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ヤシュバ(タカセ タカヤ)


 涙の跡地の結界を、壊す者があった。それは空から降り注いでは、竜の神の掌に落ちていった。光が失われた時。それは黒い竜の姿となった。
 何故竜の姿になったのか、それはわからなかった。竜の神に受け止められたからか。或いは、黒き使者の役目を担っていたからか。その強大な力の器となるのは、竜族以外にはありえなかったからなのか。
 ともかくも、目覚めた時。タカセタカヤは、黒い竜となっていたのだった。

 先を歩く、青い竜の背を見つめていた。裸で現れた黒い竜は、とりあえず身に着ける物を貰って。ランデュス城の中を案内してもらっていたのだった。
「そういえば、タカヤ様。あなた、名前はそのままになさるおつもりなのですか?」
「いけませんか? リュースさん」
 振り返った青い竜のリュースが、柔らかく微笑んで。そんな事を呟いた。タカヤは、首を傾げる。
「そうですねぇ、ここでは聞かぬ名前でございますし。それに、あなたが今後どの様に振る舞われるかはわかりませんが。異世界人というのは、どうにも厄介事を招きますからねぇ。できれば、もう少し有り触れた名前を
名乗られるべきではないでしょうか」
 そう言われて、タカヤはしばらく考え込んだ。それでも、良い名前は浮かんでこなかった。そもそも、タカヤという名がこの世界には馴染まぬと言われても。ではどの様な名が馴染むのかというのは、タカヤにはわかるはずも
なかったのである。
「では、失礼ながら私が名を差し上げても、よろしいでしょうか」
 ファンダシー物でよくありそうな名前でも付けるべきだろうかと悩んでいると、リュースがそう言いだしてくれる。二つ返事で、タカヤはそれに乗った。気に入らないのならば、また改めて考えれば良いし、リュースが、この
世界の住人が考えた名前ならば。少なくともこの世界に馴染まぬという事もないだろう。
「そうですねぇ……。それでは。ヤシュバ、なんて。どうでしょうか。中々素敵な名前かと。そうは、思いませんか?」
 素敵な名前かどうかはわからなかったが。別段嫌な名前にも感じなかったので、タカヤは頷いた。
 その時に、黒い竜のヤシュバは産まれたのだった。
 一人で何も知らぬ世界へ飛び立つのは、心細く。それが故に、竜神にハルを見つける手助けをしてもらいながら、ヤシュバはランデュスに留まる事となる。竜神は、ヤシュバの力を見抜いていたので、早々にヤシュバを厚遇
しはじめた。最初は軽く、リュースとぶつからせては。リュースもすぐに、驚いた表情を見せる。そのまま竜神の勧めもあって。正式な場で、筆頭補佐であるリュース。そして、筆頭魔剣士であったガーデルを、ヤシュバは
打ち破った。そうすれば、より協力をすると竜神にも言われたのが大きかった。また、この世界でハルを見つけた時に。ヤシュバはなんの立場も無いままハルを迎えたいとも思わなかったのである。ハルが安心して
生きられる場所を作り上げられる様な力が、欲しかったのだった。
 筆頭魔剣士になった朝。前筆頭魔剣士であるガーデルが出奔した報せを受ける。引き続き筆頭補佐の任を受けて、ヤシュバの隣に居るリュースは涼しい顔をしていた。よくはわからないが。リュースは、あまりガーデルの事を
好いてはいない様であった。

 筆頭魔剣士の日々は、決して順調ではなかった。慣れぬ事の連続であった。唯一、自分の力だけが信じられる。そんな日々だった。ヤシュバは、タカヤとしての自分が驚く程に、強い力に満ち溢れていたのだった。それが故に
筆頭魔剣士になったのだから、それは当然の事ではあったが。タカヤとしては、複雑な気分になる事が多かった。筆頭補佐であるリュースの境遇を知れば、それはより深い物へと変わる。竜神に乞われ、産まれた時から、ただ
竜神に仕える事だけを望み。その生の全てを捧げて筆頭補佐になっていたリュース。その実力は、ガーデルをも凌ぐ物であり。突然に現れたヤシュバを除けば、竜族最強の名を欲しいままにしていただろう。そんなリュースの
努力すら、あっさりと無に帰してしまう程に。ヤシュバは、強すぎたのだった。
「そうですね。それが悔しくないと言えば、嘘になってしまいますが……。けれど。あなたは私の鬱憤を、晴らしてくれましたから。その様に、あまり気になさる必要はありませんよ」
 不思議と、リュースはヤシュバには好意的だった。リュースの話を聞けば聞く程。ヤシュバは寧ろ、自分は嫌われても当然なのではないかと、そんな事を考えてしまうのだが。その上で、筆頭魔剣士にはなったものの。いつも
リュースには迷惑を掛け続けている。慣れぬ事の連続、というのは。要はヤシュバが失態をすれば、いつだってリュースがそれを受け止める事になっているのだから。それでも、リュースはわざとらしい嫌味などは言っても、
決して激する事もなく。ヤシュバを支えてくれた。そして夜ともなれば。求めれば、身体を重ねる事もした。本当は、ヤシュバはそうするのが良くない事ではあると思っていた。リュースとの間にあるのは、恋心という物では
なかったし、関係にしてもそうだった。それでも、竜族の性があり。リュースは、そうする事を不思議に思う訳でもない様だった。竜神と直接言葉を交わす事もほとんど無くなり、求めているハルもすぐには見つからぬ上、
筆頭魔剣士などという、実感の湧かぬ役職ではあっても多数の命を背負う立場は。ヤシュバには、重たい物でもあった。いけない事であるというのは、わかっていても。しばしば、ヤシュバはリュースに溺れた。
 それでも、日々は穏やかに過ぎていったと言っても良かった。嫌竜派の爬族が決起するまでは、だったが。突然の事の連続に、ヤシュバは混乱してしまう。そして心の底では、そんな事は知らない。そう、言いたい気分にも
なっていた。自分はただ、ハルを捜すために。そのために必要だから、筆頭魔剣士をしているだけなのだと。それは、あまりにも身勝手な気持ちではあったが。いざ嫌竜派の爬族を目の前にして。彼らが、ヤシュバ自らの手下に
切り倒される様子を見ては。どうしても、そう思わずにはいられなくなった。
「だったら……お前が筆頭魔剣士になってくれ、俺は……もう、筆頭魔剣士なんて、嫌だ」
 弱音を、ヤシュバは吐いた。気づいた時、ヤシュバは、リュースに殴り飛ばされていた。何が起きたのか、わからなかった。ただ、リュースが。初めて怒りを露わにしたのだった。殴られた箇所は、痛みを覚える事はなく。ただ、
悲痛な叫びの様に。リュースから浴びせかけられた罵声が。何度も、ヤシュバの胸を苛んだ。
「……わかりました。あなたが、筆頭魔剣士である事が嫌だというのなら。ここから出てゆかれるといい」
「リュ、ス……待って……」
 青い竜が、遠退く事に。ヤシュバは恐怖した。見捨てられる事が、怖かった。ハルのために。ハルのために。ただそれだけを胸に抱いて、どこまでも。どこまでも、歩いてゆけると。そう、思っていた。そんなはずはなかったの
だった。ハルが見つからぬ焦燥に、異世界人である孤独に、他者からの一方的な崇拝に。ヤシュバは、疲れ切っていたのだった。そして、この涙の跡地に現れて。自分の傍に、ずっと居てくれていたリュースに見捨てられる
事が。いつの間にか、耐え難い苦痛に感じられる程に。ヤシュバは、リュースが隣に居る事に、慣れ切っていたのだった。もっと、端的に表すのならは。リュースの事を、好いていたのだった。ハルの事があって。それを口に
する事はなかったし、またその自覚すら、持つ事もなかったが。
 何かが、ヤシュバの中で壊れた。元より、初めて人殺しを。それはともすれば、化け物にしか見えない、爬族の兵の一人ではあったけれど。自分と同じ様に物を考え、言葉を話す相手を殺したばかりである。もっとも、今の
自分もそれと然程変わらぬ姿ではあるのだが。その上で、唯一と言っても良い理解者であるリュースに見捨てられるという気持ちが、ヤシュバを動かした。気づいた時には。嫌竜派の爬族の群れに単身で飛び込み。たった
一人を殺す事すら厭うていたはずなのに、それを全滅させていた。転がる屍を前に佇むヤシュバの傍で、リュース膝を突く。畏怖ともつかぬ表情を、リュースはしていた。ヤシュバは、ただそれを見下ろした。
「これで良いのだろう。リュース」
 そして。そう、囁いたのだった。
 その日から、ヤシュバとリュースの関係は逆転した。ヤシュバの方が位が上とはいえ、それまでは、畏まるのはヤシュバの役だったのだ。しかしその日からは。リュースはヤシュバを前にすると、忠実な部下であり続け様とした。
 荒々しい手法ではあったものの、筆頭魔剣士の仕事を見事にこなしたヤシュバに対するリュースのその態度は、ヤシュバの心を更に冷えさせる事にもなった。そんな反応が、欲しかった訳ではなかった。しかしどうする事も
できなかった。もしかしたら、自分の力をリュースは恐れているのではないかと。そう思う日もあった。結局ヤシュバは、ただリュースが望む通りの、筆頭魔剣士の仮面を被る事に専念するしかなかった。
 それでも。やがては、捜し求めていた相手も見つかる。ゼオロ。初めてその名前を訊いた時、僅かな違和感を覚えて。けれど、すぐにそれがどんな意味を孕んだ名前であるのかを、思い出す事ができた。同時に、とても
懐かしい気分がヤシュバの胸に溢れた。幼い頃の、ハルとの思い出。大きくなって。それどころか、今は別の世界に現れては、考えもしなかった役職に就いて、忙しい日々を送っているヤシュバには、それはとても甘美な
思い出として、脳裏に花咲いたのだった。その頃には既に、リュースとも以前の様な関係に戻る事ができてはいたものの。それでも、ゼオロが。ハルが、そこに居るというのなら。ヤシュバは、自分を抑える事ができなかった。
もしゼオロが、自分の正体を知った時。心底から傷つけてしまう事すら、わかっていたはずだったのに。会いたくて、仕方が無かったのだった。
 しかし、この邂逅はほとんど失敗と言っても良い結末を迎える。怒声を発したゼオロは。涙を浮かべながら、ヤシュバの前から去っていった。ハルから怒鳴られた事などなかったヤシュバは、混乱するしかなかった。それまでの、
自分の行いのせいだという事は、わかっていた。筆頭魔剣士として、リュースに認められるためにも。それはやらなければならない事だった。仕方がない事だった。そう思っても。もっと、別のやり方があったのではないかと。そう
思いそうになる。そう思えば、最後。己のしてきた全てが無駄であった事を知るだけだった。言いたい事も、碌に言えずに。名を変え、姿を変えた二人の邂逅は、あっさりと過ぎ去ってしまった。
 自分が身勝手だった事を、ヤシュバは知った。自分がこの世界の者に興味を抱かずに、軽んじていた事を、ヤシュバは知った。それを素直にリュースへと打ち明ければ。リュースも、自分も似た様な物だと自嘲気味に
笑っていた。
 気づけば。もう、戻る道も無くなっていた。ランデュスの筆頭魔剣士であるヤシュバとなった、タカヤが居て。ただ、そのヤシュバを見守る。ランデュスの筆頭補佐であるリュースが。その二人が、そこに居るだけだった。
 戻る道も無いのならば。ヤシュバは、リュースの望むままの筆頭魔剣士で居ようと思った。ヤシュバにとって、タカヤにとって。ハルは既に、想いを寄せる相手ではなかった。ただ、守るべき相手であった。しかしそのハルには、
ゼオロには。自分はもはや、必要の無い存在である事も、嫌という程にヤシュバは知ったのだった。
「もう、いい。……俺は、ラヴーワに勝つから。ランデュスのためになるから。だから、安心してくれ。リュース」
 リュースは、ただ寂しそうにヤシュバを見るだけだった。

「リュース」
 屍を超えた道の先で、ヤシュバが手にする物は何も無かった。
 両の掌からすり抜けていったハルを求めるあまりに、今度はリュースが、同じ様にすり抜けては。消えていった。
 
その後
 ヤシュバは、リュースの両親へと。リュースの死を直接告げに向かった。
「息子が、あなた様のお役に立てたのならば。これに勝る喜びは、ありません。ありがとうございました。そして、どうか。忘れてやってください」
 リュースの両親は淡々とした様子だった。ただ、筆頭魔剣士のヤシュバの表情が思わしくない事を察すると。ヤシュバに労いの言葉を掛けた。息子である、リュースの遺体を持ち寄る事もなかったというのに、それを訝しむ
様な事すら、言われはしなかった。本来のリュースの肉体は、カーナス台地で竜神の手によって処分されていた。最後に現れたリュースの肉体は、所詮はリュースが、間に合わせで作ったものであって。その持ち主の力を
失えば、その場に留まる事もなく消えていったのだった。
 それ程動じた様子もなく、淡々と息子の死を受け止めている親の姿を見るのは、二度目だった。
 後に、ヤシュバは国内が落ち着くのを見計らってから、筆頭補佐であるドラスに後事を託してランデュスを去るという。
 ヤシュバの消息は、誰も知らぬ事となる。
 ただ。今でも時折、大空に。黒い翼を広げた、黒鱗の竜の姿を見る者があるという。

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