ヨコアナ
カハル(リヨク)
リヨクは、ハルの愛犬だった。
産まれて間もなく捨てられていたリヨクを、ハルが見つけて、拾ったその日から。ハルはリヨクを愛したし、リヨクもハルを愛していた。
ハルは、泣き虫な飼い主だった。それも、一人で泣く事が多かった。誰も居ないところで、一人で泣いては。その内に、何事も無かったかの様な顔をして部屋を出てくる事が多かった。
だからある日、リヨクは泣いているハルの下へと駆けつけて、その涙を舐め取った。そうすると、ハルは抱き付いてきて。
その日からハルは、リヨクの前では涙を見せる様になった。
リヨクは飼い主を受け止めながら、それでも自分にできる事の少なさには不満を覚えていた。自分は弱っていたところをハルに救われたというのに。飼い犬のリヨクにできる事は、ただなるたけハルの傍に居て。ほんの少し
だけ、その辛さを和らげる事でしかなかった。
ある日。ハルが静かにリヨクを呼んだ。いつもの様で、いつもと同じではなく。いつもの様にハルは泣いていたけれど。いつもと同じ様に、長くそうしてはいなかった。
「ありがとう。リヨク」
いつも自分を抱き締めながら泣く時は、謝ってばかりだったハルが。その日は別の言葉を口にした。
その後、ハルはリヨクを部屋の外へと出そうする。リヨクは抵抗したが、強い力で部屋の外へと出されて、鍵を掛けられた。
前足を何度も扉に引っ掛けては、小さく鳴いて、大きく鳴いて。リヨクはハルを呼んだ。こうしていれば、鍵を掛けている時があっても。ハルはいつも、扉を開けて。自分を迎え入れてくれた。
扉は、開かなかった。
がたん、と何かの物音が、何度か聞こえて。たった、それだけだった。それでもリヨクは、ずっと鳴いては、前足を上げていた。扉に、爪で傷が付いていた。怒られても良かった。ハルが扉を開けて、自分を叱ってくれるのなら、
それで良かった。
扉は、開かなかった。
次に扉が開いたのは。外出中だったハルの両親が、戻ってきて。扉の前から動かずに、執拗に扉を引っ掻いているリヨクを何度も叱りつけて。ハルにリヨクを止める様にと声を上げて。それから更に、次の日の朝になって
からだった。その時になってようやく、事態の変化に気づいた両親が、無理矢理に扉をこじ開けたのだった。
リヨクは、ハルの後を追った。
同じ場所だったから、だろうか。リヨクは、ハルの通った後を通る事で、何にも阻まれずに涙の跡地へと到達した。それと同時に、犬の姿は犬族のそれへと変わった。
完全に意識が覚醒した時、ざわつく周りの気配に、そこに孕む不安や、敵意を感じ取って。リヨクは本能に従ってその場を飛び出した。
飛び出した先で、途方に暮れた。言葉が、以前よりもよくよく理解できる。簡単な命令ではなく、周りが何を言っているのかを、不思議と理解できた。それでも、混乱していた。四足で歩いていた犬が、突然に二足歩行が
できる様になって。身体の動かし方もわからずに、最初は四足のままだったりもした。一人になって、蹲っていた。そんなリヨクに、一切の気配を感じさせずに声を掛けてくる者が居た。唸りながら顔を上げれば、そこに
居たのは猫の顔をした、妙な子供だった。子供は自らを、ユラと名乗った。
それからリヨクは、ユラの教えを受けて。また、自分の飼い主であるハルも。自分と同じ様な状況になっているという事も、教えてもらった。犬族として生きてゆくための知識も、全て学んだ。
「僕は、ハル……いや、今はゼオロか。ゼオロには、あまり近づけない。だから、君にゼオロの事を助けてほしいんだ」
ユラは、そう言った。けれど、リヨクもそれは変わらなかった。ハルが、今のリヨクを見て。それが自分の愛犬だと気づいてくれるのかはわからなかったが。それでも、もしも気づいてしまったら。ハルは、リヨクが自分の
後を追ったという事を知ってしまう。それは、泣き虫の飼い主にはとても辛い事実であると、リヨクは充分に弁えていた。自分の正体を、ハルに。いや、ゼオロに明かす訳にはいかなかった。
それでも。どうしても気になって。リヨクは、ユラに教えられた通りに。ミサナトにある、ファンネスの店の前で様子を窺って。そしてやがては、銀狼のゼオロとなった、かつての主人を見つける。姿は、変わってしまったけれど、
確かにふとした仕草などは、そのままで。そしてそれは、いざ自分が顔を隠して、目の前に居るゼオロを見ると確信へと変わっていた。見た目がいくら変わったとしても、細かい所作はそう簡単に変えられる物では
なかったし、不思議と、ゼオロの匂いというのは、リヨクを安心させるのだった。
「……ハル……」
思わず、リヨクは何もかも忘れて。その名を口にしてしまった。途端に、ゼオロは目を見開く。それで、全てを確信したが。しかし同時に、自分の正体が知られてしまうという危機を招く事にもなる。
「……カハル。カハルと、言う。俺の、名前だ」
咄嗟に、言い訳をした。自分の飼い主に嘘を吐くのは、嫌だったけれど。仕方がなかった。ゼオロは、それ程自分を疑う事もなく、それを信じてくれた様だった。
咄嗟に口にした、偽名だったが。カハルという名を、リヨクは気に入った。どの道、この世界で生きてゆくからには、リヨクという名は捨てた方が良いだろう。ハルが付けてくれた、大切な名前ではあったが、それが目の前の
ゼオロの耳に入らないとは限らなかった。カハルという新しい名前を、しかしリヨクはすぐに好きになった。飼い主の姓と名。両方から取った、名前だった。一番の気に入りは、リヨクだったので。それは二番目の気に入りとなった。
この時から。リヨクは、カハルとなった。
もっと、一緒に居たかった。話はしたかったし、この世界でもまだ泣いているのではないかと、カハルは心配になった。けれど、結局はそれ以上一緒に居て、自分の事を知られるのを恐れ、その場を後にした。
ユラの下に戻ったカハルは、自らの新しい名を告げて。以降はユラの下である程度の援助を受けながら、やがては腕を磨いて、傭兵となる。そうしながら、ゼオロの事を見守ろうと決めたのだった。
ゼオロを見守りながら。時には、直接見えて励ましながら。日々は流れていった。何度か、思わず自分が出ていってしまおうかと思う事も多かった。
問題が起きたのは、ラヴーワとランデュスがいよいよ衝突するという段になった頃だった。ゼオロが、戦場に出てきているとユラから知らされて。当然、カハルも様子を見に行く事になる。
ただ、その内にユラは表情を曇らせて。カハルに情報を渡す事を、渋る様になった。
「カハル。君に全てを伝えたいとは思う。けれど、これ以上は危険だ」
「それでも良い。教えてくれ。何もできないのは、嫌なんだ」
何もできないまま、ハルと別れなければならなかった事を。カハルは。リヨクは、ずっと悔やんでいた。自分が所詮飼い犬であったからだった。しかし今は違う。犬族となった今ならば、何かができると思っていた。それでも、
ユラは危険だと言う。カハルに躊躇いはなかった。ユラは観念して、カーナス台地で怪しい動きがある事を教えてくれる。カーナス台地が、狼族の呪いから解放された事は既にカハルも知っていたが、それに手を貸した
存在が、ラヴーワだけではなく。ランデュス側の人物であった事が、ユラは特に訝しんでいるという。もし、次に事が起こるとしたら。それはカーナス台地であると。ユラは告げた。
カハルは半ば賭ける思いで、カーナスへと向かった。どの道ゼオロは戦場に出ているとはいえ、後方であり。カーナス台地がきな臭いとあれば、そちらへ備えた方が得策だと思ったのだった。
ユラの助けを受けて、カーナス台地へと侵入した。元より竜族が占拠したとはいえ、地形は入り組み、また荒れた場所でもあったから。それは然程難しい事でもなかった。ユラの力もあるのだから、竜族の空兵にも
見咎められる事はなかった。カーナスに潜んで数日後、ついに事態は急変した。カーナスの高台に、ランデュスの筆頭魔剣士であるヤシュバが現れたのだった。ヤシュバの正体も、ユラの情報でわかっている。:現在の
カーナスの高台に、戦略的な利用価値が無い事はわかっていた。カーナス台地を超えるだけであるのなら、そこは踏み入る必要の無い場所であるし、ラヴーワ、ランデュス共に、呪いの元となった場所などは、避けて
然るべきだったからだ。それでもそこに、ヤシュバが居る事に。何かしらの意味はあるはずだった。
「ヤシュバが、ゼオロを呼んだらしい。ゼオロが来るのかは、わからないけれど」
また、ユラが知らせてくる。
「カハル。ここまでだ。僕はこれから、何があっても。君を助ける訳にはいかなくなる。今、僕が目立つ訳にはいかない」
もう一度、ユラに引き留められた。カハルは、止まらなかった。眠らずに、一夜を明かして。高台の近くで息を顰めていると、遠くから、僅かに動く物がある事に気づいた。青い鱗に覆われたその竜を見た瞬間に、黙ってカハルは
武器を抜いた。遠くとも、その竜の表情を見れば。決して穏やかな用件でそこに居る訳ではない事はわかった。
その時、不意に背後から殺気を覚えた。振り返れば、自分に切りかかる獅族の少年の姿を、カハルは捉えた。竜族ではない者が、何故自分に襲い掛かってくるのかは、わからなかったが。それでもカハルも、黙ってやられる
訳にはいかなかった。獅族の少年と好戦している最中に、先程見た青い竜が、リュースがやってくる。獅族の少年が一瞬の隙を見せた瞬間に、カハルは凶器をその胸に抉り込んだ。だが、少年を始末するのには成功しても、
結局はリュースの前に呆気なく敗れる事となる。どれ程に腕を磨いたとしても、竜族の強さは。それも、筆頭補佐を務めていた男の力は、決してカハルが敵う物ではなかった。
身体の中が溶けた様な感覚を覚えながら、カハルは血を口から溢れさせて。霞む視界の中。もうすぐここにやってくるのかも知れないゼオロの事を。ハルの事を考えていた。ハルも、自分と同じ様な目に遭うのだろうか。ハルは、
自分の正体を知ってしまうだろうか。知ってほしくはないと思った。全てを秘密にしたまま、終わりたかった。泣き虫な、飼い主だったから。きっとまた、泣かせてしまう。それも、今度は自分のために泣かせてしまう。
忘れてほしかった。忘れていてほしかった。自分の命を救ってくれたハルに対して、自分は何もできずに。その上に二度も、愛する飼い主のために死んでしまう自分の事など。
リヨクの願いは、一つだけ叶った。ただ一つ。ゼオロに直接口にした、生きろという願いだけは。