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6.黒の手繰る伝説

 手に持っていた羽根ペンを戻して、一息吐く。認めた文に、不足が無い事を何度も見返してから、私は人差し指を立て、その先に青白い炎を灯す。
 灯した炎を、一度指を折り、掌に食わせる。そのまま置いた紙の少し横へ導くと、掌を広げながらさっと手を紙の上で払った。解放された炎はほんの僅かな間、私の掌の上を舐める様に走り、指と指の間から微かにその姿を
覗かせるが、その内私の意図を察して消え去る。腕を引くと、紙の上の、たった今書いたばかりの文字の列から仄かに煙が上がる。紙を手に取り、軽く息を吹きかけて、インクが渇いた事を確認してから慎重に折り曲げて、
封筒にしまおうとしたところだった。
 つと、部屋の扉がノックされる。顔を上げて、しばし固まったまま扉を見つめる。少し待っても、声は聞こえない。
「誰だ」
 半分は、予想できている。身分が低い者なら、とっくに名乗っているだろう。それでもあえて、そう言葉を投げかける。
「俺だ。リュース」
「ヤシュバ様ですか」
 封筒を机の上に置いて、慌てて扉へ向かう。開ける直前に窓から覗いたが、確かにそこに居るのは、黒鱗のヤシュバだった。そのまま、扉を開ける。
「失礼しました。まさか、ヤシュバ様だとは思わずに、ご無礼を」
「いや。名乗るのが、遅れた。少し考え事をしていてな」
「とにかく、中へどうぞ。こんな所で、立ち話をするのはしのびない」
 部屋へヤシュバを招く。ヤシュバの部屋程の豪奢な造りではないが、それでも私の部屋も、一人二人を持て成すには充分な広さに、調度もあった。本来ならば筆頭魔剣士がヤシュバになり、そして前筆頭魔剣士である
ガーデルが筆頭補佐となるために、私が使う部屋ではないはずなのだが、そのガーデルが出奔した事で、私はこの部屋を使い続けている。
 招いたヤシュバは今は椅子に座り、じっと私を見つめていた。翼が重いからと、着ているのは相変わらず、質素とも言える程の軽装で、上下を朱色で揃え、青のサッシュを巻き、適当に余った部分を脇腹のところで
垂らしていた。少しだらしがないとも言える。もっとも、私もそれほど大きく違った服を着ている訳ではないのだが。
「何か、飲み物でもご用意させましょうか。今、小姓に声を」
「いや、いい。お前の部屋の近くに居た者にも呼び止められたが、何もしなくていいと言っておいた」
「そうですか。では、私に何か用事があるのですね?」
 机を挟んで、反対側に座って見つめ合う。そうして改めて眺めると、やはりこの竜の姿にはなにかなし相手を圧倒する気迫があった。威圧される、というのではなく、その一語を聞き漏らすまいとさせる、威厳の様な物が
漂っているのだった。何度か、唾を呑みこむ。これで中身は、どちらかと言えば平凡で、穏やかな男なのだから、なんとも言えない。
「突然、すまない。邪魔をしてしまっただろうか」
「邪魔されたかといえば、まあ、されましたけれど。構いませんよ」
 そういうと、ヤシュバは相好を崩す。適度に皮肉を言う。ヤシュバは、私のそういうところが好きなのだという。ヤシュバ自身が、正直で、素直な気質であるから、相手にもそういうところを求めているのだろうと思う。もっとも、
ヤシュバにこんな口が利けるのは、私か、竜神に限られているとは思うが。
「それは、申し訳ない事をした。差し支えなければ、何をしていたか訊いてもいいかな」
「手紙を、書いておりました故」
 顔を向ける。事務作業用の机の上には、先程悪戦苦闘し、睨めっこしていた文が、隠されもせずに置かれていた。
「手紙?」
「ええ。家族に宛てて。あとは封をするだけですから、もう大丈夫ですけれどね」
「そうか。リュースには、家族が居るのか」
 僅かな間、私はそれに、どういう反応を示すべきか、悩んだ。なんでもない様にヤシュバは言ったが、ヤシュバには家族は居ない。どういう反応をするのが、一番穏やかに済むのか。
「ええ。父と、母がおります。とても、大切な」
「この城に居る訳ではないのか?」
「ランデュスの城下町の、端の方ですよ。しがない商人ですから」
「そうか、大変そうだな」
「いえ。仕送りもしていますから。そこそこには、豊かな暮らしを送っていると思いますよ」
 城から受け取る給金のほとんどは、仕送りに入れてしまっているのが現状だった。私には金を使う余裕も、また金を出してまで欲しい物も、ある訳ではなかった。
 魔剣士としての装備に関しては、城から与えられる物であるし、今まではそれほど事務仕事に興味の無かったガーデルを、そして今は新任であり、何もわからぬが故に助けを必要としているヤシュバの補佐のために、
金を使う暇が無かったのだった。とはいえ、例えその時間があったとしても、今とそれ程変わりはしなかっただろう。華美を極めても、それは私の様な者にはただの悪評として広がる物でしかないからだ。
「その内、なんとかお前の休みを捻出してみよう。親御さんに、顔を見せないとな」
「そんな無理な事は、私が受け持っているあなたの仕事を、おひとりでこなせる様になってから言ってほしいですね」
「す、すまない……」
「いえ、いいんですよ。別に。あなただって、まだまだ何もわからないのですから。そのために、私が居るのですし。ただ、お休みは結構ですよ。ここから城下町に行って、休んで、戻ってくるのだって、一日二日では
ききませんし。それに、私は両親の下に戻りたくはありませんから」
「戻りたく、ないのか?」
 つい零してしまった言葉に、ヤシュバは敏感に反応を示す。また、悩んだ。
「私は、こんな形ですから。あまり、良い息子、良い家族としては、見られておりませんので」
「でも、立派に仕事はするし、俺を助けてくれているじゃないか」
「それは、両親の私に対する評価には、関係のない事ですよ。ガーデルや、あなたの様な姿をしていれば、話は変わったでしょうけれど」
 ヤシュバは、しばし考え込む表情をする。口にしてから、後悔が募った。なんとなく、ヤシュバには自分の事を話してしまいたくなる。悪い癖だった。私の、厭わしい青色を綺麗だという。
 だから私は、つい自分の事を、言わなくて良い事を、口にしてしまうのだった。そんな事を口にしても、後で自分の身体を見た時に虚しくなるだけだというのに。
「そんなにも、容姿というものは重視されるのか」
「あなたには、想像もつかないかも知れませんが……そういうものですよ。両親も、私には息子が居る。それは城に勤めている。そういう事を周りの者に話はしても、私のこの身体の事は、決して口にはしていないでしょう。
両親は、青など交じってはいないのですが。なまじ、期待が大きかっただけに、失望も大きいのです」
「期待?」
 また、やってしまった。
「……私は、母の腹に居る時から、竜神様に目を付けられていたのです。そうして竜神様は父と母を呼び立てて、その腹に居る子に祝福を与えました。やがて、この竜は強い力を持ち、この国のために尽くすだろうと。私が
あなた程ではなくても、最初から強かったとこの間言いましたね。それには、そういう絡繰りがある訳です。そして、竜神様のお告げを聞いた両親は、大層喜び、期待して、夢を抱いていたそうです。腹の子供が産み落とされ、
その姿を彼らの前に晒す、その瞬間まではね。しかし、産まれた子供は持たざる者でした。角が無く。翼も無く。何よりも、不吉な色をしていた。私自身の事ではありますが、周りを含めて子が産まれる事を待ち望んでいた
彼らがどれだけ失望し、落胆したのかと今考えると。少し、気の毒にも思いますね。その場の空気なんて、あまりにも居た堪れなくて、揶揄する者とて居なかったそうですよ」
「それでも、お前はこうして、仕送りをしているんだな。立派な物だ」
「育ててくれた、恩はありますからね。それから、竜神様への感謝も、私にはあります。もし竜神様が、お告げをくださらなかったら……。私は、どんな扱いを受けていても、文句は言えなかったでしょう。捨てられなかっただけ、
まだありがたいのですよ。当時、うちは貧乏だったそうですから。商人なんて、大商人ならばともかく、その下に集まるのは所詮は使い走りの様な物ですからね。……さて、つまらない話をしてしまいましたね。そういう訳で、
おやすみをいただく必要はありませんよ。家に帰っても、私も、あちらも。困ってしまいますから。あなたの傍に居られる方が、ずっと嬉しい」
「なんとか、ならないものかな」
 神妙な顔をして、ヤシュバが言う。相変わらず、人が好いと思う。この男と出会って、私がいつも抱く感想だった。その内誰かに騙されやしないかと、今から心配になってくる。
「そういう事は、考えなくてもいいのです。あなたはね。もう諦めていますから。ほら、こんなつまらない話、もうやめましょう? 大体、あなたなんのために、ここに来たんです? 私の話なんかさっさと遮って、言いたい事を
仰ってくださればいいのに。そうしないから、私がつい要らない話をしてしまったではありませんか。私、結構お話するのが好きな性質なんですから。今後は余計だと思ったら、どんどん遮ってくださいよ」
「ああ、それが、その」
「なんですか。言いにくい事なんですか。それとも、身体が疼いてしまったんですか? それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
 席から立ちあがると、私はおもむろに服に手を掛ける。ヤシュバがそれを見て、大慌てで立ち上がって、手を伸ばしてきた。
「ち、違う。そういう話じゃない」
「あら、そうなんですか。私の部屋に態々訪いを入れるなんて、初めての事ですから、また稽古をして静まらなくなってしまったのかと思いましたのに」
 惚けながら私が言うと。ヤシュバは更に慌てた様子を見せる。こんな風にヤシュバをからかうのが、最近の私の気に入りとなっていた。
「どうしてこう、お前はすぐそっちの方に話を持っていくんだ」
「そんなの、私としている時のあなたがケダモノ同然だからに決まってるじゃないですか。私が尻尾を波打たせて、あなたの背を打って行為を中断させたの、何回あったか憶えているんですか?」
「それは……」
「まったく。むっつりスケベの癖に、私が気を利かせて脱いで差し上げようとすると、これなのだから。いつまで経ってもそういう生娘然とした態度っていうのは、改まらないものなんですかねぇ? その癖、本気になると
ケダモノで……最高ですよ。ええ。相手をして悲鳴を上げているのが、私でさえなかったらね! まあ、いいですよ。では、そうでもないと。そういう事なんですね。我慢できなくなって私の部屋に駆け込んできた訳でもないと。
なら、あとは仕事の話しかありませんね。さあ、白状なさい。今度は一体、何をやらかしたんです? 怒らないから、素直に言ってください。隠されるのが、私は一番困るんですよ。一番ね」
 ヤシュバを椅子に座らせたところで、私は机に身を乗り出して、その顔を見つめる。こういうやり取りも、最近では珍しくなくなった様な気がする。最初はもっと、恭しく接していた。しかし、そういう事をすると、ヤシュバは少し
拗ねるのだった。別に、それで何か悪い事になる訳ではなく、ただ、ヤシュバが拗ねているだけ。まったく、どうしてこの人は、そうなんだろうか。これではまるで子供ではないか。
「その、面会があったんだ」
「面会? 誰ですか」
「……マルギニー」
「はぁ!?」
 思わず、我を忘れて私が声を荒らげる。叱られた子供の様に、ヤシュバがびくっと震えた。
「マルギニー? 今、確かにそう言いましたか? あの爬族の長であるマルギニーですよね? 相違無いですね?」
「あ、ああ……不味かっただろうか?」
「……他に、誰か伴って?」
「い、いや。マルギニーは、俺と個人的な話がしたいというので」
 それを聞いても思わず私は身を引いて、掌を頭に被せる。続けて、溜め息。続けて、目を細くしてヤシュバを見つめる。三段階の攻撃に、ヤシュバは更に縮こまる。翼までなるたけ畳んで、全身全霊で申し訳なさを表している
様は、新しい筆頭魔剣士として、ランデュスの武官と男児、それから好色な女から熱い視線を向けられている男の姿とは到底思えなかった。ただの、悪戯をした悪餓鬼そのままだった。
「よりによって、どうしてあなたはそういう事を一人でやってしまうのか……。はぁ。頭が痛い」
「す、すみません」
「謝らなくていいですよ。謝ったって私は微塵も助かりませんからね」
「申し訳ない事をしました」
「いいから、その口調はやめてください。……ふう。それで、マルギニーとはどういった事を?」
「俺が、新しい筆頭魔剣士と聞いて、ぜひ話がしたいと。そういうから、一緒に昼食をとって、世間話をしただけだ」
「世間話を、しただけ。ああ、そうですね。あなたにとっては、まったくその通りでしょうね。それで、昼食をとったという事は、どこの食堂を使われたんですか」
「第四食堂室」
「第四……ああ、よりによって。どうしてあんな少し離れた、そして密会に最適な、そのせいで使ったら噂される様な場所にされてしまったのですか?」
「ふ、二人だけだったので……他の食堂室は、大きいだろう? 第四食堂室はこじんまりとしているし、マルギニーも、そんな大層な持て成しをされては、申し訳ないというので」
「あの腐れ蜥蜴野郎。抜け駆けで来て適当な事言いやがって」
「リュース?」
「……ああ。失礼しました。なるほど、大体の事情は呑み込めましたよ。さて、どうしたものか」
 一度立ち上がり、部屋をぐるっと一周する。私がそうしている間も、ヤシュバはじっと座ったままだった。ちょっと視線を送ると、懇願するかの様に私を見ている。やっぱり、子供だなと思う。
「その、リュース……今怒っているお前に、こんな事を言うのはとても気が引けるのだが……何が悪いのか、教えてくれないか?」
「はぁ、そこからですか。当然といえば、当然ですけれど。それで、お勉強はどこまで進んでいるんですか、ヤシュバ様」
「あ、あんまり」
「あんまりだぁ?」
「忙しかったので……」
「ああ、もう。わかりました。では、今お勉強しましょう。まったく、世話の焼ける。私があなたに教えるのは閨房の技だけにしてほしいものですね」
 縮こまったヤシュバを放置して、部屋を漁る。その内使う事になるだろうと思っていた資料の類を引っ張り出して、それをヤシュバの待つ机の上へと広げる。
「はい。これがこの世界の地図です。世界といっても、ほんの一部でしかない。それぐらいはもう憶えてくれましたね」
 広げた地図。大小さまざまな勢力がひしめき合い、覇権を争っている様子が、ただの紙切れからでも充分に伝わってくる。ランデュスの領域と言ってよい物は線で囲まれており、それはこの地図の上の、実に三割近くを
占めていた。中央から、やや東。そこから東のほとんどは、ランデュス領だった。海へぶつかるまでそれは続き、そうしてランデュスの周りには少数部族の群れがいくつか存在している。それらを隔てた後、緩衝地帯があり、
更にその先が、獣の国、或いは翼族の地へと続いていた。
「ああ。俺達は、この地図の外には、出られないのだったな」
「よろしい。この地図に記された箇所よりも外側には全て、普段は見えない結界があります。というよりは、私達が住んでいる地域の全てが、それに包まれていると言った方がより正確でしょう。何しろ、空や地中すらそれに
覆われていますからね。ですから、空を飛べるからといって、あまり高く飛んではいけませんよ。余程飛行に長けていなければ結界にぶつかりはしませんが、空を目指した英雄の様に、翼を焼かれて落ちる、なんて事もあります
から。そうして、私達の住むこの狭い領域を、私達は涙の跡地と呼んでいます。それは、結界があっても雨が降り注ぎ、風が吹き渡る。それ故に私達がどうにか生きてゆく事ができているからです。もしあの結界が、雨や
風。そして陽の光すら遮断する様な恐ろしい物だったら。ここは暗黒の領域と外部の者から……もっとも、それらが存在するとしたらの話ですが。ともあれ、そういう者達からその様に謗られる事を、免れなかったでしょうね」
「素朴な疑問なのだが、どうして雨風が通れるのに、俺達は駄目なんだ」
「諸説ありますが、もっとも支持を集めている説は、自然に起こる雨や風に意思が無いから、という物です。実際、私達が魔法や術を行使しても、壁には弾かれます。物を投げても、それは同じです。私達の意思によって
起こされる事象の全てを、その結界は阻むと言われています。口でいっても、ちょっとわかりにくいでしょうかね。ヤシュバ様、こちらへ」
 部屋の中、窓の前へ歩み寄って、ヤシュバへと私は手招きする。窓を開けて、空を見上げる。既に、夕陽が彼方に没しようとしているところで、茜色の空が美しくこの国を彩っていた。
「今更ですが、お時間は大丈夫ですか?」
「ああ。相談をしたくて来たから、時間は多めに。説教されると思ったから」
「そういう所は抜け目がありませんね、あなた。説教されない様になってくれれば、私としても嬉しいのですがね。さて、そんな事より。見てください、あの空を。綺麗な茜色ですね。それも、もう少ししたら暗くなって
しまう。どこにも、結界の存在は感じられません。しかし目に見えないだけで、今も壁はそこにあります。ちょっと、肉眼で確認できる様にしてみましょうか」
「できるのか?」
「私達の手による何か。それが、壁に阻まれればよろしい。という訳で、ちょっと失礼しますよ。少し下がってください」
 部屋の奥から、剣を一振り私が持ちだすと、抜く。細身で、刀身にはいくつかもの流麗な曲線が描かれている、それ。打ち合うときにはほとんど用いられないそれを構える。
「そういえば、ヤシュバ様はあまり魔法は使われませんね」
「勉強中だ」
「左様でございますか」
 左手に光を集めて、それを目の前へ飛ばす。構えていた剣で、まずは一閃。二つに分かたれた光は、すぐに戻ろうとする。間、髪を容れずに、更に光を切り裂く。やがて光が耐えきれなくなり、広がる。広がりを防止
するかの様に、光の周りを切りつけて、今度は一ヵ所に留めようとする。
「なんの意味があるんだ、それは」
「物に刺激を与えて、跳ね飛ばす。それと大きくは変わりません。しかし魔力は切られても一つに戻ろうとします。最初はそれを阻害して、やがて私の手を離れて時間が経ったが故に、今度は霧散を始めます。そして、それも
やはり阻害する。すると今度は、逃げ道を探します。必然的にそれは、私がこの位置からでは作る事のできない、前方に集中する事になる。つまり、一定の力の流れがここで出来上がる訳です。そこで」
 剣を鞘に納めて、壁に立てかけると。両手に光を灯す。青白い炎の様なそれを、大分ぼやけた光を押し出す様に、両の掌で押す。すると、どん、という鈍い音を立てた後に、その塊は空へと打ち出される。
「この様に、打ち出す事ができます」
「恰好良いな」
「口から炎を出している様に詠唱できるあなたやガーデルの方が、私は恰好良いと思いますがね」
 空へ放たれた光球は、立ち止まる事を知らぬかの様にまっすぐに飛び続ける。眩かった光も、やがては小さくなり、夕焼けの空へと消える。
「消えてしまったのか?」
「あと少し、お待ちください。……まもなくです」
 突然、空に衝撃が走った。空の一角から波紋が広がり、震える。ヤシュバが息を呑む気配がした。空に波紋が広がると、今まで見えなかった結界が、姿を現す。光がぶつかったであろう箇所は色付き、白く輝いていた。
それを見ながら、私は自分の放った力が、潰えた事を察知する。
「今、私の力が壁に阻まれました。ご覧の通り、空であろうと、あの結界は私達が通る事を許しません」
「よく、わかった。ありがとう。今のを見た誰かが、驚いていなければいいのだが」
「まあ、そのぐらいの事は構いませんよ。あとでちょっと、竜神様に小言を頂くくらいです。あなたの教育のためだと言えば、大抵の事はお許しくださる。さて、勉強に戻りましょうか」
 広がった波紋が、やがて消えてゆく。そうすると、白くなった部分も、また透明に。そうして、程も無く、何事もなかったかの様に空はそこに存在していた。窓を閉めて、また机へと戻り向かい合う。
「今ご覧になった様に、この世界は結界に囲まれています。故に、領土問題が勃発しやすいのです。それは、この地図を見ても、わかりますね?」
「そうだな。ランデュスとラヴーワだけじゃない、かなり小規模な物を含めると、密集している様に見える」
「ええ。つまり、領土の奪い合いが起こっている、という事ですね。それも、激化していたのは昔の話で、今は形の上では和平が結ばれていますが。しかし、それはいつ崩壊してもおかしくはない。さて、本題に戻りましょう。
ヤシュバ様がお会いした、マルギニー。つまり、爬族の立場ですね。地図でいうと、ここです。丁度、ランデュスの南側、国境付近に多く爬族は居ます」
 南地方を指して、ヤシュバに説明をする。ヤシュバは身を乗り出して、それをしげしげと見つめていた。
「随分、広範囲というか……。ランデュスの領土に沿うように爬族が居るんだな」
「それが、爬族です。彼らは我ら竜族と、自分達爬族は、同種の物である。そういう主張を愚かしくもしています。実に、馬鹿げた話ですが。いくら外見が似ていても、能力も何もかも、我らより遥かに劣っているというのに。身の
程知らずも、大概にしてほしいものですね。汚らわしい」
「そんな言い方をしなくても、いいだろうに」
「甘いですよ、ヤシュバ様。爬族はそういう甘い意見に上手く取りついて、今までぬくぬくと自分達の領土を広げてきた様な奴らです。その癖、ランデュスと獣の国であるラヴーワとの戦争が激化した際には、半数はあちらに
ついた。そのせいで、南側からの進攻は大きく阻害される事になったのです。それまではランデュスに朝貢をしていた爬族も多かったのですが、今は減少傾向にあります。要は、日和見を決め込んでいる連中なんですよ。
ただ、纏まりはありません。半数が、と今私が言ったようにね。爬族の中でも、意見は割れているのです。すなわち、竜族と同種、或いはそれに付き従う事を第一とする者達と、そうではなく、自分達は自分達で、竜族とは
違うのだという主張をしている者達。前者はまだいいですが、後者は寧ろ、竜族には剣呑な物を抱いています。ですから、爬族と会う際には、決しておひとりで、という事を……。避けて頂きたかったですねぇ、ええ。本当に」
「重ね重ね、申し訳ない事を」
「まあ、マルギニーだから、まだ良かったかも知れません。少なくとも、かどわかされたり、命を狙われたり、そういう心配はありませんからね。マルギニーというのは、この爬族の長として、長年親竜派に属している人物なの
ですよ。そうでなかったら、流石にこのランデュスに堂々と乗り込むなんて事は、できなかったでしょうがね。ただの爬族では、城には到底。それで、マルギニーは新しい筆頭魔剣士であるあなたに、顔見せに来たのでしょう」
「そうだったのか。彼は、自分は爬族を率いてはいるが、もう老いぼれているから、ただ俺の顔を見たいと言っただけだった」
「ええ、ええ。そうでしょうね。余計な事を口にして、私や、他の者をあなたが呼ぼうとするのを、避けたかったのでしょう。だから、別にこれといった話もしなかった。しかし彼奴の真の目的は、ただあなたと会う事。それも、
二人きりで、というところにあったんですよ」
「と、いうと」
「つまり、マルギニーを含めた親竜派は、新しい筆頭魔剣士であるヤシュバ様と懇意にしている。ひいては、ランデュスの後ろ盾を得ている。そういう風に装いたい訳です。なまじ爬族は、先の戦役時に爬族の中でも意見が
割れた事で、部族内の纏まりがなく、それをいまだに引き摺っている。恐らくは、嫌竜派の声が大きくなっているのでしょうね。国政を無視して良いなら私もそれには大賛成ですけれど。あんな蜥蜴と一緒だなんて、おお嫌だ」
「そんなに嫌いなのか……」
「嫌いですよ。大体、彼らの血は私達とは違って、赤いそれなんですよ。見場がいくら同じ……いや、似ていたとしても。中身は違うのだと、はっきりしていますからね。それに、これはまた別の視点からの話ですが。その様に
違う生き物を態々同じ括りに入れて扱うというのは、悲劇の素ですよ。大体、寿命だって随分と違うというのに。前筆頭のガーデルは、単純ですが、白黒はっきりさせたいタイプでしたから、曖昧な立場を貫いていた爬族には、
厳しい見方をしていました。そのガーデルが居なくなり、新しく筆頭になったあなたに、マルギニーは目を付けたのでしょう。お気を付けください。今回の事で、爬族の嫌竜派の目は確実にあなたを捉えたでしょう。もっとも、
それであなたの身に危険が及ぶかというと、そうではありませんが。彼らにできる事は高が知れているし、あなたに何かをする前に、嫌竜派も、そして親竜派も、まずは自分達の中の諍いに決着をつけなくては
いけない事は、重々承知しているでしょう。ただ、今回の一件で、親竜派は一歩前に出た。その事で、彼らの中ではかなり激しく論争が巻き起こる事は、想像するに難くないですね。それから、あなたが軽はずみに、部族の
長と顔を合わせた事。それらは、爬族以外の、周辺に住む者達の耳にも届くでしょう。実のところ、戦争の後という事もあって、ランデュスに隣接する地域の者達は、いまだランデュスに対する態度を決めかねているところが
あります。戦時ならばはっきりしていた態度を、今は曖昧にしているところも、かなり多いですからね。そして、そういう相手の喉元に剣を突きつける事も、表向きは争う事をやめた今は、できません。周りの顰蹙を買うし、
付け入る隙を作る事になりますから。ですから、今回の事で、あなたがした事がどの様に転ぶのか。興味深いといえば、興味深いし、私の仕事が増えそうで、腸が煮え返りそうな心地ですよ、私はね」
「……なんというか、その。俺の軽はずみな行動で、随分迷惑を掛けた。申し訳ない」
「いえ、いいのですよ。ええ。いいですとも。ええ、ええ。その様に申し訳ないなどと思われずとも」
「…………その、できればはっきり怒ってくれた方が、ありがたいのだが」
「世間も碌に知らねぇで面倒事を持ってくるんじゃねえ。……冗談ですよ。そんなに怯えないでください。私が、あなたに。そんな酷い事言う訳がありません。安心してください。それに、確かに……困ったとは思いますが、
かといってマルギニーをそのまま追い返す、という訳にもいかなかったでしょう。あんな嫌な奴でも、爬族の長であり、また親竜派の中枢人物である事には変わりありません。邪険にしてしまえば、それはつまり爬族の全てが、
私達の敵になるという事。もっとも、それで一番に困るのは、あちらですけれど。私達の領土に沿うように、彼らが居る。言い換えればそれは、細く、長く。彼らの地が存在している事を意味する。分断して、殲滅するのは、
あまりにも容易い。それができないのは、親竜派が居るからです。そういう意味では、親竜派と、嫌竜派は、敵対しながらも、それぞれの存在を必要としているのかもしれませんね。親竜派が居るから、我らが本腰を入れて
攻め入る事を避けさせて、嫌竜派が居るから、完全に私達の下風に立つ事も拒んでいる。なんとも怪しい共生関係だ」
「爬族というのも、なかなか大変なんだな」
「ああ、そうやって同情的な見方をしてしまうのが、あなたの悪いところですね。まったく。マルギニーが聞いたら、飛びあがって喜ぶでしょうよ。あの死に損ないめ」
「さっきから気になっていたんだが、リュースは、マルギニーの事は嫌いなのか?」
 その言葉を私が聞き取った後、僅かの間を置いて、ヤシュバは驚いた顔をしてから今までよりも一層身を縮こめる。自分が今一体どんな顔をしているのか、それである程度察する事ができた。
「良い質問です。ヤシュバ様。あれはまだガーデルが居た頃の話でした。丁度、爬族の主だった連中が、ガーデルの爬族に対する不信を少しでも和らげようと思い立ち、この城に来た時の事です。あれが、私とマルギニーが
初めて顔を合わせた日でした。私は別に、爬族にそれほどの興味がある訳ではありませんでした。勿論今は大嫌いですが。ガーデルの補佐をしていた私は、一足先に彼らを迎えて、ガーデルを呼ぼうとした。その時ですよ、
あのマルギニーが、私に近づいて、こう言ったんです。リュース様。失礼ですが、あなた様は、竜よりも、我々に近い様にお見受けします。リュース様の様な方が、我らの味方になってくださるのならば、我ら爬族にとって、
これ程心強い事はございません。ああ、今でも、鮮明に憶えています。私は今でも、その時の自分を褒めてあげたいし、同時に舌打ちをしたい気分になりますよ。その場で剣を抜いて、マルギニーの首を刎ねずに、我慢して
笑いかけた事をね。あの腐れ蜥蜴は、私の身体を見て、私が一番気にしている事を、実に愉快そうに口に上せやがったんですよ! ああ、ああ、ああ。すみません、ヤシュバ様。取り乱していますね、私。でも、我慢できない
事が、私にもあるんです。あの時の仕打ちに比べたら、あなたが今、経験不足であるが故に、私をちょっと困らせているのなんて、本当に些細な事です。だから、あなたはちっともそれを引け目に感じる必要はありませんよ。
安心してください。ああ、しかし。私の身体に流れる、蒼き竜の血にかけて! どれ程私が竜として劣っていても、私は竜です。竜なんですよ。あんなに屈辱を受けたと思ったのは、本当に、あの日きりです。だから、私は
嫌いなんですよ。あの死に損ないのマルギニーが。そうして、そんな輩をいまだに長と仰いでいる、爬族がね!」
 最後まで言い切って、ちょっとすっきりする。同時に、後悔が襲ってきた。目の前で私の言った事を聞いていたヤシュバは、何よりもまず驚いた表情をしていて。やらかした、という事がよくよく伝わってくる。思わず、私は顔を
背けた。
「……申し訳ございません。つい、口が。私の悪い癖です。熱くなると、どうも」
 背けるだけでは飽き足らず、掌で顔を隠す。本当に、やってしまった。感情的な私を、ヤシュバには見せたくなかった。ヤシュバを助けるために私が居るというのに、これではとてもその任を全うできはしないだろう。
「ああ、いや、いいんだ。なんとなく、お前の事がわかった気がする」
「そう言われると気が楽に……なりませんね。恥ずかしいところをお見せしてしまいました。さて、私の事は置いておいて……。今回の事、大体は、おわかりいただけました?」
「それはもう。本当に、申し訳ない事をした。次からは、きちんとお前に相談しよう」
「というより、毎回そうしてくれて構わないのですが」
「それはそうなんだが。なんだか、なんでもかんでもお前に頼っている様で、ちょっと情けないかなと」
「そういうのは、きちんと一人で仕事がこなせる様になってからしてください。私の負担が余計に酷くなるだけです」
「それも、よくわかった」
 そこまで話して、ようやく私は顔を上げる。どうにか、水に流せそうだった。
「さて、話は、これで終わりですかね。ヤシュバ様、この後、ご予定は?」
「え? 特には、無いが……」
 ヤシュバが、目を見開く。私はにこりと微笑んで、席を立つ。机を隔てた、ヤシュバの下へと歩み寄る。
「流石です、ヤシュバ様。もう私の意図をしっかりとご理解していただけているなんて。それとも、期待していたんですか?」
「リュース……。お、俺は、帰るぞ」
「駄目ですよ、そんな」
 私の前で、私を見上げて、茫然としているヤシュバに笑いかける。帰ると言った癖に、その身体は金縛りにあったかの様に、微動だにしなかった。手を、払う。それで、机の上に広げていた書類が吹き飛び、宙を
舞う。それらが部屋のどこへとひらひら舞い降りているかなどを見る事もせずに、私はそのまま机の上に身を乗り上げる。丁度、座っているヤシュバの前に、机に座った私が居る状態だった。そうして高さを上げる事で、
ようやくヤシュバと目の高さが合う。そのまま、服に手を掛けて、上半身を晒す。実に簡単だった。それだけで、ヤシュバは私の身体から、目が離せなくなってしまうのだ。
「ほら、見てください。おかげさまで、傷は塞がりましたよ。跡は、残っていますがね」
 胸に巻いていた包帯も、今は既に無く。残っているのは、ヤシュバの付けた傷跡だけだった。束の間、ヤシュバの表情が曇る。ああ、この人は。そう思った。そういう表情を見せてくれるから、私もつい、弱味を握った様な
気分になってしまう。もっと、堂々としていれば良いのに。真剣勝負で、この人が勝って、私が負けて。たった、それだけの事なのに。気に病む必要など、無いというのに。当たり前の顔をして、私の弱さを詰れば
良いのに。そういう事は、絶対にしないのだった。
 だから私も、ついからかいたくなってしまう。
「時間があるのでしょう? 今回も私に迷惑を掛けたという、自覚もあるのでしょう? だったら、私の誘いを無碍にするなんて事は、しませんよね。ほら、どうせそろそろ来るだろうと思って、今日は下着をつけていませんよ」
 彼の視線が、下へ。半開きになった口が、私の笑いを誘う。嘲笑ってやると、正気に返ったのか顔を上げる。
「それで俺が乗らなかったら、穿いてないまま過ごすつもりだったのか」
「あなたって、本当に色気の欠片もないですね」
「お前は、本当にどうしようもないな」
 呆れた様な顔を、ヤシュバがする。私は一瞬、目を鋭くした。
「何を言っているのですか、あなたは」
 足を上げて、それをヤシュバに向けて進める。狙いを過たず、それはヤシュバの股間を蹴りつける。ヤシュバが低い悲鳴を上げた。そんな事より、私の足の裏に届いた感触の方が大事だった。
「私が、どうしようもない? それはまた、随分な言い種ですね。私がこんなに淫奔な様に振る舞っているのが、本当の事だと思っているのですか? そんな訳がないでしょう。こうして、私の身体でおったててる癖に、
まごついて何もできないであるあなたに。私は親切にも手を差し伸べているに過ぎないというのに。不愉快な人ですね。おっと。手ではなくて、今は足ですけれど」
「俺は、そんなつもりは……」
「まだ、言うんですか? それ、私が部屋に招いた時から、臭っているんですがねぇ。あなた、臭いには鈍感な性質で? それとも、そんな風にだらしがないのが、あなたにとっての普通なんでしょうか。だとしたら、それは
ちょっと頂けませんねぇ。ああ、そんな顔をしないでくださいよ。あなたがそうじゃない事ぐらい、初めて会った時からつぶさにあなたを見ている私には、よくわかっていますから。だからこそ、あなたがそういう仕草を見せた時に、
私はいつもこうして、我が身を晒して差し上げているといるというのに。そんな私を、あなたは淫乱な売女の様だと。その様に罵る訳ですね」
「ちがっ……うぅ……」
 何か言いかけたと同時に、私は足に力を入れて動かす。そうして、呻いているヤシュバを見ているのが、失礼ながらとてつもなく楽しかった。今すぐ私の足を跳ね除けて、足蹴にするなど何事だと怒鳴り散らしても、なんの
問題もないというのに。そういった、乱暴な手段は、決してしようとはしないのだった。私の背筋を、ぞくぞくとした感覚が走り抜ける。図体だけは、どうしようもなくでかい癖に。振る舞いは。その差異が、堪らなく私を高揚
させる。ヤシュバに合わせているとたった今口にした私の言葉が、嘘になりそうだ。
「何が、違うのですか。あなたがしているのは、そういう事ですよ。私の身体を見て、浅ましく欲情している癖に。そうして私が誘って、私を押し倒して。一旦事が始まってしまえば、まるで私が誘ったのだから仕方がないと、
吹っ切れた様に力強く腰を打ち付ける癖に。私が思わず泣き言を言っても、気づきもしないで、満足したら散々に吐き出す癖に。そんなに自分が綺麗でいたいんですか? 悔しいなら、それを少しは治める努力をしてみたら
よろしいのではないですかねぇ」
 目を瞑ったヤシュバが、身体を震わせながら耐える仕草をする。ぷるぷると震えて、私の攻撃に必死に耐えている。思わず私は、鼻で笑ってしまった。どうしてこの人は、本当に、こうなのだろうか。
「俺は、お前と……」
「なんですか」
「……友達に、なりたい」
「は?」
 虚を突かれて、思わず私は足を引く。ヤシュバの目尻には、涙が溜まっていた。どういう理由でそれが浮かんでいるのか、私は読み取る事ができずに、束の間困惑する。
「私の聞き間違いでしょうか。友達になりたいと、今、そう言われた様に聞こえましたが」
「……そうだ」
「何を、馬鹿な事を。あなたは私の上官だし、私はあなたの駒ではありませんか。どうしてそういう事が言えるのですかね」
「お前と一緒に居て、話をするからだ」
「そんなの、上官と部下なら、当たり前でしょう」
「それでもお前は、俺の事を考えてくれる。俺のためになる様に、してくれる」
「だから、当たり前の事をしているだけですよ」
「俺は、お前のためになる事もしたい」
「……」
 涙を浮かべて、今は涙を零した黒竜を、私は冷ややかに見下ろした。少し、優しくし過ぎてしまっただろうか。それとも、私が、私を見せ過ぎてしまったのだろうか。
 そう考えながら、私はそういう想いをヤシュバが抱いていた事を意外に思いながらも、悪い気はしていなかった。いや、嬉しいと、思ったのだった。私の身体を見て、そんな事を口にできるヤシュバの奔放さは、確かに私が
今まで見てきた人物達とは、違っていた。しかし、それでも私は。
「駄目ですねぇ、あなた。友達になりたいというのなら、まず私に欲情するのをやめていただかないと。それとも、あなたは友人に欲情する様なタイプなんですか? ああ、もしかして、そういう付き合いがしたいと。そういう事
でしたか。それならば、そう言っていただければ」
「違うっ!!」
 一際大きい声が響いた。私は思わず、身体を震わせる。こんな声が、出せたのか。それぐらい、腹の底から出した様な声だった。涙を流して、愚図ついた子供の様な状態の癖に。
「……あなたのお気持ちは、わかりましたよ。ヤシュバ様。とても、嬉しいです。私にそんな事を言ってくださるなんて」
 足を下ろして、その瞳をまっすぐに見つめる。怒声を上げたヤシュバは、今は私の言葉を聞いて、涙を流しながらも口元に笑みを浮かべ、瞳を輝かせていた。
「じゃあ……」
「ええ」
 私が手を差し出す。それを見たヤシュバも手を差し出す。
 あと僅か。その距離になったところで、私は机から身を翻す。片手だった手を、両手にする。そのまま手を伸ばして、ヤシュバの手など無視して、その頬を包み込み、顔を傾けてから近づけて、噛みつく様に口付けを
する。ヤシュバの目が見開かれた。その瞳と、私は見つめ合い、そしてほんの少し、瞳に力を籠める。
「あ、あぁ……リュース……」
 次第に、ヤシュバの瞳がとろんとした物へと変じる。私が舌を出して、口元を舐めると、大人しくその口が開かれて、差し入れた舌がヤシュバの舌と絡み合う。
 どちらの物なのかもわからぬ唾液が零れて、ヤシュバの服の上からでもわかる程に逞しく盛り上がった胸の上に垂れてゆく。その内に、ヤシュバが私の身体を強く抱きしめる。
「申し訳ございませんね、ヤシュバ様。あなたの言葉は、とても魅力的だ。けれど、今の私はそうされると、困るのです。あなたと身体を重ねる事以外で親しくなり過ぎると、きっと私は、その内あなたに溺れてしまいそう
だから。私の身体でよろしければ、いくら使ってくれても構いません。今はそれで、お許しくださいね」
 ごく短い間の、催眠。それもすぐに解ける。しかし正気に戻ったヤシュバは、それでも私の身体から手を離そうとはしなかった。それで、良かったのだ。
「私と、あなた。竜神様から頂いた力のせいなのでしょうか。心よりも、身体が相手を求めてしまう。さあ、お詫びのしるしです。どの様に扱っていただいても、構いません。窮屈でしょう。我慢できないでしょう。このまま、
どうぞ。先程も言った通り、私の準備は、済んでいますから」
 ヤシュバが、私を抱いたまま椅子から立ち上がり、そのまま机に押し倒す。硬い机の上に私の身体は投げ出される。その上に覆いかぶさる、私よりもずっと大きくて、逞しい身体。
 その背に腕を回して、背中を何度も摩る。
「いい子ですね、ヤシュバ」
 ヤシュバは、もう何も言わなかった。己の本懐を色欲に塗り潰された彼は、それを吹っ切ろうとするかの様に、いつもよりも性急に、更に荒々しく私を抱いた。

 痛む身体を気にしながら、私はぐったりとベッドに身体を沈ませる。
 横になったまま動けない私とは違って、ヤシュバは事が済むと、ベッドに腰かけて何か考える様な仕草をしていた。逞しい、黒い竜の身体。こうして眺めていると、抱かれている時とはまた違った良さを私は感じて、それに
見惚れていた。さっきまでせっせと腰を振って励んでいた男が、静かに佇む姿というのも。また中々に劣情を誘う物だった。
「怒っていますか、ヤシュバ様」
「……いや。お前の考えも、あるのだろうからな」
 背を向けたまま、そう呟くヤシュバの声音は、お世辞にも明るいとは言い難い。友達になりたい。そう言った直後に、仕向けられたとはいえ、結局はいつもの様に私を抱いてしまった事に、罪悪感でも抱いているの
だろうか。そんな必要はないのだが。ただ私がヤシュバを誘って、互いに出す物を出して発散しただけ。そう、思ってくれた方が色々と楽なのだが。
「そんなに落ち込まないでください。あなたにそうさせた私が言うのも、どうかとは思いますが。それでも、申し訳ございません。あなたに余裕が無いように、私にも、余裕が無いのです。上司と、部下。今は、そういう事にして
ください。決して、あなたが嫌いな訳ではありません、避けたい訳でも、ありません。ただ、私は」
「もう、いいよ。我儘を言った。すまないな。また、お前に迷惑を掛けてしまった」
 ああ。そうではないのに。そんな事を言わせて、謝らせたい訳ではなかったのに。
 それでも私は、それ以上は何も言わなかった。束の間、無言の時が過ぎてゆく。窓からは月の光が差し込み。時折吹きすさぶ風の音以外に、静寂を破る様な音は聞こえない。その内、無言を破る様に、身動ぎをする音が
した。ヤシュバは、私を見ている。闇の中でも、その雄渾な身体は隠れる事なく。私は射抜かれた様な心地になる。
「ところで、話は変わるが。リュース。一つ、訊いてもいいか」
「私に答えられる事なら、なんなりと」
「俺は、黒き使者、なのだろうか?」
「……どこで、その話を?」
「マルギニーだ。俺は、それを期待されている。そういう事を言っていた」
「はあ。やっぱり、あなたを一人でマルギニーに会わせたのは失敗でしたねぇ」
 身体を起こす。凄まじい痛みが、途端に走る。いつもよりも、更に荒々しくされたのだった。それでも、決して仕草には出さない。そんな事をしても、ヤシュバが傷つくだけなのだ。
「俺に、何か隠しているのか?」
「そういう訳ではありませんよ。ただ、あなたには色々と教えなければならない事があって、優先順位の低い事柄だった。それだけの話です。しかしマルギニーからそれを聞いたのなら、誤解をされると困ります。お教え
しますよ。黒き使者。それから、白き使者。マルギニーが口にしたのは、それの事でしょう。それは、この世界ではごく一般的な、お伽噺というか、伝説の様な話なんですよ」
「伝説?」
「そう、伝説。だから、別にあなたに知られて困るとか、そういう物ではないんです。子供に言い聞かせる様なお話だから、言わなかっただけで」
「どういう伝説なんだ?」
「はいはい、今話しますから」
 ヤシュバの隣へ座り、毛布で局部を隠して落ち着く。隠さないと、ヤシュバを無駄に興奮させてしまう恐れがあった。もっとも、当のヤシュバもそれを警戒して、今は反対側を向くという、無駄な努力をしているのだが。静かに
私が笑い声を上げると、その身体が僅かに揺れていた。思わず、話も忘れて。また私に手を出させたくなってしまう。
「それは、大昔に実際に読まれたという予言なんです。その昔、ユラという魔道士が居ました。彼は強力な魔法を扱う……という事はまったくなく、星や月、その他ありとあらゆる事象を見て取り、それらが表している事柄を、
人々に告げる事をしていたのです。その事から、この伝説はユラの託宣と言われています」
「それが、俺となんの関係が?」
「もう少し、話を聞いてくださいよ。……それでですね、ある時人々は、ユラにこう尋ねたのです。我らを押し込めている、この結界が解かれる日が、いつか訪れるのか。訪れるとして、それはどの様な事柄を経て実現に
至る事なのか、と。ユラは、己の命を削る覚悟で、それに対しての託宣を口にしたと言われています。ユラもまた、あの結界がいつ解かれるのか、その事に関心を持っていたとも言われていましてね。そして、ユラの告げた
言葉とは、次の様な事だったのです。やがて、黒き使者がいずこからより現れいでる。それは程無く、白き使者を見出すだろう。白き使者は、黒き使者に手を差し伸べる。黒き使者がその手を取った時、真の悪しき存在は
消え去り、その時世界を包む悪夢もまた、消えゆくだろう、と。……どうですか。あなたに一々教える様な、ご立派な情報だとは、思えないでしょう」
「確かに、そう言われると……そうだな。でも、どうしてマルギニーはそれを俺に言ったのだろう」
「それは、あなたが黒竜で、稀有な力を有しているからでしょう。確かに、そう思うのもわかります。というより、その伝説を根拠として持ち出されると、私もあなたがこの、黒き使者だという気はしないでもない。それだけ、
あなたの力は強いし、竜神様にも認められていますからね。あとは、マルギニーは密かに期待しているのかも知れませんね。結界が壊れる事を。そうしたら、賛成する爬族を束ねて、外へ行きたい。そう思っているのかも
知れません。今の場所に居ては、竜族の顔色を窺うし、仲間であるはずの爬族との対立もありますからね。今はまだ、竜族に阿る事にご執心の様ですが。それが成されなかった時の逃げ道くらいは、考えていても
不思議ではない。やっぱりあの蜥蜴は駄目ですね」
「俺は、そんなに大層な物なのだろうか……」
「それは、なんとも。それに、その託宣が本当なのかはわかりませんし、本当だとしても、それはもうずっと前に読まれた物。今がその時なのかも、私達にはわかりません。仮に本当で、それでいて今、あなたが黒き使者で
あったとしても、その対となる白き使者、というのもよくわかりませんしね。今のところ、あなたの周りには、そういう人は居ませんし」
「そういう人、か」
「心当たりがありますか? それとも、例のあの、あなたの想い人という奴でしょうか」
「それは、わからないな」
 そっと、ヤシュバの顔を伺い見る。今は俯いて、また何か考え込む様だった。その頭に描いているのが、誰なのか。少なくとも、私ではないのだろう。
「それに、あなたは黒くて。その上力が強いから、まあそうなのかも知れないな、とも思いますけれど。そもそも黒とか、白とか、実際にその色を宿している相手なのかも、よくわかりません。仮に白い被毛や、肌の色を
持っている者だとしても、白って結構曖昧ですからねぇ。ほら、クリームの様な色とか。それから、銀色。白銀に近い色は、白く見えるでしょう? 黒はただ、黒です。でも、白いのは結構、紛らわしいですよ。誰がそうなのか
なんて、わからないと思いますがね」
「それでも、その託宣は、俺が見出すと決めている訳だな」
「まあ、そうですけれど。ユラの託宣が、本当の事で、その上であなたが、黒き使者、なのだとしたらね。まったく、期待するだけ損な話の様な気もします。しかし……なるほど、言われてみると、あなたを黒き使者としたい者も
居るのかも知れませんねぇ。あの結界をどうにかしたい。そう思っている者は、かなり多いですから。正直なところ、領土の問題もまた激しい物となるかも知れません。人は産まれ、増えてゆくものですからね。今はまだ問題に
ならなくとも、このまま人口が増えれば、そういう事は言っていられないかも知れませんね。そうなった時、あなたの存在は、それらで困窮している者には、救いとなるのでしょう」
「俺には、そんな大それた力があるとは思えない」
「私は、あると信じていますよ」
 黒竜の瞳が、じっと私を見つめる。闇の中に佇む、闇の色をした竜。それでも、その心は闇とは無縁といえるほどの純粋さで形作られている。
「そろそろ、部屋へ戻られますか」
「……いや」
 ヤシュバの身体が、迫ってくる。そのまま押し倒された。机の時の様な痛みは走らない。
「なんですか。また、ですか。流石に、私も余裕がありませんよ」
「そうじゃない。このまま、眠りたい」
「仕方ない方ですね」
「リュース。お前が、俺の友達になれない事は、よくわかった。それでも、俺は、お前が友達だと、思っているよ」
「友達は、こんな事はしませんよ。抱き合う事も、添い寝もね」
「俺達は、する。それで、いいんじゃないか」
 身体を横にずらして、ヤシュバは私を抱き締める。翼と角があるから、仰向けは辛いのか、そのまま静かに眠りにつく。寝息が、すぐに聞こえてきた。私は呆れて、それを見ていた。
「ああ、もう。勝手に決めつけて、寝てしまって。本当、時々、とっても我儘ですねあなたは。どうして、こうなのでしょうね」
 ヤシュバの腕は、しっかりと私の身体に回されている。性行為の時のそれとは違い、強い力が籠められている訳ではない。それでも、交わっている時よりも、ずっと強く私の身体を縛り付けている様な気がした。交わっている
時は、私の身体に打ち込まれる肉の杭の方が、ずっと強く、私を苛み、善がらせ、絶頂へと導いてゆく。それとは、何もかもが違っていた。離されたら、泣きだしてしまいそうな、子供の手。こんなに大きい図体の癖に。そっと
手を伸ばして、その腕に、青い手を重ねる。
「どうして、あなたはこうで、私は、こうなのでしょうね。本当に。何もかも釣り合えそうにない。部下としてなら、私は、私の能力で、あなたに仕える自信はあるのに。あなたの、友達にだなんて。あなたは、こんなに何もかも
持っているのに。誰からも、愛される様にできているのに。私は……」
 あなた様は、竜よりも、我々に近い様にお見受けします。マルギニーの言葉が、不意に甦る。身体の震えが、止まらなくなった。
「私は竜なんです。竜なのに……どうして……」
 大きな音を立てる事だけは、懸命に堪えた。私の目の前に居る黒竜は、静かに寝息を立て続けている。
 夜が、更けていった。

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