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ヨコアナ
41.死に死と死を
「託宣をするのが、僕の使命だと思っていた」
「けれど、それは間違いだったのかも知れない。託宣を乞われ、終えて。目を覚ました後に、自分が何を口にしたのかを聞かされて」
「そしてその内容故に。相手に動く余地を、僕は与えてしまったのかも知れなかった」
「僕がした事は、余計な真似事でしかなかったのか」
「それとも。僕の行動すら。かくあるべしと、定められた物でしかなかったのか」
「あの時の、解。僕が知りたいのは、ただ、それだけだった」
「私のために死ね」
冷たい風が、吹いていた。
ここに来るまでも。ここに来てからも。冷たいなんて、感じる余裕も無かったはずだけど。今は、それが冷たく感じられる。
動かない白い竜を。リュースの事を、俺は見下ろしていた。それを抱き締めたまま、固まっているヤシュバの事も。青かったリュースの身体は、真っ白で。本当に、真っ白で。その上を滑る、竜族である事を示す青い血を見て、
俺は違和感を覚えてしまう。リュースの事を、青い竜だと。そう思っていたから。リュースも、そう言っていたから。
リュースの言葉の意味を、反芻してみる。けれど、今の俺には全てを理解する事はできなかった。わかっているのは、リュースは俺の命を狙ってここにきて。けれど、それは遂げられなくて。俺の替わりだと言いたげに、
ここで死んで。それを見たヤシュバが、叫び声を上げて。それから。
すっと。視線を真上へと移す。青い空が、どこまでも広がっていた。つい、さっきまでと、その空は違っているはずだけど。けれど、少なくとも肉眼ではその違いを感じ取る事はできなかった。ヤシュバの叫びに呼応するかの
様に、その空には亀裂が走って。弾けて。それは確かに、この世界を。涙の跡地を覆う結界が、吹き飛んだ事を意味していたはずだけど。ここから見上げる分には、その瞬間を見なかったのならば、何も変わらない様に見えた。
「リュース……」
ヤシュバの呟きが聞こえる。視線を、戻して。それから、またリュースを見て。涙を流して、リュースは死んでしまったけれど。そんなに、悪い顔はしていなかった。満面の笑みというよりは。ただ、安心した様な。最期が、
ヤシュバの腕の中だったからなのかも知れなかった。そのヤシュバは。まだ、泣いていたけれど。それと比べて、俺は泣きもしなかった。今日は、ずっと泣いていたから。とっくに涙も枯れ果ててしまったのかも知れなかった。
ヤシュバが、そっとリュースの身体を大地に横たえさせる。
「俺は。また、何もできなかったんだな」
「ヤシュバ」
「ハルが辛い目に遭っていた時も。俺は、いつも見ているだけで。気づいた時には、もう遅くて。それが、嫌だったのに。今度こそ。そう、思っていたのに。俺がそんな事をしている間に、リュースは」
その言葉に、俺は何も言えなかった。ヤシュバとリュースの間の事は、俺にはわからない事が多いから。こうすれば良かった、なんて。安易に言えるはずもなくて。
それに、後悔が募っているのは、俺も同じだったから。今度こそはって、そう思った事も。
強くても、弱くても、そんなの変わらないんだなって。そう思った。見過ごしてはいけない事を見過ごしたり。どうしようもない流れの中で、できる事が限られているから。伸ばした手が届く事もなかったり。本当に、どうしようもなく
打つ手が無くて。どうにもできないまま、終わってしまったり。
結局。結果を前にして。こうして俯く事しかできないんだな。
「馬鹿な奴だな」
不意に、俺でも、ヤシュバでもない声がその場に響いて。俺達は慌てて顔を上げる。当然、既に死んでいるリュースの物でもなかった。俺達の背後から聞こえたそれへと、顔を向ける。けれど、そこには何も無かった。広々と
した、カーナス台地の高台。怨念が渦巻き、グンサが縛られていたこの場所には、今は何も無いはずだった。俺と、ヤシュバと、リュースの存在以外は。
けれど。俺達が見つめる、その虚空に。突然に光が生じた。声を上げる事もできずに居る俺達の前で、光は大きくなって。それから、光から何かが飛び出す。それは、一対の白い翼だった。純白のそれは、光の中から、
まるで両腕を伸ばしたかの様に開いて。それが済むと、今度は光が徐々に弱まってくる。眩しいと、そう思ったのはほんの一瞬の事で。次第に消えてゆく光の中には、いつの間にかそれまでに無かった物が生まれていた。
陽の光が、それを照らして。反射した光がきらりと輝く。白い翼が最初に輝いて。それから、その翼の持ち主の持つ鱗もまた、輝いた。けれど、その人物の姿は俺の予想に反していた。白い翼の持ち主は、その服にも、
白いトーガと思われる物を纏っていたけれど。その身体は、緑の鱗に覆われていた。白い翼と、白い服に、不釣り合いに思えてしまう様な緑の鱗の持ち主の、竜族だった。
「竜神、なのか……?」
俺と同じ様にそれを見守っていたヤシュバが、口を開いて。俺は思わず息を呑む。突然に、俺達の目の前に現れた竜族を、竜神ランデュスだと、ヤシュバは言って。そして、そう呼ばれた緑の竜は。まるでそれを肯定
するかの様に、目を細めて。それから、口角を吊り上げる。
「どうした。そんなに、呆けた顔をして。声はいつも通りにしてあるだろう?」
「そう、だが」
「まあ。こうしてお前の前に姿を現すのは、初めてだが。もう数百年も、私は形を取る事をしなかったからな」
そう言ってから、緑の竜が。ランデュスが、その場で伸びをする。なんというか、随分間抜けというか、気の抜けた仕草をする竜族だと、それを見て思わず俺は思ってしまう。場所が場所だったら、初めて見る神の姿と、その
振る舞い方に、寧ろ歓迎したいくらいだけど。生憎この場の空気は、そんなに生易しい物ではなかった。
「可哀想なリュース。結局、ヤシュバを物にする事はできなかったのだな」
変わらずに、大地に横になっているリュースの死体へと。ランデュスは視線を向ける。途端に、俺の隣に居るヤシュバが、唸り声を上げた。突然のランデュスの出現に、面食らっていた物が。リュースの事となって、正気を
取り戻したかの様だった。
「ランデュス。どういうつもりだ」
「と、言うと?」
「お前は。リュースを、殺した」
「それは、違うな。リュースを殺したのは。ヤシュバ。お前だよ」
そこまで言うと、竜神が冷たい笑みを浮かべる。なんとなくそれは、リュースのそれに似ていて。けれど、底の方にあったほのかに感じられる優しさは、ランデュスからは感じ取る事はできなかった。
「たった今、お前がそれを悔いていたから。私は馬鹿だと言ってやったのに。いざ私が現れると、もうそんな顔をして。まるで被害者であるかの様に振る舞うのだな、お前は。そんな有様だから、ハルも救えなかったのでは
ないのか? お前はいつだってそうして、自分こそが被害者だと。さもその様に振る舞うのだな。ハルも、リュースも。お前が原因であったと言っても、過言ではないであろうにな」
「それは」
途端に、ヤシュバが立ち上がりかけた身体で、膝を着いて俯く。咄嗟に、俺はヤシュバを庇う様に、前に出る。
「やめてください。少なくとも、私は。そんな風に思ってはいません。ヤシュバは……タカヤは、悪くありません」
俺が、ヤシュバの前に出て。ランデュスと視線を合わせると。ランデュスは少しだけ瞳を大きくして。それから、不意に。何故だろうか。とても、優しそうに微笑んでくれた。少し意外に思って、俺は思わずランデュスに見惚れて
しまう。ランデュスは白いトーガに身を包んで。それ以外は何も、身に着けてはいなかった。足の先まで覆う緑の鱗が見えて、素足でそこに立っていたし。何も着飾る様子もなかった。ただ、その背にある一対の白い翼だけが、
異様な程に目立っている。身体を覆う鱗とは違う翼を、俺は幾度となく、目で追ってしまう。広がった翼があるから、大きく見えていたけれど。よく見ればランデュスは、それ程大柄な竜族という訳ではなかった。そもそも竜族に
分類していいのかもわからないけれど。竜の神なんだし。背はヤシュバやガーデルには及ばないし、その骨格も。どちらかと言えば、リュースに近く、ほっそりとした姿だった。
「初めまして、ゼオロ。お前と会うのを、楽しみにしていたよ。もっとも、私が楽しみにしていたのは。お前がリュースに討たれる様ではあったけれど。残念な事に、私は奥の手を使わざるを得なかった」
「……」
楽しそうに、ランデュスはそう言う。この高台に来てから、全てが突然の事で。俺は頭が混乱しそうだったけれど。少しずつ、気持ちの整理をして。そして今、目の前でランデュスが吐き出している言葉も、理解しようとする。
その様子と、言葉から。少なくともリュースが俺を襲ったのは、ランデュスの考えなのだろう。確か、リュースもヤシュバに問われた時に、それを言っていたし。そしてまた、その後の。リュースを死に至らしめた事も。もしかしたら、
今の、空の状態でさえ。
「それにしても、今の言葉は、本当なのか? 本当に、少しも。そこに居るヤシュバの事を、怨んではいないのか?」
「ヤシュバの事は割と怨んでますが、タカヤは別に怨んでません」
俺の言葉に、ランデュスが僅かな間を置いて、声を上げて笑う。一頻り笑ってから、ランデュスは楽しそうに。何度も頷いていた。
「良い返し方だ。確かにヤシュバのした事は、ゼオロであるお前には、なんとも鬱陶しく。はた迷惑で。さぞ、自分勝手な事であっただろうな」
何もかも見通しているかの様に、ランデュスは言う。この世界に現れたヤシュバを筆頭魔剣士に就け、また筆頭魔剣士であり続ける事を許した存在であるからには。もはや俺とヤシュバについて、知らぬ事など何も無いと
言っても過言ではないのかも知れなかった。
「リュースを失ったのは、惜しいが。なるほど。これもまた、面白い。お前が生き残る方でも、良かったかも知れないな。私の目的は、成就した事であるし」
「結界の破壊が。あなた様の、目的だったのですね。ランデュス様」
「無論だ。そうでなければ、どうしてこの様な」
そこで一度区切って。そして、ランデュスは膝を突いたヤシュバを見下ろして。また目を細める。
「この様な。力だけであって、物のわからぬ愚鈍な輩を、どうして私が筆頭魔剣士に据えたと思うのだ? あのガーデルを。まあ、私にはあれはあまり従順とは言えなかったが。それでも、私の国の、英雄と謳われたガーデルを
手放してまで。この涙の跡地を、竜の足跡が残されぬ地など無い程に征した訳でもなく。ラヴーワとの火種を抱えたこの状況で、何も考えずに筆頭魔剣士にしてやったと。本当に、そう思っていたのか? まあ、思っていたの
だろうがな! 私は、ハルを。つまりはゼオロ。お前の事だが。この地のどこかに居ると思われる、お前を捜す手伝いをしてやるから、筆頭魔剣士になってくれと。ヤシュバにそう言って、こいつはそれに、そのまま頷いて
しまったのだよ。なんという浅はかさなのだろうな。確かに、力はあったが。たったそれだけで、自分にはそれが務まる程の価値があるとでもこいつは思っていたのだろうか? だとしたら、それは。もはや憐れみすら覚えて
しまうな。それとも、よもや私が、こいつの話を聞いて。心底から同情をして、力を貸すと。そう思ったのだろうか? 馬鹿な事を。そんな事で、国一つを左右する様な事を、決める訳がないだろうに。本当に、こいつときたら。物の
わからぬ奴だ。リュースが糞餓鬼だと言ってくれるのも、よくわかるわ。私の目的は。ただこの時だけ。ヤシュバをここに招いて。そうして、ゼオロを、お前を殺して。狂ったこいつに、結界を壊させるだけでしかなかったと
というのにな。もっとも、それもまた少し、外れてしまったが。だが、リュースがこの痴れ者の心を捉えてくれたのには、感謝せねばな。おかげで、どうにか本懐は遂げられたのだから」
「あなた様は。最初から、戦争なんてどうでも良かったのですね」
「そんな物は、ただの余興だよ! もっとも、私も一時はその様に。この地の全てを征するべきかと、そう思っていたが。しかし私の下には、リュースが現れた。くだらん託宣が、伝説が真実になると知れば。それは当然、そちらを
取って然るべきだろう? どうせ、結界の内を征したとしても、手狭には感じるし、また流石に竜以外の全てを根絶やしともなれば。国内からのつまらん反発も招くであろうしな」
「では。あなた様が、ユラの託宣で言うところの。悪しき存在であったのですね」
俺が、それを口にすると。ランデュスの表情から、笑みが消える。しかしそれはまた、その内に。これ以上無い程に愉快だと言いたげに、口元は緩んで。そうしてその口から、堪えきれなかったと言わんばかりの笑い声が漏れる。
「素晴らしい。よく、今の言葉だけで。そこまで瞬時に理解できた物だ。力に頼らずに、この地で生きてきただけの事はある。やはり、そこの馬鹿者とは違うな。リュースが死ぬまで、踊っていた奴とは」
「ランデュスが……?」
俺の後ろで、呆けた様に声を出すヤシュバを、俺は振り返って見つめる。まだ、リュースを失った事で正常な状態とは言えなかったけれど。今の話題には、流石に耳を傾けざるを得なかったのか。今は目を見開いて、そして、
食い入る様にランデュスを見つめていた。俺は黙ったまま、その傍で動かないリュースを見つめる。真白な鱗に覆われた、白い竜を。
「リュース様の事を、そう言うからには。そして、リュース様の身体の変化の意味を、考えるのなら。リュース様こそが、白き使者だったのでしょう?」
「その通りだ。まあ、これはもう。言わずともわかるであろうが」
「でも、それを隠さなければならなかった。それも、リュース様本人にも、秘密にして。しかも、たった今そのリュース様を殺してしまった。ユラの託宣が、そのまま履行されるべきだというのなら。ランデュス様は、これはもう
決まっている事だとは思いますが、ヤシュバ様は黒き使者で。そして、そのヤシュバ様と、白き使者であるリュース様の二人に、きちんと己の使命を説明して、引き合わせていたでしょう。でも、そうはされなかった。されど、
今その口から仰られた様に、涙の跡地を覆う結界だけは壊したかった。だから、リュース様を自分に服従させて。実際にヤシュバ様がこの地に現れて、それがどの様に利用できるのかがわかるのを。ずっと、待っていたのですね」
リュースの口から吐き出された言葉を、俺は懸命に思い出して。頭の中で整理を済ませる。リュースは、産まれた時から自分は青い竜だと言っていた。青い竜である事を当たり前の事として受け止めて。そして、あの時。死の
直前に、自分の身体を見下ろした時に、驚愕していた。リュースは何も知らなかったはずだ。それも当然なのかも知れなかった。産まれた時には、青い竜で。物心が付いた時から、それを周りからは厭われていたのだから。
そんな自分が、本当は青い鱗の持ち主ではないだなんて。けれど、今の。俺達の目の前で死んでいるリュースの身体は、白い鱗に覆われている。産まれるよりも先に、何かがあった。そして、それもまたリュースが俺に教えて
くれた事の中に答えはあった。竜神からの、祝福。リュースの強い力を感じ取った竜神が、リュースの両親を呼び出して。まだ母親の胎の中に居たリュースに施したという祝福。あれこそが、リュースに施された、色を染める
魔法だったのだろう。祝福は、本当に祝福だったのだろうか。今、思えば。リュースには、カーナス台地の。狼族の呪いが、効かなかった。それもまた、祝福の賜物かも知れないとリュースは笑っていたけれど。呪いは、
より強い呪いによって撥ね付けられるという事を考えれば。母親の胎の中で眠っていたリュースに施されたのは。やっぱり、祝福なんかじゃなくて。呪いであったのではないかと、そう思う。産まれたリュースは。周りから
疎まれて。ただ一人、自分を求めて。そして、筆頭補佐にまで就けてくれた竜神に恩を返したいのだと。そう微笑んでいた。
そして、ユラの託宣。その言葉を、思い出せば。
「白き使者は、黒き使者に手を差し伸べる。黒き使者がその手を取った時、真の悪しき存在は消え去り、その時世界を包む悪夢もまた、消えゆくだろう」
目を瞑り、歌う様に、ランデュスが口にする。ユラの託宣の、一番重要な部分を。僅かな、間を置いて。ランデュスは瞼を開くと、また笑みを浮かべる。
「消えてもらうのは、悪夢の方だけで充分だろう? だから私は、賭けに出たのさ。分の悪い賭けではあったが、私はそれには勝った。確かに、ヤシュバはこの結界を排除する程の力を持っていたが、しかし力の制御が
甘いからか、どうしても追い詰めてやらなければ、その本当の力は出せぬ様だった。丁度、あの時。初めてこの地に訪れた時の様に、絶望に塗れた態でなくてはならなかったのだ。平時であっても、筆頭魔剣士としての強さは
充分であるというのに。それでもあの結界には及ばないというのは、やはり生半な力では、あれを壊す事は不可能だったのだ。かといって、私では駄目だ。あれは私のためだけに存在していた物であって、私の。つまりは、
神の力では。突破する事は敵わなかった」
ヤシュバと、リュース。二人の使者が手を取り合って、どれ程の力が発揮されるのかはわからなかったけれど。それは竜神の望む結果ではなかったのだろう。自分が消えずに、結界だけを消す方法を模索した結果が、まさに
今だった。そして見事に、竜神は自らが滅ぶ事を回避して。この涙の跡地を覆う結界だけを破壊する事に、成功したのだった。
「どうして、あの様な結界が」
「何。それは今の竜族を見ていればわかるだろう? 力強く。そして、欲深い。それは神である私でも、何も変わらない。だから、あの時。もう、どれ程昔の事だか、数える事もしてはいないが。他の神は、私をこの地に
閉じ込めたのさ。その後、そいつらがどうなったのかまではわからんがな。私とて、黙って見ている訳にもゆかぬから、何人かは消してやったが。だが、流石に他種族の神が寄り集まると、切り抜けられる物では
ないからな。その時に、この地は結界の下に。暗黒に閉ざされたのさ。今この様に。というよりは、先程までの様に。お前達が平凡に生きていられる様な状態になったのには、また別の干渉があったが」
「……随分、教えてくれるんですね」
「真実に辿り着いたお前には、教えてやろうと思ってな。それに、私はもうこの地に留まる理由が無くなった。それについては、礼を述べる必要もある。ゼオロ。いや、ハルよ。お前という存在は、この地には必要が無かった
だろう。お前はただ、タカヤをこの地に呼び込んで、ヤシュバとなった存在をこの地に留めるための、呼び水の役目をしか担ってはいなかった。それでも、今こうして僅かな齟齬をきたしても、この結果に辿り着いたのは、お前の
力でもあるだろうな。そもそもが、お前居なくては。このカーナスの呪いを完全に退けて。ここにお前達を誘い込む事も敵わなかったやも知れぬからな。それを思えば。やはり私は、お前に礼を言いたいな。ありがとう、
ゼオロ。この世界に来てくれて。そして。ヤシュバよ。何もかもが、お前達のおかげだ」
「ふざけるな」
地の底から、這い上る様な声が聞こえる。俺の傍に居たヤシュバが、目を見開いて。憎悪の表情を浮かべたまま、ランデュスを睨みつけていた。こんな時だけど。こんな顔、ヤシュバもするんだなって。そう思う。
「お前は、リュースを」
「また、それか。いい加減にしてほしい物だな。そもそもどの様な経過を辿って。例え私の介入があったとしても。リュースは一途に、お前だけを見ていたというのに。そんなリュースを、袖にしたのはお前だろうに。リュースが
どれ程に尽くしても。お前はハル、ハルと。そればかりを考えて。とうのハルは、とっくに猫族の愛人の腕に抱かれていたというのに。滑稽な。惨めな。それなのに、まだ逆恨みをするのか。本当に無様だな。どうしてリュースは、
こんな男を好きになってしまったのだろうな。お互いに使者の使命を持っているから、どうにも身体の相性だけは良い様だったがな。それも、こんな中身が程度の低い子供ではな。可哀想なリュース。お前に、こいつ程の力が
あったのならば。私は迷わずお前ではなく、この男を殺してやって。お前に結界を壊させただろうにな」
「ランデュス!」
激昂したヤシュバが、立ち上がって。大地を踏みつける。そうするだけで、また吹き飛びそうな力が辺りを包んで。俺は思わず、屈みそうに。中腰の体勢になってしまう。とうのランデュスは、涼しい顔をしたままだった。ただ、
自分を睨みつけているヤシュバを、嘲笑う様に見ているだけで。
「お前も。そう、思うだろう? リュース」
ランデュスがそう言った途端に。背後から物音が聞こえて。俺は思わず身の毛がよだつ。立ち上がったヤシュバは今、俺の隣だ。だから。俺達の後ろに居るのは。
俺とヤシュバが驚いて振り返れば。そこに、それは立っていた。さっきまで、もう死んでいたと思っていた相手が。いや、それは間違ってはいないのだろう。立ち上がったそれは。だらりと両腕を下げたまま。僅かに開いた
瞼から覗く瞳は虚ろで。そして、一撃で死に至ったその胸の傷は相変わらず開いたまま。少し固まりかけていた青い血が。その持ち主が動くに任せて。また少しだけ、どろりと流れて、そのまま大地を、青く染めた。
「あ、あぁ……」
ヤシュバが、ただ呻いた。俺はそれで、ヤシュバと同じ様に振る舞う事を避けられたんだと思う。横目で見れば、ヤシュバの身体が、震えていた。瞳は限界まで大きくなって。その瞳からは、涙が流れて。けれどそれは、もう
動かないと思っていた相手が、動いた事に対する喜びを示す物なんかじゃなくて。俺が見たって、一目でわかる程に。とっくに、死んでいるはずのその身体が、ひとりでに動いては、俺達の方へと歩いてくる事に。どうしようもない
恐怖を覚えていたせいだった。どれだけ強くなって、敵う者など居ないはずのヤシュバであっても。結局は、中身は俺とそれ程変わらない。死んだまま、のろのろと動いたリュースの姿に正体を失くして。今はただ、怯えている
だけだった。俺も、身体の震えが止まらなかった。口を懸命に閉じて、また込み上げてきた吐き気をどうにか堪える。
「リュース……」
俺達の近くを通り過ぎようとした、白い竜に、ヤシュバが手を伸ばすと。その手が、リュースに触れるよりも先に。何も無い宙で突然に弾かれる。鼻で笑う様な仕草をランデュスがしただけだった。
「触るなよ。それはもう、お前の物じゃない。私のリュースなのだから」
ヤシュバは、それ以上リュースへ手を伸ばそうとはせずに。茫然と、それを見守っていた。俺も、同じ様に。ヤシュバの力なら、それを突破できただろうけれど。触れて良いのか、わからなかったのだろうな。そうしている間に、
ゆっくりと。ぎこちなく歩いていたリュースは、やがてランデュスの下へと辿り着く。そうして並ぶと、リュースの方が少しだけ背が高くて。やっぱり、ランデュスが思ったよりも背の低い状態である事がわかる。とはいえ、現れた
時に口にしていた事からして。ランデュスはその姿をある程度自由に決められるみたいだけど。
「おかえり。リュース」
俺達を他所に、リュースを迎えたランデュスは微笑んで、リュースの身体を抱いていた。リュースの腕が、少し上がって。ランデュスの背に回される。
「ああ。ようやく、こうして。お前と身体を合わせる事ができたな。お前の前で、私が姿を現すのは、初めての事だものな。国全体を見通しながら、更にはお前やギヌスに対して力を割くのは、中々に骨が折れる。だが、それももう
終わりだ。結界が壊れた以上は、我が国ですらもはや、私を押さえる枷にはならない。こうして、お前に直に触れる事もできる。冷たくて、気持ちが良いな。それに、綺麗だ。白くて、な」
ランデュスが少しだけ屈んで、舌を伸ばす。そうすると、その舌先はリュースの胸の傷へと達して。ちろちろとした暗い色の舌先が、傷口を抉るかの様に蠢いて。それは、相当な痛みを相手が感じても不思議ではない行為
だった。相手が、生きているのなら、だけど。とうのリュースは、何かを言う事もなく。ただ、ほんの少しだけ。ランデュスの背に当てる腕を僅かに動かした様に見えた。
「よくは動かぬ身体で、そうしてくれる。お前のそういう忠誠心が、私はとても好きだよ。最初は、醜くし過ぎてしまったかと、少し閉口したがな。それでも、やはり美しい竜は、問題を招くからな。お前の前任のツェルガときたら、
本当にどうしようもない淫乱だったからな。竜は強欲であるからして、多少色に狂っていてもそれは賞賛される事でしかないが。あいつは、やりすぎだ。閨に男を招いては、食らい尽くす。それで回る内は良いが、結局は
色に惑わされぬ輩に、自らの心を奪われて。それまで自分が散々に他者の心を奪っていたが故に、ツェルガの愛が途絶えた者共は憤慨して、破滅を招いた。それと比べれば、やはりお前をこの様に仕立て上げた事は、正しい
事だったのだろう。おかげでお前は、誰からも相手にされず。ただ一心に、私に尽くしてくれた。ここで。こうして。死ぬ間際までな。ああ。良いな。時間が、そして状況が許すのならば。今からでも可愛がってやりたいところだが」
胸から、ランデュスの舌が引き抜かれる。それを口の中へと持っていっては、咀嚼する様に僅かに口が動いて。リュースの血を、味わっているかの様だった。一頻り、そうしてから。ランデュスは、今度は恋人へするかの
様に。リュースの首へと顔を埋める。
「だが。お前は最後の最後に。やはり、私に背いたな。死を前にしたお前は。私の事を考えるのではなく。結界が砕かれた空を見上げて。そうして、自分はそれ程までにヤシュバに好かれていた事に喜んで、死んでいった」
ランデュスの開かれた口が、不意にリュースの首元へと食らいつく。リュースの全身が、びくんと跳ねた。その口から、出るはずの無い声が漏れる。掠れた様な、意味を成さない音が、ただ僅かに漏れ出ていた。
次の瞬間。リュースの身体は、ふっと、薄れて。そのまま透明になって、消えてしまった。リュースの身体で隠れていた、ランデュスの身体が、また露わになって。更に少し経てば、もうそこには、リュースの存在は完全に
無くなっていた。ただ、足元に垂れ落ちた青い血だけが、そこに。死んでまで身体を動かされていた白い竜が居た事を、まだ俺に教えてくれるだけで。
「また会おう。その時には、お前にもっと良い身体を作ってやろう」
「リュース!」
弾かれた様に、ヤシュバが身体を動かして。そして、大地を大きく踏みつけた。そうするだけで、ヤシュバの怒りが伝わってくるかの様だった。辺りの大地は、また揺れて。そっと見上げれば。ヤシュバは見開かれた目を
血走らせて。ただ、ランデュスの事を、その瞳だけで睨み殺せるとでも言いたげに睨みつけている。
「煩いな。リュース、リュースと。もう身体は無くなって、ここには居なくなった相手の事を」
「殺してやる」
耳を疑う程の、まっすぐな殺意に満ちた言葉が、ヤシュバから飛び出す。ヤシュバが。タカヤ、が。こんな事を言うのを、俺は初めて聞いた。
それを聞いたランデュスが、心底から馬鹿にした様に声を上げて笑う。
「悪いが、目的は果たした。お前と遊んでやる理由が私には無いな。それよりも、お前ももう筆頭魔剣士なんて椅子に座る必要は無くなったんだ。そこに居るハルを、好きな様にしたらどうだ。結界は無くなり、もはやこの地で
争う理由も無くなったのだからな。成就するかもわからん託宣なんぞに頼らずに、この結果を招いたのだから。私にも感謝してほしいものだ」
「黙れ」
また一歩、ヤシュバが踏み出す。踏みつけて割れた大地から、破片が宙へと昇ってゆく。そのまま何度も歩いたら、この高台そのものが、壊れてしまいかねない程だった。ヤシュバが、吠える。そうすると、ランデュスの
周りの大地が削り取られて。だけどそれはランデュスに届かずに、その前に現れた淡く、白い衣に阻まれた。ランデュスが、僅かに表情を変える。
「今のお前の攻撃は、私でも少々堪えるな。結界すら吹き飛ばす力だ」
それから、ランデュスが片腕を上げると。不意に、雷でもそこから生じたかの様に閃光が走る。最初、俺はそれを、ランデュスがしたのかと、そう思った。けれど、そうじゃなくて。どうやらその光によって、ランデュスの行動が
邪魔された様だった。上げられた手は、弾かれて。僅かに目を大きくしたランデュスの足元から、微かに光が迸って。その光はそのまま、複雑な模様を描いたまま広がると、次第に陣となって。まるで、小さな結界の様に、
それはランデュスを囲んでいた。空で粉々になった結界が、そこでだけ、元に戻ったかの様に。
「悪いけど。逃がしはしないよ」
虚空から、子供の声が響く。青空が、闇の色に引き歪んで渦となると。そこから、黒いローブに身を包んだ猫族の魔道士が現れる。暗い、闇の色の被毛から、一対の金の瞳が眩しい。
「アララブ」
俺は、それを見上げて。その猫族の魔道士の名前を呼ぶ。アララブはただ、ランデュスを見据えていて。俺の方には目もくれなかった。
「ユラ。貴様、私の邪魔をするのか」
「最後に、油断したね。ランデュス。結界の破片が降り注いだ直後に現れるなんて。リュースの回収をしたかったのだろうけれど。こんな機会を、僕が見逃すとでも思っていたの」
「小癪な物だな。お前の力で、どうにかできる私ではない事ぐらい。理解していると思ったが」
「それは、すぐには破れないよ。ヤシュバがお前を吹っ飛ばすまでは、持ってくれる。このために僕は、態々他の魔道士の下を訪ねて、その力も借り受けたのだから」
「一人では何もできない、塵芥に過ぎぬ輩が。くだらん」
「自分の力で結界を壊せなかったお前の言う台詞ではないよ。さあ、ヤシュバ。僕が押さえている間に。早く」
ヤシュバの雄叫びが聞こえる。アララブの用意した物は、器用にもランデュスの動きを封じて。しかしヤシュバの力の邪魔はしていない様に見えた。小さな結界にひびが入る。その時になって、ようやくランデュスが微かに
呻いて、余裕の無い所を晒し出した。ただ、それでもその顔は不敵な笑みを浮かべて。そして今は、ヤシュバではなく。アララブの事を見つめていた。
「態々生かしておいてやったというのに。恩を仇で返されるとはな」
「僕の力を、自分の物にしたかっただけじゃないか。馬鹿らしい」
「そうだな。どうにかして、取り上げたかったが。それももはや、必要無い」
掲げた右手を、ランデュスが握り締める。たったそれだけで、宙に浮いていたアララブの身体が揺れて。次には、重力を感じさせない様なその振る舞いが崩れて、大地へと落ちてゆく。大地に叩きつけられた後に、何度も
咳き込むアララブの口から流れた赤い血が、大地を染めた。
「お前こそ。のこのこと出てきて、私に手向かえば。私がそれを、見逃すと思っていたのか」
「……別に。もう、構わない。どの道、僕はもう充分に生きたのだから。ランデュス。お前も、一緒に。僕とここで死ぬべきだ」
「悪いがお前だけで死ね。私はまだ、そのつもりではない」
更に、ランデュスの掌が、完全に閉じると。そのまま、立ち上がりかけていたアララブの身体が跳ねてから。今度は倒れる。
「アララブ」
俺は、その時になってようやく自分の身体が動かせた。転びそうになりながら、走って。少し離れた位置で倒れたままのアララブの下まで、駆けつけて。その身体を抱き上げる。アララブは、とても軽かった。俺よりも背が少し
低くて。その身体も、細くて。俺が抱き上げると、口から血を流したアララブが、せいせいと呼吸を繰り返しながら。やがては柔らかな笑みを浮かべる。
「ごめんね」
「えっ?」
突然、謝られて。俺は思わず、大丈夫かとか。そういう事を言いたかったのに、面食らってしまう。俺の虚を突いたのが嬉しいとでも言うかの様に、アララブはまた笑って。けれど、その拍子に咳き込んで。
「ランデュスの言う通り。君は、ヤシュバを招くためだけの存在だと思っていたのに。今は君に頼らないといけないなんて」
「……そんな事。私がここに来たくて、来たのだから。今更、謝らなくていいよ」
「それだけじゃないんだ。カハル……いや、リヨクの事。あれは、僕のせいでもあるから」
アララブが、リヨクの名前を口にして。俺はまた驚くけれど、すぐに答えに辿り着く。そういえば、ミサナトでリヨクが、当時のカハルが俺を慰めてくれた時。アララブの名を出していたのだった。
「アララブは、リヨクの事を知っていたんだね」
「そう。君は、そんな身体だから。だから僕は、あまり君とは一緒に居られなかったけれど。リヨクはそうじゃなかったから。それから、リヨクも。君に正体を知られまいとしていたから。だから僕は、君がどんな風で居るのかを
時々はリヨクに教えて。けれど君が本当に危ない時は、頼んで助けてもらっていたんだ。だけど、今回の事はそれが悪い方へと転んでしまった。君がこの場所に。二国のぶつかり合う今訪れる事を知ったリヨクは、
僕の忠告では止まってくれなかった。その結果、リュースに」
「……そう、だったんだ」
苦しみながらも、アララブは懸命に言葉を紡いで。俺に真実を伝えてくれる。今伝えなければ、俺は決して知る事ができなかったであろうその真実を。リヨクはできる限り俺自身に接触する事を避けて、それでも、俺の
事をずっと見守って。必要なら、助けようとしてくれていたんだな。ここでリュースとぶつかってしまったのは、不運としか言い様がなかった。確かにリュースは俺の命を狙うためにここに来たみたいだったから、リヨクのその行動は
間違ってはいなかったのだろうけれど。いくらなんでも、相手が悪い。そんな事すら構わずに、行ってしまったのだろうけれど。自分の事なんて、顧みずに。
つくづく、もう少しだけ早く、俺が来られたらと思わずにはいられなかった。いつも俺は、何もかも手遅れになってから来ている気がする。もっと早く決断を下せていたら、少しくらい、何かが変わったかも知れないのに。
「ゼオロ。自分を、責めないで。君はここに、辿り着いたんだから。たったそれだけで、とても、凄いんだよ。僕は、本当は。ファウナックを出た君を見た時、もう駄目だと思った。もう、立ち直れないんじゃないかって。それなのに、
君は立ち直って。ここに来る前に、リヨクと、ヒナの事もあったのに。それでも、止まらなかった。同じ目に遭って。一体、どれ程の人が、君と同じ事ができると思うの」
「……本当に、なんでも知ってるんだね。ヒナの事まで」
「僕の告げた託宣で、左右された命には変わりない。それを知らずに居るのは、あまりにも、無責任だと思ったから」
また、咳き込む。呼吸に、苦し気な音が混じり出して。その頃になって俺はようやく、このお喋りで、奇妙な猫も、死んでしまうのだと気づいたのだった。魔道士だから、死なないんじゃないかって。そう思っていたのに。
「アララブ。……いや、ユラ。ユラも、死んでしまうの」
ランデュスが、アララブの事をそう呼んでいたから。俺もそれに倣って、ユラの名前を口にする。魔道士だから、見た目通りの歳ではないはずだとは思っていたけれど。本当に、とても昔の人なんだな。ユラは。
「そうだね。僕の命が、ほんの少しでも君達の役に立てれば良かったけれど。ランデュスは、ああしないと、すぐに別の場所へと逃げてしまうから。器に縛られないというのは、正に神の御業だ。君に言うのも、なんだけど」
「皆、死んじゃうんだね。……もう、誰にも死んでほしくないのに」
今日だけで、一体何人が死んだのだろう。俺の目の前で、何人が。ユラを抱き締める腕に、力を籠めて。俺はその命が、抜け出さない様にして。そんな事、なんの効果も無いのは、わかっているけれど。
「……ゼオロ。最後に、お願い。そう言ってくれたゼオロには、酷い事なのかも知れないけれど」
ユラの細い手が、上がって。細い指が、ランデュスを指し示す。今はヤシュバの攻撃を防ぐ事に躍起になっているのか、もう俺達の事を見てもいない。ユラが死ぬ事を確信しているからなのかも知れないけれど。
「ランデュスを、憎んで」
それだけ言って。ユラは全身から力が抜けたかの様に、腕を落として。呼吸も徐々に弱まってくる。それから、俺はふと気づく。ユラの身体が、その身に纏っている服も含めて、崩れ去っている事に。
「ユラ」
「長生きするもんじゃないね。死体も残らないよ。それだけ、魔導の手妻で命を引き延ばしていたのだから、仕方ないけれど」
足元から始まったユラの崩壊は、徐々にその身体を侵食して、消えてゆく。砂になって。このカーナス台地を解放した時に、風に遊ばれて飛んでいった、狼族の無念に塗れた骨の欠片の様に。
「……ああ、そうだ。もう一つ。もう一つだけ、言わなくちゃいけないんだった。ヒュリカの事。あの子は、無事だよ。知り合いの魔道士に任せたから、今頃は治療も受けているはずだし。だから、それだけは。安心してね」
「ありがとう、ユラ。それが聞けただけでも、良かった」
ヒュリカが、無事だった。俺の我儘でここまで連れてきて、怪我までさせてしまったから。それが聞けただけで、大分俺の心は楽になる。よしんばここで、俺が死んでしまっても。まだ良いと思える。
「それじゃ、ゼオロ。一足先に、僕は行くね。君が来るのが、ずっと後である事を願うよ」
短い別れの言葉を告げて、ユラがそのまま、消えてゆく。砂になって、抱き締める俺の腕の中から抜け出してゆく。なんだか、変な気分だった。別れ際の言葉が、とても軽々しい感じに口にされたからだというのもあったけれど、
死んでしまったという気がしない。それでも、俺の目にいつの間にかまた浮かんだ涙と。さっきまで俺の腕が支えていたはずの、軽くても、確かにあった重みが無くなった事で、それは充分に、わかっていたのだけど。
掌に残った、僅かな砂を握り締めて、顔を上げる。もう、ここには俺と、ヤシュバと。そして、ランデュスしか居なかった。他にはもう、誰も居ない。リュースも、ユラも。消えてしまった。
いまだに、激しい争いを繰り返す二人へと俺は視線を送る。剣を取って戦う様な物ではなくて。ヤシュバが吠えたり、腕を伸ばす度に、ランデュスを守る淡い光が揺らいだり。その持ち主であるランデュスの表情が
僅かに変化している。傍から見ている分には、何をしているのもわからなかったけれど。ヤシュバがこの空の結界を壊した様な力が、そこには働いているのだろう。ランデュスは防戦一方の態であるはずのに、徐々に
その表情には余裕が生まれてきていた。それを見ると、いくらヤシュバが、黒き使者であったとしても。その一人の力では、竜の神を退けるにまでは至らないのだと悟る。まあ、それで全てが済むのなら。白き使者なんて、必要
無かったのだから。それは当然なのだろうけれど。それでも、ランデュスは反撃にまでは至っていない。このまま時が過ぎれば、先に力が底を突いた者が負けるのかも知れなかった。
掌を、少し開けば。争いから引き起こされた風に巻き込まれて、砂は宙を舞って、消えてゆく。それらが全て、風の中に消えてから。俺は一度、瞼を閉じて。次に開いた時には、もう他の何にも目をくれる事もなく。ただ、
一心にランデュスを。緑の鱗に、純白の不釣り合いな翼を持つ、奇妙な竜の神を見つめた。呼吸を軽く整えて、ユラが教えてくれた言葉の通りにする。
最初、それにはなんの変化も見られなかったけれど。不意に、段々と余裕を浮かべはじめていたランデュスの表情が一変して。それから、ユラの張っていった小さな結界が完全に消滅する。本来ならランデュスは、それで
逃げられたはずだけど。次にはランデュスの纏う淡い衣も、薄れはじめていた。初めて、ランデュスが困惑した様な表情を浮かべて。それが俺へと向く。
俺は、構いもしなかった。
憎たらしい。お前が、憎たらしい。お前さえ居なければ。お前さえ居なければ、こんなに死なずに済んだ。お前が要らない。お前だけが、必要無い。
消えてほしい。
吐き気がしてくる。俺が、事あるごとに、俺自身に対して思っていた事。俺がここに来た事で、一体、どれだけの命が失われたのだろう。俺が直接殺した訳ではないけれど。俺が現れた事で、死んだのは、事実で。けれど、
今だけは。それを自分にではなく。目の前の、竜の神に向ける。それもまた、事実だったから。ヤシュバを惑わしたのも、リュースを傀儡にしたのも、たった今、ユラを殺したのも。全部、こいつだったから。
「お前、か……」
寂しそうな顔をされた。ランデュスが、俺を見て。今にも泣き出しそうな顔をして。途端に、俺は憎んでいた思いが薄まるのを感じた。けれど、その頃にはもうランデュスの纏う衣は弾け飛んで。そして、大地をえぐり取った
ヤシュバの力が土煙を起こして、その竜の姿を呑み込んで。最後に、また大きな音が鳴った。全てを吹き飛ばすかの様な音と。それから、微かに。竜の声が。どちらもそれ程長くは続かずに。次第に、音が聞こえなくなって、
代わりにヤシュバの荒い息遣いだけが、その場に残った。
風が、また吹く。視界が晴れてゆく。そこにはもう、何も無かった。ただ、大地に蹲るヤシュバと。座り込んだまま、竜神が居た場所を見つめる俺だけが居て。
それ以外のどんな存在も、その場に見出す事はできなくなっていた。
風の音が、耳に煩く聞こえる。この高台は、本当に気持ちの良い風が吹くなと思う。
立ち尽くすヤシュバの事を、俺はじっと見つめていた。さっきまで、竜神と戦っていたというのに。少し待つだけで、その身体にあった疲れは無くなったのか。立ち尽くした黒い竜は、静かに俯いていた。
「……ヤシュバ様」
俺が、声を掛けると。ようやくその身体が動く。少し目が大きくなって、その目が、俺の事をじっと見つめて。
「ああ。……ゼオロ殿、か。すまないな。ぼうっとしていて」
「無理も、ありません。竜神を、退治なされたのですから」
「そうだな。さて、どうしようか。そんな事をしたら、俺自身、どうなるのかはわからないが」
そこまで言われて、今更だけど、竜の神を俺達は消し去ってしまったのだなって気づく。ヤシュバは、筆頭魔剣士で。その地位は確かな物ではあったけれど。それでも、その地位を与えてくれたのは、他ならぬ竜神で、そして
その竜神は、竜族からは大層慕われていたのだから。そんな相手を、ヤシュバが消し去ったとあっては。ヤシュバが今後、どういう扱いを受けるのかは、わからなかった。
「……戻ろうか。もう、ここには何も無いみたいだ。この涙の跡地を覆っていた結界は吹き飛んだから。少なくとも、この戦はここまでだろう。双方共に、争う理由を失って。その上こちらは、竜神まで失ってしまった。俺と、
ゼオロ殿でそれぞれの国へ、結界が無くなった事をきちんと伝えれば。それぐらいは、なんとかなるはずだ。少なくともこの場の指揮は俺に一任されているしな。俺を裁くためにも、国へ帰る必要はある」
それに、頷いて。俺はヤシュバと並んで、高台を後にする。短い間だったけれど、ここでは沢山の事があって。沢山の命が無くなった事だけは、嫌って程に理解できた。ゆっくりと歩くヤシュバの隣を、俺は速足で歩く、歩幅が
全然違うから、ヤシュバがそうしてくれないと、俺は遅れてしまいそうで。それを見て、ヤシュバが少し微笑んで。けれど、そんな雰囲気は坂を下りるまでだった。見えてくる二人の死体に、俺は表情を曇らせる。
「これは」
ヤシュバは、やっぱり知らなかったみたいだった。双方の顔を見て。しばらくは固まって。俺は、リヨクの事を説明する。
「そうか。リヨクは、どこかに居るのかも知れないと思っていたが。こんな所まで、来たんだな」
「……リヨクが居るって、知っていたんですか?」
「お前が居なくなった後のリヨクも、俺は知っているからな」
そう言われて、俺は改めて、リヨクに酷い事をしてしまったなと。しても遅い後悔を募らせる。それから、ヤシュバはヒナの下へと歩いていって、その身体を抱き上げた。小さなヒナの身体を、抱き上げて。ヤシュバはその背を、
優しく撫でていた。黒い竜が、黒い獅族の少年を抱き上げている様は、種族は違うのに、親子であるかの様に見える。
「ヒナは、俺がランデュスの城下町で拾ったんだ。いや、見つけたのは俺で、リュースに拾わせたんだが。俺は筆頭魔剣士だったから、獅族なんぞ近づける訳にもいかないと。リュースはそう言って、一人で面倒を見ていた」
俺が説明を求めると、ヤシュバがヒナの事を教えてくれる。それを受けて、俺もヒナとの関係を口にする。ランデュス寄り、だったんだな。ヒナは。それなのに、俺をあんなに助けてくれたのかと。話していて、俺は思う。
「大切な人を守りたいと言って、ヒナは行ってしまいました」
「そうか。それなら、その大切な人は。きっと、リュースだったんだろう。俺には、居なくなって良かっただの、好き勝手に言っていたが。ヒナ、という名前も、リュースが付けた物だからな。その名前を、ずっと名乗っていたのなら、
ヒナはリュースのために、ここまで来たのだろうな。この二人が争ったのは、不運な事故としか、言えないが」
ヒナの身体を抱き締めたまま、ヤシュバはしばらく、その場で考え込む。
「ゼオロ殿を、俺がラヴーワの陣まで、空を飛んで連れようかと思ったが。リヨクの事もあるし、余計な混乱を招きかねないな。仕方ない。一度、こちらの軍を。少なくともカーナスの西側からは、兵を引かせて。一時休戦の使者を
出そう。そんなに時間は掛からないはずだ」
「結界が破れた以上は。どうなるのか、わかりませんしね」
「そうだな」
この地を覆う、結界が破れた。それは言い換えれば、外側に何かしらの驚異が存在していた場合。このカーナスで争い合う俺達には致命的な事態を招きかねない事を意味している。この期に及んで、両国が争っても
仕方が無かった。しいて争う意思を持っていたであろう竜神は滅んで。残った竜族は非常な混乱に包まれる事は想像するに難くないのだから。どちらかと言えば、あとはラヴーワ側の考え次第だろう。
「少し、ここで待っていてくれ」
「……ねえ」
翼を広げたヤシュバに、俺は声を掛ける。
「ランデュスが、言っていたけれど。まだ、筆頭魔剣士を続けるつもりなの」
もう、いいんじゃないのかって。そう思って、俺はそれを口にした。筆頭魔剣士であり続けなければならない理由なんて、これ以上無いんじゃないかと思って。捜していた俺は、ここに居て。支えてくれていたリュースは、
ここに居なくて。だから、もう肩肘張って、筆頭魔剣士である必要は無いんじゃないかって。
ヤシュバは、目を細めて。薄く笑った。
「少なくとも。俺はいまだ、筆頭魔剣士である事を誰からも咎められはしない。それに、ここの指揮官は俺だ。今はまだ、そうする訳にはいかない。兵を引かせるのにも、俺の声は必要だ」
「また、会えるのかな」
「もう、会わない方が良いだろう」
意外な程、あっさりと。ヤシュバがそれを口にした。思わず俺の方が、寂しさを顔に表してしまう程に。
「……機会があれば、だな。では、さらばだ。ゼオロ殿」
「さようなら。ヤシュバ様」
黒い翼が、広がる。飛びあがったヤシュバの上げた風に、俺は顔を覆って。その次には、優雅に空を飛んで。竜族の下へと帰ってゆく姿を見送った。その姿が、見えなくなってから。俺は壁に凭れたままのリヨクの傍へと
戻って、その隣に座る。ヤシュバが竜族の兵を引かせて、急使をラヴーワ軍に出して。ラヴーワから迎えが来るまでは、もうしばらく掛かるだろう。
大きなリヨクの、犬族の身体に、凭れる。なんだか、変な感じだ。完全な犬だった頃は、俺より大きい、なんて事もなかったのに。今は人間だった頃の俺よりも、大きい。
「小さくなったの、俺だけじゃん」
狡いな。本当に。俺だって、立派な体躯を持った姿に産まれたり。何かしら、魔導の素養をもって生まれる事ができたのなら。こんな結果にならない様に、戦う事だってできたのに。
身体を預けたまま、静かに瞼を閉じる。俺の鼻には、血の臭いが届いていたけれど。不思議と今は、落ち着く様にも感じられる。
「ごめんね。リヨク」
一度だけ呟いて。俺はそのまま意識を手放した。朝から、狼族の陣を抜け出すためにあまり眠らずに、ここまで来て。駆け通しで、辛い事ばっかりで。それが全て、ようやく終わったから。
それ程時を待たずに、俺は眠る事ができた。
豪華な部屋の天井を、見上げてから。俺はゆっくりと起き上がった。身体が、ちょっとだるくて。昨夜の、クロイスとの事を思い出しては、苦笑する。
「おはよう」
部屋を出て、居間へと出ると。クロイスが書類の山と睨めっこしていて。俺を見咎めたクロイスが、挨拶をしてくる。俺は、静かに頷いて。その隣へと座った。
「首尾は、どんな感じ?」
「うん。悪くはないよ。ランデュスとは、正式に和平を結ぶ事はできそうだし」
それを聞いて、ほっと息を吐く。
カーナス台地で竜神を打ち破ってから、二月が経った。結局、あれから二国は兵を引いて。俺が思っていた通り、外界にまずは備えるという意見で一致したのだろう。それ以上争うのは無益な事だと結論づけて、お互いの
領地に引き篭もっては、今のところは外に対しての備えに忙しかった。特にラヴーワは南西に、結界に阻まれてはいたものの陸路を持っていたから、尚更だ。竜族の方は船や空兵を用いて、外の様子を探っているところだろう。
そんな中で、年は明けて。戦をせずに済んだ事に喜ぶ人達と一緒に、俺はお祝いをして。そうして、二月も過ぎれば。一年前に、俺がミサナトに現れた日がやってきて。それでまた、誕生日だとお祝いをクロイスはしてくれて。
あとはただ、何事もなく日々が続いていた。カーナス台地から引いた俺は、リヨクの遺体と共にラヴーワへと帰国して。リヨクを、フロッセルの街の、ジョウスの館で弔った。ミサナトにするべきかと思ったけれど。よく考えれば
リヨクは第三の異世界人だから。ああいう場所で眠らせるのは、良くないのではないかと思って。それで、改めてリヨクが、俺にとってどんな存在であったのかをクロイスとジョウスに説明してから。公にしない方が良いだろうと
意見の一致を見て。密やかに弔って。それから俺は、狼族の兵を。狼将軍がギルス領へ帰るのを見送って。将軍は、とても申し訳ない顔をしていたけれど。そんなのは、俺が勝手にやった事なのだから、気にしなくていいのだと
言ったけれど。あれは大分引き摺ってしまうかも知れないな。ガルマにも、その様に報告しなければならないのだから。少しだけ、申し訳なくなって。
それも見送ると。今度はガーデルが俺の事を訪ねてくれた。大分憔悴した様な顔で。既にラヴーワ側に立ったとはいえ、竜神が居なくなった事が堪えたのかなと、最初俺は思ったのだけど。
「まさか、結界を排除されるとは思っていなかった。どうしてくれるんだ。おかげで爬族からは、情勢が定まらぬ故にもうしばらくは王で居てくれと。そう頼まれてしまったのだが」
「良いじゃありませんか。どの道、戦争になっていたら。南から睨みを利かせる役目が必要で、ガーデルさんはそこにずっと居ないといけないのでしたし」
「それは良い。戦だからだ。だが、こうなってしまっては……」
ああ、そういえば。戦好きなんだっけか、ガーデル。中央で戦えなかったとはいえ、戦の空気を感じ取れていた場所から。結界が壊れて、両者が引いて。涙の跡地に居た人々が、外を見据えた今。少なくとも爬族の傍で戦
なんて、起こりようがないのに引き留められて。それでこんなに、俺が初めて見るくらいに疲れた様な顔をしているんだな。前はもっと、落ち着いて。それでいて本心はあまり曝け出さなさそうに見えたのに。
「外へ出ようにも、爬族に引き留められる。ならば爬族を伴って打って出ようかと思えば、それはジョウスに止めろと言われて。ああ。ヤシュバめ。目の前に居たら、ぶん殴ってやりたい」
そんな事をぶつぶつ言いながら。ガーデルは暇ではないのか行ってしまう。爬族はラヴーワに寄って、どこの地に落ち着くのかという最中だ。そんな状態で、結界が破られて。外の地が見えるのだから。確かに爬族に
とっては、正に今が重大な時だろう。そりゃ、絶対にガーデルを手放す訳にはいかないだろうな。
「……せっかく、結界が無くなったのだから。旅でもしようかと。ついでに、お前も誘おうと。そう、思っていたのに」
「またの機会に、お願いします。私も、まだやる事がありますから」
別れ際にガーデルがぽつりと呟いた言葉に、笑みを浮かべて。俺はガーデルも見送る。大変そうだな。
それからも、色んな人が俺に会いに来ては、それぞれの地へと戻っていった。ハンスとジョウスも、その内に入っていた。ジョウスは戦争が避けられた事で、軍師としてはお役御免になったと言いたいところだけど。今度は外に
対する備えが必要になってしまって。そうなると、またラヴーワの中央の方へと戻って、そこから睨みを利かせる必要が出てしまったというし。ハンスはハンスで、もうミサナトに戻っても良い事にはなっていたけれど。まだ先の
騒動からそれ程の時が経っていないという事もあって、もう少しだけ、ジョウスの手伝いをする様で。その二人を見送ると。このフロッセルのジョウスの館には、俺と、クロイスだけになってしまった。正式に部下を持つ様な
立場には、俺とクロイスはなっていないから。館の中は、最低限の人数が詰めているだけで。落ち着いた日々を過ごす事ができたけれど。なんというか、皆忙しいんだなって、そう思う。せっかく、ランデュスとの戦争を
避ける事ができたのに、それが済んだら、今度は外敵が居るかも知れないとてんやわんやになって。それは確かに、わかるけれど。結界の外は、目で見る事は可能だったけれど。結界自体を超える事はできなかったから、
その先に何があるのかなんて、誰にもわからない。その先に誰かが居るのかも知れないし。もしかしたら、誰も居ないのかも知れないし。それこそ今度こそ、ファンタジーな世界よろしく。魔物とか、居るかも知れないし、
魔王とか。怖いけど、楽しそう。
色んな人を見送って。それから、弔って。けれど、一人だけ。俺が別れを告げられなかった人が居た。
ヒュリカだった。アララブ、というより。ユラが、知り合いの魔道士にその面倒を見る事を頼んだと言って、安心させてくれたし、その魔道士は後日俺の下を訪ねてくれたけれど。ヒュリカは傷の手当てをして、回復したら。そのまま
谷へ帰すと言うのだった。ヒュリカも、それを望んでいて。会いたいと、俺は言ったけれど。それはヒュリカが望んでいないという。翼族も、今後が忙しくて。会えば、戻りたくなくなってしまいそうだからと。そんな伝言を頼まれたと、
魔道士の人は言っていたけれど。仕方なく俺が食い下がると、その魔道士も姿を消して。一人になった俺は、すっきりしない気持ちを抱えていた事をまだ憶えている。
そんな事柄が、過ぎ去っても。俺はクロイスと一緒に、フロッセルの街に留まっていた。ミサナトに戻るのは簡単だったし、お願いすれば、クロイスはそうしてくれたかも知れないけれど。もう少しだけ、このままでも
いいかなって、そう思って。クロイスの方へ身体を預けると、書類を机に置いたクロイスに、肩を抱かれて。そのまましばらく、ぼんやりとする。なんだか、あれだな。
「新婚生活みたいだね」
思わず呟いたところ。クロイスが満面の笑みを浮かべて、俺に式はいつ挙げるのかと訊ねてくるものだから。俺は苦笑してしまう。
「だって、戦争が終わったら、結婚するんだろ? だったら、今しかないじゃん」
「そうだけど。まだ早いよ」
俺の身体、多分まだ十五歳とか、その辺りなんだけど。犯罪臭がする。いや、寧ろ犯罪的な行為はクロイスとしてるけど。でも昔の人はもっと幼くても結婚していたそうだし。ここはその、昔で通じる世界とは、違う世界では
あるけれど。それに結婚すれば、夫婦というか。一緒になるのだから。そういう行為をしても当たり前になるだろう。これが完全犯罪という奴なのか。
それからクロイスは、結婚するなら新居はどこにするかとか、そんな事をあれやこれやと語り出す物だから。俺はちょっと、呆れてしまう。クロイスのこういう所に全力なところ、凄いと思うけれど。というか、家建てるのか、もう
ここで良いのではと思ったけれど、まあ、ここ広いしな。もっとこじんまりとした家にしたいのかも知れないな。やっぱり、変な感じだ。異世界に来て、姿が変わって、男同士なのに一緒になって。それに大分慣れてきたと思ったら、
今度は結婚がやってくるとか。いや、恋人同士なのだから、それはまったく自然な成り行きのはずなのだし。ランデュスとの戦を前にしては、それがいつ現実の物になるかもわからなくて。クロイスからしたら、辛い現実が広がって
いたのだから。その全てが解決されて、だから今こそって気持ちになるのは、わかるんだけど。
俺がまだ、そこまでの気持ちに、というか。そんなに急に考えられない事を察したクロイスは、笑ってその話を止めて。また、フロッセルでの一日が始まる。街の様子も、大分変っていた。戦争が、勝ち負けですらなく終わりを
迎えて。大層めでたいと騒ぐ人は多かったけれど。小競り合いでも死者は出ていたから、遺族と思しき人が軍から手当てを受けるのも俺は目の当たりにしていて。それでも、とにかく戦う必要は無くなったのだという安堵が
街には広がっていた。
「そういえば、ランデュスの方は、どんな感じなの」
朝食をクロイスと共にしながら、俺は訊ねる。ランデュスの情勢は、相変わらず俺の耳にまでは中々入らない。別に、隠されている訳ではないのだけど。今はそれぞれが、自分の国の面倒を見るので手一杯だしな。
「それ程、大きな騒ぎにはなっていないみたいだよ。勿論、竜神を失った衝撃は、とても大きな物だったけれど。その辺りは、俺達にはわからないからな。竜族以外の神は、ずっと前に居なくなってしまったし」
竜神のランデュスが、悪神だという事は俺の口から告げる事はしなかった。どうしても事情を細部まで知らなくてはならない、ジョウスや。それから話さないと拗ねてしまいそうなクロイスには、こっそりと伝えていたけれど、
大部分の人は、ヤシュバがカーナスの高台から、結界を吹き飛ばしたのだという、漠然とした事実だけを知る形となっていた。何故そうなったのか、とか。その辺りを知る人は少ないけれど。実際にヤシュバが高台に行き、
そしてその後に、高台を中心にして結界が破壊されるのは、それこそその時間に、外に出ていた人は皆空を見上げて知っていたのだから、そちらの事実の方が大きな話題となって。小さな事は呑み込んでしまっていたし、
それにそんな力を持つのは、まさにヤシュバしか居ないと思う人も多かったのだろう。結果的に、ラヴーワの方でもヤシュバに対する評価は大分異なった物になったという。
竜神の正体に関しては、ヤシュバも同じ様にしたのか、俺の耳に真実が入る事はなかった。竜神こそが悪神だという事が知れ渡れば、竜族には強い負い目となってしまうだろう。今、竜神から解放された竜族に走る動揺を
鎮める効果も、期待できたけれど。その辺りの裁量はあちらに任せるべきだった。竜神が消えた事について、神に見捨てられたと。そう嘆く竜族は居るのかも知れないし、却って自由になったと思う者もまた、居るのかも
知れないし。少なくとも、それは竜族以外からとやかく言う問題ではないだろう。
「あっちの……宰相のギヌス・ルトゥルーだね。あれは、結構穏健派というか。やっぱり実際に政務に携わって、竜の民の面倒を見ていたのは、その辺りだからね。竜族にとっても、ギヌスの存在が今は大きいみたいだし。
あちらは国内の乱れを取り除く事を第一にしないといけないから、当分は暴れる様な心配もないだろう。少なくとも、今からこっちと事を構えるとか、そういう考えはまったく持っていないね」
「そっか、良かった」
朝食を終えて、部屋に戻ってくると。まだ目を通したい書類があるからと、居間に残るクロイスに断ってから、俺はクロイスの部屋へと入って。その部屋から、ベランダへと出て、外の空気を感じる。幾分か、寒さは和らいだ
とはいえ、まだ少しだけ冷たい風が、俺の銀の被毛を撫ぜて。それを感じながら、空を見上げる。昼の今は、青い。清々しい空が、広がっていた。
それを見上げながら、さっきまでの報告を反芻して。ふと、ヤシュバは何をしているのかなって考える。まだ、筆頭魔剣士を続けているそうだけれど。竜神を損なった今こそ、実質的にランデュスを動かしていた竜族は重宝
されていると言っても良かったし。それに、結局下の者にとっては、一番上の、それも普段は姿すら見せない竜神よりも。きちんと姿を見せてくれる上司が全てなものだから、それ程の混乱はないみたいで。それだけが、
俺を唯一安堵させてくれる情報にもなっていた。とうのヤシュバが、今どんな気持ちでいるのかは、わからないけれど。
「ゼオロ」
考え事をあれこれとしていると。ふと、後ろからクロイスの声が聞こえて。振り返るよりも先に、俺の身体が後ろから抱きすくめられる。俺の頭の上に、クロイスの頭が乗ってくる。定位置。
「何見てたの」
「空。結界は、もう無いんだなって」
「そうだね。見た感じだと、全然違いなんて、わからないけどさ」
直に、結界に触れられたところまで行かないと。その有無は相変わらず、わからなかった。結界が壊れてから、初めての雨が降った時なんて。以前と何か違う事があるのではないかと、ちょっとした騒ぎにもなったそうだ
けれど。結局、それも以前のままで。次第に人々は、結界の事を口にしなくなった。普段から見えない物が、あの日、ヤシュバの力で消し飛ぶ時になって、ようやく目で見えたけれど。やっぱりそれからは、それまでと何も
変わらない様に見えるのだから、それも、仕方がないかも知れない。とはいえ、そのおかげで。もうこの地に縛られる必要は無くなったという人も、大勢居たけれど。ランデュスが戦争を仕掛ける手を止めた今は、落ち着いて
いるけれど。もう少ししたら、外の世界へ行きたいという人。元々手狭に感じていた人や、少数部族などは、新たな地を求めて、外へと繰り出すのかも知れなかった。今のところ、ラヴーワ、ランデュス共に、国の方は様子を
見ている状況で。もし何かしら、厄介な事があったら、互いに助け合おうと。そういう約束はしているみたいだけど。
ラヴーワも、今後は姿を変えるのかも知れないなと思う。元々は、それぞれの種族ごとに分かれていたものが、ランデュスの進攻に抗するために、連合して、一つの国となった物なのだから。ランデュスの心配も、そして領地を
巡る問題も、一先ずは解決となった今。国の形も、その内に変わるのだろうな。
「色んな人が、結界の外に行くんだね」
「そうだな」
「クロイスは、興味無いの?」
「んー……無いって言ったら、嘘になるけれど。でも、俺は。ここでいいよ」
クロイスの腕が、俺の身体をぎゅっと抱き締めてくる。喉が、少し鳴っている。
けれど、それは長い事は続かなくて。腕の拘束が解かれると、クロイスは俺の身体を振り向かせて。そのまま、また抱き締めて。
「どうしたの」
「ゼオロは。どこにも、行かないよな」
「今のところはね」
「なんだよ、それ。不安にさせる様な事、言うなよ」
「……行かないよ。本当に、どうしたの。急に」
「ゼオロの話、聞いたからさ」
そう言われて、思い出す。ここまで生きてきて、俺はついに観念して。俺の生い立ちの全てを、クロイスに語っていた事を。まだクロイスには言っていなかった事も。結界が壊れて、ヤシュバの事を気にする必要も、それなりに
無くなって。そして、クロイスが俺の恋人であるのだからと。もう、秘密にする事は止めて。何もかもを打ち明けるのは、とても勇気が要るし。もしかしたら、愛想を尽かされてしまうのではないかと、怖かったけれど。これ以上、
クロイスと一緒に居るのなら。言わずにおく方が、俺は心苦しくなってしまいそうだったから。
クロイスは真剣な顔でそれを聞いて。それから、抱き締めてくれたけれど。内心は深く考えていたんだろうな。今、俺を抱き締めるクロイスは、少しだけ身体を震わせて。縋る様に、俺の首筋に顔を埋めていた。
「俺は、ゼオロの事。全部は知らないし。話してもらったって、理解できない事も多いと思うけど。……それでも。お前に居てほしい。どこにも、行くなよ」
耳に届く、クロイスの声。改めて、俺はクロイスの事をじっと見つめる。被毛のある身体。豹の頭。どこを取っても、前の世界でこの姿が現れたとしたら、きっと凄い騒ぎになって。怪物の、それでしかなくて。けれど今は、
俺も。それと比べて、そこまで大きく違う事はなくて。豹じゃなくて、狼だけど。そんな違いしかなくて。それから、何が、どう変わっていたとしても。それが、俺の恋人で。俺の事を一心に思ってくれている存在で。
「大丈夫だよ。クロイス」
心配しなくてもいいのにな。心配するなっていう方が、無理なんだろうけれど。少しでも伝えたくて。言葉だけでは足りないと思うから、俺もクロイスの身体に、若い豹の身体に腕を回して。顔を擦り合わせると、豹の髭が
ちくちくとしてきて。それもなんだか、嬉しい。瞼を閉じていても、俺の目の前に居るのはクロイスなんだって、嫌って程わかるから。
「生きて、ゆくから。私は、ここで。生きてゆくから」
俺が口にした言葉に、何度もクロイスは頷いてくれる。
豹の身体が、温かくて。温かくて、温かくて。
僅かに残る寒さも、俺には感じる暇もなくなっていた。