ヨコアナ
43.Z
「誰もハルを助けてはくれなかった」
「俺も、同じだ。それどころか。俺が、きっと一番、悪かったんだ」
「誰のせいにもしないでいるハルを見るのが、辛かった」
「好きだなんて、言わなければ良かった」
「友達のままでも良いから」
「……もう一度会いたいよ。ハル」
「誰も悪くなんてないよ。皆、本当は良い人なんだよ」
「ただ、普通で居られない俺が。それに交ざる事のできない俺が。期待に応える事のできない俺が。俺だけが、悪かった。それだけ」
「それだけだったんだよ。タカヤ」
皺だらけになったシャツ。ずれたネクタイ。ボサボサの髪。俺の目の前で、酔い潰れかけているのは、そんな冴えない風体の男だった。テーブルに突っ伏して、さっきから何か呟いているけれど。細かいところは俺には
聞こえない。
「飲み過ぎだよ、ハル」
そう言いながら、俺は一度席を立って。向かい側に居る、ハルの隣へと落ち着いてから、その身体をそっと起こさせる。旧友を交えて、四人で飲んでいたはずなのに。今この飲み屋に残っているのは俺と、ハルだけだ。
「タカヤぁ……」
起こされたハルが、今度はテーブルにしなだれかかる様に、俺へと傾いてくる。顔を上げて見えたその瞳から流れる涙を認めて、俺は素直にそれを受け入れる。そうしながら。俺は少しだけ、周りを窺う。幸いな事に、こうして
ハルとべったりくっついているのは、他の客の目にはまったく目に入らない事の様だった。まあ、酔い潰れてる男を介抱しているだけだし、絡み上戸、泣き上戸もそれ程珍しい訳ではないのだから。声を上げて泣きださない
限りは、大丈夫だろう。机から俺に標的を移したハルを迎え入れて。俺は少し笑ってから、その背を何度も叩く。
「よしよし」
そうすると、ハルがまた泣きだす。
目の前に居るのは、どこにでも居そうな典型的な。言ってしまえば十人並みの容姿の、サラリーマンの男、ハルだった。幼馴染の俺達は、小さい頃からどこへ行くのも一緒の親友で。社会に出て、それぞれが別の会社へ
勤める様になってからも、暇を見てはこうして飲みに行く様な仲だった。学生の頃の様に、毎日顔を合わせる事は難しくなってしまったけれど。忙しい日々の合間を縫って、飲みに行っては。愚痴を言い合う様な、そんな仲だった。
成人して、一緒に酒を飲む様になって。俺は今まで、何もかも知っていると思っていたハルの、知らない顔を知る事になった。よく、泣くのだった。普段のハルは、決してそんな様子を。少なくとも俺には見せたりはしない様な
奴だった。物静かで。控えめで。言い換えれば、内気で。自分からは率先して何かをしたりはしない様な、そんなタイプで。それなのに酒に酔い潰れると、泣きだすなんて。そうなるとハルは、いつもはあまり物を言う事も
ないのに、その時ばかりは俺にも色んな事を話してくれる。自分の部屋に居る時は、こんな風になっている事が多いとか。それから、仕事や、家庭。ありとあらゆる愚痴が、飛び出してくる。それと同時に、涙も。
本来なら、それはさぞ鬱陶しいと。それこそ今俺がハルを介抱している様子を見ている、隣の知らない奴らなんかは思っているのかも知れない。ハルは大声を上げたりする様な事はしなかったけれど、それでも所謂、面倒臭い
酔っ払いという様な雰囲気は充分に出ているし。俺も、ハルも、男で。しかもハルは、社会人になってからの鬱憤が随分溜まっていたのか、過食気味で最近は贅肉が付きはじめていたし。お洒落などとは無縁で、今も、如何にも
冴えないという印象が強くて。まあ、それは俺もあんまり言えないけれど。俺も、髪を染めたり、あれやこれや服装を考えたりするのは、正直面倒臭いと思ってしまうので。
そんなハルを迎えている俺は。けれど、少しもそれが嫌じゃなくて。それどころか、そうされる事を、いつも喜んでいた。
口には、決してできなかったけれど。俺は小さい頃から、ずっとハルの事が好きだった。男同士だから、この気持ちを伝えたらと思うと。どうしても、それ以上の事は言えなかったけれど。
ハルと比べて。というと、ハルには悪いけれど。内気なハルよりも、俺はずっと明るく振る舞う事ができる性分だった。けれど、それは今でこそという意味であって。小さい頃の俺は、寧ろ今のハルの様に。それどころか、
ハルよりももっと、根暗な奴だった。両親の都合で引っ越しばかりを繰り返していた俺は、どうにも友達を上手く作れなくて。いや、最初の内は作っていたはずなのだけど。結局、すぐに別れてしまうのが嫌で。だからいつも、
長く。今の俺からすればそれも長い訳ではなかったけれど。何年も一緒に居る、友達というのが羨ましくて。けれど、俺には決して許されはしないそれが、妬ましくて。一人であり続ける様な子供だった。可愛くない子供
だったなって、思う。
そんな日々が、少しは落ち着いて。ようやく、もう別れる事なんて気にせずに友達を作っても良いのだという段になっても、俺はそれまでの事を引きずって、中々友達を作る事ができないでいた。両親の言葉を、信用して
なかったんだと思う。引っ越しばかりは嫌だとか。友達と別れるのが嫌だとか。そんな風に愚図っている俺に対して、もう大丈夫だからとか、これきりだからとか。そんな言葉で俺を一時安心させて、油断させて。結局また、
引っ越す事になったのだって、一回二回じゃ効かない。だからといって、親を責めるばかりなのも、きっと間違っていたから、黙っているしかなくて。やっと落ち着ける場所で暮らす事ができたはずなのに、俺はそれが、
信じられなくて。
ハルが現れたのは、そんな時だった。近所に住む、俺と同い年の少年。当然引っ越してきて、挨拶をしたり。外に出れば、ある程度は面識を持つ間柄になっていた。親同士が、話し合っている時、だったのかな。それぞれに
親に連れられていて。尻込みしている俺を見て、ハルが声を掛けてくれたのは。その日から俺とハルは、ずっと友達だった。同じ学校に行って、同じ様に進級して。卒業して。入学して。また、同じになって。
そうしている間に、俺はハルの事を好きになっている自分に気づいて。けれど最初は、気づかない振りをしていた。その頃には、改めて見れば。ハルは元の俺の様にどんどんと周りから距離を取る様になっていたし、俺はその
反対に、ハル以外とも繋がりを持つ様になっていたから。切っ掛けをくれたのは、幼い俺に手を差し伸べてくれたハルだったけれど。その頃になれば、俺はもう一人でも大丈夫で。淡い気持ちを振り切ろうと、ハルから距離を
取ろうとして。けれど、それは結局上手く行かなかった。そうしようとすればする程に、結局俺にはハルしか居ないんだなって。そう、思うだけだった。他の友達との仲が悪かった訳じゃない。ただ、ハルは。俺の事をよく理解
してくれて。たったそれだけだったんだと思う。たったそれだけの事が、嫌になるくらいに、俺の目にははっきりと見えていて。それから、ハルが。独りになってゆくのも、見えて。
それでも、学校を卒業して、離れ離れが当たり前になるまで、俺は何も言い出せなかった。好きだったけれど。好きだと言って、嫌われるのは怖かったから。
社会に出る様になってからは、会う事も少なくなった。疎遠になった訳じゃない。ただ、都合が合わないだけだった。都合が合えば。今みたいに、飲みに行ったりだってする。
そんな席で、俺はハルが、酒を飲むと今まで決して口にしなかった事。また、涙を見せる事を知ったのだった。ふざけて何かを言う事はあっても、決して強い口調で愚痴など言ったりする様な奴じゃなかったハルが、俺に
身体を預けて。色んな事を、辛いのだという。うざったいと、撥ね付けるのは簡単だったけれど。俺はそれが嬉しかった。学生の時も、そうだったけれど。俺はこんなにハルに依存して、他の奴では、なんて思ったりしていた
のに。ハルは、他の誰かと居る事は少なかったけれど。ただ、一人ぼっちでも、平気な顔ばかりしていたから。そんなハルが、何もかも包み隠さずに口にして、俺に凭れてくれるのが、嬉しくて。
それに、ハルが悩んでいる事、辛いと思っている事は。俺にとっても、他人事じゃなかった。会社での辛い事は、勿論俺だってよくわかる。いくら社交的に振る舞えると言ったって限度があるし、どんな風に接しても、嫌味や
嫌な顔をされる事もあるし。一人になって、泣きたい気持ちにだってなる。俺は、泣かない様にしていたけれど。俺の目の前で泣いているハルを見ていると。俺まで、そうしているかの様で。そんなハルを慰めていると、
自分の疲れも取れる様な気がしていた。それから、家の事もある。両親から。特に、母親から。嫌な目で見られるのが辛いと言う。当たり前に彼女を作って、当たり前に子供の顔を見せるべきだと。母はそう思っていると、ハルは
口にしていた。ハルの母親の事を、俺はおぼろげな記憶の中から拾い上げて。なんとなく、それに頷いてしまう。俺にはとても良い顔で接してくれるおばさんという印象しかなかったけれど。ただ。俺がハルの家に遊びに行くと、
いつも、ハルをよろしくお願いねと。この子は内気で、駄目な子だからと。俺が居てくれると助かると。そんな事を、ハルの目の前で言う様な人だったのは、憶えている。そういう事を言う時。ハルの母親は当たり前だけど俺の事
だけを見ていたけれど。それを聞いて、先に家の、階段を上っていたハルが振り返って、寂しい顔をしていたのには、気づいていたのだろうか。気づいて、いなかったのだろうな。それとも、どうでもいいのかも知れない。それと
比べれば、俺はハルへの気持ちを自覚していて。親からそれを責められるのが、怖かったから。働く様になって、さっさと家を出ていたので安心とも言えた。家を出れば良い。とは、ハルには何度か言ったけれど。その度に、
飼い犬であるリヨクの事を持ち出されて、それはできないと、ハルは溜め息を吐いていた。ハルの飼い犬の事は、俺も知っている。リヨクは、捨て犬を拾った物で、当時は俺も相談を受けたり、少しは面倒を見ていたから。確かに、
大型犬だし、アパートで飼える場所を探すのは大変な上に、それを一人で飼育するのもかなり難しいというのはわかる。それに、どれだけ愛情を注いでも。外に出ている間は、一人ぼっちにさせてしまう。ハルの両親は、
よくリヨクを良い犬だと褒めて、可愛がっていたから。そんな場所をリヨクから奪ってしまうのは、どうしても気が引けると。でも、リヨクを置いて家を出るのも嫌なのだと。出口の無い悩みをハルは口にしていた。
「頑張ってるな。ハルは」
「そうかな……。泣いてばっかりで、情けないの。わかってるんだけど」
一頻り愚痴を聞いて。最後にはいつも、そう言う。俺がそう言うと。ハルは少しずつだけど、泣き止んでくれる。日頃我慢している事が、あまりにも多いのだろうな。ともすれば、飼い犬の事も。大事に思っている反面、自分を
縛っている物でもあるから。両親があてつけるかの様にリヨクを大事にしている事も、わかっているのかも知れない。
「嫌な事があったら、泣いても別に良いだろ。我慢して解決できるなら、すればいいけれど。そうでも、ないだろ」
ハルに言いながら。しかし同時にそれは、俺が俺自身に向けている言葉でもあった。我慢をして解決するのなら、すればいい。そう思って、俺はずっと、ハルに自分の気持ちを伝える事を躊躇っていた。躊躇ったまま、ここまで
きて。けれど、今俺に身体を預けてくれるハルの事を見ていると。学生の頃、嫌われたくはないと諦めていた気持ちが再び大きくなってくるのを感じてしまう。こんなに辛い目に遭っていると。辛くて、泣いているハルが目の前に
居るのに。黙って見続けているのが。そっちの方が、俺にはずっと、辛かった。それに、例えば俺とハルが二人で暮らせる様になれば。ハルが実家を出られないという、リヨクの存在もなんとかなるかも知れない。二人と、
それからペットも暮らせる様な場所を見つけて。家に居る時は、きちんとリヨクの面倒も見て。俺も犬は好きな方だし。そうすれば。ハルは辛い目に遭わなくて済むと、俺は思いはじめていた。それは、俺にとっては、とても
魅力的な考えに思えた。ハルが、俺の事を。友人よりももっと上の存在として、見てくれるのかどうかという問題を除けば、だけど。
二人で暮らせば、ハルは両親の嫌な顔を見る事もない。俺だって、それから逃げているのだから。時々電話をする事はあったけれど、冗談みたいな口調で、彼女はできたのか、なんて言われる事もあって。その度に、
苦笑いや、冗談を返しては。電話を切った後、溜め息を吐いて。ハルの事を思い浮かべていたから。そう考えると。ハルの事、諦めていたとばかり思っていたけれど。全然、そんな事はなかったんだな。燻っていたそれが。今、
こうしてお互いに社会に出て、飲みに誘い合う仲になった今、また大きくなるなんて。思ってもみなかったけれど。ハルが泣く事もなく、俺以外の友達を沢山作って、それで楽しくやっているのなら。俺も、そのまま諦めていたの
かも知れない。
けれど。俺の目の前に居るハルは。いまだにひとりぼっちのままで。
「なあ」
ハルが落ち着いて。多少は酔いが抜けて、きちんと自分で歩ける事を確認してから。勘定を済ませて、夜の街に再び飛び出す。あとは、他の店に行くか。それとも家で飲むか。お開きにするか。そうなると、一度は落ち着いた
ハルの表情が、また少し暗くなる。帰りたく、ないんだなって思う。大好きな愛犬が居る場所なのに。帰ったら、それ以外の嫌な事が待っていて。横になって、眠ってしまえば。また、嫌だ、嫌だって言ってばかりの明日が
来る事も、わかっているから。ハルは、笑い声を上げていた。ちっとも、笑ってなんかいない顔で。
そんなハルに、声を掛けて。俺は、なんて言ったんだろうか。とても、しどろもどろになってしまって。細かい事は憶えていないし、上手く、伝わらなかったと思う。
「好きなんだ、お前が」
けれど。気づけば、それだけは確かに、俺は口にしていた。
ハルが、少しだけ目を大きくして。しばらく黙ったままだった。無言が、怖い。細い路地の中、辺りには、人気も無くて。我ながら、ムードも何も無いなって、そう思う。こんな場所で、こんなに突然、告白してしまって。もっと
準備してからするべきだったんじゃないかとか。口に出してから、後悔が押し寄せてくる。俺の気持ちに比例するかの様に、ハルは俯いて。
聞きたくなかった。口にされなくたって。その様子で、何が返ってくるのかなんて。嫌になるくらいにわかる。
「ごめん。俺は、タカヤの事、そんな風には見られないよ」
当然の返事だった。ハルからすれば、何を突然、こいつは言ってくるんだと。そう思ったって、不思議じゃない。
口を開けて、何かを言いたかった。けれど、何も出てこなかった。乾いた自分の息遣いだけが、煩くて。
またね。それだけ言って、ハルは帰っていった。
それから、ハルとの付き合いが途絶えた。会いたくて、電話やメールもしてみたけれど、ハルからの反応はなかった。やってしまった。こうなるから、嫌だったのに。どうせ嫌われるのだから。口にしたくなんて、なかった
のに。口にしてしまったら、もうそれまでなのに。何年一緒に居たかとか、どんな風に過ごしてきたかとか。そんなの全部、あって無い様な希薄な物になって。ぷつりと関係が切れて。それで、終わりになってしまうのに。
どうして好きだなんて、言ってしまったんだろう。
言う直前までは、今言わないといけない。そうしないといけない。こんなに寂しくて、辛い思いをしているハルの事を、ほんの少しでも守って。俺なんかじゃ、上手くいかないかも知れないけれど。それでも、学生の頃の様に、
煩くはしゃぐ訳ではなく。ただ話をして笑ったりしたかったんだって、そう思っていたのに。飲みの付き合いは、嫌ではなかったけれど。結局は疲れたハルを見ているばかりだったのが、俺も辛かったのかも知れない。
それでも。口にしたら、何もかもが終わってしまう事なんて、わかっていたのに。わかっていたのに、俺は自分を抑える事が、できなかったのだった。
ハルと会えなくなって。連絡も取れなくなって。一月以上が経っていた。何度掛けても、応じてくれないから。次第に俺から何かをする事もなくなっていった。これ以上、嫌われるのも怖くて。打つ手が何も無くなってしまった。
直接家を訪ねれば。そう思う事もあったけれど、会ってはくれないかも知れない。それに、俺がそうすると。ハルの両親にこの事が知られてしまうかも知れない。少なくともハルが俺を避けている事は、伝わるだろう。
そうなれば、きっとハルの方が責められるだろう。俺が告白した事まで伝えれば、或いはと思わないでもないけれど。そうなると結局、ハルには会わせてもらえないかも知れない。
いずれにせよ、ハルは今俺には会いたくなくて。そしてもう。いつの俺にも会いたくないのかも知れなかった。
どうする事もできないまま、月日が流れていった。スマホを手にする度。飲みに誘われる度。以前は当たり前にあった目の前の光景が無くなってしまった事。それをしたのは、自分の行動のせいなのだという事に気づいては、
俺は溜め息ばかり零していた。
丁度、そんな頃だった。電話が、掛かってきたのは。最初、俺は画面に表示された文字を見て、少し首を傾げた。
それは、ハルからの物、ではなくて。ハルの家からの物だったから。一応登録はしておいて、普段は使ったりはしない物。互いにスマホを持ってるんだから、当たり前の話だ。
疑問に思いながら、俺は電話を取る。すぐに聞こえたのは、ハルの声じゃなかった。女の声。ぼそぼそとした、話し声と。それからタカヤ君と、その相手が言っている事から。俺はそれが、ハルの母親である事に遅れて気づく。
お久しぶりです、とか。そんなつまらない挨拶を遅れて口にしてから。相手が困った様な、躊躇う様な。中々、話題を切り出せずにいる様な状態が続いて。だから俺は、どうかしたんですかと。そう訊ねて。
「あのね。その……こんな事、タカヤ君に伝えて良いのか、わからないけれど。でも、タカヤ君。友達だったからね」
途切れ途切れの言葉に、俺はまた首を傾げて。けれど。次の瞬間。相手の口にした言葉に、絶句してしまう。
「ハルが。死んだの」
電話の向こうで放たれたその言葉に、俺は固まってしまった。固まったまま、なんの反応も示す事ができなかった。自殺したのだと、続けて言われて。また、音が遠くなる様な感じがする。
電話の向こうで、まだ何か言っていた。電話を切って、次の朝が来るまで。俺は一睡もする事なく。朝になると同時に、大慌てでハルの家へと行って。そこで待っていた、ハルの両親と合流して。病院に。病院の、霊安室へと
通される。家族だけが、大体は来る場所だと思っていたけれど。ハルと親しくしていた友人は、俺だけだったというから。俺が訪ねてきた事もあって、ハルの両親はそこへ立ち入る事を許してくれた。
俺の視界に、眠っているハルが居た。よく、眠っている様にとか、そう言うけれど。本当にその通りだった。少し、肌の色が白っぽくなった様な気がして。俺はそれを、黙って見続けていた。
それから後は、電話を受けた時の様に俺の記憶はおぼろげになった。ただ淡々と、ハルの両親が俺に、ハルと友達で居てくれてありがとうと言った事に対して、応えて。それから、葬式の日取りが決まったらまた連絡を
すると言われて。病院を出て。
泣かないまま、俺はアパートの自分の部屋へと戻ってきた。扉を閉めて、閉まった扉の音が鳴って。扉に背を預けた辺りで、不意に強烈な吐き気に襲われて。靴を脱ぎ散らかして、トイレに駆け込んで。洋式の便器に向かって、
腹の中にあった物を全部ぶちまけた。途中、それ以上何も出なくなっても。しばらく俺は、そのまま動けずに。涙が今更溢れてくる。悲しいのか、わからなかった。吐いているから、それに合わせて涙が出ているだけだった。
少しだけ、落ち着いてから。ベッドに入って。俺は泥の様に眠った。会社に連絡する事も、忘れていた。
上手く働かない頭のまま、葬儀の日が来て。俺はその時も、やっぱり泣かなかった。最後に見たハルの表情と。横になっているハルの表情が違う事を、なんとなく気にしたりとか。そんな事ばかりで。
葬儀も、何もかもが終わってから。俺はもう一度、ハルの家を訪ねていた。ハルの両親は怪訝そうな顔を俺に見せたけれど。俺はハルの部屋をもう一度だけで良いから見たいと。そう言って家にあげてもらった。俺が口にした
言葉を聞いて、ハルの両親は何故かとても悩む様な様子を見せたけれど。
ハルの部屋に入る。中央で、首を吊って死んでいたらしい。部屋の中には、その面影も無い。ただ、隅の方に。袋で覆われた、重なった本があった。それも、俺は話を聞いてわかっていた。これを踏み台にしたらしい。踏み台に
して、けれど死んだ後に糞尿で汚れない様に、丁寧に袋で包んであったらしい。もう死ぬんだから、どうでもいいじゃないかって思ったけれど。ちょっと、ハルらしいなって。そう思った。袋は取り換えられたそうだけど。なんとなく
気味が悪くて、この本はそのまま捨てると。そんな事をハルの両親が言っていた。
その、中央の近くに。横になったままの犬の姿があった。俺は最初から、それに気づいていたけれど。それに構わないでいたのは、やっぱり俺ももう、正常じゃなくなっていたからなのかも知れなかった。
ハルの愛犬。ジャーマン・シェパード・ドッグのリヨクは、冷たい床の上に身体を寝かせたまま。俺が部屋に入ってきても、ぴくりとも動かなかった。毛に覆われているはずなのに、その身体は酷く痩せて見えた。濁った眼で、
時折ほんの少しだけ瞬きをしながら。それ以上は何もせずに、リヨクはそこに居た。そのすぐ近くに、ドッグフードが山盛りになって置かれていた。一口も、食べてはいない様だった。
それだけ、見てから。俺は部屋を見渡して。その部屋の主がもうどこにも居ない事を今更の様に知って。最後にもう一度、死んだ様に。そして、その内死ぬと思われる、動かないままの犬を見て、部屋を後にした。
帰り道。俺は一人俯いて歩いていた。歩いている内に。ようやく。ようやく、ハルが居なくなった事を悟ったかの様に。俺の瞳から、涙が流れる。吐き気も何もなく、今は静かに涙が出てくる。
なんなんだ。なんなんだ、これは。知らない間に、大切な。ずっと、ずっと好きだった人が死んでしまって。なのに俺はまだ、ここに居て。ふわふわとした気分になる。遠くからやってきては、離れてゆく車の音だけが、その都度
俺の心を冷静にしては、再びざわつかせる。静かになると、また同じ事を考える。なんなんだ。なんなんだろう、この状態は。今の俺は。
もう、どこにも居ないのに。俺がずっと好きだった相手が。何よりも大切に思っていた、その人が。
「ハル」
最後に見た、生きていた時のハルの顔が何度も脳裏に浮かんでくる。あの時、俺が口にしてしまった事も。
俺は、ハルを殺してしまったのだろうか。俺が、ハルを追い詰めてしまったのだろうか。あんなに辛そうな顔をして、泣いてばかりいたハルに、俺は自分の気持ちを勝手に伝えて。一緒に居られる時間も、壊してしまって。俺が
何もしなければ、ハルはまだ、生きてくれていたのだろうか。俺は、何がしたかったんだろう。ハルを守りたかったはずなのに。身勝手に告白をしたばかりに、どうしてこんな事になってしまったのかも、よくはわからないままに
なってしまって。気づけはここに、一人きりで。もうハルの居ない世界に、一人で立っていて。
俺は、一人ぼっちになってしまったのだった。どこに居ても、何をしていても、誰と居ても。自分は独りきりだと思う。そんな状態に、俺はなってしまった。
もう一度。会いたかった。俺の気持ちになんて、応えてくれなくていいから。
もう一度だけ。
もう一度、だけ。
眩しい光が、俺を包んでいた。自分に何が起きているのか、よくわからなかった。
何かにぶつかって。何かが壊れて。身体が、熱くなって。それらが全部、眩しいまま。全部が、俺の傍に寄っては、通り過ぎていった。
最後に残る、浮遊感を覚えて。その頃になって。俺はようやく、瞼を開ける事ができた。それでも、やっぱり眩しくて。何が起きたのか、わからなくて。
そうしている俺の耳、というよりは。頭の中に、静かな声が響いてくる。静かで。どこか、威厳のある様な。そんな声。なんでそんな声が、頭の中に響いているのだろう。そう思いながらも、俺は少しでも。今の自分がどんな
有様なのかを理解しようと。その言葉に答えようとして、自分の変化にも気づいて。身体の感覚が、違う様な気がして。眩しさに慣れた頃には、俺の鼻先がはっきりと見えた。俺の鼻先のはずなのに、それは、黒くて。思わず、
手を上げてそれを確かめようとすると。自分の手も、黒くて。良く見れば、それは黒くて。そして、鱗に覆われていて。混乱しかかった俺に、また声が聞こえる。優しい響きの声だった。俺が、自分の姿が変わってしまった事に、
人間ではなくて、人間ではない、何かの化け物になってしまった事を告げると。それは心底から、同情する様な言葉を俺に掛けてくれた。
混乱している俺を、落ち着かせる様に。声は静かに、寄り添う様に俺の傍にあってくれて。だから俺はその内に、どうにか平静さを取り戻す事ができる様になった。その頃になって。俺はようやく、この姿になる前の自分の事を
振り返る事ができる様になる。思い出すと、涙が流れてくる。こんなに、身体が別物になってしまっても、俺の気持ちは変わらない。涙が流れる事まで、変わりはしなかった。見兼ねた優しい声が、俺へと訊ねてくる。何もかもが、
突然の事で。それでも、その声の主に今は頼るしかないと感じた俺は、淡々と、何故自分が今、こんな風になっているのかを口にする。とはいえ、何故こんな姿になってしまったのかなどは、まったくわからなかったけれど。
優しい声は、静かに。人間という種族は知らないと。ここにはそんな物はないから、俺もまた別の姿になったのではないかと。そんな事を言っていた。それから、その後に。ハルの事へと触れてきた。俺がここに居るのなら、
俺の求めるハルも、どこかに居るのかも知れないと。その言葉に、俺は食いついた。取り乱した俺に、声はまた、優しく。落ち着く様に言う。改めて説明を受ければ。俺が今居るのは、俺が居た世界では既にないという事、
だからこそ、今の俺は。この黒い鱗に覆われた、よくわからない化け物になってしまった事。そして、この世界は結界に覆われていて。それは、普段は決して壊れる事がないというけれど。俺はそれを、少しだけ壊して。そこから
落ちてきたのだという事を教えてくれた。俺が、結界の一部を壊した事を、声の主は感じ取って。俺を受け止めたのだという。また。それとは別に。遠くで、ほんの僅かに。結界の微細な変化を察知したと。そう、言ってくれた。
もしかしたら。それが、俺の求めている相手ではないのかと。確証はないけれど。そう、言ってくれて。
声の主は、俺が別の姿になった様に。その相手も、別の姿になったのかも知れないと言ったけれど。そんな事は、どうでも良かった。ハルが、ここに居るのなら。俺はそれで良かった。
浮遊感が、無くなってゆく。浮いていた俺を立たせる様に、勝手に俺の体勢が変わって。その内に、床に足が付く。床が、随分遠く感じられたし、また、身体が全体的に少し重くて。背中が特に重くて、頭も少し、重かった。
自分が一体どんな風になってしまったのかは、わからなかったけれど。少なくとも今の俺は、以前の姿のままではない様だった。それも、今は良い。その頃になると、声の主は名乗ってくれた。竜神ランデュス。そう、
言われた。この国と同じ名であり。竜の神であると。竜神は、この国を治める存在だった。それを知って、俺は慌てて、居住まいを正そうとして。竜神に、笑われる。
「俺は。ハルに、会いたいです。ハルを捜しに行きたい」
そう、俺は言った。けれど、竜神はそれには難色を示す様な声を響かせた。何も知らずに、外に行くのは危険だと。また、今の世界の状況も教えてくれた。俺は竜の国である、ランデュスに現れたからか。俺の身体はその国に
見合う、竜族の物になってしまって。そのまま、ランデュスから外へ出ては。俺の目的を達成するのは難しいのではないかと。言われて、確かにそうだと俺は思う。まだ、外の事は何もわからないけれど。少なくとも、この部屋の
様子や。そもそも声だけで、目の前に実体のない竜神の存在からして。そこが以前の様な場所ではない事だけは、明確にわかっていて。あまりにも荒唐無稽な話だったけれど、信じない訳にもいかなくて。そんな世界で、
何も知らない俺がたった一人で進んでいけるのかと訊かれれば。流石に、自信が無かった。
そんな俺に、竜神は親切に一つずつ、この世界の事を教えてくれて。それから、この世界にある程度慣れるまでは、ここに居た方が良いだろうとも言ってくれて。また、俺の今の身体には、かなりの力を感じると教えても
くれた。俺には、その自覚すら無かったけれど。空を覆う結界を、一部とはいえ、壊したという事は。とてつもない力を秘めているはずだと言って。それから、もし俺にその気があるのなら。自分に仕えてはくれないかと、竜神は
頼み込んでくる。その代わりに、ハルを捜す協力をしようと。それは、俺からすればとても魅力的な申し出だった。そもそも何もわからない世界の中で、その姿すら変わってしまったのかも知れない相手を捜すだなんて、
どうしたら良いのかもわからない。そこに、一国を掌握する存在が、手を貸してくれるというのだから。自分一人では、生き延びる事もできるか怪しい様な世界で、竜神が手を貸してくれるというのなら。俺には断る理由も
なかった。本格的にそれを呑むのかは別として。とりあえず、この世界に馴染むまではここに居ても良いだろうと。竜神もそんな風に、軽く言ってくれて。だから俺は、竜神の案を、受け入れたのだった。
声が、少し遠ざかる。少しの間を置いて。竜神の声がまた聞こえる。俺の案内をしてくれる相手を、呼んだと。自分はあちこちに力を割いていて、どうしても俺の案内役をする事はできないし、また肉体を持たないので、
どうにも俺が落ち着かないだろうと。事情を伝えた相手が今来るので、それを待つ様にと言われる。それに頷いて。その間、俺は自分の身体を見下ろす。驚くくらいに、別の物に俺の身体は変わっていて。それから、多分、
服を着ていなかった。あまりにも身体が変わり過ぎて。あんまり、羞恥心という物も感じなかったけれど。
そんな事を考えている内に、僅かに声が聞こえる。竜神の物とは違う、声が。それから、扉の開く音がした。顔を上げれば。遠くで、それが開いたところで。そして俺は、思わず少しだけ声を上げてしまう。そこから現れたのは、
青い化け物だった。鱗に覆われた、訳のわからない存在。けれど、それを見て。ようやく俺も、自分がそんな姿をしているのに気づいた。竜神は、声だけの存在だから。客観的に、今の、竜の姿を見る事ができなくて。
「これはこれは」
青い生き物が。よく見れば、それは青い鱗を持った竜で。それは、思ったよりも軽い調子で、俺の下へとやってくる。薄着で、腕が露出したその青い竜は、一目見るだけでかなり鍛えているのがわかるくらいに、しなやかな
筋肉が鱗の下に眠っている様だった。思わず俺は、それがよくわからない生き物である事も忘れて。ほんの少しだけ、それに見惚れる。人間だった頃の俺も、そこそこに身体を鍛えていたけれど、大分違う。社会に出てからは
そういう余裕も無くなっていたし。けれど、それが目の前までやってくると。やっぱり怖くて、俺は顔を顰めてしまう。俺の様子を見た、その青い竜は。一瞬、とても寂しそうな表情を見せた。竜の。というか、爬虫類の顔でも、
意外と感情の起伏がきちんと表せるんだなって、勝手な事を俺が思っていると。気を取り直した様に、青い竜は笑う。
「失礼しました。私の様な、みすぼらしい姿では、さぞご不快でしょう。ですが、どうか今だけは耐えていただきませんと」
「あ。あの。そうじゃなくて」
よくはわからないけれど。その竜は、自分の姿をあまり気に入ってはいない様だった。青い竜の言葉に、俺は慌てて言葉を挟む。会って早々、不愉快な気分にさせてしまった。そうじゃなくて。ただ、見慣れてないので、
怖かったのだけど。こうして口を開いて。それも、恭しく接してこられると。流石に、怖がってばかりじゃいけないと思う。こんな所で躓いていては、ハルを見つけるなんて、夢のまた夢になってしまうのだから。
俺がそれを伝えたくて、ちょっとだけ口を開くと。相手はそれで納得した様だった。
「ああ。そうでしたね。私にはちょっと、信じられませんが。今のあなたのそのお姿は、本当の物ではなくて。本当はもっと、別の姿だとか。そんな事、言われましたっけ。到底、信じられませんが。つまりは、今のご自分の姿を
見ても。あなたはそれが嫌だなんて、思ってしまうのですね。なんだか、やっぱり信じられませんねぇ。そんなにご立派なお姿であるというのに」
そこまで言って、くすくすと笑われる。俺の全身を見て。そういえば、裸だった。人間の時の様には、それが露出してないらしい今の身体で、ちょっと良かったと。早速自分の身体の変化を肯定的に俺は受け取る。
「では。まずは竜という物に、慣れていただかなくてはならないのですね。参りましょうか。まずは、あなたの服の都合を付けなければ。ご安心ください。決して、危害は加えませんから」
「はい。あの、あなたは」
「……ああ。申し訳ございません。いきなり、しかも極秘で。よくわからない件で呼び出された上に。何も知らないらしいあなたを案内しろ、だなんて言われてしまいましてね。私とした事が。思わず自己紹介も忘れてしまう
なんて。失礼しました」
なんだか、よく喋る竜だなって。それを聞きながら俺は思う。戸惑う俺の目の前で、今の俺よりも少し背の低い、青い竜は好き勝手に喋って。それから、一度姿勢を正して、丁寧に一礼して。鱗よりも、少し薄い色の瞳を
煌めかせながら、ほんの少しだけ、嫌らしく笑って。俺を見上げた。
「私は。ランデュスの筆頭補佐兼竜の爪団長の、リュースと申します。よろしくお願いしますね。タカヤ様」
「あ。うん」
リュースと名乗った竜が、手を差し出してくる。握手したり、礼をしたり。そういう所は、ここでも変わらないんだな、なんて思いながら。俺がその手を自然に取ると。リュースは少しだけ、驚いた様な顔を見せて。
それから、俺の手を握る力を、ほんの少しだけ強めて。また、リュースが笑った。