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ヨコアナ
10.忠犬の訪い
「寄る辺も無く、自分が死ぬのをただ待つだけだった俺に、あなたが手を差し伸べてくれたあの瞬間を。忘れた事はありません」
「俺にとって、あなたが全てだった。例えあなたにとっての俺が、日々を過ごす中で、気紛れに触れるだけの存在だったとしても」
「俺は、何もできませんでした。辛い目に遭っているあなたに何もできず、泣いているあなたにも、何もできませんでした。何もできないまま、何もかもが終わってしまった」
「だから、今度は。今度こそは、俺はあなたを守ってみせる」
「……例え、あなたが俺の事など、忘れてしまっても……」
暗闇に、炎が浮かんでいた。ぼんやりと眺めていた俺は、自分が今何を見つめて、それからどういう状況なのかを理解して、溜め息を吐く。まただ。
炎が消える。次の瞬間に、別の場所に灯る。それは俺の左肩で。途端に叫びたくなる程の熱が俺を焼く。あの時よりも、熱く感じる。あの時は、さっさと意識を失ってしまえば良かったから。
意識を失ったその先にまで追ってくる、性質の悪い夢。俺は、ひたすら耐えた。立っていられなくなって、のた打ち回って。それでも俺の身体が焼けてゆく夢に、耐えていた。不意に、身体が浮遊感に包まれて、気づけば
俺は夢から醒めて、上半身を起こして荒い息を吐いていた。あまりに酷い悪夢に、身体は勝手に反応した様だ。何度か深呼吸をする。じっとりと、汗が全身を包む。犬は肉球の辺りしか基本的に汗を掻かない、だから舌を
出して体温調節する。そんな話を不意に思い出した。この身体は、そうじゃないみたいだ。そういえば、クロイスの身体からも汗の臭いがしていた。なるほど舌を出してはぁはぁする必要は無い訳だ。この辺りは手には
肉球が無い事も考えて、独特の進化の様な物だと受け取っておこう。
汗の事で現実離れして、頭の中の悪夢を追い出す。左肩が、燃える夢。広がる炎に、俺の身体が焼き焦がされる夢。何度目だろうか。途中からは、考える事もなくなっていた。こんな夢を見ている事を、クロイスに
知られる事なく、クロイスを送り出す事ができてよかったと思う。夜が来る度に、夢に怯えている事を知られたら、クロイスに余計な心配と責任を感じさせてしまう事は容易に想像できた。
それでも、夢から醒めて。汗に濡れた身体がひんやりとして、炎の熱もどこへやらといった辺りまでくると、俺は思わず口元を綻ばせてしまう。この夢は、恐ろしい物だけど。それでも俺が、一時たりともクロイスを忘れられぬ
様にしている気もしてしまって。だから心が落ち着くと、クロイスは今どこに居て、元気にしているのかとか、通りがかった街でこっそり抜け出してナンパでもしているんじゃないかとか、そんな事を考えてしまう。
自由に、クロイスが生きていてくれればいいと思った。夢を叶えてほしいけれど、それ以外の事も、疎かにしてほしいとは思わない。
だから俺も、無闇にクロイスの事を思い出すのは止めようと思った。悪夢の度に、どうせ思い出すのだから。
「あまり、治りが良くないな。私の見立てでは、もう傷はほとんど塞がっていても良いはずだったのだがな」
嫌味たっぷりな物言いが飛んでくる。二度寝する気も起きなくて、ぼんやりと部屋で、朝を控えて白みはじめた空を眺めていた頃に、薬師である爬族の男、ファンネスが俺を訪ねてきたのだ。その隣には、ファンネスに
腰巾着の様に付いている、竜族のツガの姿もある。相変わらず、そっちはびっくりするくらいに綺麗だった。横の蜥蜴は地味な感じなのに。
「すみません。少し、無理をしてしまいました」
「ほう。あの豹の小僧と、そんなに激しく盛り合っていたのか」
「そういった事実は一切ございません」
「可愛くない餓鬼だな。少しは慌ててみせろ」
冗談だったのか。少しも笑わずに、冷たく言い放つものだからわからなかった。俺は曖昧に笑みを浮かべる。
「ゼオロさん。腕は大丈夫? 動きそう?」
「ま、まだ、あんまりですね」
ファンネスの隣で、勝手に俺の部屋を物色していたツガが、俺の視線に気づくとぱぁっと花が咲いた様に笑って問いかけてくる。それに俺は少したじろぐ。薄明るいこの部屋の中でも、その鱗は相変わらず綺麗だと
思った。なんというか、つい見惚れてしまう。こんなに綺麗な人だと、外を歩いたらとんでもなく目立つのだろうな。ファンネスは相変わらず暗めの服に、白衣を纏っているから、その体系もよくわからないけれど。ツガの方は
今日はかなり薄着で、寒くないのかと尋ねたくなる。腕は肩から露出しているし、着ている服自体は相変わらずファンネスと示し合わせたかの様に、暗色系で統一されているけれど。それでも服に隠れていない鱗の
輝きで、この人が地味な服を着ている感じがしない。眩しい。
「綺麗な鱗ですね」
「ありがと! でも、ゼオロさんもとっても綺麗だね」
褒めてくれた、のだろうか。でも生憎、俺はこの人程まできらきらしてないと思う。鱗と毛の違いなんだろうけれど、陽に照らされたら光り方がまるで違うだろうな。
「あまりツガをジロジロと見るな」
俺がじっと見つめていると、ファンネスが釘を刺しに来る。あれ、俺そんな目でツガの事を見ていただろうか。
「ファンネス。そんな言い方ないでしょー。せっかくゼオロさんとお話できてるのに」
「敵国と言っても過言ではないラヴーワにまで来て、お前が一体何人虜にしたと思ってる。竜族なのに惚れる奴も惚れる奴だがな」
ああ、なるほど。俺に釘を刺したというよりは、ツガがあんまりにも人目を引いてしまう方に困っているのか。そりゃ竜族ってだけで目立って仕方がないのに、こんなに綺麗ではな。男に綺麗って言うのもあれだけど、
このツガに関しては他に適当な言葉が見つからない。思ったよりも本人がさばさばとした雰囲気だからまだ良いけれど、これでおしとやかな振る舞いだったら、同性同士の付き合いがある程度認められているこの国の男は、
そして女でも、簡単に撃墜されそうだ。俺の目から見ても、とんでもなく綺麗に見えるのだから。
「大丈夫ですよ、ファンネスさん。そういうつもりでは見ていませんから。それより、竜族を見るのは、ツガさんが初めてなので。爬族も、ファンネスさんが初めてですけれど」
「ほら。ゼオロさんは大丈夫だって。それにまだ子供だよ」
「お前の言葉は信用できん。私が一体何人追い払ったと思っているんだ」
「ファンネスが過保護なだけでしょ? ちょっとお話したいって来てくれた人まで追い払っちゃうんだもん」
俺を放置して、ツガが騒いで、ファンネスが淡々とした返しをしている光景が続く。なんだこの漫才は。とりあえず、ツガがモテる、という事がよくわかった。確かにこんなに綺麗な鱗。宝石みたいだし、見惚れてる人が
居るのもよくわかる。
「今更ですけれど、お二人は……ラヴーワに居ても、大丈夫なのですか?」
「私は元々爬族だ。爬族は、竜族とは色々と関係もあるが……ランデュスには属していない。その様に言われる筋合いはないな」
「俺はファンネスが行く所ならどこでもいいから! ねー、ファンネス」
そう言って、抱き付こうとするツガを、ファンネスが振り払ってから、蹴り飛ばす。割と扱いが酷い。
「さて、お前の健診も済んだ訳だが……。ゼオロ。一つお前に提案がある」
いつも通り俺を診る事が済んで、二人はもう帰るのだろうと思っていた矢先。ファンネスが少し間を置いてから、切り出してくる。
「なんでしょうか?」
「お前、私の店で働くつもりはないか」
「お店、ですか……?」
唐突に、誘われる。俺は首を傾げて、そう返す事しかできなかった。そもそも店って、どんな店だろうか。いかがわしくないだろうか。ああ、でも、薬師だって言うし、そうなると薬を扱う店だろうか。そもそも今こうして俺を
診ているのだって、仕事の一環だろう。そうなると、助手だろうか。
「えっと……ありがたいお誘いですけれど、それは片腕が動かなくても大丈夫なのでしょうか」
「お前が今どんな状況なのかよくわかっている私が、それを失念してこの話題を口に出していると、そう思うのか」
「そうですよね。ごめんなさい」
「うわぁ、嫌味ったらしい言い方……」
「お前は黙っていろ」
俺が内心思ってしまった事を、遠慮なくツガが口にする。ちょっとすっきりする。惚れるとか、そういう意味ではなく、この人はなんとなく好感が持てるなと思った。今も竜の尻尾をくねらせて、わざとらしくファンネスの事を
横目で見ながら、やーねぇなんて仕草をしてる。ちょっとオカマっぽい。あ、ファンネスが脛に蹴りを入れた。
「仕事と言っても、それほどの事ではない。お前、もう歩くぐらいはなんともないだろう?」
「それは、そうですけれど。走ったりして傷に響かなければ」
床で悶絶しているツガを放置して、話が進む。不憫だなこの人。
「別に気負う必要もない。ただの、店番だ。私達はこうして診て回っているからな。店番が欲しかったところだ」
「お店っていうと……ファンネスさんは、薬師ですよね。お薬を商うのですか?」
「まあ、そうだな」
「そんな。私は、なんの知識も無いのに……」
「そこは心配するな。来てくれればどうにかする。お前、金が欲しいのだろう? いつまでもハンスタムの世話になっている場合ではないだろう」
言われて、確かにそうだと頷く。ファンネスは俺がどうしてここに居るのかも、もうハンスとクロイスの口から聞いている。その上で、俺が自立を目指している事、目指していたけれど片腕が動かなくなってしまった事も
承知している。腕が動かないのはリハビリ次第らしいけれど、元通りに動かせる様になるのは、いつになるのやらって話だ。そんな状態の俺が、都合良く働くのは難しいだろう。この街が高低差が激しいために引く手
数多だと言われている荷運びの仕事だって、片腕では満足にできないし。
片腕が動かなくても良くて、しかも俺の事情を知っているから、ある程度は安心して働ける場所を提供してくれる。これは、願っても無いチャンスだろう。
「重ねて申し上げますが、本当に片腕を動かせない私で、大丈夫なのですか? ご迷惑にならないと良いのですが」
「寧ろ、健診を兼ねてきてほしいから誘っている。こうして出歩くのは、自分の足で私の下まで来られない奴が居るからだ。そして今のところ、馬鹿みたいに階段を上ってまで訪ねなければならない患者はお前だけだ。私の
手間を省くために、お前が来い」
なるほど、それが本音か。確かにハンスの家の階段を上れば、すぐにスケアルガ学園に着くのだから、この家はミサナトの街の中でもかなり高い場所にある。下町に行くのだって、かなり時間を掛けて階段を下りていた訳だし。
「ファンネスさんは、薬師なのに他にも患者さんを?」
「お前と同じだ。表立って医者には掛かりたくない者も居る。それから、家から出られない様な、医者の手の回らない奴も診ているからな」
「そうなんですか。では、そういう事でしたら……お願いします」
迷惑ではと心配していたけれど、向こうは向こうできちんと考えがある様で、俺はおずおずと申し出る。それに、いい加減ここでぐうたら寝ているのも、俺が耐えられそうにない。ハンスは相変わらず何も言わないけれど、
それは俺をこの世界に引きずり出したと本人が思っているからだ。それだって、別にハンスがした事でもないのに。
無一文で、そもそも金を稼ぐ手段も持ち得ない俺を寛大にも世話してくれるのは、本当に頭の下がる思いで。でもはっきり言うと、心苦しい。だからこそささやかながら手伝いをしようとしていた矢先に、腕はこうなって
しまうし。しかしいつまでも、腕が動かないから、なんて言っても居られないのはわかっていた。片腕は動く訳だし。片腕だけで何ができるのだという話ではあるけれど。
結局俺は、今差し伸べられた手に縋る他、選択肢が無い事はよくよくわかっていた。いや、このままぐうたらを続けるというのも勿論選択肢かも知れないけれど。いい加減胃がキリキリしそうなので、真っ当になろうと思います。
俺の返事を聞いて気を良くしたのか、ファンネスがにやりと笑みを浮かべる。喜んでいるはずたけど、残念ながら悪人面にしか見えない。隣に居る竜族と同じく、分類すれば爬虫類の一つでしかないはずなのに、どうして
こうも違うのかと、失礼な事を考えてしまう。その隣のツガはといえば、両手を上げて、子供みたいににこにこ笑って喜んでいる。心なしか、その鱗の輝きが増した様にも見えた。完全に大人と子供だ。
「良し。では地図を……と思ったが、迷われると面倒だな。ツガ」
「はーい」
ファンネスの言葉に、ツガが俺の下へとやってくる。
「ゼオロさん。怖いかも知れないけど、俺の目をじっと見つめてみて?」
「えっ。……はい」
別に怖くはないけれど。俺は顔を上げて、ツガの瞳を見つめる。美しい鱗と同じく、瞳もやっぱりきらきらとしている。鱗よりは、幾分黄色がかったそれは、いつにも増して光が灯った様で、そこから吸い込まれてしまいそうな
気分に陥る。じっと目を合わせていると、その内にツガの両目が僅かに光を強めた。俺は咄嗟に目を閉じてしまう。
「はい、終わり」
「何を、したんですか」
「目に細工をした。これでミサナトのどこに居ても、お前は私の店まで、どの様に道を進めば辿り着けるかがわかるはずだ。もっともあまり離れすぎると、効果が出ないがな」
ナビゲートの一種だろうか、そんな魔法もあるんだなと感心する。人間カーナビ。違った。獣人カーナビになった気分。ただし目的地は変更できない。あと多分カーは無い。馬車はあるだろうけど。まったく新しい存在、
獣人カーナビとして顕現してしまった事に特に何も感じていない俺を他所に、用は済んだ、あとは来たくなった日に来いと大分緩い事を言ってファンネスとツガは姿を消す。この後も、多分仕事があるのだろう。
「ファンネスの店で仕事、ですか」
夕食をハンスと囲みながら、今朝の出来事を伝える。ハンスはちょっと怪訝そうな顔をしていた。あれ、不味かったかな。
「いえ。まだあなたの傷も癒えていませんからね。せめて傷が塞がってからで良いのではと、思っていたもので」
まあ、確かにそう言われるとそうかも知れない。傷が完全に塞がってないのに下手な事をして、また傷が開いたら事だし。
「他でもないファンネスさんが許可してくれたから、大丈夫かと思いまして」
「単にここに来るのが面倒なだけでょう、それは」
「それはそうですけど」
くすんだ白の犬男は、俺の身体を心配している様だ。ちょっと過保護だなって思う。もうすぐこの家に厄介になって、一月になってしまう。いい加減出ていけと言われても、俺も不思議には思わない。ハンス自身が
しでかした事でこうなったのならまだしも、やらかしたのは生徒な訳だし。それも別に、俺は咎めるつもりもないけれど。
「お願いします。ハンスさん。私も、いつまでもハンスさんに甘えていたくはありません。ただ飯食らいのままは嫌です」
「それは、稼いだお金を私に渡す、という事でしょうか」
「勿論」
「駄目ですよ、ゼオロさん」
ハンスが困った様に、それでも優し気に笑う。
「そういうのは、もっともっと、後の話ですよ。あなたが一人立ちするためにだって、沢山お金がかかるのですから」
「ですが……」
「あなたが一人立ちして、自分の生活が軌道に乗って。もっと色んな人と交流が持てて。それから一人で暮らしていても、自分の身をしっかりと守れる様になったら。その時になってもまだ、そういうお気持ちでいたら、私の
下へお礼と称して顔を見せに来ていただければ、それでいいのですよ」
「いくらなんでも、それは」
過保護過ぎると言いたかった。しかも結局顔を見せに来るだけでいいとまで言い放たれる。どれだけ寛大なのこの人。
俺がそこを突っつくと、ハンスはまた笑う。
「まあ、実はクロイスに多少のお金を貰っていましてね。あなたが私に対して何かする必要は、無いのですよ」
「クロイスが?」
「黙っていてほしいと言われましたが、このままだとあなたがここに居る事も気負ってしまいそうなので、種明かしをしてしまいますがね」
「ちなみに、どれくらい……?」
「それは……ふふ。言えませんね。いつかクロイスと再会したら、あれに言ってください。遠慮深いあなたに、こんな事で怒られるのは、私も嫌ですから」
あ、これはかなり渡してるな。もう察するってレベルじゃない。最低半年は問題なくお世話になれるくらいは渡してやがる。あの怪人豹男。
「……それを聞いて、安心しました。クロイスを後で見つけて、虐める理由にもなりました」
「そうでしょう。ぜひ一人立ちができたら、あれを好きに扱ってあげてください。喜びますよ」
お互いに笑みが零れる。なんだこの元彼の事を揃って悪く言う女達的な会話は。実際ハンスからしたら元彼なんだろうけれど。俺は違う。断じて、違う。
「しかしあなた一人で街を歩かせるのも、心配ですね。この辺りならまだしも、ファンネスの家は下町に近い方ですから」
前科もありますしね。とさり気無く仄めかすハンス。こういう大人ならではの攻撃って、ずるいと思う。何も言い返せない。
「まあ、でも。ファンネスの知り合いという立場は、悪くないかも知れません。そういう意味ではこれは良い機会ですね」
「どういう意味ですか?」
「あの二人は、ラヴーワの者ではありませんからね。種族からして。多少の後ろ盾には、なってくれるという事です。事情もわかってくれていますし。ちょっとやそっと腕を磨いただけでは、あなたはやっぱり、狙われてしまう
でしょうし。あなたの正体が知られたら、それこそ、一人でどうにかなる問題ではない。そういうところも、ファンネスは考えてくれているはずですよ。ですから、最初の内は危険かも知れませんが、悪くはないなと思いまして」
「そうなんですか」
確かに、あそこには竜族であるツガも居る。クロイスの言葉によれば、竜族は他種族とは桁外れの強さらしいし。しかも魔法を使い慣れている様子だった。あんなに朗らかなツガだけど、本気になったらとんでもないの
だろうな。そんな事さえ周囲はわかりきっているのに、他人を、それもラヴーワの人を虜にするのだから、ファンネスが苦い顔をするのも頷ける気がした。俺もやっぱり、純粋に綺麗な人だと思ってるし。
「……そういえば、ハンスさんはクロイスと付き合ってたんですよね」
食後。ふと思い立って、俺はその話題を口にしてみる。食器を片付けようとしたハンスが、動作の途中で停止して、ちょっと目を丸くする。それから、穏やかに笑った。
「嫉妬しましたか。大丈夫ですよ、もう、そういう仲じゃありませんから」
「あ、いえ。そうじゃなくて……。というより、私もそういう仲じゃないんですけど」
ドラマチックなお別れ方をした気がするけれど、友達です。大切な友達です。ええ、友達です。クロイスが聞いたら泣くな。
「どうして、付き合ったのかなって思って」
「おかしいですか?」
「ハンスさんは、身持ちが良さそうだし、あんなに浮気性っぽくて、煩いクロイスは苦手そうなのに」
「言いますね」
楽しそうに笑うハンスに、俺も口元を緩ませる。ようやく、ハンスともこういう話ができる様になったと思う。手の早い豹のおかげだ。
「まあ、だからかも知れませんね。私ももう、いい歳ですから。そんな私に、クロイスが態々声を掛けてくるのが、なんだか面白くてね」
それは、納得できるところが俺にもあった。屈託のない笑顔で接してくるクロイス。腹の中では、スケアルガの者であるのだから、当然様々な考えを巡らせてはいるのだろうけれど、少なくとも他者との関係においては、
クロイスはかなり純粋な物を持っていた。父であるジョウスが、やや心配気味に口を出してくるくらいには。
「あとは、まあ……ジョウスからも、私が見張っているのは良い事だと言われてしまいまして。そんなのは、あなたの役目でしょうと言ったのですが。逃げられまして」
そういう所は、やっぱり親子なんだなと思った。ジョウスはジョウスで、かなり剽軽な部分のある人物だというのは、一度出会っただけでもわかったし。でも、クロイスにはあんなにさらっと皮肉を言う大人にはなって
ほしくないなと思う。
「付き合っていた、というよりかは……年の離れた、弟ができたみたいでしたが」
「弟、ですか」
「そう言うと、クロイスは息子の間違いでしょって言うから、ちょっと殴っておきましたけれど」
噴き出しそうになって、俺は慌てて口を押えて顔を逸らす。そんな話、ずるいと思う。しかも普段は大人しく、手なんて上げなさそうなハンスが、クロイスを殴り飛ばしているところを想像するだけで、ちょっとやばい。
「ああ、でも……。彼と一緒に居るのは、楽しかった」
「……そうですね。私も、楽しかったです」
今、どこに居るのだろうか。クロイスは。訊ねてみると、ラヴーワの戦線を南から巡り、緩衝地帯は刺激をしない様に、少数で視察をしながら、北上しつつ拠点を巡るらしい。
「戻ってくる時期は、数年は覚悟しなければならないでしょうね。あの男には、良い薬でしょうけれど」
また会えたとしても、そんなに先なのだろうか。そんな自分の境遇を、夢を叶えるためだとはいえ歩いていったクロイスは、やっぱり凄いと思った。俺なんかとは、何もかも違う。逃げてきて、ここにきて、安堵している俺とは。
「次に会う時に、あなたも見返してやれるくらいになっていれば、良いのですよ」
俺の表情からそう口にするハンスの表情は、限りなく優しかったけれども。ほんの少しの寂しさも滲ませていた。
狼族になって、更にカーナビ獣人になった俺の緊急任務である、ファンネスの店に一人で辿り着く、は俺が当初予定していたよりもずっと楽な物だった。
まず、掛けてもらったナビゲートの魔法の性能がとんでもなかった。ハンスの家から外に出て、ファンネスに家に行きたいと望めば、俺の視界に線が入り込んで、どの道を行けば効率よく目的の場所へ行く事ができるのか
教えてくれる。
その上で。
「うわ、柄悪いのが居る」
思わず口走ってしまった。それくらい、なんか如何にもって感じのチンピラが、道を塞いでいる細道にぶつかる。一人で通り抜けたら、十中八九、絡まれかねない。
今の俺は別にお金も持ってない。何か出せと言われても、出せる物なんて何も無い状態だけれど、最後の最後に残った物。俺の身体がある。そしてハンスやクロイス、それからヒュリカを助ける時もそうだったし、クロイスも
丁寧に教えてくれたけれど、この街には、この国には、ホモが多い。なんて字面だろう。いや、クロイスは少なくとも、女の子も行けるから、というまったく安心できないどうでもいい情報をアピールしてくれたけれど。とにかく
この場合問題なのは、俺の様な華奢な少年というのは、男に興味が無い男であろうと無駄に引き寄せかねない状態である、という事を、いい加減に俺は自覚する必要があるのだった。前の世界では十人並みの容姿に、
ちょっと太りかけ、超インドアであるが故に色白な肌だったから、見た目で招くのはちょっと変わり者のホモくらいだったかも知れないけれど。タカヤ、お前だったのか。
心底その道を通りたくない俺を嘲笑うかの様に、俺の視界にだけ映っているであろうその線は男達の中を堂々と通っている。通れと言うのか。檻の無い、猛獣ばかりの集まる動物園の中を。勘弁してほしい。現実の
動物園とは二足か四足か、服を着ているかどうかの違いしかないじゃないか。
しかしそこは、流石竜族のツガが掛けてくれた魔法だった。俺がこの道は嫌だ嫌だと思っていると、不意に線が消える。そして少し待ってから、栓は俺の足元へと現れる。戸惑って俺が
振り返ると、なんとそっちに今度は線が伸びていた。追いかけてみると、別ルートを検索して表示してくれているのか、チンピラ細道なんて案内した憶えは無いと言いたげに、まったく新しい道を示してくれている。なんだこの
魔法。前の世界で欲しかったと言わざるを得ない。
そんな訳で難なくミサナトの街並を歩いて、俺はファンネスの家へと辿り着いていた。ただ、線を追う事にばかり夢中になって、道中の景色も、道順も、まともに見ていない。つまり帰り道を碌に憶えていない。俺が来る事を
予想していたのか、二人は出迎えてくれて、俺がその心配を口にするとツガがにっこりと笑ってくれた。
「大丈夫だよ! ハンスさんの家までも教えてくれる様にしてあるから!」
と、俺を安堵させてくれた。良いな、この魔法。俺も使いたい。生憎クロイスには魔法の才が無いと言われたばかりだから、無理なんだろうけれど。悲しくなる。
こじんまりとしたファンネスの店。外から見ると、怪しさ大爆発というレベルじゃ済まないくらい、ちょっと見た目がボロい。ただ内装はかなり整っていた。外見に頓着しないファンネスの人柄が、そのまま表れたかの様だった。
ぶっきら棒な看板が、薬を売っている事を教えてくれているだけで、辺りはちょっと閑散とした通りになっている。適当に歩いていた俺でも、今の場所はなんとなくわかる。スケアルガ学園の正面。階段を下りて、かなり下町に
近い辺り。そこに差し掛かる直前で、細道に入って、少し歩いた辺りだ。ハンスが心配するのも、頷ける。実際道中にアレなのも居た訳だし。
店内は少し薄暗かったけれど、どこに居ても明るさは一定だった。光源らしき物も、窓も見当たらない。これはツガの魔法に寄るものなのだろうか。あまり強い光は薬の性質を変えかねないから、こういう配慮がされて
いるのかなと思う。
「魔法の精度に問題は無かったか」
「はい。とても、素晴らしい魔法でした。感動しました」
「えー。褒め過ぎだよぉ」
ツガが、相好を崩して心底嬉しそうに笑う。尻尾がまたゆらゆらと揺れている。ツガの癖なのだろうか。犬以外でも、ああして揺らすんだな。俺はそういう習性からはちょっと遠いからか、自分の尻尾はあんまり振らない方
だけれど。そのせいでクロイスと話してて、不機嫌なのって言われた事も、何度かあるくらい。その内クロイスは俺の顔から読み取る様にしたそうだけど。
褒められて有頂天のツガだけど、俺にとっては本当に奇跡みたいな体験だった。勿論現代だったら、スマホを片手に持てば、似た様な事ができたけれど。それでも何も手に持っていないのに、奇跡を引き起こすその力は、
どうしようもなく俺の心を捉えていた。ああ、本当に。どうして、俺にはその力が無いのだろう。
「さて、早速だが。店番を頼もうか」
「えっ。あの……まだ、何も聞いていないのですが」
「問題ない。最低限の応対ができれば、それでいい。それ以上は特に求めてはいないからな」
「そんなに……その、いい加減で良いのですか?」
「狼族のお前にはわからんだろうが……おっと。狼族ではなく、もっと前の話で、わからんだろうが」
皮肉そうな笑みを浮かべて、ファンネスが言葉を続ける。
「爬族である私は、確かにラヴーワに居ても不自然ではないのだが……。それでも、やはり良くは思われてはいない。恥ずかしい話だが、私が店に居ても、客はあまり来ないのだよ」
「そうなんですか? 八族に属していないだけなのに」
「まあ、元々爬族は竜族との接点がかなり強いからな。警戒する気持ちも、わからんでもない。そして、ツガ。こいつは絶対に店には出せん。昨日も言ったが、余計な人を招く。客ではない。ただの邪魔者だ。まったく、
竜族の方こそ警戒するべきだろうに。馬鹿ばかりだな」
「そんな事言わないでよファンネス。皆良い人だったでしょ?」
「お前にだけな」
苦々しく吐き捨てているところを見ると、どうやら見えないところでファンネスにはかなり苦労が掛かっている様だ。当のツガはそんな事はないと、ちょっと怒っていて。ファンネスの苦労がなんとなく伝わってくる。
「わかりました。けれど、やっぱり……商品の説明などもできないと、困るのでは」
「問題ない。これを見ろ」
そう言って、ファンネスが店にある戸棚から適当に一つ、瓶に入った物を取り出す。それを目の前でちらつかされて、俺は初め戸惑ったけれど、不意にナビゲートが起動している時と同じ様に、俺の視界に、情報が
飛び込んでくる。
「言ってみろ」
「火傷に効く薬。値段は一瓶で440ベスタ。配合量は……」
俺の目に現れた情報を読み上げる。なんだこれ、カンペじゃないか。試しに棚の前に行って、近い場所にある物を見つめると、即座にさっきと同じ様に情報が現れる。
「これも、ツガさんの魔法なんですか?」
「そうだよー。俺、憶えてられないから! 代わりに憶えてもらってるの!」
物凄いズボラっぷりを発揮して、ツガが言う。確かにここまで詳細な情報を伝えてくれるなら、自分でずっと憶えておく必要はないのかも知れないけれど。でも便利過ぎて自分の脳を使わなくなりそうで、ちょっと怖い。便利
過ぎるのも考え物だと思う。
「さて、そういう訳だ。では頼んだぞ。ああ、そうだ。一つ忘れていた。もし妙な奴が出たら、これを使え」
懐から、ファンネスが取り出した物を受け取る。俺の掌でもきちんと乗るそれは、丸くて綺麗な、宝石の様だった。あれ、でも見た事ある。
「これ、クロイスが使ってた……」
「よく憶えているな。そうだ。あれだ」
俺が、暴漢に刺された時。薄れゆく意識の中で、クロイスが砕いていた物。これが、そうだったのか。
「これもツガの手製だが、これを砕く事で、私とツガに、それがわかる様になっている。クロイスには、医者に掛かりたいが、何かしら理由があって通常の医者には掛かりたくない時に使えと渡したが、お前は危険だと
思った時に使え。ちょっと強く握るくらいで、簡単に壊れる物だ」
「わかりました。ありがとうございます」
なんだか、至れりつくせりだと思う。あとは金の数え方を、大慌てで教わった。すっかり忘れてたけど、俺はこの世界の金の事、何も知らない。さっき読み上げたベスタというのが、このラヴーワの通貨の名前なのだろう。
ついでに他にも通貨があるのかと問いかけると、ランデュスでは別にユランという物があり、それ以外は物々交換が主流だと言われた。そんな原始的な場所もあるのかと思ったけれど、確かに国の態も成していないの
だから、そんなもんなのだろうか。
出かける二人を見送って、俺は店に戻る。店番をするためのカウンターに入り、備え付けの椅子に座る。生憎位置が高すぎて、座るのに軽くジャンプする必要があった。これだから背の高い連中は。
椅子に座って、正面を見据える。両手で頬を、と思ったけれど左手が動かせないので、右手で軽く頬を叩いた。仕事の始まりだ。
ファンネスに店番を任されて、早四日。時間が流れるのが、早く感じる。
「ありがとうございました」
にっこり微笑む俺の営業スマイルも、大分板についてきたと思う。店内に人が居なくなった事を確認して、俺は瞬時にスマイルを消し去ると、特大の溜め息を吐いた。
仕事は、楽だった。予想していたよりもずっと。なんというか、そう。もっとイチャモンをつけられたりするのかと思ってた。この世界は、そりゃ前の世界と比べたら、人の倫理観とか、教育の水準が低い訳で。だからそう、
人も短気だったりするのかなと思ってた。実際、俺に傷を付けてきた奴らだって、現代だったら外国じゃないと中々お目にかかれない様な人種だった事は疑う余地もない。元の世界だって、接客業と言えば胃潰瘍と
隣り合わせみたいな印象しかない。けれど、ファンネスの店にそういう連中が訪れる事はほとんどなかった。たまに柄の悪そうな奴が来ても、見た目程悪くなくて。だからすんなりお客様として扱って、店は何事も無く
営業できている。
初日は、暇だった。というか、本当に数人しか人が来なくて、大丈夫なのかこの店と思ってしまうくらいだった。そして、ぽつりぽつりとやってくる客も、少しおどおどとしている様子で。でも、そんな客は俺の姿を見ると、
目を丸くして、それから安心した顔をしていた。それで俺は、なんとなくこの店の持ち主を皆が恐れているという事に気づく。顔、怖いしな。
そうすると口コミで俺が店番をしている事が、というよりも、ファンネスが店番をしていない事が広まったのか、二日目、三日目と時が経つ毎に、店の客はどんどんと増えて、今度は余裕が無くなる。ただ、それでもやっぱり、
店は平和だった。ファンネスが今ここに居ないだけで、ファンネス自身がミサナトから離れた訳ではない。という事実が、客を行儀よくしてくれているみたいだ。俺が片手で覚束ない会計をしていても、誰も文句を言わないし、
それどころか、俺がまだまだ子供盛りという事もあって、一人で偉いねとか、あの爬族に何か弱味でも握られているのかとか、色々と褒められたリ、心配されたりしていた。優しい世界である。ファンネスは気の毒に
思うが。多分、ツガ狙いの客に対して相当派手に暴れたんだろうな。そこまでするファンネスが恐ろしいというよりも、皮肉は口にしても物静かなファンネスをそこまで激昂させてしまうツガの魅力の方が、俺にとっては
恐ろしいと思えてしまうけれど。そのツガが居ない事も、たまに口に上せる客は居た。ファンネスが居るから表立っては行動できないけれど、ツガ目当ての客はまだ居る様だった。それも、男女問わず。なんという人気。
そしてまた、俺という存在も、どうやらファンネスの懸念を多少は孕んでいる様だった。だって今の客、来るの三日連続だし。初日は俺の顔をじっと見つめて、次の日はおずおずと話しかけてきて、今日は、それまでは
お釣りが出ない様に出してくれていたお金を、お釣りが出る様に出してきて、俺が支払いを受け取る時に手を握られ、片手でお釣りを用意しているところをにこにこと見られ、最後にお釣りを返す時にも手を握られた。ここまで
あからさまな事されると、流石に俺でもわかる。相手が俺よりちょっと年上の、兎族でなかったら、俺もちょっと引いていたかも知れない。まだ若い青年の、瞳をきらきらとさせた接触。流石に無碍にしづらいというか、
適当にあしらったら、物凄い落ち込んでしまうんだろうなっていうのがわかってしまうので、あんまりやりたくない。かといってこれ以上エスカレートしても、困るけれど。
「流石だな。お前に頼んで、良かった」
それに、夕陽が傾きかけた頃に戻ってくるファンネスが皮肉も交えずに誉めてくれるのは、ちょっと嬉しい。
「今日の分だ」
売り上げを確認して、俺へいくらかの金をくれる。基本に歩合を出した感じで、初日から貰える金は増えっぱなしだ。今日はかなり忙しかった、という事もあって、金貨を一枚貰えた。掌にそれを乗せた途端に、もう
慣れ切った魔法が発動して、情報を伝えてくれる。ラヴーワ金貨。
「こんなに頂いて、いいのですか」
かなり適当に換算しても、二万円くらいだろうか。これ一枚で10000ベスタらしいし。といっても元の世界と物に対する価値がまったく同じ、という訳ではないのだから、ただの目安だけど。それでも朝から店に来て、
ファンネスに診てもらった後は二人を見送って、店番をして。解放されるのは夕方の少し前。夜に一人で出歩くのは、という配慮もあるからとはいえ、半日程度で、子供の店番で貰う金額ではないと思う。バイト感覚でも
大金である。
「売り上げを把握しているお前なら、わかるだろう?」
どこか遠い目をしながら言うファンネスに、失礼ながら俺は頷いてしまう。ファンネスでは、客が来ない。初日の二の舞どころか、初日より悪いだろう。
「かといって、こいつを店に出すとな」
そう言って、ファンネスはツガを見つめる。それにもやっぱり俺は、頷いてしまう。ここに来て四日目。既に俺に熱心に視線を送るのは一名。それ以外にもなんとなく俺の事をちらちら見ているのは、十人じゃ足りない。俺が
他所からこの世界に来て、この世界にまったく不慣れな状態でもわかる。こう言っても、自惚れではないと思う。俺はモテる。というより、ゼオロとしての俺はモテる。そして、俺よりも更に、ずっとモテるのが、今俺とファンネス
二人からの視線を受けてつつも、店の売り上げを見てお菓子が買えると喜んで、尻尾を振り回しているツガだった。暴れた尻尾が、店の壁を攻撃している。
「それに、ここまでの金を渡すのは、その内一旦店を閉めるからだ。今までは在庫が溜まっていたから、出てもらっていたがな。薬を調合するのは時間が掛かる。働こうとお前が思っても、そうさせる事ができない日も増える」
「大丈夫だよファンネス。俺だって手伝うんだから」
「お前が手伝うと尻尾で器具を壊されるから嫌なんだ」
そんな事ないよと言いながら、暴れたツガの尻尾が、棚を攻撃している。棚の中の瓶が倒れた。駄目そう。
「かといって、それをゼオロに手伝わせる訳にはいかない。毛が混入するのもごめんだ」
そういえば、そういう問題があるんだな。ご飯を作ったりするのもそうだけど。その点、ファンネスやツガは、とりあえず今見ている限りでは、毛という物は見当たらない。被毛の懸念があるのだから、これに関しては俺を
店番に立たせるよりも、もっと難しい問題だ。ラヴーワに毛の無い種族なんてほとんど居ないし、呼ぶとしたら水族辺りになるだろうか。
「故に、都合良く使っている分の上乗せだ。だから、この手伝いをいつまでもできるとは、思うな」
「はい。ありがとうございます。それでも、とても助かっています」
店番も今日で四日目。貯金もそれなりにできている。というか使ってないし。それでも勿論一人立ちするには足りない。そもそも今の腕の状況では無理だ。今は傷も塞がってきたので、もう少しだけ様子を見たら、
いよいよ腕を動かすリハビリをしようかとか、そんな辺り。事情を知って受け入れてくれる場所でないと、とても働けないだろう。最後の最後に身体を売る、という手段も無いとは言わないけれど。今の俺のモテっぷりで、
この身体が金になるのは、わかっている。そこまで困窮していないから、しないけれど。
つくづく、良い所に現れる事ができたんだなっていう事がわかる。何も知らない俺が、俺の正体を知ってそれを利用しようとする奴にも会わず、身体を売る様な事態にも陥らずに済んでいる。今居る場所を、自分を
支えてくれる人を、もっと大切にしたいと思った。
「だから、私に支払う必要はありませんよ」
そう思ってハンスに少しでもと差し出したお金は、やっぱり拒否されてしまったけれど。
挨拶を済ませて、店を出る。空が少し、夕焼け色。視界にはそんな自然の彩色を無視してナビゲートの線が通っている。俺が必要ないと思えば、消えてくれるけれど。途中までそれを利用して、道を歩いた。道行く人々も、
皆家路に着いている。夜の光源が、この世界は少ない。一応魔法や、魔法以外の旧時代的な灯りが存在しているけれど、それでも元の世界の様に、電灯によって眩しく、煌びやかに照らされた夜の街とは、雲泥の
差だ。だから夜まで、下手したら真夜中まで仕事をする様な連中というのは、少ない。夜が舞台の仕事は別だけど。この世界は闇に包まれて静かになるのに、前の世界は無理矢理白く照らされて働くブラック具合
なんだから、とてつもない皮肉だと思う。
歩きながら、道を行く人々を控えめに見つめる。こうしてみると、初めてクロイスと一緒に歩いた時よりも、いくらかの余裕を持ってそれが観察できた。まず、一番多いのは犬族だった。犬、という想像に違わず、彼らは
犬族同士で固まる事もあれば、他種族とも平気な顔をして歩いている。もっともこの国は他種族が織り成す連合として成り立っているのだから、当然なんだけど。でも、犬によく似ているのに、他種族とはほとんど一緒に
行動しない奴も居る。それが、俺と同じ狼族だった。狼族は、基本的に狼族以外とは一緒に居ない。そうでないなら、一人で涼しい顔をして歩いている方が多かった。全体的に、群れて歩いているのは犬族と狼族。でも
狼族は狼族だけ。一人で歩いているのは虎族や牛族が多かった。彼らは、犬族程人口が多くないみたいだ。狼族も犬族の様に多い訳ではないはずだけど、群れている関係からか、多く見える。それ以外の猫族、獅族、
少族は、程々に見る感じだった。そして残る兎族は、これはなんというか、凄いコミュニケーションの持ち主なんだな。どの集団にもかなりの頻度で混ざっている。犬族の中に一人、耳の長いのが交じっている時もあれば、
狼族の中にすら存在していたり、狼族と二人で歩いている人も居る。それだけで兎族がどれだけ社交的なのかが、窺い知れる様だ。兎族以外で、狼族と歩いている人は、なかなか見つけられない。それどころか犬族と
狼族が目があって、剣呑な雰囲気になったりしている事も多かった。大抵は、狼族の方がしかめっ面をしている感じだけど。なるほど、狼族に色々と問題があるのが、わかる。ヒュリカが俺の事を、狼族だから心配していたと
言ったのが、頷ける。そりゃ、話に聞くだけでも接しにくいのがわかるのに、いざこの様子を見たら、中々狼族との接触なんて他種族からはし辛いだろう。
ただ、そんな狼族も、同じ狼族にはかなり優しい。俺が一人で歩いていると、心配した様に声を掛けてくれる人が居て、その大半は狼族だった。俺を心配しながら、俺の銀の被毛を褒めてくれる。彼らにとっては、英雄
であるグンサを含めて、銀狼の血筋を引く特別な者であるという証だからだろう。生憎俺はその血を本当に引いているのか、甚だ疑わしい訳だけれど。
人込みを抜ける。下町に到達するギリギリ手前。スケアルガに続く大階段のあるこの場所は、そんなに治安が悪いという訳ではない。あとはまっすぐ階段を上れば、一歩を踏み出す度に、生活水準も上がってゆくかの様に、
景色は美々しく、道行く人の姿は小奇麗になってゆく。人生の縮図がそのまま表されたかの様だ。別に、下町に居るからといって、野蛮という訳ではないだろうけれど。階段の途中途中ではお店もある。スケアルガ学園から
家路に着く生徒も多いのだから、セレブ臭に溢れるとか、そういう訳でもない。
階段を上ってゆくと、スケアルガ学園が見えてくる。ナビゲートはもう横の道に入る様に指示しているけれど、学園を見ていたいから、俺はいつもここからは案内を無視している。今更ながら、ファンネスに毎日これを
上らせていたのかと思うと、確かに頭の下がる思いになる。寝てばかりだった俺も辛いけど、失った体力を養うのには丁度良かった。
「ゼオロ!」
学園の前を通り過ぎて、いつもの様に裏道からハンスの家へ戻ろうとすると、大きな正門から鷹の顔のヒュリカが飛び出してくる。その後ろには、ヒュリカと似た様な子供が居る。俺も子供だけど。
「ヒュリカ。授業、終わったんだ」
「うん。ゼオロも、今帰るところ? あれ、というかどこに行ってたの? 休んでなくて大丈夫?」
「大丈夫だよ。今はファンネスさんの所で、少しお手伝いを。ヒュリカは、ファンネスさんとは面識あるんだっけ?」
「ああ、ファンネスさん……ゼオロの治療をしてくれた人だよね。僕もその後診てもらったから、わかるよ」
そういえばヒュリカも医者に見せたかったんだよな。俺の治療のために呼んだのだから、ヒュリカも診てもらうのは当然か。医者に掛けなかったのは、面倒事にならない様にとの配慮だし。スケアルガ家の一員である
クロイスが引き起こした事を、全て握り潰すための措置なんだろう。そう考えると割とあの家は黒いと思う。権力って怖い。それで俺の話が少しも広がる事がなかったのだから、ありがたい話ではあるけれど。
ヒュリカの服装は、至って動きやすいそれだった。白に白は重ねたくないのか、グレーのシャツに近い物を着て、下も青いスパッツの様な物で覆っている。ちょっと気になって、俺はその下半身をさり気無く盗み見た。その、
なんというか。微塵ももっこりしてない。なるほど、鳥だからな。薄着なのは、やっぱり羽毛で暖かいからだろうか。鳥は体温が高いらしいし。天然の羽毛布団が歩いている。
そういえば、制服ってないのかな。
「制服はあるにはあるけれど、服装は自由なんだ。どうしても種族で体型が変わったりしちゃうし……それに、僕は翼のために穴を開けないと着られないし」
遠くを見ると、確かに制服らしい物を着た人の姿も見えた。白や黒のローブを纏っていて、腰に巻いている、帯の様な物の色が違う。よくある、あれで何年目の生徒である事を示しているとかいう、そういう感じだろうか。
ヒュリカは一緒に歩いていた生徒に別れを告げて、俺を先導するかの様に歩き出す。
「いいの? 友達と一緒だったのに」
「そうだけど。でも、せっかくゼオロと会えたんだし。最近中々会えないから」
会えないのは、仕方がないと思う。朝からこの時間まで、俺は店番で。ヒュリカは学園で。ミサナトに来たばかりのヒュリカには、何かをする余裕だって無いだろう。夜に出歩くのは危ないと止められているから、夕方から
お互いの家に行く、なんて事もまずできそうにないし。それにヒュリカがお世話になっているのは、あのスケアルガの家だ。俺は単身でそこに乗り込む勇気はない。クロイスが俺に、控えめに言っても惚れてしまったという事は、
先方は充分に把握しているだろう。そうじゃなかったら、あの日ジョウスは俺の下に来て、更には釘を刺すような事は言わなかった。そして、ジョウスとはあまり顔を合わせたくはないのだった。
「帰り道、大丈夫なの?」
「平気だよ。大分この街にも慣れてきたし。危ない所には、行かないつもり」
「いざとなったら、飛べるもんね」
「あ、いや……飛ぶのは、あんまり」
俺の言葉に、爛々と瞳を輝かせて笑っていた白い鷹の顔が、曇りをちらつかせる。
「え? 私の事まで抱き上げて、この間は飛んでたのに」
しかも、あんなに痛む身体で。今思い出しても、やっぱりあの時のヒュリカはとても恰好良かったと思う。
「そうだけど。あんまり遠くまでは飛べないんだ。ちょっと飛ぶくらいならできるけれど、危ない人に追われて、逃げるために……というのには、ちょっと」
「そうなんだ。飛ぶのって、大変なんだね」
「長く飛ぶのは、どうしても翼が疲れちゃって。風に乗れたら楽だけど、それだと風向き次第では違う方向に行っちゃうし……」
確かに。大きな翼を羽ばたかせるのは、相当の筋肉が必要だろう。ちょっと断って、ヒュリカの背の、翼の付け根に触れてみる。少年体型なのに、この部分だけはかなり立派な筋肉が付いていた。これでも、まだ上手くは
飛べないのか。
「重い尻尾をずっと動かしてる様な感じって言ったらいいのかな?」
「ああ、それは嫌だな……」
犬らしく尻尾を振ってみよう。そう思い立ってしばらくふりふりしていたけれど、意外と疲れていた事を思い出す。この尻尾が重くなったらと思うと、難しそうだなと思う。しかもその場面をクロイスに見られて腹を抱えて
笑われた事も思い出した。床で転げまわっているクロイスを踏んだのは記憶に新しい。なんか喜んでたけど。
「それに、翼族はラヴーワに所属していない。空を飛べるのは、翼族と、それから竜族で翼を持っている人だけだから。あんまり公に飛ぶのは、良くないよ」
「そうなんだ」
竜族も、翼があるのか。新事実に俺はちょっと胸を高鳴らせる。俺の知っている竜族と言えばツガだけど、ツガの背にはそれはない。ツガにあるのは、美しい鱗と、それから少し短めの一対の角くらいの物だ。
ヒュリカとたわい無いやり取りをしていると、やがてハンスの家が見えてくる。そこで、ヒュリカは踵を返した。
「本当は、もっと話したいんだけど……」
空を見上げて、残念そうにそうヒュリカは呟く。空は完全に朱に染まっていて。丁度今は、ハンスの家よりも高い位置だから、遠くで間もなく沈もうとする太陽が見えた。赤く照らされて、俺の銀の被毛はきらきらと輝いて、
ヒュリカの白い羽毛は、燃える様に染まっている。綺麗だなって思わず言うと、ヒュリカも俺を見て同じ事を考えていたと言って、笑った。
「ねえ、ゼオロ。今度……嫌じゃなかったらさ。ゼオロの所に、泊まりに行ってもいい?」
「泊まり?」
「うん。……駄目?」
翼をいつもよりも更に少し畳んで、ヒュリカが言う。感情表現にも使えるんだな、その翼。白い鷹は今まで見せていた人懐っこさをどこかに追いやって、寂しそうな顔になる。そうしていると、出会った頃の事を思い出す
様だった。きりっと引き締まっているはずの鷹の顔なのに、やっぱりまだあどけない感じが残っている。
「いいよ。でも、いつにしよう。どうせなら休みの時の方が、遊べそうだけど……そんなに都合良く行くかな」
「僕は、三日後がお休みなんだ」
「学園って、決まった休みはないの?」
「無いよ。魔法を教わるっていっても、基礎を学んだら、あとは何を受けるのかは生徒の資質次第だから。僕は谷に居た頃から、元々多少は学んでいたから、そういう部分は片手間で受けるだけで足りてるし」
「そうなんだ。ヒュリカは、魔法に詳しいんだね」
「そんな事ないよ。というより、詳しくなりたいから態々来たんだし。そういえば、ゼオロはどうなの?」
「私は……駄目だってさ」
クロイスに言われた事を、思い出してしまう。念のため、魔法にかなり精通してそうなツガにも、さっき訊いてみたけれど、ツガも申し訳なさそうな顔をしていたっけ。相当駄目なんだろうな。
俺が寂しそうな顔をしていると、ヒュリカが慌てた様子を見せる。さっきまで遠慮がちな構えを見せていた翼も、ふわっと広がって、その拍子に抜け落ちた羽根が一本、赤く照らされながら地面に落ちていた。クロイスも
そうだったけれど、慌て過ぎなんじゃないかと思う。そんなに魔法が駄目だと知って絶望している俺の顔って、悲しそうなんだろうか。
「ご、ごめん。僕」
「いいよ。ヒュリカは、頑張ってね」
「ううー……」
ヒュリカの方が涙目になっている。お人好しだな。俺の周りは、お人好しが多いと思った。俺は寧ろちょっとからかってしまう方向なんだけど。一番にからかう対象である豹男は遠くに行ったので、今は大丈夫だけど。
「なら、僕が少し教えるよ! ……使えない物を学んでも、つまらないかな……?」
「ううん。それでも、知りたいな。面白そうだし。でも、魔法を学ぶ気が無いのに教えてもらっても、いいの? クロイスはよくそう言ってたけれど」
「学ぶ気はあるんだし、いいんじゃないかな。野良の魔法使いの扱いになると思うけれど」
そもそも使えないし、大丈夫か。
「それじゃ、後でお願いしようかな。明後日が休みなんだよね。明日もファンネスさんの所に行くから、訊いてみるよ。駄目でも午後は一緒に居られるんだから、それでもいいし。ああ、あとハンスさんの許可も貰わないと」
「お願い。ずっと、話したかったんだ。ゼオロと。中々会えなくて、寂しくて」
そういう事をはっきりと言えるヒュリカは、凄いと思った。俺はクロイスをからかうために言うくらいだったので。つくづくボコボコにされてるなクロイスは。
あまり長居をさせては完全に暗くなってしまうからと、それでヒュリカとは別れる。ハンスの家に戻って、早速ヒュリカの事を持ち出すと、ハンスは微笑んで許可を出してくれた。
「ヒュリカさんも、ジョウスの家では息が詰まってしまいそうですしね」
「……そういえば、ヒュリカはずっとジョウスさんの所に居るんでしょうか?」
「いいえ。ある程度慣れたら、スケアルガ学園の寮に入る予定ですよ。今回はミサナトに到着してからのいざこざもあったので、ちょっと長くジョウスの家で預かる事にはなっていますが」
「そうなんですか。寮って、やっぱり学園の敷地内に?」
「ええ。第一寮なら。第二は少し離れていますが、それでもジョウスの家よりは近いですから、もしヒュリカさんがジョウスの家を出たら、もう少し一緒に居られるかも知れないですね」
「そうなんですか」
それが、今から楽しみだと思った。二人できた友達の内、一人はもう旅立ってしまったから。
でも、ヒュリカもいつまでもここに居る訳じゃないんだよな。ヒュリカだって、留学生としてラヴーワに入国して、このミサナトの街に来たに過ぎないのだから。
「友達、かぁ……」
「どうしました?」
「いえ、その……。中々、できないなって」
俺の心配事に、ハンスはまた笑う。本当に、優しく笑える人だなって思う。
「今はまだ、あなたの身体の方が心配ですからね。でも、いずれはもっと沢山増えますよ。そのためには、あなたから前に踏み出す勇気も必要でしょうけれど」
「私から、ですか」
「ええ。街を歩いたのなら、狼族の様子はわかったでしょう? 同じ狼族とは友達になりやすいかも知れませんが、それ以外となると、相手の方が尻込みしてしまう事も多いのかも知れません。そういう時は、あなたから。
あなたの秘密も、あなたの身体も、あなたが勇気を奮い起こす障害になるのかも知れませんが……それでも、どうか一人になろうとはしないでくださいね。それはとても、寂しい事ですから」
「……ハンスさんも、寂しい時って、ありますか」
「ありますよ。でも、今はあなたが居てくれるから、それ程でもありません。煩いのは、行ってしまいましたけれど」
「でも、私。そんなにハンスさんの手助けができていません」
「そうじゃありませんよ。家に帰って、誰かが居てくれる。一緒に食卓を囲める。私は魔導にばかり感けていますから、そういうのも、普段は無くて。ですから、今のままでも心地良いと思っていますよ。勿論、自分の
心地良さのために、あなたの自立を。それから、あれの夢を、壊したいとは思いませんが」
家に帰ったら、誰かが居る。それは、俺にとっては、苦痛だった。顔を合わせたくない両親とは、食卓を囲むはずもなく。ただ一人、いや、一犬。待ってくれる愛犬だけが、支えで。
でもそれが苦痛ではなくなった時。確かに家に誰かが居るというのは、心地良い物なのかも知れなかった。
「あなたにも、いつかわかります」
俺の顔は、それがわからない様に見えたのだろうか。ハンスは俺の頭を何度も撫でながら、そう言った。
清々しい空気の中、俺はミサナトの街を歩く。
これから世界を照らそうとしている太陽も、今はまだ、直接はその姿を見せずに。先触れの陽光は空を白く染めて、もう間もなく訪れるであろう朝の予感を告げている。澄んだ空気。静かな街並み。スケアルガ学園から続く
大階段を下りても、人の姿は多くはない。露店の準備をしている人達がいくらかまばらに見える以外は、生徒達よりも一足先に学園に向かおうとする教師らしい人の姿が見えるくらいだ。ハンスももう、学園に居る頃
だろう。朝食を共にして、そのまま一緒に歩いて、正門の前で別れたのだから。
階段を下りながら、遠くを見つめる。ミサナトは段々が続いていて、その頂点であるスケアルガ学園からの見晴らしは、素晴らしい物があった。遠く遠く、果てしなく階段は続いて。下町にぶつかる辺りでようやく、それは
見えなくなる。下町にぶつかるところで、アーチ状の門が構えてある。そこから先は、霧が出ていて、よく見えない。果てなく続く大階段と、澄み渡る空気の中を一人で歩いていると、まるでもっと厳かな場所に迷い込んで
しまったかの様に思える。そんな空気も、ほんの一時間程度だろう。その内にスケアルガ学園に向かう魔道士志望、魔法使い志望の学生達が、和気藹々と談笑しながら階段を上れば。授業の前であろうとお構いなしに
学生を誘惑する食い物、飲み物を扱う露店の香具師は騒ぎ出して、彼らの足を遅刻へと導く。そんな彼らとは無関係な、お祭り騒ぎが好きなだけの人も、結構ここには居て。賑やかな街並って奴が、もうすぐ広がるのだった。
生憎俺は、そういうの苦手だけど。遠くから眺めてる分には、嫌いじゃないけれど。でも自分の足でそれに混ざりたいとは、思わない。
そういう場所は、いつも誰かが俺の腕を引いて、見せてくれる場所だった。真っ先にそれで浮かぶ二人は、今は居ない。
今度、ヒュリカと一緒に歩いてみようかな。今度は俺から、腕を引いて。
ちょっと考えてみたけれど、それは面白そうだった。ヒュリカだってきっと、翼族の谷から出てきたばかりで、街の喧騒なんて詳しくはない。俺は知らなくはないけれど、避けてばかり。だから、ヒュリカとなら、知っている
振りなんてしなくても済みそうだ。
ちょっと楽しい、そしてわくわくする考え事に足取りも軽やかになる。もう少し元気になったら、早朝のジョギングなんて良さそうだと思った。失った体力を取り戻すのも、元々無い筋肉を付けるのにも、丁度良いだろう。人が
少ないから、変な人にも遭遇しないし、全速力で走れるのなら、逃げ足だけは早いからなんとかなる。これも、今からちょっと楽しみだ。前の俺だったら、想像もできない楽しみ方だけど。この身体は身軽だし、運動しても
すぐには疲れたりしないから、身体を動かすのがこんなに楽しいなんて、知らなかった。
尻尾を控えめに振り回しながら、道を行く。楽しくて尻尾を振るのにも、慣れてきたと思う。嬉しくて、犬族はやっぱり尻尾を振る様だ。狼族も、そこはある程度似ているらしい。しかしそれは言い換えると、尻尾を振って
いないと、楽しくないのかと思われる事もある訳で。これは慣れないとなと思う。慣れればそこまで辛い訳ではないのだけど。
いつも通りに道を歩いて、その内にファンネスの家が見える。もうナビゲートの線も、見えなくなっていた。どうしても通りたくない様な不良が見えたりした時にだけ、迂回路を探してもらうのに使うくらいだ。今更だけど、
俺の意思で使うかどうかが決められるのに、魔力の無いと思われる俺でも扱えるというのが、凄いと思った。
「おはようございます」
扉を開ける。店内は、しんとしていた。俺はちょっと首を傾げる。いつもなら、出かけようと準備をしているファンネスとツガ、どちらかは俺を迎えてくれたのに。それでも、鍵は開いているし、奥に二人は居る様だった。そもそも
ここは店だけど、奥はファンネスが住居としても使っている。奥に居るのは間違いないだろう。
普段は立ち入り禁止になっている店の奥へ向かう道を歩く。しばらくすると、特に仕切りもなく、住居として使っている空間へと辿り着いた。家の造りは、かなり質素だと思う。外側から見て、こじんまりとしている家は、中も
それほど広くはなくて。生活する上で最低限の部屋と、ファンネスが薬の調合のために使う部屋と、あとは一応の診察室があるくらいだ。音は、診察室から聞こえてくる。俺は立ち入って良いのかちょっと悩んだけれど、
そのまま診察室の扉を軽くノックしてから、開く。ファンネスは俺がやってくるまで待ってから、外回りに行くのだから。せめて俺が来ている事だけでも告げておいた方がいいと思って。
でも、扉を開いてその先に広がる光景を見て、俺はちょっと後悔した。
椅子に座るファンネス。それはまあ、普通だろう。でも、服を着ていなかった。そしてその前に跪いている、ツガが居る。こっちも服を着ていない。
あまりの驚きに目を丸くしていると、ファンネスが閉じていた瞼を開いて、俺を見つめた。その顔を凝視して、それから俺は、少し注意深く二人を観察する。てっきり見てはいけない二人の光景かと思ったけれど、どうも違う
様だ。いや全裸だからあんまり見ていたい訳ではないけれど。ファンネスはどこかぐったりとして、気怠そうにしていて。そしてツガの方は、いつものふざけた様子はどこかへ消えて、とても熱心な様子で、ファンネスの身体に
口付けをしていた。何をしているのだろうと、その口元の向かう先を見ていると、ファンネスの身体にいくつもの大きな傷がある事に今更気づく。今までは服を着ていて、その上に白衣も纏っているから、一つもわからなかった
けれど。ファンネスの全身は、思っていたよりもずっと引き締まっていて、そして傷だらけだった。それも、明らかな深手と思われる傷が、多い。傷口から赤い肉が見えていないから、古傷の類なのだろうけれど。それにしても、
それは酷く大きくて。それから、とても痛そうに見えた。そして何よりも、なんだか、言葉としては表現しづらいのだけれど、嫌な物を感じた。
「観察は、済んだのか」
俺が食い入る様に見つめている事も、ファンネスは特に気にしてはいない様だった。ただそれだけを呟くと、また目を瞑ってしまう。ツガは俺が見ている事にすら、気づいていないのではないかと言いたくなる程に、
俺をさっきから無視している。その姿は、いつもと同じく、綺麗だった。美しい、と言ってもいいのだろう。服から食み出す分だけ見えていたあの鱗は、当然の様に全身を覆っていて。無駄な肉の無いその身体をこれ以上
無い程彩っていた。男の俺でも、なんだか怪しい、蠱惑的な魅力に溢れていると思うくらいだ。そんなツガが、跪いて、ファンネスの身体にキスの雨を注いでいるのだから、尚更だ。それでも、その顔は色欲とは無縁の
表情をしていた。真剣そのものだった。裸で身体を寄せ合っている二人は、ともすれば誤解をしてしまいそうだけど。その二人の表情は、致命的に俺が最初に抱いた、いかがわしい事をしている、という考えから乖離していた。
「ご、ごめんなさい。その」
「別に、見ていても構わん。ただし、私には近づくな。大丈夫だとは思うが、お前に何か影響が出る事も、否定できない」
「どういう事でしょうか?」
「私の、傷を見ろ。嫌な物を感じないか」
「それは」
感じていた。嫌な物の正体。それは、ファンネスの全身に刻まれた傷だったのか。改めて傷を見ていると、俺の身体の中から、とてつもない嫌悪感の様な物が溢れてくる。何故だろうか。ファンネスの事は嫌いでは
ないのに。あの傷を持っているファンネスは、とてつもなく、嫌な物に見えてしまう。
「これは、呪いだ」
「呪い……?」
「呪術と、言ってもいい。基本的には、同じだ。私に傷を付けた奴らは、そのまま怨念として私を取り殺そうとしているから、まあこれは呪いの類だが」
「危険な物なのですか」
「呪いは、生ある物を貶め、卑しめる物だ。だから、不用意に私に触れない方が良い。この呪いの元となった奴らは、私にだけ殺意を向けていたから、お前に危害を加えるとは思わないが。それでも、万が一という事もある」
「今しているのは、治療なのですか?」
「治療とまでは、言えない。しかし私には、必要な事だ」
「ファンネス。喋らないで。身体が、もっと辛くなるよ。傷が静かになるまで、動かないで」
ツガの言葉が飛ぶ。いつもの、楽観的な声ですらなくなっていた。汗を掻いて、ファンネスの傷を凝視している。それから、その傷へと口付けをする。
すると、どうだろうか。その傷のある個所からの嫌悪感が、不意に無くなる。
「こいつは……。ツガは。この傷を付けた奴らに、懸想されていた」
「ファンネス」
話を続けようとするファンネスをツガが咎める。
「良いじゃないか。どうせ、少し辛くなるだけなのだから。少しくらい、私の好きにさせてくれても。どの道お前がこうしてくれなければ、私なんぞ、即座に全身の傷から血を流れさせて、そのまま息絶えてしまうのだから」
「そんな事言わないで。俺が、ファンネスを助けるから。ファンネスを、死なせたりしない」
涙を浮かべながら、ツガが急いでファンネスの傷に口付ける。頬を少し摺り寄せる事もする。その度に、ファンネスから感じられる嫌な気配は、少なくなってゆく。
「ゼオロ。これから生きてゆくのなら、呪術には気を付けろ。呪術は人を貶める。絶望させる。ただ傷を与える魔法とは、まるで違う物だ。憑りつかれれば、こうなる」
「どうにか、ならないのですか」
「難しいな。何故なら、呪いとは怨恨。誰かを心の底から怨む事で成せる業だからだ。こいつらは、この傷を付けた奴らは、私の事が憎くて仕方がないのさ。自分達から、ツガを奪っていった私がな。皮肉な話だ。そんな私を
守るために、ツガはこいつらを殺したのに。とうの殺されたこいつらは、それでも私の事を怨みきって、自分達を殺したはずのツガの口付けを受けた時に、安らいで。私の身体を蝕む手を休める。他人の心を奪う程の魅力
というのも、まったく考え物だな」
「ファンネス」
泣きながら、ツガがファンネスを見上げる。ファンネスはかなりゆっくりとした動作で、ツガの頭を撫でた。今のファンネスは、本当に弱り切っている様だった。
「じっとしていて。平気な振りは、しないで。どうしてそんな事するの。いつでも、言ってくれれば良いのに」
「たまには、お前を自由にしてやりたくなった」
「そんなの、要らない。俺はファンネスの傍に居られれば、それでいいの」
ツガが、ファンネスの傷に触れる。流れた涙も、傷へと。それが全身へと。少しずつ広がる度に、俺が抱いた嫌悪感も和らいでゆく。
「一つだけ。呪術を御する方法がある」
ある程度治療が進むと、ファンネスもいつもの様子を取り戻す。今は目を開いて、苦し気だった様子もどこかへ行っていた。いつものファンネスが居た。全裸だけど。
「呪術には、より強い呪術が効果的だ。何故なら呪術の源は、先程も言った通り、怨恨だからだ。怨みは、より強い怨みと同調し、吸収される。強い怨みの前に、弱い怨みは効果が無くなる。呪術を扱える者は、自身を
呪ったり、或いは他人から依頼されて、その者が不都合の無い様な呪いを掛けて、本当に避けたい呪いを遠ざける。私の身体が助かるとしたら、それだろうか。しかしこれは、複数人による竜族の呪いだ。そして竜族よりも
強い存在は、少なくともラヴーワには居ない。どうしようもないな」
「ツガさんは、大丈夫なんですか。ファンネスさんに触れても」
「呪いの元が元だからな。こいつらは、ツガには危害を加えない。あくまで、私をただ、取り殺したいだけなのだよ。それに、それとは別に、ツガは特別だ」
特別と言われて、俺はツガを見つめる。ツガに呪いの効果が及ばないというのは、本当の様だ。あれだけ呪いの傷に触れているのに、ツガからは少しも嫌な感じがしない。
やがて治療を終えると、ファンネスが服を身に着ける。その頃には、もう完全に元通りになったファンネスがそこに居るだけだった。
「すまないな。もう平気だ。呪いさえ治まれば、どうという事もない。定期的にツガの助けを受けなければいけないのは、困った物だが」
「もう、大丈夫なんですか」
「ああ。もう、いつも通りさ。さて、今日もお前に店を任せよう。ツガ、行こうか」
ファンネスから一度離れたツガも、服を着る。ただ、その表情はいつもと違って、あまり明るい物ではなかった。それでも、元気になったファンネスを見ていると、やっぱりツガも嬉しいのだろう。程無くして、いつものツガが
戻ってくる。
「ファンネス。元気になって、良かった。それじゃ、ご褒美にお菓子買って!」
「まあ、いいだろう。ゼオロのおかげで、薬も売れているしな」
「やったー」
先程までの真剣な様子は、本当にどこに行ったんだと言いたくなるくらい、ツガは子供の様に無邪気に笑う。
「あの、ところで……どうして、裸であんな事を」
「ああ。私の傷は、全身にあるからな。脱がなければいかんだろう?」
「それは、そうですね……。でも、どうしてツガさんまで」
「だってファンネス、嫌がるんだもん」
「それは昔の話だろう」
「そうだけど。あんまり嫌がるからさ。じゃあ俺も一緒に裸になる! って。そしたら、嫌がらなくなったよー」
「もう脱がなくて良いぞ。お前の身体は目に毒だ」
「酷い! ファンネスになら、見られても良いって、俺思ってるのに!」
無視して、店を頼むと俺に一言告げてさっさと出てゆくファンネス。ツガは怒りながらも、駆け出してその後を追っていった。
なんというか、よくわからない光景だったな。今の。そんな事を考えながら、俺は店を開ける時間が少し遅れている事に気づいて、慌てて店へと戻る。
店の外では、待機していた朝一の客が、予期していなかったファンネスとツガの登場に、色んな意味で悲鳴を上げていた。
そして俺は、二人の全裸のせいで休みが欲しい事を話すのを忘れた。
店の中に、新しい客が入ってくる。俺はそれに返事をする余裕も無かった。忙しい。なんだこれ。忙しすぎる。昨日よりも更に忙しいなんて、聞いてない。いや、予想はしてたけれど。
口コミが広がったのだろう。怖いファンネスが居ない、という口コミが。ファンネスが聞いたら流石に怒りだしそうだなと思いつつも、俺は客の応対に追われる。
「小銅貨五枚お返ししますね。ありがとうございました」
コンビニ店員の口調をおぼろげながらも思い出して必死に接客する。こんな素人接客で良いのかと思ったけれど、意外と好評だった。そうだよな、あんなにぺこぺこして、まるで奴隷みたいな接客させられてる方が、
この世界では寧ろおかしいくらいだよな。生憎この世界は客と店は対等だし、気に入らない客を怒鳴り散らすくらいは当たり前の事として受け入れられているみたいだ。ファンネスがあれだし。いくら噂をされようが、
その手によって作り出される薬の評価は高いのだろう。俺の人気だけでは説明がつかないくらい、薬の方も順調に売れている。だから、お願いです。お釣りが出る様に払わないでほしいし、お釣りを返す時に手を握るのも
止めてください。そもそも最初にお金受け取る時に握ってるんだから。
いつもの兎族の青年もそうだけど、それ以外にも似た様な客が増えて、無駄に時間が取られる。別にそれで待つ事になっても、不満を言う客も居ないんだけれど。そんな事より俺はお前らの視線が痛いのだと声を大にして
言いたい。狼族は排他的だから付き合いにくいとはなんだったのか。そりゃ、爬族のファンネスと比べたら、ずっと話しやすいと言わざるを得ないだろうけれど。
「ねえねえ、君、なんて名前なの?」
「えっ……」
俺を見ていた中で、にたにたした親父が声を掛けてくる。犬族の親父。腹が出てる。ちょっと暑苦しそう。おっさん自重しろと言いたい。少年相手だぞ。
ただ、俺が困った顔をしていると、他の客から鋭い睨みが届く。それはそれで、怖い。
「あ、えっと……ゼオロ、です……」
「へぇ、良い名前だね」
おっさんはそんな視線を気にせずに、俺の名前を褒めてくれる。おっさん自重しろ。ただ、それでも俺が名前を告げると、周囲の空気が幾分和らいだ。勿論その後、そいつらの内数人が帰る時に俺の名前を呼んで帰ったのは
当然の事だった。止めろ、憶えてるアピールするな。そっちの方が怖いわ。
畜生。客の量はそんなに変わらないのに。鬱陶しいのが増えたせいで忙しい。俺でこれなんだから、ツガが店に出たら、そりゃまともに営業できないだろうな。カウンターに詰めかける連中が、売買の邪魔にならない
はずがないのだから。ツガはツガで、多分そんなに怒らないだろうし。そりゃファンネスがぶち切れるのも当然だ。
煩い客第一弾が終わったところで、第二弾がやってくる。適当に相手をしながら、俺はやられっぱなしも癪だからと、ついでに他の薬はどうですかと営業スマイルを決めると、見事に功を奏したのかそちらも売れた。もう
吹っ切れた。お前らを金蔓にしてくれるわ。
俺が自棄を起こして、それでも客の対応に追われていると、また店の扉が開かれる。勿論声を掛ける余裕はない。俺の口は一つしかないのだから、今鬱陶しい客の相手をするので精一杯だった。ただ、急に店が静かに
なって、俺はそれに驚いてから、そういえば新しい客を見ていなかった事に気づいて、そちらに顔を向けて俺も固まる。
でかい人がそこに居た。身長は、これまで見た誰よりも大きい。なんだあれは、2メートルは確実にある。それだけだったら、誰も騒がなかったかも知れない。でもその人は、ローブというか、とにかくそういう身に纏う大きな
布ですっぽりと身を覆っていて。顔も何も、尻尾すら見えなかった。露出している身体の部分が無いから、それが何族なのかすらわからない。身長からして、まあ男だろうなという事がわかるくらいだ。しかも何故か、
ちょっと怒っている様な威圧感を覚える。気のせいだろうか。
明らかに異質な客が現れた事で、騒いでいた他の客は怖気づいた様だった。先程までの俺へのアピールもどこへ行ったのか、速やかに会計を済ませて出ていってくれる。こういう客ばかりなら助かるのに。
「いらっしゃいませ」
一方俺は、遅れて客に声を掛ける。いつの間にか、店内には他の客は居なくなっていた。なんという営業妨害。でも俺は助かったので、寧ろありがたかった。これがずっと続くと困るけど。
俺が声を掛けると、その頭部の布が僅かに動く。多分、耳を震わせたんだろうな。大男の瞳は見えなかったけれど、フードの中に隠れた男の瞳が、俺を凝視しているのはわかった。思わず俺の方が視線を外したくなって
しまう。客相手にそれは失礼なので、耐えていると、その内に男がぷいと横を向いてしまった。助かった。俺もさっきまでの客と同じ様に逃げ出したいくらいだ。
男はしばらく、店内の棚を眺めていた。その内新しい客が来るけれど、その男を見た途端に扉を閉めるか、入ってきても、即座に商品を手に取って、素早く会計を済ませて逃げてゆく。ちょっと、営業妨害。でも助かってる。
見た目がでかくて怖くても、そんなに怖がる必要は無いのかもしれない。この男が強盗とかの類でない限りは。その考えに思い至って、ちょっと不安になる。今何かされても、周りに人が居ないし。とりあえず俺は、カウンターの
下の物入れから素早くファンネスから預かったあの魔法の玉を取り出して、いつでも二人を呼べる様に準備した。
男はそんな俺の心配を嘲笑うかの様に、その内棚から瓶を一つ取り出して、持ってくる。傷薬だった。至って普通の。心配して損した。
「大銅貨一枚、小銅貨四枚お返しします。ありがとうございました」
金を受け取る時。金を返す時。その男の手が見えないかなと思ったけれど、残念ながら手袋をつけていた。フードも俺の前に来る前に深く下げてしまったから、やっぱり種族がわからない。耳を震わせたっぽいところから、
耳の造形がはっきりしている種族なんだなというのがわかるくらいか。
「……」
大男が、たった今購入したばかりの薬を持ったまま、その場で佇んでいる。俺は思わず首を傾げてしまった。やっぱり強盗なのではと、緊張が走る。
「見ない顔だな」
唐突にそう言われて、俺はびくっと身体を震わせる。かなり低い声だった。そんな声が唐突に降ってきたら、流石に怖い。俺は恐る恐る男の顔のある方へと目を向ける。やっぱり、顔は見えない。
「……はい。私はまだ雇われたばかりでして。もしかして、ファンネスさんや、ツガさんに御用があるのですか?」
恐怖心に挫けそうになりながらも、俺は懸命に声を出して、応対をする。今の口振りからして、男はこの店の常連なのかも知れない。ファンネスやツガの顔見知りだったら、それを怖がって応対できなかったというのは
不味いだろう。そう思って、頑張って声を掛けた。
「いや」
「……そうですか」
違うのかよ。俺の努力はなんだったんだよ。声を大にして言いたい。そんな事したら捻り潰されそうだけど。
それきり、男は黙ったままだった。俺は視線を逸らして、男を見て。また逸らして。その繰り返しをしている。とても、居心地が悪い。でも、危害を加えようとしている訳でもない男相手に、出ていけとも言い難いし、
ファンネス達に助けも求め難い。
五分くらい経った頃、だろうか。
「……ハル……」
「え?」
心臓が跳ね上がった。心臓が跳ね上がる様に、俺は顔を跳ね上げて。男の顔を凝視する。今、なんて言ったこの男。
「……カハル。カハルと、言う。俺の、名前だ」
「そ、そうなんですか」
男は、カハルと言うらしい。なんだ、自分の名前を名乗ったのか。いきなり何を言い出すのかと思ってしまった。いくらなんでも自己紹介が唐突過ぎる。コミュ障のレベルでは俺を凌ぎそうだ。
「私は、ゼオロと言います」
「知っている」
知っているのかカハル。
「店から出てきた男が、口にしていた」
「ああー……」
無闇に名乗ったのは、失敗かも知れなかった。でも、少なくともこのカハルは、危害を加えてくる様子は無いから良かった。滅茶苦茶怪しいけど。
「カハルさん。その、ローブは……?」
「見るな」
俺が顔を覗き込もうとすると、カハルが一歩下がり、フードを更に深く被る。前、見えてるんだろうか。
「……顔に、傷があるんだ。とても酷い傷だ。誰かに、見られたくないんだ」
「そうなんですか。ごめんなさい。カハルさんの事も考えずに」
見られたくない顔。気にならないと言えば嘘になるけれど、それが傷のせいなら、仕方ないか。俺だって、人からじろじろ見られるのは好きじゃない。それが自分の見られたくない物だというのなら、尚更だから。そこまで
考えると、俺は気持ちを切り替えた。ちょっとどころか、凄く怪しい人だけれど、悪い人じゃなくて。顔を隠している理由も、わかったから。
「顔を隠していると、物を売ってもらえない事もあるかも知れないですね。ここは……少なくとも私が居る間は、お売りできますから。お薬が必要な時は、遠慮なく来てくださいね」
「ああ。ありがとう。……ゼオロ」
カハルは、少し会釈をした様だった。そのまま踵を返して、店の入り口へと歩いてゆく。店を出る間際、カハルが足を止めて俺の方を見た、のだろうか。相変わらず顔が見えないので、よくわからない。
「ありがとうございました。また、いらしてください」
俺は笑顔でそれを見送る。カハルは、何も言わずに店から出ていった。
次の日、俺はいつも通りにファンネスの店で、店番をしていた。帰り際にもやっぱり言い忘れた、休日の件を、出かける直前のファンネスを呼び止めて話してみたけれど、ファンネスも丁度明日は俺を休みにしようと
思っていたらしい。とはいえこれはある程度、予想できていた。薬が足りなくて、補充のために店を休む必要があるのは知っていたし、その上で薬を売り捌いているのは俺なのだ。いくら働きはじめたばかりで右も左も
わからないといっても、店の在庫くらいある程度は把握している。
「一日と言わず、二日でも構わんぞ。正直、それぐらい売れている。見回りに響くから、その内もっと長く休んでもらう事もあるかもしれないな」
先にファンネスは、そう告げる。そうなのだ。良い働き口を見つけたと思ったけれど、ここにいつまでもお世話になる訳にもいかない事はわかっていた。たまに働かせてもらうだけでいいくらい、賃金は良いんだけど。しかも
最近はお茶請けも置いていってくれる。俺は暇な時にさっと手を伸ばしてお菓子を口にしては、ミサナトの観光ガイドを読んで暇を潰す事もできた。
もっとも、そんなに暇ではなかったのは事実なのだけど。今日も、やっぱり俺目当ての客も居る。
面倒臭いと思う反面、その反応が、とてつもなく新鮮な物に感じられて。俺はそんなに、悪い気はしていなかったりする。
だって、他人から求められる事が、今までほとんど無かった人生だった。この狼族の、ゼオロの身体だから、誰かは俺に目を留めているに過ぎないとしても。もし今、元の身体に戻ったら、やっぱり誰も俺の事なんて
見咎めてはくれないのだとしても。
誰かから求められるという事を知らなかった俺は、その単純で、純粋な喜びに、絆されてしまう部分がある様だった。もっとも寄せられる想いは、単純ではあっても、純粋ではないものが大半だけど。
「人を引き寄せるのは程々にしておけ」
見送る際に、ファンネスに言われた事を思い出す。薬が売れて上機嫌ではあっても、俺の身を案じる事も忘れてはいない様だった。とはいえ、俺のやる事は変わらないのだけど。愛想良く客を迎えて、会話も無理のない
程度にして。とりあえず元の世界でなら最低限の接客という感じでこなしていたけれど、こちらではそれもかなりできた方だったのかも知れない。
一頻り客の相手をして、その内店内に客が居なくなる。丁度、お昼時だ。俺はファンネス達が用意してくれた簡単な食事と、お茶請けを好きに食べる。そろそろ太らないか心配になってきた。
丁度、そんな時だった。店の扉が開かれたのは。
カハルが来たのかと、俺は思った。昨日来たから、今日も来るとは限らないけれど。薬屋なんだし。生憎連日訪れる様な輩が居るせいで、もしかしたら来るかも、なんて思ってしまう。
でも、そこに居たのはカハルではなかった。背はかなり高い方だったけれど、その人は、別に自分の姿を隠している訳ではなかった。
少し暗い店内に現れたのは、燃え盛る炎の様な、全身真っ赤な被毛を持った、狼族だった。すらりとした体躯に纏っている黒いベストは、その身体を引き締める様になっていて、上半身の体躯の見事さを表している。
下半身は、それと同じ様な色の上に、白い革がふわりと舞っている。なんて表現すればいいんだろう。言葉を選ばないなら、長いスカートみたいな物だった。腰のベルトに絡める様にして身に着けているのか、一直線に縦に
切れ目が入れてあるそれは、男が足を踏み出すと、その白の切れ目から、黒の脚を覗かせて。なんとなく目を奪われてしまう。男が、店内を一瞥する。顔を横に向けた時に、俺は男が長髪だという事に気づく。長い髪を
後ろで束ねて、三つ編みにしている様だった。腰の辺りまで、やっぱり真っ赤な髪が伸びて。そこで髪が終わる代わりに、寸分違わぬ同じ色合いの尻尾が、白の切れ目から飛び出して、足元まで続いている。白と、黒と、
何よりも赤の男。その三色が、男を引き立てていた。モデルみたいな人だな、と思う。
店内を見渡していた男が、やがて俺に目を留める。俺はさっきから男を見ていたから、そのまま視線が合うと、男は涼やかだった顔を綻ばせて、意外な程柔らかい笑みへと変えて、俺の下へとやってくる。
「失礼しました。この様な所に、あなたの様な銀狼が居られるとは、思っておりませんでした故。ご無礼をお許しください」
「え……?」
ご無礼も何も。客が店に来て、店内をじろじろ見るのは、別に変な事ではないだろう。そう思っていた矢先だった。男は素早く片膝を付いて、カウンター越しに俺を見上げる。とはいえ背が高いから、それほど見上げた
状態にはならなかったけれど。
「お捜ししておりました。狼族。それも、銀狼の……ゼオロ様で、相違ございませんね?」
男の物言いに、俺は固まりながらも、どうにか頷く。
「私はハゼン。ハゼン・マカカルと申します。狼族が長、ガルマ・ギルス様の使いでございます」
そして俺は、今更の様にファンネスの言葉を思い返して後悔するのだった。
「我が主とお引き合わせしたく、あなた様を捜しておりました。ゼオロ様。どうか、私と共に、ガルマ・ギルス様の下へいらして頂けますか」
人を引き寄せるのは程々にしておけ。なるほど。確かに、そうだと思った。