ヨコアナ
9.クロイスの恋
「自分のした事が、許される事だとは思っていない。許されようとも、思わない」
「俺を憎め。クロイス」
空が、晴れ渡っていた。とても良い天気だ。木陰で座っている俺の身体が、木の葉の隙間から射した木漏れ日に照らされて、きらきら、きらきらと瞬いている。我ながら、綺麗だな、と思う。銀の被毛は、光を浴びれば
浴びる程、その輝きを増して、存在を主張するかの様だった。
生憎、手入れがあまり行き届いていないので、それでも光り方は控えめなんだけど。
ごろごろ、と音がする。ごろごろ。さっきから、している。曇りだろうか。雨が降るのかな。そんな事を考えたのは、もうずっと前の話で、音の発生源は、さっきから俺の頭の上に自分の頭を乗せて、満足げに喉を
鳴らしまくっていた。
「クロイス。うるさい」
「えー。そんな事、言わないでよ。俺の愛情表現の、一つだよ」
「そもそも、クロイスの告白断ったよね? 私」
俺に告白をして、それが見事に玉砕した後。すごすごと帰っていったクロイスは、服を着替え、薔薇の花束をどこかにやって、改めていつもの様子でここに来たのだった。流石にハンスが呆れていた。そして放置するべき
だと言うハンスの主張を俺はよくよく理解した。放置すれば良かったかも知れない。
「のんのん。まさか一回断ったくらいで、俺のこの気持ちが変わる訳ないでしょ。それで変わったら、それこそゼオロに、本気じゃなかった。って思われるだけだ。そんなの、絶対嫌だね」
そう言って、クロイスは俺の身体を抱き締める。俺の左肩に痛みが走らない様に、慎重に。俺は軽い溜め息を吐いて、黙って抱き締められていた。
今居るのは、ハンスの家の裏手。丁度、風呂場が遠くに見える場所だった。いつもは正面しか歩き回らないからわからなかったけれど、ハンスの家の敷地は思っていたよりも広い。とはいえ、この裏手には、何も無い。
ただの殺風景な庭だ。草が生えて、名も知らないし、知るつもりもない花があって。それから、一本の木が立っていて。クロイスが言うに、これは幸運を呼ぶ木なんだという。ハンスもそういう験担ぎをするんだなと言ったら、
土地を買った時に付いてきたという、なんとも反応しづらい話をクロイスがしてくれた。出歩く事ができない俺は今、その木に寄りかかって、片手でもできる読書でもしようかと思っていたところで、クロイスに捕まったのだった。
「まだまだ冷えるんだから、そんなに薄着で出歩く事、ないだろ」
そんな事言われても、左手動かないから、着込むの面倒なんだよ。俺の反論に、確かにそうだと頷いたクロイスは、俺と木の間に割り込んでから、足を広げて座ると、さあどうぞと言わんばかりの表情で俺ににやっとした
笑いを向けてくれた。立ち去ろうすると嘘泣きしながら引き留められたので、仕方なく座って、それがさっきからずっと続いてる。
クロイスがコートを引っ張って、俺の身体を包むと、温かかった。本が読めないので退けろと言うと、渋々どうにか読書の妨げにならない位置まで前を開けてくれる。さあ読むぞと思ったら、俺の頭に豹の頭がぼふんと
乗る。まあ、そのくらいなら、そう思っていた矢先のごろごろ攻撃だった。煩い。小さな猫のするものだったら、耳を傾けて、ああ、ごろごろしてるなって思うんだけど。生憎俺よりでかい猫から発せられるごろごろは、俺の耳が
鋭敏になった事と、俺の頭に直接くっつけた喉から発せられるせいか、読書の妨げをするには充分な破壊力を持っていた。あれだ、頭蓋骨に振動が直に伝わってくる。頭痛がしてきそうだ。慣れれば多分平気だけど、
生憎まだ慣れない。それから更に、長い長い尻尾を横から回してきて、それが俺のお腹を押さえる様にゆるゆると伸びている。シートベルトか。器用な尻尾だな。
「……俺のあげた腕輪、付けてくれてるんだ」
すりすりしながら、クロイスが目敏く俺の右手にあるそれを話題に拾い上げる。俺の銀の被毛と同じ色した、銀の腕輪。銀に銀が重なって、目立たないかと思ったけれど、俺の銀の被毛とは違って、こっちの腕輪は鈍く
煌めいて、自己主張が思ったより激しい。そこに埋め込まれている小さな飾り石も、淡い光を灯して、思わず目を奪われそうだ。
「うん。寝てる間に外されちゃったけど、せっかくだし」
「付けるの、大変じゃなかった?」
「ハンスさんに」
左腕が動かないから、自分でつけるなら左腕だけど。でも今は少しでも左肩に負担を掛けてはいけないという事で、この腕輪は付けない方が良いと言われた。俺が残念そうにしていると、ハンスが俺の右手に、これを
付けてくれたのだった。
「せっかく、買ってもらった物だし」
「嬉しい事言ってくれるねぇ」
「どうせ、付けてないと拗ねるんでしょ?」
「……そーだよ」
ぷいっと、頭の上で豹の顔がそっぽを向いたのか、顎の辺りが俺の頭を擦る。あんまり長時間やられると、禿げないか心配だ。喉ごろごろ攻撃と重なって、色んな意味で俺の頭が危ない。
「さーて、俺も読書しよっと」
それでも流石にやりすぎるのはいけないと思ったのか、その内ごろごろが聞こえなくなる。俺は解放されないままだけど。俺が膝の上に、ハンスが態々取り寄せてくれたミサナトの街について記した本を乗せて片手で
四苦八苦しながら読んでいると、クロイスはどこからか取り出したのか、新聞を広げて、俺の前に広げる。読み難くないのだろうかと思いながらも、俺は広げられた新聞も気になってしまって、ちらちらと視線を送る。
「新聞、読むんだ」
そもそもあるんだ。なんて事を思ったけれど、あって当然か。ネットなんて存在しない世界なんだから、ニュースを伝えるのは、聞屋と人の噂だろう。そうなると、国を練り歩く人々。旅行者、冒険者、詩人、商人の類も噂話には
強いのだろうか。そういう所から拾い集められた、半分はいい加減な情報が載っている物と見て、良さそうだった。
「そうそう、読まないといけないんだよねー。スケアルガの者としては。もうここ数日はゼオロちゃんの事が心配で心配で、こんなの読んでられねーって放っておいたんだけど。そろそろ溜まってきちゃってさぁ。せっかくだし、
持ってきちゃった。それに、こういうのもゼオロにとっては必要かなって思って。まだラヴーワどころか、このミサナトについても知らないゼオロには、早いかも知れないけどさ」
「ううん。ありがとう。でも、いきなり広げられてもわからないし……クロイスが気になった事を、挙げてもらってもいい?」
「了解。なんかあるかな。……えーと何々……ん? これって、もしかしてゼオロの事かなぁ」
「え?」
なんで俺。無名だし、何もしていない俺が、新聞に載る訳が。そう思って、クロイスが指で示した部分に目を向ける。記事は、涙の跡地を覆う結界に対する物だった。
「ふんふん。あの結界に、揺らぎが見られたみたいだ。外から、何かしらの干渉があったのでは。そんな感じだな。でも、原因がわからない」
「そういうのって、多いの?」
「いいや。あの結界はいつも、すました美人みたいにそっけなくて。俺達が近づいた時だけ、かっと怒る様な感じの存在さ」
何その例え。という突っ込みは抑えて、そうなんだと相槌を打つ。
「だから、ゼオロが関係するのかなってさ。どうもこの記事からするに、ここ最近は結界に妙な様子が見られるそうだし」
「私が、来たから?」
「かも知れない。そうじゃないのかも知れない。もしかしたら、他にも誰か、来てたりするのかもな。結界が一時的に弱まって、その弾みに、もっと大勢が来たとか。まあ、でも、もしそうならもっと大騒ぎになってるはずか。
やっぱりゼオロだけなのかなぁ。いや、ハンスのところに来てくれて、助かったな実際。もっと研究熱心な奴の所にでも出ちまったら、大変だったわな」
「そうだね。ハンスさんは、そういう事はほとんど口にしないけれど」
「気を遣ってるんだろうな。教師だし、魔法使いだ。気にならないはずはないんだけど。あとはまあ、ゼオロも何も知らないって言うから、それを信用してか」
「クロイスはこの記事、どう思う?」
「うーん……やっぱ、ゼオロかなぁ。俺の身の周りで、これに関係しそうな事柄っていうと、今のところゼオロだけだし? まあ、ゼオロの事知ってるのが少ないから、大丈夫だよ。さ、次に行こう次。溜まってるから、さっさと
読まないと、終わらないし」
そう言いながら、クロイスはさっさと次の紙へと映る。情報は意外にもしっかりと整えられていて、このラヴーワだけでなく、翼族の谷の事や、それどころか敵国であるはずのランデュスの事まで、記されている箇所が
あった。ただ、俺にはほとんどの事がわからないから、ただなんとなく情報を目に入れるだけでしかないのだけど。
「えっ。……これマジ? やばくね?」
クロイスの読む速さについていけなくて、膝の上にある本を少し読んでいた頃。クロイスが驚きの声を上げて、言葉を詰まらせる。反射的に俺は顔を上げて、目に留まった部分を読み上げた。クロイスがどこを読んで
いたのか、なんて事を考える必要はない。広げられた紙の一面は、たった一つの出来事を伝えていた。
「新しい筆頭魔剣士の誕生。ランデュスの勇者ガーデル、ランデュスを去る」
「信じらんねぇ……あのガーデルが、筆頭止めるなんて」
すっかり驚いた様子で、クロイスは何度もその部分を食い入る様に読んでいた。俺の頭の上にくっつけられた喉が、何度も唾を呑み込んでごくりと鳴っている。
「ガーデルって?」
クロイスが落ち着くのを待ってから、俺は声を掛ける。
「あ、ああ。悪い」
すっかり夢中になっていたのか、クロイスが一度顔を上げる。それから、深く溜め息を一つ。
「ガーデルっていうのは、ランデュスの筆頭魔剣士なんだよ。筆頭魔剣士っていうのは、あっちの役職で。まあ、簡単に言えば、軍の大将みたいなもんだな。武官の要。武人の誉れ。そう言われるくらいだ。竜神である
ランデュスの信頼と信用を受け、ランデュスの矛となり、盾となる。筆頭魔剣士っていうのは、そういうとんでもない位な訳。だから、そこに座ってたガーデルが退いたっていうのは、これはもう大事件だ。だって今、ラヴーワと
ランデュスは、休戦中だからさ。新しい筆頭魔剣士が決まったって、この記事は言ってるけど。もしかしたら、そいつ次第じゃ、また戦争が始まっちまうかもってくらいだ。二十年の短い平和も、これで終わりかも知れないな」
「そこは、竜神が決める事じゃないの?」
「そりゃそうだ。でも、筆頭魔剣士の言葉だって、決して軽んじられる物じゃない。それに、ガーデルはランデュス軍の中では、かなりまとも……って言ったらあれだけど。まあ、実直な人柄で知られた人物なんだよ。だから
後任の筆頭魔剣士次第では、これはわからない。うわぁ。どうせならあの頭のイカレた筆頭補佐の方が辞めれば良かったのに……ガーデルがランデュスを去ったから、あいつはあのままなんだろうな」
「イカレ……筆頭補佐?」
「文字通りさ。筆頭魔剣士を補佐する役職。おっそろしいのは、筆頭魔剣士は軍の頂点でありながら、その戦闘力は図抜けてるけど、筆頭補佐もそれがランデュスでは求められるから、こいつもまた化け物みたいに強い訳。
その上で、現筆頭補佐は、あの性悪なリュースだからなぁ」
「その人は、ガーデルみたいな評判じゃないの?」
「違うね。ぜーんぜん違う。陰気で、策略家で、嫌な奴さ。先の戦争の時だって、ガーデルは正面から、そしてリュースがそれを補佐しながら、ありとあらゆる手を使ってくるもんだから、ほとほとラヴーワは苦戦したもんさ。特に、
ラヴーワは連合国。八族には絆はあるけれど、それと同じくらい、軋轢だってある。そういう所を目敏く狙うのが、本当に上手くて。実際、同士討ちをしてしまった局面もあったよ。そういうのは全部、この筆頭補佐の
仕業さ。まあ、ランデュスも一枚噛んでるんだろうけど? とにかく、ガーデルと向かい合う気持ちで、こいつと戦うと、痛い目を見る。うちの家も軍師として戦ったけどさ。親父やジジイに当時の話を聞くと、必ずこのリュースの
愚痴が出てくるんだよ。本当、性格最悪だってな。はぁ。これから、どうなっちまうんだろ」
「……新しい筆頭魔剣士さんについては、何も書かれてないね」
「そうだな。この記事は、とにかくガーデルが居なくなった事について書かれているみたいだし。でも、なんにも書かれてないってのも、妙だな。なんつーか……うん」
「誰も知らない、とか?」
「そうそう。そんな感じ。筆頭魔剣士の率いる、竜の牙。筆頭補佐の率いる、竜の爪。この二つの軍団辺りから、新しい筆頭魔剣士が現れたんなら、多少はそれについても書かれているはずだけど。誰も知らないっていうと、
どこからか引っ張ってきたのかもな。その辺は、竜神ランデュスだから、俺にもわからないけど」
「……戦争、始まっちゃうのかな」
「嫌だな。せっかく、休戦中なのに。まあ、この休戦も、必ずしも良い事ではないんだけどさ」
「どういう事?」
「休戦の提案は、ランデュスの方からあったからさ。戦力としては、うちらは連合していたけれど、それでもランデュスの方が強い。それは、竜族一人一人の強さが、俺達とはまったく桁はずれだからなんだけどさ。ただ、
ランデュスは食料自給率が低いっていう弱点があって。結構切羽詰まってたみたいなんだよ。表向きの理由はそんな感じで、ランデュスは本気を出せばラヴーワを滅ぼす事もできたはずだけれど……。あの時は、休戦を
申し込んだんだ。そして、ラヴーワはそれを受けた」
「お互いに、一度戦を止める理由は必要だったんだね」
「そうだな。でも、ランデュスのそれは……。自分の国の事だけを見て言い出した訳じゃない事ぐらい、ラヴーワの首脳部はよくわかっていたよ。ランデュスは、ラヴーワの分裂を狙ってそうしたんだ。だから今、同盟の軋轢が、
問題になってきている。戦時だったら。目の前に、竜族が迫っていたら、俺達は手に手を取り合って、それに立ち向かっていけた。でも、その危機となる竜族が引いてしまった。そうなると、やっぱり、種族の違いって
いうのはさ、生活からして、違う訳じゃん? だからさ、どうしてもお互いに反りが合わない部分ってのは、出てくる訳よ。結構、深刻なんだ。その辺りは」
「そっか……。狼族は排他的だし、虎族も、協力的って感じじゃないし。そういう事だよね?」
「そうそう。だからさ、今回の筆頭の交代は……。正直、怖いって俺は思うな。今また、ランデュスが攻めてきたとして、俺達は前の時の様に、力を合わせてそれを迎え撃てるんだろうか……。こんなんじゃ、和平だの
なんだの、言う暇もないよ。休戦状態の今だけが、絶好の機会なのに」
珍しくしょげた様子で、クロイスがだらんと頭を凭れさせてくる。重い。さっきまで乗ってたのよりも、もっと重さが掛かる。ぷすーっと音を出した出た鼻息が、ちょっと恰好悪い。
「なら、早く偉くなって、頑張らないとね、クロイス」
「そんな簡単に言うけどぉ……俺、まだ下積みにすら入ってないよ? ここから何年……じゃ利かないかも知んないし。その時になっても、まだ和平が選べたら、いいけど」
「もし戦争が始まったら……クロイスも、戦うの?」
「うー……できれば、戦いたくないけど。嫌だなぁ。ほんと。勘弁してくれよ」
項垂れたクロイスが、すんすんと俺の耳のところで鼻を鳴らす。とりあえず耳をばたばたさせて撃退する。大分俺の意思で、耳やら尻尾が動く様になってきた気がする。
「でも……ゼオロの事は、守らないとなぁ。腕だって、こうなっちまったんだし」
新聞紙をぱっと手放して、またクロイスが腕を回してくる。羽交い絞めにされて、俺は成す術も無くされるがまま。そもそも片腕動かないし、動いても俺の細腕と、それなりには鍛えているクロイスでは、まったく勝負にならない。
「ま、この腕が、今は幸いだ。もし戦になっても、ゼオロは行かない理由をもう持ってるし。そもそもこんなに細いんじゃな」
「戦い方も、知らないと駄目なのかな」
「ゼオロは、知らない?」
「全然。そんなのが全部、もう過去の事か、遠くの国の話の事でしかない所から来たからね。格闘も、何も、ただの運動や、興業の一種でしかない」
「へー……なんか、全然違うんだな。何もかもが便利で、戦争も、まあゼオロの所は無縁で」
「そうだね」
「……でも、ゼオロはそこが、嫌だったんだな」
「そうだね。……クロイスなら、合うかも知れないね」
お洒落なクロイス。恋を沢山したいクロイス。友達とはしゃぎたいクロイス。どのクロイスも、きっと俺の元居た世界には、ぴったりと当てはまる。豹頭な事を除けば。
「俺は、いいや。だって、ゼオロは嫌だったんだろ。俺はゼオロが良い所が、良いなぁ」
「ここは、好きだよ」
「良かった。ならここで、結婚できそうだ」
「だから、断ったでしょ。……そもそも、結婚できるの?」
同性だし。ああ、でも。確か元の世界でも、外国では同性婚あったんだよな。
「余裕でできるよ。ラヴーワ連合国になった事で、異種族間、同性間の付き合いが受け入れられる様になったって話は、しただろ。なら、次は当然、結婚さ。異種族間でも異性同士なら不都合の無いそれを、どうせならって
事で、同性同士でも認められる様にもなった。……どっち道子供はできないなら、似た様なもんだって、身も蓋もない言い方されてたけど。まあでも。それで、誰とでも、好きに付き合える様になったんだから、俺としては
大歓迎さ」
「クロイスは、女の人は嫌なの?」
「別に? 嫌じゃない。でも、前も言ったけど……家が、煩い訳よ。特に、同じ猫族や、虎族、獅族辺りの女と付き合うのは、もう大抵は大反対を食らうんだよ」
「猫……子供が、できるから?」
「そう。スケアルガの家名が、あるからな。子供を設けるなら、それに見合った相手を。そう言われるんだよ。だから俺に寄こされる縁談の類は、皆どっかの、深窓の令嬢って奴ばかりでさ。そんで、いざ顔を合わせると、
もじもじして、俺の顔色ばっか窺って……あー、窮屈だわ。嫌いじゃねぇけどさ? でも、なんか違うよな。落ち着かないっていうか、さ。俺はもっと、自然体でいたいの。相手にそんな風に振る舞われると、俺だって、それ相応の
対応をしないといけないじゃん? 俺が下手打っても、スケアルガの名に傷が付くだのなんだの言われる訳だし。だからもう俺は、そういう類の話はお断りして、自由恋愛してるって訳。それでもやっぱ、女と付き合うのって、
嫌な顔されるっていうか……話が拗れると、色々面倒だからってさ。もうそこまで来たんなら、もう男でいいやって感じ。趣味も合うし、話も合うし?」
「そう言われると、よくわかるけど」
魅力的な異性より、話の合う同性。異性愛者の男であっても、そう言われると頷く人は多いだろう。肩肘張る必要がなくて、自然体でいられて、必要以上に話題に気を遣う必要がなくて、外食先も深く考えずノリで
決められて、趣味が合う。同性だと簡単にクリアできるその条件が、異性となると中々難しいというのは、よく聞く話だ。互いに見栄を張っては、自分とは異なる性を持つ相手であるからこうなのだと、線を引いてしまうから
なのかも知れないけれど。
「お、わかる? ならさぁ、いいじゃんゼオロ。俺と付き合っても」
「前にも、言ったでしょ。よくわからないって」
「わからなくても。少しずつわからせてあげるつもりなんだけどなぁ、俺」
思わず俺は苦笑してしまう。どうしてこう、この豹男は押しに強いのだろうか。それも、そんなに嫌じゃないやり方で押してくる。
「それにさ。ゼオロの腕の事もある。責任、取らせてよ。俺の人生あげるから、ゼオロの人生、俺にくれない?」
「重いな」
「えっ。そうかな……結構今、良い事言ったつもりだったのに」
「それに、責任を感じて、仕方なくって態なら、私は嫌だよ」
「仕方なくなんかじゃないって事は、俺の事見てくれてるなら、わかると思うんだけどなぁ……駄目?」
俺の首筋で、クロイスの言葉が続く。ぐいぐい押してくる。めげない豹だな。
「女の人だと煩く言われるから、仕方なくなんじゃないの」
「それも、違うさ。確かに最初は、そうだったかも知れないけれど。手強いなぁ、ゼオロ。そんなに、男同士って嫌?」
「わからないよ。言うの、三度目だよ」
「わかってよ、俺の気持ち。俺はずっと言ってるよ。言葉だけじゃ伝わらないから、態度にだって、示してる」
クロイスの右手が、俺の右手に重なる。これがクロイスのデレなのだろうか。昨日までだって微塵もツンの部分が無くて、朗らかで、それがクロイスなんだなって思ってたけれど。今日のクロイスは、いつもより更に
積極的で。ともすれば気圧されそうな気がしてしまう。なんて情熱的な、猫。
「ゼオロは、頑なだね。何か、嫌な事でもあったの」
「嫌な事……」
その言葉で、俺はタカヤの事を瞬時に思い出す。小さい頃から一緒に居て、育った親友。ずっと仲良く笑いあっていた親友。タカヤから告白されて、俺はそれを無碍にして。それからは、顔を合わせられなくなって、
そのまま終わってしまった親友。
「……ゼオロ?」
俺の様子の違いを感じ取ったのか、気がかりそうな声でクロイスが俺を呼ぶ。
「前の世界で……私の事を、好きだって言ってくれた人が居たんだよ。その人も、やっぱり男で」
「なんだ。同性から告白されるのって、初めてじゃないんだな。道理で、堂々としてると思った。それで、付き合ったの?」
「ううん。その人は、小さい頃からずっと一緒の、親友だったから。ずっと、親友だと思ってた。それが、どうして好きだなんて思われたんだろうね。私は……ずっと、親友でいたかった。親友で良かったのに。好きだなんて
言われると、どういう顔したらいいのか、わからなくて」
「好きだったんだね。友達として」
「……うん。そうだね。友達として、凄く好きだった。そういう意味では、愛してたって言っても、少しも、言い過ぎじゃないくらい。大切だった」
最初に声を掛けたのは、俺。友達になる事を戸惑うタカヤに、手を伸ばした。それから、ずっと一緒だった。学校に行くのも、休み時間に話をするのも、帰り道も、一緒だった。休日も、一緒に遊んで。親に言えない悩み事も、
俺達の間では言う事ができた。リヨクを拾った時だって、タカヤは熱心に相談に乗ってくれた。お互いに身体が大きくなっても、俺がその内に、どんどん内気になって、それに代わる様に、タカヤが誰からも愛される様な、
優しさと明るさを身に着けてからも。一緒だった。
「どうして……あの人は、私なんかを好きになって、告白してきたんだろう」
告白は、本当に突然だった。今日の付き合いが、明日以降もまた続いてゆく事に、一片の疑いも持ってはなかった。辛くて悲しいだけの毎日も、優しい親友が居てくれたから、俺はなんとか頑張る事ができた。
それでも、その日々は呆気なく壊れてしまった。告白さえなければ俺は今も、タカヤと時々会うだけの日々を、楽しく生きていたのかも知れない。
「ねえ、クロイス……どうして、クロイスも……私に好きだって言ったの……?」
口を開けたら。相手が好きなんだと伝えたら。もう、友達では居られなくなってしまうのに。その場でいくら取り繕っても、後でどれだけ話をしても、もう、告白をする前には、絶対に戻る事はできないのに。タカヤは、どうして
あの時、俺の事を好きだと言ったのだろう。
「そんなの、当たり前でしょ。誰にも取られたくないからだよ」
クロイスがちょっと身体を離して、それから俺の首元を掴むと、自分の方へと向かせる。鋭い豹の目が、そこにあった。射貫く様に俺を、まっすぐに見つめている。いつもの、はしゃいでいるクロイスの顔じゃなかった。
「告白したら、もう友達のままじゃ居られないかも知れない。そんなの、俺だって嫌だよ。今の話を聞いて、俺だって怖くなった。ゼオロがもう口を利いてくれないんじゃないかって。俺の事も、その人と同じ様に、
避けるんじゃないかって。でも、それでも。駄目なんだよ、友達のままじゃ。友達のままじゃ、そいつは誰かに、いつか取られちまう。そんなの、俺は、嫌だ。好きな人の幸せを、第一に考えられるのが、本当の
好きなんだって言う奴も居るけれど……俺は、そんなの我慢できない。ゼオロが良い。ゼオロじゃないと、嫌なんだよ。その結果で、友達じゃなくなってしまっても……。何も言わないまま、お前が誰かに取られて、
そいつとヤってるの想像するだけで、おかしくなっちまいそうだ。だったら、全部言って、断られた方が良い。例えそれで、何も手元に残らなくても」
「何も、残らなくても……良いの?」
「最悪だけど。でも、他の誰かの所に行くのを、笑って見送って、一人になってから泣くなんて。俺はごめんだな。そんな格好良さ、欲しくない」
「そっか。なんだか、凄いんだね。そういう決意と、覚悟ができるのって」
タカヤの行動を、そんなに深く考えた事がなかった。もっとも、タカヤがクロイスと同じ思考をしているとは限らないけれど。社交的で明るいところは似ているけれど、クロイスはなんていうか、クロイスらしかった。タカヤより
もっと明るくて、それから気安い。タカヤはもっと落ち着いていて、そこに誠実さが見える様だった。どちらが良いという訳ではなく、この二人は、こう違うのだ。そう思う。
タカヤは、何を考えて、俺に想いを告げたのだろう。タカヤの心境を、今更の様に慮る。こうして真面目にそれについて考えるのは、初めてかも知れなかった。だって、今までの俺は、そんな余裕が無かった。告白を受けて、
告白されてしまった自分の事しか、頭になかった。どうして俺なんかを。もっと他に良い人が沢山居るのに。そんな事を言われたら、どういう顔をして一緒に居たらいいのか。顔を合わせ辛い。怖い。会えなくなってしまうのが、
辛い。でも、その手を取る事も、できない。半端な対応をして、全てを縛り付けてしまうくらいなら、俺から解放されてほしい。
ああ、でも。結局俺も、駄目になってしまった。耐えられなかった。今までずっと一緒だったから、離れてしまった事が、一人になってしまった事が。あんなに一人になりたがって、一人は気楽だと思っていたのに。安堵して
いたのに。本当の意味では一人じゃなかったから、たまに一人になるくらいの事が心地よいと思えていただけなんだって、思い知らされた。
「ちっとも凄くないさ。耐えられないから、我慢できないから。手を伸ばして、口を開けた。それだけの話。ゼオロは……どうなの?」
「どう……って?」
「俺と付き合えるか。そんな事よりも、ずっと前の事。男同士でもいいのか。ああ、それよりも、前だったんだっけ。恋をする余裕も、無かったんだっけ」
余裕。俺に一番足りない物。疲れ果てて、リヨクに抱き付く日々ばかり送っていた俺に、恋を謳歌する余裕なんて、ある訳がなかった。恋を謳歌して、或いは謳歌しようとして、俺に狙いを定めたタカヤやクロイスに、
しっかりとした返事ができないでいる。
「好きだよ、ゼオロ。でも、そろそろ本気で、俺はゼオロに脈があるか、知っておきたい。俺には、時間が無いから」
「時間?」
俺が口にすると、クロイスは話題が移った事に不平そうな顔をしながらも、そちらの話題に更に表情を曇らせる。
「……言ったでしょ。俺は、スケアルガの者だから。いつまでもこのミサナトで、遊んではいられない。ずっと一緒には、居られないんだ。戦争は、休戦中。休戦であって、終結ではない。いつまた、燻ぶった火種が燃え
上がるのか、わからない。寧ろ。今まさに、燃え上がる兆しが見えているくらいだ。そうなった時、再びスケアルガは軍師としての招聘を受けるはずだ。親父なんかは休戦中の今もそうだけどさ。当然、俺も……。産まれた時
にはもう休戦に入っていて、なんの経験の無い俺であっても、それでもスケアルガの使命は課せられる。失敗したかな、勉強を、頑張り過ぎたのは。だからこそ、それを利用して、俺は俺の夢を叶えようとしているけれど。
だから、今だけ。今だけなんだ。ゼオロと一緒に居られるのは。俺はその時が来たら、前線を巡らないといけない。この足で、戦場となる場所へ赴いて、この目に焼き付けないといけない。そうなったら、もう誰かと
遊んでなんて、居られない。最後にハンスにちょっかいを掛けて、終わりだと思ってた。……それなのに、まさかそこで、ゼオロを見つけるなんてな。どうしてこんな時に、ゼオロに会って、好きになっちゃったんだろうね。
おまけに、怪我させて。連れていきたくても、連れていけないし」
そこまで言い切って、クロイスは寂しそうに笑った。
「……実っても、実らなくても。離れないといけないなんてな……」
「クロイス……」
「で、どうなの。俺って、脈あるの? つーかぶっちゃけ、ヤれそう?」
「……下品」
思わず言葉を漏らすと、豹の顔が悪戯っ子の様に笑う。
「いひひひ。だってさぁ。もう、余裕ないんだもん俺! きちんとした恋愛もしてないで、このまま行って、そこでまた戦争になって、そのまま死んじまったりしたら、もう化けて出るしかないじゃん?」
「沢山、付き合ったんじゃなかったの?」
「付き合ったよ。でも、違ったんだ。一緒に居ると、相手が段々、おかしくなるからさ。本気になるって、言うのかな。勿論、俺だって、本気になろうとするけれど。でも、やっぱり、違うんだよな……。そうなると、俺が最初に、
良いなって思った部分が、無くなってくる。どんどん嫉妬深くなったりさ。そういう奴とは、長続きしないんだ。妬かれるのは、嫌じゃないんだけど。どんどん独占欲が出てくるっていうか」
「そんなのは、当たり前じゃないの? よく、わからないけれど」
「そうなのかな。なんとなく、ゼオロはそうじゃないって気がしてるから。それに友達で初めて、好きになれたし。大抵はさ、一目見て、ああ、良いなぁって思って。付き合ってって言うんだよ、俺。だから、長続きしないのかも
知れないけどさ。そんで、関係が終わってからも、まあ顔見知りっていうか、お友達っていうか。そんな関係で居る事が多いんだよね。それが、ずっと当たり前だったから気づかなかったんだけど……でも、ゼオロに告白
しようとして、よくわかったよ。それが、さっき言った言葉さ」
何も残らなくても、誰かに取られるくらいなら。
「本当はさ、気づいてたんだ。そうやって、付き合う関係じゃなくなってから、俺から離れる奴が居るって事。喧嘩別れをした訳でもないのに、その後に、俺の傍に近寄らなくなる奴が居た事。……きっと、あいつらが、本当に
俺の事を好きになってくれた奴だったんだよな。最初から付き合った状態だから、俺はずっとわかってなかったけど……。誰かに取られるところなんて、見たくなかったんだな……。やっぱ、勉強だけできても駄目なんだな。
ほんと、今更気づいたよ。ずっと、無駄な事してたんだって」
ごろごろが聞こえる。クロイスが、また俺をぎゅっとして、俺の首筋に自分の鼻の少し下のところを当ててから、頬にかけて擦り付ける。猫に人差し指を向けると、すりすりしてくる様な感じ。左側からされているから、左肩に
痛みが走らないかと気になるけれど、クロイスは絶妙な所でそれを避けているのか、くすぐったいだけだ。
「あー。すっげー良い匂い……」
「そんなに、匂わないと思うけど」
自分で自分の匂いには中々気づかない。それは今になっても、そんなに変わらないみたいだ。
「好きな奴の匂いだからだよ」
「……クロイスって、本当に言いたい事言えるんだね」
「当たり前じゃん。今ここでゼオロちゃん逃したら、もう泣いたまま出ていくしかないんだぜー。それで、どーなのよ。なんかさっきから、すっげー話題そらされまくってるんだけど? そろそろ怒るよ? 押し倒すよ? あ、
それともそれをご希望?」
「別に、避けてる訳じゃ……ないはずだけど」
男同士の恋愛。正直いきなり突きつけられても、首を傾げる。じゃあ女の子の方がいいのかっていうと、やっぱり余裕が無かったので、と言ってしまいたくなる。
タカヤとの関係が、恋人になっても続くとしたら、そう考えてみた。それは、大歓迎かも知れなかった。それでも俺がそうする事ができなかったのは、突然の告白で、そんな事まで頭が回らない程にショックを受けてしまった
という事と、やはり両親の存在だろうか。特に、母はそうだ。俺の子供を、本当に楽しみにしていた。きっと、俺が彼女を家に連れてきたり、その彼女と話をしたり。それから結婚して、子供ができて。そうしたら、自分は
お祖母ちゃんになったんだと苦笑したり。近所の奥様仲間と、自分の息子の駄目な点や、それでも孫が可愛くて仕方がない事とか。そんな事を、ただ楽しく話したかったんだろうな。当たり前の感性を持った、当たり前の
子供が産まれたら、いずれは当たり前に手に入れられた自分の境遇。それが手に入らないと知ってからの、俺への冷たい眼差し。申し訳ないと思う。そう思っても、結局俺は誰の手も取れない様な人間になってしまった
けれど。
普通にさえ、産まれていれば。母は何度、俺を見てそう思った事だろうか。
その母も、もう居ない。親父になった俺との酒を楽しみにしていたかも知れない父も、今はここには居ない。
「ごめん、クロイス。一つだけ……訊いても、いい?」
「何?」
「クロイスのお父さんやお母さんは、クロイスがそうやって、男の人と付き合う事って……何も、言わないの?」
「まったく言わない。……って訳じゃ流石に無いよ。でも、女と付き合うよりは、正直静かだったりする」
「どうして?」
「子供が絶対にできないからさ。さっきも、言ったけどさ。その上で、女よりは拗れない」
「子供ができない事を、責められたりしないの?」
それが、信じられないと思った。俺の世界じゃ、きっとどこに行ったって、親は自分の子供が、子供を授かる瞬間を望むだろうと思っていた。
「それだけ、スケアルガの家は面倒って事さ。まあ、俺と結婚すれば、言っちゃえば家名に、財産に、しかもスケアルガ学園まで付いてくるって事だし? そりゃ、変な奴と子供作ったりしたら、大変っていうか。だったら子供が
できない方が良いって事さ。子供ができない分には、俺に対する評価は、俺の努力できる範囲でどうにでもなる。でも、子供ができたら、そっちの方も面倒を見る必要が出てくるからね。だから、寧ろ、男同士だと一番なんにも
言われません!」
唖然とする。家柄が良いと、色々と問題が出るから、そういう方向になったりもするのか。何よりクロイスが良いと言っているんだから、もう誰もそれを止めないのだろう。
それを聞いて、俺はちょっと、自分がすっきりしている事に気づいた。なんというか、今までの俺は、前の世界に居た俺は、結局自分が、両親や他人の望む姿になれない事に絶望していた部分が大きかったから。ここに
来て、不必要に泣いたりしなくなったのも、それが大きいのだった。過度な要求も、果たせずに向けられる失望の視線も、ここには無いから。あるのはただ、俺が決めて歩く道だけだから。そうして歩こうとする俺を
応援してくれる、ハンスや、クロイス達が居るだけだったから。
「そっか。自分の好きにして、いいんだね……」
「当たり前じゃーん! 好きな相手を探さないで、何を好きにやるっていうんだよ。お? つーかなんか、さっきより表情、明るくなった? もしかして、脈あり?」
「え、えっと……」
そわそわして、俺は思わずクロイスの顔とは反対側を向いてしまう。首に顔を埋めているクロイスが、噴き出している。
「うわ、何それ可愛い。どしたの急に」
ここには誰も俺を責める人が居なくて。俺が申し訳ないと思う相手も居なくて。だから、期待に副う事ができない自分を責める俺も、そんな事態にしてしまった事に泣いて謝り続ける俺も、居ないんだ。
それに気づいた途端、急に視界が開けた様な気がした。目の前のクロイスの言葉が、やっと、しっかりと耳に入ってくる様な。そんな感じ。
「……ごめん。急に、その……意識してみたら」
「おおぉ……もしかして、もしかしちゃう?」
「でも猫の顔の人と付き合うのって、どうなんだろう」
「そっち!?」
「だって……猫だし」
うん。一つ壁を乗り越えたら、また新しい壁がそこにはあったよ。猫だよ、俺を今抱き締めてるの、猫族の、豹だったよ。
「いいじゃん別に。ゼオロだって、狼なんだから」
そういえばそうだった。考え方が、人間の頃に戻ってたせいで、自分がもう人間じゃない事もちょっと忘れてた。
「大体、猫って言い過ぎだし。俺、豹だし。傷つくよ? いや、割と本当に傷ついてるけど。俺、立派な豹でしょ。猫じゃないでしょ」
「それはそうだけど」
少なくとも四足状態の、豹と猫の違い、この場合はまあ一番なのは体格の違いが、ここには無いからな。そうなるとあとはもう、模様とか、ちょっとした顔の違いとか、被毛の色合いの違いとか、そうなってしまう訳で。そう
すると俺の目の前に居るのはまず猫であって。そこから派生する何かであっても、やっぱり猫な訳で。
「ゼオロだって犬って言われたら、傷つくでしょ!?」
「別に?」
「畜生そういえば元々狼族じゃないんだった」
生憎狼族である事に誇りを覚える程、まだこの姿に慣れていないし、生ききってもいない。外から見られて、犬だの狼だの言われても、ちょっと遅れて、そういえばそんな外見してるなって思い出すのが、ようやく
抜けきったくらい。だから別に、犬族と同じと見られてもなんとも思わない。クロイスには悪いけど。クロイスの気持ちは今はまだわからない。
「もう、さっきからはぐらかされてばっかだわ……。俺の事、一人の男として見てくれよー」
そう言われても。今新しく、好き勝手やっていいと気づいた俺にとっては、確かに恋もしたくないとは言わないけれど。それでもやっぱり、この世界に現れて、まだあまりにも短い時間しか過ごしていない。そんな中で唐突に、
結婚を前提の付き合いと言われても、どうしたらいいのやら、となってしまうのは仕方がない事だと思ってほしかった。
ある意味玉の輿なのかも知れない。クロイスがさっき言った様に、クロイスの家は相当なお金持ちの様だし。
「んー……やっぱり、駄目」
「ええー……どうして?」
「……頼っちゃいそうだから、かな?」
「いいじゃん、頼ってよ。どんどん頼ってよ。好きな奴の、役に立ちたい。俺はそう思うし」
「それでも、頼り過ぎちゃうよ。今の私は、まだ自立もしてないのだから。なんでもかんでも、クロイス頼みになっちゃう。友達として、一緒に過ごしていた時もそうだけど。このまま付き合ったりしたら、きっと、良くないと
思う。まずは私がきちんと自立して、自分にもっと余裕ができてからじゃないと」
クロイスに頼ったら、クロイスはきっと、なんでもしてくれるだろう。俺の怪我の引け目もある。俺が何不自由なく暮らせる様にしてくれるだろうし。けれど、それではいけないと思った。良い悪いか、というよりは。それは俺が、
クロイスの好意に甘えて、クロイスを利用しているだけに思えてしまって。一度でもそういう仲になってしまったら、もうそれは恋人でも友達でもない様な気がしてしまうから。
だから、少なくとも今は駄目。
「うー……じゃあ、俺だから駄目って、訳じゃない?」
ちょっと瞳に涙を湛えたクロイスが、縋る様に俺に尋ねる。そんなにショックなのか。ちょっとその辺の心の機微という物も、俺にはまだまだ縁遠い物なので、少し申し訳なく思う。
「そうだね。今は誰から求められても、はいとは言えないね」
「男同士って事はもう平気?」
「ど、どうだろう……でも、さっきよりは気分的には、良いかなって感じかもね」
これは本当に難題だ。言ってしまえば、俺が何に性欲を擽られるか、という事でもあるのかも知れない。正直、あんまりそういうのはなかったりする。気持ち良ければ、というか。あんまり積極的じゃないけど、当然ムラムラして
自慰に走るのは男としては当然の事で、そういう時は何を考えるか、というよりも、如何に自分を気持ちよくするか、という気持ちの方が強かった気がする。
でも道具とか、そういうのは親バレが怖くて手が出せませんでした。臆病な俺。
「今だとバレないかな……」
「え?」
「あ、こっちの話。ちょっと考えてみたけれど……。多分、大丈夫かも」
「本当!?」
つまるところ、俺が嫌なのは周りからの目だから。周りの期待を裏切って、失望の眼差しが飛んでくる事が嫌だったからだ。自分の事で精一杯なのに、その上で他人からそんな風に見られるのが、耐えられない
からだ。タカヤからの告白も、もし受けていたら。今そう考えても、両親からの失望の眼差しがより一層酷くなると考えただけで、吐き気がしてきそうだ。駆け落ちなんて時代遅れの事でもしない限り、一生俺に付きまとう、
呪いの様な、けれど至極当たり前の視線。当たり前って、なんなんだろう。
それも、ここでは気にしなくて良いのだ。もう両親は居ないし。それどころか、同性間のやり取りすら、咎められない。色んな人と話をして、ただ気が合った人と一緒に居られる。相手の性別も、種族も、何一つ気にしなくて
良い。まあ、相手が竜族だったりしたら、流石にちょっと反対はされたりするかも知れないけれど。
「大丈夫なんだな? いひひひ……よーし、それなら俺、もっと頑張っちゃうよ。ゼオロが欲しいからね」
クロイスって、本当に積極的なんだなと思う。さっきから、もう随分長い事聞かれない様な時代遅れの愛の言葉が、次から次へと出てくる。ここでは時代遅れでも、なんでもないのだろうけれど。
「今は駄目だって、言ったでしょ?」
「それでも、今の内に俺の事、好きになってもらえればいいし。そしたらいつか、ゼオロが良いって言った時に。俺が迎えに行くよ」
友達としては、もう充分に好きなんだけどな。クロイスの事。俺に自然と手を差し伸べてくれる所とか。優しい所とか。ノリの良い所とか。なんというか、ケチのつけようのない人だと思う。友達としては。友達としてはね。
これが良いお友達でいましょうって言われてしまうタイプなのか。
「……クロイスは、私のどこがそんなに好きなの?」
それに対して、俺は。考えが自然とそちらに向かってしまうのは、仕方がない事だと思う。本当に取柄が無いどころか、今度は片腕まで駄目にしてしまった奴なのに。俺の問いに、クロイスはうーんと唸ってから、また花が
咲いた様にぱっと笑みを浮かべる。
「気兼ねなく話せる所! 被毛がすっけー綺麗な所! 澄ましてるのに実は結構熱い部分がある所! 俺のために泣いてくれる所!」
うわ、思ったより多い、しかも羅列するの早い。これは熟練の技だな。こういうの訊かれた時にさっと応えられる様に訓練してるな。要警戒だ。考えてみたら今俺が言ったのは、女の子が彼氏に対して私のどこが
好きなのって言った様なものだから、それはクロイスにとっては得意中の得意の領域なのは当たり前だった。失言。
「俺のお誘いを結構断っちゃう所!」
「えっ。それ、いいの? 逆じゃないの?」
「言っただろ。俺の家の事。男とは付き合わない様な男でも、俺の家を目当てにして、すり寄ってくる様なのも居るんだよ」
なるほど、そうきたか。そうなると素直に気持ちに応えても、断っても、どっち道好感度が上がってしまうのか。ギャルゲーでモテ期が到来した瞬間みたいだな。
「あとはそうだなぁ……」
まだあるのか。怖いよ。
「匂いがすっげーそそる所」
「えっ」
思わず距離を取ろうすると、シートベルトもとい尻尾ベルトが俺の身体を拘束する。たかが尻尾なのに。そんな事より鼻息荒い豹が怖い。
「なんだろうな、これは今気づいたばっかなんだけど。ゼオロの匂い……すっげーいい……。いや、良い匂いだなって、思ってはいたんだけど。でも、好きになった後に嗅ぐとさぁ……。ああ、似た様な奴が他に居たとしても、
この匂いはゼオロからしか、しないんだなぁって思うとさぁ……たまんねー」
「そういう物なの?」
「ゼオロは匂いでそういうのって、感じない?」
「匂いはわかるけど、そういう気分には、別に」
試しにちょっと嗅いでみる。クロイスの匂い。猫臭い、という程ではなかった。動物はお風呂なんて滅多に入らないから、獣臭いけど、クロイスは当然その辺りは気を遣っている訳で。
俺の鼻に届くのは、微かな花の香りだった。俺は獣臭いのも、好きだけどね。犬飼ってたんだから、それが苦手だったら話にならない。
「なんの香水?」
「特注品。まあ、間近で嗅がないとわからないくらい薄めてあるけど。ゼオロはやっぱり狼族で、臭いには敏感みたいだから。ゼオロでもちょっとわかるかなってくらいの物にしといた」
すんすんと鼻を鳴らして、もう少し嗅いでみる。香水に混じって、僅かに汗の臭い。朝っぱらから俺の所へとやってきて、一度帰って、走って戻ってきたんだから、当然か。
「今まで、あんまり気にした事なかったけれど……色んな匂いがあるんだね」
人間だった頃は、そこまで匂いに頓着しなかった。今は、鋭敏な鼻があって。なんとなく、嗅ぐのが楽しい。
「そうそう。ゼオロの匂い。俺は凄く好きだ。だからかな。ゼオロに、俺の匂いもつけたくなるのは」
そう言って、またすり寄ってくる。尻尾で押さえられた俺を後目に、すりすりと首に首を当てて、擦る。くすぐったい。一度引いて、また鼻から擦るのを始めると、湿った鼻先が俺の被毛をしっとりと濡らす。何度かそうしてから、
クロイスは損なわれた自分の鼻の水気を足す様に、舌を出して鼻先を舐めている。
「あー……このまま、食っちまいたい」
「食べるの? 脂、乗ってないと思うけど」
「そっちの意味じゃなくて」
「……ああ、そっか」
悪漢と対峙した時にも、こんな事を思った気がする。そうか。クロイスは俺が好きだから、俺の身体を求めてもいるのか。
至極当然な成り行き。でも、今の俺はやっぱり、ちょっと遅れてしまう。だって誰かと付き合うとか、そんなの考えた事もなかったから。その上で、誰かが俺の身体を舌なめずりをして見ている事も、今までは考える必要も
無かった。今のこの、狼族の身体は、人間だった頃とは違って確かに魅力のある物になっているだろう。
「私とセックスしたいの?」
クロイスの身体がびくっとして、その被毛がぶわっと逆立つ。俺の身体に巻き付いていた尻尾が離れて、クロイスの頭の後ろでぴんと伸びてから、くねくねと動いている。その尻尾も、いつもの二倍近く膨らんだ様に
見えた。クロイスが少し口を開けると、次第に口角が吊り上がって。その牙が剥き出しの物になる。流石にそういう状態になると、目の前の豹の事を、猫だなんて馬鹿にする気も無くなってきた。俺の言葉に驚いたけれど、
即座に獲物を狙うそれへと変じた、クロイスの姿。
「すっげーヤりたい。絶対気持ちいい。ゼオロは、経験ある?」
「ある訳ないでしょ」
クロイスには、もう俺が人間だった頃の事はある程度話してある。俺がそんな経験をする余裕すらなかった事も、充分に知っている。
「なのに、そういう事言っちゃうんだ。興味あるのかな?」
「どうだろう。ただ、クロイスはそう思ってるのかなって、そう思っただけ」
「何それ。そんな風に俺の事誘って、何もされないと思ってんの」
視界がぐるっと回る。一度宙で止まって、それから俺の身体が大地へと寝かされる。草の上に寝るのかと思ったら、クロイスは手際よくコートを脱いだのか、その上に俺の身体は横たえられていた。鼻に、クロイスの匂いが
広がる。俺の身体を包むクロイスのコートがあって、俺に覆い被さるクロイス自身が居て。さっきまで微かに感じている程度だったはずの香水の匂いも、クロイスに囲まれて、そうして意識をした今は、強い物に
感じられた。クロイスは両腕を立てて、俺を逃がさない様にする。ハンスが今は出かけていて良かったな。ハンスが見たら、多分今日はクロイスの命日になるだろう。
「……凄い。全然、動じないんだな。何考えてるの?」
「ハンス先生とも、こういう事してるのかなって」
俺の言葉に、クロイスは苦笑する。
「可愛くないな。こんな時でも、そうやって俺の事からかうのは」
「素直な感想なんだけど」
ハンスとクロイス。この二人は最近まで付き合っていて、それでいつの間にか別れていたらしい。確か、クロイスと初対面の時にそんな空気だった。クロイスが俺を今求めている様に、クロイスはハンスの事も、求めた
のかな。そんな事が、こんな時だけど気になってしまう。いや、もっと騒いだり、慌てたり、やるべき事はあるんだけど。でも、クロイスが本当に俺の事をどうにかしようとしたら、俺なんかがいくら抵抗しても、まったく無駄
だろう。しかも今は怪我までしてるし。俺の肩を掴んで、強く握れば、それで俺は呆気なく全ての力を失って、あとはただ、クロイスがしたい様に食い散らかす事ができるのだから。
「ハンスとは、何もしていないよ。ハンスは俺の事、子供だと思ってるから。ただ、俺の事を、からかってただけ。……これで、いい?」
「そう」
素っ気なく答えると、クロイスが腕を折って、降ってくる。
「可愛くないな、本当に。もっと、焦ってくれるかと思ってた。なんかゼオロって、話に聞いてるゼオロと、実際のゼオロって、全然違うよね」
「そうかな」
「そうだよ。ゼオロの口から出てくるゼオロは、もっと内気で、何もできない様な。触ったら、簡単に壊れちまいそうな感じなのに。今のゼオロは」
「今は?」
「……俺の事、からかって遊んでるだけな気が、時々する」
確かに、からかっていると言われれば、そうかも知れない。それはクロイスが優しいからなんだけど。初めてあった時から、こんな距離感だから。なんだかいつの間にか、クロイスには随分気安い様になってしまった
気もする。勿論、だからといって本当に怒らせる様な事は言うつもりもないけれど。
俺が曖昧に微笑むと、クロイスが手を伸ばして、服越しに俺の胸へと手を当てる。
「ほんとに、なんの経験も無いの。もっと、遊んでる様に見える。今のゼオロは、今だけは」
「クロイス」
弄る手が強くなる。クロイスの喉が鳴る。ごろごろ、ではなく。威嚇交じりの、獲物を見つけた獣の、低い喉声。かっと見開かれた目も、半開きの口から覗く鋭い牙も、俺の身体を撫ぜる指先から伸びる鋭い爪も、全部が
全部、獲物を狩るのに使う物。ちょっと、怖い。でも、求められるって、こういう事なんだろうか。求められた事すら、ほとんど無い俺だから、相変わらずそれをぼんやりと眺めたまま。
クロイスはそんな俺の態度も、気に入らないのだろう。もっと嫌がってほしいし、もっと怖がってほしいし、もっと泣かせたいのだろう。
首筋に、豹が口付けをしてくる。荒い呼吸が何度も、被毛の上からでも充分にわかるくらいに当たってくる。頬を摺り寄せる事しかしていなかった時とは違って、性急な動きが窺える。口付けた箇所から、更に刺激が
届いた。ざらついた、舌の感触がする。そういえば、猫だったな。だったら、舌には棘がある。それでも舌先だけを使っているのか、必要以上の刺激は感じない。まあ、棘のついた舌で俺の大してお手入れしてない
被毛なんて舐めたら、ブラッシング効果で俺は綺麗になって、クロイスの舌は毛だらけの憂き目に遭うのは予想がつくけど。
舌先を突きたてる様に、俺の被毛を掻き分けて、くじって。人間だった頃は常に晒されていた地肌に到達すると、僅かな刺激を残してゆく。首から始まったそれが、少し上がって、顎の付け根の辺りに息を吹きかけながら
通った後、からかう様に今度は下りて、俺の鎖骨の辺りを何度も丁寧に舐める。鎖骨が浮き出ている分舐めやすいのか、クロイスはそこは舌先だけでなく、棘のついた部分で舐め上げた。途端に、痛みが走る。猫の舌の
棘は、骨についた肉を削ぎ落すための物だという。痛いと喚く程ではないけれど、それでも痛みを感じて、俺は息を詰まらせた。
「クロイス……」
俺は、制止する様に声を掛けた。クロイスの爛々と光った金色の瞳が、俺の目へ向く事はない。ただ俺の、身に纏った服の、その奥を凝視するかの様に、細められ、ねめつけるかの様に俺の身体を見つめている。クロイスの
手が一度引かれた、すぐに、俺の腹へ下ったそれが、服の下へと潜りこんで、俺へと直に触れる。俺はちょっと、右手を上げてみた。クロイスが身動ぎして、動くなと言いたげにまた喉を鳴らす。
「クロイス」
「…………」
「クロイス」
「…………」
「…………痛いよ、クロイス」
途端に、豹の身体が離れる。触れていた手も、すぐに離れた。組み敷いていた俺を、クロイスはしばらくの間茫然と眺めていた。それから慌てて、俺の左肩へと、俺の服の袖を慎重に捲り上げて、確認する。俺の肩に
巻かれていた包帯には、僅かに赤い血が滲んでいた。押し倒され、組み敷かれて、そうして身を寄せ合う内に擦られたから、さっきから痛みがしていて。少しは我慢しようかと思ったけれど、そこまで長くは耐えられなかった。
「あ……」
クロイスが、そっと俺を抱き起してくれる。さっきまでの獣の威勢は一瞬にして鳴りを潜めて、今はただ、いつものクロイスがそこに居るだけだった。
「ごめん。がっつきすぎた」
「いいよ。私も、悪かったから」
「ゼオロが、こんな事して大丈夫な状態じゃないって事、忘れてた。何やってんだか」
「忘れちゃうくらい、興奮したんだ」
「ああ、もう! なんでそうなのゼオロって! 俺の事どんだけからかうの!?」
「だって、面白いんだもん。クロイス」
クロイスが適度に怒ってくれたので、俺も水に流す様にくすくすと笑った。さっきまでの猛獣の様なクロイスと、今目の前で元に戻って、俺の身体を心配しつつも、やっぱりからかわれた事に怒って尻尾を振り回して、
控えめにそれを俺の太ももにべしべししているクロイスとは、本当に別人みたいだ。
「肩は、大丈夫なの?」
「少し、無理したから。でも、傷が完全に塞がった訳じゃないから、仕方ないよ」
「ごめん。無理し過ぎた」
「いや。私も、何も言わなかったからね。でも、あとは寝てるだけで良いって言うから。包帯を取り換えるだけだよ」
「そっか。なら、俺、それやるよ。一人だと、大変でしょ」
場所が肩の付け根。そのせいで右手でしかできないから、確かに俺は困っている。いつもは夕方に帰ってくるハンスにしてもらうけれど、血が少し出た今は、もう取り換えた方が良いのかも知れない。
「それじゃ、お願いしようかな」
「任せて。それじゃ、ゼオロの部屋に……」
そう言って振り返ったクロイスの言葉が、途切れて、その身体が硬直する。俺はそれを目で追って、それからクロイスの見ている先へと視線を移す。その先に居たのは、豹の獣人。少し離れた位置から、俺達の方へと、
丁度歩いてくるところの様だった。
「……親父……」
「クロイスの、お父さん……?」
囁くようなクロイスの声に、俺も似た様な声音で尋ねる。クロイスはただ、静かに頷いただけだった。
「ここに居たのか。クロイス」
俺達の前までやってきた、新顔の豹男が、俺達を見下ろしてそう言う。背が高いなと思った。クロイスも背が高いけれどそれよりも更に高い。長身だけど、がたいも良い。クロイスと二人で並んでいたら、一目で親子だと
いうのがわかるくらい、よく似ている。クロイスはまだ若いから、あどけない所が残っているけれど、この人にはそれがないから、なんとなく近寄りがたい気がする。声も、クロイスの弾んだ物とは違い、低く、沈んでいて、
その声を聞くだけで、相手が委縮してしまうのではないかと思う程だった。被毛は、なんとなく白っぽい。歳のせいなのかも知れないなと、ちょっと失礼な事を思う。クロイスよりも、色が少し薄い感じがするのだ。そこまで
じろじろと相手を見て、ふとその首元に鈍く煌めく銀が目に留まる。銀のネックレス。鎖の先に、銀の剣が吊るされてる。なんとなく、合わないなと思った。見た目が壮年のこの男がするには、幾分幼い印象を受ける
装飾品だと思う。
「なんだよ、親父。外に居る時は、俺のする事に口出さないって約束だろ」
「そうだな。お前に残された自由な時間。私はそれにまで、口を出すつもりはなかった」
「だったら、放っとけよ」
長身の豹は、クロイスの事をそれほど気にしている訳ではない様だった。その視線は、まっすぐに俺へと注がれている。無表情に近い豹の顔は、そうしていると、本当に動物のそれだ。俺が見つめられている事に
気づいたクロイスが、庇う様に片手を俺の前へと出す。
「なんだよ。そんなに見つめんなよゼオロの事。親父にはやらないからな」
「馬鹿を言うな。そんな子供に私が手を出すと思っているのか。小便臭いのは、自分も小便臭い内だけにしろ」
舌打ちの音。明らかにクロイスが不機嫌になる。威嚇する様に歯を剥き出している。さっきまでとは、また違う顔。俺にはそんな顔、見せた事ないのに。実の親には見せてしまうのか。
「なんか、用でもあんの。無いなら、帰ってほしいんだけど」
「お前に、話がある。大事な話だ。だから、今すぐに、家に戻れ」
「ここじゃ、駄目なのかよ。まだ帰りたくないんだけど」
「駄目だから、こうして態々出向いて、今私の口から直々に言っているのだろう? お前、それもわからない程、色呆けになったのか」
「ああ、わかったよ! 戻ればいいんだろ!?」
苛立たし気に、吐き捨てる様にクロイスが言う。それから、ゆっくりと俺の方へと振り返る。
「……ごめんゼオロ。こんな時なのに」
「いいよ。クロイス。大事な話なんでしょ。包帯は、今じゃなくてもいいから」
「本当に、ごめん。埋め合わせは、また後でするから」
「お話してくれればいいよ。クロイスの話、私は好きだから」
「……ありがと」
短いやり取りを交わすと、クロイスは立ち上がって、迎えであるはずの父親を無視してさっさと走っていってしまう。これで終わり。そう思いきや、肝心のクロイスの父は、走り去る息子の事など気にせずに、また俺を
見つめていた。目が合うと。深く礼をされる。
「お初にお目にかかります。クロイスの父、ジョウス・スケアルガと申します」
「ゼオロです」
「これはまた、麗しい。輝く様な銀の、素晴らしい被毛ですね」
小便臭い子供だとか言ってた口はどこへ行ってしまったのか、そう言ってジョウスは恭しく、敬意を払いながらも俺を褒める。先程までとは違い、表情もにこやかだ。もっとも、それが本心であるとは到底思えはしなかったが。
「申し訳ない。こうしてハンスタムの家に押し入って、この様な無礼な振る舞いをする事を、心からお詫び申し上げる」
「……いえ。クロイスにも、あなたにも、事情がおありなのでしょう」
「そう言っていただけると、私も楽になります。……なるほど、銀狼だ。話に聞いていた通りですね」
「私の事を、話されていたのですか?」
「息子を庇ってくれた、恩人ですから。何も調べずに居る、という訳にはいきませんよ」
「そうですか」
曖昧に言葉を返す。一瞬、この人も、あの薬師のファンネスの様に知っているのかと思った。けれど、思い直してそれ以上の言葉を避ける。
すると、その内にジョウスがにやりと皮肉っぽい笑みを零した。
「中々聡明な方の様だ。何か襤褸を出してくれないかと、期待したのですが」
「私が氏素性の知れない者だという事が、気にかかるのですね」
「ええ。ハンスタムの事を、私は信用していますから、危険性があるとは、思ってはいませんが。それでも、ハンスタムの家に、あなたの様な方が居るとは、存じ上げませんでしたもので。クロイスも、ハンスタムも、あなたは
ただの、迷い子の様な物だと言う。その言い訳は、少々苦しいと、私なんぞは愚考してしまうものですがね。何せ。銀狼、ですから」
そう言いながら、ジョウスは自分の首元にあるネックレスの剣を、指で弾く。
「……」
俺は、何も言えない。銀狼には、もっと特別な意味がある。そういう言い方だった。生憎俺はそれを知らないし、知らされてもいない。今の俺は、自分が現れたこの世界の事を知るので、精一杯なのだ。そうなると、
学ぶ事にも優先順位が産まれる。当然、自分の種族について、というのはもっともっと後回しの事柄でしかなかった。後回しにしてしまった事を、今、少し後悔している。まさか自分が銀狼なのに、それってどういう意味
なんですか、とは訊けない。さっきみたいに、鎌を掛けている可能性もある。
おや、という顔をジョウスがする。俺が笑っているのに、気づいたのだろう。
「何か、可笑しな事を、言ってしまいましたか」
「いいえ。ただ……クロイスと、とてもよく似ていらっしゃる。そう思っただけです」
初めてクロイスに会った日の事を思い出す。俺の仕草から、俺の言動から、そして部屋の様子から。俺がどこから来て、どうしてここに居るのかを、あっという間に看破してしまった。目の前のジョウスと、クロイスは、
確かに親子だという証の様で、思わず笑ってしまったのだった。クロイスの様にそれをひけらかす事もしないから、油断もできないけれど。
俺の言葉に、相手も微笑む。そうして笑うと、確かにあのころころ顔が変わって、にこにこしているクロイスと、よく似ていた。
「なるほど。あなたの事が、少しだけわかりました。危険な物ではない。それだけわかれば、私は充分ですよ」
良かった。上手く返せた、はず。それから話題も終わらせる事ができた。こういう相手には、突かれたくない所を突かれる前に、さっさと話題を変えてやる方が良い。
「では、私はこれで。お休み中の所を、失礼しました」
「いえ……」
「……ああ、申し訳ない。一つだけ」
背を向けかけたジョウスが、また俺の方へと向く。俺は下ろしかけていた顔を上げる。
「もうご存知でしょうが、我々はスケアルガの者です」
まるでつい最近までご存知ではなかったかの様な言い方をしてくる。いやらしい。
「スケアルガは軍師として、ラヴーワの軍に乞われ、ささやかながら助言をさせていだだいております」
「存じております」
「ええ、そうでしょうね」
「それが……?」
「クロイスも、スケアルガの者です。ですから、どうか。あれを惑わす様な事は、程々にしてあげてください。あれの双肩には、ややもすればラヴーワの民の命が、重く圧し掛かる事にもなるのですから」
「……」
「では、失礼します。また、ご縁が会ったら、お会いしましょう。ゼオロさん」
去ってゆく。ゆっくりと、豹の男が。俺はそれを、じっと見つめていた。
三日後、俺はまた、木に寄りかかって一人本を膝の上に乗せて座っていた。昨日と一昨日は、クロイスは来なかった。来ると言っていたはずだけれど、ジョウスとの大事な話みたいだったから、仕方ないだろう。終日
ごろごろしては、本を読んで、またごろごろして。そんな生活が続く。せっかく引き受けた家の掃除も、片腕がこれだからと、取り上げられてしまって。なんか極潰し感が半端ない。大丈夫なのか、俺。
「ふう」
本を読む事も一旦止めて、休憩に入る。する事がないから、本ばかり読んでいたけれど、あんまり役に立つ知識、という物は無かった。そもそもハンスの家に適当に置いてある本に過ぎないのだし。置いてある本の種類は、
創作小説が少し。残りは魔導論に関する事しかなかった。そして、魔導を学ぶつもりの無い者が、無闇に触れてはならないと言われているので、俺が読めるのは結局のところ、創作小説に限られる。人間だった頃と
やってる事が変わらない。広げて読んでみた小説は、ありがちな冒険物。すらすらとストレス無く読めるし、別につまらない訳でもない。たまにこちらの世界にしかないと思われる、物や概念の話が飛んできて混乱する
事はあるけれど、それ以外は良好だ。でも、これを読み進めてもここで生きてゆく役に立つとは思えない。傷を治す事に専念する事を言い渡されたので、あんまり頭を使ったり、悩んだりもしない様にと言い渡されているから、
ハンスは俺に本当に必要と思われる本をあまり持ってこようとはしないし。ちょっと退屈。
腕の傷は、変わらずと言ったところだった。昨日の事で少し開いてしまって、それはハンスに当然見咎められて、叱られてしまった。俺はそれよりも、ようやく余裕を持って自分の傷を見る事ができたから、そちらに気を
取られてしまったけれど。傷は、それほど大きくはない。元々暴漢の持っていたナイフは、細長い物で。それは確かに俺を貫いたけれど、骨はほとんど傷つかなかったらしい。ただ、クロイスの炎で熱されたナイフは、俺の
皮膚を突き破り、そして焼いたために、腕が殊の外、上手く動かせないのだった。
焼けた傷口が、そこにあった。傷口は小さいのに、焼かれた皮膚が見える。俺の銀の、自分で言うのもなんだけど、綺麗な被毛が台無しだ。傷が塞がっても、元通りとはいかないのだろうな。俺がそれをじっと見つめて
いると、ハンスが心苦しそうな顔をしていたので、見るのを止めて、薄っすらと笑みを浮かべる。
「高い勉強代になってしまいました」
「……気丈な方ですね」
本当の所を言うと、自分の身体だという自覚がまだないので、傷ができても、と思ってしまう部分があった。痛みも、熱も、確かに感じるけれど。二十年以上は人間やってたもので、それがまだ精々十日と少しくらいの
この身体に完全に馴染めないでいるのは、仕方がないだろう。
包帯を巻き終えて、寝て、起きて。ハンスを見送って、本を持って外に出て、木に寄りかかって静かに読書する。それが静養している俺の、日課になりつつあった。
それでも、ちょっと飽きてる。退屈してる。そりゃそうだ。遠くを見れば、眼下に広がるのはミサナトの街、と言いたいところだけど、流石に座っていると塀があるから、何も見えない。澄み渡った白い空を行く、自由な鳥の
姿が見えるだけだ。ああ、鳥か。良いなぁ。俺も、どうせなら翼族になってみたかったかも知れない。ヒュリカに抱き締められながら空を飛んだ事を思い出す。あれは、凄かった。辛くて仕方がないのに、俺を助けるために
無理して飛んだヒュリカの華麗な姿にも、思わず泣いてしまった。翼を広げたヒュリカの雄姿も、まるで絵になりそうなくらいに綺麗で。俺も翼族だったら、一緒に空を飛んだりできたのかなと思ってしまう。
空を飛べる鳥が、時々無性に羨ましいと思うのは、人間の頃からだ。地べたを這いずる俺達とは、あまりにもかけ離れて、優雅な存在だと勝手に思っていた。鳥には鳥の苦労があるのだろうとは思うのだけど。それに、
鳥だって、ずっと飛んでいられる訳じゃない。羽を休める場所が必要だから。
ヒュリカ、何してるのかな。この間お見舞いに来てくれたけれど、それっきりだ。別に、不満がある訳じゃないけれど。そもそもヒュリカは、スケアルガ学園に留学に来たのだ。紆余曲折あって、ああして不思議な縁で
知り合って、友達になったけれど。身体が回復したら、クロイスの案内を受けて、学園に行かなくてはならない。
遠い翼族の谷からたった一人でやってきて、他種族が怖いと言った癖に。それでも気丈に振る舞って頑張っているであろうヒュリカの事を思うと、俺も少しは頑張らないといけないなと思う。生憎、寝ている事しか
できないけれど。
さて、どうしよう。考えるべき事は、考えてしまった。
「……あー」
誰も聞いていないのをいいことに、声を出してみる。元の俺より、高い声。少年らしい声。ただ声変わりは既にしている様だった。小さな子供の様に、高すぎる事もない。 よし、今なら。そう思って、俺は思いついた歌でも
歌ってみる。前の自分だったら、声が低すぎて、碌に歌えなかった。低い音で歌っても、喉がついていかない。だから俺は、基本的に歌った事なんてなくてない。カラオケに行く、なんていう若者らしい事も一切
しなかった。そういえば、タカヤはカラオケにはよく誘われてたみたいだ。俺が碌に歌が歌えずにいる事を知っているから、俺と遊ぶ時は、決して行く事はなかったけれど。窮屈な思いをさせてしまってはいなかった
だろうかと、少し振り返りながら。それでも俺は次第に歌に集中する。
歌っているのは、昔の、俺がまだ子供の頃に聞いていた歌だった。女性歌手の歌。昔の俺だったら、キーが高くて絶対に歌えなかった歌。恐ろしい事に今の、狼の俺だと、難なく歌っている。喉が辛くない。この身体に
なってから、こういう事には本当に驚かされてばかりだ。如何に前の自分の身体が低性能だったかを思い知らされる。運動しても大して疲れないし、バランス感覚は良いし、運動神経も良い。不摂生の塊にすっかり
毒されていたあの頃と、獣の血が混じり、健康そのものなこの身体では、ありとあらゆる事に差があるのだった。残念な事に、そんな身体を早々と痛めつけてしまったけれど。
子供の頃に聞いた歌だったのに、歌詞は滞らずに俺の頭の中で示され、そうして歌声は淀みなく響き続ける。誰かに聞かれたら、なんて心配していたのは最初だけ。控えめだった声も、少しずつ調子を上げてゆく。喉は
大丈夫なのかという心配も必要が無い事に気づけば、尚更だ。歌った。こんなに気持ちいいのか。そう思った。思いきり声を上げる。そんな事も、社会に呑まれて、社会に生きていると、できない。なるほど、だからカラオケ、
皆行くんだね。
歌いながら、歌詞の意味を心に刻む。今までの俺は、それを憶えていただけ。でも今は、歌っている。歌えば、自分の中に、もっと深く強くそれは刻まれる。
泣いている事を、肯定する歌だった。泣く事を、我慢しなくて良いし、決して恰好悪い事ではないと、優しく教えてくれる様な、そんな歌。どうしてこの歌を思い出したのだろう。ここに来て、まだ日も浅いけれど、涙する人を
よく見るからだろうか。俺を召喚してしまったと、俺が元の世界に戻れないと、涙していたのはササン。自分に訪れた恐ろしい境遇に、俺が傷ついた事に涙していたのはヒュリカ。自分の無力を嘆いて、自分を裁いてほしいと
涙したのはクロイス。そうして、泣いている人を見て、気づけば俺が泣いている事もあった。
だから、なんだろうか。この短い期間で、よく泣いたと思う。以前の俺も、よく泣いていたけれど。でも、泣いてはいても、泣き方は。泣く理由は。違っていたと思う。以前の俺は、何もかもが自分のために泣いて
いたから。会社が辛い。両親が辛い。一人が辛い。何もかもが、辛い。そう言って、思って、泣いていた。今は、違っていた。俺の事を思っている人のために、今の俺は、泣いていた。ただ泣いているだけでも、全然
違うんだなって思う。泣いた自分を弱虫だとか、恥ずかしい奴だとか。以前はそう思っていたけれど、ここで泣いた分に関しては、少なくともそうは思わなかったから。
風が吹いた。歌声は、どこまで届くのだろうと思った。近所迷惑に、ならないといいけれど。それでも、少なくとも静かな、生活音のしない午後の中では、このぐらいなら許されるだろう。幸いこの辺りは富裕層の土地で、
家と家がみっちり詰まっている訳ではないし。代わりに、遠くまで、この声は届いてしまうのかも知れないけれど。
最後の一節を、少しだけ、力強く歌い上げて歌は終わった。それまでは優しく、諭す様に歌うこの歌は、最後の最後に、まったく同じ歌詞だけれど、言い聞かせるのではなく、断言する様に歌う。力強くなり過ぎない様に、
でも、想いが伝わる様に。歌い終えて、一息吐く。身体の中のもやもやした感じが、全部どこかへ行ってしまった様だった。ああ、歌って、こんなに気が晴れる物だったんだな。喉に来るし、下手だし、恥ずかしいし。そう思って、
今までずっと歌えなかった鬱憤もあって、今はなんだか、晴れやかな気分だ。
「……すっげー」
声が聞こえて、思わず身体を跳ね上げる。痛い。肩が、痛い。
「ごめん。驚かせた」
「……クロイス」
振り返ると、クロイスがそこに立っていた。歌う事に集中していて、すっかり気づかなかった。クロイスが来ていた事に。クロイスは目を見開いて、俺をじっと見つめている。
「なあ、今のなんの歌? 初めて聞いたんだけど。あとなんか知らない単語交じってたけど。ていうか、すっげー上手かった。ゼオロって、歌手かなんかだったの?」
「えっと……。歌は、前の世界の。歌手なんかじゃないよ。というよりも、歌なんて、歌えなかったよ。今は声が出しやすいから、歌えるかなって思って」
「そっか。そういえば、声も変わったんだっけ。でも、声が変わっただけで、簡単に歌えるもんじゃない。元々、音程が取れる方だったんだな、ゼオロって」
「ありがとう」
クロイスは、褒め方が上手いと思う。それも経験から培われてきた物という事だろうか。俺を褒める時に、俺の内面を褒めるのだった。これがもし、俺が銀狼で、銀の被毛を持っている事、無駄の無い、均整の取れた
身体である事をただただ口に上せるだけだったら、俺はクロイスの事をそれほど信用しなかったかも知れない。普通の人だったら素直に喜べるその賛辞の数々は、生憎俺にはまっすぐに受け取って良い物であるかどうか、
判然としないからだ。元は人間の身体。しかも不摂生が祟って、お世辞にも今の身体の様ではなく、だらしがない、締まりのない身体。そんな状態で生きてきて、今新しい身体になったからって、今の容姿をいくら
褒められても、流石に馬鹿正直に喜べる訳がないのだ。クロイスは俺に賛辞を贈る時、その辺りをきちんと弁えて、惜しみなく俺を称えてくれる。正直、やりすぎだと思う。その上で更に、いくら素直に喜べない事では
あっても、俺の外見の方もきちんと扱う。クロイスからしたら、そっちの方がメインだろうに。そういうバランスの取り方が、本当に絶妙だと思った。異世界からやってきた人間の扱い方なんて、誰に聞いたって手本なんて
無いはずなのに。俺が何に引け目を感じていて、今の身体の全てを受け入れている訳ではなくて、そうして他人から好意を向けられても、その行為の先がこの身体だったとしたら。いつかこの身体が、元の人間の身体に
戻ってしまうかも知れない事に、その結果で他者が離れてしまう事に、俺が心底から恐れている事を、全て理解しているのだった。
全部伝えたら、クロイスは喜んでくれるだろうか。まるでそれが定位置であるのだと言うかの様に、木に寄りかかって座って、俺をその前に座らせて、また喉を鳴らしていて、だから顔が見えない豹男の事を考える。
「ていうかゼオロちゃん、なんで俺のコート着てるの」
「え。この間、忘れてったから。せっかくだし」
そう言って、今日はずっとクロイスのコートを羽織ったまま。クロイスが残していった、群青色のコート。こういう落ち着いた色合いも、クロイスには似合うと俺は勝手に思っている。俺の身長だとコートがでかすぎて、
若干地面に擦れる部分が汚れているし、開けられた尻尾穴も高さが合わなくて俺の尻尾は出せない。あとで洗ってから返すつもりだけど。
素材は良い物らしく、とても暖かい。質素な服しか今のところ手元に無い俺には、とても助かる一品だった。
「俺の許可はっ!?」
「クロイスの匂いって、安心するよね」
「差し上げます」
「冗談だよ。あとで返す。サイズ合わないし」
「……いいよ。大きくなったら、存分に着てください。俺はまだ一杯あるし。それに、ゼオロ、まだあんまり服持ってないでしょ」
「そうだけど……」
冗談のつもりで言ったけれど、それが通ってしまった。ありがたく頂戴して、またすっぽりとクロイスの両足の間に収まる。
「それに……全然サイズ合ってない服を着ているゼオロちゃん。最高だわ」
そんなクロイスを白い目で俺は見つめる。身長どころか体格も違うから、袖だって大分余っている。そんな俺を、クロイスは上機嫌で眺めていた。
「ああ、ゼオロの成長が見ていられないのが残念だ。このままどんどん身体が大きくなって、その内このコートも、ぴったりになっちゃうんだろうなぁ」
よくわからないところで一人盛り上がっているクロイスに、とりあえずおしおきの意味を込めて、頬を抓る。引っ張る。クロイスは痛いと言いながら、顔はにやけっぱなしだった。一応、痛いには痛いのか、両耳はぺたんと
倒れて、頭部は山の様な形になっている。こうしてみるとちょっと頭頂部の毛を弄ってるんだな。あんまり丸くない。加えて俺が頬を引っ張ってるから、思ったより柔軟に伸びる頬も含めて、段々三角形になってゆく。左手が
使えないから、完全な三角にはならないけれど、ここまで来ると本当に山みたいだ。今日からお前が富士山だ。
一頻りもちもちした豹の頬を弄ってから、また元の体勢に戻る。
「今日は、新聞持ってきたの?」
「いやー。溜まってた分はもう終わらせちゃったんだよね。持ってきてもよかったけど……それよりも、ゼオロに何か疑問があったら、答えようかなって」
「疑問?」
「ここで生活して、そこそこに日数も経ったじゃん? まあ半月程度だけどさ……。わからない事とか、身近な事で、何かあったら教えようかなって。新聞広げて、新しい情報仕入れるのもいいけど、情報を整理するのもいいと
思うんだよね。あんまり詰め込むと、おかしくなる」
「そうだね」
そう言われたら、確かにそうだ。既に日常会話で不思議に思う事の一つや二つは当たり前にあって、でも俺の傍に居る内の一人であるハンスは忙しい。となると、残るはクロイスしかいない。俺の素性を知っているのは、
ハンス、クロイス、それから一応ファンネスになるだろうけれど、ファンネスも暇ではないだろう。そもそもファンネスに教えを請いに行くのは、正直怖い。まだほとんど面識が無いし。居場所も知らない。クロイスに尋ねれば、
教えてくれるだろうけれど。
ヒュリカが居てくれたらな、と思う。ヒュリカは俺の正体を知らないから、話には参加できないけれど。ヒュリカが俺の正体を知って、受け入れてくれたら、一緒にミサナトについて学んだりもできそうだなとは思うの
だけど。ヒュリカだって、翼族の谷から出てきたばかりなのだし。
「じゃあ……ヒュリカ、元気にしてる?」
「それ、疑問なの。まあ、いいけど。んーそうだなぁ。とりあえず昨日、学園に顔は出したみたいだよ? 俺は一緒に行かなかったから、詳しくはないけど」
「今更だけど、クロイスは学園に行かなくていいの。よく、顔出してくれるし、長く居てくれるけど」
「俺はもう修める所は修めちゃったんで。必要無いの。学者や教師になるんなら、まだ学ぶ事もあるけれど、ならないし?」
それもそうか。クロイスは軍師の卵として、これから活動するのだから。
「ヒュリカ自身は、ちょっと緊張はしてたかな。でも、大丈夫だよ。今朝一緒に朝食取った時は、元気そうだった。緊張はしてたけれど、一度スケアルガ学園に顔を出して吹っ切れたんだろうな。そうそう、ゼオロにお見舞いに
行けなくて、ごめんって」
「別に、いいよ。ヒュリカが忙しいのは、わかってたし」
体調が戻ったら、本来の目的である留学先へ顔を出して、それも済んだら準備が更に待っていて。そんなヒュリカにお見舞いに来てほしいとは、いくらなんでも言えない。
「なんか伝えとく?」
「……友達、沢山できるといいねって」
「んー……」
頭に乗ってるクロイスの頭が退いたかと思うと、代わりにクロイスの右手がぽんぽんと俺の上に乗せられる。
「妬いてんの~? 友達に、友達ができる事が」
「なんでそうなるの。友達できる様にって、言ったのに」
「素直じゃないなぁ……そんなゼオロ君、俺はいいと思います」
「抓られたいの」
そこまで言うと、クロイスの手が引かれて、また豹の拘束具が飛んでくる。頭の上に豹頭。身体の上に豹の長い腕二本。空いた身体の部分に豹の尻尾。
「ふっ。これで抓られんがっ!!」
頭を素早く下げてから、勢いよく跳ね上げてクロイスの口にぶつける。微妙に舌を噛んだらしい豹の悲鳴が聞こえる。
「甘いね」
「あー畜生……俺、こんなに他人に馬鹿にされるの、初めてだわ」
手を上げようとすると、クロイスの拘束が少し緩められる。手を伸ばして、頭の上に戻った豹頭を撫でる。最近のクロイスとは、こんな事しかしてない気がする。
撫でながら、この間の事を考える。クロイスの父であるジョウスが来た事。それによって、二日は姿を見せなかった事。クロイスは、そこには話題を移さない。訊けば、答えてくれるだろうか。でも、訊いてしまったら、
今こんな風にじゃれている空気も壊れてしまいそうで。仕方なく俺は、それについては黙ったままだ。代わりの話題を探す。
「……次の質問、してもいい?」
「どうぞどうぞ」
「銀狼って、そんなに珍しいの?」
「ん。良い質問です。先生が優しく教えて差し上げますよ」
「普通でいいよ」
「……銀狼ってのは、狼族にとっては英雄の象徴なんだよ」
「英雄の象徴?」
クロイスが、ちょっと居住まいを正す。真面目に説明する気の様だ。できたら俺の拘束を解いてくれると俺も楽に聞けるんだけど。
「そう。現在八族の中の一つである、狼族。でもさ、排他的な狼族が、八族として名を連ねてるのって、ちょっとおかしいと思わない?」
「そう言われると、そうなのかな。そもそも、八族として居る事……いや、連合国に居る事も、変かも知れないけれど。だって、排他的で、他種族との付き合いは嫌なんでしょ」
「まあね。とはいえ、その排他的な志向は、何も昔からある物じゃない。寧ろ、狼族がそうなってしまったのは、八族に入る事になってしまったから、なのかもしれない」
「どういう事?」
俺の言葉に、クロイスは少し間を置いた。
「どこまで話していいか、悩んでるの」
「鋭いね」
「同盟には軋轢がある。そう言ったのは、クロイスだよ」
「おお。本当に怖いな。舌戦はしたくないね、ゼオロちゃんとは。俺、負かされっぱなしだし」
「クロイスが引いてくれるからでしょ」
「過去の事を素早く取り出せる辺り、俺も気を抜いていられないけどね。どこで覚えてきたんだか」
「散々読み漁った小説から、かな」
小説を楽しく読むコツの一つが、シーン中のさり気無い言葉や動作を憶えておく事だった。少し経ってから、という事もあれば、かなり後になってから、それが伏線に使われる事もある。ファンタジー小説限定で本の虫
である俺は、当然読み進める上で、少しでも怪しいと思われる箇所は記憶に留める事ができる様になった。散らばった情報の中に、本物と偽物、その場限りと後で使う物が潜んでいる。勿論全てを把握とまでは
いかないけれど、これは憶えておくべきだと思った事柄を心に留めておくのは、それほど難しい訳ではなかった。特に今回は、ラヴーワの同盟に関する話だ。自分が今生きていて、そうしてこれからも生きてゆくであろう
国の内情を知らず、何を知るのか、という話になる。設定厨の本領発揮である。作者よりその世界に詳しくなるのが俺の理想だ。残念な事が一つあるとすれば、培った膨大な知識をひけらかす機会が、友達が居ない
という理由で、一度も無かった事だけど。アウトドアに目覚めたタカヤは段々俺と趣味の話は合わなくなってきたし。それでもあの日が来るまでは、仲が良かったけれど。
「なら、正直に言うよ。俺、ゼオロに嘘は言いたくないし。話を戻すよ。銀狼は、狼族にとって英雄の象徴。英雄っていうのは、まあ文字通りさ。戦争があれば、当然その舞台の上で華々しい功績を上げた者は、英雄と
呼ばれる。そういう意味では、今は英雄の生まれない時代でもあると言えるね」
「じゃあ、クロイスのお父さんやお爺さんも、英雄なんだね」
「まあ、そう言う奴も居るけど。俺はあんまりそうは思わないけどなぁ……身近で見てると、どうしてもって感じ? そう、それで、銀狼。銀狼っていうのは、元々狼族の中で、特別な階級に位置する血筋なんだよ。その血筋の
者しか、基本的に銀狼は存在しない、はずなんだ」
「……それって」
「初めて俺がゼオロと出会った時、ゼオロの事、かなり色々と尋ねたよね。今まで黙ってたけど、それにはそういう理由もある訳。銀狼であるって事は、狼族の中で、それなりに特別視されるはず。なのに、こんな所に、
たった一人で居る。おかしくない訳がないっしょ?」
ああ、そうか。だからジョウスも、俺の事を見て、銀狼である事を話題にしたのか。そりゃ、なんでこんな所に居るんだよって話だろう。
「といっても、俺は別に狼族についてそこまで詳しくない。銀の被毛っていっても、似た様なのが出る可能性も無くはない。現にゼオロは、実際には狼族の銀狼、つまり現在特別視されている方々とはなんの関係も
無いだろ?」
「うん。狼族の人と、まともに口を利いた事も、ないよ」
「だよな。……でさ、英雄の話になるけど、狼族の中にも先の戦役の中で、英雄になった男が居たんだ。いや、元々英雄みたいな扱いだったけれど。それが、当時ばらばらだった部族間の中で、狼族全てを従え、言わば
狼族の王として君臨していた、グンサ・ギルスなんだ。そして、彼こそが銀狼。彼こそが、元から特別な存在だったって訳。だから、銀狼であるという事は、どれだけ血が薄くなろうと、その英雄の血に連なる者なんだよ」
「血、繋がってないけどね」
そもそも俺の血は誰と繋がってるんだって話だけど。白い光に包まれたら出てきちゃっただけの俺と、その英雄の血が繋がっているとは到底思えない。
「じゃあ、今の狼族を率いている人は、その人なんだね」
「いや、違う。今の狼族の長は、その英雄グンサの弟であるガルマ・ギルスだ」
「え?」
「……グンサは戦死したんだよ。不名誉な形でな」
「不名誉な形?」
既に亡くなっている事に驚きつつも、俺は気になってそちらを問いかける。戦争してるんだから、そりゃ死んだって不思議じゃないし。俺の問いに、クロイスはあからさまに言葉を詰まらせる。今の位置では見えないけれど、
俺の頭に乗ってるその顔も、きっと苦しそうな表情をしているんだろうな。
「言いたくないなら、言わなくていいよ? クロイス。銀狼については、わかったし」
「うー……ごめん。言えない訳じゃないんだけど……怖くて」
「どうして?」
「……グンサが戦死したのは、俺達が……スケアルガが原因だって、言えなくもないから」
「ああ、そっか。軍師、だったよね」
なんとなく、察する。陽動か、それとも囮か。もっと悪質な、捨て駒か。はたまた作戦が失敗したのか。いずれにせよ、英雄グンサの死に、スケアルガは関わりがあるのだろう。
「言ったら、ゼオロに嫌われそうで……怖い。でも、言わなくても……黙ってる俺なんか、嫌だよな」
「いいよ。それに、どっちにしてもクロイスを嫌いになる訳じゃない。クロイスが産まれたのは、休戦になった後なんでしょ」
「そうだけど……」
「それに、そういう事情なら……スケアルガの人は、狼族からは、嫌われてるんだろうね」
という事は、先日ジヨウスとの話し合いを俺は上手く対応できたと思ったけれど、寧ろ全然上手くなかったという事になるな。ジョウス・スケアルガの名を聞いても、涼しい顔をして迎えてしまった。銀狼だというのに、だ。
ジヨウスにしてみれば、俺に対する疑いは寧ろ強まったかも知れないな。でもあの時点では最善を尽くしたという事にしよう。たらればを語っても、時間は戻らないのだから。
「うん。ものすっごい、嫌われてる。……だから、あの時も、本当は怖かった」
「あの時?」
「初めて、ゼオロと会った時」
初めて会った時。クロイスは、そんな素振りは少しも見せていなかった。ただ胡乱な俺を、珍しそうに見て、それからにこにこと笑っていたっけ。でも、内心は決して穏やかじゃなかっただろうなと、今の説明を聞いた俺は
理解する。スケアルガと因縁を持つ、狼族。その狼族の中でも、銀狼。つまりは英雄の血筋にある者が目の前に居る、という事だ。実際は、そうじゃないけれど。でも初対面のクロイスは当然、それを考えたはずだ。
「スケアルガの事を告げても、ゼオロは反応を示さなかった。銀狼なら、余程の事じゃない限り、知らないはずはないのに。本当は知ってて黙ってるんじゃないかって思ったけれど……でも、ゼオロにはやっぱり、他にも
妙な点があったし。それが、友達になれて、今こうして一緒に居られるって、なんか凄いな」
「そうだね」
ともすれば、俺達は二人で居る事すら、狼族からは嫌な顔をされるだろう。なるほど、ジョウスも困った顔をしてくる訳だ。
「……そんな大事な事、もっと早く教えてほしかったんだけど」
「ごめん。怖かったんだよ。話したら、一緒には居たくないって言われるかと思って」
「今は、話してくれるんだね」
「好きだから。嘘、言いたくないから」
「上手い事告白に繋げてきたね」
「ん。へこんでても俺は自由恋愛の事を忘れたりしないから。ついでに結婚して」
「やだよ。そんな晩御飯の献立決めるみたいな言い方」
「この間真面目に言ったから、違った言い方にしてみたんだけど。……俺と居るの、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ」
クロイスの腕の力が強くなる。ああ。やっぱり、不安なんだな。そう思いつつも、俺はちょっと冷静に考えてみる。狼族、それも銀狼でありながら、スケアルガの者と関わりがある。同じ狼族からしたら、面白くはないかも
知れない。でも、クロイスを切ってまで、狼族に媚びるつもりも毛頭なかった。損得勘定だけで考えても、俺の正体を知りながら、俺を利用しようとはしない存在は、貴重だった。そして損得を抜きにしても、クロイスとは
友達で居たい。これに対して、狼族が俺にはどの様に接してくれるのかというのがまだまだわからないけれど。少なくともこの間俺を差したのごろつきは、俺が銀狼だからといって、敬う様な仕草は欠片も無かったな。まあ、
銀の被毛を持っているからといって、狼族の全てに通じるのかというとそれはまた別の話なのだろう。英雄グンサならまだしも、そうではないのだから。
「大丈夫だよクロイス。私は、クロイスと友達で居たいから、だから平気。うん、友達だからね。そうそう、友達だからね」
「なんか今すっげー友達を強調されて、それはそれで俺は打ちのめされたんだけど」
「黙ってたおかえしだよ」
ちぇ。と頭上から声が聞こえる。それでも一度俺の拘束を解いた豹の尻尾は、ゆらゆらと揺れたり、俺の身体を軽く叩いたり。せわしなくその持ち主の持つ感情が喜びである事を教えてくれる。
「他にも質問良い?」
「質問される度に俺がボコボコにされてるんだけど」
「じゃあこのまま銀狼とスケアルガについて掘り下げてもいい?」
「どっちにしろボコボコじゃん! やめてよ! 可愛がってよ!」
「今日も可愛いね、クロイスちゃん」
「あ、やっぱ無し。俺が言ってる事をそっくり俺に言うのは、やめて」
「……魔法使いについて、知りたいんだけど」
適当にクロイスをボコボコにしながら、俺は質問を続ける。そう、あとはこれが聞きたかった。
「魔法使い、か……。ゼオロは、何も知らないんだよね」
「うん」
「……どうして、訊きたくなったの?」
アララブに出会ったから。そう言いそうになって、俺は口を噤む。できれば言いたい。でも、あんな妙な奴に出会ってしまった事を、知らせても良いのだろうか。
そういえば、アララブは俺の正体を知っているのだろうか。知っている素振り、と見て取れなくはない言動ではあった。それどころか、もっと俺も、そして周りも知らない事を知っている様な。そんな感じ。それから、クロイスを
軽視する様な事も言っていた。あんまり良い気分ではない。
正直に言うと、俺はアララブの事を、さっきまで忘れていた。左肩の治療と、クロイスが怒涛の猛攻を仕掛けてくる事で、中々印象的ではあったとはいえ、ものの数分話をしただけの相手だ。一度思い出せば、どういう言葉を
交わしたか、そういう所まできちんと思い出せるとはいえ、それ以上の事を、それきり考えてはいなかった。考えてもどうしようもない事ではあるし。
「クロイスが、魔法を使ってたから」
そんな訳で、無難な返答をクロイスにはする。別に嘘は吐いていない。ただ真意を黙っているだけであって。
「知りたいって言われてもぉ……具体的には、どういうのを?」
「どういう存在なのか。私は小説を読んで、まあなんとなくなイメージは持ってるけれど、それでも私の世界にはそんな物は実在しなかったから」
「なるほどね」
なんか怪しげな黒魔術。そういうのはネットで調べればいくらでも出てくるだろう。俺が知りたいのは、そういう事ではない。本当に何も無い手元から、奇跡を引き起こす存在。そんな物は、見えないだけで、実際には何かを
持っている手品師という存在以外ありえなかった。しかしここでは違う。思いは形になるし、形は何かを成すのだった。改めて考えると、本当に凄い。俺にも魔法の才があったらいいのにな。
「魔法使い……まあ、その名の通り、魔導を修め、魔法を扱う者の事だね」
「そこは、思ってた通り」
「ただ、呼び名はそれだけじゃない。魔道士。魔法使いと、魔道士だ」
「それって、何か違うの?」
「全然違うね。細かい説明は省くけど、魔法使いの上位の存在が、魔道士って事」
「クロイスは?」
「俺は、魔法使いだよ。それに、魔道士にはならない。俺は軍師になるからね」
軍師として、一通りの学を修めた。その上で魔法が扱えるだけでしかない。クロイスはそう言った。
「その二つの決定的な違いって、何かある?」
「そうだな……寿命、かな?」
「寿命……えっ、もしかして、不老不死になったりするの」
「近いな。でも、不死ではないよ。首を落とせば、普通に死ぬからね」
さらりと怖い事を言う。別に俺は動じてもいないけれど。大丈夫、ファンタジーの本の虫は伊達じゃない。謀略、奸計、殺し合い。なんでもござれだ。流石に目の前で血生臭いのを見たらそんな事言ってられないけど。俺の
大好きなファンタジーの世界の上では、そんな物は当たり前の存在だ。
「魔法使いが魔導を修めて、魔導に深い理解を示すと、その身体には変化が訪れる。その身体が、老いを拒絶する様になるんだ。丁度、今のこの涙の跡地の結界が、俺達を阻んでいる様に。魔道士の身体は、老いを
阻む。かといって、完全な不老とまではいかないそうだけど」
「どれくらい、長く生きられるの?」
「記録で残ってるのは、五百年くらいかな? それ以上はもう伝説の域だし、とうの魔道士も姿を消してしまうから、わからないよ」
「そうなんだ。……ところで、魔法が使えるって事は、姿を消したり、他の場所に一瞬で移動したりできるの?」
さり気無く探りを入れる。あのアララブが、どの程度の力量なのか、これではっきりとするはずだ。
「姿を消すのは……まあ、できなくはないかな。どちらかというと、相手にそういう催眠を掛ける感じになるけど。本当にその場から消えるのは難しいね。一瞬で移動は……それこそ今の本当にその場から消えるのと
似ているけれど。普通はできないよ。そういう事ができるのは、総じて魔道士って言われる方だ。あんまり関わらない方が良いな。誰かに危害を加える様なのは滅多に居ないはずだけど」
「そ、そうなんだ」
めでたく俺の中で、アララブは危険な魔道士と認定される。あんなに小さいのに、と思ったけれど、それも不老だからか。それどころか見た目弄ってる可能性もあるな。見た目はまんまか弱そうな猫なのに。
「危害を加える様なのは居ないって言ったけれど、どうして?」
「まあ、その辺はお決まりっていうか。そんな風に長生きすると、大抵の魔道士は自分の事に没入するし。そうすると他者に対する興味をどんどん損なうんだよね。まあ、寿命が延びるって事は、同じ時間を歩む事からも
外れてしまうから。そうなると、同じ生き物だと認識されなくなる。そんな感じかな。勿論その魔道士の目的に必要な物だと見られたら、どうなるかはわからないけど」
アララブは、何を思って俺に声を掛けたのだろう。あの時の、解。一つだけ気になる言葉があるとしたら、それだろうか。しかし俺には、あの時、がなんなのかがわからない。
「そういうとてつもない魔道士さんでも、結界って、破れない物なの?」
「無理だね。いや、もしかしたら、記録にも残らないくらい、もう完全な世捨て人になっている魔道士なら、行けるかも知れないけれど。ただ、そんなとんでもない人でも、自分が通り抜けるくらいで、結界自体の解除は
無理なんだろうな。今日まで、結界がそのままな訳だし。いずれにしろ、そういう魔道士はもう、自分のしたい事、大体は自己の研磨だけど。それにしか興味が無くなってくる」
「どうして?」
「寿命が、ともすれば永遠だからだよ。自分の寿命が永遠であっても、終わりが来るとすれば、それは自分が直接殺されるか。……それとも、世界の寿命が尽きてしまうかだ」
「世界の寿命なんて、あるのかな」
「さあ、それはわからない。でも、魔道士は生に貪欲だよ。貪欲だから、自分を永遠に生きられる身体にして、貪欲だから、いつか自分の生きる場所が無くなるという事が無い様に、その時に抗える様に、その時に
自分だけでも生き残る事ができる様に、益々魔導にのめり込む」
「なんだか……ちょっと、怖いね」
「そうだな。彼らからすれば、怖い、なんて事はないのだろうけれど。魔導に見初められ、魔導にのめり込み、終いには魔導に従わせられる事に良心の呵責も覚えず、それを堪らなく幸福と感じる人種だから」
俺の目の前に現れたあの猫は。どうなんだろう。話し方はちょっとおかしかった気がするけれど、やり取りは至って普通だった。常識が無い、という雰囲気も無い。やっぱり死にたくはないみたいだったけれど、そんな事
言ってたし。いや、誰だって、死にたくはないだろうけどさ。そこまで考えて、俺は自嘲気味に笑みを零す。
「あーあと。それとはあんまり関係無いけど。もう一つ。ゼオロのために、教えてあげよう」
「何?」
「本当は、魔法使いになる訳でもないのに、あまり魔導の事を話しちゃいけないんだけど。でも、これは平気かな。魔法使いの中には、首輪付きと、野良の魔法使いが居るんだよ」
「……名前からして、管理されているか、どうかって話だよね?」
「そ。因みに、俺は首輪付き。ほら、見てごらん」
クロイスが俺の身体を離す。やっと解放されたと思いながらも、俺は振り返ると目を見開いた。クロイスが自分の首に指を当てる。すると、今まではそこに無かったはずの、光の環が薄っすらと現れた。確かに、首輪
だった。動物頭と相まって、完全に飼われたペットの印象を受ける。豹のペットってお金掛かりそうだな。
「首輪付き、は学園で魔導を修めた魔法使いの事を指す。どうしてか、わかる?」
「管理したいんでしょ。何も無い所から、なんでも出せるんだから、妙な真似をさせないためかな」
「大正解。筆記試験ならゼオロはきっと満点狙えるな。首輪付きの魔法使いは、学園で学ぶという特権を得る代わりに、制約が掛けられる。それから、無闇に暴れたりしないようにって意味も込めてね。野良の魔法使いは、
当然首輪なんて持ってない。だから、野良の魔法使いには気を付けて」
「それだと、首輪付きの利点が無い様に思えるんだけど」
「いんや。首輪が付けてある。それは、利点だよ。と言っても、ラヴーワにおいて、としか言えないけれど。首輪付きの魔法使いは、学園を卒業して仕事を探す際に、優遇される。魔法使いの職探しに、非常に有利に
働くんだ。それから、魔法に用いる品なども、店で売ってもらうには首輪が必要だ。行動が制限される代わりに、それ以外の面でかなりの待遇が得られる。だから皆、基本は首輪付きになるんだよ」
「実際に、その首輪って、どれくらい制限があるの?」
「あんまり強力な魔法を使おうとすると、邪魔される。必要な時は申請をして、一時的に首輪の効力を弱めてもらう必要がある。ま、俺のは飾りだけどね。スケアルガが行っている制度だから、当然俺は形だけで、
免除されてる。あと、あんまり弱められると、軍師って立場上、不意打ちに対応できなくてそのまま殺されるからね」
「首輪その物が外される事って、あるの?」
「基本的には無い。学園を退学処分になろうが、学んだ魔法を用いる事はできるからね。ああ、ヒュリカみたいなのは、学園を去る時に首輪は取ってもらえるよ。本当は取っちゃ駄目なんだけど、翼族の、族長の息子
だからね。首輪を付けたままは、流石に帰せない」
「野良の魔法使いって、多い?」
「そんなには。ただ、そう扱われるって意味では、多い。さっきも言ったけれど、これはラヴーワでの制度。他国の魔法使いは、ラヴーワでは当然野良の扱いになる。勿論、本人が望めば首輪を付ける事はできるから、
ラヴーワに骨を埋めたいって魔法使いは、首輪を付けてもらう事もあるけど」
「質問攻めで、ごめん。最後に。魔道士は、首輪は付けないの」
魔法使いは。さっきから、そう言ってばかりだ。魔道士は、そうではないのだろうか。俺の質問にクロイスはにやっと笑って、首に当てた指から手を離す。
そうすると、クロイスの首を覆っていた光の環も、役目を終えたといわんばかりにまた見えなくなった。
「魔道士に首輪付きは、存在しない。そこまで腕のある魔道士なら、自分の首輪なんて、簡単に壊せるから。まあ特注品の首輪なら、魔道士の力量によっては外せない物になる場合もあるけど。お金掛かるからね」
「大丈夫なの、それ」
「さっきも言った通り、そこまで突き抜けて、魔法使いから魔道士になった奴らは、俗世間の事なんて興味を失くしてしまうからね。とはいえ、それは流石に不用心だから、魔道士連中の中でも、比較的協力的な奴らは、
いざって時にはラヴーワのために力になると約束はしてくれているよ。約束以上の拘束は、何もできないけれど。この首輪だって、結構小難しいし、厄介な魔法なんだから」
「ふうん」
「それにしても、魔法の事にはよく食いつくね。やっぱりゼオロも、学園に行きたいの?」
「うーん」
行きたいのかと訊かれたら、正直凄く行きたい。魔法こそファンタジーの肝心要の部分だ。他の何がどれ程背伸びして自己主張しようが、魔法こそが主役だ。剣と魔法のファンタジーってよく言うけれど、俺にとっては魔法の
方がずっと大事だ。何も無い所から、何かを出す。冴えない見た目の人物が、実は華麗で有能な魔法使い。そんなギャップは、堪らないと思う。
「でも、お金に余裕はないし。お金、掛かるよね?」
「そりゃ、まあね。無料で受けられたら、世話無いわな。才能がある奴なら、そういうのは全部免除してもらう事もあるけれど」
「私は、どうなんだろう。そういうのって、クロイスからはわからない?」
「ん。わからなくはない」
「どう?」
首を傾げて、クロイスに視線を送る。クロイスがあからさまに笑みを零して、だらしがない顔をする。しまった。余計な事をしてしまった。
「うわぁ、すげぇ可愛い……。おっと、失礼。実は、言い難いんだけど。俺の目からは、魔法使いの才がある様には見えないな」
「そっか……」
クロイスの言葉に、俺はしょんぼり。だって、せっかく魔法の存在する世界に来たのに。その才能がある様には見えないって。それってもう無理って事だろう。
「ご、ごめん。言い過ぎた。落ち込まないで。ていうか泣きそうにならないで。俺の目から見たら、だから。もしかしたらって事も、あるから」
気休めにしかならない言葉を、クロイスが言う。
「どういう所を見て、判断してるの?」
「どんな奴でも、一定の魔力って奴は身体から放出されてるんだよ。魔法使いとして訓練すれば、それは抑えられるけど。そうしないと、同じ魔法使いからは存在がバレバレになるから。でも、ゼオロからは……そういうのを、
感じない。やっぱり、別の世界から来たからなのかも」
そう言われると、納得する。別の世界から来た俺が、この世界に適応できない状態であるというのは、別に不思議な事でもなんでもないだろう。でも、凄く残念だ。
「だからかな、なんか、触ってると気持ちいい」
クロイスの手が伸びて、俺を抱き寄せる。今日何回目だこれ。デレ過ぎだろこの猫。
「魔力が無いから、気持ちいいの?」
「んー、なんて言ったらいいのかな。例えば誰かに近づいた時には、匂いがしたりするじゃん?」
「うん。今も、クロイスの匂いがする」
「そうそう、俺は、ゼオロの匂いがする。でも、どんなに良い匂いでも、勿論、悪い臭いでも。嗅ぎ取ったら、俺達はそれを認識して、反応しちゃう。魔力もそれと同じ、放出されている物に触れると、なんとなく、あ、触ったなって
感じがする訳で。でも、ゼオロからはそれがしない。だから、なんとなく安心しちゃうんだよね」
「そうなのかな。私は、クロイスと居ても、何も感じないけれど」
「そもそもゼオロはまず、魔力を感じるって事が、できてないはずだからね。自分で魔力を持ってないと、わかりにくいかも知れない。あ、いや、まだわからないか。もっときちんと検査したり、色々試してみないと。そうそう。
だから、泣かないでください」
泣かない様に。さっきから頑張ってるんだけど、やっぱり自分で魔法が使えないって言われると、悲しい。俺がずっと、密かに、ファンタジーに触れている間夢想していたそれに、せっかくそれがある世界に来たのに、
触れないなんて。悲しすぎる。
「ああ、よしよし。いい子だから」
抱き寄せられて、頭を撫でられて。扱いが完全に子供だ。子供だけど、身体は。どこの麻酔銃の使い手だろうか。
「なんか、今日はやけに子供扱いするね」
「察してよ。ゼオロの事、子供扱いしてないと、また襲っちゃいそうなんだから」
「子供をどうこうする趣味は無いんだ」
「判断能力の無い奴を言葉で混乱させて、食いたい訳じゃないからね。まあ、ゼオロにそんな心配は要らないけど」
「そう思うなら、もう少し抱き締めるのは控えめにしてほしいけど」
「……わかってるよ。わかってるけど」
クロイスが言葉を切って、項垂れる。真上にあるその豹の顔を、俺は気がかりになって見上げた。さっきまでとは違い、急にクロイスは大人しくなる。
「……何か、あったの」
訊くか迷って、でも、暗い顔をしたクロイスの事を放っておけなくて、尋ねてみる。それにもし、クロイスが俺に踏み込んでほしくないと思ったら、彼は持ち前のポーカーフェイスを発揮して、こんな顔をしないだろう。俺が
踏み込んでも良い。そう思っているのなら、俺も、少しでも楽にさせてあげたい。
そこまで考えて、俺はちょっと、笑ってしまう。他人に関わるのを避けてばかりだったのが、なんだか嘘みたいだ。関わっても、良いのだと。今までの俺はもうどこにも居なくて、だから好きに振る舞っていいのだと、
気づかせてくれたクロイスだから、だろう。
「行きたくねぇよ……ゼオロ……」
「え?」
「前線の視察。決まったんだ、日取りが。もう、時間が無い」
「そんなに、早かったの?」
「早くなったんだ。俺が、問題ばかり起こしてるから。あの糞親父、呪ってやる」
ああ、だから昨日も一昨日も、来なかったのか。突然告げられたそれに、混乱してしまって。
「本当は、春が来るまでは、大丈夫だったのに。春までは、ゼオロと一緒に居られるって、思ってたのに……」
そうか。クロイスは、行ってしまうのか。そう思うと途端に寂しくなって、俺は初めて、自分の意思でクロイスに抱き付いた。友達として。そういう相手に抱き付くのって変かも知れないけれど。でも、今は行ってしまう事が、
悲しかった。
「行きたくない……。離れたく、ないよ」
「駄目だよ、行かなくちゃ」
「ゼオロまで、そんな事言うのかよ。俺が行っても、平気なの」
「そんな訳ないでしょ。でも、それがクロイスの夢のために必要な事なんでしょ」
「そうだけど、でも……」
お互いに抱き合って、しばらくそのままになる。クロイスの匂いを、嗅いでおく。コート、貰っといて良かった。忘れたくないから、この匂い。けれど、ずっと俺が着ていたら、きっと匂いも無くなってしまうんだろうな。
首筋に顔を埋めて、それから、俺はおずおずと、それでも意を決して、クロイスの首筋に、自分の頬を擦り付ける。こうするのかな、なんて。やった事ないし。動物なら、こういうの手慣れてるんだろうけれど、生憎初体験で。
擦り付けている俺の頬に、クロイスの瞳から流れた涙が降りかかる。それも、擦り付けた。一頻り擦り付けて、首元をちょっと舐めてみる。びくっとクロイスが震えた。そんな事より舌に豹の毛が付いた俺は慌てて顔を
背けたけれど。何これこんなの他の人は平気なの。信じられない。好奇心で試すんじゃなかった。
「泣いちゃ駄目だよ」
「泣くつもりなんて、無かった。この間は、泣いたけど。でもそれは、誰も俺を責めてくれなくて、ゼオロに、申し訳なかったからだった。でも、今は……。離れたくなくて、泣いてるんだな、俺」
「……」
「知らなかった。こんなに……好きになってたんだな……まだ、会ったばかりなのに」
「会ったばかりで付き合おうって言ったのは、クロイスだよ」
「わかってる。それとは、違うんだ。こんなに離れたくないって思うのは、初めてだから」
出会った頃は、もっと軽い気持ちだったんだろう。もしかしたら、この間告白してきた時ですら、もっと軽かったのかも知れない。それぐらい、今のクロイスはいつもより、更にずっと。悲し気に、涙を流していた。
「行きたくない……ここでゼオロと離れたら、なんか……もう、会えない気がして。誰かに取られそうで……嫌だ」
「クロイス」
「嫌だよ、ゼオロ。俺、夢なんて」
「駄目だよ」
クロイスの言葉を遮る。それは、口にしてはいけなかった。ずっと抱いていた大事な夢がクロイスにはあるのに。
「ゼオロは……嫌じゃないのか? 俺が、居なくなるの……」
「嫌だよ」
「だったら、泣いてくれよ……。さっきから、泣いてるの、俺ばっかりだ。お前の事が欲しくて、離れたくなくて、泣いてるのに。ゼオロは、泣いてくれないのか……?」
「……」
まっすぐに見つめ合いながら、それでも俺は、涙を浮かべずにクロイスを見ていた。クロイスの表情が、徐々に曇ってゆく。元々曇りどころか、泣いていたけれど、それが段々と俯いて。俺を抱き締めていた腕も、その内に
落とされる。
「夢があるんでしょう。クロイス」
「……」
「行かなくちゃ。今行かなかったら、もう叶わないよ」
「……」
「……クロイス」
クロイスが、目を瞑った。その拍子に、最後の一粒が流れる。何度も流れたから、被毛に吸われる事もなく、それは滴って、落ちて。クロイスの胸の被毛へと吸い込まれる様に消えていった。
次に目を開いた時。クロイスは。俺をただ、冷静に見つめていた。
「ゼオロ。右手、出して」
突然の事に、しかし俺は黙って右手を差し出す。クロイスが俺の腕を取って、引き寄せる。引き寄せてから、残った手を開いて俺の腕の上に。丁度、腕輪がある所でその掌は止まる。俺達が見つめている先にあるのは、
腕輪に埋め込まれた、飾り石。クロイスがそれにしばらく掌を向けると、不意に飾り石の中にあった、淡い光が消えてゆく。全てが終わると、光は完全に消えて、ただの露店で買った安物にふさわしい見た目になった。
「今のは」
「俺から、解放される様にした。黙ってたけれど、この腕輪で、ゼオロの居場所がわかる様にしてた。半分は、用心。でも、もう半分は……」
ああ、だから。あの時。
ヒュリカと街の路地を逃げていたあの時、本当に都合良く、クロイスは俺達の前に現れる事ができたのか。ただのメモ書き一つで、俺がどこに居るのかなんて、わかるはずもないし、臭いを辿る事もできないのに。クロイスは、
これを頼りにしていたのか。
「黙ってて、ごめんね。でも、もう、自由だよ。もう……さよならだ」
ゆっくりと、優しく、クロイスは俺の身体を自分の前から退かす。優しく俺を拒絶して、立ち上がった。
クロイスが俺を見ていたのは、短い間だった。それから、振り返って、歩いてゆく。それきり、何一つ俺にわかる様な行動も示さずに。去ってゆく。
俺はそれを、ずっと見ていた。クロイスが視界から消えて、ずっと遠くに行ってしまっても。いつのまにか、空が茜色に染まっても。茫然と見ていた。
その内に、誰かの姿が見えた。クロイス。そう思った。でも、違っていた。ハンスだった。沈痛な面持ちのハンスが、俺の下へとやってくる。
「クロイスの話は、聞きました。ジョウスの話もね」
「はい」
「三日後には、もうミサナトを発つそうですよ」
「そうですか」
「これで、良かったのですか?」
「……クロイスには、大事な夢がありますから」
「馬鹿な事を」
ハンスが、屈み込んで、俺を抱き寄せる。ちょっと強引に。肩が、痛んだ。
「こんなにボロボロになってまで、ジョウスの言う事なんて、聞く必要は無かったでしょう」
「違います。ジョウスさんの言う事を、聞いた訳じゃありません。クロイスの夢を、叶えてほしかったから。前に、言ったんです。役に立てる時が来たら、クロイスの手伝いをするって。私は、手伝いたかった。クロイスの夢を、
壊したい訳じゃ、なかった」
「……頑張りましたね、ゼオロさん」
背中を軽く叩かれる。その拍子に、俺の両目から、涙が溢れた。ずっと堪えていたそれは、後から後から、止まらぬかの様に出てきては、俺の頬を濡らした。嗚咽がその内に出てきて、俺は右手を、ハンスの服に
引っ掛けて、その胸に顔を預けて泣いた。
クロイスが、行ってしまう。遠い所へ。もう、会えないかも知れない場所へ。嫌だ。叫びたかった、叫びたくて、仕方がなかった。クロイスの前で、泣きたかった。でも、俺が何を示しても、クロイスの夢の邪魔にしかならないの
だと気づいた時、俺は、何もできなかった。手伝える事は、何もない。こんな身体になって、手伝いなんて、できなくなってしまって。今の俺にできるのは、ただ、邪魔をしない事だけ。クロイスが振り返らない様に、クロイスが
居なくなるまで、黙って、泣かないで、見送る事だけだった。
声を上げて、泣いた。こんな風に泣くのは、初めてかも知れなかった。いつも、声を殺して泣いていた。泣いている俺を、俺が抱き締めているリヨク以外には、見られたくなくて、知られたくなくて。でも、ここには、ハンスしか
居ない。見られたくない、知られたくないクロイスは、もう、行ってしまったから。
クロイスの、夢が叶うといいな。
クロイス。
クロイスが俺の下を去ってから、三日目の朝。クロイスが、旅立つ日。俺はその日が来るまで、ただ自室でぼんやりとしていた。たまに外に出ても、適当に椅子に座って、本を読むだけ。どの道、それ以上の事なんて今の
俺の身体ではできないのだから、仕方ないけれど。
三日目の朝。その日も、俺はいつもと変わらなかった。起きて、ハンスと軽い会話をしながら、朝食を済ませて。ハンスはもう、クロイスの事を口には出さなかった。俺が別れを告げたのだから、自分から言う事はないと、
そう思っているのだろう。学園に行くハンスを、見送る。ハンスは、きっとクロイスを見送るだろう。
一人になって、部屋に戻った。ベッドに腰かけて、また適当に本を開く。既に読んだ本だった。新しい本をハンスに強請る気力も出なくて、同じ物をずっと読んでいる。同じ物を読んでいる俺を置いて、時間は流れて、
今日になって、朝が来た。
クロイスが、旅立つ日。
だから、どうした。そう思った。もう、全部終わってしまった。クロイスとの日々は、終わってしまった。友達として、大事な人。友達として。
終わったのだから、俺はもう、新しくまた生きなければならない。この世界で生きてゆくために。最初よりも分の悪い怪我を負ったまま、それでも生きなければならない。
「ゼオロ!」
本をどうしようか。もうこれは、飽きてしまった。ハンスに内緒にして、こっそり新しいのを持ってこようか。別に、そこまで怒られたりはしないし。そんな事を考えている俺の耳に飛び込む、幼い声。顔を上げると、息を
切らせたヒュリカが、そこに居た。白い鷲。鷲だけど、あんまり迫力の無い顔してる。まだ、幼いからだろうな。そんなヒュリカの背にある翼は、半ば開いた状態で、なんとも中途半端な状態だった。また、転びそうになったりして、
その翼の世話にでもなっていたのだろうと考える。
「ヒュリカ。おはよう」
そういえば、どうしてヒュリカは今俺の目の前に居るのだろう。ハンスを見送った後、家の鍵を掛ける事も、俺は忘れていたのか。
「おはようじゃないよ、何してるの!?」
「本。読み終わったから、新しいのが欲しいなって思ってたところ」
「そうじゃないよ!」
駆け寄って、俺の前で膝を折るヒュリカ。
「大丈夫?」
その肩に手を掛けて、俺はヒュリカを労わる。ヒュリカは俺の手を強く掴むと、俺を睨みつけた。
「なんで、そんなに冷静なの。クロイスさん、今日、行っちゃうんだよ」
「もう、お別れは済ませたよ」
「……本当に? クロイスさん、あんなに寂しそうな顔してたのに……」
「……」
寂しそうな顔。どんな顔してるのか、簡単に想像できる。泣き虫だからな。俺も、クロイスも。
「ヒュリカ」
「何、ゼオロ」
「……ごめんね」
俺が謝ると、ヒュリカは目を見開いて、俯く。少しの間それを見ていたけれど、その内に俺は、また本へと目を落とした。もう何回目だろう、この本。
俺が本の文字に集中しかけた途端、本が取り上げられる。
「やっぱり、駄目」
「ヒュリカ」
「クロイスさんだけだったら……クロイスさんだけだったら、僕、放ってた。でも……駄目だよ」
まっすぐに、俺を見つめてくるヒュリカ。俺はただ、ちょっと笑って、首を傾げていた。
「二人とも、そんなに寂しそうな顔したままなんて。嫌だよ」
「そんなに、寂しそうな顔してるのかな。笑ってるんだけど」
「寂しく笑うなんて、器用だね。二人とも」
腕を引かれる。俺はちょっと抵抗したけれど、結局諦めて、立ち上がった。ヒュリカに連れられて、家を出る。階段。上った。いつも、下りてばかりだった。上りきれば、視界に見えてくる、スケアルガの学園。今まで、一度も
行った事はなかった。当然だ。俺は、生徒ではないのだから。
「いいの? 勝手に、入って」
「入口くらい、誰も文句言わないよ。それに、クロイスさんの見送りなんだから」
最後の抵抗の言葉も、ヒュリカは物ともしない。こんなに、行動力のある人だったかな、ヒュリカって。
階段を上りきる。呼吸を少しだけ整えて、顔を上げる。白い建物があった。真っ白に、陽の光を照り返す、純白の学園の姿。富裕層の地域と繋がっているだけはある。どちらも、白を基調としていて、ともすれば厳かで、
そこが学園には見えない様な気がした。青い屋根が、空と一体化している様で。僅かな間、それに見惚れた。
「こっちだよ、ゼオロ」
もう少し眺めていようかと思ったところに、ヒュリカの声が掛けられる。残念だけど、これ以上細かくは見ていられない様だ。
「どこに行くの」
「ここは、スケアルガ学園の真横なの。裏道の先って言ってもいいのかな。だから、一度正面に回る。正面から、入口に。クロイスさんはそこで見送られて、もう行っちゃうんだ。急がないと」
腕を引かれて、走る。左肩が。腕が揺れる度に、痛む。痛みが酷くなって、呻いた頃に、はっとなったヒュリカが振り向いた。ここまで我慢してきたけれど、そろそろ辛い。
「ゼオロ! ……ごめん。傷が、あったよね」
「いいよ」
どうせ、見送ったら、また静養の日々に戻る。今少しくらい無理したって、構わない。
「ごめん。無理させて」
「大丈夫だよ」
ヒュリカが、ふらついた俺を支える。走りたかったけれど、もう難しい様だ。
「もう少し。もう、走らなくても、すぐだよ」
「うん」
ちょっと走っただけなのに、なんだか辛い。そういえば、血を流したんだっけ。まだ、身体が本調子じゃないのは仕方ない。痛みよりも、なんだか気怠い感じの方が強い。
ヒュリカに助けられて、正面へと向かう。
「着いたよ」
ヒュリカの声に、顔を上げる。身体を預けたまま、顔も上げられなかったから、自分がどこを歩いていたのかも、わからなかった。顔を上げた俺の目に映るのは、豪奢なスケアルガ学園の門と、その先の広場の、がらんと
した様子だった。
「誰も、居ない……」
「間に合わなかった、かな」
「そんな」
傍にある、塀の前にあった椅子に、ヒュリカは俺を座らせる。
「まだ、出てきていないだけかも知れない。僕、様子を見てくる。ゼオロは待ってて」
もう出てしまったとしたら、今の俺ではとても追いつけない。ヒュリカは最後の望みを、まだクロイスが建物から出てきていない方へと託した様だった。
足音が、遠ざかる。途端に静寂に包まれた。学園の前なのに、どうしてこんなに、静かなのだろう。クロイスを見送ったから、だろうか。校舎はもっと、中の方なのかも知れない。そんな事を見る余裕も、無かった。背凭れに
身体を預けて、俺は目を閉じて、呼吸を整える。ここまでは、来られたけれど。帰りはちょっと、しんどいかも。
「……ゼオロ」
声が聞こえて、目を開けた。視界に飛び込む、ヒョウ柄の豹男。顔を上げて、その顔を見つめる。肩で息したクロイスが、そこに立っていた。
「どうしたの。クロイス。そんなに急いで」
「俺の台詞なんだけど。なんで、ここに居るの」
「クロイスが、今日で行ってしまうって、ヒュリカが。連れてこられた」
「……ちぇ」
「私が自分の意思で来なかったのが、そんなに不満?」
「当たり前じゃん。……でも」
クロイスが、しゃがみ込む。そこまでして、ようやく俺とクロイスの顔の高さが同じになる。
「会えてよかった。もう、ゼオロがどこに居るのか。俺にはわからないから」
「そんな事言って。別に、仕込んでるんじゃないの」
「俺、そんなに不誠実だったかな、ゼオロに」
「ううん。とっても、誠実だったよ。こんなに優しい人が、どうして私の事を好きになったり、一緒に居てくれたんだろうって。いつも、不安になるくらいに」
「馬鹿だな。そんなの俺だって、一緒だったよ。友達だったのに、好きになっちまったから」
「……クロイスは、どうして、ここに?」
「やっぱり、最後に会いたかった。会いたくて、抜け出してきた。出発したのに」
クロイスも、裏道からハンスの家へ来ていたのだろう。ここはその通り道。会うのは、当たり前だった。ここに座らせてくれたヒュリカには、感謝しないと。
「クロイス。行っちゃうんだね」
「ああ」
「行ってほしくないな」
「今更、言うの。ゼオロ。本当に意地悪だな」
「今のクロイスは、私が何を言っても、きっと行くって信じてるから」
にこりと笑いかけた俺の目から、涙が零れる。何をしても、今のクロイスは夢に向かっていくだろう。そう思ったから、もう我慢する必要も無かった。
「戻ってくるよ、俺。いつか、絶対に」
「その時まで、私がこの街に、居るといいけれどね」
「ゼオロの下に、戻ってくる」
「楽しみにして待ってるよ、クロイス」
クロイスが俺の右手を取って、そこへ口付けをする。
「ゼオロ。……キスしても、いい?」
「今、したでしょ」
「口に、したいんだ」
「私が嫌って言うの、わかりきってるでしょ」
「うん」
「だったら、許可なんて貰わなくていいよ」
クロイスの腕が伸びて、肩を抱き寄せられる。クロイスの顔が近づいてきて、俺の顔と重なる。ほんの一瞬だけだった。刹那、俺とクロイスの唇が触れ合う。
それで、終わりだった。
「どう?」
「もっと滅茶苦茶嫌がる様にしてくるのかと思ってた」
「俺の初めてだから」
「他の人と、沢山してるでしょ」
「ああ、したよ。でも、軽くするのは、本当に初めて。俺に最初に色々教えてくれた人が、いきなり深い所から教えてくれたせいでね。だから、こんなに軽いのをしたのは、初めてだよ」
「物は言い様だね。私は、同性でも異性でも、するのが初めてだったのに」
「嫌じゃなかった?」
「わからない。嫌では、なかった。それだけ」
「そっか。それだけで、いいよ。今は。次会ったら、何するかわからないけど」
「本当に、ケダモノだね」
「俺、若いんだよ? 言っとくけど。やりたい事、まだまだやりたいお年頃なんだけど。ゼオロって淡泊だよね」
「性欲は強い方だよ。表に出さないだけで」
「さり気無くそういう事言うの、やめて。押し倒したくなる。……ほんと、俺の事、からかってばかりだね」
「元々、クロイスより年上だからね。私」
「全然そうは見えないんだよなぁ……」
まあ、今の俺、狼族の子供だしね。
「クロイス。一つ、訊いてみてもいいかな」
「何?」
「クロイスが、銀狼について教えてくれたから、考えてたんだけど……。クロイスが私と結婚したいって言ったのって」
「……うん」
「狼族の、それも銀狼である私が、クロイス・スケアルガと一緒になれば、狼族に対する橋渡しとして利用できると思ったから?」
俺の言葉に、クロイスが目がかっと開かれる。それから、その口角が吊り上がって、獰猛な笑みへと変わる。
「……怖いな、ゼオロは。そんな事まで考えられるんだね。本当に、怖い」
「そう思った、だけだよ」
「ゼオロは、それが通ると思ってる?」
「どうだろう。でも、悪くない手だとは思ってる。これが、クロイスのお父さんがした事だったら、狼族はきっと怒ると思う。でも、クロイスは、休戦に入ってから産まれたから。スケアルガの者であっても、グンサの件とは直接は
関わりが無いから。それに、クロイスが自由恋愛を謳って、色んな人と付き合っているのは、このミサナトに居る人なら、知っている人も多いと思う。この間の、ヒュリカを助けようとした時も、クロイスが現れたら、暴漢の
誰かは、クロイスの事をはっきりと言い当ててたし。スケアルガの坊ちゃんだってね。そんなクロイスが、狼族を、それも、英雄の血筋であると思われる銀狼の私を見初める。自由恋愛を謳っていたから、当然それが
クロイスの作戦という気配があっても、いくらかは和らぐはず。あとは私が、そのままではただの、氏素性の知れない銀狼でしかない私が、クロイスの伴侶として、クロイスと一緒に狼族に会いに行けば。少なくとも、
クロイスから後のスケアルガの人達への印象は、大分良くなると思う。今は休戦中とはいえ、ラヴーワの中で争い合うのは良くないって、誰もがわかっている事だしね」
「どうして、そういう所まで気が回るのかな。時々、怖くなるよ、俺」
「これが本当にその通りになるのかは、わからないけれどね。私は、何も知らない。スケアルガが狼族にどんな感情を今抱いているのか、狼族が、スケアルガを、それからラヴーワにどんな感情を抱いているのかも」
「概ね、ゼオロの口にした通りになるとは思うよ。勿論、全てがそんなに、すんなり行く訳じゃないけれどね」
「まあ、そんなの、どうでもいいや。結婚しないし。ただ、クロイスがそこまで考えていたのか、私は知りたかっただけ」
「……考えてるって、言ったら?」
「ちょっと、怒る。でも、クロイスもやっぱり、軍師の卵なんだなって、思う」
「正直に、言うよ。考えては、いた。でも、それとゼオロと一緒になりたいのは、やっぱり別。寧ろ、俺がそれを考えたのは、親父達に対する言い訳にするためだ」
「ジョウスさんは、私を怪しいとは思っていただろうけれど、そんなに嫌な顔はしていなかったね」
「それでも、はっきりと受け入れた訳じゃない。でも、今ゼオロが言った様な展開に運べるのなら、俺がゼオロを迎えるのに、俺の家は、誰一人俺に文句を言わないとは思った。一応、付き合いには煩いって言っても、俺は
スケアルガの直系で、子供の有無は結構、大きく見られるからね」
「それでも、私と結婚しようだなんて、思っちゃうんだね」
「別に、スケアルガは跡継ぎの事をそれほど重要視してないからね。傍系でもいいなら、いくらでも人は居る。本来は学問を志すものであって、別に学園の運営が第一って訳でもない」
「そっか。よく、わかったよ。クロイスが本当に、私の事を好きになってくれたんだって事が」
「えー。今更? ずっと好きって、言ってたのに」
「そこは、自分の振る舞い方のせいだと、思ってほしいんだけど」
「ちぇ」
叱られた子供みたいな顔をしたクロイスが、ぱっと俺から離れる。
「あー。やっぱ駄目だ。これ以上触ってると、本当にこのまま、全部すっぽかしちまいそうだわ」
背を向けて、数歩進んでから、クロイスが振り返る。コートがふわりと舞って、その動きを強調する。そういえば、今の服は、立派な物だと思った。恰好はいつもとそれほどの違いは無いはずだけど、細かい刺繍が
施されているし、胸元には金色の、バッジがつけられている。クロイスの身分を証明する物なのかな。
「一度だけ。言いたいな。このまま、全部捨てて、俺と一緒に二人だけで、どっか行かない?」
「やだよ。私だって、もっと色んな事して、色んな人に会ってみたいんだから」
「嫌われるのが、怖いって言ってたのに」
「怖いよ。でも、クロイスみたいな人が居てくれたから。だからもう少し、頑張れそう」
そういう意味では、俺も、ヒュリカと同じだ。他人が怖くて仕方がない。それは、今も変わらない。見限った古い世界ではそうで、今居る新しい世界も、どうだかわからなかった。それでも目の前に現れた豹の青年は、俺を
笑わせて、泣かせて。今旅立とうとしている。
「ん。そう言われると、応援したくなっちゃう。仕方ないな。この話は、また次に。どこかで会えたらにしよう」
クロイスが笑う。初めてあった時の様に、人の良さそうな笑み。でも、今はその中に、様々な想いが潜んでいる事を、俺は知っている。
俺も、ゆっくりと立ち上がった。向かい合うと、やっぱりクロイスは背が高くて。いや、俺が小さくて。少しお互いに見つめ合った後、クロイスは歩き出した。
「行ってらっしゃい、クロイス」
背中に、声を掛けた。クロイスは片手をひらひらと上げて、歩いてゆく。何度か見た光景。これからしばらくは、見ないであろう光景。
「行ってくるよ、ゼオロ」
軽快な足取りで、彼は歩き出した。俺はそれを少しの間だけ見ていたけれど、姿が見えなくなるよりも先に、踵を返す。
学園の中から、俺の下へと走ってくるヒュリカの姿が見えた。