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42.勇者の誕生

 しとしとと、雨が降っていた。ランデュスでは、珍しい雨だと。俺に教えてくれたのは、誰だったのだろうか。
 季節柄、それはとても冷たいだろうから。物珍しがって外に飛び出して、浴びる様な奴も今は居ない。
 それを見上げてから、俺はランデュス城の廊下を歩く。向かうのは、城の会議室だった。
「お待ちしてしておりました。ヤシュバ様」
 会議室の入口で、直立していたドラスが一礼して、俺を迎える。俺は、黙って頷いた。顔を上げたドラスは、しばらくの間、俺の顔をじっと見つめていたけれど。その内に軽く謝ってから、扉を開けて、部屋の中へと案内
してくれる。
「ヤシュバ様を、お連れいたしました」
「そうか。これで、四人揃ったという訳だな」
 ドラスの言葉に、最初に反応をしたのは。部屋の中に居た二人の内、年老いた竜族の男だった。その表情には、疲労の色が濃い。俺を見て、僅かに顔を上げて口を開けたものの。すぐ後には、溜め息が伴っていた。
「お疲れの様だな。ギヌス殿」
「ああ。それも、致し方ないが……」
 宰相のギヌスは、相変わらず表情を曇らせたままだった。緑の鱗に覆われた身体も、その背から伸びる見事な翼も。今は疲弊を現すだけで。長年ランデュスという国を支え続けてきたこの男が、如何に思い悩んで
いるのかが窺い知れる。リュースが、この場に居たのならば。また老いただの、からかっていただろうなと思う。そのギヌスとは違って、その隣にちょこんと座っている副宰相のユディリスの方は、静かに目を瞑って。じっと、
本題が始まるのを待っている様だった。俺とドラスが、二人と向かい合う様に席に座ると。すっと、静かにその瞼が開かれる。紫紺の鱗に覆われたその竜は、そうしていると、どちらが宰相なのかと言いたくなる程に、ギヌスと
比べて落ち着き払っていた。
「ギヌス様」
「あ、ああ。すまないな、ユディリス」
 頭を抱えていたギヌスが、ユディリスに声を掛けられて。慌てて顔を上げる。それでも、深い困惑と、疲労の様子は少しも隠せてはいなかったが。
 会議室に居るのは、この四人だけだった。本来ならば、もっと下級の者達を、発言こそ許しはしないものの同席させる物だが。今回は、それこそ通常の会議とは全く異なる状態であるので、それらは立ち入る事も許されず、
ここに居るのは俺達四人と。部屋の外に、それぞれの連れた兵ぐらいの物だった。
「今回、集まってもらったのは他でもない。竜神様。つまりは、ランデュス様の気配が、感じられなくなった事。そして、この涙の跡地を覆う結界が、消え去った事だ」
 改めて、ギヌスが議題を述べるのを、俺は聞き流していた。当事者である俺からすれば、今更ギヌスから、如何なる説明を受ける必要も無かったから。
 あの日。カーナス台地の高台で、俺はリュースの死に錯乱して結界を壊し。そして、その場に現れたランデュスをも、消し飛ばしてしまった。
 それを後悔する訳ではなかったが、しかし高台から戻った俺には山積みになった問題が待っていた。まず、カーナスから兵を引かなければならなかったけれど、いくら俺が筆頭魔剣士であったとはいえ、ぶつかる直前になって
兵を引けと口にして。その一言で全てが通る訳ではなかった。当然、俺の部下である竜の牙の隊長達。特に俺よりも古参で、それでも俺の実力を認めて付いていてくれる者達は怪訝な表情を浮かべた。とはいえ、誰もが。特に
この、カーナスに駐屯していた竜族こそ、結界が壊れる様を目の当たりにしたのだから。反発は強い物ではなかった。結界が壊れた今、竜神に改めて伺いを立てるべきだと言えば、それらの声は弱くなった。
「ギヌス殿からも、帰還命令がその内出るはずだ」
 仕方なく俺は、最後にギヌスの名を借りて帰還命令を出す。また、事実城へ戻る途中で、城からの急使が、ギヌスの名で飛んでくる事にもなった。竜神の神声を聞く事のできる竜は、リュースと、そしてギヌスの二人だったが、
リュースが筆頭補佐から退いた事で、ギヌスは以前よりも近く、竜神の声を聞く様になっていたはずだから。当然、竜神の存在が居なくなったとすれば、感付かぬはずはなかったし、そうなれば、戦など放り投げてでも戻ってこいと
言うのは、目に見えていた。そこからは更に戻る速度を上げる事もできた。途中、別れて北の街道に布陣していたドラスが俺の下へと現れて。同じ様にギヌスの使者を受け取った事と。そして、カーナス台地で何があったのかと、
それを問い質してきた。夜になり、休止を取っている間に。俺は天幕にドラスを招いて。事の顛末の全てを打ち明けた。それから、俺が異世界人である、という事も。ドラスには、今の今まで、俺の正体については話す事は
なかったが。それ程驚かれたという訳ではなかった。やはり、どこからか突然に現れた、なんていうのは怪し過ぎたのだろうな。
 そして、それよりも。
「リュース様が……」
 俺が、全てを打ち明けても。竜神が居なくなったと思われる事を伝えても。ドラスの関心は、そんな所には無かった様だった。俯いたドラスの頬から、涙が流れ落ちている。それを見るのが、辛かった。俺の方はもう、好きなだけ
泣いたから。そして、これからギヌスに説明をする事も考えたら、いつまでも悲しみに沈んでもいられなかったから。少しでも、自分を強く保とうとしていたけれど。ドラスの涙は、堪えた。考えれば、ドラスは人間だった頃の俺よりも、
更に若い男だったんだよな。リュースに様々な事を教えられて、リュースの後釜として筆頭補佐になったドラスは。俺が驚くぐらいに一所懸命に働いてくれていたから。俺は、そんな事を感じる事もほとんどなかったけれど。今、
俺の目の前に居るドラスは。俺の目がある事も、一時忘れて。ただただ、涙を流し続けていた。
 しばらくして、謝りながらどうにか泣き止んだドラスに、俺は続きを。俺が竜神を討ってしまった事について、なんらかの処罰を受けるかも知れないと。それを告げる。
「何故、その様な。ヤシュバ様は、その……。決して、非があったとは。私には」
「そう言ってくれるのは、嬉しいが。だからといって、今俺が口にした言葉の全てを、ギヌス殿が信じてくれるとは思えない。どう転ぶのかは、俺にもわからない事だ」
「そう、ですね……。確かに。竜神様が居なくなったとあっては」
 結局、ドラスには、それ以上の事は言えなかった。言ったところで、どうにもならないだろう。ただでさえ新参の俺と比べて、ドラスの方は、更に新参なのだから。
 そのまま無事に城まで帰ると、俺は持ち帰ったヒナの遺体を、頼み込んで城内の墓地へと埋葬した。本来ならば、竜の国の。それも、その中枢たるランデュス城の中に。竜以外の者が埋葬される事など、あってはならなかった
だろうが、恩人だと言い、無理を通した。それに、それ以外では。俺はヒナを、どう弔ったら良いのかが、わからなかった。ここは竜の国だから。他種族のための墓というのは、街に下りても、隅の方。決して褒められた様な
場所ではないところに埋葬されるのは想像できたし、だからと言って、今からラヴーワ側に。ゼオロに頼み込んで、どうにかしてもらう、などという事もできそうになかった。
 せめて、リュースの遺体があれば。共に葬る事ができたのに。リュースの遺体は竜神の手によって、消し去られてしまった。リュースが本心ではどの程度ヒナを好いていたのかはわからないけれど、この二人が揃って埋葬
されるのなら、それが良いと思ったのだが。
「まず。竜神様が居なくなられた件について、どうするのかという事だが」
 考えに耽っていた俺に、ギヌスの言葉が届く。ギヌスは、かなり悩みながら言葉を吐き出している様だった。それもそうだろう、竜神こそが、今までこの国を支える要であったのだから。勿論実務などは、目の前に居るこの男が
仕切っていたのは確かなのだが。それも、竜神の名の下に行っていたに過ぎない。この男にすれば、竜神を欠くという事は。自分の仕事の、初めの一歩を常に欠く事に、等しいのだろう。俺からすれば。もはや、なんの未練も
ない存在でしかないが。
 ドラスに打ち明けたのと同じ様に。目の前に居る二人には、全てを伝えていた。一層、ランデュスが悪神である事を伏せて。突然に、どこかへ消えてしまったと告げる事もできたが。そうなると、何故俺が結界を壊したのかという
話になってしまうし。それに、この国はもう、竜神の手から離れたのだから。少なくともこの国に粉骨砕身していたギヌスには、知る権利があるだろうと思って。もっとも、それがどこまで信じてもらえたのかは、わからないが。
「竜神様は、まだ存在する。その様に振る舞うのは、どうだろうか」
「それは」
 ギヌスの提案に、ドラスが口を開けて驚く。俺は黙ったままで。残った一人である、ユディリスを見つめていた。
「それは、賛成致しかねます。ギヌス様」
「何故だ」
「竜神様が居なくなられたというのが真実であるというのならば。遅かれ早かれ、それは広まる物。徒に国民を謀る事が上策だとは、私は思いません。ヤシュバ様の報告が確かならば、尚更です」
「だが……」
「それに。その場に居られたのは、ヤシュバ様だけではないというではありませんか」
 ゼオロの事を、ユディリスは言っているのだろうと思った。それについては、詳しくは話してはいないが。それでも俺が、ゼオロを高台へと呼び出した事。そしてそれは、兵の証言もあって、知られてしまっている。
「その者は既に、ラヴーワへと戻ったそうですから。いつそれが広まるのかは、わかりません。ならば、ここは真実を民に告げるべきではないかと」
「しかし。そうすれば、確実に混乱を招くだろう。ユディリス。お前の言う事が、間違いだと私は思っていない。だが、それと。実際にしなければならない対処は、別の話だ」
「心得ております。ですので、私の意見を申し上げます。竜神様が居なくなった事を公表し、しかしその真実が、悪神であったとするところは、伏せる。これで、如何でしょうか。実際にヤシュバ様の報告をどのくらいまで信じる
のかは各々の判断に任せるとしますが。竜神様は結界を排除せんがために、そのお姿を現す事ができなくなったと。その様に広めれば。悪い様にはならないと思いますが」
「悪神が一転して救世主か」
 ぽつりと俺が呟いた言葉に、ギヌスが鋭い目を向けてくる。それでなんとなく、まだギヌスは俺の言葉の全てを信じた訳ではない事を理解する。とうのユディリスはといえば、黙って僅かに頷くだけだった。ユディリスとはあまり
接点がなかったけれど。かなり現実主義なのだなと、それを見て俺は思う。
「ラヴーワの者に、竜神様の正体は知られてしまいましたが。しかし他国でどういわれ様が、この際問題ではありません。それに、今まさにぶつかり合おうとしていた、敵国に対してあらぬ噂が立つ、などという事は当たり前に
ある事。元々我らの神であったが故に、他国で良い様に見られていた訳ではありませんしね。例えこちらが、竜神様を救世主の様に扱った後で、ラヴーワでどの様に罵ろうが。そんな事は無視して良いと私は思います。民を
騙すのは、気が引けますが。竜神様が居なくなられた事を伝えて、いずれは私達が、神の駒ではなく。私達自身の足で歩ける様にするには。これが良いと、思うのですが」
「そうだな……余計な混乱を招かずに、そしてこれからの体勢を整えるというのならば。それが、良いとは思うが」
「それに。竜神様が、本当に居なくなられたかは、わかりません。いえ、ギヌス様が、竜神様の気配を感じられなくなった事を、疑っている訳ではないのですが。何を言うにも、神という存在でございますからね。どうしても、私達の
道理がそのまま通じるのかは、わからぬ事でございますから。いずれはお戻りになられる、という事もあるのかも知れませんね。もっとも、その時は。大分ややこしい事態になる事は、避けられませんが」
 竜神の復活。それは、ありえないとは言い切れなかった。もっとも、また復活した時には俺が始末するつもりではあるけれど。その時、この国はまた竜神に付くのかも知れなかった。その時は、俺は国を出るしかないだろう。
「その辺りは、気にしても仕方がないだろう。俺は、ユディリスの意見に賛成しよう。今更この様に言うのは、当事者意識に欠けていると言われても仕方ないが。この国の人々が、決して悲観せずに生きてゆける未来の方が、
望ましいと思う。騙してしまうのは、確かに気が引けるが。それに、竜神の事実を公表しても。ただちにそれが信じられるとも思えない。ラヴーワと事を構える必要は無くなったとはいえ、混乱は避けるべきだろう」
 俺が異世界人である事を伝えた、この場に居る俺を除いた三人からすれば。俺の言う事は、あまり信じられない事、受け入れられない事も多いとは思うが。それでも俺は、考えて。ユディリスの意見に賛成する事にした。
「ドラス。お前は、どう思う」
「は。あ、いえ……その……」
「気負わずとも良い。ドラス。お前はまだ新参ではあるが、それでもこの場に招かれている時点で、私はお前の事も、重く見ているのだから」
 ギヌスが、優しい声音でドラスへと声を掛ける。ドラスはまだまだ、この会議に慣れたとも言えない状況だ。その上で、ラヴーワとの戦に赴くと。更に出席する回数は少なくなっていたのだから。
「私は……。どうすれば良いのか、自分が正しい事を言えるとは思えないのですが。それでも、ヤシュバ様のお言葉が、真だというのなら。リュース様を手に掛けてしまった竜神様に。例え竜神様がお戻りになられたとしても、
これ以上仕えたくはありません。自分の部下にも、その様に教えたくは、ないのです」
「そうか。お前も、ユディリスの方か」
「申し訳ございません。ギヌス様」
「いや、良い。考えてみれば、そうなのだな。リュースも、居なくなってしまったのか。つい先日、ふらりと城から消えてしまって、どこへ行ったのかと。そう思っていたが。そう簡単に死ぬ様な腕前ではなし。戻らぬというからには、
相応の理由があって然るべきだろう。ヤシュバ殿の発言を、全て信じるというのは。この老骨には、あまりにも堪えるが……。少なくとも、竜神様も、リュースも。居なくなってしまった事だけは、受け止めなければならぬのだな」
 溜め息を吐いて、ギヌスがそう告げる。ドラスが俯いていた。それから、ユディリスも。先程までははっきりと物を言っていたが、今は目を瞑っているだけで。それを見るだけで、この場に居る全員が、リュースが居ない事を
惜しんでいるのを察する事ができた。リュースが、ここに居れば良いのにと。俺は思わずにはいられなかった。誰からも嫌われていると思っていたあの竜の事を、この場に居る者達は、こんなにも求めているというのに。
「では、ユディリスの案を採るとしようか」
「よろしいのですか。ギヌス様」
「ああ。私だけが反対した所で、仕方ないだろう」
「俺は、そうは思わぬが。宰相であるギヌス殿の意見は、この場に居る三人の意見よりも重く見られて然るべきだろう。特に、俺やドラスは新参である上に、武官であるからして。あまり内政に口を出せる立場ではないのだから」
「良い。ヤシュバ殿。それに、ユディリスの話を聞いていて。私も、そうせねばならぬとは、思っていたのだ。もし、このまま。竜神様が本当に戻られぬ事があるのならば、その時は」
 静かに、ギヌスが中央の大きな空席を見つめる。竜神の座る席だという。俺は、そもそもカーナス台地の高台で初めてその姿を見たから。そこに座る竜神を見た事はなかったけれど。
「……その時は、我々は自らの足で歩かなければならないのだな。ユディリスの、言う通りだ。私は長年、竜神様に仕えていたからこそ。つい、その考えを追いやってしまうのだが。これからは、ユディリスの様な。若い者の
時代がやってくる。その時になって、老いた考えも、慣習も。捨て去るべきなのやも知れぬな」
「意外だな。ギヌス殿は、もう少しは。食い下がると思っていた」
「私も、私自身の事を、そう思っていたよ。ヤシュバ殿」
 苦笑を浮かべて、ギヌスが笑う。疲れ切ってはいても、気力はまだ残っている様で。今は、さっきまでの敵意を孕んだ鋭い目つきも、どこかへ消えてしまっていた。
「だが。結局は爬族の事、翼族の事。それらは竜神様のご意思も含まれていた事であり。そしてそれらの出来事から、私はよくよく蚊帳の外として扱われていた。無論、今でも私は、竜神様に命を差し出せと言われたのならば、
なんの疑問も抵抗もなく、それを差し出せるとは思うが。それでも、私のする仕事というのは、いつだってこの国に住む、竜族一人一人のための物でしかない。戦をするために、力を蓄えるために、私の力が必要とされているのは
わかる。私の努力の結晶が、それで無碍にされるというのも、構いはしない。だが、理不尽な目に遭う。これだけは、私は譲れない。それで実際に命を落とすのは、私ではないが。しかし私が全てを注いだ、民であるのでな」
「とても、素晴らしい考え方だと思う。先の二つの件を指図し、また自身の手で処理した俺が、それを言ってはいけないとは思うが」
「なんの。ヤシュバ殿の、正体を鑑みれば。致し方ない部分があった事も、今の私は理解しているつもりだ。……さて、それでは竜神様の件については、ユディリスの案を採るとしよう。竜神様は、この涙の跡地の結界を壊す
ために尽力し、その消耗が激しく御隠れになったと。もっとも、神が死ぬのかどうか、というのは。私にも到底わからんが。ともかく、私の名を使って。それを公表しよう」
 束の間、俺は竜神が口走った言葉を思い出す。自分を結界に閉じ込める事を画策した他の神を、消してやったと。それを考慮するのなら、多分神は、殺せるのだろうな。そう考えると、俺も、竜神を殺してしまった事になるが。
 竜神についての事が済むと、さっきまでの緊張感はどこへやら。三人は一安心したかの様な雰囲気を纏っていた。確かに、それが一番の問題事であり、また明日からの生き方をも左右するのだから。それが定まったと
あっては、力が抜けるのも、俺には理解できる事だが。
 ただ、最後に。俺の事が残っていた。
「では、次に。竜神を。ランデュスを、殺してしまった俺の処罰をしてはくれないか」
 一瞬にして、場の空気が凍り付く。俺からすれば、寧ろこちらの方が本題ではあるのだけど。これを済まさない内には、この後どの様に動いて良いのかもわからないし。
「それは」
「ギヌス殿。竜神に背いた者には、どの様な処罰がくだされるのだろうか?」
「それは……。余程の立場でなければ、まずは死罪は免れず。ましてや、害したとあっては。如何なる者であろうと、それ以外の道などはないが……」
「待ってください。それでは、あまりにも」
 席を立ったドラスが、両腕を机に立てて音を上げる。
「ドラス。騒ぐな」
「しかし。ヤシュバ様」
「俺の言葉が、俺の報告が。どこまで信じてもらえるのかはわからないが。しかし俺は確かに、竜神に殺意を持って。そして、竜神を吹き飛ばした。もっとも、逃れていたとしても、俺にはそれを知る術もないが。ただ、ギヌス殿は
竜神が居ない事が理解できるのだから。恐らくは、俺が」
「ですが。それは、リュース様の事があったからで……」
「理由はどうあれ。少なくとも俺が神を害したのは、確かだろう。如何だろうか、ギヌス殿。無論、ギヌス殿以外の案でも、構わんが」
 しばらくの間、沈黙が続く。ドラスはそんな事は到底受け入れられないと、今は目をぎらぎらと光らせてギヌスを見ていて。先程まで饒舌だったユディリスも、流石に決めかねているのか。ギヌスの出方を窺っている様だった。
 とうのギヌスは、腕を組んで。僅かに唸り声を上げている。
「それは、真に難しい判断だと言わざるを得ない。確かに、法に則るのならば。ヤシュバ殿は、筆頭魔剣士の地位を取り上げた上で、竜神様に牙を剥いたとして。死罪が妥当だろう」
「ギヌス様!」
「しかし。事ここにおいて、ヤシュバ殿を処断するのは。私は、難しいと思う。いや、できなくはないが。できれば、したくはない」
「と、いうと」
「現在のヤシュバ様の状況が、状況でございますからね」
 俺が続きを促すと、黙っていたユディリスが、ギヌスに助け船を出す様にまた口を開ける。
「ヤシュバ様は、あまり関心がおありではないかも知れませんが。今のヤシュバ様の、民からの信頼というのは。実は、とても厚い物なのでございますよ」
「そうなのか」
 ユディリスにそう言われて、俺は驚く。少なくとも筆頭魔剣士としての俺は、とても良い仕事をしたとは言えないだろう。リュースにも散々迷惑を掛けたし、この間はその上で無能だと言われてしまったのだから。
「一つには、前筆頭魔剣士であるガーデルの事もありますがね。ガーデルは、ランデュスを出奔して。それだけなら、国民はまだ、ガーデルの影を追い続けたかも知れません。しかし、爬族の一件でガーデルはリュースと、
そしてヤシュバ様とぶつかり合い、あまつさえリュースを捕虜とし、ラヴーワへ引き渡した挙句に、ガーデル自身はそのまま爬族の後見人という立場で、爬族の王となった。これでは、ガーデルを望む声も途絶えるのは道理
でしょう。勿論、水面下ではまだその様な声はあるにはあるのでしょうが。結局は、今筆頭魔剣士を務めておられる。しかも、ガーデルよりも強いのは事実である、ヤシュバ様への期待は高まる事になった。その上で、
ヤシュバ様は先日、カーナス台地にて。この涙の跡地を覆う結界を、その力をもって消し飛ばしてしまった。ヤシュバ様の報告は、確かに信じられぬ事。また、信じたくはない事があり。全てを受け入れる訳にはいかない部分も
あるにはあるのですが。しかしヤシュバ様のお力で結界が払われた事に関しては、異論のある者は、少なくともこの場に居ないでしょう。それ程の力があると、我らが思うのは。それこそ竜神様と、ヤシュバ様だけであり。また、
失礼ながら竜神様に本当にそのお力があったのならば。とうの昔に、結界は払われて然るべきであったのですから。よしんば、竜神様とヤシュバ様、お二人が力を合わされた結果であろうとしても。ヤシュバ様の存在は決して
欠かせぬ物である事は明白。そしてまた、それはヤシュバ様直属の、竜の牙の者達はよくよく知っているでしょう。ヤシュバ様が向かった、カーナス台地の高台において。そのお力で結界を払われたと。今や、この国は
その噂で持ち切りでございますよ。帰還した兵から、城勤めの者へ。城勤めの者から、その家族へ。そしてそこから、街の民。民から、民へと。既にヤシュバ様のご活躍は、あまねく知れ渡っております」
「一言で表現してくれるか」
「その様な方を、例え竜神様を害したとあっても死罪となさるのは。国に混乱を招くばかりでございましょう」
 僅かに微笑んで、ユディリスが言ってくれる。これもまた、確信を持っているかの様な物言いだった。
「それに、表向きは。竜神様は結界を排除するべく御隠れになったと発表するのです。つまりは、ヤシュバ様と協力しあった関係です。繰り返しますが、竜神様お一人では結果を排除する事が敵わぬのは今までの事で、民も
理解しているのですからね。お二人が力を合わせた、という方が説得力があります。そのヤシュバ様を、竜神様を害したとして処罰すれば。当然疑問の声が上がります。だからといって、ここまで名声を欲しいままにされ、
その上で筆頭魔剣士という地位に就いているヤシュバ様を秘密裏に処分するのは事実上不可能。その上で、ガーデル、ヤシュバ様と続けて筆頭魔剣士に降りられては兵にも動揺が広がります。加えて、その後釜となるのは
ドラスであり。彼はまたヤシュバ様よりも経験が浅く、こう申してはなんですが」
「もうよい。ユディリス」
 こういうのを懸河の弁と言うのだろうなと俺が感心していると、ギヌスが手を振ってユディリスの言葉を止める。
「お前がヤシュハ殿を処罰してほしくないのは。充分に伝わった」
「これは。恐れ入ります。その様なつもりで口走った訳では、ありませんが」
「いつもの倍は喋っている癖に、何を言うか」
 くすくすと笑っているユディリスと、苦笑しているギヌスの姿が、場の緊張感を解してゆく。よくわからないが、ユディリスは俺の味方をするつもりの様だった。リュースとは友人だというし。寧ろリュースを死なせてしまった俺の
事を憎んでいるのではないかと、そう思っていたけれど。俺の隣に居るドラスといい、人が好いのだなって思う。人間ではないけれど。
「……だが、これもまた、ユディリスが言った通りだ。恐ろしい事と言わなければならないが。それ程までにヤシュバ殿の名声は、今ランデュス国内では。いや、ともすれば、ラヴーワでも騒がれている程なのだよ。何を
言うにも、この国が獣の領土を併呑しようとする以前から。結界の内に生きる者は場所を取り合っては、結界の外に、目で見る事はできても、決して届かぬ世界の存在を知っていたのだから。その中で、どれだけ食い合い、
一時は問題が解決しても。いつかは再び浮上する問題であると、本心ではわかっていたのだよ。例え、我が国が全てを併呑したとしても。獣を根絶やしにしなければ、火種は燻っていた。だからと言って、竜族以外を
滅せよとは。少なくとも私の口からは言えぬ事だ。真の問題を解決するために、ありとあらゆる手は尽くされたが、それが敵う事はなく。しかし剣を持たず、手を取り合うには溝は深く。そしてまた、種の差はあり続けていたの
だから。結界の外に、何があるのかはまだわからぬにせよ。ヤシュバ殿に対して、先に様々な思いを抱いていても。結界を砕いたという功績に、ほんの少しでも感謝の念を抱かぬ者とて居ないだろう。余程の戦好きでもない
限りな」
「驚きました。ギヌス様がこんなに饒舌に。それも、ほんの少しは詩的にお話をされるだなんて。これは宰相を辞した後は、諸国を巡る詩人となられるべきですね」
「ユディリス」
 お返しとばかりに、ユディリスは嬉々として口を挟んでくる。俺は呆れながらも、思わずふっと笑ってしまう。
「それでは。ヤシュバ様に対する、処罰というものは」
「少なくとも、目に見える形では執り行えぬな。ただ、すまないがしばらくは城には居てもらう事になる。万が一、竜神様が戻られた際には判断を仰がねばならぬし。もしもヤシュバ殿の言う様な存在であるというのならば、
これもまた、ヤシュバ殿を交えて。改めて向かい合う必要があるだろう。いずれにせよ、結界は破られたのだから。流石にこの上、以前の様なランデュスとして振る舞う訳にもゆかぬであろうし」
「それは、構わない。寧ろ、ギヌス殿の立場と。今まで積み重ねられてきた事を考えれば。その様に俺を扱ってくれるというのは、とても有り難い事だ」
 これもまた、穏やかな内に話が終わる。実のところも、俺はこうなる事はある程度は予想していた。というより、もしギヌスが俺の事を何がなんでも処断するべきだという考えを持っているのなら。城に入る手前の辺りで、
拘束されていただろう。俺が自分の足でここまで来る事を許して、その上でここで暢気に口を開く事まで許している時点で。それをするつもりは端から無かったのだろう。ユディリスの案を採ったと、その様に見せかけては
いるものの。ギヌス当人の考えもまた、最初からこの様に決まっていたのかも知れなかった。ただ、会議に顔を並べる者の意見を知り。また、俺の態度をも、じっくりと見たかったのかも知れない。
「当座の議題は、こんな物だろうか」
「左様でございますね。というよりも、今あまりここで詰めても仕方がありません。後日、竜神様の事、結界の事を正式に発表して。その反応を見てから、改めて話し合う。その方がよろしいでしょう。幸い、戦そのものは
結界が消えた事で、こちらも、あちらも。その気ではありませんし。それに、外界から何かしらの驚異があるのかを見定めぬ内に、あまり大きな決め事をする訳にもゆきません」
「そうだな。国内の事、外界の事。どちらも、時が過ぎるのを待って。まずは落ち着かなければならぬな。外界に関しては、調査団を結成して少しずつ探りを入れなければならぬし。我が国からすれば、それは海を隔てた
先にある事。という事は、当然水族との折り合いをつけなければならない。頭の痛い事だがな。涙の跡地、という一定の区画。しかし私達にとっては全てであった場所を征するというのならば。海はその地を囲むだけであり、
食料の問題を除けばさまで気に掛ける必要も無かったが。今度は、そういう訳にもゆかぬな。空兵にばかり頼る訳にもゆかぬし」
「それについては、私が担当しましょうか。国内においては、やはり重鎮であらせられるギヌス様の力が物を言うのでしょうが。水族となれば、当然今までの事を持ち出されるのは必定でございます」
「ああ。それについては、後ほど細かく話し合おう。ユディリス」
 四人揃っての会議は、そこまでだった。ギヌスは明日からの事を、この後もユディリスと話し合う必要があるのだろう。それと比べて、武官である俺とドラスは暇を持て余す結果となった。勿論、外界の驚異という物には
備えなければならないものの、竜神の一件で俺は城に留まる事をギヌスに言い渡されたし。その上で、改めて確認してみても、国内での俺に対する声は驚く程に熱を帯びた物になっていたから。そちらを考えても、俺が
当座城に居るというのは、結界が無くなったとはいえ、その外に不安を覚える今は、有り難い事の様だった。結局戦らしい戦もしなかった筆頭魔剣士だというのに、大袈裟なと。俺は思ってしまったけれど。
 唯一ドラスだけが、俺がこの場に残るという事もあって。もうしばらく様子を見てから、国内を巡り。改めて竜族の不安を払拭するという。
「ヤシュバ様」
 会議を終えて、それぞれが持ち場へ戻ろうとした際に。俺はユディリスに声を掛けられて、振り返る。俺よりも背の低い。とはいえ、俺の身体が大きすぎるのが悪いので、決してユディリスの背が低い訳ではなかった
けれど。そんな紫紺の鱗に覆われた竜を見つめる。唯一四人の中で翼を持たないユディリスは、ほっそりとした印象を俺に与える。
「リュースの事。ありがとうございました」
「俺は、何もできなかったのだが」
「いいえ。それに、リュースの本当の色の話が、聞けました。青くは、なかったのだと」
「信じるのか」
 リュースが死んだ。たったそれだけを告げても、何が何やらわからぬだろうと。俺は本当に、事の全てを打ち明けていた。それに。それに、結局は俺は異世界人で。余所者である事には変わりない。全てを知った上で、
今後どうするのかを決めるのは、この世界で生きている人に委ねるべきだろう。例えそれで俺が処罰されたとしても、それで良かった。どうせ、俺が守りたかった物は、もうどこにも無いのだから。
 少しだけ、苦しそうな顔をユディリスがする。リュースとは同期であり、友人だという。俺なんかより長い間、リュースを見ていたのだろうな。
「全てを信じるのも、全てを受け入れるのも。まだ、時間は掛かりますが……。それでも。リュースは自分の事で、いつも苦しんでいましたから。もし、ヤシュバ様の口にされた事が本当であるのなら。リュースは決して、
持たざる者ではなかったのだと。そう、思いましてね。それを当人に伝えてあげられない事だけが、心残りですが」
「俺は、リュースを死なせてしまった。もっと、恨み言をぶつけるのが筋ではないのか」
「あなた様に守れなかった物を、私に守れたとは思いません。また、事実。あなた様がやってくるまでの間すら。私はリュースを、守れはしなかったのですから」
 それは、俺に聞こえる様な声音で口にされていた事だけれど。ユディリスが、他でもない自分自身を責めるために声に出した言葉の様に俺には聞こえた。
 一礼して、ユディリスが去ってゆく。

 雨が、降り続いていた。
 ランデュスでは珍しい、連日の雨。
 そんな中で、竜神についての発表もギヌスの名において出されるのを俺は見守っていた。国内に広がった動揺は、かなりの物で。少し空を飛んで、城下を見渡しても。喪に服すかの様に、雨が降っているというだけでは
言い訳ができぬ程に、人の出入りは大人しくなっていた。
 長い雨は、竜神を失った竜族の悲しみだという声もあった。それは、間違ってはいないのだろう。それでも、俺は竜族が少しずつ竜神の手から離れられれば良いなと、今は思っていた。竜神が、今まで竜族を支え続けてきた
事は充分に理解しているつもりだったけれど。それでもまた、リュースの様に扱われる命があった事も、間違いではないのだから。
 それに、竜神の加護を失ったとしても。竜族は、強い。
 俺はといえば。やる事もなく、ただ無為に時を過ごしていた。兵の訓練も、小競り合いとはいえ、戦を終えた今はする必要がなかった。それに、外界に驚異が潜んでいた場合。すぐにまた、兵を駆り出さなければならない。短い
間かも知れない休息を兵には与えなければならないし、竜神を失った事で、その家族も不安に陥っているだろう。そのため、俺は城に居るのだぞという事を周りに示して。とにかく国民を安心させ、国内を安定させる必要が
あると。ギヌス、ユディリスの二名に言われてしまって。仕方なく俺は置物として頑張っていた。ドラスは、既に俺が居れば安心だと言って。ついさっき、巡察に出ていってしまったので。余計に俺の話相手は居なくなって
しまった。文官であるギヌスやユディリスは狂った様に仕事をしているのに、話し相手も居ない俺のなんて暇な事か。考えてみれば、筆頭魔剣士としての仕事に忙殺されてばかりで。俺はそういう繋がりを作る事をして
いなかったんだなって、今更気づいてしまう。ハルに会えれば。たった、それだけの事を考えて。竜神の意のままに動いていた俺は、さぞ滑稽だったのだろうな。そんな俺に、唯一何から何まで親身になってくれていた
リュースを失ってしまった今。俺の声を聞いてくれる者は、どこにもいなかった。いや。俺が求めれば。いくらでも俺の話を聞いてくれる者はいるだろう。リュースにも、何度か言われたけれど。俺の力を見て、俺に見惚れている
兵などはかなり居るそうであるし。今回の事で、国内での俺を求める事はとても強まっているのだから。
 けれど。それは結局、筆頭魔剣士であるヤシュバを求めている、というだけであって。タカヤどころか。ただのヤシュバすら、求められてはいないのだと。そんな印象を、俺は受けてしまう。そが全て、俺が今までしてきた事に
対する結果でしかないのだから、不満を口にする訳にもいかなかったけれど。
 翼を広げて。ランデュスの城へと下り立つ。一度翼を閉じかけてから、大きく開いて。纏った水滴を吹き飛ばす。城の中へと入れば、小姓が恭しい仕草で俺の身を清めてくれて。下がらせると、俺はまたぼんやりと一人で
城の中を闊歩する。城の中に居る分には、ギヌスに何かを言われる事もない。廊下を歩きながら、外に振る雨を眺める。日がな一日、読書に耽る事もあれば。濡れる事も厭わずに空を飛ぶ事もあるけれど。結局俺にできるのは、
その程度の事しかなかった。人前に出る事は、簡単だったけれど。取り囲まれて、どんな風に結界を破ったのかとか。そんな事の質問攻めに遭うのは、鬱陶しくて仕方がなかった。
 気づけば。俺は竜神の間へと足を運んでいた。
 あれ以来、竜神の出現は無いという。ギヌスもその気配を感じ取る事はできていない様だった。もしまた、現れて。何かをしようとするのなら。俺は自分の力しかなくとも、それをどうにかするつもりだった。やる事のない俺は、
時折竜神の間へと近づいては。何事もないのを確認する事が多くなっていた。今もまた、いつもの様に訪れる。元々竜神は人を近寄らせぬ様にしていたが、今は更に、そこに竜神が存在しない事もわかっているから。その辺り
はほとんど無人の状態だった。
 大きな扉が、目につく。俺よりも、ずっと高く、横にも広い扉。かつての竜神はこの様だったと言われているが。少なくとも俺の目の前に姿を現した竜神は、俺よりも小さく。こんな物が必要な風には見えなかった。その内にある、
小さな扉を開けて。俺はその中に入る。
 竜神の間に入ると。俺はつと、不思議な気配を感じ取って。慌ててその場で構える。今までは、感じた事がなかった気配だった。それから、気づく。ほんの微かな気配だが。これは、竜神の物だった。ギヌスが反応していない
という事は、あまりにも微かな気配だからなのだろうか。
「ランデュス」
 いずれにせよ。もしまた、現れるというのなら。その時はその時と会議では決まった物の、俺としては排除したかった。竜神に恩が無いといえば嘘になるけれど。だからと言って、リュースの一件で、俺がこれ以上竜神に
従う理由もない。俺一人で、どこまでやれるのかはわからないけれど。それでももう、竜神に何もかも好きな様にはさせたくなかった。
 じりじりと、真ん中へと俺は歩みを進める。この竜神の間は、一言で言って殺風景だった。四角い部屋には柱が何本もあって、細やかな意匠が施されてはいたけれど。全ては白色で統一されているせいか、それは目立つ事も
ないし、それ以外には部屋の中央に、僅かな段差があって。その上には、特に何も無い。姿を持たないで存在し続けている竜神にとっては、豪華な部屋も、豪奢な調度も必要ではないらしく。厳かな空気こそ感じられたものの、
空虚な印象を受けるばかりだった。柱が、仄かな明かりを届ける照明にもなっていて。この中では、昼も夜も無かった。
 その、中央の台座へと俺は向かう。現れてくるとしたら、ここだろうか。広い部屋の入口に居た頃よりも、ほんの少しだけ竜神の気配を強く感じ取る。カーナス台地でぶつかり合った関係で、今の俺はその気配には敏感だった。
 来るなら来いと、深呼吸をして台座に辿り着くと。不意に眩い光がその場に生まれた。あの時と。カーナス台地の高台で見た時と、同じだ。続けて、光から白い一対の翼が広がる。羽毛ではなく、鱗と皮に覆われた、竜族を
示す白の翼が、広がって。そして、光が徐々に消えて。その光を発していた存在が次第に露わになる。全身に力を漲らせる。けれど、俺はすぐに、それが以前に見た物とは違う状態である事に気づく。
 白い翼を広げて現れたそれは、何も身に纏わずに現れた。だからこそ、余計にそれがわかる。白い翼の続く先にある、その身体もまた、白く。どこまでも、白かった。竜神が姿を現した時とは違っていたし、細かい部分でも、
やっぱりそれは竜神の物ではなくて。白い翼に合う様に、白い鱗に覆われた身体があって。その頭部からも、翼と同じく、一対の白い角があって。
 俺の前に現れたそれが。ゆっくりと、瞼を開く。瞳は僅かに白からくすんでいて。皮膚ではなく、それが瞳である事が俺にも伝わってくる。
 現れたそれが、台座に足を付けると。それと同時に、重力の存在を感じ取ったかの様に、その身体が前へと倒れそうになる。俺は思わず翼を広げて、床を蹴って。ほとんど飛びかねない勢いで、大慌てでその身体を
抱き留めた。両腕を差し出して。そうすると。俺の真黒な腕が、真白な身体に触れる。
 あまりにも、かけ離れていた。俺の知っているそれとは。角があって。翼があって。鱗は、白くて。けれど、それ以外の全ては。俺の知っている、それだった。
「リュース……」
 俺が名前を呼ぶと。白い竜であるリュースは。ただ、腕を軽く上げて。俺の胸に手を当てて。服を掴んでは、静かに頷くだけだった。

「リュース、なのか?」
 白い竜を抱き締めながら、俺は何度も唾を呑み込んで。それから。どうにか、それだけを口にしていた。たったそれだけで、喉が渇ききって。胸の鼓動が、激しくなる。
 俺の腕の中に居るリュースは、特に返事をしようともしなかった。それで、不安になる。俺が抱き留めているのは、本当にリュースなのかと。竜神は、自分の好きな姿を作り出して現れる事ができるのかも知れない。現に
それは、竜神にも似ていた。もっとも鱗の色が違うので、そこですぐに見分けはついたけれど。
 俺が、困惑していると。腕の中の白い竜から、静かに笑い声が上がる。
「……知りませんでしたよ。私」
「え?」
 言葉が、聞こえる。リュースだ。そう、思った。間違いようもなく、それはリュースの声だった。ずっと、俺の聞いていた声。この世界に現れてから、今まで。ずっと俺の傍にあったその声。今更、聞き間違えるはずもなかった。
「リュース。今、なんて」
「角も、翼も。こんなに、重い物だったなんて。知らなかったと。そう、言ったんですよ。私は」
 そう言ってから、また笑う。俺がゆっくりとその身体を立たせると。リュースはもう、自分の足でそこに立っていた。そこに立って、俺を見上げては。狡そうに微笑みかけてくれる。
「驚きましたか? この姿」
「……リュース。どうして、ここに。お前は一体」
 リュースの姿には驚いたけれど。俺は、それよりもと。何故、ここにと。そっちの方にばかり、気を取られてしまう。
 目の前に、リュースが居る。もう会えないと思っていた相手が、そこに居る。嬉しかった。嬉しかったけれど。素直に喜んで良いのかが、わからなかった。素直に喜ぶには、あまりにも目の前の景色は平凡な物とはかけ離れて
いて。俺の動揺を悟ったのか、リュースは俺が質問に答えないでいても、気を悪くした様子も見せずに。一度頷いてから口を開ける。
「もし、私が。ランデュスに何もされていなかったのならば。きっとこんな姿なのだろうと。そう思って。ちょっと、作ってみたのですよ。如何でしょうか? これで少しは、私も。あなたのその、黒の姿に釣り合う様になれたと。
そうは、思いませんか?」
「そんな事は、俺は」
「考えたりは、しませんでしたか。あなたらしいですね。憎らしいくらいに、あなたはそうで。……ああ、だからあの時も。あなたはカーナス台地で、私如きの事で、結界さえ壊してくれたのでしたね。本当に、私は愚かでした。
こんな姿では。こんな姿故に、歪んだ性格では。あなたはきっと、私の事など本当に好いてはくれないだろうと、そう思っていて。馬鹿な、話ですね。死ぬ間際になって。自分の姿が偽りで。しかも、あなたはそんな事には、
本当に頓着していなかった事にも、気づいて。あなたはずっと、私の身体の事なんか、碌に気にもしないで接してくれていたのに。私はいつまでも、それに拘るばかりで。そうして、機を逃してしまったのですから」
「……お前は。本当に、リュースなんだな」
 ちょっとねちっこい言いまわし方とか。俺の事をよく知っている様な口振りとか。その声音とか。何もかもが、リュースを示す物で。俺は思わず、それを呟いてしまう。そうすると、リュースは少し目を細めて。怒った様に翼を
少し広げてみせた。
「なんですか。それ以外の、なんだって言うんですか。それとも、竜神様……ああ。駄目だ。もうそんな言い方も必要無いというのに。ランデュス。そう。ランデュスに、見えるのですか」
「そうは、言ってない。けれど。お前はあの時、死んでしまったのに。どうして」
「どうして、ですか。そうですねぇ……」
 そこに至ると。リュースはまた、俺の胸に飛び込んでくる。
「ああ。重い。本当に重いですね。あなたやドラスは、どうしてこんな物を付けて平気な顔をしていられるのですかね? これでは私の得意な戦い方が、できそうにない。色はともかく。角や翼は、無くてもいいかも知れませんね」
「リュース」
「失礼しました。私が、死んだのに。どうしてここに居るのか。そうでしたね。確かに、そうだ。それを話さないと。あなたはどうせ混乱してばかりで、私の話も聞いてくれそうにありませんものね」
 呆れながら、そんな事を言われる。そんな事、言われても。死んだ者を生き返す様な真似が。この魔法やらが当たり前に存在する様な世界においても、そう簡単にできる芸当じゃない事を、俺はもう知っている。リュースは
あの時。確かに胸を貫かれて、死んでしまった。そんなリュースが、まるでそんな事はなかったとでも言いたげに、俺の前で楽し気に話をしていると。俺は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。
「あの時。私は、確かに死にました。胸を貫かれて、ね。ああ、痛かったなぁ」
「リュース」
「なんですか。少しぐらい、話をさせてくださいよ。無粋な方ですね。……それで、ですね。確かに死にはしたのですが。私の精神、というか。魂というべきか。それその物は、ランデュスの手によって、回収されていたのですよ」
「そんな事が、できるのか」
「竜の神ですからね。ランデュスには、それができるのです。また、ランデュス自身も、ずっとそうでしたけれど。魂だけの存在として、生きていた訳ですからね。ランデュスがその様であるからして、他人の。それも竜族の物で
あるのならば、然程難しいという訳でもなく。その様に魂を抜き取る事ができるのですよ。だからこそ、あの時ランデュスは私の魂を回収するためにカーナス台地に、あなたの目の前に態々現れたのだし。そんな危険を
冒してまでと思われるでしょうが。ランデュスの肉体を滅ぼそうが。そんな物は、ただランデュスが用意した入れ物に過ぎぬのだから。実際に、ランデュスを滅ぼした事にもならないのでございますね」
「……じゃあ。やっぱり、ここで俺が感じた気配は」
「勿論。ランデュスの、それですよ。……ですが、一先ずはご安心ください。それは同時に、私の物でもあるのです」
「意味がわからない」
 率直にそう言うと、鼻で笑われる。けれど、それからリュースは嫌らしい笑みを浮かべてから、白い指を口元に持っていって。そうすると。俺は胸の鼓動が早まるのを感じる。最初はなんとも思わなかった、竜族の。リュースの
そういう仕草が。ここまで来た俺には、とても。煽情的に見えるのだった。
「私は魂だけの存在として、ランデュスに回収された。ランデュスはそのまま、結界も無くなったのだからと。どこかへ行って。そうして、あの時そう言ってましたけれど。私に新しい身体を作って。そこでまた、私を従わせたかった
のでしょうね。けれど、それは叶わなかった。あなたや、ゼオロ様。そして、ユラが力を合わせて。その場に居たランデュスを、吹き飛ばしてしまった。ランデュスの身体は、消滅して。ランデュスもまた、元の様に。魂だけの
存在になって」
「でも。ギヌス殿は、ランデュスの気配はどこにも感じられないと。そう言っていた」
「いくら入れ物に過ぎぬとあっても、相応の制限はあるという事です。肉体を吹き飛ばされたランデュスは、その中から自らの魂を解放しました。けれど、消耗が激しかった。元々ランデュスは、自らの国や。そして私やギヌス様
などの、神声を聞く相手にも力を割いていましたからね。だから、そう。そんな状態で、あなたに負かされて。あの一時だけ。竜神の存在は、とても希薄な物になって。そして。……ふふ。誤算でしたね。そんな状態で、回収
した私の魂が傍にあるのですから」
 リュースの白い口元から、黒っぽい舌がちろりと飛び出す。それが、口元を舐め回した。
「だから、喰ってやったんですよ。私が、ランデュスを。魂が二つ。それも、近しい状態であるのならば。それは難しい事ではなかった。お聞かせできなかったのが、残念でなりませんね。あの時の、ランデュスの叫びときたら。私が
今まで聞いた悲鳴の中で、一番素晴らしくて。本当に、笑ってしまう。神の癖に、駒の様に扱っていた相手に喰われてしまうなんて。ざまあみろって感じですね。まったく」
「……そうか。だから、今。ランデュスの気配も、感じ取る事ができるのか」
「ええ。それに、ランデュスを喰ったから。相応にその知識も得ましたからね。それから、力も。だからこそ、今、こんな風に。そして、こんな姿で。あなたの前に現れる事もできる訳ですが。それにしても実際難儀な物ですね、
この角も、翼も。それから、この白い鱗も。産まれた時から、持っていたのならば。きっとそれに慣れ切って、私は今、違和感に苛まれる事もなかったでしょうに。産まれる前に奪われた物を取り戻しても。取り戻した気にすら、
なりもしないなんて。まるで、虚しい仮装をしている様な気分ですよ」
「それがお前の、本当の姿だったんだな」
「私の想像ですけれどね。どうですか? ほら、ちゃんと見てくださいよ。せっかくこうして、余計な物も纏わずに出てきてあげたのですから。服なんて、身体を作るよりかはずっと楽なんですから」
 そう言って。リュースが一歩引いて、両手を広げて。まったく恥ずかしがる素振りも見せずに全裸を晒してくる。どこを見ても、白い鱗に覆われたその身体は、確かに綺麗だった。俺の頭の中にある、リュースの姿とは
違っている、という事だけが俺に違和感を伝えていたけれど。それと切り離して考えれば、確かにその姿は美しいと言っても差支えが無く。何も着ていないから、下の方を見そうになって、俺は思わず視線を逸らす。そうすると、
リュースの馬鹿にした様な笑いが、俺に届く。
「どうですか? 今の、私の姿は。お気に召しましたか?」
「……そうだな、綺麗だ。でも、俺の傍にずっと居てくれたお前とは、違うから。なんとなく、落ち着かない」
「なんですか。その言い方は。前と、今とで。こちらの方が良いと。そう言ってくれればいいものを」
「お前は、お前だろう。リュース。お前自身が、今の自分の姿の方が良いと思うのなら。俺は今のお前でも、構わない。けれど。俺は前のお前の身体を、別に嫌だなんて、思った事はなかった」
 そこまで言うと、溜め息を吐かれる。少し広がりかけていた白い翼が、僅かに閉じて。大層がっかりした様な、呆れた様な仕草をリュースがする。
「ああ。あなたときたら。これですよ、これ。まったく、着飾り甲斐がないというか、なんというか。流石、ハル様の事を。ゼオロ様となって、まるで別の姿になってしまったというのに、追いかけていただけはありますね。あなたに
とって、相手の姿なんて、それ程の問題ではないのですね。せっかく私がこうして手に入れた力で弄んでやろうと努力したというのに」
「そんな事を、言われても。それにもし、俺が本当に見た目にばかり拘っていたら。多分俺はこの世界でやっていけなかったと思うんだが」
 人間しか居なかった世界から、ここに来て。目の前に居るのは二足歩行の爬虫類ばっかりで。ラヴーワみたいに犬や猫だったら、まだ耐えられる物もあるのかも知れないけれど。爬虫類となると割と駄目な人は居るのでは
ないかと。俺はそんな事を思ってしまう。口にしたら、多分殴られるから、言えそうになかったけれど。そういえば、ハルはその辺りは、大丈夫だったのだろうか。俺は初めて目の前に現れた他人の竜族を、つまりは、初めて俺が
見たのはリュースだった訳だけれど。思わず変な声を出してしまったし。自分もそんな姿になっていたとはいえ。
「別に、責めている訳ではありませんよ。……あなたらしいと、そう思うだけです。私も、馬鹿な真似をしてしまいましたね。こんな姿に今更なったところで、意味も無いのに。ああ。でも、空を飛ぶのは、興味がありますね」
 リュースは、本気で怒っていた訳ではなさそうで。苦笑を漏らす。それで俺も、ほっとする。怒らせると、リュースは怖い。それは、こんな時でも変わらなかった。そうして、リュースが現れた事、今の姿の説明を受けて、
落ち着くと。俺はようやく、リュースが俺の目の前に居るのだという事実が受け止められる様になる。ゆっくりと、今度は俺の方から近づいて。その身体を抱き寄せる。抵抗もせずに、リュースがまた収まる。
「どちらが良いのか、なんて言うつもりはないが。……でも、翼があると。抱き締めづらいな」
「そうですね」
 背中に腕を回そうとして。けれど、俺の手はリュースの翼にぶつかってしまって。慌てて、角度を変える。翼を持たないリュースばかり抱いていたから、いつもの様にしようとすると。それが、上手くいかなくて。でも、それ以外は
やっぱり、いつもの様なリュースだった。角があるから、そこも少しは違っていたけれど。息遣いも、声音も。俺の知っているそれで。目を瞑れば、もう何も変わらない。
「リュース。よく戻ってきてくれた。皆、とても心配していたぞ。お前の事となると、寂しそうな顔をして」
「お世辞は結構ですよ」
「お世辞なんかじゃない。俺は、見てきたのだから。さあ、行こう。お前がここに居る事を、皆に伝えないと」
 そっと腕を解いて、離れると。俺はリュースの腕を取ろうとする。けれど、その頃には。さっきまでのリュースが浮かべていた笑みはどこにも見当たらなくなっていて。ただ、寂しそうに俺を見上げているだけだった。
「リュース……?」
「申し訳ございませんが。ヤシュバ。それは、なりません。私が他の者の前に出る事は」
「どうしてだ。お前は、ここに居るのに。もう、何も。悪い事もないのだろう」
「悪い事、ですか」
 微笑を経て、それから、リュースは腕を上げて。掌を自らの胸に当てる。
「あと一つだけ、ございますよ。それが、私です」
「お前が……?」
「さっき、言ったじゃないですか。私はランデュスを、喰ったと」
「それは、わかっているが」
「そしてあなたが感じた通り。ランデュスの気配がする。その通りです。私は、リュースではあるけれど。同時に、ランデュスでもあるのです。だから私は、最後に。あなたにお願いをしにきたのですよ」
 全身が、痺れた様な感覚に襲われる。リュースのその言葉で、俺は嫌な予感がして。
「察しがよろしいですね。私がこんな風に、ランデュスの力を行使しているのも、結局はそれがあるからです。意識だけが私であって、それ以外の全てはランデュスの物。それに、私の身体はランデュスの手で処分されて
しまいましたからね。確かに今は、私の方が上で。私であり続ける事はできているけれど。だからといって、いつまでもこのままという訳ではありません。何しろ、相手は竜の神ですから。いつまた、今の状況が逆転して
しまうのかは、わからない。ヤシュバ。このままでは、ランデュスはいずれまた、現れますよ。再び現れては、身勝手な振る舞いをする。けれど。今なら。私がこうして、押さえていられる。もう、どこにも逃がしもせずに。だから」
「嫌だ」
 それ以上、聞きたくなかった。数歩、下がって。それから、俺は。足が震えている自分に気づいて、そのまま膝を突いてしまう。リュースはにこりと笑うだけで、もう、俺の事を馬鹿にする様な仕草はしなかった。
「お願いします。今しか、ないのですよ。ヤシュバ。また、あなた以外では、成し遂げられもしない。例え弱っていても、ランデュスは。そして、私は。竜の神だから。他の竜族の力では難しい。ましてや、竜族以外など、お話に
ならない。そんな事、あなたはもうわかっているのでしょう。それに、私も。あなた以外では、嫌だ。ランデュスに、喰われて終わりたくはない。どうか、聞き分けてください。ヤシュバ。どうか。この場で、私を殺して」
「嫌だって言ってるだろ!」
 自分でも、驚く程の声が出た。吠える様に、俺がそう叫ぶと。リュースの笑みが、不意に崩れて。涙がぼろぼろと溢れては、零れてゆく。思わず、俺は固まってしまう。こんな風に泣くリュースを見たのは、二度目だった。
「嫌だ。俺は、お前を殺すなんて。このままで、いいじゃないか。お前がランデュスに負けない様に、頑張れば。お前なら、きっと」
「いいえ。それは、難しい事なのです。それに。それに……それだけではない。私はこの身体になったから、よくわかる。この涙の跡地を覆っていた結界。それ自体が、まだ完全には消滅してはいない事を」
 結界の事を口に出されて、俺はまた茫然としてしまう。あれは、確かに俺が壊したはずだった。俺の声に、力に呼応するかの様に、ひびが入って。それから、全てが割れて。
 けれど、リュースは静かに首を振った。
「神々が造られた結界が、そんな簡単な物であるはずがないでしょう。あの結界は、ランデュスを封じるための物。そして、また。ユラの託宣を思い出してください。真の悪しき存在は消え去り、その時世界を包む悪夢もまた、
消えゆくだろう。……そう。あの結界は。ランデュスの存在が消滅すれば、勝手に消える物なのです。逆に言えば。ランデュスがある限り、決して完全に消え去る訳ではない。あなたは一時、それを破っただけに過ぎない。
その内に、再び結界は現れますよ。恐らくは、ランデュスの力に反応するかの様に。今は、まだランデュスの力が弱いのか。はたまた、あなたが壊してしまったから。そんなにすぐには、元に戻る事ができないのか。そこまでは
わかりませんが。とはいえ、本当にその通りに、あの結界は作られていた。ランデュスはそれを、甘く見ていた。結界さえ壊せば、自分は自由になると。そう思って、あなたを利用したけれど。結局それは、無駄足に終わった」
 膝を突いたまま俯く俺の頭を。白い腕が伸びて、優しく抱き締めてくる。それから、白い翼が広がって、俺の周りを覆う。
「だったら」
 リュースの腕の中で、俺はぽつりと口を開ける。
「だったら。俺がまた、結界を壊す。それで、いいだろう?」
「駄目ですよ、それも。ランデュスは、こうも言っていた。結界に包まれ、暗黒に閉ざされたその中で、私達が生きていられる様に結界を変化させたのは別の干渉があったと。ランデュスと一緒に。いえ、ランデュスになった今の
私になら、それもわかる。それは、当時の神の中の一人が、結界と同化したからなのです。恐らく、その神は。暗黒に閉ざされた中で、狂い死ぬランデュスを不憫に思ったのかも知れません。もしくは、同じ様に暗闇に閉ざされて
死んでゆく数多の命の事を。自分自身を捧げる事で、結界はより強固にはなったけれど。その代りに、光や風、雨などの、自然の物を通す様になり。闇の中で死んでゆくはずだった当時の者と、ランデュスを生き延びさせた。でも、
今はもうその神は居ない。あなたが、結界を壊した事で。その神の力は無くなってしまった。今一度、神を封じる結界が展開したとしたら。今度こそ、世界は暗黒に覆われてしまう。また、この結界はランデュスを隔離するための
物ですから。結界が復活した時は、その一帯が呑まれる事になる。逃げる事も、叶わぬ物なのですよ」
 静かなリュースの声が。一言、一言と俺の中に入ってきて。少しずつ、俺を絶望へと引きずり込んでゆく。
「その度に、あなたは結界を壊すのですか。ランデュスを滅ぼさなければ、根本的な解決にはならないというのに。それでは、いつかはあなたの力が尽きてしまう。今でさえ、あなたの力だけでは結界を完全に壊すには
至らないというのに。ここで全てを断つのが、最も確実な方法なのですよ。ヤシュバ」
「……嫌だ」
「嫌だ、嫌だって。あなたはいつも、それですね。嫌な事があれば、嫌だと言って、泣いて。本当に、駄々っ子の様で」
 リュースと同じ様に、いつの間にか俺の瞳からも涙が流れていた。リュースは舌先で、それを掬い取って。それから、少し離れると。俺の腕を片手で取って。その上に、更に自分の手を重ねる。
「申し訳ございません。何から、何まで。本当なら、私は白き使者であるのだから。元々、この世界に生きていた存在であるのだから。あなたの事を、導いて差し上げなくてはならなかったのに。それなのに、私がした事は。
ただあなたが、筆頭魔剣士である様にと。そればかりでしたね。あまりにも、私は愚かでした」
「そんな事、は」
「いいえ。そうなのです。私は、ずっとあなたにそれを求めてきた。自分があなたに魅かれるのも、あなたが強いからだと、そう思っていた。……そうでは、なかったのに。あなたが、黒で。私は、白で。だから私は、産まれるよりも
前から、あなたをずっと待ち望んでいたはずなのに。産まれる前に貶められ、産まれた後に蔑まれた私は。あまりにも。誰かを愛する事、また、誰かから愛される事に、恐れを抱く様になってしまった。あなたに筆頭魔剣士で
ある事を強いたのだって、結局は、そうだ。あなたは筆頭魔剣士で、私は筆頭補佐で。その関係でなければ、私はあなたの傍には決して居られはしないと。そう思ってしまった。自分が筆頭補佐でなくなると知った時は、それに
怯えて、泣いて。あなたはそれでも私に傍に居てほしいと言ってくれたのに。私は、あなたにふさわしくない私自身が、許せなかった。釣り合わぬ私に、あなたが手を差し伸べては、周りから悪く見られるのも、嫌だった。それでも
私は、あなたに筆頭魔剣士である事を辞めろとも、言えなかった。ただのヤシュバと、ただのリュースになったとしたら。それこそ本当に、私は何も持っていない、醜い竜でしかなくて。自由になったあなたは、私の事など
見る事もないのだと、勝手に思って。……本当に、馬鹿ですね。そんなはずは、なかったのに。カーナス台地で死ぬ時になって。私はようやく。あなたから、ほんの少しくらいは。立場も何も、抜きにして。好かれていたと、
知る事ができただなんて。本当に。私は今まで、何をして……」
「違う。お前のせいじゃない。俺が。何もできなかったから」
 まただ。そう、思った。ハルの時と、同じだった。結局俺は、何もできないまま。何もかもが遅くなった頃に、嘆いて。ハルを追って、ここまで来たのに。また、同じ事を繰り返して。リュースは、何も悪くはなかった。産まれる前から
竜神の手によって、他の全ての道を閉ざされたリュースに。一体、どんな非があったのだろうか。それと比べれば。俺は。いくらでもやりようはあったはずなのに。この世界に来て、力まで手に入れたのに。結局俺は。
 リュースが、俺の手を抱いて。それから、頬を擦り付ける。白い竜を伝って流れた涙が、黒い竜の俺の手を濡らして。
「では。お互いに、悪かったという事で。……ああ、けれど。それでも、あなたと一緒に過ごした日々は、悪くはなかった。いいえ。幸せでした。私は、白き使者として、あなたを導く事もできなかったけれど。私みたいな存在は、きっと
託宣を告げたユラからすれば、到底期待外れだと思われてしまったかも知れないけれど。また同じ様に生まれる事があるのなら。また、あなたが目の前に居てくれるのなら。私はやっぱり。ヤシュバ。あなたの傍に居たい。とても、
短い間だったけれど。何十年と生きてきた今までと比べたら、須臾にも等しい時間だったけれど。あなたと過ごした一年の方が、私はずっと幸せでした。愛しています。ヤシュバ」
 何も、俺は言えなくなっていた。止まらなくなった涙だけが。動かず、何も言わない俺が、本当に停止している訳ではない事を現しているだけで。
 そっと。リュースが俺の腕を下ろしてから。改めて手を差し伸べてくる。白い、綺麗な手だった。
「或いは。今こそが、ユラの託宣の時なのかも知れませんね。塗り潰された私は、白き使者ではなかった。けれど、今の私は、そうですから。真相は、わからずじまいですが」
 下ろされた手を、俺は上げて。その手を取る。リュースがそれを導いて。俺の手は、リュースの首と、胸の間へと辿り着く。
「ヤシュバ」
「リュース……」
 リュースはもう、何も言わなかった。目を瞑って、微笑んで。ただ。待っていた。
「リュース」

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