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ツガ(ツェルガ・ヴェルカ)
ファンネス


 ツェルガ・ヴェルカは淫奔な竜族の男だった。
 名家に産まれ、筆頭補佐の座に就く程の力を示しても、その卑しい振る舞い方は一つとして改められる事はなかった。竜族は、欲深い。好色な竜は、決して蔑まれる様な物ではなかった。それでも、英雄色を好むとは
言う物の、ツェルガのそれは、多少どころかかなり行き過ぎた物があった。竜神ランデュスをも惑わすとの噂すら、真しやかに囁かれていた。
 ツェルガは、美しい竜だった。翡翠に煌めく鱗は、陽の光を受ければ、燦然と輝いて。まるで一幅の絵の様に見事な姿を晒したし、月の下では、控えめな光がその卑しい振る舞いを数段上品な物に。そして尚、妖しく
他人の目には映らせるのだった。翼こそ持たぬ物の、それはツェルガのしなやかな身体を、翼を持つ竜族と比べて一層華奢な物であるかの様に見せたし、浮き名や、竜神すら惑わすという噂が囁かれる事も充分に頷ける程に、
ツェルガは妖しく、蠱惑的だった。軍の中、という事は大抵においては、女人の立ち入らぬ屈強な男ばかりの場である。そうした場所で、ツェルガはいつも自分と同じ男の竜族を惑わしてばかりいた。また、自らが率いる
竜の爪に属する者は、大抵はツェルガの身体が目当てという有様だった。だからといって、ツェルガは誰にでも気安く接する訳ではなかった。ツェルガは強い男が好きだった。そして、そういう男を自分に従わせて。その力強い
腕で抱かれる事を何よりも好んだのだった。とはいえ、ツェルガは筆頭補佐を任される身である。いくら色事にばかり感けているといっても、当然それだけでは筆頭補佐が務まるはずもない。その実力は当時の筆頭魔剣士に
次ぐ物を充分に示していた。
 ツェルガのやり方は、いつも念入りで。それでいて執拗な物だった。田舎からやってきた、ツェルガを知らぬ新入りの兵などという物は、まさに恰好の獲物に他ならない。そういう時、ツェルガはいつも素性を隠して。それ程
戦えもしないという兵を装っては、見込みのある若い兵に近づいて優しく声を掛けるのだった。竜族同士の決闘では、勝った竜が、負けた竜を好きにして良い。戦うのは基本的に男の役割であるからして、当然それは男色の
関係を示す物だった。他種族同士が生活を営むラヴーワとは違い、ランデュスは竜族の国だった。無論、竜族以外が決して住んではいないという意味ではなかったが。その事を鑑みれば、ラヴーワ程に同性間でのやり取りに
対して寛大という訳でもない。それでも、竜族は強欲だった。こうして女人の立ち入る事のない場では、強い者の精を受けるなどと口にしては、関係を持つ事も公然と行われていた。もっとも、流石に一般人の間ではそういう
訳にもいかなかっただろうが。ともかくとして、ツェルガは軍に入ってきた新人に対して親切に様々な事を教えては、兵として調練や戦に出る様になっては中々女でばかり済ますのは難しく、また金も掛かると囁いて。その竜の
決闘についてをさり気無く話に付け足して。妖しく微笑んで相手を見つめる事が多かった。そうすると、大抵の獲物はツェルガの身体に息を呑んでは、決闘を申し込むのだ。調練の、ほんの一環として。何一つ経験の無い者。
女をしか知らぬ者。そういう者の中でも、やはり好色な者はツェルガを求めたのだった。またそんな事をせずとも元々ツェルガは美しかったし、黙っているだけでも好きなだけ男女問わずに言い寄ってくる様な状態で
あったのだから。それが目の前に現れて、そして打ち負かせば身体を差し出してくれるというのだから。まだ若く、活力に満ち溢れ。活力に満ち溢れるという事は、それと同じ程に精力をも漲らせた竜族の若者は、簡単に
ツェルガの罠に引っ掛かってしまうのだった。その決闘の申し出が受け入れられた時。ツェルガの行動を見守る、既にツェルガの毒牙に掛かった男達は。新たな生贄の誕生に、内心ほくそ笑むという。
 申し入れられた決闘。最初、ツェルガはあっさりとそれに負けてやる事が多い。碌に調練も受けていない相手に本気を出すのはあまりにも馬鹿げていたし、目的もまたそれではなかったからだった。また、それとは別に。決闘
という物に兵を慣れさせるという目的もあった。初戦で完膚なきまでに打ち破って、自信を損なわせても仕方がない。軽く打ち合って、相手の力量を即座に計ると。それよりもほんの少し弱い力でどうにか抵抗する。相手は
ツェルガを負かしたくて本気で出ようとするが、ツェルガに傷を付けるのも厭うてそれ程激しい攻防となる訳ではない。必死に戦った態を装って。最後は身体を竦ませて、ツェルガは負けてやる。剣を落としたツェルガに、
相手は勝ち誇った顔を見せる。ツェルガは、それを見るのが好きだった。勝利の快感に酔い痴れて。そして、この後のツェルガとの甘やかな一時を想像して。相手の男にとっては、全てを手にした高揚感に包まれた瞬間で
あったし、ツェルガにとっては、もはや逃れられぬ所、つまりは自分の掌の上に獲物が落ちてきた事を意味する瞬間だからだ。戦いに昂って、少しだけ乱暴に。それでもツェルガに変わらずに見惚れている相手を、ツェルガは
褒め千切る。自分の様な者では決して勝てはしないと。まだ兵になったばかりだというのに、それは凄い事であると。何度も言い聞かせる。そして。
「あなたになら、私」
 最後に、そう言うのだった。自分は真底から、その強さに感服したのだと。そう微笑んで告げれば、もはや相手が止まる事はなかった。それでもどうにか押し留めて。夜を待って。逢瀬に必要な場所を用意する。本来ならば、
ただの兵の一人に。それも新入りの兵に負かされる様な男がランデュス城の中に、そんな場所を簡単に用意できる方が、どうかしているに決まっていたのだが。既にツェルガの身体の事しか見ていない上に、そもそもが田舎の
出。また、その様な事に考えの至らぬ、思慮の浅い若者だ。言われるがままに、夜に教えられた部屋へと赴いて。そしてその中で一人待ち構えている、その姿とは裏腹に、相手の全てを手にしようとする恐ろしい怪物の下を
訪れた若者は。ツェルガが何かを言うよりも先に、その身体を用意されていた寝台に押し倒しては、乱暴に服を脱いでツェルガを抱くのだった。ツェルガは、まるで初めてでもあるかの様に涙を浮かべて懇願する。自分が
負けたのは、確かだけど。あなたの言いなりではあるけれど。どうか、優しくしてほしいと。ツェルガの弱々しい抵抗に見せる反応は、その時の男によって様々だった。この時のツェルガの扱い方で、その後、この新入りの兵が
竜の爪の中で、どの様に扱われ。また、後にツェルガの仕返しの苛烈さも変わる事など、若者は知らぬ。大抵の者は、自分を抑えられなかった。明るい世界の中でのツェルガにようよう慣れてきたばかりだというのに、
月明かりに照らされて。何をどう振る舞おうとも煽情的な効果をしか招かぬ状態のツェルガを前にして、昂った自分を抑えられる者は多くはなかった。中には、ツェルガが本当になんの経験も無く。自分が大切にしなければと、
そしてこの一夜だけではなく、ツェルガとのこれからの事を考えたり。或いは真から、ツェルガのその姿だけではなく、繕われた心に惚れてしまって。なるたけ丁寧にその身体を優しく抱こうとする者も居たが。やはり若いだけ
あって、そういう者は多くはなかった。とうのツェルガはといえば、実際にその後、男にどの様に扱われ様とも決して逆らいはしなかった。乱暴に、嗜虐的な心のままに抱かれれば。悲鳴を上げて、涙を流しては、許しを乞うて。
それでも決して押し止まらぬ相手の性欲から来る激しさを心で笑って。相手が経験に乏しくまごついているのを見たならば、優しく、どの様に交わるのかを丁寧に教えて。いざ交わった時も、どの様にすれば刺激を得られる
のかを示しては、相手が上手く動ける様になると、その頭を抱いて素直な喘ぎ声で迎えた。不慣れな男の相手をする時などは、辛抱強く。決して笑みを絶やさず。まるで、母親が子供を慈しむかの様にさえ振る舞った。
 ツェルガはいつだって、相手に合わせた女役になる事ができた。結局のところ、ツェルガは自分の気に入った男を立てるのが好きで。その男のために世話を焼く事も、好きで堪らない性質であったのだった。ただし、ツェルガを
大事にする余りにツェルガを抱こうとしない者や。ここに来てツェルガを訝しんだり、警戒する様な心を持っている者には、容赦はしなかった。ツェルガは、魔導に優れた筆頭補佐であった。もっとも得手としたのは、ほとんど
洗脳に近い催眠だった。瞳を介して伝わるその力に、大抵の相手は抗う術を持たない。本来なら、雑兵相手は全てこれだけで良いのだが、ツェルガはそれを良しとはしなかった。魔導に頼るのは、最後の手段だった。自らの
色香に惑わされた男が落ちてくる事が、何よりも楽しいのだから。元よりツェルガが待つこの部屋に来たからには、相手の男が下心を持ち合わせぬ道理はない。最後の一押しをされて。結局は立ち止まった男も、ツェルガに
溺れてゆく。この部屋に足を踏み入れた時点で、ツェルガを抱かぬという選択を、ツェルガ自身は決して許しはしなかった。
 男が、溺れてゆく。数日前までは何も知らなかった男が、ツェルガの身体に溺れてゆく。犯しているのは、男だった。犯されているのは、ツェルガだった。それでも、溺れるのはツェルガではなかった。ツェルガは決して
溺れる事はなく、ただ楽しんでいた。叫び声を上げるのも、結局は相手の男だった。ツェルガは聞く者を魅了する声を上げては、自分の中にある物を容赦なく締め付ける。一度や二度出しただけでは逃がしはしなかったし、
そのツェルガにせがまれて腰を振る男も、行為を止める事ができなくなって。やがては余裕を失い、叫びながらツェルガを犯すのだった。そうなっても、ツェルガの余裕は崩れない。相手の男にすれば、今が本番であり。今後も
ツェルガの寵を受けられるかどうかの瀬戸際ではあったが。ツェルガにとっては、まだ獲物の狩りが始まった、最初の段階でしかなかった。
 空が白むまで、ツェルガは相手を逃がさずに。そして、その日から。ツェルガは獲物の傍へと頻々に現れる様になる。甘やかな、恋人としての時期。それもまた、ツェルガの楽しみの一つでもあった。ただし、その期間は長い
事もあれば、短い事もある。それは相手の男次第でもあるし、もう一つには、ツェルガは副官に全てを任せて偽名を用い。自分が竜の爪団長であり、また筆頭補佐であるツェルガ・ヴェルカである事を隠しているのだが、流石に
男漁りを楽しむためだけに、いつまでも自らの部下の中に正体を隠して紛れ込んでいる訳にはゆかなかった。ツェルガが姿を見せぬ事に、獲物が疑問を抱く時期でもある。
 やがて、ツェルガは男の前から姿を消す。そして筆頭補佐の装いをしてから、再び兵の前に現れるのだった。その瞬間もまた、ツェルガは好きだった。ツェルガを抱いていた男は、大抵は驚愕の表情を浮かべるからだった。
自分が下して抱いていた相手が筆頭補佐であると知れば、余程勘の鈍い者以外は、流石に気づく。そして、その時になってようやく。ツェルガは自らを偽る衣を全て脱ぎ捨てて。恋人の下へと向かい、決闘を申し込むの
だった。当然ながら、この時のツェルガは全力を出すために、相手の男はまったく歯が立つ事はない。一瞬にして捻じ伏せられて。気づきの遅い者であろうと自分が弄ばれていた事を知るのだった。そして、獲物が僅かな
反抗心を抱いたところで。ツェルガは勝負に勝ったのだからと、その相手を正式に筆頭補佐の部屋へと招く。そこで今度は、ツェルガが男を抱くのだった。どれだけ屈強な男であろうと、負けた者は言いなりになるしかない。
 初めてツェルガを抱いた日から、甘やかな日々を送り。そしてその正体を知るまでの間。散々に弱いと思い、好きな様に抱いては犯していたツェルガから、今度はその仕返しをするかの様に、ツェルガにありとあらゆる手を
駆使されて、獲物として貪られるのだった。その時もまた、観念する者も居れば、抵抗を見せる者も居て。ツェルガの魔導は役に立った。ツェルガを乱暴に抱いていた男は、より乱暴に抱かれて悲鳴を上げながら。やがては
ツェルガの手によって快楽を得て、涙を浮かべてはもっとしてほしいと懇願する様になるし、ツェルガを優しく抱いた者には、ツェルガも手加減を見せて。自分の傍に居てほしいと囁いては。同じ様に優しく抱いた。そうして、
意気盛んな者、控えめな者。様々な、けれど若さ故にツェルガの魅力にも、己の性欲にも抗う事のできなかった男達は更にツェルガに溺れてゆくのだった。その日から、竜の爪の中であっても。ほとんどツェルガの奴隷とも
言って良い存在となる。そうする事で、ツェルガは強い者を自分に従わせたし、また同時に、自分の代わりに筆頭補佐になろうと画策する者の登場を阻止していた。既にこの時、竜の爪はツェルガを抜きにしては成立し得ない
状態だったのだ。ツェルガに近しい者のほとんどはツェルガに惑わされていたし、そんなツェルガを排して自分が筆頭補佐になろうとする様な者は存在しなかった。また、そんな事をしてツェルガの愛が損なわれる事を
恐れただろう。それはツェルガの傍に居る者のほとんどが抱く、恐れだった。誰もがツェルガの前で跪き、足を舐めて。ツェルガの気紛れな愛を。寝台の上で交わされる、他の者では決して替えの利かぬ快楽を、もう一度と
望んだのだった。

 そんなツェルガに転機が訪れたのは、爬族の一件が会議で取り沙汰されたのが始まりだった。
「爬族、ですか。親竜派だの、嫌竜派だの。くだらない。所詮、爬族は爬族であって。我ら竜族の様になれる物ではないというのに」
 ツェルガの見解は、冷ややかな物だった。それでも、当時としてはまだ優しい見方をする物でもあった。もっともそれは他種族であっても、屈強で腕の立つ男ならばと。碌でもない思いから来ている事ではあったが。時折、
ツェルガはお忍びで街へと繰り出しては。荒くれた他種族の傭兵などが集まる場で火遊びをする事もあったので、竜族の中ではまだ他種族と付き合うつもりのある存在ではあったのだ。もっとも、付き合い方は決して
褒められた物ではないが。
 ツェルガが筆頭補佐だった時期は、未だランデュスとラヴーワは戦の最中でもあった。そしてまた、爬族も。親竜派、嫌竜派と別れてはランデュスの攻める手を狭める問題となって、議題に上ったのだった。北の翼族は戦争
自体には介入せずに静観をしていたし、涙の跡地の中央には当時の筆頭魔剣士と、それが引き連れる竜の牙が。そしてツェルガの完全な奴隷であり、忠実な下僕である隊長が、竜の爪のいくらかを率いて後詰となっており、
ランデュスから後方支援に従事していたツェルガには、南側の、爬族の問題を解決する様にとの仕事が新たに与えられたのだった。言ってしまえば、あまりにも男漁りが過ぎるが故に。灸が据えられた状態ではあるのだが。正直
なところ、ツェルガは乗り気ではなかった。嫌竜派なんぞが居るのならば、即刻現地に赴いて、全員の首を刎ねてしまいたかった。何より、そうして自分がどこかへ向かうという事は。既に手駒となった者で遊ぶ事はできても、
新たな狩りには繋がらず。それはツェルガにとっては、大変に面白くない事でもあった。
 親竜派が居るというのなら。一つ、見込みのありそうな爬族の男でも食ってやろうかと。そんな事を考えながら、ツェルガは爬族の視察へと乗り出す。
 ツェルガが南西へ。爬族の地へと、部下を引き連れて赴くと。ツェルガの訪れを察知したのか、嫌竜派の爬族は大慌てで退却をした。残ったのは、親竜派と言われる爬族だけだった。どうも、小競り合いの様な事をしていた
らしい。どこまでが本当であるのか、ツェルガには半信半疑ではあったが。親竜派、嫌竜派とは言うものの、結局は爬族の中の派閥であり、そしてその全てが爬族であるのだから。昨日まで親竜派だった物が、何かしらの
事情や、自らの命惜しさに嫌竜派になったり、またその逆となる事も、さして珍しい事ではなかった。またそれが、竜族にとって、爬族への不信感を募らせる結果にはなっているのだが。筋金入りの親竜派も居るには居たし、
それらは竜族の監視を付けてほしいと言い、実際に竜族の役に立つ事もあったが。やはり嫌竜派の爬族との繋がりがあるのではないかと疑われ、あまり信用に足る存在として見る事はできなかった。
 そんな場所に現れたツェルガは。ふと、ある男に目を向けた。負傷者の手当てに回っている、有り触れた、黄土色の鱗に覆われた爬族の男。
 その男は、爬族ではあったけれど。親竜派でも、嫌竜派でもなかった。嫌竜派と思しき、足に怪我を負い動けない爬族にも治療を施していたし、また先に駆けつけて親竜派の援護をしていた竜族の負傷者に対しても、
分け隔てなく接していた。
 ツェルガが近づくと。その爬族の男が振り向いて、ツェルガを一瞥する。
 一瞥、するだけだった。男はツェルガに見惚れる事もせずに、すぐに治療へと戻っていった。

 ファンネスは、爬族の薬師だった。
 ファンネスは、争い事には興味は無かった。ただ、争う上で確実に生み出される、負傷者には興味があった。
 自らの薬の効果を確かめる。ファンネスにとっての関心事というのは、それだけであった。ファンネスは薬師ではあったけれども、自らの薬の力を示すために、医師の真似事もしていた。いつのまにか、医者として招かれる事も
多くなっていた。また、ファンネスは診る相手を選ぶ事もなかった。寧ろ、他種族をこそ診たいと、そう思う様な人物だった。爬族とそれ以外とでは、勝手が違う。近い様に思われる竜族も、実際には血の色からして違うの
だから、爬族と何もかもが同じという訳にはゆかなかった。ラヴーワの獣の連中や、北に住む翼族などもそうだった。
 ファンネスは、その全てに己が調合した薬による効果の発揮を求めていた。誰かを救いたい訳ではない。ただ、自分の力が。自分の力によって作られた薬が。効果を示したという事実をこそ、求めていたのだった。
 ツェルガは、そんなファンネスを見かけたのだった。
 ファンネスは最初、近づいてくるツェルガに気づいたが、一瞥してはすぐに目を背けた。竜族が来た。それも、健康な。それだけわかればよかった。健康ならば、自分が手を出す必要もない。無論、健康な者を相手に様々な
薬を打っては経過を観察する事もファンネスは好んでいたが。少なくとも手下を引き連れて我が物顔で歩いてくる様な竜族にする訳にはゆかなかった。ファンネスのその態度に、ツェルガは自尊心が傷つけられる。自分を
見ておいて、まったく魅かれる様子も見せずに顔を背けられる事など、ツェルガにとってはあり得ない事ではあった。それだけツェルガの矜持は確たる物てあったし、またそれを裏付けるのに充分な程にツェルガは美しかった。
 それで逆にツェルガの方が、ファンネスに興味を引かれる形になる。ツェルガの魅力が爬族に通じない、という訳ではなかった。現に、ここまでツェルガを案内していた、親竜派の爬族の者達のほとんどは。ツェルガを一目
見ただけでうっとりとした顔を隠そうともしなかった。親竜派の爬族にとっては、自らも竜族と呼ばれる事こそが夢なのだから。その竜族の。翼こそ持ちはしないものの、力を持ち、それでいて美しいツェルガの存在は、それこそ
憧れそのものであった。その親竜派の爬族の目があったからこそ、ツェルガはここまできても尚、自分はその様に扱われるべきだと思っていたというのに。そんなツェルガの逆鱗に触れるかの様に、ファンネスはツェルガを
無視したのだった。ツェルガが微笑んで、あの爬族はなんなのかと、案内役に訊ねれば、当然一同は身体を震わせた。ツェルガの噂は、爬族の中にも充分に伝わっている。ランデュスの中では、少々呆れ気味に、また
笑い話の様に言われる事もあるが。爬族の中ではもう少しだけは、特別な物として受け入れられていたのだった。大慌てで、親竜派の爬族が駆けだして。ファンネスに事情を説明する。ツェルガに失礼の無い様にと。
 ファンネスは、まったく取り合わなかった。
 それで、今度はツェルガが直接、ファンネスの下へと赴く。
「こんにちは、ファンネス様。私は、ツェルガ・ヴェルカ。ランデュスの、筆頭補佐であり、竜の爪の団長を任されている者です」
「そうか。お前が、ツェルガか。そうしていると、とても噂通りのだらしがない竜には見えないな」
 周りが、明らかにざわついた。親竜派の爬族はこの世の終わりかの様に狼狽えたし、ツェルガの連れてきた手下は、当然ツェルガの奴隷であるからして鋭い殺気をファンネスに向けていた。ツェルガは、微笑んでいた。内心
では、どうやってこの男を今から殺そうかと、そればかりを考えていた。けれども、ファンネスはそれだけを口にして、また治療へと戻ろうとした。発作的に、ツェルガは剣を抜いて。そのままファンネスの治療を受けていた
爬族の男を切り捨てた。
「感心しませんね。嫌竜派の爬族にまで、治療を施そうというのは」
 痛みにのた打ち回る、嫌竜派の男を見下ろしていたファンネスが。また僅かに、ツェルガへと目を向けた。
「まるで子供だな、お前は」
 そう言って。また、ファンネスは治療に当たろうとする。ファンネスにとっては、新しい傷ができた。それだけだった。別に、患者が救えなくとも構わない。それを見てから、ツェルガは首を軽く振って、それだけで手下を動かした。
「あなたはご自分の立場が、おわかりでない様ですね」
 ツェルガの奴隷が、ファンネスを拘束する。ファンネスは抵抗らしい抵抗も見せなかった。ただ、患者からツェルガへと視線を移して。まっすぐに見つめるだけだった。それに、ツェルガはとびきりの笑顔を向けた。丁度、そんな
時だった。爬族の群れの中から、大慌てで飛び出してくる人物が居たのは。それへツェルガが目を向ける。飛び出してきたのは、爬族の族長だった。族長は、ファンネスの非礼を詫びながらも、どうかファンネスを許してほしいと
ツェルガに懇願してくる。ツェルガは目を細めながら、その様子をじっくりと観察していた。ファンネスは、思っていたよりも爬族の中での地位が高いか。或いは信頼されている人物である様だった。確かに、少し見ただけでも
その治療の腕の良さは、ツェルガには理解できる事ではあったが。それでもツェルガが気に入らずに、また不満に思ったのは。こうしてこちらをファンネスが見つめている状況になったというのに、その瞳には何も、感情らしい
物が浮かんではいない事だった。ツェルガの姿に見惚れたり、或いは、診ていた相手を切り捨てた事や、拘束した事に対する怒りを滲ませていれば、まだツェルガは納得もしたのだが。
 くすくすと、ツェルガは笑う。内心は烈火の如く怒り狂っていたが、今は親竜派の爬族の前だった。それも、ツェルガに心底から見惚れている者ばかり。切って捨てた相手は嫌竜派の爬族であるからまだ良い物の、それ
以外の前で下手な姿は見せられなかった。
「決めました。私。爬族の事を、もっと知りたいとも思って、今日は足を運びましたが。私の案内を、ファンネス様に頼みたいですね。ぜひとも」
 族長と、その取り巻きが必死にツェルガを宥めようとしているところに、ツェルガは笑みを向ける。族長達が固まった。本当に楽しくなってきて、ツェルガはまた笑う。
「ファンネス様、よろしいですね? それに私としては、やはりあなたに嫌竜派の爬族にまで手を差し伸べられては、立場上困るのです。私の傍に、あなたが居てくれるのなら。私もあなたの奇行に苦慮しなくて済む」
 ファンネスは僅かに口を開いて、抵抗を見せたが。族長達の鋭い目で睨まれて、仕方なく頷いた。親竜派の下へ、ランデュスの筆頭補佐であるツェルガ・ヴェルカが訪れたのである。そのツェルガを無碍にするという事は、
親竜派も結局は腹に一物があると言っている様な物だった。爬族が、竜族の完全な敵になってしまっては。この場に居る全員の首が飛びかねない状況を利用して、ツェルガはファンネスを自らの下へと招いたのだった。
 兵に拘束を解かせて。ツェルガはファンネスの下へと歩み寄ると、花が咲いた様に笑う。
「よろしくお願いしますね。ファンネス様」
 この時、ツェルガは少しだけ、むきになっていた。周りの爬族の様に靡かぬ、目の前のファンネスに与えられた不快感を払拭するには。とうのファンネスを跪かせなければならぬと、そう定めたのだった。己に惚れさせる
とまでは言わぬまでも。少なくともツェルガの姿を見て、美しいと思った相手が見せる驚きや興奮を、ファンネスの瞳に宿したかったのである。
 ちょっとした、遊びが始まった。ツェルガは、単純にそう考えていただけだった。

 翌日からツェルガは滞在するための天幕を建てて、そこでファンネスの迎えを待った。親竜派の爬族は、ツェルガを全力で迎えるための準備をあれやこれやとしていたみたいだが。竜の国で、一番に華美な暮らしをしていた
ツェルガであるからして、土臭さに塗れたその持て成しにはまったく興味をそそられはしなかった。それから、ファンネスにも。自分が迎えに行くと言われたのもあって。結局ツェルガは、言われるがままにした。
「これを着ろ」
 やがて、陽が昇るとファンネスは約束通りにツェルガを訪ってくれた。訪うと同時に、特に態度を改める様子も見せずに、汚いマントを手渡されて。ツェルガはまた怒りが込み上げそうになるものの、我慢する。それから、
ファンネスに連れられてツェルガは一人で天幕を飛び出した。本当は、ツェルガには何人もの護衛が付いて然るべきではあったものの。ツェルガはその全てに、ただ待つ様にと言い渡した。爬族の事を知りたい、というのは
確かにツェルガの仕事ではあったものの、既にツェルガの目的は、目の前の無愛想な爬族の薬師を自分に跪かせる事に向いていたのだった。そのために、既に自分の掌に落ちてきた奴隷は邪魔にしかならない。無論、
使えない事もないのだが。そういうお膳立てをして相手を自分の物にしても、それはツェルガにとって決して面白い事ではなかったのである。
 天幕を飛び出して、早速爬族の下へと案内するのかとツェルガは思っていたのだが、その期待は裏切られ。そして、早速表情を引き攣らせていた。目の前には、泥濘が広がっていた。
「お前は、目立つ。少しは汚れろ」
「そんな。別に、そんな必要はないのでは」
 思わず、ツェルガは強い口調も何もかも忘れてファンネスを見てしまう。自慢の美しさを、綺麗だとは言わず。目立つと言い放たれた事に腹を立てるのも忘れて。
「お前は、爬族の事を知りたいのだろう? 全てを見たいと思うのなら、いつものお前のまま行っても仕方がない。どうせそのまま行けば、わかる物もわからなくなるぞ。お前みたいな目立つ奴は、爬族には多くはない。爬族
として誤魔化せるくらいにはなれ」
 ツェルガにとっては、非常に不服な事ではあったが。実のところ、ファンネスのその案は間違ってはいなかった。爬族に対しては、以前は宰相であるギヌス・ルトゥルーが。嫌竜派の動きが不穏になってからは、こうして戦う
事もできるツェルガが時折当たってはいたが。ツェルガがそのままに赴けば。大抵は尊大な持て成しを受けるだけである。要は親竜派の爬族にとっても、ツェルガに見せたいところを見せるだけである事が大半なのだった。
 今回は今まではとは違い、親竜派だけではなく、嫌竜派についてもある程度の調べをしておきたかった。嫌竜派とは言うものの、結局は竜族に阿ってばかりいる事を反対する者もそこには含まれているからして、己の足で
爬族は歩くべきだと主張する者も多い。親竜派、嫌竜派というのは結局のところ爬族の問題であるからして、ランデュスとしては、双方にある程度の繋がりを持っておきたいというのが現状であった。戦ともなれば、嫌竜派の
爬族は、竜族がラヴーワを、この涙の跡地の全てを呑み込む事をも厭うて抵抗はするが、その中には前述の通り、竜族に何もかも従うという姿勢を嫌う者も居る。そういう相手は、従えるのではなく。対等な相手として扱うべき
だと、ギヌス辺りは主張していた。要は、少しでもランデュスに対して剣を向ける対象を減らしたいのである。そのためにはやはり、親竜派の爬族の下にただ招かれて。ただ持て成されているだけでは、何も得られる物はないと
言えなくもなかった。結局のところ親竜派の爬族というのは、既に竜の傘下に加わりかけている相手であって。見た目は良いし、いざという時は戦えもするのだから。嫌竜派に対しての話も通せる様にしておけ、というのが
ツェルガに言い渡された仕事の内容でもあった。
 泥を手に取って、自慢の鱗へと塗ってゆく。最初、ツェルガは思わず悲鳴を上げそうになる。少し冷たい、ねばつく泥が。あれ程毎朝磨いては、光り輝かせて、自らに跪く者達の心を奪っていた鱗を汚してゆくのだから、
溜め息も出そうになる。とはいえ、今更引く訳にもゆかなかった。少しファンネスを盗み見れば、早くしろと言わんばかりの顔で待っているのだから。自分が頷かなければ、ファンネスは動かないか。そのまま帰ってしまうだろう。
 自棄になって、裸になるとツェルガを泥を纏う。すぐに、あれ程美しかった鱗は汚れに汚れた。泥から出ると、魔導の光で乾かす。そうすると、流石に幾多の男を魅了したツェルガの魅力も、多少は損なわれるかの様だった。
少なくとも、光り輝くとは到底言えない。とはいえ、それを差し引いたとしても。均整の取れた身体に、整った顔立ちというのはまったく隠れもしなかったが。
「これで、よろしいのでしょう」
「そうだな。これで、まあ。なんとか爬族として誤魔化せるだろう」
 泥を乾かして、薄汚れたマントに包まると。それでどうにか爬族として誤魔化せそうだった。ツェルガにとっては大いに不服ではあったが、そこまですれば竜族と爬族の見た目での違いという物は、ほとんど無くなってくる。
 爬族の方が幾分、顔の造形に飾りなどは少なかったものの。それ以外では、血の色や翼の有無で分けられるのだった。ツェルガは翼を持たないので、身体さえどうにかしてしまえば爬族として通せる様にはなった。ツェルガは
内心、溜め息を吐いていた。誇り高い竜族である自分が、爬族に化ける、などとは。物笑いの種である。
「では、行きましょうかファンネス様」
「あとは、呼び方だな。俺の事は呼び捨てでいい。それから、お前も。ツェルガでは不味いな。……では、お前の事を、ツガ。そう呼ぼう」
「ツガ、ですか。随分とまた、味気ない名前になってしまいましたね」
 ツェルガは、自分の名前を気に入っていたが。ファンネスの付けたその愛称は、あまり好ましいとは思わなかった。
「口調ももう少し砕けていて良い。爬族は、身内にはそれ程畏まる事もない」
「わかり……わかった。ファンネス」
 そこまで準備を済ませると改めてツェルガはファンネスに招かれて、爬族の中へと紛れ込む。爬族の中へ入る、というのが。ツェルガには少しだけ新鮮に感じられた。いつだって、自分が赴けば。それは目の前に跪く爬族を
見て、頷くばかりだったのだから。それが、今はファンネスの案内を受けて。時折話しかけられては、おずおずとだが口を利く事もできる。
 泥でくすんだ姿ではあったけれど、それは爬族の中では別に珍しい訳ではなかった。元々爬族は、穴蔵に住む者も多い。勿論小奇麗にしている者も居るが、ツェルガの恰好は自然と受け入れられる物となっていた。
 そして、また。
「ファンネスさん。今日は綺麗な子を連れているね」
 泥に塗れていても、やはりツェルガの美しさはそれ程損なわれている訳ではなかった。ファンネスが、ツェルガを引き連れて歩けば。あちこちから集まった爬族の者が、ファンネスに挨拶をしてくる。それでツェルガは、
ファンネスが思っていたよりもずっと、身内の中で信頼されているのだと理解して。けれど、その後にファンネスに挨拶を済ませた者が、ツェルガを見て。微笑んでは、ファンネスにツェルガの事を問いかけてくるのだった。
 自分を見る、その表情も。良く見れば、ツェルガが見慣れた物とは違っていた。ツェルガが籠絡した男達の目は、いつでも完全なる崇拝の光に燃えていたし、それはツェルガ・ヴェルカとして親竜派の爬族の前に姿を見せる
時も変わりはしなかったが。ここでツェルガに向けられる視線は、それとは違い。ただ、優しい物が多かった。時折は、ツェルガに見惚れてしまう者も居る様だが。ファンネスが隣に居るからか、露骨にツェルガを求める様な
事もない。
「知り合いの息子でな」
 ツェルガに寄せられる好奇心に、ファンネスは適当な言葉を返す。そうしながら、ツェルガをどんどんと案内してゆく。
「ここに居る爬族は、どちらなのですか」
 人込みから少し離れた頃に、ツェルガはファンネスに問いかける。そうするとファンネスが振り返って、僅かに首を傾げた。
「どちら、というと?」
「親竜派なのか、嫌竜派なのか、という事ですよ」
「どちらでもないな。この辺りは」
「どちらでもない? そんな事、あるんですか」
「……お前は、本当に何も知らないんだな」
 そう言われて、ツェルガはむっとする。
「親竜派、嫌竜派。どちらに与しない者も居る。そのどちらかである前に、爬族なのだからな」
「なんですか、それ。結局は都合が良い時に、名乗るだけの癖に」
「それを、卑怯だと思うか」
「卑怯だし、小賢しいですよ。そんなのは」
「それも、生きるためだ。それに、本当にどちらにも与しない者もここには多い」
 しばらく歩くと、一度群れを出る。そのまま、何も無い荒野を歩き続けた。そうすると、今度は嫌竜派の居る場所だとファンネスはツェルガに説明する。随分近い場所に居るものなのだなと、ツェルガは思う。やはり、爬族は
必要な時はその仮面を付け替えている様であるし、また親竜派と嫌竜派があると言っても、そこに熾烈な衝突が存在している訳ではなさそうだった。小競り合い程度の、要は竜族に対する恰好をつけるための物はある様だが。
 やがて、嫌竜派の村が見えてくる。ただ、そこでも結局はツェルガとファンネスの受ける扱いは何も変わらなかった。村人はファンネスを笑顔で迎えたし、ツェルガにもやはり、綺麗なのを連れてきたと言った。泥に塗れて、
何が綺麗なのかと。ツェルガは思わず睨みつけそうになる。
 その後も、いくつかの村を巡って。やがては空が朱に染まってゆく。親竜派、嫌竜派。どちらの村も巡ったし、どちらにも属さぬという村も寄った。どこに寄っても、ファンネスは手厚い歓迎を受けたし、ツェルガを訝しむ者は
居ないでもなかったけれど。それでもファンネスの連れる相手であるからと、誰もツェルガを邪険に扱う事はしなかった。
「親竜派も、嫌竜派も。それほど、変わらぬのですね」
 帰り道を、とぼとぼと歩きながら。ツェルガはぽつりと呟いた。そうしながら、なんとなく不思議な気分に陥っていた。久しぶりに、自分の手駒を一人も連れずに、ただ歩いたからだろうか。
「言っただろう。爬族なのだからな。お前達竜族からしたら、気に入らぬ事は多いかも知れないが」
「信用できませんね。爬族の言う事なんて、本当に。だから都合が悪くなれば、もう一つの方になって。本当は、竜族の力になろうなんて、思ってはいないのでしょう?」
「竜族が、爬族にとって良き隣人であるというのならば。爬族はただそう接するだけだろうさ」
「爬族風情が、何を言っているのやら。所詮は、竜族に縋る事しかできない癖に」
「そうだな。そういう面も、あるのだろうな」
「……ファンネス。あなたは」
 前を歩くファンネスを、ツェルガは呼び止める。そうすると、ファンネスがゆっくりと振り向いた。
「あなたは。どちらなのですか」
「俺は、どちらでもない。それから、竜族に何かをしようとも思わない。それは、俺の目的ではないからな」
「あなたの目的は、なんなのですか? あなたはどこに居ても、人々から歓迎されていた」
 今日一日、ファンネスと一緒に居るだけでも、ツェルガにはわかる事があった。ファンネスは、普通の爬族とは少し違っていた。親竜派でも、嫌竜派でもなく。だからといって、中立の立場である事を公言して、この問題から
逃れようとしている訳でもなく。ファンネスは、ただ、ファンネスなのだった。
「俺は。ただ、自分の薬の効果を試したいだけだ。そのためには、診る事のできる者は、診る。本当は俺は、爬族の事にもそれ程関心は無いよ。それどころか爬族が竜族にばかり感けているから困る。俺は、もっと他の種族の
身体を見て。それに合う薬を作りたい。俺は薬師だからな。それが俺の目的であり、俺の夢でもある」
「医者では、なかったのですか」
「それは、薬を試すためさ。だから患者を目の前で斬られ様が、それ程困る訳じゃない。それで困るのは、患者を治す医者であって。薬の効き目を確認した、薬師の俺ではないからだ」
「効き目を確認する前に斬り捨ててしまいましたが」
「死にかけた奴にはまた別の薬を使うだけだよ」
「恐ろしい事を平気で言うのですね。……夢、ですか。事も無げに、そんな事を語るのですね。それも、種族に合う薬だなんて。魔導で、充分ではありませんか」
「魔導では、どうにもならぬ事もあるだろう?」
「確かに。病ともなれば、薬に頼る必要もありますが。竜族も、爬族の作る薬を重宝する者もおりますし」
 ファンネスがそうだが、爬族は薬学に対して優れた者が多かった。それに対して、竜族というのは実のところ、そこまでそれが発達したとはいえない。竜族は魔導の才に満ち溢れていたし、その上で身体自体が、頑健に
できている。大抵はその身体の強さと、魔導による治療でどうにかなるが故に、爬族の様に薬に対しての研究が進んでいるとは言えなかった。それでも、魔導では改善の見られぬ病や、老いて身体の衰えた者となると、
薬が必要になる事もある。とはいえ、大抵の場合は薬が必要とされる事はなかった。そのために、薬師であり。その様に他種族にも効果のある薬を作り上げる事を夢に見るファンネスの姿というのは、ツェルガには酷く新鮮に、
そしてほんの少しだけ、滑稽にも見えたのだった。
「あなたは、いつかここを出てゆくのですか。あなたに、そんな夢があるのなら」
「そうだな。そろそろ、そうしようかとも思っていた。竜族とこのまま争いが増えれば、爬族の中での諍いも増えてゆく。そうなれば、俺は必要とされるだろうが。俺はそれだけでは、嫌だ」
「そうですか」
「ツガ。お前には、何か夢はないのか」
「夢、ですか」
 問われて。ツェルガは、返答に詰まってしまう自分が居る事に気づいた。ツェルガにとっては、今が全てだった。筆頭補佐としてぼちぼち仕事をしては、気に入った男を跪かせる。一見してそれは、碌に仕事をしていない様にも
思えるが。ツェルガに魅せられた男は、ツェルガにたてつく事もしなければ、常に忠実であり続けるのだから。それは竜の爪をより強固な物へと変えていったし、ツェルガに魅せられた者同士で、諍いが起こる事もない。その様な
事をすれば、責めは全てツェルガに向く事を誰もが弁えているからだった。爛れた、邪で歪な関係である事などは、百も承知で。それでもツェルガに触れていたい者ばかりなのだから。
 そしてツェルガは、そんな毎日を好ましく思っていたのだった。今が最良であるのならば、夢などという。見るだけで、叶いもしない物を抱く事もなかった。あるとすれば、己の美しさを永遠の物として、美しいままのツェルガ
として君臨していたいという物であるが、それは叶いもしない事だった。他者を惑わし、自らの身体で相手を屈服させるツェルガであるからこそ。自分の全てが永遠に続く訳ではない事を、よく弁えてもいたのだった。
「ありませんね。そんな物は。私は現状に、満足していますから」
 素直に、ツェルガはそう返した。ただ。自分の事を、改めて振り返った時。少しだけ、寂しさを覚えもしたのだった。いずれ、自らの容色が損なわれた時。そこには何が残るのだろうかと。
 ファンネスは、ツェルガの返答には、何も反応を示さなかった。
「……そういえば、ツガ。お前は、魔導を得手としていたな」
「ええ。まあ。剣も、苦手という訳ではありませんがね」
「なら。今度、薬を作るのに協力してくれないか。上手くゆくのかは、わからないが。俺はずっと、それを気にしていた。俺は、魔導はそこまででもない。だから薬を作る訳だが。それでも、薬も、魔導も。どちらも全てにおいて
万能とは言い切れないだろう。だったら、この二つを上手く合わせられないかと。そう思っていた。思うだけで、俺の作る薬に見合う様な魔導の素養を持つ人物を、俺は今まで見た事がなかった。けれど、お前なら」
 ツェルガは、難しい顔をした。それから、こいつは何を言っているのだろうかとも思った。別に、それが求められる事が不愉快な訳ではなかった。ツェルガは筆頭補佐であるし、魔導の才も持つのだから。当然男を相手に
遊んでいるばかりではなく、その様な学識にも明るかったし、たまには、という条件が付いてはいても魔導に関わっているのも好きではあった。ただ、腑に落ちないなと思ってしまうのは。やはり目の前のファンネスが、
ツェルガの身体の事など何一つ気にした素振りも見せずに。あまつさえ、求めたのはツェルガの容色ではなく、魔導の腕だからだったのかも知れない。ファンネスを籠絡せんと、案内に選んだというのに。結局今日一日、
ファンネスに対して様々な事を試してみても、ファンネスは動じた素振りさえ見せなかった。
「……ええ。構いませんよ。どうせ、爬族に対してはもう少し調べたかったですし。今日一日で、それが足りたとは到底言えない。それに、こうして付き合ってくれているあなたに対して。何も返さないというのも、良くはないでしょう」
 本当は、ファンネスが跪くというのならば。今までの様に、身体でもって。極上のお返しをする事もあるのかも知れないと思っていたのだが。そんな予想も、粉々に砕け散る。
 部下の待つ天幕へと戻って、ファンネスを帰して。ツェルガは一人になると、溜め息を吐いてしまう。
「生意気な男ですね。私に跪かないなどと。まあ、良いでしょう。次があります」
 それを呟いてから。自分には、魔導の力でファンネスを跪かせられる事に、ツェルガは遅れて気づく。いつもは、そうだった。頑なにツェルガに靡かぬ者も、稀には居る。それも、脱がせて、交われば。そこまでだった。あとは
ツェルガの身体に、溺れてゆくばかりだ。
 そうすれば。ファンネスは、自分に溺れるのだろうか。不思議と、そうはならない様な予感を、ツェルガは覚えていた。

 ツェルガが爬族の下へと赴いてから、それなりの月日が経った。
 変わらずに、ツェルガはファンネスと共に爬族の中を歩いている。その頃になれば、ファンネスが連れる美しい爬族の話は、評判になっていた。部下には、竜族だと知られては都合が悪いからとは言ったものの、あまり
良い顔はされなかった。それは当然であったし、自分でもそう思う。誇り高い竜族が、爬族の振りをする、などと。
 それでも。ファンネスが迎えに来ると、ツェルガはそんな事すら忘れて。そして部下を置いて、ファンネスと共に行く事を選ぶのだった。
「そういえば。この間作った薬は、中々良かったぞ」
 いつもの様に、爬族の村を巡りながら、ファンネスが口を開く。それに、ツェルガは微笑みかける。
 ファンネスの見せてくれる景色は、特段に珍しい物がある訳ではなかった。そもそもが、爬族の暮らしぶりというのは。竜族と比べたらあまりにも質素で、地味な物であったし。その上で形の上では親竜派、嫌竜派と
分れてもいる。時には小競り合いも起こるし、死者も出る。最初にファンネスに言った通り、ツェルガはあまり、嫌竜派の爬族を救う事をファンネスにさせたくはなかった。もっとも、それはツェルガの見ている前で、という
意味ではあったが。流石に、竜族であるツェルガが、目の前で嫌竜派の爬族に手が差し伸べられているのを黙って見ている訳にはゆかなかったのである。それでも、その頃にもなれば。ツェルガは大分、爬族に対する見解を
改めてもいたのだった。ファンネスに連れられて歩く場所は、どこも地味ではあったけれど。なんとなく、穏やかな物でもあった。親族ですら、その魅力で惑わす程のツェルガであったから。今の様に、ファンネスに魔導の
腕を乞われたり。共に歩いて、すっかり顔なじみとなった今は、軽い冗談を言い合う様にもなるというのが、新鮮な物に感じられたのだった。幼い時から、竜族の中に居るツェルガというのは。常に他者を惑わすのが常で
あったのだから、尚更だった。それ程までに、ツェルガは妖しく。竜を魅了する事ができたのだった。
 泥に塗れるのも、嫌ではなくなっていた。寧ろ、前よりも念入りに汚す事が多くなった。竜族である事が。ツェルガ・ヴェルカである事が知られては。どうなるのか、わかった物ではなかった。否、ツェルガ自身に危険が及ぶ
という事は、ありえなかった。ただ、黙って嫌竜派の所にまで案内をしてくれたファンネスが、どの様な扱いを受けるのかは、わからなかった。その辺りはファンネスは、独断で案内をしてくれている。それを思えば、もはや最初の
時の様に、自らを汚す事をツェルガは厭わなくなった。
 ファンネスと接する内に、少しずつではあるがツェルガは変わっていたのだった。ランデュスに戻らなければ新兵の物色もできないと嘆いていたのに、今はそれ程戻りたいとも思わなくなったし、またファンネスと別れて、
天幕に戻っても。奴隷を兼ねた部下に対して何かを求める事も少なくなった。流石にツェルガは淫乱の権化の様な存在であったから、突然に全てを断つという訳にはゆかなかったし、またそうすれば自身の影響力が弱まる事も
理解していたから、部下で遊ぶ事は続けてはいたけれども。それでも、以前の時の様に。それが何よりも楽しいとは思わなくなったし、また行為の最中であっても、夢中になりきれなかったりもしていた。
 或いは。今自分を抱いているのが、ファンネスであったら。どんな感じなのだろうかと。そう思う始末であった。
 そこまで考えが巡る様になれば、流石にツェルガも、自分がファンネスにどんな思いを抱いているのかは理解できた。けれど、何故自分がファンネスを好いているのかは、わからなかった。ファンネスは、ツェルガの好み
という訳ではなかった。あちこちの爬族を訪い、治療を施しているので、その身体はそれなりには鍛えられていたけれども。それでも、ツェルガの好みに思う様な。逞しく。ツェルガと比べて、圧倒される様な体躯の持ち主という
訳ではなかった。そういう相手を跪かせるのがツェルガは好きだったし、またそんな逞しい身体を持った相手が、最後にはツェルガに犯されて泣き叫ぶのを見るのが、好きだったのだから。
 いつもの様に、ファンネスと道を行く。既に爬族の中を歩き慣れたツェルガには、もはや嫌竜派の爬族とて、それ程まで嫌悪を抱く様な相手ではなくなっていた。ファンネスは、己の夢のためにいつかはここを出るとは
言ったものの、それでも爬族である事に変わりはなく。爬族の行く末を案じている様だった。ファンネスは決して、それを口には出さなかったが。付き合いも大分長くなってきたツェルガは、それを感じ取る事もできる様になって
いたのだった。ファンネスを跪かせたい、などという当初の目的はとっくにどこかへと行ってしまって。今はただ、ファンネスを見て。そして、何か一つでもいいからその役に立ちたいとも思っていた。
「どうすれば、嫌竜派の爬族と争わずに済むのでしょうか」
 ある時。ツェルガはそれを呟いた。竜族側からは、大抵の事はしているはずだった。ギヌスがそれに当たっていたのだから、少なくともツェルガ自身よりかは、上手くやっていただろう。それでも、結局は爬族の問題で
あるからして、完全な和解などという事には至らなかったのだった。
 ツェルガが呟いた言葉に、ファンネスが僅かに表情を変えて、ツェルガをまっすぐに見つめてくる。ツェルガは、首を傾げそうになった。そうすると、ファンネスは呆れた様な顔を自分に向けてきた。
「本気で、言っているのか。ツガ。お前は」
「どうして、ですか」
「……お前が俺と最初に会った時、その場に居た嫌竜派の爬族を斬り捨てただろう。あいつは、死んでしまったのだぞ。なのに、そんな事を言うなんてな」
 そう言われて。ツェルガは今更の様に、自分が今までどんな仕打ちを嫌竜派の、いや、それでなくとも。爬族に対して行っていたのかを、思い出したのだった。ファンネスが呆れるのも、無理からぬ事であった。後で調べて
みれば。ツェルガが切り捨てた嫌竜派の爬族は、嫌竜派の中でも重鎮に当たる人物の息子であった様だった。当然、その事で親竜派と嫌竜派の爬族の仲は前よりも険悪な物になっていた。そんな事すら、ツェルガは
知らなかった。ただ、ファンネスに連れられて見せられる世界の中で。ファンネスだけは、他の爬族とは違うと。そう感じて、見惚れているだけの自分に気づいたのだった。
「ツガ。お前は、竜族だろう。その様にお前が考えられる様になったのは、喜ばしい事なのかも知れないが。竜族から。特に、お前に付いてくる者達からすれば。それは、あまり良くない考えなのではないのか」
「それは、そうなのですが。しかし私は、この問題に対するためにここへ来ました。それに、ファンネス。あなたの様な爬族にも、出会えた」
「それでも、お前は竜族だ。あまり、爬族に肩入れをしようとするな」
 突き放す様な事を、初めてファンネスが口にした。ツェルガは、それ以上は何も言う事ができなくなってしまう。
 それから程も無く、ツェルガ一度ランデュスへと引き上げる事になる。期限が迫っている訳ではなかった。ただ、宰相のギヌス・ルトゥルーに会いに行ったのだった。
 ツェルガが訪ねると、ギヌスは最初、嫌そうな顔を隠しもしなかった。それに、ツェルガは黙って頭を下げる。それも致し方なかった。ギヌスの様に高齢で、それでいてランデュスのために長く、そしていつも身を粉にしている
様な、厳格な人物からすれば。自分の様な存在は、一番不愉快に思えるだろう。また、ツェルガも。枯れただけの老人だと、その様に見ていたのだから。しかしその時のツェルガは既に、今までのツェルガではなくなっていた。
礼を尽くしては、ギヌスに教えを請う。その様子を見て、ギヌスも態度を改めた。その席で、ツェルガはどうすれば爬族を。親竜派も、嫌竜派もなく。和解する事ができるだろうかと。そう、相談したのだった。
「それは、難しい話だ。ツェルガ。お前も、よくわかっているだろう。嫌竜派の爬族は、結局は竜神様の意向に対して決起したに等しい。かつての、親竜派、嫌竜派などという物に分かれていなかった頃の爬族は。竜族に
恭順の意を示していたのだからな。……だが、意外だ。お前が、その様な事を言うとは。お前は、爬族の事はあまり好いておらぬと。私はそう思っていた」
「確かに。今も、私はまだ爬族の事を快くは思っていない部分もあります。親竜派の、竜族として認められたいという主張は、馬鹿げているとも。けれど」
 脳裏に、ファンネスの姿が浮かぶ。好いていた。間違いなく、好いている。今は、それがよくわかる。そしてファンネスを通じて、爬族を前よりも知ったツェルガは。どうしても今は、そこまで爬族に対して、非情になりきれなかった
のだった。自分が切って捨ててしまった嫌竜派の爬族に対しても、申し訳ないという気持ちが今はある。謝罪にもいきたかったが、それはファンネスにも止められたし、事情を話したギヌスにも、止められた。自分の立場を
考えるべきだと。それから、例えその様に殺してしまったとしても。嫌竜派の爬族もそのくらいは覚悟の上であると。
「そう簡単に、この問題が解決できる訳ではない。少なくとも、竜神様がこの涙の跡地を併呑すると仰るのだから。嫌竜派の爬族がそれを肯ずる訳ではない以上は、易々と片付く物ではないだろうさ。お前に、どんな変化が
あって。今そうしているのかは、わからないが。お前一人の力では、どうにもならぬ。また、どうにかなるのであったら。私が預かっている間にも、解決できたであろう。……少し、疲れている様だな。しばらく、休んでは
どうだ。お前の部下も、お前が少しも戻ってこぬので、心配していたぞ」
 諭される様に言われて、ツェルガはギヌスの部屋を後にする。自らの部下が待つ場へと迎えば。ツェルガの目が捉えたのは、飢えた竜の群れだった。ツェルガが留守の間、放っておかれて飢えた男達が。ツェルガを狂おしい
目で見つめていた。何故なのだろうか。それに、僅かな恐怖を抱いてしまったのは。こんなのは、いつもの事であったというのに。そして、自らの身体を使って。ほんの少し留守の間、触れられなかった分、接してやるだけ
だというのに。
 一人一人、部屋に招く様な真似も止めて。ツェルガはそのまま、全員を引き連れてその相手をした。誰もが、ツェルガを丁重に扱った。ツェルガに触れて、その足を舐める事こそが最大の幸せであるかの様に振る舞って
いた。ツェルガに触れられぬ不安は、ツェルガに触れる事でしか、解消しようがなかったのだった。そうなる様に仕向けたのは、ツェルガ自身だったのだが。その相手をして。やがては、興奮しきった相手に許しを出して、
複数人の相手を同時に始めても。結局ツェルガの想いは、そこにはなかった。ただ、爬族の事を。そして、ファンネスの事を心に浮かべるだけだった。
 数日の後に、ツェルガは再び爬族の地へと向かう。元々仕事として引き受けた以上はまた出向く必要はあったし、妙な胸騒ぎがあったからだった。
 爬族の下へと戻った時、その胸騒ぎは的中した。自分がここに来たのだから、ファンネスは程も無く現れて。また案内をしてくれると、ツェルガはそう思っていた。そうしてから、今後の事についても考えようと。
 だが、ファンネスは現れなかった。
 親竜派の爬族や、爬族の族長にも声を掛けてみたが、ファンネスの行方は知れなかった。単に、用事ができたのかも知れない。ファンネスはあちこちに患者を抱えているのだからと。しかしツェルガがそう思っていられたのは、
ほんのごく短い間だけであった。念のためと、部下を一つのところに集めて。そしてツェルガは神経を研ぎ澄ます。すぐに、わかった。自分の部下の反応が、この場に今連れてきている者とは別に感じる事を。一人で視察に行くと
言って、ツェルガは飛び出した。ツェルガは常に、部下に魔導の目印を付けていた。それは大抵は、城の中で都合が良い時に使うという、碌でもない使われ方をしていたが。戦場においては、部下の命を助けるのに役立つ
事もあった。そして、今も。
 辿り着いたのは、穴蔵の一つだった。爬族が使っている物だが、そこはつい先日まで嫌竜派が使っていた物で。ツェルガが近くに来た事で、本来の持ち主であるそれらはどこかへ行ってしまって、無人となっていた場所
だった。一口に穴蔵と言っても、様々な物がある。そこは、思いの外しっかりと作られていて。穴に潜ってしまえば、壁はしっかりと塗り固められて、それ程土臭さも感じはしなかった。
「おい」
 その奥に辿り着いた時。ツェルガは躊躇いなく口を開けた。ツェルガの登場に、竜族の部下が振り返って怯えた目を向けた。その向こうに。床に座り込んで、赤く染まったファンネスの姿があった。こんな時ではあるけれど、
ツェルガはファンネスも爬族なのだなと思った。竜族の血は、青く。爬族の血は、赤い。一目見ただけで、ファンネスが虫の息である事がわかってしまうのだった。
 ツェルガは、ほとんどの事を憶えていなかった。ただ、気づいた時には。剣を握り締めた自分と、全員首を刎ねられて死んでいる自分の部下が居た。改めて顔を見れば、それは最初に連れてきた部下の数人だった。一度
ランデュスに戻った際に、休暇を言い渡した者達。それらは、ツェルガに無断で先回りをして。ファンネスを捕らえたのだった。
「ファンネス」
 長くは、自分の部下の事を見つめてはいなかった。動かずにいるファンネスへと、駆け寄る。四肢や胸から血を流していたファンネスは、ツェルガが触れると、僅かに声を漏らした。生きている。それだけで良かった。ツェルガは
すぐに怪我の治療に当たる。治療の魔導は、かなり難しかったが。ツェルガは相性こそ悪かったものの、腕に覚えはある。どうにか行使する事もできた。
 しかし、事はそれだけでは済まなかった。不意に、背後から感じた殺気にツェルガは慌てて振り向く。そこには、誰も居なかった。骸になった、自分の部下だけだった。それでも、次には正面から叫び声が上がった。そちらへと
目を向ければ。ファンネスの身体の上に、黒い靄が広がっていた。それが広がる度に、ファンネスは苦し気に呻いては、ツェルガの力で止めていた血が再び流れ出す。
「これは」
 まさか。そう思った。それは、呪いだった。未練を残して死んだ者が、死んだ場所や。自分を殺した相手に執着を残す事がある。それは恐ろしい力となって、その憎悪の対象を蝕む。ツェルガの部下は、死した後に、呪いと
なったのだった。それも憎悪の対象は、自分達を殺したツェルガではなかった。ツェルガを惑わせて、ツェルガが執着し、自分達に触れる機会を損なわせていたファンネスへと竜族の呪いは向いたのだった。憎悪はファンネスを
包んで、ゆっくりと。しかし確実に蝕んでは、死へと誘う。
「止めろ。殺すのなら、私にすればいいだろう」
 ツェルガは、懸命に説得しようとした。しかし、無駄だった。死して憎悪の塊となった相手には。例えそれが、かつては部下であり、奴隷としてツェルガの言葉に絶対を誓っていた相手であったとしても、通じる物ではなかった。
 思わず、ツェルガはファンネスの身体に触れる。呪いに巻き込まれる事を、恐れはしなかった。それに、例え竜族の呪いと言えど。筆頭補佐であり、魔導に長じたツェルガに害を成すには、確かに力は足りなかった。
 ツェルガがファンネスの身体に触れると、不思議な事が起こった。僅かに、呪いがファンネスを蝕む手を止めたのだった。その時ツェルガは、自らの部下の、食い入る様な瞳を思い出したのだった。
 誰もが、ツェルガを求めていたのだった。ツェルガに触れて、ツェルガに愛される事を求めていたのだった。それは死して尚、変わらぬ物だった。
 呼吸が、荒くなってゆく。ファンネスの身体を抱き締めた。そうすると、呪いの手が止まった。
 これなら。そう思った。しかし、それも長くは続かなかった。頭の中に、声が響く。竜神の声だった。本当は、ツェルガはそれが訪れる事をとっくに悟っていた。同族殺しの竜。それも、己の部下を繋ぎ止める事ができずに、
暴走させてしまった。竜神の声は、心底から呆れを孕んでいた。そして、その手が忍び寄ってくる。ツェルガの身体に、ではなく。心へと。
「待ってください。お願いします、どうか」
 己の矜持も捨てて、ツェルガは頼み込んだが、それが受け入れられる事はなかった。竜神からしてみれば、ツェルガは既に筆頭補佐としての資格を損なっていた。ツェルガの支配は、ツェルガが常に自らに跪く者達を
愛するからこそ成立していた物であり。ファンネスを前にして、それに感けて、今回の件が起きた事は。ツェルガの影響力が弱まった事を意味するのだった。事実、ツェルガは以前の様に、男を弄ぶ事を心の底からは楽しめなく
なっていた。ツェルガ自身は以前と変わらぬ様に接していたつもりではあったが、そうではないからこそ、部下が勝手な行動を取ったのだった。竜神は、ツェルガの小さな王国を見るのは嫌いではなかった。ツェルガのしている
事は、竜神がしている事と手段は違えど似ていたからだ。しかしそれも、終わりを迎える。竜神は、ツェルガを連れ戻しにきたのだった。それも、ただ連れ戻すだけではない。そうしたところで、目の前に居るファンネスを見殺しに
しては、ツェルガは以前の様には決して振る舞う事もできないだろうと見て。筆頭補佐であり、神声を聞く程に竜神の力を授けたツェルガに、完全なる支配を施そうとしたのだった。
 ツェルガは、身体を震わせた。そうなれば、もはや自分の身体は、自分の物ではなくなる。いや、そんな事よりも。目の前のファンネスへと、視線を向けた。このまま、ツェルガがこの場を立ち去れば。ファンネスは間違いなく
呪いに蝕まれて死ぬ。そうでなくとも、重傷であるのだから。浅い呼吸を何度も繰り返して、ツェルガは必死に考えた。考える余裕も無い程に、やがては竜神の強大な力がやってくる。ツェルガの心を、塗り潰そうとしてくる。
 迷っている時間もなかった。ツェルガは、ファンネスの身体を抱き締めて。それから、己に対して魔導を施した。魔導に長け、洗脳に近い程に催眠の得意なツェルガだからできる事であった。竜神の力は、ツェルガの精神に
刻まれた物であった。そうする事で、いざという時。竜神はその心を乗っ取り、身体を支配する。だからツェルガは、自らの精神の中から。竜神の力に縛られた部分の全てを切り取ったのだった。それは大変な困難と、そして
苦痛を伴う作業だった。胸の中も、頭の中も。直接掻き混ぜられた様な不快感に襲われて。ツェルガは涙を流しながら。それでも、竜神の力に抵抗した。
「ファンネス……。好きですよ、あなたの事が。こんな事すら、言えなかったなんて。なんだかおかしいですね、私……他人から言わせるのは、あんなに簡単だったのに」
 言いたい事だけを言って。最後に、ファンネスの頬に軽く口付けてから。ツェルガは、己の精神を。竜神に毒された部分を、完全に身体から切り離した。そして、ほんの僅かに身体に残った精神に向けて。ありったけの力を
籠めた。ファンネスを守ってほしいと。決して、その傍を離れてはならないと。離れれば、ファンネスが呪いに喰われる結果が待っているだけだった。最後の力を振り絞って、ツェルガはそれを実行に移して。
 そして、ツェルガの精神は竜神に喰われたのだった。

 ファンネスは、薄暗い穴蔵の中で目を覚ました。恐ろしい程の気怠さが、身体を支配していた。
 竜族の兵に、無理矢理連れられてきた事だけは憶えていた。その後どうなったのかは、酷く曖昧だった。
 ただ、一つだけ気づいた事があった。いつの間に戻ってきたのだろうか。ランデュスに戻ると言って姿を消したはずのツェルガが、ファンネスに凭れ掛かっていたのだった。それを、綺麗だなと。ファンネスは思った。薄暗い
穴蔵の中でも、泥に塗れていないツェルガは光り輝く様だった。代わりに、青い血に塗れていたが。
 重い身体を動かそうとして。動かせぬ事を悟ると。ファンネスはゆっくりと手を上げて。身体を預けたまま、眠っているツェルガの背中を何度か叩いてみた。そうすると、ゆっくりとその瞼が開いてゆく。瞳も、綺麗だった。何も
かもが、ツェルガは美しかった。ただ、ファンネスはツェルガの事を、ただの友人として見ていたのだが。
 目を覚ましたツェルガは、不思議そうな顔をして辺りを見渡していた。血の臭いが充満していたし、ファンネスは赤く。そして、ツェルガは同族の青い血に塗れていた。そんな事すら、目の前のツェルガは知らぬと言いたげに、
しばらく視線を彷徨わせてから。やがては、ファンネスへと視線を戻して。そして、見つけたとでも言いたげに、微笑んだ。
「ファンネス」
 そう言って、ツェルガはファンネスの身体を抱き締めた。そうされると何故だか、身体の痛みや、だるさが遠退く。ただ、それよりも。ファンネスはツェルガの変化に気づいていた。自分を呼ぶ、その声も。いつもの様な、
物静かな様子ではなく。ただ、喜びを露わにしていたから。
「ツガ……?」
 問いかけた。そうすると、ツェルガはきょとんとして。首を傾げた。まるで、自分の名を呼ばれた事にすら、気づいてはいない様だった。
 ファンネスの目の前に居たのは、確かにツェルガではあったものの。同時に、ツェルガではないものへともなっていたのだった。

 ファンネスは、ツェルガを連れてその場を後にした。辺りを見れば、ある程度の事を察する事はできた。また、ツェルガの口から。もしもの時はその様な事が起こり得ると、竜神の力についての話も聞いていたのだった。
「お前の名前は、ツガだ。わかったな」
「ツガ」
 そう言うと。ファンネスが名付けた、ツガは。嬉しそうに笑った。元のツェルガからは想像もできない程に、無垢な笑みを浮かべていた。
 ツェルガは、ファンネスを守る様にと。僅かに残った精神に言い渡した。しかし残された精神の方は、そう上手く機能する物ではなかった。急ごしらえのツェルガの処置は、未熟な部分が多く。必要以上に残す精神を削り
取ってしまっていた。そのために残されて動き出したツェルガの身体に宿る精神は、幼い子供のそれの様になっていた。自らの記憶も、何も憶えてはいない。ただ、ファンネスを守りたい。そして、ファンネスを愛しく思う。その
二つの強い気持ちだけが、今のツガには残っていたのだった。
 そして、また。自らの身体に刻まれた呪いの強さも、ファンネスは思い知った。なんの呪いであるか、という事も。あのツェルガの部下の死体から、理解できた。そして、呪いに蝕まれて苦しむファンネスに、ほとんど本能的な
行動としてツガは近づいて、触れてくる。そうされると、呪いは嘘の様に和らいだのだった。呪いが鎮まった隙を見て、ファンネスはツガを隠してから。一人で爬族の族長の下へと向かった。そこで、自分はここを去るを事を告げる。
 ファンネスの傷を見た族長は、必要以上にそれを詮索しなかった。挨拶を済ませて、ファンネスは爬族の下から去った。いつかは、その日が来るのだろうとは思っていたが。まさか、こんな形でそれが叶うとは、思っても
みなかった。その隣に居るのは、ローブで深く顔を隠したツガ。不思議な事に、追手は掛からなかった。ファンネスは、ツェルガの部下の事もよく見ていたから。ツェルガが居なくなったとあれば、半狂乱になって捜索に出る
のは当たり前の事だと思っていたし、また事実、その部下のせいで手痛い目にも遭っていたから、それは好都合でもあった。実際のところは、竜神が竜の爪の全てを集める命令を出した事が、関係していた。竜神は、例え
ツェルガの身体が戻ったとしても。もはや今までの様にその小さな王国が立ちゆく事はないと見たし、竜の爪の今後を考えて。ツェルガは自分に背いたといい、罷免すると同時に。ツェルガの愛に惑わされていた者には、
ツェルガの魔導よりも更に強力な洗脳を一時的に掛けて、ツェルガとの逢瀬の事を忘れさせた。そうでもしなければ、竜の爪の中でツェルガと親密にしていた者の全ては、生気その物を失ってしまいかねなかったのだった。
 当然、その場にツェルガの身体があっては。せっかく掛けた洗脳すら、下手をすれば破られかねないし、兵が発狂しかねなかった。ファンネスは、そんな事は知らずに。追手が来ぬのなら、今の内と。爬族の領地からツガを
連れて脱出する。目指す先は、特に決めてもいなかったが。少なくともツェルガを知っている者が居る場所はありえなかった。戦地を避け、爬族の知り合いの助けを時折借りながら。やがてファンネスは、ラヴーワへと
入る事を決めていた。
 道中は、思っていたよりもずっと楽な物だった。身体の傷は、自分の薬でいくらでも治療ができた。爬族ばかりを診ていたのだから、ファンネスには例え自分の身体であろうと、お手の物である。その上で、共に歩くツガはと
いえば、ほとんど幼児に近い様な振る舞い方になったとはいえ、元々は筆頭補佐を務めていたツェルガ・ヴェルカの肉体である。魔導に対する知識も損なわれてはいたけれども、ファンネスが自分でも扱える簡単な魔導を
教えて、魔導学についても初歩を教えてやれば。あとは勝手に魔法が扱える様になっていた。元々が魔導の才を持っていた身であるので、ツガは難なくそれを使いこなし。道中は例え二人だけであろうと、何一つ危険な事は
なかったのだった。
 しかし、たった一つだけ問題があった。それは、ファンネスの身体を蝕む竜族の呪いだった。こればかりは、どうしようもなかった。時折、思い出した様にファンネスを苛んでは。その度にファンネスは倒れて、涙を流すツガの
世話になるしかなかった。その頃にはツガはもう、ファンネスの身体のためにも自分はその傍に居なければならない事を充分に弁えていたので、どの様な時であろうともファンネスの傍を必要以上に離れる事もなかった。
 そのため、ファンネスは長らえていたのだが。それも、少しずつ変わりつつあった。ある日、いつもの様に野宿をしていた際に。発作の様に呪いが動いて、ファンネスは呻き声を上げる。当然、ツガは飛んでくるのだが、
そのツガを見た途端に、ファンネスは嫌な予感を覚えて。咄嗟にツガを突き飛ばした。突き飛ばされたツガは、何故自分がそうされたのかがわからずに、困惑の表情を浮かべる。
「来るな。ツガ」
 どうにかそれだけ呟いて、ファンネスは蹲る。痛みが激しくなって、吐きそうになる。いつもなら、ツガが触れてくる頃だ。すぐに体調は良くなる。しかし今は、そうする事はできないと。ほとんど確信に近い物を感じ取っていた。
 しかしツガは、ファンネスのそんな動きを知る由もなかった。来るなと言われ様が、このままではファンネスが、ともすれば死んでしまうと思えば。ツガの動きは止められる物ではなかった。疼くまるファンネスの身体を
横にすると。そのまま、抱き付こうとする。どうせ野宿をしている以上は、他人の目などありはしないのだから。そんな事を気にする必要もなかった。それでも、やはりその時のファンネスは、普段の状態とは違っていたので
あった。再びその視界にツガを認めた時。ファンネスは驚く程の敏捷さでもって起き上がりながら、再びツガを突き飛ばしたと見ると。そのまま、ツガの身体の上に馬乗りになる。そうしながらも、ファンネスは必死に自分の
身体を抑えようとしていた。自分の身体であるはずなのに、今はほとんど、自分の身体ではない様な気さえしてしまう。それもそのはずだった。ファンネスの身体を覆う、竜族の呪い。元を正せば、それはツェルガの奴隷に
他ならないのだから。例えツガに触れられて、一時は安らぎを得ようとも、ツガの艶めかしい身体を見て、満足するはずもなかったのだった。魔導にそれ程明るい訳ではないファンネスの身体の自由を奪うのは、難しい事では
なかった。彼らは己が憎み、殺そうとした相手の身体を使って。目の前のツガの身体を貪る事を選んだのだった。
 ツガの服を引きちぎり、露わになった輝く鱗を、ファンネスは舌を出して擽る。それも、長くはなかった。ツガの身体が一糸纏わぬ姿になれば。もはや亡霊は、留まる事ができなかった。ファンネスはほとんど混乱しながら、
しかし自分の身体が、ツガを見て確かに興奮しきっている事を知ったのだった。既に硬くなった性器を、訳もわからずに、怯えながら震えているツガの中へと侵入させる。悲鳴が上がった。痛みにツガは泣き叫んで、止めて
ほしいと何度もファンネスに縋る。とうの、痛みを与えてくるファンネスに。しかしファンネスはその時になっても、身体の主導権を取り戻す事ができずにいた。ただ、辛そうな顔をして。何度も、何度も自分が犯しているツガに
謝る事しかできなかった。そうしている内に、犯されているツガにも変化が訪れる。痛みにもほんの少しだけ慣れて、ファンネスから分泌されている先走りで滑りが良くなってきた頃に、深く奥を突かれた。不意に、ツガは
それまでとはまったく違う声を。相手に確かな快楽を報せる声を上げたのだった。如何にツガの精神が子供子供して、何も知らぬとはいえ。その身体はやはり、ツェルガ・ヴェルカの。男を漁り、貪っていた身体に他ならなかった
のだった。記憶を損なえど、その身体に刻まれた快楽への導火線が消える事などはありえなかった。ファンネスが貫いた事で、再びそれには火が点いて。程無くして、ツェルガは身体を跳ね上げて。まるでかつての姿を
取り戻したかの様に、痛い程にファンネスを締め付けた。例え記憶になくとも。身体は男の悦ばせ方を、少しも忘れてなどいなかったのだった。そして、泣き叫ぶだけだったツガの幼い心に。色濃く性行為の快さを刻んだのだった。
 その頃になれば、もはや互いに交わる事を止めようとする素振りも見せなくなった。ファンネスは、ツガの反応が出てから更に鋭い快感を得る様になって。元々こういった事には淡泊であったし、また夢のために各地を旅する
必要があるからして、恋人という物を持つつもりもなかったので、普段は隠している性欲の面を引きずり出された形になったし、例えそれがなかったとしても、呪いによって操られた身体を止める事は叶わなかった。そしてツガは
どうして自分がこんなにも感じているのか、理解はできていなかったけれども。あまりに幼い精神が故に、ファンネスに抱く思いは純粋無垢であり。この様な行為をそもそも想像する事すらできなかったけれども。ファンネスが
快楽を経て。そして自分もまた、言い様の無い快感を得ているのは確かなのだから。結局はそれに従う事にした。息を荒らげながら、何度も謝罪の言葉を口にするファンネスに腕を伸ばしては。自分は大丈夫だと告げる。その
動きが本意ではない事も、なんとなく察せられて。そして結局は、こうしなければファンネスの身体が呪いに蝕まれて朽ちてゆく事も、理解したのだった。
 力強くファンネスが腰を振る度に、澄んだツガの声が上がる。確かにその姿は、男を魅了し跪かせていた、ツェルガ・ヴェルカその物だった。汗に濡れた美しい鱗が、夜の闇の中で妖しく蠢いては。浮かべた涙と、切ない声と、
蠱惑的な表情が男を惹きつけては止まぬ、かつての姿だった。ファンネスは期せずして、ツェルガがファンネスの前ではほとんど見せる事のなかった、真の姿を垣間見たのだった。ファンネスの息遣いが荒くなるのに合わせる
かの様に、ツガの身体はその中にある物を締め付けて。やがては、ファンネスが射精する。それを、二度、三度と繰り返した。ようやくファンネスを包む呪いが満足し、その身体が引いた頃には。ほとんど息も絶え絶えのまま、
虚ろに夜空を見ているツガが、草の上に転がっているだけだった。そのツガもファンネスに貫かれただけで、幾度となく絶頂を迎えていたのか。腹の上には白い精液が飛び散っていた。
 それから、二人の関係はより深い物へと変わっていった。その頃になると、ファンネスもようやくと言った様に、ツガの身体の美しさを見る様になっていた。ただの友人だと思っていた頃は、友人として接するのには目立ち過ぎる
と思う程に、その身体に対して興味をそそられた訳ではなかったというのに。ツガはといえば、ただファンネスが良くなる様にという思考であるからして。これはもう、ほとんど変化も見られはしなかった。ただ、幼い心に強い
快楽を与えられてしまったので。しばしばツガの方が、それを望む様な事もあったが。ファンネスは自制して、本当に呪いが酷くなった時しか、ツガを抱く事はしなかった。皮肉な話だった。ツェルガの時は、ファンネスに焦がれ、
その腕に抱かれる事をほんの少し夢想したり、ファンネスに愛情を感じていたというのに、とうのファンネスには友人として扱われ。ツガとなって、その想いが純粋な好意に変わった今になって。呪いのためとはいえ、二人は
結ばれたのだから。
 ファンネスはツガを連れて、やがてはラヴーワに到達する。とはいえ戦時中であるからして、下手な事はできなかった。ツェルガの美しさも、やはり人目を引いたし。それがランデュスの筆頭補佐であった男だという事も、
相手によってはわかってしまう。数十年以上は、田舎の、戦とも関係無い場所を転々としていた。その頃になると、ファンネスは自らの身体が老いを感じていない事に気づく。魔導の素養は、それ程ある訳ではない。だからこそ、
薬師になったのだから。それでもファンネスが長生きできているのは、やはり呪いのせいなのかも知れなかった。ファンネスが死ねば、呪いもまた、ツガの身体を味わう事ができなくなるのだから。或いは、魔力の強い
ツガを常に傍に置き、貪る事で。ファンネスにも影響が出ているのかも知れなかった。やがて、ラヴーワとランデュスの争いは休戦という形で落ち着く。その間も、ファンネスは気儘に歩いては、自らの薬を使って患者を
診ていた。爬族の地から飛び出してきたのは、確かに正解だった。他種族は、やはり爬族とは違っている。簡単に薬を作るのにも、製法に工夫が必要で。それはファンネスの知識と、自らの薬師としての腕前を磨き、充足を
得るのに充分な場所だった。ただ一つ、心残りがあるとすれば。ツガの存在であり、またツェルガでもあった。今、自分の傍に居るツガは、ツェルガではない事を、ファンネスは知っていた。しかしツガが離れては、自分は
生きてゆく事はできないであろうし、またツガもそれを肯ずる事はない。本当なら、ツガにはツガの生き方をしてほしかったし、またツェルガの事も当然、忘れる訳にはゆかなかった。全ての力を振り絞って、ファンネスだけを
逃がす様にして消えていったツェルガの事を、忘れられるはずもなかった。それでも、ランデュスに向かう事はできなかった。竜神に対して何かをするには、ファンネスはあまりにも無力であったし、またそうすれば、当然ツガも
自分に付いてきてしまう。厳しい言い方をすれば、ツェルガとて自業自得な面はある。それを知りながらも付き合っていたファンネス自身も、同じだ。しかし、ツガは。ツェルガの中に産まれた、新たなツガという存在には、
何一つ非などありはしなかったのである。結局ファンネスが、ランデュスに向かう事はなかった。その内に、ファンネスは流れて、ミサナトへと辿り着き。そこで、ラヴーワの軍師であるジョウス・スケアルガとの邂逅を果たす。
 ジョウスは、ファンネスの連れているツガの存在を訝しんだ。ファンネスは、躊躇いなくその正体をジョウスに伝えた。その頃には既に、ファンネスはスケアルガ家の者や、訳ありの患者を診る事もしていて、ジョウスの事も
ある程度は信用していたのだった。ジョウスもまた、ツガの正体を知っても必要以上に何かをする事はなかった。というよりも、利用しようにもツガは決してファンネス以外の言う事は聞こうとはしなかったし、だからといって
引き離せば、ファンネスは死に。ツガは狂うだろう。そしてファンネスに何かしよう物なら、その時こそツガは、ツェルガ・ヴェルカの力を遺憾なく発揮しかねなかった。触らなければ何事も起こらぬ物に、態々触れる酔狂を
ジョウスはしなかった。代わりに、ジョウスは魔道に対する研究を、時折ファンネスの了承を得てツガに頼み込んでいた。その結果できたのが、いくつかの魔導による拘束具だった。とはいえ、ツガの手によって作られれば
それらは絶大な効果を上げた物の、他種族。つまりは、竜族以外の非力な者達の手では、それ程の物は決して作れはしなかった。それでもツガの協力により、スケアルガが導入を進めていた魔法使いへの首輪などは、
普及する結果になったという。

 一方、ツェルガは。己の身体にツガという存在を残して、自らは竜神の手元へと戻っていった、ツェルガの精神は。竜神の手によって、全ての記憶を消されて、浄化されていた。
 その魂は、やがて現れる白き使者に、竜神が細工を施した際に、同時にその者の精神と融合を果たす事となった。これが、リュースだった。これには、ツェルガの経験や技術の面だけを、いずれは手駒となるリュースに
備えさせて。首尾よく自分の懐刀にしたいという竜神の狙いがあった。故に、リュースは本来の、白き使者としての能力の他に。ツェルガ程ではないものの、瞳を介した魔導に対する適正を示す事にもなった。
 そんな中で、ツェルガの魂は再び目を覚まさずに、消えてゆこうとしていたが、そうはならなかった。リュースが、ラヴーワの捕虜となり。竜の虜囚となったのだった。そのリュースの体調を調べさせるために、ジョウスは、
ファンネスの身体の事を知ってはいたものの。頼み込んで、ファンネスを。そして、当然それに付くツガを、リュースの下へ向かわせたのだった。竜族の身体を診て、理解できる者が、少なくともジョウスの信用できる人物の
中では、他には見当たらなかったのである。
 そして、牢獄の中で。リュースはファンネスの姿を認めた。その途端に、リュースの中で眠っていたツェルガの魂が、目を覚ましたのだった。記憶を消したはずの魂が、ファンネスが現れた事で、歓喜に打ち震えては。リュースの
中に混ざっていたツェルガは一時、リュースの全てを支配して表へと出てくる事ができた。愛おしい想いが、溢れてくる。よくぞ今まで、生きていてくれたと。ツェルガは、喜びを隠す事ができなかった。けれど、当然ではあったが、
ファンネスはリュースの姿をしたツェルガを、見極める事はできなかった。どうにか、ほんの少しだけでも、わかってほしくて。触れたくて。ツェルガは、必死に近づく。
 その時に、間に割り込む存在が現れた。一瞬、睨みつけようとして。しかしその正体を知ると、ツェルガは何もできなくなってしまった。間に割り込んできた、その者こそ。ツガだった。そして、かつてのツェルガだった身体だ。
「止めて! ファンネスに乱暴しないで!」
 美しい竜がそこに居た。美しい姿だった。美しい、心だった。今の今まで、ファンネスを守り続けてきた、ツガ。その存在を、ツェルガは初めて間近に知って。そして、全てを諦めるしかなかった。目の前に居るのは、美しい
身体に、美しい心を持った竜だった。自分勝手な振る舞いをして、ファンネスを守る事もできず。それどころか、リュースの一部となって爬族を屠っていた自分では、決して勝ち目の無い様な。そんな、美しい竜が居た。
 言い様の無い悲しみが、ツェルガを包んだ。それから、自らが今、足蹴にしているリュースの事を振り返った。同じ時間を共有していたのだから、既にツェルガは、リュースの事も好いていた。それどころか、既にその一部で
あるのだから。苦しみも、悲しみも、充分に理解していた。
「さようなら。ファンネス」
 諦念を抱えて。ツェルガは再び、リュースの心の底へと。沈んでいった。

その後
 竜神が敗れ去り、涙の跡地を覆う結界が無くなろうと。ファンネスの呪いが、無くなる訳ではない。
 今日もどこかで、ファンネスが歩けば。その後をツガは追うし、それはいつまでも続く事だろう。どちらかが、死ぬ時まで。


 

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