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7.明日に向かう翼

「他種族は、いつもそうだ。僕達を見て、人ではない様に見て、人ではない様に扱う」
「信じていいの? って、訊いてみたい。でも、言葉にしたら、もっと相手の気持ちがわからなくなりそう」
「……信じて、いいの?」

 前日にクロイスと下りたばかりの階段を、息を切らして駆け下りる。早朝だからか、すれ違う人も居ない。辺り構わずに足を踏み出して、足を前へ、前へ。数段飛ばしに階段を下りる。こんな無茶な下り方をしても、不思議と
ずっこけたりはしない。やっぱりこの身体のおかげなんだろうか。二足で立っても、野生の勘は強く残っていて。更に細かい微調整のために、尻尾も自然と振られている。邪魔だ邪魔だと思ったりもしたけれど、尻尾は必要な
様だ。これでいきなり尻尾を失ったら、慣れるのに今度は苦労しそうだな。
 時折立ち止まって、顔を、というより鼻を上げて、臭いを確認する。下。やっぱり、下だった。一人では行ってはいけないと言われた、下町の方へと臭いは続いている。カルファの実の臭い、その臭いを纏った、ヒュリカの匂い。
 下町が、見えてくる。富裕層の白い世界が、そこで途切れている。その先は、灰色の世界。昨日クロイスと歩いたばかりなのに、それが何か、おぞましい世界への入口の様で、口を開けて俺を待っているかの様にも今は
見える。銀に輝く俺から、艶も何もかも奪い取ったら、あんな色になる。まるで、俺がそこに入って、その仲間になるのを望んでいるかの様だ。唾を呑み込む。
 怖い。
 あの先に行くのが、怖い。戻ってこられても、何かを失ってしまいそうな。そんな不安が、さっきからどうにも俺の胸を過ぎっていて。切実に帰りたいなと思ってしまう。
 だったら、帰ればいいのに。
 胸の中で、俺が呟く。何もかも忘れて、さっさと家に戻れば良い。誰も俺を責められはしない。文字通り尻尾を巻いて逃げたって、何もできない俺が飛び出して、ミイラ取りがミイラになる方が余程大問題だ。そこまで
わかっているのに、どうしても俺は踵を返す気にはなれなかった。ここまで来ると、もう、正常な判断なんかできなくなってきている。正しい決断かどうかよりも、今ここで逃げて、その結果ヒュリカが見つからなかったら、
一生その事を後悔してしまいそうだった。やらかした失敗を、何年も経ったのに不意に思い出して、その度に落ち込むのなんて、俺にとっては得意中の大得意の特技だもの。連鎖的に失敗を思い出して、死にたくなるの
なんて年中やっていたし。その中に、今振り返って逃げようとしている事まで、加えたくはないと思ってしまう。だって、ここでの俺は、始まったばかりだから。一度まっさらになって、新しく狼族になって。俺の心はやっぱり
弱くて、どうしようもないままだけど、でも俺の身体は、もう別物になって、新しいスタートを切ったばかりなのだから。
 だから、振り返って悔いが残る様な事はしたくないと思ってしまうのだった。
 一歩、踏み出す。この世界で生きるのだと決めた時の様に、灰色の世界に足を踏み入れる。雑多な人込み。途端に突き刺さる視線。目立たない服を着ていても、目立つ被毛は人目を引いて。それでも、それらには
構わずに鼻を鳴らした。ここでは、臭わない。当たり前だ、人の往来が激しすぎる。階段を下りながら、どの辺りから臭いが届いていたのかと当たりを付けていた方向。右へ向かう。昨日クロイスと向かった方向とは、
逆。だから多分、南の方だろう。それ程綺麗とは言えない、石畳の上を歩いた。通りを行く人々は、俺を見ている人も居れば、そうではない人も居る。銀狼がどの程度目立つのか、改めてそれを観察して確認する。昨日、
クロイスと歩いた時は、その腕に引かれて付いてゆく事にばかり気を取られていたけれど、今はそうじゃない。歩みを止めれば、嫌でも視線には気づく。強く気にする程ではない、というのが最終的な判断だった。銀の被毛が、
やっぱり目立つから、見つめられてしまうのはもう諦めるしかない。染毛、それを全身だなんて、現実的ではないし。そういえば、魔法でそういう事はできるのだろうか。そんな事を考えて歩く内に、狭い路地を見つける。
覗き込んで、嗅ぐ。首を振って、歩き出して、また見つけた路地で同じ事をする。その繰り返しだった。ヒュリカが何者かにかどわかされたというのなら、やっぱり怪しいのは、こういう所だろう。クロイスは下町を危険だと
言ったけれど、だからといって、無法地帯という程ではない。俺や、今捜しているヒュリカにとっては確かに危険だけれど、昨日見た風景の様に、そこに当たり前に住んでいる人々は居るのだ。だから、やっぱり何かを
するのなら、人目に付かない場所しかないだろう。
 中々目的の臭いが見つからなくて、手元にある一枚の羽根を俺は見下ろす。純白の羽根だった。それでも、その純白には橙色の液体が付着している。そこから、強烈な臭いがするのだった。それが意味するのは、
明らかな、助けを求める声だった。魔除けのために、身に軽く吹き付けていたから臭っていたのとは、訳が違う。自らの羽根に、強烈な臭いをつけて。この羽根の持ち主であるヒュリカは、望みを託して羽根を放った可能性が
高かった。それが誰かに届くのかもわからず、届いたとしても、意味すら理解されないと絶望しながら。それに気づいてから、俺は一層、戻ろうという気を失ってしまった。下手をすれば、この羽根の持ち主と並べて、どこぞへ
出荷されかねないというのに。クロイスが聞いたら、心底馬鹿にしてきそうだと思った。俺がヒュリカの二の舞になるのなんて、クロイスは当然わかっていて、俺をさっさと家に帰したというのに。
 ごめんね、クロイス。
 何度目かの、路地。自然と前に出していた足を、止める。臭いが、する。ここだ。止めていた足をすぐに動かしながら、路地の様子を盗み見つつ、通り過ぎる。何も、居なかった。少し先までとぼとぼと歩きながら、思案
する。どうする。今の路地の先に、多分ヒュリカは居る。でも、ヒュリカが居るという事は、ヒュリカをかどわかしたか何かした相手も、多分居るはずだ。正面から突っ込むのが利口とは、とても思えない。しかも今の俺はとても
目立つ。頼りなげな少年の風貌に、怪人豹男お墨付きの美しい被毛。人攫いにとっては格好の餌にしか見えないだろう。仕方なく、そのまま歩く。歩いて、次の、更に次の路地をまた盗み見て、人が居ないのを確認してから
素早くそこに滑り込む。下町を照らしていた陽の光も、ここにはあまり届かない。途端に薄暗くなる視界が、俺の心臓を忙しくした。足元が、柔らかくなる。石畳が無くなって、土の感触へと切り替わる。耳をぴんと伸ばして、
鼻を鳴らして、警戒する。妙な音はしない。少なくとも、すぐ近くに妙な物は居ない。そうと見て、また歩き出す。やがて、また開けた場所に出る。路地裏に出た俺は、そっと辺りを見渡した。こちらにも、多少は人が歩いていて、
しかし人相はがらりと変わっていた。
「何をしている」
 突然声を掛けられて、俺は心臓が飛び出しそうになった。振り返ると、厳つい面相の虎が突っ立っている。俺が驚いて立ち竦んでいると、頭をぼりぼりと掻いた虎が、俺が驚いている事に気づいて、半歩下がる。
「……ここは、あまり治安が良くない。お前みたいな奴は、来ない方が良い」
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。ちょっと、捜し物をしていて」
「捜し物?」
 束の間、なんと答えるべきか悩む。目の前の虎は、俺の言葉を聞いても別に表情を変えたりはしない。ヒュリカの事を伝えて良いのかが、わからない。厳つい面相に、ごつい身体付き。身長も2メートルはありそうな感じで、
なんかもう腕を掴まれた瞬間に負けが確定してしまいそうな感じだ。怖い。顔が虎なのもあって、余計に怖い。
「お前が何を捜しているのかは、関係がない。路地裏には来るな。さっさと帰れ」
「ありがとうございます」
 丁寧に頭を下げて、その場を後にする。心配そうな顔をしてくれたので、多分あの人は大丈夫、だろうか。それよりも問題なのは、やっぱり俺の身体だった。もっと、身を隠す物を持ってきた方が良かったな。やっぱり、
目立つみたいだ。一層、足元の土でも擦り付けて、もう少し汚れてしまおうかと悩むけど、あまり陽が当たらないせいか、黴臭いこの場所の土で汚れるのは、流石に気が引ける。諦めて、ヒュリカの匂いのする場所へと
今度こそ向かう。少し歩くと、あの路地の入口で感じた様に、またあの臭いが漂ってくる。近い。ざっと辺りを見渡そうとして、それよりも先に俺の鋭敏な鼻は、それがどこにあるのかを突き止めてしまう。高性能過ぎて
ちょっと驚く。左手の、並んだボロ小屋の中の一つ。そこから、はっきりと臭いがする。今は路地裏に人影も無い。こっそりと、慎重に様子を窺った。人気は、やっぱり感じられない。少なくとも、活発的に動いている物は
無い様だ。日陰から、しばらくそこを見守る。やっぱり、何も起きない。こっそり近づいて、中を覗いて、目を見開く。人が居た。ボロ過ぎて扉も無いから、中に居る相手が丸見えで。そこに居るのは、机に突っ伏して眠る
大男だった。足元や机に、酒瓶が転がっている。でかい図体とは対照的に、見える尻尾はとても短い。多分、熊。耳を傾けて、建物の周辺に張り巡らせていた意識を、その男の居る一点へと集中する。寝息と鼾。聞こえる
のは、それだけだ。鼾が煩いせいで、俺からの死角、男の傍に他に誰かが居るのかがわからない。しゃがんで、適当に小石を拾って、放る。小屋の入口の壁にそれはパチンと弾ける様に当たる。男が起きる可能性も
あったけれど、それより他に誰かが居る方が困る。小石がぶつかってから、三十秒。誰も、反応をしない。熊の男も、寝たまんまだ。泥酔しているみたいだから、仕方ないけれど。行くなら、今だろうか。ああ、でも。今戻るのが、
多分一番賢い。ヒュリカが居ると思われる場所がすぐそこにあって、俺は相手から捕捉されておらず、また相手も自分達が捕捉されている事に気づいていない。満点じゃないか。今急いで戻って、クロイスに助けを求めて、
人手を連れてくれば。ハンスとクロイスに小言を言われるだろうけれど、俺の身も無事なままなのだし。
 また、少し迷う。こんな所まで一人でやってきてしまったけれど、やっぱり、怖かった。足が、ちょっと震えてる。あの寝ている男のせいだ。あんな巨漢に小突かれたりするのかと考えただけで、怖くて仕方がない。
 今すぐ背を向けて、走れば。そうしようとして、あと一つだけ。ヒュリカが本当にそこに居るのか。そこに考えが至って、俺は振り返る事ができずにいた。もし、居なかったとしたら。臭いがするだけで、居なかったら。
 例えば既に他に場所を移しているとか。ありえない話ではない。あの熊の男も、実はまったく無関係の人物なのかも知れない。確かにそれは否定できなくて。確かな証拠があるとしたら、それはやっぱり、ヒュリカの
存在を直接確かめて、本人の口から、自分がヒュリカであると言わせる事だった。
 できるだろうか。俺に。見つかったら、多分もう駄目。大分割に合わない賭けだ。それでも気づけば、歩いていて。ああ、俺って結構。負けず嫌いなんだな、と思った。正常な判断が、自分でもできてないのが、
わかっているのに。
 ボロ小屋に足を踏み入れる。ぎいっと音が鳴って、自分で驚く。熊の大男は、鼾を掻いているだけだ。素早く部屋を見渡す。こじんまりとした一室。他には誰も居ない。奥へ続く廊下だけが、視界の端に映っていて。俺を
誘う様に無人の廊下の先から、カルファの実の臭いが微かに漂っていた。ここで誰かに見つかったら。全速力で逃げようと準備をしていたのに、俺を迎えたのは、尚強いヒュリカの存在を示すその臭いだけで。足を
踏み入れてしまった。その理由を盾に、俺は忍び足を心がけながらも、熊男を起こさぬ様に気を付けて廊下を進んだ。ボロ小屋は、それほど大きい規模という訳ではなかった。ハンスの家よりも、狭い。熊男の居る
入口以外は、あとは廊下があって、その先に、部屋が一つだけの様だった。足音に、注意を払う。入った時こそ音を立ててしまったけれど、今の俺は身体が軽い事もあり、ほとんど音を立てずに歩けた。気分は潜入中の
傭兵だ。胸が破裂しそうな程ドキドキとして、さっきから耳に煩い。見つかったら、死ぬ。死ななくても、死んだ様な展開になる。命を脅かされる恐怖を感じる日が来るなんて、思ってもみなかった。平和な国でどれ程
落ち込んで、部屋で泣いても、結局それは、自分が自分を苛んでいるだけであって。他人が直に死を持ってくる今とは、まるで違っていた。怖い。とても、怖い。さっきから歩いている廊下が、酷く長い物に感じた。年代物の
木造のそれは、所々は床が抜けていて、このボロ小屋が見た目通り、まともに管理されていない事を教えてくれる。当たり前だ。人を攫って、どうせ空いていたから適当に使っているだけなんだから。あんまりにもボロ
いせいで、右手の、外側の壁に開いた穴から光が射している。廊下を進む度に、入口から遠くなって、燭台なんて気の利いた物も無い廊下はどんどん暗くなってきたけれど、その穴から射す光が今は俺を助けてくれる。ああ、
まさか異世界に来て、こんな事をするとは思ってなかった。もっとこう、とんでもない素質があって、凄い魔法を覚えたりして、こんなケチな事してる奴なんて一瞬でぶっ飛ばして、凄い奴が現れた、これが言い伝えの、
なんていうのが俺が触れていた異世界いっちゃう系ハイファンタジー小説の流れだったのに。それと全然違う。違いすぎて泣きそうだ。一体どこに苦情を言えばいいのやら。ぶっ飛ばすどころかぶっ飛ばされる状態で、
逃げればいいのに、尻尾の先までぶるぶるさせながら単身で突撃してるなんて。どこでもセーブ機能のあるゲームじゃないとやってられない難易度だ。
 恐怖が強すぎてゲームと小説の世界へ半分逃げている俺の心を他所に、廊下が終わりを告げる。部屋へ続く箇所は、一つだけ。やっぱり、扉なんて物は置いていない。こそっと、覗き込む。視界に入ったのは、薄暗い室内。
 明かりが無い。いや、一つだけあった。明かり取りの窓が。そこから差し込む一筋の光が、部屋が真っ暗になる事をどうにか阻止している。それでも、そもそも外だって路地裏なせいで、あんまり明るさがある訳では
ないから、とても薄暗い。廊下よりも更に暗い部屋に入って、目を慣らそうとする。
「うっ……」
 目が慣れるよりも前に、俺の鼻にとんでもない臭いが飛び込んでくる。なんだ。なんだこれ。気持ち悪い。吐きそう。思わず鼻を押さえて、顔を背ける。物凄い臭いの正体は、今まで辿っていた、それだった。
 カルファの実。まさか、現物はこんなにも強い臭いだったのか。床に目を凝らすと、明らかにそれだと思われる、オレンジ色をした実が落ちていて、そこから果汁が広がっている。鼻が敏感になった俺には、とんでもない
凶器だった。うっかりしていた。ヒュリカの物と思われる羽根には、この液体が付いていたのだ。当然ヒュリカの居る場所ではこういう事になっていると、予想するべきだった。くらくらとしながら、それでも必死に堪えて、目を
暗闇に慣らす。その内に、ようやく視界が見える様になってきた。まず目に入ったのは、鉄格子。咄嗟に鍵が掛けられているのかと思ったけれど、外側から軽く閉じる物の様で、別に鍵を探す必要が無い事に気づくと
安心する。このボロ小屋が、こういった用途に前から使われていた事が、なんとなく察せられる。続いてようやく気付いたのは、床に倒れている人影だった。この暗闇の中でも、その姿ははっきりと見える。白い。白い
鳥だった。多分それが、ヒュリカなんだろう。クロイスはヒュリカは鷹だと言っていたから、あれは白い鷹だろう、恐らくは。
 慣れてきた目で、部屋を再度見渡す。他には、誰も居ない。ヒュリカを助けるのに、絶好の機会だった。ここまで来たんだ、もう、ヒュリカを連れていこう。そう思って俺は、鉄格子を開けて、その中へと入る。
 鉄格子を超えた辺りで、短い悲鳴が起こった。倒れて気を失っていると思っていたヒュリカと思しき少年が身体を起こして、入ってきた俺を凝視する。
「誰……? こ、来ないで!!」
 がたがたとヒュリカが身を震わせる。それに、俺は一度足を止めた。どうしよう。ここでヒュリカが騒ぎ立てたら、俺の努力は水の泡だ。ついでに俺の新しい人生も終了しかねない。俺はそっと人差し指を立てて、
それを口の前に持ってくる。静かにして。これ、この世界でも通じるのだろうか。ただ、当のヒュリカは怯えきっていて、俺の動きを察する余裕が無い様で。それどころか、俺が動いた事で余計に刺激してしまったのか、
ヒュリカは涙を流して、必死に俺から逃げようとする。
「もう、抵抗しないから……。殴らないで、お願い。こっち、来ないで」
 随分、酷い事をされた様だった。震えて涙を流すヒュリカの姿は、あまりにも憐れみを誘う様で、俺の無思慮な行動で怖がらせてしまった事に、今更胸を痛める。それに、近づいて、また新しい臭いと異変に俺は気づいて
しまった。カルファの実と、その下に広がる果汁の他に、別の液体が広がっている。吐いた後だった。そして、カルファの実には齧られた跡がある。察するに、ヒュリカは食事も与えられず、恐らく食用には、少なくともそのまま
食べるには向いていないカルファの実を口に含んで、結局吐き出してしまったのだろう。吐瀉物とカルファの臭いに包まれた部屋は、とんでもない悪臭の饗宴と化していた。辛い。今すぐ回れ右したいくらい、俺の鼻に
恐ろしいダメージがさっきから届いている。もう今日一日はまともに鼻が利かないだろうな。臭いに気を取られて、はっと我に返る。そんな事を考えている場合じゃなかった。
「助けに、来たんだよ」
 鼻が。鼻が。口から出そうになるその言葉を必死に堪えて、それだけを伝える。ヒュリカは、やっぱり怯えたままだった。どれだけ手荒に扱われたのか、服もボロボロだった。そっと近づくと、やっぱり悲鳴を上げて
後退る。どうしよう。このままでは埒が明かない。これ以上長引くと、何が起こるかわからない。かといって、刺激させて叫び声なんて上げられたら、それはそれで試合終了だ。
 ああ、もう。仕方がない。一か八かだ。駄目だったら、俺はもう走って逃げる。クロイスに伝える。それでいい。俺一人でなら、足は速い方みたいだし、なんとかできるだろう。
 俺は勢い良くヒュリカに駆け寄る。当然、ヒュリカは驚いて、声を上げようとする。手を伸ばして、飛びつく。その嘴を押える。押さえて、そのままヒュリカの震える身体ぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね。騒がれると、どうしようもないから。助けに来たよ。だから、静かにして。怖がらないで。殴ったり、しないから」
 諭す様に、ヒュリカの首に顔を埋めて、囁く。聞こえているだろうか。鳥の、耳がどこにあるのかわからない。見た目じゃわからないのが悪い。それでも、ヒュリカがゆっくりと頷くのを感じて、俺は嘴を掴む手を離した。
それでも、ヒュリカは静かなまま。良かった。これで騒がれたら、台無しだ。静かになったところで、改めて今抱き締めているヒュリカの様子を確かめる。服はボロボロ。まともに食事を与えられていないのか、俺の腕には、
俺とそれほど変わらない華奢な身体の感覚が伝わる。可哀想にと思いながら、やっぱり俺も細すぎるんだなと実感する。生きて帰れたら、もっと食べないと。
「君が、ヒュリカさんだよね? 翼族の」
 こくんと、頬を合わせたままのヒュリカが頷いた。
「ミサナトに来て、攫われた?」
 また、頷かれる。
「今、見張りの人は寝てるから。今の内に、逃げよう」
 頷く、かと思った。ヒュリカは、それには首を振らなかった。
「逃げようとしたら、殺すって。もう、駄目だよ。それに、足も何も、力が入らない……」
 それは仕方がない事かも知れなかった。こんな所に閉じ込められて、空腹のまま放置されて。その上殴られては。逃げる気力すら失っていたって、不思議じゃなかった。
「駄目だよ。諦めないで。ここに居たって…………生きてるなんて、言えないよ」
 必死に言葉を探して、俺が言ったのは、それだった。呼吸はしていても、生きているなんて言えない。俺だって、そんな風だった。
 でも、今の俺は。目の前に居るヒュリカを助けたいのだった。
「行こう、ヒュリカさん。学園、行くんでしょ。やりたい事、沢山あるんでしょ」
 弱弱しく、ヒュリカが頷いた。顔を離して、今度は俺が頷く。ヒュリカはまだ泣いていて、勇ましい鷹の雰囲気なんて欠片もそこには無かったけれど、それでも俺に合わせる様に頷いていた。
 立ち上がって、その手を取って、引き上げる。ゆっくりとヒュリカも立ち上がった。
「……歩ける?」
「う、うん」
 一歩俺が動くと、ヒュリカも確かめる様に、足を動かす。震えた足が、痛ましい。走るのは、難しいだろうか。でも、走らないと、きっと逃げられない。何度か足を確かめて、次第にヒュリカの足にも力が戻ってきたのか、
どうにか歩く事ぐらいは問題なく行える様になった。走れるのかは、まだわからない。弱弱しく見えても、ヒュリカもまた、敏捷さという意味では俺とは変わらないはずだ。ただ、過酷な状況で監禁されていたという事実は、
この子供の身体を随分痛めつけてしまった様で。その表情は辛さに歪んでいた。しまったな、何か、食べ物でも持ってくれば良かっただろうか。食べてすぐ身体を動かすのは良くないのかも知れないけれど、数日はここに
閉じ込められていたであろうヒュリカだ。床の惨状も見れば、極度の空腹に悩まされていても不思議じゃない。ただ、その状態でいきなり何か食べさせても、今度は吐いてしまうかも知れないが。お粥の様な物が適切かも
知れないけれど、流石にそんな物を携帯してここまで来る訳がないな。
「外に出たら、食べ物探しに行こう。私のところにも、まだあったから」
 ハンスに心の中で謝りつつ、鉄格子の外へ向かおうとした。その時だった。
「ははぁ。妙な声が聞こえると思ったら。新入りさんかい」
 野太い声に、はっとして顔を上げる。熊の大男。部屋の入口に立ったまま俺とヒュリカを見て、嫌らしく笑っていた。熊って言ったら猛獣とはいえ顔は割と可愛い方のはずなのに、脂肪の詰まった下顎と、にやついた口元の
せいか、生憎動物状態のそれよりも大分可愛くない。大柄な焦げ茶は、俺達にとんでもない威圧感を与えてくるかの様で。怖い。あと酒臭い。カルファと吐瀉物の臭いでもう俺が限界突破状態なのに、更に酒。止めてください
鼻が死んでしまいます。そんな風に鼻について考えている俺の後ろでは、ようやく震えが止まったと思ったヒュリカがまたがくがくと戦慄いていた。当然だ。こんな厳ついのに殴られて、こんな所にぶち込まれたら。無事に
戻る気力なんてどこかに行ってしまうだろう。俺だって、怖い。あのふとましい腕。何あれ。手首の辺りは鍛えても太くならないから、そこはまあいいとして。肘や二の腕の方なんて、俺やヒュリカの腕が四本分くらいありそうな
感じだ。でかい靴の比喩じゃないんだぞと言いたいくらいだ。寧ろ、あんな物で殴り飛ばされて、今気丈に立ち上がろうとしているヒュリカの方が、凄い。
「道を、開けてください。こんな事をして、良いと思っているのですか」
「あん? 随分場違いな餓鬼だな」
 咄嗟に俺の口から出たのは、説得に似た何か。口にしてから、ああ、これは前の世界の常識を持っているのが悪いなと思う。不祥事も起こすかも知れないけれど、それでも優秀な警察が居て、その捜査を手助けする科学と
ノウハウがある世界とは、ここは違うのだ。目の前の男は俺が頭がおかしいんじゃないかと言いたげに、鼻で笑っている。そりゃそうだ。俺はともかく、翼族の谷から来て、身寄りの無さそうなヒュリカを生かすも殺すも自分
次第だと思っているのだから。如何に俺が馬鹿な事を言っているのかと失笑を買っても、仕方がない。
「そんなに怖い顔すんなよ。良く見りゃ、お前も中々のもんだ。銀狼なんて、普通は出回ってこねぇ。狼族の奴らは、囲いたがるもんだからな。そっちの白い鷹も良いが、お前も、高く売れそうだし、美味そうだ」
 えっ、食べるの。思わず俺は仰け反りかけて、熊の笑みから、それはそのまま口に含む方ではないと知ってちょっと安心する。いや、安心できないけれど。でもバリバリ食べられてしまうよりかは、大分ましってもんだ。
どっちがましかというだけで、どっちもお断りだけど。
「さて、大人しくしてくれよ。その前に、お前はちょっと足腰立たなくしてやらねぇと……ぶぉっ!?」
 熊の、可愛くない低い悲鳴が上がる。咄嗟に足元に転がっていた、果汁滴るカルファの実を取り上げて、俺がその顔にぶん投げたのだ。
「ち、畜生! 何しやがったぁ!」
 激怒した熊男が、腕を乱暴に振り回す。鉄格子の扉の所に立っていたから、それは天井までぴったりと設えられていた格子の部分にぶつかる。ぶつかった部分がぐにゃりとひしゃげて、そのまま男が腕を払いきると、
扉から半分、腕を振り下ろした方の格子が纏めて吹き飛んだ。思わず俺とヒュリカが小さい悲鳴を上げる。やばい。これは、やばい。なんだあの腕力は、どうなっているんだ。あんな物で腹パンされたら、そのまま
死んでしまう。プリケツだとか床ペロだとか、そんな段階を易々と飛び越えて、もっと陰惨に俺達の息の根を止めてくれそうだった。
 それでも、俺が恐怖に足を止めていたのは、一瞬だった。ヒュリカの手を取って、走り出す。ヒュリカは転びそうだったけれど、どうにか付いてきた。良かった。走れなかったら、後はもう俺が囮になるしかなかった。ワンパン
される事を考えると、それは絶対にしたくない。足は遅いだろうけど、拳は別に、遅くはないし。運良く熊が壊してくれたのは、部屋の入口がある方の格子だったので、俺達はさっさと部屋から飛び出す。カルファの実は熊男の
鼻にぶつかって、更に飛び散った果汁は目に付いたのか、後ろから訳の分からない怒声と暴れる音が聞こえたけれど、熊男が即座に部屋から出てくる事はなかった。今の内だ。
「なんだぁ!? 今の音! っておい、逃げてんじゃん!」
 ボロ小屋から飛び出すと、遠くから狼族の男が走ってくる。同族だ。束の間、見逃してもらえないかと期待してみるけれど。そもそも俺は見逃しても、ヒュリカは駄目だろう。拾っていたカルファの実を、またぶん投げる。狙い
過たず、また鼻に直撃。男が足を止めて、その場で悶絶する。尻尾の先まで毛が逆立って、ぶるぶる震えた後に、のたうち回る。ごめんなさい。臭いよね。うん、よくわかる。
 その場から、駆け出す。ボロ小屋の騒動を聞きつけたのか、まだ男達の仲間と思われる奴らが何人も出てきた。二人、後ろに来ている。少なくとも四人は居た事になるのか。ヒュリカ一人に、大層な数だった。翼族に
身代金でも要求するつもりだったのだろうか。四人で犯行に及んで、割に合うのかなと暢気に考えながら、走る。
「ま、待って……ごめん、なさい。足が」
 後ろから、ヒュリカの苦悶の声が聞こえる。俺は即座に止まらず、細道へ。進みながら、積み上げ合ったゴミの山を、ヒュリカが通るのを確認してから蹴り上げて倒す。近くに居た浮浪者っぽい人が俺達を迷惑そうに
見ていたけれど、軽く頭を下げてそのまま通る。少し歩いてから、ようやく足を止める。ヒュリカは苦しそうに何度も呼吸を整えて、それから深呼吸をしていた。俺も、それを真似する。
「ああ、空気が美味しい。こんなゴミの散らかった路地の空気が美味しいなんて、変なの」
 俺が暢気にそう言うと、ヒュリカは笑い出してしまう。さっきまでの怯えていた様子は、どこへ行ったのやら。俺も、にこりと笑ってみた。口を開けて大笑いはせずに、口角を僅かに吊り上げるだけ。寂しい笑い方だと言われる
けれど、俺はこちらの笑い方の方が、性に合っていた。
「大丈夫? ヒュリカさん。もう少し、走る事になりそうだけど」
「うん、大丈夫。どうしてかな、さっきまで、歩くのも無理だと思ってたのに……今は、全然違う」
 その瞳は、さっきまでの何かもに絶望していたそれと違って、爛々と輝いてきた。俺は、ちょっと眩しいなって思ってしまう。俺には無理な事だろう。魔法を見ている時の俺は、割と似た様な状態だと、クロイスは言っていた
けれど。
「さあ、行こう。クロイスが、捜してたよ」
「クロイス……スケアルガの方だよね。そっか。迷惑、掛けちゃったな」
「クロイスの事、知ってるの?」
「会った事はないけれど……。僕、翼族の谷から出てきて。しばらくはクロイスさんのお家でお世話になりなさいって、言われてきたから」
「そうだったんだ」
 ああ、だからクロイスは、ヒュリカを自分で捜していたのか。自分の所でお世話をするはずの人が来なかったら、気になる。本人は心配なんかしてないって言ってたけれど。思わず、俺は笑ってしまう。クロイスも、
素直じゃないな。
 休憩を終えて、また走ろうとする。そろそろゴミ山の向こうからも、男達の怒声が聞こえてくる。いつまでもここに居たら、挟み撃ちになりかねない。
「あ、あの」
 手を取って走り出そうとすると、ヒュリカが俺の顔をじっと見つめて、話しかけてくる。
「名前、聞いても……いい?」
「あ。忘れてた。……ゼオロだよ、ヒュリカさん」
「ゼオロ……。よろしくね。僕は、ヒュリカ。ヒュリカ・ヌバ」
 挨拶も程々に俺達は走り出す。後ろのゴミ山から、更に声。やばい、乗り越えてきた。臭そう。こっち来るな。幸い今は鼻が馬鹿になっているけれど。そういえば、こういう臭い、俺は駄目なんだなと走りながら考える。動物は
臭いの、結構好きだったはずだけど。俺は嗅覚が良くなっただけで、そういうのが香しいと思った訳ではない。機能は動物のそれに、でも感性は前のまま、そんな感じだろうか。ドッグフードを食べても、美味しいとは思えない
かもしれないな。
 走り出して、路地を抜ける。今更だけど、逃げる方向は逆だった。元の下町の方に行きたかったけれど、仲間と思しき奴が居たから、そっちには行けなくて。仕方なく、まずは追手を撒くところからになってしまった。悪手だと、
自分でも思っている。だって、後ろのヒュリカはやっぱり苦しそうに息を吐いていて。そりゃ、そうだろう。体力なんてまったく無い状態で、連れ回されたら。時折がくっとなって、俺の手が引かれる。
 その度に俺は辺りを見渡して、追手がどこに居るのかを考える。幸いあんまり頭が良くないのか、追手の方が叫び声を上げながら捜している様で、やれどこに行った、ぶっ飛ばしてやるだの、さっきから俺の鋭い耳でなくても
聞こえるくらいの声量が、スラムの様なこの場に響いている。その声に、関係の無い奴らも、思わず身構えているくらいだ。
「大丈夫?」
 俺に、もっと力があったら、ヒュリカをおんぶできたのに。今そんな事したら、そのまま倒れてしまいそうだ。ヒュリカは息を整えて、苦しそうに、それでもにこりとする。健気な鷲の仕草に、俺は早く安全な場所へ
いかなければと、焦る。
 その、焦りがいけなかったのだろうか。
「見つけたぞ糞餓鬼ィ!」
 とんでもない怒声と共に現れたのは、俺がさっきカルファの実をぶつけた狼族の男。着ていた服にカルファの果汁がべったりと付いてしまったのか、今は何も身に纏っていなくて、鞘に収まったナイフだけを持っている。
変態だ。気持ちはわかるけど。
 狼族の、それも大人の足だ。まだまだ子供盛りの俺達の足では、当然逃げ切れる訳がない。細い道を走りながら、適当に石でもなんでも、投げられる物を放る。追いかけ回されながら、後ろに居る相手に当てるなんて
芸当は流石にできなくて、投げたそれのほとんどは、相手にも当たらない。それでも時折当たる物があって、どうにか追いつかれずにぎりぎりの所で俺達の逃走劇は繰り広げられてゆく。
 角を曲がって、まっすく進んで。右に。あ、いや駄目だ。左だ。左に行かないと、下町の方に戻れない。ああでも、そっちにはまだ他の仲間が居るかもしれない。どうしよう。かといって迷って足を止めれば、後ろの完全に
野獣と化した狼族に追いつかれてしまう。元々野獣みたいなものだけど。左だ。迷ったけど、左。だって、左以外がどこに出るのか、わからない。行き止まりに出てしまったら、それでおしまいだ。そもそもハンスの住む、
富裕層の集まる土地があるのだ。そちらに進めば、そちらに上がる階段が無かったら、待っているのは当然壁だ。そんな所に行ったら、もう逃げられない。壁を上る程の膂力なんて持ってないし。
 そこまで考えて、ふと振り返る。苦しそうに走っているヒュリカの背にある、翼。さっきから、ヒュリカが足を取られて倒れそうになる度に、無意識にその翼は少し開いて、微かに羽ばたいている。ヒュリカが致命的に転ぶ事を
地味に阻止している、有能な翼だ。
「ヒュリカさん。空、飛べないの」
「え? ごめん、二人一緒にはちょっと……」
「いいよ、ヒュリカさんだけでも」
「ごめん、お腹が減って……。それに、僕、まだ飛ぶのが苦手で」
「そっか。なら、やっぱり、もう少し我慢して」
 甘くはなかった。二人とも空を飛んで、この場から脱する。そのままハンスの家に直帰。俺のそんな甘い願望は、木っ端微塵に砕ける。
「それに、あいつら……飛べない様に、翼を蹴ったから。痛くて」
 念入りだ。まあ、飛んで逃げられたら、こちらも翼が無いと簡単には捕まえられない。その前に、追えないのだから、当然か。
 走って走って。ヒュリカの息を整えて。男達の声に怯えて。そんな事の繰り返し。そういえば、俺、別に疲れてないな。昨日よりも、疲れを感じない。どんどんこの身体が、人間だった俺が、獣の身体に慣れてきたというの
だろうか。足はますます軽やかになって、ヒュリカが足を止める度に、焦らされる。それでも、大分逃げてきた。もう少し、もう少しだ。
「頑張って。もう少し、もう少しだから」
「うん……」
 ヒュリカの瞳からは、再び光が無くなってきていた。もう限界だ。急がないと。
「ゼオロォ!!」
 その時、声が聞こえた。弾かれた様に顔を上げる。細道の連続からは脱出して、半ば開けた長い道。ずっと先に、下町が見える。そっちから、走ってくる豹の青年。クロイスだ。助かった。しかし、そう思ったのも
束の間。誰かが俺達の間に割って入り、一度止まったクロイスを、更に横から飛び出した男が拳でその頭を殴り飛ばしている。
「クロイス!」
 大丈夫なのか。俺は思わず名前を呼んだ。クロイスの足が止まって、俺達も足を止める。割って入った男達が、クロイスを放置して、俺達の方へ。咄嗟に後ろへと振り返る。さっきの狼族が居た。数が、おかしい。
 増えていた。あちこち逃げ回ったのは、失敗だったのかも知れない。ヒュリカだけじゃなくて、俺の姿を見られた。二人合わせれば、乗ってもいい。そんな奴らの気を、引いてしまった様だ。
 後ろの狼族が、走り出した。咄嗟にヒュリカを庇おうとする。
「邪魔だ。寝てろ」
 成人の狼族の足は、恐ろしく早い。勢いを少しも緩める事もなく放たれた蹴りを、俺はまともに食らう。一瞬、身体が中に浮く。腹を蹴られた勢いでそのまま蹴り上げられ、すぐ後ろの壁に激突する。痛い。なんだこれ。ただの
ゴロツキの一撃で、こんなに痛いのか。がたがたと身体が震えて、咽る。口から唾液が零れて、目からは涙がぼろぼろと出てくる。苦しい。呼吸ができない。
「ゼオロ!」
 ヒュリカが駆け寄って、俺を抱き締める。震えながら、俺を守る様に、ヒュリカが辺りを見渡す。
「あー畜生。手間掛けさせやがって。これじゃ、てめぇら売っても割に合わねぇんじゃねーか」
「向こうの豹は?」
「やめとけやめとけ。スケアルガの坊ちゃんだ。手出したら、後が怖い」
「うへ。あれが噂の極潰しかよ」
「わははは。俺達にそんな事言われたら、傷ついちまうだろ。やめとけよ」
 集まって来た悪漢達が、ゲラゲラと笑う。それも、俺には遠く感じられた。目の前で震えているヒュリカだけが、俺の意識を繋ぎ止めているかの様だった。
「おい……ヒュリカ……」
 遠くから、微かな声が聞こえる。ヒュリカの名前を呼んでいるという事は、クロイスだろう。良かった。死んではいない。それに、男達の話を聞くに、クロイスに必要以上に手を出す事は無い様だ。それは、良かったと思う。俺は
自業自得、ヒュリカは、可哀想だけどこいつらの標的。でも、クロイスは違う。大望を抱いて、明るい未来がどこまでも広がっている様な人だ。だから、クロイスにこんな所で死んでほしくはなかった。
「何してやがる!! なんのためにてめぇの翼が付いてんだ、さっさと飛べ!!」
 恐ろしい怒声が上がる。男達が一斉に振り返る。誰かが、短い悲鳴を上げた。なんだろう。熱い。遠くで、何かが熱を上げている。それしか、わからなかった。
「ヒュリカさん……飛べる? 早く、逃げて」
 俺が片手を上げて、ヒュリカの身体を押す。ヒュリカはクロイスの怒声に驚きに呑まれていたけれど、俺に視線を戻すと、首を何度も振った。
「嫌だ。ゼオロを置いていけない」
「いいから。早く」
 一人でだって、飛べるかもわからないヒュリカ。俺を連れてなんて、無理に決まっている。ヒュリカの瞳から、大粒の涙が零れる。俺はそれに、口元だけで笑った。大丈夫だ、ヒュリカなら、きっと飛べる。綺麗な翼が
あるのだから。
 遠くから、破壊音と爆発音と悲鳴が飛び散る。クロイスが大暴れしているのだろう。残念だけど、今の俺はその雄姿を見る余裕も無い。でも、今の内だ。その場に居る男達の全員が、クロイスに呆気に取られている。今しか
ない。今を逃したら、飛ぼうとするヒュリカを押さえつけるのは、当然なのだから。
「早く、ヒュリカ」
「嫌、嫌だよぅ……ゼオロ……」
 ぎゅっと抱きしめてくれる、ヒュリカ。嬉しいけれど。もう、諦めてほしい。俺は駄目かも知れないけれど、自分は助かるのだから。大体、俺もちょっと、逸ってしまったのが悪い。引き返して、クロイスに教える。それで、
良かったのに。そうしなかったから、こんな事態になって。だから、仕方がない。
 早く。
 もう一度言おうとした。でも、それよりも先に、ヒュリカが閉じていた目を開いた。かっと光る双眸。そうすると、鷲の逞しさ、恰好良さが、この子供に突然備わったかの様に見える。
 翼が、広がった。細い身体のヒュリカの身体よりも、横に二倍、三倍。もっとある。こんなに、翼は大きくなかったはずだ。立っているヒュリカの背から、畳んだ翼が少しはみ出す。その程度の、はずだった。でも、今の翼は。
 ヒュリカは俺の身体を抱き留める。抱き留めながら、ぶつぶつと何か囁いている。周りの男達が、ようやく異変に気付いた。ヒュリカが飛ぶつもりなのに気づいて、飛びかかる。
「風」
 ヒュリカが、短く呟いた。俺の頭に、強い風のイメージが引き起こされる。クロイスが炎を使った時と、同じだ。誰かの言葉が、俺の頭に強いイメージとなって現れる。ヒュリカに近づいた男達が、瞬間的に巻き起こった風に、
吹っ飛ばされる。それでも、すぐに風は止んだ。これから飛ぶ必要のあるヒュリカは、そんなに強く魔法は扱えないのだろう。
「ゼオロ、掴まってて。力が出ないかも知れないけれど」
 俺は、悩んだ。これなら、飛べる。ヒュリカ一人なら、きっと飛べる。でも、俺が居たら。
「信じて」
 まっすぐに俺を見つめるヒュリカ。どうして、そんな顔ができるのだろうと、束の間考える。まだ、会ったばかりなのに。俺は返事をする代わりに、おずおずと手を伸ばした。背中は、翼の邪魔になる。首元に手を伸ばして、
恋人にキスでもする様な感じで、抱き付いた。ヒュリカは俺の身体をしっかりと抱きしめて、それから体勢を整えてると、翼をはばたかせた。途端に強い風が巻き起こる。こんな狭い場所で、風も碌に吹いていないのに、
飛べるのか。俺は、心配だった。とても。それに、ヒュリカはもう、ボロボロなのに。
 俺の足が、地面から離れる。浮いた。凄い。痛みも辛さも忘れて、俺は茫然とする。飛んでいる。呆気にとられた。こんな事が、人に。自分と同じ様な、考えて、話して、泣いて、笑う人にできるなんて、思わなかった。俺が息を
呑んでいると、宙に舞ったヒュリカの身体が、がくりと僅かに落ちて、苦し気なヒュリカの声が聞こえる。
「ヒュリカ」
「大丈夫。もう少し、だから」
 羽ばたく度に、ヒュリカは何度も何度も呻いた。口を開けて、呼吸を荒らげて。涙を流している。どれだけ辛いのだろうか。気づくと、俺も泣いていた。必要な高度を得たのか、ヒュリカがはばたく事を止めて、そのまま風に
乗る様に翼を広げたまま移動を始める。俺は咄嗟に、真下を見つめた。そこに広がっていたのは、想像以上の物だった。炎が、舞っている。火柱になったそれは、悪漢達を呑み込んでいた。クロイスの姿も、見当たらない。
あの火柱の中に、居るのだろうか。熱が、ここまで届いた。それでも、俺達を焼く程ではない。ヒュリカは念のためその炎を避けて、そして向こう側へ。男達と俺達の間には、あの火柱があって、だからそこまでで充分
だった。着地に入ると、ほとんど落下している様な勢いで真下へと落ちてゆく。それでも激突の瞬間に、ヒュリカは最後の力を振り絞って、翼を広げて、着地を補助した。俺は狙い澄ました様に足を踏み出し、踏み止まらずに
身体を勢いに任せて、ヒュリカを抱き締めた。既に力を使い果たしたヒュリカは、もう何もできなくて。俺は自分の身体をクッションにして、受け止めた。二人して、大地に投げ出される。
 全身の痛みが、酷い。特に、蹴り上げられたお腹だった。立ち上がりたくない。それでも、立ち上がらざるを得なかった。クロイスがどうしているのか、気になったから。顔を上げて見えた光景は、相変わらずだ。ただ、
火柱は尚強くなって、更に悲鳴が聞こえる。火柱の数が増えたのだろう。また新しく、誰かがそれに呑まれた様だ。毛の焼ける臭いが。続けて、肉の焼ける臭いが漂う。吐きそうになった。懸命にそれを堪える。クロイスの
力は、とんでもない物だった。ハンスの家くらいは燃やせる。その発言には、まったく嘘偽りが無かったのだ。本気で怒ってしまったクロイスの力に、悪漢達が怯えている。何人か、焼き殺されている。あっさりと命を
取ってしまった事に、束の間戦慄を覚える。でも、そうしないといけない事はわかっているから、何かを言う、という気はしなかった。火柱の中から、人影が現れる。一番近い位置にあった火柱が吹き飛び、その中に
潜んでいた主を吐き出す。殴られた時に血が出たのか、クロイスの頭部が少し赤く汚れていた。それも、炎の中に居た事で、乾いてしまった様だ。
 つかつかと歩み寄ってくるクロイス。その瞳が、俺を鋭く睨んでいる。
「クロ、イス」
「ばっっっか野郎!! ふざけんなっ!!!!」
 クロイスが口を限界まで開けて、俺を罵倒する。びりびりと音が広がって、俺の耳が直ちに音を遮断しようと垂れ下がる。
 クロイスはせいせいと何度も息を乱して、まだ俺を睨んでいた。怒ってる。当然だ。勝手に居なくなって、勝手に危なくなって。しかもクロイスは殴られたと来てる。怒らない方が、どうかしてる。
「ごめん、クロイス。嫌な事させて」
 それに、あっさりと人を殺してしまった。殺させてしまった。それが、どの程度この世界において重い事なのだろう。クロイスの身は、大丈夫なのだろうか。逮捕とか、されたりするのだろうか。
「そういう事を言ってるんじゃねぇよっ!!」
 怒鳴り続ける豹男。こんな風に、怒るんだ。本当に怒ったところを見るのが初めてで、俺は萎縮してしまう。でも、今まで出会った人とは、やっぱり違うとも思ってしまう。もっと静かに怒って、もっと陰湿に俺の悪口を言って、
それからそれが陰口へ移って。人を怒らせた時って、いつもそうだった。思い切り怒鳴られる事も勿論あるけれど、本当に怖いのは、その後なんだって。俺は知ってる。
 近づいてくる。殴られる。うんざりだと言われる。どっちだろう。どっちにしても。
 身を屈めたクロイスが、手を伸ばす。俺の肩を引き寄せて、そのままぎゅっとされる。俺はちょっと驚いてから、俺の首に顔を埋めた豹の顔を見ようとする。生憎、もふっとした頬の部分が僅かに見えるだけだ。
「心配かけさせんなよ。なんなんだよ。畜生……。勝手に、一人で行くなよ」
「止められると、思って」
「当たり前だ馬鹿。死んだら、どうするんだよ。全部これからじゃんかよ、ゼオロ。危ない事するなよ」
 しっとりとした感触がする。
「泣いてるの? クロイス」
「怒ってんだよ」
 泣いているのかな。そう思って確認しようとすると、クロイスの手の力が強まる。もっとぎゅっとされて、わからなくなった。
「怒ってるのに……何もしないんだね。殴ったり。もう知らないって、言うのかと思った」
「なんだよそれ。俺が、そんな風に見えるのかよ。本当、むかつくわ。俺って、そんなに薄情で、嫌な奴に見えんの?」
「違うよ。私は、今までそうされてきたのが普通だったから。だから、クロイスは違うんだなって。凄いなって、そう思ってる」
「ああ、もう。なんなんだ、本当。俺、今、怒ってるんだけど。そういう事、言うなよ。俺が駄々捏ねてるみたいじゃん。そうじゃないでしょ、もっと、言う事あるでしょ、俺に」
「……心配、掛けました。クロイス。ごめんなさい。……ありがとう」
「ん。百点あげる。でも。一人で行ったのは減点だからな。不合格だ。許さない」
「手がかりをくれたのが、悪いよ。私は臭いで、追えるもん」
「ああ、もう開き直ってるし。ふてぶてしいな、本当」
 クロイスが、顔を上げた。泣いていた様には見えない、晴れやかな顔。どうやら、もう怒っていない様だ。ちょっと、安心する。俺のために、本当に怒ってくれていたけれど。やっぱり、怒っている豹の顔は怖い。
「……ところでクロイス。なんで、裸なの?」
「え? あ、ああー……」
 自分の身体を見下ろしたクロイスが、溜め息を吐く。上半身が、裸だった。下半身は、かろうじて、というところだろうか。それでもブーツも無くなって、裸足になっている。
「しょうがないっしょ。火って、上手く使うのが難しいんだよ。出すのは簡単だけど、同時に自分を守るのが難しいの。だから、使いたくないんだよ。服、燃えちゃうし。……あ、でも。地味な服が燃えたのは良かったわ。着る服が
無くなったっていえば、派手なので来られるわ。いや、良かった良かった」
 そんな理由で燃やして、いいのだろうか。ちょっと心配する。クロイスがにやりと笑うと、それから俺の隣で倒れたままのヒュリカへと視線を向ける。ヒュリカは、動いていない。
「そいつが、ヒュリカ・ヌバか」
「うん。……ヒュリカ、大丈夫?」
 少し、揺さぶって、声を掛ける。倒れたヒュリカの背にある翼は、今はきちんと畳まれて、大きさも通常の物へと戻っていた。どこにも、ヒュリカと俺、二人分を運んだと思われる翼の面影は無かった。僅かに、声が上がる。
 ヒュリカの顔を見つめると。その瞼がゆっくりと開かれる。
「あれ、僕……」
 さっと立ち上がったヒュリカが、俺とクロイスの顔を交互に見る。
「ヒュリカ・ヌバだな。良かった。捜したよ。俺は、クロイス。クロイス・スケアルガ。ミサナトに来たばかりだってのに、災難に遭ったな」
「あ、ええと……。ヒュリカです。ごめんなさい、ご迷惑をお掛けしまして」
「いや。君のせいじゃないよ。立てるかい。もう、行かないと」
「はい。……ゼオロ」
 ヒュリカの視線が、俺へと戻る。それに応える様に俺が顔を向けると、ヒュリカが抱き付いてくる。
「良かった。二人でも、飛べた。飛ぶ自信なんて無かったから、どうなるかと思った」
「だから、言ったのに。一人で行ってって」
「ああーん?」
 頭上から、恐ろしい声が聞こえる。思わず俺は震えて、顔を上げる。先に立ち上がっていたクロイスが、眉間に皺を寄せて、俺を睨んでいた。
「なんつー事を言ってるのかな、ゼオロちゃんは。ありえねーわ。この子が一人で飛び立とうとしても、しがみつくくらいでいいのに。一人で行け、だ?」
「だ、だって……一人でも飛べるか、わからないって」
「……はあ。まったく、勘弁してくれよゼオロ。心配してるだけで、寿命が無くなっちまうよ、俺」
 やれやれと言いながらも、クロイスの顔は笑っている。良かった、もう、怒っていない。助け起こされて、三人揃って、火柱の方へと視線を向ける。既に火柱はいくつも消えて、残りもそれほど強い状態とは言えなくなって
いた。焼け跡には、呻き声を上げている人が居て。黒くなってて、どうなっているのかはよくわからなかったけれど。
「クロイス……殺しちゃったの?」
「死んだ奴は、居るかもな。自業自得だ。大体、俺も殴られたし、正当防衛っしょ」
 思っていたよりも、ずっと軽くクロイスは言い放つ。やっぱり、そういう命の価値観は、違ってるんだなって思う。
「クロイス、逮捕されたりしない?」
「は? 無いわ。それは、無いわ。悪人に人権とかないし。問答無用でやっちゃっても許されるわ」
 そこまで。ちょっと、驚く。本当に人権が無い。誇張抜きとは。
「ほら、行こう。俺もだけど、お前ら二人の方が心配だわ。ボロボロだし……」
 そうだった。俺は腹を蹴られて、ヒュリカを受け止めて、もうボロボロ。ヒュリカは監禁生活のせいで、そもそも服すらボロボロ。今倒れても不思議じゃないくらい。それでも助かった事がヒュリカに安堵を与えたのか、
生き生きとしている。
 クロイスに促され、その場を後にする。最後の火柱が、消えた。

 獣の咆哮が聞こえた。狂ったそれに、身を震わせる。言葉ではなく、叫び声。無法地帯に木霊したそれに、思わず三人揃って振り返る。
 炎の中から飛び出した、狼族の男。手には。唯一黒くはない、鈍い銀が煌めいた刃があった。どこにそんな体力が残っていたのか、狂気に見開かれ、血走った目でこちらを見ては、口元だけでゲラゲラと笑いながら、驚く程の
速さで走ってくるそれ。ヒュリカが悲鳴を上げる。クロイスは俺達を送り出そうとしていた事で、背を向けていたせいもあって出遅れる。指に炎が集まっているけれど、駄目だ、間に合いそうにない。
 突進した男が、クロイスとぶつかる。
 直前に、俺は大地を蹴っていた。力任せにクロイスの身体を突き飛ばす。突き飛ばして、入れ替わった位置に、刃が飛び込む。それでも、相手の男も標的が変わった事で、僅かに迷いが生まれた様だった。ほんの少しだけ
速度を緩めて。それでも、そんな物は何程の障害でもないのだと言うかの様に、それは俺の身体に吸い込まれる。左肩。腕の付け根に、それが突き立った。また、俺の身体が衝撃で浮く。狼族の男の勢いは止まらずに、
そのまま倒れ込む。大地に叩きつけられて、更に深い所に刃が到達する。肉を切り裂かれる痛みと、肉の焼ける痛みが同時に走って、俺は思わず呻いた。クロイスの炎で熱された刃が、今まで悪漢達が苦しめられていた
熱が、俺の身体を焼く。熱気が身体の中に広がる様で、気持ち悪い。口を開けて、息を吐き出した。
 俺の上に覆い被さっていた男の身体が、退かされる。クロイスが狂った様に、男の身体を蹴り上げて、退かしてくれた。退かした相手に更に何かをした様だけど、首も動かない俺にはそれがわからなかった。
 ヒュリカが、泣いていた。クロイスが、何度も口を開けて、俺を呼んでいる気がする。聞こえない。俺を抱き起してくれたヒュリカの涙が、ぽたぽたと俺の胸に落ちて、服に染みを作っているのがわかるだけだ。
 熱い。身体が、熱い。ナイフが、熱い。肩を見た。刃のほとんど見えないナイフが見える。なんだ、刀の部分が短いんだ。なら、大丈夫だ。抜いてほしい。しかしナイフは抜かれない。そうだね。抜いたら、今度は血が
飛び出すかも知れないよね。
 最後に俺が見たのは、クロイスが何かを取り出して、砕いている姿だった。光が飛び散るところまでは、憶えていて。それでも、その内に俺は眠っていた。熱が、遠くなる。冷たい感じがする。ナイフが、更に熱を持った様な
気がした。俺の身体が、冷たくなっているせいだろう。
 ああ、またか。そう思った。

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