top of page

幸至道

 

 馬車が揺れている。俺はそれに今、揺られていて。何度目だろう、馬車の旅。そんな事を、確か乗る前に考えていたなって、ちょっと振り返ったりしている。
 俺の頭の上に乗っている、豹の頭からは、今は特に何も聞こえない。あの、ごろごろとした喉の音も聞こえない。
 代わりに。時折、鼻息の音が。ぷすーって聞こえる。
「まだ拗ねてるの?」
「当たり前じゃん。あんな風に言われて」
 そう言われて、俺はちょっと苦笑いしながらも。ごめんって、軽く謝る。まあ俺がほとんど無理矢理、クロイスを連れてきてしまったせいだからなんだけど。
 カーナス台地の高台で、ランデュスの筆頭魔剣士と再会して。紆余曲折を経て、涙の跡地を覆う結界が消え去って。そのままヤシュバと別れて。それからフロッセルに戻ってきて。諸々の対応に追われていた忙しかった
日々も、ようやく落ち着きを見せて。俺とクロイスの二人だけの日々が、始まろうとしていた。
「ファウナックに行きたい」
 始まる、はずだったんだけど。というかクロイスはそれを多分とても期待してくれていたのだろうけれど。申し訳ないけれど、俺もまだやりたい事があったので。二人きりの甘い日々が来ると飛び跳ねているクロイスに、俺は
早速冷や水を浴びせかける様な事を言う。
「ガルマの様子が心配なの?」
 俺の言葉を聞いたクロイスは、一瞬だけ寂しそうな顔を滲ませていたけれど。それでも、その内に俺が何故そうしたいのかをすぐに読み取ったかの様な事を言ってくれる。俺は、静かに頷いた。クロイスはガルマの容体の事も、
前回クランがフロッセルの館に訪れた時に把握しているから、流石にその辺りの思惑を逐一俺が説明をする必要はなかった。それから俺自身が会って、この目で見ても思ったけれど。ガルマの身体は、今はとても老いて
いる様に見えて。初めて会った頃とは大分変わってしまったと、ガーデルに連れられて、二度目のファウナックへ行った時に思ったものだった。確かにクランの言った、長くはないのかも知れないという言葉は、嘘ではない様で。
 まだ、若そうに見えたのにな。そもそもカーナス台地で会ったガルマの兄である、グンサの方はといえば。死んだ当時の姿であったとはいえ、大分若々しかった。それと、二十余年の月日が過ぎた事を考慮すれば、ガルマも
まだ四十の半ばくらいだと思うんだよな。あんなに魔導にも長けているのに、老いるのが随分早いなと思ってしまう。あれ、その考えで行くと魔法がからっきしな俺はもっと早くおじいちゃんになってしまうのだろうか。なんか嫌。
「ガルマのそれは、気力の問題じゃないかなぁ。確かガルマとうちの親父って、そんなに歳変わらなかったと思うんだけど。親父のがもういくつか上かも? って程度だった様な」
「そうなんだ。ジョウスさんは、そんなに老けてる感じしないのにね」
「親父は魔導にも結構入れ込んでるからね。まあ俺は、程々でいいかなって思うけど」
 そうなると、クロイスの方がその内ジョウスの様になってしまったりするのかなって、ちょっと思う。なんか凄いなそれは。子供が、親と同じくらいの姿になってしまうって。改めて魔導を極める事で、寿命が延びるっていう物の
不思議さを俺は感じ取る。
 とはいえそんな訳で俺は、今ガルマに会いに行きたいのだった。本当なら、当分の間はファウナックに足を踏み入れないつもりで。だからガルマとも、会えるのかなって思っていたけれど。それはラヴーワとランデュスの戦争が
どこまでも続いていたら、という話であったから。涙の跡地を覆う結界が無くなって、互いに争う理由を失って。向こうは竜神も失って。それから結界の外に対する備えで相変わらず忙しい中では、もはや気にする必要の無い
事柄となっていた。狼族にしろ、戦争は終わった物の、外界の事を考慮するのならば狼族の独立だなんて言ってられないだろうし。そもそもガルマがそんな状態で、次のクランは遠縁の銀狼なんだから。ある程度地盤が
固まるまでは、不用意に動く訳にはいかないだろう。
 だから、俺がファウナックに行くというのは。寧ろ、今しかなかったのだった。それにガルマが本当にいつまで持つのかという心配があったし。またファウナックに留まってくれと言われるのかも知れないけれど、俺が
異世界人であると公表した時に、ガルマに対しては次期族長になるという話をちらつかせておきながら、掌返しをしてしまったという経緯もある。それは致し方ない部分はあったものの、その後に、いくつかの族長が俺の存在を
認める旨の言をした際には、その中に騙したはずのガルマの名も連なっていたのだった。他の人はまだしも、ガルマがその様にしてくれた以上は。会いに行かないで、知らない顔をする訳にもいかなかった。
「話はわかったよ。確かに、今行かないといけないのかも知れないな。ガルマの身体の事を考えると」
「ごめんね、クロイス」
「いいよ。なら、俺はしばらくここでお留守番かな」
 いつものクロイスなら、俺も一緒に行くって言いそうだけど。流石にクロイスは語気を弱めて、そう言うに留まった。ガーデルと俺がファウナックに行った時も、自分が一番ファウナツクに足を踏み入れてはならないという事を
よくよく噛み締めたからなんだろうな。
「クロイスも一緒に来て」
 だから俺は間、髪を容れずに。その言葉を吐き出してしまう。
「えっ。無理じゃないの? というか滅茶苦茶迷惑かかると思うんだけど、それに」
「一緒に来てくれないなら別れる」
 びくっと震えたクロイスが、口を開けたまま固まる。よし、虫歯は無いな。
 気の毒だなと思いつつも、それがちょっと、面白いなって俺は思う。こんな風に呆気にとられるクロイスって、新鮮かも。
「で、でも。流石にそれは、俺だけの判断では決められないっていうか」
「じゃあ、ジョウスさんの許可を貰えば良いよね。私から手紙を書くから」
 そんなやり取りを経て、とんとん拍子で事は進んでゆく。フロッセルの街には元々、有事の際にはと翼族の伝令が残されていたから、ちょっと申し訳ないけれど、今はラヴーワの中央で全体と外界を見据えているジョウスの
下まで大急ぎで飛んでゆける人の都合をつけてもらって、俺は特に深く考えもせずに認めた手紙を。お前の息子をファウナックへ引き摺ってゆく。とだけ書いた物を持たせて、頭を下げて伝令を送り出したのだった。そして
その返事も、思っていたよりもずっと早くやってくる。ジョウスは受け取った手紙に、その場で返事をした様で。同じ翼族の伝令が俺の手元にジョウスの手紙を。簡潔に、許可すると。それから、ファウナックの方にもそれを
報せる使いを出したという事が記されていた。
 そんな感じで。俺は渋い顔を見せるクロイスを引き摺って、クロイスと一緒にフロッセルの街を飛び出して、二人だけの甘やかな生活もぶっ壊しては揃って馬車に乗って、ファウナックまでの道を揺られていたのだった。
「別れるなんて。そんな簡単に言うなよ。心臓止まるかと思ったわ」
「だって、それくらい言わないと、一緒に来てくれそうにないし」
「当たり前じゃん!? それ言われたら、行かない訳にいかないじゃん!? 俺まだ、ゼオロちゃんとの甘い新婚生活もしてないのに」
 結婚、諦めてないのか。
「まだ膝枕してもらって耳掃除もしてもらってないし」
 自分でやって。
「あとなんで親父も、あっさり許可出しちゃうかなぁ。絶対荒れるじゃん。刺されるわ」
「そこまでじゃないと思う……いや、そうでもないかな」
「そこまでなの?」
 少なくとも、ジョウスに対してはそういう勢いだよなと思う。銀狼を熱狂的に崇拝している狼族なんて、もう俺は見慣れるくらいに見てしまったし。
「大丈夫だよ、私が居るから」
 銀狼を崇拝しているのなら。俺の姿は、絶対に効果はある訳だし。異世界人って言っちゃったけれど。あれ、大丈夫かなこれ。なんか駄目な気もしてきた。多分大丈夫だと思おう。もう、ギルス領に入ってるし。大分俺の計画が
杜撰な事を知ったクロイスが、またぷすーっと音を立てる。呆れたり、怒ったりしている様にも見えるけれど、実際のところはそうでもない感じだ。それに、いざギルス領に入る段になると。クロイスは瞳を輝かせて外を見たり
しているし。別に目新しい景色がある訳じゃない。寧ろ、古臭い、地味な景色ばかりだったけれど。ジョウス・スケアルガの息子であるクロイスにとっては、怨敵と見做されている以上は、普段は決して足を踏み入れたりしない
様な場所だからなんだろうな。外側ならまだしも、ファウナックまでだし今回は。
「ガルマ様にも会えるから、いいじゃない」
「まあ、それは。興味が無い訳じゃないけれど。でも俺、絶対歓迎されないよな……」
「大丈夫だよ。ガルマ様は、そんなに悪い人じゃなかったから」
 寧ろ俺とクロイスが恋人同士と聞いて、ジョウスに対していい気味だと笑っていたくらいなのだから。俺がそう言うと、クロイスはしばらくぼんやりとした様子を見せてから、不意に俺を抱き締める力を強くする。
「吹っ切れたわ。こうなったら、とことんファウナックを見て。狼族についても勉強しないとな。考えてみたら、向こうが俺の事を敵視ばかりするせいでさ。俺、あんまり狼族の事って、深いところは見に行けなかったしさ」
「そうそう。その意気だよ。骨はガルマ様の館に墓地があるから安心してね」
「なんで玉砕する前提なのかな……? あと親父の方に送っといて」
 どうにか持ち直したクロイスと、馬車の旅が続く。

 遠くに、ファウナックの街並みが見える。既に夕暮れ時。俺は馬車の窓からそれを眺めて、三度目だけど、あんまりそんな感じしないなって、そう思ってしまう。二回目はガーデルの直送便だったしな。ダイナミック里帰り
だったしな。里じゃないけど。もう帰らないって決めたのに、割と帰っている自分に気づいて、ちょっと自嘲気味な笑みが零れてしまう。
「ねえ。あれ、大丈夫なの」
 クロイスが呆れた様に言う。一緒になって俺がそちらを見ると、確かにファウナックの入口には、狼族の兵が整然と隊列を組んでいて。これからやってくる俺達を待ち構えている様な感じだった。
「お出迎えでしょ」
「物々しいんだけど? 明らかに俺だけ排除しようとしてない?」
「お出迎えでしょ」
 なんか別の意味での。とまで言うとクロイスが泣きそうな気がしたので、俺は適当にはぐらかす。それにその狼族の群れの中に、俺の見知った姿が居たから。だから俺は、引き返すべきかと悩むクロイスも宥めて、そのまま
そこへと辿り着くと。馬車を止めてもらって、それから外へと飛び出す。俺が飛び出すと、夕陽が眩しいな、なんて思っている間に一斉に物音がして。俺が改めて正面を見ると、その場に居た全ての狼族が、膝を突いて
まっすぐに俺を見ていた。後から馬車を降りたクロイスが、かなり小さい声でうわって言ったのが聞こえる。引かれた。
「ゼオロ様」
 一番前で、俺に対してまっすぐに目を向けてくる、黒い狼族の男を俺は見下ろす。
「その様に、なされずとも」
「いいえ。よもや、再びこうしてゼオロ様に拝謁奉る事の叶う日が来ようとは。このヴィグオル。これに勝る幸福はございません」
 そう言って、黒い狼のヴィグオルは。俺がカーナス台地を解放した後に、戦場に出た際、ガルマからの命を受けて散々俺の面倒を見てくれた狼将軍は、再度頭を下げたのだった。それに、俺は内心ではちょっと、という印象を
持ってしまう。元々、この人はとても忠実な将軍だから。なんとなくハゼンの事を思い出してしまいそうで、深く意識はしない様にしていたんだけど。またこうして会ったからには、そればかりで居るのも失礼かなと思って、俺は
改めてこの狼将軍を。ヴィグオル・レノスの事をじっと見つめる。
「過日は、私の勝手な行動でとてもご迷惑を掛けてしまいました。ヴィグオル様」
「その様な事は。それから、どうか。ヴィグオルと。畏まらずにお呼びくださいませ。あなた様に、その様に仰られては。私はガルマ様に顔向けもできませぬ」
 今更だけど、この間の事を思い出して俺が謝ると、ヴィグオルはそんな事はと言って、なんとも気にしていない様な顔をしてくる。俺がヒュリカに頼んで狼族の陣営から飛び出したのは、大分問題にはなっただろうし、そのまま
結界が無くなって、争いも無くなって。すごすごとファウナックへ帰ったこのヴィグオルは、ガルマからの小言も貰ったのだろうから。俺に恨み言ぐらい言ったって、良いと思うんだけど。
「……その。何か、お咎めの様な物はありませんでしたか」
「いいえ、いいえ。ガルマ様は、ゼオロ様のお話を耳にすると、とても楽しそうに笑って。それから、災難だったなと。この私を労う様な事まで仰って。……あ、いや。災難だなどとは、私は決して思っては」
 ちょっと思ったんだな。
 俺が苦笑していると、わざとらしい咳をヴィグオルが何度かして。それから、ようやく立ち上がる。そうすると、背が高くて。俺は相変わらず首が痛い思いをする。それからヴィグオルの恰好にも注目する。前にあった時は、
もう少し厳めしい。鼠色の鎧を。銀ではなく、それよりは落ちるのだと主張するかの様な鎧を着ていたけれど。今は寒さが大分和らいだ事もあってか、銀の胸当てをしていたけれど、腹回りなどは露出していて、下も急所を
除いては、薄めの、でも丈夫そうな生地が膝の辺りまでを覆っていた。戦争を前にしている訳ではないから、最低限の武装で、とにかく動きやすくしているんだろうなと思う。
 その視線が、俺から、俺の数歩後ろで控えているクロイスへと注がれる。それに俺もちょっと緊張してしまう。
「……ゼオロ様。ガルマ様から、お話は既に。ようこそ、ファウナックへおいてくださりました。この上は、このヴィグオル・レノスが、全ての責任を請け負い、ガルマ様の下まで、あなた様と。そして、客人であらせられる
クロイス・スケアルガ殿をお送りすると誓いましょう」
「ありがとうございます。ヴィグオル」
「その様な事は、仰られずとも。ただ、頷いてくださればよろしいのでございますよ。ゼオロ様」
 そんな事言われても。頑張って呼び捨てにしたのに、お礼を言ったのが引っかかるとか。どれだけ俺に尊大さを期待してるんだと。俺がギルスの血を引く銀狼だったら、或いはという気はしないでもないけれど。もう異世界人
だって公表した後に、それでもこうして頭を下げてくれる相手に対して、流石にそこまで尊大になる勇気は俺には無いなと思ってしまう。
 とはいえ、俺はそのヴィグオルと。それからヴィグオルの連れた兵の様子を見て、一安心する。明らかにヴィグオルはクロイスを意識していたし、それでも俺を咎める様な事は何一つ言わなかったのだった。俺がやる事を
肯定的に捉えて、以前だって態々、言ってしまえばカーナス台地を解放しただけであって、所詮は異世界人であるはずの俺の所へと馳せ参じてくれたのだから。その気持ちが変わっていなければ、こうしてくれるとは思っていた
ものの、やっぱり実際にそうしてもらえると、俺は大分心が安らかになるし、またこの勤勉かつ峻厳な将軍の事を、改めて良い人だなって思えたのだった。それから、周りに居る狼族も。少なくとも嫌そうな表情を表面に出して、
クロイスを威嚇するとか、そういう事はまったくなかった。その辺りも、ヴィグオルはよくよく気を付けてくれたのだなというのがわかる。流石に、満面の笑顔で迎えてくれるとは言い難いけれど。いや、俺を見ている兵の中には
そういう顔つきの人も居るけれど。
 俺とクロイスが再び馬車に乗り込むと、そのままその周りをヴィグオルの率いる兵が囲む。ヴィグオル自身は、後方に待機させていたのか、今は馬に騎乗して俺達を先導してくれている。そうしていると、やっぱり狼族って
恰好良いなぁと思う。黒い被毛のヴィグオルが、栗毛の馬に跨っている様は、大層立派な物だったし。
 とはいえ俺が楽観視をしていられたのは、そこまでだった。いざファウナックの中へと踏み入れば、それは流石に、先のヴィグオルの時の様な歓迎をしてくれるとは限らなかった。事実、馬車の窓からそっと周りを見ると、
ヴィグオルの兵の向こう側から、俺とクロイスの乗る馬車を訝し気に見つめるファウナックの住人の姿が見て取れた。それも、かなり多い。ヴィグオルとその兵がこうして迎える以上は、ある程度は下々まで事情は伝わって
いる様で。俺はそれを見て、以前に銀狼を赤狼が襲撃した時の様な騒ぎが起きたりしないか、少し心配になる。
「どうも、気を遣わせちゃったかな」
「え?」
 俺が、外へ視線を注いでいると。俺と同じ様にそれを見ていたクロイスが、僅かな溜め息とともにそう呟く。
「物々しいお出迎えかと思ったけれど。寧ろ、俺達を。というか、まあ。俺だけど。俺を守るために、ヴィグオルは遣わされたって事。街の様子で、それはわかるよ」
「……そうだね」
 確かに。今ヴィグオルの兵が居ないままに、この中を通っていると考えると、背筋が寒くなる思いがする。ガルマは流石に、クロイスが来るのならばと、相応の迎えを寄こしてくれたのだった。またお礼を言うべき事柄が
増えてしまった気がする。別に実際にそうしたところで、彼らがクロイスに手を出すとか、そういう事はないのかも知れないけれど。それでもこんな一触即発の空気の中を歩くのは、今はまだ、中々に難しい事なのかも
知れなかった。
 三回目のファウナック。もう少しは街並みを、いい加減に見てみようかと思っていたけれど。俺は結局、すぐにカーテンを閉めてしまう。少なくとも、今は下手に刺激はしない方が良いみたいだし。
「ごめん、クロイス。いまだに、ここまで酷いとは思ってなかった」
 一時的に二人きりの空間にしてから、俺はおずおずと謝罪を口にする。
「いいよ。それに、これはこれで、勉強にはなる」
「でも、クロイスがした事じゃないのに」
「それでも、知る権利くらいはあるだろう? そして、俺は今まで、あんまり知らなかったし。また知ろうともしてなかったから、丁度良いさ」
 ちょっと、無理した様な事をクロイスが言うので、ご褒美の意味も込めて、俺の方からそっと寄り添う。本当は、クロイスもここに伴ってきたのは。もう少しくらいは、狼族とスケアルガの和解を、ただの形式的なやり取り
以上の物にしたかったからなんだけど。ちょっと、時期尚早だったかな。カーナス台地を解放する条件として、狼族とスケアルガは確かに和解に至ったけれど。でも、それは所詮ガルマとジョウスの間でのみ行われたやり取り
でしかない。この馬車の外、兵の向こうで、今俺達を見つめている人達に、そんな事は関係無いと言われても、何も言い返せないし。そう考えると、今俺達を先導してくれているヴィグオルは、やっぱり中々の人格者なんだな。
 実の父親を、カーナスで亡くしてしまったというのに。今はそんな素振りをおくびにも出さずに、案内までしてくれて。そんな良い人に、泥を塗ってしまった俺って一体。しかもまたお世話になってるし。
 後でまたお礼を言おうと決めて、それからしばらくすると、やがて馬車が止まる。ガルマの館に着いたのだろう。
「ゼオロ様」
 馬車を降りると、誰かが俺を呼ぶ。ただ、その声は一つだけではなくて。声のした方を見れば、初めてこの館へ来た時の様に、既に俺を迎える使用人達が揃っているところだった。その中には、俺が少しは見覚えのある人も
居て。それは俺がハゼンに招かれて、ガルマの館へ入った時の使用人だった。
「お待ちしておりました。ゼオロ様」
 そしてその集団から前に出て俺を待っていたのは、クラントゥースだった。小さな銀狼、と言いたかったけれど。クランも少しずつ背が伸びてきたのか、今は俺と変わらない背の高さで。俺はちょっと危機感を覚える。俺は
相変わらず背が伸びないままだというのに。その内追い抜かれてしまいそうだなって。
「お久しぶりです、クラントゥース様」
「よく、お戻りになってくださいました。つもる話もございますが、まずは旅の疲れをとってください」
 それを聞いて、俺はクランが大分我慢しているんだなって、なんとなく察する。周りの目があるし、クランももう次期狼族族長だしな。とはいえ俺がここに居る以上、何を画策してくるのかはわかったものではなかったけれど。
「明朝、ガルマ様がお呼びになられると思います。それまではどうか、ごゆるりと。それから……そちらの、クロイス殿に関しては」
 クランが、クロイスに目を向けて。それからその名を呼ぶと。俺は咄嗟にクロイスの腕を取って、それからにこりと微笑む。
「既にジョウス様からの報せが届いている事と思いますが、今回はこうして、私と。そして私の伴侶であるクロイス様で、ガルマ様のお見舞いに馳せ参じた次第でございます。ガルマ様にも、そうお伝えください。それから、
クラントゥース様に余計なお手間を取らせては申し訳なく思いますので。どうぞお気になさらずに、私に宛がわれた部屋に、彼と共に向かいます」
「ですが。ゼオロ様のお部屋は、内郭の一室。そこは、狼族の。それも、銀狼のためにある場で」
「それなら、私は外郭の方でも構いません。どうせ私は、異世界人であって。内郭に招かれるに足る身分とも言えませんから」
「ゼオロ様、それはどうか、ご勘弁を。私がガルマ様に、叱られてしまいます」
 いつの間にか、俺とクラントゥースの間に見えない火花が散っている。しぶとい。中々にしぶとい。俺としてはこんな安定していない場において、俺はまだしもクロイスを一人にするのは良くないなと思うので、ここは譲れ
ないのだけど。いつの間にかクラントゥースも随分その辺りの勝負が上手くなってきたのか、特に困った顔を見せずに、苦笑しながら応えてくる。
「ゼオロ様。クラントゥース様。失礼ながら」
 俺とクランが、俺の後ろでちょっと呆れ気味のクロイスを放置して、このまま館の庭で決闘を繰り広げそうな空気になっていると。いつの間にか姿を消していたヴィグオルが非常に優雅な仕草で、俺達の間へと割って入る。
「ただいまガルマ様の下へ使いを出しましたところ、特例でクロイス殿が内郭に足を踏み入れる事をお許しになられるとの事でございます。……失礼ながら、クラントゥース様。ここは」
「……そうですか」
 クランが、むっとした表情でヴィグオルを見つめる。ちょっと睨みさえ入ってそうな。そういえば、ヴィグオルは俺の味方をしがちだから。ともすればそれは、クランとは対立しがちでもあるんだよな。クランは遠縁の銀狼で、そして
ヴィグオルは、真の銀を持つガルマと。カーナス台地を解放に至った銀を持つ俺へ敬意を払っているのだから。とうのヴィグオルはというと、クランに睨まれ様が、然程気にした様子もなく。決まった事は決まった事と、てきぱきと
使用人に命じて俺とクロイスの少ない荷物を運ばせたりと、細かい指示を出してから。改めて俺達を館の中へと通してくれる。
「私は、内郭へは必要な時しか入る事は許されておりませんが。御用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ、ゼオロ様」
「……ありがとう。ヴィグオル」
 別れ際に、短いお礼をして。それから俺は、クランの案内を受けて外郭へ。続けて内郭へと移動する。すっかり俺の腰巾着になっているクロイスはというと、物珍しそうにガルマの館を見回していた。これはこれで、結構
大丈夫そうだなって安心する。使用人の目つきも、以前ハゼンを伴った程ではない。流石に今は、ヴィグオルがここまでを。そしてここからは、クラントゥースが案内をするだけあって。その様な粗相は、決して許されるはずが
なかった。それでも、俺とクロイスが内郭へと通じる橋に足を踏み入れると。僅かに使用人達の空気が変わった様にも感じられたけれど。将軍であるヴィグオルでさえ、そう簡単に足を踏み入れてはならないのだから。相変わらず
ここの銀狼がどれだけそれ以外の狼族と扱いが違うのかがわかってしまう。もっとも、それを言うのならば。今俺の目の前を歩いているクランは遠縁だし、そして俺は異世界人だしで。厳密な意味で、ここを歩く事の許されるべき
ギルスに連なる真の銀を持つ存在はどこにも居なかったりするのだけど。俺を待っている、とうのガルマ・ギルスくらいか。他の老いた銀狼は、ここには居ないそうだし。
「はあ。なんか、どっと疲れたわ」
 部屋に通されて、二人きりになると。クロイスがそんな事を言って、従者部屋の方のベッドに飛び込む。なんだか色々と、気苦労を掛けてしまった。ごめんなさい。因みに、部屋は前に使っていた物とは別の部屋だった。まあ、
今は後継者候補の銀狼が居ないから、空き部屋ばかりだし。その上で、ハゼンと訪れた時のファウナックの最後は、とても陰惨な物だったから。ガルマの方としても、気を遣ってくれたんだと思う。部屋の家具も、少し異なった
物が置かれていたし。部屋の繋がりは、ほとんど同じで。応接間と、従者の部屋と、そして主の部屋となっていたけれど。
「お疲れ様、クロイス。頑張ったね」
 床に膝で立ちながら、ベッドに頭を突っ込んだまま動かないでいるクロイスを見て。俺はベッドに座ると、その頭をぽんぽんと叩く。そうすると、俺よりも控えめな大きさの豹の耳がぴくぴくと動いて、それから尻尾がゆらゆらと
動いてくれる。とりあえずまだ生きてるな。
「なんとか、頑張れそう?」
 撫でながら、けれど俺はそれが気になって問いかける。今回の滞在は、少なくとも二回目の時よりは、長くなる予定だ。ガルマの様子を、しばらくは見ておきたいと思っているし。それにクロイスが狼族について色々知る
ためにも、明日ガルマを見舞って、はいさようならとは流石にいかない。俺としても、ガルマには借りがある訳だし。向こうはカーナス台地の件についての借りが俺にはあるのだから、そんなにとやかく言われる筋合いは
無いのかも知れないけれど。
「うーん、なんとか頑張るわ。それにゼオロちゃんが使用人は遠ざけてくれたから、ここでは落ち着けるし」
 元々ハゼンと一緒の時から俺は、使用人が近づく事にあまり良い顔を見せていなかったからか、今回もその方針は続いている様で。使用人達が立ち入るのは、応接間の方までだった。扉を開けば、一人か二人は待機
しているだろうけれど。無断でこちらに来る真似は決してないので、その分ではクロイスもどうにか落ち着ける様にはなった様だ。
「明日はガルマ様と会うんだから、しっかりね」
「うん。……あーでも、さっきのゼオロちゃん、凄く良かったわぁ」
「さっき?」
 さっきの俺って、どれだよと思って問いかけると。ようやくベッドから頭を上げたクロイスが、ベッドに這い上がるとそのまま俺の肩を抱く。
「俺の事を、伴侶って言って。それから、彼、だってさ! うわー。そこまで言ってくれるなんて、初めての事なんじゃないの」
「その場を押し通るためだったから、仕方ないでしょ」
「つれないなぁ。俺はゼオロが求めるままに、こんな所まで来ちゃったのに。そんな俺に、少しはご褒美をくれてもいいんじゃないの?」
 そう言われて、俺はちょっと押し黙る。それを言われると、ちょっと痛い。確かにクロイスは勉強のつもりもあってきてくれたけれど、結局は俺が無理矢理連れてきた様な物だし。
「……そうだね。クロイスの言う通りだね。それじゃ、せっかくだしここで結婚式しよっか」
「いや、それは流石に俺の命がどっか行っちゃうから、やめよ?」
 ご褒美を上げると見せかけた罠は、流石にクロイスにはすぐに看破されてしまって、笑ってしまう。街があんな様子だったのに、ここで式を挙げますなんてやったら、流石にどうなるかは保障できないしな。
「冗談だよ。でも、しばらくはここに居ると思うから。それは、もう少し先の話だね」
「期待しても、いいのかな」
「どうかな」
「酷いな」
 クロイスが、後ろに倒れて。俺の肩を掴んだままだから、俺も一緒に倒れて。
「ゼオロ」
 許しを乞うかの様に、俺の名前を呼ぶから。俺はただ、少しだけ顔を上げて。そうすると、クロイスがゆっくりと俺と鼻先を合わせてから、僅かに顔を傾けてキスをしてくる。おずおずと、俺が口を開けると、ざらついた豹の舌が
遠慮もなく入ってきて。思わず顔を逸らしたくなる。いまだに、慣れないな。キスだけなら、割と回数は積んできたはずなんだけど。
 しばらくしてから、俺は口を離す。ちょっと、息が苦しくて。対するクロイスは、なんともなさそうだった。
「こういうのも、程々にね。使用人に、聞こえるから」
「フロッセルの時もそうだったけれど。ゼオロはそういうの、本当に気にするんだね」
「気にしない方が変だよ」
 俺の目の前に居る豹は、そんな事には頓着しないから。俺はちょっと呆れた様に見てしまう。恋人同士だから、そんな事は当たり前なんだって、そう言ってくれるけれど。生憎、俺はそんな簡単に割り切ったりはできそうにない。
「今日は、この部屋に泊まってよ。ゼオロの部屋の方には、俺はあんまり入らない方が良いみたいだし?」
 そう言われて、俺は仕方なく頷く。そうしてから改めてクロイスは俺を抱き起すと、身体の向きを変えて寝かせて。それから、隣でクロイスも横になる。
「なんか、実感わかないな。こうしてファウナックに来たのに、そのままガルマの館の、しかも内郭に居るって。本来なら、俺は決して踏み入る事のできない場所なのに」
「……そうだね。私も、同じだったよ。初めてここに来た時も」
「それにしても、ゼオロを見る狼族の目っていうのは、本当にとんでもなかったな。あのクラントゥースが畏まっていても、そんなの当然だって、誰も訝しむ様な顔もしなかったし。まあ、確かに。ゼオロちゃんの銀は、本当に綺麗
だけどさ。ガルマも、同じくらい綺麗なんだろ?」
「うん」
 クロイスが口にした事実は、とても恐ろしい物だと俺は思う。次期族長に既に決まっているクランが、異世界人である俺に畏まっているのだから。言ってしまえば、クランはガルマの次に偉いはずなのに、そのクランは当然の
様な顔をして俺に恭しく、内心ではくっつきたいのだろうけれど、接してきて。そうしてそんなクランの振る舞い方を、周りの使用人達も、ヴィグオルも、なんとも思わないで受け入れて。ヴィグオルは更に、俺の肩を持っているの
だから。
 ギルスの直系を示す、銀の色さえ持っているのならば。もはや異世界人かどうかですら、小さな事の様に、彼らの目は見ているかの様で。正直なところ、俺はちょっと怖くなってしまった。別に、俺に危害が加えられるなんて
事はないのだろうけれど。それにしてもやっぱり狼族っていうのは、涙の跡地を覆う結界が壊れて、そうしてランデュスとの争いが無くなった今でさえ、頑ななまでに変わらずに居るのだなって。
 ガルマは、そんな今を変えたいのだと以前は言っていた。明日ガルマに会ったのならば、その話もしたいと思いながら。俺は優しい恋人の腕の中で、静かに眠りはじめた。

 翌日、起き抜けに湯浴みをしましょうと俺の部屋に突撃してきた使用人達に丁重にお帰り頂いて、俺はクロイスと一緒にお風呂に入る。クロイスが飛びあがって喜んでたし、使用人は怖い顔をしていたけれど、仕方ない。面識の
ほとんどない使用人にべたべた触られるくらいなら、どうせベッドの上では好きにさせてるクロイスにべたべたされた方がずっと良いし。クロイスなら少なくとも相手に失礼の無い様に、何をどうすれば良いのかは確実に弁えて
いる訳だし。そういえばフロッセルに居た頃は、あんまりクロイスともこういう風にお風呂に入ったりはしなかったんだよな。ジョウスの手伝いで、クロイスは帰るのが遅くなっていたから。俺はお風呂の用意だけを使用人にして
もらって、一人で入っていたし。たまに早く帰ってきたクロイスがお風呂でまったりしている俺に奇襲を仕掛けてくるから、とりあえず桶を投げつけたりはしたけれど。
 紆余曲折を経て、とりあえず三回くらい殴ってしまったクロイスに俺は身だしなみを整えてもらって。それから自分の事はもはやいつも通りとばかりに手早く済ませたクロイスと一緒に、軽い朝食を済ませてから、ガルマからの
使いを受け入れて、揃ってガルマの待つ部屋へと向かう。歩く度に、あの日の事を。ハゼンがあの日、一人でここを通った事を、思い出してしまうけれど。流石に今は泣いたりもせずに、平気な顔をしていられた。それに、
ハゼンはカーナス台地で、俺を助けてくれたから。それだけで今は、あの時の惨劇の事も、まっすぐに受け止められる気がする。
「申し訳ございませんが、まずはゼオロ様お一人で。ガルマ様は、どうしてもゼオロ様とのお話を望んでおられます故」
 ガルマの部屋の前まで来ると、兵の一人が申し訳ないという様子を全面に表しながらそう言う。仕方なく俺は、クロイスと頷き合ってから、一人だけでガルマの部屋へと足を踏み入れる。
 部屋の中は、相変わらず薄暗い、という事はなかった。明かり取りがきちんとされているのか、少なくとも視界が奪われる事もない。かといって、眩しい程でもなく。程良い明るさが、部屋全体を覆っていた。窓から僅かに
射し込む光と、残りは魔導の光が、かなり細やかに配られている様だった。
 だから、俺の瞳には。ベッドの上で横になったままの、その銀狼の姿もすぐに見えてしまう。
「ガルマ様」
 俺が、声を掛けると。横たわっていたその人物が、静かに瞼を開く。ガルマ・ギルスがそこに居た。けれど、その姿はやっぱり以前に見た時よりも、更に衰えていて。俺は思わず、表情を繕う事も忘れて。
「そんな顔を、してくれるな。ゼオロ。これでも、今日は体調が良い方なのだから」
 そんなに俺は、酷い顔をしていたのかな。上手く笑ったりはできなかったとは自分でも思っていたけれど。ガルマが僅かに身体を動かすのを見て、俺は慌てて小走りで近づいて。その背を支える。小さな俺でも、力を籠めれば
支えられる程だった。以前のガルマだったら、考えられないくらいに、老いていた。
「また、痩せられたのですか」
「ああ。情けないな。別に、私はまだそれ程歳を食った訳ではないのだが。やはり、気の落ち込みが激しいのであろうな。……まあ、そんな話は良い。こんな話を、態々ここまで来てくれたお前にしたい訳ではないのだから、私は」
 起き上がったガルマは、改めて俺の姿をよく見ると、目を細めて。とても柔らかく笑ってくれる。その笑い方が、今はなんだか胸が痛む、以前はもっと悪戯好きな子供の様な笑い方をしていたのに。今は、なんだか。本当の
老人の様だった。
「ああ、綺麗だな。お前は。お前の銀は。よく、戻ってきてくれた。もう一度、お前の姿が見られる日が来るとは。私は願っていたけれど、それが叶う日は、来ないと思っていた」
「また来ると。確か、そう以前に言ったはずですが」
「それでもお前が本当に来てくれるとは思わなかった。いや、それも違うか。お前が、異世界人だと私は知って。もう、来てはくれぬ方が良いと思ったのかも知れない。しかし、いざこうしてお前を前にすると。それは間違いで
あったな。お前が異世界人であるかどうか、などと。そんな事は、あまりにも瑣末な事で。そうして、この様に傍に居てくれる事を、私は今とても嬉しく思っている」
「その件は、ご迷惑をお掛けしました。けれど、私も。どうしても、言い出す事ができませんでした。申し訳ございません」
「良い。その様な事情があったのならば、確かにお前は下手な動きをする事や、そうして次期族長に名乗りを挙げる事も厭うただろう。それでも、お前はカーナス台地を。その地に眠る狼族を。そしてグンサを救っては、
いずれはそれに混ざるやもと危惧していた私の心も救ってくれた。本来なら、お前が本当はどの様な人物であれ。私には、お前を責める権利も何も、ありはしないと言うのにな。それ程までにお前がしてくれた事は、とても
大きく。そうして、私には成し遂げられぬ事であったのだから。おお、そうだ。カーナス台地での事を、もう少し、詳しく。私に教えてはくれまいか。グンサに会ったのだろう? ヴィグオルは多少はそれを聞いて、私に報告を
してくれたものの、やはりお前から直接聞かぬのでは、どうしても納得できはしなくてな」
「構いませんよ」
 ガルマが手招きをするものだから、俺はそのベッドに座っている大きな銀狼の隣に座る。そうすると、同じ銀を持った俺とガルマが並んで。以前だったら、何かされるのではと危機感の一つも抱いたけれど。今のガルマは、
そんな気配すら見せる事もなく。ただ俺の言葉を聞きたがっている様で。だから俺は、カーナスで起きた事の全てを、正直にガルマへと話したのだった。他の人には言えなかった、ハゼンの事も。ガルマは充分に知っている
から、本当に包み隠さずに。
「そうか。赤狼の、亡霊か。あれ程の呪いの中でさえ、赤狼は狼族の中に混ざるを良しとはしなかったのだな。確かに、例え私が出向いたとしても、彼の地を呪いから解き放つ事は難しかったのやも知れぬ。やはり、お前が
居てくれたからこそか」
 そう言って、ガルマはうんうんと頷いてくれる。なんだか、ちょっと照れ臭い。こんなに手放しで褒められるのって。
「それに、兄も……お前の話を聞くだけで、本人の姿が浮かぶ様だ。死んでからも、それ程変わらんな。それだから、私を残して。さっさと、死んでしまったのかも知れないが」
 懐かしむ様な顔で、けれど寂しそうにガルマは言う。既に、兄の年齢を超えて、老いを迎えいれているガルマが言うと、それはとても重い言葉にも思えた。
「あとは、ガルマ様もご存知の通りです。カーナス台地を解放して、ラヴーワへと戻って」
「そしてそこでお前は、自らが異世界人であると公表して。お前の帰りを待ちわびていた私を、こっぴどく裏切ってくれたな」
「申し訳ございません。そうしなければ、族長にされてしまいそうでしたので」
「困った物だな。お前さえ、そのつもりであるのならば。もはや、異世界人であろうと構わぬのではないかと、私は思っていたのに」
 それを聞いて、俺は必死に微笑んだまま、内心は悲鳴を上げそうになる。勘弁してほしい、狼族の族長なんて。それに、いくらガルマが良いと言っても、やはり異世界人である俺が狼族を率いるのには、反発も招くだろうし。
 俺は今ぐらいが、丁度良いと思う。権力も何も持ってはいないけれど、必要であればガルマにすら俺の声は届く。そのくらいの位置。狼族を見守るのならば、それが良い。それに、やっぱり族長になるとクロイスとの関係は
かなり難しい物になってしまうだろうし。クランとの関係も微妙な物にならざるを得ないし。
「感謝しております。その節は、狼族の声が、私を助けてくれました」
「礼を言われる程の事ではない。それに、兎族に。リスの奴に、先手を取られてしまったからな。リスは直接私に何かを言う事はなかったが。あれは、さっさと私も声を上げろと。そういう意思表示でもあった」
 兎族の族長であるリスワール・ディーカンの事を、ガルマは苦笑しながら語る。リスワールとガルマは、友であるからして。やっぱりそういうやり取りは、直接言い合う様な事もなくわかるのだろうな。そういう関係って、ちょっと
良いなって思う。知り合いが、友達に、友達が、親友になって。それが、どこまでも続いて。なんだか、俺にはとても遠い物の様に感じられるから。
「ゼオロ。どれくらい、お前はここに居るつもりなのだ」
 それから、軽い話をした後に。いい加減外でクロイスが待たされっぱなしだという事を思い出した俺が、ガルマに言うと。ガルマも忘れていたのか、苦笑しながら話を切り上げようとして、最後にそれを口にされる。
「特には決めておりません。こうしてクロイスを伴ったのには、もう少しだけ、狼族の問題に首を突っ込みたいという気持ちもありますから。街の方々が、クロイスを追い出せと暴動を起こされる様ならば、すぐにでも立ち去る
つもりですが」
「その心配は必要あるまい。少なくとも、私の今の状態がこれだからな。何人たりとも、それが狼族であるのならば、我が館の傍では騒ぎを起こす様な真似はすまいよ」
「では。クロイスがここに居る事を、認めてくださるのですね」
「無論。というより、ジョウスから連絡を受けた私が、それを許したから、お前達はここまで来られたのだから。そんな事は、他の誰かに訊ねる必要の無い事だろう」
「クロイスが内郭に。私と同じ部屋に居る事については?」
「……そうでなければ、嫌か?」
「駄目なら帰りますが」
「お前、思ったより図々しいな」
 ガルマが、くつくつと笑う。そうして笑うと、なんとなく以前のガルマがようやく戻ってきた様な気がして、俺も肩の力を抜いて、笑みを浮かべられる。
「私の恋人なのだから、それぐらいは許してもらわないと」
「ああ、わかったわかった。わかったから、早くその愛人を連れてきておくれ。お前と二人きりで話がしたくて、私が呼んだというのに。お前ときたら、私の様子を一頻り確認したら、これだからな。まったく、そうされても私は、
お前がカーナス台地を解放してくれたが故に、もう強く物を言えないのだから困る。機嫌を損ねたら、お前はあっさりと出ていってしまう事も、そうしてどんな者でも引き留める事すら叶わぬのだと、よくよくわかって
おるしな。まったく、私はガルマ・ギルス。ギルスの直系を引く、最後の銀狼なのだぞ。それだというのに」
「クロイスを、連れてきますね」
 ちょっと拗ねはじめたガルマを置いて、俺は手早く部屋から飛び出して、すぐにクロイスを招く。壁に凭れていたクロイスが、弾かれた様に身体を動かして。それから、改めて身だしなみを整えて。俺はその手を引いてガルマの
寝所へと再び足を踏み入れる。部屋に入り、ガルマの姿を見咎めて。数歩進んだ後に、クロイスは膝を突く。俺はちょっとぎょっとして、後ろでそれを見守っていた。
「お初にお目にかかります、ガルマ・ギルス様。クロイス・スケアルガと申します」
「その様に畏まらずとも良い。クロイス殿。既にそなたの事は、ジョウス殿よりよくよく聞いておるしな」
「ですが……」
 クロイスが、僅かに目を細めて、窺う様にガルマへ視線を向ける。炯々たる瞳が、その所作とは異なって、ガルマを見定めるかの様だった。ガルマはそれを受けると、流石にさっきまでの俺に対する物とはまったく違う、
長年狼族を率い続けてきた、ガルマ・ギルスの本当の顔を見せた。こちらもクロイスをあっさりと受け入れる様な事を言いながら。クロイスの事を実に面白そうに、推し計っている。
「本来ならば、スケアルガの血を引く私が。本日この様に、この地に。狼族の中で、最も神聖な銀狼の地へのこのこと現れるなどというのは。如何に先のカーナス台地の一件において、スケアルガと狼族の和解が成った
とはいえ、あまりに僭越であり、また性急とも言えましょう。その責めは、如何様にも私が負いましょう。しかし、また。今を逃せば、この地を踏む機会は私には無く。こうして、ガルマ様に拝謁させていただく事も、生半な
事ではありませんでしたでしょう」
「良い。と、私は言うたのだ。クロイス殿。……ゼオロ」
 ガルマが、もういいと。苦笑しながら手を払って、俺を呼ぶ。仕方なく俺は、クロイスの傍へ寄ると、その腕を引く。クロイスは、少し迷う様子を俺に見せた。クロイスからすれば、ガルマは長年スケアルガを怨んできた相手だと
思っているから、どうしてもそういう風に接してしまうみたいだけど。とうのガルマは、実はそこまでスケアルガを嫌っている訳ではないんだよな。確かにその気持ちが無いと言えば、嘘になるけれど。ガルマはガルマで、
自分の事で。狼族を率いる事で、あまりにも精一杯だったのだから。
「もう少し、気安く話しかけてほしいってさ。クロイス」
「でも。それは、あんまりなんじゃないのかな。少なくとも、ガルマ様はあの一件で、本当に沢山の方を。そうして、グンサ様まで失ってしまったのに」
「だが、その痛みはそこのゼオロが晴らしてくれた。そして、そのゼオロがそこに立っているのは。クロイス殿のお力もあったのだろう。ならばいつまでも私が、とやかく言っていては。狼族は、いつまで経ってもこの問題から
脱する事は叶わぬし、またグンサの影を。そうしてその内には私の影を追い続ける事になる。私としては、それは望むところではないのだよ。クロイス殿」
「あなた様が、その様に仰られるのであれば……。私としては、異存ありませんが。ガルマ様」
「おう。やっとその様に口を利いてくれたな。それに私はクロイス殿を前にして、こんな話をしたい訳ではない。ジョウス殿がさぞ頭を痛めているであろう、お前達二人の仲を見て。寧ろ私の方が祝福してやろうと。それが、
私からスケアルガへの、最大の復讐だと思っているのだから。どうか、この老いぼれの祝福を、受け取ってはくれぬか」
「よろしいのですか。俺が……あ、いや。私が、その様な」
 その頃になると、ガルマはようやくベッドからどうにか立ち上がって、並んで立ったままでいる俺達の前へとやってくる。そうして、掌に僅かな光を灯して。その手を俺達の前で何度か動かすと、小さな光の礫が、俺達を
包んでは消えてゆく。
「歓迎しよう。お前達を。そうして、この出会いを。他でもない、あの日最も大きな傷を受けた私が。私が許すのだ。決して他の誰にも、文句など言わせはすまいよ」
「……ありがとうごさいます」
「ありがとうございます。ガルマ様」
 クロイスが頭を下げて。俺もすぐに、頭を下げる。本当に、ガルマは全てを許そうとしてくれているんだなって、俺はちょっと、涙が出そうになる。辛い事も、悲しい事も、この人は全部一人で背負ってきて。とても大変な人生
だっただろうに。辛くて、苦しくて。今こんなに、弱ってしまっているのに。それでも、クロイスの事を温かく迎えては。スケアルガの血を引くクロイスと、異世界人であって、族長になる事すら撥ね付けてしまった俺を。俺達二人を、
祝福してくれていた。
「面を上げよ。もう少し、お前達の話が聞きたい。それから、今日は宴だ。そんな辛気臭い顔をするのではなく、幸せなお前達の姿を、私に見せておくれ」
 顔を上げる。老いた銀狼が、そこには居たけれど。その表情は、とても穏やかな物で。心から俺達を歓迎してくれている事だけが、ただ伝わってきていた。

 俺とクロイスがファウナックを訪れて、ガルマの歓迎を受けてから、早五日が過ぎた。
 俺達が訪れた日の夜、ガルマは口にした通りに宴を開いてくれて。俺達はいつ頃辿り着くか、なんて連絡を小まめにしていた訳ではないから、それはある程度急ごしらえの物だったけれど。それでも俺からすると、目を丸くする
ばかりの規模の宴だった。内郭ではごくごく一部の者にしか立ち入りを許す事はできないので、外郭の庭を利用して開かれた宴は、灯りがこれでもかという程に用意されては、夜だというのに昼と変わらぬ様相を呈していたし、
その上で上機嫌のガルマがやってくるのだから、それこそ館中の者も、主賓が俺はまだしもスケアルガの血を引くクロイスだという事も忘れたかの様に満面の笑顔でもって参加してくれていた。
 本来ならば、クロイス・スケアルガを。ジョウス・スケアルガの息子を歓迎するだなんて、狼族の誰しもが苦い顔をしたって不思議ではなかったけれど。そこはそれ、ガルマ・ギルスという、現在最も狼族の中で力を持つ人物が、
心からクロイスを歓迎してくれているのだから、誰もそれに逆らったり、また機嫌を損ねる様な真似をひけらかすのは避けたし、また二度目のファウナックの時と同様に、ガルマはやっぱり身体の調子が芳しくなくて。そんな
ガルマが気力を振り絞って立ち上がっている手前、余計な物をその目に入れてまた体調を悪化させてしまう事を、誰もが恐れている様だった。とはいえ流石に気力一つで、宴の始まりから終わりまで居られる程にガルマは
万全な状態とは言えなかったから、挨拶を済ませて、久々の豪勢な、けれどその身で今食すには堪えるであろう料理をどうにか口に入れて、酒で無理矢理胃の中へと流し込むと。少ししてから、あとは若い者だけでと
気を遣う素振りをして、残りはクランに任せて早々にガルマは部屋へと戻ってしまう。俺はといえば、それを追って大丈夫だったのかと訊ねたかったけれど。ガルマに続いて俺まで居なくなってしまっては、クランが居てくれる
とはいえ、クロイスがどんな扱いをされるのか気になってしまったので、結局はその場に残る事になる。それに今は俺がカーナス台地の呪いを解放して、初めてのファウナックへの帰還でもある。当然、ガルマが俺の話を
聞きたがった様に、人々はこぞって俺の話を聞きに集まる。俺が困った顔をしていると、クランが少し相手の方を下がらせてくれたけれど、流石にクランもそれについては興味があったのか促されて。渋々と俺は口を割る。
 誰もが俺の話を耳に入れようと集まってくる。またそうする事で、宴に参加した直後こそ俺の隣で恋人同士なんだぞと印象付けるためにくっついていたけれど、お話の邪魔になってしまうからと少し離れた位置に居るクロイスを
意識してしまう事を、避けようとしているかの様だった。そんな訳で俺は質問責めに遭った上に、俺が何か一つ言う度に羨望と崇拝の眼差しが飛んでくるものだから、その話が終わって宴もお開きになる頃には、大分
疲れ切った俺が居た。本来ならガルマは帰ったから良いとはいえ、クランを蔑ろにして俺が目立つのは良くないはずなのに、クランまでもが話を聞く側に回ってしまったのは辛かった。宴の帰り道となると、俺はもう酒を無理矢理
飲んで、酔ったからもうお話しませんの態を作ってから、苦笑したクロイスに抱え上げられて部屋に引き上げていた。それはそれで、改めて俺とクロイスの関係を強調できたから良かったのかも知れないけれど。
 宴を終えた、その翌日から。俺はガルマの部屋へと足を運ぶ日々を送っていた。そうするとガルマがとても喜ぶというから、クランの方からもお願いされたというのが大きいけれど。その間クロイスが一人になってしまうので、
ちょっと心配だったりする。とはいえ、ガルマの方も心配なんだけど。ガルマの部屋を訪ねて俺がする事は大抵、その身の回りの世話が多かった。ガルマはどうにか身体を起こしていたけれど、それでもベッドからはあまり
出ようとはしなかったし、その上に相変わらず部屋は散らかっていて。クロイスと一緒にこの部屋に入った時は流石に片付けていたそうだけれど、そこからはかなり適当に部屋を使っていたのだろうな。その上で使用人が
部屋に入るのはあまり好まないらしく、仕方なく俺が部屋の片づけをしたり、ガルマと話をしたりと、何くれとなくお世話をする破目になっている。あれ、俺は何をしにここに来たのだろう。完全に介護だなこれは。ただ俺が居る
事で、目に見えてガルマは元気を取り戻してきたし、俺が少しは食べろと言うと大人しく食事も取ってくれたので、ガルマの部屋から出る度に涙を流しながら使用人達に礼を言われるのもあって、中々それを止められずにいた。
 そんな日々が続いて。でもそれだけだと、やっぱり息が詰まるし。またガルマも我儘をそれ程言う訳ではないから、俺に息抜きをする時間もくれて。今俺は、内郭から外郭へと赴き、懐かしい図書室で本を借りてから、内郭に
戻って中庭の一つを借りて。そこで温かな陽射しを受けながら読書に興じていた。本当はクロイスを伴おうかと思ったけれど、部屋に戻っても居なかったし。それならばと、この場所を借りていたのだった。どうせ今内郭は
住む人がとても少なくなっていて、どこへ行っても空いている状態だし。本来ならばギルスの直系に近い者達が集う場ではあるけれど、それはカーナス台地の一件でほとんどが亡くなっていて、その後は次期族長候補の遠縁の
銀狼が使っていたけれど、それも結局はクラントゥースという跡取りが決まれば、再び立ち入りを禁止されてしまう。言ってしまえば、その程度の身分という訳であって。なので今のところこの内郭は、俺が自由に歩いて良い
場所がとても多い。それを言うと、俺は異世界人なのだから良くはないのではと思わないでもないけれど。実際にガルマにはその許しをもらえたので、馬車の長旅の疲れを俺は思う存分癒していた。この本面白い。
 本を読みながら、俺は気儘に鼻歌を。その内そのまま歌詞を口ずさんだりする。この世界の人にとっては、異世界の歌で。だから今までは、中々口ずさむ機会もなかったけれど。今はもう俺が異世界人だという事は広まって、
そうしてそれは受け入れられている事でもあるのだから、好きに歌う事もできる。もっとも他人の前ではあんまり歌いたくないから、こういった一人の時限定になるけれど。今も、本来なら俺には相応の護衛や使用人が
付いていても不思議ではないけれど、俺の使用人嫌いというか、一人になりたがる性分は既に使用人達には有名な様で。こうしていても、誰も俺の視界には入らない。館の一角。屋根が取り払われた人工的な緑の庭に、
敷物一つを伴って気儘に陽の光を浴びながら読書に耽る俺を、誰もが見咎めないで。俺は思う存分に読書欲を満たせる。とても、楽しい。他人から見たら、さぞや陰気なと思われてしまいそうだけれど。楽しい物は楽しいの
だから、仕方ない。
「こんな所に居たんだ」
 けれど、俺の上機嫌な一人ぼっちは、そんなに長くは続かなかった。本の内容が気になって、歌の調子も良くなってきた頃に、ふと声を掛けられて。顔を上げれば、いつの間にか豹の男が俺に近づいてくるところだった。本に
夢中で、すっかり周りを見るのを忘れてしまっていた。歌うのも止めて、俺はクロイスをじっと見つめる。自棄にゆっくりと歩くクロイスが、俺を見て微笑む。
「歌うの、止めないでよ。俺はゼオロの歌、すっげー好きなんだからさ」
「嫌だよ。恥ずかしいもん」
 何度目だろうかってやり取りをする。クロイスは、俺の歌が好きだと言う。俺が歌うところも好きで、そうして異世界の歌も好きで。この世界には存在しない物を指す言葉も歌には含まれているから、それを聞くのが純粋に
興味深いのだという学者肌の面もあれば、ちょっと恥ずかしそうに歌う俺を見つめるのも大分お気に入りなのだという。だから最近は二人で居ると、結構な頻度でせがんでくる。俺が渋ると、こんな所まで付き合ったの
だからって、断りにくい事も取り出しては交渉してきて。何がそんなに楽しいのかも、俺にはよくわからないけれど。確かにハルだった頃よりは、俺の声はずっと高くなって。だから歌いやすいし、楽しく歌ってられるけれど。でも、
とても上手いとか。そういう感じではないだろうにな。
「いいじゃん、ゼオロの歌が聞けるのって。それに俺の知らない良い歌を沢山知っててさ。俺は結構、気に入ってるんだぜ?」
 いつか、そんな事を言ってクロイスが笑っていたのはまだ憶えている。それから、続けて俺が歌っていた歌の一節を真似して歌ったりとか。あんまり上手くなかった事だけは憶えている。音痴って言ったら押し倒されそうに
なったのも。
「……どうしたの?」
 それはそれとして。クロイスは俺にある程度近づくと、そこで立ち止まる物だから、俺は首を傾げてしまう。いつもだったら飛びついてきかねない勢いでくっついてくるのに。ここ数日俺はガルマの世話ばかりで、あんまり
クロイスとの接触ができていないから余計だ。流石に夜になれば俺も自分の部屋へと帰って、クロイスと顔を合わせたりもするけれど。それ以外の俺はというと、もっぱらガルマの世話をしたり、ガルマと世間話をしたり、あとは
本を持ち込んでガルマの隣でのんびり読んでみたりしている。なんだかガルマと付き合っているみたいだ。別に、やらしい事は一切していないけれど。ガルマも以前の様にそういう関係を俺に求める様な事はしなくなったし、
もしされていたら俺は丁重にお断りして、お見舞いも済んだからとさっさとここを出ていったかも知れないな。
「ほら」
 俺が自分の考えに沈み込んでいると、クロイスが少し顔を横に向けて、そう言う。そうすると、少し経ってから。その豹の後ろから、小さな銀狼が。クランが出てきて。俺はちょっと、目を丸くする。
「珍しいね。二人で一緒なんて」
 というか、なんだか今は仲が良さそうに見える。クロイスはともかくとして、クランの方はクロイスの事を嫌っていても少しも不思議ではないから、今そんな風にくっついてるのは、とても珍しくて。現に今も、クランはクロイスの
背中に手を添えて服を引っ張りながら、苦笑いをするクロイスを見上げている。本来なら、俺の後ろに隠れたりしていてもおかしくないのに。一体いつの間に、そんなに親しくなったのだろうか。
「あ、あの。ゼオロ様」
「何?」
 クランが、ゆっくりとクロイスの後ろから出てくる。なんだか、昨日まで見ていたクランじゃないみたいだ。もっと昔の、俺が初めてここに来た頃の様なあどけない雰囲気を纏っていて。思わず俺は、さり気無く周囲を見渡して
しまう。こんなクランの様子を、あまり他の人には見せない方が良いのではないかと思って。今のところ俺に気を遣ってそういう人達は居ないみたいだけど。
「その。……ごめんなさい。酷い事ばかり言って」
「えっ」
 突然そんな事を言われて、俺はぽかんとしてしまう。それから思わずクロイスの方を見てしまって。そうすると、クロイスも困った様に笑っていて。
「少しさ、話をしてみたんだよ。クラントゥース殿……ああ、もういいや。他に人もいないし。クランと、話をね。次期族長であるし、ガルマ様の下には流石に俺は何度も足を運べないから。そうしたらさ、思っていたよりもクランは
フロッセルの時の事を、悔やんでたみたいでさ。それから、きっとゼオロは怒ってるって言うものだから。なんて事はなくて、根はやっぱり、まだまだ可愛い子供盛りって事だった訳」
「そう」
「……だからさ、許してあげなよ」
「別に、許すとか、どうとか。そんなつもりでもなかったけれど、私は」
 確かに俺は以前フロッセルで、クランに対して怒った事はあったけれど。クロイスとの付き合いについて、大分手酷い事を言う物だから。でもそれは、クランの立場を考えるとある程度は仕方が無いかなって思うし、とうの
クロイスとクランが今こうして仲良くしてくれるのならば、俺からは何も言う事なんて無いのだけど。クランはというと、その時の俺の怒り方をまだ気にしているのか。今はおどおどとしながら、俺の事を見ていて。思わず、
俺の方が溜め息を吐いてしまう。そんな俺の反応一つですら、益々怯えさせてしまうのだけど。なんだ、やっぱりクランは初めてあった時のクランのままだったんだなって思う。
「……クラン」
「はい」
「おいで」
 俺が閉じた本を膝の上に置くと、クランがゆっくりと。けれど、その内すぐに飛びつく様に俺へと飛び込んでくる。俺はそれを、どうにか受け止めて。それから何度も背中を撫でてやった。そうすると、クランはずっと我慢していた
のか、鼻を鳴らしながら泣きはじめて。本当は、ちょっとは何か言ってやろうかと思っていた俺の気持ちもどこかへと行ってしまう。確かにクランは、フロッセルで会った時随分な態度ではあったし、今それを思い返して、そうして
目の前のクランと照らし合わせると、随分虫がいいんですねぇなんて嫌味の一つでも言ってやりたいくらいだったけれど。でも、それも俺よりもまだ幼いクランがした事だと思うと、強く言う訳にもいかなくて。今のクランの状態を
見るだけで、随分無理に無理を重ねて、普段は必死に振る舞っているのがわかってしまうからなんだろうな。考えてみれば今のクランは、二十余年前の、族長となったばかりのガルマと同じなんだよな。寄る辺もなくて、
一人きりで。更にはガルマの様に真の銀を持っている訳ですらない。確かに遠縁であっても、次期族長として選び出されただけあって、綺麗な方だとは思うけれど。それでもガルマや、そして今その震える身体を抱き締めている
俺と比べれば、その差は一目瞭然だった。こうして寄り添っていれば、それは誰の目にも明らかで。俺とクランの被毛がそれぞれ触れ合えば、それは悲しいぐらいに絶対的な差となって表れているのだった。そんな日々の中で、
クランの後ろ盾といえば、病床に伏したガルマくらいの物で。それなのにそのガルマも、どうやら先は長くないのかも知れない。不安、なんだろうな。ガルマが居なくなった途端に、例えガルマが次期族長なのだと公式の発表を
済ませていようが、真の銀を持たない自分が、どれ程やっていけるのか。皆から、どの様に見られるのかが。
 だからこそ、俺に縋ろうとするのかも知れなかった。縋れば、縋る程に。俺の銀と、クランの銀が触れ合って。そうすれば余計に、自分は族長にふさわしくないのではないかと。そういう思いに囚われてしまう事も、わかっている
だろうに。それを思えば、どうしても俺は今クランに強く物を言う事もできなかったのだった。一層次期族長なんて止めて、ご両親の下へと戻ってはと言いたくなってしまうけれど。でもそれをされると、多分俺に族長の席が
回ってこないとも限らない。ちょっと、因果な物だなって思う。俺はクランの事を第一に考えたいところだけど、それがあるのでどうにかクランに族長として頑張ってほしいなと思ってしまうし。それに俺が族長になるのは、やっぱり
異世界人という関係から混乱の元になるだろうし。それはクランとて、変わらないだろうけれど。真の、そうして今となっては唯一の正統なギルスの血を引くガルマが居なくなった後、狼族を率いるのは遠縁の銀狼であるクラン
なのだから。一年と少ししかこの世界で生きていない俺にだって、狼族の銀狼崇拝の凄まじさは手に取る様にわかる。俺が今まで生きてきた短い時間の中でさえ、それは強烈な程に俺を助ける事もあれば、同時に道を
閉ざす事もあったのだから。俺とはまったく逆の理由で、今度はクランが自分の銀に悩まなければならないのだから。
 クランが落ち着くまで、俺はずっとその背中を撫で続ける。唐突だなって思ったけれど、良く考えたらここに来てから俺はガルマの部屋に行ってばかりで。碌々クランの相手をしていられなかったんだよな。俺が異世界人だって
伝えた時、やっぱりクランは気弱な子供なんだって、知っていたはずなのに。次期族長として振る舞っている時のクランは、多少滑稽に見えるくらいに尊大に振る舞おうとする節はあるけれど、それだって結局は、臆病なまま
震えていては、誰もその言動に頷いてはくれないからなのだろうし。
「落ち着いた?」
「……はい。ごめん、なさい。いきなり」
「いいんだよ。それに、私も。クランに構ってあげていなかったからね。ほら。私とクランがまだ族長候補で、他にも沢山銀狼の候補者が居た時は、こうしてよく触れ合っていたのにね。なんだか懐かしいな。あの頃が。あの頃は」
 あの頃は。俺の傍に、赤い被毛の狼族が居て。そう言いそうになって、俺は思わず口を噤んで。けれど、それが相手に悟られぬ様に笑みを浮かべる。多分、クロイスには今の僅かな間でさえ、何かあるなと思われてしまった
だろうけれど。こういう時クロイスが居るとやり難いなって思ってしまう。目が良すぎる。とはいえ俺とクランの会話の邪魔をせぬ様に、今は後ろで見てくれているけれど。
「あの、ゼオロ様。お願いがあるんです。僕」
「何? それから、こういう時はまた前みたいに呼んでくれてもいいよ。クロイスが居るけれど……まあクロイスなら、構わないし」
「お、お兄ちゃん」
「そうそう」
「お兄ちゃんの歌、聞きたい」
「えっ」
 二回目の驚きを受けて、俺はクランを抱き締めながら、クランには見えない位置でクロイスを睨みつける。とうのクロイスは両手を上げてから、にこにこと微笑んでいて。
「違う違う。俺じゃないし。ていうか、今まさに気持ち良く歌ってたの、誰だったかな?」
「そう、だけど」
 そうだけど。絶対お前クランに半分自慢みたいに言っただろって思ってしまう。そんな証拠はどこにもないからと、クロイスは相変わらず笑ったままだけど。
「駄目?」
 俺の腕の中に居るクランが、とてもとても残念そうにしているのが伝わってくる。耳が下がって、顔を寄せ合っている俺の頭に触れてくる。
「……仕方ないな。でも、他の人が来たら止めるからね」
 予め断ってから、一度クランを離すと。さっきまでの泣き顔はどこへ行ったのやら。クランの目尻に涙は浮かんでいたけれど、とても嬉しそうにして、尻尾まで振っていて。そこまでされると、俺もやっぱり駄目とも言い辛くて、
仕方なく思いついた歌でもぽつぽつ歌ってみる。なんだか照れ臭い。求められて歌うのって、いつまで経っても慣れない気がする。別にとびきり上手い訳じゃないのに、俺の歌を聞きたがるのって、おかしいと思うんだけど。
 でも俺が歌うのは、この世界の人にとっては異世界の歌なのだから、やっぱり興味がそそられたりするのかな。特にクランは、俺が異世界人だと知って、まだ日も浅い方なのだし。
 クランのアンコールに答えて、何曲か歌う内に、次第に声が聞こえてしまったのか使用人の姿が見えて。結局俺は、早々にそれを切り上げる事になる。クランはとても残念そうな顔をていたけれど、使用人が来たとあっては、
クランもまた次期族長の仮面を被って。それから俺に対する態度も改めなければならないから、結局その日はそれで終わって。俺は去ってゆくクランの、少し寂しそうな背をクロイスと一緒に見送ったのだった。

 ファウナックに来てから、数ヶ月が過ぎた。その間、特にめぼしい出来事は、あった様な、無かった様な。そんな感じだった。ガルマの世話をして、クロイスと話をして。クランとも、話をして。俺は適度に全員と話をしては、
少しずつ自分の中の考えを形にしていた。
 そして今俺は、内郭から外郭へと一人で。行きたかったのだけど、そういう訳にもいかなかったので使用人に案内を頼んで、更には断ったけれど数人の護衛を付けられて、仕方なくそれらに守られながら外郭に赴いていた。
 一応分けられているとはいえ、同じガルマの館の中を行き来するだけなのにこれって。過保護過ぎるのではと思ったけれど、にこにこしながら俺を導いてくれる狼族の顔を見ると、なんとも言い難い。そりゃ、俺が居る関係で
ガルマの少しでも体調が良くなっているのは事実なのだから、彼らからしてみればそんな俺がほんの少しくらい、ああしたいこうしたいと言ったところで、そんな物は叶えられて然るべきだと思っているのだろうけれど。
「ようこそおいでくださいました、ゼオロ様」
 案内された部屋に俺が足を踏み入れると。その部屋の主は、自分が部屋の主だというのにその場で跪いて俺を迎えてくれる。
「しばらく、二人にさせてください」
「畏まりました。外でお待ちしておりますので、御用の際はなんなりと」
 跪いている相手をそのままにして、俺はそれよりも先に使用人達を遠ざける。部屋の扉が閉められると、ようやく一息吐いて。
「相変わらずでございますね、ゼオロ様は」
「慣れていないんです。もう、諦めてください。ヴィグオル様」
「そのお言葉も、もう少しお楽にしてくださって構わないのですが」
「……ああ、そうだった。ごめんなさい、ヴィグオル。そう呼んでほしいって、言われたのに」
 俺がそこまで言うと、黒狼のヴィグオルは笑い声を上げてから立ち上がって。それから俺を部屋の中へと案内してくれる。部屋の中は、はっきりといって質素の一言に尽きる。外郭とはいえ、ガルマの館の一室なのだから、
少しは自分好みの物でも置けばいいのにと思うのだけど、ヴィグオルは私物の様な物はほとんど持ち込んではいない様だった。まあ、将軍なんだからファウナックのどこかに自分の家くらいは持っているのだろうけれど、
あるのはもっぱら備え付けの家具ばかりで、それを除けば軍の関係者よろしく、壁にいくつかの地図が。ファウナックの仔細な地図、ギルス領の仔細な地図、そして涙の跡地全体の地図と、暇があれば頭の中で兵の動かし方
でも考えているのかと言いたくなる様な物が見えるだけだった。
 俺を椅子に座らせると、非常にてきぱきと俺を持て成す茶だの、お茶請けだのをさっさと用意してくれる。将軍、なんだよなこの人は。なんでこんなに細々とした物までそつなくこなせるのやら。俺が使用人にあれこれと
されるのが嫌だと知ると、こういう事にまでまったく文句も言わず自らの手でしてくれる。
 その仕草が。その態度が。その言葉が。俺の中に居る、赤い狼を思い出させてくれる。けれどもう、今の俺は以前の様にそれを思い出してしまうから、ヴィグオルをあまり意識しない様にと振る舞う事は改められる様に
なった。カーナス台地でのハゼンの一件はやっぱり大きい。それに、確かにヴィグオルとハゼンは似ているけれど、よくよく見ていればやっぱり違う人だってよくわかる。上背は同じくらいであっても、ヴィグオルの方がもっと
身体が全体的に太く、がっしりとしているし。その人格に対してもそうだ。人付き合いの経験が浅い俺は、ハゼンと一緒にファウナックに居る間、ハゼンはいつだって完璧な従者をしていたと思っていたけれど。いざこうして
似た様なヴィグオルが接してくれるのと比較すると、大分ハゼンはその辺砕けていたというか。俺が砕けてきたから、それに合わせる様に割と遠慮会釈もない言動もあったけれど。ヴィグオルには、そういう所は一切見られ
なかったし。それに、その心の在り方もまた違っていた。銀狼と自身のふがいなさで弟を失ってしまったと、復讐の炎を己の心の底で飼い、最期はそれに焼き尽くされたハゼンと比べると。ヴィグオルだって、実の父親を
カーナスで失って。だから、スケアルガの事を心から憎んでいたって、少しも不思議ではないのに。ハゼンの様に、復讐に手を染める様な真似もしていなかった。それはある意味では、あんまりにも出来過ぎている様な気を
俺に起こさせてしまうけれど。ちょっとハゼン贔屓し過ぎているだろうか。
「どうしてヴィグオル様はそうして落ち着いて、スケアルガの方ともお話ができるのですか。カーナス台地の事が。お父上の事が、おありでしょうに」
 だから俺は、いつか一度だけそう訊いたのだった。ヴィグオルはその時も、柔らかな笑みを湛えていて。
「父の事はよろしいのです。元より戦場に赴いた身。理由がどうあれ、死は覚悟の上。私が気掛かりだったのは、父が死んだ事ではなく。死んだ父の魂もまた、あのカーナス台地に呪いとして縛り付けられていた事で
ありました。それだけが、心残りでございました。カーナス台地の呪いについては、私はよくよく調べましたので。本当は、私が赴いて。せめて父の魂だけでも慰めたいと思ったのですが。やはりただの狼族では、呪われた
彼の地に足を踏み入れる事叶わず。またその様な時間もございませんでしたから。ガルマ様は、父を失った私の事情をお知りになってくださって。勿論それだからと言って、贔屓をする様な方ではありませんが。初めて
将軍になった日には、ガルマ様は私に、こう仰られたのでございます。いつか、カーナス台地を解放したいと。そなたの父と同じく、我が兄の魂も、あの地に縛られているのだからと。しかし、こう申してはとても失礼ながら、
それが真に現実の物となる日が来るとは、私には思えませんでした。ガルマ様とて、お忙しい身であり。そうしてその身体もまた、余りの激務と、過剰な期待に苛まれており。到底、カーナスに向かう等とは。全ては、遠い
夢でしかありませんでした。しかし、ゼオロ様。あなた様が居てくださいました。あなた様が、彼の地を解放してくださった。父の魂を、安らがせてくださった。ただ、それだけでよろしいのです。私があなた様に、ガルマ様に対する
物と同じ程の忠誠を誓う理由は。ただ、それだけで。あなた様からすれば、それは或いは、迷惑であったり。多大な期待と映るのかも知れません。それでも。あなた様が成し遂げた物とは、私には、それ程重大な事でした」
 その時のヴィグオルの、まっすぐな瞳を。黒い狼の、黒い瞳が、僅かに潤んでいた事を。俺はまだ、忘れられずにいる。俺にとっては、事の重大さなんて深くはわからなかった物なのかも知れないけれど。俺はただ、カーナスの
高台で。狼族の、銀狼の、グンサの末路を知って。まっすぐに受け取って。涙を流したに過ぎないのだから。
「本日は、どの様なご用向きでございましょうか」
 お茶請けを齧りながら、テーブルを挟んだ向かい側の椅子に座ったヴィグオルが、静かに俺に訊ねてくれる。そうしている間も、その瞳は優しそうな光を絶やさなくて。本当にこの人が、いざとなったら剣を振り回して、将軍と
呼ばれるのにまったく不足の無い人物だなんていう事を、ともすれば忘れてしまいそうだった。とはいえ実際に兵に指示を出しているところも見ているので、今更疑う訳にもいかないけれど。
「色々、訊きたい事があって。……そういえば、ヴィグオルは将軍なのに、ここにずっと居ていいの」
「ええ、それは。今のところ結界が排除されて、ラヴーワは外界への調査に鼎の沸いた様な状態ではありますが。狼族はガルマ様の事がございますからね。無論、何もしていないという訳ではございませんが、そちらは私とは
また別の将軍があたっております故。私は今のところ手持無沙汰というと、よろしくはないのでしょうが。この様にゼオロ様がファウナックに訪れたからには、常にこの館と周辺をよくよく見張っては。あなた様と、それから
クロイス殿に危害が加えられる事の無い様にと、ガルマ様には、その様に申し付けられております故」
「なんだか、ごめんなさい。突然押しかけてきて、面倒ばかりで」
「いえ、その様な事は。それに、こうしてゼオロ様のお顔を拝見する事ができるのは、私にとっては無上の喜び。どうか、その様に遠慮などなさらずに。なんなりと、お申し付けください。もっとも私はこの様に、武将肌の、粗忽者
でありますれば。到底、ゼオロ様の様な風流にして典雅。まさに雲の上におわす方の仰られる事を理解するのも、また相談相手であったとしても、さぞ不足があり、ご不満もございましょうが」
「私は、そういう風に扱われるのは好きではないのだけど」
「これは、失礼を」
 武骨な身体を、精一杯に畳む様にして、ヴィグオルが静かに礼をする。これはこれで、ハゼンとはまた別の意味でやり難いなと思ってしまう。ちょっと距離が近づいても、しばらくしてからまた会うと元に戻ってるし。これでも
初めて出会った頃よりは、ずっと良くなってきた方だけど。初めての頃は、それこそ俺に触れる事すら、俺を汚してしまうのではと。呪いを解き放った俺の身体が、まるでまともな血と肉でできあがっているのではなくて、もっと
別の何であるかの様に扱われていた時期もあったので。そんな神様みたいに扱われても困るので、早々にそれは直してもらったけれど。
「率直に、訊いてもいいかな」
「なんなりと」
「クラントゥースの事を、どう思ってる?」
「どう、とは」
 柔らかく、ヴィグオルは受け止めたけれど。その笑みには微かな陰りが見えて、俺は僅かに目を細めた。クランにはできれは族長になってほしいと、俺は思っているけれど。そうなるとクランを応援する人は、どれだけ居るのか
という事が今度は気になってしまって。今のところ内部の事情に疎い俺でもわかっているのが、族長に任命するガルマは、まずクランの側に立ってはいるだろうという事くらいだった。それも、俺がその気になればクランでなくとも、
という考えが含まれているので、なんともなところだけど。そもそもクラン自身が、そういう節があるし。そういうクランの様子を見て、他の皆はどう思っているのかと。俺はそれが気になったのだった。例えば、目の前に居る
ヴィグオルは将軍であるし。年齢はまだ三十代くらいのはずだけど、現在の役職と、そして外郭とはいえガルマの館に入って、必要ならば内郭に足を運ぶ事も許されているのだから、決して地位が低い訳ではないはずだ。
 今後のクランの行く末というのは、こういう人物を如何に惹きつけられるか。それに掛かっていると思う。真の銀を持っているのならば、そんな物は過剰なくらいについてくるものだけど、遠縁の銀ともなれば、そういう訳にも
いかないだろうし。
「ヴィグオルは。私に、ガルマ様と同じ忠誠を誓うと。そう言ってくれるよね」
「ええ。二言はございません」
「では、クラントゥースには? 次期族長であると、既に決まっているクラントゥースには。あなたの剣は、捧げられるものなの」
「それは」
 僅かな間、ヴィグオルは瞼を閉じて。そうすると、瞳の光も何もかもが、黒の被毛の海に呑まれるから。そこに黒いシルエットが蠢いている様な気分になる。もっとも立派な毛並みだから、直接陽を浴びれば結構綺麗に
光沢が見えたりするのだけど。
「……身勝手を承知で、申し上げます。私は、あなた様ならば。ただ、そう思うだけであります。あなた様がそれを望んでおらぬ事すら重々承知の上で、この様に申し上げるのは、あなた様を徒に困らせる事であるのですが」
「クラントゥースには、忠誠は誓えぬ。と」
「少なくとも、現時点では。そう申し上げる他はありません。この場で嘘を吐き、あなた様を謀る事も、したくはありません故に」
 静かに、溜め息を吐く。まあ、わかっていたけれど。そもそも戦場に出た俺の下へとやってきた時から、ヴィグオルはクランの事は口にはしなかったし。ただ、ガルマと。そうして俺にだけ向ける忠義は、一層立派な程だと、
こんな時でなければ褒めてあげたいくらいだし、それはとても素晴らしい事なのだろうけれど。だからこそ信頼できるのだし。誰にでも良い顔をして、忠誠を誓うと言うのならば、そんな奴はまったく信用できないし。
「私が狼族の族長になるのは、問題が多い。何せ、異世界人なのだから」
「重々、承知しております。しかし差し出口を叩く様ではありますが。ゼオロ様は異世界人であるからと、その様に仰られますが。同様にクラントゥース様は、遠縁の銀には相違ない。どちらの要素も、狼族にとっては不安に思う
事柄ではあるのは確かでございましょう。ならば、お二方のそれを抜きにして考えればよろしい。その場合、やはり自ずと私の中で下される判断は、ゼオロ様なのでございます。何を言うにも、あなた様はカーナス台地を。父の
無念を、晴らしてくださったのでございますから」
 カーナス台地を解放する。その事を、俺は少し甘く見ていた様だった。それでどれだけ俺を族長にとの声が高まろうとも、そんな物は異世界人という事実を公表して、捻じ伏せてしまえばいいと思っていたし、事実そうした事で
クランも大人しく帰っていったのだし。元々次期族長にと決まっていたクランの地位は、より確固たる物になった、そう思っていたけれど。けれどヴィグオルの言い分も、わからない物ではなかった。要は、俺とクランの条件が、
きちんと対等になっているのかはわからないけれど。俺もクランも、正統なギルスの跡取りを名乗るのには足りない物があって。その上で、では俺達の行動で見比べてみようと。そうされると、俺はカーナス台地を解放したという
功績が、どうしても過剰に。いや、狼族にとっては、少しもそれは過剰ではないのだけど。とにかく、それが前に出てしまってしまう様だった。宴の席でも、俺が何かを言う毎にびっくりするくらいに皆は笑ってくれたし。あれは
正直ちょっと怖いのと、自分が面白い奴なんだって勘違いしてしまいそうで、なんとなく苦手な空気だった。目の前に居るヴィグオルはそういう様子を俺に見せる事はしなかったし、俺を必要以上におだてる事はなかったけれど、
だからこそその言葉は。仕草は。まっすぐに俺へ向いているのが、わかってしまう。嘘偽り無く、俺に忠誠を誓っている事が。
「難しいね。狼族って。それから、面倒臭い。こういうと、怒られそうだけど」
「いいえ。それに、申し訳なく思います。あなた様は、異世界人であらせられるのだから。本来ならば狼族のこの様な悶着を、種の抱えた宿痾の様なそれを、余りにも鬱陶しいと。その様に仰せられても、なんの不思議も
ないのでございますから」
 ああ、そう言ってくれるのって、狡いと思う。俺を見て、ガルマと同じ銀を持つと持て囃すだけではなく。俺の気苦労を察してくれるというのは。今更だけど、銀を崇拝するあまりに、俺が異世界人である事は承知していても、
それでも銀狼なんだからという様に言われてしまう事が多いので。そう言ってもらえるだけで、俺はこのヴィグオルの事を大分好きになってしまう。俺の銀に目が眩む人々は、そういう風には俺の事を見てはくれないし。
「如何されましたか」
「あ、うん……ごめん、なんでもない」
 でも、そうすればそうする程、なんとなくまたハゼンの影がちらついてきて。今はヴィグオルをそういう風に見る事は少なくなってきたけれど。ただ、俺はあの赤狼には。俺の正体を、明かさぬまま別れてしまったから。とはいえ、
カーナス台地で俺を助けてくれたのだから。もしその心が俺の傍にあったのなら、俺の正体も、あの時はわかってくれていたのかも知れないけれど。何を言うにも、あの時見た幻影か、蜃気楼か、実体かも定かではない姿は、
二度とは俺の前には現れてはくれなかった。そういう俺の考えが、顔に出ていたのだろうな。ヴィグオルはすぐにそれを目敏く取り上げては、俺を心配してくれるから。俺はまた、誤魔化すしかなくて。
「そんなに。私はハゼン殿と似ているのでしょうかね」
 だから、唐突にヴィグオルがその言葉を呟いた時。俺は目を見開いて、しばらく固まってしまう他なかった。
「……どうして、ハゼンの事を」
「失礼ながら、私はゼオロ様がこのファウナックに居られる間、不自由の無い様にとガルマ様には言い渡されております故。私はあなた様が、族長候補としてここに住んでおられた際の事は話に聞くだけでございましたが、
それだけでは足りぬと、ガルマ様にいくつかの事情については聞き及んでおります。お心を、乱す様な事を口にしました。申し訳ございません」
「別に、いいけど」
 心臓が、跳ね上がって。まだどきどきしている。唐突に、俺だけが知っている人だと思っていた事が、ヴィグオルの口から飛び出してきたものだから。
「ヴィグオルは、ハゼンの事をどれくらい知っているの」
「その、最期まで。ですが、それとは別に。実は私は、ハゼン殿とは面識がありまして。ガルマ様のお命を狙う、などとは。大変残念に思った物でございます。そう思ってしまうぐらいに、ハゼン殿の武術は秀でておりましたので」
「どこで、知り合ったの」
 気になって、俺はつい訊ねてしまう。それから、ハゼンの事を話せるというのが、なんとなく新鮮な気がして。そうする事で、俺の中で忘れかけていたその赤狼の姿が、少しずつ甦る様で。大切だって、今も思っている。けれど
もう、遠いところに行ってしまったから。そうなると月日が流れれば、どんどんと忘れてしまう。仕草や、口調を忘れる訳じゃない。ただ、どんな声だったかな、とか。真っ先に憶えたはずの事が、真っ先に出ていってしまって。それが
寂しく感じられたから。
「この館でございますよ。二、三年程前の事でしょうか。当時既に私は将軍で、その時は丁度このファウナックに居りましてね。そうなると当然、この館でガルマ様に拝謁する事もあります故、その折に兵の稽古をつける、
ハゼン殿の姿を拝見したのでございます。最初は、そのう。この様な場所に、赤狼の姿があるとは。とても驚いたのですが。しかしよくよく見れば、ハゼン殿は素晴らしい武術の腕をお持ちでございまして。私はつい、武者震い
という物をしてしまって、相手が赤狼であるとか、そもそも立場を考えればハゼン殿は私に対して全力を出す訳にもゆかぬという事すら忘れて、ハゼン殿に手合わせをしてほしいと。そう、言い出してしまったのでございます」
 将軍であるヴィグオルが認める程の、武術の才。確かにハゼンは、基本は格闘術を修めていたけれど。武器の扱いもお手の物で、大抵の物はなんの苦労もなく扱えると、そんな感じだった気がする。俺の前では、それを
披露する機会もなかったけれど。確かにハゼンは強かった。しかも魔法まで多少は扱えたし。今考えるとハゼンのそれは、血の滲む様な努力の賜物だったのだろうな。その努力の源が、全ては復讐心から来るものだった
というのが、今となっては物悲しいけれど。
「お互いに好きな得物を持ったり、或いは同じ物で競ったりと。とにかく私は夢中でハゼン殿に挑みました。ハゼン殿も、最初は私が突然に押しかけてきたので、少し困惑しておられましたが。やはり赤狼というのは、子供と老人を
除いて、男女問わず一流の戦士であるからして、次第に愉快そうに私と勝負をしてくださって。結局決着はつかずじまいだったのでございますが。いや、あれはとても良い試合でございました。私はその後、用がありすぐに
ファウナックを発ったのでございますが。ハゼン殿の訃報を。それが、ガルマ様のお命を狙った物だという事を聞いて。大変残念に思ったものでございます。またガルマ様からより詳しく話を聞けば。ゼオロ様は、ハゼン殿の事を
赤狼などとは気にする事もなく従者とされたと。最期のハゼン様は、ゼオロ様の事を」
「待って」
 俺は、つい口を出してしまう。懐かしむ様に語っていたヴィグオルが、はっとした表情をする。
「それ以上は、言わないで」
「申し訳ございません。あなた様のお気持ちも考えずに。……それで、ですね。ガルマ様がその様な話を私にしてくださった際に、お前達は。つまりは、私とハゼン殿は、似ている部分もあるかも知れないなと。その様に、
仰られた事がありまして。ですから、つい口が滑ってしまいました。重ねて、お詫び申し上げます」
「ううん。いいよ」
 それにヴィグオルの言う通りでもあったし。俺がヴィグオルを見た時にハゼンをなんとなく思い出してしまうのは、今に始まった事ではなかったから。
 しばらくの間、無言が過ぎて。けれどそこからまた俺とヴィグオルは、世間話の様な物を始める。そもそもクランに対する気持ちはどうなのかという話をしたはずだったのだけれど、ハゼンの話題が飛び出す物だから、つい
脱線してしまった。ただ、結局はクランに対する忠誠も中々に厳しい物がある様だった。こういう人物を味方にする事ができるのならば、それが一番心強いのは確かなのだろうけれど。しかもヴィグオルは、ハゼンが赤狼である
事について、一度はよくない思いを抱いたのかも知れないけれど。結局は武術を通じて意気投合したそうだし。実際、何度か飲みに行ったりはしていたらしい。そういう付き合いに行くハゼンって、全然想像できないな。俺と
一緒に来た時は、いつ如何なる時でも俺の傍に、というのが当たり前だったからだけど。
「随分、話し込んでしまいましたね。とても有意義な時間でごさいました」
 話は多岐に渡って、カーナス台地の中についても改めて詳しく話したりしていたから。いつの間にか随分時間が経ってしまって。そう言ったヴィグオルは、少し申し訳なさそうに、すっかり俺の時間を自分に使わせてしまったと
言っていて。俺は笑って首を振る。
「ううん。私も、ヴィグオルの事を知る事ができて、良かった。前は、本当に突然だったから。ヴィグオルの事を何も知らなくて」
「それは、よろしゅうございました」
「……ああ、そういえば。最後に、もう一つ、訊きたい事が。というよりは、お願いがあるのだけど」
「それは。もう、なんなりとお申し付けください。あなた様の願いを叶えられるのならば、これに勝る喜びはありません」
「ありがとう、ヴィグオル」
 礼を言ってから、俺はヴィグオルに話をする。それを聞く内に、ヴィグオルの顔が大分難色を示す物へと変わっていった。

 曇り空が広がっていた。それを俺の隣に居る豹男が、少し嫌そうな顔をして見上げる。
「一雨、来るのかな。凶兆みたいで、嫌な話だね」
 それに俺は答えずに、後ろでお見送りをしてくれた使用人達へと軽く頷いて。それから一歩踏み出す。クロイスが俺に歩幅を合わせて歩いてくれる。一歩の幅が、やっぱり違うなと思う。そう思いながら俺達は歩いて、
やがては立派な門と、そこを守る衛兵達の下へと辿り着いて。そこも俺が頷くと、衛兵は大仰な程の仕草で俺に一礼を示してから、門を開けてくれる。
 外へと、飛び出した。ガルマの館から、ファウナックの街中へと、だ。そうした瞬間に、周りからは明らかに俺達に興味を惹かれた様な視線が注がれる。街の中心に建てられているだけあって、外へと踏み出せば。すぐに
俺達の姿はファウナックの住民の目に晒される事になる。とはいえ流石にガルマの館の前で大騒ぎをする様な不届き者は居ないし、外にも衛兵は並んでいる。この辺りの住民は大分大人しく、今も俺と、そうしてクロイスが、
その父親を除けば、他の誰よりもともすれば場違いで、その上で注目されてしまう存在が居たけれど、それでも敵意を剥き出しにする様な事もしなかった。元よりガルマが宴を開いて、俺とクロイスを迎えてくれた事は、既に
充分に狼族には広がっている。この辺りは特に、ガルマの意向を尊重しようとする者が多いのだから、今のところその心配は無いだろう。
 もっとも俺達が向かうのは、例えファウナックに住んでいたとしても、ガルマの全てに賛同とはいかない者達が住む様な場所なんだけれど。
「本当に、良かったの。二人きりで出てきちゃって」
「別に、そんなに心配する事ないよ。それに本当に二人きりという訳じゃないし」
「そうだけど。でも、ガルマ……ガルマ様には、内緒にしてきたんでしょ?」
「体調が悪いから今日は休みますって言ってね。ガルマ様が引き篭もりで助かったよ。今は雑事もクランや他の人に任せているから、引き留められる事もないし」
 とうのクランからは大分引き留められてしまったけれど。ファウナックの外を、歩きたい。俺一人だけならまだしも、クロイスと一緒に。しかも供回りを盛大な物にはしないで、なんて。そんなクランも渋々と頷いたのは、俺達が
歩く度に物陰から見守る様に付いてくる狼族の部隊が居るからだった。ヴィグオルの指揮下にある狼族の兵。その中でも、腕の立つ者だけを選りすぐって、それが今俺達を遠巻きに、何かがあれば直ちに駆けつけられる様に
してくれている。俺がヴィグオルに頼んだのは、そういう事だった。またヴィグオルも多分どこかに居るはずだろう。ただヴィグオルに関しては、将軍であるからして。流石にそこそこに顔は知られているから、もう少しだけ周到に
潜んでいるのか。少なくとも俺とクロイスの目では、その存在を認める事はできなかった。
「外に行ってみない? ずっと館の中に居ても、退屈だし」
 この計画を進めるために、最初に吐き出した俺の言葉に、クロイスは難色を示したけれど。結局は頷いてくれる。
「目的が、あるんでしょ」
「そうだね。できれば、狼族の今の在り方をもう少しだけ、変えたいなって。もっとも私一人でそれが成し遂げられる訳じゃないけれど」
「クラントゥースの事が、気になるんだ」
「あんな姿見せられちゃうとね」
 ガルマと同じ様に、神経をすり減らしているかの様なクランの姿を見てしまうと。流石に俺も、何もしないでこのままだらだらと時を過ごす気にはならなかった。いずれにせよ、ずっとここに居られる訳ではないのだし。だったら、
クランのためにできる事をしてあげたい。俺自身が族長になるのが嫌で、だからクランに頑張ってほしくて。そのためだけに何かしてあげるというのは、あんまりにも自分勝手な物だと思うけれど。だからといって俺が族長に
なるのでは、結局は今回のガルマを中核とした、真の銀の問題をただ先延ばしにするだけだしな。その上で、結局俺はガルマとまったく同じギルスの血を継いでいる訳でもないし。
 だから、今はただ。俺とクロイスが街に出てみようと、そう思ったのだった。俺はファウナックの街並みも相変わらず見る機会に恵まれなかったし、クロイスはクロイスで初めて訪れる街どころか、ギルス領なのだから、見聞を
広めるのは良い事だし。その上で俺とクロイスが一緒に居る事を周りに見せつけるというのも、今後のためには大切な事だった。涙の跡地は、もはや結界を損なって。言ってしまえば、涙の跡地という名称そのものすら、本当
なら失ってしまったのだから。狭い区域に押し込められていた人々は、外を目指して。もしその先に、誰かが居るというのなら、その繋がりもあるだろう。そうでなくとも、お互いに争う理由を失った今、ランデュスとの関係も
あれば、そもそもラヴーワ内での他種族との付き合いもある。いずれにせよ今の狼族の在り方というのは、あまり褒められた物ではないし、また周りと比べて明らかに内に籠りすぎていて。時が経てば経つ程に、他種族と
比べて遅れが出てしまうのは明らかだった。ガルマが居る間は、まだいい。そのガルマが居なくなって、遠縁のクランだけが残った時。下手をすれば、狼族は内部から崩壊しかねないのではないか。その懸念を、どうしても
俺は捨てきれなかったのだった。
 だからといって、俺とクロイスが何かをしてそれが回避できる訳ではないのだけど。
「こうして私とクロイスが仲良くしていれば。ほんの少しくらい、狼族の考え方も変わらないかなって」
「俺が言うのもなんだけど、それは難しいんじゃないの。今まで散々、憎んできて……いや、それも違うか。使用人の子達と話をしていると、よくわかるよ。憎んでいるのとも、違う。憎めと、教えられてきたんだから」
 悲しい述懐に、俺は僅かに頷く。ガルマの館に勤めている者達は、当然ながらガルマ寄りであり、銀狼を崇拝しているし、スケアルガを敵視している。けれどそれは、何もその場に居る者の全てが、もはや手の施しようがない
程にスケアルガを憎んでいる訳ではない。それが顕著なのが使用人達だった。一口に使用人と言っても、長年ガルマに仕えている者から、ガルマの館に上がってまだ数年という者も居る。内郭の使用人の話だから、それでも
出自などはよくよく調べ上げられてるし、昨日今日使用人になった様な人は外郭の方へ配属されるからそれは置いておくとして。要は使用人であっても、まだ若い人が居て。それは下手をすればクロイスよりも年齢の低い者も
居て、だからクロイスと同じ、つまりはあのカーナスの惨劇の後に産まれた人達だった。俺とクロイスの部屋には、そういう若い使用人が宛がわれている事が多い。仕事の完璧さでいうのならば、もっと熟年の使用人が
回されたのかも知れないけれど、結局のところクロイスはスケアルガの者だし、俺だって異世界人であるからして。根っからガルマを崇拝する者には全てを受け入られる存在ではないから、そういう事になっていて。そして
そういう相手となると、クロイスは持ち前のコミュニケーション能力を発揮して、例え相手がスケアルガの家の者だと良くない感情も持っていて、それをひた隠しにして接する様な状態であろうと。あっという間に仲良くなって
しまうのだった。その関係で今俺に仕えている使用人達は、俺よりも寧ろクロイスを好いている様な節まである。無論親しみの籠った好意とはまったく別の、賞賛や感嘆の籠った眼差しは、相変わらず俺に惜しげも無く
降り注がれている訳だけど。
「何人かに謝られたわ。最初はスケアルガの方だと聞いて、怖いと思っていたけれど。そんな事はありませんでしたって。別に黙ってくれていても、良いのにね」
「若くて、それに館に勤めているからね。その分、素直なんだよ」
 言ってしまえば、それらは例え使用人であろうと厳選された者達であるからして、中々の箱入り娘状態なのである。だからこそ自分よりも年かさの者達が口にする、スケアルガの話をまっすぐに受け止め過ぎて。クロイスへ
どう接したら良いのかと、混乱してしまう事もあったみたいだけれど。
「そういう意味では、クロイスはもうやる事はやってるんだね。凄いな」
「別に、そこまでの事じゃないさ。それに俺は、自分の今居る環境はより良くしていきたいと思っているからね。例えそこが、俺の気紛れな恋人の手で、連れられた場所であって。俺一人なら、立ち入る事もしない様な場所でもね」
 あ、ちょっと棘がある。そう思って俺が見上げると、クロイスは言葉とは裏腹に、優しい微笑みを湛えて俺の視線を受け止めてくれる。これは計算ずくで悪態を吐かれたな。
 ファウナックの街中へと、どんどんと入ってゆく、背の高い建物は望楼の様な物以外に見当たらないし、建物の様子にしても派手な物はかなり少ない。ガルマの館の近くは特にそれが顕著だった。ガルマより目立つ事は
許されない。別に、禁止している訳ではないはずだけれど。石畳の上を通り過ぎる狼族の色合いも、地味な物が多かった。灰色に、茶色に。それらと白色が交ざった、一般的な狼を想像してすぐに浮かんでくる様な、そんな色。
 建物も、それらとはそんなに変わらぬ色合いで。色味の薄い世界に迷い込んでしまったかの様だった。だからといって活気が無いとか、そんな事はなかったし、見ていてつまらない訳ではなかったけれど。
 とにかく、どこを見ても。狼族。狼族。狼族の盛り合わせだった。昼間から愉快に酒を飲んでいる酔漢も、市場の帰りなのか籠に品を一杯に詰め込んだ女の人も、その後ろを一所懸命に付いてゆく子供も、街を巡回している
兵も。誰もかれもが、狼で。慣れている人なら、そんなのはいつもの光景なんだろうけれど。少なくとも俺とクロイスにとっては、それは新鮮な物で。そうして彼らからすると、俺とクロイスもまた、とても新鮮な物の様だった。俺は
狼族だけど、銀狼で。それも、ガルマに匹敵する銀だから。そんな灰色や茶色の狼族の中では、当然目立つし。俺は相変わらず着飾るのは好きではないから、真白な、それでいて上等な絹に黒くて細いベルトを締めるくらい
だったけれど。クロイスの方は真っ赤な薄手のコートを着ている。初めて俺に、告白してきた時みたいに。被毛があるし、そろそろ暑いんじゃないかなと思うけれど、それはクロイスには譲れないらしい。前は開けたままだし、
その内に着ている淡い色のシャツは、胸元まで開いているけれど。とにかくクロイスは、こんな時でも目立たない恰好をするつもりは無い様だった。
「目立った方がいいんでしょ?」
「そうだけど。私の方が地味に見えないかな」
「いや、それはない」
 クロイスの方が背が高いし、クロイスの方が目立つんだろうなと俺は思っていたけれど。歩く度に、視線が向けられるのは圧倒的に俺の方が多い様だった。クロイスの姿は、もはやその豹男が誰であるのかすら、ガルマが
俺達を歓迎したという話が広まって。しかもその隣に俺が居るのだから、大体の人はわかっていて。だから良い顔をしない人も、館から離れてきた今は多くなってきたけれど。それでもそんな人達も俺の方を見ると、その表情が
固まってくれる。
「ゼオロちゃん。ちょっと微笑んでみて」
 言われて、微笑んでから周りへ視線を送ると。明らかにざわめきが走る。なんていうか、怖いなって思う。この銀狼の身体。いや、そうなるだけの理由も、俺はよくよく弁えているつもりだけど。だからこそガルマの館に着いた
際には、クランが俺に阿る様子を見せても、誰もがそれは当然の事だという顔をしていた訳だけれど。でもやっぱり、今道を歩いて、次第に俺がここに居る事が知られてきたのか、周りの人達が丁重に道を空けて、距離を付けて
くれる様になった今。前後左右からまっすぐに向けられる視線というものは、そこに敵意など、少なくとも俺に対しては潜んでいなかったとしても。ちょっと、怖い物があった。ガルマはこれを平然な顔をして受けては、たった一人で
今まで狼族を率いてきたのだから。やっぱりあのふざけたガルマが全てではなくて、とても苦労をしたんだなって、よくわかる。この視線の一つ一つが、そこに期待を。自分達をより良い方向へ導いてくれるという確信に満ちた
思いを孕んだものであって。そうして一度過ちを起こせば、それは失望に染まって、最後には背けられてしまう事を思えば。やっぱり俺は狼族の族長なんていうのは、柄じゃないし、無理だなって思ってしまう。少なくとも今
歩く限りでは、俺が異世界人であるという事実ですら、俺の見た目だけで捻じ伏せられるくらいであるのは確かだけど。 
 道を歩いて。徐々に、ガルマの館から離れてゆく。そうすると、次第に道を歩く人達の様子も、変わってくる。とはいえここはガルマのお膝元である、ファウナックの中である事には変わりないから。そんなに剣呑な雰囲気を
持つ様な狼族は居ないし、もし居たとしても、それを俺に向ける事はありえないだろう。その傍にクロイスが居たとしても、俺が居る事を考慮するのならば。
 けれど、一つだけ。俺の銀が通用しないかも知れない相手も居る。
 道を進めば、それも次第に見えてくる。ガルマという強い陽の光から、逃れるかの様に。それらは館には近づかない事が多い。それもそのはずだろう。以前に起きた事件を鑑みれば、ガルマの館の近くを歩く様な真似は、
他の狼族からさぞ白い目でもって迎えられるのであろうから。そうするのが容易い程に、銀と同じ程に目立って。しかし向けられる感情は、まったく別の存在が。やがては俺と。それから恐らく、クロイスの瞳にも映ってくる。
 炎の様な、被毛。くすんだ色合いのならば、道中にも居たけれど。でも、それらとはまったく違う。まるで真の銀と、遠縁の銀狼の様に。その真っ赤な炎の被毛を持つ狼族は、今は遠目から俺の事を見ている様だった。
「大丈夫?」
 クロイスが、静かに声を掛けて。それから、肩を抱いてくれる。俺は静かに頷いた。
 赤狼。それが今、俺達のすぐ近くに来ている。人波は相変わらず俺達が進む度に、道を空けてくれるから。道を空けた人達の中に、鋭い目をして俺達を見つめてくる存在というのには、すぐに気づく事ができる。それ以外の
人達は、好意的に見てくれるから尚更だ。そして鋭い目を向けてくる赤狼の姿に気づいた何人かの狼族は、俺達から赤狼を遠ざけようともする。それも、無理からぬ事だった。俺とガルマが、狼族の若者の集まりへ参じた
際には、赤狼はそこを襲い、俺とガルマを亡き者にしようとしたのだから。あの時の事を知っている者は多いし、またあの時、あの場に居た者だってここには居るのかも知れない。赤狼は、俺に手を出したのだから。あの時の
勢いを赤狼達が今もまだ持っているのなら、確かにそれは危険だった。
「危険なら、すぐ戻るよ」
「大丈夫。それに、ヴィグオルも。多分すぐに出られる場所に居るはずだから」
 クロイスには、予めこの事は伝えてあった。そういう危険もあると。既にクロイスも、必要ならばなんの躊躇もなく魔法が使える体勢に入っている。皮肉な話だけど、今だけはクロイスよりも俺の方が、赤狼に対しては混乱の
元となっているのだった。勿論赤狼もカーナス台地の一件でスケアルガに対して良い感情は持っていないだろうけれど、ハゼンの事や、あの時の襲撃を考慮するのならば。銀狼にも、強かな怨恨を持っているのは疑いようも
なかった。
 狙われるのなら、俺の方。けれど、相手を注意深く見つめて。俺はその心配は必要ない事を悟る。明らかに俺を睨んでいた赤狼は、確かに数人そこに存在していた。赤狼は他の狼族からすれば良い顔はされないから、そう
やって固まっているのだろうけれど。その屯している場所に、新たな赤狼が不意にやってきて、何かを話しかけると。屯していた赤狼達は、俺を一瞥するだけでそのまま去っていったから。その場にただ一人残った赤狼を、
クロイスよりは少しは年が上だと思う男の赤狼を、俺がじっと見つめていると。相手も俺を、じっと見つめていて。けれど、さっきまでそこに居た奴らと違って、その目は決して剣呑な光を灯す事もしていなかったから。
「待ってください」
 それから、ゆっくりとその男が人込みの中へ。他の赤狼と同じ様に消えてゆこうとするのを見て。俺は思わず走り出して、呼び止めてしまう。明らかにざわめきが起こっていた。それもそうだろう。周りの狼族は、銀狼の俺が、
赤狼に狙われるのではないかと警戒し、心配してくれているのに。とうの俺が赤狼に向かって走り出して、しかも声まで掛けているのだから。一人残った赤狼の青年も、少し目を見開いては。被毛だけでなく、その赤い瞳
までもが印象的に煌めく。髪は、それ程長くはなかった。まあ赤狼だからといって、皆が皆、髪を伸ばしている訳ではないみたいだけど。あれは戦に出る赤狼の話だったし。
「ゼオロ」
 遅れて、クロイスが走ってきて俺の後ろに付く。その間に、俺はその赤狼の所まで辿り着いていて。それから、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……なんの話だ」
「他の赤狼の方達に、声を掛けてくださいました。押しかける様に、こんな所まで来たのは、私の方なのに」
「その自覚があるのなら、ガルマの館から離れるなよ。あんたみたいなのが、近くに来たら、俺達はどこにだって、居られやしないんだからよ」
「そういう、物なのでしょうか」
「そういうもんだよ。俺達と、あんたみたいな銀狼ではな」
 そう言われて、俺は少し俯く。優しい拒絶だった。今も、俺達を見守る狼族の民衆の目は、俺を案じて。そうして目の前の赤狼の青年を厭うかの様で。そこにクロイスが加わるのだから、確かに今の空気は、決して良い物では
なかった。ほんの少しくらい、何かができないかと思っていたけれど。ちょっと、性急過ぎただろうか。でも、あんまりにものんびりとしていては、いずれは俺もここには居られなくなってしまうから。
「あんた。あんたが、ゼオロなのか」
 俯いた俺に、赤狼の青年が改めて声を掛けてくる。見上げれば、今はじっと、俺を見つめていて。それから、静かにクロイスをも何度か見て。
「なら、あんたがクロイスか。ガルマが、盛大に歓迎したっていう」
「ええ、そうですよ」
「随分振り回されてるんだな、あんた。こんなちっちゃいのに」
「恋人の願いを叶えるのが、俺にできる唯一の事ですから」
「馬鹿だな、あんた。外でそんな事言ったら、他の奴に何されるかもわからんのに」
 ちょっと、呆れた様な溜め息を青年がする。だけど、さっきまでよりも幾分か和らいだその仕草に、俺もほっとする。それから、青年はまた俺を見て。
「なあ、あんたがハゼン様を殺したって、本当なのか?」
 唐突に、そしてまっすぐに吐き出されたその言葉に、俺は一瞬固まって。胸が、鷲掴みにされた様な感覚に陥る。その時になると、その青年は悲しそうな表情になって、目を細めていた。
「……ハゼンの事を、知っているのですか」
「当たり前だろ。他の奴らにとっての、ガルマみたいな……まあ、それはちょっと言い過ぎだが。ハゼン様だって、きちんとした家柄の出なんだから。それも赤狼であって、大層な武術の腕を持っていた。若い赤狼にとっては、
憧れている奴も多かったんだ。そのハゼン様は、死んじまって。なんでか、ガルマの館の中にある墓地に葬られちまった。でも、知ってる奴は知ってるんだ。ハゼン様は、あんたの従者で。あんたを庇って、傷を負っていたって。
その最期は、わからなかったけれど。でも、ガルマの館での葬儀は結構大きかった。賊が侵入したって話だったが、あれは……きっと、ハゼン様の事だったんだろう」
 静かな言葉が、続いてゆく。俺はそれを受け止めて。それから、あの時の事を。思い出したくなくて、けれど思い出さずにはいられなかった事を思い出す。そういえばハゼンの一件は、外にはどの様な形で知らされたの
だろうか。俺は、あの時。ただハゼンを失った悲しみに、途方に暮れて。毎日泣いては、結局耐えきれなくなってファウナックを後にしたから、そんな事すら思い至らなくて。ハゼンの一件を知っているガルマやクランは、きっと
俺を傷つけまいとして、一切その事には必要以上に触れる事はなかったけれど。でも、考えてみれば。こうして市井に暮らす赤狼や、他の狼族にとっては、あの一件は不可思議な事件だったのだろうな。突然、使用人や衛兵の
死者が出て。その中に、ハゼンも交じっていて。今、振り返れば。それも仕方がない気がするけれど。ハゼンは、ハゼン・マカカルであって。それからあの襲撃の際もそうだし、今目の前に居る赤狼もそうだけど、ハゼンもある
程度は敬われる立場であったのだから。そんなハゼンが、突然に死んで。それもガルマの館で葬儀を済ますなんていうのは、銀狼を敵視している赤狼にとっては、首を傾げる事だったのではないだろうか。ガルマは多分、
細かい所を詮索されて、これ以上銀狼と赤狼の関係が悪化したり、また街中での赤狼に対する目が冷たくならない様に、ある程度無理にそれを通したのだろうな。また仔細は教える事はできないけれど、狼族を束ねる銀狼の
ガルマが、赤狼のハゼンを丁重に弔う事で。ある程度赤狼に対する恰好をつけたのかも知れない。とはいえ突然にハゼンが死んでしまって、その理由を明かされぬままであるから。赤狼の態度が軟化したとは言えないだろう
けれど。赤狼にしたところで、直前にガルマと俺を襲撃したという事実があるから。その辺りはお相子という形になっているのかも知れなかった。ハゼンがガルマを殺害しようとした事は、少なくともそれを知る者は、かなり
限られている様だし。それから目の前の青年の様に、大体の正解を、予想とはいえ導き出されているから、結局赤狼の風当たりというのは、あの日のままなのだろうな。赤狼と手を結ぶために、ガルマが目を付けた、
ハゼンという存在だけが居なくなってしまったけれど。
「あんたが悪いって、言う奴が居るんだ。ハゼン様が、あんたの従者になったからって」
「……そう言われてしまえば、そうなのかも知れませんね」
 そう、責められてしまえば。俺は反論できない。俺がハゼンを従者にした事で、ハゼンがガルマに狙いを定めて、命を捨てる覚悟で。事実捨ててしまった事は、否定しようがない。でも、ハゼンは元々銀狼を狩っていたの
だから。つい、そう言いそうになって俺は慌てて口を噤む。この情報は、多分知っている者は、もっと限られているはずだ。それを漏らしてしまえば、赤狼の扱いはより悪くなる。少なくとも、こんな場で口にして良い話では
なかった。
「なあ、教えてくれよ。どうして、ハゼン様は死ななくちゃならなかったんだ。その事について、ガルマは何も言っちゃくれないんだ。あんたなら、知ってるんだろ」
 青年が、膝を突いて。俺の肩に触れる。まっすぐに俺を見つめながら、その瞳から涙が溢れては、頬を伝っていた。それを見て、俺の瞳からも勝手に涙が出てくる。けれど、それは俺からは言う事ができなかった。そもそも、
ハゼンがガルマを襲撃した事さえ、明言されてはいないのだから。勝手に俺がそれを吹聴する訳にはゆかなかったのだった。今俺達を見つめる、幾つもの瞳がある。俺は、赤狼を追い詰めたい訳ではなかった。赤狼を
守るためにも、目の前に居る赤狼に、真実を告げる訳にはゆかなかった。
「ハゼンは」
 口を開けて、そこまで言って。俺はまた、固まってしまう。どうして、死ななければならなかったのだろう。俺だってそう思う。その理由は、知っているのに。その訳を、知っているのに。ともすれば、ハゼンの振る舞い方は
あまりにも身勝手で、逆恨みに過ぎていたのに。関係の無い銀狼にまで手に掛けていたのに。それでも、そう思ってしまうのは。あんまりにも俺が、あの赤狼に、優しくされ過ぎてしまったからなのだろうか。最期まで、
俺には決して手を出す事はせずに。それどころか、弟を守れなかった自分すら憎んで。自分で自分を、あの赤狼が殺してしまったからなのだろうか。
 そんな事ばかりが、思い浮かんで。それから最後に。単純な事を、思ってしまう。ハゼンに、生きていてほしかったなって。俺のこの想いも、狼族からすれば、身勝手な物なのだろうけれど。
「もう、いい」
 俺が口を開けたまま、懸命に言葉を吐き出そうとしていると、青年の方から、首を振ってくる。
「あんたの……いや、違う。あなた様の様子を見て、馬鹿な俺にもわかる事があります。少なくとも、ゼオロ様。あなた様は、ハゼン様の事を、他の銀狼が赤狼を厭う様には思っておられなかったのですね。だから、ハゼン様も。
あなた様を身を挺して守ったんですね。赤狼に、あなた様が襲われた時。ハゼン様が自分の事を顧みずにあなた様の盾となったところを、俺は見ました。自分の目が、信じられませんでした。相手は、銀狼なのに。憎んでいる、
相手であるはずなのに。ハゼン様は、なんの躊躇いもなくあなた様の方を取って。あなた様を狙う赤狼を、手に掛けていた」
 裏切り者。
 震えながら、絞り出す様な青年のその声に、俺は取り押さえられた赤狼が、涙ながらにハゼンに口にしたその言葉を。それを聞いたハゼンの、悲鳴さえ上げそうな苦悶の表情を、思い出してしまう。今なら、あの辛さも
理解できる。似た様な事で、俺もクランに咎められた。そんなに辛かったのに、ハゼンは俺を守ってくれていたんだな。俺も、同じで。例えそう言われようとも、クロイスから離れる事はなかったけれど。
「ごめんなさい。どうしても、言えないんです。でも、ハゼンは。私には、とても大切な人でした。ずっと、私を守ってくれていました。私が……申し訳ないと、思ってしまうくらいに」
「そう、ですか……。最後に、一つだけ良いですか。知っていたらで、構いません。ハゼン様は……最期に、何か言ってはいなかったですか」
 口を開けて。でも、すぐには言えなくて。一度自分の涙を払ってから、俺はまっすぐに青年を見つめる。
「やっと、死ねる。そう、言っていました」
「……」
 青年が、瞑目して。静かに涙を流し続ける。その涙が、ただハゼンを思って。大切に、想っているからこそ出る涙だったから。俺の心も、少しだけ救われた様な気がした。裏切り者と、ハゼンを罵る赤狼が居たけれど、今俺の
目の前に居る人の様に、ハゼンの行動の全てに頷く事ができなくても、泣いてくれる赤狼も居るんだって事がわかったから。ハゼンに、それが伝えられれば良かったのにな。それを、伝えて。それから、やっぱりもっと早く、
俺が出会う事ができていたら。その手が、ただ赤い。赤狼の被毛の赤さだけを保っている内に、止める事ができたら良かったのになって。
 青年の手が、ゆっくりと離れてゆく。立ち上がって、涙を払って。
「ありがとうございました、ゼオロ様。ハゼン様の事が聞けて、良かった」
 一礼して、踵を返して赤狼の青年が去ってゆく。急ぎ足の男の瞳から、また涙が流れているのが見えた。思わず、俺が一歩を前に踏み出すと、俺の肩が掴まれて。
「そろそろ、帰ろうか」
 振り返ると、クロイスが俺を見下ろしていて。それからゆっくりと手を上げて、俺の頬の涙を拭ってくれる。
「クロイス。その……」
「いいよ。今は、何も言わなくて。戻ろう。皆、心配してくれているし」
 俺は、クロイスにハゼンの事を話していないから。それを口にした方が良いだろうかと思ったけれど、止められてしまって。そうして、促されて周りを見れば。周りの狼族が、とても心配そうに俺を見てくれていた。俺が赤狼に
接近した事も、その会話の間に互いに涙を流した事も、見ている人は多くて。彼らからしたら、銀狼の俺が、赤狼とそうして触れ合っているのには、納得がいかない事もあるのかも知れないけれど、それでも今は、俺を気遣う
様な顔を皆が見せてくれていた。
 来る時とは違って、クロイスが俺の手を取ってくれる。とぼとぼと歩きながら、俺は何度か振り返っては。人込みの中に、人目を引く赤色がどこにも見当たらない事を確認して。
 自分にできる事が、あまりに少ないという事実に、溜め息を吐いていた。

 ガルマの館に戻ると、程無くして俺を遠くから見守っていたヴィグオルが現れて。俺は初めて、ヴィグオルからの説教を受ける事になる。
「あなた様がどの様な方であらせられるのか、このヴィグオル重々承知しておりますが。だからといってあの様に赤狼に近づかれるのは、危険でございます。銀狼への襲撃を、お忘れなのでございますか」
「ヴィグオルが居るから、大丈夫かなって。それからクロイスも」
「大丈夫ではありません。ゼオロ様。確かにゼオロ様の成さりたい事は、理解はできますが。しかし、何を言うにも、急過ぎます。どうか、もう少しだけ慎重に。そして御身が如何に大切な物であるのかを、ご理解くださいませ」
「ごめんなさい、ヴィグオル」
 とはいえ俺が素直に謝ると、それ以上ヴィグオルは何かを言う事もなかった。というよりヴィグオルからそれ以上俺に何かを言う必要は無かったのだろう。事実、次の日になると。俺は早速ガルマからの呼び出しを食らって
しまったのだから。最近は俺の方からガルマの下へ足を運んでは、その世話をしていたし、昨日に限っては体調が悪いからと仮病まで使ってしまったけれど。そこまでしてやった事が、外に出て。それだけならまだしも、赤狼に
接近したとあっては。流石に俺も、こうなる事は予想できていた。ヴィグオルも俺に忠誠を誓うとはいえ、それはガルマにも変わらぬのだから。俺の行動を、まったくガルマに伝えぬという訳にもいかないだろうし。
「赤狼に会いに行ったというのは、真なのか」
 部屋に入ると、珍しく起き上がったまま。とはいえベッドに座って、鋭い目で俺をねめつけるガルマが居た。俺はそれ程の間を置かずに頷く。
「はい。仰る通りでございます」
「その様な勝手な真似を、して良いと。私は言った憶えはないが」
「してはならぬ、と言われた憶えもありませんね」
「小賢しいな。……まるで、初めてお前に会った時の様だ。私にあの様な口の利き方をする者は、珍しかった」
「お怒りでございますか」
「そう見えぬのならば、お前に両の目は必要ではないな」
 これは、割と怒っているな。とはいえ実際には俺はハゼンの一件についてもほとんどは黙していたから、そんなに大事になった訳ではないのだけど。ただ銀狼の俺が、赤狼にその様に近づくのはと、そういう話なのかも
知れない。それも俺は本当は異世界人なのだから、大目に見てほしいけれど。
 小言を受けながら、俺はそうしているガルマの事を、つぶさに見つめる。服の間から覗くその身体は、被毛があってもやはり痩せて、肉が落ちて。細くなっていた。かつての姿を知っている人からすれば、痛々しいと
思える程だった。だからガルマがお怒りだと俺に呼び出しがかかった時も、使用人達はガルマの怒りを恐れながらも、どうかガルマを宥めてほしいとまで言ってきたけれど。結局俺以外にガルマが傍に寄る事を良しとは
していない様だから。それはクランでさえ、ある意味では変わらない。勿論クランは他の者よりはずっとガルマに近いだろうし、決して不和という訳ではないだろうけれど。クランはクランで、次期族長として今の時期は
あらゆる物事を学ぶのに忙しく。今の俺の様にガルマの下を頻々と訪れて、口を利く様な事も、また世話をする様な事もなかったから。
「……ガルマ様」
 遮る様に、俺は口を開く。本来ならそれだけで怒りを買って、鞭を食らっても不思議ではないけれど。ガルマは、それで言葉を止めて。俺を見つめる。
「私は、ガルマ様の事は好きです。あなた様が、どれだけ頑張ってきたのかを、私は話で聞く事しかできませんが。けれどあなた様が今まで懸命に狼族を率いてきた事を、知っています」
「だから、なんだというのだ」
「カーナスの地が解放されて。そして、ギルスの直系も絶えるというのなら。真の銀から、狼族を解放したいとあなた様が真に望むのであるのならば。これからは、こういう事が必要なのではないでしょうか?」
 ガルマが俺を見つめる。俺も、目をそらさずに。珍しく今日のガルマの部屋は、外の明かりがふんだんに取り入れられていて。その光が俺達を照らすと、俺の言葉がそのまま俺達の姿に重なるかの様だった。俺の身体は、
光を受けて眩く光って。ガルマもそれは、変わらないけれど。それでもガルマの銀は、今は寧ろ透き通る白に近く。ガルマに匹敵する、銀。そう、よく俺は言われた物だけど。もはや俺の銀と、ガルマの銀は、別の物と見て
差し支えない程になっていた。ガルマも、それを察したのだろうか。ふと、己の腕に。白く煌めく腕を見下ろしてから、また俺を見る事を何度か繰り返して。その内に小さな溜め息を吐いていた。
「ギルスの血が、途絶えるか……。口惜しい事だ。脈々と受け継がれるべき物が、途絶える。そういう事もあるだろう。それは、わかっているつもりだ。しかしそれを途絶えさせるのが、まさか己である、などとは。私は、
己が子を作れぬ身体と知るまで、一度たりとも考えた事はなかった」
 それから、不意にガルマが咳き込む。何度か咳き込んで。そうすると、白い掌に、僅かに赤い物が交ざって。俺は慌てて、その身体を支えて。その手を近くにあった布でなるたけ綺麗に拭きとると、ゆっくりとベッドの上へと
寝かせる。
「眩しい」
 そう言われて、急いで部屋を暗くする。明かり取りの窓を全て閉めて、そうすると部屋は一度真っ暗になって。僅かな間を置いて、仄かな明かりが灯される。ガルマの炎。その光も、いつもより弱い物だった。
「ゼオロ」
 呼ばれて。俺は、ガルマの下へと戻る。ガルマが横になっているベッドの、枕元に腰を掛けて。そうすると這う様に身体を動かした、老いた銀狼が俺の膝の上に手を乗せて。俺はゆっくりとそれを受け入れると。ガルマが、
膝の上に頭を乗せて、せいせいと何度か呼吸を繰り返す。
「老いたな。いや、そんな事は、わかっていたつもりだったのだが。今、お前に言われて。まるで、頭を殴られた様な気がした。そうだったな。私は、もう老いて。そうして、もう死ぬる時でもあるのだったな。すまないな。そんな
私が、お前にとやかく言うても、仕方がないというのに。私が生きている間の残り少ない時間を、お前はただ我慢して。私が死んだら、さっさと出ていってしまうだけであるのだから。だったら、せめて生きている間ぐらい、お前を
傍に置いて、少しでも心安らかに生きたいと。そして、それから逝きたいと。そう思っていたはずなのに。やはり、老いたのだ。お前がした事を知って、頭に血が昇ってしまった」
「ガルマ様は、まだ死にませんよ」
「それでも、いずれは死ぬ。お願いだ。独りには、させないでくれ」
 薄暗い世界に、ガルマの苦し気な呼吸の音が響く。俺は、目を細めて。その大きな狼の頭を、何度も撫でた。薄暗くなれば、俺の銀も、ガルマの銀も、それ程の違いはない。
「お前のした事を、許そう。元より私には、そんな権利すら無かったが。お前は、私の部下でも、なんでもなかったな。ただ、お前がここに居るのは、お前の善意。ただ、それだけであったというのに」
「私が異世界人であっても、受け入れてくださった。それに報いたいと、そう思うだけです。それに私だって少しは、狼族の事を考えてはいるのですよ。とうの狼族や、あなた様からしたら。迷惑な方向に、かも知れませんが」
「いいや。正しいさ、お前は。どの道、いずれクラントゥースが族長になれば。今までのやり方など、何一つ通じはせぬのだから。そう考えると、不憫な物だ。ゼオロ。お前は本当に族長には、なりたくないと申すのか」
「思いませんよ。何度も、申し上げておりますが。それは混乱の元でしかありません。だから、そうですね」
 ガルマの頭を、優しく撫でる。大きな犬が、そこに寝転がっている様で。それは、俺に。ハルだった頃、リヨクを撫でていた日々を思い起こさせる様だった。そのリヨクも、カハルとなったリヨクも。今はフロッセルの、ジョウスの
館で眠っているけれど。本当に、遠くまで来てしまったな。遠くまできて。色んな人が、俺よりも先に居なくなってしまって。最初に居なくなったのは、俺の方だったはずなのに。
「私が、ここに居るのは。いえ、居られるのは。あなた様が、生きている間だけなのでしょうね」
 そうして、ガルマも。その内に。そう、思えば。俺はどうしてもファウナックを今すぐに発つという事はできなかったし、また狼族の問題を悠長に構えて対処をする訳にもいかなかったのだった。その日が、今日ではないとは
思うけれど、明日来ないとも限らなかったから。明日が来なくても、その次が。そんな日々の中で、腰を据えて何かができるはずがなかった。またそれを確信できる程に、俺に身体を預けるガルマが弱っているのを、身近に
居る俺はよく知っていたから。
「そうだな。私が、居なくなったら。その時は、お前は外へ行きなさい。元よりお前は異世界人なのだから。ギルスの血を引いて、兄に何かがあれば族長にと未来を決められて。そうしてその通りになってしまった私とは、
違うのだから。私も、お前の人生を縛るのは心苦しい。異世界人として、お前はきっと苦労していたのだろうし。それはあのクロイスを見れば、わかる。さぞ、色々な事を言われたのであろうな」
「そうですね」
 怒りの感情も、ガルマは既に失っていた様だった。感情すら、長続きはしないのかも知れない。何かに思いを震わせても、気力の衰えが、それが続く事を良しとはしないのかも知れなかった。
「ああ、だが……。今だけは、どうか傍に居ておくれ。こんな、哀れな私の事を、少しぐらいは、好いてくれていると。その口で言うのなら」
「傍に、居ります。異世界人の私で、よろしければ」
「……不思議だな。お前は、異世界人なのだろう。ギルスの血を、引かぬのだろう。なのに、この銀は。何故だろうか、懐かしい。そうだ、懐かしいと、私は今思う。初めてお前を見た時は、驚いた物だ。それからこんな銀を
持っていては、族長にふさわしいのではあろうが、同時に私と同じ様な道を歩むのではないかと。もっとも遠縁の銀狼とて、やはり苦労するには変わりないが。だが、何故なのだろうな。あの時お前を見て、私はお前を、
守りたいと思っていた。私は、銀を束ねる長なのだから。真の銀を持つ、ガルマ・ギルスなのだから。だが、今は少し違う。お前の銀に、縋りたいと思ってしまう。慕わしいと思ってしまう。私は、狼族の族長であるというのに。私の
銀こそが。その思いがあって、当然であるのに。頭を垂れるのならば、私ではなく、お前だろうに。それなのに、今の私は。お前の銀に、とても懐かしい物を感じては。お前を、頂いていたいと。そう思っている、感じているのだ」
「お疲れなのでしょう。眠るまで、お傍に居ますから」
「眠りたくは、ないな。眠りたくは。目を醒ました時に、お前が居らぬと思うのも。もう、目を醒まさぬのではないかと思うのも。とても、辛い。とても」
「……おやすみなさい、ガルマ様」
 ガルマの腕を取って、その甲に、静かに口付けて。またガルマの頭を何度も撫でていると。その内に、ガルマは寝息を立てる。少し、苦しそうで。でも、幸せそうに眠っていて。
 眠ったガルマの頭を、慎重に動かしてベッドに戻すと。しばらくその様子を観察してから、俺は部屋の外へと出る。使用人と、それからクロイスとクランが、心配そうに俺を見ていた。俺は静かに持っていた布を、ガルマの
手を拭った物を差し出す。使用人達が、表情を曇らせた。
「とりあえずは、落ち着きました。申し訳ございません。私のした事で、ガルマ様を怒らせてしまって。それも悪かったのでしょう」
「とんでもない。元より、体調は芳しくなかったのです。ゼオロ様が来てくださった事で、これでも大分持ち直したくらいなのですから」
 クランと軽く会話を済ませて、それからクロイスと揃って俺は自室へと引き上げる。自室に入ると、大きく息を吐いた。
「ガルマ様の容体は、やっぱり良くないの」
「うん。毎日、少しずつ悪くなってゆくみたい。本人は、懸命に努力しているのだけど」
「そうか……。なんだか、残念だな。こんな風に、俺の事も受け入れてくれた人なのに」
「そうだね。……ごめん、クロイス。ちょっと、外に出てきていいかな。別に、街には出ないから」
 クロイスは、少し考える仕草をしたけれど。それ程の間を置かずに頷いてくれる。俺は礼を言ってから、部屋の外に出て。そのまま最低限の人数を連れて、外郭へ移動して、庭に出ると。そこで供回りを置いて、一人で
墓地へと向かう。まっすぐに、向かって。見慣れた墓の前で、立ち止まっては、そのままその場に座り込んだ。ハゼンが眠っているお墓。ファウナックへ戻ってきてから、俺は割とここに来ている。一人で物を考えるのにも、丁度
良いし。クロイスには、用事があるからと言っているけれど。まあクロイスなら、大体の事は察してくれているのだろうな。俺が暗い顔をするだけで、話したがらないから、何も言わずに黙ってくれているだけであって。
 いつもの様に、墓を軽く掃除して。それから名前も知らない、その辺にある花を少し拝借して、飾ってゆく。周囲にある、きちんとした花が添えられた墓と比べれば、それはあまりにもみすぼらしくて。けれど、俺以外には花を
手向ける奴も居ないから、仕方がない。クランも最近ではその余裕は無くなっている様だし。いよいよガルマの後継者として、周囲からの期待を一身に受け止めなければならない今のクランにとって、ハゼンの、赤狼の墓に
何かをする事は、良い顔をされないのだから。そういう意味では以前クランがこの墓に花を供えてくれたのも、中々に危険な行為だったのだろうな。危険な行為といえば、まさに今の俺もそうなのだけど。あの日、ガルマを
殺すために、使用人と衛兵にハゼンは手を掛けてしまった。ガルマの館には、それらの親類や友人関係にあたる使用人も居るだろう。そういう使用人からすれば、俺が今こうしてハゼンの墓の前に居るのは、決して気持ちの
良い事ではないだろう。その関係か、俺付きの使用人はその辺りもよくよく考慮した上での人選をされたみたいだけど。
 墓を見つめながら、俺は静かに考えを巡らせる。あと、どれだけここに居られるのだろうか。そう思いながら、その考えの下では。今土の中で眠っている相手の事を、ちょっと狡いなって、そう思ったりもしている。さっさと
死んでしまうのは、狡いなって。俺が言えた事ではないのは、わかっているけれど。
 少なくとも、ハゼンの歩む道が、違った物になっていたのならば。今の俺にとっては、そのハゼンの存在と力は、とても頼りになる物でもあったから。

 夏の暑さが、過ぎ去って、秋が来て。そこからまた、少し時が過ぎて。寒さが僅かに気になる頃。俺は相も変わらずに、ガルマの部屋を訪っては、その世話を甲斐甲斐しくしていた。身体の衰えを、俺にだけは素直にガルマは
見せる物だから、その世話をするのも随分板に付いてしまって。そうしながら、ガルマが起きていられる時は話をして。ガルマは異世界人としての俺の話を、よく聞きたがった。俺の姿を見れば見る程に、俺はギルスの血を引く
銀狼である様にしか見えないから。そんな俺の口から、自分の知らぬ世界の話が出てくるという落差が、なんとなくお気に召した様だった。
「そういえば、お前の歌はとても良いのだと。この間クロイスから、大層自慢されてしまってな。一つ、歌ってはくれないか」
 その内、そんな事を言い出す物だから。俺はあとでクロイスを殴っておこうと心に決める。クランの時は、知らない顔してた癖に、やっぱりあいつが犯人だった。
 仕方なく、ガルマが眠る時に、静かな歌を聞かせる事で、どうにか勘弁してもらう。完全に子守歌だなこれは。
 そんな日々が。その後部屋に戻ってとりあえずクロイスに一方的なでこぴんを連打したりする様な日々が続いた頃に。俺は、ガルマの館を訪うという人物の話を聞く事になる。
「リスワール様が、いらっしゃるのですか」
 使用人から、いつぞやの時の様に俺はリスワールの来訪を聞く。兎族の族長であるリスワール・ディーカンは、ガルマとは友と呼び合う仲だから。ここ最近のガルマの体調を聞いて、見舞いと。それから狼族の様子を見るという
名目もあって、数日以内にはファウナックへ到着するという。それを聞いて、俺は予定よりも一足先にリスワールに会えるなと思う。本当ならこのファウナックを出た際に、ギルス領の西がディーカン領なのだから、リスワールの
都合が付けば、異世界人である俺を認める声明を出してくれた事に対する礼を言いに、会えなくても手紙か何かを渡しておこうかと思っていたのだった。その手間が省けた形になる。もっとも、ガルマの見舞いのために来るの
だから、俺と話をする時間があるのかはわからないけれど。
 涙の跡地を覆う結界が無くなって、外への道が開かれた今。商人の血が熱く流れる兎族にとって、その先に意思疎通のできる誰かしらが居るのならば。それがお金になる話なのは今更説明するまでもない。そう考えれば、
リスワールは外界への調査には大層乗り気だろうし、まだ今のところは外界への調査が第一とは言っても、そもそもそれだって色々と費用の掛かる事だし。更に西の猫族領から外へ出るのだから、当然その支援をして、
それが上手く行けば、その先に居る相手との商談をも見据えて、様々な準備しているだろう。つまりは、ひっくり返るくらいに忙しいはずなのに。それでもガルマの容体を聞いて駆けつけているんだな、リスワールは。
「マジ? リスワール様? 会えるの?」
 そんな話をクロイスにすると。クロイスが目を輝かせるものだから、俺はおや、と思ってしまう。異世界人の事実を公表した際に、俺とリスワールが知り合いである事は知っていたはずだけど。その時とは大分受け止め方が違う。
「会いたいの?」
「当たり前じゃん! どんな種族とでも、兎族だけは付き合いがある。そう言われるくらいなんだぜ、兎族って。その族長であらせられるリスワール様! うわぁ、すっげぇなぁ。会いたいなぁ」
「多分、私は会うと思うから、同席させられると思うけれど」
「ぜひお願いします」
 クロイスが、全力で頭を下げてくる。なんか、意外だな。そんなにリスワールの事を好いているなんて。
「好いているっていうか。なんていうか。俺の夢と、重なる人だからさ。まあ商人だから、全部が全部、重なる訳ではないけれど」
 後半の部分は、ちょっと複雑そうな顔をしてクロイスが言う。死の商人とか、そういう話だろうか。商売気質という事は、そういう事でもあるのだろうけれど。それでも兎族がどんな種族とでも仲良くなろうとするのは、俺も
よく知っている。つっけんどんで気位の高い狼族ですら、兎族とは付き合いがあるくらいだし、このギルス領の中は狼族ばかりだけど、唯一の例外として兎族の姿を認める事もできるのだから。もっともその中心であるここ、
ファウナックともなると、流石に兎族の姿も中々見掛ける事はないけれど。それでも市場に行けば、多分見られるはずだった。
「でもさ、リスワール様……ていうか、兎族は狼族とも親しいじゃん? その関係でさ、どうしても親父とは結構角が立つ間柄なのよ、リスワール様って。だから俺は遠目から見た事はあるんだけど、お話をするなんて事は
できなくてさ。リスワール様が居るから、狼族にもある程度話がつけられる部分はあるけれど。リスワール様とガルマ様は仲が良いからね」
 確かに。俺がリスワールと出会ったのだって、そもそもリスワールが狼族の独立をという流れになったのを危惧して、このファウナックまで態々足を踏み入れたからだし。なんだかあの時の出来事がとても遠く感じる。その後で、
あんな事になって、俺はファウナックを出てしまったのだし。ガルマと話をしているリスワールは、確かにガルマとは長年の付き合いがあるのだという事を匂わせていたし。
「ジョウス様とリスワール様って、そんなに仲が悪いの?」
「いや、悪いって訳じゃないんだろうけどさぁ。でも、やっぱり。カーナス台地の件では、リスワール様はガルマ様の事を考えると、どうしてもって部分はあると思うんだよね。……俺と口、利いてくれるかな」
「リスワール様なら、大丈夫だと思うけれど」
 少なくとも俺から見たリスワールは、見た目は可愛い黒兎で、けれどその中身は冷静で、聡明で。だけど熱い物も確かに持っている。そんな人だった。でもちょっと狡い部分もあって。そんな様々な物を、可愛い兎族の
姿の中に隠してしまう事もある様な感じの。あれ、割と油断がならないなそう考えると。でも少なくともクロイスを見て、ジョウスの息子だと言い毛嫌いする様な人物ではない事は、断言できる。
「会えたら良いね。今は忙しいだろうから、どれくらいここに残るのかもわからないけど」
「そう言われればそうだね。外界の事には、リスワール様は。というより兎族は絶対に一枚どころか、もっと噛んでいるはずだから。多分今めっちゃ忙しいよな。まあ戦争の様な国の危機も去ったんだから、まだ気楽かな」
 そんなやり取りを、クロイスとして。その数日後。先触れの通りに、リスワールはファウナックへ現れていた。とはいえリスワールが第一に会うのはガルマであるからして、俺とクロイスは内郭の部屋で引き篭もる事を余儀なく
されて。俺は久しぶりにガルマの下へ行く必要も無かったので、存分にだらけて、寝て、起きて。寝て。それを繰り返していたら、クロイスに飛びかかられたりしたので、撃退して。やっぱり寝ていた訳だけど。俺が全力で
寝ているので、同じく不貞寝を俺の横でしようとしていたクロイスが、ふと客の訪いを告げる声を受けて。それで結局俺は起こされて、大慌てで支度をする破目になる。
「ゼオロ。お前、どこに行ったのかと思っていたが。まさかまた、ここで会う事になるとはな」
 俺が寝ている間に、リスワールはあっという間にガルマとの面会を済ませてしまった様で。随分軽い調子で俺の部屋を訪ねてきてくれていた。多分ガルマから聞いたのだろうな。今俺が、ここに居る事を。俺は居住まいを
正して、一礼をして。
「申し訳ございません。リスワール様の方から、足を運ばせるなど」
「構わん。それに鉢合わせぬ様に気を遣ってもらったのだから。私がこうして足を運ぶか、使いを出すかせねば、お前に会う事もできないではないか? ならば、余計な時間は省きたいという物だ。話をしても、良いだろうか」
「ええ。ですが……先客が居ります。よろしければ、リスワール様ともお引き合わせしたく」
「そういえば、ガルマがそんな事を言っていたな。私が驚く様な客が居るから、見ていけと。それも、ここなのか」
 リスワールは特に物怖じする事もなく、俺の案内を受けて部屋へと入る。応接間で一度待たせている間に俺は自室へ一度引いて、改めて身支度を済ませると、こちらは既にリスワールが来るというのである程度の準備は
済ませていたクロイスを伴って、リスワールの下へと戻る。リスワールはクロイスを見て僅かな間目を丸くしていたけれど、すぐに笑みを浮かべていた。
「なるほど。クロイス殿が、来ていたのか。確かに、驚いたな」
「口で言う程、驚いている様には見えませんが」
「……まあ。お前がジョウス殿の下に居るというのは、お前の異世界人についての発表の際に知っていたからな。ならば、当然クロイス殿とも知り合ってはいるだろうと。そう、それだな。クロイス殿も、気になりはするのだが。
ゼオロ、お前、本当に異世界人なのか。お前が族長にはなりたくないと言っていた意味は、それで私も納得できるが。まさか、そんな事があるのだな」
 そう言われて、俺はお茶の用意を済ませてから改めて自分の足跡をリスワールに語る。元々リスワールとは一度目のファウナックの時の、短い間の付き合いしかなかったのだから。リスワールからすれば、俺のその後の
行動というのは、大分奇妙に思えただろう。
「あの後……あの、赤狼の件だが。それは、私は聞いたよ。ガルマと狼族の様子を見に、その後も何度か足を運んだからな。しかしお前は、その時には既にファウナックを発ったといい。そうして、お前を守っていたあの赤狼は、
既に亡き者となっていた。お前がどこに居るのか、私は気になっていたが。なるほどな、随分と、長い旅をしていたのだな。まさかその消息を、ジョウス殿からの声で知る事になるとは、予想外だったよ。それどころか、その息子と
そうして寄り添っているとは。お前の行動の一つ一つは、銀狼のそれにはそぐわぬ物が多いが。異世界人と聞けば、全てが納得できるという物だ」
「私が異世界人だと、ジョウス様のお力で公表した際には、リスワール様の声が私にはとても助かる物でごさいました」
「あの程度の事、気にする必要はない。借りは返した、と言いはしたが。私がただ、お前を認める。それだけの事であるし。元より私はお前の事は認めている。それを、ほんの少し大きな声で言っただけさ。本来ならば、
お前にはまだまだ借りがあるくらいさ。……ガルマの様子を、見たよ。ここしばらくの間に、また随分と衰えた様だ。悲しいな。私と、それ程年齢は変わらんのだが」
「リスワール様は、十代くらいにしか見えませんものね」
「言うな。気にしているのだぞ」
 だって身長が俺とあんまり変わらないし。耳の分大きいけど。時が過ぎて、クランも少しずつ背が伸びて。その内俺より高くなるのがもうわかりきっているのに、俺は相変わらず伸びないし。リスワールを見ているととても
安心する。
「その、ガルマの件なのだが」
 ちょっと場の空気が緩んだところで、リスワールが何度か咳払いをしてから話を切り出す。そうしていると俺と同じくらいの可愛い兎、という印象はずっと薄れる。元よりその話し方が大分見た目とそぐわないので、少年という
様な印象は受けないけれど。服装にしても、ガルマを気にして地味な色のローブを身に着けて、まじないにでも使う様な紐が首に何十も掛けられているし。およそ元気な少年のする服装とは言い難い。これで実際に暴れると、
結構強かったりするから侮れない。流石にハゼンやヴィグオルの様な、己の腕っぷしで生計を立てる事もできる様な人達には及ばないだろうけれど。
「今回私がこうしてここまで来たのには、一つにはガルマの見舞い。もう一つに、狼族の様子を見る事があった。まあ、この二つはいつもの事なのだがな。だが、もう一つ成すべき事がある」
「正式に、ガルマ様が族長を退いて。クラントゥース様がその後を継ぐところを、見届けにこられたのですね」
「……よく、わかるな」
「わかりますよ。ガルマ様のお傍に、私は居ますから」
 ガルマの身体は、一進一退を繰り返しては、ある時急に体調を崩す。その繰り返しだった。そして、徐々に痩せてきている。ガルマの身体を支える事も、もはや慣れ切った俺だからわかる。前よりも、更にその身体が
衰えた事も、その命が長くはない事も。それでも今、ガルマは狼族の族長のままであり、クランは次期族長のままであるのだから。リスワールがここに来るかどうかを問わず、それはその内に持ちあがってくる話だという事
ぐらいは察しがつく。それをクロイスに打ち明けると、クロイスも静かに頷いていたし。
「数日中に、正式な発表をするそうだ。それから、ガルマの跡をクラントゥースが継ぐ。本来ならばそれには相応の準備と、大仰な儀式だのが付き物だが。今のガルマの身体は、それに耐え得る物ではなく。なるたけ簡略化
して行われるそうだ。私はそれを見届けるために、兎族の族長であるリスワール・ディーカンとして。新たな狼族の族長の誕生をこの目で見て。そして、認めに来たのだ。何を言うにも、ギルスの血が途絶えるとあっては、
これまでの様に簡単に族長がただ変わるだけとは言えぬ。後押しが必要だろう」
「そうですね。狼族は、とかく孤立しがち。それでも今まではギルスの血を引く銀狼が、とても強い力を持っていたでしょうから。それは他の種族から見れば、良い物とは言えなかったかも知れないですけれど。でも狼族には
その分、同族の中での纏まりがありました。けれどその中心であるはずの存在が、今は損なわれようとしている。再び中心となり得るのかは、これからのクラントゥース様次第なのでしょうね」
「随分、冷静に言うね。ゼオロ」
「酷な様だけどね。私が一時的にそこに収まって、場を治めるくらいはできるだろうけれど。やっぱり私も、ギルスの血を引く訳ではないのだろうし。それは問題の先送りにしかならないからね。子を作れと言われるのも嫌だし」
 大分前に出た話だけど。俺の銀だけは、ギルスと同じ物なのだから。俺と銀狼の女の人をくっつけて、その間にまた同じ様な銀狼が産まれるのなら、それを狼族の族長としようとする動きがあるとか。今考えても寒気が
する。そんな未練がましい事のために俺は利用されたくないし、だったらここはクランに頑張ってもらって、そうしてさっさと銀狼の、ギルスへの未練を断ち切ってほしいくらいだ。それを続けてゆけば、やがては銀以外の被毛を
持つ存在が、族長になったりする日も来るのかも知れないし。
「クラントゥース様が族長になられる事は、確実の物となったのですね。……リスワール様から見て、クラントゥース様は如何でしたでしょうか」
「若すぎる」
「……でしょうね」
「だが、族長の気概は充分に持っているな。能力も、決して低くはない。私はまだ少し話した程度だが、少なくともこれは駄目だと思ったり、信用できぬ相手とは思わなかった。だがクラントゥース殿が族長になったとして、
そこから先に広がる道はあまりにも困難を極めるだろう。それに耐えられるのか。それは、私にはわからない。やはり、何を言うにも若いからな。根性も、能力も、本当の評価が下せるまでには、今しばらくの時を要するだろうさ。
私ができる事は、してやりたいとは思うが。ガルマにもその様に頼まれてしまったからな。ゼオロは、まったく族長にふさわしからぬやる気の無さだから、もう諦めたので。どうかお前も、そのつもりで。クラントゥースに、私と
同じ様な友情を抱いてほしいと。もっとも私とクラントゥースでは歳が離れすぎて、友情という物は些か難しいとは思うが」
「別に、私が族長になっても歳はそれ程変わらないではありませんか」
「お前はほら、結構生意気で、食わせ者であるし」
 褒められた。いや、貶された。どっちだろう。横を見るとクロイスが満面の笑みで、同意を示す様にうんうんと頷きながら俺を見ている。後でまたでこぴんしないと。というかガルマも割と酷い言い方してる気がする。合ってるけど。
 リスワールとの話はそこまでだった。ファウナックに着いて、すぐにガルマと話をしたというから。相応に疲れていたのだろうな。
 それから数日後。リスワールが口にした通りに、ガルマから狼族の全てに、改めてガルマが族長から退く旨が伝えられる。それと同時にクラントゥースが次代の族長になると。その発表は、やっぱりかなりの混乱を齎した
そうだけれど。それでも狼族にとっては充分に予想がついた事でもあるから、また冷静になる者も多かった様だ。俺はといえばその様子を、街が不穏な空気に包まれていると巡回に出ていたヴィグオルから聞かされた訳
だけれど。俺とクロイスの外を歩く計画も、その関係で終わりを告げる事となった。次期族長はクラントゥース。これは確かに、前々から決まっていた事だ。けれど、そこに今は俺が居る。ギルス領の外にではなく、ガルマの
傍近くに。そのために、俺を担ぎ上げようとする動きも多少は見られる様だった。館の中では流石にガルマの目が厳しいのもあったし、ガルマの意向が第一であるからして、そんな真似は見られなかったけれど、街中に
出てしまえば、これはわからない。カーナスの一件から、二十余年という事が。ヴィグオルもそうだけど、当時親を亡くした子供達などは丁度大人になって、正に次代の担い手として活躍する頃で。クラントゥースではなく、
俺を族長に頂きたいという願いを持つのもまた、その辺りの年齢の者が多いと言う。要は俺が異世界人という事実を重く見る、長生きした人達よりも。カーナス台地で失った親類の魂を救った功績の方を重く見る人達
という事だ。ヴィグオルも、それは変わらないと言える。ヴィグオルこそ、父親を彼の地で失ってしまった訳だし。
 そんな中で、ガルマからクラントゥースへの族長継承は、恙なく行われた。例え俺を推す声があろうと、俺自身にはまったくそのつもりが無い事が良かったのだろう。特に混乱もなく。どうにか身体を起こしたガルマと、狼族の
中でも重臣と、同席したリスワール。それから何故か呼ばれてしまった俺が、その様子をじっと見守っていた。流石にクロイスは立ち入りを許されなかったけれど。その辺りはガルマも、配慮したみたいだった。
 内郭の、普段は使われないし俺も足を踏み入れた事のない一室に各々が集まって。部屋の中央に佇むガルマと、向かい合うクランが居た。銀の間と呼ばれるそこは、今の様に族長の継承や、或いは特別な予知の力を
持つ銀狼が現れた際は、その場において祈りを捧げては何かしらの託宣を受けたりする事もあるそうだけど、この内郭に住む者の内、正統なギルスの血を継ぐ者がガルマしか居なくなってしまった今は、ほとんど使われる事が
なかった様だった。今そこに、最後の真の銀を持つガルマと。そして遠縁でありながら次代の族長たらんとするクランが立っていた。俺は咄嗟に、周りを見つめる。部屋はガルマの部屋の様に薄暗く、柱がいくつかある以外は、
本当に何も無くて。見守っている俺達の表情はそれ程はっきりと窺えた訳ではなかったけれど。普段俺が顔を合わせない重臣達は、やはり複雑な顔をして見守っている様だった。彼らからすれば、或いはガルマが本当に
命尽き果てるその時まで、族長であってほしいと望む者も居るのだろう。その後継が、遠縁の。ガルマと比較して、遠く及ばぬ銀狼であるクラントゥースともなれば尚更だった。それから俺に対する視線も、今は僅かに
感じる。俺に族長を期待する、とまでは言わないけれど。ガルマと、クランと、そして俺の、三人の銀を見比べて。何故あの様な銀を、これから頂かなければならぬのかと。当惑に近い思いは視線を宙に彷徨わせ、薄暗い中でも
銀の輝きを損なわない、俺とガルマ。二人の間を行き来している様だった。
「クラントゥース・ギルスよ」
 周りではそんな水面下の小さなやり取りがされている間にも、二人による継承の儀は続いていた。俺はもう視線を気にする事を止めて、ガルマを見つめる。老いたガルマは、今も立っている事すらあまり芳しくないと
言いたげに、息苦しそうにしていたけれど。どうにかそこに立ち続けて、クランを見つめていた。ガルマは俺のよく知っている、あの和服の様な族長の服を着ていたけれど。今はクランも、その身体に合う様に作られた物を
着ていて。そうしていると、そこに二人の族長が居るかの様だった。
「そなたを、次なる第八十五代目の狼族の族長として、認めよう。異論が無くば、我が声に応えるが良い」
「謹んで、お受けいたします」
「よろしい。これは、その証だ」
 ガルマが、首に下げていた銀の鎖に手を掛ける。複雑な模様を連ねて誂えられたそれは、真の銀を持つギルスの直系と同じ色合いとなる様に調節して練られた銀であって。老いて被毛の白くなりかけているガルマの
身体でも少し浮いて見えたけれど、遠縁の銀狼であるクランが首に、ガルマが直接にその鎖を掛けると、より一層の違いを周囲に思い知らせるかの様に鈍い煌めきを増した。それはその鎖を受け取ったクランにも、嫌という程に
わかっているのだろう。本当に、鎖の様だった。銀を繋いでは、束縛をするための。そうしてまた俺への視線が、少しだけ増した様な気がする。多分、俺があの銀を身に着けたのならば。それは俺の身体にぴったりと合って、
違和感の無い物となっていたであろうから。あの銀は、持ち主を選んでは。自らを持つにふさわしい者には一切の主張をしない。そういう物なのだろう。
「お前の活躍に、期待しているぞ。……これで、私も。少しは休めるというものだ」
 少し、ほっとした様な顔をガルマがしていた。継承の儀は、それであっさりと終わりを告げる。本来ならば、もっと大仰なやり取りが。それこそ今の段階に踏み入るまでに、クランの身体をよくよく清めたり、数日の間は瞑想を
したりだとか、ガルマの方にも様々な準備が必要だったみたいだけれど。ガルマの身体は、やはりそれに付いてゆけはしないのか。そこまでどうにかやりおおせたガルマは、その場で膝を突いてしまう。慌てて、クランがその
身体を支えて。新しく狼族の族長となったクランの指示で、前族長となったガルマが、丁重に扱われ自室へと引き上げてゆくのを、俺は残っていたリスワールと共に見つめていた。
「長くは、ないのかも知れんな」
 ぽつりと、リスワールが呟く。薄暗い中では、黒い兎の表情は窺えなかった。
 数日後に、リスワールは短い挨拶の言葉を残して、ファウナックを発っていった。
「本当は、もうしばらくここに居たいのだが。ガルマが長くはないと言うのなら、私はそれを看取りたいし。だが、どうしても今は長く私が出ていられる状況ではなくてな」
「仕方がないですよ、リスワール様」
「また、会おう。ゼオロ。その、なんだ。クロイス殿もな。ここでの用事が済んだら、ぜひディーカン領を訪ねてくれ。相応の持て成しはしたいし、お前の話も、また聞きたい」
 俺の話。それは俺が今少しはここに残る事を。ガルマの死を見届ける事を、リスワールが確信しているからこそその口から出てくる言葉だった。俺は小さく頷いて、別れの挨拶を告げてリスワールをクロイスと一緒に送り出す。
「リスは、もう行ったのだな」
 それからは、またガルマの部屋へ詰める日々だった。日々弱々しくなってゆくガルマを、俺は辛抱強く世話をする。とはいえそんなに辛い訳ではないけれど。寧ろ初めて会った時の奔放さなどは鳴りを潜めて、今はただ俺が
傍に居てくれればそれで良いというだけの人となっていたから。俺が言う事には、まず頷いてくれるし。俺を困らせる訳ではなかったし。俺がここに居ないと、駄目なのは確かではあったけれど。
「ええ。もう、行ってしまいましたよ。もう少し、残りたいと。仰られておられましたが」
「良い。別れは、もう済ませた。リスも、今は忙しい時期だ。態々ここまで来てくれて、私を見舞ってくれた。それだけの事が、どれ程大変なのか私にはわかる。まあ、その私も既に、族長ですらなくなってしまったが」
「そんな事は、仰らずに。それに、部屋はそのままではありませんか」
 微笑みながら、俺は言う。ガルマの部屋は、相変わらず内郭の中央であって。新たな族長となったクランも、内郭の一室を以前と同じ様に使い続けていた。俺が指摘すると、ガルマが拗ねた様に視線を逸らす。そうして
いると、本当に大きな犬がただ拗ねているだけの様で。その老いも。重ねてきた辛苦も。俺に感じさせる事はないかの様だった。白くなった被毛だけが、唯一その衰えを。そして俺との違いを、強調するかの様で。
「今更、他の部屋に住む事など考えられん。クラントゥースには悪いが、私は最後までこの部屋に居座るぞ」
 族長から降りた事が、ガルマの心を僅かに若々しくした様だった。確かに衰えはしたものの、その重荷から解放された今、ガルマの表情はとても明るいし食欲もいつもより出ていた。反対に、クランの方は大分重圧に
やられてしまっている様だけれど。とはいえ代替わりしたからといって、クランのやる事がそこまで大きく変わる訳ではなかった。今はまだガルマの身が持たぬのではないかという懸念から、急ぎで継承を済ませただけに
過ぎないので、とうの本人は、族長としての振る舞いを引き続き缶詰状態で学んでいる頃だろう。既にラヴーワに向けて新たな族長の誕生を報せはしたので、その内に形の上だけでも新たな族長を祝う使者が訪れたり、
またクランが直接中央に出向く様な事もあって。その時こそ、クランの手腕は問われるのだろうな。あとはクランにきちんと忠誠を誓える者達が、どれ程出るかという話だけど。正直なところ今はまだその辺りは、難しいと
言わざるを得なかった。何を言うにも、クランは若すぎるし。ただガルマにそうしてくれと頼まれたから、皆がクランに言われた通りに接している節があるのは、否定できない事実であるし。もっともそれはクランに課せられた使命
なのだから。俺からやれる事は、もう余り多くはないけれど。俺がカーナス台地を解放して、狼族の一部を心服せしめた様に。これからのクランの一挙手一投足が、ガルマではなく。真の銀を持つ者でもなく。ただ、クラントゥース
という一人の人物に向ける忠誠となって返ってくるのかどうか。それは、クラン次第だった。
 とはいえ俺も応援できる部分については、色々と手を打っておいたけれど。リスワールには俺からもお願いしてきたし。ジョウスにも、後で機会があれば頼むつもりだし。ジョウス自身は、クランの事を割と気に入っている様で
あったから、この二人が外から何くれとなく世話を焼いてくれるのならば、当分は問題ないだろう。狼族についてはまだまだ問題はあるけれど。せめて俺はクランがギルス領を統治する上で、銀狼だの赤狼だの、そういう問題を
少しでも排除できればと、クロイスと一緒に街を練り歩いて。それは結構な反響と、そうして昔ながらの銀狼を求めている人にはやはり反発を招いていたりもしたけれど。その行動もクランに代替わりしたとなった今は、もう
する事もできなかったし。今俺が下手に街を歩くのは、クランが族長である事を肯定できない相手にとっては、まさに担ぎ上げる神輿がやってくるかの様であろうし。
 そんな訳で。俺にできる事は。俺が、このファウナックでできる事は。徐々に、少なくなってきていたのだった。これ以上は、俺が何かをする度に、やはりクランではなく俺の方が、という動きを助長させるだけだった。
「皮肉なものだな」
「何が、ですか?」
 だから、俺にあとできるのは。俺の膝の上で苦しそうに呼吸を繰り返している、老いた銀狼を労わる事でしかなくて。今日もいつもの様にそうしていると。不意に表情を変えたガルマが、そう呟いたのだった。
「今の、私を見れば。お前が初めてファウナックに訪れた時の様な悲劇は、起こらなかったのではないかと。そう、思ってな」
「……ハゼンの事、ですか」
「ああ。私は、あれに。赤狼達との橋渡しとなってほしかった。もっとも、あれが言うには。私がその様にあれを見出した時には、既にあれは、銀狼を狩っていたのだから。実際には、到底それは叶わぬ事ではあったのだが」
「そうですね」
「……続けても、構わぬか。嫌では、ないか」
「私は、大丈夫ですよ。そんなに、寂しそうな顔をされずとも」
 ガルマは俺の機嫌を損ねてしまう事を、露骨に恐れるかの様に上目遣いで俺を見ていた。俺はまた、笑って。もうその辺りの事は大分吹っ切れたのだから、今更蒸し返されても、俺は平気だった。いや、本当は平気じゃない。
半分くらいは、平気な振りだ。そういえば、ハゼンもそれは得意だったなって思う。俺の見ている前では、いつも気丈で。でもあの時は、俺に涙を見せたり。願いを口にしたり。目の前の、ガルマもそうだけど。抱えていた
大きな物が、あまりにも重くて。それが、辛くて。皆が、平気な振りをしているだけなんだなって思う。平気なんじゃなくて。ただ、平気な振りをしているだけで。けれど今は、平気な振りをしていようとも思って。
「あれは私を殺そうとした。その事については、別に良い。あれが憎しみを抱く程の出来事があったのだから。私とて赤狼の事には苦慮している。狼族を率いる。その事にばかり躍起になって、中々手を入れる事ができは
しなかったが」
「だから。ハゼンを。ハゼン・マカカルに、目を付けられたのですものね」
「そうだ。だが結局はそれも、上手くは行かなかった。あれが。ハゼンが、今の私を見れば。そんな気は起こさなかったかも知れないな。皮肉だ。とても、皮肉な物だ。己の命を賭してまで、付け狙っていた私も。結局は、己が
死んだ後、それ程の間を置かずに今、死のうとしている。あれを見て、なんとなく私は、復讐の虚しさを知ったよ。私とてスケアルガを憎くないと言えば、嘘になるが。それでも、泣いて自害したハゼンを。そして、それを見て。
ただ涙を流していたお前を見て。なんて、虚しくて。寂しいのだろうと。復讐に駆られている間は、そんな物は何程の事でもないと、いくらでも言える。己が身の破滅などは、なんとも思わぬ。ただ、憎い相手が。自分をこんな目に
貶めた相手がのうのうと生きている事が、許せなくなる。それも、ただ過ぎ去ってしまえば。こんなにも虚しかったのだと。そう、思うだけだというのに」
「そうですね。本当に」
 ガルマの何度も撫でつけながら、その言葉に同意を示しながら。俺はその言葉を止めさせる。ただ、虚しいだけ。そんな事は、ハゼンはきっと、わかっていただろうと思って。
「すまないな。ゼオロ」
 その内に、ガルマがまた咳き込んで。苦しそうな呼吸と共に、僅かに血を吐いて。俺はまた、布でそれを拭ってから、ガルマの手もなるたけ清めてあげて。少し落ち着いた頃に、ガルマは思いついた様に口を開く。
「何がでしょうか」
「こんな、老人の世話をする真似をさせて」
「何を今更。もう、一年とは言いませんけれど。半年以上は、こうしているのに」
「とんでもないと、言ってはくれない。お前の、そういう所は。私は好きだよ」
「クロイスが、許してくれて。我慢をしてくれている間は、私はこうしているつもりですから」
「クロイスにも、悪い事をしてしまったな。お前達は、恋人同士であるというのに。もう、結ばれる気にはなったのか。式でも、ここで挙げようか」
「嫌ですよ。ここでなんて。ガルマ様しか、きっと心から祝ってはくれないのに。それは、もう少し後で。皆が、クロイスの事を心から祝ってくれる場所でしたいです。もし、するのなら、ですけれど」
「そうか。そうだな。それに、私はもう族長ではなくなってしまったし。あまり私の我儘を通す事も、良くないな。お前がこれ以上目立つ事も、良くないであろうし」
 ガルマは、俺が今微妙な立場になっている事を、よくよく理解している様だった。ガルマが退いた今。俺のファウナックでの、狼族の中での立場は、前よりも微妙な物になりつつあった。今までは、ガルマという真の銀を持つ
存在が居たから、それで良かったけれど。今はクランが族長になってしまったのだから。
「私は、お前を守ってはやれなかった」
「充分な程に、守っていただいたと。そう思っておりますが。私が異世界人だと知っても、私の存在を認めて。今は、ここに居る事もお許しになられて。そうして私がここに居る間は、私の耳に余計な話が入らぬ様にも気を
付けてくださって。充分過ぎる程の事を、ガルマ様はしてくださっておられますよ。これ以上は、それこそ周囲から、よろしくない様に見られてしまう程に」
「そうだな。それに、お前には。私の助けは必要無かった様だ」
「そんな事は」
「お前を、最初に見た時」
 ガルマが、不意に身体を起こす。ゆっくりと、身体を起こして俺に縋りつく。俺はそれを受け止めようとして、それが難しいので、どうにか倒れる方向だけを変えて、ベッドの上へと沈んだ。その上にガルマが覆い被さっては、
俺を潰さぬ様に懸命に自分の身体を支えている。別に、今のガルマの身体なら、俺が潰れる事もないのだろうけれど。それよりも、その身体が無理をしていないか。俺は気になってしまう。
「あの時、私はお前を、自分の物にしようとした。いや、そうしなければ、ならぬと。そう思ったのだ。私と同じ銀を持つ者。もう、二度とは巡り合えぬかも知れぬ相手だと、そう思った。だから、守ってやりたかった。寂しい思いなど、
させぬ様にしてやりたかった。お前はか弱くて。本当に、純粋無垢な子供の様だった」
「まあ、そんなに綺麗な物ではありませんでしたが」
 俺が言うと、ガルマが思わず声を上げて笑う。あの席で、俺は散々にガルマを虚仮にしてしまったのだから。ガルマの態度も、大概だったけれど。
「今なら、よくわかるよ。私と同じ銀を持つ、お前を見て。お前を、独りにはせぬ様に。寂しくはない様に。そう、思っていたのは。結局は、私が、独りきりで。ただ、寂しかったのだという事に。本当に哀れなのは、独りきりのまま
ここまで来てしまった私であって。お前の傍には、色んな者が居て。寂しい思いなんぞは、していなかったというのに。傍に居てやろう。そう思った。でも、本当は。傍に居てほしかった。それだけだったのだな、私は。お前には、
ただ迷惑な事でしかなかったというのに」
「あなた様が、どんな風に過ごしていたのか。私にははっきりとわかりませんけれど。でも、確かに。私は寂しくはなかったですね。勿論、そう思う時は何度かありましたけれど。でも、あなた様が言う様に。色んな人が、居てくれた」
 今思い返しても、色んな人が俺に手を差し伸べてくれていたのがわかる。そんな人の中から、もう会えなくなってしまった人も随分と居るけれど。死んでしまう人も居れば、事情があって、会う事が難しい人も居る。
「でも、ガルマ様。あなた様が必要でないとは、私は思いません。迷惑だとも。勿論、最初は。銀狼を捜しているから来いと言われた時は、戸惑ってしまった部分はありますけれど。でもそのおかげで、私はハゼンとも会う事が
できました。一人でずっと族長の重荷を背負って生きていたあなた様にも出会えました」
「知り合えぬ方が良かったと。そうは、思わなかったのか」
「思いませんね」
 出会わなければ、こんな思いをする事もなかったとはよく言うけれど。昔の俺だったら、それには頷いたのかも知れないけれど。この世界で生きてまだまだ短くても、この世界での出会いは、どれも俺には大切な物だったから。
出会わなければなんて今は思わないし、思いたくもなかった。もっと先でも、もっと後でも。俺が大切に思っている人とは出会う事はなかったのだろうし。別れても、それがおぼろげな思い出だけになってしまったとしても。
やっぱり、大切だって。それだけは確かな人が、増えたから。
「ただ。もう少しだけ早く出会う事ができたらなって。そう、思う時はあります」
「もう少しだけ、か。……確かに、そうだな。もう少しだけ、お前に早く。私は会いたかった」
 ゆっくりと、ガルマが身体をずらして。その内に俺の隣に沈む。俺はゆっくりと身体を起こして、その身体に寒くない様に毛布を掛けてから、その隣へと潜り込む。
「帰らなくて、いいのか」
「今日は、そう言ってあります」
「妙な噂になってしまうぞ」
「何を今更」
 ガルマが、少し溜め息を吐いて。けれど、嬉しそうに俺を抱き寄せる。どれだけ老いたとしても、俺とガルマでは身体の大きさが違う。枯れ枝の様になってしまったガルマの身体でも、力を振り絞れば俺を軽く動かす事はできる。
 すぐに、寝息が聞こえる。俺はガルマの胸に身体を預けて、しばらくはその様子を見て。ガルマが落ち着いたのを見計らうと、身を寄せて目を瞑る。確かに、俺とガルマ、真の銀を持つ者同士だからだろうか。不思議と、心が
落ち着く様な気がする。少し前までのガルマは、俺の身体に手を出そうとしていたから、そういう風には思えなかったけれど。今だけは、それがとても温かい物に感じられて。
 けれど。それも長くはない事を俺は知っていて。少しでも、忘れない様にと。匂いを嗅いだりしている内に、俺も眠りに落ちてゆく。

 冬の寒さが身に染みた。ファウナックの辺りは、涙の跡地の中で言えば南の方ではあるけれど。少しだけ周りよりも冷えるという話を、俺は思い出す。実際のところはよくわからない。それに涙の跡地を覆う結界が消えて、
多少なりとも気候の変化が認められた部分もあるというし。あの結界が遮っていたのは、人為的な物だけであるからして、それが本当なのかもやっぱりわからないけれど。
 そんな怪しい結界が無くなった事も、結界自体の話も、この都に居る間はあまり耳に入らなかった。結界の外を、夢見る人は多かったという。領土の問題もある。
 けれど、それよりも狼族にとって大切なのは、自分達を導いてくれる存在だった。そんな事は、わかっていたつもりだったけれど。それでもやっぱり、長年そうして生き続けてきた人の気持ちを、俺は本当には理解しては
いなかったのかも知れないなと思う。
 ガルマが、大量の血を吐いていた。
 冬の寒さが、一進一退を繰り返していたその容体に、不意に牙を剥いたかの様だった。それまでは俺がその部屋に入って、静かな日々を送っていたけれど。多く血を吐いた後は、俺も立ち入る事を許されなくなった。ひっきり
無しに、医者や。魔法使いや。効果があるのかもわからない祈祷師などがガルマの寝所を出入りしては、結局はなんの成果もあげられずに引き上げていった。
 ある時、俺に使いがやってくる。ガルマからの使い。息を切らせたそれに、俺は頷いて。部屋を出ようとする。
「申し訳ございません。どうか、ゼオロ様だけをと」
 わかっていたけれど、クロイスの同伴は認められなかった。クロイスはまっすぐに俺を見つめて、頷いてくれる。俺もまた頷いて部屋を後にした。
 ガルマの部屋へ駆けつける。既に主だった顔触れは揃っている様だった。いつぞやクランに族長を継承した時の顔触れはそのままに。その上で、新たにヴィグオルがそこには居た。俺を見て、ヴィグオルはとても悲しそうな
顔をして。それでも、ただ一礼をしてくれる。
「ゼオロ」
 声が、聞こえた。しわがれた老人の声。前よりも一層、その響きが多く感じられる。たった数日、顔を合わせていなかっただけなのに。それはもう、別人の様な声をしていて。それでも俺が目を凝らせば、横になったままの
ガルマがどうにか顔だけを向けて、俺を見つめているのがわかった。
「ガルマ様」
「こちらへ、来てはくれぬか。もう、他の者との話は、済ませてしまった」
 ガルマの下へと歩み寄る。傍に、クランが居た。今は俺を見る事もなく、ただその頬に涙が伝っている。それだけで、俺にも察せられる。そもそも、急にここへ呼ばれたのだから。
 ベッドの傍で跪くと、ガルマの腕が僅かに動いた。俺が思わず手を伸ばして、その手を拾うと。意外な程力強く、ガルマが握り締めてくれる。
「ああ。ゼオロ、お前の手だ。お前の。嬉しいな。戻ってきて、くれたのだな。もう、随分とお前に会っていなかった気がする。誰も、会わせようとはしてくれなくて。お前が怒って、出ていってしまったのではないかと。私は、とても
心配だったのだぞ」
「そんな事はしません。あなた様が、ここに居られるのに」
「そうか。そうだな。それも、ここまでだ。ようやく、お前を自由にしてやれる。すまなかったな。こんな老いぼれた男に、付き合わせてしまって。お前の時間を、奪ってしまって。本当は、私は。お前を早く解放してやりたかったのに、
お前が居てくれる事が、嬉しくて。嬉しくて、結局言い出せなかった。今でも、そう思う。もっと一緒に居たいと。もっと、早くに出会えていたらと」
「私も、そう思います」
「だが、考えても詮方ない事もある。これが、そうなのだろう。お前と私が、共に居られた時間が短いのは、とても心残りだが。まあ、私との時間が短い分。お前がもっと、共に居て、嬉しく思う相手にその時間を使ってくれるの
ならば。私も、自分の事を少しは納得させて、行けそうな気がするよ」
「あなた様と一緒に居る事が、嫌だなんて思ったりはしません」
「それでも、困らせただろう。私は、我儘ばかりを言っていただろう。私の方が、お前よりも、二倍では効かぬくらいに、長く生きていたのであろうにな」
「私は、あなた様と共に過ごす時間も。とても、楽しかったと。そう、思っていました」
「そうか。嬉しいな。でも、それももうお終いだ」
 ガルマが、一度咳をする。何度かそうして。クランが、慌ててその口元を拭う。黙って、拭って。また、元の体勢に戻る。
「幸せだったのかな、私は」
「それは、自分で決める事だと思いますよ」
「そうか。ならば、幸せだったな。私は」
 口を開けかけて、何かを言おうとして。俺は押し黙る。そんな風に言える様になるのに、俺にはあと何年必要なのだろうかと思って。
「ヴィグオル。居るのか」
「ここに」
 不意に、ガルマが矛先を変えて。俺の後ろに佇んでいたヴィグオルを呼ぶ。声だけでも、ヴィグオルが緊張をしているのが伝わってくる様だ。その上で今は主であるガルマを見て。なんの遠慮もなく、涙を流している事も
伝わってくる。
「苦労を掛けたな。私の我儘で、お前までここに縛り付けてしまって」
「あなた様の望みを叶えるのが、私の務めでございます。どうか、その様な事は」
「そうか。そう、言ってくれるのか。ならば、もう一つだけ。私がお前に頼み込むのに、不都合はないな。どうか私が居なくなっても、クラントゥースの補佐を、してはくれぬか。お前が、本当は誰を主としたいのか。その気持ちは、
わかっている。お前の純粋な気持ちに、嘘を吐けと言うのは、あまりにも残酷な事でもあるが。また、お前が認めたその相手も。お前の主となる事を、頷く事はないであろうしな」
「……心得ました」
「クラントゥースよ」
「はい」
「お前には、既に話をしたが。それでも、何度でも言いたくなるものだ。上手くやれよ。ただ、気負わずとも良い。気負った結果が、今の私なのだから。お前はまだ若い。背伸びはしなくて良い。ありのままのお前の方が、
きっと皆は喜んで、手を貸してくれるはずだ。皆は、お前の境遇を。その辛さを。充分に理解している。お前がどれだけ望んで、十歳、二十歳と歳を取ったかの様に尊大に振る舞っても。そんな物は、周りから見ればあまりにも
滑稽で、失笑を買うだけでしかない。お前には、お前のやり方があるだろう。それを、忘れないでいきなさい。お前の兄と、お前自身は、まったく違うのだから。族長になったお前に、皆が求めているのは。ただ、お前の素直な
気持ちでしかないのだから」
「……はい」
 ガルマが、何度か呼吸を整える。
「ゼオロ」
「はい」
「世話になったな。お前が居てくれて、良かった。だが、申し訳なくも思う。私が、居なくなったら。その銀は、お前だけの物になってしまう。それでも、お前の傍には誰かが居る。今は、クロイスだな。羨ましい物だな。私が、
自分は銀狼なのだからと、上手くできなかった事を。お前はこうもあっさりとしてしまって」
「ガルマ様には、リスワール様も居られましたよ」
「そうだったな。リスには、とても苦労を掛けた。苦労を掛けて、掛け続けて。結局、私からはあまり報いてやる事もできなかった。商売に聡い兎族の族長が、それではいかんと。そうは、思わないか。本当は、利に疎くて。情に
脆いのだよ、あいつは。私なんぞのために、何回ここまで足を運んできてくれたのかわからぬくらい、あいつはやってきては、私に小言をぶつけてきた。考えてみれば、お前に似ているな。今、ここに居てくれれば……。いや、
もう、別れは済ませたのだったな。歳をとっても、経験を積んでも。死ぬのは、一度きりだから。どうにも、また会いたくなってしまうな」
 それに、俺は曖昧な笑みを浮かべた。ガルマは、俺の様な経験を積んだりするのだろうか。それは、そうなってみないとわからない事だけど。
「クロイスと、幸せにな。あれは、ジョウスの。スケアルガの者にしておくには、勿体ない程の男だった。快活で、けれど他人の痛みには敏感で。自分がした訳でもない事なのに、それを気にして私に恭しく接して。そんな物が
無くなれば、ただ素直な青年の顔があるだけで。彼は、良い。あれなら、クラントゥースとも、狼族とも、上手くやってゆけるだろう。狼族が。どれだけ、歩み寄れるかだが。もっとも、今、狼族をこんな風にしてしまったのは、私の
責任でもあるのだから。後始末だけをお前達に任せて、さっさと死のうとしている私は、さぞ憎たらしいであろうな」
「ガルマ様」
「ゼオロ。お前が、ここに居てくれてよかった。異世界人であるお前が、様々な物を見て、聞いて。それでも、私の傍に居てくれた。とても、嬉しかった。寂しくはなかったよ。人生の、最後の最後で。お前が私にくれた物は、
何物にも代えがたくて。素晴らしい物をくれたお前に、私は何もしてやれる事がないのが、心残りだが。ああ、嫌だ。死にたくはないな。まだ。まだ」
「何も、要りません。ガルマ様が、そう仰ってくださっただけで。何も」
 少しずつ、視界が滲みはじめる。ガルマは、ただ微笑んでいるだけだった。
「ゼオロ。最後に、もう一つだけ。我儘を、聞いてはくれないか。私を、ガルマと。そう、呼んではくれないか。お前の声を、聞きたい。お前に、呼ばれたいのだ。不思議な物だな。やっぱり、私は。私の方が、ずっと偉い立場で
あったはずなのに。お前の方が、自分よりも上の様な。そんな気がしてしまう。お前はいつも私に気安くしながら、それでも敬うところは敬ってはくれたが。どうか、今だけは」
 涙を払って。俺は少し戸惑って、辺りを。クランを見つめてしまう。クランは、頷いてくれた。もう、好きにさせてあげたいと。そう思っているのだろうな。俺はまた、ガルマを見て。それから身を乗り出して、ガルマの手を
自分の胸へと抱き寄せる。
「……ガルマ」
「もっと。もっと、言っておくれ」
「ガルマ」
 ガルマの手を、抱き締める。俺の頬から伝った涙が、ガルマの手を濡らして。
「ガルマ。今まで、よく頑張ったね。……もう、いいんだよ」
 何か、もっと沢山の事を、俺は言おうとして。けれど口から出てきたのは、それだけだった。それ以上は、何も、言葉にならなくて。ただ、今までガルマがずっと苦しんでいた事を、知っていたから。もう、族長も降りてしまったの
だから。頑張らなくてもいいのだと。そう、言いたくて。それだけは、まるで俺の意思に関係無く。自然と口から出てきていた。
 けれど、ガルマにはそれで充分な様だった。ゆっくりと瞼を閉じたガルマのそこから、涙が溢れてくる。
「ああ。ありがとう、ゼオロ」
 笑ったガルマの瞼から、止め処なく涙が溢れる。溢れて、溢れて。けれど、それは次第に流れなくなって。
「ガルマ様」
 気づくと、俺が抱き締めていた手からは、なんの力も感じなくなっていた。俺は、ただその手を抱き締め続ける事しかできなくて。
 部屋に、静かな嗚咽が、いくつも重なり続けていた。
 ガルマが亡くなった事を、その場の誰もが知ったのだった。

 ガルマの葬式が粛々と進んでは、終わりを告げていた。
 ハゼンの時と、そこまで大きくは変わらない。ガルマは、華美な送り出しはしなくて良いと。そう言っていた様だった。ただ、ファウナックの街は、そうではなかった。既に族長ではなくなったとはいえ。ガルマこそが最後の、
ギルスの血統を持った族長だったのだから。その男が、自分達を長年導いてくれた者の存在が損なわれた事は、狼族には大変な衝撃となっていた。誰もがガルマの館の前に詰めかけては、閉ざされた門の前で、跪いて
いた。叫び声が聞こえたりする事もなく。ただ皆が跪いて、頭を垂れて。自分達の主が旅だってゆくのを、見守ろうとするかの様だった。すすり泣く声だけが、風になって。館の中にまで聞こえてくる。
 そんな中で、俺はクロイスと共に葬儀に出席して。一際豪勢な棺に納められたガルマが運び出されるのを見守っていた。騒動になるのを恐れて、全てはガルマの館の、敷地内で済まされている。族長によっては、
棺を抱えて街を周っては、民の声の中を進む事もあるそうだけれど。やはり最後の銀を弔う事になってしまった今は、どの様な混乱が巻き起こるのかが誰も予想をつけられずに、質素な葬儀となっていた。
 誰もが、涙を流していて。少し意外だなって思ったのは、クロイスが泣いていた事だった。繕う事もせずに、クロイスは静かに涙を流し続けていて。或いは、それは。ただの演技なのではないかと、勘ぐる様に見つめる
狼族の姿もあったけれど。少なくとも俺はそうは思わなかったし、またクランやヴィグオルも、そうは思わなかった様に見えたから。それで良いのだと思った。それ以上は、何もかも早いのだから。それを承知の上で、俺は
ここまで来たのだから。ガルマの命が、長くないのならば。例え急であろうと、今しかないのだと、そう思って。
 ガルマの墓は、墓地の中でも一際大きな区画で、豪華な設えとなってそこにあった。元より先代のグンサ・ギルスはカーナス台地で戦死した挙句、その遺体は帰らぬまま、風化してしまったのだから。形だけの墓は、確かに
あったけれど。その横に、並ぶ様にガルマの墓が置かれる事になった。
 人々が、名残惜しそうにガルマの墓を見つめては、去ってゆく。本当は皆もう少しだけ、そこに居たいんだって、それを見てよくわかる。けれど今のファウナックの、狼族の動揺を見ている以上。同じ様に、その場に居る者達が
呆けている暇はどこにも無かったのだった。クランにしてもそうだった。ガルマから受け継いだその役目を、本当に果たす時が、正に来ていた。当分は、この忙しなさが。ガルマを失った悲しみの代わりに、その心を埋めて
くれるのだろう。
 俺はといえば、一人でガルマの墓の前に座り込んだままだった。俺には他の狼族の様な役目は何も無い。クランからも、俺がそこで、ガルマの死を悼んでくれているのならば。それが良いと、そう言われてしまって。
 不思議と今は、涙はそんなに溢れてはこない。ハゼンの時と、少し似ている。死んでしまったら、もうどうしようもないんだなって。ただ、そう思うだけで。ただ、ガルマは安らかに死ぬ事ができたのだろうから。それだけは、
良かったなって。そう思った。兄のグンサを失ってから、ずっと長い間。崇められてはいても、同時に消耗品の様に、擦り減るまで酷使されていたのだろうから。俺がここに居て。その最後がほんの少しくらいは、良い物に
なっていたらいいなって。寂しくはなかったと、そう言ってくれたから。
 静かに、立ち上がる。それから俺は一礼して歩き出して。その後に、今度はハゼンの墓の前へと行く。ガルマの事を、見送ったからだろうか。殊更に、今はこの墓の事も気になってしまう。ガルマのそれと比べれば、
あまりにもみすぼらしくて。何も、供えられてはいなくて。不思議な物だと思う。ほんの少し、産まれが違うだけで。この墓地の中、それ程の距離も無い場所にそれぞれ眠っている二人の扱いは、こんなにも違うのだから。人に
よっては。この墓には、到底目も向けられぬ程の憎悪を抱いている人も居るのだろうし。俺にとっては。どっちも、大切な人だったから。例え嫌な顔をされても、俺は相変わらずこうしているけれど。
「ゼオロ」
 名前を呼ばれて、俺は振り返る。クロイスがそこに居た。さっきはクランと一緒に館の中へと戻っていったはずだけれど。今は一人で、そこに居て。それ以外は誰も居なかった。
「それが、ハゼンって人の墓なんだよね。まあ、書いてあるけどさ」
「うん」
「話、聞いても良いかな」
「聞きたいの?」
「だって。名前は、知ってるけれど。誰もその話はしないし。しない物を、俺からしつこく聞き回るのは、それがゼオロに知られた時、良くないと思うから。ゼオロに、不都合が無いのなら。俺は知りたいな。どうせ、ここにはもう、
長居はできないしね」
 長居できない。確かに、そうだった。ガルマが居なくなった今、俺がここに居る理由も、無いんだな。ここでこうして墓参りをしていられるのも、もうあと僅かもないだろう。なんだか、知り合いのお墓が、どんどん増えてしまって、
ちょっと今困っている。リヨクの、カハルの墓なんて、フロッセルにあるのだし。行きたいと思っても、すぐに行く事なんてできなくて。ここも直に、そうなるのだから。
 クロイスが俺の隣に来て、そのまま座り込む。俺も、同じ様にした。少し汚れてしまうけれど、どうせ長話になるのだし。話さないという選択肢も、あったけれど。クロイスには、ここまで来てもらって。危ない橋も渡ってもらったの
だから。それなのに、俺からは何も言わないままという訳にはゆかなかった。俺は、ハゼンの事を。最初にミサナトから連れ出された時から、順番に語ってゆく。変な気分だ。俺が口にしているその相手は、今俺とクロイスの
目の前、棺の中で眠ってるのだから。そんな相手が、どんな事をして。俺の事を守るだけ守っては、最後には居なくなってしまった事まで、説明しているのだから。
「大切な人だったんだね。好きだった?」
「うん」
「恋人にしたいとか、そういう意味で?」
「……ちょっと、違う。ハゼンも、そうじゃなかったと思う。ただ。幸せになってほしいって。そう思った」
「妬けるね。さっさと告白して、友情から愛情にしちゃった俺とは、違うんだな」
「そんな所で、張り合わなくていいのに」
 別に、クロイスは、クロイスで。ハゼンは、ハゼンなのだから。どっちかを取れとか、そういう風に言われたら、困ってしまうけれど。俺にとっては、皆大切なのだし。
「ゼオロ。これから、どうするの」
「これから……?」
 話を変えるかの様に、クロイスが言う。ハゼンの事を話した後に、なんだけど。それに対して、大きな反応が得られた訳ではなかった様で。何を言うにも、もう死んでしまっている人だから、あんまり蒸し返すのも良くないのかな
とは思うけれど。
 クロイスの言葉に、俺は僅かに首を傾げる。
「ファウナックに来た目的は、一応は果たしたよね。これから、どこへ行くの」
「わからない」
 改めて、そう問われて。俺は本当に、頭の中が真っ白になっている事に気づいてしまった。とりあえずここを出なければいけない事だけは、わかっているのだけれど。その後どうしたらいいのかは、まったくで。不思議な
物だった。ここに来れば。ガルマの世話をすれば。俺はその後の道が開けるのではないかと、そんな気もしていたのだけれど。ここに残った俺には、もう何も無くて。やっぱり。ただ、残されてしまった俺が居るだけで。
「だったら、さ。俺と、結婚しようよ」
「どうして、今言うの」
 少し、怒った口調で俺は言う。こんな時に、言わなくてもいいって。そう思う。クロイスなら、そのくらい弁えているだろうに。
「ゼオロが。そんな顔してるからだよ」
 俺が問いかけると、クロイスは寂しそうな顔をして返してきて。今、俺はどんな顔をしているのだろうか。無表情だと思っていたけれど。泣いてもいないし。ただ、後ろ髪を引かれる様な思いで居る事だけは、わかっていて。
「ゼオロは。俺の事好き?」
「大好きだよ」
「だったら、結婚してよ」
「だから、どうしてそうなるの」
 不意に、クロイスが手を伸ばして。俺の手を取る。咄嗟の事で俺はクロイスに身体を預けてしまって。クロイスの腕の中に納まると、何度か背中を軽く叩かれる。
「お前がそんな顔してるからだろ」
「……そんなに、私は変な顔してるの?」
 鏡は、ここには無いから。そんな顔って言われても、やっぱり俺にはわからなくて。でも、クロイスが今みたいに強引な言い方をするのは、とても珍しいから。きっと、酷い顔をしているんだろうなって思う。
「こんな事言うと、ゼオロは傷つくのかも知れないけれど。死んでしまった奴の事ばかり、考えるなよ。ゼオロは、まだ生きているんだから」
「わかってるよ」
「わかってない。全然、わかってないよ。今後の事も何も、わからないなんて。そんな風に言ってさ。明日、何をするのかも決めていないんだろ」
 言われて、確かにそうだと俺は思うけれど。明日、何をするのかとか、そんな事も決めてない。ただガルマの死を悼んで、一日中ぼーっとしているだろうなとか、そんな事は思うけれど。それが、少なくともハゼンを失った
時の様にしばらくは続いて。けれどあの時は、我が身に降りかかる災難のために、ずっとそうしてもいられなかったけれど。今は、もうそんな事もなくなってしまったから。
「ゼオロ。俺の事が、嫌だったら。そう言ってくれていい。でも、さ。そうやって、悲しんで。独りになろうとしないでくれよ。ゼオロは、生きているんだから」
「だって……」
 だって。ガルマも、死んでしまった。この世界に来て、そんなに時間は経っていないのに。俺が大切に思った人達は、皆すぐに会えなくなってしまう。死んでしまった人も居れば、立場上もう会えない人も居て。なんで、そうなって
しまうのかなって思う。そうは思っても、もうどうにもできないけれど。ハゼンやガルマ。それに、リヨクやヒナやアララブは。皆、死んでしまった。リュースも、そうだった。タカヤは。ヤシュバは、生きているけれど。もう会わない方が
良いと、相手から言われてしまったし。
「嫌な事からは、逃げて良いよ。ゼオロ。そうやって、お前が今俺の目の前に居るんだから。俺は、それを責めたりしない。でも。自分の幸せからは、逃げないでくれよ。もう、良いんだよ。幸せになっても、良いんだ」
 クロイスの言葉が、身体の中に吸い込まれてゆく。幸せになっても良いと、目の前の豹は言う。言葉を噛み砕いて、理解する度に。俺は自然と涙を流している自分に気づいた。さっきまでは、少し涙目になるくらいだったのに、
今はそれが、止め処なく溢れては。俺自身の力ではどうしようもない程に、流れている。
「でも」
 皆が、大変なのに。死んでしまった人が居て。生き延びた人が居ても、これから困難に立ち向かわなければならないのに。そんな中で、俺だけが。そんな風になって良いのだろうか。俺だけが、幸せになって。普通にすら
なれずに、両親から失望されて。こんな所まで、逃げてきてしまった俺が。
「いつ、言おうか迷ってた。でも、もう駄目だ。充分頑張っただろ。ゼオロは。俺に、できるのなら。幸せにさせてよ」
 いつの間にか、クロイスが俺の頬に擦り付けている部分も、濡れはじめていた。
 何も言い返す事ができずに、俺が泣き止むまでクロイスはそうしてくれて。俺もまた、クロイスが泣き止むまで、そのままで居た。

 見送りに出る人の数は、そんなに多い物ではなかった。
「本当に、行ってしまわれるのですね。ゼオロ様」
 俺の前に来たクランは、寂しそうな顔を隠そうともせずに言っていて。俺は思わず苦笑いをしてしまう。
「そんな顔しちゃ駄目だよ。クランは……いえ。クラントゥース様は。もう、族長であらせられるのですから。あまり、負担を掛ける物言いをしたくはありませんが。その双肩に狼族の未来が掛かっておられるのでございますから」
「ええ、そうですね」
 クランが、俺に抱き付いてくる。俺はどうにかそれを受け止めた。クランの背は俺がファウナックに居る間にもまた随分と伸びて、今では俺よりも少し高くなってしまったくらいだ。これは、どう足掻いても俺より背が高くなって
しまうだろうな。ちょっと悔しい。俺は相変わらずです。もう成長止まったっぽい。背が伸びる時期とはなんだったのか。赤い奴は嘘つきだな。
「でも。いつかまた、会いたい。お兄ちゃんと一緒に居られる時間が、短すぎるよ」
 小声で、クランが言う。まだ俺の事を、兄だなんて言ってくれるのは、とても可愛く見えるけれど。そういえばクランと共に過ごす時間って、いつも短かったんだよな。一度目も、二度目も。三度目の今回が、一番長かったのは
確かだけど。クランはクランで多忙になっていて、結局それほど俺と顔を合わせる事はなかったし。特に今は、とても微妙な時期だから。あまりクランが俺に阿る姿も、他の狼族には見せられる物ではなかっただろう。
「そうだね。次が、あれば。その時はもう少しだけ、ゆっくりクランと話がしたいな」
 それがいつになるのかは、わからないけれど。難儀な物だと思う。戦争が終わって、結界も無くなったというのに。狼族にとっての問題は、今まさに始まったばかりであって。そうしてその中に俺が居る事は、余計な混乱を
招くばかりなのだから。だからこそガルマは自分が死んだら俺には出てゆく様にと言っていたし、俺の考えもまた同じだった。俺がこのファウナックに居られたのは、偏にガルマのおかげだった。俺がここに居て、誰からも、
何も言われずに済んだのは。全てがガルマの指図による物なのだから。ガルマの命の期限が、同時に俺がここに居られるまでの期限だったのだ。そしてその期限は、命の灯が消えると同時に、過ぎてしまっていた。
 いつまでも、ここには居られなかった。クランとて、それはわかっているだろうに。それでも名残惜しそうにしてくれる。時折、忘れそうになるけれど。クランはまだまだ、子供なんだよな。俺の、今の見た目よりもまだ若くて、
それでいて俺の中身はもう少し歳を取っているのに、クランは当然だけどその姿のままの子供なのだから。そんなクランに待ち受ける運命を思うと、とても俺はここを離れたくなくて。できれば俺が支えたいところだったけれど、
やっぱり俺が居る方が邪魔になってしまうのも明らかなので。こうして、いつかの再会を夢見て今は立ち去るしかなかったのだった。
「いつか。狼族の姿勢を変えてみせるから。その時に、手紙を出します」
「そう。頑張ってね、クラン。でも、無理はしないで。ガルマ様も、自分と同じ様な目には遭ってほしくはないと思っていただろうから」
「はい」
 静かに、クランが俺から離れる。それから、俺の隣に居るクロイスの事をしばらく見つめて、頷き合って。
「ヴィグオル。ゼオロ様を街の外へ。この方の銀は、私には目の毒だ」
「心得ました」
 少しだけ、虚勢を張った様な物言いをクランがして。恭しくその命を受けたヴィグオルが、既に用意されていた馬車へと俺とクロイスを案内する。馬車に乗ると、既にクランは俺達には背を向けて、館に戻ってゆくところだった。
 とても忙しいのだろうな。また、会える日が来ると良いのだけど。
 馬車が、動きはじめる。館の外に出ると、既にヴィグオルの放った兵が道を確保してくれていたけれど。それでも狼族は集まっている様だった。一度目の、ファウナックからの脱出の時とそれは似ていて。けれどあの時とは
違い、俺の名が叫ばれる事もない。既に族長はクランに決まった事なのだ。ガルマの館の前で、俺を求める様な声が上がってしまえば、それは余計に俺の立場を悪くするものだから。今は俺を求める声も上がらない。
 ファウナックの街並みが、過ぎてゆく。やっぱり、この街の事は深く知る事ができなかった気がする。クロイスと共に何度か周る事はできたけれど、とても人目を気にしてする物であったから、街並みを見る余裕なんて物が
なかったし。ただ、地味な色合いの街だという事だけを憶えているから。もし、いつかまた戻ってくる事があるのならば。その時はもう少しだけ違った顔を俺に見せてくれればいいなと。淡い期待を抱いておく。
 街の外へと、ヴィグオルとその手下の案内を受けて俺達は出る。そこまで来ると俺は一度馬車を降りて、ヴィグオルに挨拶を済ませる。
「ありがとう、ヴィグオル。とても、世話になったね」
「あなた様のお役に立てるのならば、このヴィグオル。他の何を差し置いてでも、馳せ参じましょう」
「嬉しいけれど。それはクランに向けて言ってほしい言葉ではあるね」
「……申し訳ございません」
 諦めて、俺は苦笑する。ヴィグオルの、まっすぐな忠誠心は美徳だと思うけれど。簡単に変えられる物ではないのだろうな。だからこそ、こういう人が味方になってくれると、心強いのだけど。
「また、会えるといいのだけど。いえ、ここに戻ってくる事が、できたら」
「そうですね。ですが、しばらくの間は戻られぬ方がよろしいかと存じます」
「やはり、クランと私が一緒に居るというのは。狼族には、よろしくない様に見えてしまうものなのかな?」
「それも、そうなのですが。その……」
 ヴィグオルが、言いよどむ。それから俺の機嫌を窺う様な仕草を珍しくしてくる。普段ならば大抵の事をヴィグオルは口にするタイプだったので、俺は少し首を傾げてしまう。忠誠心は、確かな物だけど。だからといって、
主に対する諫言を躊躇う様な人物ではないから。それなのに、言いよどむという事は。俺が傷ついてしまわないかと、そう思っているのかも知れなかった。
「いいよ、言っても」
「恐れながら。……そのう、ガルマ様の寝所に立ち入られ、ガルマ様との接触をされていたゼオロ様の事を、訝しむ様な不埒な輩が居るのは、確かな事でありまして」
「私が、ガルマ様に毒を盛ったと。そう言いたいの」
「とんでもない。その様な。いえ、あくまでその様な物言いをするけしからん輩が居るというだけであって、どうかお許しください」
 ヴィグオルが、身体を震わせていた。大の男が何をと言いそうになるけれど。どうやら今の物言いで、確かに俺は僅かな間、我を忘れて怒ってしまったのは確かで。慌てて、俺は掌を自分の顔に当てて自制をする。そういう
意見も、あるだろうなとは思っていたけれど。実際に言われるとやっぱり堪える。俺がガルマにした事なんて、ただ助け起こしたり、背中を擦ったり、食事の手伝いをしたりと、介護に近い物であったというのに。それが、
そんな風にまで言われてしまうのは、流石に気が滅入る物だった。もっとも異世界人であると既に知られた俺が、ガルマに軽率に会いに行くのも悪かったとは思うけれど。とうのガルマは、ただ俺に傍に居てほしかったという
だけであるのに。
「ごめんなさい。ヴィグオルがそう思っている訳ではないのに」
「いいえ。その様にお怒りになられる方が、自然という物でございます。勿論、その様な馬鹿な話が現実の物であると信じている者は多くはありません。館の多くの者は、ガルマ様の不調はずっと前から続く物である事を弁えて
おりましたし、そこにゼオロ様がいらっしゃって、ガルマ様が気力を取り戻してくださった事を泣いて喜ぶ者ばかりだったのでございますから。ですがその様な事もあり、また先程ゼオロ様が仰られた通り、クラントゥース様の
件もあります。あなた様を困らせてしまう事を承知の上で申し上げますが、私とてここであなた様を行かせてしまうのは、とても残念な事だと思いますし、ぜひともお供したいと思ってもいるのですが。何分、ガルマ様にも
厳しく言い渡されております。ゼオロ様。どうか、お元気で」
「ありがとう、ヴィグオル。ヴィグオルも、身体に気を付けてね。大変な事が、きっと続くだろうから」
 ヴィグオルが、直立して俺の言葉を受ける。その瞳は潤んで、流石に涙を流すとまではいかなかったけれど。それだけでこの黒い狼族の男の忠義が、伝わってくる様だった。その視線を受けながら、俺はクロイスが
待っている馬車へと乗り込んで。クロイスが声を掛けると、静かに馬車は動きはじめる。ここへ来た時と同様に、再び俺とクロイスの旅が始まって。
 そして俺は、三度目のファウナックも、後にしたのだった。

 ギルス領から飛び出した俺達は今、兎族の地であるディーカン領に足を踏み入れていた。
 特にディーカン領自体に当てがあった訳ではないけれど。族長のリスワールに会えれば良いかなと、そう思って。ガルマを看取って、その話を伝えなければならなかったし。その上でファウナックを出たとしても、俺が
ギルス領に留まるのも良くは無かっただろうし。
「こういうと、酷いって言われるかも知れないけれど」
「酷い」
 馬車でゆらゆらしている時分。暇なので、クロイスと今後の狼族の動向について語っていると、そんな話が始まる。とりあえず先制で何か言っておく。クロイスが苦笑していた。
「まだ何も言ってないよ。……クランが正式に族長になった今、ゼオロがファウナックに留まる事にならなくて良かったよ。ガルマが権勢を振るっていた時代なら、ゼオロはガルマと同じ銀を持っているけれど異世界人で、クランは
遠縁の銀狼っていう問題があったから。要はどちらも狼族の族長に求められる物に関しては、画竜点睛を欠いていた訳だね。だからある意味ではバランスが取れていたとは思うよ。けれど、クラントゥースが族長になった
今となると、これはわからなくなってくる。事実として見ればクランの方は確実に一歩前に出た形だし、何より族長という席に収まったのだから。けれど、そうなればなるほど、ゼオロが族長になればと思ってる輩にとっては、
盛り立てたくもなる物さ。何もせっかくガルマと並ぶ銀狼であるゼオロを手放す必要は無いと判断するだろうしね。クラン自身が、ゼオロになら族長になってほしいとも思っていたのだから、尚更だね」
「私を盛り立てようとする人なんて、居るのかな」
 今更だけど。よく俺を盛り立てよう、なんて気になるなと思う。確かに俺はカーナス台地では活躍したのだろうけれど。それ以外では、少なくとも狼族にアピールする形では何かしたとは言い難いし。その上で戦える訳でも
ないのだし。クランは相変わらずめきめきと魔導の腕を磨いていたから、その内にガルマの様な使い手になるのではないかと思われていたけれど。それと比べれば俺には相変わらずそんな素質は無くて。だからといって
民政だの、戦だのに精通している訳でもないのだし。真の銀の価値が怖い。
「いくらでも居ると思うよ? それに……前も、聞いた話だけどさ。ゼオロの子供がっていう話」
「ああ。でも、もうクランに決まっちゃったじゃない? 今更覆らないよね流石に。というか今から子供作るのが大分気の長い話だけど」
「考えてみたんだけど、クランを一時的に族長に座らせて。ゼオロの子供が育ったら交代させるって画策してる奴も居たんじゃないかな」
「ファウナック、出てきてよかった」
 出てきて良かったファウナック。いい加減真の銀だかなんだか知らないけど、さっさと銀狼への未練は断ち切ってほしいものだな。クロイスに今言われた事で、俺はより一層、しばらくギルス領に帰る事はできないなと確信する。
「まあ、俺もゼオロちゃんをそんな風に使われるのは心外だし? さっさと出てきて良かったね。クランの影響力次第では、長居したら他の奴らが何するか、わかったものじゃなかったし」
「そんなにクランの影響力は低い物なのかな」
「少なくとも、今のところはそうとしか言いようがないね。今後は、それこそ本当にクラン次第。まあ、あれで結構強かなところはあるのは、俺もわかってるし。親父やリスワール様がなるたけ補助する形になるだろうから、
大丈夫だとは思うよ。ゼオロもここに居るし。内部の事は、ヴィグオルがガルマに任されていたしね。あとはもう、信じるしかないさ」
「無責任だったかな」
 ふと、俺は呟いてみて。確かに無責任な事はしてきた気がするかなと思う。俺の気持ちだけを無視して考えれば、俺が族長になって。俺の子供もまた、俺と同じ銀を持っていれば。それがギルスの血なのかはさておいて、
真の銀という物は受け継がれてゆくのだから。
「無責任じゃない、とまでは言わないけど」
 クロイスが、俺の頭の上に頭を乗せてくる。相変わらず定位置。馬車の中だと、揺れたらぶつかるんだから止めたらいいのにとは思うんだけど。
「でも、異世界人だからねゼオロは。それに俺だって、ゼオロが族長になると流石に一緒に居る事は許されなくなるかも知れない。そんなのはごめんだね。ゼオロが心から族長になりたいのなら。少し考えるけれど」
「心からなりたくない」
「ん。ならいいでしょ、これで。それに、結局ゼオロの目的って。ガルマに会うって、ただそれだけの事だったんでしょ。狼族の問題を解決するとか、そんな大それた物でもないし。俺は、狼族を知る事ができたんだから。だから、
目的は果たしたった事で。前を見ようよ」
「そうだね」
 そりゃできるのなら狼族の問題も何もかも解決したいところだけど。それをするのには、時間も、ガルマの寿命も足りなかった。ガルマが居る間が、族長を受け入れぬ態のまま俺がファウナックに居られた期間でしか
なかったのだから。クロイスと街に出向いたりして、赤狼の人達に声を掛けたり。銀狼の俺と、スケアルガのクロイスがそれぞれに仲睦まじい様子を見せて、狼族がほんの少しでも外に興味を持ったり、ラヴーワの他種族の事を
良き隣人、良き仲間として見る様になってくれたらと思うけれど。そんな事は流石に、あの短期間で実現できる事ではなかった。だからあとは、クランの仕事なのだろう。と、思っておこう。ごめんなさい。ちょっと、無責任でした。
 馬車は進んで、ディーカン領を行く。兎族の地であるからして、既に馬車から見える景色も先のギルス領とは大分異なっていた。まず確実にわかる事として、兎族以外の姿をよく認める事ができる。勿論、隣り合っているの
だから狼族の姿もまだまだ見掛ける。けれどその中に猫族や、虎族。更には少族の姿まで垣間見る事ができるのは、とても新鮮な物だった。ギルス領からそれ程離れた訳ではないというのに。目に映る種族からして、既に
違っているのだから。如何に狼族の抱えた問題が大きく。また俺一人の力でどうにかできる様な物ではなかったのかを、改めて知る事になった。ただ、俺はこの辺りの狼族の姿を見て。狼族の未来が、決して暗い物では
ない事も知る。ギルス領から外に出ている狼族は、はっきりと言えば銀狼にそこまで忠誠を誓っている訳ではない。勿論親しみや畏敬を抱いて、一礼してくれる様な人も多いけれど。ギルス領から出る事のない狼族とは違って、
他種族ともある程度の交流を良しとしている部分があった。それでも、狼族同士で固まる事も多いのだろうけれど。ミサナトでもそんな感じであったし。
 けれどそんな中において、明るくて活発な兎族の存在は非常に効果的に働いている様だった。これもまた他の街で見た光景だったけれど、誰であろうと仲良く接する兎族にとっては、狼族もまた変わる事はなく良き隣人
なのだった。リスワールとガルマがかつては族長同士であって、友と呼ばれる間柄だった事からも、その関係は後押しされている様で。その上でディーカン領であるからして、兎族の数も多い。自然と、他者を受け入れる
当たり前の流れが、そこにはできあがっていた。また、そうであるので。兎族の地であるというのに、他種族の姿もやっぱり多く見られて。場所によっては、ここは本当に兎族の地なのかと。どちらかと言えば、中央部に
居るかの様な錯覚を起こさせる。他種族と比べて比較的身体の小さな兎族が、商いの指揮を取って。荷運びなどは、狼族や、牛族が担当する。個人にしろ、団体にしろ。そんな商いの形が取られている光景は、非常に
よく見る事ができた。それに、街並みも。既にいくつかの街並みを経て、俺達は会えるかはわからないけれど、リスワールの住む都へ向かっているので。その街並みもやっぱりギルス領のそれとは比べようもない事がよくよく
伝わってくる。華美という程ではないけれど、華やかで清廉された街の造りは。決してギルス領では見る事のできない様な光景だった。ただ一つ、ガルマの館を。今は、クランの館となった、銀狼の館を除いては。
 何から何まで、ギルス領とは違うんだなって。俺はそれを見て思う。
「この辺りはまだ地味だな。早くリスワール様の居るルディナに行きたいなぁ」
「えっ。ここでまだ地味なの」
 窓から街並みを楽しんでいる時に、クロイスがぽつりと零した一言は衝撃的な物で。俺は思わず、振り返ってしまう。クロイスはにこりと笑って俺を迎えてくれた。
「地味っていうか、田舎の方よ?」
「でも、ミサナトと同じか、それ以上なんだけど。既に」
「まあ、ミサナトはスケアルガ学園があるし、魔導はラヴーワの民に、その才を示すのならば等しく与えられる物であると謳っているから、種族の特色も必要以上に出すのは憚られるからね。地味っていうか、質素って言うのが
正しい感じで。それでも、みすぼらしい訳じゃなかっただろ。ここは、ディーカン領はまた別って事。兎族は商いを営む者が多いっていうのは、もうゼオロちゃんがご存知の通りだけど。リスワール様だって、大変に商売人気質で、
その手はこの地からは遠いはずの翼族、爬族にまで及ぶし。今はランデュスにだって多分届いてるはずさ。戦時中は、リスワール様は流石に族長だからそういう事はできなかっただろうけれど。それでも兎族の商魂逞しい
奴らなんかは、自分の隊商を率いてはラブーワとランデュスを行き来して。道中の少数部族からも価値のある物を集めては、ラヴーワの品をランデュスで、ランデュスの品をラヴーワで卸しては生計を立てていたんだからさ。でも
種族間の問題っていうのは、やっぱりある訳だろ。そういう時、ただ人懐っこいだけじゃ上手くゆかない時もある。だから兎族は商売の手でもって、他の種族の中に入り込むのさ。どんな生活にも、どんな生き方にも、最低限
腹に収める物は必要であるし。生活が豊かになれば、入り用な品は自然と増えてゆく。現金な言い方だけどね。そして、そうする上で見た目ってのはとても大切になる。街並み一つとっても、それは変わらない。今にも
潰れてしまいそうな、がたがたな店構えの店主を見て、儲け話があるだなんて思わないだろ? だから兎族の地であるディーカン領では、まずはどんな種族から見ても、羽振りが良く見える様に。街並みも、ギルス領の
それとはまったく異なった物になるんだよ。羽振りが良ければ、儲け話があって。そういう所には人が集まるからね。例え無くても、それを期待して人が集まれば。それはもう、何かしら儲け話が産まれる瞬間にもなるのだし」
 クロイスが得意気に説明をしてくれる。なるほど、だからギルスとディーカンで隣り合っているのに、こんなに見た目も違うんだな。狼族は、ガルマより目立つ様な真似を無意識に避ける傾向にあるけれど、兎族にとっては
そんな事はまったく気にするべき事柄ではないのだろう。それに確かに羽振りが良さそうで、その上でにこやかな兎族がやってくるのだから。それこそ大自然の中で常に自給自足で生き続ける様な人種でもない限りは、
入り用な物の都合を付けてくれる兎族の存在は、とても有り難いのだろうな。
「それに、狼族の数も多いだろ? 隣り合っているから。それだけが、理由じゃないと俺は思うけどね」
「都会に憧れるって奴?」
「まあ、身も蓋も無い言い方だけど」
 この辺りも、まだ田舎の方だそうだけれど。確かにギルス領とは比べようもない。注意深く見てみると、集まっているのはどちらかというと若い狼族が多い。若者にとっては、確かに色からして地味なギルス領は、退屈に
思える事もあるのだろうな。そんなギルス領と、とりあえず見た目は儲かってる様に見せているディーカン領が隣り合っているというのも、なんだか変な感じだけど。あれだ。まったくお洒落に興味が無い奴の隣に、お洒落な
友人が居るかの様だ。そう言いかえると、なんか変だけど面白い。実際、そんなお洒落な友人はあちこちに出向いて、交友関係も広いのだけど。なんだ、やっぱり俺は狼族に合っていたのか。納得した。
「ベナン領と、似てるんだね。あっちも獅族の土地なのに、色んな人が居たけれど」
「そうだね。まあ、あっち程お盛んじゃないけどね?」
 お盛ん、の部分をクロイスがいひひひって笑いながら言ってくれる。あんまり似合う笑い方しないでほしい。
「良かった。バンカの街みたいなのは、ごめんだからね」
「えー。良い街じゃん? 俺が育っただけはあるっしょ」
「それはよくわかったけど。他の所だったらクロイスももう少し真っ当だったのかと思うと」
「何それ。今だってめっちゃ真っ当じゃん。健康的じゃん? その証拠にお盛んで」
「クロイスと一緒になったら。浮気されないか心配だな」
「そんな事する訳ないでしょ。というかゼオロちゃんと知り合ってから、俺全然そういう事してないよ。凄い一途じゃん。なんでそういう風に言われちゃうかなぁ」
「やっぱり態度がそういう事する様な人にしか見えないからじゃない?」
「割と傷つくわぁ……。俺はどっちかっていうと、ゼオロちゃんの方が心配だけど。モテ過ぎでしょ。怖いわ」
「しっかり守って、繋ぎ止めてね」
 そこまで言うと、またクロイスの頭が降ってくる。これが警備システムか。
 そんなやり取りをしながら、俺とクロイスは兎族の地を進んで。その内にディーカン領の中心であるルディナに辿り着く。クロイスが先に言ってくれていた通り、その街並みはそれまでとは更に比べようもない程に豪華な
物になっていた。豪華過ぎるとまでは言わないけれど、道を通ればまず間違いなく着飾った人々を見る事ができるし、 豪奢な身なりの、恐らくは商人と思しき兎族なども、数えたらきりがない程だった。道となる石畳でさえ、
地味な色合いではなく。中央に近い程色味の薄い物を使う事で、例え人込みに埋もれたとしても、最低限歩く場所がどこであるのかは教えてくれる様になっているし。店の看板もよく目立つ様に掲げられていて、それが
どこまでも、どこまでも続いている。なんだろう。商店街みたいな。でも、それと比べるともう少しだけ整えられて、雑多な印象という物はあまり受けない。
「物が集まるって事は、流行の最先端でもある。ああ、良いね。バンカも俺は勿論好きだけど。この街でなら、良い服買えそう。ゼオロちゃんもどう?」
「嵩張るからやめようね」
「そんな事言わないでさ。リスワール様に会うのだって、もう少し着飾らないといけないよ?」
「リスワール様は、結構地味な感じだったと思うけど」
「そりゃあ狼族に遠慮したに決まってるじゃーん。さあさ、そうと決まったなら。まずは服を買いに行かないとね」
 そんな事をクロイスが言って、俺の意見はどこかへと行って。そのまま今日の宿を手早く取ると、クロイスは俺の手を取ってさっさと街へと繰り出してしまう。俺はといえば、ひたすらに引っ張り回されるだけで。けれど、その
街並みは確かに狼族のそれとは比べようがない事は、実際に歩いてみて頷かない訳にはゆかなかった。背の低い兎族が中心だから、ある程度こじんまりとした店があるのも良い。俺と丁度良く合ってる。悔しい。中には
背の高い兎族も居たけれど。俺の知っている知人で兎族というとリスワールくらいの物だけど、背の高い兎族というのはそれはそれで恰好良い物があった。びしっと身形を整えた長身の兎族となると、可愛いには可愛いけど、
なんとなく紳士的な印象も受けてしまうし。俺がそんな事を思って兎族を見つめていたら、いつの間にかさっさと服を新調したクロイスが張り合って甘い顔をして俺に囁いていたけれど。俺はそれを無視して、とりあえず
リスワールに会うのに失礼ではない程度に、それでも地味な服を選んでは残りの時間を観光を楽しむ事に当てていた。少族だけではなく、ここでは水族の姿も目に入る。それから、やっぱり活気がギルス領とは段違いだった。
「外界に行ける様になったからね。本当に盛り上がってるのは、実際に陸続きで外に行けるもう一つ隣の猫族の方だけど。そこと隣接する以上、元からの活気に、更に活気が加わるもんだから。毎日がお祭りみたいな
もんじゃないかな」
「なんだか、一つの国なのに本当に全然違うんだね。前に……ヒナと一緒に歩いた時は、あんまりそういう暇が無かったから。私はそこまで詳しく街を見ていられなかったけれど」
「まあ、一つの国って言っても。実際にはそれぞれの部族が集まった以上、それぞれの国がくっつている様な物だしね。それでもここみたいに色んな種族が入り交じったりもするけれど。元々兎族は、ラヴーワができる前から
こんな感じだったらしいけれどね。ほら、あっちでは出し物までやってるよ。服はやっぱ、ゼオロちゃんの言う通り買い過ぎると馬車には積めないし。少しは見て回ろうか」
 そう言って、片手で抱えられる程度の袋を持ったまま束の間のデートが始まって。クロイスはギルス領であった悲しみを吹き飛ばすかの様に、満面の笑みを浮かべては俺の事を案内してくれる。そういう部分を見る度に、
確かに俺にはクロイスくらい明るい人の方が良いのかな、なんて思ったりする。もう恋人同士だけど。なんだか今までは、あんまりにもどうにかしてその場を切り抜けるのに必須で。自分の隣に居てくれる人の事をきちんと
見る機会がなかったから。その後も、結局はファウナックに雪隠詰めの様な状態のまま一年近く過ごしてしまったし。ここまで辿り着いて、俺はようやく自分の隣に居る人と、楽しく、素直にはしゃぐ事ができる様になったと
思う。豹だけど。
 走って、珍しい物を見て。その度に笑って。俺も、なるたけ笑う様に務めていた。クロイスがそうして気遣ってくれる事がわかるくらい、俺はまだファウナックの事を引き摺っていたし。リスワールにもし会えたとしても、
その時にはガルマの事を告げなければならないから。今だけはと、楽しむかの様に。
 陽が沈むまで騒いで、宿に戻った時には。俺達は馬車の御者さんが呆れて苦笑を見せるくらいには、へとへとな上に。ちょっとお酒も頂いて、酔っている状態で。そのまま部屋へと引き取ってから、今更出た旅の疲れに
包まれて、ほとんど夜更かしをする事もなく眠りについていた。

 高い時計台が、印象的だった。
 兎族の都であるルディナは、ガルマのお膝元であるファウナックとは、やっぱり対照的な物として俺の視界に広がっていた。ガルマの居城だけが背が高く、また豪華なファウナックとは違い、この街にはあちこちにそれなりに
高い建物があった。それなり、というのは。元々涙の跡地が結界に覆われていた事で、あまり背の高い建物を建てる事を好ましく思わぬ風潮があったからで。そんな中でも、その時計塔は他より一層背が高く、聳え立っている
という表現がぴったりだった。魔導と絡繰りが融合した事で動くそれは、時間に合わせた鐘の音を響かせては、来訪した俺とクロイスを迎えてくれた。
 街並みを馬車で進みながら、俺は街の中心部であるリスワールの館へと向かっていた。一つ前の街に到達した時点で、既にクロイスから連絡を出してもらっていて。リスワールはそれを快諾してくれたので、何を躊躇う
必要もなく、俺達は一直線にリスワールが待つ場へと向かう事ができる。その道中の街並みは、やっぱりこれまで見てきた兎族の街よりも、更に豪華で。けれど決して派手すぎず、しつこくはない。そんなギリギリのところを
攻めた様な物が多かった。中には、その加減がわからずに。ふんだんに金をあしらった店構えに、同じ様に金の装飾に身を包んだ恰幅の良い兎族の商人の姿もあったけれど。あれ、本物の金なのかな。高そう。
「何か、建ててるの?」
「ああ、あれはね」
 馬車で進みながら、高い高い時計台よりも、更に高い建物を建設しているのが見えて。俺は思わずクロイスに訊いてしまう。クロイスはディーカン領自体は初めてではないのか、道中でも俺に様々な事を教えてくれたけれど、
俺がそれを訪ねると同じ様に建設中の建物を、眩しそうに見つめていた。
「へぇ、話には聞いてたけど。本当に建ててるんだな。実は、あれが新しい時計台になるって話なんだよね」
「既にあるのに?」
「まあ、それだけが目的じゃない。結界が消えただろ? それまでは、高い建物っていうのは。それにぶつかるから良くはないって言われて、あまり好ましく思われてなかったんだよ。まあ、だからと言って実際に結界に
ぶつかるためには相当高く作らないといけないし、それは中々難しかっただろうけれどね、技術的に。ゼオロの居た世界の様には、多分進んでないし。話に聞いただけでわかるわ」
「ああ、うん。そうだね。あっちは地震もあるから、その辺りしっかりしてたし」
 そういえば、こっちでは地震ってあんまり起こらないななんて思った事もあったっけ。元の方が多いだけだったんだよな。
「結界が無くなったから、気兼ねなく建ててるって事?」
「それもあるけど。要は結界が無くなった事実を、もっと大々的に周りに伝えたいって事。もう、そんな物はどこにも無くて。だからこれからは、ああいう建物を建てる事が憚られたりはしないってね。とはいえきちんとした技術が
ないと、大変な事になるから。今は結構、慌ただしく進めてるそうだけどね? 造形や建設の技術に秀でた牛族と、力仕事のできる虎族。この辺りが兎族の招聘を受けてね。結構な人数がこっちに渡ったって、いつだったか
話になってさぁ。種族的な特徴で、兎族はそこまで筋力に秀でていないし。材料の都合ならいくらでも商いの範疇だから問題ないんだけどね。まあ、そんな訳で今はリスワール様主導で、あれを建ててるって話だよ。この
ディーカン領に、兎族の地にそれが立つってのが、如何にもって感じだけどね。あれを建てる事で、兎族の財力と。携わった人達の技術の素晴らしさを喧伝する訳。特に技術を持っていたけれど、今まで高い建物にはそれが
活かされる事のなかった牛族に関しては、かなり乗り気だって話だよ。あんまりやり過ぎて中央から睨まれないといいねって話だけど。ラヴーワのほとんどの人物よりお金持ちのリスワール様がする事だからね」
「そんなにお金持ちだったんだ。知らなかった」
 本人は、まったくそういうのをひけらかす様な人物ではなかったしな。まあ、兎族にとっては商いを通じて周りとの交流を計るのが目的だから。お金が第一って感じにはならなかったのだろうけれど。
「兎族も凄いけど。牛族も、凄いんだね。私は面識ほとんどないけれど」
「そうだね。それなりの建物を建てる際は、大抵牛族の手を借りるっていうよ。ファウナックの、あの館も。狼族だけではギルスの者が座るのには不足があると言って。狼族が例外的に牛族に依頼をして造らせたって話だし」
 そんな話をしながら街を抜けて、馬車は走って。やがてはリスワールの館に辿り着く。辿り着いて、丁寧に出迎えられて。馬車から降りた俺はリスワールの館を見てしばらく口を開けたまま固まってしまった。
 でかい。おかしい。ガルマの、今はクランの館となったあれも結構な大きさだなって思っていたけれど。あっちはどちらかというと横に広かったのに対して、リスワールの館はまるでお城みたいだった。居城という言葉が
まさに言葉通りに当てはまる様だった。白亜で統一された壁は、青い屋根の帽子を被って。見上げているだけで、まったく別の世界にでも来てしまったかの様な錯覚を覚える。別の世界だけど。
「前は、遠くから見るだけだったけど。やっぱ、デカいねここのは」
「建てる時、大丈夫だったの?」
「あー……。結構言われたんじゃないかな。まあ、金で引っ叩いたんでしょ。やったのはリスワール様よりずっと前の族長だから、別に気にする事じゃないよ」
 身勝手な話をしていると。その内に使用人と、それから執事を名乗る背の高い兎族のおじさんが飛んできて俺達を丁重に迎えてくれる。流石にリスワールの住処ともなると、兎族の割合は街中よりもずっと多い。それでも
兎族以外の姿も見受けられる辺りは、流石にリスワールだなと思う。ファウナックでは、そんな事は許されなかっただろうし。
 案内されて、リスワールとの面会に使われると思わしき部屋へと案内される。その部屋も、やっぱりあれやこれやと造形には凝っていた。部屋の隅にはいくらするんだろって思う様な花瓶に、今朝活けられたのがわかる
黄金の大花が咲き誇っていたし、壁には立派な額縁の中に涙の跡地の地図と、それを拡大したかの様にこの辺りの地域の詳細を記した地図と。それからもう一つ急ごしらえの物で、壁を一番に占有している地図があった。
それは真ん中に、涙の跡地の小さな地図だけを描いて。それ以外の部分は大きな空白を取ってあって。それがどうしてなのかは一目でわかる。これから、その全てが記されるからだろう。既に涙の跡地の周辺の部分は、
僅かな書き込みが見られる。なんだか不思議な気分になる。俺はこの世界に来て、だから何も知らない事が多くて。どこを歩いたって、それが街の中だって。あの角を曲がったら、それがどこへ続いているのか。そこに、
どんな景色が広がって。どんな種族の人が居るのかもわからなくて、それはワクワクする物だけど、この世界の人にとっては、それは知っていて当たり前の事で。なのに今は、俺も、この世界に元から住む人もわからない、
未知その物が広がっているのだった。壁に掛けられた、その白に塗れた地図には。訳もなく、見る者の心を揺さぶる何かがある様に思えた。
「あの白い部分が。その内、全部記されるんだろうな」
 俺と同じ様に席についたクロイスも、早速それに目を奪われていた様だった。いつの間にか、この部屋には俺とクロイスと、後ろで控えている使用人だけで。俺達をここまで案内してくれた執事が、主であるリスワールを呼びに
行く旨の言葉を言っていただろう事にも、気づいていなかった。
「どこまで広がるんだろうね、あの地図」
「あれじゃ足りないくらいかも知れないな。なんか、良いね。自分の知らない物が、目の前に広がってるのってさ。魔導の勉強をしていて、よく思ったけれど。俺達が学ぶ事って、先人がとっくに辿り着いた事柄ばかりだろ?
でもさ、今だけはそうじゃなくてさ。俺達から、始まる事なんだよな。後の人には、ちょっと申し訳ない気もするけどさ」
「わかるよ」
 目の前に不思議な物が広がっていても。それはとっくに、過去の人が調べ尽くした事で、不思議そうなだけであって、もう不思議ではなくて。それがなんだか勿体ないというか、残念に思ってしまう。そういう事を、俺もいつか
考えた事がある。空に浮かぶ綺麗な月を見て、あれはあんなに不思議なのに。あそこに何があるのかは、もう調べがついてしまっているんだなって、そう思ったりもするし。勿論まだ知らない一面は、あったりするのかも
知れないけれど。それを考えれば、今はまさに、横一列で。皆で新しい物に触れられるんだな。まあファウナックに半年以上留まってしまったのだし、馬車で移動する事まで含めたら。仮に今から俺とクロイスが、外を
知りたいと飛び出しても、大分遅れてしまっている事には変わりないけれど。それでも、そこから伝わる情報は。やっぱり昔の人でも知らない様な物ばかりなんだろうな。唯一、それを知っていたであろう竜の神様は、
居なくなってしまったみたいだし。
「待たせたな」
 白い地図に見惚れていた俺達に、不意に凛とした声が届く。それを聞いて、大慌てでクロイスが立ち上がって。俺は遅れて立ち上がる。開かれた扉から現れたリスワールは、やっぱり俺と同じくらいの背で、ちょっと
安心する。けれどその恰好は、確かに今まで見ていた物よりも、少し違っていた。前は魔道士然とした、深い色のローブを纏っていたけれど。今それは、クリーム色の物に変えられて。それから、まじない紐の様な首飾りが
無くなった代わりに、兎族の特徴的な耳にはピアスが、腕には細い何重の輪が。それぞれ眩い金色で主張をしていた。真っ黒な被毛の大地の上を、金が彩る様はなんというか、そう。高級感があった。語彙の乏しい
感想だなこれ。
「ほう。クロイス殿、その様な恰好をするのも、中々様になるではないか」
 挨拶もそこそこに、リスワールは早速相好を崩してクロイスに微笑みかける。とうのクロイスはというと、リスワールからは見えない位置で尻尾を跳ねさせながら、満面の笑みを浮かべていた。うわ、凄い笑ってる。あんな
顔あんまり見ない気がする。いつもにこにこしているけれど、よっぽど嬉しいんだろうなクロイス。完全にリスワールのファンなのか。
「ええ。こうしてリスワール様の御前に参るからには。こうした恰好も、ぜひしてみたくて」
 そういうクロイスの姿は、頭に布を撒いて。前の開いた服に、腹回りにも布を撒いて。袖やズボンはたっぷりとした膨らみのある、藍色に金の刺繍の施された服だった。一見して商人の様な恰好であるそれを、俺は最初
リスワールに会うのにするのかと訝しげに見つめていたけれど。商人気質の兎族の中に限っては、この商人スタイルというのは正装の役割も果たすとクロイスに力説されて、俺から言っても仕方がないと引き下がったのを
思い出す。とうの俺は、いつもと同じ。ただそれだと流石に華やかさに欠けるというので、紫の軽い肩掛けだけを付けていた。正直これも落ち着かない。もっと地味にしたい。
 リスワールはクロイスの恰好をお気に召したのか、前よりもずっと気安くクロイスに話しかけてくれる。クロイスはすっかり有頂天になっていて。しばらくはその話が続いて、その内に落ち着いてから。ようやく本題の話が
始まる。
「ガルマの最期を、看取ったのだな。ゼオロ」
 席について向かい合うと、リスワールはまだ笑っていたけれど。その笑みは、違う物へと変わっていた。失った友を思っては、寂しく笑うそれで。俺も静かに頷く。それから、話を始めた。ガルマの最期が、どの様な物で
あったのか。それは殊更に説明が必要な事とは思えなかったけれど、ガルマも、リスワールと会う頃にはとうに穏やかな、死を待つ者のそれを纏っていたのだし。リスワールも、俺の口からどんな風にガルマの事柄が
飛び出すのかは、予想がついているだろう。それでも俺は見たままの事を口にしたし、リスワールも静かに何度も頷くだけだった。知らぬままでも、推測だけで充分に見通せるのに、それでもあえてと言うのだから。俺はただ、
リスワールの気が済むまで、ガルマの事を語った。それからその後を継いだクランの事も。今後は遠縁の銀が族長となって、狼族を率いてゆくのだろうと。真の銀からの脱却が、始まったのだと。
「ありがとう。ゼオロ。お前の話が聞けて、良かった」
 そう言ったリスワールの瞳には、黒い被毛の黒い瞳でもわかる涙が光っていた。なんとなく、そうしていると。リスワールも歳なのだなと、今更気づかされる。見た目は、到底そうは見えないのだけど。その立ち居振る舞いは、
やっぱり老年のそれの匂いを漂わせていたし。
「リスワール様は、ガルマ様と、どこでお知り合いになられたのですか」
 だから俺は、ついそんな事を訊いてしまった。そうするとリスワールがさっきよりも明るい笑みを浮かべてくれる。俺が口にした事で、リスワールもそれを思い出しては遠い記憶に浸っているかの様だった。
「もう、随分昔の話だな。先代の兎族の族長。まあ父の事なのだが。兎族はほれ、この様な状態だろう? 他種族とは、それが誰であれ付き合いはする。それでも狼族となると生半な事ではなかったがな。父が族長だった
時に、私はガルマと知り合ったのだよ。元より虎族や、国を出て少数部族や、ランデュスとの細々としたやり取りをするのには、ギルス領を通る必要があったからな。そういう話をしに、若かりし頃の私はファウナックへ
向かったのだよ。とても、散々なおもてなしを受けてしまったがな! 今でこそ、私は勝手な顔をしてファウナックに踏み入るのも許されてはいたが。当時は街の中に入るのでさえ、態々その旨を伝えては、許可を待たなければ
ならなかったのだよ。面白い話だろう? 門戸の開かれた街を前にして、この私が、許可が出るまで野宿をしていたのだぞ? まあそれだけ銀狼と他種族では、彼の地では扱いが違っていたという事なのだがな。それを
考えれば、ガルマは随分頑張ってくれた方なのだよ。今狼族の地に、兎族の姿を多少なりとも見る事ができるのも、大体はあいつのおかげなのだよ。ゼオロ。お前からすれば、ハゼンの一件もあって。それはつまり、
ガルマは大した事をしていない様な奴に見えたのかも知れないが。そんな事はない。あれは、とても頑張っていたのだよ」
「存じております。……いえ、私がこう言っても。ガルマ様の全てを、理解している訳ではありませんが」
「それで良い。全てを知るのは、中々に難しく。そうしてもう、死んでしまったからな。そんな訳でな。当時ファウナックへ赴いた私は、そこでガルマと出会ったのだ。当時はまだ、グンサも存命であったからな。族長はグンサで
あったが、これがまたグンサというのは肝魂の大きな奴でな。懐の深さという物は、確かにあったのだが。その性分はどちらかと言えば戦向きの物で、内政などという物にはからきしだったのだよ。それでも、そのグンサの
活躍振りもまた、筆舌に尽くし難い程の素晴らしさであったのだから、文句を言う訳にもゆかなくてな。ただ、そうであるからして。ファウナックの空気等という物は、それこそグンサに任命された者達が取り仕切って。またそういう
奴らは、グンサに、銀狼に。真底から心酔しきっているが故に、その様に銀狼だけを頂き、それ以外は許さぬという風潮を作り上げてしまっていたのだな。そんな中で、私はガルマと出会った。私が初めてあった時のガルマ
というのは、実はな。結構、内気な男だったのだよ。信じられんだろう? あいつ、晩年はどこでそんな遊びを覚えてきたのかと言いたくなるくらいに不良だった癖にだよ。ゼオロ。お前も、苦労したのではないか?」
「しましたね」
 思わず、俺は笑ってしまう。初めて会った時の、ガルマの振る舞い方は大分あれだったし。その後も俺が傍に居る時は、その積み重ねた年齢はどこへ行ったのやらというくらいに我儘な時もあったし。それでも、俺を本当に
困らせようとはしなかったけれど。
「ガルマは、兄と比べて己の不出来を恥じている男であってな。当時は私が心配してしまうくらいに内気だったのだよ。まあ、だからこそ話も通じたのだがな。ガルマは銀狼を崇拝する声などは、実のところあまり気にして
いなかったのだよ。ガルマが崇拝していたのは、実の兄であるグンサだったのだからな。そして、グンサが族長であり。ガルマは、言ってしまってはその保険であったから。私も知り合う事ができたという訳だ。もっとも、その
保険が。本当に後の族長になってしまったのだからな。グンサを心から慕っていたガルマには、辛い事も沢山あったのだろうさ。その度に、私は己にできる限りの事をしたが。当時は私も族長ではなかったから、身軽で
あったしな。狼族と、ガルマと親しくするというのは。他種族ならば睨まれる事もあるのかも知れないが、我が父は大層寛大であられたし。まあ、実を言うとギルス領を通る事ができる様になれば、金儲けになるからだったのだが」
 そこまで言って、リスワールが笑い出す。俺とクロイスも苦笑してしまった。なんというか、結構碌でもないっていうか。出会いって、そんなもんなんだなぁって思ってしまう。族長ですらなかった二人が、後に族長となって。それは
リスワールにとっては順当な物であったのかも知れなくても、ガルマにとっては不幸と同時に訪れた重荷であったから。俺が見たガルマは、それに本当は押し潰されてしまいそうで、疲れ果てた人だったから。同じ族長でも、
こんなに違うんだなとも思った。というか、若い頃のガルマが内気だったというのがちょっと信じられない。それって、クランみたいだったって事でしょ。信じられる訳がない。クランも大きくなったら、ああなってしまうの
だろうか。それはちょっとお兄ちゃんとしても困るな。しかもクランは背が伸びそうだし。その時になっても、俺の事をお兄ちゃんなんて呼んでくれたりするのだろうか。嬉しいけど、同時に物凄い違和感がついてきそうだな。
「それにしても、ゼオロ。お前、本当にファウナックを飛び出してきてしまったのだな? その銀を見れば。お前が表舞台から。狼族の下から退くというのは。少し、勿体ない気もしてしまうのだがな」
 ガルマの話も一段落ついたところで、気持ちを切り替えるかの様にリスワールがそれを切り出してくる。
「ガルマ様にも、その様に言いつけられましたので。自分が死んだら、ここを出る様にと」
「まあ、兎族の私がそれを思うくらいなのだから。お前がギルス領に残り続けては、混乱の種という事になってしまうがよくよくわかっていたのかな。私はやはり、族長になったお前も見てみてかったが。憶えているか?
いつぞや、ファウナックで私がお前に口にした事を」
「信じる事が大切、というお話でしょうか」
「そうだ。私は、お前を信じているよ。信じているお前の言葉だから、ガルマの最期も態々お前の口から聞きたかった。そのお前が、族長になるというのならば。私としては願ってもない事だ。何を言うにも、狼族が他種族を
受け入れるかどうかというのには、族長の意向に左右される事なのだからな。ガルマは、突然にそれまでの銀狼及び狼族第一主義から舵を切るのは危険と見て。少しずつ、それには改革を施そうとしていた。今の兎族が
ギルス領に入り、また通り道としている様にな。また、ハゼンの事も。赤狼の事も、その様な物の考えからの行動だろう。もっとも、その結果は振るわぬどころか。お前には辛い思いをさせてしまったのだろうが。先日、ガルマに
会った時。申し訳ない事をしたと、そう言っていたよ。お前にも。そして、ハゼンにもな」
「そうですか。ガルマ様が、その様に」
 俺に対しては、あまりその事については語らなかったけれど。それはやっぱり、俺の心を抉る事を口にするのを避けたのだろうな、ガルマは。
「次代の族長が、お前であるのならば。ガルマと同じく。いや、それ以上に。お前は他種族に対して手を差し伸べる事ができるだろう。何を言うにも、お前は今クロイス殿と寄り添っているのだからな。だが、クラントゥース殿と
なると、これはわからない」
「以前は、クラントゥース様の事を認めていらっしゃった様に思いましたが」
「認めているさ。継承の儀にも、立ち会ったのだからな。だが、クラントゥース殿の思想。つまりは、ガルマの様に他種族に対してはどうであるかとか。そちらの方は、まだわからぬ。無論、ガルマは病床に臥していたとしても、
必要な事はクラントゥース殿には叩き込んだであろう。それにクラントゥース殿自身が、遠縁の銀狼であるのだからな。要は今までの狼族の凝り固まった思想と照らし合わせれば、クラントゥース殿自体が、族長にそぐわぬと
言われてしまう。是が非でも、クラントゥース殿はこれをどうにかしなければならぬだろう。だがそれも結局は、狼族の内の出来事に過ぎない。対外的には、如何様であるのか? 私が今気にしているのは、まさにそこだよ」
「その辺りは、心配ないかとは思いますが。クラントゥース様も、それ程までには他種族に対して偏見や。また他種族と比較して、狼族の方が、という様な方ではありませんでしたし。無論。、今すぐに、全面的に他種族に対して
友好的な顔を向けてしまうと。狼族の中から疑問の声が上がりかねぬので、その様に振る舞っている節はおありですが。クロイスとも、最初は馬が合わぬかと思いましたが。途中からは、打ち解けておりましたし」
「ほう。クロイス殿とか」
 リスワールが、面白そうにクロイスを見つめる。途端に瞳に光が戻っているところを見るに、これは新しい玩具を見つけた顔だなと思う。スケアルガと、狼族の族長が親しい。面白くないはずがないな。
「ええ。最初は、やはり私はあのカーナス台地の一件を引き起こしたと言っても過言ではない、ジョウスの息子でありましたから。クラントゥース様は私には良い顔はされませんでしたが。腹を割って話せば、クラントゥース様は
良い方でございました。こう申し上げるのは、憚られるかも知れませんが。まだ幼く、心細いという気持ちは常におありなのでございましょう。それは懸念の一つかも知れないとは思いますが。我が父も、クラントゥース様には
一目置いておりまして」
「なんと、あのジョウス殿がか」
「ええ。以前、この……ゼオロの下に、クラントゥース様が参られた事がございまして。その時に、我が父とも。そして、私とも知り合う仲となりまして。クラントゥース様は、遠縁の銀狼という事もありまして。外部は元より、
今は内部も盤石とは言い難く。その点については、我が父は一刻も早くギルス領が平穏な一日を取り戻せる事を、望んでおります。いえ、先のカーナスの件を振り返れば。その言い種はあまりにも虫が良い話だと、
リスワール様はお怒りになられるかと思いますが」
「良い。私とて、ジョウス殿のお気持ちはわからぬ訳ではないのだよ。狼族の事に苦労したのは、私としても変わらぬ。ただ、友と呼んだ男の心に傷をつけ。そうして、たった一人。族長としての孤独な生を送らせるに至って
しまった。その点については。率直に申しあげて、私はジョウス殿を憎んではいるのだがな。私とて、族長ではあるのだが。だが、私は良い。自らそう望んだのだからな。だが、ガルマには。その様な選択すら、与えられは
しなかったのだから。己より、何もかもに優れたグンサという兄を頂いて、そうして崇敬の念を抱いていたはずなのに。その兄が、不名誉な形で戦死した上に、その他の銀狼も居らぬが故に、狼の玉座に座らされた男で
あったからな」
「恐れ入ります」
「……すまぬ。つい、言ってしまった。クロイス殿と、ジョウス殿は。確かに父と子である事には変わらぬが。それでもクロイス殿は、今その様に銀狼のゼオロの傍におられる。ジョウス殿の事を取り上げて、クロイス殿の何を
知る事もなく。この様に言う者も、一人や二人ではなかっただろうに」
「その様に、リスワール様に仰っていただけるでも。私としては充分でございます。それにそれは覚悟の上で。私もまた、スケアルガを名乗っております故。本当にそれを厭うのならば、私はスケアルガの姓を捨てて生きる事も
できました。また、父にもその様に言われた事がありました。ガルマ様とは違い、私はその選択を確かに与えられて。それでも今、クロイス・スケアルガとして生きて。こうして、ゼオロと共に居るのです」
「そうか。そこまで、言いのけるか。なるほど、親の七光りという訳ではない様だな」
 納得した様に。それから、狡そうに。リスワールが笑みを浮かべる。俺は思わず溜め息を吐いてしまった。
「リスワール様。クロイスを試す様な事は、あまり仰らないでいただけますか」
「お前を心配してやっているのだぞ? クロイス殿というのは、実のところ中々に微妙な存在であるのだからな。それが、また微妙な存在のお前とくっついてしまうとなっては。これはもう、スケアルガと狼族が。お前達どちらが、
相手を引き摺り込むのかと期待してしまうと、私が心配をしてしまうのは無理からぬ事ではないか?」
「その点は、お互いに不干渉とする事に決めましたから。それに、少なくとも私は狼族の側に立つというのも今は難しい状態ですし」
「そうだがな。だが、それはそれで面白い。やはりお前が族長になっても良かったかな。そうしたら、お前はクロイス殿という伝手があるのだろう? どうだ、一層クロイス殿を人質に取って、ジョウス殿を脅す事だってお前には
できただろうに。そうすれば、狼族はかなりやりやすかったのではないのか」
「狼族はどうなのかはわかりませんが。それはもうやりました」
「え? ……すまん。ぜひ、詳しく聞かせてくれ」
 向かい合ったテーブルから、身を乗り出して。リスワールが瞳を輝かせて食いついてくる。つい言ってしまった。まあ、いいかと気を取り直して。俺はジョウスに、ガルマから借りていた銀のエンブレムを使った脅しについての
説明をすると、リスワールはひたすら笑いを噛み殺した様に話を聞いてくれていたけれど、最後の方は完全に腹を抱えて笑っていた。
「なんだそれは。傑作だ、最高ではないか! よもや、異世界人が。あのジョウス・スケアルガを直接脅して、しかも一歩間違えれば殺されかねぬところで押し返したなどと! ああ、なんという事だ。特等席で見られなかったのが、
至極残念だな。いくら金を積んでも見られぬ、素晴らしい出し物が。私の知らぬ間に、さっさと通り過ぎていただなんて。なんとまあ、愉快で、傑作で、痛快な話もあったものだな!」
 そこまで言ってから、リスワールがまた笑う。なんというか、思ったよりずっと下品に笑ったりもするんだな、なんて思ってしまう。思わず、ガルマの事を思い出してしまう。ガルマもこの話を聞いて、俺が驚くくらいに笑って
いたっけ。やっぱり友と呼び合うだけあって、似ているところは似てるんだなと思う。
 けれど、その内に俺は自分の笑みが消えるのを感じる。笑っていたリスワールの瞳には、確かに涙が浮かんでいて。それは最初、笑い過ぎによる物だと思っていたけれど。次第にそれが、後から、後から。溢れる様に
流れて。その頃にはリスワールもそれに気づいて、慌てて涙を拭っていた。
「おお、悪いな。つい、ガルマの事を考えてしまってな。ガルマにも、その事を話したのだろう? さぞ、気持ちがすっとしたであろうと思ってな。怨み骨髄に徹す、とまでは言わぬが。それでもやはり、ガルマもスケアルガの事は
当たり前だが好いてはいなかった。クロイス殿がファウナックに留まる事ができる程に、スケアルガを受け入れられる様になったのも。結局はお前が、そうしてガルマの代わりにジョウス殿を一泡吹かせたり。また、カーナス台地を
解放した件も、あるのだろうな」
「その様な事は。ガルマ様が、元より狼族の未来を見据えてこられたからでございますよ」
「そうかも知れないが。いや、それでも。私から、礼を言わせておくれ、ゼオロ。ガルマの傍に居てくれて、ありがとう。真の銀を唯一持つガルマは……まあ、女や。歳よりにはまだ居るのだろうがな。それでも、ガルマはきっと
孤独だっただろう。お前がガルマの傍に居てくれた事で、それが幾許かは和らいだであろう。私は確かにガルマと友であったが、やはり何を言うにも、私は兎族。友である事はできても、その孤独を掃う事は、私には決して
できはしなかった。お前とて、異世界人ではないかと。そう言いはするのだろうが。それでも、ガルマは最期には、お前を傍に置き続けた。その生の最期を、ほんの少しでも彩ってくれた事。友としても、礼を言いたい。ありがとう」
 深く、リスワールが頭を下げる。俺も、黙って頭を下げた。
「……辛気臭い話にしてしまったな。お前達、今日は勿論ここに泊まってゆくのだろう? この後、夕食の用意も整えてある。ぜひとも、今日はここに泊まって。そして、お前達の話をもっと聞かせておくれ」
「それは、願ってもない事ですが。リスワール様は、お忙しいとお聞きしましたが」
「無論、問題はないさ。お前達が早めに報せをくれたからな。今日と明日は空けてある。その間くらい、私は商売を忘れて。我が友を喜ばせてくれたお前達を持て成したいのだ。知っているか、ゼオロ。兎族には、こういう話が
ある。商売を優先させるのが兎族なら、友を優先するのもまた兎族。つまりは、兎族というのはそのどちらかを常に優先させ。よしんばその二つがぶつかる時は、己の信ずる方を取るのが兎族なのだよ。そして私は、部下には
既にこう言ったのだ。商売なんぞよりも、大切な事だとな。兎族は、軽々しくこの言葉は使わぬ。友もまた然り。この言葉を使った時は、相応の理由がある時だ。なので、今の私は誰にも文句を言われる筋合いはないのだよ」
 ふんぞり返って、リスワールは威張り散らす。なんか良い事言ってる気がするけど、単に楽をしたいだけだったのではないかという気もする。とはいえ宿を取る必要も無くなったのだから、俺達はお言葉に甘えるけれど。それに
リスワールとはもっと話をしたいとも思っていたし。クロイスの事も考えると、その時間はもっと設けたかったのだった。もっと色んな話をリスワールとしたそうに見えるし。
 結局その後はリスワールの晩餐に招かれて、俺とクロイスは兎族の地に伝わる伝統料理と。それからこれだけ商業が盛んであるからして、あちこちから取り寄せられた、普段は目にする事もない珍味なども存分に味わい
ながら、その持て成しを受けていた。それでも晩餐というには質素な場だった。俺とクロイスとリスワール。それ以外は、使用人と給仕がただそこに居るだけで。てっきり、お金を掛けた持て成しみたいな事をするのかと
思っていたけれど。
「それもしたいが。だが、それをしてはお前達の話が聞けぬだろう? 特に、異世界人の話など。絶対に他の者が食いついてくる。それは嫌だ。私が話せないではないか。私はお前達と話したいから、この席を設けたのだぞ」
 と、もっともらしい事を言われてしまう。とはいえ、ファウナックでの宴の席を思い出していた俺は、そんな事になったら嫌だなと思っていたので。これには諸手を上げて賛同を示した。クロイスも、リスワールとの話をする機会が
長引いたのを喜んでくれていたし。
「ところでお前達。この後は、どこかに行く予定はあるのか?」
 食事に舌鼓を打って。クロイスとリスワールの難しい会話のやり取りを聞き流して。すっかり夜も深まった頃に、リスワールがそう訊ねてくる。それにクロイスは曖昧な笑みを浮かべた。
「今のところは……」
「実は、決めてあるんです」
「えっ」
 クロイスの言葉を遮って俺が言うと、クロイスに驚いた顔をされる。まだ俺の中で考えていただけで、何も話してはいなかったから、当然だけど。
「ほう。差支えなければ、聞いても良いかな。どうやら、クロイス殿も気になる様だ」
「実は、この度私とクロイスは、式を挙げる事になりまして」
「おお。そうなのか。それは、実にことほぐべき事ではないか。なんだ、水臭い。その様な話があるというのなら、もっと早く教えてくれれば良い物を」
「ありがとうございます、リスワール様。ですが、まだやるべき事がありまして。そのために、私は向かいたい場所があるのです」
「と、いうと?」
「クロイスの、母上様にお会いしたくて」
 噴き出す音が聞こえる。隣から。俺は気にせずにこにことしていると、リスワールがクロイスの方を見てから、身体を震わせていた。
「ゼオロちゃん。聞いてない」
「今、話したよ」
「納得できない」
「して」
 ようやく俺が隣を見ると、クロイスが口元を布で押さえながら、なんとも言えない表情で俺を見ている。それに、俺は首を傾げた。
「クロイスのお母さんの話、私は前に聞いたけれど。お会いした事がなかったから。こうしてクロイスと結ばれるのなら、ご挨拶をしておきたいと思ったのだけど。おかしいかな?」
「いや、おかしくはないよ? おかしくは、ないけど……。えぇ、会うの? 母さんに? マジで?」
 リスワールの前に居る、という事も忘れて。クロイスがいつもの口調に戻って。それを聞いて、俺は少し安心する。この席もそうだけど、その前のファウナックの時といい、要人に囲まれるとクロイスは自動で外出状態に
移行してしまうので、なんとなくいつもと勝手が違う様に感じてしまうんだよな。二人きりだと、いつもの状態だけど。なんとなくそれが落ち着かない。俺は口調が少し丁寧になるくらいなんだけど。クロイスはなんか言う事が
臭くなる。臭い。
「そうか。結婚をする前に、そうして親御さんに挨拶に向かうとは。善哉、善哉。クロイス殿の母上という事は、ジョウス殿の妻なのだから……。おお、思い出した。イリア夫人だな。イリア夫人なら、丁度良い。今は隣の
猫族領……つまりは、タニア領だな。それ程遠くはあるまい。丁度良いのではないかな」
「リスワール様、余計な事を……。というより、どうして私の母の事まで知っておられるのですか」
「そこはそれ、将を射んと欲すれば、という奴よ。クロイス殿。私がジョウス殿と舌戦をするのは、そう珍しい事ではなかったからな。それに今はタニア領から、外界へと繋がる道ができている。活気があるという事は、言い
換えればそれだけ事件の種ともなり得る。ジョウス殿は変わらずラヴーワの中央に居られるし、私は外界の調査にも一枚噛んでいる以上は、いざという時に夫人に余計な心配や迷惑が掛からぬ様に。夫人のおられる辺りは
避けねばならんからな」
 黒いリスワールが見えた。元々黒い被毛だけど。そう言いながらも、リスワールはもっともらしい理由をついでに並べ立ててくる。ついでだけど。
「だから、次はこのまま隣のタニア領に向かいたいと思っていたのだけど……駄目?」
「駄目っていうか、うーん……」
「そんなに、会いたくないの? お母さんなのに」
「そういう訳じゃないけど」
「良いではないか、クロイス殿。それに、どの道その様に結ばれるというのならば。それは周囲から祝福される様な状態であるのが望ましいのではないのかな。せっかくクロイス殿と結ばれる決心をゼオロが固めたというのに、
夫人からは良い目で見られないとあっては、それは可哀想であるし。また、夫人としても。息子がその様に運命の相手を見つけ、愛したというのに。何も言わぬままというのは。お気の毒というものだぞ」
「それは、そうなのですが」
 クロイスが、まだ迷った様な顔をする。駄目、だったかな。なんとなく、クロイスは母親とは少し距離を置いている様な気がしていたけれど。というより、ジョウスもそうだけど。そもそもミサナトに居た時だって、そこにジョウスと
クロイスが居ても、その母親であるイリアという人物は居なかったみたいだし。かと思えば、猫族領に。タニア領に居るというし。思っていたよりもここから近いというのは、幸いだったけれど。
「クロイスが嫌なら、仕方ないけれど」
 まあ、そんなに会いたくないのなら。仕方ないのかなと思って俺は諦めようとする。それに、親に会いたくないという気持ちは、わかるし。俺だって、ハルだった頃の両親に今会えると言われても、会いたくないし。
「……わかったよ。母さんに、会いに行こう」
「本当? あとで反故になんて、しないよね」
「しないって。誓うよ。だから、他の話を……というより、リスワール様の話を、もっと聞きたいんです。はい」
 よし、約束は取り付けた。それに俺は上機嫌になる。クロイスの母親についての事は、前々から知っていたけれど。いつこの話題を切り出そうかと、実は悩んでいたのだった。あんまり触れてほしくないのかなって気もするし、
クロイスが嫌なら、俺は触れずにいたかったけれど。でもクロイスと結ばれるというのならば、それはどうなのかなって。そうも思ってしまって。だから俺は、どこでこの話題をと悩んで。リスワールが俺と会ってくれるのが
わかった瞬間に、ここだと勝負を決めてかかったのだった。リスワールなら、俺の援護をしてくれるだろうし。リスワールの前で約束した事を、反故にする様な真似をして、心象を悪くしたくないだろうしクロイスも。なんか今
ちょっと睨まれてるけど。だって二人きりの時だと、クロイスにはぐらかされたら多分勝てないし。使える物を俺は使っただけなのだから、仕方ない。
 次の目的地が決まって、話が終わると。クロイスは酒を豪快に煽ってから、リスワールへと話の催促に掛かる。リスワールは鷹揚に笑ってから、それに乗る。なんだかんだで、リスワールもクロイスの事を気に入って
くれた様だし。たった今俺の話に乗ってくれたから、その分クロイスにもご褒美を上げようとするかの様だった。流石に年長だけあって、その辺りの細やかな気配りは舌を巻くほど上手くて。次第にちょっと不機嫌というか、
しょんぼりしていたクロイスも機嫌を取り戻してゆく。その合間にさらりとジョウスの話題などを出して、探れるところは探ろうとするのがやっぱりリスワールっぽいけれど。ただ、クロイスもクロイスで。微妙な話題になると上手く
かわしている様で。それを見ると、またリスワールは楽しそうに笑うのだった。楽しく、親しそうに話している一方で、その相手を推し計ろうとするのは、流石族長だと思う。怖い。
「お前達が来てくれて、良かった。ガルマの事で気が塞いでいて。それを吹き飛ばすために、最近は仕事の量を増やしていたのだが。それで気が紛れる事はあっても、ふとした瞬間の寂しさという物には、どうにも
抗えなくてな。歳かな、私も。また来なさい。というより、もし式を挙げるのなら、ぜひ呼んでおくれ。ガルマの分も、私はお前達の事を祝福したい。どうか、息災でな」
 明くる日。リスワールの見送りを受けて、俺達がまた旅立つ段になって。そうリスワールが呟く。そうしていると、確かにリスワールは俺と同じ様な若い見た目ではあっても、年を経た者特有の気配を滲ませていた。俺達を、
眩しい物でも見るかの様に、目を細めていて。
「リスワール様も、どうかお身体にお気をつけて。無理をなされぬ様に」
「何を言う。私はまだ、若いのだぞ。見た目だけでなくな」
 だから俺はつい、そんな事を言って。リスワールに叱られてしまう。もっとも、リスワールは少しも怒った様子を見せた訳ではなかったけれど。
「リスワール様、また会えるといいなぁ」
 進みはじめた馬車の中で、クロイスが口にする。本当は、もう少しディーカン領に留まっても良かったけれど。でも、リスワールの都合がつかなくて。そうなると俺達の知り合いがここに居る訳ではないので、結局俺達は足早に
旅を続けていた。それに、これから向かう猫族領、タニア領は。今まさに外界との繋がりを、唯一陸続きで持つ場所であるからして。中々に好景気に湧いて、活気に溢れているというし。俺もクロイスも、そちらの方が
気になるのだった。
「会えるでしょ。式を挙げたら、来るって言ってたし」
「それもそうか。なんか、さ。ガルマ様の事とか。それより前の事もなんだけど。色んな人が、亡くなってるからさ。そんなのは当たり前なんだけど。ただ、会えるのなら。会える内に、また会いたいなって。そう思ってさ」
「そうだね。どうせ、会えなくなってから、会いたいと思うのだから。今会いたくないと思っていても、会っておくぐらいが、丁度良いのかも知れないね」
「ゼオロちゃんが言うと、説得力あり過ぎて怖いわ」
 俺も怖いわ。いくら命のやり取りをするのが、ある程度当たり前の世界に来たからって言っても。短時間で俺の知り合いがどんどん居なくなってしまうのが、辛い。皆好きなだけに余計だ。だから今、俺はクロイスと一緒に
居るのかも知れないけれど。戦争が終わって、心底からほっとしてしまう部分もあるし。ランデュスとの戦が続いていた頃は、前線にクロイスが向かう時もあったから。俺はいつも心配で。でも、それを口にしてもどうしようも
ないから、黙っているばかりだったけれど。それも今は済んだから。気兼ねなく、誰の目を気にする事もなく、クロイスと一緒に居られるのだ。ただ、その先をクロイスが望むのなら。俺はやっぱり、クロイスの母親には会って
おきたいなって思うのだった。どうしようもなく仲が悪いとか、そういう事ではないみたいだし。それならリスワールが口にした通り、やっぱり俺とクロイスの関係を認めて、受け入れられる様にしたかったのだった。俺の我儘かも
知れないけれど。自分の両親に、自分が認められなかった癖に。そんな事を願うのは、身勝手なのかも知れないと思うけれど。それでも、この世界は。男同士が共にある事が、拒まれる様な世界ではないのだから。その
代わりに、スケアルガと銀狼が寄り添うのは、首を傾げられてしまうけれど。それは。それだけならば。俺の努力で、どうにかなるかも知れないと思うから。
「でも、ごめんなさい。無理矢理こういう流れにしてしまって」
「……いいよ。別に、気にしてない、訳じゃないけれど。でも、ゼオロに言われて。そういえば母さんとも、随分会ってないなって思ったから、丁度良い機会かもな」
「今更だけど。どうしてクロイスのお母さんは、タニア領に居るの? ミサナトには居なかったんだよね」
「うん。母さんはさ、俺が軍に入るのには、反対していたからさ。それで親父とは喧嘩してたし。でも、俺も。和平を結ぶためにも、まずは地位と力が欲しかったから、自分から軍に入っただろ? 母さんはそれに怒って、
出ていっちゃったのさ。だから別に俺と母さんの仲が悪いとか、そういう訳じゃないの。親父とはどうだか知らないけどさ。その点は心配しなくても良いよ。勿論、その時ばかりは。俺も母さんと喧嘩みたいな事にはなったけれど」
「でも、それから会ってないんだよね」
「んー……まあ、ね。もう、五年以上は前の事だからな。タニア領には、元々親父の家があるから。多分そこだよ。親父があっちこっち引っ張りだこなんで、今は母さんが留守を預かる形になってるはず」
「そうなんだ。……その、大丈夫かな。今更だけど、クロイスの親族の方から見たら。銀狼の私は、良い印象は受けないよね」
「大丈夫だと思うけど。確かに親父の件で、狼族はスケアルガの事を蛇蝎の如く嫌ってるだろうけど。逆にスケアルガからはというと、そうでもない部分も多いよ。というより、スケアルガは元々魔道に関する事にばかり心血を
注ぐ奴が多いからね。寧ろその中では、乞われて態々出向くじじいや親父の方が、変わり者なくらいだよ。だから、俺達の方からゼオロに良くない目を向けたりする事はないと思う」
「良かった」
「でも異世界人なんて興味深過ぎるだろうから、寧ろねっとり見られる。あちこち触られるかも知れない」
「結婚、ちょっと考えさせてもらってもいい?」
「駄目です」
 大丈夫だろうか。解剖とか、されないだろうか。流石にクロイスが助けてくれるから、大丈夫かな。
「結婚、早まったかなぁ」
「全然早まってないよ。大丈夫だよ」
「離婚ってどうするの? 役所?」
「やめて。今からそういう話しないで」
 懇願するクロイスに、身体をくすぐられて。結局俺はそれ以上は言わずに、大人しく馬車に揺られる事にする。でも、なんか変な感じだな。結婚しに行くって。しかも、相手の親御さんに挨拶って。
 自分にはそんな話、一生縁が無い物だと思っていたのだけど。いや、それはある意味では、事実だったのだけど。
 馬車の進む音が、移りゆく景色が。今俺の身に降りかかる出来事が、全て事実だと教えてくれたのだった。

 

 首飾りについた宝石が煌びやかに輝いていた。
 それから、今まで嗅いだ事のないお香の匂いと。その人の後ろにある、壁一面を占領する高い本棚とが、印象的だった。一見してそれは、老人の所有する書斎その物の様であって。けれど、その持ち主の姿は。安易に
想像する老人のそれを遥かに裏切って、若々しく、瑞々しい。若者のそれだった。
「ふむ。あなた達のお話は、大体把握しました。そういう事になっていたのですね」
 そういって、腕を組んだ白い猫の少年は微笑む。
 猫族の族長、ナウレ・オーグ。それが今俺とクロイスの目の前で、机を挟んだ向こうに居る白い猫の少年の名前だった。その姿はリスワールと同じく、本来の年齢をまったく感じさせない。それどころか、リスワールよりも
更に幼く見えるくらいだった。なんというか、こういうところって元の世界の常識とか価値観が通用しないなって、俺は暢気に考える。どっしりと構えた壮年の男性がそこに居たら、それを頼もしいとか、経験を積んでいるとか、
そう思ってしまうものだけれど。そんな物は、この世界においてはそれ程の効果を生じさせる事はないかの様だった。いや、そういう風に構えているガルマなどの存在も、俺は知っているには知っているけれども。それと同じ
くらいに魔道に勤しんでは、その手を魔導に染めた一定の人種に対しては。その様な見場からの評価などというのは、軽んじられる傾向にさえある様に思えた。
 ディーカン領から、タニア領へと入った俺とクロイスは、早速クロイスの母親の下へと向かおうとしたのだけれど。その前にと、クロイスが思い出した様に猫族の族長の事を口にのぼせたのだった。元々猫族の族長と、
スケアルガは。というより、ジョウスは。かなり親しいみたいで。
「母さんに会うより先に。おじさ……違った。ナウレ様の所に寄っていかない?」
 そうクロイスに言われてしまうと、俺は断る事ができなかったのだった。俺はここまで、散々クロイスの事を引きずり回してきていたし。それに何より、猫族の族長といえば。今まではほとんど知らない相手ではあったけれど、
ジョウスを通じて何かと俺に対して便宜を図ってくれた存在でもある。俺が異世界人として周囲に認められる様にした時も、俺が名も顔も知らなかったナウレは、またナウレも俺の事なんて何一つ知りはしなかったのに、
ジョウスの指図で俺の存在を認める旨の声明を発表してくれたのだから。それは言い換えれば、あまりにもジョウスの傀儡であるのではないかと俺にはある種の危惧を感じさせたけれど、実際にこうして見える事のできた
ナウレは、やっぱり族長というだけはあって、一筋縄ではいかない相手に俺には見えた。
 まず、見た目だった。可愛い。おかしい。おっさんのはずなのに、見た目はどう見てもどうにか十歳を迎えたかの様な華奢な身体つきだし、顔も可愛らしい猫その物だった。これは詐欺だと思う。リスワールより詐欺だと思う。
「言っとくけど、本格的に魔導を扱う人種っていうのは、こんなもんだよ? マジで。 親父は軍師として顔を利かせるために、まあある程度見た目もそれらしくしてるけれど。猫族は魔導第一主義だからね。おじさんみたいな人は、
決して珍しくはないよ」
「クロちゃん。そのおじさんっていうの、やめてね?」
「だったらそのクロちゃんもやめてほしいんだけど。ナウレ様」
「ナウちゃんでいいんだよ?」
「歳考えて」
 とかなんとか、そんなやり取りと。ナウレが物凄い形相でクロイスを睨みつける一幕があった気がしたけれど。俺は気にしないでおこう。とにかく俺が出会った、ナウレ・オーグという猫族の族長は。そんな強烈な印象を
俺に与えてくる人物だった。ナウレは俺達を、というよりクロイスの事を歓迎しては。俺とクロイスの事を何かと聞きたがった。あと、ジョウスの事を。そのナウレに、俺はまず丁重に今まで何かと手を貸してくれた事の礼を
述べると。ナウレはあっけらかんとした様子で笑い飛ばしてくれた。
「そんな事は、どうかお気になさらず。ジョウス様のご命令とあらば。僕は僕の全てで以って、お応えいたしますとも。ええ。二言はございません」
「相変わらず愛されてんなぁ、親父」
「当然でしょ?」
「どうしてそんなに、ジョウス様の事を好いておられるのですか?」
「うげっ。ゼオロちゃん、それ訊かないで、お願い」
「よくぞ訊いてくれました」
 クロイスが俺を止めようとしたけれど、口から出た言葉は今更戻せなくて。クロイスを遮る様に、満面の笑みを浮かべたナウレが少し前へと身を進ませる。そうしてもテーブル越しなのだから、別に思い切り近づいたりはしない
はずなのだけれど。不思議と、目の前にナウレが居るかの様な錯覚を覚える。明らかにさっきよりも表情が生き生きとしている。さっきまでも、割とこんな感じだったとはいえ。
「僕とジョウス様の馴れ初め。それがお聞きになりたいと! そう、仰られるのですね、ゼオロ殿は」
「馴れ初めなんでしょうか」
 ジョウスは結婚してる訳だし。じゃないとクロイス俺の横に居ないし。
「僕にとっては馴れ初めです」
 あ、駄目だこれ何を言っても主張が曲がらないタイプだ。諦めよう。
「実は僕、本当なら族長になるはずではなかったんですよ」
「そうなのですか……?」
「ええ。本来なら、それはジョウス様こそがこのタニア領を治める方になられるはずでした。僕はただ、ジョウス様が譲ってくださったから、今この席に座っている。ただ、それだけの事なのです」
「では、そのご恩があって。ナウレ様はジョウス様の事がお好きでいらっしゃるのですね」
「いえ。僕はその件で、ジョウス様を殺したい程憎たらしく思ったので、違いますね」
「えっ」
 俺が驚くと、さぞそれが痛快だと言いたげに、猫の口角が吊り上がる。僅かに大きくなった瞳と合わさると、途端にナウレは子供らしさの全てを捨て去って、まるで化け猫の様に笑った。それを見て、俺は背筋が寒くなる。
「違います。全然、違います。僕がジョウス様を好きで好きで仕方がないのは。あの方が、僕より何もかも先を行ってしまうからです。僕は、ナウレ・オーグ。オーグ家の中で、最も魔導の素質に恵まれた者。元々、猫族の族長
というのはオーグ家の中から基本的には選ばれていたのです。それ程までに、オーグ家というのは魔導の権威であり。そしてその中でトップを走る僕は、他の追随を許さなかった。けれど、まだ族長が先代だった頃に、あの
ジョウス様が僕の前に現れたのですよ。非凡な才を持つ、ジョウス・スケアルガ。先程、基本的にはオーグ家から族長は選ばれる、と僕が言いましたね。そう、彼はその例外足り得たのです。それ程までの才を持ち、天才、
英才の誉れ高く。神童と呼ばれたのがジョウス様だったのです。当然、僕はジョウス様を敵視しました。実際、魔力の強さで言うのならば、僕の方が上なのです。しかし、それ以外は。何もかもが、ジョウス様は僕より
優れていた。何よりも恐ろしいのは、その頭脳でもって魔導の発案、改良などを容易く行ってしまうところなのですが。それだけは、認めぬ訳にはゆきませんでした。僕が逆立ちしても、そこの所にはどうしても勝つ事ができません
でした。けれど、ある時。ジョウス様が、族長候補から退く旨を告げられたのです。その理由は、ゼオロ殿。あなたならおわかりですね? ジョウス・スケアルガの今の姿を見れば。そう、ジョウス様は、父から軍師としての任を
譲り受けるから、族長になるのは辞退すると、僕に譲ると。そう、言ったのです。僕は、腸が煮えくり返る様な思いに囚われました。本来なら、僕は僕の進む道を邪魔するその存在が、勝手に退いてくれたのだから、喜んだって
なんの不思議もないのでしょう。けれどその時には既に、ジョウス様の才をはっきりと見せつけられていたのです。僕より、上かも知れない。けれど、僕も負けてはいられない。僕はいつの間にか、ジョウス様を、好敵手と
見定めていたのです。それだというのに、ジョウス様は。まるで族長を、そしてその席を取り合おうとしていた僕の事すら。本当はなんの価値も感じてはいない。ただの暇潰しだったとでもいうかの様に、あっさりと僕との戦いを
避けてしまった。だから僕は、去りゆくジョウス様に声を掛け、決闘を申し込んだのです。両雄並び立たず。僕は、いつか僕の全てを賭してジョウス様と戦う予感を持っていた。けれどそれすら、裏切られた。僕は、黙って
ジョウス様を行かせる程の器量は持ち合わせてはいませんでした。僕は、全力でジョウス様にぶつかりました。力は僕の方が上だった。それなのに、僕はその決闘に完膚なきまでに負けてしまいました。族長になろうと
必死に研鑽を積んでいた僕より、それをあっさりと捨ててしまったジョウス様の方が、強かったのです。僕は、自分の無価値を知りました。今までは、誰であろうと。僕と対峙すれば、負けるが当然。それなのに、僕は初めて、
自分が散々打ち負かしていた敗者になってしまったのです。わかりますか、ゼオロ殿。そんな事をされてしまった、僕の気持ちが」
「わかりません」
 わかりません。
「最悪に最高の気分でしたよ! その時僕は、ようやく気付いたのです。誰にも負けない様に戦っていた僕が、実は自分の事を思い切り打ち負かしてくれる相手を望んでいた事に! まるで、竜族の欲深さからくる、勝者と
敗者の関係の様に。僕もまた、ジョウス様に魅せられてしまったのです。ああ、ジョウス様。何故軍師なんぞになってしまわれたのですか。あなた様が族長になってくださって、僕はそのお傍でお役に立てるのならば、これ以上の
幸せはないというのに……」
「……」
 怖い。何この人。怖い。俺が助けを求める様にクロイスを見ると、苦笑を隠しもせずに、クロイスが俺の肩をぽんぽんしてくれた。ちょっと立ち直った。
「あのね。族長だからって、まともだと思わないでね。魔法使いだから。というより、この人はほとんど魔道士みたいな物だから」
「魔道士ではないの?」
 こんなに危ない人なのに。
「魔道士が魔法使いを率いるのは、あまり良くないからね。族長を引退するまでは、魔法使いという態で過ごすんだよ。まあ、力量から言えば。ナウレ様は完全に魔道士なんだけどね。俺じゃ絶対勝てない」
 やっぱり魔道士じゃないか。
「それなのに、ジョウス様の方が強いんだ」
「そうですよ! ジョウス様は、僕なんかよりずっと強いんです! ああ、ジョウス様」
 なんか割り込んできた。怖い。なんか虚空に手を伸ばしてあらぬ方を見ているし。多分あの視線の先に、ナウレにだけ見えるジョウスが居るんだろうな。なんだろう。今まで色んな族長に会ってきたし、今回の旅でラヴーワの
南側の族長は制覇したから、完全に族長ツアーみたいになっているけれど。ここまで危ない雰囲気の族長は初めて見る気がする。リスワールが百倍くらい見境を失ってしまったかの様な、危うさと狂気が滲みだしている。さっき
までは、至極まともに俺と話をしてくれていたのに。今はジョウスの事しか見えていないみたいだ。愛が重いって、こういう事を言うのだろうか。憎悪が、一瞬で愛情になって。ジョウスの言いなりになっているし。
「いや、実際の力で言えばナウレ様の方がずっと強いんだよ。でもね、これは相性の問題だと俺は思うんだよね。ナウレ様は、どっちかっていうとじっくりと力を溜めて、それを解放するタイプで。親父はその気になれば一瞬で
攻撃できるタイプだから」
「ああ。そういえば、確かにジョウス様はそんな感じだったね」
 以前に俺が脅した時も一瞬にして炎を出していたし。あれはほんの少しでも俺の対応が遅れていたら死んでいたな。なるほど、あの速さで魔法を繰り出せるというのが、既におかしいのか。
「そうそう。実際にナウレ様が本気出したら、この館の三割くらいは跡形も無く吹っ飛ぶよ? それくらいヤバいの、ナウレ様の力は」
 えっ。部屋一つとか、そういう話じゃなくて。館が半壊するの。何それ怖い。凄い。恰好良い。
「だから別にナウレ様が親父より弱いとか、そういう訳じゃないんですよ。ナウレ様、聞いてます?」
 クロイスが声を掛けるけれど、相変わらずナウレはうっとりとした表情を浮かべて、片手で自分の頬を擦っている。あれは危ない。ジョウスも違う意味で、よく族長を辞退してこの人を族長にしたなと思う。というかこの人の周りも
周りだけど。
「これがなければ結構まともな方なんだけど……魔法使いの中では」
「これでまともなの」
「気持ちはわかるけど、族長だからあんまりそういう言い方は止めようね」
 さっきクロイスも似た様な事言ってたのに。
 結局、ナウレが落ち着くまで。しばらく俺達はそのままの状態で待つ事になる。ただ、ナウレもその内に自分の状況を思い出したのか。また元の、可愛らしい猫の顔に戻る。もうそれが可愛いだなんて、俺は決して思わない
だろうけれど。可愛らしい少年の姿をしていても、中身までそのままであるだなんて、確かにこれでは誰も思わないだろうな。見た目に拘る事の愚かしさを教えてくれる様だった。そんな良い話じゃないけど。
「ごめんなさい。ついジョウス様の事になると、我を忘れてしまって」
「忘れ過ぎでしょ、ナウレ様」
「謝ってるのに。……それで、なんだっけ。どこまで話したんだっけ?」
「ああ、いや。俺達の話は、特にはもう。俺とゼオロは、このまま母さんの下へ行こうかと思っていて」
「母さん……ああ。あの」
 そこまで言うと、途端にナウレの顔が不機嫌な物へと変わる。可愛い猫の顔が台無しである。
「そんな顔しないでほしいんだけど、おじさん」
「そう言われても。ジョウス様とくっついた女なんて、どうして僕がにこやかに口に出せると思うの。しかもジョウス様と共に居る事もなく、今は家に引き篭もっててさ。クロイス。君の母親だから、あまり言いたくはないけれど。僕は
それが、信じられないよ。ジョウス様は、猫族の族長にだってなれた。これは間違いがない。僕が贔屓をしている訳でもなく、ジョウス様にはその器があった。それでも、父から譲り受けたというだけでなく。ラヴーワのためを
思って軍師となったジョウス様に、その妻が付いていかなかったなんて。いや、最初は付いていったんだろうけれど。自分の息子もそれに携わると知った途端に、掌を返すなんていうのは。凡そ僕にとっては看過できる事では
ないよ。僕だったら、僕が女だったら。きっと、全てで以ってジョウス様のお役に立つと決めただろうに。愛する人が重圧と責任に耐えては、苦しみ喘いでいるのを傍で支える事すら放棄してしまうなんて。僕には、到底
受け入れられない。女なんて、そんな物なんだろうか。僕は、女は取らないから。というよりジョウス様だけだから。よくはわからないけれど」
「さて。それは俺にも返答致しかねます。母さんは、母さんで。ナウレ様は、ナウレ様ですから。それに、本当に縁を切りたかったのなら。母さんも、親父も。離縁を持ち出していたでしょうし」
「そこがまた気に入らないんだよな、余計に。ジョウス様がそうしないのを良い事に、あの手この手で気を引こうとしているみたいで。戦時中だってのに、まるで彼女の中では、そんな物は何も無いとでも言いたいかの様な、
熟練の恋愛の駆け引きをしている様だねぇ? まあ、その戦争も終わったけどさ。……ああ、もう。いいや。この話は。僕はジョウス様の伴侶であるイリアについては悪く言いたいけれど。君の母親としてのイリアを悪く
言いたい訳ではないのに、つい口が過ぎてしまう。ごめんね、クロイス」
「ナウレ様のそういう所。俺は好きですよ」
「いつかジョウス様みたいに渋くなったら迎えにきて。僕は長生きできるから安心していいよ」
「お断りします。俺には、もう決めた人がここに居てくれますから」
 そう言って、クロイスが俺を抱き寄せて。俺の額に口付けをする。恥ずかしいので人前では止めてほしい。
「見せつけてくれるね。まあ、君達の関係、僕は祝福するけれど。ゼオロ殿が狼族の族長になるのは、阻止したいし」
「流石にそこは、親父と話をしてあるんですね」
「当然でしょ? 異世界人ではあるけれど、ガルマと同じ銀を持って。その上でカーナス台地まで解放してしまったゼオロ殿と。遠縁の銀狼であるクラントゥース殿。どちらの方が与しやすいか。御しやすいか。考えぬ方が、
どうかしているという物だよ。ゼオロ殿のためにも、族長にはならない方が良いと忠告するけどね。異世界人という要素は、銀狼を求める狼族の目にはどんな風に映るのかは。同じ狼族でも、それ以外でも、まったく
わからないのだから。今はまだいいと思うよ。ゼオロ殿は、カーナス台地を解放してくれたからね。でも、もし何か失態の一つでも犯した時に。今まで自分に注がれていた瞳の持つ意味と意思が変わる恐ろしさは、知らぬ
方が良いと思うよ。或いはガルマも、それに押し潰されたとも言えるのだから。もっとも、ジョウス様の事を僕は肯定したいから。別にガルマが不憫だったなんて、言わないけれどね。族長なんていうのは、そういう側面も
あるものだっていう覚悟があれば良いだけの話なのだから。それは僕とて変わらない。僕だって、ジョウス様に打ち負かされた話は広まってしまったから、最初は結構散々な事を言われたからね。まあ、今は僕の地位も
盤石になったから。そんな事をほざいた奴らは全員僻地に飛ばしてやったけどね? 悔しい事があるとしたら、僻地に。つまりは結界の近くの寒村やらに飛ばしてやったのに。今回の件で結界が壊れて、そいつらが甘い汁を
啜る事ができる様になってしまった事実なのだけど。丁度良いな。後でまた根回しして、そのままその場で甘い汁で肥え太らせるのではなく、外界の調査隊に捻じ込んでやろう。未来のための尊い犠牲。うむ、恰好は
付くよね。今までは外界の事で僕も忙しくて、そんな有象無象の木端野郎なんか相手にしていられなかったけれど。そろそろ奴らも金が貯まってるだろうし。どうせ僕が気に入らないという浅はかな理由でちょろまかして
いるんだから、そろそろ徴収して差し上げないとねぇ?」
「ナウレ様。そういう怖い話は、できればもっと内密にしてほしいのですが。俺に聞かせられても、困ります」
「別にいいじゃない。それに、ゼオロ殿にも。族長なんてこんなものだって、知ってほしかったのもある。まあ、これが痛快と思うのなら、ゼオロ殿も族長になってもいいかも知れないね。それはそれで、馬が合う。どうせなら
狼族を掌握する存在と密になっておくのも、悪くはない。ジョウス様より前に出てしまわないか。それだけが心配だけど」
「ご心配なく。私は決して、族長にはなりません。既に、クラントゥース様に決まってしまわれたのですから」
「そう。残念だね。ジョウス様を脅す様な方だっていうから。僕は密かに、ゼオロ殿に期待していたのだけれど」
 乾いた笑いで、俺は誤魔化す。なんでジョウスといい、言いふらしてほしくないところを的確に伝えてしまうのかな。一歩間違ったらジョウスの手を煩わせたと言って、俺がこの人に処分されかねないのに。
「そんな事しないよ。ジョウス様が本当に怒ったり、困ったりする様な事は、僕はしない。そんなに僕を見くびらないでほしいね。ジョウス様のためになると、勝手な僕の主観で動いたりはしないさ。だから、ジョウス様がこうして
くれと言った事だけを、僕は成し遂げて。その成果をただ捧げるのだからね。そこだけは、僕の明確な矜持という物だよ。僕はジョウス様の手を煩わせない。僕だけは、ね。だからあとは、ジョウス様が。僕を良い様に使って
くだされば。僕はそれでいいのさ」
 助かった。分別があるんだか無いんだかよくわからない事を言われたけれど、助かった。
「ところで、ゼオロ殿。クロイスからさっき聞いたのですけれど」
 話が終わって、そろそろナウレの部屋を出ようかと思っていた頃に。不意に、ナウレがそう告げてくる。これは。もしやファウナックで散々あったあれなのではないか。俺が聞き流している間にいつの間にあの話を。
「ユラ様とお会いになられた、というのは。本当の事なのでしょうか?」
 違った。歌の話題じゃなかった。良かった。
「え、ええ。ユラ……というより。私には、アララブと名乗られておられましたけれど。でも、確かにあの方は、ユラでした」
 突然に出された名前に、俺は戸惑ってしまうけれど。そういえばユラも、アララブも。猫族の魔道士だったんだよな。猫族の族長であり、魔法使いであり。いずれは魔道士となるナウレならば、そこに食いつくのは当然か。
「ぜひ、そのお話もお聞きしたいです。ユラ様が、どの様に振る舞われていたか。知っている事だけで、構いません」
「えぇ……」
「ゼオロ。諦めよう。なんか後ろの方で力を感じたから、多分今は扉が開かないと思う」
「よく気づいたね、クロイス。わからない様に細工をしたのに」
 なんか閉じ込められてるし。仕方なく俺は、溜め息を吐いて。それからまた子供の様に瞳をきらきらとさせているナウレに、俺とユラが初めてあった時の事からの話を聞かせるのだった。とはいえ、俺もそれ程ユラの事に
ついては詳しくはなかったけれど。あれはあまりにも神出鬼没だったし。そんな話でも、ナウレにとっては貴重な話なのか。ナウレは少しの文句も、退屈そうな顔も見せずに、食い入る様に俺の話を聞いてくれた。
「疲れた」
 ようやくナウレから解放されて、そのまま貸し与えられた部屋に戻ると。俺はぐったりとしてクロイスに凭れ掛かっていた。
「お疲れ様」
「あんなに変な人だと思わなかった。あんなに可愛い猫さんなのに」
「それがナウレ様だよ、ゼオロ。何も知らない奴は、食い物にされる。魔法使いの恐ろしさっていうのが、あの人にはたっぷりと詰まってるからね。まあ、話題さえ間違えなければ。良い人だよ」
 そしてさっきは話題を間違えたのね。魔法使い、というより既に魔道士の域なのだろうけれど。確かにあの物の考え方などというのは、とても個人的な物に支配されていて。魔道士との協力関係を築いたりするのは大変な事
なんだなというのがよくわかる。
「数日ここで厄介になっている間に、母さんに手紙を出すよ。それから、母さんの下に行こう。もう少しだよ、ゼオロ」
「うん。なんだか、長かったね」
「そうだね」
 フロッセルを飛び出してから、既に一年近くの時が経過している。俺が涙の跡地に現れてから最初の一年で、めまぐるしく情勢が変化して、最後には結界が無くなった事と比べれば。何も無い様で。けれど、沢山の事が
やっぱり過ぎ去っていった一年だった。それでも一年は短く感じられた。大部分がガルマの館で、ガルマと過ごしていたからなのだろうけれど。目新しさ、という物も。流石に最初の一年よりは減ったし。それでも各地を転々と
しているから、やっぱりまだまだ知らない物に触れる機会もあったけれど。そして今日、とびっきりヤバい人とも知り合ったし。魔法使い怖い。もっとこう、可愛い女の子とかが魔法使いしてる感じなのかと思ったけど。あれでは
可愛い女の子は裸足で泣きながら逃げていくだろうなと思う。俺に魔導の素質がなくて、ちょっと良かったかもなんて思ってしまった。
「……クロイスはさ」
「ん?」
「魔導を極めたりはしないの、長生きするんでしょ」
「しないよ。俺はゼオロの傍に居たいからね」
 身体を抱き寄せられて、クロイスが口付けてくる。俺はそれを、まっすぐに受け止めて。
「ゼオロが、俺の物になってくれるんだから。俺だって、ゼオロの物になりたい。だから俺は。魔導はそんなに、やる気はないんだ」
「いいの。私に感けて、それを忘れてしまって」
「何言ってんの、お姫様。俺の夢も、俺の命も。繋いでくれたのは、ゼオロなのに。俺が望んだ和平も。もしかしたら、俺が戦争に出て失くしてしまうかも知れなかった命も。ゼオロが来たから、全部今ここにあるのに。例えそれが、
ゼオロが自分でした事じゃないと思っても。俺にとっては、それが事実で。そんなゼオロに、俺がしてあげられる事は、なんでもしてあげたいよ。傍に居たい」
 ゆっくりと、クロイスが俺をベッドに横たえさせて。その上に跨ってくる。体重を掛けない様に、それでも視界はクロイスで埋め尽くされる。
「ゼオロに、全部あげる。だから俺は、これで良いんだよ。おんなじ様に歳を取りたいって、俺が思っても。何も引け目に感じなくても、いい。ただ、頷いて」
 静かに、俺が頷くと。クロイスが微笑んで、また口をくっつけてくる。今度は、深くて、長くて。息苦しくて。けれど、止めてほしいとは言いたくなくて。
「愛してる。……考えてみれば。母さんに会うのも、当然だったね。俺はつい、怒ってしまったけれど。ゼオロの話だって、俺は知っているのだから」
 俺が、何かを言おうとすると。また口が塞がれて。結局俺は、何も返せずに。次第に睡魔に呑まれて、クロイスに抱かれて。眠りに落ちてゆく。
「おやすみ。ゼオロ」
 遠くで、クロイスの声が僅かに聞こえた。

 数日後、俺達は足早にナウレの館を去る。ナウレは笑顔で見送ってくれたけれど、なんか怖い。おかしい。リスワールの時と同じ流れなのに。見た目もどっちも可愛い感じなのに。おかしい。
 後ろを振り返らない様にしながら、馬車を走らせて。そのままクロイスの母親である、イリアの待つ地へと向かう。既にクロイスからの報せは届けられているから、あとはイリア次第ではあるけれど、そこへ辿り着けば
すぐに会えるという状況だった。
 その頃になって、俺は少しずつ自分が緊張している事に気づく。それから、こんな緊張を自分が味わうなんて、とも思っていたりする。だってこれって、あれでしょ。お父さん、娘さんを僕にください。お前にお父さんなんて
呼ばれる筋合いはない。とかいうあれでしょ。いや、貰われるのはどっちかっていうと俺の方だけど。クロイスの下に居るから、普段はあんまり意識しないけれど、俺には身寄りがないのだし。どこに暮らすにしても、俺は
クロイスに頼らないとだろうし。あれ、なんか俺、結局全然自立できていない様な気がする。自立とはなんだったのか。いや、でも。功績はあるし。カーナス台地を解放したんだし。他の事は、その時その時で傍に居てくれた
人が助けてくれたからまだしも。あれは俺と、それからリュースの手柄になるのだから、多分ちょっとくらい威張ったって罰は当たらないはず。問題があるとすれば、それだけであって。今の俺はやっぱり、クロイスに
おんぶにだっこなところだけど。そんな俺が、果たして認めてもらえるのだろうか。断片的にしか、イリアの話は聞いていないからまだわからない部分もあるけれど。クロイスが軍に入ると聞いて、怒って出ていってしまった
みたいだし。それって、クロイスを大切に思っているって事だよな。当たり前か、実の息子なんだから。当たり前、か。それに一人息子でもあるみたいだし。クロイスの兄弟なんて話は聞かないしな。それでもクロイスの意思を
曲げる事ができないから、結局はクロイスを引き留める事も諦めて、今はこのタニア領に居る様な人だ。そんな人が、どこの馬の骨とも知れない、のだったらまだ良かったかも知れない異世界人である俺を見たら。なんて
思うのだろうか。しかも銀狼だし。スケアルガの人は、狼族や銀狼を別にそこまで嫌っている節はないそうだけど。それがイリアにまで適用されるのかは、まったく別であるし。それにそういう奥様方っていうのは、俺の
母がそうだったけれど、他の奥様とのお話も大事だしな。そういう時、俺みたいな奴はどんな風に話題に上るのだろうな。嫌じゃ、ないだろうか。
「クロイスのお母さんに、認めてもらえるかな」
 ここに来ると言い出したのは、俺だというのに。ここまで来ると、それが心配になって俺はぽつりと零してしまう。相変わらず、俺を抱き寄せて馬車の揺れを堪能していたクロイスが、驚いた様に顔を上げた。
「大丈夫だと思うけれど。母さんはそういうの煩い人じゃないし。それに、もし認められなくたって。俺はもうゼオロに決めてる。ゼオロが頷いてくれるのなら。それはもう、例え母さんにも。それから、親父にも。とやかく言われる
筋合いはないよ。それに、今はもう戦争も無くなってしまったし。前はさ、そのせいで俺は、正直に言えば親父に必要以上に反抗はしづらかった部分もあったけど。結局俺は、親父の許可が無ければ、軍の中で一切の
権限なんて物を振るう事を許されてはいなかったし。戦争が無くなった今は、尚更。俺の力なんて、もうなんにも無いくらいだし。でも、その代わりに。今はもう、例え親子の縁を切ったって、俺には痛手なんてないさ」
「できれば、そうしてほしくはないのだけど」
 俺が原因で、そんな事になってしまったのなら。どんな顔をしてクロイスと一緒に居たらいいのか、わからなくなる。クロイスは、自分の夢はもう叶ったのだからいいんだって言うけれど。せっかくの親子の関係を俺が
壊してしまうのは。俺が言うのも、変かも知れないけれど。その親子の関係としがらみから抜け出してここに居る俺が、他人が同じ様に抜け出そうとするのを引き留めようというのも、変なのかも知れないけれど。
「勿論、望んでそうする訳じゃないさ。けれどそれは、母さん次第。駄目なら仕方がない。ここを出て、ミサナトでもどこでも、納得できる場所で式を挙げよう。いや。もし俺達の関係が、そんなに祝福されないのなら。式なんて、
いいさ。ゼオロが俺と、一緒になってくれる。それだけで、いい。静かなところでも探して、暮らせばいい。それは、退屈かも知れないけれど」
「クロイスが居て、退屈だなんて事はありえないと思うけど。いつも煩いし」
「そうそう。そういう気持ちでいいよ。ゼオロ。時々、後ろ向きになるのは。たまにならいいけれど、ね」
 クロイスが、笑顔を向けてくれる。そうしてくれるだけで、俺は大分楽になる。それに、考えても仕方がない事でもあったし。俺がここで考えて、その結果イリアが俺を受け入れてくれるのなら、いくらでも考えればいいけれど、
そうではないしな。
「そうそう。悩まなくても良い事を悩む必要は無いんだよ。そんな事より、悩む必要がある事について悩もう?」
「なんかあったっけ」
「式だよ、式! どこでやるの? 誰呼ぶの? 服装は? 料理は? 楽団は? お色直しは何回する? 種族式か魔道式か? それとももっと庶民的な物にするか? ほら、一杯あるよ!」
「面倒臭いから適当に決めて」
「え、ええー……。一生に一度の晴れ舞台なんだから、もっと真剣に考えよう? 俺、全部説明するから」
「二度目、三度目が無い訳じゃないよ」
「だからそういうの止めて。後ろ向きながら、でも俺を攻撃するのだけは忘れないの止めて」
 俺の杞憂を他所に、それからもクロイスの口からは止め処なく式をどうするのか、という話題が飛び出してくる。式挙げなくてもいいかとはなんだったのか。俺が手を伸ばして、髭を引っ張ったりしていても、それは
止まらなくて。幸せそうな豹の顔は、少しも曇る事がなくて。なんというか、やっぱりクロイスって凄いなと思う。とても前向きなところが。それから、ぐんぐんと進んでは俺を引っ張ってくれるところとか。今は俺も、クロイスを
引っ張ってる部分はあるけれど。やっぱり俺には、このくらいの人の方が丁度良いのかな。人間だった頃、ほんの少しだけ親の期待に副う様に、女の子と一緒に居るところを想像した時もあったけれど。少なくとも俺は
エスコートするなんて柄ではないし。
 馬車が、揺れて。いい加減揺れに慣れたとはいえ、この馬車の旅にも流石に飽きてきたなと、何度目かもわからないくらいに思っていた頃に、ようやく俺達はこの旅の目的地へと辿り着く。もっとも、そこで行われる
話次第では、すぐにここを出ていかなければならないのだけれど。
 都からは、外れた。けれど田舎とも言い難い街の中に、その館はあった。ジョウスの本拠、クロイスの実家と言っても差支えの無いその館は。けれど本来の主は多忙につき帰る事はなく、今はその妻であるイリアだけが
住む場所となっていた。
「懐かしい……って感じじゃないな」
 馬車を降りて、とりあえずは連絡はしておいたので俺達を迎えた使用人達に案内を受けるよりも先に。館を見上げたクロイスが、目を細めて言う。
「そうなの?」
「言っただろ。俺はバンカの出身だから。本当のところ、ここに来たのは何回かって、そのくらいなんだよ。前線から少し引いた場所であるバンカの方が、俺にはずっと馴染み深い。あとは、ミサナトかな。本格的に魔導を
学ぶために、ミサナトの学園に通っていたし。本当なら、こっちにも相応の物はあるけれど。親父はミサナトにしばらく滞在していたから、何かと都合をつけてくれたしね。だからその辺と比べたらここも、それからタニア領も、
俺には馴染みが無いよ。ナウレ様は、ちょくちょく館を抜け出しては親父に会いに来ていたから、そこで面識はあったけど」
「相変わらず凄いね、ナウレ様」
 行動力が半端じゃないな。とはいえそれも休戦を終えて、しばらくは難しくなりそうだったみたいだけど。ナウレが地味に俺を応援しているのには、その辺りの効果もあるとかなんだとか。これで大手を振ってジョウス様の所に
行ける、みたいな事を言ってた気がする。ただ、今は外界へ道が繋がった事で、タニア領自体が目まぐるしい程の忙しさと好景気に湧いているので、結局ナウレは持ち場を離れる事ができないでいるそうだけれど。
「さあ、行こうか。ここに居てもドキドキするだけで、物事が進む訳じゃない。どうせなら、手早く済ませて。大丈夫なら大丈夫。駄目なら駄目。その結果を見て、さっさと次の行動を起こそうよ」
 クロイスに、手を引かれる。他の場所では、こういう事はあまりしないけれど。今回クロイスは明確に、俺を伴侶として。婚約者として連れる旨を先に報せてあるので、それをこうして実際の形の上でも見せつけようとしている
様だった。使用人達は、やっぱり猫族の。それも少し年老いた者が多かった。ここに住むのはイリアだけであって、必要以上の人手も必要ではないのだろう。本来の主も、随分長い間帰っていないみたいだし。彼らの表情は、
決して満面の笑みを湛えてとは言い難かったけれど。同時に嫌悪を剥き出しにした様な物でもなかった。ただ、一つだけ。クロイスを見る瞳には、優しい光が灯っているかの様だった。それから、昔を懐かしむかの様な。考えて
みれば、ジョウスが若い時はここに居たと思うのだから。彼らの瞳には、記憶の中に存在する若々しいジョウスの姿が、クロイスの登場でまざまざと思い起こされているのかも知れなかった。
 館の中へと、入る。外観はここまで見てきた物と、そう変わらない。住み慣れたフロッセルにあるジョウスの館と少し似ていた。西洋風のそれに、少なくともそこに今住んでいるイリアの存在を感じさせる物はなかった。夫が
建てた物を、必要以上に弄る事はしていない様だった。使用人の案内を受けて、やがては部屋に辿り着く。
「お待ちください」
 使用人の、年長と思われる猫族の女が、優雅に一礼して先に部屋へと入る。こうして歩いてみると、館の中には男の姿はあまり見られなかった。夫人の一人暮らしだから、今はその生活を支える人も男よりは女がずっと
多いのだろうな。流石に男手が必要な場面や、警備の面を考慮するとまったく居ない訳ではないのだろうけれど。
「なんか、緊張するな」
「クロイスも、会うのは久しぶりなんでしょ?」
「んー、まあ。こうして会う機会がまたあるとも、思ってなかったけどさ。一度は戦場にも出たんだし」
「やっぱり、その……嬉しい物なの?」
 俺からの質問に、クロイスが俺をじっと見つめる。俺がこの質問をする意味を、まるで推し計るかの様に。それからにこりと微笑んで、俺の頭を何度も撫でてくれる。さっき失礼のない様にと、毛並みを整えたばかりなんだけど。
「嬉しいし、嫌だなって気持ちもある。半々だよ。元々母さんは俺のやる事に反対していた訳だし、それで怒ってこの館に居るんだしね。何を言われるのやらって感じだし。だから、会いたくなかったっていえば、それは正しい。
でも、今は良い機会だなって、そうも思ってるよ。ゼオロが来て、戦争が終わって。だからこんな風に会う余裕もできて。もう話さないままなんじゃないかなって思った事もあった。良い結果になっても、悪い結果になってもさ、
今は、また会う事ができる。それだけで、いいんじゃないかって。そう思う様になったよ」
「なんだか、偉いね。クロイス」
「そんな子供を褒めるみたいに言われても」
「本当に、凄いと思うから。そう言っただけなのに」
 俺だったら、多分こんな事言えないだろうなって思う。今だって、そうなのだから。思い出すだけで憂鬱になる。もう会う事もないと思えば、気が楽になる。そういう親子の縁があって。そうして今俺の目の前に居るクロイスの
様な親子の縁もあって。それを比べても、仕方がない事ではあるけれど。それから、ほんの少しだけクロイスを羨んだ。今のクロイスが、そんなに羨まれる様な状況ではないのかも知れないとは思っていても。ああ、でも。戦争を
していたのだから。こんな関係でも、きっと恵まれているのだろうな。本当に辛い人からすれば、きっと俺の境遇も恵まれていたのは、事実だったのだろうな。ただ、どれだけ他人から羨まれたり、また望まれる様な日々で
あったとしても。そこに生きている、その人自身が。不幸に思ったり、息苦しさを感じて生きていたのならば、なんの意味も無いのだというだけであって。
「それに、そう思わないとここまで引きずられてきた事に納得できないじゃん!? そりゃ、ガルマと会えたのは、結果的には良かったなって思うけど。あの人は、俺にも。周りの狼族が顔を顰める事さえ気にしないで、気安く。
けれど優しく話しかけてくれた。あれがあったから、俺はここまで来られたっていうのもあるよ。どうせこう言われるんだろう。そう決めつけてたら、なんにもならないんだなって。とりあえず、受け止めてみてから考えれば良い事を
先に考えても、仕方がない」
「そうだね」
「それに、もし散々な目に遭っても。ゼオロが居てくれる。だからゼオロも、そう思っていてよ。遠慮しなくていいからさ」
「わかった」
「よし、これでなんかあっても、ゼオロに慰めて貰えるな。膝枕となでなでしてくれるよね?」
「面倒臭い」
 そんなやり取りをしていると、その内に扉が開いて。俺達は瞬時に元の姿勢と、元の表情へと戻る。なんかこういうやり取りも慣れてきた気がする。お喋りなクロイスが居ると、毎日はそんなに堅苦しく、きちんとした物には
決してならないから。それが心地よいと思う。
「お待たせいたしました。イリア様が、お待ちでございます。……ですが、申し訳ございません。先に、ゼオロ様お一人とお話がされたいと。イリア様は、その様に」
「えっ。俺じゃなくて?」
「申し訳ございません。クロイス様」
「うーん……。どうする? ゼオロ。嫌なら、俺から先に入って話してみるけれど」
「構いません。押しかけたのは、私達なのですから。イリア様が、その様に申されるのであるというのなら。私に異存はございません」
 本当は、ちょっと怖いけど。でも結局は俺がイリアと会って、そして気に入られるか、嫌われるか。それだけの事でしかない。その上で俺とクロイスの事を認めてくれるのか。だから別に、クロイスを先に行かせても、それは
俺が扉の前でそわそわする時間が伸びるだけなのだから。正直ここで、中の話し声を気にしながら待たされるのは精神的に辛い。
「駄目だったら、慰めてね」
 小声でクロイスにそう告げてから、俺は招かれるまま部屋へと入る。
 部屋の中は、外の明かりをふんだんに取り入れていて明るかった。それから何かのお香の匂い。俺からすると、少し気になるくらいで。けれどそれは、優しい香りでもあった。同時に俺は緊張に包まれる。考えてみれば、
貴婦人の部屋に入るなんて初めてだった。それ専用の礼儀というのは学んでいないし、大丈夫だろうか。
 けれど、俺がそんな事を考える余裕もなく。瀟洒な衝立の向こうへと案内されると、すぐにその人は目に飛び込んでくる。豪華な椅子に座って、白いテーブルクロスの上に広げられた茶と菓子を優雅に楽しんでいたであろう
その人は、ゆっくりと席を立つところだった。
「あ……」
 突然の事に、俺は上手い言葉がすぐに出てこなくて。けれど、その人が顔を上げて俺を見つめる物だから、俺も固まってしまう。当たり前だけど、それは豹の顔をしていて。けれど胸にはきちんとした、女性的な膨らみが
あって。なんとなくそれは、アンバランスな様で。けれど、豹の顔を除けば。その身体は細く。鮮やかな紫の、清楚なドレスに身を包んでいたから。思っていたよりも違和感があるとは言えなくて。
「お初にお目にかかります。ゼオロと、もうします。イリア様」
「……あなたが、クロイスの連れであるという。ゼオロ殿なのですね」
 少し高い声が聞こえる。女の人の、その声。俺は一礼してから、改めてその人を見つめる。イリアは。イリア・スケアルガは。今は俺の前に立ち竦んでは、じっと俺の事を。俺の銀の身体を見つめている様だった。
 それから、しばらくして。不意にその口が柔らかな笑みを形作る。そうすると、途端にそれはクロイスの表情に似ている様に思えた。同じ豹の顔だから、どうしようもなく違っている、という訳ではないけれど。
 不意に、イリアが背を向ける。俺が戸惑っていると、イリアはそのまま席に着いて。それから、俺を改めて見つめる。
「よろしければ、あなたもお座りになって? あなたのお話を聞きたくて、私は待っていたの。何も、遠慮しなくてよろしいのですよ」
「はい。……ああ、ですが。外に、クロイス様が」
「待たせておいて。今はあなたと、私で。お話がしたいわ」
 そこまで言われてしまうと、俺は抗う訳にもいかなくて。そのまま向かい側の席に座る。すると、イリアが頷いて。すぐに俺の目の前にも、イリアと同じ物が並べられる。
「どうぞ、召し上がって」
「い、いただきます」
 とりあえず俺は、焼き菓子を一つ口に放り込んで。それから、とっくに乾ききっていた喉のために、紅茶を啜る。紅に染まりかけたそれは、すんすんと匂いを嗅ぐと、俺の鼻にも優しい物だった。
「匂いは、大丈夫かしら? 狼族は、鼻が敏感だから。少しそれ用の物を取り寄せてみたのだけれど。たまには、悪くないわ。こういう物も」
「ありがとうございます」
 部屋に漂うお香とは違って、こちらはずっとそれが弱くて助かった。俺が咽る事もない。
「この部屋も。あなたの鼻だと、辛い物があるのかも知れないわね。今日は、お香は焚いていないのだけれど。この部屋はいつも使っているから、匂いがどうしても染みついてしまってね」
「お心遣い、感謝致します」
 そこまできて、俺は大分、このイリアという人物との話は穏やかに済みそうだなという予感を得る。俺を持て成す気が無いのなら、こんな風に用意はしないだろうから。
「あなたの事は知っているわ。けれど私は、あなたの口から。あなたの事が聞きたいの。どうか、楽になさって。私とお話をしてくれるかしら」
「わかりました。そういう事でしたら」
 肩の力を抜く。少なくともイリアは、今すぐに俺をどうこうしようとする気持ちは持っていない様だった。まっすぐに、改めてイリアを見つめる。ほっそりとした身体だけど、胸はしっかりと豊満で。けれどそれを見せびらかす様な事が
ない様に、胸元には少し余裕が造られていた。それから、その紫のドレスは首回りまでしっかりと覆っていて。この人がきちんとした淑女である事を教えてくれる。俺はあんまり縁が無いけれど、もっと胸元を強調させるドレス
なんていくらでもあるだろうしな。歳相応の恰好をして、年相応の振る舞い方をするのが、イリアの好みの様だった。けれど、その胸の上に。紫の生地の上に。静かな銀の煌めきがあるのに、俺は気づいてしまう。ジョウスの
付けている、あの銀の装飾と同じ物だった。実際には、細部は違っているのだろうけれど。今までのイリアの態度と、その銀を見て。どうやらイリアは、狼族を。銀狼を毛嫌いしている訳ではない事が充分にわかる。
 だったら俺は、何も恐れる必要は無かった。口を開けて、俺の話を聞きたいとただ待っているイリアに、俺の話をする。異世界人であって、狼族であって、銀狼であって。そうして、様々な場所を旅した事を。沢山の人と
出会って、沢山の人と別れて。そして今は、あなたの息子であるクロイスと共に在る事を。イリアは、話の腰を折る事もせずに。ただ静かに頷く事で返事をしては、俺の話を熱心に聞いてくれていた。
 冷めた紅茶が、新しい物に取り換えられる事が数度繰り返されるまで。俺はイリアへの話を続けた。

 静かな世界に響く、俺の言葉が、ようやく終わりを迎える。
「……後は、イリア様のご存知の通りです」
「そう」
 満足気な様子で、イリアは紅茶を啜る。もう何杯目なんだろうなこれ。そう思いながら、俺も話していて喉が渇いたので、遠慮なく飲んでいるけれど。
「あなたの事が、少しだけわかった気がするわ。少しだけ、ね」
 それから、イリアはそう言って。また静かに俺を見つめるだけになる。それ以上に、何かをする事もなく。その頃になって、俺は外で待たせてあるクロイスの存在を思い出して。すっかり忘れてた。ここには、ジョウス達が
使う様な防音の魔法は施されてはいないみたいだから、別に俺達が争ったりしている気配なども無い事に、安心してはいるはずだけど。それでも、ちょっと長いかなとはそろそろ思いはじめているかも知れない。
「あの……」
 口を開けてみたけれど、なんて言ったら良いんだろう。俺の話は終わったけれど、俺の評価は如何ですか。なんて、流石に直截な言い方はしづらいし。いや、相手によっては俺も割と喧嘩を売る様な事も言うけれど。少なく
ともこの人は、そういうタイプじゃないみたいだし。初対面の頃のガルマとかだったら、俺は自棄にもなれたんだけどな。
「随分、長い旅をしてこられたのね。ゼオロ殿は」
 俺が困っているのを感じ取ったかの様に、イリアがようやく口を開く。俺は居住まいを正して、その言葉を待って。俺にできる事は、もう終わった。俺が、異世界人で。だから、この世界に現れて。どんな風に生きては、
どんな風に歩いて。泣いたり、笑ったり。やっぱり泣いていたりした事を話し終わったのならば。後はただ、イリアの言葉を待つ事だけが、俺にできる唯一の行動でしかなかった。
 紅茶の入ったカップを静かに置いて。また俺をイリアが見つめる。
「……ありがとう」
「え?」
 突然の言葉に、俺は面食らって。そうしていると、イリアも少し首を傾げてしまう。
「私が、あなたに。この言葉を贈るのは、そんなに不自然かしら?」
「あ、いえ。すみません。その、今回の事もあって。怒っていらっしゃるのかと思って」
「そんな事ないわ。どうやら、あなたは私の事を誤解している様ね、ゼオロ殿。私の下に帰ってきた息子が、あなたを伴侶だと言い。そうしてあなたは、その様な複雑な事情を持つ上に、銀狼であるから。私がそれに対して、
怒りを露わにすると。あなたは……いえ、クロイスも。そう、思っていたのかしら?」
「……少しだけ」
「確かに。まったくそう思わないと言えば、それは嘘になるけれど。けどね」
 静かに、イリアが席を立って。そのまま俺の方へとつかつかと歩み寄ってくる。はっとした俺が、立ち上がった方が良いのかと悩んでいると。イリアの方が屈んで、そのまま俺の身体を抱き締めてくれる。胸が当たる。
「イリア様」
「お嫌ではないかしら? こんなおばちゃんに、いきなりこうされて」
「えっと……」
「ゼオロ殿。私は別に、あなたの事を嫌ったりはしないわ。だってあなたは、私の大切なクロイスを守ってくれたのだもの。クロイスの手紙には、そう書いてあった。私はジョウス様の妻ではあるけれど、それでも軍には属して
いないから、その辺りは明確に記されてはいないけれど。それでもあなたが来てくれた事で、戦争は終わった。そう思っていいのよね。だったら私には、あなたを嫌ったり、避けたりする必要なんてまったく無いわ。だって、
クロイスが生きていてくれたのだもの。自分の息子が、戦争に行って。数えきれないくらいの夜、枕を濡らしたわ。もう、会えないかと。そう思っていたわ。いえ、出ていったのは、私の方ではあるのだけど。それでも私が
戦場に行く事なんて、許されるはずはないのだから、結局は同じ。私にはクロイスが戦場で果てたとしても、ただその便りを受ける事しかできはしなかったでしょう。けれど、あなたが来てくれた事で。少なくとも私の息子が、
どことも知れぬ地で冷たくなる様な憂き目は、現実には起こり得なくなった。たった、それだけでいいのよ。私があなたを、受け入れる理由なんて。それだけで。ありがとう、ゼオロ殿。私は、あなたを歓迎するわ」
 イリアの腕が、少しだけ強くなる。俺は抱き締められながら、俺の被毛が、イリアの涙で濡れている事を感じていた。それで、俺は身体の力を抜く。イリアは俺とクロイスが危惧していた様な人では、まったくなかったの
だった。ただ、息子の無事を祈るだけの母親でしかなくて。けれど、自分には何もできはしない事も、よくよく弁えていて。
「それに、クロイスが無事なだけではなくて、あなたという恋人まで連れてきてくれた。今日は、とても良い日だわ。戦で息子を失くしてしまった人を、私は知っている。その人達の涙も、私は知っていて。いつか自分も、
そうなるのではないかと怖かった。とても自分勝手な思い方よね。私はジョウス様の妻なのに。それでも時々、そう思っていたの。けれど、そうはならなかったわ」
「あの、でも」
「何?」
「男同士なのに、構わないのですか。嫌だとは、思わないのですか」
 俺は思わずその言葉を口にしてしまった。それを厭うのは、前の世界の常識であって。この世界では、少なくともラブーワでは。それはある程度認められているのだという事は、充分に理解していたけれども。 それでも、俺は
そう言わずにはいられなかった。だって、イリアはクロイスの母親だから。母親なら、きっと。それを求めて当然だと思って。自分の子供が立派に育って。大切な恋人を連れてきて。いつか自分の子供と、その恋人との間に、
新しい命が産まれて。自分は孫を持つ様になったのかって、そんな風に、幸せに自分が歳を取った事を自覚して。けれど俺は、それを何一つとして、イリアに与える事はできはしないのだった。いや、例え俺が女の身で
あったとしても。種族の壁があって、子供は作れないのだけど。
 この世界では、違った常識があるんだって、わかってる。けれど同時に。目の前のイリアと、そしてジョウスは。今まで連綿と続いてきた、その流れを確かに受け継いで、そしてクロイスという存在を儲けたのだった。その
流れが、単に親から子へとだけではなく。スケアルガの血筋の事だってある。俺なんかがここに居て。その繋がりを、或いは断ってしまうかも知れない事を、残念に思ったり。俺の事を、邪魔に思ったりはしないのだろうか。
「そんな事ないわ。……いいえ。あなたに嘘は言いたくないから、正直に言うけれど。それを、私が望まぬ訳ではないわ。でもね。もう会えないと思っていた息子が戻ってきた事に比べたら、そんな物は、とても小さな事
なのよ。私だって、ランデュスがどれ程に強いのかはわかっていた。百年以上も争っていたのですもの。ジョウス様のお父様では終わらずに、ジョウス様がそれを継いで。そして、あなたが来てくれなかったら、やっぱりそれでも
終わりはしなかったでしょう。そんな中で、クロイスがどんな風に生きるのかはわからないけれど。それでも、命の危険も、戦場で亡くなる可能性も、確かにあったはずだわ。それと比べたら、何程の事もない。クロイスが、
帰ってきてくれた。さっきも言ったけれど、それだけで良いのよ。どうか、そんな風に自分の事を悪く言わないで。あなたがしてくれた事は、それだけ素晴らしくて。そして少なくとも何もできずに、ここで泣いていた私が
とやかく言えた事でないのだけは、確かなのだわ。そんなあなたの事を、クロイスが好きだと言うのが、一体どうして誰かから咎められたり、厭わられなければならないの? 寧ろ、そんな事もしないでクロイスがあなたの事を
放り出すのならば。私はクロイスの頬を引っ叩いたでしょうよ」
 イリアが、俺の頭を撫でてくれる。そうされると、俺も少し涙ぐんでしまって。良いのだろうか。俺の事、邪魔に思ったりはしないのだろうか。そうは思わないって、言われたばかりなのに。それでも俺は考えてしまう。
「それにね。あなた少し、勘違いしているわ。あなたが私に対してそう思ってしまうのは、わかるわ。スケアルガの家の事も、確かにあるもの。でもそれって、言ってしまえば私やジョウス様にとっての幸せでしょう? クロイスの
子供ができたら、私はきっと可愛いなと思うでしょうし。ジョウス様は、スケアルガの血が続く事に安堵もするでしょう。けれどそれは、私達の幸せであって、クロイスの幸せではないわ。クロイスは、あなたを連れて、ここまで
来たのよ。その意味を、もっと深く。大切にして。クロイスは、あなたと幸せになりたいのよ。あなたが居るから、幸せなのよ。子供が、幸せだというのなら。親は自分の幸せではなく、子供の幸せを思って身を引くべきよ。だって、
私はジョウス様と巡り合えて、そしてクロイスを授かった事で。少なくとも二回は人生の中において、幸せの絶頂を味わったのだもの。あの時の幸せを、私は忘れてはいないわ。その幸せを、自分の息子が同じ様に。いえ、
子供は授かれないかも知れないけれど。それでも、愛する人と一緒に居る幸せを、味わおうとしている時に、どうして私がその邪魔をしなければならないの。そんなのは余りにも勝手だわ。そうだとは、思わない?」
「……そう、ですね……」
 嬉しさと、悲しさが綯い交ぜになって。俺は、それだけの事しか返す事ができなかった。俺とクロイスの関係が、祝福されている。俺の存在が、肯定されている。その嬉しさと、同時に。決して認められる事も、また許される事も
なかった、捨て去った半生が脳裏に甦る。遠い過去になった記憶が甦っては、俺を苛む。あれはもう、遠い日の出来事で、夢の様な物なのだから、そんな事はもう、気にしなくていいのに。ここに居る俺の事を、皆が認めて
くれているのに。嬉しくて、怖くて。
「泣かないで。私も、泣いているけれど」
 それからしばらくは、俺はイリアの腕の中で静かに泣いていた。他人の母親の胸で泣くなんて、おかしいと思うけれど。
「おかしくはないわ。だって、あなたがクロイスと一緒になるのなら。それって、あなたが私の息子になるのでしょう? 私に、新しい息子ができたわ。この歳になってからじゃ、もう望めない事。それもこんなに可愛らしい、
綺麗な銀狼さんが息子だなんて、嬉しいわ。二つ目どころか、三つ目の幸せが。クロイスが生きていた喜びと同時にやってきてくれた。よろしくね、ゼオロ殿。……いいえ、ゼオロ」
 一頻り、泣いて。それから離れると、俺とイリアはすっかり忘れられていたクロイスを慌てて部屋に呼び込む。その頃になると、クロイスは随分待たされた事ですっかり不貞腐れていたけれど、イリアが俺を離さない物だから、
目を丸くして驚いては。全てが上手く行った事を察知して、こちらもすぐに笑顔になった。
「ただいま。母さん」
「おかえりなさい。クロイス」
 クロイスとイリアの会話は、長く離れていた年月を埋めるには、あまりにも短くて。けれど、たったそれだけで。この親子の間にあった溝は、無くなってしまった様に俺には見えた。

 イリアの館での日々は、楽しい事の連続だった。
 打ち解けた俺とイリアの仲は、当初クロイスが心配していたのがなんだったのかと言う程に良好で。それは俺というよりは、イリアの努力の賜物だったと思う。何を言うにも、俺はやっぱり対人関係がそこまで上手くこなせる
とは言い難かったし。その上で相手は、クロイスの母親で。だから俺とクロイスが結ばれれば、義理の母になる相手であって。なんというか、どういう距離を保って接したら良いのかが、実のところ俺は、しばらくの間さっぱり
わからなかったのだった。だって自分に恋人ができるなんて事が、そもそも人間だった頃には笑い飛ばしてしまうくらいにありえない事であったし。それが、恋人ができて。しかもなんか結婚まで漕ぎつけそうで。その上で、
相手の両親と顔合わせまで行って。更に今は、ちょっとした同棲状態になっている。いくらなんでもこれにいきなり慣れて、完璧な義理の息子として接しろというのは、俺にはハードルが高すぎた。
 そんな俺に、イリアは大層優しく。また、甲斐甲斐しく接してくれた。お茶には頻繁に呼んでくれるし、強い匂いのお香や茶の類なども控えて。それはイリアにとってはストレスになってしまうのではないかと、俺は気になった
のだけど。
「そんな事ないわ。それに、あなたとお話していられる時間が、大切だもの。それからね、私一人だと、どうしても私の好みの物だけになってしまって。けれど、好みの物ばかりである事が、却って飽きにも繋がってしまう物
なのよ。ここに住んでいるのは、私だけだから。使用人達は私の好みをよくよく心得ているわ。私がどんな気分の時に、どんな物を欲しがるのか。そんな事まで、私が言う必要はないの。けれどそれは言い換えれば、出てくる
物が決まっていて、決して変わらないという事でもあるのよ。勿論、新しい物を求める事もあるわ。けれど、求めて、新しい物を手にしても。よく見ると、それは結局今まで好んで使っていた物から、それほど逸脱してはいない
物だって事に気づいてしまうの。ちょっと、笑ってしまったわ。私は、私一人だと。結局そうなんだわって。だから、ゼオロ。あなたがそれを気にする必要はないわ。だって、あなたには平気な物。あなたが喜んでくれる物を
見繕うのが、私はとても楽しいのだから。この間ね、市場に行ってみたの。普段は私、決してそういう所には足を運ばないわ。この館には、私のためだけに料理人も居れば、お菓子を作る人だって居るのだもの。けれど、
あなたを迎えるには、何が必要なのかしらって考えると、彼らでは駄目なのよ。だって、私はこんなにおばあちゃんで。そんな私に付き合ってくれた、この館の者も。やっぱりおじいちゃん、おばあちゃんなのだもの。いえ、
若い子だって、勿論居るのよ? この間入った使用人だって、まだ十代の半ばだったし。あの子は使用人の中の子だったわね。けれど、そんな若い子でもね。世話をするのが、私みたいなおばあちゃんでは。やっぱり感じ方も、
気の配り方も、それ相応の物になってしまうのよ。若々しさが無いわ。そこに、あなたが来てくれた。それからクロイスもね。クロイスは私が誘っても、すぐに逃げてしまうけれど。あなたはそうじゃない。若いあなたに合う物を
選ぶには、若い人の居るところに出向かなければならないと思ったのよ。市場には、随分色んな物があるのね。ここに一人で篭りきりだった私は、そんな事にも気づかないでいたわ。季節が流れて、月日が過ぎて。何年
経とうとも、私に捧げられる物は、何一つとして変わらなかったもの。今考えれば、それは本当によろしくない事だったわ。最近はね、あなたが美味しいって言ってくれた物を、皆で食べてみたりもするのよ。そうしたらね、
こんな物があったんですねって、誰かが口にしたわ。私はその時、とても申し訳ない、居た堪れない気分になってしまったの。ここにはジョウス様も、クロイスも居なかった。怒ってジョウス様の下を出てきてしまった私がただ
居るだけで。だから、お客様がお見えになられる様な事もなくてね。そのせいで、皆が私と同じ様な感性を持つに至ってしまったの。あなたには感謝しているくらいだわ。あなたの好みを探す内に、私は新しい物を忌避するの
ではなく、好きになる感覚を取り戻す事ができたのだから」
 そんな風に、手放しにイリアは俺を褒めてくれる。ただ、イリアの言う様に。この館の中に新しい風が吹いたのは事実の様だった。実際に晩餐の際に出てくる物も、色々と改められているらしいし。調度なども、俺とクロイスが
居る様になってから、多少は前よりも改められていた。その辺りはクロイスの力な気がするけれど。俺はそういうのは、よくわからないし。それから俺のお金なんて物はないのだし。
「あなたとクロイス。たった二人が居るだけで、この館は随分明るくなった。いえ、それも違うのかも知れないわね。私が、暗くしていたのだわ。夫も息子もここには居なくて、塞ぎ込んでいた私が居たから。使用人達も、
表立ってはしゃいだりする事ができなかったのは事実だもの。以前よりも、皆の表情が明るくなった気がするの。本当にあなたがここに来てくれて、良かったと思っているわ」
「ありがとうございます。イリアさん」
 イリアに、俺は礼を述べる。最近少し困っているのは、イリアに対する呼び方だった。お母様、なんていうのもちょっと違う気がするし。でも、様付けのままだとイリアは寂しそうな顔をするものだから。うんうんと考えては、
この呼び方が定着していた。義理とはいえ、クロイスと結婚したら自分の母親になる相手だというのに、それもどうなのかなと思ってしまうけれど。ただイリアはそんな俺の様子も、温かく見守っては。何一つ文句を言う事も
なかった。それは本当に母親その物の様で。俺はくすぐったくで。けれど、それ以上の事を言葉にできる程器用でもなくて。その代りに、できるだけイリアの傍に居る様になった。元より、イリアはこの館に使用人達を除けば
一人きりだし、俺とクロイスも態々街で宿を取る必要もないと判断して、そのまま館に住み着いていた。一つには、俺とクロイスの結婚を認めてもらうためでもあったのだけれど、それは出会って早々に承諾されてしまった。俺と
クロイスが一番心配していた事が、こんなにもあっさり解決してしまうとは。おかげで、こうしてイリアとの日々を過ごせるのだけど。イリアの説得のために、このくらいの時間は必要ではないかという目算があったし。それに。
「結婚するんなら、ゲストは必要じゃん!? 沢山招待しないと」
「任せた」
「えぇ……もっと真面目に考えよ? 誰か、呼びたい人いないの?」
「ハンスさん」
「任せろ」
「クラン」
「厳しいね。向こうは来たいかも知れないけれど、暇が無さそう。まあ、手紙は出すよ」
「ヒュリカ」
「一応連絡してみるけど。そっちも似た様な物かも知れないな」
「ヤシュバ」
「それ連絡届く?」
「……ファンネス?」
「普通に断られそうだね」
 みたいなやり取りがあったので、今は式の日取りを決めて。それからクロイスが、集まれそうな人に声を掛けているらしい。凄い。イリアの説得をしにきたはずなのに、もうそっちにクロイスの手が伸びている。完全に結婚に
燃えている気がする。そんな訳で、どっちにしろ今の俺は手持無沙汰なのだった。正直結婚式とか言われてもよくわからないし。あと勢いに任せてヤシュバの名前を口にしたのは失敗だったかも。本当に手紙送ったみたい
だし。来る訳ないっていうか、一応タカヤだった頃は、ハルとしての俺を好きだった相手に送る物ではなかった気がする。どちらにしろ、ヤシュバはヤシュバでとても忙しいだろうし。カーナス台地で、竜神と結界を破ってから、
連絡を取り合ってもいないけれど。相変わらず筆頭魔剣士を続けているのなら、一年経った程度では忙しさはまったく変わらないだろうな。竜神が居なくなって、ランデュスは本当に今大変な時期になっているというし。国として
危ういという訳ではないけれど。それだけ、竜族は強いのだから。ただ、竜族にとっての心の拠り所とも言えた存在が、消えてしまったのだから。彼らには計り知れない衝撃が走っただろう。実際、ランデュスは竜神を悪く
言う事を避けて、竜神とヤシュバが力を合わせて結界を消して、その影響で竜神の存在が感じられなくなったと発表したそうだし。それに対して、ラヴーワ側には不快に思う人も居たのかも知れないけれど。結局結界が消えた
事に対する真実を知っているのはごく一部に限られるし、その上で外界への道が開かれた事で今はランデュスと争っている場合ではないから、そこは不問とされたそうだけれど。またそうした方がランデュスの首脳陣には
貸しを作った形にする事もできるのだからと、確かジョウスは言っていた気がする。俺としては、その辺りの問題を突くつもりはないし。
 とはいえ、その様な理由で。今ランデュスにおいてのヤシュバの地位と名声は相当な物になっているらしい。そりゃそうだよな。自分達を閉じ込めていた結界を壊したのが、竜神とヤシュバと発表された上で、英雄の片方で
ある竜神が居なくなってしまったのだから。ヤシュバこそが、新たな自分達の指導者だとする熱狂的な者達も出ているそうだし。何を言うにもランデュスは遠いので、俺の仕入れられる情報は又聞きのそれでしか
ないけれど。クロイスも多少の情報は仕入れてはいるものの、流石に国外の事は専門の部下を持ったりしない限りは、その詳細を知る事は難しいらしい。
 今、何してるんだろうな。俺は一人になると、ぼんやりとヤシュバの事を思う。結婚式のゲストを呼ぶ流れで思い出すのはどうかと思うけれど。それくらい、最近では思い出す事もなくなってきた。大切だけど、大切だという
だけで、思い出す事も少なくなってくる。いつか思ったそれが、また出しゃばってきては、そのままヤシュバの事も大切という言葉の中に仕舞いこんでしまったかの様だった。目の前に居るのなら。困っているのなら。俺は
なんとかしたいと思うのかも知れないけれど。もう会わない方が良いとまで言われてしまったし。残念ながら俺もそれには同意見だし。そもそも今まさに多忙を極めている筆頭魔剣士が、ラヴーワにのこのこ出てこられるはずは
ないし。戦争が終わったとはいえ、警戒は勿論続いたままだろう。だからといって、以前に手を差し伸べられた時の様に。ヤシュバの隣に、俺がただ一人居続けるのも嫌だ。俺はもう、ここが好きなのだから。俺の事を助けて
くれる人が沢山居るこの国が好きなのだから。
 ヤシュバの事を、諦めて。それでも日々は、恙なく過ぎては、婚礼の日時が迫ってくる。段々とそわそわしはじめたクロイスを尻目に、俺はいつも通りのままだった。
「あなたって、本当に動じないのね。クロイスの方が、年上なのに」
「本当は、同い歳くらいですから」
「でも、だったらクロイスと同じくらいには騒いだって、良いのではないかしら」
 その日も、いつもの様にイリアとのお茶を楽しみながら。イリアは俺が、泰然自若としていると言っては、おかしそうに笑っていた。見た目は相変わらず子供の俺がそうしているのは、イリアにとっては、面白い事の一つの
様だった。
「イリアさんの時は、どうだったのですか。ジョウス様との、結婚が決まった時は」
「そうねぇ……。私、あの時はとても浮かれていたわ。ジョウス様が、私を見初めてくださった事に感激して、有頂天で。自分が世界中で、一番幸せなんだって、そう思っていたの。やっぱり、女の方なのかしら。そんなに簡単に、
浮かれてしまうのは」
「クロイスも浮かれているので、違うと思いますが」
「私に似たのかしらね。既に式の経験がある私に、最近は何くれとなく、これで不備はないかと何度も訊ねに来るのよ、あの子は。自分にとっては、一生に一度の事にしたくて。その上で絶対にゼオロが頷いて、幸せに
なれる様な物にしたいんだって、そう意気込んでいたわ。ちょっと、空回りしてしまわないか。私が心配してしまうくらいに」
「そうですか。クロイスが、そんな事を」
 俺の悩みも、苦しみも理解しているクロイスは。今はそれに、俺を幸せにしようとする事に、躍起になっている様だった。嬉しいけれど、そこまでしてくれなくてもいいのにな。
「今更ですけれど。そんなに大層な式でなくても、良かったとは思うのですが。ただ私とクロイスの事を、心から認めて、祝福してくれる方が居てくれれば。少なくとも私は、イリアさんがそうしてくれるのなら。あとは、ジョウス様
だとか。本当に最低限の人だけで、良かったのではないかと。そう思うのです」
 実際、前の世界ではそういう結婚も割と流行っていたそうだし。結婚式場を借りて、そこに沢山の人を呼んでは、新郎と新婦のアルバムを広げながら云々する、というのではなく。海外の式場などを借りて、極一部の身内だけを
招いて粛々と進んでゆく様な物が。或いはそのどちらも投げ捨てては、役所に届けを出しては終わりという道もあるのだけど。俺もできるならそれでも構わなかった。クロイスが絶対に頷くはずがないのを理解しているので、
任せているけれど。結婚するけど式はいいや、なんて言ったら。多分クロイスは三日くらいはベッドに凭れて動かなくなってしまいそうだし。なんであんなに情熱を燃やせるのか、それがちょっとわからなくて、ちょっと面白い。
「それだけ、あなたの事が大切なのよ。それから、記憶に残る物にしたいのかも知れないわね。私もね、今になっても、時々思い出すもの。ジョウス様と結婚した時の事とか。クロイスが産まれた時の事とか。独りきりで
暮らしていたから、余計に思い出してしまうのよ。あの頃は、幸せだったなって。今だって、本当は不幸などではなかったはずなのに。ジョウス様も、クロイスも生きてはいたのだから。それでも、離れ離れになってしまって
いたけれど。だけど、あなたがそれを解決してくれたわ。その上で、あなたは私とこうして、お茶に付き合ってもくれるし。だから私も、素敵な式になれば良いなと思っているのよ。あなたがそれを気に入ってくれるのかは、
とても気になってはいるのだけど」
「嫌だ、なんて思いません。ただ、その。自分が結婚するんだなっていうのが、いまだに自覚が無くて」
 あって堪るかよって言いたいくらいだけど。恋人も作らないし、作れないし。結婚なんて画面越しでだけ見られる限定のイベントか何かの様な物としか思ってなかったのに、一周回って自分が今結婚しようとしているとか。冷静に
考えると大分頭が混乱してくる。嫌な訳ではないけれど。ただ、絶望的に自分には合ってないなって、そう思ってしまって。勝手に、決めつけてしまっていて。そういう意味では、イリアやクロイスは俺を見て、冷静だとか、
動じてはいないとか、もっとそわそわしていて然るべきだと言うけれど。俺も大分普段通りに振る舞ってはいない気がしていたのだった。
 それでも、どんなに俺が、自分が結婚をする事に違和感を覚えていても。月日が過ぎては、その日が来てしまうのだった。
 俺とクロイスの、式の日が。

 厳かな空気が、なんとなく俺の気を重くさせる。
「気分が悪いの?」
 俺の様子を見て取ったのか、柔らかく微笑んだ優しい豹の女性。イリアが、俺の肩を優しく撫でてくれる。
「いいえ。当日になって、少し緊張してしまったみたいです」
「嬉しいわ。あなたが本当に、そのままだと。クロイスもきっと拗ねてしまうでしょうし」
 俺とイリアは今、式場の控室に居た。式場といっても、結婚式専用の物ではなく、何かしらの式を行う際に用いられるべき場所で。相応に裕福な者達がそこを利用するらしい。本来ならばスケアルガの家の者、それもクロイスの
結婚式ならば。それこそナウレの館や、或いはそれに比する程に豪奢を極めた、広大な場を用意されて然るべきだったのだけど。流石にそれはと遠慮をしておいたので、クロイスはそこそこの場所を。大人数を収容する必要も
なく、また仰々しくも尊大でもない式が挙げられる場所を借りてくれた様だった。実際クロイスの方はともかくとして、俺からは誘う知人が、そしてここまで来てくれるであろうその数が、決して多くは見込めない事もあって、余り
にも広い場では逆に隙間が気になってしまう程だったので、それは正しい判断だったと思う。というより、どれだけの人が来るのかっていう話だけど。一応何人かは向かっているという返事が来たそうだけど、飛行機や
新幹線でひととびという訳にもゆかないのだから。そんな事ができるのは、高名な魔道士や。とんでもない速度で空を舞う竜族くらいの物だろう。
 花婿の控室。それは、二つある訳だけれど。だって花婿と花婿の結婚式だし、何それおかしい、と言いそうになってしまう。花嫁はどこへ行ってしまったのか。いや、ある意味それは俺なのだろうけれど。クロイスと並んで
しまったのなら、どっちが嫁っぽいかっていったら、虚しい反論はできないのであった。お姫様抱っこも俺からはとてもできそうにない。試しに一回やってみたらまったく持ちあがらなくて、クロイスがただただ楽しいだけの
時間が過ぎてしまったのはもう忘れる事にする。滅茶苦茶笑顔だったなあの時は。
「大丈夫よ、ゼオロ。母親の私が言うのもなんだけど。クロイスなら、好きな子は絶対離さないわ」
「それは身に染みてます」
 本当に、身に染みてるなと思う。クロイスからすれば、俺の性格なんて割と面倒臭い部類に入るだろうから、怒って放り出されたって仕方ないかなと思うし。確かにクロイスの側に立てば、俺という存在が居た事でクロイスの
求めていた物も、夢も。それどころか命すら助かったと、そう言えるのかも知れないけれど。それはそれ、これはこれだとも思うし。命の恩人だとかなんだとか言ったところで、それが結婚相手になるのかというと、まったく
別の事であろうし。
「そんなに、クロイスの愛情は信じられない物なのかしら?」
「いいえ。……ただ、私が。そんな風に相手から思われるのが、いまだに信じられないと思っているだけなのかも知れません」
「可哀想ね、それは」
 イリアが、俺の事をぎゅっと抱き締めてくれる。可哀想だと言われるのは、相手によっては嫌な気分にもなるけれど。イリアにそう言われると、何も言い返す事ができない。実際のところはどうなのだろうな。可哀想な奴なの
だろうか、俺は。誰からも好かれないのが当然の態で生きていた半生から、今になって好かれる様になって。それだけならまだしも、結婚まで言い渡されては。どうしてもそれが信じられないというか、実感が湧かないのは、
仕方がない事だと許してほしいのだけど。クロイスはきっと、俺のこういう気持ちを知ったら、不機嫌になったり。また、呆れてしまうのかも知れないけれど。
 イリアの胸に顔を埋めて、俺は目を細める。イリアが身に着けている香水も、今はそれ程気にならなくなっていた。一つにはそれに慣れたというのもあるし、イリアもクロイスと同様に、あまり臭いの強い物を避けている
らしかった。なんとなく、それも申し訳なくなる。俺は狼族だから、どうしても俺の鼻では猫族よりも敏感になってしまっていて。けれど、その代わりに。俺は仲良くなった相手の匂いが好きになるので、今のこの、イリアの
匂いも。結婚を直前に控えて、不安になっている俺を安心させるには充分な物だった。
 丁度、その時だった。控室の扉がノックされる音が響いたのは。思わず俺は耳を震わせて、イリアの水色のドレスを。それまでのイリアは、紫の落ち着いた物を召してばかりいたので、それと比べれば幾分は柔らかくなった
ドレスの生地を叩いてしまう。
「誰かしら。まだ、時間には早いのだけど」
「どちら様ですか」
「ジョウスです。ゼオロ殿。今、よろしいでしょうか」
 顔を上げて、俺はイリアと少しの間見つめる。
「まあ、ジョウス様ったら。遅れるかも知れないと、お返事されていらっしゃったのに。もういらしてくださったのね」
「良かったですね、来てくれて」
「そうね」
 イリアが、嬉しそうに。それでも少しだけ複雑そうな顔をする。俺はイリアと親しくして、また話もしていたからわかっているけれど。結婚式の招待状は、当然クロイスの父であるジョウスにも出されてはいたけれども、その
ジョウスが駆けつけられるのかは、誰もが首を傾げていたのだった。ランデュスとの戦が終わったのだから、本来ならばジョウスも軍師の任を解かれては、ミサナトなりに戻っていてもなんら不思議ではなかったのだけれど、
新たに結界が排除され、外界への道が拓かれている今。結局は有事の際を考慮して、ジョウスは以前として軍師のまま軍に収まっている状況が続いていたのだから。結界が無くなって、俺とクロイスはワーレンから
ギルス、ディーカン、そしてこのタニア領へと渡って、既に一年の月日は流れたので、多少は外界の事がわかって、少しの余裕も生まれたとは思うけれど。それでも、依然として多忙である事には変わりない。
「来てくれないかも知れないわ。喧嘩をして、私は出てきてしまったのだし」
 その上で、こちらにはイリアが居るから。招待状を出す段になって、イリアは表情を曇らせてそう呟いたのは、ついこの間の事だった。
「ゼオロ。お願いがあるのだけど」
 いつまでもジョウスを待たせるのも失礼だと思って、俺が立ち上がって出迎えようとすると。イリアが笑みを浮かべてお願いを口にしてくる。小声で話されたそれに頷くと、俺は少しの間を置いてから、一人で扉の前に向かって
それを開けた。イリアの連れた使用人が居てもいいものだけど、今はイリアと二人だけで話がしたかったので。この部屋に居るのは、俺とイリアだけだったのだ。
「これは、ジョウス様。本日は、態々ここまでご足労頂けるなんて」
「いいえ。それに、ゼオロ殿ともしばらくお会いしてはおりませんでしたからね」
 俺が出迎えたジョウスは、いつもの様に軍師である事を示す黒いコートを身に纏っていたけれど。その胸には白い薔薇がアクセントとして咲いていた。そうしてきっちりと身を固めていると、流石にクロイスの父親だなと
思う。恰好良い。クロイスよりも幾分白みがかった豹の被毛も、齢を充分に重ねた事を報せるその挙措と声音も。少しもジョウスの魅力を損わせる事はなく、寧ろより相手に強く印象付ける事に役立っている様だった。流石に、
イリアが夫にと決めただけはある。
「お一人ですか? もう、まもなく式が始まって、あなたとクロイスの出番が来るのでしょうに」
「本当の意味での、一人きりが終わってしまいますから。昨日も、そう言って一人になっていましたけれど。今も、少しだけ。そうしたくて」
「そうでしたか。それでは、お邪魔をしてしまいましたかね」
「いいえ。それに、ジョウス様とのお話ができる機会をふいにする訳には。とにかく、中へお入りください」
「いえ。立ち話のつもりでしたので、お気遣いなく。それにあなたもその様子だと、まだ準備に時間が掛かるのでしょう?」
 ジョウスに言われて、俺は頷く。今の俺の恰好は、無地の、薄い絹一枚だけだった。これからこの上に、式のために必要な物を身に着けるので。ジョウスはそれを見て取った様だった。
「その、お時間は大丈夫なのですか。ラヴーワの事もおありなのに」
 結婚式の祝いに来てくれた相手に、時間は大丈夫なのかと訊ねるのもどうかと思うけれど。俺としてもそこは気になっていたので、つい口にしてしまう。ジョウスは微笑んで、静かに頷いてくれる。
「ええ、ご心配なく。それに今は外界の事で、ここタニア領はまさに大騒ぎの有様ですからね。本当ならもっと早くこちらの視察をしたかったのですが、ランデュスとの事もあって中々動く訳にもゆかず。ですが、あなたと
クロイスがこうしてめでたく結ばれるとあって。そのついでにここらで一度、私が直接赴いてみようと思い立ったのですよ。部下には、突然にあれこれと任せてしまったので、申し訳なく思いますが」
 なるほど。ついでと言ったけれど、どちらかと言えばこの式の方がついでで、今回は猫族と、陸続きでその先に広がる外界の視察も兼ねているのか。ランデュスの様に翼を持つ種族をラブーワは持たないし、翼族もラヴーワを
代表して全てを預けるにはまだ心許無い。元々涙の跡地は、外側を海に囲まれていて。またそこは水族の支配する地であったから、船はもっぱら漁をするための物で、大海を征する様な技術が培われる機会を損なって
いたので、結局は陸続きで外に行けるこのタニア領にラヴーワの注目は集まっている様だった。ランデュスは船をぼちぼちと、それから翼を持つ竜族が外界へ手を伸ばしているそうだけれど、そのランデュスと必要以上に手を
結ぶのも、今はまだまだ難しいそうだし。唯一二つの国で共通しているのは、水族にもある程度の働きかけをしている事ぐらいだろうか。彼らは陸で生きるのと同様に、海でも暮らせるというし。海を越えて、外へ出向く
ためには彼らの助けは絶対に必要だろう。少なくとも、敵対しない関係という物は確保しなければならないのだから。その点ではラヴーワの方が一歩リードしていると言っても良いかも知れない。
「ところで、ゼオロ殿。あなたとクロイスが、こうしてここに来るとは、私は思っていなかったのですが」
「ああ。ごめんなさい。ジョウス様にお伝えしたり、また許可を頂いたのは、ギルス領まででしたね」
 元々ガルマの容体が気になるからと言って、ギルス領へ行く許可をもらったのが最初で。その後はリスワールに誘われたからディーカン領に行ったり、そこで俺が誰にも言わずにクロイスの母であるイリアの下へ行く事を
決めたのもあって、ジョウスにはその報告が遅れていたのだった。とはいえまったく何も伝えずというのもよろしくはないので、クロイスは必要な情報を纏めたりして、小まめに手紙は出していたそうだけれど。
「いいえ、それは構いませんが。その、私の妻には。……イリアには、お会いになられましたか」
「え、えっと……」
 なんとなく、それを見てジョウスもイリアの事を意識はしているのだけど、顔を合わせ辛いのかなと俺は察する。咄嗟に、どう答えていいか迷ってしまって。そうしている内に、ジョウスの視界の外から扉に手が掛けられて。
「あら。今、私の事をお呼びになられましたか? ジョウス様」
「い、イリア」
 ジョウスが、目を丸くして身を引いた。けれど、その頃にはイリアは俺の隣へとやってきていた。俺が扉を開けて、イリアはその扉の後ろに隠れてジョウスを迎えていたのだった。本当は、更にその後ろのカーテンの向こう側に
最初は隠れていて。部屋に招いたジョウスを後ろから驚かせたかったのだろうけれど、ジョウスが部屋に入ってこないので作戦を変えた様だった。イリアはさわさわとしたドレスを揺らしながら、その細い腕で扉を少し開けては
顔を覗かせて、花の様に笑ってはジョウスを迎えていた。
「お久しぶりでございます。ジョウス様。最後にあったのは、いつ以来でしたかしら」
「イリア。あなたも人が悪いですね。ここに居るのなら、そう言って頂ければ良かったのに」
「そんな事を仰って。私がここに居ると知っていたら、他の方の中に混ざってしまうおつもりだったでしょうに」
 ジョウスが露骨に視線を逸らしては、わかりやすい作り笑いをしながら、数歩後ずさる。初めて見るな、ジョウスのこういう様子は。いつ見ても余裕たっぷりなところしか俺やクロイスには見せなかったのに。イリアの前となると、
また別の顔を見せるのが、なんだか新鮮だ。そうしていれば、俺も警戒をすべき相手だとは思わなかったし、あんなに脅したりもしなかったのにな。その辺りは、惚れた弱みという奴なのだろうか。
「色々と、積もるお話がございます。少し、あちらの方で。私とお話をしませんか?」
「い、いや。しかし、なあ。ゼオロ殿とこの様に、ここに居られるという事は。これからゼオロ殿の面倒を見るのも、あなたなのでしょう」
「心配ありませんわ。ゼオロは、あまり派手な物は好みではないので。今回の式の衣装も、それ程時間が取られる訳ではございません。さあ、あちらで」
 イリアが、さっさと歩み寄ってジョウスの腕を取ってしまう。ジョウスが助けを求める様に俺を見た辺りで、流石に限界が来て俺は笑ってしまった。
「すぐに戻るわ、ゼオロ。ありがとう。やっぱり、あなたが来てくれたから。私もこんな風にジョウス様とお話をする決心がついたの」
 去り際に、イリアが俺へ笑顔を向けてくれる。ジョウスに向かって手を振りながら、俺はそれを応援して見送った。
「うわー、何あれ。どうなっちゃうの親父」
「クロイス」
 そこに、丁度クロイスがやってきて。ジョウスはクロイスにも助けを求めた様だけど、クロイスは思いっきりジョウスの事を指差しては、笑っていた。そのまま、イリアに引きずられる様にジョウスが姿を消す。その後に、
クロイスが俺へと視線を移した。
「おはよう。俺の花嫁。もう着替えが済んでいるかと思ったけれど、まだなんだね」
「そういうクロイスだって」
 俺の恰好を見たクロイスが言うけれど、それはクロイスも変わらなくて。それを指摘すると、クロイスが屈んで人差し指を出しながら、片目を瞑る。
「そりゃ、式で改めてゼオロと会うんだから。楽しみはそこに取っとくものさ。今見せたって、仕方がない。沢山の人が居る前で、惚れ直させてあげるよ」
「惚れたっけ?」
「また、そんな事言って。狡いな。俺はもう、何十回じゃ効かないくらいに、ゼオロに惚れ直しているのにさ」
「変わらないね、そういう物の言い方」
「嫌かな?」
「ううん。好きだよ」
「……やっぱ狡いわ。そういうの、狡いと思うわ」
 溜め息を吐きながら、クロイスが笑う。なんだその、満更でもないけど諦めた様な笑い方は。いや、事あるごとにクロイスを苛めた俺が言うのもなんだけど。それから、どこか遠い目をしたクロイスは、イリアとジョウスが消えて
いった廊下の向こうを見つめる。
「俺も、ああなっちゃうかな?」
「なんだか、意外だったよ。イリアさんの方が、ジョウス様を避けてる様な気がしていたんだけど」
「どっちもどっちだよ、あれはね。そもそもあの二人が結ばれた時も、親父は母さんに、この戦争を終わらせて明るい未来を自分の子供には歩かせたいって、そう言ったらしいし。でも、結局俺が産まれた時には、まだまだ
戦争は続いていたからさ。それに対して、母さんもちょっと思うところがあって。まあ、怒ったりはしないけどさ。そんな都合よく戦が終わる訳はないのだし。だけど俺が親父の下で、軍に入るっていうから、流石に拗れちゃってさ。
すれ違ってたんだろうなぁ……まあ、それもこれまでって感じだけど? その辺も、やっぱゼオロなんだなぁって思うわ。母さんはゼオロにべたべたしてるけど、結局戦争が終わった事で、親父とも話しやすくなったんだろうね」
「そうなのかな。イリアさんが、頑張っただけだと思うけれど。それに、ジョウス様も。逃げようと思えば、逃げられたんじゃないの」
「そりゃできただろうけど。後が怖いよ、後が」
 まあ、怖いよな。ただでさえここには俺とクロイスとイリアが居て。要はジョウスの家族とも言える存在が揃っている訳で。それなのに全員敵に回しかねないしな。一応、クロイスのお爺ちゃんが。ジョウスの父が、ミサナトに
居るはずだけど。そちらにもクロイスは手紙を出したみたいだけど、長旅が辛いからという事でお祝いの返事だけが来たらしい。
 俺とクロイスは、ジョウスが消えていった方向を見つめたままだった。すぐに戻ると言っていたイリアは、まだ戻ってこない。喧嘩になってないと良いけれど。
 そんな事を考えていると、クロイスが来た方から大急ぎの足音が聞こえてきて、俺とクロイスが振り返る。そっちからは、大分背の低い白い猫が。この間挨拶を済ませた、猫族の族長であるナウレ・オーグが物凄い形相で
走ってきているところだった。
「ナウレ様、呼んだの?」
「呼んでないよ。どうせ来ると思ったから。余計な手間は掛けないよ」
「……ジョウス様は!?」
 俺達が小声で話している間に、短い足で走り寄ってきたナウレが、息を切らせて問いかけてくる。ああ、やっぱりそうか。ジョウスが来るかも知れないと思えば、突っ込んでくるだろうなと。それ程付き合いのない俺でも今は
納得できる。
「母さんと、向こうで話してるけれど」
「うげ。遅かった……。イリアとは顔、合わせたくないのになぁ。ああ、でも。僕一人だとジョウス様逃げちゃいそうだし」
 やっぱり避けられてるのか。まあ、こんなに熱烈に求められたら、ジョウスの逃げたくなる気持ちはわかるけど。でも利用できる部分は利用している。ジョウスも少しは痛い目を見るべきだな。
「ここまでジョウス様を追ってきたのですか、ナウレ様」
「何その言い方。違うし。全然、違うし。ジョウス様は視察に参られたんだよ、ゼオロ殿。つまり、この地を治める僕と話をするのは当然の成り行きだよ。でもジョウス様はどうせ放っとくと、僕に連絡も寄こさずに外界近くに
行っちゃいそうだから、君達の結婚式が良い機会だと思って利用しにきただけだし。別に、追ってきた訳じゃない。待ち伏せただけだし」
 駄目じゃねぇかと言いそうになって、俺は慌てて作り笑いでそれを受け止める。この人は幼いんだか年老いているんだか、よくわからないな。今も、その容姿だけなら可愛らしい猫族の子供にしか見えない。その身に纏って
いるのが、立派な魔法使いである事を示すローブやら何やらであるので、かろうじてただの子供という様には見えないけれど。もっともその本心を剥き出しにされると、誰もが軽んじた先の事を考えれば身体を震わせて膝を
突くぐらいの人物である事は、もうわかっているのだけど。
「おや。また、妙な場所で妙な人物と会うものだな? 式場に、随分とまたふさわしからぬ者が来ているではないか」
 俺達が話しているところに、新たな人物が現れる。子猫の見た目のナウレと、背格好は似ていて。けれど一つだけ、飛び出した長い耳が特徴的で。白い被毛に包まれたナウレとは、対照的に黒の被毛を持つ兎族が
やってくる。その声を聞いた途端に、ナウレがあからさまに不機嫌そうな顔を露わにして振り返っていた。そちらを見れば、悠々とした仕草で歩いてくるあの兎族の族長であるリスワール・ディーカンが居て。今その顔は、
俺があまり見る事のない嘲笑を湛えた物を浮かべては、猫族の族長であるナウレ・オーグを見つめていた。
「リスワール。あなたも来ていたの」
「当然ではないか。元より、その手筈であったのだからな。私はクロイス殿からきちんと招待してもらった身であるし」
 あ、リスワールにはきちんと出したんだクロイス。まあ、ファンなんだから出さないはずがないな。なんかナウレ様が怖い顔したけれど。気にしない。
「やれ口実を拵えて仕事から抜け出すのも、最近は難しくてな。そこへ行くと、ゼオロとクロイス殿。お前達は良い時に式を挙げてくれた。だが、この様な小うるさい子猫を招かずとも、良かろうにな」
「そういう訳には参りません、リスワール様。ナウレ様には、俺とゼオロは色々と便宜を図ってもらった事ですし」
 クロイスが、まるでナウレにも招待状は出したのだぞという風に言う。とうのナウレは、出されていない事は承知の上で、この黒い兎からそこを突かれるのを避けるためにふんぞり返ったままで。招待状、俺から出せば
良かったかなと思う。どうせ乗り込んでくるのがわかっていたとはいえ。
「その様な物。必要であれば私が図ると、そう言っているのに」
「それは聞き捨てならないな。どうして僕の担当に、あなたが首を突っ込んでくるの。大人しく、ディーカン領に帰ってよ。ここは僕の領地なんだよ」
「そんなでかい口を私に叩いて良いと、思っているのかな? ラヴーワその物よりも、私の方がずっと財産を蓄えては、今回の外界に向けての物資の供給から何まで、全てを兎族が担当しているというのに。猫族なんぞ、
私が頷けば数ヶ月で干物も同然だという事実を、弁えるべきではないのかね? ナウレ殿」
「……何をしに来たの?」
「言ったではないか、二人を祝いに来たと。まあ、それだけではなく猫族の方の視察も兼ねてはいるがな。困った物だな! 私は休暇を貰って、お前達に祝いの言葉を述べては、祝福をできれば。それでガルマの代わりに
少しくらいはお前達に何かできるのではないかと思っていたのに。猫族領に行くのなら、ぜひとも外界調査団の様子などを直にこの目で見て。今後の猫族へどれ程の投資が必要かを見極めてきてほしい、などとは。まったく、
気の休まる暇もない」
「薄汚い守銭奴め、汚らわしい。あなたと比べたら、どれ程竜族に嫌われていようとも新たにラヴーワに加わった爬族の方が余程慎み深いだろうね」
「これはしたり。まるでその見た目にぴったりと合う様な、子供の戯言を抜かすのだな、ナウレ殿は。金は人体にとっての血と同じ。貧すればやがては破滅へ向かうし、豊かであればそれだけ身体は十全に動けるというものだ。
そして、豊かであるという事は同時に余裕を生む。隣人を哀れんだり、手を差し伸べる事もできる様になる。そうして兎族は、ラヴーワの中で確かな地位を築いては。今まさに貴殿の治める土地に充分な援助をするに
至るのだが、まるで貴殿はそんな事をまったく理解しておらぬ様な事を言うのだな? 私欲に塗れた魔道士志望というのは、流石、自分には随分と甘いのだな!」
「一々言い方がむかつく。あと、僕がこの姿なのはそれだけ優秀な魔法使いであるからだよ。あなたみたいに、ある程度歳を取っても相変わらずな見た目なのと、一緒にしないでほしいね!」
「そう、吠える程私と貴殿で差がある様には思えんがなぁ」
 かんらかんらとリスワールが笑うのを、ナウレが睨みつける。なんだろうこの二人は。並べてみると、対となる存在であるかの様に。そして黙っていれば中々に愛らしい見た目でもあるのに。リスワールは商人の恰好をして
来るのかと思ったけれど、相変わらずお出かけ用のそれであって。そうすると、やっぱりナウレと並んで小さな魔法使いがそこに二人居るかの様だった。もっともナウレの言い方で当てはめれば、リスワールには魔導の才は
そこまで強くはある訳ではなさそうだけど。
「リスワール様。あまり、喧嘩はしないでください」
「おう、ゼオロ。……すまないな。どうもナウレ殿を見ると、からかいたくなってしまってな」
 とりあえず後から来て、それでいてある程度分別のあるリスワールに俺が苦言を呈すると、素直に謝ってくれる。なんというか、ジョウスとクランの関係みたいだな。恐ろしいのはどちらも族長であるという事なんだけど。というか、
なんだか豪華になってきたな結婚式が。豪華の意味が大分違うけれど。見た目に豪華とか、金を使いまくるとか、そんな感じともまた違っているし。寧ろいくらお金積んでも絶対揃わない人物が揃ってきてるし。
「大体、お二人ともどうしてここまで乗り込んできてるのですか。親族以外は基本的には立ち入らせない様に言い含めてあったはずですが」
 呆れた顔でクロイスが言う。そういえばジョウスは大丈夫だけど、なんでこの二人が居るんだろうな。まあ式を前にして、友人達が控室にっていうのは漫画とかだとよく見る物だけど。
 とうの小さい、といっても俺と同じぐらいの二人は。クロイスの意見を聞いて揃って鼻で笑う仕草をした後に。
「僕がこの地を治めているんだよ? 止められる奴がここに居る訳ないじゃない」
「私を止めた責任を。私が遅れた事で発生する損害を。お前達がその身で贖えるのかと問えば。この程度の事は造作もない」
 と、揃って言われてしまった。なんだこいつら。族長なのに常識が無い。あれ、そもそも常識のある族長って居なかった気がする。俺が知っている族長って、あとはガルマくらいだし。なるほど納得した。クランはまともになって
くれれば良いなと思う。一応ヒュリカとガーデルも、それに並ぶけれど。ラヴーワにぴったりとくっついてるとはまだ言えない状態だろうし。
「それに、少なくとも私の方は。この白い子猫とは違って、彼らを案内していたのだよ。ほら、ようやく来た」
 リスワールが促すと、俺達は何度目かも忘れて廊下の奥を見て、目を見張る。そっちから来るのは、今度はそれなりの人数だった。それなのに、俺はその人達を全員知っていて。向こうも俺達に気づいたのか、笑みを
浮かべては速足でやってくる。
 ハンス、ファンネス、ツガ、ガーデル。懐かしい顔ぶれたちが居て。更にその後ろには、獅族門で隊長を務めていて、一時期俺とヒナがお世話になった獅族のドルネスが。それと並ぶ様に歩いてくるのは、ついこの間別れた
ばかりの狼将軍のヴィグオルだった。
「お、思ったよりも来てくれたね」
「皆、呼んだの?」
「呼べるところはね。晴れ舞台なんだから、いいじゃん?」
 いいじゃんって言われても。若干ここに居て周りの視線が痛く感じないのかと心配になってしまう人が数名居るのだけど。主に鱗持ちの奴らが。
「それにしても、いくら異世界人だからといっても、お前の交友関係という物はとんでもないな! 私が会場に乗り込んだ時には、一目見てお前の知己以外はありえないという奴らばかりだったではないか! あんまりにも
目立つものだから、私が声を掛けてきて連れてきたのさ。特にガーデル殿などは、どうしても今はまだ目立ってしまうからな」
 まあ、リスワールだのナウレだのと比べたら、縦にも横にも何倍もあるしな。その上で、爬族の王になったとはいえ前筆頭魔剣士。目立たない方がどうかしているな。それと同じ竜族であるツガの方は、その麗しい鱗の
輝きからして、他種族ですら手玉に取ってしまうから余計だ。本人にはそのつもりが一切ないのがあれだけど。
 そんな事を考えている内に、皆が揃って。俺とクロイスが囲まれる。なんだろう。これ、今更だけど。そうして囲まれると、途端に嬉しさが増してくる。だって、皆態々俺達を祝いに遠いところから来てくれたのだから。乗り物に
乗って、長くても数日で、なんていう事にはならないのだから。皆手紙を受け取ってから、遠い者は特に大急ぎであっただろうに。それなのにこんなに来てくれるなんて。信じられなくて、嬉しくて。それから、ちょっと申し訳ない。
「ゼオロさん。ご結婚、おめでとうございます」
「ハンスさん」
 最初に、ハンスが皆を代表して声を掛けてくれる。俺は思わず、飛び出す様に前に出ては、ハンスに抱き付いてしまった。屈んだハンスが、俺を抱き留めてくれる。
「初めて会った時とは、なんだか別人の様ですね。今のあなたは、とても嬉しそうで。それから、明るくなりましたね。クロイスと、いつまでも幸せで居てください」
「ありがとうございます……」
 感極まって、泣きそうになってしまう。ハンスの他にも、まだまだ沢山の人が居るというのに。
「ゼオロさん、結婚おめでとー。お料理期待してるね。お菓子もね」
「お前、後半の方が本音じゃないか。もう少し自分の本心を隠す事はできないのか?」
「そんな事ないよ? 俺はどっちも楽しみだったし」
 俺を見下ろしながら、爬族のファンネスと竜族のツガが相変わらず漫才みたいなやり取りをしている。ツガは、変わらずその翡翠の鱗が輝いている様で。この場に集まった人達も、竜族であるツガを警戒するどころか、どこか
眩しそうに眺めていた。一人、ガーデルだけが。僅かに訝し気にツガを見つめていたけれど。やっぱり同じ竜族で、でもランデュスを出奔しているツガの事が気になるのだろうか。ガーデルもそれは同じだったけれど。
「ファンネスさん、お身体は、大丈夫なのですか?」
「ああ。今は、それ程はな。結界が、無くなったからかな。実は以前よりも、多少はましになっている。とはいえ、それでも完全にとは言わないが」
 大丈夫なのだろうか。竜族の呪いをその身に秘めたまま、旅をするだなんて。
「何。昔は、そうしていた時期もあったからな。それに、ツガは珍しい物、楽しい物が好きだ。私の傍にずっと置いているのも、可哀想でな。たまには、息抜きも必要だと思っていたところだ。お前の手紙が来て、良い口実に
なったな」
「そうなのですか。どうか、無理をなさらない様に」
「ああ。そこは心配しなくても良い。それより」
 そこで一度言葉を切って、ファンネスがガーデルを見つめる。
「前筆頭魔剣士か。つくづく、私の生は筆頭魔剣士とその補佐に縁があるのだな」
「ガーデルさんも、来てくれたんですね」
「あ、ああ」
 ツガを見ていたガーデルが、視線を外して俺へと向けてくれる。その恰好が、変わらず爬族の物であって。また煌びやかな首飾りを下げていて。爬族であるファンネスはそれも、興味深く見つめている様だった。
「戦争も終わって、退屈していてな。気分転換に抜け出してきたのさ。どうだ。新婚旅行に予定が無いなら、俺が担いでいってやろうか」
「それはちょっと爬族の方から睨まれるんじゃないでしょうか」
「そういう物なのかな。俺としては、お前とまた旅もできるし。悪くはないのだが。ああ、邪魔になってしまうかな。そういう所は、俺は至らないからな。まあ、気が向いたのならそう言ってくれ。さて、後もつかえているか」
 ガーデルが、僅かに身体をずらす。身体がでかいから、流石にこの廊下は既に一杯だった。軽い顔合わせのはずなのにな。だからといって俺の控室も、ただ花嫁や花婿が使うための部屋だからこの人数は厳しいし。
 退いたガーデルの後ろから、背の高いドルネスとヴィグオルが揃って顔を見せる。こちらは揃って軍人の正装を。ただしそれぞれ種族の特色を表した物を身に着けていて。特にヴィグオルの方は、眩い銀のバッジがその
胸に輝いていた。確か、族長代理を示す簡易的な代物だった気がする。俺が使っていた銀のエンブレムとかと、ある程度同じ物で。
 ヴィグオルの方は、最初驚いた様にガーデルを見つめていたけれど。その内に気を取り直したかの様にまたこちらを見てくれた。先にドルネスが前に出ては、目を細めて笑う。
「おめでとうございます、クロイス様、ゼオロ様。このドルネス、ぜひとも一度祝辞を述べたいと、こうして馳せ参じた次第であります」
「よく間に合ったな、ドルネス。正直間に合わないかと思ってたよ」
「そう言われるかと思いましたので、とにかく全速力で来ましたとも、いや、それにしてもめでたい。獅族門に詰められていた頃から、それ程月日が流れたとは言い難いのですが。クロイス様も、成長なされましたね」
「そうかな。俺は、いつも通りだけど」
「いいえ。しかし、同時に残念でもあります。戦が、まだ続いていたのならば。きっと正式にクロイス様を大将と仰ぐ様な時代と、その機会もあったのかも知れない。いや。これは失礼を。どうも武人という物は、その様に物事と
いうものを考えてしまいがちで。何を言うにも、一度はクロイス様の指揮下に入った身でありますれば」
「嬉しい事だけど。それにしても、隊長の任は大丈夫なの。ここまで来て」
「ええ、それは。元より翼族とは以前よりもより有効的な関係を築く事ができましたからね。また、ジョウス様からも。この様な事があるので来てはどうかと、別に誘われてしまいましたので。これでは行かぬ方が、出世に
響くという物でごさいます」
「相変わらずそういうはっきりとした物言いは変わらないな。だから隊長止まりなのに」
「これは、痛い所を突かれてしまいました」
 ドルネスが、朗らかに笑う。なんというか、俺は短期間しか傍に居なかったし、その時もドルネスとはあまり会話ができなかったけれど。クロイスとドルネスは相当仲が良いみたいだな。元より二人ともバンカの出身で、
気が合うのだろうけれど。
 ドルネスが、必要な話を終えたと今度はヴィグオルを促す。そうして見ると、武人同士だからかこの二人も仲が良さそうだった。面識はないはずだけど。まあハゼンの腕を見て、勇んで勝負を仕掛ける様な部分も
ヴィグオルは持っているので。やっぱり武人同士となると、そういう感じに仲が良くなるのだろうな。俺には一つもわからないけれど。
 促されたヴィグオルは、僅かにぎこちない仕草で俺の前に来て、そのまま跪いては。まっすぐに俺を見つめてくる。
「ゼオロ様。お久しぶりでございます。再び見える事ができて、このヴィグオル。天にも昇る心地でございます」
「そんなに久しぶりじゃないよ、ヴィグオル。相変わらずだね。ファウナックは、変わりない?」
「ええ。我が主たる、クラントゥースの名代で、僭越ながら私が今日ここに馳せ参じた次第で」
「やっぱり、クランは流石に動けなかったか」
「そうでございますね。今のファウナックから、というのは」
 僅かに、ヴィグオルが周囲を警戒するかの様に視線を巡らせる。どうも、あまり狼族の事についての話を周囲の他種族には聞かせたくない様だった。まあ、ガルマという存在を欠いた狼族は、以前よりも更に危ういとも
言えるのだから。その様子を周囲に見て取られては、後々の事に響くのだろう。俺は軽く謝って、極力狼族の話題は避けようとする。
「なんだ。新しい狼族の族長は来ないんだ? こうなったら、南側の族長が揃ってしまえば、それはそれで良い語り種になると思ったのに」
「仕方ないだろう、ナウレ殿。クラントゥース殿はおぬしと違って、本当に若く。それ故にその地位も盤石ではないのだから。貴殿とて、当時は大層苦労されたではないか。その様に言われるのは、可哀想な事だ」
 なんか後ろで小さい二人が勝手な事言い合ってる。ヴィグオルが一瞬物凄い鋭い目つきをしたので、俺は触らないでおこう。あとガーデルが追加された事でもう充分に豪華だから、これ以上増えなくてもいいと思う。
 ヴィグオルだってクランの代理という側面も持っているのだし。
「今は亡きガルマ様も、ぜひともこの瞬間に立ち会いたかった事でしょう。このヴィグオルが、ゼオロ様の式場での雄姿を余すことなくこの目と脳に焼き付けては、しかと墓前と。そしてクラントゥース様に報告致しましょう」
 雄姿って。俺はこれからどんな戦いに飛び込むのかと。そう言いたかったけれど、そうしていると今までとは反対の方向から、イリアとジョウスが仲良く並んで戻ってくるのが人の間から見えて。どうやら久しぶりの再会を
喜ぶのは一旦ここまでという事になりそうだった。約一名、ジョウスの姿を見てなんか奇声を上げてる奴が居るけれど。俺は何も見なかったし、聞かなかった事にする。ジョウスが露骨に嫌そうな顔をしているし。胃が
痛んでないといいけれど。
「それでは、また後で」
 ハンスが最後にそう言って、集まってきた人達が引き上げてゆくのを俺とクロイスは見送ってから、ちょっと大きな溜め息を吐いた。ナウレはリスワールに頼まれたガーデルが、首根っこを掴んでいった。流石に魔道士の
実力を備えているとはいえ、筆頭魔剣士まで務めたガーデルには敵わないのか。不満そうな顔を隠しもせずに、ナウレが連行されてゆく。
「流石にあの人数が揃うと、まともに会話できないし、息苦しいね」
「まあ、そうだね。まさか乗り込んでくるとは思わなかったわ」
「……他に誘った人は、やっぱり来られないみたいかな」
「うん。ヒュリカからは、先に手紙が届いていたけれど。谷を出る余裕が無いみたいだね。それから、ヤシュバも音沙汰無し。まあ、仕方ないけどさ。来たら来たで、大騒ぎになるから、一発でわかるけど」
「ゼオロ。今戻ったわ。ごめんなさい、少し時間が掛かってしまって」
 俺達が話しているところに、笑顔のイリアが戻ってきて。隣では憔悴したジョウスが居た。ついさっきまでの凛々しい姿はどこへ行ってしまったのか。心配になって声を掛けても、なんか乾いた笑い声しか聞こえないし。その
横でクロイスはなんか震えてから、俺の事を怖がる様に見つめるし。そんな何年か先の俺もこうなってしまうのかみたいな目で見られても、覚悟しておいてねとしか言えないので、俺はにこりと微笑んでおいた。
「さあ、もう時間が無いわ。急いで支度をしましょう。クロイス。あなたも、急ぐ必要があるんじゃないのかしら?」
 俺はイリアに肩を抱かれて、控室の方へと戻されるので。そのまままたイリアと部屋の中へと。今更だけど、これから式を挙げるために俺は着替えをするのに、その着替えを担当するのがイリアってどうなのだろうな。イリアが
あんまりにもそれをしたいと言う物だから。別に俺からはとやかく言うつもりもなかったので許可してしまったけれど。知らない相手にべたべた触られるのが苦手だし。俺専用の侍女だの小姓だのは雇っていないから。イリアが
適任なのは確かだったけれど。
「ジョウス様とのお話は、上手く行ったのですか」
「ええ。といっても、そんなに大したお話はしていないわよ? ただ、そうね。今までずっと、避けていたし。その上で、もう何年も会っていなかったから。お互いに言いたい事を少しだけ言えたの。あなたのおかげよ」
「イリアさんが、頑張ったからだと思いますが」
「そんな事ないわ。戦争が終わらなかったら、そもそもそんな時間すらジョウス様は持てなかったのだもの。あなたはスケアルガ家にとっては、幸運の象徴の様な人ね。バラバラになっていた家族が、こうして集まる事ができて。
それはまた、離れ離れになってしまうのでしょうけれど。それでも今度は、悲しい別れ方はしないつもりなのよ、私」
 イリアの言葉が、少しだけ俺の胸に突き刺さる。逃げて今ここに居る俺には、あんまりにも眩しくて。それから、もしかしたら、こんな風にも生きられたのではないかと。そう、思わされてしまうのだった。自分にはもう戻る事も
できない道を振り返っては、自分の近くに居る、明るく毎日を過ごす人達を見て。或いは自分も、その様な生き方を。その様な道を選ぶ事ができたのならば。あの輪の中に、入る事ができて。そうして今、ここに居る事も
なかったのではないのかと。
 鏡を前に考え事をしていると、イリアに後ろから抱き締められて。俺は正気に戻る。
「ゼオロ。私は、あなたの全てをとても知りはしないし。それをするのには、私とあなたはまだ知り合ってから共に過ごした時間が短いのはわかっているけれど。クロイスとあなたが結ばれるというのなら、あなたは私にとって、
確かに息子の一人となるのよ。どうか、その事を忘れないで。そんなに悲しそうな顔をしないで。あなたの過去に、どんな事があったとしても。そこであなたが、不義理であったり。卑怯な事、正しくはない行いを例えしていたと
しても。あなたが今、ここで生きている事で、こんなにも救われている人が居る事実を。どうか、どんな時であっても、思い出して。あなたを責めている、あなた自身に。負けたりしないでほしいの」
 静かで、落ち着いた。けれどはっきりと芯の通ったイリアの言葉が、俺の耳から、心へと吸い込まれてゆく。それでも、長くそうしてはいなかった。時間が、迫っていたのだった。

 遠くで、微かなざわめきが聞こえる。他の誰を期待するのでもなく、ただ俺と。それから、クロイスを期待して、待ち望んでいる声がする。
 全身に、緊張が走る。今更、そんな事をする必要はないのだと理解していても、身体はまったく別物の様にいつもよりも固く感じられていた。皆が。少なくとも、俺の知人達は。俺の事を祝福しにきてくれているのは確かなのに、
それでもこの先へと足を踏み入れて、衆目の前にその姿を晒してしまったのならば。嫌な目を向けられたりはしないかと、そんな根拠のない思いが俺の胸を過ぎる。スケアルガ家の人物もいくらかは見えていて。人によっては、
やっぱりこの式は素直に喜べはしない物もあるのかも知れないし。
 それでも、更に足を進ませれば。そんな事を考える余裕すら、無くなっていた。道の先の広場から、歓声が上がる。それから、拍手の音が。きっと、クロイスが先に登場を済ませたのだろうな。
「さあ、行きましょう」
 そう言って、イリアが手を差し出してくる。俺は、その手を取った。こんな風に案内をするのは、もっと別の。俺の親族や身内などが適任なのかも知れないけれど。生憎とこの世界に一人で来た俺には、そんな者はどこにも
居なかった。身内と言って良い存在なら、確かに居たはずなのに。それでも、その人達とも、今はもう会えはしなかった。
 視界が、明るくなる。暗い廊下から、光の下へと飛び出して。そうすると今まで自分が歩いていた絨毯が、赤い色をしていた事にも気づく。それを長く見つめるよりも、より強くなったざわめきに心を奪われて。俺は顔を上げた。
 沢山の人が、そこに居た。沢山の人が、俺を見て。知っている人も、多くて。それから。それから、皆が笑顔で。なんだろうな、やっぱり変な気がする。俺が、こんな風に迎えられてもらうなんて。そんなのは、おかしい気がして、
けれど俺の気持ちを勇気づけるかの様に、イリアはより強く手を握って、俺を案内してくれる。本当なら、ここまでしてくれる必要も無いだろうに。そんなに俺の顔は、不安そうにしていたのだろうか。居並ぶ人達の中から、
翡翠の手が伸びて、手を振っている。ツガが、満面の笑顔で俺に手を振って、慌てたファンネスに引っ叩かれていた。思わず、笑ってしまう。そうだった。いつも通りで、良かったのだった。ただ、いつも通りで、それでも
駄目なら、構わないって。そう思っているだけでいいのにな。どうして、気にしなくてもいい事を気にしては、躊躇ってしまうのだろうか。
 人の間を歩み続けて。その先に居る人を見つめる。進行を務める、壮年の男と。それに並んでいる、豹の頭を持つ青年が。にこやかな様子で俺を迎えていた。その恰好は、いつかフロッセルのお祭りに参加した時の様な
それであって。露出はある程度、控えられていたけれど。それが猫族特有の衣装なんだなって、今更気づかされる。相手がどんな格好をしてくるのかは、秘密だったんだよな。クロイスも、今は俺を食い入る様に見つめては、
嬉しそうに牙を見せて笑っていた。とうの俺は、狼族のそれを着ている。ガルマや、そしてクランが着ていた物に似ていて。
 イリアが、クロイスの下まで俺を連れてくれる。そこで、俺の手を離して。淑やかな仕草で一礼しては、去って。自らの伴侶の隣へと戻ってゆく。残された俺は、クロイスが立っている壇上へと。たった数段しかないそれを静かに
上っては、やがては同じ高さへと辿り着く。それでもクロイスの顔は、まだ高い所にあったけれど。そうしている間にも、式は恙なく進んでゆく。厳かな空気の中で、長々とした話をする訳ではなかった。要は、俺とクロイスが、
この場に立っているだけで。
「ゼオロ」
 それでもその内にクロイスが口を開いては、微笑んで語り掛けてくる。
「最後に。お互いに言いたい事を言って良い。飾らない言葉でね。まずは、俺から言うよ。……俺と、一緒に居てください。誰よりも、あなたが好きだから。あなたが俺にしてくれた事の全てを。俺が返せるのかは、とても自信は
無いけれど。それぐらい、あなたが来てくれて。俺の世界は全て、変わってしまったけれど。それでも、俺にできる精一杯で。あなたを愛してみせます」
 一息に言い切って。クロイスがちょっと満足気に息を吐く。そうなると、今度は俺の番だ。クロイスがその様に伝えたからには、俺からはそれに対する返答が、多分必要なのだろう。その頃になって、俺は頭の中が真っ白に
なっている自分に気づく。なんて言えば、良いんだろう。なんて言えば、喜んでもらえるのだろうか。ただ、私も愛しているって。そう言えば、簡単に収まる場であるのは間違いがないけれど。飾らない言葉って、そういう意味
なのだろうか。
 うんうんと、少しの間考えて。俺は口を開けて。それでも、上手く言えなくて。そんな俺を、辛抱強くクロイスは待っていてくれた。俺が悩む様子さえ、今はただ愛おしむ様で。次第に、俺の心も落ち着いてくる。どんな風に
俺が答えても、クロイスはそれで良いのだと。言葉ではなく、その表情で俺に伝えているかの様だった。
「あの」
 そこで、止まってしまう。第一声がそれかって、自分でも情けなく思う。あんなにすらすらと、クロイスは言葉を紡いでは完璧に俺に思いを伝えたというのに。それと比べて、情けない俺が居て。
「……なんだか、変な気分だね。こうして、結婚するのも」
「そうかな」
 クロイスが、応えてくれる。こんな言い方、一息に応える事もないやり方。嫌だって、言っても良かっただろうに。
「新郎が、二人居るし。おかしいよね」
「おかしくなんかないさ」
「なんか、猫の顔してるし」
「もう、聞き飽きたよ。それに、豹だし。それから。ゼオロだって、狼の顔してるよ。俺の、大好きな顔」
 なんだその返し方は。一々返す言葉で、愛を伝えてくるの、狡いなって思う。俺の番なのに。
 それでも、俺は懸命に考えを巡らせて。それから、ちょっとだけ吹っ切って。意を決して、まっすぐにクロイスを見つめる。とっくに俺の顔を見つめていたクロイスと、目が合って。綻んだ目元が、俺を迎えてくれる。
「あの、クロイス」
「何?」
「……幸せにして」
 俺からの、短い言葉。上手く言えもしなかった言葉。けれど、クロイスは満面の笑みを浮かべて。一歩前に歩み寄ってから、屈んで。俺と高さを合わせてくれる。
「喜んで」
 それから、俺を抱き寄せる様にして、豹の顔が近づいてくる。俺も負けじと、ちょっと顔を前に出すと。俺とクロイスのマズルが、ぶつかってしまって。ちょっと離れたクロイスが、小さな笑い声を上げて。
 それでもすぐに、またクロイスが口付けてくる。豹の髭が、ちくっとした刺激を俺に届けて。それも、すぐに気にならなくなる。
 何もかもが、遠くに感じられた。何もかもが、遠くに流されてゆく様で。それでも俺は、もう振り返る事はしなかった。
 遠くで、鐘の音が聞こえる。この関係を祝福するかの様に。この選択が、正しかったと示すかの様に。
 それでも確かに俺は、遠くにある物にさよならを告げては、目の前に広がる幸せを強く抱き締めるかの様に。強く、抱き締められる様に。
 一筋、涙を零したのだった。

戻る

© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com

bottom of page