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ヒュリカ・ヌバ


 ヒュリカ・ヌバは、翼族を束ねるヌバ族の。そして、事実上は翼族の族長でもある、ヴィフィル・ヌバの息子だった。
 ヴィフィルは子沢山で、ヒュリカはその中の末の息子だった。故に、いずれはヌバ族を束ねる者になるという重圧も知らずに、のびのびと育てられていた。
 ヒュリカは、外の世界に興味を持つ事が多かった。翼族の谷の外。広がる世界は、いつも空を羽ばたいて見る事はできても、実際に足を踏み入れる事の叶わぬ地だった。将来を期待されてはいないというのに、ヴィフィルの、
族長の息子なのだから、不用意な振る舞いは控える様にと言われ続けていた。ヒュリカは、それが大いに不満ではあったが。仕方なくと、翼族の谷に訪れる、他種族の者からの話を聞く事を楽しみにする様になった。
 翼族の谷を訪れるのは、商いを営む者が多かった。表向き、翼族はラヴーワとランデュス、どちらの味方にもなる事はせずにいる。その関係で、最北とはいえ、両国の間に存在する事もあって、翼族は両国の橋渡しの役目を
担う事が多かった。商魂の逞しい者は、種族に頓着する事は少ない。ラヴーワからは、翼を持たぬ、被毛に覆われた商人が。ランデュスからは、鱗に覆われた商人が。それぞれ翼族の谷へと来ていた。互いの国が争い合う
時でも、翼族の谷に足を踏み入れた商人には、それは関係の無い事となる。両国と、そして翼族。それぞれの立場にある者が、対等に言葉を交わす地。そんな地であるから、ヒュリカも外の話を聞く事ができたし、聞くだけでは
どうしても物足りない気持ちも募るのだった。
 そうして話を聞く内に、一つだけ。ヒュリカが心を痛めた事があった。確かに、商売をする上では、翼族はそれぞれにとって都合の良い存在であったのは確かだ。しかし翼族の在り様は、決して良くは見られてはおらぬ事を、
ヒュリカは知ったのだった。それもそのはずである。翼族が居を構える大イラス山は、質の良い鉱物の産出される地ではあったが。翼族は争い合う二国のどちらとも、その取引をしていたのだから。商人は、それらを特に
咎めたりはしなかった。しかし商人に付きそう傭兵や。また、そういった隊商とは別に、単なる旅人。それから、時折訪れる、ラヴーワ、ランデュス、双方からの使者などは、あまり翼族の事をよく見てはおらぬのを、ヒュリカは
感じ取っていたのだった。族長の息子として、時には兄達と並んで、客を迎える事もある。そういう時、子供であるヒュリカには、必要以上に何かを言われる事は少なかったものの、それでも嫌味の一つや二つは、聞こえて
しまうのだった。
 外への憧れを抱きながら。しかし同時に、ヒュリカは他種族の事を恐れる様にもなっていた。否、確かに恐れてはいたのだが、もっと深いところでは。翼族の振る舞いを見て。例え外に出ても、自分に向けられる視線は
厳しい物になるのではないかと。それが、怖かったのだった。
 それでも、やはり外だった。翼族の谷は、雪に閉ざされた地だ。春が訪れ、雪が解け。穏やかな気候に包まれる季節は、あまりにも短い。谷の外は、当然それが全てではないという。そういう事も、ヒュリカは自分の目で
見てみたかった。知ってはいたけれど、見た事がない物は、沢山あったから。
 そんな時にヒュリカに持ち込まれたのは、ラヴーワの都市の一つである、ミサナトの。スケアルガという魔導を専門とした学園に、留学してみないかという誘いだった。ヒュリカの父親であるヴィフィルは、ヒュリカの気持ちを
当然理解していて。良い機会ではないかと、ヒュリカに提案したのだった。当然、その裏には。ラヴーワと翼族の関係を良好な物にするという目論見はあったし、またヒュリカもその事は承知していたけれども。それは、あまりにも
魅力的な話と言わなければならなかった。それに、魔導についても学べる。勿論、翼族は空を飛ぶのだから。そうする以上は、最低限の魔導学は修めてはいたけれども。それでも、それ以上の事を学ぼうとすると、翼族の谷の
中では限界があった。また、戦を避ける傾向がある翼族は、結局のところ自衛をする以上の武力を持つ事は、両国から必要以上に警戒される原因にもなったために、それは魔導の発展の遅れにも繋がっていたのだった。
そのため、本格的に魔導を学ぶのであれば、ラヴーワかランデュスのどちらかに行かなければならない。ヒュリカは、外を見てみたかった。その願いは叶う上に、外を歩く上では危険も多い。自分の身をきちんと護るためにも、
魔導を学ぶ事は重要であったし、またヒュリカが深く学んだ事ならば、多少は翼族の役に立てるかも知れないと思った。二つ返事で、ヒュリカは父の提案に乗る事になる。旅の支度を整えると、ヒュリカは外の世界へと飛び出した。
 翼族の護衛を率いていられたのは、谷を出て獅族領へ入るための砦である、獅族門までだった。そこからはヒュリカは一人で、留学先であるミサナトを目指す事になる。ヒュリカの身分ならば、護衛を連れてゆく事は不可能
ではなかったが、ヒュリカは一人で行きたかった。怖い事も、わからない事も多かったが、それでも顔見知りの護衛にひたすら守られて行く旅というのは、翼族の谷から出たのだという実感には欠けていたのだった。代わりに
身分を証明する物を提示して、宿などの待遇は充分な物を受ける事にはしていたし、また案内役は別に居た。ヒュリカにとっては、ただの留学だが。ラヴーワと翼族、双方からすればそうではない。道中も、基本的にはヒュリカを
案内する者が付く事が多かった。そうではない時は、空を飛ぶ事も許されていた。空を飛ぶヒュリカに何かを企めるのは、同じ翼族か、翼を持つ竜族か。余程魔導に優れた魔法使い、魔道士の類以外に居なかった。そうして、
やがてはミサナトへと辿り着く。
 街へとどうにか入り、あとはジョウスの下か、スケアルガの学園に行く。ただそれだけだった。観光がてら、街を見て行きたいと。ヒュリカはその時、地に足を付けた上で、初めて街中で一人になった。それが、よくなかった。獣の
群れの中で、白い鷹の姿は人目を引いた。気づけば、悪漢に囲まれて。ヒュリカの意識は途絶える事になる。
 次に目を覚ました時には、そこはもうヒュリカには何一つ見覚えがなく、逃げようもない世界となっていた。手足は縛られていたし、薄暗い視界の中に、鉄格子も見えていた。狼狽え、怯えているヒュリカの下に、ヒュリカを
捕まえた男達が現れる。ヒュリカは、震えながらも、懇願した。自分をどうか逃がしてくれる様に。また、自らの身分も明かした。もし自分に何かがあれば、それはこの街の顔役でもあるスケアルガを怒らせる事でもあると。事実、
ヒュリカ・ヌバは、翼族からラヴーワへ、スケアルガへと一時的に預けられたのだから。何かが起これば、事の次第によっては、ラヴーワは責めを負わされる事になるのは確かだった。
 しかし男達は、そんな事は歯牙にもかけなかった。笑みを浮かべながら、ヒュリカに触れて。ヒュリカが悲鳴を上げれば、暴行を加えた。何度か殴られている内に、ヒュリカは抵抗の意思を挫かれる事になる。そうなった後で、
男達はヒュリカを犯したのだった。男達にとっては、翼族は金になる相手でしかなかった。何も知らぬヒュリカに必要な事を教えて、売り飛ばす。それだけでしかない。必要な事を教えるというのも、ただの建前でしかなかったが。
 排泄にしか使われなかった場所どころか、前の方にまで手を付けられて。ヒュリカは叫び声を上げた。その度また殴られては、嘴を覆う様に布で覆われる。薬だった。この時。ヒュリカは男達の手で、麻薬の味を覚える
事になる。
 ヒュリカの監禁は、しばらく続いた。数日の度に、男達は場所を変えては、ヒュリカの身体で楽しんだ。悲鳴を上げれば、外へと届くかも知れないと。殴られながらも、助けを求めたのも最初の内だけだった。薬と強姦の二手に
よって、意志その物を失ったヒュリカは、逆らう事ができなくなっていた。それでも、一人きりの時。見張りの目を盗んでは、小窓から自らの羽根を風に乗せて、助けを求めた。ほとんどはどこへも通じずに、そしてもし男達に
知られれば地獄が待っているとわかっていても。そうせぬ訳にはいかなかった。ヒュリカは、怖かったのだった。他種族が、という訳ではない。薬と責め苦を味わう内に、自らの内に少しずつ、快楽に順応する部分が産まれて
きている事実が、怖かったのだった。
 朦朧としていた。場所を移して、碌に食事も当たられず。手持ちのカルファの実に口をつけては、吐いて。売られるよりも先に、自分は死んでしまうのではないか。そんな気がしていた。
 そんな時だった。小さな足音が、聞こえたのは。いつもと違っていた。いつもは、ヒュリカ一人では決して勝てない様な成人した男が来るだけだから。そんなに小さな足音なんて聞こえはしなかった。薄っすらと、閉じていた瞼を
開けば。そこにいたのは、視界が悪くてもはっきりと目に留まる程に輝いた銀に包まれた、狼族の少年だった。その容姿に、ヒュリカは僅かに戸惑いを抱いたものの、それでもいつもの様に怯えてしまう。記憶を手繰れば、自分を
貪る者達の中に、狼族の姿も確かにあったのだから。その少年は、ほっそりとしていて。自分と同じ歳の様だし、到底誰かを襲う様にも見えなかったけれど。それでも、狼族特有の鋭い目を持っていたから。ヒュリカには、自分を
狙う者としてしか相手を見る事ができなかったのだった。
 それでも、その少年はヒュリカを助けに来たと言ったのだった。銀狼の少年である、ゼオロに。ヒュリカは助けられたのだった。
 ゼオロの手によって助けられたヒュリカは、適切な治療を受ける事はできたものの。ゼオロの事が気になっていた。赤の他人であるヒュリカを助けにきてくれたゼオロは、最後には、ヒュリカが厄介になるスケアルガの家の者
である、クロイス・スケアルガを庇って、その身に傷を受けて倒れていた。その光景を、ヒュリカは目の前で見ていた。助けにきてくれたはずの、美しい銀狼の少年は。呆気なくそれで倒れて、動かなくなったのだった。
 絶対安静だというから、見舞いに行く事もできず。ただ、その面倒を見ているファンネスからの言葉を、自分も診察を受けている時に聞く事ができるだけだった。ほとんど眠っている状態で、熱に浮かされては、苦し気に呻いて
いるという話を聞くだけで、ヒュリカの胸は痛んだ。
 その後、ゼオロとの再会を果たすと。そのままヒュリカは、ゼオロと友達になる事ができた。初めてできた、他種族の友達だった。
 それからしばらくは、平穏に日々が続いていた。ゼオロの体調も、少しずつ回復してきているという。しかしヒュリカは、そうではなかった。無論、体調は良くなってきていた。きちんとした食事に、寝床に。悪漢達の中で、
見る見るうちに痩せ細っていた身体も、少しずつ健康体へと戻りはじめていた。しかしその頃になると。身体が健康になればなるほど。ヒュリカを悩ませる事があった。
 忘れられなかったのだった。男達に、いい様に嬲られていた時間の事を。
 勿論、それが決して快かった訳ではない。薬を盛られて、前後もわからぬ状態で散々に犯されていたのだから。薬を断ち、また求める事もできない今は、思い出すだけで怖気が走る出来事だったとは思っていた。ただ、
湯浴みをする時に裸になったり。眠る時、寝台に横になると。どうしても、あの時の事を思い出しては、ヒュリカは震えるしかなかった。自分の身体が、どうしようもなく汚されてしまった事が恐ろしくて。そして、悔しかった。
 下卑た男達の表情が浮かんでくる。必死に目を瞑って、眠ろうとすればする程に、それはより強くヒュリカの脳裏を過ぎるのだった。そして、その直後に。自分を助けにきてくれた、優しい銀狼の少年の顔が浮かんできて、
楽になる。
 それだけなら、良かった。しかし、ヒュリカの受けた傷はやはり深い物だった。ゼオロに会う時、後ろめたくなる自分が居た。自分がどんな目に遭っていたか、ゼオロは恐らく知らない。診察してくれているファンネスにも、どうか
黙っていてくれる様にとヒュリカは頼み込んでいた。無理矢理された。仕方が無かった。そう繕っても、どうしようもなく汚されて。そして夜毎、僅かに身体を疼かせているなどと。ゼオロに知られたくはなかったのだった。
 何度もその思いに苛まれる内に。そして、実際にゼオロを目にしている内に。ヒュリカは、ゼオロに魅かれている自分に気づいた。ヒュリカが、自分は翼族である事を理由に上手く踏み込めずにいても、ゼオロは微笑んで、
待つ様にしてくれたのだった。国や種族の境目があったとしても、自分達は友達で。それで良いと思っていると、ゼオロは言ったのだった。そしてただ、自分はそうであって、そして、それで良いと思っているのだから。あとは
ヒュリカ次第なのだと。この言葉に、ヒュリカはますますゼオロを好く様になる。しかしそれとは裏腹に、自分が薄汚れている事実に苦しんだ。言えない事実が、今はもう解放されたはずなのに、ヒュリカを何度も苦しめては、
震えて眠る夜を重ねさせた。
 そうしている内に、ゼオロがギルス領であるファウナックへ行くという話が出てきてしまった。ヒュリカは、我を忘れて泣いては、行かないでくれと頼み込んだ。その頃にはもう、ヒュリカの中ではゼオロはとても大きな存在に
なっていたのだった。また、男達に嬲られた事を思い返して呻いては。それが、ゼオロであれば良かったのにと。そんな事すら、考える様になってしまっていた。痛くて苦しいのも、自分の身体を汚すのも。まっすぐに自分を
見つめてくれる、この銀狼なら構わないと。
 しかし、結局はゼオロを引き留める事は叶わなかった。その後ヒュリカも、翼族の谷からの報せを受けてミサナトを後にする事になる。
 一人きり。誰の目も届かぬ時。ヒュリカはそれまで禁じられていた麻薬に、再び手を付けた。決してそれに溺れるつもりはなかったけれども。谷に帰ればもう手を付ける事はないと思ったし、そうでもしないと、初めてできた
他種族の友人とは、もしかしたら今生の別れになるやも知れず。その上魔導についても、ほとんど学ぶ事もできずに帰路に着く事になってしまった気持ちの落ち込みを、どうする事もできはしなかったのだった。しかし、薬に
再び手を出した事は、ヒュリカにはその後幸運に転ずる事にもなった。ヒュリカが翼族の谷に帰ると、谷の様子は一変していた。そして父のヴィフィルが倒れたと聞き、見舞いに行った先で。ヒュリカも竜神の魔法に掛かったの
だった。この魔法は、ほとんど洗脳に近い効果を上げる程に強力な物だったが。実のところヒュリカが完全にそれに掛かる事はなかった。それは、麻薬によって既に、ある程度自我が損なわれていたからであり。その後
再びゼオロと見える事ができた際には、いち早く正気を取り戻し。自らの手でゼオロを手に掛ける事態だけは避ける事にも繋がった。
 
その後
 ヒュリカは、迷うゼオロを抱いて空を飛び、カーナス台地へと導いた。しかしその際、力尽きて墜落する時になってゼオロを自らの翼で庇う事になる。
 ほとんど動けずにいたヒュリカに、声を掛ける存在があった。見知らぬ相手だったが、どの道ヒュリカは抵抗をする事もできずに、その相手に助けられる事になる。それこそは、ユラの指示を受けて現れた魔道士だった。
 魔道士の手によって、ヒュリカは傷を癒す事ができた。しかしゼオロを庇うために使った片翼だけは、魔道士の手でも治す事はできなかった。大地に叩きつけられ、ゼオロの身体を庇いすり潰される様な衝撃を受けたので
ある。翼は、ほとんど元の形を保ってすらいなかった。
 決断をして、ヒュリカは片翼を切り落とした。無事だった方の翼は、残す事になった。私生活に影響は出るが、風の魔導を用いる際に、翼の有無は重要だった。
 それから、ヒュリカは片翼を失った事をゼオロに知られるのを恐れて、魔道士に頼み込んで翼族の谷に帰る事になる。ヒュリカが、自分で言いだしたのだった。空を満足に飛べない事も承知の上で、それでもゼオロをカーナスへ
連れてゆくと。今のヒュリカを見れば、ゼオロは間違いなく足を止めて。ヒュリカに何度も謝っては、傍に居てくれるかも知れなかった。しかしヒュリカは、それも望まなかった。ゼオロには既に、クロイスという存在が居て。そして、
ゼオロの正体も知った今は。ゼオロの全てはこれから始まるのだという事が、痛い程にわかっていたのだった。
 谷に戻ると、当然待っていた者達は驚愕の表情を隠さなかったし、どうして翼を失ったのかと、何度も訊ねられたが。ヒュリカは全てを突っぱねて。そのまま再び、ヌバ族の長として振る舞った。翼を損なった事は、翼族としては
かなりの痛手だった。本来ならば、他に長にふさわしい者に立場が移ってもおかしくはない。しかしヒュリカの父であるヴィフィルは、竜神の魔法を受けて病死していたし、上の兄達も満足に動ける状況ではなかった。ヒュリカの
座を脅かす存在はどこにもいなかった。
 翼を失い、空を失っても。友人と同じ高さで物を見られる様になった。ヒュリカは、そう思うだけだった。
 もっとも、背は自分の方がずっと高くなってしまってはいたが。


 

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