ヨコアナ
8.傷だらけの俺達
「一人で行く。一人で、良い。俺の目的を果たすために、ツガ。お前は邪魔だ」
「薄汚い、爬族。俺は、それでも構わない。だから、お前は輝かしい竜族として、生きていればいいじゃないか」
「どうして、こちらに来ようとする。そこに居れば、お前は幸せになれるだろう。皆がお前を待っている。こちらに来たら、お前は」
「初めてあなたと言葉を交わした時、私はあなたの言葉をきちんと耳に入れる事はありませんでした」
「爬族風情が。そう、思ってしまったのです」
「あなたの言葉が嘘偽りなく、まっすぐな物だと気づいた時。全ては、あまりにも遅かったけれど」
「どうか、私で償いをさせてください。ファンネス」
遠くで、声が聞こえる。
「なんとか、してくれよ」
「騒ぐな。今、診ているところじゃないか。邪魔をするつもりなら、出てゆけ。まったく、人は簡単に殺す癖に、自分の身内となったら、その様かお前は」
「そんなに、責める様に言わずとも、良いでしょう。彼は充分やってくれたと、そう思いますが」
「ああ、煩い。喋るなら、出てゆけ。ああ、待て。一つだけ、答えろ。こいつは、何者なんだ」
「何者、と言われても」
「ただの狼族。ただの銀狼。そうではないな。なんだ、こいつの身体は、ボロボロじゃないか」
「そりゃ、あれだけ怪我してたんだから、そんなの」
「そうではない。馬鹿が。こいつの、体内の方だ。一体、なんだこれは。普通の人ではない。ボロボロだ。いや、言い方が悪かった。完成を目指す、その途中。そうだ、そう見える。なんだ、こいつは。まともな生物なのか?
お前ら、私に何を隠して、こいつの手当てをさせている。それだけ、はっきりと教えろ」
「しかし」
「教えぬと言うのなら、私は帰るぞ。こいつが死んでから、こいつの死体を調べても私は構わんのだからな。私に情報を伏せるとは、そういう事だと理解しろ馬鹿共が」
「……」
声が、遠くなった。
焼ける様な熱を身体から、左肩から、感じていた。熱が、迸っている。呻いた。熱い。熱くて、痛い。身を捩った。余計に、痛みが増す。そんな事、わかっているのに。
身体の動きが止められない。
痛い。苦しい。怖い。
閉じた瞳から、涙が溢れてくる。ちょっと、目を開けてみる。何も、見えない。ぼやけた視界の先は、薄暗い部屋の様で。何がなんだかわからなかった。
物音が聞こえた。こんな時でも、音には敏感で。誰かが、俺を見下ろしている事に気づく。
「畜生……。なんなんだよ。俺、何もできてねぇじゃん……。必死に勉強して、魔導も習ったのに。なんだったんだよ。良い成績が出せたって、なんにもならないじゃないか……。何やってたんだろう、俺……」
水でも掬い取るかの様に、誰かの手が、俺の右手を包んだ。ゆるゆると優しく包んでいた手が、一度だけ、ぎゅっと強くなる。
「……クロイス……?」
口を開けて、呼んでみた。喉の奥がくっついた様になっていて、言葉も上手く出せそうにない。俺の手を包む力が、更に強くなる。途端に、意識がまた遠くなる。
とりあえず、死んではいない。それだけはわかった。刺された左肩が痛くて、熱くて。クロイスと思われる相手が、そこに居て。だから俺は、生憎今は死んでいない。
眠りたい。ああ、でも。その前に。一つだけ。
「クロイスは、頑張ったよ。来てくれて、嬉しかったから」
「やめろよ……そんな風に、俺の事を言うなよ。もっと、言う事あるだろ。お前が連れ出したのが悪いって、お前の詰が甘いって、お前が隙を見せたからだって。全部お前のせいだって。あるだろ。言えよ。そう、言って
くれよ。なんなんだよ、お前」
「泣かないで」
握られた手の上に、さっきからぼたぼたと、滴が落ちっぱなし。ほとんど何も感じない今でも、その冷たい感覚は理解できた。そこから、俺の身体の熱が逃げてゆく様だ。
それでも、すぐに熱は戻ってくる。声を抑えようと思ったけれど、少し洩れてしまった。これ以上は、駄目だ。応えられる余裕が無くなってきた。
俺が眠る事に専念しようとすると、ゆるゆると俺の手を握るそれも、離れてゆく。残された身体に、また熱が襲いかかる。痛みよりも、熱の方を感じてしまうのは、俺にとっては良い事で、その炎を操っていたクロイスに
とっては、辛い事なのだろうと思った。
また、物音がした。俺はゆっくりと瞼を開ける。どれくらい眠っていたのかもわからなかったけれど、クロイスが来てくれた時よりも、自分の身体が快方に向かっている事は理解できた。少なくとも、頭ははっきりと
している。部屋は相変わらず暗いままだし、肩は痛いし熱いけれど。熱は、いい加減引いてもと思った。俺の肩を貫いた刃はもうとっくに無くなっていたのだから。今感じているのは、火傷のせいで、俺の脳がいつまでも
それに怯えているからだろう。
「気が付いたか」
知らない声が聞こえる。目を開けて、俺はちょっと、ぎょっとする。毛が無い。水族でもない。猫の様な瞳で、でも猫ではないそれ。蜥蜴の顔が、そこにあった。爬族だ。黄土色の、鱗に覆われた皮膚。怪獣か何か
みたいだ。絵やら何やら、ディフォルメした状態で見ているとまだ安心できるそれは、リアルな造形で持ってこられると、恰好良いよりも、怖いと思ってしまう。
そんな怪獣みたいな爬族が、目立たない服の上に、白衣っぽい物を着ている。そういう物を見に着けるのは、元の世界と変わらないんだなと、ぼんやりと考える。
「あなたは……」
「お前の治療をした者だ。訳ありの様でな。あのスケアルガの小僧は、よくそういう理由で、真っ当な医者にかかる事を嫌がる。なんにでも首を突っ込む、実に極潰しらしい理由で私を呼ぶ。私はその分、金が入るから、
嫌とは言わんがな。スケアルガの連中も、面倒な噂が立つのは嫌がっているから、私に頼る者も多い」
「そうなんですか」
よくわからないけれど、スケアルガ家のお抱えの医者みたいな物だろうか。本人はなんだか不服そうな顔をして、俺をじっと見下ろしている。
「さて」
突然、男が素早く手を伸ばし、俺の首へとその手を伸ばす。俺は動けもしないから、されるがまま。喉に当てられた手に、ごくりと喉を鳴らして。俺はその爬族の男の顔を見つめる。
「答えろ。お前は一体、何者だ」
鋭い金の双眸が、俺を睥睨する。身体がすくみ上って、そのせいで、肩の痛みがまた伝わって、俺は顔を顰める。
「ハンスさんや、クロイスには、聞いていないのですか」
確か、朧げな記憶にも、そんな話をしていた事を思い出す。
「今は、私が問いかけている側だ。が、まあ、いいだろう。確かにあいつらは、お前の正体を口にした。だが、お前からも、はっきりと私は聞いておきたい」
「……二人が、言った通りです。私は、別の世界から来ました。多分」
「多分?」
「ごめんなさい。私にも、詳しくはわからない事ですから」
改めて問われて、そうだと考える。例えば俺の居た世界には、地球の外に宇宙が広がっているけれど、地球からでは観測できない程に遠く離れた場所に、この世界があるのかも知れない。
そう考えると、魔法の存在はどうなんだとか、色々問題はあるのかも知れないけれど。けれども結局、俺の常識、知識、その他諸々の全ては、地球という一つの世界の上で成り立っていた物に過ぎない。自分がそこで
生まれて、生きてきたから、それだけが当たり前で、それ以外はありえないと、そう思っているだけだから。魔法の様な物が、俺の居た世界の、どこか遠い宇宙で成り立っていたとしても、まあ絶対にありえないとは
言えないのかも知れなかった。それでもありえないとは一応思っているから、別の世界から来た、と言う方が適切なのだろうと思っているけれど。
喉元に当てられた手は、動かない。
そんな緊張感に包まれた部屋に、新しい音が生まれた。
「今戻ったよー。って、ファンネス! 何してんの!?」
まったく聞き覚えの無い声が、部屋に飛び込んでくる。そちらへ首をどうにか動かすと、背の高い、やっぱりふわふわしてないのが居た。でも、一見してすぐにわかる。竜族だ。ミサナトにも、やっぱり居たんだな。竜族。
それから、今俺を絞殺しかねない爬族。ラヴーワに居て、居心地悪くはないのだろうかと、ちょっと心配をする。
「怪我人殺す気!? 自分で治療しといて! あ、わかった。適当に痛めつけて治療費また取るんでしょ。酷いねー、人非人だねー。お菓子買って」
「お前の方が余程人非人じゃないか」
冷めた様に笑って、蜥蜴の手が引かれる。別に強く押さえつけられていた訳じゃないけれど、俺は大きく息を吸い込んだ。
「少し、遊んでいただけだ」
「また、嘘言って。都合悪くなると、そうなんだから。えーと、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
爬族の、ファンネスと呼ばれた男の手が引かれて。下がったファンネスの代わりに出てきたのは、竜族の男だった。その姿を間近で見て、はっとする。鱗が、とても綺麗な人だった。全体的には、緑色。緑色の竜。そう
形容してしまうと、別に珍しくも、綺麗でもないかも知れない。けれど、この人の鱗は、なんだか違う。ただの緑というより、翡翠の様だ。煌めく鱗の一つ一つが、薄暗くされたこの部屋でも、はっきりとわかるくらいに綺麗で、
陽の下に出たら、ただそれだけできらきらと輝いてしまいそうだ。服は、こちらもファンネスと同じく地味目な物だった。ただ、鱗があまりにも綺麗で、全体として見れば地味という感じはまったくしない。寧ろこのくらい地味な
服にしておかないと、煌びやか過ぎて、どうしようもなく目立ちそう。竜族というだけで、ここでは目立つだろうけれど。
「ん? どうしたの?」
「お前の見た目のせいだろう。まったく、不用意に顔を出すな」
「えー。いいでしょ別に? それにファンネスが見ていない間は、俺が看病するって決めたじゃん」
「それも終わりだから、出てくる必要は無かった。あとは寝ているだけで良いからな」
呆気に取られていると、二人で勝手な会話のやり取りがされてゆく。話半分に聞いていたけれど、俺はその言葉に安堵する。なんだ、寝てれば治るのか。大した事ないな。
「あの、起き上がっても、いいですか」
「好きにしろ。ただし。左肩はあまり動かすなよ。もっとも、動かんと思うが」
「え?」
言われて、右手で身体をどうにか起こして、左腕を動かそうとする。動かない。だらんと垂れ下がって、付け根のところには包帯が巻かれている、俺の銀の左腕。そこは、俺の意思を無視して、だらりとしたまま。俺は
混乱して、思わず二人へ視線を送る。
「あれ、ファンネス。何も言ってないの?」
「言うも何も。まともに口が利ける程意識が覚醒したのは、たった今だ」
「ああ、そっかー……辛いかも知れないけれど、頑張ってね」
「……寝てれば、治るんですよね?」
「はて。私は、寝ていれば良いとは言ったが、寝ているだけで治るとは、言っていないな。要するに、今お前ができる事は、それだけだと言ったのだ」
騙された。いや、騙すつもりはなかったのだろうけれど。俺は不安になって、また自分の腕を見つめる。どうしよう。動かない。これでは元気になっても、迷惑を掛けてしまう。迷惑を掛けた今こうなっているのだから、それは
自業自得だけれど。
「治るかどうか。それはこれからのお前次第だ。完全に動かないという訳ではないはずだ。見ろ。指先は、僅かに震えている。今はまだ傷が残っているから、あまり動かす事は勧めないが、傷が塞がったら、積極的に
動かす様にしてみろ。こういう物は、患者の努力が全てだ。私からできる事は、痛み止めの処方と、どうしようも無くなった時に一服盛ってやる事くらいだな」
「やめなよファンネスー。そういう事言うの。患者さんの事、もっとちゃんと考えて。お医者さんなんでしょ?」
「医者ではない。薬師だ。その二つを同一視するのはいい加減に止めろ。では、私は帰る。一応、三日に一度は診にきてやる。あの小僧が煩くて敵わんからな。帰るぞ、ツガ」
「はーい。それじゃ、またねゼオロさん。お大事に!」
困惑する俺を他所に、ファンネスはさっさと背を向けて、ツガと呼ばれた竜族は、ちょっと名残惜しそうに手を振って部屋から出てゆく。それを見送って、しばらく経つと、その代わりと言うかの様に、ハンスが姿を現した。
「……ごめんなさい」
開口一番に俺がそう言うと、ハンスは苦笑した。大分、心配させてしまっただろう。
「事情は、あの二人から聞きましたよ。良かった、あなたが無事で」
「クロイスと、ヒュリカの事ですね。……彼らは、無事でしたか?」
「クロイスは、頭を少しやられましたが。まあ無事ですよ。家で大分絞られたみたいですがね。ヒュリカさんも、大丈夫です。ただ長旅で疲れていたのに、突然攫われて、酷い目に遭いましたから。食事を済ませると、あとは
泥の様に眠って。それからは起きて寝ての繰り返しですよ。そろそろ、回復する頃だろうとは思いますが」
「私は、どれくらい寝て?」
「五日」
ぎくっとする。嘘、そんなに寝てたのか。昨日普通に寝て、今起きました。そんな感じだ。ああでも、なんとなくお腹が変な感じがする。何も食べないまま寝ていたから、少し痛い様な。そんな感じ。
「そんなに……重ね重ね、ご迷惑を」
「私は、構いませんよ。いえ、とても心配をしましたが。言ってしまえば、私は何もされていませんからね。それよりも、クロイスとヒュリカさんです。あの二人は、とてもあなたを心配していましたから。とりあえず、今日はもう、
夜も遅い。このまま寝てください。明日になって、あなたの体調が良い様なら、二人を連れてきましょう。ずっと、会いたがっていましたから」
そこまで言われて、改めてこの部屋を見渡す。ああ、ここ、俺の部屋なんだ。もうすっかり暗いから、わからなかった。暗くて、でも全部真っ白なままの部屋。なんだか、本当に病室みたいだ。
ハンスと二言三言言葉を交わして、俺は横になる。起きたばかりで、眠れない。そう思っていたのに、自然と睡魔はやってきて。次に目を開けた時には、部屋はいつも通り。真っ白で、窓から陽の射す、質素だけれど、
大分馴染んで親しみの湧いてきた俺の部屋になっていた。ハンスが朝食を持ってくる。パンを千切って、温めたミルクに浸して柔らかくした物。ちょっとぼそぼそしているけれど、それでも美味しかった。食べている内に空腹を
自覚して、結局用意された物を全部食べきってしまう。
「良かった。食欲が無かったらどうしようかと思いましたよ」
「ごちそうさまです。ずっと食べていなかったので、寧ろとてもお腹が空きました。やっぱり、ご飯を食べると違いますね」
「体調は、どうですか? あなたに会いたいと言っている人も、さっきからずっと待っていますが」
「二人の事ですね。通してあげてください。私はもう、大丈夫です」
ハンスが食器を片付けて、部屋を出てゆく。しばらくすると、軽快な足音が聞こえる。それから、息を切らす音も。
「ゼオロ!」
部屋に飛び込んできたのは、ヒュリカだった。転びそうになって、その背の立派な翼がふわりと広がる。そのまま、俺が身を起こしたままのベッドへと駆け寄る。
「良かった。ああ、良かった! もう、大丈夫なんだよね?」
「大丈夫だよ。ヒュリカさん」
「……良かった!」
そう言って、ヒュリカが抱き付いてくる。俺の左肩は避けて、俺の腹の辺りに。一瞬、蹴られた腹の事を思い出した身体が硬直するけれど、そちらの痛みはなかった。ヒュリカもそれを思い出したのか慌てて身を引くけれど、
俺が笑って頷くと、またぎゅっとしてくれる。その瞳から、涙が流れていた。
「良かった。本当に良かった……ずっと心配してたのに、僕も動けなくて。やっと動ける様になっても、ゼオロは絶対安静だから、お見舞いは駄目だって言われてて」
「ヒュリカさんは、元気そうだね」
「僕は、お腹が空いていたのが一番だったから」
そうだっただろうか。殴られたりしていたはずだけど。それでも俺が見つめると、ヒュリカは今までに見た事もないくらいににこにこと笑って、大丈夫だという証拠を提示してくれた。出会った時の様な、儚げで、全てに
怯えていた様な姿は、欠片も見当たらない。
「クロイスは……?」
ずっと待っている人が居る。ハンスがそう言ったから、てっきりクロイスも来てくれたのかと思って、俺はそれを口にする。途端に、ヒュリカの顔から笑顔が消えた。あれ、何か、不味かっただろうか。
「クロイスさんは……誘ったんだけど」
そういえば、ヒュリカはしばらくの間はクロイスの家にお世話になるんだったっけ。お見舞いにヒュリカが来るつもりなら、当然、誘っただろう。
「俺は、行けないって」
「どうして?」
つい、訊いてしまった。別に、来たくないなら、それでいいんだけど。クロイスには随分迷惑を掛けてしまったし、それに家で説教もされているとさっきハンスが言っていた。そんな気分じゃなくても、少しも不思議
じゃないだろう。
「その、ゼオロ……怒らないでほしいんだけど」
「え?」
「クロイスさんが、言ってた。俺はもう、ゼオロの友達だなんて、言えないからって」
「……嫌われちゃったかな」
「違うよ!」
ヒュリカが身を乗り出す。その剣幕に、俺はちょっとたじろいだ。
「そうじゃないよ……。ゼオロに、酷い怪我させたから。気にしてるんだ」
「大袈裟だね」
「……それ、本気で言ってるの? 腕、動かないんでしょ……?」
「半分くらいはね。でも、クロイスが気にする必要はないよ。私が勝手に庇って、勝手に深手にしたんだから」
そうだ。庇っといて、なんなんだけど。クロイスだったら、不意打ちであってももう少し浅手で済んだと思ってしまう。喧嘩慣れしてるみたいだし。ほとんど無意識に近い状態で俺が庇ってしまったから、こんな事になって
しまった。まあ、顔や喉の辺りをやられなかったのは、不幸中の幸いだった。それは悪い意味で目立つし、その点、肩は動かない事を除けば、傷は被毛で隠れてくれるし、服も着るのだから尚更だ。
「ゼオロは、辛くないの? そんな風に言うなんて」
「辛いのは、辛いけど」
というより、怖い。腕が動かないという漠然とした恐怖もそうだけど、ただでさえ、ハンスにとってはただ飯食らいの居候だった俺が、その上自立するのに困難の伴う状況になってしまった。とても申し訳ない。怖くて、
申し訳なくて。その内疎まれてしまうのかも知れないと心配で。お先真っ暗感がやばい。
「辛いけど……。でも、クロイスが怪我しなくて、良かったな」
「優しいんだね、ゼオロは」
「そうなのかな」
「僕は、怖くて動けなかったよ」
「偶々だよ」
「そう言えるのが、優しいと思うんだけどな」
優しい訳ではないよ。そう言いたかったけれど、ヒュリカの言葉を無理に否定するのも角が立つからと、俺は曖昧に微笑む。本当は、そうじゃない。クロイスの夢を、聞いてしまったからなんだろうな。クロイスには、
大きな夢があって。何より夢を叶えるための下地がある。この場合、クロイスはスケアルガという名家の出で、頭も良くて、洞察力もある、という点だ。
夢をさっさと諦めて。最初に自分が抱いた夢がなんだったのかすらもう憶えていない様な、俺とは違うのだから。だから、どうせ傷つくのなら、俺で良いかな。そんな気分になった。
「今はちょっと、後悔してるけどね。やっぱり、痛いや」
最後にそう付け加えると、ヒュリカもちょっと笑った。
「……友達、か」
「え?」
「クロイスは、私の事はもう、友達だと思ってはいないのかな」
「そんな事、ないと思うよ。でも、クロイスさんも、やっぱり……顔を出しづらいんじゃないかな」
「気にしないのにな。別に」
刺される前。あの時までは、クロイスはやっぱりいつものクロイスで。だから、もう大丈夫なんだって、思ったのに。
「初めてできた、友達だったのにな」
「ゼオロ……。それなら、僕と、友達になってくれない?」
「え?」
「い、嫌かな……僕、翼族だし。この国の人でもないし」
「ううん、そうじゃないよ。そうじゃない」
ヒュリカは俺の正体を知らない。俺が本当はなんであって、どうしてここに居て。こんな狼の面をしているのかって、知らないままだ。
騙したまま、友達になっても良いのだろうか。クロイスとの最初も、確かにそうだったけれど。そう考えると、クロイスって本当に場慣れしてるんだなって、ちょっと感心する。有無を言わさずいつの間にか友達になって、
へらへら笑っているから。そんなクロイスが、もう友達なんて名乗れないと今俺を避けているのは、なんだか凄く意外だなって思った。
「僕ね、本当は自分と違う、外の人が怖かったんだ。今回の事があって、まだスケアルガ学園にも顔を出していないけれど、それも、怖い。翼族の谷には、翼族しか居ないんだ。勿論他の種族の人も、たまに見るけれど。外の
人はいつも僕達の事、人じゃない様に見るんだ。国に属していないからって。それに、翼族はラヴーワ、ランデュス。どちらとも、親しいから。都合よく付き合っているんだろうって、言われたりもするし」
そうなのか。爬族とは、また違うんだな。そういう所は。声に出さずに、感心する。あんまり無知を晒すと、俺の正体へとそれは繋がってしまいそうで、下手な反応ができない。
「それでもここに来たのは、魔導をきちんと修めてみたいって思ったのもあるし、やっぱり、外をもっと見てみたくて。でも、ミサナトの街に着いたら着いたで、こんな事になっちゃって。やっぱり外の人なんて、翼族以外の
人なんて、怖くて近寄れないって。そう思ってたんだ」
それは、無理はないだろうな。突然捕まえられて、閉じ込められて、食事も与えられず、殴られて、最後には売られる。そんな目に遭ったら、そりゃ嫌になる。寧ろ、今俺と自然と口を利いていられるのが不思議な
くらいだろう。ヒュリカを監禁していた奴らの中に、狼族も居たし。そいつに俺は刺された訳だけど。
「でもね。ゼオロが、来てくれたんだ」
自分の事を語る内に、どんどん暗くなっていたヒュリカの表情が、不意に、明るくなる。
「初めて見た時、本当にびっくりした。だって、ゼオロって狼族なんでしょ。狼族は、凄く排他的だって聞いたし。……あ、ごめん」
「いいよ。実際、そういう風に言われるし」
適当に話を合わせる。
「それなのに、僕をたった一人で助けてくれて……凄く危険なのに。それに、とっても綺麗な毛色だし。捕まったら、僕と同じ目に遭うかも知れないのに。僕の事を、気遣って、元気づけてくれて。もう駄目だと思ってたのに、
気づいたら、今ここに居るんだね、僕。全部、ゼオロのおかげだよ」
照れ臭くなって、俺はそっぽを向く。こんな風に、全身で感謝と親しみを示されると、とってもむず痒くて。どう反応したらいいのか、わからない。
「ゼオロが居たから、僕、ここに残ろうって思ったんだ。そうじゃなかったら……もし、一人で抜け出しても、翼族の谷に帰って、二度と外には出なかったと思う。外にも、優しい人が居てくれた。ゼオロが居てくれた。
だから……僕、友達になりたい。僕も、初めてなんだ。友達が初めてなんじゃなくて、翼族以外の人と、友達になるのが、だけど。ゼオロ。僕と……友達に、なってくれる?」
「……ヒュリカさんが、いいのなら」
「頼んでるのは、僕の方だよ。……それから、ヒュリカで良いよ」
「……ヒュリカ」
おずおずと、俺は右手を差し出す。ヒュリカが俺の手を両手で包んで、白い鷹の額を近づける。
「ゼオロと、ずっとずっと、友達で居られますように」
願いを込める様に、ヒュリカは目を閉じたまま、そう告げた。それは、クロイスの言葉を聞いて、咄嗟に出た言葉なのかも知れなかった。俺とはもう、友達だなんて言えないと言い放った、陽気な豹の言葉。ヒュリカから
聞いただけなのに、それを口にしたクロイスの姿が、不意に、鮮明に脳裏に映し出される。
「僕は、友達だから。だから、ゼオロ……泣かないで……」
ヒュリカの閉じた瞼からも、涙が流れる。
クロイスは今、何をしているのだろうか。
暗闇の中、俺は目を醒ました。体力がかなり低下している事もあって、ヒュリカとそこそこに会話をした後は、俺はまた横になっていた。ヒュリカは俺に気を遣って、長居はせずに、また来るとだけ言って部屋を後にしていた。
遠くから、声が聞こえる。ハンスの声。ハンスと、誰かが話す声。誰か。誰なのか。知っている。知っていて、当然だった。クロイスの声だった。
俺はそっと起き上がって、ベッドから抜け出す。身体が、重い。怪我をしたのは、左肩なのに、全身が気怠い感じがする。長く眠っていたせいか、身体が鈍っている様だった。重い足取りで、廊下に出る。廊下を歩いて、
いつもハンスと食事をしている部屋へと。
「クロイス……?」
部屋に入って、声を出す。話し声が、止んだ。誰かが、逃げる様に走り去る。けど、俺の目はしっかりと、揺れる豹の、細長い尻尾を捕らえていた。その後を追おうと、一気に駆け出す。ハンスに呼び止められたけれど、
俺はそれを無視した。走り出したクロイスを追うのに、立ち止まっていたら見失ってしまう。見失ったら、もう会えない気がして。だから、俺は。
「クロイス!」
家の扉を開けて、名前を呼んだ。クロイスの名前。遠くで、階段を下りる足音が聞こえる。俺も、そこで立ち止まりはしなかった。目の前にある階段を下りる。
「来るな!!」
階段の途中で、クロイスの叫び声が上がる。下りた先を曲がった所に居るのだろう。ここからだと、その姿は見えない。俺から見えない場所で、クロイスは俺を制止させようとする。角から、声が聞こえた。俺の鋭敏な耳は、
それが角の、かなり低い位置から発せられている事を察知する。
クロイスは、座り込んでいる様だった。
「クロイス……」
「元気そうだな、ゼオロ。良かったよ。もう目を醒まさないんじゃないかって、気が気じゃなかった」
「クロイスは、怪我は?」
「大した事ない。もう、治りかけ」
「そっか。良かった」
クロイスはクロイスで、思い切り頭を殴られたんだった。俺みたいに厄介な事になってなくて、ほっとする。そういえば、この世界には魔法があるみたいだけど、魔法でぱぱっと治ったりはしないのだろうかと今更考えて
しまう。俺が今こんな状態になっている事を考えると、それは甘い考えなんだとは思うんだけど。
「魔法だからって、なんでもできる訳じゃない。傷を治す魔法は、誰でも使える訳じゃないし、本人にも負担が掛かるんだ」
こんな時だけど、気になって訊ねてみると、クロイスは馬鹿丁寧に説明をしてくれた。食らったダメージより回復して、それを維持できれば勝利。そんなお手軽RPGはここにはなかった。
魔法の話は程々にして、俺は角から出てきてくれないクロイスの居る場所を、じっと見つめる。来るなと言われたから、これ以上近づけなくて。仕方なく、階段の途中だった事もあって、その場に座り込む。
「ゼオロ」
「何?」
しばらく無言の状態になって。言葉を探していると、クロイスの方から声が掛けられる。俺は耳をぴんと立てて、その声に応えた。
「俺の事、怒ってるか」
「怒ってないけど」
「俺のせいで、そうなったのに?」
「クロイスのせいでも、ないと思うけど。それに、私が勝手にした事だよ」
クロイスがした事で、一点だけ過失があったとしたら、それは暴漢の息の根をきちんと止めなかった事だろう。けれど、少なくとも俺はそれを責める気にはなれない。俺だって、そんな簡単に誰かの命を奪ってしまうのは、
気が引ける。勿論、仕方ない時、というのもあるんだろうけれど。
「私が勝手に庇って、勝手に大怪我した。だから、クロイスが気にする必要はないよ」
ある意味、無責任な言葉を俺は放つ。きっとクロイスは、俺に怪我をさせてしまった事を、後悔している。凄く、気にしてる。そういうクロイスに対して、この言葉は、きっと良くない。けれど、ここは譲れなかった。何より
俺だってまだ、気持ちの整理がついてない。ヒュリカに対しては、なんにも気にしていない様に言ったけれど。左腕に、視線を送る。相変わらずほとんど動かせない。この後、俺はどうなるんだろう。せっかく新しい姿に
なって、全てが始まると思ったのに。そう思った。そう思うから、自業自得だと口にして、自分にも言い聞かせたかった。そうしないと、本当にクロイスのせいにしてしまいそうだったから。
「なんでだよ……なんで、そんな風に言うんだよ。そんな風に、言えるんだよ」
「事実だよ。クロイスなら、庇わなくてもこんな風には」
「お前のせいだって、言ってくれよ!! ……頼むよ……そう、言ってくれよ……どうして、皆俺が助かって良かったって言うんだよ……」
「皆?」
「……家の奴ら」
クロイスの、身内か。そりゃ、そうだろう。俺に関する情報はなるたけ伏せているだろうから、氏素性の知れぬ奴が、クロイスを庇って怪我をした。話としては、それだけだ。
スケアルガの人にって、大切なクロイスが怪我をしなくて良かった。どんな成り行きで事が起こっても、そういう流れになるのは、当たり前の話だ。
「俺が助かってれば、それでいいのかよ。ゼオロが怪我したのに。俺のせいで、怪我したのに……誰も、俺を責めてくれない。不幸な事故だった。仕方ない。そんなのばっかりだ。俺が悪いって……俺のせいだって、
誰か言ってくれよ。なんなんだよ。なんでこんな、辛いんだよ」
「誰もクロイスを責めないのは、クロイスが充分に自分で自分を責めているのが、わかるからじゃないの?」
「ああ、畜生……なんでお前はお前で、そう言うんだよ。ゼオロ。お前が一番、俺に怒っていいのに」
掛ける言葉が見つからなくて、俺はまた沈黙する。角の向こうからは、クロイスの息遣いが聞こえた。取り乱して、きっと泣いていて。いつもの様子は、どこにもないんだろうな。
「こんなんじゃ、お前にどんな顔すればいいのか、俺、わかんねぇよ……友達だなんて、言えない……友達で、いたいのに……」
「私は、クロイスの事友達だと思ってるよ」
「……ほんっとお前って、むかつくわ……。こんなに悩んでる俺が、馬鹿みてぇじゃん」
「……仕方ないな」
思っていたより、クロイスは俺の怪我を気にしていて。このままでは会話は平行線を辿るだけだった。その内に、離れる。それが、いつも通りだった。でも、今はそうなってはほしくないとも俺は思っていて。何より、
クロイスを元気づけたかった。こんなにくよくよするのは、クロイスには似合わないと思うから。
「……全部、クロイスが悪いよ。詰が甘いから、あの狼族の人だって襲ってきたし。隙を見せたから、思わず庇っちゃったし。この左腕だって、きちんと治るかもわからないし。あとクロイスが炎使ってたせいで、刺さるだけ
じゃなくて、凄く熱くて、火傷したし」
「そんな、辛いのか……」
「辛いし、怖いよ。片腕が使えなくなったらって、今から、怖くて仕方ない。ハンスさんがいつまで私の面倒を見てくれるのかも、わからないし。どんな形でも自立する事が目標だったのに、それもできなくなるかも
知れない。痛みだって、まだ引いてない。嫌な事ばっかりだ」
「そう、だよな。辛いよな……。いきなり腕が動かなくなったら、怖いよな……痛むよな……」
「……でも」
そこで、俺は勢い良く立ち上がって、階段を駆け下りる。腕が痛んだ。だるい身体も、悲鳴を上げる。隠れていたクロイスは、はっとした様だった。でも、もう遅い。逃げようとした豹の腕を掴んで、ありったけの力を籠めて
振り向かせる。体勢を崩したクロイスが、俺の方へと転がり込んできて。体格がまるで違うから、俺はそのまま倒れ込んだ。何が起きたのか、クロイスは咄嗟に理解できなかったのだろう。俺の上に乗ったまま、茫然と
俺を見つめている。涙を流した、豹の目があった。暗がりに、一対の金色が爛々と光っていて、涙が流れる度、夜空の星の様に瞬いていた。やっと正面から見る事ができたクロイスの顔は、酷く情けなく、怯えていた。
「でも……クロイスが友達じゃなくなるのが、もっと辛いよ」
「あ……」
金の瞳から、涙がまた流れる。俯いた豹の顔を滑って、俺の首や胸に、いくつも雫が落ちてくる。
「泣いてたのか……ゼオロ……」
今日は、泣いてばかりだなと思った。ヒュリカと居ても、泣いていて、今もやっぱり、泣いていて。クロイスは逃げる事も忘れて、泣いている俺をじっと見つめていた。
「友達じゃなくなる様な事を、クロイスが言うからだよ。全部クロイスが悪い。……悪いと思っているのなら、腕が動く様に私は特訓するから、手伝ってよ」
「そんな事で、俺のした事、許してくれるのか」
「最初から、許すとかどうとか、そんな事考えてないんだけど。ああ、でも、友達じゃなくなろうとするのは、許せないよ。クロイスから、友達になろうって、言った癖に。クロイスにとっての友達って、そんなに軽い物なの?」
「違う……。でも、申し訳なくて。どうしたらいいのか、わからなくて」
「いつも通りで、一緒に居て。それで、いいよ。……それでも、友達じゃないって言うんなら……。私から、改めて言うよ。友達に、なってください」
口を閉じたままのクロイスが、瞼も硬く閉じる。相変わらず止まっていない涙が、俺の首回りの被毛をしっとりと濡らしている。なんとなく、リヨクの事を思い出した。俺が泣いて、リヨクが慰めて。リヨクの被毛が、しとどに
なって。今は、逆だ。俺も泣いているけれど。クロイスが、こんなに泣き虫だとは思わなかった。二人とも、泣き虫だったんだな。
クロイスが、何度も頷く。腕を伸ばして、クロイスの頭を抱き締める。体格の割に、豹の頭は小さくて。俺の腕でも問題ない。生憎、片腕でしかそうする事ができないけれど。
クロイスが泣き止むまで、俺はそうしていた。
友達が、できた。今日一日で、二人も。
俺の上に乗ったまま、クロイスは何度も何度も俺の首元に顔を押し付ける。頬のふわっとした部分が、くすぐったい。傍から見れば、喉に食いつかれている様にも見えるのかもしれないなと、くすぐったいのを逃がそうとして
ぼんやりと考える。その内、ごろごろと音がしてくる。ああ、猫だ。これ、猫だ。
最後に強く擦り付けてから、名残惜しそうにクロイスが顔を上げる。もう、俺を避けようとはしていなかった。まっすぐに俺の目を見つめている。大きな二つの星の様にも見える瞳は、夜空と並んでいて、とても綺麗だと思った。
「……悪かった、ゼオロ」
「元気になった?」
「う、うん……。それに、友達だ」
「よかった」
ゆっくりと俺が起き上がると、慌ててクロイスが距離を取る。
「肩、大丈夫だったか?」
「ちょっとだけ、痛かった。でも、自分でやった事だから」
夢中だったから、すぐに忘れてしまったけれど。体勢を崩して倒れた時は、流石に強い痛みを感じた。当面は、この傷の治療に専念するしかないだろう。
「ハンスの所まで、送るよ」
「いいよ。階段上がるだけじゃない。それに、そんな顔ハンスさんに見られたくないでしょ」
「それは、そうだけど……」
お互いに立ち上がって、向かい合う。クロイスはもう、いつも通りの様だった。さっきまでの、不安定な様子は欠片も無くて。今はただ、俺の事を一心に案じてくれている。
「なら、俺はもう帰るよ。ゼオロがきちんと起き上がれる様になって良かった。それだけが、どうしても気になって」
「まだ、しばらくは横になっていると思うけれど。良かったら、また来てね」
「うん。明日も、きっと来る。その次も。その次も。だから……早く、傷が治るといいな。俺、まだゼオロと行きたい所が、沢山あるから」
「そうだね。まだ、一回しか、一緒に街には行ってなかったね」
それも、用事があったそのついでだ。どんな楽しみがあるのか、俺はいまだに知らずに居て。クロイスは誘いたがっている素振りを見せたけれど、俺の傷を考えて難しい顔をしていた。
「また、明日」
俺がそう言って手を振ると。クロイスも手を振って歩き出した。
「……ゼオロ」
「何?」
「……なんでもない。呼んでみただけ」
途中で一度振り返って、そんなやり取りをすると、そのままクロイスは走り出して闇に消えた。俺はそれを見送って、ハンスの家へ戻ろうと階段を上る。
「お疲れさま。おにーさん」
不意に掛けられた声に、身体を跳ね上げる。誰だ、というか、どこから。
顔を上げた。蜂の巣の様に連なるこの地域に設えられた階段は、段々になっている事もあって壁は高くなっている。その上に座っていた相手が、俺が通るのを見計らって声を掛けてきたのだった。俺を見下ろす、金色の
瞳。それはさっきまでそこに居たクロイスの物に似ていたけれど、それでも違っていると思った。クロイスのそれは、悪戯っぽいけれど、無邪気で。それから、たった今までの会話もあって、俺の事をまっすぐに見ようとしている
瞳だった。けれど、今俺を見下ろしているそれは、違っている。悪戯っぽいところは同じで。だけど、もっと禍々しい物が潜んでいる様な気がしてしまう。背中が、ひやりとした。何族なのだろうと、夜空に浮かぶシルエットを
もっとよく見る。ローブの様な大きな布を被った怪しい人物だった。深く被ったローブのせいで、顔は見えなくて。それでも、その金の瞳だけが、まるで俺を品定めするかの様に闇に二つ浮いていた。相手の手が伸びて、
フードの部分を跳ね除ける。現れたのは、黒、いや、少し紫寄りの被毛を持つ、猫の顔だった。純粋な猫族。同じ猫族であっても、豹であるクロイスとは違う。猫の男が、そこに座って、さっきから俺を見下ろしていた。
「あなたは……?」
「……ふうん。冷静だね。突然声を掛けてあげたのに」
そう言って、ふわりと猫男がそこから飛び降りて、重力に逆らう様なかなり緩慢な動作で俺の近くへと舞い降りる。俺は一歩、後退った。
「逃げないで。傷に、響くよ?」
「……いつから、見ていたのですか」
「ご生憎様。別に、見ていないよ。君の動きで、わかるだけ。だから、安心してね」
安心できないよ。そう言いたかったけれど、俺は息を呑むだけに留めて、猫男を見つめる。背は俺よりも少し低いくらい。だから、かなり低い。如何にもファンタジーな魔法使いしてますっていう、だぼだぼの、焦げ茶の
ローブに身を包んでいる。お世辞にもローブは綺麗とは言い難く、木屑か何かが表面に付着しているのが見て取れた。
「あなたは、誰なんですか」
「そんな事、どうでもいいじゃない。そんな事より、もっと、君の顔を見せてよ」
俺の言葉などまったくどうでもいいと思っているのか、猫男が近づいてくる。どうしよう。逃げようか。でも、この身形。怪しい魔法使いだったら、どうしよう。ハンスに迷惑が掛かってしまうかも知れない。
「優しいね、お兄さんは。本当に優しい。誰も、巻き込みたくないんだね。だから、お兄さんのために誰かが無茶をして、傷ついてしまうのに」
「誰の事を、言っているんですか」
「たった今、ここを去っていった豹のお兄さんなんか、そうじゃない」
「やっぱり、見てたんじゃないですか」
「見てないよ。見ていない。聞いてただけでさ」
そう言うと、けらけらと猫男が笑う。あどけない表情は、俺よりも幼く見えて。でも、とても本当の子供だとは思えなかった。なんなんだろう、この猫は。
「ああ、でも。あいつは駄目だよ。スケアルガの者だから。スケアルガの役割なんて、休戦中の今は、無いんだから。あんな奴は、放っておくに限るよ。お兄さん。あんなのより、お兄さんの方が、大切なんだから。もっと、
自分の事、大事にしないとね?」
「誰と一緒に居るのか。その相手と、何をするのか。それを決めるのは、私の意思で充分でしょう。あなたに指図される謂れはありません」
「言うね。うん、やっぱりそのくらいでないと。僕が、あれが、目を付けた存在なんだから、君は」
にぃっと、猫が笑う。口角を吊り上げて、牙が少し見えて。別に、普通の笑い方だ。普通の笑い方なのに、怖気が走る様な、そんな気分になる。
「……あなたは、何を知って、その上で私の前に居るのですか……?」
「何も知らないよ。何も。僕は何も知らない。だから、知りたい。あの時の解を、知りたいだけ。それはいつか、君が歩いてゆく先に、広がる物かも知れないし、そうじゃないのかも知れない。いずれにせよ、それはもっと
先の話。だから、僕も、あれ、も。とても君が気になっている。その上で僕は、君を応援している。あれ、とは違ってね。でも、とても申し訳ない。応援しているけれど、僕は君に、何もできないんだ。そんな事したら、僕は次の
瞬間には、死んでしまうからね。もう僕は、ただ常人より、ちょっと長く生きていられるだけの存在なんだ。ごめんね」
にやっとした笑いが、不意に、とても申し訳なさそうな。年相応の、悲し気な顔へと転じる。そうすると、今度はつい声を掛けたくなってしまいたくなる様な、儚げな少年がそこに居た。
「今の僕が唯一知っているのは、ただ、君が始まりだった、という事だけ。その上で、この先も君の存在が必要なのかどうかも、わからないけれど」
「あなたは、誰なんですか」
「ああ、言っていなかった。すっかり、忘れていた。僕は……アララブって言うの。そう、アララブ。アララブで、いいか。そうそう。アララブだね」
何その名乗り方。絶対本名じゃないだろう。また、突っ込みを入れたくなる。突っ込み入れても、絶対本名言ってくれなさそうだなと思って、諦めるけれど。
アララブは俺の心の動きもある程度は読めるのか、また楽しそうに笑うだけだった。
「それじゃ、お兄さん。生きていたら、またどこかで」
「もう行ってしまうんですか」
「寂しい?」
「寂しいというか……。なんにもわからないまま、現れて、行ってしまうんだなって」
「そうだね。ちょっと申し訳ないけれど。さっきも言った通り、僕から君には、何もできないから」
「そうなんですか。……では、一つだけ。私は、ゼオロです」
「知ってるよ」
「そう思いますけれど、アララブさんは、名乗ってくれたので」
「これは、どうもご丁寧に」
わざとらしくアララブは丁重におじぎをしてくる。それから、壁から下りてきた時と同じ様に、ふわりと跳んで、また元の位置へと戻る。
「ちょっと、話がしたかったから、声を掛けてみたけれど。良かったな。お話できて」
「そうですか」
「そう。じゃあ、また。死なないでね、ゼオロ」
軽く手を振る。フードを下げる。それが、猫のお別れだった。次の瞬間に、その身体は一度歪んだかと思うと、跡形も無くその場から消え去ってしまう。
「魔法……?」
あんな魔法が、あるのだろうか。ゲームや小説の中なら、まあよくあるあれだけど。でも、今俺が自分の身体で立っているこの世界にも、当たり前に存在しているのか、それはわからない。
それより何より、今のアララブという猫の少年が、なんのために俺に声を掛けてきたのかが謎だったけれど。交わした会話を反芻すれば、見えてくる物もある。アララブは別に、俺から何かを聞きたい訳でも、俺に何かを
伝えたい訳でもなかった。ただ、俺の存在を確かめたかった。或いは、単に人が居たから声を掛けてみたかった。そんなところだろうか。俺の名前を知っているところから、前者ではあるのだろうけれど。
一目見ただけだけれど、アララブがかなりの魔法の使い手である、という事だけはわかった。あんな風に一瞬で出たり消えたり、重力に逆らう様にふわふわしているのは、明らかに常人にできる事ではないだろう。
なんのために、俺に声を。その謎を引きずりながら、それでも俺は歩を進めて家へと戻った。いい加減に戻らないと、ハンスに怒られる。
ハンスは俺を迎えると、少し気がかりそうな顔をする。クロイスの事を、心配しているのだろう。大丈夫でした。そういうと、その表情が少しだけ和らぐ。
「それでも、あなたの傷はまだまだ完治には程遠い。あまり、無理はしないでくださいね」
「はい。すみませんでした」
軽食を取ると、俺はまた横になる。頭の中では、クロイスと友達であり続ける事ができた喜びと、アララブという謎の魔法使いの存在が交差していて、複雑な状態になっていて、それでもやっぱり一番気になるのは、
左肩の痛みであって。結局三つの考えを行き来している内に、俺はぐっすりと、深く眠ってしまった。
朝。いつも通りの朝。もう、数えない。だって五日も寝込んでたそうだし。
いつも通りに身体を起こそうとして、左肩の痛みに呻く。ああ、やってしまった。つい動かせる物だと思って無駄に力を入れてしまった。慣れないとな。この腕は、動かない事に。そして早く傷を治して、動かせる様にしなければ。
「おはようございます、ゼオロさん」
「おはようございます」
「早速ですが、クロイスが外で待っていますよ」
朝食を用意しているハンスの下へ向かうと、そんな事を言われる。クロイス。もう、来ているのか。というか、なんで家に上がってこないのだろう。いつも傍若無人に上がっては、ハンスを困らせているのに。間違っても
玄関で律儀に待っている様な人物ではないのに。
「ちなみに私のオススメは、外に出ないでこのまま一日放置する事ですね」
「え?」
にこにこしながら、ハンスがそう言う。どういう意味だろうか。それでも、俺はクロイスが気になって外へと向かう。大体、やっと友達のままでいられる様になったんだ。外に出る手間を惜しんで、また離れたりしたくなかった。
外へ続く扉を開ける。途端に飛び込む、快い風。これは、慣れていた。続いて鼻に届く匂いが、いつもと違っている。それから、目の前の光景も。
馥郁たる花の香り。俺の視界に飛び込んでくる、赤い薔薇の花束。俺の世界にある物と、もしかしたらほんの少しは違っているのかも知れない、薔薇。生憎俺は、花の造詣が深い訳ではないから、まったくわからない
けれど。花か。お見舞いに持っていくくらいしか馴染みがないな。ああ、そうだ。クロイスはお見舞いに来たんだから、これが今俺の前に差し出されているのか。
「ゼオロ」
薔薇の花束が、少し引かれて。代わりにその向こうから、クロイスの顔が出てくる。おや、と俺は思う。今日は、服が地味な物ではない。いや、言い直そう。派手な物になっている。赤い薔薇に合わせる様に、黒いコート、
その下には赤いシャツがある。高級感のあるその色合いに、クロイスの黄色い豹柄は、中々様になっていた。より爆発しそうな気配を滲ませている。危険だ。
「おはよう。クロイス。どうしたの? そんなに派手な恰好して。ここに来る時は、地味にしないとって言ってたのに」
「服、燃えたから」
「あれ、昨日は別に地味なの着てた様な……」
暗がりでよく見えなかったけれど、確か、そうだった。大体一着燃えたくらいで、この如何なる時でもお洒落にしたい伊達豹男の服のコレクションが無くなるとは、到底思えない。俺なら品切れだったけど。
「そんな事、今はどうでもいいんだ。俺の話、聞いてほしい」
素早い動作で、クロイスがその場に跪く。ずいと俺に近寄り、そしてまた薔薇の花束をそっと差し出してくる。
「俺……クロイス・スケアルガは。ゼオロ。あなたの事が、好きになりました。どうか俺と、結婚を前提に、付き合ってください」
まっすぐに、豹の顔が俺を見つめてくる。金色の瞳は、昨夜見た怪しげな魔法使いとは、やっぱりまったく違う。純粋な、澄んだ瞳。
薔薇の向こうから見つめてくる豹の顔を、俺はじっと見つめた。
「えっ、やだ……」
風が吹いて、薔薇の花びらが舞う。