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ゼオロ(ハルカ ハル)


 涙の跡地を、結界が覆っていた。
 結界は最初、何者をも。何物をも通さぬ様に造られていた。悪しき神を封じ込め、滅するために、他の神々が造り上げた物だった。
 悪しき神に従う者、それを監視する者、巻き添えとなる者。神ではない、ただの人々も、そこには沢山存在していた。
 ある時、結界を張った神の一人が。それを不憫に思って、自らを結界の一部と化して。光や風、雨を通す様にしては、ひっそりと消えていった。
 ある日、空から三つ。降ってきた。一つは結界を僅かに破り。一つは結界を壊すのではなく、その中を泳ぐ様に流れて、流れては。やがては、結界と同化していたはずの、神の身体へと辿り着いた。
 心の無い身体に。空から降ってきた心が入り込んだ。
 次に目覚めた時。それは銀狼の少年の姿をしていた。

 ゼオロは本来ならば、優れた魔導の才を示すはずだったが。結界を破らずに潜り抜けたために、その力を損なう事になる。
 ただし力を失ったとしても、それに付随する豊かな想像力は残る事となったため。他者の力を補助する能力には長けていた。

 ハルカハルは、ある意味では臆病であり。またある意味では、大胆な性格をしていた。普段は決して目立つ事はしないし、多人数の中では埋もれてしまう様な、そんな印象をしか他者に与えぬ人物ではあったが、それでも
必要に迫られれば、周囲が驚く程の行動力を示す事もあった。それは時には、親友のタカヤとの出逢いになる事もあれば。踏み台を経て、涙の跡地へ到達するという結果を迎える事もあった。
 ハルの臆病さは、周囲の自分を見つめる瞳から引き起こされる物であった。他者からどの様に見られては、どの様な評価を下されて。そうして期待を掛けられる事にも、酷く臆病になっていたのだった。或いはそれは、
親の影響があったのかも知れぬ。ハルの両親は、至って普通であった。そして、普通過ぎていたのかも知れなかった。一人息子のハルに、優れた物を求める様な事はなかった。ただ、真っ当な息子。それだけを、
求めていたのだった。真っ当に育っては、真っ当に社会に出て。真っ当な人付き合いの果てに、真っ当な恋人を経て。いずれ結ばれては、恋人との間に子供を設けて。それまで連綿と続いていた物事が、これからも、
続いてゆくと当たり前に考えて差し支えがないのは、確かだった。しかしハルは、それを受け止める事ができなかったのである。両親が思っていたよりも、ハルは一人である事を好む様な人物であったのだった。
 ハルは、自らの不出来を重々に承知していた。そして、期待に沿えない自分を責めてもいた。過度な期待などではなかったはずだった。本当に幼い頃は、それをなんとも思いもしなかった、はずだった。しかし成長するに
従って、それはとてつもなく大きな期待であると。否。自分がそれを背負う様な器ではない事を、自覚していったのだった。期待された通りになれない自分を責めながら、しかし期待通りの姿になる事もできずにいたハルに
とって。実家での生活というのは、いつしかとてつもなく息苦しい物へと変わっていた。子を作った人が、当たり前に望む期待であっただけに。言葉や仕草にされずとも、ハルが両親の失望を感じ取るのは至極簡単なものであった。
 家を出るという選択肢はあった。親友であるタカヤは、既にそうしている。それもまた、当たり前の事ではあったのかも知れない。しかしハルには、大切な愛犬の存在もあった。成人を迎えて、外へと放り出されて。精神を
摩耗する日々に疲れていたハルにとって、愛犬であるリヨクを手放す事は考えられなかった。しかし自分の経済力では、愛犬の世話をするのは難しかった。何より、長い時間留守番をさせてしまう事が、酷い仕打ちをしている
様に思えて。それは到底、実行に移せる物ではなかった。また、実の両親はリヨクをとても可愛がっていた事もそれを後押ししていた。自分の勝手に、大切な愛犬を巻き込む様な事も、できはしなかった。
「好きなんだ、お前が」
 どうする事もできずに、疲れてゆく日々の中で。それは突然に呟かれた言葉だった。
 親友だと思っていた男からの、告白。意味を、違える事なくハルは理解しては、その誘いを断って、逃げる様に一人になった。幼い頃から一緒に居た親友とも、離れてしまった。ハルにとって、その告白は、あまりにも
重い物であったのだった。普通である事を期待されて、それができればと考えていたハルにとって。同性愛の道というのは、それこそ自ら異端に足を踏み出す様な話でしかなかったのだった。それに、例えそれを抜きに
しても。やはりタカヤは、親友だと。ただそれだけの相手でしかなかったのだった。どうせ親の期待に応えられぬのならば、親友の期待にだけは応えよう。そんな気持ちに、なるはずもなかった。
 親の期待に副えぬ辛苦に。新たに親友の期待にも応えられなかった重さだけが増した。期待を、裏切ってしまった。結局、それを抱え続ける事も、上手く往なす事も、ハルにはできなかった。

 身体を改めて、ゼオロとなってからも。初め、その後悔は後を引きずり続けていた。
 そんな時に出会ったのが、若々しい豹の顔をした、猫族の青年だった。最初の内、ゼオロとして接しながらも、心はまったくハルのままであったがために。その青年の。クロイスの言葉に、ゼオロは上手く返事をする事が
できなかった。それでも接している内に、見えてくる物もある。目の前に居るのは、言ってしまえば奇妙奇天烈な獣の顔をした人物ではあるけれど、ただそれだけであって。立派な夢があって。それから、眩しい程に人生を
謳歌している青年だった。
 だからこそ。翼族の留学生であるヒュリカが消息を絶ち、それを捜しあてた後に。クロイスに向かう刃を見て、ゼオロはクロイスを庇ったのだった。クロイスはそれを、会ったばかりで、姿も何もかも違っていた自分達のために、
とても親身になってくれていたと、そう受け取っていたが。それもまた、違っていた。ただ、ゼオロは。自分よりも生きている価値のある相手が目の前に居たから。なんの価値も持っていない自分よりも生きるべきであると。
 それだけの事しか考えてはいなかった。それは、後々までゼオロが抱え続ける、己への自己評価の低さとなる。
 それでも、それを経て。クロイスは確かにゼオロに恋心を抱いては、想いを伝えた。ゼオロは、戸惑った。当然、胸に去来するのは、自分に好きだと言い放った親友の面影であった。新しい世界で、新しい姿となって。そこで
初めてできた新しい友人に、その様な事を言われては思い出さぬはずもなかった。また、同じ事を繰り返すのか。恐怖にも似た思いが、ゼオロを襲った。しかしそれは、長くは続かなかった。クロイスはゼオロの困惑を見て
とっては、決して重苦しい様な言い方をする事もなかったし、そしてまた、タカヤの時とは、状況が違っていた。人間から、狼の姿となって、名をハルからゼオロと改めた今となっては。もはや期待を裏切ってしまったと、申し訳なく
思う両親も。その期待に副えない己を責め続ける自分の心も、存在しようがなかったのである。また、同性同士の関係ですら、ラヴーワは寛大であった。様々な種族が集まり、八族がそれぞれを纏め上げ。異種族同士の、
言うなれば子を成す事のできぬ間柄であろうとそれを認める風潮のできあがっていたラヴーワである。親も、他人も、そして自分も。そんな事に頓着をする必要は、なかったのである。とはいえ、それとは別に狼族と猫族。そして
銀狼とスケアルガという問題はあったものの、それでもようやくゼオロは、ただ目の前に居る相手をまっすぐに見られる場を得る事ができたのである。ただ、だからと言って気安くクロイスとの関係を築く事もなかった。クロイスが
傍に居てくれた事で開けた世界は、あまりにも大きく、広く。そして全てを決めるには、ゼオロは何も知らなさ過ぎたのである。友人としては、とても好いている。それだけで、クロイスとは離れる事となった。
 そうして再び一人になったゼオロは、そのまま様々な物を知ってゆく事になる。クロイスが旅立って程無く。赤い被毛の狼族が訪ねてくる事となった。名をハゼンと名乗るそれに促されるがままに、ゼオロはファウナックへと
向かい。そしてそこで起きた一連の出来事に、心を砕かれそうになりながらも、再びミサナトへ戻っては。既に帰る場所は損なわれており、逃亡を図る事になる。その先で、獅族門へと辿り着いたゼオロは。かつての友であった
ヒュリカと。そしてクロイスとの再会を果たす。そして、一時的に敵対していたものの、それは本意ではなかったヒュリカの身を、見事に救う事ができたのだった。
「どうか、あなた様が。銀狼ではなく、あなた様ご自身の事を。誇れる日が……いつか訪れます様に」
 赤狼のハゼンの言葉を、ゼオロは何度も思い返していた。ゼオロは、ハゼンの気持ちも、よくよくわかっていた。ゼオロの自己評価が低い事を、ハゼンが気に掛けてくれていた事を。別れ際にハゼンが口にした言葉は、
いつまでもゼオロの中に残っていて。けれど、ここにきて。ゼオロはほんの少しだけ、自分に自信を持つ事ができたのである。そのままであったのならば、ラヴーワの兵とぶつかって、命を散らしていたかも知れぬヒュリカを
助けられたのだと。戦う力をほとんど持たぬ自分にも、できる事はあったのだと。
 しかし、ほんの少しだけ芽吹いたその気持ちも、後に踏み躙られる事になる。ランデュスの筆頭魔剣士である、ヤシュバからの手紙が、クロイスと共に行動していたゼオロの下へと届いたのだった。実際に顔を合わせるまで、
ゼオロはヤシュバには不信感を抱いていた。その行動の理由が、理解できないのであるからして、それは当然の事であった。会って、その正体がタカヤだという事を知って。その疑問は氷解する事になる。それと同時に、
ゼオロの小さな誇りは。巨大な嘲りとなって、自身に降りかかった。友人を助けられた。そうでは、なかった。自分がここに居る事で、タカヤもまたヤシュバとなってここに居て。そして全ての凶事を引き起こしていた事を、
知ったのだった。
「ハル。俺は、お前が居ない所なんて、嫌だった」
 短い、ヤシュバの言葉。それだけで、充分だった。タカヤが自分を追った事を、ゼオロは。ハルの心は、知ってしまった。
 言いたいだけの暴言を吐きだしては、ゼオロは自分を待つクロイスの下へと戻って、部屋に閉じ籠った。心配をするクロイスとも、碌に口を利けなかった。消えてしまいたかった。死にたい訳ではなく、ただ、消えて。自分が
どこにも居なければ良かったと。そう思い続けた。死んでも逃れられぬ事があった。そのツケが、ゼオロとなった自分に降りかかっていた。だからこそ、消えてしまいたかった。最初から。ゼオロからではなく、もっと前から。最初
から。ハルカハルなどという自分が、どこにも居なければ、それで良かったのだった。己が弱く、その癖中途半端に親友なんて作るから、そんな事になった。涙の跡地の、多くの命を失わせては、人生を狂わせてしまった。
 最初から、どこにも居なければ。自分が、もっと立派な別人であったのならば。誰の期待を裏切る事もなく。沢山の命を損なわせる事もなく。夢を見て、歩き続けているクロイスの邪魔をする事もなかった。
 その思いは、あまりにも強烈な物だった。元より、逃げて今の世界に居るのだから。それは到底、一人では拭い去る事のできぬ思いだった。生きている事が。生き続けている事が。恐ろしくて、堪らなかった。
 食事も取らずに、緩やかな死を待つ。そんな日々だった。それでも、それは続かなかった。前の様に、辿り着く事はなかった。クロイスとハンスタム。ミサナトで出会った二人の存在があった。
「私は、ここで生きていても、良いのですか」
 言うのが、怖かった。けれど。もはやそれを聞かぬままでは、生きてはいられなかった。そんなゼオロに、二人は大きく頷いてくれた。
 そして。
「ゼオロと一緒に生きていきたい。ゼオロの事が、大好きだから。この世界に来てくれて。ここで、生きてくれて。ありがとう。ゼオロ」
 その言葉があった。クロイスの言葉。
 クロイスが何よりも優れていた事の一つには、ゼオロが異世界人である事を承知していたとしても、ハルの全てを知らぬままに、この言葉を口にした事だった。クロイスは、ハルがどの様に世界を渡ったのかを、ハルの結末を
知りもしないで。ゼオロとなってからも、ハルが心の底で求めていた言葉を、まっすぐに伝えたのだった。
 言葉が、心に沁みては。死を免れたゼオロの心を、更に奮い立たせた。死の後にも逃れられずに覆い被さってくる不幸を、受け入れて。それでも生きてゆこうとする気概を、クロイスは確かに、ゼオロの中に芽吹かせた。
「生きて、ゆくから。私は、ここで。生きてゆくから」
 クロイスに、自らの全てを打ち明けた後に。ゼオロはようやく、その言葉が言えた。

 その後
「一緒に来てくれないなら別れる」
 そう言って。大分渋い顔を見せたクロイスを引きずりながら。ゼオロはファウナックへと、ガルマの下へと訪れる。
 結界が無くなり、ラヴーワとランデュスどころか。狼族の独立などという気配はすっかりと立ち消えていた。とにかく、外に対する備えが必要だったのだ。ガルマの見舞いをするのに丁度良い機会だと。そう思ったのだった。
 ガルマを訪ねると。意外にも快くガルマはそれを。クロイスも含めて迎えてくれた。
「言っただろう。狼族と、スケアルガの和解と。それに。他の者は中々そこまでは割り切れるものではないと思うが。クロイス殿は、当時は産まれてもいなかったではないか。だったら、クロイス殿を邪険にするよりかは。ゼオロ、
お前と一緒になる事を祝福した方が良い。その方が、ジョウスもきっと気を悪くするだろう」
 意地の悪い顔をして、ガルマはそう言う。ゼオロはただ、呆れた。
 案の定、ガルマの身体の具合は決して良いとは言えない物であった。ゼオロは、内郭に留まり。
「クロイスが居る事も認めてください。駄目なら帰ります」
 そしてまた。そう言って、クロイスをも内郭に招いた。これにはかなりの反対と、そしてガルマと同じくゼオロを歓迎していたクラントゥースは、とても心配顔を見せたものの。ガルマはそれも笑って受け入れた。
 それからしばらくの間、ゼオロはガルマの身の回りの世話を。勿論やましい事のない範囲でしながら。クロイスと一緒に、ファウナックの街に出向いたりと。傍から見れば、かなり奔放に振る舞った。また、かなり気を遣いながら、
街の赤狼達にも声を掛けた。勿論、以前に襲撃された事はクロイスに告げており。もしもの際は、という打ち合わせもしてはいたものの。危険が伴う行動ではあった。
 それでも。ゼオロはどうにかそれをやり遂げて。異世界人でありながら、銀狼であり。ギルスの認めた存在でありながら、その愛人は狼族にとっては因縁と言っても良いスケアルガの家の者であり。またその様な存在で
ありながら、気さくにファウナックに住む赤狼にも声をかけ続けるという。それまでの銀狼に対する、崇拝と畏敬の印象を壊しにかかったのだった。
「カーナスの地が解放されて。そして、ギルスの直系も絶えるというのなら。真の銀から、狼族を解放したいとあなた様が真に望むのであるのならば。これからは、こういう事が必要なのではないでしょうか?」
 ガルマから呼び出された際も、特に悪びれずにゼオロはそれを口にした。ガルマは、呆れたが。しかし好きな様にさせる事にした。
 やがて、ガルマが。後事をクラントゥースに託して、病没する。それを看取り。その身体が弔われた後に。すぐ近くにあった、ハゼンの墓へと赴いて。その時になって、ようやくゼオロは、ハゼンの事をクロイスに打ち明けた。
 その後のゼオロの行動は、素早かった。すぐに、ファウナックを。ギルス領を出たのだった。ガルマが、ゼオロが居心地よく過ごせるために整えてくれたからこそ、ゼオロはファウナックに居られただけであり。ガルマが居なく
なれば。異世界人であろうと、ゼオロの銀を求める声が再び大きくなる事は、わかりきっていた事だった。ガルマへの別れと。ほんの少しだけの、狼族の持つ悩みの払拭。ゼオロの力でできるのは、それだけだった。
 クラントゥースが。それこそゼオロが残る方があらゆる混乱を招くと理解しながらも止めようとするのを押し留めて。ゼオロとクロイスは二人で、外へと出る。
 その後は。クロイスと約束通り結婚をするために。クロイスの母親へと挨拶をしようと。そんな必要は無いと言うクロイスをまた引きずって、猫族領へ向かったという。

 猫族領へと向かったゼオロとクロイスは、クロイスの母親への挨拶をする前に。一度猫族の族長の下へと向かい、初めて顔を合わせると共に、深く感謝の言葉を述べていた。猫族の族長とは直接的な繋がりはなかったに
せよ、ジョウス・スケアルガを通じて。何かと便宜を図ってくれていたので、せっかく近くに来たのだからと、クロイスに申し出てみたのだった。
 それも済ませると、クロイスの母親の下へと向かう。猫族領は、丁度陸続きで外へと。結界が排除されて、涙の跡地の外へと続く陸路を持っているが故に、それまで涙の跡地の隅の方であった静けさが、嘘の様に思える
程に賑やかな場へと変じていた。世界が開けた直後よりは、大分落ち着きを取り戻したという話だったが。クロイスから見れば、それでも相当に様変わりをしたという。
 クロイスの案内で、様々な人物と会い。そしてその母親とも会ったゼオロは、紆余曲折を経て。クロイスの願いもあって、正式にクロイスと結ばれる事になる。
「おかしい。新郎が二人居る。おかしい」
「おかしくないよ」
「なんか猫の顔してる。おかしい」
「それ、もう聞き飽きたんだけど。あと豹だよ」
 大分落ち着かない式の後に、次はどこへ行こうかと。どこで腰を落ち着けるべきかと。そんな話になる。猫族領は、今まさに鼎の沸いた様な騒ぎであるからして。新婚の二人には、あまり良い場所とは言えない様であった。
 ミサナトに戻ろうか。クロイスの母が居るのだから、ここに残ろうか。それとも、また別のところへ行こうか。纏まらぬ会話もまた、楽しい物だった。
 無限とも思える程に広がる世界を、大手を振って歩ける様になった。
 ゼオロの生は、ここにきてようやく始まりを迎えたのだった。


 

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