段々と弱気になってしまう。
「ごめんなさい、暴力を振るうのはやりすぎました。あまりからかわれるのに慣れていなくて……と、とにかく傷の手当を」
「んなこたぁもういいんだよ、俺がキレちまったんだからな」
「じゃあどうすれば……っ」
 両肩をしっかりと掴み、リュウメイが顔を寄せてくる。咄嗟に逃げようとするが、膂力では到底敵わない。
「嫌です、リュウメイさん」
 リュウメイの唇が触れる。ガルジアの唇ではなく、首筋に。
 細長い舌でなぞられると、背筋を悪寒が駆け上がってくる。
 自分の様子をつぶさに伺っていたリュウメイが満足気に離れると、嫌らしい笑みを浮かべながら唇を舐め取っていた。
「リュウメイさん……そういうセクハラは、止めて下さい」
「これで許してやるんだ、安いもんだろ」
「とにかく座ってください、手当てをしますから」
 見捨てる訳にもいかず、ベッドにリュウメイを座らせ救急箱を取り出して手当てをする。
 その間もリュウメイは勝手な事を口にしていたが、ガルジアは先程のリュウメイを思い返していた。
 時折見せる鋭い瞳。いつ見ても、その瞳に囚われそうになる。
 自分の全てを見透かしている様な瞳に射抜かれると、抗おうという気持ちが急速に無くなっていくのだ。
 大抵はその後ふざけた事をするものだから、ガルジアもつい我を忘れた行動に走ってしまう。
「本当に、ごめんなさい」
「もう気にしてねぇよ。さっきのでチャラだ」
 消毒を済ませると、もういいとリュウメイは立ち上がる。
 包帯を巻いた方が万全だと思うが、リュウメイが言うのならとガルジアは引き下がった。
「リュウメイさん、船に乗りましょうよ」
「なんだ、お前から言い出すなんて、どういう風の吹き回しだ」
「お詫びの気持ちです。ほら」
 手を差し出すとリュウメイがそれを取り立ち上がる。向かい合うと、先程の事を思い出さぬ様にガルジアは笑顔を見せる。
「まだ旅は始まったばかりですから、これからもどうぞよろしくお願いしますね」
「ふん、精精付いてこられる様に頑張るんだな」
「はい! 頑張って借金返済します!」
 リュウメイの方から今度は視線を逸らす。少しだけ照れを含んだその表情にガルジアは安堵する。
 どうにか、機嫌は直してもらえた様だ。
「部屋を引き払ってくる。入り口に荷物置いといてくれ」
「はい」
 行くと決めた。今は、黙って船に乗り込もう。
 そう胸で呟き準備に取り掛かる。自分の荷物を運んだ後、リュウメイの私物にも手をつける。
 ふと、ガルジアはいつもリュウメイが使っている剣に気を取られる。
 大事にしているのだろう。外見は質素でそれなりに年数が経っている様だが、試しに中を検めても刃毀れはしていない。
 鞘に戻す。ふと、柄に刻まれた紋章に気を取られた。
 風を刃を絵にしたかの様な模様が、六つ。円の中央に向かって刃を振り下ろしたかの様に描かれている。見た事のない紋章だった。
「どこかの、国ですかね」
 これが博識な者ならどこで作られたものなのかを知る事か出来たのかも知れないが、ガルジアは修道士として、
修道院の中で長く生きてきた身である。首を傾げながらも、そのまま剣を元に戻す。
 その時、廊下を駆ける足音がした。リュウメイが戻ってきたのだろうか。部屋の扉が勢い良く開かれる。
「あ、リュウメイさん」
「兄貴!!」
 期待していたものとは違う声が聞こえて、慌ててガルジアは振り返る。
 息を切らしてそこに立っていたのは、大柄な熊人の男だった。
 身長はリュウメイよりも更に大きいかも知れない。ガルジアからは、少し高めに見上げなければならないだろうとぼんやり思う。
「え……?」
「あ、あんた誰だ! 兄貴の私物を漁るんじゃないっ!」
 ガルジアを見咎めると、熊人か驚いた後険悪な表情で捲くし立ててくる。
「あの、私はリュウメイさんと一緒に旅をしている」
「盗人に手加減は無用!」
 熊人が躍り掛かってくる。想像していたよりも素早い動きに、思わずガルジアは怯んで身を屈める。
「止めろ、ライシン」
 痛みを覚悟した瞬間、リュウメイの声が聞こえた。ゆっくり顔を上げると、
男の動きか止まり入り口に立っているリュウメイに顔を向けていた。次には喜色を隠そうともせずに、
歓喜の声を上げてリュウメイへと詰め寄る。
「兄貴、ご無事だったんですね!」
「てめぇも無事だったか、残念だ」
「そんな事言わないでほしいっすよ。俺っちは兄貴のために一人でここまで追いかけてきたんですから」
「ふん。どうだかな」
 熊人の男に纏わり付かれたリュウメイが、心底迷惑だと言いたげな顔をするのを呆然とガルジアは見つめていた。
「あの、リュウメイさん」
「おお、悪かったなガルジア。こいつが待ち合わせっつーか、置いてきた奴だ」
 リュウメイの言葉に熊人の顔が驚愕に包まれる。
「やっぱり置いていったんすかこの俺を!? 兄貴ぃ!」
「うるせぇ。少し離れろ。ついでに挨拶しろ」
 熊人は渋々下がり、ガルジアの方を向くとにこりと笑った。ころころと変わる表情に、ガルジアは付いていけない。
「改めましてご挨拶させていただきます。俺、兄貴の恋人志望のライシンって言うんで、よろしく!」
「こ、恋人……」
「余計な事を言うんじゃねぇ」
「あだぁっ!?」
 ライシンの後頭部を、荷物を受け取ったリュウメイが剣の鞘で叩き落す。恐らくさっき自分がやった事よりも痛いだろう。
 それでもまったく堪えていないのか、ライシンはすぐに飛び上がる。
「酷いですよ兄貴! 俺達あんなに愛し合った仲じゃねぇですか!」
 再度リュウメイの鞘が舞う。ガルジアは呆れた様にそれを見ていた。
「リュウメイさん。私は同性愛については大分寛大になってきましたが、ふしだらなリュウメイさんは嫌いです」
「勝手な解釈すんな。こいつが言ってるだけだ」
「……だといいのですけどね」
 荷物を纏めて部屋を出る。ガルジアは何故だか、ぞっとしなかった。
 そんな気持ちに気づいていながら、足早に二人から距離を取ろうとする。
 背後ではまだライシンの快活な声が響いていた。

戻る

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

bottom of page