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小さな王国

 荒々しい息遣いが、煩く聞こえた。
 それは周りに居る者達の者ではなく、紛れもなくその男が今正に上げている呼吸の音に違いなかった。
「まだ少し、気になる所はあるが……まあ、良かろう。お前は合格だ」
「……ありがとうございます」
 何一つ感情の色を灯さぬかの様な、無機質な光を湛えた瞳を持つ男が、そう言い放つ。それに、呼吸を整えるとどうにか礼だけを口にした。
 合格した。少し遅れて、その実感が喜びへと繋がる。そうしている内に、大分呼吸も整ってきて。男は自分の周りを改めて見つめる。自分と同じ様に試験を受け、しかしその結果は同じ者も居れば、また違う者も居た。それは、
彼らが実際に何かを口にされたのかよりも、彼らの表情を見ればよくわかった事だろう。
「本日の試験に合格した者は、後日改めてまたここに来るように。そうでない者は、別に回される。沙汰を待つと良い。では、解散」
 疲れた様子を隠しもせずに、各々が散ってゆく。男もまた、同じ様にしようとして、不意に自分に向かって駆けてくる者の姿を認めた。
「リュガ! どうだった?」
 顔を上げれば、最近親しくなったばかりの竜族の男がそこには居た。もっとも、名を呼ばれたリュガもまた竜族。それどころか、この場に居たのは全て竜族ではあったのだが。
「ああ、受かったよ」
「本当に? うわ、凄いな……。俺は、駄目だったよ。自信も無かったから、仕方ないけどさ」
「別に、後からでも良いんだろう? これは。焦らずにやれば良いんじゃないか」
「そうだけどさ。今はまだ、俺達は新兵なんだし。これから芽が出る奴も居るだろうけどさ。でも、ここで受かる奴っていうのは、初めから見込みがあるって事だからね。おめでとう。リュガ」
「……ありがとう」
 そう口にした男の顔は、少し寂しそうな表情を滲ませていた。それはリュガもまた、同じではあった。同じ新兵として、偶々よく顔を突き合わせていたから、親しくしていた相手。それも、ここまでだった。自分と彼の進む道は、
今はっきりと分かたれたのだった。
「そういえば、リュガはどっちに志願したの?」
「竜の爪だな」
「へぇ。意外だな。リュガには立派な翼があるんだし、だったらアイム様の纏める竜の牙でも良かったんじゃないの? あっちには空兵の部隊がきちんとあるし、アイム様もその指揮をするみたいだし。竜の爪のツェルガ様じゃ、
そういう事はしないでしょ?」
「だからこそ、さ。俺みたいな翼持ちの奴は、こぞってそれで竜の牙に行くだろ。だったら俺は、逆に竜の爪に行ってみる。そっちの方が競争相手が少ないかも知れないだろ」
「へぇ。そういう事も考えてるんだぁ……。ちゃんとした実力もあるのにね」
「よせよ。そもそもあくまで新兵の中ではってだけで、これから顔を合わせる先輩なんて全員とんでもなく強いんだから」
「まあ、そうだけど……。おっと、もう行かなくちゃ。それじゃ、リュガ。頑張ってね」
「ああ。そっちもな」
 最後まで、相手の男は寂しそうな表情を隠しもしなかった。多分、これからはもう会わないだろう。少なくとも所属が違えば、兵として振る舞っている間、それも新兵とあっては調練に明け暮れる日々なのだから。他所の
兵との交流は中々ないだろう。
 しかしリュガは、その思いを早々に振りきった。自分は選ばれたのだから。それに奢るつもりはないが、しかし住む世界は確かに変わってくる。また、別の新たな相手との出会いもあるだろう。
 そう思いこむ事で、リュガは遠くなってゆく、僅かに心を開いた相手を顧みる事を止めたのだった。

 整然と兵が並ぶ。今はリュガも、その中の一人となって。ただ自分に下される言葉を受け続けていた。
 竜の爪の、入団式である。新兵は誰もが緊張を漲らせた表情をしては、自分達の前に立って先程から続く隊長各である男の言葉に聞き入っていた。
「こうして栄えある竜の爪に所属する事を、誇りに思いなさい。君達は既に、選ばれた者達である。その忠誠と命とは、常に我らが神ランデュスの物である事を忘れない様に。また、その……」
 そこで、少し歯切れが悪そうな顔を男がする。既に上官として、短い間ではあるが真摯であり、同時に融通の利かないであろう部分を充分に感じ取った新兵にとっては、少し意外に思える表情だった。リュガもまた、それを
感じていた。
「本来ならば、この場には私ではなく、我らを導く竜の爪が団長にして、筆頭補佐であらせられるツェルガ・ヴェルカ様がおられたはずなのだが。生憎ラヴーワとの戦が続いている以上、ツェルガ様は多忙である。私の言葉を
ツェルガ様の言葉と思い、調練には励んでもらいたい。以上だ」
 そこで男の激励の言葉は終わり、解散となる。調練の前に、まず新兵たるリュガ達は竜の爪の兵舎へと赴き、そこで自分達に宛がわれた部屋に一度落ち着く必要があった。それこそがまさに、竜族による竜族のための
国であるランデュスの、そうしてそこに住まう竜神ランデュスの手足となって戦う兵の特権でもあった。竜族は種族的な特徴として、他種族の、それは大抵においては今ランデュスが戦争を仕掛けているラヴーワに住まう獣達と
比して図抜けた戦闘能力を有していたが、その竜族の中においても更に選び抜かれた兵だけが、竜の牙、そして竜の爪に属する事ができたのだ。彼らの様に優れた存在は、そのままランデュス城に詰めて兵舎を使い、
時には贅沢な思いをする事も許されはしたが、そこに入れなかった者は結局のところ城には基本的に置かれずに、各々ランデュス国内のあちこちに配属される運命にある。とはいえ、主な仕事は任地の守備であるために、
彼らだけが決して貧乏くじを引くという訳ではない。竜の牙、竜の爪とは、その名の通り竜神ランデュスの矛となるべき部隊なのであるからして、戦ともなれば先陣を切って進むのは当たり前の事であり、往々にして名誉の
戦死を遂げる場合もある。切り込む彼らにしてみれば、寧ろ血が騒いでは華々しく戦えるというので羨望の的となる職業だが、その実今日まで大切に育てた息子が所属するのならば、それらには入らないでほしいという
親心を抱く者も多かった。勿論それを抱いたかも知れない者達も、国のために戦う息子を誇りに思い、大抵の者はそんな様子をおくびにも出しはしなかっただろうが。
 そんな訳で、早々に緊張に漲らせた仮面を捨て去った新兵達は、意気揚々とはしゃぐ声を上げて兵舎に向かったのだった。この時ばかりは、先輩である兵達も咎めようとはしない。地獄の様な調練が始まれば、こんな
陽気な顔をした者達から一体どれだけの者が脱落してゆくのかがわかっていたし、楽しめる内に楽しませてやるのが結局のところ兵の精神面では必要だったのだから。
 リュガもまた、そんな兵達と共に行く様に自分の部屋へと向かう。ただ、リュガは周りの兵と完全に交ざっての移動という事はできなかった。それはリュガの出身のせいもある。リュガは、ランデュス国内でもかなり辺境の、
そうして田舎の村の出である。勿論そういう兵が珍しいという訳ではなかった。その様な村は往々にして貧しく、口減らしのためにという考え方も根付いていたし、実際に畑を耕す事に精を出すよりももっと短時間で、相当な
給金が兵には支払われているのだから。ただ、そういう場所から来る男というのは、結局のところ満足な食事もできずに立派な体格を作り上げる事が難しく、その上で充分な素質を秘めていなければ竜の牙、もしくは竜の爪に
入団を果たす事は難しい。リュガの居た村からは、リュガ以外にも何人かの若者が兵を志願したはずだか、その者達との音沙汰はやはり取れなくなっていた。怖くなって、逃げ出した者もいただろう。
 その様な訳で、リュガは新兵の中でも正直なところ浮いていたし、その自覚もあった。周りか楽しそうに話をしていても、田舎者であるリュガにはわからない事が多かったし、またどうせわかりはしまいと、嘲笑の対象になる
状況もこの時点で既に見られていたのである。リュガは、気にしなかった。元より自分が田舎の、物のわからぬ男であるというのは充分に心得ている。旅立つ日にも、家族からはその様な目に遭うと忠告もされていた。
 それでもリュガがこうしているのは、やはり所謂エリートと言われる彼らに払われる給金が、田舎の村に住む彼らにとって破格の物であったからに他ならない。ともすれば一生を。それどころか子へ、孫へと何世代も繋いで
ようやく両の手から零れ落ちるくらいになる額が、ここでは数年も務めて腕を認められれば支払われても不思議ではないのだから。例えこれから先、戦で命を落としてしまったとしても、そんな物は瑣事であると言い捨てて
しまえる程の物が確かにそこにあったのだった。
 だからリュガは、一人になっても気にしなかった。兵舎に与えられた自室も、本来ならば二人一組で入る場所だったが、人数の関係上誰かがあぶれる事となり、そして当然の様にリュガはそれを受け入れていた。それに、
一人で他人の目を気にせず休めると思い直せば、それは決して悪い事ではなかった。
 そんな訳で、リュガは今自分に与えられた部屋に向かおうとして、迷っていた。
 迷っていたのである。それも仕方が無かった、石をしっくいで塗り固めた、無機質ながらも立派な兵舎の中である。田舎から出てきたリュガには、そんな物ですら眩しく、そうして不慣れな物だった。ある一ヵ所から辺りを
見渡せば、石造りの回廊に代わり映えの無い扉が連続し。そうして少し移動して別の場所へ出たかと思えば、そちらも同じ様な有様。説明を受けはしたものの、その様な広い場所を歩く事すら不慣れなリュガには、中々に
辛い物があった。その上で周りは、さリュガの事など気にもせずにさっさと自分の部屋を見つけ、もし間違ってそこを訪いもすればあからさまな睥睨や嘲笑を受ける事にもなった。
「どうしたの?」
 リュガが、当ても無く兵舎を彷徨っていると。ふと、声を掛けられる。最初、リュガはそれが自分に掛けられた物だと気づく事ができなかった。誰かと誰かが話をして、そこで飛び出した言葉が少し大きくて、それがたまたま
そこを通りかかった自分に聞こえただけなのだろうと。
「ねえ。聞いてる?」
 また、聞こえた。それで流石に田舎者の、鈍いリュガでも気づいた。その声が、その声だけで。そうして自分に向けられた言葉である事に。
 振り返って、リュガは思わず目を細めた。眩しかったのではない。それでも、それは眩しい物の様に見えたのである。
 緑色の、綺麗な鱗だった。リュガの頭の中では、そんな風にしか考えられなかったが、それは翡翠の輝きを秘めた、美しい色合いの竜の鱗だった。それを纏った竜族の男が、リュガの後ろに居たのだった。背はまだまだ若い
リュガよりも、ほんの少し低く。そしてリュガの様に翼を持つ事もないせいで、実際の身長よりも華奢な印象を受ける。リュガは最初、それがなんなのかわからなかった。自分と同じ竜族なのだとも、気づかなかった。リュガの
鱗は、赤茶けた、その辺の爬族(はぞく)でも持っていそうなごく当たり前の鱗である。だから自分が翼を持っている事が、リュガは幼い頃から誇らしかった。そうでなければ、爬族と間違われる事も多かっただろう。もっとも、
辺境の村ではそんな色合いの竜族が当たり前だったのだが。
 リュガの目の前で、さっきからリュガに対して声を掛けている竜族の男は、それとはあまりにも対照的だった。外の光がそれ程強く射し込む訳ではない兵舎の回廊。明かりといえば、遠くの陽の光と。そして壁に設えられた
よくわからない魔導のインテリアから零れ落ちる妖しげな光だけだった。そんな少し薄暗い世界において、その竜族の翡翠の鱗は、薄暗い世界を照らす太陽の様だった。実際に、眩しいという程ではない。それをわかって
いても、リュガが思わず目を細めてしまう程に、その光を照り返す鱗は素晴らしい美しさを孕んでいたのである。陽の下に出たのならば、それは本当に宝石の様に輝いた事だろう。
「……大丈夫?」
 不安げに、男が言葉を口にする。そこでようやくリュガは、正気に戻った。
「あ、ああ……えっと、その。お前は」
「僕はヨルン。君は?」
「リュガ」
「そう。さっきからうろうろしてるみたいだけど、どうしたの?」
「……道が、わからなくて」
「ああ、そういう事か。君、新兵だよね? 他の人は?」
「俺、田舎者だから」
「仲間外れにされちゃった……? まあ、いいや。部屋、どの辺りだって?」
 そこで、リュガはおずおずとなんとか憶えていた区画と番号を口にする。ヨルンと名乗った男は、それがどこなのか充分に心得ている様で、案内をしてくれた。その辺りでリュガは、自分が大分過ちを既に犯してしまっている
事に気づく。新兵の自分とは違い、慣れた様子で兵舎の中を歩き回るヨルンを見れば、それは自分の先輩である事は明らかなのだ。大慌てでリュガは自分の非礼を詫びると、振り返ったヨルンはきょとんとした表情の
後に、ぱぁっと花が咲いた様に笑って、そんな事は良いのだと身振り手振りでリュガの緊張を解き放ってくれた。
「僕だってまだ三年目だし、そんなに畏まらなくていいよ。そのままでいいから、リュガ」
 そう言って、また笑う。リュガは大分この、唐突に現れた美しい竜に心を絆される事となった。それはまた、竜の爪に入るまでの間に親しくしてくれていた相手に、その立ち居振る舞いが似ていたからでもある。もっとも、彼は
今目の前に居る竜程の眩さを秘めていた訳ではなかったが。
 そうして無事にリュガは自分の部屋へと案内をされ、軽い話の後に立ち去ろうとするヨルンに何度も礼を言う。ヨルンはそれをまた、なんでもない様に笑って受け止めると、姿を消した。
 ヨルンが消えた後も、リュガはヨルンが去っていった先を、しばらくの間見つめる事となる。

 新兵に課される調練は、はっきり言って田舎から出てきたリュガには辛い物があった。ただ、何もそれはリュガにだけ辛い物という訳ではなかった様でもあった。
 新兵の脱走。それが、地獄の様なと例えられる調練が始まると、頻々に起こる様になった。リュガは懸命に食らいついていたが、最初にリュガを田舎者と笑っていた者の方からは、結構な人数の脱落者が出ていた。
 古兵にとって、それは別段珍しい景色という訳ではないらしい。新兵が減る度に、今回はこれだけ残ったとか、次に数えた時にはどうなるかとか、そんな話が続いた。そんな風にして去っていった者達が、その後どうなって
いるのか、リュガは知らない。
「故郷に帰ってるんじゃないかな?」
 試しにヨルンにも訊いてみたが、多分ヨルンもよくわかっていないのか、そんな返事がされるだけだった。
 その頃になると、リュガを嘲笑う目という物は、大分大人しくなっていた。地獄の様な調練を続ければ続ける程に、残った者達には絆と言っても良いくらいの認識が互いに生まれるのである。誰も、リュガを田舎者だと馬鹿には
しなくなった。最初の頃とは違って、会話にも参加させてもらえる様にもなった。それで喜んだのは、リュガではなく。最初の内、たった一人の話し相手として親身になってくれたヨルンの方だったのだが。実のところ、リュガは
ヨルンがそうして話し相手になってくれていたので、それ程寂しい思いはしなくて済んだのである。ヨルンはリュガの調練の話を聞くと、事あるごとに自分も最初は辛かったとか、それでも慣れるとそれ程でもなくなってくるとか、
そんな話をして。辛いのは何もリュガだけではなかったのだと教えてくれたし、その上でリュガの身の上話もきちんと聞いてくれた。田舎の貧乏な家族に楽をさせてやりたいと言うと、ちょっと涙腺が緩いのか、涙を見せては、
もっとリュガの話を聞きたいとせがんだ。
「もう少ししたら、一緒に調練もできるね」
「ああ」
 それまでリュガに課せられた調練というのは、もっぱら基礎体力をつけるための物が多かった。それは新兵に与えられる最初の試練であり、また兵としての戦い方を覚えるよりも先にしなければならない事でもあった。無論、
竜の爪に入団する程の実力であるのだから、ある程度の体力という物を持っているのは確かだが、それでは到底兵としての務めを果たすには力不足と言わざるを得なかったのである。また、この段階でさっさと脱走する
兵などというものはまったく戦場では物の役に立たぬ半端者であり、消えるならさっさと消えろというのが、既に戦を経験した古兵達の考えでもあった。実力不足の者を伴えば、その者だけではなく足を引っ張られた別の誰か
までもが命を落とす。戦場とは、いつの時もその様な場所であった。しかしそれを乗り越えられたのならば、そこには同じ経験を味わった者にしか理解と共有のできぬ、確かな戦友としての絆が芽生えるのだった。
「俺にできるだろうか」
「大丈夫だよ、リュガなら。僕も少し君の調練での様子を見てみたけれど、身のこなしはしっかりしているし、体力だってあるじゃない? 体力だけなら、もう僕よりあるんじゃないのかな」
「ヨルンは、そんなに得意じゃないのか」
「僕はどっちかっていうと魔導の腕を買われてここに居る感じだからね。だからちょっと、肩身狭いけど」
「狭いのか」
「うん。ほら、よく皆が遠くから僕の事見て、ひそひそ言ってるじゃない? 竜族は魔導にも秀でているから、別にそれが馬鹿にされたりする訳じゃないけれど。それでも竜の牙を治める筆頭魔剣士とか、僕達竜の爪を治める
筆頭補佐とか。そういう役職に就くのには竜族の決闘ができる様にならないといけないからね。そうなると結局は、魔法が少しばかり使えたって、剣と、そしてそれを自在に操る技量、持続させる体力が、どうしても必要なんだ。
そういう意味では、リュガの方が案外出世しちゃうかも知れないね!」
「そうなのか。……あと、別にお前が魔法が使えるから皆ひそひそしてる訳じゃないと思うぞ」
「え?」
 なんの事かわからないと本気で思っているらしくヨルンは首を傾げて目を丸くしていた。それがおかしくて、リュガは微笑む。どうやらヨルンは、自分の容姿については無頓着な男の様だった。少なくともリュガと話している間は、
その事についてすっかり忘れ去ってしまっているのは確かだった。その眩く、宝石と見紛うばかりの美々しい翡翠の鱗。それが散りばめられた無駄な贅肉一つない身体。そして、それらをより輝かせる天性の無邪気な様子。
 それらは全て、リュガには初めて接する物でもあった。無邪気さだけなら田舎に居る親族達も負けず劣らずといったところかも知れないが、それでもこれ程に美しい竜というのは、リュガはこれまで目にした事もなかった。皆
土臭い、そして土色の鱗ばかりを持っていた気がする。リュガですら、ほんの少し赤みがかっているに過ぎないのだから。くすんだそれらとは一線を画すかの様に、ヨルンの身体は、何もかもが違っていたのである。これまで
目にした事がないとは何度も思ったし、またこれからもそうそうお目に掛かる機会に恵まれる事もないだろう。田舎だからそんな色合いの者しか居ないと思っていたが、こうして様々な場所から集められた兵を見てみれば、
そんな事は決してなく。如何にヨルンの容姿が優れているのかを、リュガは思い知った。
 また、そんなヨルンは一切自分の容姿に関して感心を示していないというのが、リュガには快かった。リュガはそれ程コンプレックスが強い性質ではなかったが、しかし自分が田舎者である事、そうであるが故に世情には
疎く、また同年代であったとしても話相手にならぬという蔑まれ方を、村から出てきて幾度となく味わっていたのだった。ヨルンはそもそも最初の出会い方からして、如何にも田舎の出であり、その内脱走でもするだろうと
相手にされていないリュガに優しく声を掛けては、傍に居続けたのである。
「お前は、変わった奴だな。ヨルン」
「リュガには言われたくないなぁ……。リュガの事、結構噂になってるんだよ? その。こういうと、ちょっとあれだけど……。田舎から出てきた様な奴なのに、胆力もあって凄い。きっと良い兵になるってね」
「褒められているのなら、俺は別に良い」
「半分馬鹿にされてるよぉ……」
 そう言って憤慨を見せるヨルンの様子を見るのも、リュガは好きだった。既に、リュガが新兵として竜の爪に入団して、二十日が過ぎた頃だった。

 その後も、調練は苛烈さを極め、その度に脱落する者が出ていたが、それは最初の頃の様に多くはなかった。既にその時点で、兵としては充分な程の肉体を持っている者達である。問題となるのは、精神面の方だが。それも
ここまで来れば自分の隣に居る者が、いつの日か戦場に立てば共に戦う仲間であり、己の命は彼に、彼の命は己に左右されるという自覚を持った兵は精神的にも成長を果たすのだった。
 そんな中で、リュガはめきめきと頭角を現していった。既に、同期の兵という括りで見てしまえば、一二を争う程に優れた兵として先輩達からも認められる様になっていたし、また実際に二年目、三年目程度の、本当の
古強者からすればひよっこも同然の兵達ですら、剣を持って対峙しても打ち負かしてしまう程になっていた。
 そんな頃、だっただろうか。リュガはいつもの様に調練を終えると、ふと熱っぽく自分を見つめる相手の姿を認めてしまう。調練の一環で、つい先程まで剣を交わしていた相手が。
「どうしたんだ?」
「あ、いや……」
 それだけ言うと、相手は照れた様な表情を見せて、そそくさと立ち去ってしまう。ただ、そうしている間も、所謂秋波と呼ばれるそれを相手はリュガに送り続けている様であった。ただ、リュガには。田舎から出てきた朴訥な
青年には、その意図を読み取る事はできなかったのである。
「そっかぁ。リュガもそういうお年頃なんだね。……あ、違うか。その相手の人がお年頃なのかな」
「どういう事だ?」
「……リュガって、本当になんにも知らないっていうか。田舎の出だから仕方ないのかも知れないけれど。そういう事には考えが及ばないんだね。ちょっとした駒遊びならもうできて、しかも結構強いのに」
 リュガは何度も首を傾げて、その時の事が引っかかったので、いつもの様に調練の後にヨルンにその事を打ち明けると、ヨルンはそれがなんなのか確信を得ている様で、それどころか物を知らないと、珍しくヨルンから
言われてしまった。今までは例えそうであったとしても、ヨルンは決してリュガを馬鹿にしたりはしなかったのだが。
「知っているのなら教えてほしい。ヨルン」
「えぇっと……その、ねぇ……」
 そこでヨルンが言い淀む物だから、ますますリュガは困ってしまう。ただ、ヨルンもそうしていてはリュガの疑問を解消できないし、またそのままでは今後にも差し障りがある事を理解しているのか、渋々と、しかし丁寧に
リュガの陥った状況の説明をしてくれる。
 まず最初に、竜族はとても欲深いという事を、ヨルンは教えてくれた。それはリュガも知っていて、こくんと頷く。もっともリュガに対して欲深いとは誰も思いはしなかっただろうが。
「あんまりこういう事言っちゃいけないけれど。それは僕達を導く神様である、竜神ランデュスがそんな性格をしているからっていう話があるんだ。まあ、神様なんだし。様々な事をなされる訳だから、どれか一つを取り上げて
それを欲深いなんて言うのは、とても失礼な事だけどね。まあ、ともかく。僕達はとても欲深い。それは、リュガもよく聞いているでしょ?」
「ああ。それに、戦場ではその場の空気に呑まれて、いくらでも残酷になれるという。冷静さを決して失わない様に、それは命を失う事に繋がる。いつも、隊長や先輩はそう言っているしな」
 竜族は、欲深かった。それは今まさに、ランデュスという国を頂く竜族が、獣達に牙を剥き。そして怯えた獣達が徒党を組んで、ラヴーワという国を造り上げて抵抗を始めた事を鑑みれば、よくわかる事でもあった。掌の上に
ある物全てでは、満足できぬ。竜族とは、そうした深い欲を抱く生き物であるという。
「リュガ。調練の後に、身体がかっと熱くなったりする事ってない?」
「うん……? あるにはあるが、でも身体を激しく動かした後だし、そんなのは普通じゃないのか」
「ちょっと違うかな。その……えっと……。ぼーっとしちゃったり、ドキドキしたり。それから、今まで一緒に居た相手に見惚れちゃったりとか。そういう話なんだけど」
「無いな」
「あ、そう。……なんかちょっと、安心した。リュガだもんね。欲って、あんまり無さそうだもんね」
 やっぱりちょっと馬鹿にされた様な気がして、リュガは表情を曇らせれたけれども。そのままヨルンに続きを促す。
「えっと、だからね。ああ、もう。言い辛いなぁ……。リュガじゃなかったら、こんなに言い辛くなかったのに。うんと、それでね。……リュガの口にした、その相手の人っていうのは。きっと、リュガと、その……その」
「はっきり言ってくれ」
「……エッチな事したいんだと思う」
「……」
「……」
「……は?」
「ああっ! だから言いたくなかったのに! 今僕の事、こいつ頭おかしいみたいな目で見てる!」
「ごめん」
「素直に謝られるのが余計に辛いなぁ……」
「ああ、うん。その。なんとなく言いたい事はわかったから」
 リュガは何度か咳払いをする。それから、改めてヨルンの言葉を反芻して、また首を傾げる。
「それで、竜族が欲深い事と、その……俺とそういう事がしたいっていうのと。どういう関係が?」
「竜族はね、昂ると、そういう気になりやすい生き物なんだよ。リュガは、知らなかった?」
「俺が言うのもなんだが、土を耕して一生を終える様な人種には、関係が無さすぎる」
「確かに……。それでね、だから今後は、リュガにはそういう誘いが沢山来ると思うんだ。竜族の兵にとって、そういう関係って結構当たり前にあるからね。戦って、勝つ奴と負ける奴が出て。だから、その。そこで昂った物を、
お互いに発散しようとするっていうの? これはただの建前だろうけど、そうやって負けた方が、強い人の精を頂く事で、より強くなるって、そういう話もあるんだってさ」
「はぁ。なんだか、大変そうだな。断るのは駄目なのか?」
「別にいいと思うよ。ただ、リュガ。君も、いつまでもそのままでは居られないかも知れない。その内に、もっと強い人とぶつかり合って、きっと負けてしまうだろうしね。そうなったら、君もその話で出てきた人みたいに、身体が
反応しちゃうかも知れない。勝っても負けても、そうなる場合があるって事を、忘れないで」
「我慢すれば良いだろう」
「それができたら苦労しないって。リュガはやっぱり、まだそういう事がわからないんだね。一度そうなったら、簡単には終わらないんだ。……自分一人で処理してもね」
 そこで、リュガは改めて出来事を振り返る。確かにヨルンの言う通り、今思えば相手の目か少し潤んでいた気もする。
「しかし、男同士なのになぁ」
「男同士だからだよ。男同士だから、公然と交わるためにそういう方便が産まれるって訳。それにこうして調練に励んでいると、女の子との縁なんて中々期待できないし。……その、街に出てそういう人を相手にしようとしても、
お金だってかかるでしょ?」
「それが、兵同士なら無料って事か。そもそも調練をした事で互いに昂る訳だしな」
「そういう事」
 どうやら、思っていたよりも竜族の欲深さという物は厄介な様だと、自らも竜族でありながらリュガは今更知る。田舎の村では、到底考えつかぬ様な状況である。村の中は、貧しくはあったけれど、いつも皆で助け合っていたし、
その上でそんな状況であるのだから恋人といえば異性であって、早く結ばれてほしい。沢山の子宝に恵まれてほしい。それが日常であったのだから。それがここに来て、同性からその様に見られるのが普通であるし、
寧ろそうした方が色々と得であるというのだから、大分おかしな話だとも思ってしまう。
「ああ、だからツェルガ様は、あんな風に言われてたんだな」
「そうだね。あれはちょっと度が過ぎてるっていう部分もあるけれど、竜族の欲深さの象徴みたいな物だね」
 そこでふと、リュガは自分の所属する竜の爪の纏め役であるツェルガを。ツェルガ・ヴェルカの事を思い出す。いまだに多忙であるらしく、その姿を見た事は一度もないが、ツェルガ自信の噂というものは頻々に耳にするし、
しかもその内容はやたらと色事に偏った物であるというのも知っていた。腕は確かだが、思わず目を覆いたくなる程にその振る舞い方は奔放で、そうして老若男女を問わずに籠絡せんとする竜だという。まさか自分の入団した
竜の爪を纏める存在がそんな相手であるとは、田舎者であるリュガは当然ながら知らなかった。聞けば、ツェルガに見初められたいと願っては竜の爪の門戸を叩く兵も中には居るのだという。今残っている同期にも、少なからず
ツェルガを求めようとする声がある事には気づいていたが、今日ヨルンの説明を受けて、ようやく得心がいった。
「忙しいって、もしかしてそっちの方向で忙しいって事なのか」
 思わずリュガが言葉を零すと、ヨルンも苦笑を見せる。
「あはは。そういう話もあるよね。でも、実際にアイム様が今はラヴーワとの戦で前線に立って指揮をされているじゃない。筆頭魔剣士であるアイム様でそうであるのなら、当然筆頭補佐であるツェルガ様は、その補助をしながら、
アイン様が居ない間の国防にも心を砕かないといけない訳だし、僕達の前においそれと姿を表せないのは仕方がない事なんじゃないかなぁ」
「確かに、そうだな。……ラヴーワとの戦は、どこまで続くんだろうな」
「それも、なんとも言えないね。もう数十年はやってるし、あちらもこちらもまだ余力はあるみたいだけど。全体的には、こちらの方が優勢と見ても良いのかな。でも、僕達には南の爬族の問題もあるしね。北の翼族は、今のところ
敵対したとまでは言えないけれど。でも、だからといって全面的に信用して良いのかはまったく別の話だし」
「ヨルンはなんでもよく知っているなぁ」
「そりゃあ、自分の国の事だし……。それに僕は、確かに兵の一人ではあるけれど。戦うのはあんまり好きじゃない。自分がなんのために戦っているのかを理解しないまま、剣なんて振り回したくないよ」
 その考え方は、まだ知り合って日が浅いとはいえ既に充分な好印象をリュガに与えてくれているヨルンの姿にぴったりと当て嵌まっていて。リュガはまた相好を崩す。
「とにかく、竜族の決闘については、充分に気を付けてね。リュガが頭角を表せば表す程、今後はそういう話も多くなってくると思うから。相手の方から、勝負しろって乗り込んでくる場合もあるからね」
「はあ」
 なんとなく、そちらの話はリュガには現実味がないように感じられた。そもそもリュガにはそういう経験も無ければ、今のところ願望もそれ程ない。何よりもしっかりと兵としての務めを果たしては、その褒賞で村の家族を、
それだけではなく村自体を少しでも貧しさから遠ざけたいと考えてるに過ぎないのだから、そんな事にうつつを抜かしていてはという思いの方が余程強いのだった。ただ、どうやら自分がその様に考えていても、避けるのが
難しい場合や、はたまた自分の身体もその内にその様な状態になってしまう可能性が無いとは言い切れなかったので、この話はリュガもきちんと憶えておく事にした。
「ところでヨルン。お前は、大丈夫なのか」
「僕?」
 そろそろ話を切り上げようとしていたところで、ふとリュガはその事が気になって口に出してしまう。とうのヨルンはといえば、きょとんとした表情を見せていたが。それでもすぐにリュガの考えを察したのだろう。微妙な表情を
見せていた。
「僕は、その……」
 なんとなく、それでヨルンの答えは充分な様にリュガには感じ取れた。これ程までに見場に優れたヨルンである。その上で、本人は剣よりも魔法の方が得手である。つまりは、竜族の決闘においては不利とも言える状況。
 流石にその様な性のやり取りとは無縁であったリュガにも、ヨルンの肢体を生唾を呑み込んで見ている者が居る事は知っていた。自分だって、その様な気持ちでは見ていないが、それでも大層綺麗であると。いつ見ても
思っていたし、また時折は口にしてしまうのだから。その度にヨルンは曖昧な返事ばかりをしていたが、今思えばあれは、たった今会話に上っていた厄介事に相応に巻き込まれているが故の反応だったのかも知れない。
「やっぱりあるのか。……嫌じゃ、ないのか」
「嫌っていうか。……嫌なのは、確かだけど。でも、僕は負けてしまうし。それに僕も、一応は欲って物があるからね」
「そうか」
 ちょっと、衝撃をリュガは受ける。そんなはずはないというのに、なんとなくヨルンも自分と同じ様に、そういった物には手を出さない様に見えていたのだ。これ程の容貌に、他者を気遣う優しい心根まで備えている彼が、
誰からも手を伸ばされないなんて事がありえないと知りつつも。いつの時も、リュガの前に居るヨルンはそんな気配はおくびにも出さずに、にこにこと笑っていたから。
「大丈夫だよ僕は」
 気丈な発言。遠回しの拒絶。それで、リュガはそれ以上の言葉を続ける事はできなくなった。
「……でも、ありがとう。やっぱり、リュガは違うね。一緒に居ても、こんな風に自然と話がしていられる。本当はね、僕は、その……やっぱり、そういう風に見られる事は多いんだ。でも、周りが見ているのは、僕の見た目だけ。
僕と心からお話をしてくれる訳じゃない。でも、リュガは違うんだ。違うって。そう、僕が思いたいだけなのかも知れないけれど……。それでもね。リュガと話していると、とても楽しい。あの時。最初に、リュガを見かけた時。
勇気を出して声を掛けてみて、良かったって。僕はいつも思っているよ」
「ヨルン……」
 眩しく見えた。その姿ではなく、その内が。他者に踏み躙られる様な事もあったであろうに、ヨルンの心には真っ白で、そうして柔らかい部分がきちんとあって。それは困っている者には惜しみなく注がれる物の様だった。
 軽い挨拶の後に、ヨルンが部屋を出てゆく。いつも話をする時は、リュガの部屋だった。相部屋の者が居ないからである。去ってゆくヨルンの背を、リュガは見つめていた。ふと、胸の内にいつもとは違う何かが浮かんで
きている事に気づく。それがなんなのか、リュガにはわからなかった。
 リュガは、恋も愛も、まだ何も知らぬ青年なのであった。

 ヨルンという青年は、不思議な存在だった。
 それはその見場だけで既に充分な説得力を持って他者に説明をする事ができたが、しかし内面の方も、やはり不思議だと言えただろう。
 それまでリュガは、新兵という事もあり調練の時にヨルンと顔を合わせる事はほとんどなかったが、それもしばらくの時を積み重ねればそうではなくなる。ヨルンとて、それ程古参の兵という訳ではないので、その内にリュガは
調練の時にもその姿を見る事ができる様になった。
 そこで見たヨルンの姿というのは、リュガが想像していた物から大きく離れていたという訳ではなかった。リュガに接する様に、ヨルンは誰にでも優しく。そして献身的だった。剣の腕はそれ程ではなく、しかし魔導の才はかなりの
物なのか、そちらを学んでいる時は常に優秀な成績を収めているのを何度も見る事になる。一方のリュガは、魔導に関してはからっきしであった。持ち得る翼で空を飛ぶには魔導の力を伴う必要があるのだが、そこは田舎の
出身である。魔導という物すら碌々扱える者の居らぬ場所から出てきたリュガが、それらを扱えるはずもなく。身体的な強さによって一目置かれていたリュガも、そちらではまたしても多少は嘲笑の孕んだ目で見られる事と
なってしまう。
 ヨルンは、そんな時にもリュガには優しかった。どうして魔導が扱えないのか、基本的なところからリュガには丁寧に教えてくれた。
「せっかく翼があるのに、勿体ないよ。僕には翼が無いから、飛び方を教えてあげる事はできないけれど。それでも、その下地を作り上げられる様にはしてあげられると思うから」
 調練の後、個人的な授業と称してヨルンは魔導についても教えてくれる。おかげでリュガは、そちらの道でも多少は腕が立つ様になった。もっとも実戦で役立たせるには、まだまだ研鑽か必要ではあったが。
 リュガが新兵になって、二月が過ぎた頃だった。リュガはいつもの様に調練に励んでいたが、ふといつも見ていたヨルンの姿が見当たらない事に気づく。ヨルンというのは、意識をせずともその優れた見場のおかげで、
いつでも視界にちらついてしまう存在であるからして、そんな相手が居なくなったとあっては、いつも話をしているリュガにとっては気にならないはずもない。短い休憩の時間に捜し回ると、すぐにヨルンを見つける事ができた。
 ヨルンは、他の兵に囲まれていた。
 それはリュガにとっては先輩にあたる兵達であった。彼らはリュガの登場に露骨に顔を顰め、そしてヨルンの方は明らかな怯えを滲ませた表情を見せていたが、リュガの顔を見て僅かに安堵を見せた後、慌ててこちらには
こない様にと口にする。リュガは、立ち止まらなかった。僅かな睨み合いの後に、男達が去ってゆく。どの道、騒がれでもしたら隊長の目に留まる事になる。その場合の叱責を考えるのならば、ここでリュガに対して何かを
するのは得策ではないと判断したのだろう。
「今のはなんだ」
「……」
「答えろ。ヨルン」
「……」
 ヨルンは、答えなかった。よく見ればその身体が震えている事にリュガは遅れて気づく。
 咄嗟に、手を伸ばした。短い悲鳴の後に、ヨルンの身体が腕の中に収まる。ヨルンは、それ程背が高いという訳ではなかった。低くはなかったが、リュガは田舎から出てきた、栄養も偏ったであろう青年が何故これ程までにと
思わず他者が思うくらいの大丈夫であったし、その上で翼持ちである。翼を持たないヨルンの身体は、それこそリュガとは対照的にか細くも見えた。実際にか細いとまでは言えなかっただろうが。
 すすり泣く声が聞こえる。遠くで、調練を再開する声も聞こえた。この場に残った二人は、あとでさぞ咎められるだろう。そんな事は、どうでも良かった。
 ヨルンが落ち着くまで、リュガはそうしていた。気づくと、リュガは翼を少し畳んで、腕の中に居るヨルンを包んでいた。自然にしていた行動だった。それが、欲の強い、そして翼を持つ竜の見せる、相手を独占したいという心の
表れである事も、リュガはまだ知らない。
「落ち着いたか?」
「……うん」
 次第に、ヨルンも涙を流さなくなってくる。元より兵として、竜の爪でそれなりにはやってきたヨルンであるからして、一度泣きだしたらそのままという程に精神的に未熟という訳ではなかった。それから、ぽつり、ぽつりとヨルンは
事情を説明する。一度離れようとしたが、リュガはそれを許さなかった。射貫くかの様にその瞳を見つめて、そして説明を促したのだ。ヨルンは言葉にされるでもなくそれを感じ取り、自ら口を開いたのである。
「僕、こんな身体だから……。だから、周りからはそう見られるんだ。あの人達は、前に僕に決闘を申し込んできた人達。頑張ったけど、負けちゃって。でも、怖いから、避けてたんだけど。そういう訳にもいかなくて」
「合意の上でやるもんじゃないのか」
「そうだけど。でも、立場があるから」
 そこまで聞いて、リュガは溜め息を吐く。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ」
「だって。リュガが聞いたら、きっと怒ったり、呆れたり、嫌がられたりしそうで」
「当たり前だろう。それに、黙っていた事にも今は怒っているぞ」
「ごめんなさい」
 事情を把握して、それからおずおずとリュガはヨルンを解放する。無意識に動いていた翼を広げ、腕の拘束を解いて。そうする事で、再びヨルンは衆目の中へと帰ってゆくかの様でもあった。
「……ヨルン」
「何?」
「今日は俺の部屋に来い」
「えっ」
「こんな調子じゃ、あいつら夜になったらどうなるかわかったもんじゃないぞ」
「それはそうだけど」
 どうやらヨルンも、今夜からの事をかなり気にしていた様でもあった。更に話を聞けば、あの中にはヨルンと相部屋の者も居たという。少なくともそいつから何かをされる可能性は高かったし、ヨルンが抵抗の意思を見せる事を
鑑みるのならば、一人では事に及ぼうとはすまい。だからこそ今、複数人でもって取り囲んでいたのだから。
「でも、リュガに迷惑が」
「気にするな。それに俺は、一人て部屋を使っているしな」
 尚もヨルンは躊躇いを見せていたが、リュガが頷くと、渋々と承諾を見せた。その日から、ヨルンはリュガの部屋で寝起きを共にする様になる。こっそりと自室に私物を取りに行って、残りは置いてきたらしい。
 当然ながら、この行動には先輩方のリュガに対する心象はかなり悪くなる事になった。それまで多少はリュガを認めていた者も、なんとなくリュガを避ける様になった。それで改めて、リュガはヨルンという存在が、他の者に
とってどれ程大きかったのかを知る。優しく、献身的であり、何よりも美しい。嫌味も無く、気づけばその姿を目で追ってしまう。蝶よ花よと愛でられる様な存在を、たった一人が独占しようとするのならば。それは単にその
存在に邪な思いを抱いていなかった者にとっても、よろしくない様に見えるのだった。
 それでも、リュガはそれで満足していた。自らが腕を磨く事で、最近ではヨルンと調練を共にできる様になったし、それ以外でも傍に居られる。それでヨルンに身の危害が及ぶ事はなくなったし、その顔にも笑顔が浮かぶ
様になったのだから。もっとも物憂げな表情をして溜め息を吐くヨルンというのも、一部の者にとっては絶大な効果を発揮していた様だが、生憎リュガはその様な趣味も持ち合わせてはいなかった。
 何より、ヨルンは友人であるのだから。
 リュガは、そう思っていたのだった。
 しかしそう思っていたのは、リュガの方だけであったのか。以前よりも近くにあって、気安く口を利く様になり。そして他の者達から遠ざけられたヨルンは、リュガの事を今までとはまた違った思いを込めて見つめる様に
なっていたのだった。とうのリュガは、ヨルンの視線の意味には気づかない。いつもの様に話をしては、いつもの様に挨拶を済ませて、近くはあっても別々の寝台に横になる。眠るリュガを、ヨルンは寂しそうに見つめていた。
「リュガ」
 ある日、ヨルンはリュガを呼んだ。いつもの様に、という訳ではなかった。その瞳には強い意志の光が宿っていたし、既に充分にヨルンの表情を見ていたリュガにもはっきりと感じ取れる物があったのである。
「僕と、決闘をして。竜族の決闘を」
「何故?」
 リュガは驚いたが、しかしそれ程に動揺はしなかった。それはヨルンをつぶさに見ているからこさわかる事でもある。ヨルンは確かにリュガに助けてもらった事に感謝していたけれども、彼自身もやはり男の竜族なので
ある。どれ程に見場に優れ、笑顔を振りまいては他者を抱き締めるかの様に接していても、結局のところヨルンには大人の男としての矜持という物があったのであった。竜族の誇りと言い換えても、差支えはなかっただろう。
 リュガの後ろに隠れ続ける事を、ヨルンは潔しとはしなかった。
 そして、何よりも。
「……君を、僕の物にしたい。君の事が、好きだから」
 決闘の申し出とは打って変わって、その声は酷く小さな物だった。
「ヨルン……」
 決闘と告白。二つを同時に聞かされて、今度こそリュガは混乱をする。そもそもが、ヨルンが自分をその様な意味で好いているというのが、リュガには到底信じられぬ事でもあった。まっすぐに、そうして今にも泣きだしそうな
顔をしてそんな事を言うヨルンの言葉を疑う訳ではないが、はっきりいってリュガは自分とヨルンでは釣り合わぬと思うし、また他者から見てもそれは同じであっただろう。この二人が共に在る事に対しての厳しい目というのは、
結局のところその様な見方に集約されると言っても過言ではなかったのだから。片田舎の出であり、その体躯以外に凡そ取り柄も無さそうなリュガと。まず一目見てこれはただ者ではないという事が誰の目にも明らかであり、
そして魔導の素養を充分に秘めたヨルンでは、ただの石ころと宝石を並べたに等しかった。
 背を向けたヨルンを、リュガはその姿が消えるまで目で追っていた。何故自分を、という思いと。ヨルンが自分に抱く様な気持ちを、自分はヨルンに対して抱いているのかという思いが、心を占める。どちらの答えも、リュガには
見つけられなかった。リュガは恋も愛も、やはり知らぬままなのであったのだから。村の中に居ては、そんな事を気にする余裕もなかった。その手を土に汚しては、美しくはないのかも知れないけれど、それでも気立ての良い、
穏やかな娘をいつかは娶って、子供に恵まれては、自分の両親と同じ様に、いつか自分もそうなるのかも知れないと。そんな風に思っていた。自分の力がほんの少しでも、土を耕す以上の事に利用できて、村の者達が豊かに
暮らせる様になればと飛び出した先で出会ったのが、まさか女ですらなく。しかしその辺の女よりも余程美しくもあれば、沢山の男から求められている様な相手から、自分が求められてしまうなどと。昔のリュガが聞いたら
等閑に付したであろうし、今のリュガであっても、やはり信じられないと思ってしまうのであった。例えどれ程ヨルンという男と触れ合って、その誠実な心根を知っていたとしてもだ。
 それでも、その時はやってきてしまう。ヨルンの告げた、決闘の刻が。
 めまぐるしく、千々に乱れる己の心に、リュガは困惑していた。リュガはただ、ヨルンが傍に居て、初めて顔を合わせた時の様に穏やかな話ができれば。穏やかな時が、過ぎてくれるのならば。それで良かったのだった。
 竜族の決闘は、様々な形で行われる。立ち会う者がいれば、それこそ態々大々的に喧伝をしてから闘技場で剣をぶつける物もある。竜の牙団長である筆頭魔剣士、及び竜の爪団長である筆頭補佐になる場合などは、
正式な決闘を申し込み、竜神ランデュスの了承と、そして宰相などの重職に就く者がその戦いを見守る。場合によっては抽選が行われ、運の良い一般の者さえ見物しての決闘という場合もある。
 ヨルンが望んだのは、誰もが立ち会わぬ決闘だった。例えこの戦いで勝っても負けても、それは当人同士にしか知られずに。そうしてその戦いの帰趨による要求ですら、あとからいくらでも反故にできる様な物。
 闇夜の中。淡い月の光だけが、練兵場を照らしている。
 ヨルンはそこで、じっとリュガを待っていた様だった。
 何も言わずに、リュガはヨルンと向かい合う。そうしているだけで、ヨルンは何かもっと、別な生き物の様にリュガの瞳には見えた。昼の間、燦然と煌めいては我が物顔で空に浮かび大地を照らしている太陽が地上にも顕現
したかと思わせる程に、ヨルンの翡翠の鱗は惜しみなく持ち主の美しさを主張していた。今は、少し違う。控えめな月光に照らされたその鱗には、淡い光が灯っている様にも見えた。それは或いは鱗のせいではなく、魔導の
才を存分に秘めた肉体だからなのかも知れなかったが。ともかくとしてヨルンという男は、こんな夜更けであったとしても決して地味などという言葉とは無縁の様であった。闇の中でも、その美しさには何一つとして陰りなどは
見えなかった。それどころか良くは窺えぬ表情と、闇の中に浮かぶ翼の無い肉体のシルエットと、緊張によって苦しそうな息遣いの音とが混ざり合ったそれは、今更の様にリュガにヨルンという存在を、今までとは違う
意味で。もっと荒々しい情欲を掻き立てる対象として、意識させたのである。
「ヨルン」
 リュガは、声を掛けた。ヨルンは素早く辺りに気を配り、自分達以外に誰も居ない事を確認すると同時に、静かに剣を抜く。訓練用の鈍らではない事は、見慣れぬ刀身と鈍い光から察せられる。
「どうしても、やるのか。俺は、お前を傷つけたくない」
「余裕だね。そんなに僕の事を見くびっているの」
「そうじゃない。……どうして」
「……気持ちの整理をつけたいんだ。僕は、君と居るの、凄く好きで。でも、君は僕の事を、ちっともそんな風に見てくれないから」
「それの、何が悪いんだ。世間話をして、笑って。俺は、それが良かった。それで良かったんだ」
「それじゃ駄目なんだ、僕は」
 一瞬、何かが煌めく。ヨルンは涙を流している様だった。流れた涙が、均整の取れた顔の造形に沿って流れて、闇の中へと落ちてゆく。
「僕にはそんな気持ち、わからない。だって僕の身体を見て、皆はそんな風には思ってくれない。リュガ。君だけだ。君だけが、僕の事をそんな風に見てくれた。嬉しかった。嬉しかったよ。なのに……。そんな君に、僕の方が
おかしくなってしまった。僕だって、君が言う様にしていたかったよ。それが良いって。君と一緒なら、そんな風になれるんじゃないかなって。そう、思っていたのに。なのに、僕」
 闇の中から、苦し気な声が聞こえる。リュガは黙って、剣を抜いた。まったく別々である様で、しかしこの二人はたった一つの点においては奇妙な一致を見せたのであった。
 リュガは純朴であり過ぎたが優に、恋や愛を知らぬ。
 ヨルンはその美しい見場のために、外見に惑わされる者をしか迎える事ができずに、やはり恋や愛を知らぬのだった。一方的な愛に弄ばれる事は、知っていただろうが。
 やっと気づいたその気持ちに、ヨルンが混乱をしてしまうのも、無理からぬ事ではあったのやも知れなかった。リュガもそれは、同じだった。大切なのは、確かだった。友として、大切だと思っていた。今は、少しだけ違う
気もする。
 けれどそれがなんなのかを、リュガは知らなかった。
「いくよ」
 リュガが剣を構えたのを見計らって、ヨルンは大地を蹴って飛び込んでくる。リュガは冷静にその動きを目で追って、正確にまずは迎えた。早くはない。力強くもない。気迫だけが、伝わってくる。絶対に自分が勝つのだという、
強い意志が。まるでそうする事ができれば、自分の抱える蟠りの全てが解決できるのだという、漠然とした期待をヨルンは抱いているかの様でもあった。
 しかし、それだけであった。ヨルンの名誉のために言わなくてはならないが、ヨルンは決して弱くはなかった。そもそもが竜の爪にきちんと入団を果たした時点で、一般の兵よりはずっと腕が立つ。ただ、リュガは更にその上を
行くのだった。魔導に依るのならば、これはわからなかったが。しかし竜族の決闘というのは結局のところ、剣を主体とし。無論魔導に頼る事はできるが、一対一の場合はあまりそれに頼り過ぎると却って身の危険を招く事に
繋がるのだった。だからこそ竜族の中において最強の称号を持つ者は、筆頭魔剣士と。そう呼ばれるのだから。
 淡い魔力の波動をリュガは感じ取る。ヨルンは魔導を得手とするだけあって、それを駆使した歩法を使い通常ならば不可能であるかの様な人体の動きを実現させる事ができた。しかしそれもまた、リュガに通じる物では
ない。リュガ自身はそれを行使する事はできないが、こうして竜の爪の精鋭に名を連ねる様になり、その中でも若くありながら既に頭角を現しはじめているのがリュガである。相手がその様な手段を用いる場合の戦い方は
既に調練の一環として充分に学んでいるし、またそれに対するヨルンは確かに魔導を扱うには長けてはいても、それを実戦に伴う技量には欠けている様でもあった。例え魔導の才があろうと、それを戦いの中で活かすには
やはり別の才が必要であり、そちらの方ではリュガの方がずっと勝っていたのである。少なくとも、この対峙の時には。
 剣を受け止めて、それを払う。とにかくしっかりとヨルンの動きを把握する事だった。膂力での勝負になれば、少なくともリュガに負けはない。最初こそヨルンとぶつかるという事に戸惑い、また魔導を駆使した戦い方にも
動揺を見せていたリュガだが、すぐにそれに対応する様になり、そうすると今度は一転してヨルンの方が劣勢となる。荒い息遣いが聞こえる。ヨルンは、体力もリュガには劣る。魔導の素養を持たぬ分、リュガは丹念に
己の体力造りに没頭していたのが功を奏したのだった。
「あぁっ!」
 一瞬の隙をヨルンが見せた途端。それまでは相手の剣を受け止める恰好を続けていたリュガは、電光石火の速さでもって飛び出しては、虚を突かれたヨルンの剣を弾き飛ばした。それによってヨルンは己の歩法すら
乱れさせてしまい、足をもつれさせて尻餅を突いてしまう。それこそがまさに、魔導を実戦に伴う難しさの証明にもなった。己がその状態に慣れれば慣れる程に、不意の自体に魔導が対応できなくなった瞬間。続けて魔導の
補助に慣れ切っていた身体の方まで足を引っ張られるのである。極めればそれは見事な戦い振りに昇華する事もできただろうが、今のヨルンはそれには遠かった。
 短い悲鳴が上がる。ヨルンの首に、リュガは静かに切っ先を向けた。ヨルンの剣が地に落ちた音を立てた後は、夜の闇には二人分の荒い呼吸を繰り返す音が響くだけになった。いつの間にか、リュガも息を荒らげて
いたのだった。疲れた訳ではなかったが、こんな風にヨルンに剣を向ける事も、リュガは厭う性質であった。
「俺の勝ちだな」
「……」
「そういえば、お前が勝ったら。俺はお前の物になる。そういう話だったな」
「……はい」
 もっとも、リュガはそれを承諾したとは言い難いのだが。ヨルンは頷いて、既に全身の力が抜けきっている様でもあった。鱗の間から流れ落ちた汗が、月の光で淡く光り、それはまた一段とヨルンを別の何かであるかの様に
見せかける。
「でも、俺が勝った時の話はしなかったな」
「はい」
「だったら、今までと同じ様に俺に接してくれ。それで、良いだろう」
 それには、ヨルンは答えない。新しく涙を浮かべて、リュガをまっすぐに見つめるだけだった。それが何を意味しているのか、今のリュガにはよくわかる。
「とにかく、これで……」
 溜め息を吐いて、リュガはとにかくヨルンを助け起こそうとした。こんな所で、こんな戦いをしている事だって、できれば誰にも知られたくはなかったのだった。そう思って、ヨルンに触れた途端だった。
 電撃の様な衝撃が、不意にリュガの体内を貫いた。瞠目して、リュガは息を呑む。
「リュガ……?」
 ヨルンが、戸惑った顔を見せた。ヨルンは自分が負けたという事も、たった今リュガに今まで通りにしろと無情な宣告をされた事も一時忘れて、リュガを気遣う様に。今度はヨルンから、リュガに触れた。
「触るなっ!」
 再び触れ合った途端に刹那感じる、痺れる様な感覚。思わずリュガは、ヨルンの腕を振り払った。しかしそれで、ヨルンの方は驚いた顔をしてから、更に心配そうにリュガを見つめる。
「リュガ。君、もしかして」
「違う。俺は」
 言葉で否定をしても、無駄であった。己の中に確かに芽生えたその思い。竜族の強欲は、あっという間にリュガの中で大きくなっては、狂おしい程に要求を繰り返す。目の前に居る、無様に負けた竜族を征服しろと、自らの
根付いた箱に対して主張を繰り返す。抗い難い欲求と共に、リュガの中に恐怖が蔓延する。こんな事をしたい訳ではない。今までヨルンに接してきた様に、これからもリュガは接したいのであって。ヨルンを震えさせていた他の
兵の様になりたくはなかった。それでは何も変わらない。
 すっかり混乱しきったリュガは、ヨルンを助け起こす事さえ失念して、その場から走り出した。部屋に戻って、乱暴に握っていた剣を閉まって。そこまでは憶えていた。それからの記憶は無かった。無心で眠った様な気もするし、
既に己の下半身に熱く滾っていたそれを両の掌で包んでは滅茶苦茶に擦り上げて、快感の海に溺れた様な気もする。
 ともかくも、気づいた時リュガは毛布を被って、寝台の上に蹲っていた。翼を持ったリュガがそうすると、傍から見たらかなり異様で滑稽な物体がそこにある様に見えた。気づけば、朝になっていた。窓から射す光が、
リュガに朝を報せて。まるで一瞬にして真夜中から朝に変わってしまったかの様な印象を与える。
「リュガ……?」
 部屋の入口から、声がした。ヨルン。同じ様に、帰っては来なかったみたいだった。ヨルンは明らかにリュガの異変に気づいていたし、取り乱したリュガの傍に自分が居ると良くない影響を更に与えてしまうという事に聡明にも
気づいては、今まで違う場所で時間を潰していた様だった。それでも、ずっとそうしている訳にもゆかずに、そっとリュガの様子を窺っては、静かに声を。もしまたリュガが取り乱す様ならば、謝ってからすぐにでも部屋を出られる
様にと備えていた。
 一方のリュガはといえば、ヨルンの声を聞いて明らかに動揺を見せていた。身体が震えて、そして自分の思いに囚われていたというのに、征服すべき相手がまた近くにきたという事がわかった瞬間に、自身の内で再び
暴れる衝動を必死で抑えていた。竜族は、強欲だという。その欲の深さは、竜族を作り出したと言われる竜神ランデュスの持つ業の深さがそのまま受け継がれた物だという。それが真実なのかはわからなかったが、リュガは
今までその竜の欲深さを大分甘く見ていた自分に気づいた。貧しい村の中では芽吹くはずもなかった欲の種は、様々な欲に塗れた外の世界では格別の肥料に囲まれたも同然の様に、すくすくと育ってしまったのだった。
 今まではヨルンに対して舌なめずりを見せる兵を見て、ああはなるまいと。またなる事はないと思っていた。その様になってしまうという事が、リュガには信じられなかった。しかしそれは、まだ自分の中にある欲望がただ
眠っていたに過ぎなかったのだと思い知らされる。今だってそうだ。ヨルンから離れて、大分落ち着いたと思っていたのに。声を聞けば。その存在が、すぐそこに。手を伸ばせば届く位置に居て。例えそうしたとしても、決して
拒む事はあるまいという確信を抱いてしまった瞬間。リュガの身体は再び熱に浮かされて、ヨルンを求めた。身体の変化に、リュガの心だけが置き去りにされていた。
「大丈夫?」
 リュガの様子を見ていたヨルンが、思い切って声を掛ける。ここでこうしていても事態が変わらない事はわかっていたし、何よりリュガがその様になってしまって、それが長引いては、リュガの今後にも影響が出る。ヨルンは、
それを拒むかの様に声を掛けた。例えその結果でこの後自分がリュガにどの様にされようと、そんな事は瑣事であるといわんばかりに、ヨルンは足を踏み出して。
「来るな。ヨルン」
「でも」
「俺は、おかしくなっちまったんだ」
「そうじゃないよ、リュガ。そうじゃ、ないんだよ」
「だったら、どうしてお前は平気なんだ」
「僕だって、平気なんかじゃない、でも、リュガよりはそれに慣れているだけ。それだけだから」
 足音が聞こえる。綺麗な竜の立てる足音は、それさえも綺麗にリュガには聞こえた。
「リュガ……」
 翼に、そっと手が触れる。布越しに触れられただけで、リュガは耐えがたい程の欲求を覚えて呻いた。
 堪えきれなくなって、リュガは乱暴に腕を払い、自分とヨルンの間にあって、今まで自分を包んでいたそれを投げ捨てる。その向こうに居た相手の腕を掴んで、引き寄せて、そのまま寝台へと押さえつける様にする。
 馬乗りになって、リュガは翼を広げた。広い部屋とは言い難い。壁に近い片翼がぶつかってから、閉じて。寝台に立てた腕だけではなく、閉じた翼をも存分に使って、リュガはヨルンを閉じ込めようとする。
 浅ましい呼吸を繰り返した。こんな自分を、ヨルンは呆れて見ているのかも知れない。それか、またか、と。そう思っているのかも知れなかった。結局は今まで自分を良い様に嬲っていた者達と、同じであると。
 しかしリュガには、ヨルンの考えは読めなかった。押し倒して、視線を交わらせても、ヨルンはまっすぐにリュガを見つめているだけだった。笑っている訳でも、泣いている訳でもなく。その表情からはどの様な気持ちの変化も
読み取る事はできそうにない。狼狽えている自分が、一層滑稽であるかの様にリュガは思えた。
「ヨルン。俺は、あいつらと……結局は、同じだった。ごめん」
 声を震わせて、リュガは謝罪をする。その間にも、手が伸びそうになる。リュガの着ている薄着のそれを力任せに引き裂いては、その奥にある身体を貪りたくなる。貪る術すら、田舎の出であり、また堅物でもあったせいで
碌々知りもせぬ癖に。
「そんな事ないよ。リュガ。……リュガ。僕はね、こんな身体だから。だから、他の人にまともに扱ってもらえる事がなかった。上っ面だけなら、いくらでもそうしてもらえたけれど。でも、心の中では……。実の家族にだって、
そうだったんだ。だからね。だからこそ。短い間だったけれど、僕の傍にリュガが居てくれた間。ああ、この人は大丈夫なんだって、そう思えたんだ。いつかは、そうじゃなくなってしまう時も来るのかも知れないけれど。でも、
それまでの間くらい、僕にもこんな風に付き合える人が居てくれるんだって」
「ごめん。俺」
「謝るのは僕の方だよ。だって、元はといえば僕の方からそうしたんだから。それで、良かったんだよね。リュガが言った通り。それで良かったはずなのにね……。そんな関係になっちゃ、いけなかったのに。なのに僕、
リュガとなら。その……きっと、嫌な気持ちでする様な事もないんだろうなって、そう、思って。ごめんなさい。リュガ。君はずっと、そんな事じゃなくて。ただ、僕の事を大切にしてくれたのに。とても、大切にしてくれていたのに」
「俺は。俺、は、あぁっ……」
 また、込み上げてくる。どうしようもない欲の深さが、真底からせり上がってくる。嘔気のそれに似ている様で、しかし喉元に衝撃を与える事はなく。それはただ、リュガの手と舌を。そうして既に熱くなっている下腹部を
急かす。例え何も知らずとも、それらを使って組み敷いた相手を味わうのだと示唆していた。
「リュガ。好きだよ。僕はリュガが好き。色んな意味で、ね。リュガは僕の事、好き?」
「好き、だ。でも、俺の、は」
 ヨルンが言っている意味はわかる。リュガには、その自信、というよりは確信が無かった。ヨルンがリュガを見て涙を浮かべたり、決闘だと言い出したその行動の根源にある思いを、自分が抱いているのか。今となっては尚
わからない。ただ、守っていたいだけだったのか。ただの友人としていたかったのかすら。今の、ただ美しい竜に欲情しきっているリュガには。
 ヨルンが、柔らかく笑う。そっと、手を伸ばして、リュガの寝台に立てた腕に絡みつく様に触れる。
 リュガは、振り払わなかった。
「だったら、さ。確かめてみようよ……。僕と。本当に今のリュガが、他の人達と同じなのか。リュガの気持ちが、なんなのか。確かめなくちゃ、わからないよ」
「良いのか、俺で」
「君だから、僕は態々決闘まで申し込んだのに。それに、今の僕も……我慢しているんだけど。そろそろ」
 不意に、ヨルンの表情が僅かに変わる。無表情が崩れて、それから息が荒くなって。たったそれだけで、悩ましく変化した竜がそこに居た。
「このままじゃ、お互いに辛いだけだと思うよ、リュガ。僕も、辛い……。頑張ったのに、リュガにあっさり負けちゃって。リュガだけじゃないよ。負けた僕だって、今、欲しくて堪らないんだ」
「ヨルン」
 ゆっくりと、リュガの身体が降りて。ヨルンはそれを抱き締める。
「温かい。胸が、凄く煩い。でも、いつもと違う……。いつもは、それでも怖いんだ。好きでもない人のを欲しがってる自分が、とても怖い。でも、今なら」
 ヨルン僅かに顔を寄せる。それに、リュガは応えた。舌が絡み合って、身体が触れ合って、尻尾がもつれあって、身体が溶け出して。
 その全てからヨルンと一つになる気がした。

 部屋中に淫靡な臭いと音が漂う。
 その元となる一つの寝台の上では、天井を仰いだリュガが口を開け、涎を垂らしながら何度も喘いでいた。
 赤茶色の鱗に覆われた無骨な竜の青年は、他人から与えられる初めての感覚にあっという間に溺れていた。もっともそれにしたところで、まだまだ序の口といったところであったには違いないのだが。
 寝台に座り込む形で足を開いたリュガの股間に、ヨルンは顔を埋めて、既にその割れ目から飛び出した黒くて長い、竜族の物を咥え込んでいた。先に服を脱いだリュガは全裸のまま、与えられる刺激に声を上げ、そして
ヨルンは目を細めながらリュガを味わい、脱げる所は脱いで下半身の方は露わになっていた。
「ヨルンっ! 駄目だっ、あっ。あぁぁ!!」
 リュガの咆哮が上がる。下腹部から上る快感と欲求を、なんの遠慮もなく解き放つ。リュガの割れ目が細く引き締まり、内部に残った陰茎の部分を締め付けると、今度はそれが脈打って精液を勢いよく吐き出す。それは
全てヨルンの口内へと達し、とうのヨルンはそれを必死に受け止めていた。時折飲み切れなくなって口を離して咳を繰り返せば、そうしている間にも飛び出した精液がヨルンの顔を白く汚す。光沢のあった翡翠の鱗は、今は
白濁した液体に汚されて、輝きを失っていた。その様は、例え快楽に溺れていてもリュガの心を傷めつける。汚されてはじめて、ヨルンの肉体はようやく人並みの物になるかの様でもあった。もっとも、それはあくまで美しい
鱗についての話であって、その様に精液を顔から滴らせているヨルンは更にリュガの興奮を呷ったし、それには綺麗な物を汚しているという背徳感が一役買っていたのは言うまでもなかったが。
「リュガの、まだ硬い。一杯我慢してたんだね」
 ヨルンは口元を拭うと、どうにか笑みを浮かべてまたリュガの陰茎を口に含み、汚れを綺麗にする。互いが合意に達していたし、その上でヨルンも熱に、竜族の欲に浮かされていたのだから、さっさと先に進みたい気持ちも
あったが、リュガが暴走する様な事があってはいけないと丁寧にヨルンはその相手をしていた。まずは口で含んで、何も経験の無いリュガに優しく刺激を与えたし、何度か吐き出させもした。ヨルンと比べれば底なしとも言える
体力のリュガに対するには、最初からヨルンの身体の奥まで使っていては身が持たなかったのである。
 一頻りリュガの物を綺麗にして、綺麗にしている間にまた汚れて、綺麗にしてと繰り返してからヨルンは口を離す。顔に付いた粘液を毛布で拭い、そして胸を上下させていたリュガにくっついてから、口を合わせる。既に
舌を絡ませる事については学習をしたリュガはヨルンに応え、互いの舌が触れ合う度に、透明と半透明のそれぞれの唾液が入り混じっては、口から溢れて互いの身体を汚していった。
「ヨルン」
 リュガが、そっとその肩を押す。抵抗する事もなく、ヨルンは倒れた。そこへすかさずリュガは詰め寄る。ヨルンはできるだけリュガがしやすい様にと身体を動かし、足を開いた。
「リュガ。僕を、リュガの物にしてください」
 懇願をするヨルンに、リュガはもう確認をしなかった。ヨルンが嫌らしく足を開き、尻を上げて見せつけたそこに自らを宛がい、貫く。リュガを味わっている間にヨルンも手で慣らしていたので、そこは思っていたよりも容易く
リュガを受け入れる。リュガはすぐに虜になった。ヨルンが苦しまない様に気を遣いながらも、腰を不器用に使う。初めての相手に、初めて自分の陰茎が肉に包まれて扱かれる感触に、溺れた。
「ヨルン……?」
 ふと気づけば、ヨルンが涙を流している事にリュガは気づく。既にリュガの陰茎は全てヨルンの中に入っており、それが苦しいのかと、問いかける様にリュガは名を呼ぶ。ヨルンはそれでリュガの言いたい事を察したのか、
笑みを浮かべて首を振った。
「大丈夫。痛くない。それに、凄く気持ちいい……。リュガのが、当たって。僕の中、リュガので広がって……。んっ。凄い」
 ヨルンはリュガが興醒めする事を恐れるかの様に、そういって自らも腰を振る。そうすると今までよりも更に気持ち良くなって、リュガは声を上げた。
「ただ、それだけなの。凄く気持ち良くて、嬉しくて。リュガが、気持ち良さそうにしてて。それも嬉しくて。そう思ったら、なんだか。……変だよね。初めてでもない癖にね。僕の身体なんて、とっくに汚れきってるのに。そんな
僕でも、リュガの事を喜ばせられるんだって思ったら、僕」
「お前は、汚れてなんかいない。ずっと、綺麗だった……。見た目だけじゃなくて、中身だって」
「リュガ……」
 軽く口を合わせて、それからリュガは全身を擦り付ける様にする。そして、激しく腰を打ち付けはじめた。叫び声に近い喘ぎをヨルンが上げる。互いの憂いも何もかもを、今だけは快楽に押し流そうとする。
「リュガっ! もっと、もっとしてっ!!」
 既にヨルンの肛門は開ききってはリュガを迎えて、幾度とない挿入によって白い泡に包まれていた。リュガはその中で必死に快感を得て、射精を目指す。なまじ挿入する前にヨルンの口内で何度かの絶頂を味わっていたので、
中々すぐに達する事ができないが、それさえもヨルンは愛おしそうに見つめていた。宝物を扱うかの様に触れてばかりいたリュガが、今だけは乱暴にヨルンを味わうのを、けれど本当に乱暴にされている訳ではないのだと
ヨルンは知っていた。
「ぐぁああ!!」
 雄叫びを上げて、リュガが射精をする。口で散々吐き出したとは思えない量が、叩きつける様にヨルンの体内で弾けた。
「あっ。あぁっ。出てる。リュガの……あぁ……」
 リュガが陰茎をしゃくり上げる度に、ヨルンも身体を痙攣させた。一ヵ所で繋がったそこから、ヨルンの身体の全てが支配されてしまったかの様に、ヨルンは震えた。その度にリュガを更に締め付けては射精を促した。
「あっ」
 ヨルンが一際高い声を上げた時、ヨルンの陰茎からも触れもせずに精液が飛び出した。それは紛れもなくヨルンが、他の男とは違いリュガを心から受け入れている事を。それどころか他の男の精液に穢された自分の
腸内が、リュガの精液で清められ、そして自分の全てがリュガの所有物となる事に途方もない喜びを抱いている事を示す物でもあった。先程までリュガを懸命に受け止めては優しく導く様にしていたヨルンの表情が、とろんと
した物に。愛する相手に征服されたばかりの幸福を覚えた雌のそれへと変わる。
「リュガ。もっと、もっとぉ……」
 強請るヨルンに、リュガは何も言わずに腰の動きを再開させる。どの道、初めて相手を貪る事を。それが最良の相手であると知った若い雄の身体は、留まる事を知らなかった。
 幾度となくヨルンの中に吐き出し、ヨルンが痙攣をして気を失うと。リュガは優しくその身体を抱き締め。そしてヨルンが意識を取り戻すと同時に再び懇願をするのを見れば、またリュガはヨルンの穴に突っ込んだ。最後は
互いに疲労の極致に達しながらも、互いを励まし合い、リュガはヨルンの中に最後の一滴まで種を出しては。それから糸が切れた様に二人は眠った。

 次にリュガが目覚めた時。あれ程身体の中に澱の様に溜まっていた欲求は、綺麗に無くなっていた。
 それでも、視界に広がる、自分の胸に身体を預けて静かに眠るヨルンの姿と。荒淫の果てにいまだに部屋に漂う臭いが、あのやり取りが現実の物であった事を教える。
 どれ程の時が経っていたのだろうか。朝になるまでこの部屋で震えて、そこにヨルンがやってきたというのに。今もまた、朝だった。それ程までに自我を損なう事があるのだと、改めてリュガは竜族の欲深さへの自覚と、そして
僅かながらの恐怖を覚える。
 それから、ヨルンを。いまだに身動ぎ一つする事もなく眠り続けるその竜を見つめた。
 角はあるものの、翼の無い。リュガと比べれば華奢とも言えるその身体は、酷く汚れていたし、貼りついた精液の痕などあちこちに見受けられる。合意の下で行われたはずなのに、それを見るとやはりリュガの胸は
痛んだ。窓から射し込む朝の光を受けて、それでもその鱗は汚れている事もあって、いつもの様な輝きを見せる訳ではなく。それでも、やっぱりヨルンは綺麗だった。
 その瞼が、静かに開かれる。最初の内、ぼうっとして、それは自分がどこに居て、今まで何をしていたのかすらわからぬかの様にしていたけれど、その内に目の前のリュガに気づくと、視線をようやく合わせる事ができる。
「おはよう」
 ヨルンが、微笑む。リュガは、何かを言おうとして、しかし何も言えなかった。今までの様にしてほしいと言っていたのに、こんな風にヨルンを抱いてしまった事。謝罪の言葉。沢山の言葉を言わなければならないのに、ヨルンの
笑顔は、その全てを許すと何よりも雄弁に物語って。腕を伸ばした。もう、乱暴に扱おうとする欲求も湧いてこない。ただ、胸の内に。もっと近くに、招いては、抱き締める。翼の無いヨルンの身体は、とても抱き締めやすかった。
 その日から、リュガとヨルンは前よりも親密な関係である事を互いが自覚し、頷いては、それでももっと深くをと二人で目指す方向を決めた様だった。
 今までの様に楽し気にヨルンは話して、リュガはそれに頷く。当たり前の日々の中に、時折は一糸纏わぬ姿となっての逢瀬が加わる。あれ程恐れていた様な気がしていたのに、いざそうなってしまうと、それはすんなりと
二人の生活に馴染んでいった。涙を流して決闘を申し込んだ事も、それに打ち勝ったというのに今までと同じ様であってほしいと願った事すら、あまりにも簡単にそれは呑み込んで。そうして二人の関係に小さくて、大きな
変化を齎すだけに留まった。
 道の上を行く。今日は、二人揃っての休暇を貰って、街へと繰り出す日だった。こういう時、リュガはヨルンに頼り切りになってしまう。城の中では、既にリュガの方が決闘という形の上ではヨルンよりも強かったし、また
ヨルンに思いを寄せる相手からヨルンを守るためにも、リュガは常に頼られる存在になっていたけれども、ランデュス城を一歩出て城下町へと向かえば、立場はまったくと言って良い程に逆転する。リュガは筋鐘入りの
御上りさんであったし、それとは対照的にヨルンは明るい性格もあって街中を歩くのには慣れていた。ただ、出かける際は常に大きな外套に身を包んで、顔も隠していたが。それに、リュガは何故と問いかける事もない。竜の
爪の中でさえ、あれ程の影響力を持っているのだから。外を歩けばどの様にヨルンが見られてしまうかなどというのはわかりきっていた。めでたく恋人となった二人には、その様な視線は邪魔なだけであった。
「リュガ。何か良い物は見つかった?」
 城下町の、煌びやかな店が立ち並ぶ一角へと足を踏み入れて。その中から適当に選んだ店の中で、ようやくヨルンは顔を露わにしてリュガに問いかける。外ではどうなるかわかったものではないが、ここはランデュス城に
近い店である。当然ながらこの様な場所に店を構えられるという事は、それだけで大変に名誉であるのは間違いがなかったし、同時に竜神ランデュスのお膝元で商いをするからには、あこぎなやり取りなどは認められては
いなかったので、ヨルンがその姿を見せたところで野暮な騒ぎを起こす輩も居なかった。また、もしその様な輩が出た場合、店の者は速やかに追い出さなければならなかっただろう。
「いや。その……とても、高いんだな」
「ふふ。そうだね。この辺りの店って、結局はお城から近いからさ。そういう関係者向けの……なんて言ったら良いのかな。御用達っていうの? 公式の場でもきちんと見せられる物を扱っていなくちゃいけないみたいだしね。
この店は特にそうみたいだし。この間なんて、宰相のギヌス・ルトゥルー様がやってきては、安くて良い物を寄こせなんて騒いでたらしいよ」
「ギヌス様はケチなのか」
「けっ……あはは。違う違う。ギヌス様は翼族や爬族への説得や交渉のために、必要なら出向かなければならないからね。ギヌス様自体は、そういうお洒落は気が進まないそうだけど、だからといって襤褸を纏って
行く訳にもゆかない。だから、この店に来たって訳。でも、ギヌス様は本当にランデュスの国民のために長い間その身を粉にする様に働いてくださっている方だからね。それなのに、贅沢も好きじゃなくて。だからここで、
相手と、自分を遣わした竜神様の体面を保てる物を。けれど民が出した税を徒に使いたくはないから、できるだけ安くしてほしいと。そうお願いしにきたって訳。勿論、店側の方は大変だったみたいだけどね。ギヌス様から
お金を頂くなんてとんでもない事だし。まあ、ギヌス様が足を運んだっていう噂だけで、お店としてはお釣りが出るくらいだけどさ。それだから一級品の物を渡したいのに、あまりに良い物だとギヌス様はお断りされてしまう
そうだから。また、ギヌス様っていうのは、贅沢はしないのにそういう物を見る目は凄まじいみたいだし」
「つまり面倒な客だった訳だ」
「……。リュガ、君のそういう、素晴らしく素直なところは僕、大好きだけど。お城の中ではあんまり言っちゃ駄目だよ」
 腹を抱えて、ヨルンは言う。よくわからないが、リュガにとっては雲の上に居るかの様な相手であってあまり興味を惹かれないし、またそれはヨルンとて変わらないであろうに、ヨルンはリュガの言葉を聞いてそれがおかしくて
堪らぬかの様であった。一頻り笑ってから、目尻に浮かんだ涙をヨルンが指で払う。それがまた、生きた宝石の様に輝いていて。思わず店の者も目を奪われている様子を見せた。
「やっぱりリュガって面白い。そういう感性っていうのかな、良いよね」
「どうせ田舎者だ」
「また、そんな事言って。悪く言ってる訳じゃないのに。ああ、良く笑った」
 落ち着いてから、店を出る。結局、リュガはこれという物を買う事はなかった。そもそも値段がべらぼうに高いので、手持ちでは到底足りなかったのだが。やっぱり、都会は怖いと思う。宝石一つが、村では家をいくつも
建てては畑を買い取って、そのまま数年くらいは贅沢に暮らせるくらいの額で当たり前の様に棚に並んでいるのだから。もし傷でもつけてしまったらと、リュガはそちらの方が気になって仕方が無かった。
 そのまま、今度は軽食を取る事のできる店へと転がり込む。そちらは城から少し離れて、かなり質を落とした物を選んだ。何も食べない訳にはゆかなかったし、質の低下に伴って値段も手頃となる。もっともリュガにとっては、
ご馳走である事には変わりないが。城で出される食事は、兵の体調を鑑みた物であって、味はあまりよろしくないと評判であった。リュガには口に入ればそれだけで充分だったが。
「美味しいね。リュガ」
 机を挟んだ向かい側の椅子に着いたヨルンが、非常に上品な仕草で食事を口に運んでゆく。その様な仕草を一つとっても、やっぱりヨルンは他とは違っていた。貴族か何かの出なのかと聞いたが、そうではないらしい。
「だって汚い食べ方すると幻滅した様な目で見られるから」
「ああ……」
 なんとなく、言いたい事はわかる。確かにこんな見た目のヨルンが手づかみであれやこれや、なんていう状態だったら。恐らくリュガも多少なりとは閉口しただろう、リュガ自体が田舎者であるので、今ヨルンに向けている
気持ちが一瞬にして無くなるなんていう事はないだろうが、それでもなんというか、そう。致命的にそれはヨルンに似合わないのであった。ヨルンもその自覚があるから、己の挙措には気を遣っている様でもあった。確かに
その見場のせいで迷惑を被る事は多かったが、逆に助けられる場合も多かったのだと、よくよく弁えているのだった。
「辛いなら、別に今くらいは行儀悪くても良いぞ。ここは他の客からあんまり見えないみたいだし」
 今居る店は居酒屋に近い形態をとっているのか、店内は薄暗く雰囲気を重視した造りになっている。決して広いとはいえないが、布で仕切りが作られており、少なくとも態々各々の個室に押し入らない限りはヨルンの姿を
見られる事もなかった、そう思って口にするが、ヨルンは慌てて首を振る。
「嫌だよ。それに、もう慣れちゃったし。いくらリュガに気安くしても良いって言ったって、やっぱり僕も恰好悪いところや、駄目なところは見せたくないんだからね。その、僕だって、恰好良いところ、見せたいし」
「それはもう充分に見せてもらっているけどな」
 竜族の決闘という点において、ヨルンはリュガに劣るのかも知れないが。しかし普段の魔導に対して熱心に打ち込む姿はリュガにとっては憧れでもあった。同じ様にリュガがしようとしてもまったくできはしなかったし、
見兼ねたヨルンに最近では更なる個人授業を受けてはいるものの、多少改善するに留まった。加えて、空を飛ぶには多少は魔導の心得という物は必要だった。感覚だけでそれを成す者も居るには居るが、それは
結局のところ天から魔導の才を持ち得る者を意味しており、少なくともリュガは何も知らぬまま空を飛ぶ事ができなかった。リュガの住む村に居た翼を持つ者達も、ほとんど同じである。
「リュガが空を飛ぶところ、見てみたいな。きっと凄く恰好良いんだろうな」
「飛べないかも知れないがな」
「そんな事ないよ! だから僕だって、今きちんと君に色んな事を教えている訳だし」
「確かに。お前の説明はわかりやすいが」
 魔導に対して基礎からして無知であるリュガに、ヨルンは丁寧に教えてくれる。ただ、もし空を飛べた場合は同じ団に所属していたとしても、リュガは空兵として重用される可能性が高いので、そこのところで少し躊躇いが
あった。そんな事は気にするなとヨルンは言うが、そんな事でヨルンを助けて今に至っている以上は、どうしてもリュガには心配の種となってしまう。
「そういえば、ツェルガ様って、まだ出てこないみたいだな」
「ツェルガ様? あぁー……。そうだねぇ。そういえばね」
 出された料理を粗方食べ尽くして空の皿が積み重なり、そろそろ城に戻ろうかというところになって、リュガはふと気になった事を口にする。ヨルンもそれを聞くと、すぐに頷いた。
「竜の牙が前線で頑張っているからね。前も言ったけれど、ツェルガ様はその補助でどうしてもお忙しいみたいだね」
「俺達も前線に出る事があったら、会えるのかな」
「どうだろう。そりゃ、そうなったら当然ツェルガ様の指揮下に入るから、遠くからでも顔を見るくらいはできるだろうけれど。でも、竜の牙が頑張っている間は、もっぱら僕達もツェルガ様と一緒で、ランデュスや周辺の治安の
維持が仕事になるしね。僕達が戦場に立つって事になったら、それは西のラヴーワとぶつかるというよりは、北の翼族……はまあ、今は決定的に不仲って訳じゃないか。南の爬族の方とはぶつかる可能性はあるね。ただ、
爬族は爬族で僕達の味方をしようとする人も居て、あちらは同族の中でも仲違いをしている状況だから、今一手が出しづらいんだよね。だから、やっぱり僕達はまだ戦場には立てないし、ツェルガ様の顔を拝見するのも
当分は先の話になるかも知れないね」
「戦か。当たり前だが、こうして兵になった以上はいつかは誰かを殺したりするんだろうな」
「そうだね。……怖い?」
「どうだろう。今は怖くないと思っているが。そうしなければならないし。でも、いざそうなったら、上手くは戦えないかも知れない」
「リュガらしいね、その返答は。……でも、もしそうなったら。躊躇わないでね、リュガ。僕達は竜神ランデュスの先兵。そのために今ここに居るに過ぎなくて、その役割が果たせなくなってしまったら、どう扱われるなんて
わからないから。リュガは優しいから、そんな事になってしまわないか。僕は心配だな」
「お前は大丈夫なのか、ヨルン。というより、ヨルンは戦には?」
「ほとんど無いよ、いまだにね。だからリュガも今すぐって事にはならないと思うな。僕が出たのも、やっぱり爬族の中の、嫌竜派との小競り合いで。それも別に殺し尽してしまう様なそれではなかったから。軽くぶつかり
あったりはしたけれど、ほとんど調練の一環みたいな感じだったかな。まあ、リュガと決闘してわかった通り。僕には力が足りないし、リュガだってまだ新人で、だから戦場でどう動くのかとか、そういう事に対する
訓練はまだまだ必要だからね」
 確かにリュガ当人の力はそれなりにはなっていたが、しかし戦という者は一人でする訳ではない。軍人が寄り集まって一軍となり、それを指揮する者に導かれて攻めるも守るも自在でなければならない。そういう意味では、
今はまたリュガも兵として一人前とは言えなかった。今はまだ兵としての基礎的な体力造りや、魔導を扱う敵の対処法など、非常に個人的な調練に留まっている。もう少ししたら、兵同士が呼吸を合わせて一丸となる調練が
始まるのだった。竜族は確かに強いが、その強さを十全に発揮するにはやはり相応の教育という物が必要であり、新兵を雇い入れたとしてもそれが他種族を圧倒的に凌駕する力を発揮するには時間が掛かった。なまじ、
竜族は長命である反面人口はそれ程多くはなく、徒に命を落とす様な真似は憚られている。今リュガが受けている調練や、また兵として既に三年目であるヨルンがそれほど戦場に立った事も無いというのも、決して悠長に
事を構えているという訳ではなかった。何より竜族には、強欲というある種の弱点がある。戦は、その者の正気を奪い取りやすい。獣の赤い血を浴びた竜族は、それに酔えばいくらでも残虐になり、前が見えなくなる。自制を
知らぬ竜族は、いくら強いとはいえ無防備に等しかった。ヨルンに対してそれを抱いたリュガも、その説明を受けた時は納得できなかったが、今ならばそれに頷く事はできた。戦場であんな状態になってしまったら、それこそ
軍令どころではなくなってしまうだろう。
「そろそろ帰ろっか。あんまり遅いと怒られちゃうしね」
「そうだな」
 席を立って、会計を済ませて外に出る。既に陽は傾いていた。楽しい時間は、あっという間に過ぎてゆくのだと、リュガはここに来て知った。
「そうだね。楽しくて、楽しくて。一日なんて、あっという間なんだね」
 それをヨルンに伝えれば、ヨルンも笑って頷いてくれる。恋人としての甘やかな時間は、いつだって蜜の様にとろけては、あっさりと口内で消えてしまう。食べたという実感を伴わずに、それでも隣を見れば、そこには。
 夢でもなんでもない現実として、自分が見い出す事のできた相手が居る。たったそれだけが、リュガの心に差した僅かな不安を払拭してくれた。
 ランデュス城が近くなると、ヨルンはフードを取って顔を露わにする。そうするとまた夕日を受けた翡翠が輝いて、それは非常に良い長めに見えた。赤々と燃える太陽がその日最後に届ける光を、月よりも一足先に受けては、
月よりも尚美しく輝くヨルンの姿。それが自分の恋人で、しかも自分の事を好いていると全身で表現をしてくれているのだから、リュガはまた少し、自分が夢か何かを見ている様な気分になる。リュガの視線を、ヨルンは首を
傾げて受けては、それでも笑みを浮かべたままで。そんな事は全て杞憂に過ぎないのだと、これ程に教えてくれる物もなかっただろう。
「ねえ。リュガ。戻ったら、その……いいかな」
「え? あ、ああ」
 夜の誘いを受けて、リュガは少しの間を置いてから応える。いまだにその関係には、少し慣れていなかったりする。それでも、リュガも若い男である。こうして思いが互いに通じてしまえば、その欲が高まった時にする事は
決まっていたし、何よりまた竜族の欲を抑え込もうとしておかしくなってしまう事を恐れていた。少なくとも今のリュガはまだ精神的に未熟である点は否定できなかった。もっと歳を重ね、何よりも経験を積んだ竜族ならば、
その本能とも言える衝動に抗う事もできたのかも知れないが、リュガはそうするにはあまりにも若すぎたし、またそれを強いるにはヨルンは美しすぎたのである。
 寝台の上で睦言を交わすのにも、慣れてきた。夜は深まり、部屋は薄暗いというのに、僅かな光さえあるのならば、ヨルンの身体は怪しく蠢く様を惜しげも無くリュガの目に晒した。身を沈めれば、ヨルンは腕を伸ばしてそれを
抱き留め、優しく包んでくれる。口を開けて、二つの箇所で繋がる。竜族の鱗が重なっている場所は少し硬く感じるのに、繋がっているそこだけは酷く柔らかく、それでいてどちらも吸いつく様にしてはリュガを絶頂に導いてゆく。
「リュガ。これ」
 行為の後。いつもの様に片方の寝台で散々に乱れた後に、眠るためにもう片方に移ってから。裸のままヨルンは小さな箱を取り出して、リュガへと手渡す。
「これは?」
「お守り。まだ、必要無いかなって思っていたけれど。やっぱり渡せる内が良いのかなって思って」
「お守り、か」
「戦場で命を落とさない様に、こういう物の一つや二つは持っていたって、おかしくはないから」
 箱を開けてみれば、昼間の店で見ていた物にそれは似ていて。思わずリュガは驚く。
「高かったんじゃないのか」
「そんなにするもんじゃないよ。どうせ凄く高いのなんて、君は受け取ってくれないだろうし。あ、僕も勿論そんなにお金無いからね。でもこれは、少しくらいの魔力なら籠めていられる物だから。だからといって、君が危険な時に
身替りになるとか、そんな大それた物ではないけれど……。一所懸命、祈ってみたんだ。効果があれば、いいのにな」
 宝石というには、いくらか輝きの足りぬそれには小さな穴が空けられていて。そこに紐を通せば、首から下げる事もできそうだった。よく見れば箱の中には細い鎖もある。
「戦に出る時に、つけてくれたらいい。それ以外じゃちょっと邪魔になっちゃうかな。調練の時にあんまり浮ついた恰好はできないし」
「そうさせてもらう。……その。ヨルン。ありがとう。でも、俺は何も用意なんて」
「いいんだよ。僕がしたくてした事だから。だからね、リュガ……」
 何かその先を、ヨルンは告げたそうだったが、そこから先の言葉が出てくる事はなかった。代わりに、また強請ってくる。寝台を別にしたばかりだというのに。リュガは貰った宝石を箱に戻して傍の棚に置くと、またヨルンを腕に
抱いた。何かを不安に思い、しかし告げる事のないヨルンを、救いたかった。
 自分の抱く思いと、寄せる愛とで、それができると。できる様にと。また二人の影が重なる。

 月日が流れてゆく。
 あの日から、だったのだろうか。共に在るはずのヨルンの表情に、僅かな陰りが生じていたのは。リュガはそれを知りながらも、しかしどうする事もできなかった。気になる事や、具合でも悪いのかと問い質しても、ヨルンは
悲しそうに微笑んでから首を振るだけだった。
 ある日、ヨルンが姿を消した。
「ヨルン……」
 いつの間にかヨルンは居なくっていて、一人部屋に戻ってきたリュガはがらんとした室内を見渡して途方に暮れる。こんなにもこの部屋は広かったのだと、嫌でも思わされた。元々、広い部屋という訳ではなかった。勿論
田舎に居た頃のリュガにとって広くはあったが、それでも二人で使う分には快適とまでは言えず、だからこそ何をしても、自分の視界にその人が居てくれたのだった。
 今は、どこを見てもその姿を認める事はできない。忽然と姿を消した翡翠の輝きだけが、脳裏にちらつく様に甦る事を繰り返すだけだった。
 リュガは、ヨルンを捜した。というよりは、求めた。翌日から知る限りの場所を。それはヨルンと共に歩いた場所ばかりで、だから今一人で歩くというのはとても辛い事だったけれど。それでもそこに、ヨルンが居てくれるならと、
一縷の望みを託すかの様に練り歩いた。同僚にも、聞いてみた。一時は自分とヨルンの関係のせいで距離を置く様になっていたが、やはりリュガは腕前という点において一目置かれていたので、声を掛ければ彼らはきちんと
リュガに応対をしてくれた。それでも、彼らもまたヨルンの行方を知らなかった。それどころか、それをリュガが知っているのではないかと驚いては、逆に訊ねられるという始末であった。誰も彼もが、不思議な顔をしていた。
 ヨルンは脱走をした。二日も過ぎれば、そんな話が嫌でも聞こえてくる。頭を抱えて、リュガは蹲った。自分は、何かを間違えてしまったのか。ヨルンは本当は自分の事が嫌で、それが言い出せずに自ら出ていってしまったの
ではないかと、煩悶を繰り返した。そんなはずはない。そんなはずはないと、そう思いたかった。最後だって。最後に身体を重ねた時だって。あんなにも互いを求めていたのに。ヨルンはいつだって情熱的にリュガを求めて
いたし、貫けば澄んだ声を上げ、そのまま吐き出せば涙を流して自らが喜びに浸っている事を伝えてくれていたのに。あれは全て、嘘でしかなかったのだろうか。そんなはずは。
 何か、他に理由があるのかも知れない。リュガにも言えない、大切な事で。自分の大切な家族に、何かがあったとか。その線は無いなと、すぐにリュガは自分を否定してしまうのだが。ヨルンは言っていたのだから。自分は
家族にすらその見場のせいでおかしな扱いを受けていると言っていたのだから。もし家族の下に戻るにせよ、一言でもリュガに断りがあっても良かったはずである。
 しかしその考えを認めるのは、リュガにはとても恐ろしかった。ならば何故と思えば、結局のところ自分は捨てられたのだという結論に至るしかないからである。身を切られる様な思いだった。自分の中で、こんなにもヨルンの
存在が大きくなっていた事を、失って初めてリュガは思い知っていた。田舎から出てきた何も知らぬ青年。自分でも、そう思っていた。だから周囲からは浮いて、真っ当に扱われる事も少ないだろうし、自分は金を稼いでただ
自分の家族や同じ村の者に少しでも豊かな暮らしをさせられれば、それで良いと。何もかもが、反対なのだった。ヨルンはまともに扱われない自分に対してリュガだけは違うと、そう言ってくれた。そうではなかった。リュガも
また、その様な状態にある事には変わりなく。そしてそんなリュガを見出しては、誰かを大切に思う事、恋する事、愛する事の全てをヨルンは教えてくれたのだった。そうして教えるだけ教えては、消えていった。残された
リュガには、耐えがたい乾きだけが襲いくる。こんなにも自分が愛していた事を、ヨルンは知っていたのだろうか。リュガ自身ですら気づかなかったこの激しい思いを、リュガの中に刻み込んで。その発散の仕方を当人に
ぶつける事以外では何も教えてくれなかったヨルンを、一層の事リュガは怨んでしまいたかった。
 掌にある宝石に、目を落とす。ヨルンがくれた物だった。憎んでしまいたかった。憎んで、罵って。この手にある小さな輝きを、窓の外へと投げ捨ててしまいたかった。
 そんな事が、できるはずもなく。残ったその輝きが、本人の一部であるかの様に縋る事しかできなかった。本物は、もっと眩かった。そう思うだけであった。
 ヨルンが姿を消してから、更に数日後。リュガの生活は、色を失った様だった。正確には、輝きを損なったとも言えたが。
 部屋の中が、暗くなったと思う。誇張でもなんでもなく、ヨルンの姿は光をよく照り返していたし、それと比べてリュガのなんと地味な事か。ヨルンがそこに居てくれるだけで場は明るかった。ただ明るいだけではなく、楽しかった。
 月を損なった夜の様に、何もかもが暗かった。大きな輝きを損なった今、小さな星の輝きも。掌に残った小さな星も、リュガの乾きを癒す事はない。もっと大きくて、掛け替えのない物が自分の傍に居てくれたのだと、
幾度となく思い知らされるだけであった。
 丁度、そんな時であった。何やら周りがざわついているのに気づいたのは。
 リュガは最初、それらに関心を示さなかった。ヨルンが消えてしまった事に比べれば、例え自分が明日にでも戦場に送られると知ったところで、それ程に動揺はしなかっただろう。ヨルンを、捜しに行きたいと思っていた。しかし
それをすれば自分は脱走兵の謗りを免れず、村への仕送りも滞る。今年は一段と季節には恵まれていないらしく、大変だったと、ボロボロの手紙には記されていた。それでもリュガを気遣う言葉ばかりのその手紙を思えば、
自分だけがその様に恋に現を抜かしていた事もリュガは恥じた。それでも、ヨルンを。竜族の欲求とはまったく別種の痛みが、リュガを苛んだ。心は今すぐにでも捜しに行きたいと願っているのに、そうする事ができないのだから。
「ようやくツェルガ様がおいでになられるらしい。いい加減に俺達新兵に対して一度はお顔を見せておきたいっていうのと、その新兵の中から、これはと思う者を見込んで。自らの親衛隊の中に加えるんだってさ」
 誰かがそれを口にしていた。誰だったのだろうか。同期の兵だった事は憶えている。その兵はツェルガに選ばれるのは大変に名誉な事だと、興奮を隠しきれぬ様に言っていた、気がする。
 リュガには、どうでも良かった。何故なのだろうか。自分の本来の目的は、そうであっただろうに。翼を持ちながら、翼を持つ竜族が多く志願する竜の牙ではなく、竜の爪の門戸を叩いたのだって、出世を少しは考えての
行動だった。だからこそ自分の指導者となるツェルガがようやく顔を見せるというのならば、あらん限りの力を見せつけては取り立ててもらい、出世をして。その分増えた給金で、更に身内を楽にする事ができたはずなのに。
 そのためだけに、ここに来たはずなのに。わからなくなってしまった。リュガには、わからなくなってしまたのだった。何もかもが。
 整列した兵の中に、リュガは交ざる。間もなくツェルガが現れては、軽い挨拶を。それからしばらくは留まって、新兵の中からこれはと思う者を選び出すはずである。その時になっても、やっぱりリュガの心はそこには無かった。
 ざわつく声がする。ツェルガが、来たのだろう。ただ、少し様子がおかしかった。リュガはさっと辺りの兵を見渡した。彼らは一様にある一点を見つめては、明らかに狼狽えていた。長い間留守をしていた筆頭補佐であり、竜の
爪の団長であるツェルガ・ヴェルカがようやく姿を見せたのだから、確かに彼らがざわつくのは理解できたが。しかしそれにしては、それはなんとなく少し違う受け止め方だと、リュガも感じ取り。そうして彼らの視線を追って、
同じ様にその先を見て。
 そして、見つける。翡翠の輝きを。
 そこには美々しい筆頭補佐の正装に身を包んだ竜族の男が、親衛隊と呼ばれる側近を控えさせ。非常に優雅な仕草で新兵の前へと歩いてくる姿があった。
 それは疑いようもなく。また間違いようもなく。リュガの下から姿を消したヨルンその人であった。誰かが小さく、ヨルンと囁く。見間違いではなかったのだと、リュガは思う。ヨルンを失ったあまりに、ただ少し似ているばかりの
相手をヨルンと錯覚しているのではないかと咄嗟に浮かんだ考えが、否定される。
「新兵の諸君。私が筆頭補佐であるツェルガ・ヴェルカだ。お前達の前に姿を現すのが遅れて、すまなかったと思っている。私にも、そう。やる事があったのでね」
 新兵の動揺など歯牙にも掛けぬ様子で、ツェルガはさっさと口を開けては挨拶を済ませる。その声も、ヨルンの物に似ていた。ヨルンのそれとは、少し違っていたのだった。それから、その表情も。愛想笑いをツェルガは
浮かべた様だが、その笑い方はどこまでも蠱惑的であり、また微かな嘲笑を孕んでいた。にぃっという音が聞こえてきそうな程に、竜の口が裂けて。舌がちろちろと見え隠れしている。それだけでこの筆頭補佐の浮名に対する
噂が、よくある誇張でもなんでもなく全て事実であるのだと裏付けられるかの様でもあった。そうして、彼が。ツェルガが視線を新兵の上に注ぐ事を。自らの親衛隊に加える者を選ぶという行為の意味すら。それはその浮名に
新たな伝説を刻み込むための物に過ぎないのであると、今更の様にツェルガに対する関心をそれ程持たなかった兵にも察せられるのである。
 そして、やってくる。ツェルガが。そうするのが、当然であると言わんばかりに、リュガの下へと。その前に何かしら挨拶の続きをしていた気がするが、リュガにはそんな事は既に聞こえぬ様になっていた。
「お前が、リュガだな? 新兵の中でも、見込みがあると報告を受けているぞ」
「……」
「どうした。答えても良いのだぞ?」
 ツェルガは、明らかに馬鹿にした様にリュガを見て笑う。嘲っていた。まるでリュガが、どの様に反応を示すのかを、ひたすらに楽しんでは。ただ、待ち望んでいたのである。
「ツェルガ様のお言葉だぞ」
 ツェルガの後ろに立っていた親衛隊の一人が、軽く叱責の声を上げる。
「……はい。俺が、リュガです」
「そう。リュガ。そうだったな。おお、初めての様な気がしないな? きっと、どこかで私はお前の事を見たのだろう。お前は背も高いし、その翼も立派な物であるしな」
 嬉しそうに、ツェルガは言う。笑っていた。ヨルンとは、似ても似つかぬ笑みだった。その翡翠の輝きだけが、同じだった。
「だが少々生意気な様だな。お前、私と勝負をしろ。何、ちょっとお前の実力を知りたいだけだ。報告なんぞを当てにして、腑抜けを傍に置いては。私がまた別の意味でも笑われてしまうからな」
 くすくすと、ツェルガは笑う。自分がその様な艶聞と醜聞に塗れている事など、その竜にはなんでもない話である様あった。
 そして、気づけばリュガはツェルガに招かれて、剣を握っていた。人払いをされたその場で、見守るのはツェルガの親衛隊が数人だけだ。
「行くぞ」
 短く、静かにツェルガが告げると同時に、その身体が消える。一瞬、リュガは我が目を疑い、そして気づいた時には目の前にツェルガが現れていた。嫌らしい笑みを浮かべたまま、それでも剣を薙ぐ瞬間だけ。確かに
その表情は戦に出る兵の顔を。相手の血を欲する竜族の本能を垣間見せた。慌ててその剣を受け止めて、そして弾き返す。それにもかなりの力が必要だった。自分よりも華奢なはずであるその身体に、どこにそんな力が
眠っているのか。少なくとも浮名を轟かせたとはいえ、ツェルガ自身の腕が筆頭補佐としてふさわしからぬなどというのは、まったくの嘘であると確信をする。
「良い反応だ。新兵でそれなら、将来有望と言ったところかな?」
 一瞬の攻防で度肝を抜かれて、息を乱れさせたリュガと違って。ツェルガは楽しそうにステップを踏んでは距離を取り、自分の腕に掛かったリュガの膂力を楽しんでいる様だった。そうしていると、確かにツェルガは艶やかで、
そして驚く程に美しかった。浮名だけの存在であったのならば、寧ろそれは嘲笑の対象としてしか見られはしなかっただろう。しかしツェルガはその上で、とてつもなく強いのだった。短い間で、リュガはそれを悟る。だからこそ、
ツェルガは筆頭補佐なのだった。ツェルガとの関係を望んで、竜の爪の門を叩く新兵も居るのだった。そんな事は全て、自分には関係の無い物にリュガには思えていたのに。気づけば自分は、その渦中に居るのだった。
「ヨルン……」
「誰の名だ。それは」
 思わず零した言葉を、ツェルガは嘲笑う。そんな奴は最初からどこにも居なかったのだと、リュガに言い聞かせる様に。それは所詮、まやかしだと。翡翠の煌めきが短い間だけ見せた、蜃気楼に過ぎなかったのだと。
 叫び声を上げて、リュガは飛び込んだ。ツェルガは表情を崩す事もない。
 気づいた時、リュガは捻じ伏せられ、翼を掴まれ。そして首に剣を当てられていた。勝てない相手だった。例えリュガが、正常な状態であったとしても。その男には、到底歯が立たなかった。故に、男は筆頭補佐で
あったのだから。
「弱いな。お前は」
 頭上から降りかかったその言葉に、リュガの身体から力が抜けてゆく。

「ああぁっ。ああぁぁっっ!!」
 叫び声が上がる。自分の口から上がっている声が、リュガには煩く聞こえていた。
「どうした。そんなに私の物が気持ち良いのか?」
 後方から、声が聞こえる。しかしリュガには、それはほとんど聞こえていなかった。
 僅かに暗く。しかし暗すぎない部屋の寝台の上。それは筆頭補佐のための部屋だった。豪奢な家具に囲まれたその一室で、大きな寝台の上に寝かされて。今リュガはツェルガに尻を犯されていた。
「私の部屋に来い」
 決闘の後、ツェルガにそう告げられた。リュガは、それを断る事もなかった。その選択は許されなかったであろうし、またヨルンの事を訊きたいという思いだけが募っていたからだった。
 しかしリュガの思いに反して、ツェルガの部屋を訪った瞬間にリュガは控えていた親衛隊に拘束され、そして服を奪われる。
「私が勝ったのだから。当然だろう?」
 ツェルガは冷たくそう言い放った。親衛隊の男達に連れられたリュガは、そのまま身体を清められた。その術すら、リュガは知らなかった。親しくもない相手にその様に扱われるというのは、リュガには中々に苦痛な事でも
あった。
「ヨルンは、どこだ」
 それでも身を清めて部屋に戻り、ツェルガと二人きりになると。開口一番にリュガはその言葉を口にする。次の瞬間には、ツェルガに殴り飛ばされる。
「お前はまだ何もわかっていない様だな。それとも、そんなに現実を見ていたくないのか」
 無理矢理起こされて、リュガは寝台に放り投げられる。相変わらず疑いたくなる程にツェルガの力は強かった。
 そして、ツェルガはリュガの身体を貪りはじめたのだった。
 僅かな抵抗も、無駄に終わる。ツェルガと目を合わせると、何故だか抵抗をする力がリュガの中から損なわれた。魔導の作用であると察する程の器量も、リュガには無かった。それにリュガにとっても、ツェルガに。その
身体に力を向けるのはいまだに躊躇われる事でもあったのだった。
 そして男を知らぬ場所に、なんの遠慮もなくツェルガは自身のいきり立った物を突っ込む。リュガが悲鳴を上げれば上げる程に、ツェルガは楽しそうに声を上げて、また激しく腰を振った。ぐちゃぐちゃと挿入を助けるために
使われた薄い油の音だけが、リュガの叫びを追う様に部屋に広がる。
「本来ならば、私はお前を丁重に扱わなければならないのだがな。お前の今までを思えば。だが、どうやらお前は私ではない何かにばかり感けている様だ。まずは私をお前自身に刻んでやろう」
「あっ。ひぃっ! ヨルっ、ヨルンっ。ヨルンを、返せぇっ!」
「まだ言うのか。ああ、まったくこれだから馬鹿は困るな」
「うぐぅぅ!」
 リュガの心は千々に乱れていた。大好きだったヨルン。それと同じで、しかし違うツェルガに今犯されている。ヨルンとの関係は一方的に自分が抱くだけであったので、リュガは初めて男を受け入れる事を今更の様に知ったし、
その上でそれは非常な乱暴を伴う物でもあった。痛みに叫んだ。身体だけではなく、心も痛んだ。気持ちが良いだなんて、思わなかった。それでも、リュガの陰茎は既に割れ目から飛び出しては、透明な涎をだらだらと
垂らしてはしとどに寝台を汚している。背後から犯されている今は、まるで待ち望んでいたヨルンにようやく再会できた様な。いや、再会しているとも言えるのか。しかしそうではないのか。肯定も否定もできずに、疑問は疑問を
呼び、そしてそれらを打ち消す様に腰を打ち付ける衝撃に声を上げるリュガは、もはやまともな判断と思考をできる余地を奪われた哀れな生贄に過ぎなかった。下のそれから流れる様に、上の瞳からも涙が溢れてくる。
 何が悲しいのだろうか。あれ程望んでいたヨルンは、今ここに居るというのに。何がそんなに不満なんだ。自分の中で、ヨルンが現れる事をただ待っていたもう一人の自分が囁く。それでも、違うと叫ぶ自分もまた内に居た。
 こんなのは、そう。
「お前はっ、ヨルンなんかじゃ、ないっ!」
 その言葉を聞いて。ツェルガが一層強く腰を叩きつける様にする。
「ひぃぃっ!」
「そうだな。私はヨルンではない。……だってそんな奴は、最初からどこにも居なかったのだから。私はツェルガ・ヴェルカ。それでしかない」
 一度引き抜いてから、ツェルガはリュガの翼を掴む。ぐったりとした身体を仰向けにさせられれば、視界に広がる翡翠の輝き。
「ヨル……」
「誰を見ている」
 再びの挿入。リュガはまた叫び声を上げた。視界に収まればそれは尚強い思いとなって、リュガを苛むのだった。ヨルンではないと。自分をその様に扱っているのは、ヨルンではなく。頭のおかしな筆頭補佐のツェルガであると。
 ゆっくりと、ツェルガの身体が降ってくる。口付けをする様で、しかしツェルガはそうはしない。
「そんなにヨルンが欲しいのか」
「ヨルン……。あぁ、ヨルン……」
「……」
 いきなり、ツェルガが上半身を持ち上げる。その顔を見て、リュガは目を見開いた。
 満面の笑みがそこにあった。なんの毒気も無い、それでも僅かに快楽を孕んだ笑みが。
「リュガ。気持ちいい? 僕はね、凄く気持ちいいよ。リュガの中って、こんなに気持ち良かったんだね……。僕はいつもリュガのを欲しがっていたし。リュガもそうしたがっていたから。だから、中々こうする事もできなかった
けれど。温かいよ、リュガ……」
「ヨルン」
 ゆっくりと、優しく腰が動かされる。途端に、リュガの身体は反応を示した。身体の奥で疼いていたそれが表に出てきて、あっという間に快楽へと昇華される。先程まででもリュガの身体はある程度の昂りを見せていたが、
今はそれに輪を掛けて、身体は悦んでいた。精神的な充足が、他の全てを置き去りにしてリュガの肉体を支配する。
「ヨルン。ヨルンっ! あぁーっ!」
 自分を抱いているのが紛れもないヨルンだと悟った瞬間に。目の前で人が変わるのを知った事に。リュガの身体は混乱したまま絶頂を迎えた。初めての尻を使った行為であるというのに、その陰茎からは白濁した精液が
飛び出した。ヨルンが居る。ヨルンが帰ってきた。リュガにはそれだけで充分だった。
「満足したか?」
 それでも、やがては夢は醒める。蜃気楼が、消えてゆく。絶頂を迎えたリュガの様子を見て、満足した様にヨルンは消えて。ツェルガは戻ってくる。
「ヨルン。お願いだ、俺の、下に……」
「つくづくお前という奴は、馬鹿の極みの様な奴なのだな。まあ、良い。お前をそうさせたのは、他でもない私なのだからな。責任を持ってやろう」
 ツェルガの腰の動きが再度荒々しくなる。ヨルンの顔の時は決してしないその動きに、途端にリュガは拒否反応を示した。ヨルンと交わる様になっていたからわかる。自分が出す時も、自分自身を追い立てる様にそうしていた。
「このままお前の中に出してやろう。私の物にしてやろう」
「嫌だ、嫌だぁっ! ヨルンっ!」
「そんな奴どこにも居ねぇんだよ!」
 滅茶苦茶に腰を振られて、リュガは泣き叫ぶ。痛い訳ではない。既にリュガのそこは充分に蹂躙されて、男を受け入れるのが初めてとは思えない程になっていた。そんな事ではなかった。そんな事では。
「出すぞっ! おおぉおっ!!」
「や゛め゛ろ゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉぉ!!!!」
 どくん、という音が聞こえてきそうな程の衝撃を感じる。腕を伸ばして必死に遠ざけようとしても、そのまま腕を掴まれて。目を細めたツェルガの口から、涎が垂れた。これ以上は無いという程に、ツェルガはケダモノだった。
 遠慮会釈もなくリュガの中に精液を撒き散らしては、喉を鳴らす。リュガは自分の中に広がるそれに、酷い嫌悪感を覚えた。汚されている。たった少しの変化で、待ち望んでいたものから一転して、酷く穢されているという
気分になった。
「あぁぁぁ……あぁ……」
 涙が止め処なく溢れて。それと同時にツェルガの射精を終えた陰茎からは小便が漏れ出す。ツェルガがぐりぐりと腰を動かして更なる快感を求め、残りの精液を吐き出す度に、押し出される様にリュガは涙と小便を
垂れ流した。それらが快感に依る物ではない事は誰の目にも明らかであっただろう。絶望を前にして、子供が泣き叫び失禁する。今のリュガはその様な状態であった。
 一頻りそうして、ツェルガが精を解き放ち、そしてリュガは出せる物の全てを出し終えると。もはや抵抗をする事も無くなったリュガの首にツェルガは食らいつく。小便で濡れた身体に汚れる事も、床の上では百戦錬磨の
ツェルガには厭う理由にはならなかった。すぐに臨戦態勢になった己の陰茎を出し入れすると、既に軽く声を出すだけであらぬ方を見つめているリュガの全てを奪いにかかった。首を噛み、傷をつけ。竜族の血を啜る。竜の
血は、青かった。それは強靭な肉体を持つが故なのか、彼らに竜神ランデュスという存在が付いているからなのか、定かではなかったが。ともかくとして彼らの血は青かった。ツェルガの舌は青く染まり、寝台もまた青く汚れた。
 痛みも何も、リュガは感じなかった。ただ、時折手を伸ばした。その手が自分を貪るその人物の奥に眠る、自分が見ていた幻に届く様に。
 腕が払われ、哄笑が聞こえる。リュガが気を失うまでツェルガはそうしていたし、リュガが気を失ってもその身体を貪る事を止めはしなかった。
 どれ程の時間が経った頃だろうか。寝台の上で放心したままのリュガの視界に、少し離れた位置に居るツェルガが見えた。裸のままのツェルガの周りには、同じく裸の竜族が何人も居た。ツェルガは優雅に椅子に座り、
窓から射す光を浴びていた。翡翠の輝きが、そこにはあった。そしてツェルガを取り巻く男達は、先程までリュガを抱いたが故に汚れたツェルガの身体に舌を這わせて、その汚れを自ら飲み干していた。中にはツェルガの
陰茎を嬉しそうに頬張る者も居た。足を舐めては、時折弄ぶ様に顔を蹴られる者まで居た。彼らはどの様な扱いを受けてもツェルガに文句一つ言う事もなく、それどころか目を爛々と輝かせては、一心にツェルガへの奉仕を
し続けていた。それは何かしら、神話めいた絵の様にも見えた。性愛を司る神に、魅了された者達が頭を垂れる様な。そんな題材の絵でもあるかの様に。
 意識が、遠くなってゆく。
「今回は随分と時間を掛けられたのですね、ツェルガ様。申し訳ないのですが、お仕事が溜まっておりますよ」
「楽しかったからな。ああ、だが。惜しかったな。実に惜しかったな」
「左様でございますか」
 それで、ツェルガに声を掛けていた男もツェルガの腕を取り、指を舐めはじめた。
 様々な男に傅かれ、それらをなんでもない様に見つめて微笑むツェルガは、まるで王様の様でもあった。ランデュスは、神の住まう国であった。故に、王は居ない。竜神ランデュスだけが絶対的な存在であり、残りの全ては
ランデュスに忠誠を誓う竜族に過ぎなかった。宰相のギヌスも、筆頭魔剣士のアイムも、そして筆頭補佐のツェルガも。ランデュスの手駒の一つに過ぎなかった。
 しかしそこにあるのは、確かに王国だった。ツェルガを王として崇める男達の集う、小さな国。
 小さな王国が、そこにはあったのだった。

 その日から、リュガはツェルガの親衛隊の一人となった。
 ツェルガはリュガを弄ぶ事を好んだ。リュガは何度そうされても、ツェルガとヨルンを一人として見做す事はなく。そしてツェルガが触れれば、激しく抵抗をして。しかし最後にはツェルガに屈服してゆく。
 行為の最中。時折ツェルガはヨルンの顔を覗かせる。その時だけ、リュガは従順になった。本来ならばツェルガの親衛隊としての立場がある以上は、その様な振る舞い方は他の者が許さなかっただろう。しかしツェルガは、
リュガがそうする事を望んだ。そうする方が、楽しかったからだ。都合良くヨルンの仮面を被っては、リュガを悦ばせ、弄び、そして精を放つ瞬間にはツェルガに戻る。リュガの全てを支配し、壊してゆく。
 リュガは、激甚な憎悪をツェルガに抱いた。ヨルンを愛していたリュガには、ヨルンを取り上げたツェルガを愛する道理は無かった。例えその二人が、本当はただの一人の。そしてヨルンはツェルガの被る仮面の一つでしか
なかったとしても。憎みながら、しかしヨルンを愛したリュガはツェルガに対して真に抗う事ができなかった。寝台の上で何度食い散らかされても、リュガはヨルンを求めていた。ヨルンだけを、求めていた。
 そんな日々の中で、リュガは夢を見た。夢のはず、だった。何かが、自分の中に入ってくる。最初、それは特に不愉快な物を感じていなかったのだが、不意にそれはリュガの中にある何かを、奪おうとし。そして、奪って
いった。そして次にまた、もう一つの物をリュガから奪おうとした。リュガは、それには抵抗を見せた。たった今持ってゆかれた物の方は、どうでも良かった。そんなのは、リュガにとっては不要なのだから。夢の中でリュガが
大事に抱き締めている方まで持ち去ろうとするそいつには、激しく抵抗した。
 その内、それは去ってゆく。それと同時にリュガの夢は醒めた。
 次の日から、リュガは新兵の一人として戻っていた。親衛隊としての任を果たす必要も無い。
 ツェルガは、消えたのだった。何故消えてしまったのか、どこへ行ったのか、それは誰にもわからなかった。ただ竜の爪団長であり、筆頭補佐であるツェルガ・ヴェルカは忽然と姿を消し、そしてその事に誰一人として疑問を
抱く者は居なかった。僅かばかりそれを気にした者も居ない訳ではなかったが、理由があって罷免されたと誰かが言えば、それで納得した。筆頭補佐を欠いた竜の爪は、当分は筆頭魔剣士のアインの指揮下に入る事に
なった。
 だからリュガは、もうツェルガの親衛隊をする必要も無かったのである。親衛隊として別に与えられていた、ツェルガがご丁寧に用意した檻の中に戻る必要も無くなって、自分の部屋へと帰ったのだった。
 部屋は広かった。一人で使うには、広かった。何故なら、その部屋は二人部屋だったのだから。しばらくの間主の帰りの無かった部屋は、片付けこそされてはいたが、そこに生活をしていた名残は見当たらなかった。隅の
方に、リュガの残された僅かな荷物だけが残っていた。
 何故ここには誰も居ないのだろうか。リュガは不思議に思った。二人部屋なのだから、誰かが居るはずである。居たような気がする。居なかった、気もする。どちらだったのだろうか。なんであったのだろうか。
 とりあえず、リュガは荷物を確認する事にした。ツェルガにかどわかされて、ここの荷物はそのままだった。
 荷物は多くはなかった。
 その中から、小さな箱が出てきた。
「……」
 これは、なんだったのだろう。開けようとして、開けてはいけない気がして。
 けれど、結局はその箱を開いた。
「……あぁ……」
 中には、小さな宝石が入っていた。お世辞にも高級品とは言い難い宝石が。それを取り出して、掌にちょこんと乗せて。それから、窓に歩み寄った。陽の光に照らされて、それは光を反射させて。リュガの赤茶色の鱗に
覆われた掌を少しだけ温かく染め上げた。
 翡翠の輝き。けれどそれには程遠い。リュガの知っている輝きは、もっと、そう。
「ヨルン……」
 言葉が、自然と口から出ていた。それが誰の名前であるのかも、この部屋にその人が居てくれた事も、もうわかる。
 それから、リュガは泣いた。慟哭するのではなく、ただ静かに。涙が枯れるまで泣いて、それでも微かな呻きは治まらず。夜まで泣いた。硬く宝石を握り締めたまま、泣き続けた。

 荒野を、一人の竜族が行く。赤茶色の、地味な色合いの竜族だった。
 彼は心に空いた穴を埋めるために、ある物を。ある者を、捜していた。それは既に、彼が元居たランデュスにはどこにも見当たらぬ様になっていた。
 当ては何も無かった。どこへ行けば良いのかもわからなかった。彼は、全てを捨て去った。故郷も、家族も、己の立場すら。何もかもが、今はどうでも良かった。
「ヨルン、今」
 掌にある宝石を握り締め、それから鎖を通したそれを首に掛けて。彼は翼を広げた。いつの間にか、空を飛べる様になっていた。
 どこにも彼を縛る者は無く。しかし彼の心は翡翠の輝きに縛られたまま。
 彼は、空の果てへと消えた。

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